魔の校内放送を流し終えたスピーカーが、プツリと音を切ってから数分後。 「…ね、ねぇ…大丈夫…?」 落としたホウキもそのままに、しばらく呆然と立ち尽くしていたが 同じく掃除当番である友人から困惑したような声をかけられ、はハッと我に返る。 あまりのことに、一瞬意識が飛んでいたらしい。 正気を取り戻したは、ものすごい形相で足元のホウキを拾い上げ、それを友人に押し付けた。 「ごめん、わたし帰る!」 「え…え?…ちょっと!!?」 「代わりに掃除は明日ひとりでやるから!なんなら明後日も明々後日も掃除し続けてもいいから…お願い今日は帰らせて」 ものすごい目ヂカラで友人たちを圧倒しながら、は自分のカバンを引っ掴む。 「そ、掃除はいいけどさ、今テニス部来るようにって放送が…」 「いや、無理。帰る。早く戻らないと、兄の容態が…」 「そんな連絡来てなかったじゃん!!」 「いま来た。虫の知らせが来た」 「虫?虫の知らせが?つーかその前に、アンタに兄さんいたっけ?」 一秒でも早く帰りたいがために、は口から出まかせを吐きつづけるが、なかなか帰してもらえない。 こっちはもう、跡部が広げた包囲網をなんとか破ろうと躍起になってるというのにいちいち適切なツッコミを入れてくるクラスメイト。 正直、憎い。 事情を知らないとはいえ、さりげなく退路を塞ぐような妨害行為を! もはや周囲すべてが敵だ。 迫ってるんだよ、魔の手がさぁ!!との心の中は半狂乱である。 もう理由なんてなんでもいいのだ。 早くこの校内から逃げ出さねば。 は放送を聞く前に帰ってしまいました。 そうしよう。それがいい。それでいこう。 「細かいことはまた今度!とにかく私はここに居なかった、ということでひとつ!」 引き止める友人を絶妙なフェイクでかわし、急いで教室の扉を乱暴に開く。 しかし、の足はそこで止まった。 「…ドアはもっと静かに開けろ」 敵もさるもの。 すっぽかして帰ろうとするこっちの行動なんてお見通しとでも言うように、ご丁寧にお出迎えをよこしてきた。 「ひ…日吉…」 「行くんだろ、部室」 連れて来るように言われてきた、と彼はスポーツバッグを肩にかけ直す。 長い前髪から覗く涼しい目はやけに鋭く、見逃してくれそうな気配などカケラも見られない。 「そういえば、あんたもテニス部だったか…」 ガクッとは肩を落とす。 扉の前に立ちふさがる男・日吉若とは1年の時に同じクラスだった。 お世辞にも社交的と言いがたい彼とは、特に仲が良いわけでも悪いわけでもない。 家が武道をやっているせいか、妙に折り目正しく、常に厳粛な雰囲気を撒き散らしていた男だった。 中1男子といえば中身はまだまだ小学生並みで、当番や日直などの仕事を面倒がって女子に押し付けたりするような子供っぽい連中がほとんどであるが、日吉に関しては一切そういう記憶がない。 与えられた仕事は必ずやり遂げるし、言い訳をしている姿も見たことがないし、目上の人に対しての礼節もわきまえている。 多少融通がきかない上に、明らかに打ち解けにくいタイプではあるが彼が持つそういった責任感の強さを、は密かに評価していた。 そりゃ、確かにしてはいたんだが。 「…あのさ…ちょっと今日は帰りたいんだけど…」 「今の放送を聞いただろう。顔くらい出すのが礼儀だ」(融通がきかない) 「う…そ、そのへんは上手いこと日吉から言っといてくれない?」 「先輩達を誤魔化すようなこと、俺には言えない」(目上の人への礼節) 「いや、そこを何とか…ホントに見逃してくれ!」 「どんなことがあっても、を連れて来るように言われている」(仕事を最後までやり遂げる) 何もこんな場面でまで、持ち味を如何なく発揮しなくたっていいじゃないか、日吉。 さすがは「強い責任感」に関して、他でもない自身が太鼓判を押した男。 2年に進級してから別のクラスになってしまったが、その気質は何ひとつ変わっていない。 むしろ、更に磨きがかかった気がする。 ちくしょう、この武家育ち! どれほどが抵抗しても、日吉はガンとして動かない。 誰が命じたかは知らないが、この男を迎えに寄越すとは腹が立つほどベストなキャスティングだ。 敵ながら見事である。 次々と手強い刺客を送りつけるテニス部の選手層の厚さに、はホトホト泣けてきた。 なんてタチの悪い組織を敵にまわしてしまったんだろう、と改めて実感してしまう。 「行くぞ」 逆らってもまったく無駄な雰囲気である。 綺麗な姿勢を崩すことなく歩き始めた日吉の後を、足取りも重くはトボトボとついていった。 部員200名を抱える氷帝テニス部は、実力だけでなく施設も一流だった。 何しろ、部室が4棟もある。 レギュラー専用部室がA棟。 B・C・D棟はそれ以外の部員達が実力ランクごとに部室として使用しているらしい。 が呼び出されたのは、当然と言うかなんというか、テニス部員の聖地・A棟部室。 やはり収容人数の差で、他の3棟と比べると多少小ぢんまりとしていた。 だが流石にレギュラー陣仕様。 外観だけを見ても、明らかに質が違う。やけにゴージャスである。 さぞかし、室内も充実した設備なのだろう。 まず、窓からのぞくカーテンからして高価そうだ(何か腹立つ) 「俺は連れて来たことを報告してくるから、そのへんで待ってろ」 そう言って日吉は、さっさと1人でA棟へと向かった。 もう夏が近付いてるせいか、降り注ぐ日差しがやけに強い。 なんだか色々と疲れていたは、部室脇の木陰に座り込んだ。 パコーンパコーンと、規則正しいリズムでボールの弾む音がする。 何面あるのかすら知れない広いテニスコートでは、早くも部員達がラリー練習を始めていた。 暑い。 くたびれた。 …そっと帰りたい。 「、」 膝に顔をうずめたが顔を上げると、ドアノブに手をかけたままの日吉がこっちを見ていた。 「逃げるなよ」 「…ハイ」 の弱々しい返事を確認すると、日吉はそのまま部室へと消えていった。 日吉お前…心まで読めるか。 そうは思ったものの、も本気で逃亡を企てていたわけではない。 ここは、いわば敵本陣。 大将(跡部)の手の内だ。 今ここで逃げ出したら、追っ手はテニス部全部員である。 男子中学生200名相手に手に汗握るデッドヒートを繰り広げるほどもタフではない。 (弱っている左足が確実に死ぬ) しばらくすると、部室の扉が静かに開いた。 中から出てきた日吉は後ろ手でドア閉め、こっちへ来いと手招きしている。 (あまり招かれたくないのだが)仕方なくは立ち上がり、呼ばれるまま歩み寄った。 「部長が中に入れ、と……ただし、」 テニスコートを見ながら口を開いた日吉は、途中なぜか口ごもった。 彼にしては珍しい歯切れの悪さに、は不安を覚える。 「……た、ただし……?」 「…ただし、」 一呼吸置いたあと、日吉はの方へと振り向いた。 コートからは、変わらず続くラリーの音。 「……入室する際には、後ろ向きで入ってくるように、とのことだ」 パコ――――ン パコ――――ン 「…、お前…・一体なにをしたんだ?」 …そう問われても、なんと答えて良いものやら。 はただ黙って、日吉の眉間に刻まれたシワを見上げていた。 何もいえなくて…夏。 |