ここ噴水前に立ってから何度ベルゼブブが腕時計を覗き込んだことでしょう。
数か月前まで瑞々しい涼を振りまいていた噴水は、今や水を抜かれてすっかりと寂しい有様を晒しています。どこか寒々しい光景に、夏場の活気の名残はもはやありません。
日が傾きかけたビル街を人々は縮こまった体をコートに押し込んで、足早に過ぎるばかり。

「まったく何をしているんですかね」

予定では5時にこの場所で佐隈さんと落ち合うはずでした。時計が狂っているのでなければ、大幅に時間を過ぎています。
このところ依頼は切れ目なく舞いこみ、そのどれもこれもが悪魔がらみではない、アクタベ氏の言うところのどうでもいいような調査が続いていました。
雇い主にとっては魅力に乏しくても、現場に出向く佐隈さんにはリスクの低さは重要です。その分実入りも少ないので、複数の依頼を同時にこなして日銭を稼ぐのが主でした。

今日も今日とてベルゼブブは金持ちが飼っていた犬の捜索、佐隈さんはレストランのバイトによる横領(5万円)の調査と効率良く二手に分かれて片づける手はずだったのですが、時間が過ぎても彼女は現れません。
片づけるとは言っても、すでに証拠集めなどの調査自体は終えているので、今日残された仕事は依頼主に報告するだけです。
苛立ちながらベルゼブブは冷気を吸い込んだベンチに腰を下ろしました。

魔族の皮膚は凍てつく風を寄せ付けません。
だというのにベルゼブブはいかにも寒そうに背を丸め、冷えてもいない顔をグレーのマフラーにうずめました。脆弱な人間の振舞いがすっかり板についていることなど当人は気付いていませんけれど。

そのまま居座り続けて、容姿につられて声をかけてきた若い娘さんを何度かあしらっていると、右のポケットで安らかに眠っていた携帯電話が震えました。
ちかちかとランプが瞬いてメールの受信を知らせています。何度電話をしても出なかった彼女への腹立たしさも手伝って、ベルゼブブはいささか乱暴に画面を開きました。
 
端正な顔からみるみる血の気が引いていきます。
彼は人ならざる早さで駆け出しました。



 
吸い込む息の冷たさで佐隈さんは目を覚ましました。
じんわりと全身冷気に包まれ、耳や鼻など露出している皮膚は氷のように冷たくなっています。朦朧としつつ起きあがると、後頭部に鈍い痛みが走りました。
頼りない視界を助ける為にずれた眼鏡を持ちあげてみれば、現れたのは見覚えのない風景。畳三畳ほどの広さにボトルや籠に入った野菜などが整然と並べられています。
そこでようやく、佐隈さんは自分の身に起きたことを思い出しました。

血なまぐささからかけ離れた平凡な仕事の数々に、彼女はすっかり忘れていたのです。
人が保身のためならどんな馬鹿な真似もしでかす生き物だということを。

先方から指定された通りの時間に赴いたにも関わらず、依頼主である店主はそこにいませんでした。
代わりに店の奥で彼女を出迎えたのは、横領容疑のターゲットであるバイト店員だったのです。
彼は自分に嫌疑がかけられている事に気付いたのでしょう、証拠が店主に渡る前に握りつぶそうと、咄嗟に逃げようとした佐隈さんを後ろからアボガドで殴りゴーヤで殴り、なかなか気絶しないので最終的にすりこぎ棒を持ちだして殴りつけました。そしてそのまま佐隈さんを閉じ込めたというわけです。
やはりというか当然というか、報告書の入った封筒は消えていました。バイトに持ち逃げされた事は火を見るより明らかです。
馬鹿な男です。
依頼主は小銭をちょろまかす手くせの悪いガキをこらしめてやりたかっただけで、警察に突き出すまでは考えていなかったのに。
せいぜい解雇になる程度で済むところを、自分で事を大きくしてしまったのです。

報告書や証拠はデータとして事務所が残っていますので、破棄されても支障はありません。
それよりも問題となるのは、この場所がただの倉庫ではなく冷気みなぎる冷蔵庫であることと、携帯の充電が今にも事切れそうな現実です。
季節が季節ですので、佐隈さんもそれなりに着込んではいますが、限度があります。生身の人間がそう何時間も耐えられるはずがありません。
一刻も早く助けを呼ばなければ、と流石に佐隈さんも青くなりました。
一日忙しく外を出歩いていたせいで充電する機会がなく、充電表示が残り一つになってから、もうずいぶん経っていました。いつ繋がらなくなってもおかしくありません。

誰か、と考えるが早いか、佐隈さんの指はアドレスから一人を選んでいました。
送信しましたの文字が無事に表示された直後、力尽きたように鳴き声を上げた携帯が、暗い画面を映しました。



TO:ベルゼブブさん 本文:レストランさむい監禁たすけて



CLOSEの札のかかった入口は鍵がかかっておらず、侵入は容易でした。
荒々しく踏み込み、姿を探すも人影はありません。小奇麗なホールを抜ける途中で、揉み合った形跡を見つけたベルゼブブは背筋が泡立つのを感じました。

「さくまさん!」

声がほとんど悲鳴に近いことを、本人は気が付いているでしょうか。
転がるように厨房までやってきたベルゼブブの耳は、かすかな物音を拾いました。一番奥の、厚い扉に隔てられたその向こうから、彼のよく知るか細い声がしたのです。
ドア中央を四角くくりぬいたガラス窓から覗き込むと、すぐ下にへたりこんでいる佐隈さんが見えました。
さくまさん!とベルゼブブが尚も呼ぶと、彼女はハッと飛び起きるように顔を上げて、ベルゼブブさんと言いかけたところで盛大なくしゃみ。

「さくまさん無事ですか!? 怪我はありませんか!」

鼻をすすりあげた佐隈さんはふらふらと立ち上がりました。どれだけの時間ここに居たのでしょうか、自分を抱きしめるような格好で大袈裟なほどガタガタと震えています。

「うう、寝ちゃうところでした……大丈夫じゃないです寒いです……」

今あけますから、と取っ手を掴もうとしたベルゼブブの手は空振りました。
ありません。
扉としての機能を果たすならば必ず備わっているはずの、取っ手部分がもぎとられているのです。恐らく少しでも時間を稼ごうとして、閉じ込めた際に犯人が壊したのでしょう。

「ベルゼブブさん、警察かアクタベさんか、とにかく人を呼んでもらえませんか」

扉の向こうから慌てるでもない弱々しい声がしました。
佐隈さんはすんなりドアが開かない事を知っていたのです。
ベルゼブブが助けに来るまでの間、彼女もただぼうっと座りこんでいたわけではありません。抜け道を探したり、ドアのガラス部分を破れないかと木箱で叩いてみたり、様々な抵抗をしていました。
その時、取っ手が壊されていることに気がついたのです。
只でさえ冷気が逃げないように作られた頑丈な扉。人が一人頑張ったところで開くわけがありません。
ましてや、相手は非力な悪魔 ―― 少なくとも彼女の中では。

「携帯の充電切れちゃって、連絡がつかなかったんです。ベルゼブブさん、お願いします」

誰か呼んできて下さい。
そう懇願する佐隈さんの唇はもう真っ青で。
耐えがたい冷気に晒されていることは明白でした。
それなのに、真っ先にベルゼブブに助けを求めたのです。彼女の認識の中では一番頼りにならない、力を持たない悪魔でしたのに。
ベルゼブブは自分の首元にある、いつか彼女が巻いてくれたマフラーを握りしめました。

もう自宅に招いてはもらえないかも知れません。
膝枕をされて一緒に眠りにつくことも。

「さくまさん、少し下がっていて下さい」

けれど人の身を解くのに、一瞬の躊躇も彼にはありませんでした。




あれほどびくともしなかった扉が、ふすまを外すような手ごたえのなさで壊れゆく様は壮観の一言で、佐隈さんは寒さも忘れてぽかんと見入っていました。
あまりにあっさり破られたので紙細工かとも疑いたくなりますけれど、放り投げられた時の地鳴りにも似た音が、その強度と重さを物語っていました。

扉をへし折ったベルゼブブは魔界の姿のまま、座りこんでいる佐隈さんに近付き、自分のコートを着せ、マフラーをぐるぐるに巻きました。かつて彼が彼女にそうされたように。体温とは無関係に温かさを覚えたように。

「もう大丈夫です」

それだけ口にして、ベルゼブブは他に何も言いませんでした。
言葉はいくつもあるけれど、どれも喉に詰まってしまって何も言えなかったのです。
腹を決めたものの、佐隈さんの目を見る覚悟はまだできていません。
都合良く気を失ってくれることもなく、佐隈さんの意識がはっきりしていて、そしてそれが自分を軽々と抱えている悪魔へと向いていることはベルゼブブも知っていました。

「ベルゼブブさん」

腕の中から掠れたような頼りない声がします。
一瞬ベルゼブブの身が固まりました。




「病気治ったんですね、良かったですねえ」



カレー療法効いたんですかね、と鼻をたらした佐隈さんがえへへと笑いました。

佐隈さんは。
佐隈さんはいつも、ベルゼブブが考えていたのと少し違う答えを投げてよこす人なのです。

あの日も、今このときも。

思いがけない方向から放りこまれたそれは、ベルゼブブの胸の内をかいくぐり、折り重なった嘘や本当や記憶を辿って、やがて鼻の奥をつんと走ってゆきました。
ベルゼブブはその痛みに、どう耐えていいのかわかりません。

「ええ、そうですよ。効きましたよ。あなたの嫌がらせみたいなカレーの押し売りが、効いたんですよ。馬鹿みたいに甘やかすから、世話を焼くから、優しくするから、」

別の病を患う羽目になった、とは嗚咽が詰まって言えませんでした。

「あなたは私に責任があるんです。私のそばにいてカレーを作らなければいけません」

うそつきの悪魔が吐露した精一杯の本音です。この期に及んでカレーと言い張るのは、彼のプライドによるせめてもの抵抗でしょう。
鼻声はいつしか涙声になり、震えながら空気を揺らします。

「いいですか、ずっとですよ。ずっとです。最後まで。わかりましたか」
「はいはい」

青白かった肌に色を取り戻し始めた佐隅さんが、眠たそうなくすぐったそうな目を細めました。

「泣くほど嬉しいですかベルゼブブさん」
「あなたにはわかりませんよ」

からかうような彼女の物言いが癪に障って、ベルゼブブの泣きっ面は少し不貞腐れたものになりました。
あべこべに、作隅さんの口元は「ふふ」とほころびます。

「いいえ、私も嬉しいですよ」

まだ冷えたままの指が寄り添うようにベルゼブブの頬に触れて、涙は止まるどころか勢いを増して瞼から溢れました。佐隈さんはおかしそうに笑いました。ベルゼブブは子供のようにむくれます。

「今日なんのカレーにしますか。買い出しの荷物持ちはお願いしますね」

佐隈さんはまた笑って、ベルゼブブはまた泣き始めます。

夜はこれから。

最強を名乗る蝿の王が完全に泣きやむまで、まだしばし時がかかるでしょうから、壊したドアの弁償額と、逃げた犯人への血も凍るような制裁については、あとでゆっくり考えることにいたしましょう。 






**********




 
さて、ここからは秘密のお話です。

佐隈さんは本当の本当になにも知らなかったのでしょうか。
子供のように疑いもなく? 季節をいくつもまたぐほどの長い間?

いえいえ、いくら佐隈さんだって、それほど馬鹿ではないでしょう。

半人前とはいえ彼女もれっきとした悪魔使い、舐めてかかっちゃいけません。
最初こそ悪魔の舌が語る偽りの言葉を信じていましたけれど、そうそう長く騙し通せるものではありませんでした。
ほかでもないグリモアの存在をお忘れではないでしょうか。
悪魔にまつわるすべてが記された絶対の書に、弱体化だけ都合良く抜け落ちているなんて事はあり得ないのです。
契約前ならいざしらず自分が使役する悪魔の書、日々目を通していればいつか必ず気がつきます。

ええ、さくまさんはちゃんとわかっていました。

あれは病気ではないこと、嘘をつかれていたこと。
全部知っていた上で、ベルゼブブを特別のように扱うことをやめられなかったのです。彼が病であろうがなかろうが。

なぜ?

誰かと少しでも一緒にいたいと思ういじらしさにそんな難しい理由が必要でしょうか。
騙されたふりを続けてまで離れたくなかったのなら、思い至る答えはそう多くありません。
案外世の中は複雑そうに見えて、時に単純に出来ているものなのですよ。
うそつきの悪魔にうそつきの悪魔使いなんて実に面倒な組み合わせです。
けれど、きっとその分似た者同士でうまくやっていくことでしょう。

万が一諍いが起きて、意地っ張りの悪魔がへそを曲げた時には、彼女がいつも密かに愛をこめていたあの言葉ささやけば良いのですから。

“ベルゼブブさんお代わりしてくださいね”



<了>