柳生くんと席替え






「あれ」
「おや」
 番号の紙切れから顔を上げるのと、机と椅子ごとやってきたその人がこちらに気づいたのはほぼ同時だった。
「25番?」
 簡略された問いに微笑みで答えれば、同じく笑みを成した顔が24の数字をひらひらと振って見せた。細い腕が抱えてきた大荷物の引越し先は柳生の目の前。窓際の壁に机の端がくっつけられ、反対側の脇のフックには記憶に馴染みのある赤い布地のリュックがぶら下がっていた。肩の線や体のつくりを思えばアウトドア向きの頑丈そうなそれはいささか大きすぎる気がしないでもないが、幾度か背負っている姿を目にしているせいかさほど違和感はない。見た目が与える印象ほどか弱くはないと雨の日にすでに教えられている。慌ただしくも溌溂としたその背中が、着席する手前でくるりと柳生を振り返って手を振った。
「以後よろしく」
「こちらこそ」
 進級してから二度目の席替えだった。


 狭い教室内とはいえ、目線が変われば風景は目新しい。以前の場所より後ろに下がったせいか、広々とした開放感を覚える。視力の差を慮ってだろう、席替えのあとが思い出したように、席を代わらなくて大丈夫かと尋ねてきたのを、柳生は心遣いだけを受け取り、必要ない旨を伝えた。度を合わせたばかりのレンズは十分な働きをしているし、過去、前席を陣取っていたのが縦にも横にも体格の良い男子生徒(柔道部)だったことを思えば、彼女一人ぶんくらい何の妨げにもならない。
 偶然は時に重なるものだ。つい先日まで顔と名前が一致する程度に過ぎなかった存在が、雨の日を境にくっきりと輪郭を持つようになったかと思えば、間をおかず席替えがやってきて、今やこうして視界の最も多くを占めている。柳生が席順に感じた新鮮さの何割かは、彼女がもたらしたのかも知れない。
 も柳生同様、新しい席に慣れ親しむまでしばらく落ち着かない様子だった。彼女は最初の一週間、毎朝登校するたび席替え前に座っていた場所に向かい、途中でハッと気がついて俊敏に戻る、を欠かさず繰り返し、柳生を密かに楽しませていた。意識して見ているつもりはないが、位置のせいで自然と目に入ってしまう。向こうはそれを感じ取る気配もなく、言葉より雄弁なほど真っ正直にのびのびと動くので、常に柳生の視界は何となく賑やかなものになった。
 さして話したこともない柳生相手にもためらいなく傘を貸した行動からも知れるように、彼女には垣根というものがない。勿論あるにはあるのだろうが人よりもずいぶんと簡素にできていて、乗り越えるではなく小石をよける程度にひょいと跨いでやってくる。それが風が頬に触れるくらいに気安く、自然なものだったせいだろうか。一日一日と、景色の変化に視覚が馴染んでいくのと同じ速度で、柳生の世界にの生態が編みこまれていった。

 たとえば、午後の授業の大半、睡魔との戦いに費やしているとか。
 いびきをかいて安眠を貪るほど大胆ではないものの、眠気に主導権を握られているのは明らかで、よく窓枠にガンガンと頭を打ち付けている。なかなか激しく、漏れ聞こえる音は痛そうだが、それでも目が覚めないらしく衝突音は止まない。コブになるのではないかと案じる柳生をよそに、今日も彼女は景気よくヘッドバッドを食らわせていた。
 窓際の席は緊張感を保つには確かに不向きだろう。昼過ぎとなれば空腹も満たされ、心地よい日差しに抱き込まれれば夢現となるのも不思議ではないのかも知れない。とある五時間目を終えた休み時間、その日の授業中も窓を割らんばかりだったが半分とろけた眼で、ぶつぶつと何か諳んじていた。

 春はあけぼの……やうやう白くなりゆく…………なりゆく…………法隆寺……

 そして彼女は机の上に倒れ伏して寝息を立て始めた。古文は苦手のようだ。

「どうしてそんなに眠いんですさん」
「どうしてそんなに眠くないんです柳生さん」
 オウムのように返したはしたたかに打ち付けていたこめかみ付近をすり上げている。柳生は少し考え込むようにひと呼吸おいてから眼鏡の縁に触れた。
「集中していれば」
「集中力なんて午前中で全部出払っちゃうでしょうよーもう在庫ないよ!」
 ばんばんと両手が机に打ち付けられる。騒がしく申し立てられた異議を苦笑いで流した。
「早寝を心がければ少しは違いますよ」
「何時に寝てる?」
「特に何もなければ10時半には……」
 は大げさなくらいのけぞって目を剥いた。
「早っ! お年寄りタイムスケジュール!」 
 正直すぎる物言いに柳生の眼鏡も一瞬かたまる。心外とばかりに眉間にしわを寄せ、読書をする時はもう少し長く起きていますが、と言い訳がましく付け加えた。
「そもそも夜更けまで起きて何をなさってるんです?」
 咎めるような口調になったのはせめてもの意趣返しだ。彼女はのけぞった姿勢のまま瞬きをして、それから首をひねり始めた。
「そう言われてみれば……うーん、テレビ見てる……?」
 天井を見上げた手探りの瞳に「あっ、」と突然閃きが走る。
「ゲームとかをね、やってるね、へへ……」
 あまり褒められた行為ではないと自覚しているのか、は肩をすくめていささかバツが悪そうに笑った。下らないと切って捨てこそしないけれど、健康面を考えれば睡眠時間をすり減らすのは感心しない。後輩にも一人、夜を徹してゲームに浸かり、翌日真っ赤な目をして登校してくる男がいる。彼は何度副部長にたるんどると喝を入れられても、一時間だけするつもりがつい五時間たってたりするんスよ〜と「つい」では済まない延長時間についてペロッと口を滑らせる等、なかなかに迂闊、そして懲りない人種である。
「でも! 勉強で起きてることもあるもんね!」
 直接彼女に対してではないものの、胸の内が一部伝わってしまったのだろうか。柳生が何か言ったわけではないのに、は身を乗り出してまでそう主張した。名誉挽回のつもりらしい。どうだ、と急ごしらえの得意げな顔がおかしいのと、彼女が神妙に机に向かっている姿が意外なのとで、くっと笑いがこみ上げた。それをこらえる為に口を開いたら、やけに楽しそうな声になってしまった。
「それは感心ですね。ですが、夜更しはあまり効率が良くないと聞きますから無理はいけませんよ」
「心配ご無用!」
 明るい表情を見せたは親指を、ぐっと立てて。
「試験前だけだから!」
 その顔もまた、まるで褒めろと言わんばかりの鼻息の荒さだったので、柳生は何も言えず、それこそお年寄りじみたスローモーな溜めをつくってから頷いたのだった。