五センチほど開いたと思ったら、次の瞬間、家全体が軋みそうな勢いでドアが閉じた。 どうみても歓迎されている様子はないが、構わず仁王はチャイムを鳴らした。 一度鳴らしても扉はびくとも動かない。 しかし確実にすぐそこで息を殺している気配がする。 二度三度と押すと、閉じられたドアの向こうから「留守です」と声がした。 「さっき居ったじゃろうが」 「双子の姉です」 「嘘はもう少しうまくつかんといけんよ」 「……回覧板って嘘もどうなんでしょうか」 「そうでも言わんと、開けてもらえんと思うての」 再び沈黙が訪れた。 来訪を拒むチョコレート色の扉が堅牢な砦のように見える。 だがここで諦めて撤退する選択肢は、今の仁王にはなかった。 「どうしても入れとうないなら、この場で聞いてくれても構わん」 ただし、と仁王は付け加えた。 「ご近所さんに丸聞こえの刑じゃがええか」 途端にバタバタと転げまわるような騒がしい物音が響き、頑なだったドアが猛然と開かれた。 必死の形相でノブを掴んでいるは、体調が悪そうな様子はないものの、明らかにさっきまで寝ていたのが見てとれる格好をしていた。ホームウエアというか寝巻きである。 ようやく生まれた隙間から仁王がするりと体を滑らせて侵入すると、はドアを閉めることを躊躇するように振り向いた。 「ていうか、あれ、学校は?」 「親戚に不幸があったきに早退じゃ」 あ?ええ?とかなんとか素っ頓狂な声でわめいている彼女をよそに、仁王はさっさと奥へ進み、靴を脱ぐべく片方の足でかかとを踏んでいた。 「上がってもよか?」 「うわ、ちょ……ストップ!」 はいていた突っかけを放り出し、玄関マットの上で仁王を制したは、3分そこから動くなと厳重な命令を下して、チョロQのような加速度で階段を駆け上がった。 その俊敏な動きにまず間違いなく病人でないことを確信し、仁王は少し安心した。 じきに、もういいよとかくれんぼのごとき許可の声がおりてきたので、「お邪魔します」と無理やり上がりこんだとは思えない殊勝な態度で敷居をまたいだ。他に人の気配がないので両親が不在とはわかっていたが、一応靴も揃えた。 初めて入ったの部屋で、寝巻きからデニムと七分袖のシャツに着替えた彼女と向き合って座る。 3分間で片づけまで済ませたのか、部屋の中は妙にすっきりとしていた。 さっきは気づかなかったが目が赤い。あれからまた泣いていたのかと思うと、罪悪感がはれ上がって土下座したくなる。 は一旦仁王と目を合わせ、すぐにふっとそらし、顔を伏せた。膝の上の白い手のひらが、心を決めたように固く結ばれる。 わずかに震える声がした。 「あのさ、明日はちゃんと学校に行くから、だから」 「告白しようとしてたって、ほんとかの」 跳ねるようにして顔が上がる。 瞬きもせず凍りついたに、仁王は尚も問いかけた。 「あの日、俺が来るのを待っててくれてたんかの」 知らなかった。 気づかなかった。 付き合ってることを隠したがってたのに、と放心したように言ったら、そりゃお前の方だろうが!とあの友人に怒鳴られた。 仁王が今度の彼女の名前をひた隠しにしてるって話を聞いたから、が気を遣ってなるべく人目につかないようにしてたんじゃんよ!と胸蔵を掴まれそうな勢いだった。というか実際掴まれた。 隠そうなんて気はサラサラなかった、仁王の彼女ですなんて、聞かれなきゃあの子がわざわざ言うもんかと彼女は言った。その通りだった。 自分から吹聴して回るようなタイプではないことは明確だったのに、何故そんなこと気づきもしなかったのか。 勝手にあらぬ疑惑を抱いて、の名を伏せ、深い深い墓穴を掘った。 痛々しいほど周囲を気にしていたのは、自分ではなく仁王の為だった。いつだか裾を掴んで心配そうにしていたを思い出し、あの時の彼女の健気さと己の間違った反応に目眩がした。 露見したって良かったのだ、むしろ隠す必要などひとつもなかった。この馬鹿、100ぺん殴ってもまだ足りない。 はしばし、ろう細工のように固まっていたが、みるみる下の方から肌の色が変わっていった。 赤くなり青くなり白くなり、そして最後にまた赤に戻った。 おおう、と呻きながら手で顔を覆う。 「しゃべっ……たな……」 犯人が例の友人であることにすぐ行き着いたのだろう、恨みがましい声をあげて身をかがめた。 「図書室の窓から、ずっと練習見ててくれたんちゅうのも?」 「そんなことまで……!」 は更に背を丸め、団子虫のようになった。少し指で押せば転がりそうに縮んでいる。 「ちいとも寄って来んから、あんまり好かれてないんかと思っとった」 ため息とは違う息を吐いて仁王がこぼすように言うと、丸まったままの態勢で団子虫が一瞬ぴくりと動いた。 「………最初、一体なにをどうしていいのか、わかんなくて」 いくらかの沈黙の後、くぐもった声がぽつりぽつりと聞こえる。 「いきなり馴れ馴れしくしても変だし、普通にしよう普通にしようと気をつけてたんだけど、むしろ逆に変な緊張に襲われて、顔が強張るようになって」 うん、と仁王が相槌を打つ。 それに押されるようにして、言葉が続いた。 「彼女が私だってこと、隠してるって聞いたし、どう接していいのかどんどんわかんなく、なったよ」 肺全体の動きが見えるほど肩が大きく揺れ、息を吸いなおす音がした。 これまで見てきたの不安定な表情、声、動作、そのひとつひとつが鮮明な色を持って、絡まった糸をほどきながら、仁王の胸の内にぽすんと落ちる。 小刻みに震える小さな背中。 あんなに感じ取れなかった彼女の気持ちが、今はこの手で触れる様にわかる。 殻も壁も持たず、むき出しになった様子は、驚くほど脆くて臆病で愛しかった。 「俺が最初に勘違いしとった」 下を向いた彼女に届くよう、一語一語、ゆっくりかみしめながら語りかける。 「付き合うとること知られとうないのかと思い込んで、のこと言わんかったんじゃ」 一日もたたずに噂は隅々に散らばった。それを一体どんな思いで耳にしただろう。 埋まらぬ溝を作ったのは、他でもない自分だった。 「携帯持ったん、つい最近なんじゃな」 部屋の隅に、真新しい携帯機器の空き箱と厚い説明書が重ねられていた。 コンセントに繋がっている充電器は、まだビニールすらかかったままだった。 うん、頭がほんの少し揺れる。 「たまたま丸井君と同じ機種だったみたいで、持ってきたその最初の日に使い方教えてもらった。赤外線通信とか」 アドレス聞こうとしてた正にその時に仁王君の方から聞かれたから、すごくびっくりしたとは言った。 メールも電話も来ないはずだ。付き合った当初、彼女は携帯そのものを所持していなかったのだから。 本来仁王がするべきだったのは、なぜメールが来ないのかと疑うことではなく、それまで持っていなかった人間がなぜ持つようになったか、そこに気付くことだった。そして考えるべきだった。 わざわざ携帯を手に入れた理由。 簡単なことだ。 付き合い始めた彼氏と連絡を取るために。彼女は彼のために。つまりは仁王のために。 色んな事を誤解して、本人に直接聞けば済むことをわざわざ遠回しにして傷ついた。仁王もも。 もっと早く歩み寄って覗きこんでいれば、素っ気ない仕草の奥にどんな顔を隠しているかすぐに気づくことができたのに。 この子の目を不安げに曇らすことも、泣かせて赤く腫らすこともなかったのに。 大切なものを大切にする方法すら知らなかった愚かさが、今はただ悔しい。 「すまん」 仁王が地に伏した頭を柔らかく撫でると、団子虫は丸まることをやめ、むくりと起きあがった。 けれど顔は下を向いたまま。 「あの日、待ってたよ」 好きですって言うつもりで待ってたよ。 でもその前に仁王君がああ言ったから。 気まぐれだったんだろうけど、やっぱり嬉しかったから。 そう言って、ぽろりと一つ雫を落とした。 世界が溶けてなくなりそうな夕日を背負って、あの背中は仁王だけを待っていてくれた。 錯覚などではなかった。 本当の本当に、仁王のためだけにあの時彼女は振り返ってくれたのだ。 足元から、泣きたいような笑いたいような、ごちゃ混ぜになった感情が群れをなしてせり上がる。 先人達が残した何千何万もの文言にだって、いまのこの胸の内に見合うものなど決して見つかるまいと思った。 どれほどの言葉を尽くしたとしても、到底追いつけやしないだろう。 よくも、 よくも、付き合わんか?なんて、軽々しく言えたものだ! 「あの最初の日に俺が言ったあれ、無しにしてくれんか」 あと一粒、涙をたくわえた瞳が仁王を見た。 「仕切り直しじゃ、人生初があんな薄っぺらの文句じゃ話にならん」 返事の代わりに、ぱちくりと大きな瞬きがひとつ。 瞼に弾かれ、こぼれ落ちそうになった涙を指の腹ですくいあげる。 波打つ雫の表面が、指先のかすかな震えを正直に伝えていた。こんな風に壊れものを扱うような慎重さでもって、誰かに触れた経験などない。 両手で包むようにして耳に唇を寄せ、これまで一度だって吐いたことのない愛を込めた言葉を、にだけ聞こえるように囁いた。 「…………?」 反応がない。 顔を覗き込むと、彼女は再びろう人形と化していた。 一世一代の告白をなかったことにされてはたまらない。 ならばもう一度、と仁王が尚も耳元に唇を近づけると、我に返ったのかもう勘弁してくれと言わんばかりに涙目で首を振った。 「返事は?」 「聞かなくてもわかるでしょうよ……」 手の中で体ごとへなへなと崩れる。 それでも退くことなく、じいとまなざしを逸らさずにいると、降参したようにかすかに上下した唇が「わたしも」と動いた。 今にも消え入りそうな声だったが、仁王が聞き洩らすわけはなかった。 もう、これまでのように「ひとり」と「ひとり」にはならない。 泣くも笑うも、「ふたり」で味わう。 あの日の背中がゆっくりと振りかえって、全てを許すように笑ってくれた気がした。 またしても団子虫に変じて動かなくなったただ一人の恋人の頭を、仁王は至福の内に撫でさすった。 「今までの分、全部取り返しちゃるきに」 さしあたって彼氏として仁王がしなければならない仕事は、まずの携帯からブン太の登録を消すことだった。 「まったくあなたときたら」 あれほど休む時は知らせて下さいと言ったでしょう、見え透いた嘘をついて早退まで、もう子供ではないんです、いい加減自分の行動に責任を持ちたまえ。 二日続けてサボった仁王に待ちかまえていたのは、眼鏡を鋭利に光らせた柳生のお説教だった。 一応、迷惑かけたのうと詫びてはみたものの、顔に緊張感がないとかで逆に小言が増えた。 他の連中も、親戚に不幸なんてよく通ったなとか、そういえば先輩のばあちゃん三回くらい死んでないっスか?などと、仁王のスカスカの出まかせなど百も承知で、本気で取り合おうとはしない。 ただし、真田だけは沈痛な面持ちで「この度は不幸なことだったな」とお悔やみを述べるなど、きらめくその個性を如何なく発揮し、部員らを脱力と笑いの世界に誘っていた。 しかしもっとどやされるだろうと予想していたのだが、実際は柳生がねちねちと言うくらいで(しかもそれも日頃から比べれば控え目なものだった)、妙に周囲の仁王に向けられるまなざしは優しく、正直不気味だった。 感極まったようなジャッカルに肩をぽんと叩かれたのもかなり謎だった。 「二日連続で無断欠席とはいい度胸だね」 ふいに背後から声がして、振りかえった先には部長が制服姿のまま立ち微笑んでいた。 来たか、と仁王も不敵に笑う。 「ペナルティは甘んじて受けるぜよ」 あえて言い訳も報告もしなかったが、端から幸村には必要なかったようだ。 束の間、仁王の表情を読み取るように見つめ、得たりとばかりに浅く頷く。 「筋トレ、走り込みともに二倍、いや三倍だ。けど今の仁王なら苦にもならないだろ」 精進しろよ、と祝福するように拳が肩口を叩く。 鈍い衝撃は痛みを伴って仁王を激励した。 選手達の上げるかけ声と、それに送られる嬌声とが、競い合ういながらも響いて混じり合う。 部室から見えるコートは取り囲む観客で今日も盛況だ。 今頃、慣れない場所であの背中が小さくなっているだろう。 フェンスの向こうで自分だけを待ってくれている彼女を出迎えるために、仁王は鼻歌交じりに身支度を始めた。 |
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ボーナストラック(幸村目線) |