こ の 夢 を 積 む の は





人は誰しも夢を見る。
願望の表面化、記憶の整理、精神の安定。様々な意味や効果が取りざたされ、未だ尚科学では解明のなされていない意識の集合体、幻想的に言えば自分だけに開かれた無限のシアター。
悪魔もそれは同じ事で、瞼を下ろし意識を落とせば夢を見た。種族よって差異はあれど、多くは飽くほどの長い命を宿命とされている。眠りに預ける時間は人と比べ物にならないほど膨大で、見る夢もまたおびただしい。
魔界における勢力図の一端を担うベルゼブブも例にもれず、眠りの僕として平等に与えられる。
彼も生を受けてから、様々な夢を見ていた。他愛のない夢もあれば、支離滅裂な内容も、そして悪夢と呼ばれる類のものにうなされることも稀にあった。そのどれもが覚めてしまえば終わる、ただの夢に過ぎない。意思とは関係なく垂れ流される映像と記憶の数々は、呼吸と同じで日常の一部と化し、ほとんど体内に音もなく取りこまれていく。そう、ほとんどの場合は。
つまりすべてではない。
吸って吐き出すのが当然とされる空気の中にあって、それは異物としか言いようがなかった。
寝覚めがひどく悪いわけでも、不快さに歯ぎしりするわけでもない。
ただ、繰り返している。同じ夢を。
中身はいつも不確かで曖昧で、輪郭さえもつかめない。おかしなことに、同じ夢と判断できる材料は、欠片ほどしか手元に残されなかった。賓客が集うパーティーの持ち物検査で武器や凶器を没収されてしまうように、眠りがとける手前でめぼしいものを取り上げられる。
にも関わらず、わずかの疑いもつけ入る隙なく、目覚めた直後に判定を下すのだ。
ああまたあの夢か、と。


「犬さがしが三件ですって」
ひどく面倒そうな声が頭上から響いた。一見謎めいた探偵と名のつく職業に持ち込まれる仕事の大半は身辺調査、浮気調査、それからペットの捜索依頼。地道で派手さもなく、案外骨が折れる割に報酬はあまり期待できないが、ないよりはましだ。
対象となる犬の写真を並べ、想像以上のぶさいくさに、難しい顔を一気に崩して吹きだしたりしているのが見える。どれも期限は三週間以内。しばらくはひっきりなしに喚ばれることになりそうだ。面倒な反面、連日カレーを味わえるのは悪くない。
「ま、ちゃっちゃと片づけちゃいましょうか」
確認し終えた資料を整えて、ずいぶんと強気に悪魔使いの女は笑った。
グリモアを手にしてからまだ日は浅いが、順応性の高さからか、すでに場馴れした風格すら感じる時がある。これまで何度もヘマを踏み、生命の危機に瀕する痛い目を見てきただけあって、逞しさを身につけつつあるようだ。何しろ、教えを施す師が悪魔をゆうに凌ぐ存在。今でも頼りない面は大いに見受けられるし、ひよっ子には違いないが多少の成長は認めてやってもいいだろう。
初めて佐隈の前で喚び出された日は記憶に新しい。
人ならぬ脅威を携えた男の隣に佇むおまけのような女が目に入った時、おや、とそよ風に当たる枝先にも似た、ほんの揺れが身の内に生じたのを覚えている。
陳腐な表現をするならば、“初めて会った気がしない”
言葉にするとますます下らなさに拍車がかかって自嘲の笑いがこぼれる。我ながら安いナンパの常套のようだと密かに失望し、更にそう感じた相手がたかだか人の小娘だという事実に抵抗もあって、結局口に出す事はしなかった。
長い年月生きていればなんらかの遠い印象といたずらに合致することもあろう。しかしベルゼブブは物覚えの悪い方ではない。面識があれば記憶に留めるくらいの芸当はできる。これまで、あまり経験のない感覚だったからこそ、少なからず動揺し困惑も覚えたのだ。
だがその内、知者として不可欠な冷静さが正常に働き、取りたてて誉める点もあげつらう点もない、平凡な顔立ちであるゆえの感想だろうと落ち着いた。ベルゼブブともあろう者がいちいち感情をくすぐられてはたまらない。
  

いつ始まったのかなど思い出す気にもならないほど、古びた過去からその夢は続いていた。
二百年何事もないかと思えば、たった数年の間に毎夜のごとくということ珍しくない。
夢は繰り返す。
数えきれないほど見せておきながらはっきりとした痕跡は示さず、含みを残し、印象だけ植え付ける。飴玉も買えない小銭を握らせ、忘れろ忘れるなと相反する命を下しては、いつもベルゼブブを放り出した。掌に押しつけられた燃えカスのような手掛かりが、託されたすべてだ。けれど、乏しい手がかりには共通点がある。
それはいつでも女の姿をしていた。
若い娘の事もあれば年を重ねて腰の曲がった老婆の時もあり、いたいけな童子で現れる事もあった。
肝心な顔立ちに関しては、何故かわからない。
確かにこの目で見て幾度も言葉を交わしているはずなのに、記憶のパズルを滅茶苦茶にひっくり返されて、おぼろげにもその造形を再現できない。バラバラに散って意識のそこかしこに沈んだピースは、時折気まぐれに顔を出してベルゼブブに囁きかける。
忘れるな、忘れろ。
ベルゼブブはそれに素直に従って、否、抗う術を持たず、矛盾した命令をずっと守り通してきた。
はて、あれを最後に見たのは、とベルゼブブは思案して、そういえばここ数十年、一切見ていない事に遅まきながら気付く。だというのに、何故ここ最近になってその事ばかりに思考を取られているのか、ベルゼブブには不思議でならなかった。夢が直接思念に触れてこないならば、自然に遠ざかってゆくものだろうに。
忘れているのに忘れていない。
長年保たれていたはずの均衡は、このところ急激に崩れ始めている気がした。


佐隈は長い爪が苦手らしい。自分の基準を越えて伸びた爪先に気付くなり、ところ構わず爪切りを出してきて、ぷちぷちと切り揃え始める。彼女が言うには、髪を洗う時や食事の支度をする時、少しでも伸びていると気になって仕方がないとのこと。それが自宅ならば何の口出しする権利はないが、時給の発生している事務所においても同様に振舞うのだから、仕事を舐めているのではないかと思う。
「毎度言うのも面倒ですが、家でおやりなさい爪切りくらい。身だしなみとはいえ死ぬわけでもあるまいし」
「このところ忙しくて伸びっぱなしなんですよ。キーを叩くにも落ち着かなくて」
ソファに腰を沈めた佐隈は、ベルゼブブに目もくれず、前かがみになってテーブルの上で爪を切り始めた。
「いくらなんでも帰ってから、爪を切る暇くらいあるでしょう」
「知らないんですかベルゼブブさん。夜に爪切ると親の死に目にあえないんですよ」
爪切りを丁寧に動かしながら、しれっと佐隈は答える。悪魔使いのくせに何を迷信なんか大事にしてるんだか。いずれここで足の爪まで切りだすんと違うか、といつかアザゼルが冗談半分に笑っていたが、あり得ない話ではないと嘆息した。
「近頃の女性は爪を伸ばすものと認識していましたが」
テーブルの端に置かれた、女性向けのファッション雑誌にちらりと目をやると、爪切りのやすりで切り口を整えていた佐隈が、ああと気付いてその内の一冊に手を伸ばした。そもそも仕事場にこんなものを持ちこむ時点で何か間違っている。
「ネイルは確かに長い方が見栄えするんですけどねー」
色鮮やかな装飾が施された爪が、いくつも誌面を飾っている。中には生活するに支障をきたしそうな過ぎたアートもあった。
「でもほら、短い方が楽だし天然のピンクの爪もかわいいと思いません?」
佐隈は自身の爪を見せつけるように、顔の近くで手を広げた。
――― しじみ貝みたいで
ベルゼブブの脳に、佐隈の声が滑り込んだ。
「それを言うなら桜貝の間違いでしょう」
間髪入れずにそう告げると、佐隈が目を丸くした。
「なんですかそんなに驚いて」
「驚きますよ!私が言おうとしたことよくわかりましたね」
何言ってるんですか、と半ば呆れて肩をすくめる。姿がペンギンの為、どこからが肩か知れたものではないが。
「あなた、前も同じ事言ってたではありませんか」
至極当然とばかりに嘴を動かして見せたが、佐隈は不可解そうな顔をした。
「覚えがないんですけど……」
首を傾げられて、今度はベルゼブブの方が目を丸くする番だった。なんの疑いも抱かず口走ってみたものの、よくよく振り返ればすぐに思い至る記憶はベルゼブブ自身も持っていない。ぐずぐずと自信が溶けて消える。いくら暴露の悪魔とて、相手が主ではその職能は通用しない。
「……そうでしたか? はて……」
では今の言葉はどこから出てきたのだろうか。
急にしおらしくなったベルゼブブに、元来の甘さが首をもたげたか、佐隈はいくらか優しい声を出した。
「誰かと間違ってるんじゃないですか?」
誰かも何も、この高等で高潔で唯一無二の最強の悪魔を捕まえて、目の前で爪切って貝だなんだとのんきな会話をしてくる人間など後にも先にも佐隈くらいしかいない。
オメーほど失礼な女がそういてたまるかカス!
ごく自然に頭に降って来たのは間違いなく彼女の声だったはずなのに。彼女には心当たりがない、ベルゼブブにもない。
やり場のない苛立ちと、消化しきれないわだかまりがベルゼブブの心を占めそうになったが、雑誌をめくっている内に見つけた、カレー味の歯磨き粉の記事にテンションが上がり過ぎてあっという間に忘れた。