淡 い 棘




「先輩さっき告られてたっすね」

ぎくりと肩がとび跳ねた。

「んで断ってた」

ぎくりぎくりと水揚げされた魚のようにとび跳ねる。
嫌な種類の汗を背中に感じながら声の方へ振り返ると、連想される通りの後輩の姿が私を出迎えた。
ただ、もっと人をおちょくるような喜色に満ちた顔だと思っていたので、そこだけは少し意外だった。
赤也は半袖の袖口を押しつけるようにして、額の汗を拭った。相変わらずタオルを持ち歩く習慣がないようだ。
「なぜ知っているのかね……」
「ゴミ捨てに行った時、たまたま。わざとじゃないっすよ」
聞かれていたのか。あれを。
私は居たたまれないような思いがした。
思わず片手で顔を覆うと、いまどき校舎裏とか古くないっすかと茶々をいれられたが、こちらは呼び出されてのこのこ出向いただけなのでケチをつけられても困る。
とにかく知られてしまった以上、放置はできない。
私はまず、他言無用である口外するべからず、と赤也に固く誓わせた。
特にテニス部の連中には決して知られてはならない。部を引退して暇を持て余しているハイエナ共の格好の餌にされてしまう。鼓舞か冷やかしか、折りにふれ部の様子を見にやってくる彼らの姿が今日に限って見当たらないのは、不幸中の幸いだった。
わざわざこんな日にそんな危なっかしい場所に近寄らずとも良いような気もするが、人の好意を無下にするのは思っていたよりずっと気が滅入ることだった。
まっすぐ家に帰るよりも、通い慣れた部活の空気と見慣れた後輩の顔が恋しくなって、気晴らしのつもりで足を運んだ。まさかその後輩に聞かれていたとは夢にも思わなかったが。

しつこく念を押して私が一息つくと、のど乾いたと呻いて赤也がふらふらとベンチへと下りて行く。
なんとなくそれを見送っていたら、不意に赤也が振り返った。ついて来ない私を不思議がるような顔だったので、思わず後を追った。
ベンチは半分以上が荷物置き場となっていた。バッグやら丸まったタオルやら、着替え用なのか着替えた後なのか判断のつかない謎のTシャツの山。先に腰を下ろした赤也は、汚い運動部の見本のごときその光景を、ブルトーザーもかくやという腕の動きで一気に下へ滑り落とした。
悪びれることなく、出来たてほやほやのスペースを指さして、ハイどうぞ。
「だ、誰の荷物なのそれ」
「わかんね」
「いいんですか」
「片付けないとこうなるって常々言ってあるからいいんすよ」
「あっ部長らしい」
「部長だもん」
上がいなければいないで人は逞しくなる生き物らしく、赤也は案外部長としてしっかりやっているようだった。自分が頼られる立場になって、責任感が生まれたのだろうと思う。
無邪気で人懐っこく、悪ガキのような幼い部分が目立つものの、根は真面目だ。軽率な言動の反面、人が真に傷付くことを恐れる。
焦りのあまり厳重に口止めはしたが、私も彼が本気で吹聴してまわるとは思っていない。
きっと赤也は、私が心底困るようなことを決してするまいという妙な確信があった。
赤也は手に取ったペットボトルを口に付けて、またたく間に半分以上飲み下した。喉が鳴る。
「練習戻らないんですか部長」
「このあとは自主練。テスト近いから」
赤也はテストの部分を実に苦々しそうに吐き出した。成長のない一端が見えて何故か少し安堵した。

「なんで断ったんすか?」
たわいもない会話が二つ三つ続いたあと、ふと赤也は口に出した。
ごく自然な息遣いで投げかけられたせいか、私はさほど抵抗を覚えずに済んだ。
「なんでって聞かれても……」
「イケてない奴だったとか」
「そんなことはない、と思う」
「根性悪いとか」
「いや爽やかさんだよ」
「じゃあ、なんで」
「やけに食い下がるね君も」
付き合って下さい、と初めてそう言われた。
クラスは違うが、委員会で何度も顔を合わせたことのある男子生徒だった。印象は悪くなかった。
「嫌いってわけじゃないし」
「何が気に食わないとかでもなくて」
ううんと唸っては、気持ちに沿う言葉を探るも、手が届かない。
「絶対この人と付き合うとか無理!ていう嫌悪感もないんだけど」
「けど?」
黙って聞いていた赤也が痺れを切らしたように、言葉尻を捕まえて急かす。
「でも、それだけで付き合うもんでもないでしょ、たぶん」

付き合うということは、恋をすることだと私は思っていた。
告白されたことは嬉しかった。嬉しかったけれど、彼の存在ありきでそう感じたわけではなかった。単に示された好意そのものに浮かれただけで、相手への気持ちは全然別のところにある。
心は動かなかった。どう言って断ろうか、という方向にしか注意が向かなかった。応えられないことに胸が痛んだ。
誰かを好きだと思う感情について、胸を張って言い切るだけの自信が私にはまだない。気持ちの色分けが朧げなまま、完成には程遠いパズルのようにずっと放り出されている。
けれど、その時覚えた胸の痛みが恋によるものではないことはわかった。
恋とはなんだろう。

「まあ、私は付き合ったことないからわかんないけど」
そう付け加えながら赤也を横目で見てやったら、痛いところを突かれたような顔をして、すぐにそっぽを向かれた。
赤也が二年になりたての頃、告白してきた同学年の女子とお付き合いというものをしていた時期があった。
色んな意味で彼に訪れた春は、果たして季節をまたぐことなく、夏が来る前には終わりを迎えていた。
あまりのスピード感に、私と真田は「早っ!!」と同じ類の衝撃を受けたものだが、幸村と柳は眉ひとつ動かすことなく、まあこうなるだろうねと淡泊な反応しか示さなかった。と真田にはわからないだろうけど、という風なことも言っていた。
真田といっしょくたに括られるのは心外だったが、実際何を言わんとしていたのか察することはできなかったので、ぐうの音も出なかった。真田を恨みがましく睨んでしまったのはただの八つ当たりである。
別れた後の赤也は、すっきりしたようでもあるし、若干浮ついたところが抜けたようにも見えた。
楽しかったのは最初の1、2週間だけだったと、ばつが悪そうにこぼしていたのを覚えている。
好意を告げられて悪い気がしないわけはない。ましてや色恋に未熟であれば尚更だろう。
褒められた行いではないにしろ、あくまで当人同士の問題で、若気の至りと慰めはしても、部内の誰も彼を責めたりはしなかった。
以降、ぱったりと赤也からそういった匂いが消えた。仁王や幸村達に比べれば控え目な方だが、人気があるのは間違いなかったから、言い寄られる機会は何度もあったろう。しかし彼女やそれらしき存在は影も形も見えなかった。
懲りたのかねえと首をかしげた私に、懲りたっていうか思い知ったんでしょ、と云ったのは幸村だった。
何を?と問うと、代役じゃ無理ってこと、と幸村は薄く笑った。

「付き合うってメンドくさいっすよ」
「そうなんだ」
「なんつうか、束縛?されるし」
「うん」
「帰り待つとか待たないとかややこしいし」
「うん」
「よくわかんねーことでキレられたりするし」
「うん」
「メールは返さなきゃいけねえし」
「それ普通じゃないかな」
「ゲームばっかすんなって言われるし」
「それ真田じゃないかな」
赤也はまだ続けようとして頭を捻っていたが、うまく言えないのか思い出せないのか、まあいいやと諦めたように両足を放り出した。少し大袈裟なくらい、肩で大きく息を吐く。
「とにかく色々メンドー」
その横顔は珍しく物憂げで、彼には手痛い記憶なのだろう。
ほらやっぱり懲りてるじゃないかよ、といつかの幸村に心で異を唱えた。
残った水を喉に流し込んで、赤也は空になったボトルを屑かごへと放る。なにかを告げようと、呼吸を整える気配が見えた。
「だから俺は、」
「誰とも付き合わないことにした?」
私が先回りして答えると、赤也は慌てたように振り向いた。そして「違え」と否定したきり、何も言わない。
ただ黙りこくってるというのではなく、必死で言葉を模索しているようなもどかしさがあった。それでも赤也の目はじっとこちらを向いていたから、私は待たないわけにいはいかなかった。
唇が緩慢に動き出す。
だから、俺、次は。
「次は、そういうメンドーなことでもしたい、されたいっていう相手としか付き合わないことに決めたんす」
もっと幼い意見が返って来るものと侮っていたので、虚を突かれた。
どこか漠然とした自分なんかより、よほどものをしっかり考えている。
気圧されて、うんと頷くはずが「ヒン」と動物の鳴き声みたいな音が出た。ますます先輩としての地位が危うい。
私は赤也の頭を撫でさすり、とってつけたような子供扱いで自分の中のなにかを誤魔化そうとした。
いつもならやめてくださいよ、と彼は首をすくめて抗議するだろう。
けれどその日は、撫でる手を取られた。
振り払うでもなく、それを掴んだまま赤也は言った。
「付き合いません?俺と」
反射的に、「あ?」とガサツな返事してしまった私に罪はなかろう。
気概すら感じたあの発言の直後に、この言動はない。
「え、だって、あのごめん、さっきの流れからいってコレおかしくない?」
取り繕うようにそう言うと、崩れんばかりに肩を落とし、ああと唸って後輩は頭を抱えてうずくまった。
せっかく重たくならねーように言ったのに。
くぐもった細い声がそう云った。
なに、と口を挟もうとしたが、顔を上げた赤也と目が合ってしまい叶わなかった。
「さっきの奴、きっと卒業が近いから焦ってたんスよ」
なんで今更その話を。
不意に蒸し返され面食らっていると、赤也の声がかすれた。
「……俺も」
焦ってる。

私はただ瞬きをした。
もう頭を撫でまわすなんて子供だましは出来そうもなかった。それが通じる子供なんてもうどこにもいなかった。
壊れたように耳が脈打つのを怖いと思った。
先輩」
彼は恐らく初めて私を名前で呼んだ。いや恐らくなんて曖昧ではない。はっきりと言える。初めてのことだった。
「付き合って下さい。俺と」
体ごと私へ向き直った懇願するような顔と、聞いたこともない誠実な声。
同じ台詞のはずなのに、校舎裏の彼の顔が何故か胸をかすめもしなかった。思い浮かべようとする、その隙さえ与えられない。

――――― 代役じゃ無理ってこと

向き直ったまま赤也は俯いて、まっすぐ手を差し向けてきた。
肘まで律儀にぴんと伸ばし、私が手に取るその瞬間をただ一途に待っている。


恋とは何だろう。


いま目の前にある、差し出された手のわずかな震えこそが、
この手の持ち主が付き合い始めたあの日あの時、チクリと私を刺した痛みの正体こそが、
まぎれもなく恋だと鳴いて、胸を貫いた。