それは夜をも照らす













 着席もままならないざわざわと緊張感のない空気の合間を縫って、いつもの席にたどり着く。特に指示も決まりもないのだが、なんとなく暗黙の了解で、おのおの毎回決まった座席を自分の場所として確保していた。ファイルと筆記用具を机に寝かせてから、ふと時計に目を落とす。そろそろ部室に人が集まってきた頃か。
 次年度に向けてトレーニングの組み直しを考えているんだが。
 昼休み、幸村のクラスまで訪ねてきたのは真田だった。幸村はようやっと食べ終わった弁当箱を丁寧に片付けながら頷いた。真田はよく噛めと説教臭く説く割に、食べるのが早すぎる。次は10分遅く来てくれと幸村は釘を刺した。それはすまんと真田は一応詫びたが、恐らく次も忘れてこの時間に来る。
「そうだねもっと負荷をかけてもいい」
「蓮二がいくつかメニューを用意してきた。練習に入る前に、少し詰めておきたい」
 精市も、と続くのを予想して、幸村は颯爽と言葉を割り込ませた。俺は遅れるから、二人で進めておいてくれ。それは構わんが、と先手を打たれ、若干肩すかしを食らったであろう真田に、幸村は風格すら漂う笑みで応じた。
 用事か? そう、月に一度の。ああ、そうだったな。
 遠く目を細めれば見えないこともないコートへと束の間視線を滑らせて、すぐに戻す。二人が信頼に足る存在であることは今更言うまでもない。柳が事前に組み、真田がそれに手を入れたなら、細かい部分まで抜かりのないメニューに仕上がるだろう。あとで軽く目を通せば問題ない。細身のシャープペンシルを転がし、幸村は再び時計の針に目をやった。部活への気がかりから、そうしたわけではない。
 間もなく予定の時間にさしかかろうかという時、空席だった隣から賑やかな音がした。慌ただしい足音、椅子を荒々しく引く気配。知らず幸村の声に安堵のようなものが滲んだ。
さん、大丈夫?」
 落ち着き無く席についたは、胸に手を当て、荒い呼吸を宥めているところだった。ふうふうと呼吸に追われながら、掃除が、と幸村に向かって苦笑いをこぼす。直後、扉が大きく開き、教師がきびきびとした姿勢で現れた。ぎょっとした彼女と目を合わせ、危なかったねと声を立てずに幸村は笑った。
 美化委員会は、今日も定刻通りに開始された。


「走り込みは終わったのかい」
 背後からできるだけ静かに囁いてやると、赤也は飛び上がった。ぶ、ぶぶぶ、ぶちょう! と口に含んだ水分を全部噴き出しそうな勢いだ。びっくりさせないで下さいよと大げさに肩を上下させて、立てとも言わないのにベンチから腰を上げた。
「ちゃんとやったっスよ10本」
「へえ。それだけ元気そうならあと5本くらい追加してもいいかな」
「えっ」
「なんてねウソウソ。10本追加」
「えー!?」
 目を剥く後輩の肩を叩いて、幸村は冗談とも本気ともつかない笑い声を軽やかに奏でた。
 ひどいっすよ柳先輩も真田副部長も、俺にだけすっげえしんどそうなメニュー持ってきて。不貞腐れる横顔は幼い。それだけ期待をかけられていると知るには、あと少しばかり時が必要だ。ベンチの背に手をかけて、幸村は部長の顔で言った。
「赤也、もうすぐ備品が3箱分届く。女の子ひとりに任せるには忍びないから、休憩が終わったらマネージャーを手伝ってやって欲しい」
 常ならば、なんで俺が、と一旦はむくれて見せるだろう。しかしこの申し出に関して彼が決して拒まない事を幸村は心得ていた。
「いっすよ」
 素っ気ない返事とは裏腹に、赤也は握っていたスポーツドリンクを一気に飲み干し、颯爽と走り去った。休憩が終わったら、という言葉は耳に届いていたかどうか。脇目もふらず駆けていく後ろ姿を見送っていた幸村の影を、柳が音もなく踏んだ。
「なんだ、来ていたのか」
「さっきね。遅れて悪い」
「いや。弦一郎と見直してみたんだが、何かあれば言ってくれ」
 柳は小脇に抱えていた用紙を、クリアファイルごと寄越した。中身を確認しながら、無人のベンチに腰を下ろす。秋の風は皮膚に心地いい。空いた隣を柳が遅れて陣取る。
「赤也は? ここにいたと思ったが」
「搬入の手伝いに行かせた」
 ほう、と薄く笑う気配。
「誰か手の空いた者を向かわせようと思ったが、なるほど適任だな」
「だろ」
 他の誰を向かわせるよりもずっと、彼は献身的に働くだろう。怠け心を出さずそれは熱心に。下手するとひとつの荷物も彼女に運ばせないかも知れない。
 用紙にざっと目を通した幸村が口を開きかけたのと同時に、けたたましいホイッスルの音が響いた。一斉に踏みつけるような足音が幾重にも重なって、一定のリズムを刻みながら遠ざかっていく。陸上部だな、と柳の声が落ちた。
「……で?」
 消えた言葉の先を柳が促す。ああ、と頷いて幸村はファイルを柳の胸元に突き返した。
「赤也のメニュー。走り込み15本追加しといて」


 後輩のひとりとして、テニス部の門をくぐった切原赤也を一言で表すなら「やんちゃ」だ。落ち着いた佇まいの柳や柳生、もはや落ち着きを通り越して古びた感のある真田の存在のせいで、余計際立って見えたかも知れない。ただ、曲者ぞろいの立海においては、時に火種ともなる血の気の多さが負けん気として功を奏し、荒っぽくも勝気なプレイスタイルで彼は頭角をあらわした。その感情のまま動く気性はコートの上だけでなく、興味の行方が気恥ずかしいほどわかりやすい。むろん、情熱を傾けていたのはテニスに違いなかったが、ぎらぎらとしたそれとは異なる、淡い色形を同時に放っていた。
 剥き出しの視線は危うくも一途で、矛先が幸村達と同学年の、彼にしてみればひとつ年上にあたるマネージャーと悟るに至るは赤子の手をひねるより易く。少しの関心や好奇心に過ぎなかったであろうそれはやがて多くの興味に変貌し、今や憧憬に染まったひたむきな眼差しだ。
 筒抜けだと知った時、赤也は青くなって赤くなって、また青くなった。
「なんでわかるんすか!? 念力!?」
 幸村は物言わず、ただ微笑んだ。
 赤也は特別にわかりやすいにしても、気持ちを読むことに幸村は長けていた。心の機微について人より過敏なだけで魔法のように、秘術のように、何もかもが透けて見えるわけではない。しまい損ねた誰かの感情の先端が、手がかりの一端として時折すいっとその視界をよぎるとでも言おうか。端から封をする気もなく、開け放ったまま晒け出す者もいれば、頑丈に錠を下ろして外気にも触れさせまいと匿う者もいる。後者は目につかないかと言えばそうでもなく、あからさまに隠そうとする厳重さが、かえって前者より目立ってしまうなんてこともざらにある。巧みに覆い隠そうとしても、ふと気を緩めた瞬間の仕草ひとつでメッキはもろくも剥がれ落ちる。
 意思に関わらず嗅覚が働くように、幸村はそれをごく自然と感じ取ってしまう、ただそれだけだ。
 万能ではない。赤也の言う念力なんてない。


 開きっぱなしの扉からA組を覗き込むと、出入り口に一番近い存在、つまりはと真っ先に目があった。以前訪れた際には男子生徒が座っていたから、あれから席替えが行われたのだろう。
 あれ、と親しみを帯びた眼差しが幸村を歓迎する。
 一瞬の戸惑いを綺麗に飲み込んで、真田いるかな? と尋ねると、彼女はひとつ瞬きを落とし、人目を忍ぶように幸村の傍まで寄ってきた。制服から、柔軟剤のような仄かな香りがした。
「実は、さっき真田君は一年生の女子に呼び出しを受けて……」
 あとはわかるよね? と目配せが語る。
 なるほどとすぐに幸村は得心したがしかし、当の真田はわからなかったようだ。
 特に面識のない異性が恥らいながら自分を呼び出したのなら、経験がなくとも大方ぴんと来そうなものだが、相手が悪い。天然記念物ものの朴念仁だ。
最初、真田は「む、なんだ用があるなら今ここで言えばよかろう」と恐ろしいことをのたまい、勇気を振り絞ってきたであろういたいけな少女を青ざめさせていたという。人前で言えるような用件ではないのは一目瞭然。は見るに見かねて、出入りの邪魔だとかなんとか難癖をつけ、扉の前で腕を組んでいる真田を強引に教室から追い出したらしい。
「ごめんねうちの副部長が世話かけさせて」
 光景の一部始終が目に浮かぶようで、幸村は乾いた微笑みを浮かべるしかなかった。
「鈍器も気を悪くするくらいの石頭でね。あまり察しが良くないんだ」
 にこやかに、そして辛辣に告げると、あははと彼女は否定するでもなく笑い、真田くん真面目だからといくばくかフォローを付け加えた。幸村はそうなんだよねと相槌を打つ。
「真面目すぎるところが短所でもあるし、長所でもあるかな」
「女の子にはそこがいいんだよきっと。現に意外ともてるみたいだし」
 意外と、というのもまた失礼な話だが、キャラクター性を考えればそう言いたくなるのもわからないでもない。けれど琴線に触れたのはその部分ではなく。
 知らず発せられた声は、幾分控えめだった。
「……さんは?」
「ん?」
 屈託ない瞳と日に焼けた肌が幸村を照らし返す。何一つとして含むところのない、蒼天にも似た眩しさ。幸村は弱い笑みを滲ませて言葉を取り下げた。
「なんでもないよ」
 会話の余韻を断ち切るように、幸村はぐっと首を伸ばして彼女の背後、つまりは教室内を伺った。
「真田がだめなら、柳生はいる?」
 つられて後方を振り返ったは、首を振りながら幸村に向き直った。
「職員室だと思う……なに? 教科書とかだったら貸すよ?」
 私でよければ、と自分をさして見せた彼女に、幸村は少し言い淀んでから苦笑いで告げた。
「うん、竹串をね……」
「え」
「調理実習に使うの忘れてて。A組はおととい実習だったらしいから、もしかして持ってないかと思ったんだけど」
 は目を丸くして、それから破顔した。
 たまたまロッカーに置いていたという竹串は、スパゲティ換算するとゆうに二人分はあるだろう十分な本数だった。お徳用買っちゃって、と幸村に手渡す際少し恥ずかしそうにしていた。
「ありがとう、助かったよ」
「いえいえ」
「終わったら返すから」
「え? いや別にいいよあげるよ!」
 固辞を示して右手がせわしなく振られる。それでも幸村は「ううん返すよ」と繰り返した。
「次の委員会の時に」
ね? といささか強引に、どこか甘えた声で念を押すと、根負けしたように彼女は目を細めて頷いた。
「わかった、次の委員会ね」
「うん」
 第二週の火曜日は、美化委員の定例会議。入学当初から欠かさず変わらず、毎月繰り返して繰り返して、繰り返してきた中で初めて交わした約束らしい約束だった。

 結果的に、幸村はそれを破ることになった。


◆◇◆


「なあなあこれ食べていい?」
「いいけどさっきホール平らげたばかりなのに、まだ入るのかい」
 楽勝、と言い放った丸井は冷蔵庫からプリンを取り出し、さっさと蓋を開けた。それを見て、うえと呻きながらジャッカルが顔を背ける。気がしれない。持ち込まれた苺のホールケーキは食べつくされ、箱はすでに空っぽだ。
 記念のようなものだから5号で充分だという部員の意見を、人数いるんだから絶対足りねえって! 丸井が一人で押し切り7号(21cm)を買ったはいいが、やはり男だけで片付けるには山ほどの生クリームは荷が重く、八等分されたワンカットをジャッカルと赤也が食べ、これくらいで充分だと幸村と柳と柳生が八等分をさらに半分にし、甘いものが不得手な仁王と真田がつまみ食い程度に2口3口手をつけて、残りは全部丸井の胃袋におさまった。ちなみに彼はここに来る道中、歩きながら鯛焼きを二匹ほど平らげている。
「どうせだから丸井も看てもらったらどうだ」
「なんだよ胃袋か? こんなんで腹壊したりしねーよ」
「いや糖尿とか」
「生活習慣病とか」
「肥満とか」
 仁王が避けたのでジャッカルが殴られた。

 14回目の誕生日を幸村は病室で迎えた。
 面会を終えた家族と入れ違いに、部活帰りと見られる格好で部員たちはぞろぞろとやって来た。大部屋よりはプライバシーの確保された個室とはいえ、病を抱えた患者が多く寝起きする場所だ。周囲の迷惑と幸村の体調を考慮して、固まって訪れることを避けていた彼らだが、この日ばかりは全員で顔を出した。
 音の小さなクラッカーと投げテープ、まるで声の揃わないバースデイソング、妙にカラフルかつ数の半端な千羽鶴で祝福を受け、普段衣擦れの音くらいしか響かない室内は、いっとき看護婦が咎めに来るほど賑やかなものになった。
 当初、その顔ぶれにはマネージャーの姿もあったが、風邪を引きかけているらしく、うつすわけにはいかないと言って厳重にマスクで顔面の半分以上を覆ったまま、ケーキも食べずに早々に抜けていった。それでも幸村が火を吹き消すまでは留まっていて、ろうそくを刺しながら赤也が発した「俺はチョコがいいって言ったんすけど」という言葉に「じゃあ赤也の誕生日はチョコレートケーキね」と鼻声混じりの彼女が答えた時の、赤也のその嬉しそうな顔ときたら。無論、チョコレートケーキに感激したわけではないだろう。子犬にも似た健気さに、思わずぐしゃぐしゃと縮れ毛をかきまわしたくなるのを、ぐっと幸村はこらえた。
 細々と灯り続けていた後輩の思慕は、今も絶えることなく熱を放っている。どんどんとそれはかさを増し、簡単には引っこ抜けないほど彼の中で強く根を張っているように見えた。あれだけ近くにいれば無理もないだろうと、毎日のように行われる部活の光景を思い出して、どの感情によるものか自分でも判断のつかない種類の息を吐く。光射す方向に気がついてしまったら、たいていはもう手遅れだ。無意識に奪われる目は、理由なんて必要としない。

 騒々しく過ごした分、人が立ち去ったあとの静けさは自己主張が強い。自ら生み出す物音のひとつひとつが、やけに大きく響く。漂白されたベッドも薄味を極めた病院食も、もう慣れた。これまでの暮らしから引き剥がされ、最初は心を削ぎながら過ごしたが、やがて幸村は日常として取り込むことを覚えた。言い聞かせていたとも言う。
 心細さが手招きする、こんな夜は初めてではない。
 終業式もクリスマスも幸村はベッドの上だったし、なんなら新年だって病室で迎えた。年明け最初に新年の挨拶を交わしたのは同じ病棟のしわくちゃのおじいさん(竹中さん86歳)で、幸村を女の子と完全に思い込んでは会うたび可愛いきれいだ美人さんだと褒め称え、何度訂正しようとしても聞く耳持たないので、幸村もあんたがそこまで言うならもう女でいいよと匙を投げた。
新年早々べっぴんさんに会えるなんて長生きはするもんだなあ。やだ竹中さんたら、口が上手いんだからあ。
遊び半分で演技を始めたものの、だんだん板についてきた自分が怖くなってきたので、幸村は早く退院したいと思ったし、退院して欲しいとも思った。
 ぎゅうぎゅうと握られる手のひらが赤ちゃんのようにあたたかった。

 一月が過ぎ二月が終わり三月が訪れるまでの間、季節はずれの暖かい日差しが暖房を切らせたかと思えば、眺めているだけで震えが来る雪の日もあった。本格的な到来から、猛威を振るうまでに至る冬の一部始終を、ほとんど病棟の窓ガラス越しに見ていたことになる。たまに外気に触れないと、風が肌を刺す感覚を忘れてしまうのではないかと時々本気で思った。
 暗澹とした空模様は胸の内にまで重く垂れこめた雲を呼ぶ。すっきりと晴れた日は切り捨てられたような心地がする。少しでも弱ると、病は心まで蝕もうとした。
 くずかごに残された、クラッカーの残骸と色とりどりのテープや紙切れ、包装紙に空き箱、天井からつるされた少しよれて傾いた千羽鶴。知らず口元がほころぶ。
 一人の夜は不安の温床だが、それでも幸村は孤独ではなかった。
 束ねられたままのカーテンを引こうとスリッパに足を入れた時、扉が控えめに鳴った。さきほど「もう少し声を落としてね」と注意しに来た年配の看護婦で、ベッドから降りようとした幸村を仕草で制し、代わりにカーテンを閉じてくれた。
「すみませんさっきはうるさくて」
「一応、場所柄ね。お静かにっていうのが原則だから」
 彼女は目を細めながら、ごみ箱からのぞく宴の名残を見た。
「盛大に祝ってくれたんだ」
「はい」
「いいお友達がいるんだねえ」
 柳生がホウキとちりとりを借りてまで丁寧に掃除していったおかげで、床には紙吹雪一つ落ちていない。腰の重い仁王も珍しく率先して片付けを手伝っていた。丸井は冷蔵庫の掃除と称して最後まで食っていた。
 はい、と噛み締めるようにして幸村は頷いた。
 去り際、看護婦は明かりを消す手を止めた。
「お誕生日おめでとう」
 言葉だけで申し訳ないけど、と肩をすくめたので、いいえ充分嬉しいですと幸村は微笑んだ。スイッチに触れる音がして、病室に暗闇が降る。下ろした瞼の裏に光の残像が浮かんだ。
 祝辞に対して、ただ行儀の良い受け答えをしたつもりはなかった。本心がそう言わせた。人は言葉だけで満ち足りる、13回目の誕生日に幸村はそれを知った。
 あれは、固く締まったコンクリートを歩いて、コートに移動している途中のことだ。たまたま、向こうを走ってくると行き合った。陸上部の外周の距離は長い。相当疲れていたのか、彼女の息もずいぶんと上がっていたし、話ができる状況でもないので、その時はお互い笑顔を交わして終わった。けれど数秒後、過ぎ去った足音が慌ただしく幸村を追いかけてきて、何事かと振り返ると、さっきより更に荒い呼吸に苛まれたが、その場で足踏みをしていた。
―― あの、あのね、あの。
 息遣いと声が混じって、汗が一筋こめかみから流れて、けれどちぐはぐに満面の笑みで。
―― 誕生日おめでとう。
 それだけ言って、彼女は満足そうに身を翻し、大きく手を振りながら走り去っていった。
 幸村は、ありがとう、と通りいっぺんの返事すらも出来ず、束の間呆気に取られた後、遅れを取り戻すようにして手を振り応えるのが精一杯だった。



 一見外界から遮断されているように見える入院生活も、毎日のように入れ替わって顔を出す部員と携帯など通信機器の発達により、情報収集にはそう不自由せずに済んだ。テニス部に関しては真田や柳が逐一報告し、それ以外の出来事や噂話に関しては他の部員たちが面白おかしく聞かせてくれる。野球部とサッカー部の部長同士の大喧嘩、学食でコロッケ爆発事件、父兄と美術教師の不倫関係。学校の規模が大きいだけに、幸村に届けられる話題は日々尽きない。
 赤也に彼女ができたという話も、その内のひとつだった。
 知ってた? と丸井はお土産に持ってきたドーナツを一人で貪りながら言った。いいやと応えて傍らの仁王を見ると、特におもしろがる様子もなく、開いた薄い唇が淡々といきさつを語った。
 内容はなんてことない、よくある話だ。新学期早々に向こうから告白されて、そのまま付き合うことになったらしい。相手は一度も口をきいたことのない、同学年の子だったそうだ。
「それは、おめでとうというべきかな」
 幸村がさざ波のように静かに微笑むと、仁王はどうじゃろなと呟いて、甘ったるい匂いのドーナツに眉をしかめた。手をべたべたに汚しながらチョコレート生地にかぶりついていた丸井は顔を上げて。
「かわいいのか?」
「さあ。見たことないからわからんの」
 ふーん、と再び赤い髪を揺らしてドーナツをかじった。

「あら口に合わなかった?」
 滅多に残すことがなかったせいか、食器を下げる際にそう声をかけられ、幸村は申し訳なさそうに首を振った。今日は食欲があまりなかったので。
 その原因が丸井に勧められるまま口にしたドーナツにあるのは疑いようもない。いつもは一口分だけ分けてもらったり、せいぜい付き合っても一個が関の山だというのに、どういうわけか今日に限って砂糖がまんべんなく振られた大きなドーナツを二つも食べてしまった。胸焼けがする。これをひょいひょい瞬く間に四つも腹におさめてしまったのだから、幸村は丸井という男を恐ろしく思った。
 薄暗い廊下をぺたぺたと足音を鳴らして個室へ戻る。消灯前だというのに、どの病室も眠りについたのか、火が消えたように静かだった。ひとつの、熱を孕んだ眼差しを思い返す。
 彼の火は、途絶えてしまったのだろうか。
 最後に赤也がここへやってきたのは一週間以上前のことだ。彼女うんぬんの話はそれより後だから、赤也の心がどんな風に動いたのかは、幸村は想像するよりほかない。
 彼の想い人は、彼より年上でありながら、真田同様いささか情緒方面には疎いように見受けられる。いや真田ほど壊滅的ではないが、勘の良い方ではないのは間違いない。それをよくよく理解して動けるほど赤也も成熟してると言い難く、相手の鈍さによる薄い反応や手応えのなさを、悲観的に受け取ってしまうこともあったろう。思いが募ると、見えるものも見えなくなる。歯がゆいくらいに。そんな時、目の前で招くような好意を示されれば、気の迷いが生じても無理はない。
 閉じ忘れたか、扉の隙間から部屋の明かりがもれ、薄暗い廊下に一筋落ちている。
 焦がれた手の届かない光より、差し出されたランプの火を彼は選んだのだ。
 けれどいずれ気づくだろう。目を逸らしても背けても、人は太陽から離れられない。