真田という男から語られるのは基本的に限られていて、幸村の病状の心配とテニス部の近況。この二点に尽きる。 柳は幸村の求めに応じて必要な報告をしているに過ぎないが、真田は放っておくと調子はどうだ具合は平気かから始まり、やれベースラインがどうとか手首のスナップがどうしたとか手塚がああだこうだと日が暮れるまでしゃべり続ける。たまには違う話をしてくれないかとストップをかけた日には、途端に言葉に詰まり、庭に犬がテニスボールを埋めるとか、アケビが花を咲かせたとか、テニスボールを庭に埋める犬の話とか、花が咲いたよアケビの木等、年寄りのような枯れたエピソード(しかもパターン少)を絞り出すのがやっとで、仕事の話しかできない父親ってこういう感じなんだろうなと幸村は思ったりする。 だからその日、だらしのない新入部員に対して一通り気炎を吐いたあと、真田が口にした一言は幸村にとって唐突であり、意外でしかなかった。 ああそういえば。 「が気にかけていたぞ」 刹那、見開いた目は彼の方を向いてはいなかったから、気取られずに済んだ。真田にとってクラスメイトである彼女の名前が出るのは、普通に考えればそう奇異なことではないが、これまでそんな気配が一切なかった分だけ油断していた。 「いつ退院するのかと」 「俺も早くしたいんだけどね」 「とりあえず未定だと伝えておいた」 「さんは……元気?」 相手が真田なだけに、大した情報は得られないだろうという前提で、しかし一応尋ねてみた。 「変わりない」 やっぱり。 「そう、よろしく言っておいてくれ」 つとめて平等な音と笑顔をうわべにのせる。 「ああ。とは委員会が同じだったか?」 「そうだよ」 それだけ。それだけしかない。 入学して最初の年、美化委員を選んだのは他に立候補する生徒がいなかったのと、花の世話が嫌いではなかったから。特別な理由はそこになかった。 入ってみるとおおまかな花の管理は業者に任せていて、委員の仕事らしい仕事は当番制の水やりと花壇のチェック、意識向上を目的とするポスター作りくらいだった。月に一度の委員会は、その報告や当番決めにほとんど費やされる。椅子に座って話を聞いて、時々求められるまま発言や挙手をして、合間に作業をしていればそれで良かった。 席はどう座ろうと自由だったが、隣にはいつも同じ女子生徒が座っていた。幸村が先に席についていて、後から来た彼女がそこに腰を下ろす。逆に、彼女が先で、幸村が遅れて席に着くこともある。意識して選んでいたわけではなく、単に習慣というもので、いつの間にかそれが当たり前のように幸村と彼女の決まりごとになっていた。 初めて会話らしい会話を交わしたのは恐らく四回目の委員会。隣同士、共同でポスターを作れという指示があった日だ。それぞれ色紙を用意する手筈になっていて、いざお互い持ってきた色紙や折り紙を見せ合おうという時、袋から出したが固まった。幸村も瞬きを止めた。 四角い紙面は実に目にも鮮やかな色と柄。ショッキングピンクやきらきらエメラルドの髪や衣装や瞳をまとった五人の少女が控えめに、時に全面に印刷されていて、そのコントラストは見るものに日曜の朝を思い出させた。 たっぷり5秒、ふたり揃って凝視したあと、彼女は顔を両手で覆いながら呻いた。 「夢と勇気あふれるもの持ってきちゃってごめん………」 折り紙が必要だと相談したところ、妹のが余ってるからそれ持って行きなさいと袋ごと母親に渡されたそうだ。信用して中身を確かめなかった悲劇がここにある。 幸村は空気を読まずに現れたアニメ少女グッズと、自分で持ってきておいて嵌められたかのような驚愕の表情に、じわじわツボを攻められ、せき止めきれずに小さくブフッと一度だけ吹き出した。 焦ったが、妹がね、ちょっと前まですごく好きで集めててね、と何かを挽回しようと躍起になっていたので、幸村はこみ上げる笑いを優雅な微笑みに置き換え、同じく妹を持つ者として、いかに○リキュアの人気は絶大であったかに理解を示した。毎週必ず録画させられたし、ショーも見に行ったよ。何が驚くって、基本ぜんぶ肉弾戦なところだよね。 女児向けアニメ談義に花を咲かせつつ、作ったポスターは当然、幸村の持ってきた色紙だけを使った。 以来、なんとなくではなく明確な意思の上で、隣の席に座るようになった。ただの委員会の人という存在から、さん、幸村くん、としてお互いを昇格させていた。 前期を終えてからも、引き続き幸村は美化委員を選んだ。別に申し合わせたわけではないから、後期最初の委員会で再び顔を合わせたのは偶然だ。教室内に幸村を見つけて、おや、という顔をしたは、ごく自然にすとんと隣の席についた。それがなぜだか嬉しかった。偶然だね、とどちらも無邪気に再会を喜んだ。 それから月に一度、隣の席に座り続けて座り続けて、何度目かわからない第二週の火曜日。 委員がおのおの配られたプリントに目を落としている時にはこっそりと、とっておきを伝授するように幸村に耳打ちしてくれた。 ――美化委員会はね、時間厳守がポリシーの先生が担当してるから、だらだら会議が伸びたりしないんだよ。 だからいつも美化委員なんだ? と幸村が尋ねると、彼女は少しだけ得意げに頷いて、必ず立候補するのだと言った。 思い出したように、真田が記憶をたぐりよせて口に出す。 「は今期も美化委員のようだ」 「そう」 「確か精市もずっと美化委員だな」 「……ああ、性に合ってるんだ」 真田はうむ、それは何よりだと物々しく腕を組んで何度も頷いていた。 幸村を病室に残したまま、季節は動く。馴染んだネクタイの色を変え、先輩は卒業し、後輩は先輩と呼ばれ、同級生は進級し、成長を遂げ、すべてが歩き出していく。置き去りの感覚が頬を撫でて、揺り起こされる夜が幾度もあった。大丈夫大丈夫、と天井からぶらさがる千羽鶴が神の子を見下ろす。大丈夫大丈夫。唱えて眠る。大丈夫大丈夫。 赤也が一人で病室に現れたのは、五月が終わりを告げる頃だった。日が長くなりつつあるとはいえ、病棟を照らす蛍光灯がらんらんと発光する程度には空は暗い。こんな時間に、連れも伴わず、彼がここを訪れたのはこれまで例にない。 開いていた本を出来るだけゆっくり閉じて、いつもどおりではない後輩を、幸村はいつもどおり出迎えた。 「座ったらどうだい」 入口の脇で立ち尽くしていた赤也は、促されて初めて歩み寄り、椅子に大人しく腰を下ろした。その顔に勝気で明るい表情はなく、どこか悄然とした空気に覆われている。赤也が、その重たい口が、何を語ろうとしているのか、幸村は薄々気付いていた。 テニスに関して? いいや違う。確かに幸村は部長には違いないが、こうして床に臥せっている病人にわざわざ縋らずとも、彼には支え叱咤し、導いてくれる存在が多く在る。ゆえにこれは、赤也が一人の男として吐露したい心の檻。 「……別れました」 誰と? なんてどうして尋ねられようか。喉から絞り出した息に全てが集約されている。 そう。 うつむいた赤也に視線を落としたまま、幸村は海の底より密やかな音で応じた。 付き合い始めたという話が出たあと、赤也は何度か部員と共に幸村の面会に訪れた。目が合う度に、居心地の悪そうな、もの言いたげな顔をしていたが、赤也当人が何も言わなかったので、幸村は聞かなかったし触れなかった。自らの意思で選び取るなら、恩恵も傷も結果も全て含めて彼のものだ。その選択が、正しくても正しくなくても。 「赤也から言ったんだね」 下を向いたまま、小さく頭が上下した。別れを切り出したのは彼のほうなのに、まるで自分が振られたみたいに、椅子にもたれかかる肩は力がない。 冷蔵庫に手を伸ばして、取り出したペットボトルを赤也の膝にのせる。飲むといい、と言うと、ポケットにしまいこまれた両の手がのろのろと這い出した。練習で痛めたのか、右手には大きな湿布が貼られている。やがて飲み下す音が存在感をもって響いた。 「好きだって言われて嬉しかったんです。もしかして俺も好きになれるかもって」 口うるさいところもあったが悪い子ではなかったという。誘われるまま望まれるまま一緒に帰って、メールを送り合って、向かい合って話をして。もっと仲良くなれば、打ち解ければ、自分にとって一番大事な相手になるかも知れない、赤也は本気でそう思っていた。 「でも、だめだった……」 過ごした日々で積み重なったのは後ろめたさと義務感。それはとても恋とは呼べない。曲がりなりにも「彼女」だというのに、名を呼ばれただけで心が脈打つことも、無意識にその姿を探すことも、ふとした瞬間に思い返すこともなかった。あの人を想うようには。 後悔を滲ませて、赤也の左手が湿布を撫でる。 部員が多いせいもあって、多少痛めようとも普段なら各自で処置をするはずが、幸か不幸か、利き手だからとマネージャーが親切心を出した。見ないようにして心に被せておいた暗幕は既にほつれて破れて綻びて。そろそろごまかしが効かなくなってきた赤也への、それが決定打になった。 どれ、と彼女が手を取るだけで、思い知るにはもう充分。 「オレ、暗記すんの苦手で。物覚え悪いんす。カノジョの誕生日とか血液型とか何が好きとかいくら教えられても全然覚えらんなくて」 でも。 「先輩の言ったことは全部覚えてる……」 白く四角い病室の床に消え入る。 幸村は頷くしかできなかった。 赤也がかの相手を思い浮かべているように、幸村の瞼の裏には違う顔が形を成していた。彼が放課後を心待ちにするように、幸村は第二火曜をご褒美のように感じていた。クラスメイトでもない、赤也とマネージャーのように部の関わりすらない、委員会の名目だけで繋がっている縁は、きっと傍目から見れば薄く脆く頼りない。その裾をつかんで離さずに、握る手には自分でも滑稽なほど力を込めて。すぐ隣に腰掛ける懐かしい気配を、脳はたやすく呼び起こした。 特別な記憶は特別な場所で蓄積され、いくらでも心の隙をついて再生される。どんなつまらない会話でも、遠くなる後ろ姿でも、掠めるだけのわずかな香りすら。誰かを思うも忘れるも、間違いなく自分の一部なのに、どうして自分の思う通りにはならないのか。 傷付けて傷付いた後輩は完膚無きまでに打ちのめされて、いまは虫の息。だが、もう間違いはしないだろう。 「自分を欺くのは簡単なことじゃない」 それは果たして誰に言い聞かせた言葉だったのか。 「相手に辛い思いをさせた分、これからちゃんと向き合うんだよ」 顔を上げ、一度まっすぐ幸村を見てから、赤也は誓うような重厚さで首を縦に振った。 面会時間が終わるまであとわずか。声を発することなく、赤也は今は味もわからないであろうオレンジジュースを、幸村は湯呑の中で冷めたほうじ茶を喉に流し込んだ。病室の外側で足音や話し声がうやむやになって聞こえる。 俺、バカみてえ。赤也は持て余すように吐いた。 そうだね。 そんなことないよ。 同時に浮かんだ思いはそのまま混じり合い、結局幸村が言葉にすることはなかった。 そうだね、赤也はバカだね。お前を見るマネージャーの目はあんなに優しいのに。 そんなことないよ。誰だってそうだよ。人を好きになれば強くもなるしひどく臆病にもなるよ。 外野から見守るのとはわけが違う。渦中にあって尚、賢く立ち回れるなら誰も苦労はしない。魔法はない。念力はない。目を凝らしても、それは見えない。だけれど赤也が言うとおり、なにもかも全部覚えてる。 ――誕生日おめでとう。 杭を打たれたように、たったの一言も忘れられない。 それこそ、馬鹿みたいに。 置き忘れていった資料やプリントの束の間に、それは紛れていた。 月に二回、学年ごとに発行される校内新聞。文化部運動部問わず強豪を擁する立海の誉れを称えるかごとく、誇らしい試合やコンクール結果が常に誌面をにぎわせている。カラー印刷が惜しげもなく使われた、潤沢な予算を感じさせるそれの日付は最新号。見覚えのある顔が一面を飾っていた。 「あれっ髪切ったんだー」 手を止めた隙に、間から覗き込んだ丸井がフーセンガムを割る。今日は珍しく、彼はガムしか口にしていない。ついに腹でも壊したかと思えば、夕食にバイキングが控えているからセーブしているのだといった。さもありなん。 心に浮かんだ言葉を恐るべきタイミングで代弁され、幸村はわずか息を飲んだ。 「さんと知り合い?」 ん、と頷いた丸井は、再び膨らましかけた風船から空気を抜いた。 「一年んとき、同じクラス」 ああなるほど、と納得する。 これを置いていったのが、柳だというのがどこか引っかかったが、幸村とは異なる手管で情報を集めて分析するに長けた男だ。見抜かれていてもおかしくはない。 これくらいしか女らしいとこないから切りたくねーって言ってたんだぜ、と丸井の指が写真をつついた。 「でもすっげえ笑ってんじゃん!」 県大会、見事三位入賞! と、どうだこれでもかという太い明朝体の下で、晴れ晴れとした笑顔がメダルを掲げていた。撮影用のよそいきの顔ではなく、破裂せんばかりの喜びあふれる表情が目に眩しい。記憶の中では肩まであった髪が、ばっさりと少年のように短くなっている。生き生きとした彼女によく似合っていた。 それとは別の部分で、自分が知らぬところでの移りゆく様に、どうにもならない感傷を覚えた。 記事はこう締めくくられている。 『――入部当初から続いていた度重なる故障、それに伴う記録の伸び悩みに長く苦しめられ一時期は退くことも考えたが、たゆまぬ努力が実を結び、ようやく遅い春が訪れた』 知らず力がこもっていたのか、しなり出した紙に気づいて咄嗟に幸村は握力をゆるめた。 あの子はいつも溌剌としていて、よく笑うけれど、胸の内を隠すような笑い方はしなかった。心に曇りがないから、そんな風に笑えるのだと思っていた。 最後に会った時より更に日に焼けている笑顔。 放課後から日が暮れるまで、屋根のないグラウンドや校舎の周囲を走り続けているのだから、紫外線を受けるのは当然のことだろう。屋外で汗を流すのは何も陸上部ばかりではなく、テニス部も同じことが言えるが、色の白い幸村は日差しの影響を受けにくく、秋が深まる頃には殆ど元の肌の色に戻る。 それを羨ましいとは言った。 日焼け止めは塗ってるけど汗で流れるし、何より人より焼けやすいんだよね……。 彼女にしては珍しくしょぼくれた風情で、小麦色の腕をさすっていた。 健康的だと魅力的だと、口に出して伝えるべきだった。 女性全般に対する優しさや礼儀としてなら、いくらでも言えただろうに。不特定多数に向けて差し出す掌には、善意だけを乗せられる。けれど、そうではなかったら。建前など介入しない、芯から生まれた意味を含むなら。それは何故か、制御を失って言葉の形を成さない。 幸村は思っていた。本人が恨めしく眺めていたその焼けた肌について、本当は思っていたのだ。 彼女自身がまとう、健やかで美しい光沢のようだと。 輝かん笑顔の下には、日食をテーマとしたコラムと写真が掲載されていた。同じ紙面に、ふたつの太陽。 「柳が忘れてったんなら届けとくか?」 いや。 出された手を幸村はやんわりと拒んだ。 「忘れ物じゃない。必要なものなんだ」 お守り代わりに託された部員の人数分のリストバンドを抱えて眠る。大丈夫大丈夫。天井の鶴の群れを見上げて頷く。大丈夫大丈夫。日焼けした太陽を思い出して祈る。大丈夫大丈夫。 「そろそろ行きましょうか」 手術の迎えが戸を叩いた。 ◆◇◆ 季節に従って、日差しはじりじりと強くなる。運動がてら少し離れた病棟の自販機まで飲み物を買いに行くと、いきなり背中を叩かれた。驚いた拍子で、幸村の指は、しるこドリンク(あたたか〜い)を押してしまった。振り返った先で、ごぶさたしてたなあ、としわくちゃの顔が言った。 「竹中さん……」 また入院されたんですか、といかにも病院着という装いを見遣る。高血圧で入院していたものの病状の安定から、春頃、それじゃお先にと退院していったはずだったが。 「いやあ、こそこそ酒飲んでたらひっくり返っちまって。気づいたらここよ」 病室の顔なじみにお帰りなさい、なんて言われちまって年寄りはいやだねえ。ご老体は病人にあるまじき陽気さで語った。 「元気にしてたかい、って元気なわきゃないか」 一人で言っては一人で爆笑している。幸村は熱々の缶をお手玉にして、やや途方に暮れていた。 「うん、背が伸びたな? 若いってのはいいね、相変わらずの器量よしだ」 ブランクを挟んでも尚、幸村を女だと思っているらしい。 やれ目の正月だの、やっぱりここじゃお前さんが一番だの、こんな美人また拝めるんだから長生きはするもんだの、としゃがれた声で賛辞は続く。悪ノリして女の振りをしてしまったことを今更ながら後悔する。 「竹中さんはいつも女性にそんなことを言ってるんですか」 にやあっと口の端が上がる。 「いつどうなるかわからねえから、思ったことは言わねえとな。ぼやぼやして出し渋ってたら、あっと言う間に死んじまうからよ」 高齢者が言うとやたらと重みがある。が、押し付けがましくない物言いの軽やかさが、胸に響いた。 またよろしくなと言われて、幸村は背筋を伸ばした。 「実はもうすぐ退院するんです」 息継ぎなしで続けて言った。 「それから俺、女じゃありませんよ」 ぎょっと目を剥く反応を期待したが、おかしくてたまらないように、しわくちゃが更にしわくちゃになるばかりだった。 「男か女かくらい、見分けつかねえわけねえだろ」 年寄りはぼけてる振りして若い奴をからかうから気をつけろよ、と歯のない口を広げて笑う。目を剥くのは幸村のほうだった。年輪の差を思い知って、たまらず相好を崩した。念力どころか節穴。 「達者でな」 「はい、あ、しるこ飲みます?」 「いらねえよ。何月だと思ってんだ」 夕方、真田と柳生が揃って現れた。 「珍しい組み合わせだね」 言われて初めて気がついたのか、双方瞬きしたのち顔を見合わせた。 「ここに来る途中、後ろから声をかけられてな」 「ええ、幸村くんに本を貸していただく予定があったものですから」 この二人が規律正しく並んでいると、見舞いというより商談といった空気が漂う。すっかり夏だというのに、ネクタイを緩める様子もないのは流石だ。足繁く通っている真田が、看護婦の間で弟思いのお兄さん(老け顔)と認識されていることをあえて黙っているのは幸村の優しさである。制服だったのがせめてもの救いだろう、でなければ親戚の叔父さんあたりに設定されるところだ。 「本当は赤也も来るつもりだったんだが。英語のテストがどうのと言って、今頃マネージャーに教えてもらっている」 腕を組んだ真田は、手のかかる奴だと父親のような顔で語る。 「彼女も切原君には甘いところがありますからね」 対する柳生は教師のような物腰。ああ、でも、とその眼鏡を嬉々として押し上げた。 「最近は自覚が出てきたといいますか、ずいぶん頼もしくなってきましたよ」 いつか項垂れながらそこに腰掛けていた後輩の姿を思い描き、幸村の目元は自然と柔らかくなる。すぐにでもコートへ駆け出したいような逸る思いを静かになだめた。 「そう、それは楽しみだな」 「お前がいつでも戻れるように準備を整えてある。安心してリハビリにのぞめ」 「そうだね二度も青学に無様に負けられないしね」 「すいません」 「ハハハハハ」 「すいません」 真田はもとより、ペア単位では白星を獲得した柳生もつい自然と90度に頭を下げてしまった。この何も言っていないのに気圧される雰囲気、ああ幸村が帰ってきたなあ(まだ帰ってない)と胸熱く実感する部員二名であった。 ふふ、といたずら好きの少女のような顔で幸村は微笑みをこぼした。 「長いこと留守にしてすまなかった。復帰できるようになったのはみんなのおかげだよ」 こういうことを口にすると、真田は何度でも涙ぐむ。テニス部を託した日も手術を決めた日も手術の成功を伝えた日も、目を潤ませながら結構な声量で感情を訴え、柳や仁王に声がでかいと諫められていた。今も感極まったように声を詰まらせて、柳生にハンカチを手渡されている。幸村は笑みを深くした。 「……本当に助かったよ。一人ではとても、」 広げた掌に目を落とし、繰り返した夜をそこに見て、ぐっと握り締めた。柳生と真田は黙ってそれを見守る。引き結ばれた唇が再び弧を描き、二人を見上げた。 「あと、これね」 幸村は天井からぶら下がる千羽鶴を指差してみせた。いびつで、派手で、どう見ても千羽には足りないそれは、実に半年以上、枕に頭を預ける幸村を見下ろし、慰め、力づけた。 「みんなで作ってくれたのかい」 問われた真田は答えるでもなく、柳生の方を見た。柳生は柳生で、他人事のようにこれまた真田に視線を投じる。どうも反応が明瞭ではない。両者の目に戸惑いが現れた。 「柳生が用意したのではないのか?」 「私は真田くんかと」 「いや俺は何も聞いていないが」 噛み合わない会話に一瞬の沈黙が落ち、瞬きが交わされる。 「教室の、俺の机の上に置かれていたのでな。てっきり柳生だとばかり」 柳生と真田は揃って不可解そうに首をひねった。 では誰が? 狐につままれた面持ちの傍らで、幸村は千羽鶴をひたと見上げていた。A組の、教室の、真田の机の上に。 そのクラスで幸村がよく知る存在は、真田と柳生と、あと一人しか浮かばない。群れ重なる鶴はどれも色鮮やかで、柄模様、金色、銀色、きらきらと眩しい。その中の一羽が目にとまった。ひとつの閃きに追い立てられて、幸村はやおらベッドの上で立ち上がり、無数の千羽鶴をかき分けた。 「幸村?」 隠れるようにその鶴はあった。いつか見た覚えのある、アニメ色の折り紙の模様。鶴の羽の上で、変身をとげた目の大きな五人の少女が笑っている。 がくりとそのまま膝をつく。崩れるようにして片手で頭を抱えて、取り繕うこともできずに目を閉じた。 本当に、まぎれもなく、この目は節穴だ。 「幸村どうした? 気分が悪いのか?」 ナースコールを千切らん勢いで引っ張りだした真田に、幸村は黙って首を振った。 違う。その逆だ。 腰掛けたいつもの席は懐かしい眺め。放課後になっても、夏の強い直射日光はそのまま窓から机へと降り注ぎ、こうして座っているだけで、青白い腕が日に焼けるようだった。手のひらを握って開いてまた握る。久しぶりに手にしたラケットの感触は、思い出すだけで幸村に気力を与えた。コートを踏みしめた時の身の引き締まる空気。全てはこれから。やらなければいけないことは沢山ある。 何か手伝うことはあるか、と柳は言った。部内の打ち合わせがひと段落し、部員がそれぞれ散らばって消えたあと、その細い目元をわずか和らげて。何について語っているのかは明白だった。厄介な男だ。いつもは自分がその役割を担っていることを思い、幸村は苦く笑った。 それじゃあひとつだけ、お願いできるかい? 九月になるまで委員会選出の機会はない。待つのはもう、十分だろうと思う。機会を伺う慎重さを尊ぶのは、もっと年老いて、青さが抜けて、念力が身についてからでも遅くない。 第二週の火曜日。 行われるはずの委員会は、日程がずれて来週になったのだという。その連絡は属する全ての美化委員に行き渡った、はずだった。約一名を除いては。変更を知らされないまま、委員も教師も集まらないこの教室に、彼女がやってくるのはもうそろそろだろう。 高鳴る胸の内を沈めるように、手の中でいつかの竹串の束を転がした。 何から君に告げようか。押し流れてきそうな山ほどある言葉を、頭の中で並べていく。 やっぱり美化委員になったんだね。 県大会おめでとう。 短い髪もよく似合うね。 日焼けした肌はすごく綺麗だと思うよ。 千羽鶴ありがとう、本当にありがとう。 竹串の約束、遅くなってごめん。 それから、 とても会いたかったよ。 それからそれから。 俺はね、ずっと君のこと、 やがて、廊下を駆ける軽やかで慌ただしい足音が近づいてくる。まぶしそうに目を細めて、もうすぐ開くであろう扉の方へと幸村は向き直った。 赤也夢「淡い棘」のスピンオフです。 ※「淡い棘」ではマネージャがヒロインですが、今作はヒロイン≠マネージャーです |