@4年70日 午後

 寝顔というものは、いたずら心を刺激する。
 荷物を丸めて枕にしたリコルドの寝ている顔を見ながら、アズリットはそう感じた。比べるとベンチが短く見える。と云うか、はみ出ている。
 熟睡している。
 痛み止めのせいもあるだろうが、本部以外で、こんなにぐっすり寝ている彼を見るのは初めてだと思う。
 アズリットは頭の側の肘掛けにちょこんと座っている。彼女の役目は見張りだ。
 通路を挟んで反対側のベンチにイワセが、表の扉の方でナガイが、それぞれ寝ている。その他の面々はあらかた出払っているようだ。
 そして、足下の方の床に、見張りその二であるヴァーサがぺたんと座っている。
 妙な光景だ。
 男一人、女二人。女は二人とも一人の男に惚れていて、男と、女の一人はそれに気付いていない。
「先輩」
 ヴァーサが座り込んだまま口を開いた。
 アズリットはリコルドの寝顔を見ている。
「なに」
「嘘を吐くって、どんなときですか」
「嘘?」
 上目遣いでチラ見すると、ヴァーサがこちらを見ていた。
 アズリットは顔を上げた。
「あんたはどんなときだって思ってるの」
「……人を騙すとき」
 団栗色の目がまじろぎもせずに見つめてくる。
 ステンドグラスを通した曇り空からの光がその眼差しを光らせる。
 アズリットは目を細め、帽子の鍔をつまんで引き下げた。
「隠したいことがあるときよ」
 隠したいこと、とヴァーサが呟く。
 そのまま俯いて、何か考えているようだ。
「分かりました。ありがとうございました」
 しばしして礼を云われた方を見ると、若いヴァルキリーは立ち上がっていた。
「どっか行くの」
「すみません。少し、考えたいんです」
 もう一度、すみません、と小さな声で云って、裏口の方に歩いて行く。
 その背が見えなくなって、アズリットは一人になった気分で抱えた膝に突っ伏した。
 リコルドは短い会話に起きもせず眠ったままだ。
 その寝顔を、また見下ろす。
 ヴァーサの云ったのは、彼のことだろうか。
(嘘吐き)
 何が嘘だと云うのだろう。
 膝を抱えたまま、彼の言動を思い出す。
(何が嘘)
 みんなにやさしい。
 嘘なら、それが嘘なら良い気がする。
 勿論、そんなのは幻想だ。
(みんなにやさしくなきゃ先輩じゃないもの)
 でも振り向いて欲しい。自分だけを見て欲しい。
 我が侭だとは分かってる。
 それでも。
(あたしだけ見てよ)
 声に出しては云いたくないけれど、気付いて欲しい。
 矛盾だらけの気持ちでいる。
「どうして分かってくれないのかしら」
 ぽつりと呟く。
 外の空で雲が切れたようで、ステンドグラスから光が射す。
 その光を見上げる。
 高い石の壁。縦長の色ガラスが精霊の姿を描く。
 透けて零れる光もまた、様々な色をしている。
「眩しいね」
 下からぽつりと、笑みを含んだ声が聞こえた。
 その主を知るのに振り返るまでもない。
「きれいだわ」
 ステンドグラスを見上げたままアズリットは云った。
 振り向くとリコルドがこちらを見上げている。
「おはよ」
 笑顔。
 この笑顔が一番好きだ。
「アズ、寝なくて良いの?」
 夜中ヘルンと交代で張っていて、あまり寝ていない。
 そのことを云っているのだろう。
 見上げて云われ、アズリットは笑みを返した。
「見張ってないと先輩、またどっか行っちゃうもの」
「信用、ないな」
「心配なのよ」
 身を乗り出して、少し躊躇って、寝転がった額に落ち掛かった髪をのける。
「ありがと」
「怪我人はちゃんと寝てないと駄目なのよ」
「ん」
 大人しく目を細める。
 それから眠そうに視線を巡らす。
「ヴァーサは、出掛けた?」
「……考え事があるんだって」
(あの子のことよりあたしを見てよ)
「そか」
 リコルドは目をあげ、左手を伸ばしてアズリットの帽子の鍔を引いた。
「寝ても良いよ」
「そんなに寝かせたいの?」
 若い魔女は帽子の影で艶っぽく笑う。
「逃げない?」
「何処に?」
 言葉遊びになっている。

 しばし短い言葉を交わして、ふわふわとアズリットは眠りに落ちた。
 リコルドは眠った魔女越しにステンドグラスを見る。
「やっぱり、眩しい」
 目を細めて呟く。


「ちと、お主に話がある」
 教会の横手。
 一人でいたマルメットに、クルガがそう声を掛けた。
 音量は平素より抑えて、顔は笑顔だ。
「……」
 厩舎があるのか、馬か何かがいなないている。
 救難を告げに来た男は、ここの馬を使ったのだろうか。
「怒ってるんだわさ?」
 マルメットが先に口火を切る。
 今の自分は、ふてくされて最悪の顔をしていると思う。
 クルガは適当な芝生に座って、マルメットを手招きする。
「怒っておらぬよ」
「だってあたしが突っ走っちゃったせいだわさ。先輩たちが、怪我したの」
「それでピリピリしておるのか」
「だってそうなんだわさ」
 すぐ隣に立ち、若い魔女は童顔のサムライを屹と見る。
 クルガはふーっと息を吐いて、マルメットの帽子を取り上げた。
「初めは怒っておったがな」
 立てた指に帽子を乗せてくるくる回しながら、クルガはぼそりと云う。
 マルメットは俯いて体を硬くした。
 クルガは前を向いたまま。
「今は、怒っておらぬ」
 ぴたり、と帽子を止める。
「どうしてだわさ」
「お主を責めてもどうにもならぬ。むしろあっちの戦力が分かった」
 もう一度くるりと回して、俯いた頭にかぶせる。
「でも」
「あれは無事だった。お主も、もう十分に自分を責めておろう。……今の相手は魔物だ」
「……」
「共におれなくなったわけではないから、良いのだ。だが」
 倒れているのを見たときの、体の半分を奪われたような寒気。
 在り来たりな表現だが、ぞっとした。
「二度はない」
 マルメットはかぶされた帽子の鍔をあげた。芝生にぺたりと座ったサムライはやや俯いて、彼女の知らない顔をしていた。
「話って何さ」
 しばし黙ってから、マルメットは訊いた。
「あーそうだった」
 云って、いつもの顔でクルガは笑った。そして真面目な顔になって、もぞもぞと寄って来る。
「ちょっと、診て貰えぬか」
「みる?」
 マルメットは眉を寄せてクルガを見上げた。
「落とし物でも拾ったんだわさ?」
「その、見る、ではない」
 口元だけで笑う。
「フェルだと煩く云われそうなのでな」
 云いながら左の袖をまくり始める。
 マルメットは怪訝な顔でそれを見た。
「何かヘマったってこと?」
「やかましい」
 唇を尖らせて、袖をまくった腕を突き出す。
 二年前の傷がくっきりと黒ずみ、樹木の根のような痕を残している。
 マルメットは顔をしかめた。
「なんか痛そうだわさ」
「拙者もそう思う。というか痛い」
「二年前のだわさ?」
「いや、お主を突き飛ばしたとき、どこだか知らぬが打ったらしい」
「あたし?」
「うむ。だからお主に診せる」
 丸い目がひたりと見てくる。
 マルメットは黙り、突き出された腕をむんずと掴んで引き寄せた。
 古傷のある腕はやや腫れている。
「動かして痛いとこある?」
「んや、ずっと痺れてて、たまに痛くなる」
「……なんかね、この辺、石ころでも入ってるみたいになってるわさ」
 マルメットは難しい顔で傷跡の中心を押す。
 ううん、と唸ってクルガは首を傾げた。
「そこは痛くない。何か悪い兆しか?」
「んん、それは分からないわさ。フェルに訊かないと」
「あああいや、それは要らぬ。他はどうだ」
「ただの打ち身。もう腫れはひき始めてるし、冷やしておけばもっと早くひくわさ」
「分かった」
 大人しく頷き、クルガは袖を戻す。
 そして真面目な顔で。
「このことは他言無用ぞ」
「イワセ先輩にも、だわさ?」
「一番知られたくない」
 ふるふると首を横に振る。
 そして落ち込むような顔をした。
「余計な心配は掛けたくない」
「云わない方があとで怒られるわさ」
「大したことないのだから良いのだっ。まだ日暮れには時間があるゆえ」
 まずは井戸を探さねば、とクルガはばたばた駆けて行く。途中で振り返り、礼を云う!と怒鳴ってきた。
 マルメットは呆れてそれを見送る。
(あんだけデカい声出してたら、秘密も何もないわさ)
 空を仰ぐ。
 昨日の日暮れ、目が覚めて二人が倒れているのを見たとき、心底怖かった。
 暗がりで、窓の明かりだけで分かる、道に落ちた血痕。
 ナガイがひどく真剣な顔をしていて。
 クルガがとても怖い顔をしていて。
 取り返しのつかないことをしてしまったと、そう思った。
 状況がきちんと分かった後も、よほど思い詰めた顔をしていたのか、当の二人には、そこまで気に病まなくて良いという意味のことを云われた。
 それでも雲は晴れなかった。どうにかして埋め合わせをしなければと、気ばかりが逸った。
 けれど前線を外されて、どうすれば良いのか分からなくなった。
 それが。
(だから、お主に見せる)
 ひたりと視線を向けられて、吹っ切れた。
(ここで何も出来ないわけじゃないわさ)
 一つだけ、心の雲が晴れた。
 それと関係なく、一度晴れた空はまた曇ってしまっている。
(雨、降んないでよ)
 睨むように念じる。


 ガルゴスが口を聞いてくれない。
 いつもは軽く慰めてやればすぐに戻ってくる機嫌が、今回は全くもって回復の兆しを見せない。
「のう、今回ばっかは仕方ねえだろうがよう」
 大股で三歩離れて背中から、幾度となく声を掛けている。しかし若い剣闘士は、機嫌をなおすどころか、ますます頑固に黙り込むだけだ。
 ヴァルガは溜息を吐く。
 ちょっとだけリコルドの気持ちが分かる。
 ガルゴスがこんなにむくれている原因は分かり切っている。
 今回、控えに回されているせいだ。
 力自慢でプライドも高い。王都に来たばかりの頃はもっとカドが立っていて、今では随分と丸くなったのだが、性根の深いところは変わっていない。
(まあ腕っ節だけなら、そろそろおいらに追い付いてきちゃあいるんだがなあ)
 体は出来ていないし、精神面では丸っきり子供だ。ヴァルガとしてはその辺がどうにかなるまでは、一人前と認める気は毛頭ない。
「だからよう、暗がりであんまし分からんかったかも知れんがよう、フェルフェッタが云っとったろうが。ありゃあお前の手になんぞ負えねえんだよう」
 返事はない。
 若い剣闘士は背中を向け、教会前の石畳にあぐらをかいてフテている。空は曇っているが明るい。
 ヴァルガは肩を落とした。
 同い年であるアズリットが今回、前に出されているのも不機嫌の原因の一つだろう。
(だが嬢ちゃんは嬢ちゃんで、お前はお前だ)
 それを許したのはお目付役のフェルフェッタだし、団長であるナガイだ。
 自分は、フェルフェッタとは方針が違う。
 しっかり体も心も出来上がるまでは、不可抗力の乱闘になってしまう盗賊団との戦いを除けば、あまりさせたくない。その盗賊団との戦いでも、怪我などしないかと心配でならない。
 騎士団に入る限りはそれが日常で普通のこと。
 二つ下の一年先輩である魔女はそう云った。それがあくまで自分の考えだから、合わせなくて良いとも。
(まあ、影響受けなかったっちゃあ、そりゃあ嘘っぱちになるのう)
 ガルゴスももうそれなりに成長して、祝福の日も迎え、そろそろ前に出しても良いと思った。
 けれど今回、古株二人の負傷で、固めた気持ちが揺らいだ。
(出しちまったら、きっと怪我じゃ済まねえよ)
 怖かった。
 だから何を云われても出さないつもりになった。
 決意に反してガルゴスは、彼にしてはあっさり、引き下がった。
 けれど、不機嫌である。
 仕方ないとは云え、口まで利いて貰えないのは、こちらも少々落ち込む。
「教会の警護だってよう、立派な仕事だぞう」
「……」
「場合によっちゃあ、お前、こっちに魔物が来っかも知れねえんだからよう。そしたらここ守って戦うんだぞ」
 教会の方へ行かせる気はないが、万が一と云うこともある。
 率先して積極的に魔物を倒すのはスタメンの役目だが、避難してきている人たちを守るのは残った者の義務だ。
「だからよう」
 更に続けようとしたヴァルガの言葉を撥ね付けるように、ガルゴスは立ち上がってどすどすと階段を下りて行く。
 引き止めようにも言葉が思い付かない。
 姿が見えなくなって、ヴァルガは深々と溜息を吐いた。
「反抗期ね」
 声が降ってきて、見上げると、二階の窓からフェルフェッタが笑っている。
「笑い事じゃあねえ」
 上目遣いに睨む。
 フェルフェッタは笑顔を消さない。
「あたしが何か云ったげようか?」
「いらねえや。これはおいらとあいつの問題だあ」
 云うと思ったわ、と魔女は頬杖を突く。
「大変になったら泣きついても良いわよ。あたしがあの坊やのお尻を引っ叩いたげるから」
「お前さんがやったら泣いちまわあ」
 フェルフェッタは声をあげて笑い、窓から顔を引っ込めた。
 ヴァルガは鼻を鳴らし、のしのしと教会へ戻る。


 いつの間にかうたたねしてしまっていたらしい。
 ヴァーサは目を擦って、ふるふると頭を振る。
 教会裏。
 今朝、リコルドが座っていたその場所に、ヴァーサは同じ格好で座っている。
(かくしごと)
 同じように空を見上げながら、内心で独白する。
(何を隠したいの)
 分からない。
 リコルドは嘘を吐くのに慣れている。長く嘘を吐いてきた匂いがする。
 ヴァーサには別に隠したいことはない。昔のことも今のことも、別に恥じることも怖いこともない。
 だから分からない。
 そんなに長く隠すようなことが、思い当たらない。
 胡散臭いと云ってしまえばそれまでだ。
(でも、それも嫌)
 嫌えるものなら、嫌っている。でもこの気持ちは嫌いなのとも違う。
 ただ嫌いなら、他の人に教わるか、というあの申し出は嬉しかった筈だから。
 一緒にいるときはあんなにも苛々するのに。
 一緒にいるとき、あんなにドキドキする。
 目を閉じて耳を塞いで膝に突っ伏す。
 分からない。
 分からないこの気持ちがもどかしくて悔しい。
 ハッキリしないことは嫌なのに、今は自分の気持ちが一番ハッキリしない。
 更に縮こまった肩を、とん、と叩かれる。
「具合でも悪いのか」
 顔を上げた視界いっぱいにクルガのどアップがあって、ヴァーサはひいた。
「……ひかずとも良かろう」
 目の前にちょんとしゃがんで、童顔のサムライはやや憮然として頬を膨らせる。
「こんなところで小さくなっておるから、腹でも痛いのかと思ったぞ」
「痛くありません、別に」
「なら良い」
 にま、と笑い、それから少し真面目になって。
「あまりリコに心配かけるでないぞ。ああ見えてお主のこと、大層気に掛けておるゆえ」
「私のこと」
「うむ。あれはポーカーフェイスゆえ分かりづらいだろうが」
「……いつもへらへらしてばっかです」
「あれが奴のポーカーフェイスだとも。あれで何でもはぐらかすのだ」
 云いながら楽しそうだ。
「笑っておらん方が怖いぞ。説教は最高にな」
 目の色がふいと沈む。
「あと聞きたくないのは、奴の本音だな」
 ヴァーサはじっと目を見て返した。
 今朝見た、穴のような目を思い返す。
 あれは、怖かった。
 息を吐き、怖れを振り払うように拳を握る。
「先生は、何を隠してるんですか」
「拙者は知りたくない。踏み込んで無事に済むとは思えぬゆえ。……拙者は、拙者と拙者の身辺のことで精一杯だ」
 どのみち勘に過ぎぬがな、とクルガは口の端で笑う。
「にしても、お主は鋭いな。拙者が気付いたのは二十を過ぎてからだ」
「だって、分かりますよ。どうして誰も分からないんですか」
「リコは装うことに長けておるゆえ。だから、お主は勘が鋭いのだよ」
「……自信はありますけど」
「正直で宜しい」
 肩を震わせて笑いながら、クルガはぽんぽんとヴァーサの肩を叩く。
 叩かれながらヴァーサは俯く。
「私、どうすれば良いんでしょう」
「そうだな。訊けば云うかも知れぬぞ。お主にならな」
「私になら?」
「今のところ、奴の調子を狂わせられるのはお主くらいしかおらぬゆえ。狂った勢いで話すかも知れぬ」
 云って、ひょいと立ち上がる。
「ただその後のことは保証せぬぞ」
「何か、されるってことですか」
「分からぬゆえ、拙者は知りたくない。誰も覗いたことのない井戸の底に石を投げるようなものだ」
 真面目に云って、それにしても慣れぬことをしておるな、とぼそぼそ付け加える。
 ヴァーサは黙して口を結ぶ。
 穴のような眼。
 あの底を見る勇気が自分にあるだろうか。


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