柳生くんと傘
翌日もしぶとく雨だった。 一晩中音を立てて泣き続けた空は朝を迎えてもぐずぐずと未練を残し、道行く人は皆傘を手に歩いた。昨日雨に散々いたぶられた柳生も、今日はしっかりと傘を携えている。 あれから、身を守る盾を失った柳生は、雨の中をひた走るしかなくなった。家にたどり着いた頃にはすっかり全身ずぶぬれで、出迎えてくれた妹から「よく水切りしないと……」と豆腐のような扱いを受けた。 柳生は慎重に物事を考える方で、行き当たりばったりとは遠く離れた性質を持つ。通り雨に降られることはあっても、こうまで無防備に水浸しになって帰ることは珍しい。玄関でぐっしょり濡れたシャツの裾を絞るなんて、果たして何年ぶりだろう。 彼にしてみればらしくない一日だったが、思ったほど悪い気分ではなかった。抵抗を感じていたのは制服が雨水に侵食され始めたあたりまでで、その感触が靴下に及ぶ頃にはもうどうでもよくなった。むしろ清々しささえ覚えた。 頭のてっぺんからつま先まで、それこそ水に沈められた豆腐のようにびしゃびしゃで、唯一の例外はビニール袋で巻いてかろうじて守った鞄だけ。とはいえ完全に防ぎきるのは無理があったか、取り出したノートや教科書はかすかに湿っており、やはり本を学校に残してきて正解だったと柳生は決断の正しさを悟った。同時に、あの人は無事だっただろうかと嵐のように去っていった後ろ姿を思い出した。 生身ではなかったものの、しょせん薄っぺらいビニール一枚、防御力はたかが知れている。あの慈悲も何もない降りようならば、例え傘をもってしても完璧に無事とはいかなかっただろうが。その傘をしれっと柳生から奪って消えた元凶についてだが、一応メールで確認という名の抗議をしてみたところ、夜更けに【めんご】と一言返信があったのみである。そう簡単に心のこもった反省など引き出せる相手ではないので、日付が変わる前に反応があっただけよしとした。 教室にたどり着いた柳生が真っ先に行ったことといえば、ロッカーに傘を押し込めることだった。通学ですっかり濡れたそれではなく、新たな置き傘だ。しかも一本ではない。いつまた仁王にちょろまかされても困らないように、予備まで用意する念の入れよう。つまり柳生はご苦労なことに、右手で傘をさしながら、左手でカバンと複数の傘を抱えて登校してきたのである。ついでにカッパも用意してみた。昨日の一件は不快な記憶として分類されるものではなかったが、あいにく過ちを繰り返すことをよしとする主義でもなく、過去の経験から学んだなら相応の対策をとるのが柳生である。同じ轍は踏まない。 傘の補充を果たし、次に彼がやるべきは置き去りにした本の安否確認。とはいえそれはロッカーを開けた時点で完了していた。昨日置いたのと変わらぬ状態でそこにある。消え失せているとは思ってなかったが、それでもいくばくかホッとした。そして、本を手にした柳生がロッカーを閉めたところで、タイミングよく三番目の目的が登校してきたのだった。 ぴょこぴょこと足取りも軽く、が教室内に入ってくる。自分の席へと向かう彼女を柳生は自然な動作で追いかけた。 「おはようございます」 「うんおはよー」 さわやかな挨拶が返ってくる。許容量いっぱいに膨らんでいたリュックは、今日は余裕をもって彼女の背にぶら下がっていた。振り向き仰いだ表情は健やかそのもので、不調の気配は一つもしない。体を冷やして風邪を、という心配はないようだった。 「昨日はありがとうございました」 柳生が丁寧に礼を告げると、机にリュックを預けながらはその目をぱちぱちと瞬かせた。ああ! としばし遅れて納得の色が浮かぶ。昨日の今日だというのに、彼女の記憶から消えかけていたようだ。あまり過去に縛られる人ではないのかも知れない。 「あれ、お役に立ちましたかな?」 あれ、と言いながらは傘をさす仕草をみせる。 柳生はにっこりと口元に微笑みをたたえて、 「もちろん。おかげさまで本も私も大事ありませんでした」 誠実に嘘を吐いた。 ただし柳生には嘘という意識はない。に気を遣ったというより、そうするのが一番自然で、自分の気持ちに沿っている気がしたからだ。事実を伝えることに意味があるとは限らない。結果的に傘が柳生の身を守ることはなかったとしても、あの時差し出された好意の価値が彼の中で損なわれるはずもなかった。 「よかったよかった」 役に立つ以前に傘が大破したことなど知る由もない彼女は、うんうんと満足げに頷いた。 「柳生くんも本も水に弱そうだもんね」 「よ、よわ……? そ、そうですか?」 「あ、いや悪い意味じゃなくて、水分とか湿気に耐性がなさそうっていうか、しなっとなりそうだなって」 悪い意味ではないかも知れないが良い意味でもなさそうだ。悪意を感じない分、受け取り方に困った柳生は思わず「なるほど」などと応じてしまったが、何がなるほどなのかは彼自身知るところではない。 「その、さんのほうは大丈夫でしたか」 「濡れたのは濡れたけど」 これさえ無事なら問題なし、と彼女の手がリュックを叩く。 「ただ、ゴミ袋ペラッペラすぎて! まだ改良の余地があるね……二枚重ねるとか……」 腕を組んだは眉間に皺まで寄せて真剣に思案している。ふと、彼女の制服のスカートにいくつか皺を見つけた。軽くアイロンを当てて来たのだろう、すでに薄らとして目立つものではないが、その痕跡からくしゃりと丸められたのだろう様子が見て取れた。そこで、昨日彼女のリュックに何が詰め込まれていたのか柳生は思い至った。 「昨日は部活でジャージを?」 柳生の問いかけで一度捻られた首は、すぐに察したのか横に振られる。 「うん? ああ、そうでなく。私けっこう制服汚す方だから、親が怒るんだ。またかって」 だからわざわざ着替えたんだけど。 「扱いが雑すぎるっていう理由でお叱りを受ける安定の結果だったね……」 いかにも「とほほ」という風情で、皺の名残を伸ばすように両手がスカートの生地を引っ張った。 人類は大きく分けて、衣類を「たたむ者」と「たたまない者」、そして「たたんだつもりの者」の3タイプがいる。恐らく彼女は「たたまない者」と「たたんだつもりの者」のどちらか、もしくは両方の要素を兼ね備えたミックス派に違いないと失礼なくらい自然に柳生は判断を下した。さしてよく知りもしないというのに、制服をきれいにたたんでいるよりも、くるくるっと適当に丸めている姿の方が何故かすんなりと想像できてしまったのだ。 柳生の所属する部活動の仲間にも、「たたむ」という概念の存在を疑うほど迷いなく、脱いだ端からバッグに詰め込む輩がいるが、洗えば同じじゃんと特に悪びれる様子はない。Tシャツや下着ならまだしも、ジャケットやスラックスの類は手荒に洗濯機に放り込むわけにはいかないだろう。託される者の苦労が忍ばれる。ちなみに柳生は対極に位置し、脱ぎ散らかす等もってのほか、多少面倒であっても着替えの際の折り畳み作業は怠らない。いつなんどきも手順を踏まえて整えるその几帳面さは、周囲から「独身貴族か」と十代には嬉しくない評価を集めている。 「今日は着替える必要はなさそうですね」 地を打つ雨は昨日とは比べ物にならないくらい弱々しい。どちらともなく窓に目を向けた時、始業のベルが教室に響いた。じゃあ、と話を切り上げようとするに、柳生は口を開いた。 「さんあの傘なんですが、」 「あ、帰りでいいよ」 返事も待たずさっさと席についてしまったので、柳生も「では」と会釈をして席へと戻った。 過去に縛られない人という柳生の見立てはあながち間違いではなかったらしい。帰りでいいよ、と自ら発したはずのは、放課後が訪れるやいなや友人たちに手を振りながら颯爽と教室から去ろうとしていたのである。鞄に本や教科書を詰めていた柳生は、作業を放り出してその背を追う羽目になった。 「さんっ」 「ん? あ!」 振り返ったは柳生を見るなり、忘れてた! という正直すぎる心の声を顔面に張り付かせた。そしてじわじわと気まずそうな表情になっていく。 「帰りに、と約束したでしょう」 「や、違いますよう、ちゃんと覚えてましたよう。えへへ」 はばつが悪そうな笑みを作りながら、説得力をまるで感じない台詞を吐いた。その顔は、いたずらを見咎められたやんちゃ坊主にどこか似通ったものがある。妙に力が抜ける感覚を覚えた柳生は、呆れとも笑いともつかない溜息をもらした。「少し待っていただけますか」と言い残して一度教室の方へと翻る。 果たして彼女は単純に忘れっぽいだけなのか、何か別のことで頭がいっぱいだったのか、それとも柳生の存在が限りなく透明に近いブルーなのか。自分で考えておきながら、三つ目の可能性に柳生はいささか傷ついた。 「お待たせしました」 戻った柳生が声をかけると、壁によりかかって鼻歌を奏でていたが顔を上げる。上機嫌というか、浮き足立っている雰囲気があった。 「それで、傘なんですが」 「はいはい」 「実は、家につくなり壊れてしまいまして」 「あーやっぱり。古かったしね」 「たいへん申し訳ないのですが代わりにこちらの傘を」 「別に気にしなくてい…………かわいい!」 古さは承知の上だったようで、壊れたという部分には特に反応しなかっただが、傘を目にした途端、急にテンションが変わった。 「うちにあったものなんですが、使っていないので良かったら」 紺地に赤や白の花柄は目に鮮やかだ。派手というほどではないものの、妙齢の女性が持つには色合いやデザインが可愛らしすぎるのかも知れない。使わずに置いておくのも無駄と、持ち主である母は快く息子に譲った。つまり柳生の今日の傘総数は、置き傘二本、さしてきた傘一本、そしてこの傘の四本である。なかなかの大荷物ではあった。 「かわいい……君かわいいな……広げると二倍かわいいんだろうな……!」 は傘を撫でながらかわいいを連呼している。気に入ったのは間違いないだろうが、やはり遠慮があるのか表情の端々に、まだいくらかの躊躇いが見える。 「いいの? ほんとにもらっていいの?」 伺うように柳生を見上げてきたので、どうぞ、とにこやかに応じると、ぱっとその頬を上気させた。 「では遠慮なく! ごめん嬉しい! ありがとうございます!」 全身に喜色をあふれさせながら、はきょろきょろと見回し、廊下に誰も歩いてないことを確かめてから傘を広げた。かわいい! 三倍かわいい! と飛び跳ねる。ポップコーンのようだ。 ひとしきり騒いで落ち着いたか、やがてしみじみ傘を見上げながら彼女は息を吐いた。 「うはー自分用の傘ひさしぶり」 「自分用?」 想像以上のはしゃぎように、しばし無言で見入ってしまった柳生だが、その言葉に違和感を覚えてふと瞬いた。思わず聞き返すと花柄がくるくると回る。 「お父さんが出先で雨にあたるたび買ってきちゃう人で、傘は無駄にあるんだけど、共有だから誰のっていうのが特にないんだ。それはまあいいとして、色も柄もおっさん仕様なのが……」 昨日彼女が貸してくれた(そして最速で殉職を遂げた)傘は、確かに華やかとは言い難い代物だった。置き傘だからだと思っていたが、今の話から察するに傘という傘が全てがそのように地味であるらしい。花柄に目を輝かせるのも頷ける。深く考えず、単にいくつかあった傘の中から特に女性らしい柄を手に取ったにすぎないのだが、最良の判断だったと言えよう。これから先、誰に傘を贈ったところでここまで感激されることなどないに違いない。柳生は笑みを深めた。 「気に入って頂けたようで良かった」 それに何度も頷いたは、ふひっとおかしな音を立てて顔をくしゃくしゃにした。傘を手ににこにこと相好を崩す様子はなんともいえず可愛らしく、子供に飴でも与えたような微笑ましさがある。 そうか、子供は忘れっぽい。目の前のお菓子で五分前の玩具を忘れる。そこまで極端ではないにせよ、彼女にはそういうところがあるのだろうなと一人納得した柳生は、つられて緩めていた顔の筋肉を一度引き締めた。さっきまでのそわそわした様子から考えて、彼女はどこかに向かう途中なのではなかったのか。 「そういえばやけに急いで帰ろうとしていたようですが、よろしいのですか」 飽きずに傘をくるくると回していたは、途端にはっと目を瞠った。 「今日すき焼きなんだった! 帰る! 傘ほんとにありがとう!」 そう叫ぶなり、びよんと踵を返した彼女は転がるように廊下を駆け出した。その勢いに、昨日と同様になすすべもなく見送りそうになってしまった柳生だが、揺れる花柄模様が目に入って我に返った。 「さん傘! 傘が開いたままです! 閉じて!」 「うおっ! そうだったー!」 廊下を曲がる直前で慌ただしく花が閉じて、そのまま曲がり角の奥へ消え失せる。柳生は短く笑い、すき焼きについて考えながらゆっくり教室へ戻った。 |