一旦自覚してしまうと、恋心は厄介だった。
もともと無意識の内に目で追っていたものの正体に明確な名前がつくと、それが増幅器のようになって眠っていた様々な想いが目を覚まして膨らんでゆく。
表情の端に少しでも好意が見えれば心が湧きたち、距離を感じると途端に失速した。
覚えたての嫉妬も、仁王の意図とは無関係にすくすくと育ってゆく。
が親しげに男と話していると、胃のあたりがむかむかした。
それが仁王の知らない他のクラスの男だったりすると、もしや昔の男かとおかしな疑いの種まで発芽し、ただ机に座っているだけなのに部活より心身が疲れた。
己の身を鑑みてみれば、たとえに過去の男の影があっても、仁王が責める権利などひとつもない。
ただ、今の彼氏はほかでもない自分なのだから、誰のものでもなく自分のものなのだという、いじましい思いは根強く残っている。けれどそれはあくまで、彼氏彼女という名ばかりの表示で、心の中身まではわからない。現在彼女が他の誰かに密かに想いを寄せていないとも限らないのだ。

一度、部室に向かう途中に図書室の窓辺にいたを見かけたことがある。
地上から三階へと声を上げれば周囲の耳にまで届いてしまう。だから、こちらに気づく素振りのない彼女に向かって、酔狂なことに振りむけ振りむけと本気で念じた。
想いが通じたか、強烈な視線に根負けしたのか、奇跡は起きた。
仁王の存在に気付いたは、ほんの少し体を前に出して、子供のように笑って手を振ってくれた。
たまらなく嬉しくなったのと同時に、たまらなく胸が痛めつけらた。
避けられているのだろうかとか、他に好きな男がいるのかも知れないだとか、そんな後ろ向きなこと全てが消えてなくなって、ああして仁王に笑ってくれるが、の全部だったらいいと強く祈った。
甘さと痛みが同時に疼く。
都合の良い夢と最悪の予想図を毎秒ごとに描いては、仁王はそれぞれに打ちのめされた。

あの子が尻尾を振って飛び込んできてくれたら、これほど楽なことはないのに。
そう考えて、すぐにはっとした。

楽がしたいのか?

楽しいではなく、楽が。

思い返せば、過去の彼女達との付き合いはどれもこれもとても楽なものだった。
何も言わずとも腕に手をからめ、最前列でフェンスにしがみつき、放課後になれば迎えにあらわれ、家で寝るばかりの仁王をデートへ誘い出し、果ては別れ話さえも向こうから切り出させた。
なにもかもすべて、相手がせっせと動いてくれていた。
仁王はそれに愛想笑いで答えたり面倒だからとやんわり断ったり調子を合わせたり、時折おやつをあげるようにご機嫌取りの甘い言葉をあてがうだけしかしなかった。彼氏としての役目を、ただ当たり障りなく演じていたにすぎない。
最初こそ付き合いたての新鮮さや周りへの優越感も手伝って、一生懸命恋人として情熱を傾けるが、ともに過ごす内に段々と彼女達も気が付いてくる。分け与えるだけ分け与えても、仁王からは何も差しだしてはくれないことに。
甘えれば受け止めてくれるし、わがままを言えば応えてくれる。
しかしどこか上辺というか一歩引いた場所に居て、底からあふれるような喜怒哀楽は決して絡まない。感情をぶつけても感情は返って来ない。ゆえに喧嘩にもならない。
それはなんと孤独なことだろう。
一緒に居るのに、喪失感は埋まるどころか溶け出すように広がってゆく。
そうしていつしか疲れ果て、彼女達は仁王に背を向けた。

すでに遠い記憶となって通り過ぎた、幾人もの微笑み。
仁王は彼女達のことを愛してはいなかったが、好きだった。いや好きだと思っていた。
けれど、結局それらは寄せられた好意へのお返しであって、彼女達ひとりひとりに対して抱く特別な愛しさとは遠く離れたところにあった。
好きだと思い込んでいたかった。そうすれば色んな事を誤魔化せた。負い目も感じずに済んだ。
「好き」の正体を暴いてみれば、途端に別のものが転がりだしてくる。

寂しい。
寂しいから。
寂しいから、誰かをそばに置きたかった。
でも、その誰かがもっと大きな寂しさを背負っていたことには気づかなかった。

いつか幸村に言われたことがある。
『俺が女だったら仁王の彼女にはなりたくないな。しんどそうだもの。』
その時は、てっきり女癖の悪さについて非難しているのだと思っていた。
違う。幸村は初めからこのことを突いていた。
応える振りをして受け入れる振りをして、結局はひとつも踏み込ませない自分の酷薄さを咎めていたのだ。

想う相手に想われないのは片思いという。
一方的に恋慕うのはさぞや切なかろう。
けれど、特別な関係にあっての片思いは、より深く苦しい。
実体のない肩書が、焦がれる気持ちと見返りを求める欲深さをがんじがらめにする。
互いのものだと契約をかわしたはずなのに、まるで手に入った実感がない。
自分を見て欲しい。想って欲しい。求めて欲しい。
離れて行った彼女達も、こんな思いだったのだろうか。形だけの付き合いに心を疲弊させたのだろうか。
ならばこれは過去からの復讐だ。
部屋の電灯がちかちかと瞬いて仁王に寿命を知らせていたが、替えようという気はとても起きない。手元も見ずにスイッチを切った。
暗闇が降るように訪れる。
ふいに、夕日の中で頬杖をつく背中が瞼に浮かんだ。
振りかえって笑ってくれたらどんなにいいかと願いながら、ベッドの上で目を閉じた。



「どうかしましたか」
なにがじゃと答えると、柳生は眼鏡を押し上げながら、なんだか元気そうではありませんねと言った。
「別にいつも通りじゃ」
「あまり食事の方も進んでないようですし」
「ダイエット中での」
かかかと笑ったが、柳生は笑わなかった。
昼休み早々、おにぎりを一個ブン太にかっぱらわれたジャッカルも、なんとなく気遣わしげな目で仁王を見ている。
それよりお前は自分の昼飯を心配しろと思ったが、何も言わずに黙って牛乳をすすった。
柳生にしろ桑原にしろ、当たり前のように人を思いやれる。こういう男が誰かを幸せにできるのだろう。
屋上に流れる風は爽やかというには生温かく、もうじきやって来る夏を歓迎していた。
仁王は袋に残った調理パンの端っこを、無理やり口に押し込んだ。
「夏じゃな」
「ええ」
「暑いのは嫌じゃのう」
「つい最近まで寒いのは嫌だと言っていたでしょう」
そうじゃったかの、と身の入らぬ返事をして上空でうずくまる雲を見上げた。
たぶん今自分は人生で一番格好悪いのだろうと思う。いつもの仁王雅治の皮を纏おうとしてもうまくいかず、それどころか他人に気取られるほど綻びが目立っている。
ふ、と知らずにため息が出た。
更に情けない顔になっていたはずだが、柳生はもう何も言わなかった。
「あ」
短く声を上げたのは残り一個となったおにぎりを大事に食べていたジャッカルで、柵の向こうを覗きこんでいた。
何気なく目を遣ると街路樹の下を一組の男女が仲睦まじく歩いている。
「女の方、あれって確か……」
ジャッカルはそう呟きながら、ずいぶんと遠慮がちな視線を仁王に向けた。
楽しげなカップルの片方、かつて名前を思い出すことができなかった、あの彼女だった。
見知らぬ男の手をつまむように握り、朗らかに笑っている。
別れ話をした時の曇りはどこにも見当たらず、ただただ彼女は幸せそうだった。
仁王にはさせることができなかった満ち足りた表情。屈託のない笑い声がわずかだが耳に届く。

ああ。

よかったのう。

仁王は心からそう思った。