大皿に盛られた鶏肉と大根の煮込みがテーブルの中央で湯気を上げている。
昨日から鍋で仕込まれていたそれは、芯まで火が通ってさぞや柔らかいことだろう。は生姜と醤油の香りがしみこんだ大根を箸で崩してしまわぬよう皿に取り分け、趙雲の手前に置いた。
昨日まで三人分しか用意されてなかった卓の上に今夜は食器が四人分揃っている。
棚の奥から引っ張り出してきた来客用の御飯茶碗はサーモンピンクの花柄模様。無骨な手で抱えるには少々可愛すぎた。
常に空席だった一角にも椀や皿が置かれ、食卓自体はいつもより賑やかな雰囲気だが、囲む面々のテンションはどちらかというと低い。
とはいっても、こうして呑気に夕食を突付いているくらいであるから険悪なムードというわけではなく、どうしたらいいもんかなあという途方に暮れた空気が家を包み込んでいた。

「無双……知ってたんだねお父さん」
「会社の若い奴がストレス解消にってやけに勧めてくるもんだから」

つい買っちゃったよと父は照れくさそうに肩をすくめた。

「あれ……面白いな……」
「うん面白いよね……」

通勤途中や電車の待ち時間に暇つぶしのつもりでやってたら、いつの間にかハマっていたのだそうだ。確かにあの爽快感、ストレス社会に生きるサラリーマンが虜になるのも納得できる。
どこの課の誰さんだかは知らぬが、父に無双を勧めた部下には心でお礼を告げた。おかげで趙雲の存在を信じてもらいやすくなったというわけである。ちなみに、自分が無双の世界で青春を謳歌していたことと、川に流れ着いた際趙雲が全裸だったことは当然は伏せて話した。
とりあえず落ち着こうと父が手を付けたビールの缶は、既に3本目に突入していた。いつもはコップ一杯でほろ酔いとなるはずが、今日は顔色一つ変わっていない。家長としての威厳か、平静さを取り繕ってはいるものの、やはり相当動揺しているようだ。
さっきは自ら指をさしてまで趙子龍だと断定しておきながら、改めて趙雲が名乗った時「君はどこの趙子竜だ!」とわけがわからないことを口走っていた。多分父自身も意味不明だったろうと思う。
だが姿も声も疑いようのない実写版趙雲が突然(しかも娘の部屋から)飛び出してくれば、取り乱すのも無理からぬ話である。
父は生真面目な堅物ではないものの、ガハハと笑い飛ばせるほど剛毅な人でもない。その言葉ふさわしいのは、どちらかというと彼の伴侶だ。

父はひたすらビールをあおっている。酒の勧めを断った趙雲は先程から水ばかり飲んでいる。も同じくひたすら水を飲んだ。水物ばかりがやけに減ってゆく中、母だけはいつもと変わらぬペースで箸を進めている。こんな状況だというのに、よく食べる。さりげなくご飯二杯目である。味噌汁をすする音もやけに豪快だ。

「……冷めるよ?」

なんとなく集まった家族(+武将)の視線に気付いた母は、不思議そうな顔で漬物を口に運んだ。
ごく当たり前のアドバイスを受けてしまった一同は、いやまあそれはそうなんだけど……とやや脱力したものの、堂々としたその物腰に敗北を喫してのろのろと食事に手をつけ始めた。母の口内で、漬物がバリバリと噛み砕かれてゆく。
その音はやけに快活に響き渡り、自分に流れているのは間違いなく父方の血であることをは確信した。

「しかし君、あ、趙雲くん……いいやその、趙雲、さん?」

ビールを飲み干した父が意を決したように話を切り出したが、本題に入る前に呼び方でつまづいた。
年恰好のみ考慮すれば「くん」付けで問題ないように思える一方、勇名轟く天下の武将相手に「くん」はないだろうという気もする。しかしそう考えると「さん」も十分に馴れ馴れしいわけで、ならばもういっそ「雲ちゃん」とかでいいんじゃないかとさえ思ってしまったが、調子に乗るなと槍で一突きにされてはたまらないのでそれはやめておこう。父の内部で混乱は続く。
ぷつりと途切れてしまった会話に居心地の悪さを感じたのだろう、趙雲は自分のことは呼び捨てで結構ですのでと自ら申し出た。
それに対して、いやそういうわけにはと拒む父。私はそんな大層な人間では、と恐縮の趙雲。いえいえ長坂の単騎駆けは実にお見事、と見てきたように語る父。ひたすら漬物を噛む母。皿のえんどう豆とか数え始めちゃった

「そうだ、お前はどう呼んでるんだ」
「え、趙雲様だけど」
「じゃあ私達もそれに倣おう。母さんもな」

趙雲様趙雲様。
決定を記念するように、夫婦は特に用もないのに名を連呼した。いちいちその都度「はい」と返事を返す律儀な趙雲の姿がいじらしい。皿に転がるえんどう豆は58粒だった。

「ええとそれで、趙雲様はこれからどうされるんですか」

さっきは君呼ばわりしていた癖に、気付けば敬語の父である。
確かに仰々しく様付けで敬っておきながら、今更気さくな口の聞き方などできようはずもない。さっきまでの主と客という対等もしくはそれ以上だった立場が、いつの間にかお侍さんと農民の関係くらいに暴落している。
趙雲とは顔を見合わせ、互いの出方を待った。しかしどちらもただ困ったような視線を飛ばすばかりで、実りのないままアイコンタクトは終了した。
だがよく考えれば、自らの意思で川から流れてきたわけでもあるまいし、どうするかと聞かれたところで趙雲には答えようもないことだった。
彼は自分が守らねば、とは決意を込めて箸を卓に置いた。

「あのそれなんだけど、しばらく我家に居ていただくっていうのは……どう、ですか……ホラ、これも縁ということで」
「まあ確かに縁といえば縁だけどなあ」
「おねがい、私が責任を持って面倒見るから」
「えーそんなこと言って。あんた金魚死なせたばかりじゃない」
「あっ、あれはっ死なせたとかじゃなくて露店の金魚の宿命で……って、なんでいま金魚の話?趙雲様を同列で扱うってどうなのそれは」

台所の奥で、加熱の終ったレンジが無神経にもピーピー鳴いている。突然の高音に、敵襲かと横で趙雲がひとり身構えていた。

「とにかく、うんと言ってくれるまでここから動かないよ」

が鼻息荒く言い放つと、珍しく頑なな態度に違和感を感じたのか両親は揃って訝しそうに娘を見た。

「なんでお前がそんなに必死なんだ」
「そ、そんなことないよ」
「そんなことあるよ」
「私はただ、困ってる人を見捨てるのは人間としてどうかなあと、お、思うだけですよ」

言えるものなら言ってやりたい。
私が向こうにいた頃は散々世話になったんですよ、だからこれはいわゆる恩返しですよ、と。
しかしそれは家の食卓に新たな波紋を呼ぶに充分なスクープであるので、じっと我慢の子である。
精一杯の険しさで臨む一人娘と未だ警戒を解かない趙雲の顔を交互に見比べた父は、うーんと呻いて、味噌汁を一口すすった。そして、頭をかきながら一言「うん」と応えた。

「う、うんって、今、うんって言ったよね?それはいいって意味?」
「まあ、そうなるか」
「ほんとに、ほんとに?」
「いくらなんでも追い出すわけにはいかんからなあ」
「ちゃんと趙雲様の面倒見て差し上げなさいよ」
「うん!よかった、よかったね趙雲様!」

趙雲の手を取ったは飛び上がって喜んだ。
顔中に広がる花のような笑顔は娘を愛してやまない親心を潤すに充分なものだったが、その振動で椀に残っていた味噌汁が父の顔面を襲った。充分に冷めていたので火傷の心配はなかったが、下あごにワカメが張り付いていた。
頬から滴り落ちる味噌汁を、父は静かに袖で拭った。

、盛り上がってるとこ悪いが、ちょっと……タオル持ってきてくれるか」
「うん……ごめん…」

予想もしない展開で家族が一人増え、戸惑いを含みつつも家の夜は更けていった。
しばらくは居候という形で落ち着いたものの、全てが解決したわけではない。育ちや時代の違いは、きっとお互いが考えているより大きな問題だろう。ときに思いも寄らぬ障害が立ちはだかるかもしれない。それでも同じ屋根の下で暮らしてゆく以上、ともに考え、分かち合い、支えとなり力となろう。父はの肩を叩いてそう語った。これまで見た中で最も父親らしい、頼もしい顔をしていた。


騒動から一晩明けた土曜の朝。
仕事に出かけた母の代りに、は父のワイシャツやら自分の靴下やらの洗濯物を抱えて洗濯機へと向かった。
昨夜の疲れか父はまだ眠っている。
一方、居間に布団を引いてもらった趙雲は誰よりも早く起床して、(この狭い家の中で)せっせと鍛錬に励んでいた。
槍を持ってこなかったと嘆いていたので仕方なく物干し竿を渡したところ、いやこれはいい、手に馴染む、などと思いのほか気に入ってしまい、なかなか手離そうとしない。二本で千円の代物で満足してくれるのは助かるが、そのまま持ち歩かれると困る。
洗濯が済んだら返してもらおうと思いながら、は洗濯機の蓋を空けた。
放り込むはずの洗濯物がぼたぼたと手から落ち、足の上に散らばった。

洗濯槽は銀の色。
すっぽりおさまる錦馬超。

は思わず蓋を閉めた。