二週間前程前のことになるだろうか。 仁王雅治は女と別れた。 否、正確には振られたというべきか。 「ごめんもう限界」 ひゅるひゅると頬をなでる風は柔らかく春も終ろうとする帰り道、後ろを歩いていた女は突然そう告げた。 驚きはなかった。 ただ「またか」と他人事のような感想が通り過ぎただけだった。 以前付き合った彼女にもその前の彼女にもそのまた前の彼女にも、別れ際、仁王は判で押したように同じ文言を投げられてきた。 表現の違いはあれど、その意味合いはほとんど変わらない。無理だとか我慢できないとかもう勘弁して下さいとか、搾り出すような降参の台詞ばかりを口々に彼女達は吐いた。表情は一様にどんよりと曇り、仁王と目を合わせようともしない。 最後の女も例に漏れず、抜け殻のようにしおれきった顔。 好きだなんだと言い寄ってきた頃に見られた熱っぽい目の輝きも紅潮した頬も、いつの間にか霧散して今や影も形もない。季節はもう初夏の声を聞こうというのに、うら寂しく木枯らしが吹いたようにそこだけ冬の気配がした。 こんなやり取りを仁王はこれまで幾度も繰り返してきた。要は慣れていた。 今更衝撃も戸惑いも覚えず、沸き上がるものは特にない。 申し込まれた交際に頷きひとつで関係が出来上がったのと同様に、向こうから別れを差し出された時点で縁は切れたのだ。引き留める言葉も感情も、仁王は持たない。 始まりがあれば当然終わりもある。 それが今この瞬間に到来しただけのことなのだと、奇妙なまでの物分りの良さで受け入れ、ならば終わりにいたしましょうかとすんなり納得した。 とはいえ楽しく過ごした時期もあったし、ましてや憎み合って離れるわけでもない。 最後に一言くらい優しい言葉を送ってたとしてもバチはあたるまい。 仁王は去ってゆく背に声をかけようとして、 ――― 唖然とした。 名前を呼ぼうにも、出てこなかった。 どう記憶を探っても欠片も見つからない。 忘れたのではない。元よりそんな情報は仕入れていなかったのだ。 彼は彼女の名字しか知らなかった。一ヶ月にも満たない期間とはいえ仮にも恋人だった女の、下の名前を彼は知らなかった。 知らなかったことに、今まで気付きもしなかった。 お前そのうち刺されるぞ。 いつだか、友人からそんな風に言われたことがある。 褐色の肌を持つ彼はその精悍な顔を深刻そうに曇らせていた。 誰と付き合っても長続きせず、くっついては別れをいたずらに繰り返す級友の素行に心を痛めての苦言だろう。事実、一人として三ヶ月以上持ったためしがない。にも関わらず、ほとぼりも冷めぬうちにさっさと別の女を侍らせている。 まさに入れ食い、はたから見ればさぞや次々女を弄ぶ非道な男と映るに違いない。 しかし人が考えるほど仁王の女関係は派手ではない。二股はおろか浮気もないし、特定の相手が居るときは他の女にちょっかいをかけるのも極力控えている。 付き合ってきた相手にだって、まるっきり手を出していないわけじゃないが、一応中学生というお互いの身分を考慮して、そう不埒な真似には及んでいない。 そもそも、周囲は信じないかもしれないが、三角関係や浮気の揉め事が別れの原因になったことは一度もないのだ。忠告を受けるような覚えは、万にひとつもないように思う。 それでも事実彼女たちは一人残らず消えていったのだから、やはり自分はどこかしら壊れているのかも知れない。 終ってしまった関係に執着はないが、好意を抱いて近付いてきた相手が次々と潮が引くように去ってゆくのはやはり寂しいことのような気がした。 溜息の代わりに、紙パックに残っているコーヒー牛乳を力一杯吸い上げた。 くずかごへ放り込んで、かかとを潰した上履きを引きずりながら教室へ向かう。果てまで届くような乾いた足音。夕暮れの校舎に人影はない。 ひとり。 仁王は漠然と、だがしかし強く感じた。 恋人に去られたゆえの感傷ではなく、いつからか誰と付き合おうが別れようが関わりなく常に付きまとう感覚だった。 扉に指を引っ掛けて思い切り良く引く。 遠慮なく踏み込んで、自分の席へと向かおうとした足をそこで止めた。 誰もいないものと決めつけていた教室には先客がいた。 落ちてゆく夕陽を見送るように、机に頬杖をついている。その後姿が同じクラスのだと気付くのにそう時間はかからなかった。 声こそかけなかったが、あれだけ豪快にドアが開く音がして気付かないわけもない。 焼け落ちんばかりの凄みで迫る日暮れを背負って、ゆっくりと背中が仁王の方へと翻った。 その一瞬、この世の終わりのように美しかった。 そんなはずもないのに、振り返る背中がまるで自分だけを待っていてくれたように見えた。 単純に嬉しかった。わけもなく胸が高鳴った。 だからつい、ぽろっと言ってしまった。 「俺と付き合わんか」 自覚こそなかったが弱っていたのだと思う。 だからこそ錯覚と気づいていながらも、つい縋ってしまった。 おぼつかない足元を支えんが為に、たまたま目に付いた手すりを掴むようなもので、あまり誠実なやり方ではない。自分でもよくわかっていた。 彼女は振り返った姿勢のまま、ぎょっとしたように固まった。しまったと思った。 クラスメイトとはいっても、この四月初めて同じ組になった程度の仲で、軽口を叩き合うような間柄ではない。 とても好感触とは言えない反応に、手ひどく罵られるか、はたまた軽蔑の眼差しを浴びせられるかと仁王は覚悟したが、意外なことに困惑の色を残したままは 「うん」 と頷いた。 態度と噛み合わない、まさかの承諾。 しかしその顔に喜色が浮かぶ気配はなく、固い表情の奥はちっとも読めない。 拍子抜けしながらも、つっぱねられずに済んだ仁王はいくらかホッとし、しかしそれをおくびにも出さず、それじゃこれからよろしくナリと笑顔で握手を求めた。 夕焼けが覆い尽くす初夏の空を背にして、頬を緩めることなくはよろしくとそれに応えた。 こうして仁王雅治は、もはや何人目かすら知れない"彼女"を手に入れた。 |
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