気持ちの良い朝だった。
昨日までのぐずついた天気が嘘のように空は青く、ペダルを踏むたびすり抜けてゆく風は瑞々しい匂い。肌で感じる初夏の予感に、つい鼻歌でも奏でたくなる。
きらきらと朝陽をはねかえす川面を横目に、はのんびりと通学路を走っていた。
爽やかな空気に誘われ早めに家を出たせいか、ジョギングに精を出すお年寄りや通学中の生徒達の姿はなく河川敷は穏やかな静けさに包まれている。
朝を独り占めしているような子供じみた喜びがこみ上げ、ますます浮かれながらは自転車を漕いだ。
しかし贅沢な気分に浸りきるのもそこまでだった。

川べりに、趙子龍が打ち上げられていたのである。

ブレーキが断末魔のごとき悲痛な叫びを上げ、急停止に少しばかり後輪は浮いた。
そのまま自転車ごと河川に転げ落ちても不思議ではなかったが、根性でこらえきった。頑張ったと思う。

「ちょ、趙雲様!」

目を閉じていても変わらぬ精悍な顔立ち。
水浸しになりながら仰向けで横たわっているのは間違いなく趙雲だった。
何故とかどうしてとか思う前に、は趙雲の頬を叩いていた。ぐったりとした姿が死人のように見えたせいである。
二三度打つと、眉がわずかに上下した。息があることに励まされたが何度も趙雲の名を呼ぶうち、閉じていた瞼はゆっくりと持ち上げられた。
口元が震えたが、声は聞き取れない。眩しそうに目を細め、不確かなものを見極めるように何度も瞬きを繰り返す。やがて光に慣れ、しっかりと開ききった両目での姿をとらえた趙雲は頬に添えられた手を強く握り締めた。

殿」

全身是肝と称された男の掠れ声に、じんと瞼が熱くなった。耳に懐かしい、甘くて低い音。それは、離れたはずの世界へと一気に引き戻すだけの威力があった。

「まさか、再びお会いできる日が来るとは」

趙雲は再会の喜びを、熱を帯びた眼差しと握り締めた手の強さで語った。
あなたに会えて嬉しいと全身全霊で彼は訴えている。心臓を溶かすような艶のある声で伝えている。ああ会いたかった、会いたかった、会いたかったです、と。
勿論も、趙雲に会えて嬉しい。心から思う。その気持ちには嘘偽りはない。
本来なら、ひたむきな情熱に心打たれてきっとその場で泣き崩れているはすだ。


趙雲が全裸でさえなければ。


一応腰の辺りに申し訳程度の布(しかも水草が絡まっている)が巻かれているのだが、本当に「一応」という存在感で、ほとんど素っ裸といっても差し支えない危うさ。どうしたって意識がそれる。気が気ではない。
やだ見えちゃう、なんていう色っぽい動揺ではなく、
やだ通報されちゃう、といった非常に切迫した危機感がを容赦なく襲うのである。
好意的にみれば一人ヌーディストビーチという光景といえなくもないが、そんなポジティブすぎる見解で見過ごしてくれる懐の広い人はまずいないだろう。
彼の身元が身元なだけに、警察に身柄を確保されては取り返しがつかない。
あちらと違って、おいはぎに襲われたりどこかに売り飛ばされたりするような時代ではないものの、時間を越えてやってきましたという相当電波な言い分を信じてくれる素朴な世界でもない。しょうもない酔っ払いと判断されるか、下手すりゃ即座に病院送りだろう。

殿いかがされまし……」

戸惑いを隠しきれないの反応によって、ようやく趙雲も解放的過ぎる己の姿に気が付いた。
これは失礼を、と小さくなりながらに背を向け、慌てて身を隠す何かを探したものの、目の前は川。振り向けば土手。落ちているのはカロコロと転がる空き缶くらいで、非情なまでに彼を救うものは何もない。鍛え上げられた男らしい背中が今は悲しいばかり。
せめてもの打開策として羽織っていたカーディガンを脱ぎ、サイズが合わないのを承知で彼に着せてみたが、中途半端に肌を隠したところで解決には繋がらず無駄な抵抗に終った。いや、いかがわしさに更なる磨きをかけてしまった分、むしろ事態を悪化させたと言える。
パツンパツンの上着。下はほぼ裸族。
どこをどう見たって、春先によく出没するアレな人。
いよいよもってパトカーが出動しそうな具合である。

清々しい朝陽から目を逸らし、潔くは登校を諦めた。