いつもと変わらない朝に思えた。
 天気はすこぶる良かったし、寝過ごしたりもしていない。  
 顔を洗い、制服に着替え、慌てながら朝食を摂り「もっと早く起きんか」と祖父にゲンコツをもらう。
 普段と寸分変わることのない毎朝の光景。  
 靴を履き、横開きの戸に手をかけて。

 「行って来ます」
  
 本当に、何もかもいつも通りだった。
 その玄関を出る前までは。

 の家は傾きかけた道場で、随分と年季の入った古い日本家屋だった。
 雨漏りなどは日常茶飯事で、あちらこちらからすきま風が吹き付けてくる。
 家全体を劇的リフォームするほどの経済的余裕がないので、せめてここだけでも・・・と思ったのだろう。
 いつ床が抜けてもおかしくない骨董品のような屋敷に比べ、庭は実に見事なものだった。
 土いじりが趣味な祖父の手入れは隅々まで行き届いており、季節に合わせて様々な花が咲き、木には実をつける。
 は四季の変化を、毎日目にするその庭で感じていた。
  
 しかし、その日。
 扉の向こうに、当たり前のように見慣れた風景は、無かった。
 庭の代りに現れたのは、いきなりの断崖絶壁。
 そして、その下で繰り広げられている
 これまた、いきなりの合戦だった。

 最初は悪い夢だと思った。
 息を止めて咳き込み、頬をつねりすぎて腫れた。
 夢ではないことを確認した後は、自分の中の妄想が幻覚を見せてるんではないかと疑った。
 放課後に控えている委員会を面倒くさいとは思っていたが、ここまで現実逃避するほどだったかと。
  
 とりあえず、学校を休んで家で寝ようとは判断した。
 特に激しいストレスなど感じていなかった気がするのだが、こんなものを見ている時点で普通ではない。
 知らなかったけど疲れてるんだな私、などと思うことにしたのだ。

 だが、振り向いたら玄関の戸が消えていた。
 家もなかった。
 の日常全てが消えうせていた。

 あるのは、鬱蒼と生い茂る木々。静かなる山脈。
 植物の緑は深く、人の手が入った気配など感じられない。
 もちろんコンクリート整備の道路は存在するはずもなく、草の間に獣道が見え隠れする程度だった。
  
 うろたえ、再び前を向けば大河ドラマロケを彷彿とさせる合戦シーン。
 パッと見、単なるNH○の撮影に見える。
 しかし大きく違う点は、カメラやテレビスタッフ・機材など、”作り物”を感じさせるものがまわりに何ひとつ無いということだ。
 鎧武者も騎馬隊も。
 どうしようもなく、リアルだった。
  
 助けてくれ、と声を上げる気にはならなかった。
 見つかれば、矢やら鉛玉やらが飛んでくるかも知れない。
 合戦と山奥
 飛び込むならば、断然後者だろう。

 とにかく、ここは現代ではない。
 自分の生きていた時代ではない。
 将が背負っている旗には”風林火山”

 それは、かの有名な。
 本当ならば、今は。

 考えを巡らせながら、震える足では山へと向かった。
 だが、そこは近隣の農村では「死の天狗山」と呼ばれている
 チャレンジャーな旅人ぐらいしか足を踏み入れないような場所であった。
 ひたすらに峠は険しく、深すぎる森は方向感覚を狂わせる。
 は、まんまと遭難した。  


  
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 「…か?目が覚めましたか?」  

 覚めたくない、とは無意識に思った。
 なーんだ夢だったんだ☆という素敵な展開にならないことは分かっている。
 森でのサバイバル生活で、それは充分学んだ。
 しかし起きないわけにはいかない。
 今現在、自分がどうなっているのか知る必要がある。  
 飢えてまで戦から逃げたというのに(飢えたのは迷ったせい)、明らかに危険そうな集団に拉致されてしまった。

 売り飛ばされる前か、売り飛ばされた後か…

 は完全に売り飛ばされることを前提に考えている。
 それ以外の選択肢が浮かばないようだ。
 最高潮にテンパっている。

 観念して、ゆっくりとが目を開けると低い天井が薄っすら見えた。
 その視界の奥には美しい欄間。
 一瞬見ただけで、格式の高いお屋敷だと分かるような上品さが漂っている。
 薄汚いゴロツキどもの溜まり場とはとても思えない。
 かといって、娼館とも違うようだ。

 「どこか痛むところなどはございませんか?」

 ぼうっと目線を泳がせているを、綺麗で優しげな顔立ちの青年が覗き込む。
 見覚えのない顔。
 目の前の男が何者なのか全く予想できないまま、はポツリと呟いた。

 「…お腹…空いた」

 質問の答えになっていない。
 しかし青年は、の的外れな言葉にも誠実に応えた。

 「承知しました。それでは何かお持ち致しましょう」

 なんという人の良さそうな笑顔だろう。
 「あなた誰ですか?」という基本とも言える質問を投げかけるのも忘れて、は仏様のような青年を見つめていた。
  
 「とにかく、鷹姫様がお目覚めになったとご当主に報告して参ります。御前失礼」
  
 そう言った後、襖を開けて青年は部屋を出て行った。
  
 「タカヒメ様ってなに…ご当主様って誰…」

 そういえば、ここはどこ。  
 色々聞き出すチャンスをみすみす逃した自分の意地汚さが悔やまれる。
 生死の境を彷徨うほどの空腹感は、思考能力を根こそぎ奪うようだ。
 どこから聞こえるのかチュンチュンと雀が鳴いている。  
   
 置かれている立場はいまだ不明なままで、不安は何一つ解消されていない。
 それでも久しぶりの布団の感触は柔らかで、はなんだかいい気持ちになってしまった。

 そんな悠長なことでいいんですか、さん。