柳生くんとテスト
数日に渡って行われた定期考査が、本日ようやく最終日を迎えた。 生徒は長らくの緊張感から解放され、ある者は結果はどうあれ終わったと晴れやかな顔つきに、またある者は思わしくない出来を憂いて表情に影を落とすなど、様々な反応を見せている。普段からこつこつと積み重ねた成果が学力に結びついている柳生はそのどちらでもなく、いつも通りの面持ちで席へ戻った。 試験中の席は出席番号順の並びになる。ほんの数日離れただけとはいえ、すっかり慣れた場所に腰を下ろすとやはり落ち着く。ほどなくして、前の席の主も戻ってくるのが見えた。性格から考えて、前者の代表格であろうと思われたにはしかし、柳生の予想に反して笑顔がなかった。ふらふらと重い足取りで席についた彼女は、そのままロダンの彫刻のように難しい顔で沈黙してしまった。魅力のひとつとも言えるその健康的な肌に今日はどこか艶がなく、目の下には濃いクマが浮かんでいる。これがいつか宣言していた、試験前の徹夜の成果かと人知れず納得していると、彫刻が動いて柳生の方を見ていた。 「音楽の問題のさ、くるみ割り人形って……」 「チャイコフスキーですか?」 「あっああ! それだ! チャイコ!」 目をくわっと見開いたはすぐに頭を抱えて大きく机に崩れ落ちた。ぐっしゃりと潰れた背中がぼそぼそと恨みがましく呟く。 「チャイコか、チャイコ……そういえば聞いたことあるわチャイコ……。なんとかフスキーまでは覚えてたのに……スワロフスキーしか出てこなくて……ていうかスワロフスキーってだれ?」 「スワロフスキーは人物名ではなく、ビーズのような装飾品のことです」 背後から適切な回答を投げかけると、ぐるん! と音がしそうな勢いで首が柳生へ回った。 「あのキラキラしたやつ?!」 「はい」 まぎらわしい! と悲痛な鳴き声。それから急に威勢が削がれて、しなしなとその肩が落ちていった。力なく肘をつき、白く煤けた微笑みで窓を眺めるさまは哀愁の匂いさえする。 「惜しい……惜しかった……フスキーまでは合ってた」 ふっ、と彼女の口から短いため息が吐かれた。自嘲とも取れるし、自分を励まそうとする意識も見える。これを分類するならば、おそらく「負け惜しみ」系。柳生はの落胆ぶりにたじろぎながらも、慰めの言葉を口にしかけた。 「でもたったの一問ですし、ほかが出来ていれば、」 「その一問を筆頭に、全体的に思わしくない」 柳生の口は途中ですっと閉じられた。クラスメイトの気遣いをよそに、は「あー」とひっくり返る勢いで椅子の背もたれに体を倒した。 「実技自信ないからテストで稼いでおきたかったのに」 浮かない表情のままぼそりと呟いた。 「やっぱり昨日一晩、棒に振ったのが痛いな……」 「棒に振る?」 クマをつくるほど、しっかり一夜漬けで臨んだのではなかったのか。首をかしげてみせると、彼女はそそくさと目を伏せた。 「実は徹夜でゲームを……」 「…………さん」 眼鏡の奥の愕然とした気配を見てとったは焦ったように左右に大きく両手を振った。 「ち、違う! ちゃんとやってたよ?! 初めは! ただ途中で、マリオカートをおもむろに人の部屋でやり始めるという身内の妨害行為が」 そこで彼女は苦々しい顔になった。 「一緒にやろうやろう、俺と対戦しようって、人の都合も顧みずに」 どうやら彼女には兄弟がいるらしい。持て余したような口ぶりや彼女にじゃれつく幼い行動から察するに弟だろうか。部屋を自由に行き来するとは、仲の良さが伺える。柳生は自分の妹と重ね合わせて少しだけ和んだ。が、今はそれを奥にしまい、厳しさを含んだ声を出した。 「日を改めてと説き伏せれば良かったでしょう」 「いくら言っても、獅子の子も引くわっていう逞しさで這い上がってくるんだよ……散々ごねられてフルボリュームでスターマリオの音楽聞かされた挙句、勝負に応じないのは武士じゃないとか挑発された日にはもう」 受けて立つしか……あるまい? 急に芝居がかった流し目を寄越されても柳生も困る。 「いやほんと勉強したかったし一戦だけ付き合うつもだったんだけど」 コース選択の際に、向こうが自分だけがやりこんだ上級者コースを選んだのだという。それは彼が友人から借りてきた新作で、今日はじめてそのコースを走るにとっては未開の地といっていい。当然結果は惨憺たるもので、そこそこ腕に自信を持っていた彼女のプライドに傷がつくのと同時に、闘志に火が付いた。このままおめおめと引き下がるわけにはいかない。よしもう一番、もうワンチャンスと繰り返すうちに勝負は白熱して、敵の進路上ど真ん中にバナナを撒き、甲羅を的確に命中させ、隙のないコース取りでライバルを蹴落とし、いつしかあらゆるレースの先頭をぶっちぎってはサーキットの狼として表彰台をかっさらうようになった頃、テストのことなど頭から完全に消えていた。 「で、気づいた時には窓の外が白々と……」 語る眼差しは旅人のように遠いものだった。 呆れていいのか哀れんでいいのか、その時の柳生にはよくわからなかったので、彼女と一緒に、校舎に響く鐘の音を聞きながら淡い色の空を眺めた。羽ばたいたカラスが白けた眼差しを向けて視界を横切っていく。 「実技……頑張ってください」 「ああ……リコーダー練習しないとね……」 言いながらは空に両手を添えて見えない笛を奏でたが、その動きはぎこちなく、なめらかな指運びとは言い難い。苦手という自己申告はどうやら嘘ではないようだ。同情した。 「追試もあるかもしれませんから」 「うん、とりあえずチャイコフスキーは覚えた」 頷きこたえた横顔は生真面目そのもの。 が、 「実技がなあ、笛とか歌じゃなくドリフト走行だったらなあ、A評価間違いないのに」 と笛を奏でていたはずのその指がいつの間にか見えないコントローラーを操作していたので、やれやれと柳生は息をついた。 困ったひとだ、と。 |