幸いその日の空はうす曇りで、一日なりをひそめていた太陽は沈む時さえひっそりしていた。
ありがたい。
もしあの時を再現するように夕日で赤く染まっていたなら、状況として残酷すぎる。
がら空きとなった教室に、取り残されたようにして窓辺に立っていたは、遅れてやって来た仁王に気づいて微笑んだ。
ぐらり、と決意が揺らぎそうになる。
このままでいいじゃないかと、迷いにつけ込む囁きが聞こえた。
己の弱さを忌々しく感じながら、傾きかけた心を強引に引き戻す。
「悪かったの、呼び出して」
「いやいやなんの」
とは応えたものの、は落ち着かなさそうに、人の気配を気にしてしきりに廊下の方に目を配っている。
もうこれきりじゃ、と仁王は懺悔のように心でつぶやいた。
これからは、こんな風にして彼女に人目を意識させずに済む。
「実はのう」
すべて、リセットしようと腹を決めていた。
欲しいと望んだ時点で、このままの状態を持続させるのは到底無理だった。
同じ量だけ、というのは現実的に難しいだろうが、揺れ動きながらも想いの天秤が釣り合ってこそ、関係は成り立つ。仁王は聖人君子ではないから、一方通行の恋愛では満足することはできない。
今の仁王にとって、余計な煩悶に縛られてしまうこの立ち位置は悪すぎた。
一度断ち切って出直さねば、ずるずる泥沼にはまることは目に見えている。
おそらく濁流のような己の感情に飲み込まれて、いつか必ずを怯えさせるだろう。

手離したくはないが、嫌われるのはもっと恐ろしかった。

すう、と息を吸う。
この期に及んで、女々しいことに、目を見て切り出すことが出来ない。
手をポケットに差し入れて、逃げるようにうつむいた。

「この関係、仕舞いにしたいんじゃ」

なるたけ軽薄に響くように言ったものの、どうしようもなく心が軋んだ。自分の吐いた言葉の重さで沈みそうになる。
今すぐにでも冗談じゃと笑って誤魔化したい衝動を、水際で押しとどめた。
「俺から誘っといて勝手な言い分なのはようわかっとう、けど」
自分の声が他人のもののように響いて仁王を追いつめる。
五感が冴えすぎて、意識が置き去りにされそうな感覚に陥った。
その時、足元だけを映していた視界に、ぽろぽろっと光るものが弾けた。
あっという間に床に砕けて失せる。
思わず顔を引き上げると、それはの両目から降っていた。
みっつよっつ、流れるというよりこぼれるようにして、後から後から落ちてゆく。
まさか、と我が目を疑った。
こんな話をしても、彼女は顔色も変えずいつものようにあっさり「うんわかった」と応じるものと思い込んでいた。
少しは残念そうにしてくれるかも知れないという淡い期待はあったが、よもや泣くなんて想像もしなかった。

だって、

これでは、

まるで、

「ごめん」

混乱で仁王が言葉を失っている中、はかすれた声でそう言い残して教室から消えた。





あれからどう帰ってどう過ごしたのか記憶がはっきりしないまま、気づけば次の日を迎えていた。
朝、柳生に玄関で「昨日はどうされたんですか」と言われて初めて、自分が部活をサボったことを知るような始末だ。
まさかの昨日の顛末を包み隠さず話すわけにもいかず、すまんと素直に謝るしかなかった。
「幸村君も気にしていましたよ」
いつかの、面白そうに仁王の背中を叩いた美貌が脳裏をよぎった。
お見通しかと、力なく笑う。
休む時は連絡をと念を押す柳生に、手を上げるだけの返事をして仁王は玄関を後にした。
会いたいような会いたくないような。
教室に入るにはずいぶんな覚悟を決めてから、いざ足を踏み入れたが、例の席に目当ての姿はなかった。
出席をとる段階になっても現れず、結局担任の口から彼女の欠席を知ることとなった。
さすがに心配になって、電話やメールをしてみたものの、電源が入っていないのかつながらない。応答のない携帯を苛立ちまぎれにポケットに押し込んだ。

昨日見た涙が思い出される。
雨粒が落ちる様に泣いていた。 
泣く女を目の当たりにするのは初めてでははないのに、あの時どうすることもできなかった。

「ちょっとちょっと」
三限目が終わった頃、男子トイレから出てきた仁王に、一人の女生徒が待ち伏せしていたかのように小走りで近づいてきた。何か言う間も与えず、彼女は仁王をひっ捕らえ、ひと気のない階段の陰に引っ張り込んだ。
見れば、とよく一緒にいる彼女のクラスメイトであり友人である。
強引に連行したことを詫びる様子もなく、彼女は人目を憚るように声をひそめた。
「ねえ今日なんで休んでんの?電話もメールも通じなくてさ」
それを何故自分に尋ねるのかと訝りながら、仁王は顔には一切に出さずに「さあわからん」と淡泊に答えた。
すると彼女は不服そうに仁王を見上げながら
「なんだよ彼氏がそれじゃいかんなあ」
と口をとがらせた。

彼氏。

なんの含みもなくずばりと出された単語に、仁王は驚いて目を剥いた。
「お前さんは俺とのこと、知っとるのか」
涼しい顔に入ったひび割れが面白かったのか、さも楽しそうに手のひらを口にあて、悪巧みをするような顔でイヒヒと笑う。そしてますます意外な台詞を放った。
「そりゃあんた、あの子に言っちゃえって煽ったの私だからね」
言う?
煽る?
なにを?
一瞬のうちに様々な疑問符が頭を飛び交う。
目の前で広げられた袋の中身に、見覚えのあるものは見つからない。
明らかに当惑している仁王を見て、彼女は笑みを一旦引っ込め、瞬きを数回繰り返した。
「え?告白されたんでしょ?違うの?それで付き合ってんじゃないのアンタら」
そう言いながら奇妙そうに首をかしげていたが、目に入っていながらもその姿はもはや仁王には見えていなかった。
無意識にゆらりと一歩踏み出し、逃がすまいと腕を掴んでいた。

「――― その話、詳しく聞かせてもらえんか」