@4年70日 夜

 空は晴れずに日は暮れた。
 日が傾き始めた頃から自警団の誘導で避難してきた人々が教会に集まり、広い礼拝堂のそこここに固まっている。
 誘導の自警団の中に昨夜の数人がいて、宜しくお願いします、と真面目な顔で敬礼した。
 しかしそういった反応は彼らだけで、他の自警団のメンバーや街の人々の反応は、昨夜に輪を掛けてよそよそしい。
 ナガイはもう、その辺のことは気にしないことにして、あれこれと指示を出した。
 若い剣闘士がともすれば乱暴になりがちなのを、若い魔女が後ろから手綱を引く。
 神官の少女は慣れた様子で子供たちに笑顔を向けている。
 怪我人二人は端のベンチにまとめられ、若いヴァルキリ−が見張るように傍らに仁王立つ。
 負傷はしていてもこの場の経験者はこの二人であるので、ナガイは幾度か方針を聞きに行った。
 そこからいちいち他の者に指示を飛ばすのは面倒と云えば面倒で、手間の掛かることだとナガイは思った。お主らが直接云った方が早そうだと云うと、年嵩の弓使いは、大事なことなんだよ、と笑った。
 ともかく日が落ちるまでに避難は完了して、自警団は彼らの担当である西の教会へと向かった。
 東の高台にある教会には、人々と騎士団だけが残される。
 ナガイは燭台に照らされたステンドグラスを見上げた。
 高い天井までは光が届かず、長年の煤も相まって黒ずみ沈み込んでいる。
(この教会は、拙者らが守らねば)
 それが、今回は役目だ。
 役目ならば果たさねばならぬ。
「外回りの当番、行って参りますね」
 キャナルが真剣な顔で云いに来た。
 外の警護は三時間交代で二人ずつ出る。現状では人数が奇数で余ってしまうので、一周ごとに一人ずつ、ずらして当番を組んでいる。
 当番の相方であるヴァーサは既に扉の方にいて、見えない外を睨んでいる。
 ナガイは頷いて返し、気を付けて、と云った。
 夜は始まったばかりである。


 高いところは空気が良く通る。
 屋根の棟に腰掛け、エクレスは風の音を聞いている。
 湿った風が遠くからの音を運んで、明かりの少ない夜の視界を補う。
 傭兵時代の頃から、暗がりでの戦いは音を頼りにやってきた。そのときの相手は人や獣だった。魔物の相手はしたことがない。
 熊や大蛇のような猛獣と今回の相手のような魔物との違いは、エクレスにはまだ良く分からない。
 確かに巨大ではあったし、その体躯に見合わぬ素早さではあったが、それさえ気を付ければなんてことはないように思える。
 片手で手裏剣をもてあそびながら、目を閉じて耳を澄ます。
 まだ何の気配も感じない。
「来ませんか」
 建物の下から、声が上って来た。
 屋根を端まで歩いて身を乗り出すと、ポールランが暗がりからこちらを見上げている。
「何も聞こえないわ」
 青い瓦に膝を抱えて座って微笑む。
「早く来ないと待ちくたびれちゃうわよね」
「それはそうですけど」
 若い騎士は、ちらと苦笑した。
「ホントはこのままずっと来なけりゃ良いって思ってます」
「怖いの?」
「怖くないんですか」
 淡いブルーの目がこちらを見上げている。けぶるような色合いすらやさしいと思う。
 エクレスはふわりと艶やかに笑う。
「あたしが守ったげるから平気よ。怖がんなくたって」
「……それ、ホントならこっちが云わなきゃいけない台詞ですよね」
「そう? あ、云ってくれるの? あたしに?」
「誤解を生むから云いません」
 きっぱり云って背を向ける。
 ニンジャは膝に頬杖を突いてくすくす笑った。


「晴れてきたわね」
 屋根の上に立ってフェルフェッタが呟く。
 雲が切れて、星空が垣間見える。
「このまま晴れきってくれるとエエがのう」
 のんびりとヴァルガが空を見上げる。
「星明かりでも、ちったあ明るくなるだろうに」
「というか、曇天は気が滅入る」
 ヴァルガの隣でクルガがぼやく。彼らは庁舎の北側にいる。メインストリートをまっすぐ見上げれば、ディアレイ山のシルエットが、こちらに倒れてきそうに高く浮かぶ。
 フェルフェッタは屋根の棟にあぐらを描いて座り、二人の男を見下ろした。
「あんたたち、ちゃんと起きてるわよね。うたたねなんかしないでよ」
「せぬわ」
「ちゃあんと昼間に寝たからのう」
「たくさん寝てても暇だと眠くなるもんよ」
 フェルフェッタはにやりと笑う。
「片っぽ寝たら、引っ叩いて起こしなさいよ」
「ヴァルガに叩かれてはぺしゃんこになってしまうでないか」
 冗談のようなことをクルガは真面目な顔で云う。
 魔女は屋根の上で笑った。
「だそうよ、ヴァルガ、加減して叩きなさいな」
「ううん、加減がむつかしいのう。ぺしゃんこになっても怨まんでくれよう」
「怨むわ」
「まあ、ぺしゃんこになっても、あんたじゃくたばらないでしょ」
「なんだお主、この華奢な体を見てみろ」
「自分であんま云わねえぞ、そういうことはよう」
 クルガが不機嫌顔で、ヴァルガとフェルフェッタが笑う。
「笑うでない」
 童顔のサムライは更にぶっすりした。
 ひとしきり笑ったあと、フェルフェッタはヴァルガに目を向ける。
「で、その後、ガルゴスとは仲直りしたの」
 年嵩の剣闘士は苦笑して頭を掻く。
「いやあ、結局夕方まで会えんでのう」
「話せなかったの?」
「恨まんでくれとは、云ったがのう」
「結局話せなかったわけね」
 クルガが首をコキコキ鳴らす。
「流石に恨んではおらぬと思うが」
「そうかのう」
「そうよ、機会なんてこれから幾らでもあるでしょ」
「……しかしのう、それでものう」
 あからさまに凹んだ様子でいる。
 隣のクルガがポンポンと肩を叩く。
「ガルゴスのことだ。すぐに機嫌も直ろう」
「だと良いがのう。お主は教え子がおらんで気楽だのう」
「そーよねえ。あたしのトコの一人でも肩代わりしてくれないもんかしら?」
「拙者、教えるには向かぬ」
 自慢にならない自慢をして、クルガは胸を張った。
 フェルフェッタは屋根の棟に座って、お馬鹿、と云ってにやり笑う。
 お前、そこぁ自慢すっところじゃなかろう、とヴァルガは隣のサムライの頭を鷲掴みにしてぐらぐら揺する。
 クルガは慌ててじたばたした。
「やめいっ、頭が取れる!」
 フェルフェッタ的には取れても元気そうな図が面白く想像できたが、云わずに黙っておくことにした。
 どうも彼らは見飽きない。
 魔物がお出ましするまでは、楽しませてもらおう。
 出てからは命の取り合いになるわけだから、今のうちに楽しませて貰っても罰はあたるまい。


 交代の時間が来て、若いヴァルキリーと神官のコンビと入れ替わりに、マルメットとガルゴスが外へと出て行く。
 礼拝堂の中は、人数の割に静かだ。大半が寝ているせいだろう。
 イワセは肘掛けに足を乗せた格好で、ぼんやり天井を見上げている。
 何が起こるか分からないので、かなり眠くなる、という副作用のある痛み止めは服んでいない。
 お陰で少し頭が重い。
 同じく怪我人のリコルドは、ベンチをイワセに明け渡して石の床に蹲っている。そちらの方が涼しくて過ごし易いらしい。
 見ていて、余裕がない、と思う。
 昨夜は妙にピリピリしていて、こちらがうたた寝をしている間に出て行ってしまった。
 今回はほぼ全員から一回ずつ釘を刺されたせいか、流石に出て行こうという素振りはない。
 ただ少々元気がない。
「お主、大丈夫か」
 ぼそっと声を掛ける。
「だいじょぶ」
 突っ伏したままのくぐもった返事。
「ちょっと、空気があわないだけ」
「空気?」
「外の方が良いな。ここ、暑くて」
 ちらと辺りを見渡してまた俯く。同じようにぐるりと見ると、こちらを向いたヴァーサと目があった。
 顔を戻し、蹲った弓使いに苦笑を向ける。
「お主な、さんざ云われたであろうが」
「ん。分かってる、我慢する」
 そんなに暑いのだろうか。
 わざわざ訊くのも億劫で、ベンチの背にもたれて目を瞑る。
 確かにここは居心地が悪い。
 大半の人々が眠っているとは云え、向けられる視線は暖かいものではない。
 だがその辺をとやかく云っても仕方のないことだ。
 それよりも、離れている相方の方が気に掛かる。
(あの馬鹿)
 今まで大抵のときは一緒にいた。特に、こういう状況で離れていることは今までなかった。
 こちらがこんな身でなければ、今回もセットで組まされていただろう。
 思って不意に、離れていることを実感する。
 こういうときは残っている方が不安が募るらしい。
 今回の、相手が相手だから怖いのか、単に目の届く範囲にいないことが怖いのか。
 口に出せば現実になりそうな、ひどく近接した悪夢。
(死ぬかも知れぬ)
 ぞっとする。
 自分がいなくなるより怖い。他の誰がいなくなるより怖い。
 二年前の気分を万倍に引き延ばして、じわじわと追加されている気分だ。
 あのときは無事だった。
 不謹慎なことと感じつつほっとした。
 けれど今回も続くとは限らない。
(無事に戻って来い)
 怖くて堪らない。


@4年71日 深夜

 幾度、当番が回ったか、夜も半ばを過ぎた頃。


 ふと感じて、ヴァーサはぴたりと動きを止めた。
 何が聞こえたわけでもない。
 壁を見る。
 その向こうの、ずっとずっと向こうの方に、何かいる。
 こっちに来る。

 遅れて他の団員が顔をあげた。
 直後、ドラムロールのような地響きを足下に感じる。
 魔物だ。
 魔物が来た。


 風に乗って音が聞こえた。
「来たわ」
 云って、くるり、と手の内で刃物を回す。
 建物の下でポールランが緊張する。
 晴れ始めた空の下、北の方角、ディアレイの山麓に動く影が見て取れる。
「腕の見せ所ね」
 エクレスは笑って、ふわりと道へ跳び降りた。
「北門から入って来るみたい。予定の場所に直で行っても良いわね」
「行きましょう」
 若い騎士は頷いて盾を握り直す。
 剣は、すぐ抜ける。
「まだ怖い?」
 エクレスがからかうように云う。
 ポールランが強張った顔のまま睨むと、ニンジャは笑って走り出す。
「冗談よ」


 黙って、アズリットが先を走る。
 薄暗い石畳の道を、刷毛で撫ぜるように滑らかに。
 後を追うヘルンはどうも不器用に、がしゃがしゃと鎧を鳴らして駆けている。機動性より防御を重視したスタイルのため、それは仕方ないことだ。とは云え、この状況では少々格好悪い。
 先を行くアズリットはこちらに一瞥すらくれない。
 こうやって走っている姿は無様だから、見られないのは良いことなのかも知れない。
(でも、守るときは、絶対)
 相手がケルベロスだろうが何だろうが、傷一つだってつけさせはしない。
 たとえ殺されても、これだけは譲れない。
 たとえ報われなくても、この思いは変わらない。


 起きてるわね、とがなると、下から答える声が聞こえた。
 フェルフェッタは空を仰ぐ。
 雲間から覗く星を見て大方の時刻を弾き出す。夜明けまでは、それほど遠くない。
 湿った空気を吸い込む。
 今日の日付けを思い出す。零時を回ったから、今日は七十と一日だ。
 特に何の日でもない。
 そしてこれから先の、何の日にもならないようにと祈る。
(少なくとも、誰かの命日には)


 赤い魔物が地響きを立てて街に入る。
 石畳を蹴立てながら大通りを南下する。
 エクレスとポールランは、高台でそれを確認し、その向きと直角に、花畑と街並の境を走っていた。
 街並をサンドイッチする、広大なアブラカブラの花畑。道なりに走る魔物が向きを変えるとすれば十中八九、そこだろう。
 ポールランのすぐ前を走りながら、エクレスが煙玉とめくらましを取り出す。煙玉は彼女のもので、めくらましは騎士団のものだ。使い方はフェルフェッタから教わっていた筈である。
 魔物が向きを変える気なら、それを使って、必要なら攻撃も加えて、あくまでまっすぐ走らせる計画だ。
 なにせ花畑を越えた先が、庁舎のある地区である。
 そこを過ぎれば、また南から追い込まねばならない。坂道の街で、そのときは今と逆に上り坂になってしまう。その場合、恐らく追いつけないし、体が持たない。下り坂の今が精一杯だ。
(一発で決めないと)
 庁舎周辺に追い込むのがこちらの役目。
 そのためにまっすぐ走らせる。高速で走る魔物は急には止まれず、庁舎の方へ突っ込んで行くだろう。
 反対側からはヘルンとアズリットのコンビが同じようにして走っている筈だ。
 居住区域と花畑の地区との段差は小屋ほどあって、人が落ちないように組まれた石垣がある。
 視界を稼ぐため、その上を走る。
 左手の花畑は輝く一面の金色をしている。
 こんなときでなければ、確かに絶景だ。
 そんなことを考えながら走っているとき。
 家並が弾けた。
 走り来た巨体が爆ぜる家屋から飛び出す。
 曇る夜空の下、速く走るためのシルエットは優美とさえ云える。
 そう、相手が魔物で、こんなに近くでなければ。
 先を走るエクレスと、その後ろのポールラン。
 二人のちょうど間に突っ込むように、ケルベロスは飛び出して来た。
 爆ぜた家の瓦礫が吹き飛んで迫る。
 咄嗟に盾を構えたのは騎士の習性ゆえか。
 魔物は止まらず、石垣を砕いて花畑へと突っ込んで行く。
 その瓦礫と共に吹き飛ばされる。
 夜空が反転する。
(もしかして、見つかってた)
 思いを馳せる暇もあればこそ。
 がしゃん、と落ちた鎧の音と衝撃。
 ポールランはそこで意識を飛ばした。


 花畑を駆ける前方で、家屋が砕ける。
 瓦礫が木の葉のように散るのが見える。
 飛び出した巨体がアブラカブラの花畑に着地した。
 地響き。
 アズリットは杖を構えた。
 あの位置では東に寄り過ぎている。もっとこちらに引き寄せねば。
 呪文を唱え、杖の先に光が宿る。
「アズリット!」
 遅れて追って来るヘルンの声を無視して稲妻を放つ。
 光の矢はしゅるしゅると空を裂いて、ケルベロスの顔の横で弾けた。
 狼に似た顔がこちらを向く。
「こっちよ!」
 庁舎の三角屋根を背に、杖を振って怒鳴る。
 魔物の目が花畑の魔女の上で止まった。
「こっちに来なさいな!」
 巨体が、向きを変えて突っ込んで来る。
 瞬く間に大きくなる。
 速い。
 その先を、考えていなかった。
(避けないと)
 思いながら、足が竦んだ。
 目の前に影が迫る。
「何やってるんですかっ」
 怒声と共に、体を薙ぎ倒される。
 抱え込まれて転がった上を魔物が通り過ぎる。
 見開いたままの目に、黒々としたシルエットがはっきりと映る。
 轟音は瞬く間に遠ざかった。
 ざわざわとアブラカブラの花が揺れる。
 裂けて千切れた花びらが、ひらひらと頬に舞い落ちる。
 俯せた騎士の下敷きになって、アズリットは体を強張らせている。
「ヘルン?」
 静けさに、怖くなって名前を呼ぶ。
「無計画なのは、感心しません」
 ぼそ、と顔の横あたりから返る言葉。
 声を聞いて、ほっと脱力する。
「良かった」
「良くありません」
 起き上がってヘルンはアズリットをきつく見た。
「轢かれるつもりでしたか」
「……ごめんなさい」
 俯く。
 確かに、考え無しだったと、思う。
 ヘルンは背中を向けて、大きく息を吐く。
 盾を見る。
 大きく平行に、三筋の痕。
 魔物の爪痕。
 盾は騎士の誇りである。けれど、守ることは更なる誇りだ。
 守ると決めた相手ならば尚更。
 アズリットがほっとしたより、自分は多分、もっとほっとした。
 とても、ほっとした。


 轟音を立てて、花畑に隣接した家屋が崩れる。魔物が突っ込んだらしい。
 舞い上がる土煙が魔物の姿を隠し、すぐ花畑を走る黒い影を見つける。
 メインストリートではないが、まっすぐ、こちらへ。
「来るわよ!」
 街並を崩しながら。
 土煙があがり、魔物の姿を隠す。
 フェルフェッタは杖を構える。庁舎の屋根は周りより頭一つ高い。見晴しの良さで選んだ場所。
 それなのに。
(見えないじゃないの)
 舌打ちをする。
「フェル!」
 クルガが下から怒鳴る。
 下を向く。
 若く見えるサムライが顔色を白くしている。
「降りろ! 狙われる」
 語尾が轟音に掻き消される。
 同時に。
 フェルフェッタの足の下、屋根が、勢い良く吹き散った。


 庁舎が吹き飛ぶ。
 瓦礫と木の破片が嵐のように飛んでぶつかる。
「フェルフェッタ!」
 土埃で見失った体が、広場の石畳に落ちてバウンドした。
 近いヴァルガが呼んで駆け寄る。
 クルガもあとを追う。
(ちくしょうめ)
 何がぶつかったのか膝が痛い。
 思ううちにケルベロスは広場を飛び越え、南へと走って行く。
 首を捻ってその動きを目で追う。
(あの野郎、何処行く気だ)
「追いなさい!」
 高い声が命ずる。
 向くと、魔女が上体を起こしてこちらを見ている。
 帽子がどこかへ飛んで、結んだ髪の片方が解けて肩に落ち掛かる。足が片方、あからさまにおかしい方向へ曲がっている。
 その目の光は衰えていない。
「早く追っかけなさいな!」
 クルガは刀を握り、魔女の傍らのヴァルガを見た。
「フェルを頼む。あれは、拙者がここに追い込むゆえ」
 きっぱりと投げると、剣闘士は心得たりと頷いた
 くるりと踵を返し、サムライは駆け出した。
 まだ木っ端が降って来る。


「おいらじゃ、追い付けんからのう」
 魔女が口を開く前に、年嵩の剣闘士は音量を抑えて云った。
 フェルフェッタは視線だけで彼の動きを追う。半身を起こした姿勢から動けないらしい。
 ヴァルガは、その背中を支えてそおっと寝かせてやる。
「馬鹿」
「そう云うでない」
 苦笑しながら、瓦礫から適当な木片を拾う。
「ありゃあ、どっちに走ったのかいのう」
 ヴァルガの言葉に、フェルフェッタは蒼白になった顔を歪めた。
「教会」
 魔女は呟く音量で云う。
「予想だけど、匂い、覚えてるのかも、知れないわ」
 昨日の夕刻に戦った、否、攻撃を加えたちまちました生き物の匂い。
 フェルフェッタが落とされたのは単に目立つ場所にいたからだが。
 ヴァルガは己の背筋が寒くなるのを感じながら、折れた足に木片をあてがう。
「痛み止めは、持っとらんのか?」
「今ので、全部飛んでっちゃった、わよ」
 途切れ途切れにフェルフェッタが云って、ヴァルガは難しい顔をして溜息を一つ吐く。
 そして、触るでのう、と断ってから箇所を手探りでまっすぐに伸ばす。黙り込んだ魔女は自分のマントを指が白くなるほど固く握った。歯を食いしばりながら、出来るだけ、足から力を抜くようにする。
 手斧を提げる紐を切って、添え木を足に結び付けて固定し、ヴァルガは深く息を吐く。
「ひとまずは、終わったでの。あとは嬢ちゃんらの方が上手いでな」
「ありがと。あんた、なかなか器用よ」
「お前さんも我慢強かったとも」
 強張った髭面を緩めて、ぎこちなく笑みを作った。
 フェルフェッタは脂汗を浮かせながら僅かに目元を緩め、それから真剣な顔に戻る。
「ヴァルガ、教会に行って頂戴。あたしは、平気だから」
「ううん、いくら云われても、そいつあ聞けんのう」
 ヴァルガは苦笑する。
「クルガ先輩がこっちに追い込んでくれるまで、ここで待っておらんといかんからのう」
「そんな簡単に、追い込まれてくれないわ、あれは」
「お前さんのことも頼まれたでのう」
 云って、ひょいと小柄な体を持ち上げる。
 急な動きにフェルフェッタは息を詰まらせて固くなった。
「ど、何処行くのよ」
「そこの家、あがらせて貰うだけだとも。こんなところじゃあ、ゆっくり休めんだろうが」
「良いってば」
「おいらが良くねえ」
 真面目に云い、髭面を綻ばせる。
「今度はお前さんが養生せんといかんでのう」


 重い響きが、こちらに向いた。
 ぼんやりさせていた意識でそれを拾って、リコルドは目を醒ます。
「ヤバいね」
 呟くように云うと、同じく気付いたかイワセがちらと視線を寄越した。
「移るか」
「無駄。あっちのが早い」
「では、篭城か」
「建物の強度なら、フェルが太鼓判、押したけどね」
 それなら篭城の方が良いな、と軽く笑い、イワセはつかまり立ちをしてナガイを呼んだ。
 若い団長も事態には気付いているらしい。
「今、外は誰が?」
「キャナルとガルゴスが行っている。呼び戻した方が良かろうか」
「そうだね」
 下からリコルドが口を挟む。
 話しているところへ、マルメットとヴァーサが寄って来た。
 ナガイは緊張した面持ちで若い二人に顔を向ける。
「拙者は外の二人を連れに行く。お主らは、中の者が飛び出さぬようなだめておいてくれ」
「了解だわさ、団長」
 マルメットが云い、ヴァーサが頷く。
 そのあたりでようやく、避難していた人々が異変に気付く。
「なあ、何だか、こっちに来てないか?」
 誰かが云い、細波のようにざわめきが広がる。祭壇近くに固まった騎士団員に視線が飛んで来る。
「おい、どうなってるんだ」
 寄ってきた男が、ナガイの肩を掴む。
 不安の色の濃い顔で、頭一つ小さなサムライを見下ろす。
「なあ何だか、危なくないのか? こっちに来てるんじゃないのか?」
 自分で云うのも恐ろしいのか、主語を省く。
 ナガイは出来るだけ冷静な顔で男を見上げた。
「心配要らぬ。落ち着いて、待っておれ」
「お、落ち着いてなんかいられねえよ!」
 聞いていた別の者が声を張り上げる。さっとそちらに衆目が集まった。
「俺たちは、ここに避難しに来てるんだ。ま、魔物の餌になるためじゃねえよ!」
 叫んだ声に、不安が伝播する。
 明らかに大きくなってくる地響きが、その不安に追い討ちをかける。
「いやよ、あたし、こんなところで死にたくないわよ」
 若い女が声を震わせる。
 口々に人々が、不安を口に上らせる。
「これもヤバいね」
 リコルドが眉を寄せて云い、ナガイを見上げる。
「団長、早く行って」
 促されて頷き、ナガイは扉の方へ歩き出す。
 それを見咎めた女が叫ぶ。
「ちょっと、何処行くつもりなのよ!」
 ざわめきが激しくなる。男たちが数人、行く手を塞ぐように通路に出て来る。
「ま、まさか俺たちを置いて逃げるつもりじゃないだろうな、あんた」
「あんた団長さんだろ? 俺たちを守ってくれるんじゃないのか?」
「ねえ、もしかしてあたしたちを餌に魔物を呼んでるワケじゃないわよね」
「そんな、でも、騎士団は街の人間のことなんて、多少減ったって、どうでも」
 違う、と反論する声が盛り上がる不安に掻き消される。
「あんたらだけ助かろうなんて、そうはいかないぞ」
 隣の男がナガイの腕を掴む。
 ふりほどくとまた別の者がしがみつく。
「き、騎士団だけ逃げるなんて許さねえぞ!」
 一部の集団が、叫びながら扉を塞ぐ。
 何やってんだわさ!と怒鳴りながらベンチの背を跳んで、マルメットがそちらへ向かう。イワセが足を引き摺りながら加勢に向かう。
 弓使い二人は別の集団に囲まれているらしい。
(抑えられぬ)
 唇を噛む。
(どうすれば良い、こんなときは)
 何度目か腕をふりほどく。
 そのとき、建物が轟音を立てて震えた。
 バラバラと高い天井から埃が落ちて、そこここから悲鳴が上がる。
「魔物だ!」
 誰かが叫んだ。


 轟く足音が近付くのに気付いたのは、教会から一段下がった裏手の道にいたときである。
「戻りましょう」
 微かに声を震わせるキャナルに頷き、ガルゴスはどすどすと正面に回った。教会へと上る階段はそちらにある。
 姿を見たのは階段を半ばまで上がった辺りだった。
 振り向いた目に、家並を飛び越えて来る二つ首の狼が映った。
 そして直後、上って行く二人の上を、巨体が軽々と越えて行く。ガルゴスは慌てて、キャナルの上に覆い被さった。
 縮こまった耳に、どおんと重い響きがした。
「教会が!」
 腕の中で神官が叫ぶ。
 ガルゴスはそのまま彼女を抱えて、残りの数段を駆け上がった。
 また頭上を、大きな影が跳ぶ。初めの体当たりに失敗したようで、ケルベロスは鼻息荒く階段の下に着地する。
 大きいだけでなく、なかなか頑健な建物のようだ。
 教会は屋根の飾りをへし折られながら、他に特に大きな破損もなくその場に揺るがず建っている。
 ガルゴスは身長の三倍ほどある鉄の扉の前に辿り着き、キャナルを降ろしてから、それをどんどんと叩く。
「おい! 開けてくれ!」
 キャナルが体重をかけて、観音開きの門扉の片方を押す。
 重い扉はびくともしない。
 若い神官は困惑して剣闘士を見上げる。
「開かねェのか?」
 問うと、呆然とした顔が頷く。
「どうしましょう」
「裏口行くっきゃねェよ」
 答えて向きを変えた視線の端に、魔物の姿が入った。
 キャナルが息を呑む。
 二つ首の狼の形をした魔物は、肚の底に響くような咆哮をあげた。


 先を走っていたアズリットが呆然と足を止める。
 追い付く前にヘルンも惨状に気付く。
 高くそびえていた庁舎の上半分がまるごと、砕けて吹き飛んでいる。幸い火事にはなっていない。
「フェル!」
 高い声で叫び、ぱたぱたとアズリットが広場に出る。恐る恐る瓦礫の山に近寄り、そのままどうして良いか分からず手をこまねいている。
 遅れて広場に入ったヘルンが周りを見渡しても、広場にいた筈の三人の姿はない。
(まさか、全員、なんてことは)
 不吉な予感を振り払う。思うだけで、思っただけで、本当になってしまいそうな気がした。
 背中が冷たくなる。
「おうい、嬢ちゃん」
 動けずにいる耳に、低く間延びした声が聞こえた。
 アズリットが振り向いて、瓦礫の山から降りてぱっと走り出す。
 見ると、民家の戸口に埃だらけのヴァルガがいた。
「お前さんも無事だったかあ」
 ヘルンを見てヴァルガがにまりと笑う。
 騎士は硬い顔で剣闘士を見上げる。
「フェルフェッタ先輩と、クルガ先輩は」
「大丈夫。心配ねえ。クルガ先輩は、魔物が逃げたんで追っかけとる」
「フェルは」
 若い魔女が顔をあげて訊いた。
 ヴァルガは僅かに表情を曇らせる。
「ちと足をやられてのう、奥で寝とる。嬢ちゃん、痛み止め持っとらんかね? あったら服ませてやって欲しいんだがのう」
 見上げた魔女はしばし黙ってから頷いて、するりと隙間を縫って家の中へと駆け込んで行った。
 ヘルンはそれを見送り、またヴァルガを見る。
「魔物は、どっちへ」
「どうやら教会の方に行ったらしい」
「教会?」
「昨日の匂いを覚えとるかも知れんようでな」
 騎士はぐっと唇を結ぶ。嫌な憶測が頭の中を飛び交う。
「あとの二人にゃ、会っとらんのかあ?」
 ヴァルガに訊かれ、はっと我に返る。
 あとの二人。
 ポールランとエクレス。
「いえ、会ってません。こっちには合流してないんですね」
「見とらんのう」
 首を捻り、顔を曇らせる。
 互いに黙り込む。
 嫌な、予感がした。


 恐らく、気を失っていた。
 目を開くと、緑の葉と黄色い花を透かして、夜の雲と星空が青く見えた。
 ポールランはぼんやりと、花畑の土に寝そべっている。
 転がった体の上に、掛け布団のように盾が乗っかっているのを感じる。先程から体が重たいのはそのせいか。
 ずりずりと起き上がるなり、痛みが這い上った。
「ッ」
 思わず動きを止めて見ると、窓枠か何かの木の棒が、足の付け根に深々と突き刺さっている。
 引き抜こうと手を伸ばし、触れる前に思い留まる。
 無闇に抜いては、大量の出血を招く。それくらいは知っている。
 痛みを我慢しながら、盾を支えに体を持ち上げる。
 アブラカブラの花を薙ぎ倒し、辺り一面が瓦礫だらけだ。
 ひと抱えもある石の塊が側に転がっていて、よく頭を潰されなかったものだとヒヤリとした。
(一体)
 気絶前のことを思い返す。
 一面の花畑。
 家が瓦礫と化して、こちらへ飛んで来たこと。
 視界を塞ぐ魔物。
 前を、走っていたのは。
「エクレス」
 ようやく意識が及んで、名を呼ぶ。
 首だけできょろきょろと見回した視線の向こうに、花盛りの金色を薙いで、倒れている人影。

 雨の音がした。
 三年前の、雨音が耳に聞こえた。

 痛みを忘れて歩み寄る。盾が倒れてやかましく音を立てた。
 ぼたぼたと、滴った鮮血を土が吸う。
 気にせず、倒れた体の傍らに跪く。
 周りにめくらましや煙玉や、手裏剣がごろごろしている。
 土埃をかぶった肩に触れると、双眸を隠した顔がこちらを向いた。
 唇が笑みの形を作る。
「元気?」
 ポールランは、笑えていない笑みを返した。
「元気です」
 それは良かった、とエクレスがまた笑い、咳き込んだ。
 ごぼ、と音がした。
 畑の土に黒く染みが落ちる。
 ポールランは動けずに、呆然とその染みを見た。
 そして我に返って視線を走らせる。
 土埃で汚れてはいるが、外傷は特に見当たらない。
 という、ことは。
(からだのなか)
 拳を握る。
 手に負えない。
(僕じゃ無理だ)
 頭の中で呟く。
 別の声が、もう手遅れだと云った。
 治せる筈がない。手の施しようがない。諦めろ。
(そんなことない)
 声を振り払い、身を乗り出して抱き起こす。
「エクレス。教会に行こう。あっちに行けば、大丈夫だから」
 金髪が揺れる。
 唇が動く。
「え」
 聞き取れない。
 痛みを堪えて、顔を寄せる。
 間近で、唇が動く。
「キスして」
 ポールランは目を瞬いて、その顔を見て返した。
「なに云ってるんですか」
「キス、して欲しいの」
 寝転がったまま、エクレスが微かに首を傾げる。
 花が揺れる。
 そよそよと風に揺れ、光が零れるように花が揺れる。
 若い騎士は泣きそうになって、かぶりを振った。
「駄目ですよ、そんなの」
 黙り、返事を待つ。
 ニンジャは、微笑んだままでいる。
「さいごの、お願いでも、駄目?」
 ポールランはぶんぶんと思いっきり首を横に振る。
「もっと駄目です」
 声が震える。
「おねがい」
「そんなの、じゃあ、治ってから、してあげますから」
「今」
「駄目、です」
 頑に云って腕を引き、自分より上背のあるニンジャを背負う。
 足下がふらつく。木片の刺さった足が、当たり前だが痛い。
 畑の中は歩きにくい。
 上から見たとき、畑の中に道が走っていた。
 そこなら歩き易い筈だ。
 教会まで行けば助かる。
 頭の中で繰り返す。
 祈るように繰り返す。
 足を摺りながら、花畑の中を行く。
 前傾した胸の高さで花が揺れる。
 流れる血が足を伝う。
 何処まで続くのだろう、この花畑は。
 果てがないように思えて来る。
 足ががくがくする。
 ただの木切れが杭のように、足を地面に縫い止めようとする。
(ちくしょう)
 気が遠くなりかけて、べたりと膝をつく。
 腕からも力が抜けて、エクレスが背中からずるりと横様に落ちる。
 呻いて咳き込む声。
 血の匂い。
 立てずに這いずって近寄る。また抱き起こす。
「すみませ」
 長い腕が首に回され、声が詰まった。
「お願い」
 聞いたこともないようなか細い声で。
 変な姿勢のまま、ポールランは目の辺りが熱くなった。
 もう、どうにもならないことが分かった。
 駄目だ、と、誰かが呟く。
 分かっていた。
 信じたくなかった。
(……ごめんなさい)
 拳を握る。そして開く。
 初めて、その背に手を回す。
 正面から顔を見る。
 知っている顔。ずっと憧れ続けていた人の顔。
 頬にぽたりと水が落ちる。
 揺れる花に隠れて。
 目を閉じて、息を止めて、唇を重ねた。

 耳に、いつかの豪雨が聞こえた。


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