コンパス作戦
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当時この方面の英軍を指揮していたのは「サー・アーチボルト・ウェーヴェル」でした。
彼が1940年11月末に「オコンナー少将」に
伊軍壊滅作戦(コンパス作戦)の実施を許可しました
「西部方面砂漠部隊」の戦力は3個師団、戦車275両、砲120門
12月6日に「マルサ・マトルー」を出撃し、3昼夜砂漠を行軍して
12月9日に伊軍を襲撃し 伊軍キャンプを次々に攻略し
僅か5日で「シデイ・バラニ」を何の苦も無く占領しました
伊軍はこの戦闘で4万人の捕虜をだす大敗北を喫しました
この戦闘は「5日間襲撃」と呼ばれています。
その後、英軍は「スーダン作戦」に一部戦力を引き抜かれた為に、一時攻勢を休止しました。
スーダン作戦とは伊軍が「伊領エチオピア」から「英領スーダン」に侵攻してきた為
これを迎え撃つ作戦
緒戦は現地英軍が劣勢でしたが、英連邦の各植民地軍の増援により
伊軍はたこ殴りにされてしまいました
5日間襲撃に続き1941年1月 戦力を回復させた「オコンナー少将」は
再び攻勢を開始しました。
1月3日「バルディア」占領
1月6日「トブルク」占領
この間に英軍は伊軍7個師団を撃破し、8万人の捕虜を獲得しました
そして、何より「トブルク」1万トンの真水を獲得したのが何よりの戦果でした。
英軍の次の目標は、重要補給港の「トリポリ」でしたが
その前に「キレナイカ」から撤退してくる伊軍残存部隊を殲滅しなくてはならなかった。
「第7機甲師団」を砂漠の内陸銅から「ベダ・フォーム」に先回りさせて
海岸沿いを撤退してくる伊軍を迎え撃つ作戦を立てました。
「トリポリ」に撤退する伊軍と先回りを企てる英軍との競争が始まりました!
競争はもちろん英軍の勝ち!!
「第7機甲師団」の先遣隊 J.F.B.クーム中佐率いる「第11フォッサー」は「ベダ・フォーム」
に先回りに成功し
伊軍はまさに「袋のネズミ」になってしまいました。
因みに
英「第7機甲師団」は後に「砂漠のネズミ」と呼ばれ恐れられます。
伊軍は・・・
2月5日 「ベダ・フォーム」を突破しようとした、トラックの一団がありましたが
英軍の対戦車砲部隊により、あっさり撃破
2月6日 雨の中を100両の戦車で突破を試みますが
僅か4両が突破できただけでした
2月7日 残っていた30両の戦車で再び突破を試みる物の失敗
2万5千人が捕虜になりました。
5日間襲撃から始まる「コンパス作戦」(ウェーヴェル攻勢) 60日間で伊軍は
捕虜13万人(資料によりばらつきがある)
戦車400両
砲1000門
の大損害を受けました
ここまででいえることは伊軍は原住民(ベドウィン族)との戦いには勝てたが
訓練された、正規軍相手にはまったく歯が立たないということです
次回はいよいよ砂漠の狐「ロンメル」の登場!
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ロンメル アフリカ軍団
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