仁王雅治という男の話だ。

腹の底をなるたけ隠し、人の興味を集めながらも、目くらましですり抜けるような男だが、その艶っぽい顔立ちとどこか秘密めいた匂いは女心をくすぐるに十分な魅力を持っている。
当然言い寄られる機会も多い。
彼が他の部員と違うのは、それらをふるいにかけることも拒むこともなく、特定の相手がいない限り誰かれ構わずすんなり受け入れてしまう事だった。
女の子から好意を寄せられるのは、勿論男として嬉しいしありがたいとも思う。異性に不慣れで興味があるからこそ、当初の赤也のように有頂天になって、飛びつくようにその子と付き合ってしまうこともあるだろう。

けれど仁王はそうではなかった。
一時の気の迷いや浮かれがそうさせているようには見えず、若さゆえにありがちな恋に恋する様子すらない。
それを証拠に、やがて落ち着きを取り戻し、好きな子以外とは付き合わないっスと懲り懲りしたような赤也に対し、仁王はいつまでも変わらなかった。
彼は変わらず、相手の顔触れだけが変わっていった。
幸村も全員覚えているわけではないが、彼女達は仁王と付き合う内にガラスが曇ってゆくごとくその輝きを消していった。一人相撲のような手ごたえのなさに希望を失っての結果であるのは、幸村の目には明らかだった。

気の毒に思えた。
彼女達も、そして仁王も。
仁王と付き合えば付き合うほど、彼女達は期待を裏切られ、彼女達と付き合えば付き合うほど、仁王は孤独を深めていった。
本人は決して言わないし、もしかしたら気づいてすらいないかも知れない。
彼は常に寂しさをまとっていた。
寂しさは寂しさを呼び、けれど結局寄り添うことはできずに、喪失感を増して離れてゆく。
仁王に焦がれる女の子の多くは、当然彼のことが好きなのだろうが、それ以上に仁王の彼女と言うポジションになんらかの価値を見出してるに違いなく、それがまた両者のすれ違いに拍車をかけた。
しかし彼女達を責めることはできない。
それが透けて見えていたにも関わらず、突っぱねなかったのは仁王の方なのだ。
人の恋路に立ち入るのは野暮と承知してはいたものの、あまりにも痛々しくて一度だけ口を挟んだことがある。
しかし自覚のない仁王に真意は伝わらなかったようで、曖昧な返事ではぐらかされた。
そして彼は沢山の想いに囲まれながら、ますます飢えていった。

だが、いつ頃からだろうか。
どこか空虚ですらあった男に、感情の波が揺らぎ始めたのは。
無論詐欺師とよばれる位だ、そう簡単に己の弱味を見せようとはしない。それでも被っている仮面のほんの小さな隙間から、彼にしては珍しい惑いが見え隠れしていた。
それを裏付ける様に、颯爽と舞い込んできたのは彼の色恋にまつわる噂だ。
ただ普段と異なるのは、何年何組の誰それというまず彼女の名前ありきで広まるのではなく、相手はわからないが彼女はいるらしいというあやふやな情報だったことだろう。
いつもと違う仁王の様子と、いつもと違う噂の気配。
ためしに彼女の話題をぶら下げてつついて見ると、仁王は一瞬の隙も見せまいとして幸村と目も合わせなかった。その行動こそが、彼の心中を何より雄弁に語っていた。
もしや、と幸村は期待した。
果たしてどこの誰でどのような子なのかもわからないけれど、この彼女が孤独の病を抱える男に変化をもたらしてくれるのではないか。
負の連鎖を断ち切るまでいかなくとも、なにかしら良い影響を与えてくれるだろう。
希望を託し、幸村は鼓舞するように仁王の背中を叩いた。

それからの仁王は、こう言っては何だが面白かった。
いつもなら見向きもしないフェンスの方に、勿論さりげなくではあるが日に何度も目をやったり、真田に厳しかったり、なんとなく落ち着きがなかったり、ブン太から菓子を取り上げたり、妙に携帯を気にするようになったり、真田に冷たかったりした。
とはいえ、あくまで幸村の目から見ればの話であって、周囲はほとんど気付かない程度の変化だったろう。
が、そんな中でも、仁王の様子がおかしいことを察し、幸村に相談に来た者達がいた。柳生と柳だった。
さすがはパートナー、そしてさすがは趣味が観察の男。
どこか体でも悪いのではと心配する二人に、お医者様でも草津の湯でもって奴かもね、と笑うと、柳生は短く驚嘆の声を上げ、柳はほうと頷きながら抜け目なくノートにペンを走らせていたが、たまたまその場に居たブン太と赤也はきょとんとした顔をしていた。
その日から、活動内容はただ傍観という仁王の恋を人知れず応援し隊がなんとなく結成されたように思う。
主に柳生と柳とジャッカルだ。本当に彼らは見ているだけで、何の役にも立っていなかった。

一部の部員に生温かく見守られていることも知らず、仁王はままならぬ恋に振りまわされてか、心ここにあらずといった様子を見せることが多くなっていった。
感傷が日ごとに色濃くなってゆく。
それが幸村には、己の心の穴を憂うのではなく、誰かを想うが為の懺悔や葛藤に見えた。
いまが瀬戸際だと感じた頃、仁王は部活にやってこなかった。
真田はぷんぷんと憤っていたが、幸村は胸の内でさっさと決めて来いと檄を飛ばしていた。おそらく事情を知る部員たちも同じ気持ちだったろう。
結局どんな結末を迎えたのか知ったのは、二日後、部室に現れた仁王を目にした時だ。
二日も休んでおいて何の進展もなかったら、サーブの的にでもしてやろうかと思っていたが、憑きものが落ちたようにすっきりと晴々しい顔をしていた。
彼は何も言わなかった。けど、どうなったかなんて聞かずともわかる。
快哉を叫びたくなったが、それは心だけに留めて、幸せな男に拳を捧げるだけにした。

彼を幸せな男にした女神様は、あの仁王雅治がわざわざフェンスまで駆け寄って歓迎したということで、一気にその存在を全校に知らしめた。
仁王のファンはさぞや悲しむかも知れないが、散々回り道をしてようやく手に入れた幸福だ。許してやって欲しい。
あの仁王を陥落させたと騒がれたのはファンの間のみならず、当然テニス部内でもかなり注目を集めることになった。
何しろ今までが今までだったものだから、一体どんな相手だろうと興味津々で、部員そろってコートを抜けだし彼女であるの元を訪れたのだが、ぞろぞろとツアーよろしく詰めかけたために彼女がすくみ上がり、すっ飛んできた仁王に追い払われた。顔こそ笑っていたものの触ったら殺すとまで言われた。
その時初めて知ったのだが、どうやら同じクラスの女の子だったようで、何の事情も知らなかったブン太は色々な意味のこもった悲鳴を上げていた。
本領を発揮した仁王は思った以上にやきもち焼きなようだから、彼は今後授業や課題で困ることになっても、そうそう彼女に助けを求めるのは厳しいだろう。
これを機に真面目に勉学にはげむといいと言うと、ちえっとふてくされたようにガム風船を割った。

あの日以来、彼女はコート間際まで見に来ることもあれば、姿を現さないこともある。
もしや束になって取り囲んだせいで怖がらせただろうかと、少しばかり申し訳なく思ったが、気を付けて見てみると、来ない時は肌寒かったり逆に日差しが強すぎたり、見学するにはあまり最適とはいえない日ばかりであることにすぐ気付いた。
おそらく仁王が彼女を気遣ってそうするよう進言したのだろう。
そんな日の彼はいそいそと手早く支度を整え、彼女の待つ校舎内のどこかへと飛ぶように向かった。足取りはあくまで軽い。
少し前までは携帯を置きっぱなしにして帰ることもままあったというのに、今ではある特定の着信音にだけ営業マンのごとき素早い反応を見せる。
とはいえ、それ以外は放置する場合が多いので、人間変わったとは言っても根っこの部分はそう変化しないらしい。
しかし、まさかこんなにまめまめしい男だったとは、と幸村は時々おかしくなる。

この間、偶然というか偶然を装ったというか、仲良く並んで帰る二人を見かけたが、あまりの初々しさに見なければ良かったと後悔すらした。
繋がれた手はどこかぎこちなく、まだ照れの残る彼女を仁王ががっちりと掴んで離さないという感じで、夕暮れの街をてくてくと歩いていた。
時々、仁王の手が子猫をめでる様にして小さな頭を撫でる。
ぐしゃぐしゃになった髪を彼女が直そうとするも、まったく元通りにならず、抗議する彼女をへらへらではなくにこにこしながら再び仁王は撫でまわしていた。

あれが孤独の渦の中心にいた男だろうかと思う。
足りないなにかを埋めようと彷徨っていた男が見せる顔なのかと思う。
あんなに苛まれていた寂寥の影など、ひとつも見当たらないではないか。
幸村は恋の逞しさに舌を巻き、唯一無二の存在の偉大さにひれ伏した。
今なら、いつか仁王に向けて発したあの台詞を取り消してもいい。
彼だけの彼女と、彼女だけの彼。
二つの影は、夕日に妬かれ焼かれて、寄り添うように伸びてゆく。
本格的な夏を追いかけて舞い込んできたこの春の息吹に、あらんかぎりの祝福を送ることにしよう。

おめでとう。