ほとんどはずみの形で仁王がと交際を始めてから、なにごともなく一週間が過ぎた。
なにごともなく。そう、なにごともなかった。
はっきりいうと何事もなさすぎた。
順調な交際が続いているという意味ではない。
世間一般が恋人であると認識するような、親密なやり取りはなにひとつ行われていない、という意味である。

彼氏彼女という関係の合意が握手とともに交わされた次の日、クラスメイトである二人は当然だが顔を合わせる。
いつものように登校時間ぎりぎりといえる時刻にのっそりと教室に入った仁王は、誰かから借り受けたばかりとおぼしき雑誌を広げている後ろ姿を見つけた。時折、そばに立つ級友との会話に和やかに相槌を打っている。
昨日までは友人未満、今日からは彼女。
段階をすっとばしてお近づきになるのは仁王にとって日常だが、思えば自ら申し出たのは極めて珍しい。
それゆえ普段よりは気にかかるものの、かといってさして身構えることもなく、仁王はのろのろ歩みを進めた。
仁王の席から彼女の席まではそう遠くない。
大儀そうに腰を下ろすと、と話していた女子が「あ、仁王」と顔を向けた。
その声につられるようにして、黒い髪が揺れ、後ろ姿が振り向いた。
とっさに仁王は、新しい彼女へ向けるにふさわしい表情と言葉を探った。
が、振り向いた恋人はその他大勢に向けるような感情の伴わない声色で、
「おはよう」
一言。
それだけ言って、さっさと視線を雑誌に戻した。
親しみや意味深な雰囲気はない。無論、目を輝かせてすり寄っても来ない。
なんの変哲もない健全な朝の空気が二人の間を流れていった。
仁王の耳の端が、笑い混じりに交わされる達の会話をとらえる。全国駅弁大会、かにいなり、行列、いかめし、限定50食、早い者勝ち。朝からなんの話だ。
仁王はそのまま楽しげかつ食欲旺盛なお喋りを、ぼうっと聞くでもなく聞いていた。
やがて予鈴が慎ましく響き、やんだ笑い声と入れ違いで生徒たちが大人しく席に着く。
教室が朝の喧騒を追いやって、雑誌が閉じられた後も、背中はこちらを向くことはなかった。

これがただのクラスメイトの関係であればなんら問題もないのだが、付き合い始めた彼氏に対してと考えると相当に素っ気ない。
昨日は色よいとは言えぬ反応を示していたものの、交際を受け入れたのだからそこそこ脈はあるのだろうという思いがいくらか仁王にはあった。
あの頑なだった表情は一体どんな風に和らぎ、ほほ笑んでくれるのかと彼女の変貌をほんの少し楽しみにしていた分、そのあっさりすぎるほどあっさりした態度に出鼻をくじかれた。
結局仁王が発したのは、なんの芸もないただの挨拶ひとつである。
駆け引き。朝の慌ただしさゆえの余裕のなさ。照れ隠し。
もっともらしい理由がいくつか仁王の頭をよぎったが、どうやらどれも外れらしい。
その後も、が親しげに話しかけてくることはなかったからだ。
思わせぶりな視線を投げてよこすこともなく、移動教室の際に一緒に行こうと甘えた声を出すこともなくてきぱきと向かい、昼休みも変わらず友人達と弁当を広げ、放課後にはいつの間にか消えているなど、仁王に近づく気配すらみせない。
これまでの歴代彼女達は元々親しかろうが顔も知らない間柄だろうが、立場が変わった日を境に、べったりと身を寄せてきたり、授業を知らせる鐘が鳴るまで(時には鳴っても)仁王の席から離れようともしなかったので、の淡泊な反応は少なからず仁王を驚かせた。
付き合っている相手から全く構われないというのは実に稀であり、それ以前に果たして彼女の視界に入っているのかも甚だ疑問である。
こうまで袖にされると逆に興味が湧くというものだ。
人間、不可思議なものは探りたくなる。
ならばやはり作戦か?と思うものの、それにしては押したり引いたりの前者の要素が恐ろしく欠けている。というかほぼゼロである。これは少々荒っぽすぎるのではないか。
しかし実際仁王の関心を引いていることを考えれば、結果として成功といえなくもない。

わからんのう。

考えるのがいささか面倒になって、鞄をひっかけて教室から出た。
と、胸にやわらかい衝撃が走った。
「すいません、前見てなかった」
そういって顔を上げたのは今もっとも関心をさらっているその人だった。彼女は相手が誰かわからず謝ったらしく、それが仁王であることを知ると、あの日のようにぎょっとした顔を晒した。
「に、におう、くん」
なんじゃその顔、とか、なぜにどもる、とか言うべきことは他にもあったが、仁王は身をかがめて艶然とささやいた。
駆け引きに自信があるのは、なにもコート内に限ったことではない。目線にたっぷりと色気をふりかける。そっちがその気なら。
「気いつけんといかんよ。大事なカラダに傷でもついたら大変じゃき」
「うわごめん…!痛かった?!」
頬を上気させるどころか、はみるみる青ざめて飛びつくようにして駆け寄った。意図するところとまったく別の意味合いで伝わったらしい。
「や、俺じゃのうて、お前さんの、」
「肋骨折れた?!」
折れるかい。
がくりと肩の力が抜ける。触れ合う距離は思惑通りだが、引き込もうとした色っぽい雰囲気とはほど遠い。
さては色目の通じない相手かと無遠慮なまでにじろじろと見つめれば、同じように穴が開くような視線を返して、はっとしたように目を伏せる。照れているのか警戒か、これまた不可解。
はこれから帰るとこかの?」
「うんそう」
頷いて、はすぐおや?という風に仁王が手にしている鞄を見た。
「帰るの?テニスは?」
流石に部活くらいは認識していたようだ。
付き合っているのだから当たり前といえば当たり前であるが、ここ一週間のつれないそぶりを思えば、へえテニス部なんだ、知らなかった、くらいの反応もあり得なくはない。
そこまで無関心ではなかったかと、かすかに安堵する。
同時に、こんなことでほっとしてる場合かという気にもなる。
「今日はコート整備が入るから休みじゃ」
この流れからいけば先の展開は見えてくる。練習のない放課後に、運よく出会った彼氏と彼女。では一緒に帰りましょうとなるのがまあ一般的だろう。
だが、片割れである彼女の方は、魚群が逃げまどうような勢いで目が泳いでいた。
「そう、なんだ。お疲れさま」
ぎこちない物言い同様、ぎこちない仕草でくるりときびすを返す。また明日、と言い残して魚群は廊下の彼方に猛然と泳いで消えた。
取り残された仁王はすぐに状況が把握できず、しばし呆然とした。



「最近すごいっスね」
「目に見えて数を増しているな」
赤也と柳がタオルで汗を抑えながらチラと目線を向けると、黄色い歓声が上がった。
今日もコートを囲むフェンスの向こうはギャラリーで鈴なりとなっている。
常に女生徒が群がる客寄せパンダ状態のテニス部ではあったが、近頃は更に観客が増え、一人ずつ見学料を徴収すればさぞや部費が潤うだろうと邪な考えを起こしてしまうほどの大盛況ぶりだ。
「仁王がフリーだからだろい」
ブン太が投げ入れたボールはわずかに外れ、籠のふちに弾かれた。転がるボールをジャッカルが追いかける。
もちろん仁王だけが花形なわけではないので、他のメンバー目当てで通っているファンも多い、というか結構な数である。そこに空席となった仁王の彼女の座を狙い、目をらんらんとさせているハンターがなだれこんだため、一気にコートの外はタイムセールのごとき混雑の様相を呈していた。
「身辺が落ち着くまでしばらくは賑やかだな」
多くの熱視線も嬌声も浴び慣れている彼らにしてみれば、少々ぐらい増したところで今更動じはしないが、一人昭和初期を生きている兵隊さんがやかましいので、もう少し静まってほしいというのが本音である。
部員たちから、はよ落ち着けと言わんばかりの視線をもらい受け、仁王は肩をすくめて見せた。

一応フリーじゃないんじゃがのう。

仁王目当てに押しかけた女子達も、静かに責めるレギュラー陣も仁王が彼女持ちになったことをまだ知らない。
もともと自ら報告したことなどないし、部員達が率先して尋ねてくることもあまり多くない。
なぜならば、仁王が何も言わずとも人の噂が全てを伝えてくれるからだ。恐らく自分で宣伝してまわっているのだろう、大抵翌日には新しい彼女のことは広まっていた。
しかし今回は違う。まるで話題にも上らない。
たとえ相手が触れまわることがなくても、二人の雰囲気や連れだって帰る様子などが人目につけば、おのずと関係が知れるものだが、なにしろ渦中の本人ですら首をかしげてしまう状況にある。
密やかに愛を育んでるというのならいいが、どう考えても当てはまらない。
二人の日常はおだやかで波一つたたず、まるでただの顔見知りのように近しくて遠い。
これでどうして他人が気づこうものか。

練習を終え、水道で頭を冷やしていると視界に白い足が二本伸びていた。
滴る水滴もそのままに顔を上げれば、どこかで見た覚えのある女子生徒がにこにこしながら立っていた。
もしや、と一瞬抱いた淡い期待はなんなく裏切られた。
がっかりさせたことなど知る由もなく、彼女はおつかれ等と言いながら仁王の首元に巻かれたタオルで雫を拭ったりしている。
一、二度、話したことがあるかも知れない。前の彼女の友達の友達か、いや前の前の彼女の友達?
極めて曖昧だが、親しげに接してくるので仁王もそれに合わせる。久しぶりだね。元気そうじゃの。
答えながらも名前が記憶の中からうまく出てこない。
「ねえ、2組の子とは別れたんでしょ?」
2組の子とは前の彼女のことだ。
「そうじゃな」
「結構前だよね」
そうだったろうか。あれがいつ頃のことだったか、もう正確に思い出せない。ずいぶん前の気もするし、つい最近とも思える。
タオルを掴んだまま、えへ、と彼女は仁王を見上げた。
「それじゃあ私と付き合ってよ」
そう来るだろうことは仁王は薄々予感していた。
膨らむ期待といくらかの不安が、近づいてくる時から女生徒の体全体からあふれでていた。言い寄られる時のお決まりのパターンで、仁王はいつもひとつ返事で応じていた。
しかし今は事情が違う。
「悪いができん相談じゃ」
「え!」
来るもの拒まずで名を馳せる彼に断られるとは夢にも思っていなかったのだろう、虚をつかれたという様子で目を丸くした。
「マジで?なんで?私そんなに頂けない物件?」
「そういうわけじゃのうて。もう相手がおるんでの」
苦笑いでそう告げると、ますます驚いたのか何事か叫びながら両手を口にあてた。
「うそーもういるんだ?!」
そんなの知らなかった!と文句を言われ、まあ無理もないと心中で相槌を打ちながら仁王は黙ってほほ笑んだ。
「なんだよー私赤っ恥かきにきただけじゃん」
プライドを傷つけられて逆上することもネチネチと恨み事をいうこともなく、彼女は照れくさそうに顔を手で覆ったあと、でも仕方ないねとカラカラと笑い飛ばした。ノリは軽いものの、さっぱりとした性格は好ましい。
の存在がなければ、きっとこの子が新たな相手になっていただろう。
驚きのリアクションが一通り落ち着くと、自然と相手は誰かという流れになる。当然彼女も好奇心と嫉妬をブレンドさせながらその問いを仁王にぶつけてきた。
仲睦まじいとは言えぬが一応正式に付き合っている立場である。
別に言ってしまっても構うことはないのだろうが、一切周囲に伝わっていないことを考えると少なからず躊躇してしまう。に何か意図あって口をつぐんでいるのならば、不用意に名を明かさない方がいいのか。
しばし逡巡したのち、仁王は唇に人差し指をあて艶のある声でそっと囁いた。
「………それは内緒じゃ」
「えー!?」
明らかに不満をあらわにした女生徒はややしばらく食い下がったが、仁王はのらりくらりとかわしつづけ、最後まで口を割ることはなかった。