いくら犬探しに手間取ってるとは言え、こうも毎日探偵業にこき使われていては、実生活の雑務がおろそかになる。
本来、小汚い畜生を追いかけ回したり、電柱に隠れながら小汚いおっさんを追いかけ回すような立場ではないのだ、とベルゼブブはふんと鼻息で書物につもった塵を飛ばした。
掃除が行き届いているとは言え、出入りの少ない書庫はどうしても空気の埃っぽさが拭えない。当主であるベルゼブブも足を踏み入れたのは実に久しぶりの事だ。近々開かれるちょっとした催しの為に、過去の招待客リストが必要だった。執事にでも任せれば良かったのだろうが、たまには主人としても働いておかねば家の者に示しがつかない。
取ろうとしたファイルの隙間から、ばさりと音を立てて何かが落ちる。
腰をかがめて拾い上げると、ベルゼブブ自身が覚書きを記した過去の帳面だった。
こんなところに押し込んでいたのか。
懐かしむなんて人の子紛いの感傷からではなく、単に興味を惹かれて埃をかぶったそれをぱらぱらとめくった。
予想はしていたが、新鮮味の欠片もない。ああこんなこともあったなと感情も伴わない平坦な感想が過ぎるのみ。好奇心を失って閉じようとした時、手が止まった。ささいな出来事の羅列、淡々と綴られる事務的なメモの数々が並ぶ中に、場違いな走り書き。
生まれながら長となる事を約束されていたベルゼブブは幼き日よりふさわしい教育を施され、食卓のマナーからエスコートに至るまで、骨の髄までしみ込んでいる。当然読み書きについても例外ではなく、品性を疑われる無様な文字を晒す事はない。己しか目を通さない日記以下の記録でさえそれは変わらないはずだ。
が、それは当人でさえ眉をしかめるような、這いつくばった文字だった。ベルゼブブは紙面を心持ち遠ざけて、目を眇めた。
い、つ、ま……で、でも。
『いつまででも、』
さて何の事だか。解読したところで、ピンと来るものは浮かばなかった。他の記述については昨日のことのように思い出せるのに、これに関してだけ全く身に覚えがないのだ。本当に自分が筆を走らせたものだかも怪しく思える。潰れて引きつって、人に読ませる意思すら感じさせない、こんなものを私が? 
寝ぼけていたのか、はたまた眠ったまま書いたのか。ここだけ表面がぼこぼことしているが、まさか涎でも垂らしたのではあるまいな。
優一様、とふいに背後から声をかけられ、反射的にノートを閉じる。食事の支度が整った事をメイドが知らせに来たのだ。
喚ぶ度に消臭されるのも我慢ならず、ここのところ城で食すのもカレーばかりになった。正直のところ物足りないが、譲歩した分、生贄はいくらでもおかわりして良いとの誓いを立たせたのでまあ良しとしよう。癪だが完全に胃袋をつかまれた。
佐隈のカレーを思い浮かべながら、ベルゼブブは書庫を後にした。



あたりは夜に沈んで月の見えない晩。風はない。行き先もようと知れぬまま続く道は、闇に紛れた異形が蠢く歩き慣れた魔界ではなく、かつこつと革靴の底が手ごたえを伝える固さを持っていた。その黒い宝石のようなしっとりとした輝きと水を吸い上げた匂いが五感を支配する。
光に乏しいその道をベルゼブブは靴音を鳴らして進む。少し離れた後ろから、もうひとつ足音が追いかける。
痩せた体にぼろを纏った子供が息を切らして言う。

――― ベルゼブブさんは、

顔の見えない若い娘が不服そうに唇を動かす。

――― 歩くのが早すぎます

「てめえとは足の長さが違うんだよ」
ふてぶてしい台詞が口を突いて出たところで目が覚めた。そう答えるのが決まりのように、するりと発した自分自身に面食らいながらも肘かけに預けていた体重を起こす。うたた寝をしていたらしい。
久しぶりにあの夢をみたのかと鼓動を早くしたが、すぐに違和感に気が付いた。あの夢そのものではない。これまで年齢体型異なる女が現れたが、一つの夢に同時に姿を見せる事はなかった。
例の夢にまつわる何かを思い出す為の夢だ。恐らく繰り返された夢を、解釈しようとする焦燥が見せたのだろう。
霧を探るにも似たおぼつかない手つきで記憶の残滓を拾い上げる。今にも指の間からこぼれ落ちそうなほど頼りないそれを慎重に、紐解いてゆく。
そうだこの後。途中で目覚めてしまったが、確かまだ、続きがあった。
距離をとったまま、姿のおぼろげな女は、ベルゼブブに向って。
――― くださいね。
思い出せるのはそこまでだった。
ほんの言葉の切れはし部分だけが、これまで集めた手がかりとともにベルゼブブの掌に落ちる。切れた尻尾の続く先は、霧に逃げ込んで見つからない。女は何を言ったのだろう。
くださいね、とベルゼブブは答えを求めて口の中で幾度も繰り返して転がす。
くださいね……くださいね……
「できればキャッシュでくださいね」?
瞬時に、違うだろと却下した。
これではとある眼鏡の守銭奴だ。
彼女であるなら実に似合う。アクリル板を吹きだし型に加工して顔の横に置いておきたいくらいだ。あの娘なら、満面の笑みで言うだろう。写真はあまり好きではない様子なので、チーズと言わせたところであまり期待はできないがこの文句なら、とびきりの笑顔でカメラにおさまるはずだ。
そろそろ藁人形に貼り付けた写真を新調するつもりだったことを思い出し、戸棚の奥にある苺戦士の写真でもひっぱ出そうと決めた。アクタベが脅迫の為に確保している事は知り得ていても、ベルゼブブが隠し持っているとまでは気が回るまい。目の前で数枚広げてやれば、どんなにか慌てて赤面するだろう。グリモアの無慈悲な罰を受けるだけなので実行こそしないけれど、涙目の主を想像して悪魔は一人で笑いをかみ殺した。

その日を契機に、眠る毎に夢はやってくるようになった。
古来から見続けたあの夢、ではない。ベルゼブブのうたた寝に忍び込んだ、総集編と言っても差し支えない、場面を切り貼りした夢だ。
忘れろ、ともう夢は言わない。忘れるな、でもない。思い出せ、と語りかける。早く早くとまるで責め立てるように。
待て、とベルゼブブは思う。今までプールサイドでちょろちょろ水に触っていた奴が急に泳ぐと足がつる。時をよこせ、何よりヒントをよこせと夢の取っ手を蹴りつけるが、頑丈に閉じた扉は開かない。
何度も姿を変え、女は最後にベルゼブブに囁く。二人の間に横たわる暗い道を、彼女達は決して越えようとしない。容易に近付けるであろうその場所で、必ず追いかけてきた足を止め、そこから柔らかく語りかける。口元は穏やかに持ち上がって―――
目覚めの手触りは、甘い苦しい寂しい愛しい。


二匹目の犬をようやく捕まえ、依頼主に届けたその翌日、油を塗ったかのようにベルゼブブは口を滑らした。
「さくまさんは、同じ夢を繰り返し見ることはありますか?」
多分どうかしていたのだろう。戯れにしても、人間に、しかも契約者相手にそのようなことを口走るなんて。よほど気を抜いていたのかも知れない。
隣でアイスコーヒーに口を付けようとしていた佐隈は、うーん、と考える素振りを見せながら、ストローをくるくるとまわして弄んだ。無造作にかき混ぜられた氷とグラスが互いにぶつかり、涼やかな悲鳴を上げる。
「そうですねえ、見ますよ」
意外な返答に、思わず面を持ち上げかけた。
「問題がぜんっぜん解けない夢と、試験に遅刻する夢です」
だめだこいつ使えねえ、とベルゼブブは心の中で唾を吐いた。歯ぎしりならぬ嘴をぎりぎりと擦り合わせているベルゼブブをよそに、佐隈は熱を逃がすように片手でひらひらと喉元を仰いでいる。くたびれた事務所はクーラーの利きも悪い。
「やっぱり悪魔も夢みるんですか」
「ええ見ますよ」
こんな話題を振ってしまった後悔が滲んで、つい答えも簡素になる。へえ、といかにも感心したような声から心持ち顔を背けた。
「夢の理由とかって未だによくわからないらしいですね」
夢を支配できるとずいぶんストレスも軽減するとか、と続ける佐隈に生返事を返しつつ、確かにあれが片付けばすっきりするだろうなとベルゼブブはぼんやり思った。
「あ、そうだ」
思いつきをぶらさげた眼鏡の猫目がベルゼブブの方を見る。
「そういう職能の人、っていうか専門の悪魔とかいるんじゃないですか?」
それはベルゼブブも何度か考えたことがあった。夢を扱うに長けた悪魔や眷属の者はいくつか心当たりがある。けれど。
「あまり誰かにみせたいとは思いませんので」
「人に見せられないような夢見てるんですか……」
「バッ、違うわクソアマ!誤解してんじゃねーよ!犬ヅラでもあるまいし私が低俗な夢みるわけねーだろ!」
嘴の奥の牙をむき出しにして吠えかかると、佐隈は冗談ですよ冗談とからからと腹立たしいまでの軽妙さで笑った。
他者に相談して解決するとは思えない。あれは非常に個人的な内容で、世間で広く「夢」とされている規格からは外れている。夢だけれど、それだけではない何か。けれど夢でしかない何か。
感情にまとわりつかれて鬱陶しいならグシオンにでも食わせてしまえば済む話ではあるが、それは絶対にしてはならないと確信めいたものがあった。この夢に対してどう向きあうべきか、ベルゼブブはわからない。もうずっと長い間、わからないまま懐の隅に押しやっていた。
忘れてしまいたいのか、刻みつけたいのか、思い出したいのか、終わらせたいのか。
終わるとは、どういう意味を持つ?
ベルゼブブの前に置かれたグラスは手もつけられないまま汗をかき、黒々しい水の中で氷がじっくり溶かされてゆく。
繰り返し見る夢かあ、と一人ごちた佐隈はまた一口ストローで吸い上げた。どんな夢かと彼女は聞こうとしなかった。
「ベルゼブブさんにとって、大事な夢なんですね」
真摯な目には冷やかしの一粒も含まれず、それが知らずベルゼブブの頬を赤くした。せめてもの救いは、タイミング良く鳴った電話に佐隈が気を取られ、彼女の目に触れずにすんだこと。
大事な夢。
――― くださいね
夢の女たちは何と言った。どうして顔を見せてくれない。
思い出せないから心苦しいのか。思い出したいからこんなに痛ましいのか。