2年152日@2


「先生!」
 高い声が叫ぶ。
 その語尾の終わらぬうち、キャナルが鍋掴みを嵌めたまま走り寄ってきて、ぶつかる一歩前でぴしりと背をただし立ち止まった。
「心配をかけたようだな」
 多少ふらつきながら自分の足で立ったクララクルルが、済まなそうに微笑む。
「キャナルは心配性なのよ」
 厨房から顔を出してアズリットが云う。奥でマルメットのくすくす笑いと、たしなめるフェルフェッタの声が聞こえる。
 キャナルは慌てて、そんなことないです、と彼女らを振り向いた。
「私はただ、お姿が見えないのが心配で」
「ラリーがそこらで飲んでるのはいつものことよ。そんな心配することじゃないの」
 アズリットがそう云って引っ込む。
「でも、何だか心配だったんです」
 俯いて、キャナルはぽつりと云う。
 今回に関してそれは当たりだ、とリコルドは思った。あの状況であのままあんなところで飲み続けては、さすがの酒豪の聖騎士でも無事では済まなかったろう。こういうのを、虫の報せ、と云うのかも知れない。
 クララクルルは神官の少女を安心させるように微笑む。
「今回のことは済まなかった。が、毎度泣くほど心配されては、こちらも身がもたないぞ」
 はっとして、キャナルは涙目を拭った。
「すみません」
「謝ることではないがな。もっと気を楽に持て」
「はい」
 ちょこんと真面目な顔で頷く。
 聖騎士は頷き返して、その手の鍋掴みを見てにっこりした。
「今日の夕食はキャナルが作るのか?」
「あ、はい。未熟ながら、一品を担当させていただきます」
「そんなに固くなるなと云うのに。では楽しみにしていよう」
「ありがとうございます」
 キャナルは嬉しそうに笑んだ。
「あと半時間ほどで出来上がりますので、あと少々お待ち下さい」
「分かった。私は部屋にいるよ」
 はい、と答えて、キャナルは厨房へと戻っていった。途中、あっと足を止めて振り返り、リコルドに頭を下げて礼を云う。リコルドはにっこり笑って、どういたしまして、と返した。
 キャナルが厨房へ戻ってから、クララクルルは少しだけ年嵩のアーチャーを見た。
「私も礼を云うべきだな。ここに連れ戻してくれたことに」
「いいよ別に。云ったでしょ。もしかしたら立場は逆だったかも知れない」
「それでも今回、礼を云うべきは私の方だ」
「気持ちだけ貰っとくよ」
 尚も何か云おうとするのを笑顔で封じ、リコルドはくるりと踵を返す。
 クララクルルは黙って一つ、溜息だけを吐いた。


 賑やかな声が聞こえる。
 誰の声だろうか。
 力なくベッドにもたれかかったナガイには、それを考える気が涌かなかった。
「待ってくれよォ、おっさんよォ」
 どたどたという足音と共に、窓の下を通っていく声。
(ガルゴスか)
 名前は浮かんだものの発展は無い。
「お前、おっさんおっさんて、何度云やあ分かるんだあ」
 返事はぶすっとした野太い声。凄みよりものんびりさが強調されている。
(ヴァルガ)
 名前だけが打てば響くように浮かんで消える。
「だってよォ、コレが一番呼び良いんだもんよォ」
「だってもさってもねえ。ほれ、何て呼べっつった?」
「……ししょー」
 ナガイは我知らずびくりとした。
 寒いわけではないのに、身体が痙攣するように震える。
(やめてくれ)
「ちゃんとそう呼んでもらわなきゃあなあ。分かってるか、お前、おいらに教わってんだぞ?」
「そうだけどよォ、あんまし強くなった気とかしねェし」
「バカヤロウ。お前みたいなひよっこが、ちょっとやそっとで強くなれるわきゃあないだろうが」
 ナガイは耳を塞いだ。
 けれど剣闘士たちの大声は容赦なく鼓膜を震わせる。
「だけどよォ、ちゃんと鉄球回しだって、ノルマの千回できるようになったしよォ」
「ガルゴスよお、たかが千回で一人前と思っちゃなんねえぞ。立派な剣闘士ならその十倍くらいは楽に回せなきゃあな」
「十倍!?」
「おお、そうだぞ。だからお前もまだまだ修行が足りねえんだ」
 がたん、と寝台の足にぶつかりながらナガイは後ずさった。その音はヴァルガのげらげら笑いが軽く掻き消す。
「十倍なんか無理だぞ、ししょおー」
 両手できつく耳を塞いだまま壁まで退く。
 そして魚が網からもがき逃れるように部屋を出て扉を閉める。
「ししょおー」
 ドアを閉め切ったナガイの耳の中で、残響が幾重にもこだまする。
「……っ」
 振り払うようにぶんと首を振って、ナガイはふらふらと外へ出た。
 偶然か、誰にも見咎められることはなかった。
 そのまま定まらぬ足取りで門を出て、夕暮れの街を歩いていく。
 とにかく遠ざかることだけを考えていた。


 食堂を通り抜けた先のドアは裏口で、出ればそのまま裏庭である。
 ささやかな菜園とニワトリ小屋、外との境はリコルドの胸ほどまである石垣だ。出て右手の方に古びた木戸があり、そこを抜ければ裏の丘に出られる。
 意外と傾斜のあるその丘は、正式には騎士団のものではない。丘を取り巻く森に関しても同様で、こちらは広さの見当もつかない樹海である。王都の周囲はゼレスから取り寄せた石を使ってあるらしい堅牢な壁だが、森はそこまで続いていて、外と繋がっているとも云われている。
 丘の上からの景色は素晴らしいが森の中は昼でも薄暗く、とても都の中とは思えない。どうやら、出る、という噂もあるようだ。しかしそんな噂も騎士団員たちには何処吹く風で、その辺り一帯を稽古場やら修行場として使っている。
 お化けの噂のせいか、それとも入り浸る騎士団の団員らと関わりたくないのか、丘にも森にも、王都の人々は殆ど立ち入っては来ない。
 リコルドが裏口から外へ出ると、ちょうど丘を下ってくるサムライコンビが見えた。
 向こうもこちらに気付いたらしく、クルガの方がひょいと片手を挙げてみせた。理由は分からないがすっきろとした顔である。
「酒場でフテてたんじゃなかったの?」
 声を大にして突っ込んでやる。
 童顔のサムライは一瞬顔を引きつらせて、何やら口の中でもごもご弁解した。
「皮肉か、それは」
 大声を出さずとも声の届く範囲に来てから、イワセがそう云って苦笑する。リコルドはにっこり笑って、半分ね、と答えた。
「その様子だと、ちゃんと元気になったみたいだし」
「元気にならぬと夜明けまでこいつの説教漬けになりそうだったのでな」
 クルガがそっぽを向いて云った。左腕はもう吊ってはいないものの、まだ包帯が取れない。
「それにしては嬉しそうだったじゃないの。もしかして、迎えに来て欲しかったのかな?」
「違う!」
 でかい声が返って来る。隣のイワセが咄嗟に耳を塞いだ。
「拙者は嬉しいのは別のことだ」
 云ってクルガは腕を組もうとして、ぐるぐる巻きの左腕でそれが叶わずまただらりと垂らす。
 リコルドは首を傾げた。
「何?」
「芽が出ておったのだ」
 むすっとしたクルガの代わりに、イワセが頬を綻ばしながら答える。頷いたクルガが、後ろ、丘の上の方を振り向いた。
「ヴィレイスだろう、あそこにあんなものを植えたのは」
「ああ……」
 リコルドは頷いた。
「やっと出たんだ。クルガよく分かったね」
 そう笑うと、云われた当人は更にむすっとした顔になる。
「……常々云っておったからな。あそこに木陰があれば最高だとか」
「あー、そんなこと云ってたっけ」
「しかもあれは『導の木』だろう。奴らしすぎて泣けてくる」
 実際泣いたらしいのは少し赤いその目元で察して、リコルドはただ、そうだね、と笑った。イワセも珍しく茶々を入れない。
 そんな三人のところまで、厨房からふんわりと良い匂いがただよって来る。
 くん、と鼻を鳴らしてクルガが笑み崩れた。
「今夜はもしかして肉か」
「うん、ヴァルガがバッチリ捕まえたからね」
「ああ、そうだな」
 イワセが思い出してにやりと笑う。クルガだけがよく分からない、という顔をして首を傾げる。
「まあ小ネタだから気にしないで。あとちょっとで出来るっていうから、もう行ってたら?」
「うむ、皿並べくらいなら手伝えるか。誰が作ってるのだ?」
「魔女っ子トリオとキャナルだよ」
 おお、とクルガは嬉しげにイワセを振り向く。
「期待大だな」
「単純な奴」
 苦笑を返される。
「何を云う。料理に期待できるのなら準備にも力が入ろうというものだ」
「……お主は……ガルゴスと語り合っておれ」
「お主こそつまらん奴だぞ。美味い飯くらい楽しみにしろ」
 云ってまた腕を組もうとして失敗し、不便だ、と口の中で呟く。
 リコルドは楽しげにそれを見る。
「じゃあ僕、団長呼んで来るから」
 ぴん、とクルガが片眉をあげる。
「団長か……大丈夫か?」
「君の腕よりはね。それ早く治しなよ」
「拙者だって早く治りたいわ」
「なら無理は厳禁。動かなくなっても知らないよ」
 渋い顔になったクルガを後ろに置いて、リコルドは裏口から中に入った。
 本人は「大袈裟だ」と愚痴っているがそれなりに重傷だったらしい。骨は折れていないものの上腕を貫かれ、傷は塞がったとはいえまだ痛む筈である。
 ああでもしておかないと無理をしているという自覚無しで無理するのは間違いない、とはフェルフェッタの弁だ。遠征中に腕を吊っていたのはどちらかというと、その無理をさせないためだとも。
 それすら帰ってからは勝手に取り払ってしまっている訳で、イワセが知ったらそれこそ夜明けまで説教に漬けられることだろう。


 空っぽの部屋は空気が冷たく感じる。
 開け放した窓からは赤味の強い光が射し込む。直接の光ではない。照り返しだ。
 その弱い光が、誰もいない部屋を照らす。
 少し皺の寄ったシーツと、投げ出されたままの荷物。
 ただ厠に立ったとか、そんな生易しい状況ではない。
 置き忘れたのか、置いて行ったのか、ごろりと転がった黒鞘の刀を拾い上げ、リコルドは苦い顔をした。自分へ向けた思いつく限りの罵声が、胸の中に浮かんでは消える。
「馬鹿野郎」
 口に出してはそれだけを苛立ちを込めて呟き、踵を返す。
(早く見つけた方が良い)
 漠然とそう思う。
 足早に一度食堂に顔を出し、そこにいたサムライコンビと剣闘士師弟に「少し遅くなる」と云い置いて本部を出た。
 胸の内に何やら黒いものが滲むのを感じた。


 何も考えずに歩くと、どうやら歩き慣れた道を歩いてしまうものらしい。
 それでも本部から離れよう離れようと思っていると、それはそれでしっかり反映されるようで。
 気が付けば、ナガイは森の中にいた。
 いつも遠征前に立ち寄る、王都の外れの森。
 普段はここで皆から一人離れて、女神に遠征に行くことを告げる。何故わざわざそんなことをしなければならないのか分からないが、自称女神はそうして欲しいらしい。別に苦ではないし、普段こちらに関わって来ようとしない女神の唯一の要求でもあったので、諾々として従っているまでだ。
「何をしているのです、ナガイ・コーレン」
 そんなことを思っていると、凛とした声が降って来た。どうやらちょうど、その自称女神に見つかってしまったらしい。
 顔をあげると、木々の切れた小さな広場に女神が立っていた。
 夕陽を浴びた栗色の髪の美女は、いつものように威厳をたたえた無表情でこちらを見下ろしている。彼女はナガイよりも上背がある。
「遠征に出るのですか?」
 女神は言葉を続ける。確かにこの森へ来るのはそのときくらいしかない。
 ナガイは声を出すのも億劫で、ただ首を横に振る。
 すると女神の口調がきつくなった。
「魔物の脅威は世界にあふれています。あなたはまだ、私の言葉を信じていないのですね?」
 ナガイは苛々とかぶりを振る。
「そういう訳ではない」
「では何だというのです」
 女神が切り返す。
 ナガイは視線を落とした。
 自分の気持ちは漠然としすぎて、うまく言葉にならない。俯いたまま、黙り込む。
「ただ……一人でいたいだけだ」
 ようやくぼそりと、それだけを云う。
 分からない、といった表情で女神はナガイを見据えた。
「時間は限られています。こんなところで無為に過ごしている場合ではありません」
「今は一人でいたいのだ。それくらいの時間はあろう」
「ナガイ・コーレン、あなたは分かっていないようですね。最初の災いまで二十年を切っているのですよ」
「二十年などまだ先のことではないか。それでも急げと云うのか……一人で、思い出す時間さえないというのか」
「人の時間ではそうだとしても、世界にとってはすぐのことです。云ったでしょう? これは世界の危機なのですよ。それに一体、何を思い出すというのですか。世界の危機と比べられるものだとでも?」
「……拙者にとっては」
 途中から言葉にならず、ナガイは息を詰まらせた。
 呼吸を整え、残りを絞り出す。
「拙者にとっては、世界がなくなったようなものだ」
 熱いものが込み上げてこぼれそうになるのを堪え、ナガイは女神を睨み付けた。表情の読めない女神はただ片眉をあげた。
「あの魔騎士ですか?」
 女神の言葉に、我知らず息を呑んだ。
 その様子を気にも止めず、女神は更に言葉を続ける。
「どのような関係かは知りませんが、死んだものはどうにもなりません。分からない訳では無いでしょう? 過ぎたことを思い返すより、先に目を向けなさい。災いは待ってはくれません。立場をわきまえなさい。世界を危機から救えるのは、あなたの率いる騎士団だけなのです。まずは」
「煩い!」
 女神の声を掻き消すように、ナガイは声を張り上げた。
 顔をまともに見返す。
 言葉を叩き付ける。
「世界の危機世界の危機と、魔物など今まで幾らでも現れていたではないか! 二十年後だろうと百年後だろうと同じこと……拙者には遠すぎる。そんな予想もつかぬ未来のことで、今、一人で考えることもできぬと云うのなら、拙者は、団長でなどありたくない!!」
 勢いのままに言葉を吐き出して、若いサムライは大きく息を吐いた。
 女神は沈黙している。
 言葉も無くこちらを凝視している。表情の意味するところが分からない。
 何故かその顔を見続けられず、息を整えて俯く。
「それとも女神には、分からぬことか」
 云い捨て、ナガイは女神の横を通り抜けた。
 女神は何も云わなかった。


 森の中は薄暗かった。
 日暮れ近く、視界は極端に悪い。
 背後に気配を感じて、苛々とナガイは声を荒げる。
「罷免したくばするがよかろう! 拙者、戻る気はない! 他に誰か探して百年間戦わすが良い!!」
 返事はなく声は木々に吸われて、しいんと沈黙ばかりが残る。
「誰が君を外すの?」
 ナガイはぎょっとして立ち止まった。
 振り向くと木陰に、長身の姿が佇んでいた。暗がりで表情は読めない。
 けれどその声色で、怒っていると知れた。
「何も云わずに出て行って、まさかこんなとこにいるとは思わなかったよ。まだ誰にも云ってないけどさ、どんだけ心配すると思ったかな」
 ナガイは体を強張らせた。肌がぴりぴりとする。
「あそこには、いたくないのだ」
 云いながら、リコルドの目を見られず顔を背ける。女神の顔を見られなかったのとは、違う理由だ。
 怒鳴り付けた感情の昂りが過ぎてから、脱力したまま力が入らない。
「何を見ても思い出すのだ。忘れようとも出来ぬ」
「同じことを云う」
 ぽつりと呟いた。ナガイは何も返さない。
「このまま戻らないつもり?」
「……今は戻りたくないのだ。何故放っておいてくれぬ」
 云って背を向けた。
 森の暗がりを見るともなしに見る。
「それに戻っても……もう居らぬ」
 背後で弓使いが溜息を吐くのが聞こえた。
「それで戻らないつもりなの」
「今は、戻りたくないだけだ」
「そう云ってるうちに、そのうち戻れなくなる」
「……」
「団長であることは、重荷?」
 リコルドが訊く。
 ナガイは俯いた。
「やめたい?」
 リコルドが訊く。
 深く息を吐いてナガイは答える。半ば独白に近い。
「やめられるものならば」
 しばし沈黙の後、リコルドは口を開いた。
「僕は、やめさせる気はないよ」
 ナガイはのろのろとその顔を見る。暗がりに慣れてきた目に、思いのほか静かな表情が映る。
「やめてどうするつもり? 今の君じゃあ、落ちてくとこまで落ちてくだけだ」
「そんなこと、どうして分かる」
「誰でも分かると思うよ。自分で分からないかな。君はまだ全然若いし、しかも王都育ちのお坊っちゃんだ。外で、一人で何とかなると思ってる? 確かに今の君じゃ、聖ベリアス樹海で野垂れ死ぬか、スクーレ辺りで騙された挙げ句、身ぐるみ剥がれたりとかしてどっちみち死ぬだろうね」
 早口でまくしたてるリコルドの表情が歪む。自嘲気味の笑みを浮かべる。
「僕は、期待しすぎた。今は泣いてても、自分で立ち直ってくれる。泣き終わったなら戻ってきてくれるって思ってた……勝手だね」
 ナガイは息を止めるように黙り込んだ。血が上って顔が熱くなるのを感じる。
 それを弓使いが温度を抑えた目で見る。
 ざあっと風が吹いて、上の方の枝葉を揺らす。
 垣間見える空はもう随分と暗い。
「僕と一緒に当番した夜、覚えてる?」
 長いこと黙りこくった後、リコルドがぽつりと云った。
 ナガイはこくりと頷いた。
「君は云ったね。ヴィレイスがいなくなるまでに、立派な団長になるって」
「云った……しかし」
 思い出して、冷えていた一部が熱くなる。
「こんなに早くとは」
「それは僕だって思うこと。僕も……思っていることだよ」
 硬い声。
 ナガイはぼんやりと顔をあげた。
 年嵩のアーチャーの、微かに強張った自嘲の笑顔。
 そうだ、彼らは古株だ。今いる団員で一番早くから騎士団にいて、ずっと共に戦ってきた、二人だ。
「君の云ったことは、あいつがいなくちゃ出来ないこと?」
 心なしか震えているような声。
 己の云ったこと。
 立派な団長になること。
「……拙者は」
 喉がからからで、うまく声が出せない。
「拙者に、できるだろうか」
「そんなこと僕に訊かないで……それはナガイが成すこと。僕らは側にいるけど、手助けしか出来ない」
 薄い木漏れ日の中、下生えを掻き分けるようにリコルドが進み出る。
 黙って体を強張らすナガイに、彼は手に持ったものを差し出した。
 黒鞘の刀。
 日々手入れを怠らず、実戦に使って日も浅いせいか、傷一つなく磨きあげられた愛刀だ。
「これは君に必要なもの。トロント騎士団にとっても、ナガイ・コーレン、団長である君が必要だ。戻ってきて欲しい」
 ナガイはリコルドを見上げ、じっと刀を見た。そしてそっと手を出す。
 刀を受け取ると、弓使いは少し笑って、ありがとう、と云った。
 サムライは笑み返すことが出来なかった。


 すっかり暗くなった空の下、森の中、二人で歩く。
 歩調は同じ。リコルドが合わせてくれている。
「ヴィレイスは君のこと話すときね、いつも嬉しそうだった」
 思い出す目をしながらリコルドが云う。
 話題は専ら亡き魔騎士のことで、ナガイはほとんど聞き役だった。会ったばかりの頃など自分はまだ幼かったし、初耳のことが多かった。
「意外と最初はおっかなびっくりでね。始めて手合わせする日なんか真面目な顔して『自分の力では壊してしまうのではないか』なんて云っててさ」
「加減が出来なくてケガさせちゃった日なんか、もうずーっと落ち込んじゃって。慰めるのにひと苦労」
「君が団長になった日とか、本当に良い弟子を持ったって、そればっかり云ってたよ」
 もしかしたら彼も、誰かに話したかったのかも知れない。
 本部につくまで、ずっと話していた。


2年153日@終

 雲の多い空を見上げながら、ナガイは丘を上る。
 ゆっくりした歩調で草を踏んで。
 頂上につくと相変わらずの良い景色で、遠くまで続く街並に広く雲の影が落ちている。
 足下を見ると、ふつりと開いた双葉があった。葉は北の方向が目のさめるような青い色をしていて「導の木」というものだと弓使いに聞いた。行商の者も、冒険者も、道の脇に植えられたり、荒野のど真ん中に自生したこの木で方角を知る。特に山道に多く植えられると聞く。生命力が強く、なかなか芽を出さない代わりに、生えたなら枯れることは滅多にない。
「願掛けのつもりだろうね」
 リコルドはそう云った。
 誰のためとは云わなかったが、恐らく自分のためであろうということは、ナガイにも分かった。
 導の木は、名前の通りの道しるべ。芽生えてのち、長く続くようにとの願いを込めて。
 草の中、背筋を伸ばしたように生える双葉の傍に膝をついて、軽く頭を下げる。
「去って二度と会えぬわけではない、と云ったな、ヴィレイス」
 語りかけるように呟く。周りには誰もいない。
 これを聞いたのは遠征前、退団の話のときだったか。
「……逝ってしまっては、会えぬではないか」
 当然のことながら、返事はない。あるとしたら一体どんな顔をしてだろうか。
「明後日にはまた、遠征に出る。リーヴェ修道院とゴルドアに魔物が出たそうだ。キーディスを越えることになりそうだ。あちらの方は初めてゆえ、少し緊張している」
 キーディス越えは過酷だという。非常食の用意と防寒具の準備は万全にしておくべし、とフェルフェッタやリコルドや、山越え経験のある先輩たちから口を酸っぱくして云われた。
 募集の人員には今のところフェルフェッタ曰くの「良さげ」な人員は来ていない。流石にまだナガイ一人での人選は難しい。
 今回の遠征は十三名のままで行くことになりそうだ。
 昨夜の夕食に遅れて、ナガイとリコルドはクララクルルとキャナルを除く全員からブーイングを喰らった。事情は説明せずにただ平謝りに謝ってその場はなんとか収めたが、イワセとフェルフェッタがどうも腑に落ちないといった顔をしていた。あとで何かしらの追求を覚悟しておくべきだろう。
 朝はいつものように早く起きて、まず女神に謝りに行った。
「昨夜は暴言が過ぎた」
 と頭を下げると、女神はいつも通りの澄まし顔で。
「何よりです」
 とだけ云った。
 少なくとも他を探しに行くという気ではないようだった。


 リコルドは丘の上に見える人影を見て、少しほっとした気分になる。
 団に必要だからこそ戻ってきて欲しいとナガイには云ったわけだが、多分本心は違うところにある。
 ただ自分は、ヴィレイスの望むことをなぞっているだけなのだ。行って欲しくない方向を予想して、そっちの道を塞ごうとしているだけ。代理人のつもりか。
(こんな僕は一体、何バカなんだろうね)
 問う相手も定まらぬまま内心で呟く。
 けれどナガイが戻ってきてくれたことは、嬉しかったのだ。
 元の通りにはなっていなくとも、それほどまでに立ち直るには時間がかかるとしても、今は戻ってきてくれただけで嬉しい。
 そう、立ち直るのはゆっくりやっていけば良い。
 少なくとも彼はもう、上り階段の前に来ているのだから。
(ホント、君の弟子は優秀だよ)
 自分が向こうに行くときには土産話をどっさり持って行けそうだと、リコルドは頬を緩めた。






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ナガイの立ち直り話もとい、リコルド奔走話。
でも実は、ちゃんと立ち直ってない。

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