@3@

 天気は再び、朝から濃霧である。
 道を歩いている筈なのに、五本先の木はもう殆ど見えない。見上げれば何とか、太陽の形が白い皿のように見える。
「もう霧は飽きたぜェ」
 ガルゴスがうんざりしたように云う。
「泣き言云うなよお。メゾン湿原に出るまでの辛抱だからなあ」
「と云っても、湿原は湿原で嫌ですけどね」
 ヘルンが苦笑する。
 聞こえていたらしき後ろの魔女たちが、そーよねぇー、と口を揃えた。
 行きも帰りも湿原と霧の森で、たっぷりの湿度はもう飽き飽きである。遠征には慣れているはずの先輩たちも苦笑を隠し切れずにいる。
 ナガイもつい溜息を吐いた。
 流石にこんなのが続くと気が滅入ってくる。


 腕の痛みが引かない。痺れも消えない。
 知らず、クルガはそっと左の腕に触れた。肩から肘の先まで含めて響くように痛む上、感覚が布を一枚隔てたように鈍い。
 こっそり一昨日の夜に見たところ、上腕がどす黒い痣になっていた。
 原因として思い当たるのは一つしかない。
 巨人の一撃。
 変な受け方をしてしまった。あれからずっとだ。
(王都に戻る頃には、治っておるだろう)
 攻撃を受ければ身体は痛むもの。むしろあれだけの一撃を受けて、腕一本の痛みで済んでいるのだから幸運と云うべきだ。近頃めきめきと実力をつけてきたマルメットの補助魔法は強力で、あれがなければ腕どころか、自分の命はなかったろう。
 そう思い込ませようとしても痛いものは痛いし、痺れは消えてもくれない。
 だがこれしき我慢できぬようでは情けない。歯を食いしばって堪える程の強さでは無いし、立ち止まって蹲るようなものでも無い。
 ただ元来それほど器用でもなく、周りに気取られぬように我慢するのに精一杯で、他のことがおざなりになっているだけで。
「……と、拙者思うのだが……クルガ?」
 イワセに話を振られて、クルガははっとしてそちらを見た。
 聞いていなかった。
 反応できずにいるクルガに、イワセは怪訝そうに眉を寄せる。
「どうしたのだ。お主、ここしばらくおかしいぞ」
 思いっきり気取られている。
「もしや、アゼルでのことをまだ気にしているのか? あまり気に病むなよ。確かにお主はぼけっとしておったし、それは気にした方が良いと思うが、気にするがゆえに更にぼけっとなるようでは、本末転倒だ」
「ぼ、ぼけぼけ云うな。気にしてなどおらんぞ」
 どうやら違う方にとられているようだ。
 都合が良いのでそのままにしておくことにする。
「気にしておるだろうが。ほらすぐ顔に出て」
「だっから、気にしてなど、お・ら・ぬ!」
「しかし」
 続けようとした言葉は、不意の空気の変化で断たれた。
 重いような、色で例えるならどす黒い。
 首の後ろがちりっとする感じ。
「気を付けて」
 しんがりのリコルドが声をあげる。
「誘惑者だ」
 慣れた様子でヴァルガとフェルフェッタが身を沈め、若い者が続くように小さくなる。聖騎士のクララクルルは新人のキャナルを庇うように、体の影に隠す。
 霧の森の中、前方に固まる沢山の気配。
 視界の悪さで昨年を思い出し、クルガは嫌な感じになる。
「皆、あまり離れるな」
 同じことを思ったか、ヴィレイスが云う。
 この視界の悪さで互いを見失うことは同士討ちの恐れが増えるし、互いのフォローもしづらくなる。
 クルガも一旦痛みと痺れを忘れ、いつでも抜けるようにと刀の柄に手をやった。


 合図もなく戦いは始まる。
 それが誘惑者との戦闘だ。
 霧の中から雨のように矢が降り注ぐ。騎士たちが盾を掲げてそれを弾く。魔女たちの呪文が入り乱れ障壁を張り、新人キャナルのたどたどしい祈りの声がそれに混ざる。宙に青く光る力の壁が、降り注ぐ矢を焼き落とす。幾本かがそれを貫いて飛んでくる。
 防壁を貫いてきた矢を刀の鞘で弾きながら、ナガイは顔をしかめる。
 どう切り抜ければ良いか。
 そう考えていると、隣のヴァルガが、団長、と低い声で脇を示した。
「弓使いばっかだ。懐ろに入っちまえば脆いで、横から」
 ナガイは左右に目を走らせ頷く。
「ヴァルガ、何人か連れて左。ヘルンは右。人選は任せる」
「団長は?」
「拙者は残る。こちらに目を向けさせるが策として得だろう」
「そうですが」
「じゃあ何人か残してくでのう。こっちゃ任せたぞう」
 ナガイは黙って頷いた。
「めくらましを合図に、こちらからも行く」


 魔騎士は雨を感じない。
 強くあるためのこの鎧は、風を遮断し、雨を通さない。ただ感覚だけは研ぎ澄まされて、風や気配や様々なことを鋭敏に感じ取る。
 今感じているのは多くの気配。敵意のない殺意。人が放つにはあまりにも虚ろな。
 矢の雨を避けて回り込んだ森の中。二手に別れる戦法はヴァルガの提案で、それを三手にしたのはナガイのアレンジだと云う。
(頭を使っている)
 霧の中の作戦として最上策とは云えないが、霧で相手が見えにくいという状況を利用しているとも云える。生真面目で努力に労を惜しまない、ついこの間まで小さいばかりと思っていた教え子の姿を瞼に描いて、ヴィレイスは兜の中で少し嬉しい顔になる。
 平行して、あとどれくらい、と教えること、教えられそうなことの数と、残り時間を考えている自分に気付いて苦笑する。
(と、いかん)
 危うく気が散るところであった。これでは先の戦闘中に呆けていたクルガのことは云えない。まばたき一つして、意識を集中する。
 虚ろな気配は計七つ。こちらの方が数では勝るが、先程の矢の掃射で戦力は落ちている。少なからず負傷者も出ているのが現状だ。全く侮れない。
 気付かぬうちに畳み掛けるが得策である。
 前方の木にぴたりと身を寄せていたイワセが、タイミングを計ってめくらましを投げた。
 目を閉じた直後に瞼の向こうで閃光がはじける。
 それに乗じ、一丸となって突入する。


 前に現れた長身を、目を見た刹那に斬り払う。澱んだ目に似合わぬ動きで、相手は抜いたナイフでそれを弾いた。
 弾かれた反動でイワセは体を捻り、蹴りを叩き込む。
 ふらりと弓使いの体が傾ぐ。
 こちらを見た相手の頸へ、今度こそ間違いなく刃を突き立てる。同時に突き出されたあちらのナイフを避けるが、切っ先が届いて肩を裂く。ずるりと力が抜けていく相手から刀を抜くと、空気と鮮血が混じりながら飛び散った。
 ほ、と息を吐いてイワセは刀を振る。意識はもう斃れた相手には無い。
 黙祷も鎮魂も後回しだ。
 別方向から来たクルガが通り過ぎざまに笑みをよこす。まだ生きてるか、と幼さを多分に残した目が云っている。イワセは片眉をあげて返す。そっちこそ。
 霧と森の中、結局乱闘状態で、お互い離れずにいることが難しい。
 相手の数はこちらより少ない代わりに、強い。
 新人たちが心配だ。
 剣戟の音。戦いの音。悲鳴、怒号、雄叫び。
 そのどれもが誰のものともつかぬまま、混戦状態は続いている。


 閃光を合図にヴァルガは駆け出した。
 斜め後ろにガルゴスとヘルン。足下には乱戦状態を心得た魔女のコンビが、邪魔にならぬよう付かず離れずの距離を行く。
 得意の鉄球を振り回し、目の前に現れた戦士を当たるを幸い薙ぎ倒す。
 しかし相手も、打たれ強いと名高い戦士。兜の下から流れる血に顔面を染めながら大剣を振りかぶる。アズリットとマルメットがぱっと左右に散った。代わりにガルゴスとヘルンが前に出る。
「おおうっ」
 吼えて振り下ろされた巨大な鉄の塊を、ぴんと張った鉄球の鎖で受けて絡め取る。そのまま引いて剣をもぎ取ろうとする。取られまいと戦士は踏ん張りぐいと引く。力比べの状態。
 横から雄叫びをあげながらガルゴスが突っ込んでくる。
 振り回した鉄球が戦士の腹を直撃する。堅い鎧に鉄の塊がめり込む。
 同時にびゅんと空気を鳴らして矢が飛んだ。
 見るとこちらへ狙いを定めたヴァルキリ−が、霧の中で目を鋭くしている。
 その横に。
 温度のない目をした黄色い服の魔物が一匹。
 誘惑者バムレック。
 全員の意識がそちらに向いたそのとき、戦士が渾身の力で剣を振った。
 絡めていた鎖がほどけ、鉄の塊が真横に動く。
 咄嗟に身を沈めたヘルンの頭にそれが当たって、兜がごうんと吹き飛んだ。
 名を呼んで魔女たちが走り寄る。
 雄叫びをあげてヴァルガは鉄球を叩き付けた。胸板を割られた戦士は今度こそ地面に倒れ伏す。
「おいっ、生きてるかあッ」
 倒れたヘルンの右手が上がった。動くんじゃないわよ、とアズリットの叱咤が飛ぶ。ヴァルガの隣ではガルゴスが青い顔をしている。
 騎士のことを魔女たちに任せて視線を戻すと、ヴァルキリーとバムレックの姿はもうなかった。


 合流してすぐにクララクルルが薬箱を任された。キャナルがおどおどしながらその手伝いに回る。
「頭だから、あまり動かすな」
 云いながらテキパキと薬草を取り出す。
 アズリットとマルメットが心配な表情を残して杖を取る。
「死ぬんじゃないわよ」
 しっかりと化粧を怠らない顔をぎゅっと緊張させて、アズリットが云う。
 血に塞がれていない左目だけで、ヘルンは笑んでよこし、すぐに痛みで顔を歪める。
 行くよ、とマルメットに促されてアズリットも駆け出した。
 手当てでなくやることがまだ残っている。


 草の中に倒れた体を踏みそうになって足を止めた。
 ナガイはぎょっとしてその顔を確認し、見覚えの無いことを確認してほっとする。
 閃光を合図に飛び込んで、盗賊団の騎士を一人、リコルドと倒した。
 そのリコルドは隣にいて、霧の中を透かしている。矢はすぐ放てるように弓につがえられている。
 戦闘の音が疎らだ。時間的にも、場所的にも。
 けれどまだ終わっていないということは。
「誘惑者はまだ倒してないみたいだね」
 同じことを考えていたのか、リコルドが云う。
 ナガイは反対側を警戒しながら頷いた。
 木々の間に動く影を見逃さないように。
 少し行くと大きな木の陰に、数人が固まっている。
「ラリー?」
 リコルドが呼び掛けると、羽飾りのついた兜が揺れた。
「リコルドか」
「何かあった?」
「ヘルンがやられた。安心しろ、死んではいない」
 後半の言葉は主にナガイに向けられる。
 近付くと、いつでも抜けるように剣の柄に手をやった聖騎士と、教典を胸に抱いた若い神官がこちらを見る。その足下、木の根を枕にするようにヘルンが横になっている。頭をぐるぐる巻きにした包帯に血が滲んでいた。
「済みません、避け損ないました」
 申し訳なさそうに若い騎士が云う。
「いや……気にするな」
 言葉が思い付かず云い淀んだナガイに代わって、リコルドが笑顔を向ける。
「何も心配しないで寝てればいいの。それをさっさと治すのが今の君の役目だよ」
「……はい。済みません」
「だから謝らないの」
 云われてヘルンは曖昧な笑顔を浮かべる。


「ヘルンが」
 マルメットから聞いてフェルフェッタは顔を曇らせた。
 クルガもイワセもポールランも、顔をしかめている。ガルゴスは俯いて、ヴァルガはどこか苛立った顔だ。ヴィレイスの表情は窺えないが、浮かない顔だろう。
 後輩である二人の魔女たち、特にアズリットは心配の表情を隠し切れずにいる。いつもは気取って色っぽい大人の女性を意識しているようだが、その実けっこう脆い。先日の弔いの宴でそれがよく分かった。
「一度合流しよう。少々バラバラになり過ぎた」
 ヴィレイスが云う。
 その方が良いのう、とヴァルガも頷く。
「ヘルンのところに残っているのは、クララクルルとキャナルか」
「そうだわさ」
「ではリコルド先輩と団長が一緒なのだな」
 イワセが云うと、ヴァルガが、そうなるのう、と云った。
「リコが一緒なら大丈夫だろう」
 クルガが云って片頬に笑みを浮かべる。
「勿論、合流は早くしたいがな」
「バムレックもまだ倒してないしのう」
 ヴァルガが浮かぬ顔で、誘惑者の名を口にする。音が聞こえないということは、現在は誰も交戦していないのだろう。
 誘惑者バムレックは生き残りの幾人かを従えて、この霧の中、どこかにいる。


@4@

 深い霧が雨に変わる。
 あまり霧と変わらないような、細い、蜘蛛糸のような雨。降ると云うより、体にまとわりつくように漂っている。
 小糠雨って云うんだよ、とリコルドが誰に云うでもなく呟いた。
 細かくても水滴が雨に変わったお陰か、霧よりも視界が利くようになる。
 空が白んで、辺りはふんわりと明るい。やわらかい光の中で、木々がうす青く影を浮かび上がらせる様は、とても涼しく美しい光景だ。しかし目を転じれば、疎らに生えた草の上に横たわる戦士の骸が見える。流れた血が地面を黒く染めている。
「埋めてはあげられないよ。全員分は無理だから」
 視線に気付いたリコルドが云う。
 ナガイは黙して目を伏せる。ひと一人埋める穴を掘るのに、どれだけ労力がいるものか、初めての戦いのときに思い知った。
 戦っているときは、平気ではないにしろ、忘れていられることだが、ふと空白のときにどこかが痛い。殺されるのは御免だが、こうやって雨に打たれっぱなしの骸を見ているのは辛い。
 沈黙の間にただ、漂うような雨の微かな音だけが流れている。
 足音を聞いた気がして顔をあげると、どやどやと戻ってくる一団が見えた。
「よおい」
 ヴァルガの大声が響いて、リコルドが笑む。
「無事?」
「ぴんぴんしとるよお」
 賑やかに合流が果たされる。
「おい、大丈夫か?」
 木の根元に屈み込んで、クルガがヘルンの顔を覗き込む。
「危うく首が飛ぶところだったと聞いたぞ?」
「飛んでいませんよ。誰が云ったんですか、そんなこと」
「マルメット」
「云ってないわさ!」
 甲高い声が返ってくる。
 その方に顔を向けずに、ヴァルガに云われたことから勝手に思ったのだ、と片頬で笑う。
「動かせそうか?」
 少し肩の力を抜いたクララクルルにヴィレイスが訊ねる。
「今夜一晩は大事を取りたい。誘惑者は潰せたか?」
「まだだ。今夜のためにも斃しておいた方が良いだろう。寝込みを襲われたくは無い」
「もっともだな」
「……お手数かけます」
 ヘルンが云う。ヴィレイスが兜を向ける。
「こうなったときにはお互い様だ。そう思った分、役目を果たせ」
「はい」
 幾度目か分からぬそんな意味の言葉を貰って、ヘルンは目を伏せた。
 そしてふと気付いて顔をあげる。
「自分の、盾は」
 戦士の一撃を受け吹き飛ばされたときに手放したのか。
 その辺の記憶が曖昧だ。


 ナガイは少し離れてその言葉を聞いた。
 まだ霧の森の方を向いていたときで、ちょうど落とした視線の先にその盾が転がっていた。
 ああ、あそこにある、と、そう口にしたかどうかはよく覚えていない。
 とにかく歩数にすれば十歩程の、その距離をてくてくと歩いて盾を拾い上げた。
 がっしりとした造りの盾は思ったより重くて、少しよろめくほどだ。
 その盾を両手で抱えて、刀を脇に挟んで運ぶ。
 そうしようとしたのだ。


 クルガは、ナガイが盾を拾い上げているのを、ガルゴスの肩ごしに見た。
 あんまり重そうにふらついているのを見兼ねて手伝いに行く。
「そんなに重いのか?」
 訊くとナガイはこくりと頷いた。
 痛む左手に刀を持って、右手で半分ばかり持ってやる。確かにずしりとくる。流石、大きいだけある。
 そのときだ。
 嫌な空気を感じて首の後ろが粟立つ。
 盾を放るように手放し、その手を刀の柄にかけながら振り向く。背後で盾を任されたナガイが転げた。
 振り向いた先。
 白の中目立つ、黄色い衣。
 三つ又の槍が高々と、天を指して振り上げられていた。
 避けられない距離だと勘が告げた。
 振り払うように、居合いの刃をバムレックの腹へと叩き込む。
 ひきつった左腕が悲鳴を上げる。
 浅い。
 クルガ、と誰かが叫んだ。
 嘲笑うかのように穂先が自分を目指して降ってくるのを、正面から見る。
 ずぶり、と鈍い音がした。


 腹から黒々と長い棒が突き出ていた。
 呆然として、クルガはそれを見上げている。
 霧の中、槍を振り下ろしたその姿勢のまま、黄色い衣の誘惑者は黒い刃に貫かれていた。
 半月型の二つの刃から伸びた柄を握って、魔騎士はそれを見上げている。
「ヴィレイス」
 草の上に転んだナガイが掠れた声で名を呼ぶ。
 クルガはゆっくり振り向いた。未だ声が出ない。
 誘惑者の振り下ろした槍は、ヴィレイスの一撃で狙いを外した。完全には避けられずに、鋭い槍先の一つが左腕に刺さっている。生温いものが二の腕をつたって流れ落ちるのが分かる。
 何故か痛みは感じない。
 息を整え、礼を云おうと口を開いた。
 とき。
 誘惑者が吼えた。
 ガラスで出来たような目が、自らを貫いた魔騎士を見据える。
 ざわっと衣が翻り、何処からともなく集まった黒い空気が巨大な手の形を成す。
「ヴィレイス!」
 黒い手は、誰が動くよりも早く舞い降りた。
 そして魔騎士の体を包み込んだ。




 さあ、と雨が当たる感じがした。
 かぼそく、殆ど冷気そのもののような雨は、それでも雨らしく肌を濡らしている。
 重い瞼をあげると、随分と眩しかった。
「ヴィレイス」
 名を、呼ばれた。
 誰の声だか、うまく浮かんで来ない。
 何故、こんなに体が重いのか。痺れて何も感じない。ただ顔に雨だけを感じる。ぼんやりと見回す視界に、沢山の人影が見える。騎士団の面々だ。何か痛みを堪えるようなそんな顔を、皆、している。
「ヴィレイス」
 ぺたりと脇に座り込んだ人影が絞る声で云う。
 水から浮かんでくるように、名前をぼうと思い出す。
「……ナガイか」
 だんだん、視界がはっきりしてくる。
 幼い頃から見慣れた顔が、呆然と泣き顔の合間みたいな表情で覗き込んでいる。
 髪から服からぐっしょり濡れている。水滴がぽたり、と落ちる。
 何か云いたげに口を開いて、何も発さぬまま閉じる。
「云いたいことは、云わぬと、後悔するぞ」
 苦労して声を紡ぐ。まるで自分のもので無いような、ひしゃげた声だ。
 ナガイははっと顔をあげた。
 泣きそうな顔をしている。
 彼が子供の頃のように頭を撫でようとして、けれど腕は動かなかった。
 腕は、きちんとついているのだろうか。
 感覚が全く、ない。
 全身の痺れがゆっくりと、首の方へあがってくる。痺れから逃れるように、意識が遠ざかろうとしている。
(……まだだ)
 まだ早い。
 まだ教えることが。
 あと幾つ、あるだろう。
「ナガイ」
 声がうまく出ない。
 じわりじわりと、視界が欠けながらぼやけていく。
(自分がいなくなったあとのことまで考えなくても)
 こんなに早く、訪れると云うなら。

「済まない」



 時間が止まったようだった。
 何かが欠けたようだった。
 手探りで、手を握る。もうきちんと形すらとどめていない、それを両腕でかき抱く。
「何が」
 崩れた腕はまだ暖かい。
「何が、済まないと云うのだ。ヴィレイス」
 雨が降っている。
 霧のような細かな雨が。
「教えて下さい。お師匠」


@2年100日 盗賊団レベル3戦にて、魔騎士、ヴィレイス・ヘイル戦死。享年24歳。







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ものすごく関係ない話で、これを書き終わった日の夜、キルヒアイス(銀河英雄伝説)が死ぬ夢を見ました。

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