@4年71日 夜明け前

 轟音。
 建物が揺れ、ステンドグラスが弾けた。
 割れたガラスが降り注ぐ。悲鳴と怒号と、とにかく叫びが入り交じる。
 ひしゃげた枠の向こうに魔物の姿が見える。
 叫ぶ声が大きくなる。


「良い? ヘルンはクルガ追っかけて援護なさい。アズはポールとエクレスの方、頼むわ。……音沙汰がなさすぎるもの」
 はい、と答える後輩たちを見て、もうかなり眠たげに、フェルフェッタは頷き返す。
 足の痛みが鈍ったのは良いが、眠くて眠くて仕方がない。
(改良の余地が、あるわね)
 どうにか頭を振って意識を揺り起こす。
「行動は迅速に。いってらっしゃい」
 ぱたぱた軽い足音と、がしゃがしゃ鳴る鎧の音が、入り乱れて外へ出て行く。
 長椅子に寝そべってそれを見送り、魔女は傍らの剣闘士を見上げる。
「ホントはあんたにも行って欲しいのよ」
 ヴァルガは兜の下で笑った。
「おいらは、ここに残らにゃあいかんからな」
「建前ね」
「嘘でもねえからなあ」
 眠りの海に沈みそうになりながら、フェルフェッタは笑う。
「どのみちあんたは、嘘が下手よ」


 咆哮が空を揺るがす。
 駆けながらクルガはそれを耳にする。
(教会の方か)
 そう、気付いてぞっとした。
(イワセ)
 ぱっと名前が浮かぶ。
(早く行かねば)
 走りながら苛立つ。
 瓦礫のぶつかった膝が痛んで、うまく走れない。
 本来ならもう、教会に着いている筈なのに、まだ半分も走れていない。
 走る振動が重く響く。
 この場に蹲ってしまいたいと、かなり切実に思った。


 突っ込んできた魔物に、キャナルが反射的にその場でしゃがんだ。
 ガルゴスは思わず首を竦める。
 その頭上をケルベロスが跳ぶ。
 教会への体当たり。
 どう、と建物が大きく揺れる。割れた窓の内側から悲鳴が聞こえる。
「こォの、犬っころォ!」
 ガルゴスは吼えて、魔物の足に鉄球を叩き付ける。
 鈍い音と共にトゲ付きの鉄塊がはじかれる。
 魔物の二つの首のうちの一つが、じろりと、挑戦的に立った若い剣闘士を睥睨した。
「てめェ、こ、ここは、勝手させねェよ!」
 撥ね除けるように声を高くする。
 相手が何であろうが舐められたくはない。
 二つ首が、ガルゴスを見下ろした。唸りもせず四肢を縮める。
(跳ぶ、つもりか)
 背後でキャナルが立ち上がる。
 ずれた帽子の下で、目をあげ、胸に抱いた教典を開く。
 ケルベロスが跳ぶ。
 その鼻面へ鉄球を振りかぶる。
「精霊よ」
 教典から光が迸る。
 犬の首が弾かれ、鉄球をくわえてガルゴスの肩の上を過ぎる。
 若い剣闘士の巨体が軽々と引かれた。
 思わず手を放したが、体は惰性で木々の群れに突っ込んだ。めきめきと体の下で枝が折れる。
 ケルベロスは木々を越えて、一段下の民家に飛び込む。
 キャナルが叫んで駆けて来る。
 その脇の林が割れて弾けた。
 思うより先に体が動いて、ガルゴスは現れた魔物とキャナルの間に突進する。
 鉄球は取られている。
 斧を抜いて、ケルベロスの顔面へ叩き付けた。
 鮮血がしぶく。
 咆哮と共に、体が浮いた。
「!」
 街並が見えた。
 と思った次の瞬間に、草の上に落ちる。
 目の前に火花が散った。
「ガルゴスさん!」
 キャナルの悲鳴のような声が聞こえた。


 はたと、ナガイは顔をあげる。
(外)
 二度目の揺れで折り重なって倒れた人々の下から這い出す。
(外に、行かねば)
 そのとき一旦、ケルベロスの恐怖を忘れた。
 起き上がり扉へ向けて走り出す。
 誰かが行かせまいと前を塞ぐ。
 ナガイはその手前で踏み切り、斜め前方のベンチへと跳ぶ。そのまま並ぶその背を駆ける。
 外で、魔物の咆哮が聞こえる。
「団長!」
 イワセが怒鳴る。
 聞かず、ベンチから横の壁を蹴り、反動で二階の割れた窓へ突っ込む。
 それを見て、イワセは舌打ちをして、祭壇の方で囲まれまくっている弓使いに目を遣る。
「リコルド!」
 肚から声を飛ばす。
 遠く、金髪の頭がこちらを向いた。
 はっと隣でマルメットが顔をあげる。
「ここは任せた!」
 リコルドが頷くのも確認せず、若い魔女を見下ろす。
「お主も、任せた。拙者が出たら、塞いで誰も通すな」
「どういうことだわさっ」
 叫んだ途端、教会が大きく揺れた。
 マルメットがひっくり返り、イワセは手近のベンチにしがみつく。足にナイフを刺されたような痛みが走る。
 思わず目を閉じた。
 悲鳴が飛び交う。
「頼んだぞ」
 倒れたマルメットに怒鳴り、足を摺りながらひっくり返っている人々を踏み越える。足下で踏まれた誰かが呻くが、この際我慢してもらう。
 観音開きの片方を少し開いて、隙間から外へ滑り出る。
 慌ててマルメットが追い、扉の前で立ち止まる。
「あーもうッ!」
 怒鳴って石の床を蹴る。


 教会からの光が赤い毛並を輝かせる。
 二つある首の、右の片目に手斧が刺さったまま、頬の毛並を鮮血が伝う。
 震えを抑えながらキャナルは魔物を見上げる。背後で、ガルゴスが咳き込んで起き上がる。
「精霊よ、お守り下さい」
 上着の布地の上からお守りに触れ、ケルベロスをまっすぐ見上げる。
 祈りを込めて教典を掲げる。
「精霊よ!」
 ぱっと光が迸る。
 光は魔物の胸の辺りで弾け、花火のように砕け散る。
 びくともしない。
 ガルゴスがよろめきながらのしのしと、立ったキャナルを押し退ける。
「そんなんじゃ、無理だよォ」
 若い剣闘士に目を留めて、ケルベロスが唸る。
 睨み合う。
 魔物の毛並の下で筋肉が緊張する。
 ガルゴスは草の上で足をずらす。
 鉄球もない。斧もケルベロスに刺さったまま。
 丸腰だ。
(だからってよォ、尻尾巻いてられっかァ!)
「来やがれよォ!」
 滲む恐怖を吹き飛ばすように、声を張り上げる。
 ケルベロスが吼える。
 空気がビリビリ震える。
 キャナルは思わず身を竦めた。
 その耳に。
 がしゃん、と音がした。
 視線をあげた先、二階の窓から、人影が飛び出す。
 窓からの灯を受けて、金属がちかりと光る。
「団長ォ!」
 ガルゴスが気付いて怒鳴る。
 ケルベロスの動きが止まる。
 飛び出した勢いのまま刀を突きの形にして、魔物の肩にナガイが突っ込む。
 直後、魔物が吼えた。
 体を大きく振るい、壁に胴体を叩き付ける。
 キャナルは思わず悲鳴をあげた。
「ッの野郎!!」
 ガルゴスが怒鳴って突っ込む。足に体当たりをかまし、ケルベロスの体勢が大きく崩れる。
 その背からすたりとナガイが跳び降りる。
「団長、生きてるか!」
 退いてきたガルゴスがそちらへ駆け寄った。
 キャナルは動けずに固まっている。
 体勢を崩したケルベロスを背に、ナガイとガルゴスが彼女の方まで下がって来る。
「二人とも、大事ないか」
 息を弾ませてナガイが訊く。
 キャナルは言葉が出ずにこくこくと頷いた。
「こっちゃ擦り傷ばっかだぜェ。団長は潰されんかったかァ?」
「幸い無事だ」
 ひゅん、と刀を振り、刀身から血を払って答える。肘の辺りの袖が、壁で擦ったのか裂けている。
「団長、ドアが開かねェんだ。どうなってンだ?」
 ガルゴスが訊く。
「扉の前に、人が集まっている。裏へ回る」
 答えながら剣闘士の肩ごしにケルベロスを見遣る。
 魔物は体勢を立て直し、こちらに目線を向けた。
 ナガイは二人を見る。
「足では敵わぬ。走れ!」
 背を押されて、キャナルは走り出す。ガルゴスがあとに続く。
 逃さじ、とケルベロスが吼えて疾る。
 ナガイはしんがりで振り向いて、刀を構える。
(行かせぬ)
 身を沈め、駆ける足をめがけて勢い良く斬り上げる。
 がきり、と硬い手応え。
 腕が痺れる。
 魔物の動きが緩む。
 見上げて、視線が合う。
 背中からざわざわと寒気が駆け上る。忘れていた恐怖が蘇る。
「団長、屈め!」
 声が飛んで来た。
 ケルベロスの、後ろから。
 反射的に伏せる。
 さん、と草を蹴る音。
 体勢を低めたまま見た先、すぐ頭上で、ケルベロスの前肢が膝から二つに裂ける。
 絶叫。
 前肢から黒々と血を吹いて、魔物は後肢で立ち上がった。
 それを避け、しゃがんで寄ってきたイワセが、伏せたままのナガイの腕を引く。
「お主は無謀だ」
 吼え続ける魔物から這いずるように離れながら、年嵩のサムライは若い団長を睨み付けた。
 ナガイは目を伏せる。
「すまぬ」
「……責めぬよ」
 壁にぴたりと沿うように、キャナルたちとは反対側の角へ向かう。
 そして扉の脇でつまずくようにイワセが蹲る。
「イワセ」
 呼ぶと、呟き声で悪態が聞こえた。
 気付いて視線を遣ると、足に巻いた布が黒ずんでいて、膝下の方までべっとりと濡れている。
 ナガイは口を結んで、年上の相手の腕を引いて肩を貸す。
「かたじけない」
「無理をさせたのは拙者だ」
 云って泣きたくなる。
(腑甲斐無い)
 また進み始めた背中に咆哮が近い。
 振り返る余裕もない。


 怒鳴り叫ぶ声が礼拝堂に満ちる。
 マルメットが杖を振って、パニックして外に出ようとする人々を扉の前から追い払う。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿、出たら殺されるんだわさッ分かってるんだわさ! 馬鹿!」
 押し掛ける人々が口々に叫ぶ。
 嘘だ、出してくれ、逃がしてくれ、殺されるのはまっぴらだ。
「外に出た方が死ぬんだわさ馬鹿!」
 叫びながら、前に出て来た人の腕を思いっきり叩く。
 別の方から伸びた手が、魔女のマントを掴む。
 力負けしてマルメットはその場に倒れる。
「放すんだわさ!」
 叫んでその手を引っ叩き立ち上がる。
 その頃には、閉じた扉の前に人々が殺到していた。しかし押せども押せども、内開きの扉は当然ながら開かない。
 開かぬ扉に更にパニックが広がる。
 助けてくれ、出してくれ、逃がしてくれ、殺されるのはまっぴらだ。

「黙れ!」

 怒鳴った一声が、高い丸天井を震わせた。
 空気が、しん、とする。
 人々の視線が、声の主に向けられる。
「外は、魔物がいて、危険です。この教会は、中にいれば、安全です」
 短く言葉を区切りながら、祭壇に立った弓使いは人々を見渡す。
「リコルド先輩」
 マルメットは目をぱちぱちさせた。
 本来なら司祭の立つ祭壇は、教会で一番、発する音が増幅される。
 幼い顔のヴァルキリーに支えられ、年嵩のアーチャーは静かに言葉を続ける。
「魔物を追い払う、までは、騎士団の指示に、従って下さい。中にいる限りは、あなた方に、手出しはさせません」
 しんとした教会の中に、ゆっくりとした声が通る。
 魔物が吼えている筈なのに、何故かそれが気にならない。
 全員が圧倒されて、固まっている。
 マルメットが扉の前から、人々を一人ずつ押しやる。
「ヴァーサ、弓を、とって」
 リコルドは云って、祭壇に寄り掛かりながら窓を見る。
 一階に並んだ小さな窓から獣の足が見える。
 ゆっくりと前進している。
 ぱたぱたとヴァーサが弓を抱えてきて、緊張した面持ちで渡す。
 笑顔で礼を云って、矢をつがえる。
 もう撃てなくなるかも知れないと、ふとそんな思いが浮かんだ。
 あえて無視をする。
(それでも、今には換えられないよ)
 賭かっているのは騎士団の信用そのもの。
 狙うのは二階の窓。
 弓を引くと、肩から激痛が這い上る。
(外せない)
 息を長く吐きながら、ぴたり、と狙いをつける。
 前へ進む魔物の横顔が、二階の大窓に現れる。
 機会は一瞬。
 動きが静止する。
 それから。
 空気が鳴った。


 魔物がこちらを睨んでいる。
 ぎこちない動きで、一歩ずつ、こちらへ向かって来る。足音で分かる。
 もう吼えてはいない。
 逃げられぬ獲物と知ってか。これは余裕か。
「置いて行け」
 イワセが独白のように云う。
 顔色を青くして、ほとんど足に体重を掛けられずにいる。
 ナガイは首を横に振った。
 できるわけがない。
 また一歩、ケルベロスが踏み出す。
(まだ、果たしておらぬ)
 すうっと言葉がこみ上げる。
 刀の柄を、強く握った。
 半身振り向き、獣の顔を睨み上げる。
 激しい眼に見据えられ、魔物の動きが止まる。
(こんなところで、終わるわけには、いかぬ)
 脳裏を過ぎるのは、吸われそうに黒い目。何も云わず見守る眼差し。
(お師匠)
 そのときに、ひゅん、と空気が鳴った。
 直後にぶつりと肉を貫く音。
(!?)
 はっとした耳に、魔物が吼えた。
 高く持ち上げた左の頭に、何かが刺さっている。
「団長、イワセ先輩」
 呼ばれてケルベロスから目を離すと、行く手の角からキャナルとガルゴスがこちらへ駆けてきていた。
 教会の周囲をぐるりと回って来たらしい。
「振り向いて、だァれもいねェのは、心臓に悪ィ」
 ガルゴスが怖い顔をして云って、軽々とイワセを背負う。
「行きましょう」
 神官が若いサムライの手を引く。
 ナガイは、こくりと頷いた。


 魔物の苦鳴を聞いて、リコルドはその場に座り込んだ。
 ごうごうと肩が痛む。目眩がする。
 朦朧とした耳にどよめきが届く。
「先生、魔物が、逃げます」
 ヴァーサの声。随分と昂っている。
 ならばこのどよめきは、歓声か。
 顔をあげると、覗き込んでいたヴァルキリ−が慌てたように目を逸らした。
「こんなことして無茶です」
「やらなきゃ、いけなかったから、ね。弓使いなら、どんなになっても、撃って、当てないと」
 見本になったかな、と目元で笑う。
 マルメットが駆けて来た。
「先輩てば、無茶だわさッ」
 怒鳴られる。
 扉の方は、大丈夫、なのだろう。
 目を細める。
「皆、頑張ってるから、ね。マリーも、頑張った」
「馬鹿アーチャ−」
 殴りかねない勢いで怒鳴られる。
 息が、ようやく治まって来る。
 肩が抉られるように痛い。骨はまたずれてしまったのだろう。
(フェルに、怒られる、だろうな)
 意識が遠くなりかける。
 裏手の方がばたばたとした。聞き覚えのある足音やらがする。
 ヴァーサが道を開けた。
 恐らく走ってきたナガイが、一度息を止めて、目の前に屈む。
 落ち着いている。
 様子から、全員の無事を確認する。
 ナガイは渋い顔をしていた。
「皆して無茶ばかりをする」
「君もね」
「……説教なら後日幾らでも受けよう」
「良いのかな、そんなこと、云って」
「拙者からも返させてもらうゆえ」
 真剣に云うのが可笑しくて、くつくつ笑ってしまい、肩の痛みで後悔する。
 それでも、意味に気付いて、嬉しくなる。
「団長」
 顔を見る。
 真剣な表情が、ややきょとんとしている。
 そう、こんな顔を、よくしていた。
 瞑目する。
(もどってきた)
 開くと、ナガイが怪訝な様子でいる。
「何だ」
「もう、気絶しても、良い?」
 なんだか限界っぽかった。
 人の群れの中にいようがいまいが、意識が保てなかった。既に充分、朦朧としている。
 ナガイはしばし黙ってから。
「……肩の処置はさせて貰う。朝には叩き起こすゆえ」
「あれ、そんな、酷い?」
「当たり前ですっ」
「当然だわさっ」
 ナガイの向こうでマルメットとヴァーサが唱和する。
「だそうだ」
「……分かった」
「お主の弓は、まだ必要だ」
「ん」
 緩く、笑みを作る。
「嬉しいよ」
 どうにか云って、そこで、意識はふっつり途切れた。


 音が変わった。
 咆哮と、足音が移動している。
(教会からは、離れたか)
 クルガは立ち止まって耳を澄ます。
 音は遠ざかっていない。
(埒があかぬ)
 膝を擦って距離を測る。
 そして壁の凹凸を足掛けに屋根へと跳び上がった。足を滑らせかけて、青い瓦にしがみつく。
(ああもう、上手く動けぬ)
 苛立ちながら街並を見渡す。
 その耳もとで、ごう、と空気が唸った。
 黒い影。
 見上げると、巨体が頭上の空を飛んでいた。星空をシルエットが塞ぐ。
「ちくしょう」
 悪態を吐く。
 瓦を蹴って駆け出しながら、自分と広場の位置を確認する。
 進行方向はかなり東へずれているようだ。
 魔物の速度は、見失う前より確実に落ちている。見ると夜目にも判って、右の前肢がない。右の頭は片目が潰されて、左の頭を矢が貫いている。肩にも傷があるようだ。
 教会方面は随分と奮闘したらしい。
(なら挫けてはおれぬな)
 ケルベロスの右側を並走するかたちで回り込む。
 間近で見ると巨大さが際立つ。
 瓦を鳴らして、踏み込み斬り付ける。
 硬い毛で剣筋が滑る。
 走りながら魔物が身を震わせる。足場の不安定さのため、それだけでバランスは崩れた。
 からからと瓦を鳴らして、クルガは屋根から転げ落ちる。
 上手く受身を取れない。
(くそっ)
 どさり、と地面よりは柔らかいものにぶち当たる。
「ッた!」
「な!?」
 受け止めた方と受け止められた方が同時に声をあげる。
「ヘルン!」
 受け止められたまま首を捻り、クルガは目を丸くする。
 童顔のサムライを受け止めた騎士は、ほっと笑う。
「良かった。アズリットでは無理でした」
「お主ら、一緒ではないのか?」
「アズリットはポールランとエクレスの方であります。先輩方のところで、合流できなかったので」
「そうか」
 立ち上がり、刀を鞘に戻す。落ちるときに刺さらなくて良かった。
「先輩の補助をせよと云われました」
 ヘルンが云い、クルガは眉間に皺を寄せる。
「いや、お主は教会に向かってくれ。あやつ、随分とあちらで暴れたらしい。人手が要ると思うのだ」
 医療の術は分かっておろう?と片頬で笑う。
 ヘルンは困惑の色を浮かべた。
「しかし」
「どのみちお主では拙者には追い付けぬよ。任せたぞ、そちらは」
「先輩っ」
 駆け出す背中に、ヘルンが叫ぶ。
 咄嗟に掛ける言葉に迷って。
「……お気を付けて!」
 遠ざかりながら、童顔のサムライは返事の代わりに片手を挙げた。


(で。見栄を張ったものの)
 クルガはまた音を追いながら顔をしかめる。
 痛みが酷い。変な走り方をしたせいで、足の付け根の方までが軋むように痛んできた。
(広場までもてば良い)
 先程の一撃は浅いにも程がある代物だったが、軌道変更には役立ったようだ。音を聞く限り、ケルベロスは広場へ向かっている。
(止めんのは、おいらに任せろや)
 ヴァルガの髭面を思い浮かべる。
 恐らく、止めるので精一杯だろう。フェルフェッタの様子では加勢も出来ないと思う。
 今は、一秒でも早く広場へ辿り着いて、それから。
(ぶった斬る)
 それだけだ。
 と云うかもう、それ以上は無理だと思った。
 無言で走る下肢が軋んで悲鳴をあげる。


 民家に眠り込んだフェルフェッタを残し、一人広場に佇んで、ヴァルガはじっと空を見た。
 星が瞬いている。雲はいつしか、完全に晴れていた。
「こんな夜は、やっぱ静かなのがええのう」
 呟きに反して大気には轟音が響いている。
 己の耳はそれほど鋭いとは思っていないが、音の主がどちらから来るかくらいは分かる。
 剣闘士は大きく両手を広げた。
「さーあ」
 正面。
 街並の屋根から魔物が飛び出した。
「来いやあ!」
 花壇に着地したケルベロスの前肢にしがみついて締めあげる。
 硬い毛並を抱え込んで踏ん張る。
 少しでも気を抜けば、弾き飛ばされそうだ。
 腕の中で魔物がもがく。後肢が地を掻きむしり、二つの首が吼え猛る。
「大人しくしやがれえっ」
 体ごとケルベロスの前肢を捻り、巨体を石畳に叩き付けた。
 大地が大きく揺らぐ。
 ヴァルガは更に抱えた足を締めあげる。
 もう片方の前肢はざっくり斬られている。こちらを折ってしまえば、魔物は動けなくなる。
 こいつは教会まで行った。魔物の傷を見る限り、そして逃がしたと云う状況を見る限り、あちらでもそれなりの被害を被った筈だ。
 フェルフェッタの負傷もある。次はない。あるとしても勝てない。
 ここが最後の砦だ。
 引き止め役を云い出した責任と、己の誇りに賭けて、逃すわけにはいかない。
 歯を喰いしばり、地面に押し付けた足に体を押し付ける。
 大きく息をついたとき、どすりと衝撃があった。
「ッ!」
 魔物の牙が、剣闘士の脇腹に喰い込んでいる。
 邪魔者を引き剥がそうと、噛み付いたままケルベロスが首を振る。
 ヴァルガは意地でも離すものかと腕に力を込める。肩に噛み付いた魔物の目を、兜の下から睨めつけた。
 膝をついた足下にぼたぼたと血が溢れ落ちる。
 砂が零れるように、腕から力が抜けそうになる。
「くそうッ」
 睨みつける。
 そして、眉をあげた。
 片目を潰して突き刺さっているのは、見覚えのある手斧だ。
(ああ、なんだあ)
 思い浮かぶ、負けん気の強い顔。
 どうやら奮戦したらしい。
(それじゃあおいらも、負けとるわけには、いかんのう)
 何故か軽く笑いが込み上げる。
(おいらも、見たかったのう)
 笑みを消し踏ん張る。
「意地を見せてやらあ」
 低く云う。
 ケルベロスの動きに逆らい、ヴァルガは力一杯、石畳に半身を押し付ける。
 捻れるように脇腹が裂けた。
 痛みで一気に、頭に血が上る。
「騎士団の、剣闘士の意地だあッ」
 体の下で鈍い音を立てて、ケルベロスの足が折れた。
 白み始めた空に絶叫が響き渡る。


 黄昏どきの影のように長く伸びる咆哮を耳に、クルガは坂を駆け上がる。
 正面にうごめく黒い影。
 獣の形のシルエット。下半身が立ち上がり掛けの姿勢でもがいている。上半身は地に沈んでいる。
 それだけを見据えて走る。
 他のことは、無数の痛みも何もかも忘れて、宙を裂く一本の矢のように。
 頭をからっぽにして走りながら、手は刀の柄を握る。
 あとの動作は体が覚えている。
 鯉口を切る。
 耳もとで風が唸る。
 立ち上がった二つの後肢の間へ、身を沈めて突っ込む。
(これで、幕引きだ)
 一閃。
 ケルベロスの躯が跳ね上がる。
 二つに裂けたその身から、爆ぜるように緋色が吹きあがる。
 飛沫が空を染め上げて、留まれずに降り注ぐ。
 生臭い豪雨が束の間、崩れた石畳を鳴らす。
 その雨に隠されて、断末魔の声すらなく。
 魔物は砂のように崩れ消えた。


@4年71日 朝

 杖を頼りに魔女が外へ出たとき、空は既に明け始めていた。
 上り坂の街並の向こうに聳える高峰の縁が化粧をするように染まり、光の帯が空の闇を吹き払う。
 まだ山向こうの朝日に照らされ、空の雲は真珠のように輝いている。
 その空の照り返しで明るんだ広場は、おびただしい流血で、生臭く染められている。
 かつりかつりと杖を鳴らして、フェルフェッタは無言で歩み寄った。
「間に合わなんだ」
 膝をつき、鞘に納めた刀を抱いて、クルガが独白のように云った。
 頭からべっとりと血に濡れて、何か悪い夢に出てきそうな姿をしている。
 いや、それともこれは、悪い夢そのものか。
 フェルフェッタはふつりと視線を落とす。
 周りの惨状に似合わぬ、ひどく安らかな顔をして、剣闘士が倒れていた。
 胸部の上半分が、肩ごと引きちぎられている。
 開いた傷口がぽっかりと、まるで底なしの穴のようだ。
 かたり、と杖を置いて、フェルフェッタは傍らに座り込んだ。
 黙り込んだ間にもしずしずと、夜が明けていく。
「何か、聞いた」
 もう動かない表情の、髭の辺りを見つめながら訊いた。
 膝をついたサムライは、何も、と答えて、よろめきながら立ち上がる。
「人を呼んで来る」
 そして、少し言葉を切って。
「ガルゴスに、報せてくる」
 魔女は微かに顎を上げた。
「あんたは、なんともないの」
 クルガはしばし黙って、顔を歪めた。
「拙者のは、全部、返り血だ」


 幻のように朝が来る。
 悪夢のような夜を白日のもとに晒すために。
 フェルフェッタは動けずに、ぺたりと座り込んでいる。
 耳に聞こえるのは朝鳥の囀り。
(どうして雨が降らないの)
 倦んだ瞳で朝日を見遣る。
 曙光が容赦なく乾いた目を射る。
 目を閉じる。
 瞼の裏で、剣闘士は笑顔しか見せない。
(どうして雨が降らないの)
 これでは。
 泣くことも出来ない。


 アズリットは言葉を無くしてつっ立っている。
 励ますことも慰めることも、この場には不釣り合いだと思った。
 黄色い花畑の中に。
 三年前と同じ、膝を着いて蹲った騎士の背中がある。
 三年前と同じ、その影から、長い髪と弛緩した手足が伸びている。
 言葉は浮かんで来なかった。
「どうしてでしょうか」
 雨が落ちるように騎士が呟いた。
 泣き尽くしたあとの、ひどく乾いた声で。
 膝の上で拳を固く握る。
 横たわった体から一歩離れて、それが、先の彼女に対する礼だろうか。
「どうして彼女はいつも、こんなに早く、いってしまうんでしょうか」
 囁くような音量で。
「……僕は、いつも置いてかれてしまう」
 呟く。
 アズリットはその背中を見ている


 教会の中はぐちゃぐちゃにごった返していた。
 落下した瓦礫やガラスの破片で怪我をした人々のために、キャナルがテキパキと指示を飛ばしている。ヘルンは主に子供たちの面倒を一手に引き受けている。というか任されている。
 ナガイとガルゴスとヴァーサとマルメットは、床に散らばったガラスを片付けながら浴びせ掛けられる質問やら要求に受け答えしていた。
 そして怪我人二名はまた祭壇の辺りにまとめられていた。
 リコルドは宣言通り気絶という名の熟睡をしていて、イワセとしては話し相手もなく、やることがない。
 動くなと云われてしまって、確かに動ける状態ではないが。
 つまりは暇であった。
 暇だからこそ、朝になっても誰も戻って来ないのがもどかしい。
 せめて手を動かしていれば気が紛れるのだが、それを誰も許してくれないのだ。
 いきおい、不安ばかりが膨れ上がる。
 何度も、何度も、外を覗く。
 そんなことをしていたから、真っ先に気付いた。
 街並を背に、石造りの階段をひょこひょこと、人影が上がって来る。
「クルガ」
 姿を定められぬ程、距離は遠い。それでも分かった。
 朝日が白く姿を浮き上がらせる。
 どうも歩き方がおかしい。
 不安が募る。
 ちら、と周りに目を遣って、こちらを見ている者がないのを確認する。見つかったら引き留められてしまう。
 もぞもぞとベンチに掴まり、右の足を使わぬよう、左の膝で這うようにして向かう。
 幸運にも誰にも見つかることなく、人の間を縫って扉に辿り着く。
 しかしさすがに扉を開ける段になっては気付かれた。
「先輩!」
 誰のだかは知れないが怒った声が追い掛けて来て、イワセは慌てて外へ転がり出る。
 我ながら情けない姿だ。
 朝日が前庭に教会の影を落とす。階段までまっすぐ続く石畳は、砕けたり魔物の血飛沫が飛んでいたりで、とても平和な様子には見えない。
「クルガ!」
 とぼとぼ、といった足取りで歩いて来たサムライは、呼ばれて足を止めた。
 頭から足下まで、茶色に乾いた血をかぶっている。
 ぱりぱりに干涸びた血をこびりつかせた顔の中で、丸い目がふいと動いて相方を見る。
「イワセ」
 くしゃり、と顔が歪んだ。
 ひょこひょこと足を早めてくるのを、どうにか立ち上がって迎える。
 童顔のサムライはその手前まで歩いて来て、ふらりと前のめりに倒れ込んだ。
 イワセは慌てて受け止めて、支え切れずにひっくり返った。
「先輩ってばッ」
 怒声と共にドアが開く。
 マルメットは正面を睨み、誰もいなくてきょとんとした。
 イワセは憮然としてその靴をノックする。
「こっちだ」
「……何してるんだわさ先輩たち」
「成り行きだ。気にするな」
 起き上がった傍らにマルメットがしゃがみ込む。
「クルガ先輩、大丈夫?」
「ガルゴスを呼んでくれ」
 イワセにしがみついて視線を落としたまま、クルガは声を絞り出す。
「ガルゴス?」
 こくりと頷く。
「それから、団長も」


 吼えるように名を呼んで、ガルゴスが駆けて行く。そのあとを黙ってヘルンが追った。
 マルメットは走りかけて止まり、何か怒鳴って、石畳に拳を叩き付ける。
 ヴァーサとキャナルは呆然と立ち竦んでいた。
 ナガイは何も云わず教会に入った。
 リコルドに、報せに行ったのだろう。


 相方の肩に額を押し付けて、クルガがしゃくりあげる。
 暁の空を見上げて、イワセは子供をあやすようにその背中を撫ぜてやる。
「……くそう」
 掠れた声で呟く。
 どうしようもなく。
 とてつもなく感じる無力感。
 童顔のサムライは目を閉じている。
 硬く瞑った瞼から、涙が絞るように滲み出た。
「ちくしょう」


 ガルゴスはがむしゃらに、坂を駆け上がる。
(おっさん、おっさん、おっさん、ヴァルガのおっさんッ)
 まだ謝っていない。
 ふてくされていたことを謝っていない。
 いままでされたことの感謝を一つも返せていない。
(恨まんでくれよ)
 そんな言葉を最後になどしたくなかった。
(……ししょー)
 過ぎて行く景色が遅い。
 どうしてこんなに遅い。
 これじゃ。
 いつまで経っても辿り着けない。


 朝日が昇る。
 誰にも止めることが出来ずに日は昇る。


 サンパロスの夜が明ける。


@4年71日 ケルベロスLv6戦にて、ニンジャ、エクレス・カーペン戦死。享年24歳。
       同戦にて、剣闘士、ヴァルガ・ノーティス戦死。享年25歳。




@@@

天蓋は、地上を覆う空間、の意味の方で付けたのですが、他には、『仏具の一つ』で『棺に差しかけるものもいう』との意味もあり。
(ちなみに虚無僧の深編み笠も天蓋)
まだ続きます。


>文字の記録