ようやく馬の足が止まったのは、大きな屋敷の前だった。

 「ここが私の自宅です。殿のお部屋もすぐご用意させます」

 帰宅と同時に、数人の女官が主人を出迎えた。
 陸遜は連れてきたを紹介し、女官たちに彼の身の回りの支度などの指示を与えた。

 「とりあえず、風呂で疲れでも取ってください」

 立派な御殿が珍しいのか、キョロキョロとあちこちに目を奪われている少年を陸遜は、湯殿に促す。
 お世話をするべくの両脇に女官2人が就いたが、彼は慌ててそれを拒否した。

 「ふ、風呂は一人で・・っ!!」

 「あら、着替えくらい手伝わせて下さい」
 「そうですわ、お客様一人になんてさせるわけにはいきません」

 「い、いい!!・・」

 手首も折れよとばかりに、ブンブン手を振って断る

 「好きにさせてあげなさい。私も風呂や着替えは一人でしてるでしょう」

 主人の連れてきた珍しい動物を構いたくって仕方が無い女官に苦笑いしながら、陸遜はに助け舟を出す。
 え〜つまんない〜などと言いながらも、しぶしぶ女官達は彼を解放した。




 ようやく一人になることができ、ホッとしながら湯につかるだったが。

 さすが名門陸家、湯殿までもかなりデカい。
 ハッキリ言って
落ち着かないこと請け合いだ。
 ひとりで大浴場貸しきり状態である。
 裕福な暮らしをしてこなかったしにとって、この広さは妙に不安を感じるらしい。

 一体どうしてこんな状況になっているのか。
 ジャスミンの香り漂う熱いの湯の中で、今日という日を振り返ってみたものの、結局よくわからない。
 泥や土埃などの汚れを洗い流しながら、とりあえずのぼせる前にあがろう、とぼんやり思うであった。



 一方、着替えを済ませた陸遜は、筆をもったまま私室の椅子に座り、考え事をしている風である。
 机の上には、すでに書き終えた今日の報告書が広げられていた。
 蝋燭の灯火が、硯に溜まった墨の中に映っている。
 陸遜はそれがユラユラと揺れ動くのをしばらくの間じっと眺めていたが、やがて握っていた筆の先を丁寧にぬぐい脇に置かれた筆箱にしまった。

 「・・・しばらく様子を見ましょう」

 すっかり乾いた文書をたたみ、陸遜は部屋を出た。



 普段は客をもてなす為に使われている大きな卓の上には、すでに湯気をあげた料理が並べられていた。
 陸遜との夕食として用意されたものである。
 二人分にしては大目の量の食事を前に、主人の陸遜は席に着いた。

 「様の用意が済んだようです」

 陸遜が扉へ視線を移すと、そこには恐ろしく美しい少年が一人立っていた。

 小柄なのは分かっていたが、思ったよりもずっと華奢な体つき。
 髪は短くボサボサに切られてはいるが、瞳と同じ深い漆黒が見事だ。
 布で常に隠していたせいか、肌は驚くほど白い。
 まさに美少年の見本のような容姿端麗さである。


 ボロ布と泥汚れを取り去ったら、中身は宝石だったらしい。


 「熱ッ――――!!!!」

 茶を注いでいた女官が呆然と見入り、器を持っていた陸遜はまんまと
火傷を負わされた。



 「いやぁ、驚きました」

 夕食を終えた後、火傷をアイスノン(無いだろこの時代に)で冷やしつつ、陸遜は向かいの席のに笑いかける。

 「目がずいぶん綺麗だから美形だろうとは思ってましたが・・。」

 「・・・?」

 「・・あまり、ご自覚が無いようですね」

 笑みをこぼした陸遜に、は困ったように呟く。

 「・・・・そのような事を言われたのは、初めてなもので」

 そりゃあ、顔をあれだけ隠していればそうであろう。
 しかし、陸遜はあえて突っ込まず、別の質問を向けた。

 「殿はいくつですか?」

 「・・・15」

 陸遜よりも2つも下だ。

 「一体どこで、あのような腕を磨かれたのです?」

 なぜ、こんな若さであれだけ使えるのか。
 あの速さは、並みの訓練では身に付かない。
 無駄も、隙も、まったく無い立ち回りだった。

 「・・・父から・・・・、指導を受けていた」

 無口なに対して、陸遜は時間をかけてゆっくりと質問を繰り返し、ひとつひとつ聞き出した。

 父が名高い剣士だったこと、その父も含めた家族をすべて戦火で失ったこと、身よりも無い為それからずっと一人で旅を続けていること。

 どうやらこの年若き剣豪は、幼い頃から小さな手に武器を持ち、日銭を稼ぐ為に戦に参加していたらしい。
 数え切れないくらい死にかけた、という。常に命を危険にさらして生きてきたのだ。
 父親から基礎をしっかり叩き込まれた剣術が、何度も死地をくぐりぬけることによって磨かれあのような並外れた身のこなしが出来るようになったのだろう。

 ----実戦のみで育ってきたのか
 道理で動きに一分の甘さも感じられなかったわけだ。

 陸遜はのどの渇きを覚えて、茶器にそっと手を伸ばす。
 食後に出されたお茶は、とうに冷めていた。
 すっかりぬるくなったそれを一気に流し込んで、黙り込んだを見据える。

 目の前に座っている剣士は、おそらく今までに何千もの相手を斬り、染まるほど返り血を浴びただろう。
 しかし、心を映す鏡ともいえる瞳には、一点の曇りもない。
 生まれたての赤子のように深く清廉な光が、真っ直ぐこちらに向いている。



 「強くなければ、生きてゆけない」


 沈黙を破ったの言葉には、選ばねばならなかった道に対する想いすべてが込められている気がした。


 「・・・・あなたの放浪の旅は、ここで終わりです」

 陸遜の発言に、は目を見開き、脇に置いた剣を素早く握った。

 「呉の君主、孫策様に仕官して頂きたい」

 「!?」

 続いて出てきた予想外の台詞。
 はさっきとは違う意味で、更に大きく目を見開いた。

 「あなたが呉に武将として加わってくれれば、我が軍はより強固なものとなるでしょう」

 「・・・・」

 「殿のような手練れが他の勢力へ行ってしまっては、困るのですよ」

 「・・・・」

 は非常に戸惑って、汗をダラダラかいている。
 それはそうだろう。
 孫策に仕えるということは、役人である。しかもいきなり武将として、なんて破格の出世。
 さっきまで素浪人のような生活をしていたには、どうしていいかさっぱりわからない。

 「あ、家にはこのまま住んでくれて構いませんから」

 明るくサッパリとした笑顔。
 陸遜、お得意の顔である。

 「どうしてそこまで・・・」

 してくれるのか、と勢いに押されて黙りこくっていたがようやく口を開いた。


 「名軍師の勘です。この方はこの国に必要だ、と」

 さすが天才軍師様である。
 自分で「名」を付けちゃうところが大層図々しい。

 「私は自分を信じています」

 ニコニコニコニコとしている陸遜に、は肩の力が抜けていくのを感じた。

 手にした剣を床に置き、静かに椅子から立ち上がる。
 卓に頭が擦り付きそうなほど、少年は深く頭を下げた。


 「・・・よろしくお願いします。陸遜様」