@4年70日 朝

 夜が明けた。
 建物の間から白んでいく空を見ている隣で、アズリットが寝息も静かに眠っている。
 ヘルンは眠い眼を擦りながら立ち上がり、路地から少し広い通りへ出た。
 ディアレイ山の方角、曇り空が白く発光している。あの向こうに太陽があるのだろう。晴れているが、それほど明るくないのはそのせいか。
 路地に戻るとアズリットはまだ眠っている。
 どうもドキドキする。
 そんな場合ではないと云われようが、ドキドキしてしまうのはどうしようもない。
 けれど。
(随分ピリピリしていた)
 想い人の負傷のせいか。
 交代の時、なかなか眠りに就けないようでいた。
 ヘルンとしては、なんだか寂しくて、そして悔しかった。
 離れた相手を想い続ける彼女の頭に、自分のことは碌になかったろう。
(こんなすぐ隣にいるのに)
 とりあえず夜が明けて、街で仕入れた情報を信ずるなら、もう魔物は来ない筈だ。
 今日の日が暮れるまでは。
 起こそうと肩を叩いて名を呼ぶと、若い魔女はゆっくり、眩しそうに目を見開いた。
 緩い光の中でも宝石のような緑色。視線が物憂げに動く。
「魔物は?」
 もう朝で、魔物は来なかったということを云うと、大きな目を二三度しばたたいて、そう、と顔を背けた。
 去年の宴の帰りでの告白以来、態度が微妙によそよそしい。
 フェルフェッタに云われ、確かに軽率だったかも知れないとは思う。けれどヘルンにとっては一世一代とも云える行動だった。
(自分では、駄目ですか)
 幾度目かの問いを心の中で繰り返す。
 なんだか息苦しくなって、路地を出て、薄白い光の下に立つ。
 しばらくそこでぼうっとしていると、通りの向こうからポールランとエクレスが歩いて来た。
 手を振るとポールランがげそりと笑って応える。あちらも眠そうだ。
 足下までふらついているポールランに比べると、エクレスの方が割としっかりとした足取りだ。それでもやはり眠いのか、表情が落ちている。
(今夜来なくて良かった)
 それについては、ほっとした。


 肩を揺らされ、キャナルはぎょっとして目を醒ます。
 しょぼつく目を擦って顔をあげると、ナガイと目があった。
 慌ててばたばた裾を払いながら立ち上がる。顔が熱いのは血が上ったせいだろう。
(眠って……しまった)
「す、すみませんっ、申し訳ありませんっ」
 舌をもつれさせながら云って思いっきり頭を下げる。
「気にせずとも良い」
 淡々とした言葉に苦笑するような響きがあって、キャナルは顔を下方に向けたままそろりと目線をあげる。こっそり窺い見た表情はいつもの様子で変わりない。
 ちょっとだけ落胆する。
 けれどそれを表情に出さず顔を上げる。
 避難場所でもある教会。目に入るのはステンドグラスからやわらかく、光の射し込む礼拝堂。
「もう……朝ですか」
 聞くともなしに云って、その事実に恥じ入って更に頬に血が上る。
(よりにもよって、朝まで寝てしまうなんて……!)
「お主は癒しの術で尽力してくれた。眠ってしまったとて、恥じることではない。結局、魔物も来なんだ。……恐らく日暮れまでは来ないだろう。それまで皆、きちんと眠れる」
「そうですか」
 それでも眠ってしまったのが恥ずかしくて、うまく頭が回らない。
 目を伏せてもじもじしていると、ナガイが口を開いた。
「つかぬ事を訊くが」
「あ、はい、なんでしょうかっ」
「……リコルドは何処に行った」
「え」
 きょろり、と礼拝堂の中を見回す。
 壁際にベンチに、避難している人々が毛布にくるまっている。
 まだ朝も早いせいか、それとも夜に眠れなかったせいか、大半は現在夢の中のようだ。
 確かに、あの目立つ緑衣の長身は見当たらない。
 ちなみにもう一人の怪我人であるイワセは最前列のベンチで、懐かれたのか、やや不本意そうに子供を二人ほど両隣に置いてうつらうつらしている。
「戻って来てからどうも姿が見当たらぬ。どこかに紛れておるのではないかとも思ったのだが」
「いらっしゃらないんですか」
「うむ。外に出たかも知れぬゆえ、他の者に探してもらっておる」
「熱も出てらしたようですし、倒れてらっしゃらないと良いのですが」
「そうだな」
 呟くように云って、ナガイは顔を曇らせる。
 怪我と熱をおしてまで、何処へ行く必要があるのだろうか。
「拙者も探して来る。その間にフェルフェッタたちが戻って来たら、夕方までは自由にするよう伝えてくれ」
「あ、でも、あの……」
「何だ」
「私もお手伝いします」
「いや、そう時間は掛かるまい。もう見つかっておるかも知れぬゆえ」
「でも私、眠ってしまいましたし」
 しゅんとしてしまっていると、ナガイはまた、ぽんと肩を叩いた。
「お主のせいではない。ここを頼む」
 云って、床に寝ている人々の間を縫って扉の方へ向かう。
 キャナルはもう真っ赤になってしまって、頬に手をやって首を振った。
 何故か、軽く叩かれた肩が頬以上に熱く感じた。


 白綿に覆われたような空が明るんでいく。
(眩しいな)
 リコルドは寝惚けた頭で天を仰ぎ、また俯く。
(ちょっと眩しすぎるかな)
 目を閉じる。
 それでも中よりは眠れた。
 あそこは人が多過ぎる。暗い視線が多過ぎる。
 熱のせいか、不調なだけ余計に敏感になっているらしい。
 いろいろと思い出しそうになる。
 それで、中にいるのが堪えられなくなって出て来てしまった。
(ああもお、こんなんじゃ、駄目だ。大迷惑……)
 自己嫌悪に陥る。


 姿を見つけた途端、ヴァーサはぶん殴りたい衝動に駆られた。
 教会の裏口近くの緑地帯。
 柵代わりの木が風に吹かれてさわさわと鳴っている。
 奥の方には厩舎があって、中に大きな生き物の気配がする。 
 その厩舎を見渡す位置でリコルドは教会の壁にもたれ、足を投げ出して座っている。
 カッとなったその足でずかずかと、その姿に近寄る。
 足音に気付いて、頭がこちらを向いた。
「……」
 黙ってしまう。
 最後の一歩を縮められずにヴァーサも立ち止まる。
 見合って、沈黙が流れ、それからリコルドの方が淡く笑んだ。
「おはよ」
「おはようじゃありませんッ」
 笑顔に何故か怯みながら、売り言葉を買うようにヴァーサは怒鳴る。
「こっちがどんなけ心配したと思ってるんですかッ」
 いないことに気付いた瞬間、どうしようもなく不安になった。
 負傷中とかそういうのを全く考えに含めず、ただ、いないことが怖くなった。
 おかしいことだと思った。
 一緒に、目の前にいるのはこんなに苛々するのに。
 リコルドは済まなさそうにヴァーサを見上げる。
「ごめん」
「謝れば良いってもんじゃありません。なんでこんなトコにいるんですか」
「中、暑くて」
 リコルドはへろりと笑っている。
 嘘だ、と直感で思った。
「戯けないで」
 不安になっただけ、怒りが込み上げる。
 そのまま叩き付ける。
「私に嘘なんか吐かないで下さいッ。先生はいつも嘘ばっかです! 嘘吐きなんて、大嫌いですッ!」
 笑みが消える。
(え)
 濃い茶色の目がこちらを見ている。入団したその日に見たきりの目が、違う光で、覗き込んでいる。
 少し、驚いているようにも見える。
 少し、怒っているようにも見える。
 とても深い、穴のようだ。
「どうして、嘘吐いてるって、思う?」
 やや黙ったあとで、リコルドが訊いた。
 今まで見たことのない顔で。
 ヴァーサは怖くなって体を硬くする。しかし退くのは嫌である。
「勘、です」
 気勢を張って睨み付けながら答える。
 リコルドは、勘、と繰り返す。
 ヴァーサはこくりと頷いた。
 胡散臭い。
 そう感じたのは最初の日。
 不真面目だとは思った。おちゃらけているとも思った。それだけでも不信感を持ったが、原因はそれだけでない。
「勘ですけど分かります」
 何故だかは自分でも分からないけれど、昔から隠し事を見抜くのが得意だった。
「だから、私に嘘なんか吐かないで下さい」
「……」
 リコルドはじっとヴァーサを見て、それから小さく溜息を吐いた。
 凍り付いた空気が動き出す。
「そうか、バレちゃう、か」
 独白のように呟く。
「僕を避ける、理由は、それ?」
「だけじゃありません」
 とにかく会っているだけでモヤモヤする。苛々する。
 精神的にも肉体的にもおかしい感じになる。
 原因が何処にあるのかは分からない。
 ヴァーサは怒りたいような悲しいような気分になって、俯いた。
「先生が生徒に嘘吐くなんて、おかしいです」
「君には、そんなに、吐いてるつもり、ないんだけどな」
 目を細めて、笑う。
「できれば、信頼でなくて良いから、信用は、して欲しい。僕、君に教えないと、いけないから」
 ぽつぽつと区切りながら云う。
 少し息が切れている。
「先生だからですか」
 ヴァーサは顔を上げずに訊いた。
 顔を見るのが怖い。
「嘘吐きに教わるのは、嫌?」
 訊かれて、肺が潰れそうな気分になった。
 顔を上げると、リコルドが笑っている。いつもの笑顔のようで少し違う。
 消えてしまいそうだ。
「嫌なら、他の人に、教わ」
「駄目ですッ」
 反射的に叫んでいた。
 言を遮られたリコルドの目が丸くなる。
 叫んでから、ヴァーサはやたらと恥ずかしくなって顔に血を上らせた。
「べ、別に私は先生が良いんとかそういうんじゃなくて同じ弓使いだし今更他の人にって云われても困るって云うか他の人が迷惑になりますからッ」
 ノンブレス。
 ぜいぜいと息を吐くヴァーサを見て、リコルドは目をぱちぱちさせている。
「とにかく、私は先生で良いんです。余計な心配してないで教会で大人しく寝てて下さい」
 云い切る。
 リコルドは黙って驚いた顔をしたままでいて、それからやらかく笑った。
「嬉しいよ」
「笑い事じゃありませんッ」
 云いながら自分の感情が更に分からなくなっている。
 リコルドの方は余裕を取り戻して、一人で混乱を極めているヴァーサを見上げた。
「ひと段落したら、いっぺんじっくり話そう。良い?」
 ヴァーサは少しパニックを抑えて。
「今じゃ駄目なんですか」
「今は、魔物のことで、手一杯。相手が相手だから、そっちに力、注がなくちゃね」
 ヴァーサは納得して、こくりと頷く。
「……分かりました」
「じゃあ戻ろうか」
 それが元々の本題である。


 開いた窓から見える空の雲は晴れることなく、陰鬱に垂れ込めている。
 むしろどんどん厚みを増してきているようだ。
(雨にならないと良いな)
 ぼんやり窓の外を眺めながらイワセは思う。
 視界は悪くなるし、道は滑りやすくなる。土ならぬかるみもする。服も濡れて重くなり動きが阻害される。
 それに雨には、良い思い出がない。
(晴れてくれれば、夜でも星明かりで充分明るくなろうが……思い通りにいかぬのが現実か)
 窓から目を離し、教会の内部を見渡す。
 昨夜、この教会に避難してきていた人々は、自分たちの家に戻っている。今回、魔物が出るのは夜だけらしいので、せめて昼は自宅にいれば落ち着くだろうとの配慮だ。
 こちらとしても騎士団メンバーだけになって休みたいというのが本音だが。
 朝になってから戻ってきた七名を含めた騎士団員の大半は、そこここで眠りについている。
 ベンチで横を向いているイワセの背中の方では、クルガがマントを引っ被って寝ている。
 転がって肘掛けに足を乗っけているのは思いきり行儀が悪いが、今回に限っては不問である。というか自分もそうしているので文句は云えない。
(仕方あるまい。足を上にせよと云われたのだからな)
 それでも不本意である。
 通路を挟んだ反対側のベンチには強烈な眠気を伴う痛み止めをぶち込まれたリコルドが寝て、ヴァーサとアズリットの怖い目に晒されている。
(あれではな、怒られぬ方がおかしい)
 今朝のことを思い出して苦笑する。
 何処に行っていたのかは知らないが、ヴァーサに付き添われてふらふらと戻ってきた。外にいたせいで熱が上がっていて、同じ頃に帰ってきたフェルフェッタに大目玉を喰らっていた。
 こっちも熱は出ているようだが、大人しくしていたお陰でそれほどきつくはない。
 ちなみに説教を喰らわせたフェルフェッタの方は杖を握ったまま、ベンチ一つをまるごと使って寝ている。脱いだ帽子が背もたれの角に引っ掛けてある。
 そしてナガイの姿がない。
 役場の方に呼び出されているのだ。
(何がしか文句を云われておるのだろうな)
 内容は十中八九、今回、魔物を取り逃がしてしまったことについてだろう。
 街の人々の反応があれである。お偉いさんの機嫌は更に損ねていることだろう。何か良からぬことをされているわけではないだろうが、ねちねちと厭味を云われているのではないかと気を揉んでしまう。
 坊ちゃん然としたあの団長に、云い返すようなことが出来るとは思えない。
 一人で行くのはなんだからと、ついて行こうかと幾人かが名乗りをあげたのだが。
「皆、疲れているだろう。これくらい、拙者一人でも事足りる」
 自身もどう考えても徹夜明けの顔でそう云って、出掛けて行った。
(誰か弁の立つものが動ければ良かったのだが)
 思っても詮無いことを思って溜息を吐く
 それから神官のキャナルが落ち着かない様子でいるのも気に掛かる。
 気に掛かると云うか、横のあたりで立ったり座ったり落ち着かなげにウロウロされては、気にするなと云う方が無理だ。
 恐らくは一人で行ったナガイを心配してのことだろうが、それならばついて行けば良かったのにと思う。
 その旨をウロウロしている本人に云うと、ここで待てと云われましたから、と依怙地に答える。
(まるでヴィレイス先輩に待ってろと云われて待ちっぱなしの、小さい頃の団長だな)
 思いながら、小さい頃ばかりでもなかったな、とも思う。
(ナガイはうろうろとはせんかったが)
 ほつほつと思い出していると、余計にイメージがかぶる。
 あまりかぶるので、当時と同じようにひと押ししてみることにした。
「キャナル」
 名を呼ぶと、若い神官は弾かれたようにこちらを向いた。
「何でしょう」
 ぱたぱたと軽い足音で、走り寄ってくる。
「足が痛みますか? あの、熱の方ですか? お水持って来ましょうか」
「そうではなくて」
 笑いが滲まないように真面目な顔を作る。
「そろそろ団長も、あちらから解放されておるころだ。迎えに行ってはくれまいか?」
「え、私が、ですか」
「拙者では動けぬし、皆は寝ている。起こすのも忍びなかろう」
「そ、そうですけど」
「あちらできっと、こってり絞られておるだろうゆえ、自棄を起こさぬようしっかりここまで連れてきて欲しいのだ」
 キャナルは黙って目を伏せ、何やら考え込んでいる。
 もうひと押しだろうか。
「嫌なら構わぬのだが」
「いえ行きます」
 跳ねるように答えが返ってくる。
「そうか、すまない。庁舎の位置は分かるか」
「はい。行って参ります」
 云って足早に、かなり足早にキャナルは教会を出て行く。ちりちりと鈴の音が、早い足音と一緒に遠ざかる。その背中から、喜び勇んでいる様子が伺い知れる。
(やはり似ておるな)
 思って笑いそうになる。
「あれは拙者のやり口ではないか」
 斜め下から声がして、振り向いて見下ろすと眉間に皺を寄せた童顔がムスっとしていた。
「しかもお主、止めたではないか。あのときは」
「拗ねるな」
「拗ねてなどおらぬ」
 ブスっとした顔のまま、クルガはマントを頭から引っ被った。
 本人がどう云おうと、明らかに拗ねている。


「魔物を倒す騎士団と云っても、噂に聞くほどでもない、ということか」
 確か第一声はそんな感じだったと思う。
 以下延々と続く、婉曲な嫌がらせとしか思えない言葉の羅列に、ナガイは正直うんざりしていた。
 目の前の男はこの街の責任者と云わないまでも、割と上の立場の人間らしいが、名乗られた名前も肩書きも、長い説教でとっくに忘れてしまった。
 その彼が繰り返すのは、主に今回の襲撃についてだ。
 魔物を取り逃がしたこと。その際にこちらが二人の負傷者を出したこと。
 そしてその後、北の地区に走った魔物が、なんとかというお偉い人の屋敷を半壊させたこと等々。
 恐らくはこれだけ厭味を云われまくるのは最後の一つのことが原因だろうと思われるが、延々と同じ内容でつつかれ続けられるのはたまったものではない。
 ナガイとしても、端から黙り込んでいたわけではない。
 初めの二三度までは、弁明らしきものをしてみた。
 しかしどうやらこの相手はこちらの話を聞く気もないらしい。
(弁を尽くすのは無駄か)
 しばらく前にそう判断し、今はただ黙って語り終わるのを待っている。幸か不幸か、寝不足ゆえか聞き流し易い。
 だからと云って内心は全く平静ではない。
 内容の大方は騎士団に対する失望だ。
 というかほとんど侮辱。
 確かにこちらの失態でもあるが、ここまで云われる筋合いはない。
「大体あんたのような若造が率いて魔物が倒せるものなのかね? 各地で村を襲う魔物を倒してるなんて聞くがね、魔物じゃなくて山から降りてきたイノシシか何かじゃないのかね?」
 コツコツと卓上を叩きながら、役場の男は皮肉げに笑う。
 ナガイは黙って、眉間に僅かに皺を寄せる。
 単に眠くて無表情度がアップしているだけかも知れないが、この場合、感情が顔に出にくいのは吉なのか。
 そしてその表情に気付いているのかいないのか、男は言葉を続ける。
「しかもちょっと痛い目を見た程度で退くとはね。君らには根性とかいう言葉はないのかね? 挙げ句の果てにそのまま魔物を逃がしてしまっている。追い縋ってでもトドメを刺すべきではなかったのかね」
 そんな状況でなかったことは先刻説明済みだ。
 それでなお、こんなことを云われるのは、やはり話は聞いて貰えていなかったということだろう。
 苛立ちが募る。
 自制に自信がなくなってくる。
 男が嘲り顔でナガイを見る。
「第一、負傷と云ったがね。魔物が怖くて逃げ隠れしたのを隠す言い訳とかなんじゃないのかね?」
「!」
 その言葉で目が醒める。
 堪忍袋の緒が音を立てて切れた。
「そのようなことは、有り得ぬ」
 ナガイは顔をあげて云った。
 抑えているつもりが、声が震えた。
 役場の男は不愉快をあらわにした顔でじろりとナガイを見返した。
「一丁前に何か云うつもりかね」
「……ッ」
 頭が何かでいっぱいになって、きちんと言葉が出て来ない。
 衝動で飛び出しそうになるのは罵声ばかりで、それを堪えるので精一杯になる。
「何だね、マトモな口くらい利いて欲しいものだね。ここは一応は、正式な場所なのだからね、言葉遣いはきちんとして貰わなければ困るよ」
 ナガイは黙り込んで、床に視線を這わせる。
 云い返すことすらできなかった。
(腑甲斐無い)
 頭の中が今にも破裂しそうに荒れ狂っていて、けれどその感情の名前が浮かばなかった。
 こんなに無茶苦茶なのは、多分、初めてだった。


 崩れた花壇を背に、キャナルは庁舎を見上げて立っている。
 曇り空に刺さるように傾斜のきつい屋根が、上へと高く伸びている。
 ずっと見上げていると目眩がしそうだ。
 もう日は高いのに、広場の人通りは少ない。庁舎の入口の両側には門番が立っていて、正面のキャナルが気になるのか、互いに視線を交わしあっている。
 少し前には怪しまれたのか、身元を尋ねられてしまったりもした。
(来ちゃまずかったかしら)
 勇んで教会を出たものの、初めの気持ちは既にしぼみがちだ。
 到着して随分経つが、庁舎からは誰も出て来ない。
 不安ばかりが大きくなって、上着の下からお守りを引き出して両手で包んだ。
(もう、ここは出てったのかも知れないわ。道もいっぱいあるし、行き違っちゃったのかも)
「キャナル」
 耳に聞こえたのは、さほど大きい声ではなかった。
 顔をあげると、開いた庁舎の前にナガイが立っていた。
 驚いてこちらを向いた表情を見て、瞬く間に不安が氷解する。
「だ、団長!」
 二三歩進んで立ち止まる。
 ナガイはすたすたと階段を降りてきて、キャナルを見て心持ち首を傾げる。
 少し、窶れているように見える。
「あの、お迎えにあがりましたっ」
 先手を打って声をあげた。
「迎えに?」
「はいっ」
 こくりと大きく頷く。
 若いサムライは目を大きくして、じっとこちらを見ている。
 ふ、とその表情が僅かに緩む。
 泣くのじゃないかと、キャナルは思ってしまった。
「そうか」
 ぽつりと云われて緊張する。
「心配を、かけたか」
「え」
 慌ててキャナルはかぶりを振った。
「そんなことありません。私が勝手に、心配しただけです」
「……そうか」
「そうなんです」
 じっと見合って、お互い視線を逸らす。
 しばしして、ナガイが先にこちらへ向き直る。
「戻ろうか」
 キャナルはそっぽを向いて、小さく頷いた。
 火照った頬を、あまり見られたくない。


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