「やあ仁王、新しい彼女が出来たらしいね」 翌日、部長の包み隠さぬ直球発言に、仁王は人の口を駆け抜ける噂の俊足さに感心するしかなかった。 小耳にはさんでね、と小首をかしげる姿はあくまでたおやかである。 「全然気付かなかったよ。今回の子は練習を見に来たりしなのかい」 「シャイな子なんじゃ」 極力幸村の方を見ないようにシャツのボタンを外す。 穏やかで百合の花のようなこの男は、ただ美しいばかりでなく底知れぬ洞察力をそなえているのだ。 普段は虫も殺せぬような顔をしているが、いざという時の迫力は10人の副部長が束になってかかっても、敵うどころか軽く吹き飛ぶ。あまり、この現在の歯がゆく間抜けな状態を知られたい相手ではない。 目を合わせようとしないまま身支度していた仁王を眺め、ふうん、と幸村は意味ありげに頷いた。 「良い傾向だよ」 ぽんと仁王の背中を叩いて、羽織ったジャージをはためかせながら部室を後にした。 それを見つけたのは、ちょうど休憩の時間に入った時だ。 大勢のひしめく観客の背後、いやもっと遠く離れたところで、こちらを伺うように行ったり来たりしている。仁王が気づいて立ち上がると、はっとしたようにその人影が水飲み場の方へと消えた。 反射的に追いかけていた。 「」 木の陰に隠れようとしたのだろうが、残念ながら半分以上はみでている。 フル稼働させた足を一旦止め、仁王はゆっくり近づいた。 の半身は一度びくりと震え、すぐに観念したように全身を晒した。そして、ごめんね、と力なく呟いた。 「ちょっと覗く位にするつもりだったんだけど」 肩を落として申し訳なさそうには詫びたが、仁王にしてみればどうして謝られたのかわからない。仁王が来るなと拒んでいたわけでもなかろうに、なにを遠慮する必要があろうか。 近づけば遠のき、遠のけば更に遠のくが自ら歩みよって来たのだ。追い返す理由はひとつもなかった。 「そう遠慮しなさんな。ちょっとと言わずしっかり見ていきんしゃい」 子供相手に接するかのように柔らかな声でそう言うと、は目をぱちくりとさせた。 「……いいの?」 純粋にびっくりしました、という顔をしている。それを見て仁王の方がふいをつかれた。 が、表に出さないように飄々と笑って見せる。 「ええに決まっとう、彼女なんじゃから」 彼女の部分をさりげなく強調して、浅はかにもの反応をうかがった。 「そ、そか」 一瞬反応が遅れたが、すぐにほっとしたように目の端が崩れた。 はにかむような笑顔。 「あ」 「え?」 「いやなんでもなか」 危うく衝撃そのまま口に出すところだった。 ぐっと飲み下して、なんでもない風にやり過ごす。誰の耳にも届かないようにして仁王は胸の内で言葉を解いた。 いま、笑った。 うっかりすると口元がだらしなくゆるんでしまいそうで、ほほ笑みながらも気が抜けない。 へらへらとは別の種類の笑みがこぼれそうになる。 笑顔ひとつ向けられた程度で、こうも浮かれるとはひどく馬鹿げたことのようには思えたが、自分でも意外なほど心が揺れた。 こうして気を許したように笑ってくれたのは、おそらく初めてのことだろう。 どこか硬質な表情で、一枚壁があるようにしか接してこれなかった彼女の心に、ようやく仁王は触れられた気がした。 「なんであんな遠くから見てたんじゃ」 「真田君が、練習の邪魔をする婦女子が多くてかなわん、て怒ってたから」 仁王は心で真田に右ストレートを見舞った。 よくもまあ、余計な相手に余計なことを余計なタイミングで伝えてくれたものだ。天性とも言える間の悪さは彼の愛すべき点だが、今は笑えない。 とはいえ、原因が自分とは別の場所にあったことに安堵したもまた事実だった。 「あれは別に気にせんでええよ、そういうこと言うんが趣味みたいな奴じゃ」 校舎の壁に吸いついた時計を見上げて確認する。 そろそろコートへ帰らないと暑苦しい副部長がわめきちらす頃だ(誰のせいかと言ってやりたいが) 「次から対戦形式じゃ、さっきよりかは多少見ごたえあるぜよ」 そう言って戻ろうとした仁王をわずかな引力が制した。 の手がウエアの裾を遠慮がちに掴んでいる。不安そうな目をして仁王を見た。 「でも、ばれないかな。付き合ってること」 上向きだった気分が急に萎れた。 やはり懸念した通り、彼女には伏せておきたいという気持ちがあるらしい。 いじらしく引きとめられて、かけられる言葉がこれとは。 わびしさが垂れこめたが、それらをまるでなかったように覆い隠せるのがこの仁王雅治だ。 「あれだけの人混みにまぎれとったら悟られることもなか。俺も、目立つことはしないきに」 自分に言い聞かせるようにして、の頭に手をおいた。 彼女が笑ったのも初めてなら、まともに触れたのもこれが初めてだと遅れて気付いた。 視線の隅に侵入する背中が、日に日に存在感を肥大させてゆく。 ほんの少し離れたななめ前。 机に突っ伏すでもしない限り、席に着けばおのずと目に入ってしまう。 あれから仁王とは相変わらずで、一歩近づいたと思ったら二歩遠ざかり、足元をなでてゆくさざ波のような関係を保ち続けていた。 ただ変化もあることにはある。少しずつではあるが笑ってくれるようにはなった。 どうにか陥落させようと気負って迫ると、ことごとく不発に終わるが、なんでもない時になんでもない事でふっと糸が切れるように相好が崩れる。 それを目にした時、いつもなにか報われたような、救われたような、そんな気になった。 少なくとも、笑えないほど疎まれてはいないのだと確認することができた。 しかし、時折見られる彼女のどこか不安そうな顔、避けるような行動、素っ気ない言動の数々が、仁王の前に横たわる溝をまざまざとさらけだす。 仁王との交際を隠そうとするのも溝を感じる要因のひとつだ。 知られたくない相手でもいるのだろうかと、つい余計な勘ぐりが働いてしまう。 という女が、仁王にはわからない。 そもそも、よく知らないまま付き合ったのだから当然といえば当然だ。 仁王は面倒なことを好かない。 答えの出ない問答をえんえん繰り返すのは、間違いなく面倒な部類に入るだろう。それなら、いつも通りにえいやと放棄してしまえばいいものを、なぜか考えることをやめられない。 周りに気取られないように、視線をひた隠しにして、仁王はを観察していた。彼氏なのになぜ盗み見、と腑に落ちないものを感じるが仕方がない。 取り立てて愛想がないわけでも、つっけんどんでもない。 これまで付き合ってきた女とは多少毛色が違うものの、(制服のスカートを折り込むことやいかにマスカラのダマを作らないかに心血を注ぐタイプには見えない)特に変わり者というわけでもなく、笑いも騒ぎもする至って普通の女の子だと思う。 昼休み、弁当の蓋にほとんど張り付いてしまったふりかけを剥がすのに苦心していたのは可愛かった。 授業中も、後ろから見ている分には真面目に受けている。ごくたまに、船をこいでいる場合もあるが。頼りなげにゆらゆら揺れている姿を見ると、つられて眠気に誘われた。 優等生というほどではないけれど、いかにもチャラチャラした感じの自分と比べるとよほど彼女は真っ当だ。実は仁王のような人種が苦手という可能性もなきにしもあらず。 ならば。 なぜあの時断らず、誘いに応じたのだろう。 自分と同じように気まぐれを起こしただけか、それとも彼女も誰かと恋が終わったあとだったのかも知れない。 もしそうだとしたら、そんな気はなかったとはいえ仁王は失恋の痛手につけこんだ形になる。 まっこと外道じゃのう。 仁王は自嘲するような傷ついたような、弱々しい笑みを浮かべた。 |
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