最良の時から世界の孤児へ

最良の時から世界の孤児へ

第一次世界大戦で一定の評価を得た日本でありましたが、良い時代は長続きしませんでし
た。

1919年ベルサイユ条約により南洋諸島の信託統治権を得て南洋に勢力を拡大していきます
が。
それはメリカにとって大きな脅威になる事を意味していました。

当時 アメリカはフィリピンを植民地としており 南洋諸島の日本の存在はフィリピン-アメリカ
の補給線を遮断する位置にあるのでした。
只でさえ「桂-ハリマン仮協定」を反故にされ中国での権益にあり付けなかった事もあり、
日本を仮想的国とみなした計画を立てました
いわゆる ダニエルプランとかレインボープランの中のオレンジプランです。
まぁ日本も負けずに88艦隊なんて無謀な計画を立ててたりするんですけどね。
実際88艦隊なんか建造するだけで国家予算の1/3の費用が掛かるし維持するだけでもその
半分が必要になるのですからたまらない!

流石に この猛烈な軍拡には戦勝国クラブもギブアップ 
1922年2月ワシントン海軍軍縮条約が締結されます。
この条約は日本に対して甚だ不利な条約でしたが仕方なく甘受していきます。
この頃から日本に対する国際的な風向きがおかしな事になっりはじめます・・・

この当時 世界で建造された最強の砲は16インチでそれを搭載した戦艦の保有が許された
のはアメリカ3隻イギリス2隻日本2隻の7隻のみで 通称ビッグ7と呼ばれてました。
なかでも最強と云われたのは日本海軍「長門」と「陸奥」なのでした。
この後条約が切れる1936年12月までこの状態が続き 「海軍の休日」と呼ばれます。

さてさて 日本の本命の敵国はやはりソ連(ロシア)です。
1918年にロシアの単独講和により孤立してしまった「チェコ軍」を救出する為という名目で
日米英仏伊中の各国がシベリア出兵をしました。(日本は最大勢力で12000人を派遣した。)

しかし各国は戦争が終結しても駐留をつ続けた、これは明らかにロシアの革命勢力を牽制す
る意図があった。
1919年ごろから各国は次第に撤退を開始したが日本軍は1922年6月まで駐留を続けた。

この長期駐留によることが原因で
1920年5月24日ニコライエフスクの日本人および守備隊934人が虐殺される事件が起きる
(尼港事件)
1925年 日ソ基本条約が調印され日ソの国交回復が図られる。
日本は1927年3月の金融恐慌により経済的に大打撃をうけ
1929年の世界大恐慌が起こると欧米各国は植民地を中心としたブロック経済に走りその危
機を凌ごうとするが、めぼしい植民地の無い どころか足手まといの朝鮮半島を抱える日本は
まともに恐慌の影響を受ける。

1928年張作霖爆殺事件が起きる。
それまでは友好的関係を築いてきた関東軍と中国軍閥の張作霖だったが、次第に欧米に
肩入れするようになり反日的行動をとるようになっていき
目障りになった関東軍が張作霖の乗った列車ごと爆破して暗殺した事件
そしてその息子の張学良を後釜に据えるが、日本に対して反発しアメリカと共同で満州鉄道の
横に新たに安価な鉄道を敷き日本の権益を奪い始める。

そして1931年9月満州事変が起こり張学良を満州から放逐した
1932年3月には満州全土を制圧し、清朝最後の皇帝「愛新覚羅溥儀」を皇帝として
 大満州帝国を建国する。

張作霖爆殺事件から満州国建国に至っては関東軍の独断で行われ「軍部の独走」によるもの
だったが日本政府はこの行動を事後承諾するしか有りませんでした

しかし日本は大恐慌の影響をまともに受けていたので 中国人には迷惑な話でしょうが日本
が生き残る為に仕方なく行った面もあります。
この時代は“生き残るか食い物にされるか”の力が支配する時代でしたから・・・
ですがここまでで止めて置けば良かったのかも知れません

中国政府の依頼により満州国に対して調査団が送り込まれる。
いわゆる「リットン調査団」です。
彼らの3ヶ月に渡る調査の結果満州国は非合法という事になったが
日本も若干の考慮の余地がある報告書だったので(満州国を非武装中立にし日中または日
中ソで権益を得る事)
日本の合意を期待したが日本はそれを受け入れず 国際連盟を脱退してしまいました。
日本の脱退後は中国による日本の欠席裁判または魔女裁判のようになり世界の孤児と
なってしまいました。
つづく・・・



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