「たぶん大丈夫だとは思いますけど、もし小さかったら言って下さい」
「かたじけない」

白い布を割るように伸びてきた二本の腕は、差し出された衣類をおずおずと受け取った。腕の逞しさと心細そうな仕草がなんとも不釣合いである。しかし確かにその格好では堂々とした振舞いは出来ないだろう。
終ったら声かけてくださいねと言って立ち上がると、趙雲は体に巻いたシーツの合わせ目をしっかり掴みつつ頷いた。どのような姿をしていても、ふとした所作の美しさは変わらない。
部屋から出た後、そのままもたれかかるように閉めた扉に背中を預けた。日の当たらない廊下の床が裸足にはいささか冷たい。ひんやりとした感触を足の裏で感じながら、は大きく息を吐いた。

いつ人が通りかかるかわからない上、身の隠す場所もない無防備なあの河川敷に、いつまでも留まっているわけにはいかない。かといって、わいせつ罪を連れてそう遠くになど行ける筈もない。結局、は趙雲と一緒に自宅へと戻った。
「一緒に」と言うには少々語弊があるかもしれない。趙雲が乗れなかったので、仕方なく自転車で走るをダッシュで追いかけさせる、というあんまりと云えばあんまりな移動方法だった(二人乗りにもチャレンジしたがの体力では無理だった)
何事もなかったから良かったものの、今考えると結構危ない橋だと思う。傍目から見れば完全に追う変質者と逃げる女子学生の図。人目に触れずに済んで本当に良かった。赤の他人ならまだしも両親に目撃なんかされていたら大事である。
半裸の男に追われる娘の姿だけでも衝撃映像だろうに、更にそれを家に連れ込んだとなればいよいよもって顔面蒼白だ。今日ほど共働きの家庭であったことに感謝した日はない。

背中越しに聞こえていたかすかな物音がふと止み、やがてを呼ぶ声がした。
扉を開けると、着慣れない衣服に何とか袖を通した趙雲が所在なさげに立っているのが見えた。サイズは問題ないようだが、Tシャツが後ろ前だった。こっちが後ろですよとタグを引っ張って見せたら、趙雲はなんと!とか言いながら慌てて脱ぎ出した。今日はやたらと裸体をみせつけられる日である。

「他はおかしくありませんか」
「大丈夫、すっごく似合ってます」

お世辞でも何でもなく本当にサマになっていた。
着ているものはなんてことはないカーゴパンツにただのTシャツであるのに、見栄えする容姿のせいか今年のジュノンボーイ趙子竜です、といった雰囲気である。全身ユニクロで固めてもこうまで輝いて見えるのだから、やはり男前はお得だと思わざる得ない。ちなみに下着も含めてトータル3440円也。安物だが一応全て新品だ。
帰宅してからすぐにタンスをひっくり返してみたものの、男物など父のスウェットくらいしかなく、着せようにもサイズが合わなかった。おかげでは10時の開店と同時に店へ駆け込む羽目となった。

「私の世界とは何もかも違うのですね、着る物一つとってもこんなにも差がある」
「最初は違和感ありますよね。でも慣れてしまえば楽なんですよ」
「あの、殿が着ているそれは」
「あ、これ制服なんです、学校の。やっぱり変な格好に見えますか?」
「いえ、殿はなにを着てもお可愛らしいです」

思い切り、真顔。
さすがはジュノンボーイとでも言おうか、こういう時の真摯な眼差しはたちが悪い。は赤い顔を伏せながら、ありがとうございますと小さく返事するのが精一杯だった。
しばしの間、恥ずかしそうに身を縮めるを趙雲が幸せそうに見つめるという、甘ったるく馬鹿馬鹿しい空気があたりを包んでいたが、そんな初デート的ときめきムードを悠長に楽しんでいる場合ではない。
趙雲がいるのだ。この世界のこの部屋に。
はぐっと顔を上げた。

「趙雲様は一体どうして、こちらの世界に」

年頃の娘には結構ショッキングな全裸騒ぎのおかげですっかり後回しになってしまったが、本来何よりも先に問うべき疑問だった。先にトリップかましてきた自分が言うのも何だが、これはただごとではない。ただごとであっては困るのだ。
緩んでいた頬を引き締めた趙雲は、実はですね、と神妙な面持ちでを見据えた。

「滝つぼに落ちたのです」

たきつぼ、とはただ繰り返した。

「滝つぼですか」
「滝つぼです」
「危ないですね」
「もはやこれまでかと思いました」
「思いましたか」
「ええ、武人が戦場以外で果てるなど無念でなりませんでしたよ」
「滝つぼですもんね」
「滝つぼです」

趙雲があまりに真剣に語るのでも同等の真面目さをもって受け答えしたが、正直よくわからない。
とりあえずその話の前後を伺いたいのだが、趙雲はたくさん水を飲みましたなどと滝つぼ体験をとくとくと述べている。よほどひどい目に遭ったらしいのだろうと思う。しかし、出来ればそれは後にしてもらえないだろうか。
相槌を打ちつつ今か今かと口を挟むタイミングをはかっていると、やがて言いたいことを全て吐き出して気が済んだのか、が水を向けるまでもなく趙雲自ら「そもそも私がそこに向かったのは、」と語り始めた。

最初から滝が目的だったわけではないのです。遠駆けの途中で見つけた川を、なんとはなしに追いかけてみただけのことで。私が遠駆けに出るなんて珍しいですか?いえ殿が天下を無事統一されてあちらの世もずいぶんと平和となりまして。戦がほとんど起こらぬおかげでそんなゆったりとした時間も増えたのですよ。
それで滝なんですが、その例の川を遡った先にあったんです。大きな滝でした。激しく力強く。私はその壮大さに感銘を受けて、この身を清めることにしたのです。落ちゆく水の流れに心身ともに鍛えようと。そうして冷たい水に引き裂かれるのを覚悟で衣を脱ぎ、滝へと足を踏み入れたのですが、

「思いもよらぬ深さだったというわけですね」
「ええ」

趙雲の顔は相変わらず大真面目だった。
かつては智勇兼ね備えた将として誉れ高かった男が、滝つぼに自らドボン。これがいわゆる平和ボケというものなのだろうか。

「確か、向こうはもう戦がないんですよね」
「はい」
「じゃあ、あの、滝に打たれて鍛錬する必要も特になかったのでは」

尤もなことを言ったつもりだったが、趙雲の顔つきが一瞬にして曇った。
黙り込んでしまった趙雲を見て、何か気に触ることを言ってしまったかと焦ったは肩に触れようと手を伸ばしたが、届くことなく彼によって捕らえられた。
鍛錬のためではありません。
呻くような声だった。

「あなたのことばかり考える頭を冷やしたかったのです」

今度はが沈黙した。
何か喋ろうにも、開いた口からはひゅうひゅうと空気がぬけてゆくばかりで、言葉が出てこなかった。

「考えても仕方のないことと知りながら来る日も来る日も。殿、貴方の事を」

漆黒の瞳に宿る光は鮮烈にも儚くも映り、見ていると胸が締め付けられて苦しい。だが、目を逸らせない。冷静沈着で通っていた彼のどこにこんな熱が眠っていたというのだろう。
趙雲は掴んでいたの手を両手で包み、祈るように額へ当てた。

「あれから、酒を断ちました」
「へ、」

つい素っ頓狂な声を上げてしまった。
唐突な禁酒宣言にぽかんとしているを前に、趙雲は表情を変えぬまま、酒を断ったんです、と繰り返し、覚えていませんか宴の日を、と続けた。
宴。
その言葉で、はようやく趙雲が言わんとしていることを理解した。

「あの最後の祝宴ですね」

趙雲は頷いた。
意志の強さを伝える真っ直ぐな眉が、縮むように歪んでいる。

「なぜ、どうして、自分は眠りこけてしまったのかと何度も悔やみました」
「いやあの時は……誰も彼も酔い潰れてましたから…」

中華統一を祝して君主も将軍も下っ端も関係なく全員がただの酔っ払いに成り果てたあの晩。
さあさ朱雀様まずは一献、と席を立つ暇もなく次から次へと祝辞を述べる人々に勧められ、の杯は常に溢れんばかりの酒で満たされていた。その上、上機嫌の劉備からどんぶりに注がれた秘蔵の銘酒とやらを手渡され、一気一気と煽られる始末。もちろん逆らえるわけはなく、男らしさすら漂う潔さで飲み干した。最後の方はもう酒なのか水なのかわからないほど舌と思考が麻痺し、隠し芸の怪奇・切っても切っても減らぬ髭!が始まった頃にはの意識は完全に飛んでいた。
次の日どんな激しい二日酔いに見舞われるかと想像するだに恐ろしかったが、それは要らぬ心配だった。全員が酒による屍となっていびきをかいていたその夜、は宴の場から消えるように元の世界に帰ってきた。最後にあちらで残してきた言葉は「さよなら」でもなく「ありがとう」でもなく「吐きそう」である。
ひどい。グダグダだ。もう少しどうにかならなかったのかと、情緒もクソもない風神を恨みたくもなる。涙涙の別れとまではいかなくても、締めとして挨拶くらいは済ませて去りたかった。

「…水の底へ底へと落ちてゆく時、貴方の事を考えていました。どうしているだろうかと。体を壊してないだろうかと。一目会いたいと、強く思いました」

そうしたら目の前に殿がいたのです、と趙雲は握った手に力を加えた。

「これも風神様のお導きかも知れません」

そう趙雲は感慨深げに語ったが、多分風神は関係ないと思う。結構薄情だ。泳げないが以前溺れたことがあったが奇跡など特に起こらず、流されていたところを近くの村人に助けてもらった。
もしかすると風神の知り合いの水の神様あたりが趙雲を気の毒に思って、こちらに連れて来てくれたのかも知れない。いや風神の交友関係などが知る由もないのだが。

「正直なところ、この際神であろうと何であろうと構わない。重要なのはもう一度こうして手に触れられるということ」

わずかに綻んだ趙雲の口調に気を取られたその一瞬、

「私はもう後悔したくないのです」

突然視界が暗くなり、気付けば腕の中にいた。
肌に直接鼓動が響く。自分が全て隠されてしまうくらい、趙雲の体は大きくて広かった。生まれて初めて男の人に抱きすくめられたは、気が動転した。
背中も肩も首もまるで動かず、体の中に針金が入ったようだった。何度も名を呼ばれたような気がするが、頭がぼうっとしてよくわからない。聞こえているのに聞こえない。
急激に与えられた熱により、の五感は機能することを放棄しはじめた。
……ように思われたのだが。
がちゃり。
足下から感じたごく微かな物音を、しっかりと拾っていた。
まさか。
青くなるをあざ笑うように続けて聞こえる、ビニール袋が擦れあう音と疲れを吐き出す大袈裟な溜息。
それは全て母親の帰宅を告げるもの。
おかしい、こんな時間に帰ってくるなど有り得ない。まだ仕事が終る時間ではないはずだ。
玄関で娘の靴を見つけた母親も同じことを思ったのだろう、彼女はの名前を呼び始めた。
さっきまで焼き切れそうだった脳の回線が、一気に冷え切った。

「ちょ、趙雲様、母が…帰ってきてしまった、ようです、」

母と聞いてから手を離した趙雲は、きりりと顔を引き締めお得意の生真面目な表情をした。

「では早速、母君にご挨拶せねば、」
「うわあ!ちょっと待った!」

キビキビとした動作で扉に手をかけた趙雲を、背中にすがりついて引き止めた。
いまこの2人を引き合わせたところで、どんな紹介が出来るというのか。そして趙雲はどんなご挨拶をぶちかますつもりなのか。
困る。すごく困る。
今後の予定は未だ白紙なのである。
方向性がまったく定まっていない状態で、最大の難関である身内に趙雲の存在を知られてはならない。絶対にこじれる。100%しどろもどろになる自信がある。

下からのを呼ぶ声は尚も続いている。不審に思われて、部屋まで探しに来られてはたまらない。決して出て来ないよう趙雲に言い含め、は階段を下りた。