学生である佐隈さんは毎日事務所へ通うわけではありません。
出勤したとしてもベルゼブブを必要とする依頼とは限りません。
そんな日が続くと、佐隈さんは仕事とは無関係にベルゼブブを自宅で召喚するようになりました。

カレーをたくさん作り過ぎてしまって、とそんなことを言って。
ベルゼブブが招かれる時は、必ずといって一人暮らしの住まいには不似合いに大きなお鍋でカレーが煮えています。まるで初めからたっぷりの量を誰かと一緒に分けあうつもりだったように。
ベルゼブブはそのことに気付かない振りをして、私も忙しいんですよ、おいしくなかったら承知しませんからね、と憎まれ口を叩きながら、紙ナプキンを首元に押し込むのです。

アパートはごく質素なものでしたが、料理上手な彼女らしく調理器具の品揃えはなかなかのものでした。それらを使った、簡素な事務所のキッチンでは難しい手の込んだ料理もこの部屋ではたびたび振舞われました。
しっかりと味のしみこんだタンドリーチキン、芯まで柔らかい羊肉のカレー。

握力を鍛えましょうと言ってうどんをこねさせられた事もありました。

なんで! この私が! うどん打ち! 

そうは思っても、自分自身が蒔いた種。
ベルゼブブさんの為に、と申し渡されれば逆らえるはずもなく、かの尊大なベルゼブブ931世がせっせと慣れない手つきでこねて叩いて踏む姿はどこかシュールで滑稽で、魔界の彼を知る者なら見物だったことでしょう。大体わかりそうなものですが、あの長い爪はうどん打ちには向いていなかったようです。
少しコシの足りないそれは、勿論カレーうどんになりました。

「自分で作ると余計おいしくありませんか?」 

麺をすすりながら、ベルゼブブは曖昧に頷くしか出来ませんでした。佐隈さんが作るものよりおいしいものは、この世に見当たりませんでしたので。
うどんの湯気で汗ばんだ額をゆるく通った風が撫で、季節外れの風鈴がチリンと音を立てました。




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その頃、ちょっとした事件が起きました。
アクタベ氏が返り血を浴びて帰ってきただとか、床がアザゼルの臓物で汚れるなどではありません。それらはごく当たり前、ただの日常と呼びます。

事件とは、佐隈さんが梯子から落ちて怪我をしたことでした。

召喚部屋にはグリモア以外にもいくつものあやしげな備品が置いてあります。
ぎっしりと物が詰め込まれた棚は人の背丈より遥か高く、最も上の段から取り出すには梯子や踏み台が必要となりますが、長年使いこまれていた梯子は傷みが激しく、佐隈さんは床に叩きつけられてしまいました。
打ちどころに恵まれたのでしょうか、幸い骨には異常がなく、左手のねんざだけで済みました。
直後は大層痛がっていた佐隈さんですが、病院から戻るなり、これって労災ですよね労災、と電卓をはじきながら上司に談判していたくらいなので大丈夫でしょう。

大丈夫でなかったのは、ベルゼブブでした。
彼女が怪我をしたその場に、彼は居合わせたのです。ベルゼブブが気がついて振り返った時には、声も出さずに転落した佐隈さんが物音と共に倒れ込んでいました。

――― お前がいながら何やってんだ!

彼女が病院で診察を受けていた間、アクタベ氏はベルゼブブをそう叱咤し、グリモアの角で粉砕しました。
久しぶりに味わう、細部までクラッシュする感覚。脳が痙攣するほどの痛みを伴いました。体のみならず、そこに宿る心も。

ベルゼブブを病と思い込んでから、佐隈さんは彼に力仕事を頼むことはありませんでした。
例えば荷物持ちにはアザゼルや光太郎を。高い位置のものを取る時にはアクタベ氏に。
ベルゼブブには、あまり体力の使わなくても済む留守番や調べ物の手伝いばかりを命じました。
アザゼルがべーやんばっかりヒイキや差別や! と憤慨するたび、なにを馬鹿なことを。君にオツムを使う仕事は酷でしょう、と一笑に付してきましたが、実際その通り。ひいきです。彼がそう仕向けたのです。甘ったれにつけこんで、弱った雛の振りをして、親鳥の懐に潜り込んだのです。
そのくせ、いつの頃からか佐隈さんが他の男を頼るたび、砂利を飲み込むような、いやな喉越しを感じていました。

ああそのくらい、私がしてあげられるのに。

ベルゼブブがその気になれば本棚のひとつやふたつ動かすなんて容易いことですし、大の大人を抱きあげて飛ぶことだって出来ます。
佐隈さんが手を伸ばしていた、棚の上の重そうな書物だってやすやすと取ってあげられました。そうすれば、彼女は怪我なんてしなくて済んだのです。
けれどもそれは佐隈さんの知らぬこと。ベルゼブブ優一は「病気」なのですから。

「利き手じゃなくて助かりましたよ」

佐隈さんは今日もカレーを作ります。たまにはシンプルにポークカレーだそうです。左腕に貼られているであろう大きな湿布は、カーディガンに隠されて見えません。
もうこの頃、ベルゼブブはかつてあれほど力づくで命令じられても蔑まれてもやめようとしなかった高尚な趣味、スイーツの類をほとんど口にしていませんでした。
胃袋の余力を佐隈さんのカレー以外で満たすことが勿体なかったからです。

佐隈さんは傍らでじっと待つベルゼブブから皿を受け取り、出来あがったカレーをたっぷりと盛りました。
ベルゼブブさん、お代わりしてくださいね。




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季節はするすると入れ替わり、やがて冬が近づきました。
ソファでの昼寝に羽織るタオルケットはブランケットに。三時のおやつは冷たいアイスクリームからほかほかの中華まんに。
人々が求めるのはもう熱気を殺す涼しい風ではなく、冴えた空気を和らげる暖かさでした。

木枯らしに背を突かれながら、二人が歩くのは佐隈さん宅の近所にある商店街。
いつもは支度が整った食卓に招かれるばかりでしたが、今日は最近流行っているというカレー鍋を作るのだそうで、ベルゼブブは買い出しからお伴していました。

――― お鍋はだいたい何入れてもおいしいので。好きな食材選んで下さいね。

佐隈さんはそう言ったはずなのに、

――― あ、駄目です売り出しの肉にして下さい。白菜高いので、そっちの見切り品にしましょう。

案外選ばせてもらえませんでした。

買い物上手な彼女が厳選した鍋の材料と、献立とは関係ない本日限りのお買い得日用雑貨を抱えて、人に姿を変えた悪魔とその主人は帰路に着きます。

「そちらもお貸しなさい」

ベルゼブブは片手に、佐隈さんは両手に買い物袋がぶら下がっています。空いている側の手を差し出して、ベルゼブブは彼女から荷物を譲り受けようとしました。
でも、とその目はためらい、すんなり渡しません。

「箱ティッシュくらい私でも持てますよ」

不貞腐れたようなベルゼブブに、じゃあお願いしますとようやく佐隈さんの手は離れました。
吐く息が綿毛のようにぼんやりと白い形を成します。
佐隈さんは感じたまま寒いですねえと呟いて、ベルゼブブはただつられてそうですねと相槌を打ちました。
途端、淡いグレーが視界をまたいだかと思えば、首元に何かが巻きつきました。見れば、今さっきまで佐隈さんが巻いていたマフラーでした。

「なんでベルゼブブさんいつも薄着なんですか。見てるこっちが寒いです」

それだけ言って、すたすたと佐隈さんは歩きだしました。
ベルゼブブは面食らい、すぐに返そうとしましたが、両手が塞がっているので、振りほどこうと首から肩にかけて激しくシェイクするという限りなく不審かつ無駄な動作を披露するだけに終わりました。
後を追いかけながら、不要ですお返ししますと繰り返しても、佐隈さんは聞く耳持ちません。

「なに言ってんですか、そんな鼻の頭真っ赤にして。いいから使ってて下さい、外したら殴りますから!」

佐隈さんの手が首元に伸びて、なんとか肩にかかっている形だったマフラーは、締めあげんばかりにしっかりと巻きつけられました。
その間、されるがままになっていたベルゼブブには佐隈さんの顔がよく見えます。彼女が真っ赤と評したベルゼブブのものと負けず劣らず赤く染まったその鼻も。

いくら彼が寒そうに見えても、変じた仮の姿が人間らしい反応を示しているだけで、暑さ寒さはさほど感じません。この温かなマフラーが必要なのは、愚かで優しい彼女のほうなのです。

いっそ真実を暴露してしまえば。

ベルゼブブの胸にそんな思いがよぎりました。
そうしたら彼女に荷物なんかひとつも持たせずに済みますし、マフラーだってすぐさま縛り返してあげられます。
全て嘘なんです。病などこの身には巣くっておりません。私はあなたを騙していたんです。
打ち明けてみせたら、佐隈さんはどんな顔をするでしょう。怒るでしょうか悲しむでしょうか、それとも軽蔑するでしょうか。

佐隈さんが憐れみをかけるのは、そして慈しみの手を差し出すのは、病を患う弱った悪魔だから。
ただの“ベルゼブブ優一”にそれは与えられません。
包むようなぬくもりでベルゼブブを拘束する柔らかなウール。
そこから彼女の香りがほのかにこぼれて、彼を慰めるように鼻先をかすめていきました。