柳生くんと雨




 午後から激しく降り出した雨を、柳生比呂士はそこまで疎ましくは思っていなかった。かえって、この日を選んで崩れてくれた空模様は彼にとって望むところだ。
 天気は日々入れ替わる。晴れるときもあればどんよりとした雲が支配するときもある。いつか必ず恵みの雨がもたらされるのならば、今日のように部活が休みの日に当たってくれた方がありがたい。だから、この恨みがましいため息の向かう先は、彼の行く手を遮る土砂降りではない。それから身を守る為の備え、つまりは柳生の傘をちゃっかりと横取りして帰った(彼にとっては「借りた」と同義語なのだろうが)相棒に対してである。特に教えていたわけでもないが、用意周到な柳生が置き傘をしていることくらい抜け目無い彼にはお見通しだったようだ。放課後、雨の景色を横目に図書室で本を物色している間に、控えめな格子模様の傘はロッカーの奥から姿をくらましていた。
 厚い雨雲は切れ間なく、雷こそ鳴らないが雨足は依然強いまま。生徒玄関に閉じ込められる形で、柳生はそれをいささか途方に暮れながら眺めていた。
「傘ないの?」
 背中から声がした。反射的に振り返った先で、見知った顔の女子が柳生を見ながら上履きを脱いでいた。さん、とすんなり名前が口から滑り出る。彼女――とは今年の春に初めて同じクラスになった。それ以前は顔も名前も知らない全くの他人で、クラスメイトとなった今も席が離れているせいか特に接点がなく、数回口をきいたかきいてないか程度の間柄だ。薄暗くなりつつある生徒玄関には他に人影はない。会話の相手が自分であることを確認した柳生は頷いた。
「ええ。ちょっとした手違いで」
 表情に苦笑いをのせる。身内の恥のような気がして、パートナーに掠め取られた件については言わずに置いた。
「ふーん」
 は首を伸ばして、立ち尽くしている柳生を、いや、その後ろの扉の向こうに目をやった。中途半端に履いたスニーカーのつま先をとんとん鳴らして玄関口へと歩いてくる。柳生を追い越していったのでそのまま出て行くのかと思えば、ぴたりと足を止めた。扉のガラスに張り付くようにして荒々しい雨粒をじっと見ている。部活帰りなのか、彼女は制服ではなく上下ともジャージ姿だった。背負ったリュックは何故かぱんぱんに膨らんでいて、ファスナーの隙間から傘の柄が覗いている。この荷物の形態……柳生の脳裏を裸の大将がよぎった。
「こりゃあ止みそうもないね。待つだけ無駄じゃない?」
 は首だけひねって後ろを向いた。潔く諦めろと言いたいのだろう。
「そのようですね。私自身は構わないんですが、今日は図書室から本を借りてしまいましたから」
 あまり濡らしたくないんですよ、と柳生は鞄を抱え直した。図書室に寄った際、貸出中続きだったお目当てがたまたま返却されるところで、運良く手にすることができた。出来ることならすぐに帰って貪りたいが、本が痛むような真似は極力避けねばならない。柳生は紳士である。女性やか弱きものに限らず、書物に対してもそれは変わらない。しかしが言うように空模様に希望を見出すのは難しく、回復を待っていたら夜が明けてしまいそうだ。柳生はあと少しだけ様子を見て、どうにもならないようであれば本をロッカーに預けて帰るつもりだった。
 柳生を見上げる瞳はくるりと丸い。それが一度だけぱちりと瞬いて、ガラスに両手をはりつけた姿勢のまま、彼女は真面目な面持ちでつぶやいた。
「なるほど」
 おもむろには体を折って、ジャージのズボンの裾をまくり始めた。柳生が面食らっているのもお構いなしに、彼女は両足とも膝まで持ち上げて、白いふくらはぎを剥き出しにしてしまった。制服の時は当たり前に目にしてはいるが、わざわざ目の前でさらけ出されると僅かながらに狼狽する。
さん?」
 戸惑いの混じった問いかけに彼女は答えず、柳生に背を向けたまま真っ直ぐに手を後方に伸ばす。そして、雄々しい勇者の如き風情で、一気に剣を引き抜いた ―――― ように見えた。
 実際は、リュックから傘を抜き取っただけだった。年若い娘が持つには地味で飾り気のない黒い傘。気づいたときには、柳生の眼前に突きつけられていた。
「え?」
 虚をつかれたせいで、躊躇いを覚える暇もなくあっさりと手にとってしまう。
「しばらく使ってないからボロいかもだけど」
 そう言ってさっさと踵を返してしまいそうなを、柳生は傘を握り締めながら慌てて呼び止めた。
「ま、待ってください! お気持ちはありがたいですが、それではさんが濡れてしまいます。どうぞ傘はあなたが」
「あー平気平気」
 正面を向きかけたがへらっと笑って手を振った。
「これかぶって走るから」
 柳生の見間違いでなければ、その手に広げられたのは大きなゴミ袋だった。取り出すや否や真ん中と左右の3箇所を引きちぎり、頭からかぶる。裂けた穴から目と鼻と両手をそれぞれ出した彼女は「ね?」とでも言わんばかりに、恐ろしくやる気のないハロウィンの仮装みたいなその姿を柳生に見せた。面妖な出で立ちに彼はしばし言葉に詰まり、取り繕うように眼鏡を押し上げるしかなかった。
「……そんな不格好な、いや、ご不便を……おかけするわけには」 
「いいよ多少濡れてもジャージだし」
「し、しかし」
「あっ! ちょっと雨弱まってるっぽい! 今だ!」
 言い募る柳生を突き放すにも似た勢いで身を翻したは、玄関から飛び出していった。引き止める暇も隙もなかった。人の形をしたゴミ袋が、何事か叫びながら雨の中を走っていく。
 わー! 思ったほど弱まってなかった! くそー早まったー!
 独り言というには騒がしく、苦情というには屈託がない。暗澹とした空を歯牙にもかけない賑やかな悲鳴は、ばしゃばしゃと大きく水たまりを跳ね上げる音ともに、校門へと吸い込まれていった。
 途端、嘘のように空気が静けさを取り戻した。
 それに合わせて、呆気に取られていた柳生も落ち着きを取り戻す。玄関にはやはり人の気配はなく、そこかしこで雨粒の弾ける音が校舎を取り囲んでいる。見下ろした先には黒い傘。有無を言わさず押し付けられたそれを見て、柳生はふと短い息をもらした。その唇は無意識に微笑みの形を描いていた。
 後日きちんとお礼をしなければなりませんね。
 雨雲は心なしか少しだけ明るくなったように見える。
 その空に向かって柳生は傘を丁寧に広げようと、

 バリバリバリバリボキ

 耳を疑うすさまじい音色が雨音をねじ伏せるように響き渡った。柳生は一瞬、落雷だと思った。違った。柳生の持つ柄の先で、傘の骨という骨が折れていた。言葉を失っている間に、折りたたみ傘の開きかけのような有様になった長傘は、吹き付けてきた雨風に煽られ、更にぐしゃりと悲惨に潰れた。

 その日、ロッカーに本をしのばせた柳生は、傘だったものを抱えて濡れながら帰路についた。