残る三匹目の犬だけがなかなか見つからない日々が続いた。 手詰まりに焦りを感じ、新たな情報の確認と途中報告も兼ねて依頼主の元を訪ねた佐隈とベルゼブブを襲ったのは予期せぬ出来事。事務所に辿りつくなり、二人はぐったりとソファに体を投げだした。 「うまく誤魔化せましたかねえ」 「彼はあまり頭の出来が良くは見えません。直後のえもいわれぬ腹痛と便意で全て吹き飛んだでしょう」 「だといいんですけど」 「念の為あとでグシオン君に頼みましょう」 そこでようやく佐隈は安堵したように頷いて笑顔を見せた。 普通の人間に悪魔は見えない。魔性に関わったものだけが、その目で姿をとらえられるとされているが、カマキリに身を落としたホストのように、ごく稀に生まれながら悪魔を見る者がいる。 ほとんど出会う事はないが、可能性はやはりゼロではなく、よりによって依頼人の身内にその素質があった。そのおつむの弱そうな若い男は、ひと目みるなりベルゼブブを指さしたので、騒がれる前に職能を駆使しその場から追い出して事なきを得た。 「ああいう人が悪魔使いの才を持ってるんでしょうかね」 「才のひとつには違いありませんが、悪魔使いの素養とはまた別でしょう。知性の欠片もない契約主など悪魔に食われて終わりです」 「それは怖いですねー」 佐隈はさして怖そうでもなく言った。 「まさかベルゼブブさんも今まで何度もペロリと……ですか?」 これには少しばかり怯えを含んでいたので、ベルゼブブの悪魔としての矜持はかろうじて守られた。この際うんと脅してやってもいいが、警戒されて喚ばれなくなるのも厄介。どう厄介かというと、あれだ、そう、カレーを食べられないからだ、と誰も聞いても居ないのに言い訳を付け加える。 「下賤な魔物ならいざ知らず、高位の悪魔は無闇に野蛮な事は致しませんよ。無能で愚かな相手ならそもそも契約すら交わしません。仕える主は選ぶ主義ですので」 千年ほど前、悪ふざけと悪運が重なってたまたまベルゼブブの召喚に成功したものの、十字架を投げつけるなど侮辱限りを尽くした虫ケラどもを腹におさめた事はあったが、これは言わないでおこう。若気の至りだ。 そうなんですか、と佐隈は意外そうに、そして少し嬉しそうな気配を目の端に滲ませた。彼女にしては珍しい、可愛らしい反応はベルゼブブの気分を実に良いものにさせた。自然と胸を張る。 「私のように強大な悪魔は何かと制約が多いのですよ。おいそれと人間界に赴くことはできませんし、氏のように圧倒的でなければ契約はおろか召喚もままなりません」 素質に恵まれていなければ、悪魔を喚び出せない。魔力を持たねば面と向かって言葉を交わすこともできない。どう望んでも、その人生は交錯すらしない。 「へー私、悪魔は勝手に人間界と魔界をすいすい行き来できるって思ってました」 「そんなツアーよろしく行けるわけねえだろうがボケ。悪魔だらけの人間界にしてえのかよ」 思考を挟まずにベルゼブブは勢いだけで吐き出した。 「だいたい、そうなれば私だってとうに会いに行ってますよ、夢なんか、」 介さずに。 滑りだした言葉は口にした当人の意思と理解を越え、ベルゼブブの目を点にさせた。どこのバルブを開けたらこんな台詞が飛び出すのか見当もつかず、頭上に点滅したクエッションマークの数は一ダースは下らない。 ベルゼブブはひたすらに首を捻った。同じく会話の流れを察することが出来なかったのか、佐隈も目を瞬かせている。 「えっと、会いに行くって誰に?」 「いえその……言葉のあやですよ」 他に答えようもないので、そう言うしかなかったがどうにも居心地が悪い。ベルゼブブは失言を取り繕うように佐隈が抱えていた本らしきものをヒレで指して見せた。 「それよりなんですその書物は」 「アクタベさんが読めって」 よいしょ、と彼女の手によってテーブルに置かれたそれは、彼女が常に持ち歩く悪魔の書に近い重厚な雰囲気を感じさせるものの、グリモアではなかった。 「ソロモンリングなんかの対処を覚えるのに必要らしくて」 重みはおろか厚みはタウンページを遥かにしのぐ。細部まで読みこんで学ぶのは易くなかろう。しかしそれによって高められた魔力は、彼女を守る。 「知識は邪魔になりませんよ。せいぜい励む事ですね」 てっきり渋い顔を作るかと思いきや、佐隈は存外素直に頷いた。 「そうですね、やっと悪魔使いになったんですから」 「え?」 やっと? 「あれ、私なんでこんなこと」 今度は佐隈が首を捻った。 その晩、早く追いつけと思いだせとベルゼブブをせっつく、あの夢は見なかった。 代わりに佐隈の夢を見た。伸びすぎた桜貝を気にしながら、彼女は事務所の台所で、鍋いっぱいのカレーを作っていた。ベルゼブブはスプーンを握り、待ちわびる思いで食卓からそれを眺めていた。 最後の犬を探し求め、今日も探偵と悪魔は都内を彷徨った。 不細工な上に逃げ足まで速いとは腹立たしい。ベルゼブブは神経を尖らせ、そして背筋良く早歩きで足を進める。 犬の捜索にあたって、再び件の依頼主に接触する可能性はないとは言い切れず、念の為ベルゼブブは人型をとった。見える誰かの目から隠すよりは、誰の目にも見える方を選ぶ方がずっと安全で賢いやり方だとアクタベが判断したからだ。 ただし、その分悪魔としての動きは制限される。人間らしさから外れた振舞いは許されるわけがなく、地道に足のみを使う移動は、疲労ではなく苛立ちとなって募った。本来の姿、百歩譲って劣ったペンギンだとしても、翅を駆使して追いつくことくらいできたというのに、この姿では飛びかかることさえ難しい。 あの時、逃しさえしなければ。ベルゼブブは悔しげに眉間にしわを寄せる。 遠くはあったが一度見かけたというのに、消えるように逃げられ、行使したはずの職能はたまたま隣を歩いていた無関係のサラリーマンに命中した。あまり手加減せずに放射したので、あの中年の男は二時間はトイレから出られないだろう。ベルゼブブは外した事に対してのみ舌打ちをしたが、さすがに佐隈は罪悪感で少し青ざめていた。 逃した不細工犬はどこへ行方をくらましたのか結局見つからない。 あげく空でも割れたかと思うほどの豪雨に阻まれ、逃げ込んだビルでしばらく足止めを食らった。とっぷりと日が暮れるまで歩きまわって収穫はなし。空腹も手伝って、ベルゼブブは月のない夜道を足早に踏みつけていく。 情けない鳴き声で訴える寂しい胃袋を慰め、早く戻って佐隈さんのカレーを、と思い描いたところで気が付いた。誰かと共に歩く速度ではない。不機嫌にまかせて、コンパスの合わない連れを置き去りしてしまった。 紳士らしからぬ失態に内心うろたえたベルゼブブの背に、抗議を含んだ声が飛んできた。 「ベルゼブブさん、歩くの早すぎますよ」 考えるより先に、ベルゼブブの言葉が先走る。 「てめえとは足の長さが、」 反射的に返しかけて、途中で息ともどもに呑んだ。 この、やり取り。 全身を覆う既視感。時間の流れが唐突におかしくなる。 呼吸を一からやり直すように、ゆっくりとベルゼブブは足元を見下ろした。 通り雨で濡れたコンクリートの道は、ベルベットのように暗く輝いていた。あたりに立ちこめた湿った匂いを鼻孔が吸いこむ。ほんの少しの街灯だけが頼りの暗い夜道。厚い雲に覆われた空に月は見えない。 今日初めて通る道。けれど見慣れた光景。 知っている。 私はここを、何度も、この足で何度も。 その時、先を歩く自分を追って、背後で靴音が鳴った。 拍子に、頑なに伏せられていたトランプが一斉に表に返される。 記憶の錠前は弾け飛び、遠く重なる夢に封じられていた大勢の女達が、鮮やかな色を持ってその全貌を露わにした。 どの顔も、判で押したように同じ造形をしていた。絶世の美貌も持たず、男を誘う色香もない、面白味に欠けた、人の雑踏に簡単に飲み込まれる凡庸さ。けれどどうにも愛着の湧く、忘れていたのに誰よりも見覚えのあるそのかたち。切りそろえられた桜貝の爪がどの指の先にも。 かつて得ていたあらゆるものが満杯のバケツを逆さにして、ベルゼブブに怒涛のごとく流れ込んでゆく。それはもう、欠片ほど掌に握らされる残像ではなかった。 ベルゼブブさん。 皺だらけの年老いた女は言った、痩せた貧しい子供は言った、病を患う若い娘は言った。何度も、何度も、何度も繰り返し。その生を受ける度に。 別離さえ慈しむような声を奏でて。 ――― 待ってて下さいね いつか会えるまで待ってて下さいね。 振り向いた悪魔と人を隔てる距離はおよそ10歩弱。 茫然と立ちつくすベルゼブブを見て、数えきれない夢とそっくりの姿をした女は、少し意外そうに目を見開いた。それから、小走りで濡れたアスファルトを駆けてくる。夢路では必ず足を止めた、その場所を軽やかに踏み越えて。サンダルのかかとを鳴らしながら。 瞬きを忘れた悪魔の眼前、眼鏡の奥の双眸は柔らかくしなり、唇が微笑みの形をつくった。 「待っててくれたんですね」 てらてらと輝くアスファルトに水滴が落ちて弾ける。 素っ頓狂な悲鳴と荷物を落とすような乱雑な物音が聞こえた。 耳元で慌てて騒ぎ立てる声が、姦しいことこの上ない。 なんでもねえよ。泣いてねえよ。心の汗だよ。 腕をつかんで揺り動かす手がとても乱暴で、マニキュアひとつ塗らない爪が力任せに食い込んで、濡れた夜道が馬鹿みたいに美しかったから、こぼれたかすかな悪魔の声は言葉にもならなかった。 ええ、ずっと待っていましたよ。 |