「お帰りなさーい……」 のっそり現れた娘を見て、ああやっぱり居たの、と母はスーパーの袋を冷蔵庫に押し込んだ。 「今日はずいぶん早いね」 「あ、違う違う、忘れ物取りに一旦帰って来ただけ。いま昼休み」 食卓テーブルの上に置かれた携帯を手にした母は着信履歴を確認しながら、葡萄もらってきたから食べてもいいよ、と冷蔵庫を指でさした。 何故こんな日に限って忘れ物を?そして何故わざわざ取りに帰る?とドッキリを仕掛けてきた母に叫びたい気持ちだったが、緊張感を悟られまいとは口を閉ざした。 「そんなことよりあんた学校は?」 「え、あ、急に、具合が悪くなって……うっ、お腹が!」 「あら風邪でも引いた?大体なんで制服なの」 「それはその、き、着替えるのもつらくて、ですね…そのままベッドに…」 「やだそんなに?母さんこのまま会社休もうか」 「(ヒー!)だ、大丈夫!寝てれば治るから…!」 薬やら体温計やらを引っ張り出してあれこれ世話を焼こうとする母を、はどうにか言いくるめて再び職場へと送り出した。 冷や汗をかいたり、苦しそうな顔をしたり、過度な演技で墓穴を掘りそうになったり。仮病どころか本当に具合が悪くなりそうである。 疲労感にどっと襲われ椅子に座り込んだは、やけ酒をあおるかのようにペットボトルに口を付けた。カラカラの喉に水が一気に滑りおちてゆく。と同時に、冷たく厳しい現実の波が自分に向かってになだれ込んでくるのを感じた。 上で待機しているあの趙雲をこれからどうしたらいい。 今は上手くやり過ごせたが、いつまでも注意をそらし続けることは難しい。誤魔化せるのはせいぜい1日2日、それ以上は現実的に考えて無理が生じる。 親に内緒で捨て犬や迷い猫を飼うなんてのはよく聞く話だし、実際過去も路頭に迷っていた亀をこっそり匿っていたことがある(すぐ見つかったが別段問題なくそのまま飼われた) がしかし、今回拾ってきたのは犬でも猫でも亀でもなく元五虎大将。隠して飼うにはあまりにも容量が大きい。かさばる。 かといって、身寄りのない趙雲を無責任に放り出すわけにはいかない。なにしろ相手は湯が飛び出したシャワーヘッドに腰を抜かすくらい現代社会に不慣れな人種だ。外に出たら最後、きっとあっという間に車に轢かれる。そんな悲しい終わりは見たくない。 ここはやはり、家族を信じて賭けに出るべきだろうか。 可能性は低いが、腹を割って話せばもしや受け入れてもらえるかも入れない。 いや待て。 腹を割るといっても、一体どこまで割る? 趙雲のことは他に説明のしようもないので、別の世界からやってきたと正直に言うほかないが、自分もそこで朱雀という神の遣いをしていた、と語るのはどう考えても危ない気がする。 別の世界云々の時点で充分痛々しいのにそこへ持ってきて神の遣いと来た日には、娘は一体どうしてしまったのかと大概の親御さんは不整脈を起こすに違いない。これまで特に問題もなく比較的真面目に過ごしてきただけに、両親のダメージは大きかろう。 受け入れるどころか、貴様娘に何を吹き込んだ!と趙雲の胸倉を掴んだりして、普段は見られない親父の本気の拳というものを目の当たりにするかもしれない。昨日までの平和な家はいっぺんに崩壊だ。 ありのままを伝えるとは何と難しいものなのか。真実の壁は厚いものである。 厚く空にかかった雲で月明かりは望めず、池のほとりは墨で塗りつぶしたような闇。その漆黒の中に、蠢く複数の影があった。呼び出され、待ちぼうけを食らう男はそれらの接近に気付かない。やがて短い悲鳴が闇夜に漏れたが、突然降り始めた土砂降りの轟音にすべてはかき消されてしまう。翌日、池に一体の死体が浮いた。その日、回船問屋の娘と祝言を上げるはずだった職人の男、新之助だった。 「な、なんと卑劣な!このような悪事を目の前ではたらくとは…」 「大丈夫です最後は必ず成敗されますから」 「そんな悠長なことを……ああほらご覧下さい、やはりあの役人…裏で繋がっている!」 「趙雲様落ち着いて、葡萄潰れてますよ」 指を紫に染めながら、くうと趙雲は呻いた。 母が職場でもらってきたという葡萄はとても甘く美味だった。空腹に任せてつい食べ尽くしそうになったが、腹痛を訴えた手前そうもいかず、は小さく切り取った房の一粒一粒をじっくり時間をかけて味わった。趙雲は葡萄より目の前の時代劇に夢中の様子で、あまり手が進んでいない。 家族が留守にしている間にこの世界がどのようなものか少しでも知ってもらおうと、趙雲から見たら不思議の塊であろうと思われる家電や電気のスイッチや水洗トイレなど一通り教えて回った。 押すと明るくなるんですよ。引くと水が流れます。趙雲はその一つ一つに目を丸くしていた。これはどうなっているんですか、とその都度色々と質問されたが、仕組みを説明するのが面倒だったので、四角くて便利な働きをするものは全部「魔法の箱」という一言で片付けた。パソコンもテレビも冷蔵庫もどれもこれも魔法の箱である。 その中でも特に、様々な人や物や動きがみられるテレビという魔法の箱に趙雲はいたく心奪われたらしく、左手に葡萄右手にリモコンを持ったまま、さっきから画面の前に釘付けになって動かない。 一応「これはフィクションです」の注意書きよろしく、現実ではないことを何度もお知らせしているのだが、すぐに理解するのは難しいのか先程から繰り広げられる代官らの悪行にいちいち反応し、鼻息を荒くしている。いつ怒りに任せてテレビに飛び掛るか不安で仕方がない。早いところ黄門様には正体を明かして頂きたいとは願った。 皿の葡萄が皮と種だけになった頃、はびこっていた悪は無事制圧されたらしく、団子を頬張るうっかりの人をご家老の従者がたしなめたりして城下は大団円を迎えていた。非の打ち所のない勧善懲悪の展開に趙雲も大いに満足している。 は小さな木製テーブルにお盆を載せ、お茶とおしぼりを差し出した。指を拭うと、真っ白だったおしぼりにはみるみるうちに紫色のまだら模様が広がった。 「あの、私、趙雲様に言い忘れてたことがあるんです」 がそう言うと、趙雲は湯飲みに伸ばしかけた手を止め、なんでしょうと答えた。 「この世界には朱雀はいません」 「と、いいますと」 「あちらに居る時はどういうわけだか不思議な力を授かりましたけど、私はもともと至って普通の人間なんです」 むこう側とこちら側。 別世界なのだから勝手の違うことなど当然山ほどあるが、その中でも決定的に違うのはが持つ力の有無だった。ここでのはそのままで、朱雀様でもなければ神のかの字もない。 現代日本に来てしまった以上、趙雲にはが奇異な力を持たない、ただの小娘であることを理解してもらう必要があった。うっかり口を滑らせて趙雲(と)がちょっと危ない人、と周囲から認識されては困るのである。 「ええと、だから、こちらはでは何の能力もないというか、そもそも小太刀がないんです」 「……では、以前のように早く駆けることは」 「できません」 「風を操ることも」 「勿論できません」 難しい顔のまま無言で頷いた趙雲は、交わした会話をひとつひとつ反芻するようにしばし考え込んでいたが、やがて決意に満ちた双眸をに向けた。 「承知、護衛はこの趙子龍にお任せあれ」 お任せあれと言われても、お任せしたつもりは毛頭ない。 としては、自分は敬われるような存在ではないし、合理的で科学的な存在のみを信じる社会だということ伝えたかったのだが、彼は「以前のような力がない→危ない→守らなければ俺が俺が」という進路へと早足で進んでしまったらしい。使命感に火が付くのが早すぎる。 そういえばこの人は(というかあの国の人は)こういう人だったよなあ、と諦めにも似た懐かしさが春風のようにを通り抜けていった。 夕方、帰宅した母が忙しなく夕食の準備を始めると、温かい味噌汁の香りが部屋まで立ち上ってきた。葡萄のみしか口にしていないと趙雲は、今になって急に空腹感に気付いたかのように腹をグウと鳴らした。 いい匂いですねと趙雲が呟き、お腹すきましたよねとも呻く。いつもならば冷蔵庫を開けたり戸棚を漁ったりしているところだが、本日は具合が宜しくない設定を通してしまったおかげで、母の前では食欲旺盛なところは見せられない。鞄に押し込まれていた飴玉を寂しく舐めつつ、あとで晩御飯をこっそり運んでくることを告げると趙雲は済まなそうに頷いた。 そうこうしている内に父も帰ってきたようで、家全体がにわかに騒がしくなった。 大抵この時間はも手伝いの為に母と共に台所に立っている。いつもは自分を出迎えてくれる娘の不在に気付いたのだろう、はどうしたと尋ねる父の声が響いてきた。 あの子なら上で寝てるわよ。どうした具合悪いのか?そうみたい、学校休んだって。おいおい大丈夫か。本人は寝てれば治るとか言ってたけど。熱でも出してたら大変だ、俺ちょっと様子見てくるわ。 来られては困る! 床に耳をこすりつけて盗み聞きしていたは、勢いよく部屋を飛び出した。 しかし、人間焦るとろくなことにならない。 もつれた足が階段を踏み外し、は地鳴りのような音を立てて転げ落ちることとなった。 「大丈夫か!」 「殿ーッ!」 転落した乙女に駆け寄った男は2人。 一人は当然、娘の身を案じた父親。 そして、悲鳴と物音に我を忘れて飛び出してしまったもう一人。 「……っうおぉ何だこの趙子龍ー?!!」 のけぞった父の背広の懐から、白いPSPがこぼれ落ちた。 |
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