い ん ち き 病 




爬虫類にも似た皮膚が覆い尽くし、すらりと伸びる四本の指。
かの悪魔、ベルゼブブ優一の掌です。
それを広げて眺めては、彼は苛立たしげに息をつきました。
常ならば人の一生もただの瞬きに映るはずが、今日ばかりはたったの一日も恐ろしく長いものに思えました。
バベルの塔ほどのプライドを誇るベルゼブブにも、許されざる者として底辺に追いやられた己を疎ましく思う日があります。天から追放された証しでしょうか、年に一度だけ、その力をごっそりと奪われるのです。
食欲が落ちてしまうわけではありません。ひどい熱に浮かされることもありません。ただ、子供のように非力になってしまうのです。
知らぬ者が聞けばさほど害がないように思えますが、いつも当たり前にこなしていた事の大半がまるで出来なくなるのはこれで案外やっかいなものです。
例えば、ちょっとしたビンの蓋も開けられないし、厚めの本は二分読んでるだけで手が震えてしまいます。深窓の令嬢ならばいざしらず、物騒極まりない魔界では命取り以外の何物でもありません。
しかしそこはベルゼブブ家931代目、毎年心得た召使いが当主の手を煩わせぬよういたれりつくせりで世話を焼き、彼自身も城から極力出ぬように心がけていたので、これまではそう大きな問題は起こらずに済んでいました。

ところが今年はベルゼブブにも契約者がいます。
いくら悪魔使いとして愚かで未熟でも、グリモアの掟は絶対、喚び出されて拒むわけにはいきません。ましてや事情を伝えるなどもってのほか。どこに恥や弱みを自ら差し出す悪魔がいましょうか。
暴くに長けた彼に隠し事は通用しませんが、自分自身ならば話は別です。感情の全てが犬顔に出てしまうどこかの誰かさんと違って、秘密を折りたたんで忍ばせるくらいならベルゼブブにとって造作もありません。少なくとも彼はそう信じています。

という事で、言い方は悪いですが、のこのことベルゼブブは召喚されるままやって来ました。
しかし腐っても神の与えた罰。
弱っている事などおくびにも出さず、涼しい顔で現れたはいいものの、まず事務所のドアを開けるだけで息が上がりました。ハアハアゼエゼエハアゼエゼエヒー。心臓が破れそうです。
鋼鉄製のドアに交換したのかと疑うほどの重量を感じましたが、当然そんなわけはなく、昨日となんら変化のない薄汚れた、多少たてつけの悪い扉があるだけ。それくらいベルゼブブの腕力が落ちているということです。
忌々しい、とベルゼブブは唇を噛みました。こんなもんいらねえから暖簾でもかけとけと扉を蹴っ飛ばしたのは、混じりっ気なく純粋に八つ当たりです。
今日に限って人型で喚ばれてしまったのもベルゼブブにとっては不幸に他なりません。体への負担は同じでも、ぬいぐるみじみた二等身に比べて遥かに非力さが目立ってしまいます。
ペンギンがおぼつかない手つきでペットボトルを抱えていても、あら可愛い、で済むところ、姿かたちが成人男性の場合だと、あらもやしっ子、とその印象は大きく左右されるでしょう。
これでもし、本日喚ばれた理由が引っ越しの手伝いなどの肉体労働であれば完全に手詰まり。ベルゼブブアウトーという展開まっしぐらでしたが、幸いにも尾行の助手として佐隈さんにつき従うだけのお仕事でした。

「佐隈さん」とはベルゼブブいわくアホでクソタレな悪魔使いであり、彼の契約者です。悪魔使いとしてはまだ駆け出しもいいところで、悪魔を舐めている節があったり酒癖が災いして窮地に陥ったりと様々な失態を犯しては、これまで痛い目に遭ってきました。主に悪魔たちが。
迷惑な主人には違いありませんが、それでもベルゼブブは逆らえません。
体力腕力、そして若干気力が落ちていたものの、職能自体には差し障りありませんから、その日の仕事は無事終える事が出来ました。
佐隈さんの目はベルゼブブが睨んだ通り節穴で、ターゲットを追うこと(そしてその報酬)ばかりに夢中でした。実は随伴する使い魔が、鳥につつかれた程度で膝をつくほど弱っているなんて、気付く気配もありません。
万が一、ベルゼブブを喚び出したのが彼女の上司の血も涙もないアクタベという男であったなら、一目で知れた事でしょう。けれど運良く彼は出張中で、その底知れぬ眼に触れずに済んだのはベルゼブブにとって何よりでした。
見破られるデメリットは勿論、今なら睨まれただけで絶命しそうですから。

任務を終え、事務所へ戻ったベルゼブブはくたくたでした。
春一番が吹き付ける中、ただ歩いて隠れるだけの動作も、今日のベルゼブブの身にはボディーブローのようにじわじわ堪えます。
特に階段。上れば動悸に苛まれ、下れば膝が笑いました。
何度か小走りしたことも、負担だったかも知れません。

「今日もお疲れさまでした」

なにも知らない佐隈さんは、ソファに腰掛けつつ全力で死相を覆い隠しているベルゼブブにおやつと飲み物をくれました。生贄のカレーは出かける前にもう頂いています。ですからこれは純粋にサービスでしょう。
彼女は悪魔を一人の人間のように扱うところがあって、ベルゼブブはその度くすぐったさを覚えていました。調子が狂うのです。

出されたのは缶コーヒーと頂き物のみかん。
いつものように手を伸ばして、それからベルゼブブは愕然としました。
缶コーヒーのプルタブが空きません。
決死の覚悟でリング部分を持ちあげましたが、反対に指がへし折られそうになりました。ならば、とみかんの皮をむこうとして、親指をみかんの中央に当ててみたものの、それ以上力が入りませんでした。あの柔らかい果実の皮が、掌を返したようにベルゼブブの指の侵入を全く許そうとしません。
ピークです。
弱体化のピークが訪れていたのです。

みかんの皮すら剥けない魔界のプリンス………

翌日には戻るとわかっていてもベルゼブブの心に激しいダメージが食い込みました。
これ以上留まるのはどう考えてもあまりよろしくありません。仕事も済んだことですし、早めに引き上げることにしたベルゼブブはコーヒーとみかんをそっと机に戻して立ち上がりました。

「さくまさん、私はそろそろ」

そんな風にわざわざベルゼブブが声をかける必要なんてありませんでした。
佐隈さんはソファのすぐ後ろに立っていたのですから。眼鏡の裏の、ほんの少しつり上がった猫目を押し広げて。隠しきれない驚きが、彼女のその眼の色に灯っていました。

そう、見られていたのです。佐隈さんに。

自分がプルタブに惨敗する姿を。みかんの皮を前に白旗を上げる様を。
ベルゼブブは顔から血の気が引いて行くのがわかりました。最強と謳われていた、いや自ら謳っていた蝿の王のおじいちゃん化!! 
これを醜態と言わずなんと言いましょうか。
ベルゼブブが咄嗟にうまく取り繕う言葉を見つけ出せずにいると、佐隈さんは息を飲みました。

「ベルゼブブさん、それ」

ひどく真剣な眼差しです。
やはりばれたか、説明するしかないだろうとうんざりしていたベルゼブブさんをよそに、佐隈さんは恐る恐るといった表情で口を開きました。

「病気で……?」

返って来た反応は、考えていたものと少し違っていました。
悪魔使いとして日の浅い彼女は彼らの弱体化なんて知る由もないのでしょう。ベルゼブブにとって却って好都合でした。身の安全のためにも、力を失うその日を他者にわざわざ知らせたくはありません。
なんらかの誤解が生れたのであれば、それを抱いたままでいてもらおうとベルゼブブは企んだのです。

「……できれば知らせずにおきたかったんですが」

ベルゼブブは多くを語らず、それだけ言って黙りました。深刻そうな表情をつくるため、わざと伏し目がちになってみたりもしました。
佐隈さんはやっぱり! と呟いて、複雑そうに眉間に皺を寄せました。

「あんな食生活やっぱり良くないですよ」

心配そうな声色に乗って、シビアな一言が届けられました。
排泄物ですよ排泄物、排泄してるんですからそこから栄養はとれませんよ、リサイクルもほどほどにしましょうよ、などと佐隈さんは淡々とバッシングを続けます。
余計な御世話だとちゃぶ台をひっくり返したいのはやまやまですが、ここで短気を起こしては意味がありませんので、ベルゼブブはぴくぴく浮きそうな血管を必死で抑え込んでいました。
まだ何か言いかけた佐隈さんの肩に、ベルゼブブはおむもろに触れます。

「……ほかの方には黙っておいて頂けますか」

訴える深く青い瞳に、佐隈さんは一瞬躊躇して、それからこくりと神妙に頷きました。

「私とあなただけの、秘密です」

とどめとばかりに人差し指を唇にあてたベルゼブブは、耳に溶け残る声でそう囁いて微笑んでみせました。その姿かたちが人を惑わすに値することをよく知っているのです。これだから悪魔は信用なりません。
今はみかんも剥けないくせに。