ひっそりと現れ始めた変化にベルゼブブが気がついたのは、無事力を取り戻してから三度目の生贄の時でした。
お皿に盛られたのはチキンカレー。
えもいわれぬスパイスの香り、やわらかな骨付き肉から引き出されるコク、辛さのみならずとろける野菜の甘みが絡み合って生まれる旨味の深さ。
さくまさんのカレーはいつもとびっきりで、その日も口を動かすこと以外が煩わしく思える味わいに変わりありませんでしたが、違うのは量です。
気のせいでしょうか、ルー、ご飯ともに普段より若干増えたように感じられました。けれど不自然なほど山と盛られていたわけでもありませんでしたし、どうせお代わりするのだからとベルゼブブはあまり気に留めずに、くちばしにスプーンを運ぶことだけ集中することにしました。
ひと皿平らげて、お代わり要求するその前に、体を折りたたんだ佐隈さんがベルゼブブの顔を覗き込んで「お代わりいかがですか?」 
勿論そのつもりでしたので、いただきますとベルゼブブが応えれば、佐隈さんはにっこり笑って、たくさん食べて下さいねと言いました。二杯目のカレーも、やはり少し多く盛られていました。

変化は途絶えることなく続いていきました。
グリーンカレー、豆カレー、ビーフカレー、トマトカレー、キーマカレー、エトセトラエトセトラ。
佐隈さんの手によって振舞われるカレーは日替わりで姿を変えていきます。それに伴って、回を重ねる度に一皿に盛られる量は増えていきました。味が変わろうとも具が変わろうとも付け合わせが変わろうとも、それだけは変わりません。少しずつ少しずつ、スプーン一杯ほどの量がベルゼブブの生贄の皿に積まれて日ごと嵩を増していきます。

不思議なことでした。
量についてもですが、そもそもこれほどバリエーションに富んだカレーが毎回出てくる事など、今まで考えられないことでしたから。
雑誌やテレビで知恵を付けてきたベルゼブブがあんなカレーが食べたいこんなのも試してみたいとそれはしつこくごねて、ようやく取りかかるというなかなかに重い腰をお持ちだった佐隈さんが、面倒臭がって時にレトルトで済ませる事もあった佐隈さんが、なぜ急にこれほどまめまめしくカレー作りに精を出し始めたのでしょう。
突然料理の喜びに目覚めたのでしょうか、カレーの腕を上げることで昇給がのぞめるのでしょうか。

いいえ。その舌で残さず食しているベルゼブブにはもう、なんとなくわかっていました。
佐隈さんはあの日ベルゼブブがついたその場限りの嘘を信じているのです。
食が偏っているから、と彼女は繰り返し呟いて気にかけていました。自分の作ったカレーを食べて、弱った体が少しでも持ち直してくれればと佐隈さんなりに考えていたのでしょう。
それを証拠に、佐隈さんは言うのです。欠かさず言うのです。お代わりして下さいねベルゼブブさん、と。
ベルゼブブがお代わりしなかったことなんて一度だってありはしないのに。

がちん、と銀色に光るスプーンをベルゼブブは奥歯で噛みながら思いました。さくまさんの考えそうなことだ、と。
金には滅法がめついくせに案外情に流されやすく、ほろりと騙されてしまう彼女です。たかだか使い魔ごときに同情して、なけなしの母性をかき集めてきたのでしょう。
多少むずがゆいものが走りましたが、真実を語る必要はありません。罪悪感なんて安い感情を丸めて捨ててしまえば、ベルゼブブにとって不利な事など何ひとつないのですから。
むしろ上下関係の上に君臨する契約者を出し抜くなんて、痛快ではありませんか。

そう、使役されようが鎖に繋がれようが、彼はまぎれもない悪魔なのです。




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一雨ごとに春の気配は遠のいて、柔らかだった日差しから可愛げが消えても、佐隈さんは相変わらずベルゼブブに騙されたままでした。

彼女の中ですっかりと貧弱で哀れな悪魔として定着してしまったらしく、缶の飲み物はご丁寧に毎回プルタブを開けてから寄越し、移動の際も抱き上げて小脇に抱えられるなど、常に彼女はかいがいしく、やたらと緑色の液体「青汁」なるものを熱心に飲まされる件については辟易したものの、それ以外は気分の良く過ごせました。
喜ばしい事に、あれからグリモアで四肢を裂かれることがほとんどなくなったのです。
とはいえその役割は無神経で歩くセクハラのアザゼルが担っていたので、もともと彼が憂き目に遭う機会は少なかったのですが。
それでも以前に比べて、ベルゼブブに対しての仕置きが鈍ったのは間違いないでしょう。

佐隅さんの和らいだ態度はベルゼブブにもほんの少しの変化をもたらしました。
世話を焼かれる内に警戒心がほどけていったとでも言いましょうか。
さすがにアザゼルやアクタベ氏と共にある時には普段と変わらぬ距離感を保ちながら接してはいましたが、他人の目がなくなるとその制約は解け、大人げない我儘がベルゼブブの口をついて出ます。 
抵抗を覚えるはずの甘えるという行為も、病の身にある状態と考えれば、すんなりと何の意地もなく踏み出せました。

少しだけ眠りたいので膝枕をして下さいませんか。

そんなふざけた台詞も簡単に言えるのです。もちろんソロモンリングの姿限定ではありますが。
人型ならばともかく、佐隈さんがこの姿にさほど警戒を抱いていないのはベルゼブブもよく知っていました。
最初佐隈さんは意外そうに首を傾げてから、膝枕ですか、と少し戸惑ったように言葉を濁しました。
そのためらいが嫌悪ではなく恥じらいを含んだものだったのでベルゼブブは、ええお願いします、とオセロみたいに白黒くっきりとした眼差しで、さらに一押し。
すると佐隈さんは仕方ないですねえという風にソファに腰掛け、渋々ながらも小さな悪魔の為に膝の上を貸し出しました。

きっと彼女にとってはよく動くぬいぐるみを一匹乗せているようなものだったでしょう。
けれども姿はどうあれベルゼブブはベルゼブブとしての感覚が生きていますから、皮膚を通して彼女に息づく柔らかさや香りが伝わります。やんわり感じるのではなく、ひどく生々しく。
居心地が悪いような、下らないような、不思議と安らぐような。
それは相反する月と太陽がいっぺんに空に現れたみたいに、胸の内が明るくて暗くて騒がしくて静穏で、ともかくまぜこぜです。ベルゼブブは膝の上で身を固くして、落ち着かないまま眠りにつきました。

本当はちょっとしたいたずらのつもりだったのです。
少しだけ佐隈さんを困らせてやろうと、ただそれだけの事でしたのに。結果として困ったのはベルゼブブの方でした。
いたずらとしてはとても成功と言えませんし、純粋に休憩としても、こんな形で休むより自室の綿菓子のようなふかふかのベッドの方がずっと安らかに眠れます。
かちこちに神経をとがらせる必要もありません。
時折膝の上の猫をあやすような手つきで、撫でられることもありません。

けれどどうしてでしょう。
ベルゼブブはそれからも、事務所からひと気がなくなると佐隈さんに膝枕を要求しました。
佐隈さんも、またですかなんて口では言いながらも拒むことはありませんでした。幾度も繰り返している内に、膝枕が抱き枕になっていたり寄り添う形になっていたり、いつの間にか二人並んで寝ていることもありました。

どうしてそうしているのか、ベルゼブブはあまり考えないようにしていました。
心のひだに触れる何かをまだ見つけたくはなかったのです。