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chronology 1985


1985/01/01 17:00 FM東京『フォー・ザ・グッド・タイムス』放送。出演。
DJ:つのだひろ

1985/01/03 『キーボード・ランド』2月号(リットーミュージック)発売。
インタビュー/即物的手法から超物理的手法を生む

1985/01/03 18:00 FM大阪『FMステーション・スペシャル 細野・坂本・高橋 三人模様』放送。出演。
DJ:田家秀樹
出演:坂本龍一、高橋幸宏
※編注:田家秀樹による個別インタビューを坂本龍一、高橋幸宏、細野晴臣の順で放送。

1985/01/05 『プレイヤー』2月号(プレイヤー・コーポレーション)発売。
インタビュー

1985/01/07 23:30 FM東京『小室等の音楽夜話』放送。出演。
DJ:小室等

1985/01/08 23:30 FM東京『小室等の音楽夜話』放送。出演。
DJ:小室等

1985/01/09 23:30 FM東京『小室等の音楽夜話』放送。出演。
DJ:小室等

1985/01/10 1:00 FM東京『FM25時 ポップ・フィールド』放送。出演。
DJ:杉真理

1985/01/10 『CLIP』3号(学生援護会)発売。
コメント/テクノ・ポップはもっと刺激的になる?! ノン・スタンダードとモナドは細野コンセプト。

1985/01/10 23:30 FM東京『小室等の音楽夜話』放送。出演。
DJ:小室等

1985/01/11 23:30 FM東京『小室等の音楽夜話』放送。出演。
DJ:小室等

1985/01/16 『サウンド&レコーディング・マガジン』2月号(リットーミュージック)発売。
インタビュー/コンピューターを中心としたシステムを使うのは自分に一番近い音楽を作り上げたいからなんです

1985/01/18 『キーボード・マガジン』2月号(リットーミュージック)発売。
インタビュー/うんと刺激的なものを作りたかった

1985/01 パンク&ニュー・ウェイヴ ライブ写真集『B-5』(三和出版)発売。
インタビュー/S・F・Xはテクノである!

1985/01/21 ミカド『ミカド』発売。
executive produce

コメント
グレゴリー・チェルキンスキーの証言
「細野さんは自由に僕達にアルバムを作らせてくれたでしょう? それもとても嬉しかった。ヨーロッパではそういうことは、ほとんど考えられないことだからね。で、とにかくやりたいようにやったものを持っていったら、即『OK』って言ってくれた」
(1)

1985/01/21 アニメーション映画『銀河鉄道の夜』(杉井ギサブロー監督)音楽制作発表記者会見に出席。新橋/ヘラルド・エース。

「仕事受ける時は、(編注:タイタニック号について)全然頭になかったけど、記者会見で聞かれまして、そうだった−と思ってね。『銀河−』に出てくるんですね」(2)
「『タイタニック号沈没事故』の因縁というのかね、因果というか」
(3)
「ぼくは、タイタニック号の事件を、ロマンチックに考えていました。『銀河鉄道の夜』の音楽を担当することに、因縁めいたものを感じます」
(2)
「同時代体験みたいなものすごく感じてるんですよ。宮沢賢治の生きてた時代の事件だけど、共有できてるものがあるから。賢治と通じる接点みたいなもの、そういうところにもあるような気がする」(2)
「これはやりがいがあるな、と思ったよ」
(3)

※編注:イメージ・ソングを歌うヴォーカリストのオーディション開催(応募締切は2月28日)も発表された。

1985/01/21 『朝日新聞』のインタビュー取材を受ける。新橋/ヘラルド・エース。

※編注:1月23日付夕刊に掲載。

1985/01/23 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
インタビュー/賢治の世界のふくらみ表現

1985/01/30 『ミュージック・ステディ』2月号(ステディ出版)発売。
インタビュー/地球的に今が変わっていく真っ只中で、そういう時にこそ音楽家は音楽で参加してないと手触りが伝わってこないと思うんです。

1985/01/30 『ラジオマガジン』3月号(モーターマガジン社)発売。
取材記事/お煙草御免被ります 本邦初公開:細野晴臣邸の茶室で、深夜のお茶会&茶道教室初体験

1985 鈴木惣一朗と会談。代官山/GEO。

「会って、色々話をきくと、僕がかつてやってきた事をおさらいしているようなタイプのミュージシャンでね、そこら辺にちょっとびっくりしたんですけど。シンガー・ソング・ライターのレコード聴いてたりとかね」(4)
「あとマーティン・デニーやってたり。すごい共通点があるわけです。僕の古いレコードなんかも聴いてたりね。他のミュージシャンとはルーツが違うようで」(4)

鈴木惣一朗の証言
「YENレーベルの後期から、細野さんはボヘミアンな
…例えばドボルザークとか、ケテルビーとかみたいな、郷愁感が強い牧歌的な感じのものを出してた。ぼくはそれを『暖かいテクノ』と呼んでたのね」(5)
「細野さんは松田聖子とかでも、この手法を実験してた。歌謡曲でもそういうのをかまして来るって、ぼくはいいなぁと思ってたの」
(5)
「ぼくはそのことを、細野さんに確認しに行ったの。デビューが決まって、レコーディングに入る前かなぁ…ぼくは、細野さんと話がしたいという希望を、マネージャーの人に伝えてあった」
「それで、細野さんは時間をとってくれて、GEOっていうノン・スタンダードの事務所で、ぼくと会ってくれた」
(5)
「クラシック音楽のレコードを聴かせてくれた」(3)
「フランク、プロコフィエフ、ケテルビー、チャイコフスキー、スメタナ」
(3)
「他にも『日曜はダメよ』の映画音楽を手掛けたマノス・ハジダキス、ネオリアリズムのイタリアの映画音楽〜フェデリ コ・フェリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、ピエトロ・ジェルミの話もしました。ぼくはその頃、乾いたニュー・ウェイヴの音楽に疲れ、湿度や温度のある音 楽に飢えていたんだと思います。当時の言い方として、細野さんは『一人称の音楽〜ある楽器を使って〈自分と対話する音楽〉の重要性』のことも話してくれま した」(3)
「その時やっぱり、ドボルザークを聴かされたの、『ユーモレスク』。それからケテルビーの『ダッタン人の踊り』とか、ボヘミアンな香りの、郷愁感のあるもの… 細野さんはそういうものを当時、集中的に聴いていた。ぼくはドボルザークはもちろん知っていたけども、意識的にポップスみたいには聴いていなかったの。そ の時に、『ポップスのルーツではないものをポップスの耳で聴く』ってことを学んだ。ポップスの用語からはずれているものも、ポップスとして聴けるというの がぼくの中で始まったんだ。ヴァン・ダイク・パークスも、ハリウッドの音楽家だったりするから、ポップスの用語からはずれているようなものもドンドン教え られるわけじゃん? そういう知識が花開いていったわけ」(5)
「ぼくは自分の音楽は、世に出ているものとは違う、特殊なものなんだなって思ってた。だけど、そういうのを特殊だと思わないで、もっと外に出ていっていいんだなっていうのを、この時期に何かドボルザークなんかを聴きながら学んだなぁ。何か解放された」(5)

1985/02/15 新世紀末ライブ『月世界旅行 ガイアの夢想』出演。水道橋/後楽園特設ミニテント。
出演:原田大三郎、白虎社+mar-pa

FRIENDS of EARTH 細野晴臣(live mix)
 曲目不明
「関わり上イベントに出ることになったんだけど」(4)
「見た人は肩すかしだったと思うんです」
(4)

坂本遊の証言
「"誰だかわからないが、超大物が出る"という噂がとびかっていたこともあって、ダフ屋が出るほどの盛況をみせた。」
(6)
「メリエスの古典的名作『月世界旅行』の上映に続いて、期待のGIジョー・ロボットが登場。が、思惑はずれてピコピコSFサウンドにあわせてロボットはそれなりに動くだけ。流されたビデオは、これ又超話題の原田大三郎等製作の『メディア・スーツ』。」
(6)
「注目の中ラストを飾ったのは、謎に包まれたフレンズ・オブ・アース。引き続きSF音にロボット・ビデオの演出なの だが、このバンドの仕掛人(噂の超大物)は、細野晴臣氏。ただこの日細野氏はステージには上がらず、客席の中央に設けられたミキシング台で"プレイ"を披 露してくれたのみで噂を聞いて集まったファンには物足りなさが残ってしまった。」(6)

1985/02/16 夜 松本隆から電話。松本を代官山/ラ・ボエムに誘い、会談。大瀧詠一も合流し、『国際青年年記念 オール・トゥゲザー・ナウ』へのはっぴいえんどの出演についてミーティング。

「何はともあれカフェで会うことが何よりいいんじゃないかと。古き良き時代のパリのカフェでいろんな文化の花が咲いたように、ジャン・コクトーとエリッ ク・サティみたいにカフェで会おうと。それ以降、ぼくらが行った代官山のカフェは、若き日本のコクトーとサティでにぎわっているそうですよ」
(7)
「はっぴいえんどをもう一回やんないかって話は前からあった」(8)
「何度かあったんです」(9)
「まわりでしきりに起こったりして。そうすると、まあ、本人たちも多少は考えることになるでしょ」
(10)
「だけど非常に嫌がってたんだよね、懐古趣味がまず嫌いなの ね。昔はよかったな、てのがやなのね。今が大変なのにそんなこと言ってられねえって気持ちがあるから。これからまだまだ新しいことやんなくちゃいけないっ て思ってるからね。で新しいことをやるんだったら、はっぴいえんどをもう一回やってもいいなって思ってた」(8)
「メ ンバーどうしで話したこともあるんだけど、そのときは"時機じゃない"と。そういう感覚があった。ていうのは、それぞれ、松本隆はある種のピークにいて、 ぼくはYMOやってて、で、大滝氏はソロがひじょうに素晴らしい成果を収めてて。ある意味でそういう、おのおのの第2のピークみたいにね、それが始まった ばかりって感じで。そこでのはっぴいえんどってのには、ちょっと違和感があったんだ」(10)
「今回は、
大滝から話があって」(9)
「唐突に来たね、あれは」(11)
「いやー半信半疑だったね、困ったことは確かだよ」(11)
「<そんな時期じゃないな>ということ」
(11)
「時期が悪かったんだよね。唐突なイベントだったので」
(12)
「その後、若い人たちが聴きだして、はっぴいえんどが再評価される時代が来たけど、一般的にはそれほど認識されてない時代ですから。ただの懐かしいバンドだなと。メンバーはみんなしらけてたし、ぼくも気が乗らなかった」
(12)
「参加を依頼された時、私達の脳裏に映ったものは十二年の流れだけでした。」(13)
「最初に話をきいたときは、コンサート自体に重々しい気配があったんで、とっさにやめようと言ったような気がする」
(7)
やな予感がしたの。『オール・トゥギャザー・ナウ』ってことばとかね(笑)」(8)
「5秒ほどして思いなおしました。ひょっとすると面白いかもしれないと」(7)
「勿論、はっぴいえんどでなければなかった話だから、ちょっとでもかかわるのは本当はやだったんだけれども、逆にだからこそ、はっぴいえんどで出たかったっていう過激な気持ちがあった」(8)
「ちょうど、メンバーそれぞれ、変わり目の時期にきたときだった、というのが大きかったですね。大滝詠一はとりあえず充電中。松本隆は松田聖子の作詞が一 段落。鈴木茂は本当に久しぶりのソロ・アルバムを出した。そしてぼくは相変わらずいろいろやってて(笑)。ま、そういうわけで再結成しやすい機運はあった と」
(9)
「それぞれがみんなやり尽くしたところだったと思う、自分の仕事を。その不思議なことがやっぱり十二年というサイクルで起った」
(14)

大瀧詠一の証言
「10年ぶりでスタジオを改築しまして、そのとき何か聴くものはないかと思ってテープをひっくり返してたら、"はっぴいえんど"の3枚めのアルバムに入っ てる『田舎道』の未発表のロングエンディング・バージョンというのが出てきまして、それはどういうものだったかと思って聴いたんですよ。それからお風呂に 入ったんです。そしたら急に、松本のドラムがすごく懐かしくなって、松本は今でもドラムを叩くんだろうかと思って電話したんです」
(7)
「"はっぴいえんど"再活動におけるぼくの役割分担」(7)
「ずっと前から集まろうっていう気持ちはあったんです」
(15)
「82年くらいにも"そろそろやろうか"って話はあったんですよ。でも、そのときは『何をやるか』が明確じゃなくて…」(15)

松本隆の証言
「ぼくは反対した。やめたほうがいいよって」
(12)
「すぐに、細野さんに電話しました。大瀧さんが電話する前にやめさせようと」(7)
「12年間、叩いてなかったんですから」(7)
「細野さんは普段はつかまりにくい人なんですが、このときは珍しく一発でつかまりまして」(7)
「そのとき大瀧さんが細野さんに電話したら、電話中だったらしい」(7)
「『最近、何してるの』ときくと、なんかカフェに深夜集まって茶飲み話をするのがナウイとかいうんで」
(7)
「代官山のラ・ボエムに呼び出されて」(12)
「待ち合わせをすることになったんです。で、1時間ぐらい話してたら、実は大瀧詠一もこれからここにくるんだということで、3人で盛り上がりまして」(7)
「細野さんも最初は反対してたからね。ところが、大滝さんに説得されて、細野さんもやろうと言いだした」(12)
「それ までは回避の努力を重ねてたんですが、結局、叩くことになった」(7)
「ぼくまで説得されちゃったわけ」
(12)

1985/02/17 『国際青年年記念 オール・トゥゲザー・ナウ』のための、はっぴいえんどの再結成が決定。

「何故今度に限って実現したのでしょう。それはおそらく時代に対する『危機感』が四人の潜在意識を結びつけたからだと思います。」
(13)
「十二年の間に演奏技術も、録音技術も目まぐるしく進歩しました。」
(13)
「CMやTV主題歌とのメディア・ミックスによる宣伝戦略が音楽業界を支配しています。それに比して『はっぴいえん ど』のファースト・アルバムの宣伝費はほとんど0に近い数字でした。あの頃は、まず音楽が在ったのです。そして音楽が人々の生き方にまで影響を与えていま した。」(13)
「私達はヘッド・フォンをしながら街を歩き、いかにも洋楽ふうな耳触りのいい音を聞くことが出来ます。でも残念なことにその音は、ヘッド・フォンをしている人間の歩くスピードは変えられても、生き方を変えることは出来ないのです。」(13)
「音楽の不在、それが私達四人の『危機感』でした。」(13)

鈴木茂の証言
「ニッポン放送が絡んでいたんだと思う」
(16)
「3人がカフェであった翌日、別の用件で松本さんの家に電話をしたら『実はたいへんなことが盛り上がっている』っていうので、すぐに会いに行きました。松本さんがすごく真剣に考えているみたいだったので、その場でやってもいいという気になりました」
(7)
「時期的にも良いタイミングだったんだろうね。松本さんは作詞家として超売れっ子だったし、細野さんのYMOも世界的な大成功の後で一段落ついていたし、 大滝さんも『ロング・バケイション』や『イーチ・タイム』の大ブームを起こした後でね。細野さんも、久々にベースを弾きたい時期だったんだろうね」
(16)

松本隆の証言
「話したら、鈴木くんも間髪入れずやろうやろうということで
…」(7)

1985/02/21 『S・F・X』(CD)発売。
ボディ・スナッチャーズ(Special MIX):produce, compose, words, arrangement, vocals, prophet-5, DX-7, KORG SD-1000, Linn Drum, MC-4
※編注:LPバージョンとの差し替えでCDにのみ収録。

1985/02/21 22:00 TBS『中村敦夫の地球発22時』放送。出演。
司会:中村敦夫、マーシャ・クラッカワー
共演:小幡和枝
鈴木惣一朗の証言
「細野さんがナビゲーターになって、最近注目の音楽パフォーマーを紹介するという企画があったの。ワールドスタンダードと上野耕路くんが出た」
(5)

※編注:「いま時代はパフォーマンス!?」と題して、1980年代のムーブメントであったパフォーマンス・アートを特集。細野晴臣はゲスト・コメンテーターとして全編に出演。ワールドスタンダードのスタジオ・ライヴ(「青春群像」)も見られた。

1985/02/22 『キープル』のインタビュー取材を受ける。

※編注:No.7(3月下旬発売)に掲載。

1985/02/23 22:00 NHK-FM『ニュー・サウンズ・スペシャル』放送。出演。
司会:高橋基子

1985/02/23 22:30 NHK教育『YOU』放送。出演。
司会:糸井重里
出演:遠藤雅伸、クロード・チアリ 他
※編注:テーマは「パソコンなんか怖くない」。

1985/02 小西康陽宅を訪問。ピチカート・ファイヴのメンバーと会う。白金。

「彼らもテクノにこだわってた人たちですね(笑)」
(17)
「コンピュータなしでは考えられなくて」
(17)
「演奏しないんですよ、自分たちで。全部プログラムでやってる」(17)
「新しいポップバンドじゃないかと」(17)
「大瀧ジュニアと言うか、あるいは、なんて言ったらいいかね、えー
ぼくジュニアと言うかね(笑)。んー、非常によく知ってる、音楽を。これがもう、太刀打ちできないぐらい知ってる。その知識においてはちょっと、異常なものがあるね」(18)

小西康陽の証言
「僕の家でデモ・テープをつくっていた時に、細野さんが遊びに来てくれて」
(19)
「家が細野さんちの近所でね。それである日突然、知り合いの人が"細野さんと一緒に遊びに行ってもいいか"って電話してきて…
。 いったい、どの細野さんかなと思ったら、やっぱりあの細野さんで(笑)。家に来た時には"あっ、これが細野さんかあ"っていう感じで。とにかく、昔からあ こがれていたからね。僕が最初に細野さんの名前を知ったのは、はっぴいえんどの『風街ろまん』っていうアルバムからで、それからずっと、レコードが出るた びに買ってたから。僕が、音楽をやるきっかけになった人でもあるんだ」(20)
「けっこう、ささいなことも心配してくれて『蛍光燈や冷蔵庫の音は入らないか』とかね(笑)」
(19)
「あと、音を聴いてくれて『かわいい』とか『ライブを見てみたい』とか。具体的に『レコードつくろう』なんて話はなかったけど、僕らも、そんなつもりはな かったし。ただ、シンセとコンピューターを使ってやっていることや、僕たちが楽器を弾けないことに、興味を持ったらしくて」(19)
「僕、すごいレコード・コレクターでしょ。だから、その後は、もうレコード大会になっちゃって(笑)」(19)

鴨宮諒の証言
「細野さんがピチカートを気に入っているという話は聞いていました」
(11)
「プログラミングしてたら『こんばんは』って(笑)細野さんはひとりでやってきました」
(11)
「それで『聴かせてよ』と言うわけです(笑)。たまたまその時は、僕の曲をやっていて『ボーイ・ミーツ・ガール』を聴かせたんです。でも、聴かせると言っ てもプレイ・ボタンを押して、みんなコーヒー飲んで立っているだけ(笑)。細野さんも立って聴いていて、『いいね!』と言ってくれました。それで『普通は ね・・・・若い人たちが自分たちの音楽を聴いてもらうとなったら、歌って演奏するものだけど、ピチカート・ファイヴはコーヒー持って立ってるんだ ね・・・・』って笑ってました」
(11)

高浪慶太郎の証言
「細野さんと初めてお会いした記憶は‥‥とても曖昧です。」
(11)

長門芳郎の証言
「ピチカート・ファイヴは、青山学院大の学生時代からパイドパイパーハウスに足繁く通ってくれていた小西康陽くんと高浪慶太郎くんが鴨宮諒くん、佐々木麻 美子さんと結成したグループ。小西くんはたびたびピチカート・ファイヴのデモ・カセットや彼がお気に入りの曲を編集したカセットを届けてくれていた。」
(21)
「ピチカート・ファイヴというネーミングだけで100点満点だった。僕はそのマニアックでポップな音楽センスに惹かれていき、いつしか彼らのデビュー作を ビリーヴ・イン・マジック(編注:パイドパイパーハウスの自主レーベル)から出したいと思うようになっていった。小西くんたちにそのことを伝えると、とて も喜んでくれた」
(21)
「一方で、小西くんが高校時代に通いつめていた札幌の和田珈琲店のマスターが元はちみつぱいの和田博巳(編注: 1985年当時、細野晴臣のマネージャー)さんだったということから、和田さんにもピチカート・ファイヴのデモ・テープが渡る。それを細野さんが聴いて気 に入ったという話を聞いたので、それならスタートしたばかりのインディー・レーベルで出すより、細野さんのプロデュースでメジャーからデビューしたほうが 彼らの将来にとって良いと思った。僕は、小西くんたちに『細野さんのところで出したほうが絶対いいよ』と伝え、一旦決まっていたビリーヴ・イン・マジック からのリリースを白紙に戻すことにした。」(21)

1985/02/28 『朝日新聞』朝刊(朝日新聞社)発行。
コメント/ビデオテープ
※編注:「ビデオテープ」は、放送済みの番組から出演者の発言を抜粋して採録するテレビ欄のコーナー。2月21日放送『中村敦夫の地球発22時』より。

1985/03/01 アーバン・ダンスのプレスキット用コメントを脱稿。

1985/03/09 鈴木惣一朗と会談。六本木/インクスティック。

鈴木惣一朗の証言
「ぼくは自分のライヴを済ませ、細野さん
と 談笑した。とにかくぼくは、自分が1985年の今、ヴァン・ダイク・パークスやニルソン、ジェームズ・テイラーやレオン・レッドボーン、ダン・ヒックスを こよなく愛し、音楽を作っているかを熱弁した。1980年代の音楽に対しての、個人的な葛藤を伝えた。すると細野さんは『鈴木くんと全く同じことを考えて る男がいるよ』と言う。」(22)
「鈴木くんみたいな男がいるよ』と。『それは小西くん』」(23)
「『札幌の小西くんっていうんだよ、会ったほうがいいよ』と言う。『ピチカート・ファイヴというバンドをやっていて、ノン・スタン ダードでやろうと思っている』と続けた。」
(22)
「ヘぇ〜そんな奴がいんのかと思って」
(23)
「ぼくは、想像した。東京に出てきて、そんな人間がいることは想像できなかった。1980年代の、このニュー・ウェイヴな東京で、古い音楽を大切に聴いている音楽家なんて絶対いないと、若さゆえの偏見を持っていた。」
(22)

1985/03/10 『ビックリハウス』4月号(パルコ出版)発売。
座談会/第2回ビックリハウス カートゥーン大賞 選評座談会 司会:高橋章子 出席者:景山民夫、霜田恵美子、細野晴臣

1985/03/15 ビートニクス『偉人の血』(パルコ出版)発売。
寄稿/ビートでいこうぜ

1985 アニメーション映画『銀河鉄道の夜』サウンドトラックのレコーディング。

「僕が考えているのは、宮沢賢治自身に気に入られる音楽なんですよ」(24)
「これは〈宮沢賢治ときちんと向き合わないとできないな〉と思ったの。要するにミディアムっていうか『霊媒』って言っ ちゃうと、ちょっとニュアンスが違うけど。宮沢賢治の気持ちを理解しないといけない、という気持ち。平たく言えば、どんな気持ちで過ごした人か、っていう ことに自分を合わせようとしたわけ。なんかこう…それまでは遠い人だった、岩手だし」(3)
「ぼくは、はっぴいえんどをやっているときにいろいろ言葉の使い方とか、世界観を教えてもらったんですね」(25)
「"はっぴいえんど"のよりどころは賢治でしたね。なんて言うんだろう。宮沢賢治は日本の枠から飛び出していて、世界観がある」(26)
「宮沢賢治はもともと日本という枠を超えている。外国でも好きだという人は多い。エゴよりも自分のいる場所の自然の精霊 というのかな、賢治はそういうのと交流していた。だから宮沢賢治が死んだ後も、そういうのと一体になってスピリットが残っている。なんかこう、自然の"気 "が漂っている。宮沢賢治という人間だけじゃないものが一緒に存在している。たんに個人じゃない、いろんなものを持っていてくれる」(26)
「その当時の日本の音楽からとても抽出できないくらい広い世界をもっている。そういうところが、"はっぴいえんど"がやろうとしていたことと非常に似ていた」(26)
「僕と松本隆は東京で育ったからダイレクトに自然に接するチャンスがなくて文学というフィルターを通して接していたけど、大瀧くんは自分の育った環境の中でイーハトーボという"気"が入っていた。それを意識しないでやっていた」
(26)
「賢治の中では、童話の短編のほうが好きです」(25)
「子 供のころに聞かされたり、読んだりしてた童話の中でいまだに妙なものが残っているのは宮沢賢治でね、興味というよりも、自然にいつのまにか吸収していた感 じ」(26)
「いろんな形で知ってはいた」(3)
「子どもとして、子ども向けの物語として捉えてた、だけね」
(3)
「『セロ弾きのゴーシュ』なんかは、きっと寒い国の話に違いないな、しかも日本じゃないだろうな、という感じで、ヨーロッパの北の方のイメージでずっと 話を聞いていた」
(26)
「『風の又三郎』なんか好きでしたね」
(25)
「映画(1940年『風の又三郎』監督・村山新治)にもなってるし」(3)
「自然の中の、風の音なんかが聞こえてくる感じ。音楽的な感じがするんですよね。『春と修羅』みたいな作品とか」
(25)
「あれが言葉の上で松本隆にずいぶん影響を与えていたと思います。言葉の人はこだわるんじゃないかな、宮沢賢治に。僕はもっとイメージでふわぁーっと入っ ていきますから、『月夜のでんしんばしら』だとか『わたくしといふ現象は有機交流電燈の青い照明です』とか、それが音楽的に響くんです」
(26)
「『銀河鉄道の夜』はそれほどでもないかな」
(25)
「とにかく有名な本だから。松本隆が、そういうのをすごく読んでたのは知ってるけど。ま、自分もこの際だから、ということでね、(編注:はっぴいえんど時代に)読んでみた」(3)
「長かったな(笑)」
(3)
「好きな所と困っちゃう所とありますね。特に『銀河鉄道の夜』って半々なんですよね」
(24)
「『銀河鉄道』までいくと、ある種の宗教感が強いでしょう。それ以前の、雑然とした、混沌とした世界が好きなんです」(25)
「一番好きなのは宮沢賢治が表わそうとしている世界であったり、インスピレーションをもらった世界であったり、インスピレーションをもらった世界そのものが好きですね。それを表わそうとしているしている宮沢賢治の苦労は僕にとってはやっぱり、重たくてね」(24)
「やっぱり宮沢賢治の宗教観っていうのは、すごく大きい…仏教的な世界観だったり。でも、もはや仏教に留まらないというかさ、エスペラント語を使ったりしててね。世界に向けた精神世界があるわけでしょ。そこに、共鳴したのは確かだよね」(3)
「因縁を感じるんですよ。何だろうか。…法華経の過激さがあるのかなあと思うんだけれど」(24)
「曲数のわりに時間がなくて、それに一曲一曲違うパターンを望まれたんで、できるかできないかわからないまま始めてしまった」(27)
杉井ギサブローさんっていう『銀河鉄道の夜』の監督さんに、最初『揺れる音楽を』って言われたんだよ」(3)
「だから、『揺れる音楽』っていうキーワードを頼りに『銀河鉄道の夜』は作り始めて(3)
「絵ができてない段階で、かいもく見当がつかなかったんです。こんな音がほしいというシーンが選 ばれて、それが四十三場面あったんです。つまり四十三曲。いちどきにこんなに作ったことないですけどね(笑)。普通映画音楽の曲数って少ないんだけどね」(2)
「テーマが一曲か二曲あって、それを変形していくんだけど」
(27)
「 パターンをいろいろ変えて、一番いいところにパーンと入れるという。でもアニメーションて、もっと曲が必要なんだなあと思った」
(2)
「音楽的に表現していかないと、この映画はきっとうまくいかないだろうというのが、製作者の意向でした」
(25)
「音楽の助けがいるんだなあ、と思ったね」(2)
「『銀河鉄道の夜』は、言葉から映像や音楽に置き換えるのが難しい作品だと思った。直観的にとらえて作らないと、理論的にストーリーを見せられない。だから音楽は重要なファクターにならざるを得なかった」
(27)
「43曲もの楽曲をつくることになった時、はっきりいって私はいやだったので、だからはっきり『やだい』といったのです。」
(28)
「テーマになる1曲を作って、それを使い回しすればいいんじゃないかなと思っていたので戸惑った」(29)
「なるべくへらしてくれっていったんだけど」(2)
「しかしやはりアニメという性格上致しかたなく、私はかのディズニーの傑作『ファンタジア』という音楽映画を夢見て仕事に取りかかったのでした。」
(28)
「厳密に言えば映画音楽という気持ちはしていなかった。」(29)
「音楽映画に近いかなって想像してつくったんです」(25)
「曲をレコーディングしている頃アニメはまだ見ることができず、結局最後まで想像だけで音楽を考えていた」(28)
「出来上がったアニメーションの絵は一枚もなく、絵コンテだけで音楽を先に作らなければならなかった」(29)
「あまり考えても仕方ないので、これもほとんど即興に近いかたちで作曲した。」(29)
「画面を見ながら作っていくと、音楽がおおげさにならずにすむんです。音楽だけで想像して作っていくと、音楽だけで完結しちゃうんです」(25)
「画面見ながら、やったわけじゃないんで、ついそのー、自分の世界でやっちゃったんですよね(笑)」(18)
「やっている間は、こんなに楽しい仕事はないですね。原画のポラロイドを見ながら、想像をかき立ててつくっていったんで、すごく楽しかった」
(25)
「二ヵ月ですね」(25)
「結局四十三曲作りましたね」(2)
「当時はドヴォルザーク、スメタナとか、ボヘミア楽派の作曲家なんかも聴いてて、その影響は強いかもしれないな」(3)
「『銀河鉄道の夜』と『SFX』は無関係に見えると思うけれども、実は密接に関係があって、裏に流れているのはボヘミアだったりするんです」(30)
「『SFX』には出てこなかったんですけど、『銀河鉄道』はもろにボヘミアの感覚で満たされていたんです」
(30)
「それまでは僕、わりとゲルマン的な半音階進行がハリウッドに伝わっていたような音楽に慣れ親しんでいて、スラブ民族主義的な音楽をもとにしたクラシックというのは、慣れてなかったんですが、当時聴き出したら新鮮で、かなり深くのめり込んでいったんです」(30)
「例えばロシアの五人組とか、ゴルバチョフじゃなくて(笑)、チャイコフスキーの音楽なども楽しんで聴けるようになった」
(30)
「宮澤賢治が描いた世界も、聴いていた音楽も、どうもそういうものらしいと」(30)
「ボヘミアという土地がジプシーの通り道だった」(31)
「ジプシーというのは謎の存在なんですね。インドから各国に散らばって異文化をもたらしたんだけど、本当は彼らの存在自体が謎に包まれていて、エキゾ ティックな雰囲気というのかな、そういう気分を出せたらと思ったの。異文化をもたらしたと言われているジプシーが、どういう影響を与えていったかというの は面白くて、クラシックでいえば、例えばサラサーテとかね、ロシアの方ではボロディンとかリムスキー・コルサコフとか、そういう人が、いわゆる東洋的なも のにテーマを置いてたり、ジプシーのエキゾティシズムを表現していたりしていて」
(31)
「ボヘミアは異文化の交流の地点で、そういうところで生まれた音楽家もジプシー的な面を受け継いでいて、ドボルザー クにもそういう面があるわけ。で、ドボルザークがアメリカに渡って、アメリカン・インディアン文化に影響されて『新世界』という曲を作ったりした。そうい う異文化交流の面白さが、『銀河鉄道の夜』に出せればなあ、と思って。でも、より宮沢賢治の世界に引っ張られたようなところもあるんだけど」(31)
「わりとヨーロッパのこと考えて曲をつくったんですね」(25)
「『銀河鉄道』自体が、岩手や仏教から離れて、よりヨーロッパ的な装いをしてますし。アニメもスペインの村のような風景だし」(25)
「ところが、仕事やっている間に、もう一冊本を渡されたんです。『これ、読んだら』って、絵本なんですけど」(25)
「『銀河鉄道の夜』の。主人公のジョバンニは岩手の学生で、おもしろいぐらい暗い世界をつくっているんです」(25)
「わりと混乱しちゃったところはそこなんですよね」(25)
「心は仏教、表現はキリスト教というかたちをとったんだけど、その部分が受け入れてもらえなかった、というのが心残りでした」
(27)

1985/03 『キープル』No.7(自由国民社)発売。
インタビュー/妙にさめていないところが

1985/03/27 『銀河鉄道の夜』イメージ・ソング、ヴォーカリスト最終オーディションに出席。

1985/04/04 23:25 NHK総合『スタジオL/如月小春の見世物語り』放送。出演。
司会:如月小春

細野晴臣 細野晴臣(pf)
 銀河鉄道の夜

細野晴臣+如月小春 細野晴臣(syn)、如月小春(reading)、近藤達郎(perc, syn) 他
 即興演奏
※編注:当時制作中だったアニメーション映画『銀河鉄道の夜』のテーマ音楽を、珍しいピアノ・ソロで初披露。如月小春による『銀河鉄道の夜』朗読をフィーチャーした即興演奏では「プリオシン海岸」のフレーズが聴かれた。

1985/04/05 安野ともこ「ミステリユ/エンゼル来たる」発売。
ミステリユ:compose, arrangement, all instruments
エンゼル来たる:arrangement, all instruments
※編注:「ミステリユ」は、同年5月25日公開の映画『危険な女たち』(野村芳太郎監督)の主題歌。

1985/04/05 『キネマ旬報』4月下旬号(キネマ旬報社)発売。
インタビュー/撮影中にマブイがどこかに行ったりして

1985 「銀河鉄道の夜」イメージ・ソング制作のため松本隆と合宿。牧村憲一が同行。

「これ(編注:イメージ・ソング)はもう後から出てきた、言葉は悪いけど、取って付けたようなアイデアだったんですよね」(32)

松本隆の証言
「確 か、細野さんが六日町にある温泉で作りたいって言い出したんだ。はるばる電車で行って、旅館に泊まって、二人でお風呂に入ったりした(笑)。気持ち悪いと かいいながらね。相変わらず曲作らないで、細野さんは遊んでるだけ(笑)。僕はポータブルのワープロ持っていって、布団の上に腹這いになって詞を書いて た」(33)

1985/04/13 映画『パラダイスビュー』パンフレット発行。
インタビュー/イトーさんという植物学者の設定はすごく気にいってるんです 

1985/04/13 映画『パラダイスビュー』公開。
音楽、出演
「70ミリにして、もうちょっと短かくして、俯瞰で撮っていくともっとリアルになったと思うんです。やっぱり予算的な問題もあって16ミリなんですけど」(4)
「ぼくも演技してるんだけど、自分では最低だね。だめだなぁと思った。向いていない。俳優にはなれないね」
(34)

1985/04/15 『Rio』5月号(シンコー・ミュージック)発売。
対談/キュートでお洒落なニュー・ウェイヴはいかが? ミカド × 細野晴臣

1985/04/21 アーバン・ダンス『アーバン・ダンス』発売。
executive produce
 リメイキング・オブ・ノン・スタンダード・ミュージック:compose, electronics, voices
成田忍の証言
 
リメイキング・オブ・ノン・スタンダード・ミュージック
「細野さんのトラックを聴いて、単純に歌をつけてみたいなと思って。とにかくミーハーごころなんです(笑)。こういうのウケんじゃない?  みたいな」(11)
「新大久保のフリーダム・スタジオでした。細野さんはずっとMC-4を打っていました。忍耐のレコーディングです」
(11)

1985/04/21 キララとウララ『ダブル・ファンタジー』発売。
タキシード・ムーンで夕食を:compose, arrangement, instruments
タキシード・ムーンで夕食を
「(編注:「ノン・スタンダード・ミクスチュア」を)利用してるわ、思いっきり。全く同じサンプリング素材を使ってますね。同じように少女隊にも使っていますけど」
(32)

1985/04/24 アニメーション映画『銀河鉄道の夜』オーディション結果発表記者会見に出席。

※編注:本名でオーディションに勝ち残った、のちの「中原香織」が、完成間もないトラックにのせてイメージ・ソング「銀河鉄道の夜」を初披露した。

1985/04/24 日本生命/ロングラン CM曲のレコーディング。大久保/フリーダム・スタジオ。

「フリーダム・スタジオのアップライト・ピアノで30分の内に作曲された。」(35)
「CFはノルマンディーから中国に移り、カメラは坂田栄一郎が担当した。」
(35)
「この曲はCFの内容に影響されている。中国人の目の輝き或いは姿勢の正しさなどである。」(35)

※編注:「中国の人」のタイトルで『コインシデンタル・ミュージック』に収録。

1985/04/25 インスタレーション「自然に棲息する音」のためのレコーディング。

「5月にイタリアのジェノヴァ市で開催された『ジャパン・アヴァンギャルド・オブ・ザ・フューチャー』展の為に制作した」
(36)
「ミラノのデザイナー・チームであるアトリエ・アルキミアとのコラボレーションによる『自然に棲息する音』という公園に設置するインスタレーションを請け負った」(36)
「音楽を発注されました」
(37)
「ジェノヴァにある小高い山の上にインスタレーションを並べるからそこに音楽をつけてくれと依頼してきた」(38)
「作業は4月から始まり、まず日本から私の音楽のサンプルをアルキミアに送り、それをもとに彼らがデザインした、ま るで小動物の様な13体の造形物の写真を見ながら、そしてこの時期にレコーディングしていた『銀河鉄道の夜』を一日だけ中断して、つまり時間の厳しい制約 から即興的につくった、或いはつくらざるを得なかったものである。」
(36)
「造形物は13体あったので必然的に13曲をつくることになった。インスタレーションは公園の道に沿ってあちこちに設置されるため、人手がかからないようにしなければならず、電源を切らなければ一ヶ月くらい鳴り続けると思われるエンドレス・テープを使うことにした。」(36)
「だったらエンドレス・テープでずっと流しておけばいいのかと思って」(38)
「機械的というのは考えてなかったですね。音楽を組み合わせるオブジェが機械の動物のような昆虫のようなかわいらしいものだったんです。イタリア的なきれ いな彩色がほどこされていて、音楽もポップな気持で作ったんです。インダストリアル・ミュージックというと、僕には非常に暗い音楽に聴こえるんです。そう いう意味では、インダストリアルではない、イタリア的な陽気な音楽です」(30)

※編注:イタリアのアート・フェスティバル『日本 - 未来のアヴァンギャルド』の一環。展示は5月2日から、ジェノバのキヨソネ公園で行われた。細野晴臣が制作したサウンドは、のちにアルバム『エンドレス・トーキング』としてディスク化。

1985/05/02 インスタレーション「自然に棲息する音」の展示が始まる。ジェノバ/キヨッソーネ公園。

「ジェノヴァの公園(小高い山になっている)」
(36)
「会場が自然の中にある山みたいなところですから、登っていくうちにインスタレーションとして、変わった動物みたいなオブジェがいっぱい置いてあって。そこから流れてくる音楽を聴きながら登っていくっていうような作品だった」(38)
「オブジェの中に僕が作った音楽のエンドレステープを仕込み、小高い山に並べたんだ」(39)
「色々な場所から音が聴こえるんだよ」(11)
「3分間、そのまんま、あのー即興で作ったものを、流してたんです」
(37)

細川周平の証言
「1985年4-5月、ジェノバで開かれた『日本−未来のアヴァンギャルド』というフェス ティバルは、これまで残念ながらフランスやドイツほど文化交流のなかったイタリアにとって初めての、まとまった形での日本の現代アートの紹介となった。主 な参加者・出品者は、写真の細江英公、晋後均、グラフィックの空山基、美術の横尾忠則、大竹伸朗、ヴィデオの中島興、中山芙二子、山口勝弘、ホログラムの 石井勢津子、映画の大島渚、寺山修司、ドナルド・リチー、中島崇、モードの菱沼良樹、舞踏の大門四郎、室伏鴻、音楽パフォーマンスの鈴木昭男と和田淳子、 メロン」(36)
「細野晴臣とミラノのデザイン・スタジオ、アルキミアの共同作業によるサウンド・ガーデンの試みだけが、同フェス ティバルの企画・制作によるオリジナルだ。会場となったキヨソネ公園(これは明治初期の日本美術界に馴染み深いエドアルド・キヨソネに因む)は、市の中心 の丘の中腹にある自然公園で、上の展望台からは、地中海に臨む港だけでなく、晴れた日にはリヴィエラ海岸の彼方まで見渡せるパノラマを楽しむことができ る。大きな木が生い茂り、鳥やリスが生息するリラックスした空間、いわゆる『市民の憩いの場』といってよいだろう。幼稚園の子供等が連れられていたり、老 人がベンチでパイプを吸っていたり、若者の一群がはしゃいでいたり… 洞穴、滝、橋、池などヴァラエティーに富んだ地形のあちこちに、緑や赤や黒に塗り分けられたネオ未来主義風のロボットが据え付けられ、細野晴臣のエンドレ ス・テープが、その体内から鳴り響いてくるのだ。ロボットには、ちょっとした形のヒントや発案者の名をとってユーモラスな名がつけられている。エンドレ ス・テープ然り。」(36)
「遊歩者の何人が、音楽家やデザイナーの名を知っているだろうか。サウンド・ガーデンと知らずに、遊んでいる人間が 大半かも知れない。だが、歩くにつれて、いくつかの音が思いもよらぬ方向から聞こえて来ては、退いていく。別の音が、岩の角を曲ると急に現われ、ビックリ してしまうこともある。山からの風と海からの風では、当然、音のミックス具合は違って来る。夜、あたりが静まり返るとやっと聞こえてくるような音もあ る。」(36)
「漠然と考えてきた〈観光音楽〉の最初の野外ヴァージョンだという。ただの『環境音楽』でなく、聴く人の音への好奇心をもっとくすぐるような音楽、積極的に面白がらせるような音楽。」(36)

※編注:5月31日まで開催。

1985/05 インスタレーション「自然に棲息する音」体験のためイタリアを訪れる。

「一週間くらい滞在したのかな」(39)
「雨にたたられた」
(36)
「一人で山を登って様子をうかがいに行ったら、観客が誰もいなくてね…。代わりに、猫や犬が聴いていたので、それならまあいいかと(笑)」(39)
「だいたい人が少ないんで、聴いてるのが、猫とか、鳥とか、えーそういう人、人じゃないや(笑)、そういう動物が多かったんですけど、この、体験というのは結構、面白かったです」(37)
「猫が音楽を聴いているのを見て、これはいいなと。猫とか鳥が聴いていてくれてればいいやって思って。それで音楽は人が聴くものという前提から脱した感があるね。人が聴いてなくても自然が聴いてればいいやっていう」(38)
「インスタレーションには当局の不手際でアルキミアも私の名もクレジットされておらず、当初は不満であったものの、 誰もいない自然の中で鳥や猫を相手に話しかけるその小動物を見ていると、かえってこの匿名性こそ『自然に棲息する音』に無くてはならないものである事を感 じたのだった。そして私は思わず『おまえら良かったなあ、こんな遠い異国の自然の中で言いたい放だいやって
…』とつぶやいたものである。」(36)
「アルキミアも私も『アヴァンギャルド』という主旨に多少の異和感を持ちつ持たれつであったものの、このインスタレーションは概ね成功であったようだ。」(36)
「ぼくはあのー、環境音楽と言わずに、観光音楽と、当時イタリアに行って、宣伝しまくったんです。あのー、ま、コン ベンションみたいなことがあって、えーフォーラムですかね、そこで発言しなくちゃなんなかったんですが、Sight Seeing Musicと言っても、なんかピンと、来なかったみたいですね」(37)

※編注:当時の新聞報道によると、現地でテレビ、ラジオ等のインタビュー取材を複数受けた模様。

1985/05 大竹伸朗と知り合い、ディスコへ行く。イタリア/ジェノバ。

「イタリア行った時に初めてぼくは、お目にかかったんですよね」(40)
「一緒に大竹さんと、遊びに行って」
(40)

大竹伸朗の証言
「ほんといわゆるディスコっぽいところで」
(40)
「みんな、踊ってたんですよ、要するに。で細野さんがこう、ディスク・ジョッキーの、こう、台上に上がらされて、(編注:音源を)かけたわけですよね。そしたら一人去り二人去りで結局、踊ってるのが二人ぐらいになっちゃってね」(40)
「イタリアっつってもジェノバは田舎だからね、かなり」(40)
「ぼくのほうはね、かなり昔から」(40)
「高校生ぐらいから細野さんを」(40)

1985 NHK特集『大黄河』の音楽のコンペティションに参加。

鈴木惣一朗の証言
「NHKの『大黄河』っていうドキュメンタリー番組の、音楽のオーディションがあったの。テイチクからは細野さんとワールドスタンダードがプレゼンすることになって」(5)
「ボツだったわけだけど(笑)」
(5)

1985/05 アニメーション映画『銀河鉄道の夜』コーラスのレコーディング。越美晴・福沢もろ・Shi-Shonen・ワールドスタンダードが参加。銀座/音響ハウス。
主よ、みもとに近づかん〈賛美歌(プロテスタント)320番〉
鈴木惣一朗の証言
「1985年のおそらく5月で、場所は銀座の音響ハウス。エンジニアは田中信一さん。オケは完成 していて、タイタニック号が遭難情報を送信し、近くにいた潜水艦が受信したという無線ノイズの再現コラージュも出来ていた。メンバーは、『ノンスタンダー ド』レーベルのシ・ショーネンとワールドスタンダードと越美晴さん。そして、福沢もろさん。細野さんはブースに来ないで、コントロール・ルームに静かにい た記憶がある。」(3)
「歌う言語がエスペラント語という全員が初めて接するものだったため、日本エスペラント学会の方(河元寛視さん)が来て指導してくれた。スタジオでは全員で丸くなってマイクを囲み歌うセッティングだった。」
(3)
「録音ブースの灯りは暗く落とされ、マイクのもとだけ灯りが照らされ、それは細野さんの演出だったように感じる。事前に賛美歌の譜面は渡されていたが、リ ハもなく、いきなりの録音だった。細野さんが作ったタイタニック号の無線ノイズがヘッドフォンから聴こえ、みんなでびっくりしたのを思い出す。ぼくはまだ デビュー前でレコーディングそのものに慣れていなかったため、その時点で、少し先輩の音楽家であった戸田くんとミハルちゃんがコーラスの入れ方などを指導 してくれた。主旋律を先に何度か歌い、ハモリ・パートをその上にダビングしていく。」

「細野さんはこのコーラスを気に入ってくれて、同年、6月に国立競技場で行われたイベント『オール・トゥゲザー・ナウ』のステージで行われたはっぴいえんど再結成による『さよならアメリカ、さよならニッポン』のバックコーラスも務めることになる。」
(3)

1985/05/21 Shi-Shonen『シンギング・サーキット』発売。
executive produce
 ラヴリー・シンギング・サーキット:MC-4, bass, chorus
 L.S.I.C.:MC-4, bass, chorus
「ビーチボーイズやヴァンダイク流の歓喜に満ちあふれた作品を、テクノポップに表現しています。」(15)
「ヴァン・ダイク・パークスからかなり、えーいい影響を受けてるな、と思いますね。あとビーチ・ボーイズとか。えーまぁいわゆる、ほんとにそのー昔、ぼくたちが聴いてた音楽をもう一度彼らが、取り組んでるわけです」
(18)

戸田誠司の証言
「『L.S.C.』と『L.S.I.C.』に細野さん入ってるんですけど、『もう弾けないよ、戸田くん』って血まめをみせた時の細野さんの顔が一生忘れられないんですね」
(41)
「MC-4を持って現れたんで、『細野さん、タブラの音がいいなぁ』と言ったら『ぼくがタブラを打ち込むよ』と言ってもらえたんだけど‥
‥相当にお疲れで、作業がゆっくりで(笑)。『細野さん! ぼくが代わりに打ちます』と提案したら『みんなでやる打ち込みって楽しいね』と言ってくれました(笑)」(11)

渡辺等の証言
「細野さんの血染めのベースを聴いてくれっていう…
…」(41)

※編注:シングル「ラヴリー・シンギング・サーキット/バイ・バイ・ヤッピー」同時発売。シングル・バージョンの「ラヴリー・シンギング・サーキット」はイントロのオーバーチュアがない分、収録時間が短い。

1985/05 ワールドスタンダードのアルバムのミックスに立ち会う。銀座/音響ハウス。

鈴木惣一朗の証言
「5月の末」(11)
「一週間かけてミックス・ダウン」
(5)
「寺田(編注:康彦)さんにミックスしてもらった」(5)
「プロデューサー細野さんはそのミックスの時に登場」(5)
「細野さんは出来あがったばかりの『銀河鉄道の夜』のテープを持ってやって来た。そして、小脇にはニーチェの文庫本(『この人を見よ』)があった。余談だが、ワールドスタンダードのレコーディング立会い時、細野さんはいつもなぜか素足だった。」(3)
「毎日、スタジオに裸足に短パンでやって来る」(3)
「スタジオに来たら(靴を脱いで)裸足になってた」(3)
「そして、持参したニーチェの本をずっと読んでいた。」(3)
「『出来上がったばかりなの、聴く?』と言って細野さんは、大音量のラージ・スピーカーで聴かせてくれた。」(3)
「素晴らしかった」(5)
「すごい機嫌が良かったから。声も大きくて『聴いてよー!』みたいな感じ」(3)
「『たくさん作ったから、2枚組になっちゃうと思うよ』と言っていた。細野さんは、確かにぼくにそう言った。すごくうれしそうだった。」(3)
「『これ2枚組になるかもしれないんだよ、すごいノッてるんだよ』ってニコニコしてたなぁ」(5)
「ぼくは…ブッ飛んじゃったっていうか、『銀河鉄道の夜』で落ち込んじゃった」(3)
「そのとき、自分が作ってる慎ましやかな音楽に比べると、ものすごいダイナミクスで」(3)

1985/05/25 V.A.『YEN卒業記念アルバム』発売。
supervise
 又会う日まで -God Be with You Till We Meet Again(讃美歌405番)-:arrangement, instruments, vocal, voice
 Platonic Stochastic 騒音譚詩:marimba, bass
「YENレーベルが終わること自体が、みんなにはちょっと不本意だった」(11)
「YENにしてもひとつのグループだったし、解散という感じではあるけどね。続けられない理由ってのは必ずあるわけですよ」
(10)
「ムリにやってもしょうがないし。必然性ギリギリのところでやってきたからね。世の中で、ああいった音楽の要求され度合っていうのはそれほど高くなかった し、そういった部分でもレコード会社との葛藤がすごかった。そのスレスレ、ギリギリのところでやってたから、緊張の度合がものすごく高くてね。まあ、よく やったほうだとは思うけど。けっして損したということはないわけ、ぼくたちも、レコード会社も」
(10)

1985 鈴木惣一朗と小西康陽の初対面に立ち会う。代官山/ラ・ボエム。

「ある意味で好対照でしたね。好対照だけど2つのグループが出会ったときはおもしろかったな。小 西クンと鈴木クンで"お前、これ知ってるか?"シリーズが始まっちゃったんですよ。昔ね、たとえばボクとユキヒロとか、ユキヒロと教授とかの出会いがそう だったけど、さぐり合いから始まって、"あ、コイツはデキル!"と思うとお互い尊敬しあって、刺激ができて…。それでね、そういう人って多いとは思ってい なかったけど、目の前でそんな光景が展開されるとね、うれしくなって…」(42)
「ボクはもう、こちら(ノンスタンダード)から呼んで、アーティストが来てくれたら、それでいいんですね。そういうキッ カケだけで…」(42)
「もう僕の役目はほとんど終ってますから。レーベルを作るにはやはり看板がいるし、そのためのものだったと感じてますけど」(17)
「あとは、それぞれが好きにやってくれればいいんです。特別、音楽にボクの考えを入れたいとか、全然思ってないのね。だいたい、ボク自身、プ ロデュースはずっと自分たちでやってきましたから、彼らも自分たち自身でやっていくべきだと思うんです」(42)
「ボク自身、彼らとはすごく似てるものを感じるしね、好きだから、レコーディングのときもあまり口をはさまないんです」(42)
「彼ら自身が何をやりたいかということがいちばん大事だし、自分たちでどういう音楽を作ってくるかっていうこともすごい大事なんで。割と手を加えないというか、手あかに汚れた手を加えたくない(笑)ってことなんですよ」(17)
「だって、最初に出会ったときから、彼らが自分勝手に創ったものをボクが聴いて、いいと思ったんだから、ホントに好き勝手やってもらったほうがいいんですよ」(42)

鈴木惣一朗の証言
「細野さんに、紹介されたと言ってもいいんですけど」
(23)
「細野さんを交えて、代官山のカフェ『ラ・ボエム』で初めて小西くんと話した。」(22)
「ニコニコ笑って『はっぴいえんどのときを思い出すよ、ふたりを見ていると…』などと言ってくれたっけ。」(22)
「会ってみたら、まぁびっくりしたわけですよ、お互いに(笑)」(23)
「詳しいなあと(笑)」(23)
「彼もぼくのことを間接的に聞いていて、ぼくたちは、もの凄い勢いでポップス の話をバトルした。いわゆる『これ、知ってる? あれって誰それのアレンジだよね』的な学生のようなバトルだ。」(22)
「あれは戦いだね」
(23)
「確認作業だね」(23)
「でずっとレコードの話してましたけどね、会うたびに」(23)

1985/06 細野晴臣・中沢新一『観光』(角川書店)発売。

※編注:『小説王』での連載対談「ストレンジ・スター・クラブ」を大幅に加筆し単行本化。第七章「番外」は単行本のための語り下ろし。

1985/06 はっぴいえんど、『国際青年年記念 オール・トゥゲザー・ナウ』リハーサル。有楽町/ニッポン放送。

「リハーサルはねえ、松本隆のためにいっぱいやりましたよ(笑)。もちろん10年振りに叩くんだから最初は自信ないのが当然なんだけど、練習続けてるうちに最後はドラマーになってましたよ。叩く楽しさを取り戻しちゃって」(8)
「どうしてくれるんだ、こんな体にしてって言ってましたよ(笑)」(8)
「コンピューターのベーシックなアレンジは、ぼくがやったんですけどね」
(9)
「どうしようかと思って。ぼくはYMOをやったあとで、すぐにはっぴいえんどには戻れなかった。はっぴいえんどをやる必然性もなかったしね」(12)
「ちょっと唐突な再結成だった」(43)
「リハーサルのとき、みんな夜に弱いらしくて、寝ちゃってるから、しようがなしにぼくがやった(笑)」(9)
「話し合いなんてものはなかったね」(44)
「話し合う必要がなかったんです」(44)

松本隆の証言
「再結成することが決まってからあわててスティック買いにいったし」
(45)
「で、思わずC-C-Bのリュウに、スティックって今何がいちばんいいんだ? とか聞いたりして(笑)」(45)
「細野さんはまだYMOを引きずってたから、はっぴいえんどをやるにしても電子音楽風になっちゃう。一方の大滝さんはアコースティック・ギターの人をスタ ジオに何人も呼んでいて、ウォール・オブ・サウンドをやりたかったみたい。それでぼくと茂があいだに挟まれて、最終的に細野さんに投票したんです。大滝さ んには悪かったけど」
(12)

大瀧詠一の証言
「1週間以上の、練習に次ぐ練習。練習に明け暮れた」
(46)
「はっぴいえんどを始めた68〜69年頃には、いわゆる練習曲っていうのがあったんですよ。コピーをやってたんです。バッファロー・スプリングフィールドというグループの曲とかね」
(15)
「ニッポン放送のスタジオに再び集まったときに、当時の練習曲から始めた。そのへんが芸の細かいところだね」(15)
「どれくらい(曲を)覚えているんだろうと思ってやってみたけど、あんまり覚えてなかった。でもみんな変わってなかったね。ギターの持ち方とか。格好が変 わんないんだよ。それで、しばらくやってたら細野さんが『クックックックッ』て笑い出しちゃってね。『オレたちはこんなにヘタだったっけ』って」
(15)
「まず、数あるレパートリーの中から何をやろうかっていうのが重要だったんです。最初にみんなで集まったときに、細 野さんが『"さよならアメリカ、さよならニッポン"をやろう』っていってね。それでまとまっちゃったんです。あの曲って、ライブでやったことがない曲だか らね。アレンジし直してライブでやったらどうなるんだろうってことで。最初はあの1曲だけを10何分やろうかとも思ったけど、それじゃ見てる人もたいへん だから、他の3曲をイントロダクションとしてメドレーでくっつけた」(15)
「衣裳はねぇ、相当意見の確執があったね。もしこの再結成がダメになるとしたら、衣裳の問題でダメになるんじゃないかって思ったくらい。とくに細野さんと 松本はウルサい。自分で絵を描いてまでデザインを考えるのが細野さん。でき上がったものに対して『オレはイヤだ』って文句いうのが松本。でも、うれしいも のですよ、ユニフォームができてくるのはね」
(15)

鈴木惣一朗の証言

「はっぴいえんどはニッポン放送でリハーサルをしていたんだけど、ワールドスタンダードもそのリハーサルには何度 か参加した」
(5)
「『観光』という本が出るんです。それを『ふむ…ふむ』なんて自宅で読んでいたら」(11)
「『はっぴいえんどが再結成するから「ノンスタンダード」の音楽家は、ニッポン放送のリハーサル・ルームに集合!』と電話がかかってくるわけです」
(11)
「偶然、はっぴいえんどが『風をあつめて』を演ってるところに行ったら、当時、細野さんのマネージャーだった和田博巳氏になぜか、『鈴木くん、 ちょっと歌って』って言われて…とても歌えませんでした(笑)」(5)

1985/06/13 『キープル』の原稿を脱稿。

※編注:No.8(6月下旬発売)に掲載。

1985/06/15 16:00 はっぴいえんど、『国際青年年記念 オール・トゥゲザー・ナウ』出演。代々木/国立競技場。
出演:吉田拓郎、オフコース、アルフィー、アン・ルイス、ラッツ&スター、山下久美子、白井貴子、武田鉄矢、南こうせつ、イルカ、さだまさし、
   チューリップ、つのだ☆ひろ、ブレッド&バター、チェッカーズ、サディスティック・ユーミン・バンド、佐野元春 with THE HEARTLAND、サザンオールスターズ

はっぴいえんど
  大滝詠一(g, vo, cho)、
細野晴臣(b, vo)、鈴木茂(g, vo, cho)、松本隆(ds)、まり(kbd, cho)、Shi-Shonen(cho)*、ピチカート・ファイヴ(cho)*、ワールドスタンダード(cho)*、越美晴(cho)*
 12月の雨の日
 風をあつめて
 花いちもんめ
 さよならアメリカ、さよならニッポン *
「私達は国立競技場で十二年ぶりに再会しました。」(13)
「満員、闇のオリンピックでした(笑)」
(25)
「僕は雨が降ればいいなと思ったのね。何か降ったら気持ち良さそうだと思ってさ」(13)
「台風がくると思ってたわけ」
(13)
「いろいろ考えるんだけど、やっぱりあのコンサートには台風が必要だという気がしたわけ」(13)
「前の日にユーミンが水をかぶってミソギをしてるっていう話があるんだ(笑)」(13)
「本人が言ってたの。そういうことって台風がくることと似つかわしいじゃない」(13)
「あのコンサートというか、結果の種には天地の助けがいるんだと思う。台風が来たらもっと助かったと思うんだけど」(13)
「昔の楽曲をやるってのが一番辛かったね。気持ちが暗くなって」(8)
「昔のまんまを再現するってことは考えられなかった」(8)
「古いことを再現するのができないんです」(9)
「練習したって下手だし(笑)」(8)
「もちろんはっぴいえんどは練習すれば上手いんですけどね(笑)」(8)
「ライブとテクノのぎりぎりのラインを試してみたかったんです」(9)
「サイボーグみたいだったでしょ」(9)
「テクノロジーというと、かたくなに拒否しちゃう音楽家も多いんですよ。逆にテクノに没頭してナマをきらっちゃう人もいる。でも、両方が分離不可能な状態で存在してるのがいちばんおもしろい。サイボーグみたいな音楽ですね」(9)
「はっきり言って自信がありましたね、やる前から。メッセージというのは『はっぴいえんど』を同時体験している人たちに一番聞いてほしかったですね。それが一番伝わりやすいし、何か興奮してくれるんじゃないかと思ってたんです」(47)
「やるからには新しいことをやりたい。でないと、わざわざ集まってやる意味がないですからね」
(9)
「私達は六万五千人の観客達に対して、一切のサービスをしませんでした。」(13)
「人のこと考えなかった」
(13)
「照明も演出も最低限におさえました。そういった虚飾に頼らずに、音楽の中に内在する四人の情熱を聞きとってほしかったからです。」(13)
「当時(編注:1970年代の活動期)はそれが当たり前のことだから当たり前にやってただけなんだけど、それを再現してみると、なんと今の風潮と違和感が あることか。ボク自身、なんで私はこんなにぶっきらぼうなのかと思ってしまった。ボクら4人とも、仕事の上ではすごいサービス精神があるんですよ。大瀧氏 なんか計算されつくしたサービス精神があるんだけど
…」(7)
「4人集まったら、また昔の状態と同じように周りの状況から孤立する感じになった。メンバー一人一人は、歌謡曲の仕 事なんかもしてるし、社交的だし、レコードのいっぱい売れるビッグ・アーチストなのに、4人が集まると全く売れない新人バンドの雰囲気になるから不思議な んですよね(笑)。みんな根に過激な部分を持ってるんでしょうね」(9)
「でも、ボブ・ディランが初来日したとき、あまりサービスされすぎて肩すかしを食わされたような気分になったでしょう。突き放される快感、そういうタイプのステージがあってもいいよね。これは、見るほうが望むべきことなんだろうけど…」(7)
「いろいろ言ってたね。話しながら行こうよとか(笑)」(13)
「茂が一番最初に(編注:ステージに)入った」(13)
「なかなか感慨深いものがありまして、えー、そうなんですよ、興奮しましたね。えーあの、大観衆。これは、やっぱ りあのー初めて、ああいうとこに出た松本くん、ならずとも、僕も、ちょっと、びっくりしますねやっぱり。気持ち良さに。何しろ、出ちゃうと気持ち良かった からもう、ほんとにあのーバンザイしたくらいですから。ええ」(46)
「歌を歌ったことより、ベースを弾いたことのほうが気持ちよかった」(9)
「ほかの連中も非常に気持ちよさそうだった」(9)
「場所も場所だから、やってる側から見てもいい景色だった。ぼくら、せいぜい広くて武道館でしょ。あれさえ小さく思える感覚だから」(45)
「松本がなかなか良かったな。これはあのー、前代未聞ですよ。12年ぶりで、叩いて。やっぱり 自転車と同じですね、ドラムも」(46)
「ドラムに目覚めちゃって、ミュージシャンの生理的な快感を取りもどしてうれしそうだった。詞が変わっちゃうかもしれない、なんて言ってましたよ」
(9)
「あと松本も良かったけど、大瀧のその、『はっぴいえんどです』。このひと言がやっぱり演ってて、『おっ! 言った言った』っていう感じですよ。まあ、はっぴいえんどらしいですけど」(46)
「あとで聞いたら失神者が出たんだってね、客席で」(45)
「何事かと思った」
(45)
「隣のステージが加藤和彦のミカバンド(編注:サディスティック・ユーミン・バンド)で、そこに坂本龍一と高橋幸宏が参加してまして。昔のように、遠い存在だった」
(25)
「(編注:YMOの)解散後は、ほとんど会ってなかったですね」(25)
「お互いに意識し合ってね。何か不思議な気持ちだった」(25)
「離れちゃうと、お互いが幻想しちゃうんですよね。過小評価しちゃったり、逆に過大評価しちゃったり。実際に会うと、全然変わってないのにね」(25)
佐野くんとサザンが最後にやったでしょ。彼らはトリを務める立場上、盛り上げて終わらせなきゃならないわけです。若い人たちがトリを務めてくれてるから、ぼくらは安心して新しいことができきる。順序が逆だったら、ぼくらもああいうふうにはできなかったでしょうね」(9)
「あのイベントは、かなりノスタルジックな雰囲気で始まったんですよ。いろんな新しい音も出尽くしちゃって、すべて過去のリピートでやってるし。あとバンドエイドっていうチャリティーのスタイルが海外ではやっていて、それでやってみようかとか」(25)
「最初はそういう意気込みだったらしいんですけど。でも、日本の音楽業界は孤立してて、仲間に入れてもらえないんですよね、なかなか。だから、ちょっと寂しいけど、どうせやるんなら遊んじゃえって」(25)
「実は、はっぴいえんどが暗く出ていって、お葬式みたいなイベントにできたらいいなといういたずら心があった(笑)」(9)
「その中で自分たちに何ができるのか、いっしょに死ぬのか、笑っちゃうのか
…。ぼくたちのことだから普通じゃないという自負心はあった(笑)」(9)
「エンターテインメントで、棺から出てくるとか
…。予算の関係もあって、棺桶は実現しませんでしたが」(9)
「もしも私達がジャーナリズムが貼ったレッテルのように『伝説』、『神話』、『元祖』であるのなら、自分達の手でひとつの時代に幕を引きたい気がします。その意味で国立競技場の『はっぴいえんど』は十二年にわたる時の流れに打つ偉大なピリオドでした。」(13)
「い わゆる、ニューミュージック、という、音楽が、まぁぼくたちが、はっぴいえんどというグループをやってからまぁ12年ぐらいかかって、えーかなり成長して きて、それが、あー、結局まぁ、煮詰まっちゃったって言うと、悪いけど、もうなんて言うのかな、完成しちゃったんですね。そこで、なんかお祭り騒ぎをやろ うじゃないかという、そんな感じの、おーお祭り騒ぎの中に、はっぴいえんどというグループが、出てきたんで、えー知ってる人たちはちょっと、気になったん ですね」(18)
「ニューミュージックの総括
…というよりも、ぼくたちはもっとダイレクトに、ニューミュージックの葬式と。そういうイメージをもって出ていった。そういう場に入っていくという儀式をね、ぼくたちはすごいコンセプトとして持ってたわけ。それ以外にはなんの興味もなかった」(10)
「過去の振り返りというニュアンスが強かったけど、実をいうと、あれはニューミュージックという世界のお葬式だったんですよね。恐らく、だれも気がつかないでやっちゃっているんだけど」(25)
あ る種、消費をどんどん重ねていて、ものすごい勢いでいったん消費しつくしちゃうといったようなピーク。それがきてたんだよね。ぼくたちも、ユーミンでさえ も含めて。同時進行的に起こっていた。でまあ、それが今回、ある形になったってことだから、もうすでに終わったってことでしょ。そういう意味では、たとえ ば第2のスタートとかね、いい解釈をすることもできるけど(10)
「言葉の音楽の世代(フォーク)の無力さを、みている人は感じたと思うんです」(9)
「気がつかないで、一つピリオドを打つという行為だったと思うんです」(25)
「と同時に、学習の時が終わり、これから本当に新しいオリジナル音楽が生まれなければいけない、という『はじまり』でもあったわけです。」(13)
「ですから、あの日以降は、古いことはやっちゃいけないような気持ちなんです。新しいことしかやっちゃいけないって、僕は思ってるんですけど」(25)

さよならアメリカ、さよならニッポン
「出演が決まった時、私達は全員一致で『さよならアメリカ、さよならニッポン』をパフォーマンスすることに決めました。メッセージ不在の時代に送る、『はっぴいえんど』からの十二年目のメッセージ・ソングだったのです。」
(13)
「あの歌が歌いたくて出てきたようなもんだし、もう最初からみんな、あれしかないって分かってたね」
(8)
「自分達にとっては"2001年"(編注:映画『2001年宇宙の旅』)みたいな曲なのね。10年経っても色褪せないというか」(8)
「(編注:観客が)もし歌ったら歌ったでこれまた変なことになるし(笑)。みんな勘違いがすごいから。勘違いのまま"さよならアメリカ、さよならニッポン"歌わせちゃったらおもしろいな、とも思ったし」(8)
「実際どっちでもよかったの」(8)
「白けることこそはっぴいえんどの良さだというかね」(8)
「『はっぴいえんど』の後に立った連中というのはみんな十二歳ぐらい年下なんですね、ちょうど」(47)
「十二年というサイクルがぼくにとっては非常に不思議で、恐らくこれは日本だけで起こることなんじゃないかと思うんだけれども、十二年一回りという感覚が非常に強かったです」
(47)
「ひ とまわりぐらい違うわけ。ひとまわりというのは、なんだか隔世遺伝するようで、はっぴいえんどと似ているような人たちを探そうとするとそのぐらいの年齢の 人たちばかりで。はっぴいえんどが好きで、はっぴいえんどのステージに出て何かを感じてくれそうな人たちを探したら、他にいなかった。たまたまそういう人 たちがNON STANDARDに集まっているということなの」
(31)
「Shi-Shonen、ワールドスタンダード、ピチカート・ファイヴ、そして越美晴という"ノンスタ勢"のコドモオトナたち」(15)
「バックコーラスをつけてくれた」
(15)
「10人以上ですね」(18)
「みんな僕たちが聞いていたレコードを自主的に見つけ出して聞いている」
(48)
「ボクたちが好きだった音楽をもう1回たどっていっちゃった」(31)
「例えば彼らがヴァン・ダイク・パークスとか、あるいはマーティン・デニーといったような埋もれたレコー ドを引っ張り出してくるのはそんなにびっくりしないんだけど」(47)
「『アッそうか、ボクらもそういうのが好きだったんだ』ということを、彼らが思い出させてくれたというか…。変な話だけど」(31)
「さらにそれにまつわる僕たちの知らないものもコレクションしている。しかも同時に新しいものと古いものと、中くらいに古いものと、立体的に全部出そろってるんです。これはもう 何か驚異的でした。太刀打ちできないですからね。昔、ぼくと大滝との音楽談義みたいなのがあったわけですね、日々の生活のなかに。それのさらに濃密な、時代を超えた十二年間の濃縮した音の歴史のやりとりが彼らの間にあるわけです。これはもう彼らに任してもいいんじゃないかと思ったんです、そのとき」(47)
「一緒にステージに上がった、ちょうど12年くらい下の世代が同じようなこと考えてるってのは面白かったな。縁があるというか。ふーん、12年か…と思ったね、つくづく」(45)
「本当は『children』というよりも、もっと別の言い方ができればよかったんだ。12年単位のそういうめぐりあわせ、みたいな」(45)

大滝詠一の証言
「2回目のオマケ」
(49)
「めいっぱい失敗に終わるんじゃないかというのと、いや絶対に成功する、という2つの自信があった」
(15)
「面白かったね」(13)
「とりあえずこの四人で何かできればいいっていう、そのことが大事なんだ。もう、イベントがどうということはあまり考えなかったね。だから『はっぴいえんど』だけじゃないコンサートに、『はっぴいえんど』だけのコンサートをやった」(13)
「ボ クだけギリギリまで(編注:楽屋に)入らなかったんですよ。会場の近くのヘアサロンに行っててね。それで『おっ、みんないるねェ』とかいって入っていっ て…。雰囲気は昔と違ってたね。昔はさ、音楽の話とかはしなかったんだよね。最近見た映画がどうの、とかね。練習なんかしないの。それでステージに出てっ てさ、ジャーンって始めると、『アレッ、何か変だな!?』。細野さんが"G"でやってるのに、オレが"A"でやったり。もっと面白いのはさ、誰かが『今度 こんな曲を作ったよ』といって、口でパッとかポッとか説明すると、『よし、やろう!!』でステージに出てっちゃうの(笑)。そんなのしょっちゅう。でも今 回は、コーラスもちゃんと練習してから出ていったんだ。出る直前はラグビーの(編注:新日鉄)釜石みたいに『いくぞっ!! オー』って(笑)」(15)
「演 奏を始める前に、えーひと言、おーバンドの名前ですけども、おー『はっぴいえんどです』ということだけを言おうと、いう風に何ヶ月間もずっと考えていて。 でー練習をやってる時にはひと言も、一度もやったことがなくて、でこれは本番のためだけにとっておこうという。でそれはまあ、何ゆえそう言ったかという と、んー以前のバンドも、その『はっぴいえんどです』という、グループ名を言うこと以外には、ステージではそのー、言葉を発しなかったという。で演奏する だけだったという。でそこーにとにかくあのー僕は、歌よりも何よりも、その『はっぴいえんどです』という、ひと言に、えー命をかけて、それで、えー数ヶ月 間、えー準備をしたと。ということがやっぱり一番、印象に残っております」(46)
「俺たちがステージに出てって、歌い始めたでしょ。そしたら正面に座ってた客がみんな立ち上がってさ、右側のほう見てるわけ。俺がもう歌いだしてんのに。誰も俺のほう見てないの」(45)
「チェッカーズかなんかが客席に現われてさ、みんなそっち見てんだろうとか思ったんだ。やっぱ人気あるやつはいいなー、と(笑)。とっころが…」(45)
「失神者が出たんだって」(45)
「男だったってさ。男のコ2人」(45)
「緊張して茂なんか十二年ぶりの演奏っていうのを十五年ぶりって言ってしまった」
(13)
「本当に気持ち良かった。ああいう形だったらライブをやってもいいなって思いましたよ」
(15)
「やっぱり、責任が4分の1っていうのは気楽だよね。とくにライブはね」(15)
「でもね、バンドって、要するにさ、人間が集まることで"偶然"をいっぱい起こすってことだよね。偶然がいっぱい起きるってことが、バンドとしての"必然"を生むんだから。それがさ、こいつとこいつを集めたから…みたいなモンキーズ的な発想じゃつまらないでしょ」(15)
「自分たちでもやっててうまくいったと思ったからさ、楽屋に戻ってから"バンザ〜イ"ってやったの。そしたら、ふだ んはクールな細野さんまで"バンザ〜イ"ってやるんだよ、これが(笑)。あれはおかしかったね(笑)。でも、みんな心配してくれてたみたい。教授や幸宏な んかも終わったあとにいってたけど…。こんだけ周囲に心配かけるバンドも珍しい」(15)
「ボクはあの服を、記念に取っておこうと思って買ったんですよ。マネキン人形に着せて飾っておこうと思ってね。ユニフォームは買った人と買わなかった人がいたみたいだね」
(15)
 さよならアメリカ、さよならニッポン
「はっぴいえんどにとって最後の曲だけど、タイトルを繰り返すだけの曲でしょ。最初に聴いた人はさ、『あれしか歌詞がないの』って思うだろうね。でも、も ともと"葬式"の歌だから、お経みたいに聞こえてもいいんじゃないか。だいたい"はっぴいえんど"にあるのは終わりだけなんだからさ」
(15)
「どうせ1回死んだものだもん。おばけだから、俺たちは(笑)。存在しないもん。だいたい存在しえなかったといってもいいくらいのものだから」
(10)

松本隆の証言
「12 年ぶりに、スティックを握って、叩いたんですけれども」(46)
「頭が空白になって、何が何だか、わかりませんでした」
(46)
「ロビンソン・クルーソーが急にニューヨークに現われちゃったような感じ(笑)。ずっと人前に顔出さないようにしてたから、まさに極端から極端でしょ。すごい面白かった」(45)
「演奏に入る前」
(45)
「音を出すわけです、みんな、チューニングのカッコとかしてね。それで、僕もあのースネアからね、タ ントントントンってやったんですよね。そしたら、それがね、えー客席に跳ね返ってくると言うよりもね、あの正面にね、新宿の超高層ビルが見えるんですよ。 でそれに跳ね返ってくるような感じがしてね(笑)」(46)
「ダン!って叩くとすごい深いエコーが…」(45)
「昔から摩天楼とか、そういう言葉が好きでして、でーこれは、うん、すごく松本隆風だなとか思って ね、それがまずね、その瞬間に、快感がね、あのー背骨に、ズキーンと電気のように走りましたね。そうすっと、あとはね、ミュージシャンになっちゃうんです よね。もうその瞬間というのは作詞家を廃業して、えー頭の先からつま先まで、完璧にミュージシャンで」
(46)
「最初ね、大滝さんから『ちょっと遊びでドラム叩いてみない』って誘われたときには、よし、じゃ1回遊んでみるかって感じだったけど」(45)
「『なんちゃってはっぴいえんど』」(43)
「国立競技場のまんなかでさ、ドラム叩いてると、なんか遊びにしてはちょっと大仕掛けだな、と(笑)」
(45)
「なんだか気恥ずかしくてお茶を濁した感じになったんだ」(43)
「まあ、ジェットコースターに乗ったようなもんでさ」(13)
「とりあえず僕が小節数まちがえるとさ、終んなくなっちゃうんでそればっかり気にしてたよ」(13)
「まるでベルトコンベヤーに乗せられたように音楽が生産されて消費されてる時代でしょ」
(45)
「はい、今年の新人です、曲は誰に頼もうか、詞は誰に頼もうか、CMもとれましたという…。 ぼくらも個人個人に立ちかえれば、そういったシステムにのみこまれて仕事しなきゃならなかったりするんだけど。でも、せめて4人そろったときはそういう状 況に対してアンチでいたい。それができるのははっぴいえんどだけだろうと思うしね」(45)
「ボクら、普段は個人ではサービス業してるんですけど、4人集まると何となく当時の感じになっちゃってね」(7)
「今回のはっぴいえんどはCMなんかもちろんつかないし、あの晩だけのこ とでしょ。あの晩やったという事実だけ。音楽不在のこの時代に、まず音楽があるべきだというアンチを投げかけたという」(45)
 さよならアメリカ、さよならニッポン
「新しい世代が育ってきたみたいな感じで、面白かったけどね」
(45)

鈴木茂の証言
「6万人、7万人だか、はっきりした数字はわかんないですけども、んー闘牛場っていうのはこういうんだろうなっていう(笑)、自分が闘牛場の、牛になったよう な気持ちでしたね」(46)
「一歩めは足がふるえたね」(13)
「一歩だけだよね。あとはどうにでもなれと」(13)
「思ったよりうまく行ったのに、自分で驚いて、います」(46)
「少ない人数でやると、1人がまちがえちゃうと終わっちゃうんですよね。そういう緊張感がある。それがまた楽しみでもあるんだけど、ぼくなんかはそれをまた味わえたのがうれしかったな。と同時に、この4人でやると、やっぱり安心できるし」(45)
「やっぱり7万人6万人の人間の、ヴァイブレーションっていうか、力っていうのは感じて、集中力っていうのに変わったの かな、それが。非常に、いい思いをしました」(46)
「あの競技場でしか出せないエコーってのもあったんだよね」(45)
「聞いたことのないエコー。デジタルの機械でも出せないような。あれには感激したなあ。スケールでかくて」(45)
「(編注:失神者は)大滝さんの『はっぴいえんどです』ってひとことでイっちゃったみたいよ」(45)
「楽屋に帰っていきなり、えーしたことっていうのは、全員で、バンザイかなんかしたのかな?(笑)えーかなり、えーいい気持ちで、楽屋に戻ることができました」
(46)
「ただ、この再結成に関しては、自分たちの中から自然に湧き上がったものではなかったし、やってみても昔と同じようにはなれなかったね。もう、四人ともそれぞれのポジションがあったのも大きな理由。みんな、なんとなくあの再結成には違和感を感じていたと思うよ」
(16)
「その証拠に、『もう一度やろう』とは誰も言わなかったからね。ただ、商業的な打算がなかったという点では、いかにもはっぴいえんどらしかった。音楽がビ ジネスになった八〇年代において、純粋に音楽ありきで集まったというか、お祭りのようなノリで集まったのが七〇年代っぽくて良かったんじゃないかな」
(16)

鈴木惣一朗の証言
「この物凄いコンサートに出たことは、ぼくには感慨が深かったね。何で細野さんがぼくたちを呼んでくれたのかってことを考えた」
(5)
「次世代へのバトンタッチみたいな気持ちを細野さんはぼくたちに持ってくれたのかなぁ、それに自分は選ばれたのだろうか
、と。…別に選ばれなかったんですけど(笑)ぼくの思いは最高潮に達してたね」(5)

※編注:この公園の模様は同年6月29〜7月7日にかけ、全国民間放送ラジオ64社特別番組として2時間枠で放送。はっぴいえんどが演奏した4曲は『THE HAPPY END』としてディスク化された。

1985/06 細野晴臣・羽仁未央・遠藤賢司『ネコの日』(八曜社)発売。
写真/細野晴臣のCAT-ALOG
エッセイ/けものみちストーリー
鼎談/地球の上を猫さまが行く 細野晴臣 × 羽仁未央 × 遠藤賢司

1985/06/20 無印良品 店内BGMのレコーディング。堀ノ内/テイチク杉並スタジオ。

「店内用の予告編として作られた別ヴァージョンである。なおこのオリジナルは秋山道男のディレクションにより即興的に録音された。」(35)

※編注:「ザ・プラン」のタイトルで『コインシデンタル・ミュージック』に収録。

1985/06/21 中原香織/細野晴臣「銀河鉄道の夜/別離のテーマ」発売。
produce
 銀河鉄道の夜:compose, arrangement, instruments, programming
 別離のテーマ:
compose, arrangement, all instruments, programming, mix
別離のテーマ
「これは当時、小林亜星に誉められたんだよ。誉められると素直に嬉しい(笑)。何度かあるんだよ、こういうこと」
(34)
「間接的なんだけど、誉められると励みになるじゃない。オーソドックスな音楽として、こういうのを作って良かったな、と
…自慢したいんだよ(笑)浜口庫之助にも誉められたことがあるんだよ(笑)、息子である浜口(茂外也)くんから聞いたんだ」(34)

中原香織の証言
「(編注:芸名は)細野さんがつけてくれました。『かおり』に一番キレイな漢字あてて」
(2)
 銀河鉄道の夜
「やっぱり難しいっていうか
…ともかくヘッドホンつけ て自分の声聞くなんて生まれて初めてのことで、もう何もかもびっくり!!(笑) 何がなんだかわからない感じで、いきあたりばったりでつっこんじゃったみたい。スタジオの中でも、音なんかいろいろ調節して、機械で、いろいろ変わるで しょ。そういうの見てホント何もかもびっくり(笑)。でも楽しかったです。細野さんや松本さんにいろいろ仕込んでいただいて…」(2)

戸田誠司の証言
 銀河鉄道の夜
「ぼくが上物を打ってる横で、3日連続でベースを打ってる細野さんがいて、すごく幸せな時間を過ごさせてもらいました」
(11)

松本隆の証言

 銀河鉄道の夜

「僕は宮澤賢治好きなんです。すごく影響されているし、賢治フリークというか、賢治おたくに近いかもしれない。だからこれはちょっと真面目に作りすぎちゃって、失敗してる。これもスターボーと同じくらい売れなかったね。売れたはずなのに、売れなかった」(33)

1985/06/22 『コインシデンタル・ミュージック』ミックス。堀ノ内/テイチク杉並スタジオ。

1985/06/25 『月刊プレイボーイ』8月号(集英社)発売。
コメント/ほしいモノをやっと見つけだした。感激
※編注:特集「アメリカ"西海岸を買う!"」内。

1985/06 『キープル』No.8(自由国民社)発売。
寄稿/細野晴臣からの手紙
※編注:『銀河鉄道の夜』について。

1985/06/29 『朝日新聞』朝刊(朝日新聞社)発行。
インタビュー/銀河彩るコンピュータ音楽
※編注:イメージ・ソング「銀河鉄道の夜」譜面付き。譜面以外の大部分は「銀河彩るコンピュータ・サウンド」と改題の上、映画『銀河鉄道の夜』パンフレット(7月13日発行)に再録された。

1985/06/29 『ミュージック・ステディ』7月号(ステディ出版)発売。
対談/リレー対談特別篇 細野晴臣 × 大滝詠一
「ものの順序ですよ。松本からぼくのところへ来たら大滝氏へいく、と」(10)
「で、指名したら、ちょうどそのときに、なんか1年間
(編注:大滝が)休むという話がでて」(10)

大滝詠一の証言
「もし、松本、ぼく、ときたら次は細野さんにいくだろうしね」
(10)
「ずいぶん気長なリレー」(10)
「1年、間があいてる」(10)

1985/06/29 16:00 FM東京『オール・トゥゲザー・ナウ』放送。
はっぴいえんど
 さよならアメリカ さよならニッポン
 ※1985/06/15@国立競技場

1985 アフリカ・バンバータと対談。

「最初会うとき、ちょっと怖かったんですけど」(50)
「怯えてたんですけど、全然これがまたね、違う人で(笑)。非常に女性的でね、やさしい、お母さんみたいなタイプの人だった(笑)」
(50)
「びっくりしましたよ。うん。非常に、あのやさしい人でした」(50)

※編注:『GORO』8月8日号(7月25日発売)に掲載。アフリカ・バンバータは、6月29日のラフォーレ・ミュージアム赤坂公演のため来日中だった。

1985/07/02 22:00 NHK-FM『サウンドストリート』放送。
コメント
※編注:クレージーキャッツ特集。DJは坂本龍一。

1985/07 『感性工作者たちの日常発想』(三省堂)発売。
対談/僕は今、まわりに結合できるものを必死に探している。 細野晴臣 × 真壁智治

1985/07 ファンタスティックコレクション・スペシャルNo.51『銀河鉄道の夜』(朝日ソノラマ)発売。
対談/賢治・はっぴいえんど・マンガを語る 細野晴臣 × ますむらひろし

1985/07/07 『銀河鉄道の夜』発売。
produce, arrangement, synthesizers, programming
 メイン・タイトル:compose
 幻想四次のテーマ:compose
 幻想と現実:compose
 晴れの日:compose
 星めぐりの歌
 ジョバンニの幻想:compose
 ケンタウルスの星祭り:compose
 天気輪の柱:compose
 よろこび:compose
 北十字:compose
 プリオシン海岸:compose
 幻想の歴史:compose
 極楽のハープ:compose
 ジョバンニの透明な哀しみ:compose
 一番のさいわい:compose
 走る:compose
 45分:compose
 鎮魂歌:compose
 エンド・テーマ「銀河鉄道の夜」:compose
「非常に好きです、僕は」(25)
「やっぱり自閉的な世界でつくるものが好きなんですよね、きっと」(25)
「アニメのサントラ盤ではありますが、『音楽だけでも楽しめるんだい』という自負を随所にちりばめました。」(28)
「レコードには没テークがしっかり入っているのですよ。」
(28)
「全部入れられなかった」(25)
「レコード盤だけ聴いても、まぁそれなりに、世界が作れますし、えーもちろんアニメ・ファンは、アニメ・ファンでもう、映画を観てもらったほうがいいと思います」(18)

幻想四次のテーマ
「冒頭のシーン」
(3)
「音が揺れてんの。画面も揺れてるしね」
(3)
「実はあれが一番好きなんだよ(笑)」(3)

プリオシン海岸
「全部手弾きでやった」
(30)
「ワンテイクだったんだよ」
(3)

コシミハルの証言
「色々な曲の中でシンセを演奏しました。ハーモニーやメロディを加えて行くという作業です」
(3)
 よろこび
 ジョバンニの透明な哀しみ
 走る
 鎮魂歌
「この4つのトラックに関しては、細野さんがいなかったのでひとりでスタジオに入って作りました。場所は、テイチクの杉並グリーンバード・スタジオだったと思います」
(3)
「(編注:オーダーは)好きなように作って良いので作ってね(笑)」
(3)

※編注:シングルで先行リリース済みの「別離のテーマ」も収録。

1985/07/07 かしぶち哲郎『彼女の時』発売。
柔らかいポーズ:bass

1985/07/09 『週刊朝日』7月19日号(朝日新聞社)発売。
対談「嵐山光三郎の つーことで聞いたのだ」26/いま地球上の音楽がみんな曇っている 嵐山光三郎 × 細野晴臣
嵐山光三郎の証言
「細野氏、例によって大陸的フーボーで、寝呆けた顔で到着した。太い眉、角ばった顔、ガンコそうな直髪。両まぶた半開きのまま、悠然と椅子に腰かける。」
(25)
「細野さんは、私が話すことを、じっくりと聞いてくれる。こちらは聞き役だから、あまり話してはいけないのだが、どんと椅子に深めに腰をかけて、ヨシヨ シ、聞きましょうという感じ。YMOでバンドリーダーをやってきた貫禄というものだろう。頭をかいたまま指を髪につっこんで静止したり、首を傾けたまま静 止したり。かつて、詩人や哲学者にこういう風貌の人が何人かいた。」
(51)
「それを音楽家がやっている。」
(51)
「私が音楽音痴だから、必要以上に過大評価してしまう部分が多いのだろうか。それは、対談の中で細野さんが言っているとおりかもしれない。」(51)

1985/07/10 『FMレコパル』7月15日号(小学館)発売。
インタビュー/サイボーグみたいな音楽がおもしろい

1985/07/10 18:30 朝日ジャーナル主催『銀河鉄道の世界』出演。有楽町/朝日ホール。
共演:杉井ギサブロー 他
※編注:第1部が杉井監督と細野晴臣らによるトーク、第2部が映画『銀河鉄道の夜』試写、という有料イベント。

1985/07/13 アニメーション映画『銀河鉄道の夜』公開。
音楽
「かなり、なんて言うんですか? 問題が、あー、いろいろ、提起されましたね、このアニメによって。なぜかと言うと、子供向きではない。えー成人指定まではいきませんが(笑)、えー青少年向きという」(18)
「一見、子供向きのような感じなんですが、実を言うととんでもないですねこれは。内容がとてもとても、子供ではわからない。えー大人でもわからない (笑)、というその難解な部分を含んでます。宮沢賢治という人はやっぱり、子供から大人まで、包み込むようなそういう世界もってるんで。例えて言うなら、 あー『2001年(宇宙の旅)』のような映画になれば、本望なんじゃないかな、なんて思いますが。10年ぶりに、もう一度、観てみたりして、『あっ! そうだったのか』なんて思うような映画だと、いいんですが。えー、宮沢賢治の、『銀河鉄道の夜』っていうのはそういう、詩ですね。詩と言うかまぁ物語と言 うか、メルヘンと言うか(笑)。なんて言ったらいいんでしょうね、こう、文学ですねやはり。それーに音楽をつけたんですけど、なかなかこれが難しくて」
(18)
「やっぱり映画音楽っていうのはすごい難しいなと、まず思ったんですよ」(25)
「バックに宮沢賢治という非常にイメージの豊かな存在がいるので、それで僕は救われたんですけど」(25)
「完成試写が行われ、ドキドキしながら観たんです。するとどうでしょう、それは決っして音楽映画ではなく、ちゃんと映画音楽になっていたのです。これこそ監督の腕でありましょうか。」(28)
「原作のセリフが多いんですね。アニメーションは、そこを非常に忠実につくってあるから、やっぱり音楽映画にはならないんですよ。映画音楽なんですよ。そこが、ちょっと難しかった」(25)
「43曲もの音楽は、その20%位がカットされていました。」(28)
「前半の街の現実的な世界と、後半の銀河鉄道に乗ってからの幻想的な世界に分かれているので、音楽も前半は地上的なローカルなクラシックな色合いが強いし、後半は形が変わってコズミックな色彩がある。自分の無意識な部分は後半の音楽に現われているようです」(30)
「全然、アメリカ音楽の影響は無いね」
(3)

杉井ギサブローの証言
「この物語の主人公ジョバンニの心はいつも不安定にゆれ動いている。病気の母を想う気持と、その母から逃れてどこか遠くへ行ってしまいたいと想う気持、学 校の先生や友達におもいきり近づきたいと想う気持と、みんなからはやく離れてひとりになりたいと想う気持。−このゆれる心はジョバンニの生活の孤独感が育 んだ感性の高さからおこるものなのだろう。」
(52)
「星まつりの晩、ジョバンニは祭りの広場からひとり離れて黒い丘へとのぼり、銀河をながめながら、ついに街を捨ててしまう。
街を捨てるということは自分の生きる場を放棄してしまうことだ。そして幻想第四次の列車の乗客となってしまう。その旅の中でもジョバンニの心は、さまざまのことに出逢うたびにゆれつづける。」(52)
「はじめて細野さんとお逢いして、この映画のイメージを交換したとき、このゆれるということについて話し合った。」(52)
「細野さんは実に微妙な音楽世界でこのゆれを表現してくれた。」(52)

1985/07/17 午後 大滝詠一・松本隆・鈴木茂と座談会。赤坂/キャピトル東急ホテル。

※編注:はっぴいえんどの12インチ・シングル『THE HAPPY END』(9月5日発売)封入のスペシャル・ブックレットに掲載。

1985/07/17 午後 「はっぴいえんど宣言」記者会見に出席。赤坂/ラフォーレミュージアム赤坂。

「あれ(編注:はっぴいえんど宣言)は僕が発作的に原文を書いたんです。それが過激すぎてね、リライトをやってくれたのが松本で、彼の感覚をいれて書き直したのがあれです」(44)

※編注:7月12日付で書かれた「はっぴいえんど宣言」の全文は、はっぴいえんどの12インチ・シングル『THE HAPPY END』(9月5日発売)封入のスペシャル・ブックレットに掲載。

1985/07/21 小林克也とザ・ナンバーワン・バンド『はっぱすいすい』発売。
ユーアー Bad Girl, We Are ザ・ニッポンイチ:chorus
※編注:シークレット参加。

1985/07/25 『GORO』8月8日号(小学館)発売。
対談/ヒップ・ホップ・バイブレーション対談 アフリカ・バンバータ × 細野晴臣

1985/07/28 『小泉文夫と世界の民族音楽展』開催記念レクチャー「民族音楽としての都市音楽」に出演。西武百貨店池袋店。
共演:大竹伸朗、北村昌士
「某音楽家との対談でテクノといったところ、管理された音楽というレッテルを 貼られ、彼はコンピュータで音を作る小生に対し、『頭がおかしい』というのであった。そうさ、どーせボクはおかしいさ、などと卑屈になるのもいいが、これ ほどテクノというのは多くの人々にとって"他者"なのだ。」(15)

※編注:レクチャーの採録は『フールズ・メイト』10月号(9月10日発売)に掲載された。掲載にあたり当日の内容にど の程度編集が施されているかは不明だが、細野晴臣の上記証言にある「頭がおかしい」は、採録における北村昌士の「病気なんじゃないですか?(笑)」という 発言に該当すると思われる。文脈としては、ディス・ヒートの作品のように予測のつかない音楽であっても「まだコンピューターでコントロールできる」とする 細野を、北村が「全部管理しなくちゃ気が済まない」のは病気なのでは、と笑う流れ。あとに続く発言にあるように細野の立場は「管理しなくちゃ気が済まな い」のとは逆に「この先コンピューターで管理出来ないものが、どうしても必要」というものだったが、それを待たなかった北村の言葉に、細野は頑なな偏 見を感じ取ったのではないか。

1985/08/01 『ロッキング・オン』9月号(ロッキング・オン)発売。
インタビュー/僕は弱い人間なんです。それも生半可に弱いんじゃなくて、徹底的に弱いんです

1985/08 越美晴のレコーディング。

「美晴ちゃん自身、大きな引っ掛かりを作ったのね。それは、声の出し方。今までのポップスでは考えられないクラシカルな歌い方」(53)
「自分でも新鮮だったみたい。聴いてる方も、自然だし」
(53)
「行く方向が僕にはなんとなく見えてたから」
(53)

コシミハルの証言
「アルバムを作る一年位前に、いろんな本を読んだり映画を観たりして」(54)
「一角獣の本を読んだのが始まりだったんです」
(55
「実際にはいないんだけどいろんな力を持つ幻獣で」(54)
「一角獣の持つ両義性に魅かれたんですね。それは聖域でもあって、魔術的でもある、2つの力を持っている」(56)
「とても凶暴な幻獣なのに、病気を治す魔力を持っていたり、処女のひざの上でしか捕えられないという不思議な動物で…」
(55
「そこから処女懐胎、聖母マリアに興味を持ったんです。それは宗教的に、ではなく」(56)
「そういうのすごくおもしろいと思って考えてたら、リルケっていう詩人も一角獣に興味を持ってるとかで。で、ちょう どリルケを読む前にヘリオトロープって、太陽に向かって行くっていう意味を持った言葉なんだけど、すごく興味があったの。そうしたら、リルケも昔の詩にそ の言葉を使ってたの(笑)。それで、すごく驚いちゃったの」(54)
「リルケの本なんかを読んでいたときに、ある日、ウィーン少年合唱団のシューベルトの歌曲を聴いたら、すごくよくって…」(55
「思 い返してみると、子供の頃、母の歌に合わせて、私がピアノの伴奏するっていうのが、毎日の遊びだったんです。その中で、母が好んで歌っていたのがシューベ ルトの歌曲でした。そして、当時テレビで放映されたウィーン少年合唱団を描いた映画『野ばら』がとても好きだった」(3)
「『野ばら』という50年代後半の西ドイツの音楽映画があるんですよ。ハンガリーの動乱から逃れてオーストリアに来 た孤児の少年がウィーン少年合唱団に入って寄宿生活をしながらいろんな出来事が起きる中で、モーツァルトやシューベルトの音楽を歌ったりするお話なんです けど、それを小さい頃にテレビで見て、本当にすごく好きだったんですね。そういうものをテクノが好きだった時期にはすっかり忘れていたんですけど」
(57)
「長い間忘れていた記憶が蘇ったんですね」
(3)
「ある日、青い空の上を流れてゆく雲を見てたら、あまりに感動してしまってね、急に心が解放されてしまった。シューベルトの『野ばら』を聴いたら、歌いたくなって、なんかシュルシュルとゲーテの詩が美しく見えてきたの」
(53
「急にシューベルトが良かったの。感動したの。とっても単純に歌おうと思ったの」(54)
「『野ばら』のメロディが突然天から降ってきて(笑)」(3)
「本当に美しいと感じて、直感的に歌ってみようと思ったんです」
(56)
「この感触を、どうしても放っておけなくて」(58)
「いてもたってもいられなくなって、録音を始めました」(3)
「それが『野ばら』と『アヴェ・マリア』で」
(57)
「(編注:『野ばら』は)シューベルトのピアノ伴奏の和声を基軸に、マーチング風 のドラム、ミニマルな繰り返しのフレーズが思い浮かび、それに誘われるように、森の奥で鳴り響くオルガンと、暗闇の中に晴れ渡る青空、その中を走り抜けて いく少年のイメージが浮かんで、あっという間に出来上がってしまいました」
(3)
「『アヴェ・マリア』を歌ったらガーンと密室の扉が開いちゃって、光がいっぱい入ってきちゃった。それから人工的なものの美しさを愛する気持ちと同じよう に、ほんとうに心から自然の美しさを素晴らしいと思うようになったんです。細野さんは、前からずーっと、自然の美しさについて話してたんだけど、言われて もきかないんですよ、私は」
(53
「自然にこういう声が出たというか、自分がこういう声を一番自然な形で発音できるんだって(ことに気付いた)一番最初のところですね。それ以前の発音の仕方とは、少し違った形のものができあがったと思います」(57)
「シューベルトの歌曲をアレンジして、深夜のTVで歌ったりした。」
(58)
「いつも自分でデモテープを作るので、シューベルトとかヘンデルとか何曲か取り上げて作ったんです」(54)
「4チャンネルの普通の多重録音の機械なんですけど」(54)
「それを軽い気持ちで細野さんに渡した」(54)
「最初はそれをレコードにしようとは思ってなかったんですけど」(57)
「細野さんに聴かせたら、細野さんが"これだ! こうなるのを待っていた。新しいビートが誕生した!"と叫んじゃって(笑)」(55
「『これ、これ』とかって(笑)。『これを待ってたんだ』って、細野さんはそうなるってことを予感してたらしくて」
(54)
「『すごくいいからレコーディングするのが良いんじゃない?』と言ってくれて」(11)
「〈面白いからそのままレコーディングすればいいんじゃないの?〉と」
(3)
「私は『そうなんだぁ(笑)‥
』と」(11)
「それで、デモテープ通りにレコーディングしました」
(54)
「ほとんどそのデモテープを元にレコーディングするっていう形をとっているので。でも」(54)
「あんまり作らなかった。半分ぐらいしかテープを作ってないの」(54)
「細野さんから〈もうデモ・テープは作らないで、そのままレコーディングしたら?〉と」(3)
「同じことを繰り返してやるのはつまらないから、少し作らないでやってみたらって言われて
…」(54)
「オリジナル曲は家で録音するようにスタジオでトラックを作った」
(3)
「(編注:使用機材は)ローランドのヴォコーダーとJuno-60、YAMAHA CS15、DX7、プロフェット5、イミュレーターなど」
(3)
「そして何と言ってもエンジニアの巨匠田中信一さんとの出会い」(3)

鈴木惣一朗の証言
「これぼくね、レコーディングしてる時、どこだっけ、新大久保の、フリーダム・スタジオで、ぼくこれ遊びに行ったんですよ」
(23)
「打ち込み、細野さんね、ヒゲ真っ黒けで、カツ丼食いながら(笑)。印象的だったなあ、あれ」
(23)
「壮絶でしたよ(笑)」(23)

※編注:アルバム『ボーイ・ソプラノ』。

1985/08/04 18:00 FM東京『珈琲サロン』放送。出演。

※編注:「細野晴臣の独演会」1。

1985/08/04 『マーキュリック・ダンス』の「序文」「解説」「後記」を脱稿。

1985/08/10 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
取材記事/「銀河鉄道の夜」不思議な因縁
※編注:細野晴臣のコメントを含む。

1985/08/11 18:00 FM東京『珈琲サロン』放送。出演。

※編注:「細野晴臣の独演会」2。

1985/08/21 『コインシデンタル・ミュージック』発売。
produce, compose, perform, engineering, mix
 リキテンシュタイン
 ピエトロ・ジェルミ
 ノルマンディア
 中国の人
 サヨコスカッティ
 マジンガー・H
 ザ・プラン
 銀河鉄道の夜〜ピアノ・ヴァージョン
 ジョルジュ・ドン
 バイオ・フィロソフィー
 メンフィス, ミラノ
「最初はCM=コマーシャル・ミュージック、というタイトルのLPにしようと 思ってたんです。CMに使われた曲を集めて、いつかやろうと思ってた。普通CMは30秒から1分ぐらいですけれど、それじゃつまらないんで3分ぐらい、長 いので7〜8分の曲を作ってそこから編集していったわけ。いつかリミックスし直してまとめてみたいといつも思ってたんですね。そういうLPがやっとでき た」(59)
「やるたびにレコードにしようと思って作っていましたから、1つの統一感があるんです」
(60)
「あえてCM音楽に限ったのは、CMの仕事が非常に自由だから。ある意味で音楽に対して目的がないでしょう。たとえばソロLPなら、ソロという目的がある けれど、CMは枠が広くて、皆目見当がつかないような作業なんですよ。しかも、時間がなかったり。コインシデンタルは"即興的な"というふうな意味で使っ てるんだけれども、CMは即興演奏でやろうという決意があったんです。そういう中から自分でも知らない部分が出てくるのがとても楽しみだった」
(59)
コマーシャルの場合は、画面のテーマがあったり、商品があったりとか、わりと条件がそろっているんです。その中でイメージもわきやすいんです。全くないと、やはり難しいですよ。イメージがなければできないですから」(30)
「音楽は何処からくるものか? それはおそらくメタフィジカルな空間を通って人の音楽中枢を刺激する。人はそれを自からの音楽というのかもしれないし、あるいはミューズの神やキャスタリアからの恩賜とうけとめるかもしれない。80年代に入り、私の身辺はYMOという過剰な動きの中で音楽的な時間を失なっていった。その代りに得たものは、さしせまった時間の中で出来あがってくる音楽に関する新らしい体験である。」(35)
「何しろインスピレーションがないと何もできない。で、常に、自 分をインスピレーションが出る状態にしておかないとね、いけないわけです。"音楽の神様"がいないトコにいい音楽はできないと僕は思ってるから、そういう 音楽の神様が現われるように。抽象的だけどね、神様というのはインスピレーションで、逆にそのインスピレーションを得るために時間のなさを意図的に使うっ ていうか。他から与えられた制約を積極的にコンセプトとして利用する。ある種の鍛錬のたまものですね(笑)」(59)
「だいたい、YMOやり始めてからいつも"時間がない"って追われてきてね。その中で負けないで音楽やろう、いいも のにしようと時間との闘いになるわけですよ。そうやって身につけてきたものなんですけれど」(59)
「歌謡曲の作曲の経験を通して、どんなときでも土壇場になると曲が出てくるという変な自信が出てきたんです(笑)」(30)
「自分の中でいつも限界があったんですけど、限界があるのは、自分が作るものだと思っていたせいであって、そのころから自分が作るものではないと思い出し たんです。禅問答じゃないんですけど、ほんとうにそういう感覚がないと土壇場で作れないんです。まあ、なんとかなるやという感覚なんですけどね。平たく言 えば(笑)。何とかなるよというときは何とかなるわけで、そういう曲が例えばヒット・チャートに出ていったりするので、妙に自信がついちゃうんですよ」
(30)
「常に時間がないというのは音楽家にとって大変哀れなことであるが、逆に極限状態を利用する手筈をものにすることが できる。さしせまった状況の中ではあら ゆる情報を集中的にインプットするが、これは人間のオートマティックな機能だ。しかしその機能が状況に対応しきれない時にはそれを放棄せざるをえない。こ のように些細な自己崩壊を繰りかえすうち、私の音楽領域内での自我がいつのまにか地位を失い、それとともに自我に制約されていたであろうと思われる、例の メタフィジカルな空間が開けてくるように感じられた。このような時は外と内が入り混じり微妙なバランスをとり始める。そうしてできた音楽は自分の力を超え たもののように聞こえ、音楽漬けの慢性中毒から開放されて新鮮な気分になれるのである。」(35)
「その中から『コインシデンタル』という発想が出てきたんです。そのころコマーシャルの仕事がどさっときたので、その方法を利用したわけです。そのうちそれが、自分の中で一つの回路というか、一つのシステムになってきたんですね。何が何だかわからないというのじゃなくて」(30)
コン ピュータがあってこそできた音楽ということもいえる。コンピュータいじくるのが好きで遊んでるうちにできちゃった」(59)
「歌謡曲の場合はピアノで作っていて、CMの場合は、シンセサイザーとコンピューターなんです。コンピューターがメインです」(30)
「コンピューターのキーを数値で起こしていって、出てきた音を聞くんですね。フィードバックして。そこに何かしらあれば、それを整理していくわけです」(30)
「演奏というのは、ニュアンスがいっぱい入ってきますね。ニューオーリンズのスタイルの演奏になったりとか」(30)
「全く違う神経使っているわけですよ。例えば、それは原型があって、フォルムがあって、ビートも決まっていて、誰が 聴いても、割とわかりやすい普遍的なものでね。それこそニューオーリンズという社会の中のビートだったり、歴史が決めてきたビートだったりする。ロックや リズム&ブルースの言語を引用しているわけです。踏襲していたり、そこから外れないようにというか、なるべく近くになるようにする。まあ、模倣ですよね。 模倣に近いものですよ」(30)
「ところが、 『COINCIDENTAL MUSIC』のほうは、演奏は要素に入ってないんです。コンピューターによる自動演奏ですから。純粋なエディット感覚ですね。音符の長さを決めるときに試 行錯誤していくだけです。数値で入れていくんですけどね。譜面ではなく。ゲートタイムというんですけど、時間をいろいろずらしたり、一番ピッタリ来るとこ ろで数値を決めたりして。それをフィードバックして、聴きながら決めていくんです。何度も何度も聴いて、一番いいところへ設定する。そうやってどんどん ゲージを作っていく。そうすると音楽になっていくんです」(30)
「僕はそれまで音楽を非常にロマンティックなものとしてとらえていたんですが、そんな僕がなぜミニマル・ミュージッ クのように音楽的なストーリー性を排除したり、ドラマ性を排除したものにひかれはじめたかというと、ミニマル・ミュージックが自分の中の原初のレベルにあ るミニマルなリズムやメロディやビートに微妙に反応してきたからだろうと思うんです。アフリカのビートもミニマルだし、ロックの基本もそういうビートだっ た。ところがそのビートの上にいろんなものを積み重ねていって、情報量が多くなると、ストーリーができてくる。ちょうどそんな音楽に重ったるさを感じてい たときに、ミニマル・ミュージックのあえていえばアンチ・ロマンの方向性にひかれた。それも僕にとっては、ひとつの美学的なロマンだったわけですが。それ を可能にしてくれたのがコンピューターなどの機械だった」(30)
手で弾いたものは記憶できるんですが、リズムは記憶できない」(30)
「そういうサンプラー」
(30)
「それを使うと、手クセなども生かせるわけです。例えば手弾きで鍵盤を弾くでしょう。それは自分の クセで弾くわけですね。それをリアル・タイムで記憶させると、自分で弾いているのと同じタイミングで再生できる。その断片をループで反復して再生してリズ ムを作ると、自分のクセで弾いているのに、ちがうパターンができるんです」(30)
「記憶させた断片のどれがいいかなと選びながら、それにリズムをつけて再現していくんですが、リズムのつけ方で曲がちがってくるわけです。そうして一小節ずつその場でたしかめながら作曲していった」(30)
最初は一小節作って、一小節作るとストーリーがちょっと見えてきて、それでまた継ぎ足していくと いう。造形に近いというか、作り上げていくような感じで」(30)
「ループにしてつなげると、自分が弾いていたフレーズがストーリーもなくくりかえされる。その中から任意の部分を切 り取って音楽として表現するわけです。例えばドレミファソラシドというのを任意に弾くわけです。そのフレーズがくりかえされて何度も出てくると、ドレミ ファソラシドのひとつひとつのクセは意味がなくなって、全体のリズムのほうに重きが置かれてくる。普通の音楽はドレミファソラシドでストーリーを作ってで きてるわけですが、この場合はコラージュに近いですね。あちこちからいろんなクセを持ってきてはコラージュしていく。そうすると、自分が知らない自分を発 見できる。(30)
「自分の頭の中にある音楽を再現したわけじゃなくて、彫刻みたいに貼っつけていくわけです。最初は何もわ からないところに、何かをつけていくうちに形ができてくる。自分の中にこういう音楽があるとは思ってなかったから、新鮮でしたね。それまで自分にあったの は、ミニマルなビートだったり、ハリウッド的な和声だったり、非常にはっきりしたものだったんです。AABとか、いわゆる音楽には構造とか法則があります ね。そういうパターンから解放されたいと思っていた時期で、そこから解放される手段として十二音階とかもありましたが、それもある種の制約の中でしかでき ないというジレンマがある。そこで考えたのが、こういう方法だったんです。めちゃくちゃすれすれでも、ある種の法則があれば、それが音楽になると。例えば ノイズだけでは音楽ではないけど、ノイズの間に相関関係があって、そのテンションで何かが生まれてきて、それで自分の感情を表現したりすることは音楽だ と」(30)
「『COINCIDENTAL MUSIC』などは、そういう方法で作ったんです」(30)
「CM音楽を作る中で微妙な自我のバランスがあるんです。時間のプレッシャーや注文なんかのいろんな制約に屈しちゃ うと自我は崩壊しっ放し、それは負けた状態だよね。逆に何の制約もなく自由にやっちゃうと自分に慣れ親しんで、面白くない音楽になる。自分を驚かせてくれ る、そういうものを作れる状態が微妙な自我のバランスから出てくる。自分を客観的に見る状態と、自我との自然な闘いがあるんです」(59)
「ス タッフとのコミュニケーションはないんです。自分が自分とコミュニケーションしているという。あえて例えていうならね、猿がタイプライター叩くと、偶然に 文章ができるというのがあるでしょう。確率として。それに近いものがある(笑)。自分の中の猿が音をいじくるんですよ。つまりそこでは、ただ無心に叩く と。それはたぶん自分の中の猿が叩いてるんです。同時にそれをエディットしていく自分がいて、微妙に取捨選択を行なっている。両者がコミュニケーションしているのは非常におもしろくて、それをまあ、遊んでいたという感じですね」(30)
「一人ですから。でも自分の中では充足感があるわけですね。例えば、猿だけだったら、これはまあ、孤独ですよ。はっ きり言って。どうしようもなくなっちゃうんですから。目茶苦茶になって、何も整理がつかなくなってくる。また、エディットするだけでも、やっぱりつまんな い。両方ないと」(30)
「即興という作り方だと自分のもっと奥深いものが出てきますからね。ソロLPよりもっとソロっぽいんじゃないかな。 CMもあくまでも僕にとっては音楽を作るためのひとつの構造。CMの仕事が来ると僕の方は"アッいい音楽作れる"と利用する立場ですね」(59)
「即興の場合はやはり音色に魅かれて音楽ができていくものが多いんです。メロディが頭の中に音符で出てくるんじゃなくて音色で出てくる。だからああいうアコースティックな音になったと思います」(59)

1985/08/21 ワールドスタンダード『ワールドスタンダード』発売。
produce
 私の運命線:footsteps with smile
「最初はモナドで出すグループだと思ってたんだけど、本人たちの意向は、よりポップなものをやっていきたいということだったんでね」(17)

音楽列車
「いい音だねえ。いい音楽だなあ」
(23)
「この曲はね、ぼくはパクッたね」(23)
「告白すればね」(23)
「いや、おんなじなんだもんだって『銀河鉄道〜』と(笑)」(23)
「雰囲気が似てるんですね」(18)
「同じ時期でぼくのほうがあとだもん」
(23)
「絶対そうだよ」(23)
「アップルのスティーヴ・ジョブスが、『模倣するな、盗め』と、言ってるでしょ」(23)
「この場合はどっちかなあ。模倣かなあ」(23)
「偶然の一致。つまり、ユングでいう(笑)、"コインシデンス"ですね」
(18)

逝ける王女のためのパヴァーヌ
「これを聴くとぼく自身が、よく眠れます」
(23)

鈴木惣一朗の証言
「ぼくは、細野さんに最初に会った時、言われた言葉が引っかかっていた。
…『デモ・テープをこのまま出せば?』。ぼくにとってこれは、いろんな意味で重要なことだったの」(5)
「細野さんは、1980年代にロー・ファイなもののバランスを見直していた」(5)
「つまりワールドスタンダードのデモ・テープにも細野さんは、ある音のよさを認めて『このまま出せば?』と言ってくれてたわけだ」(5)
「それはとても嬉しかったけど…ところが、ぼくは」(5)
「意外にヒス・ノイズが気になる方なわけ。ハイ・ファイなロー・ファイがぼくの理想なの」(5)
「だから細野さんに『このまま出せば?』って言われたときに『えぇ?』って思った。こんなにヒス・ノイズがあるのを出してデビューっていうのには、やはり抵抗があった。だから、やっぱり『作り直したい!』って叫んだ」(5)
「でも、ワールドスタンダードは、元々が自宅録音で入念に作っていたものだから、いきなりプロのスタジオに入って作 り始めたら、すごく時間もかかっちゃうし、いろいろな実験も出来ない。何よりも音のテイストが変わっちゃう。だから、最初のスタジオ制作費の一部で、 AKAIのMG1212っていう、βのビデオ・テープを使った当時最先端の12トラック・デジタル・レコーダー、当時120万ぐらいしたヤツと、いくつか のマイクとかを買ってもらったの。そのMG1212は三上(編注:昌晴)くんの家にセットして、ベーシックな部分を彼の家で自宅録音して、その後、その音 をスタジオのレコーダーに流し込んで、歌や大きな楽器は普通にスタジオで録るという特殊なスタイルにしたの」(5)
「レコーディングは1985年の4月から5月までフルに2ヶ月かかった」(5)
「『鉄の塔』って未発表曲を含めて13曲のベーシック・レコーディングを4月の30日間かけて必死で作っている」(5)
「5月にダビング作業」(5)
「テイチクの杉並スタジオ(旧グリーンバード・スタジオ)で、歌とかパーカッション、ヴァイオリン、ピアノとかをダビング」(5)
「杉並スタジオのエンジニアはアルファの寺田康彦さんと土井章嗣くんに出張?でやってもらって」(5)
「ミックスの時までは、ほとんど自由にやらせてもらったんだけど、細野さんが細かく言わなくても、最初に『そのまま 出せば?』といった発言は、ぼくたちの大きな指針になっていた。つまり、デモの雰囲気をなるべく変えないっていうコンセプト。それを貫いてぼくたちの全て の作業は進行していたというわけ」(5)
「当初は『モナド』から出る予定でした」(3)
「細野さんに『そのまま出せば?』と言われたことを、アルバム・タイトルについても指針にしたの。つまり、レーベル 会議の席でデモのタイトルと同じ『音楽列車』で出したいとぼくは言ったわけ。そしたら周りのスタッフに反対されて、デビュー盤だからアーティスト名を付け ようと。なぜなら、デビューというのがこのアルバムの一つのコンセプトであり、テーマである、と。それでぼくは、なぜみんながデビュー盤にアーティスト名 をよくタイトルにするのか、その理由が自分なりにわかった気がした。ファースト・アルバムは、デビューってことにすごく意味がある。次からは別なテーマを 打ち出さなきゃならないから、必然的にタイトルが付く。『そうか、それなんだなぁ』と妙に納得出来たわけ。でもこだわりは捨てきれず、裏ジャケにル・トレ イン・ミュージカル(音楽列車の意)というアイコンをちらりと入れてもらった」
(5)
 音楽列車
「1983年の秋に『ECHOES OF YOUTH』(編注:久保田麻琴プロデュースのコンピレーション・アルバム)に参加して、それから1984年の春までの4ヶ月間、たくさん曲を作ってた時期があったの。その間に出来た」
(5)
「この曲のメロディって、伝統音楽っぽいんだよね。これは当時、細野さんから、強く影響されたもの」(5)
「この曲のミックス・ダウンの時に細野さんがスタジオで当時作っていた『銀河鉄道の夜』の発売前の音をかけた」(5)
「ワールドスタンダードが『音楽列車』を作ってるときに、細野さんは『銀河鉄道』を作ってる。不思議な縁だよね」(5)
 たんぽぽのお酒
「細野さんが当時この曲を聴いて、モダン・フォークだって言ったの憶えてる。ぼくはね、何て失礼なことをって思った(笑)。つまり、当時ぼくはモダン・ フォークを好きじゃなかったので。モダン・フォークって、カーター・ファミリーとかのスクエアなイメージっていうのがある。みんなで合唱する…みたいな。 それは、何か邪悪なものはいっさいないような、すごくきれいな世界のイメージ」
(5)
「この頃の曲はたしかにそんなきれいな世界と言えるかも…。だから細野さんは、どこかスクエアな世界を感じ、モダン・フォークって言ったのかもしれない」(5)
 椰子の実
「ぼくがデビューした頃はまだアナログ盤全盛。13曲じゃ多過ぎる。レコード盤自体も音が悪くなる。リリース盤は結局12曲で、トータル・タイムが48分 49秒。これでもまだ長いわけ。だから、ワールドスタンダードの当時のアナログ盤のカッティング・レベルは相当低い。ただでさえ自宅録音がベーシックに なってるから、音のダイナミクスも低いのに。それをぼくは予想していたので、最終的に12曲ではなくて10曲のアルバムにしようと思っていたの」
(5)
「細野さんにプロデュースをお願いしたとき、絶対にやってもらおうと思ってたことが選曲だったの。音響上のトリートメントもしてほしかったけど、『君たちの好きにやっていいよ』というプロデュースだったので…(笑)」(5)
「ある日、細野さんに『2曲カットしたいんだけど、カットするとすればどれとどれですか?』って聞いた。『いや、ないよ』って即座に言われた。それを鵜呑 みにして(笑)そのまま12曲入れるんだけど、その時に強いて言えばどれ? って言うと...『椰子の実』って言われたの。なぜなのかな? と思ったが、細野さんは理由を言わない。自分で考えてたどり着いた答えが、『音楽の独自のイディオム』ってことだった」(5)
「細野さんが、ワールドスタンダードに求めているのは完全なオリジナルのサウンドだろうと。そういうなかで、他の音楽のイディオムの要素が強いものに対し て点数を辛く言ったのが、『椰子の実』だったわけ。ぼくなりにそう思った。なぜなら、『椰子の実』はマーティン・デニーみたいなエキゾティック・ミュー ジックをやろうっていう狙いがはっきりあったから。それを細野さんは見抜いてたんだな。でも、細野さんはこういうもの気に入ると思ってたんだ。細野さんこ ういうの好きなはずだし。こっちも相当うまく出来たと思ったんだけど、細野さんの好きな音楽だから、逆に見え見えなわけよ。細野さんは、ぼくらにもっと独 自の音楽を作らせるためにやらせてくれてるんだから、当時それじゃダメだったんだね」(5)
 黒い影のゴンドラ
「この曲は、他に比べて音像がデッドなの。リヴァーブをほとんど使ってない。この曲を作ってるときに、細野さんがカルロス・ダレッシオっていう作曲家の 『インディア・ソング』っていうサントラ盤を持ってきて、スタジオでかけたの。それはエコーがない、すごいデッドな音像のレコードなの。細野さんもデッド なレコーディングが好きな人だよね。目の前にあるような渋い音。狭い部屋に楽団が入って演奏する…部屋のアンビエンスだけって感じだね。『黒い影のゴンド ラ、この曲はこんな感じにしたら?』って細野さんは言うので、ぼくはそれをすごく気に入って、マネをしてミックスしてみた」
(5)
 私の運命線
「最 後の足音は細野さん。ぼくは『はらいそ』の有名な『この次はモア・ベターよ』って走るエンディング、あれがやりたくて、やりたくて、アルバムの最後にワー ルドスタンダードでも足音を入れるって、ずっと決めてたの。細野さん、このレコーディングのこのときチャップリンのまねしてるんだよね(笑)。途中で自分 で『クス』って笑う。最後に止まるときに靴音が『キュ〜』って鳴る。楽しい思い出です」
(5)

1985/08/21 ピチカート・ファイヴ『オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス』発売。
produce
「(編注:デモ・テープは)ガレージで録ったような、音だったんですけど、それをもう一度、スタジオで録り直したんですが」(18)
「ピチカート・ファイヴというのは、非常に、おしゃれが好きで、えー、レコード・ジャケットを見たら『わぁ〜おしゃれしてるな』というようなのが、よくわ かってもらえるんですけど、えーなぜかっていうと映画が好きだったりね、えーシャレが好きですからね。『オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス』ってい うぐらいで。えー非常によくその、映画の良さを知ってたりして」
(18)

高浪慶太郎の証言
「細野さんは僕らのデモ・テープをとても気に入って、『デモ・テープのまんまリリースすれば?』と仰ったんですけど、ぼくらとしてはデモに信号音が漏れて いましたし、ちゃんとしたスタジオでレコーディングしたかったので、音羽・LDKスタジオでレコーディングさせてもらいました。」
(11)
「仕上がりはTEACの音に慣れていたせいか、おとなしくて、きれいすぎると思っていました。もうちょっとワイルドというか、コンプ多目な感じがよかった なぁ‥‥という印象。細野さんからは『ピチカートは曲のアイディアは面白いから、次回はもっと音質にこだわってほしい』と言われた記憶があります。」
(11)

小西康陽の証言
「レコード・プロデューサーって、厳しいのかと思ってたら、言わなすぎるほど言わないんです。スタジオでも、ニーチェなんか読んでんの(笑)。でも、ポイントはつくんですよ」
(42)

1985/08/22 『GB』10月号(CBSソニー出版)発売。
はっぴいえんどインタビュー/A LONG INTERVAL

1985/08 『レヴ』vol.3(レヴ・プロダクト)発売。
インタビュー/地球という新しい民族音楽

1985/09 『スタジオ・ボイス』10月号(流行通信)発売。
越美晴「テクノスタルジー」:写真

1985/09/01 16:00 FM東京『トップ・オブ・ジャパン』放送。出演。
DJ:小倉エージ
出演:大滝詠一、鈴木茂、松本隆
※編注:特集「CITY - はっぴいえんど」1。

1985/09/04 『FMステーション』9月9日号(ダイヤモンド社)発売。連載「SALON DE TECHNO」開始。
連載「SALON DE TECHNO」1/ワールド・フェイマス・テクノポップ
「『サロン・ド・テクノ』なんて連載しているんですけど」(47)
「ノンスタンダードというレーベルに集まってきた若いミュージシャンたちが、自分たちはテクノだと言ってるんですよね。(笑)あれ、テクノってまだこんな みんな好きなの、という感じなんですよ。というのは、もういろんなところでテクノはもうやっぱり終わったと言われたり、テクノという名前がついているだけ で拒否反応示す人が」
(47)
「いっぱいいるんですよ」(47)
「いわゆるテクノ=管理という図式を好む人が多い」
(15)
「テクノの意味性に囚われたオトナたちは、最初から肝心な音楽など聴いていなかったのだ。YMOの当初、オトナどもはどいつもこいつも私たちの音楽など信 じてなかったばい。機械が音楽を作る=非人間的、という先入観が、彼らの世界をうすっぺらいものにしていたのである。この先入観はつまらない世界を作りが ちだ」
(61)
「さて、このようなせまい世界で、拡散するほど広い可能性を持ったテクノは、結局最後の最後まで理解されることなく、とうとうYMOを散開に至らせることになった。そして人々はホッとし、何だかワケのわからないものを忘れることにしたのだった。」
(61)
「しかし日本ではゴミ箱いきになったテクノも、外国ではちゃーんと生きていたんですばい。」
(61)
「この日本でも自らテクノと称する若き音楽家たちが、オトナの非難をものともせず誇りさえ漂わせて私の所を訪ねてくるようになったのだ。」(61)
「ミュージシャンのなかには、まだテクノでやれるグループがいっぱいあるって言う 若い連中がいるからね。そんなに魅力があるのかと。じゃあ今年(編注:1985年)いっぱいぐらいテクノで頑張ってみようかなって思ってたところなんで す。それも一年で、今年いっぱいでやめるつもりなんですけど。それほどテクノの響きというのは割とレンジが広くって、みんなぼくが説明した以上に肌で知っ ているというのかな。テクノというころ合いをね」(47)

1985/09/05 1:00 ニッポン放送『オールナイト・ニッポン・スペシャル 〜俺たちがはっぴいえんどだ!』放送。出演。
共演:大滝詠一、鈴木茂、松本隆
出演:佐野元春、薬師丸ひろ子、藤井フミヤ、武内亨、桑田佳祐

1985/09/05 はっぴいえんど『THE HAPPY END』発売。
12月の雨の日:bass
風をあつめて:bass, vocal
花いちもんめ:bass
さよならアメリカ、さよならニッポン:bass

コメント
テキスト/はっぴいえんど宣言
座談会/台風男たちの午後 出席者:大滝詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆
「私達は、『はっぴいえんど』を体験しなかった世代のために、このアルバムを 贈ります。企業主義、商業主義、が先導する音楽業界の中で、三つのレコード会社が『はっぴいえんど』の音楽を守るためにビジネスの枠を越えて協力してくれ ました。その英断に感謝します。」(13)
「まず、このライブ・アルバムが出るってことが大事なんだ。で、そのレコードがどれくらいぼくたちを引っぱってくれるか」
(45)
「こういう、サービス精神が欠如したものは、商売にならないということになると
…、サービスが足りなかったのかと、反省しなきゃならなくなる(笑)」(7)

松本隆の証言
「昔はっぴいえんどを聞いたことがない世代に聴いてもらいたいよね。そのうえで否定されるならされるでいいし。とにかく石は投げたんだから。あとは、誰がそれを受け止めて、どんなふうに波紋を描いてくれるか」
(45)
「波紋がどれくらい広がるか、ね」(45)

大滝詠一の証言
「七十五年から八〇年のナイアガラ一期を『NIAGARA VOX』というお墓にした。」
(13)
「八〇年から八十五年をひと区切りにしたお墓ができるかという最中に、『はっぴいえんど』のお墓もたてちゃったとい うわけなのである。こんな楽しいことはない。自分のバックグラウンドとしてつねに結びつくもの。それらを次々にお墓にしていく。それを自分から切り離す必 要があるかどうかは、よくわからないけれど、まずちょっとお墓をたてて、そこからあらわれる一つの亡霊が人格にまとまるかどうか見てみたい気分なのであ る。そうでもしないと自分の正体が無いというか、具体的な力に結びついていくことができないような気がする。というわけで、まあとりあえず、『はっぴいえ んど』のお墓をたてられて、こんなうれしいことはない」(13)

1985/09/05 坂本龍一「ステッピン・イントゥー・エイジア」発売。
ステッピン・イントゥー・エイジア:bass
ステッピン・イントゥー・エイジア(アーバン・ミックス):bass

1985/09 『キーボード・ランド』10月号(リットーミュージック)発売。
インタビュー/about COINCIDENTAL MUSIC

1985/09/08 16:00 FM東京『トップ・オブ・ジャパン』放送。出演。
DJ:小倉エージ
出演:大滝詠一、鈴木茂、松本隆
※編注:特集「CITY - はっぴいえんど」2。

1985/09/10 『フールズ・メイト』10月号(フールズ・メイト)発売。
鼎談/民族音楽としての都市音楽 大竹伸朗 × 細野晴臣 × 北村昌士
※編注:7月28日に催された西武百貨店池袋店・スタジオ200でのレクチャーの採録。

1985/09/10 秋にオープン予定のディスコのためのDJオーディション二次審査で審査員。名古屋。
審査員:和田博巳、秋山道男、安野ともこ
※編注:一次審査(書類選考)の申込み期限は8月31日(消印有効)。参加者募集の広告で10月末オープン予定とされたこのディスコは、11月3日にオープンした「ダンスホール」であろう。

1985/09/14 ピチカート・ファイヴ&ワールドスタンダード『デビュー記念コンサート』に司会として出演。渋谷/LIVE INN。
出演:ピチカート・ファイヴ、ワールドスタンダード
鈴木惣一朗の証言
「デビューが一緒なの。それで細野さんの司会で、ジョイントのデビュー記念コンサートを演りました。そうそう、小西くんと細野さんとぼくでパジャマ姿でミニ・コントもやったんだ」
(5)

長門芳郎の証言
「司会は、9月なのになぜかサンタクロースの格好をした細野さんだった。」
(21)

1985/09/15 フレンズ・オブ・アース、レコーディング開始。観音崎マリンスタジオ。

「一 人でやってっと、やっぱりね、あのー埒があかないんですよ。つまりどっから始まってどこで終わるかっていうのがあんまりないでしょ一人だと。一生ダラダラ 続いちゃいそうでしょ(笑)? そうじゃなくて、ひとつのなんかアイディアがあったら、チーム作って、んーワーッてみんなでこう、お祝いしちゃうっていうのが、面白いんじゃないかと思っ て」(40)

野中英紀の証言
「細野さんと僕は、とりあえず2人のユニットで"FRIENDS OF EARTH"をスタートすることになった」(62)
「細野さんが作ったオケを使って何かやろうかということで、それが『ストレンジ・ラヴ(フォンク・ヴァージョン)』でした」(11)
「F.O.E名義の最初のレコーディング」(62)
「ぼくはトラックにヴォーカルを重ねただけだったんですが、その後の作業では、細野さんのシーケンス・トラックに対してぼくが別のシーケンスを乗せていくような形になりました。楽曲的には『OTTマニフェスト』が初めての共同作業だったと思います」
(11)
「ベーシック・トラックは観音崎のマリーン・スタジオでレコーディングしたんですけど、スタジオから海が見えて、ホテルのすぐ横にスタジオがあるんですよ」
(63)
「やっぱり自然環境のよいところのほうがポジティブで健康的な方向に行くんじゃないかという結論に達したんですよ。都内はね、いろんな電波が渦巻いているから。海とか山には浄化作用があるでしょ」
(63)
「朝起きて、スタジオに行って打ち込みを始めるんだけど、盛り上がっている人が朝のうちスタジオを占拠していいことになってるわけ」(63)
「誰かは必ず盛り上がってる。で、その人が終わると、今度は他の人がスタジオに入って、というふうにしてやると1日に5曲ぐらいできちゃったりする。そのデータはファイルしておいて、都内のスタジオに持って帰ってきて編集し直したりもできるので、すごく早くできた」(63)

1985/09/15 16:00 FM東京『トップ・オブ・ジャパン』放送。出演。
キャラメル・ママからティン・パン・アレイへ
 DJ:小倉エージ
 出演:朝岡直美、鈴木茂
※編注:特集「CITY - はっぴいえんど」3。

1985/09/18 『FMステーション』9月23日号(ダイヤモンド社)発売。
連載「SALON DE TECHNO」2/日本の音楽事情

1985/09 西村麻聡に偶然会い、フレンズ・オブ・アースに誘う。

「ごぶさたしてたわけ」(31)
「喫茶店でバッタリ会って。『やんないか』といったら『まだやりたい』と言うんで、それじゃやろう、と、ま、けっこういいかげんに…
…」(31)
「縁の面ではしっかりしているけど、ビジネス的にはいいかげんで」(31)
「Friends Of Earthを発展させてFOEにして、どうやって人を集めようかと思ったとき、最初は厳密なチェックをしようとか、まるで結社のような形で、とも思ったけ れど。というのはシークレット・ドクトリンみたいなものが、どうしても必要なわけ、バンドには。ある程度厳密な制約が必要なの。資格というか。そういうの を決めてオーディションをしようかとも考えたけれども、やっぱり不自然で硬くてね。あんまりいい結果が出そうもなかったので、それはやめにして自然にまか せた。そしたら、自然にまかせたほうが、かえって厳密な資格というのをもたらしてくれた。やっぱり操作できるものじゃないんだよね」
(31)

1985/09/20 『サウンドミディア』10月号(ヤマハ音楽振興会)発売。
アンケート/クラッシック1985

1985/09/21 『マーキュリック・ダンス』発売。
produce, compose, perform
 水と光
 水銀〜躍動の踊り
 美の生成
 大地へ
 火の化石
 五十鈴
 水晶の演技
 龍の道
 風の国
 空へ

序文
解説
後記

「レコード化したんです」(30)
「A面は戸隠の山中で、B面は東京のスタジオで録音がなされた。両面の違いも聴きとっていただきたい。」
(64)
「できたときに、山へ行って、例えば天河の村に行って、AB両面聞くんですけど、A面はもう全く溶け込んで違和感がないんです。でも、B面をそこで聞いていると苦痛なんです。何かいたたまれない気持ちになってくるんですね」
(47)
「宗教的なニュアンスというのは、『マーキュリック・ダンス』のなかに少しはあるんですけれども、B面でそれをぶち壊したいという感じがあって、どっちにでも揺れ動いていきたいという感じなんですよ。聞く人にもそれが伝われば、一緒に揺れ動きたいと思っているんですよね」
(47)
「この作品がサラスヴァティの耳に叶うことを祈る。」(64)
「(編注:サラスヴァティは)日本では弁天様ともいいますが、弁財天のことです。ヴィーナという琵琶みたいな楽器を持っている女神で」
(30)
「弁天様は芸術の神様なので、とても親近感があってね」(30)
「以前、仏教のことを調べたんですが、いろんな仏様がいるでしょ。あの仏様は、釈迦が唯一実在した人物で、ほかの仏 様はみんな象徴、シンボルなんですね。人間には個性があって、例えば血液型でA型、B型と分けて個性を説明したりしますね。そういう現実的なものじゃない んだけど、いろんな個性のエキスを抽出して、理想型にすると、菩薩とか観音とかの仏様のシンボルになって、仏様にお祈りする人は、その個性を磨きたいんだ と思うんです。僕の場合はその色がお地蔵さんだと。お地蔵さんは、仏様の中では、唯一、人間の姿をして袈裟を着ている。他の仏様は天上にいて下界を見下ろ しているんだけど、お地蔵さんは地獄の底まで歩いていくわけです(笑)。釈迦が五十六億七千万年後に弥勒となって出るまでの場つなぎとして現われたのがお 地蔵さんだと。ということは、実は人間そのものではないかと思うんですね。これが神道になると、また、ぜんぜんちがうんです。こちらの神様は、天気とか自 然現象とか、そういうもののシンボルなんです。あるいは歴史的な時間的なシンボルだったりする。複雑な要素がからみあっているんです。弁天様にしても、宗 像の神様と合体しているのがあったりする。宗像というのは、中国、朝鮮を経ないでシルクロードの国々と直接貿易していた一族で、つまりアラブと直結してい たわけです。そういうことも考えるとおもしろくてね」(30)

空へ
「これは気に入ってるんだ、珍しく。ロジカルに作ったんだ。無限に繋がっていくんだ、音が構造的に。そして常に気分が一新されていくような不思議な形になっている」
(34)
「一応癒し系なのかね。でも、当時これに反応したのは癒し系の人ではなくって、大学生だったんだよ、芸大生とかね」
(34)

1985/09/21 『パラダイスビュー』発売。
produce, compose, perform
 イメージ・オブ・パラダイス
 イメージ・オブ・ビュー
 魂のダンス
 ユタの祈り
 アッティ
 火の車
 海上トラック
 琉球ジャズ
 パラダイスビュー
魂のダンス
「アルバムの中で、自分の中で一番、気に入ってしまったのが、即興で作ったんですが、『MABUI DANCE』という曲。これはその後の、ぼくのソロにも、たまに、出てくる、モチーフを持ってます。この時初めて、咄嗟に出てきた、音とフレーズ」
(37)
「映画のテーマがマブイなんです。マブイを落としてブタに食べられちゃったりする(笑)」
(30)

ユタの祈り
「映画でユタが出てくる場面につけただけです」
(30)

1985/09/22 16:00 FM東京『トップ・オブ・ジャパン』放送。出演。
チャンキー・クルージング/細野晴臣の旅
 DJ:小倉エージ
 出演:三上昌晴、鈴木惣一朗、高浪慶太郎、朝岡直美
※編注:特集「CITY - はっぴいえんど」4。

1985/09/25 『写楽』11月号(小学館)発売。
はっぴいえんどインタビュー/"神話"を呼びもどす季節がやってきた!

1985/09/27 高橋竜一のインタビュー取材を受ける。

※編注:『キーボード・スペシャル』12月号(11月8日発売)に掲載。

1985/10/02 『FMステーション』10月7日号(ダイヤモンド社)発売。
連載「SALON DE TECHNO」3
※編注:未確認。

1985/10/05 松本伊代「月下美人/お楽しみは これから……」発売
月下美人:compose

1985/10/05 『ジャパン・ミュージック・オブ・アーツ 〜ノンスタンダード・スペシャル』に司会として出演。大阪/近鉄劇場。
出演:ピチカート・ファイヴ、Shi-Shonen、アーバン・ダンス、ミカド

1985 東京グランギニョル公演『ライチ・光クラブ』フライヤー発行
寄稿/オーバー・ザ・トップ!!

1985/10/16 『FMステーション』10月21日号(ダイヤモンド社)発売。
連載「SALON DE TECHNO」4/観光音楽

1985/10/18 18:30 『カシオ・スーパー・サウンド '85』にゲスト出演。九段下/日本武道館。
出演:冨田勲、ミカド、千住真理子

高橋幸宏  高橋幸宏(vo, syn, ds)、カルロス・アロマー(g, vo, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, cho)、ロドニー・ドラマー(b)、立花ハジメ(sax, g, cho)、矢口博康(sax, cho)、越美晴(syn, cho)、細野晴臣(syn, vo, cho)
 キュー
 予感
 ウォーキング・トゥ・ザ・ビート
 きっとうまくいく
 今日の空
 ナイス・エイジ
※編注:細野晴臣の演奏参加曲のみ掲載。

1985/10/18 『キーボード・マガジン』11月号(リットーミュージック)発売。
インタビュー/常に何か違ったことをやっていくというのが僕のスタイル, 自分自身を驚かさないと退屈してしまいますね
※編注:アメリカの雑誌『KEYBORD』(同年8月号)からの転載。

1985/10/19 17:30 よみうりテレビ『なげやり倶楽部』放送。出演。
共演:中島らも、鮎川誠、シーナ
※編注:「天敵を探せ!」「なげやり大明神」などトーク・コーナーに出演。終 盤にはノンスタンダード・レーベルのプロモーションも。神戸/ポートアイランドのレストラン「エキゾチックタウン」で公開録画された。なお、番組はこの日 が初回の放送で、コント部分に竹中直人、シティボーイズ、いとうせいこう、ダウンタウンらが出演、構成作家として宮沢章夫も参加している。

1985 アーバンダンスのレコーディング。銀座/音響ハウス。
エイリアン・ラヴァー
成田忍の証言
「僕の場合、だいたい頭で作っちゃうんです。試行錯誤でやっていくと結構バラバラなものができるけど、最初から最後、音の出まで頭の中で作っちゃうんで、 大きく違えてるつもりでも、何回も繰り返していくうちに似てくるんですよね。そこを細野氏に指摘されましてね。で」
(65)
「共作することになったんです」
(65)
「いわゆる細野さんのスタイルで、僕の持ってきたテーマを消化するという感じです。細野晴臣という大きな傘の下でできるというのは大きな経験でしたね。お互いに信頼しないとできないことですし」(65)
「(編注:細野は)MC-4で打ち込み参加です」
(11)

※編注:ミニ・アルバム『セラミック・ダンサー』収録曲。『セラミック・ダンサー』のレコーディングは10月17日〜11月1日に行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。

1985/10/21 『エンドレス・トーキング』発売。
produce, compose, perform
 威勢のいい滝
 動物の意見
 昆虫は非常事態を主張する
 人類の長いお噺
 天国の第一人者
 オペラによる制御回路
 揺動・#1
 終りのないおしゃべり
 スクラッチによるジマノフスキー鳥
 デジタル標本化による民族学
 女神プリオシーナ
 羽の生えた動物
 揺動・#2
「まとめたんだ」(11)
「これらの音源はコンピュータにより制御されたデジタル・シンセサイザーとサンプリング・システムを使用し、即興的にスチューダーの2トラック・テープレ コーダーで録音された。したがって通常のマルチ録音に不可欠なミックス・ダウンの行程(編注:原文ママ)は排除されている。また、それらを3分或いは6分 用のエンドレス・カセットテープにコピーする必要上、B-6(編注:「揺動・
#2」)以外は全て3分間の楽曲になった。」(36)
「タイトルの『エンドレス・トーキング』というのは後にこのアルバムのためにつけた」(36)
「既に誰もいなくなった薄い夕まぐれ、鳥や猫の鳴き声に溶けあって小動物のような造形物から音が流れるのをポツネンと聞いていて、その終りのない『おしゃべり』が哀しくまたユーモラスでもあり、急にいとおしくなったことが強く印象として残っていたのである。」(36)
「曲のタイトルは、人形に即して僕が勝手につけたんです。例えば『威勢のいい滝』は、滝があってその側にオブジェが置いてあったとかね。でも、どっちかと いえば、音の印象からつけたというほうが正確かな。たまたまできた音楽が、動物の意見に聴こえたから『動物の意見』とか(笑)」
(30)

天国の第一人者
「『銀河鉄道の夜』のサントラを作ってる最中だったんで、そこからヒントを得て作ったような曲です」
(37)

1985/10/21 越美晴「野ばら/マリアンジュ」発売。
produce

1985/10/21 ミカド「哀しみのカーナヴァル/ラ・フィーユ・デュ・ソレイユ(太陽のデュオ)」発売。
executive produce

1985/10/22 『GB』12月号(CBSソニー出版)発売。
対談/チェッカーズ × 細野晴臣

1985/10/26 FM東京『トップ・オブ・ジャパン』放送。出演。
DJ:小倉エージ
出演:大滝詠一、鈴木茂、松本隆
※編注:特集「CITY - はっぴいえんど」9(最終回)。

1985/10/30 『ミュージック・ステディ』11月号(ステディ出版)発売。
インタビュー/OTTという言葉をやっとみつけ出してきて、テクノという言葉を捨てられる

1985/10/30 『FMステーション』11月4日号(ダイヤモンド社)発売。
連載「SALON DE TECHNO」5
※編注:未確認。

1985/11/01 研ナオコ『ディープ』発売
日本人形:compose, arrangement
日本人形
「気に入ってますね。怖い歌ですけど、よく考えると(笑)。これはなんか、予想以上にうまくできたなっていう印象で」
(32)

1985/11/01 高橋幸宏『ワンス ア フール 遥かなる想い』発売
昆虫記:compose, synthesizers
昆虫記
「好きです」
(32)
「聴き直したら、『誰が書いたの?』、なんて思って。そしたら、自分だった(笑)」
(32)

高橋幸宏の証言
 昆虫記
「曲は細野さん」
(66)
「すごく変わったコード書いてるんですよね」
(66)
「CZ(編注:カシオのシンセサイザー)のベースラインも細野さん本人が弾いてます。観音崎マリンスタジオに細野さんにも来てもらって」(66)

※編注:その他の参加曲は特定不能。クレジットにおける細野晴臣の担当楽器にはベースも記載されている。

1985/11/03 『朝日新聞』朝刊(朝日新聞社)発行。
連載企画「新版いろはかるた」/ホロン ホログラフィー ホトケにホウキ星 作・細野晴臣 え・黒鉄ヒロシ
※編注:一枚絵のビジュアル作品。とはいえ、紙面上はごく小さな扱いで掲載されている。説明文にあたるキャプションは細野晴臣によるものであろう。

1985/11/03 秋山道男プロデュースのディスコ「ダンスホール」が名古屋にオープン。
音楽アドバイザー, テーマ曲「We Gonna Make DANCE HALL」制作
野中英紀の証言
 We Gonna Make DANCE HALL
「自分たちの言いたかったことをラップでやってみた曲。名古屋にできたディスコにテーマ曲をたのまれ、東京にも作るという条件で、ボクたちロハ(編注:タダ=無 償の意味。漢字の「只」に由来)でやることにした。『東京にDANCE HALLを作ってくれなきゃ困るじゃん』と、アジってるんですよ」
(63)
「最初は細野さんがリズム・パターンとラフなラップの詞を作って、それをボクが英訳してフレージングし直し、その後、ブードゥっぽい要素を入れたり、リズム・トラックを作り直したりして完パケた」(63)

※編注:「We Gonna Make DANCE HALL」は、ディスコ「ダンスホール」で連日プレイされた。のちに「ダンスホール」のタイトルでフレンズ・オブ・アース『デクライン・オブ・O.T.T』に収録。

1985/11/08 『キーボード・スペシャル』12月号(立東社)発売。
インタビュー/リミッターのかかったホワイト・ノイズを切り裂くOTTの波とは?

1985/11/09 『宝島』12月号(JICC出版局)発売。
対談/テクノの次はOTT 細野晴臣 × 相倉久人

1985/11 フレンズ・オブ・アースのミュージック・ビデオ「ストレンジ・ラヴ」が、カナダ/トロントで開催された第3回国際ビデオ・フェスティバルにて優秀賞(音楽部門)と審査員特別賞を受賞。

※編注:フェスティバルは11月7〜10日に開催。各賞の発表は最終日に行なわれたと思われる。

1985/11/13 『FMステーション』11月18日号(ダイヤモンド社)発売。
連載「SALON DE TECHNO」最終回/新しい飛躍

1985/11/13 渡辺裕之のインタビュー取材を受ける。代官山/ミディアム。

※編注:『ホリック』5号(12月発売)に掲載。

1985/11/19 脇田愛二郎展『錆』レセプションに出席。佐賀町エギジビット・スペース。

※編注:『エンドレス・トーキング』のテープに乗せて、辻井喬こと堤清二が詩の朗読を行なった。

1985/11/21 越美晴『ボーイ・ソプラノ』発売。
produce
 夕べの祈り:compose
「関わったスタッフの方々が、やっと聴いてくれるようになった。『野ばら』や 『アヴェ・マリア』を歌うまでは、美晴ちゃんのイメージというのは難しかったよ。だって、わからないんだもの。越路吹雪を好きだと言って、歌っているのを 聴くと、全然違う」(53)

夕べの祈り
「山上路夫さんの歌詞が好きで。なんかピュアな世界だなと思って」
(32)

アヴェ・マリア
「練習で録ったものでしたからね。それをそのまま使っちゃった。彼女、神がかってた」
(53)
「『アヴェ・マリア』を歌うのは、マリア様に認められないと歌えないんだと僕は思ってた」
(53)

コシミハルの証言
 夕べの祈り
「ルネ・シマールとかっていう子供の歌手がいて」
(57)
「その妹(編注:ナタリー・シマール)のためのデモテープを細野さんが作ってて。とてもかわいらしい曲だったので、取り上げました。アレンジは原曲に忠実に、牧歌的で遠くで鐘の音が聴こえるような、のどかなイメージで作りました」
(57)
「細野さんは最初から、いつもわかる。私にいちばん最初に会った時に、『夕べの祈り』のような歌を歌ってくれって言ってたけど、その時は『ふーん』っていう感じだった」
(53)
 走れウサギ
「詞も曲もとっても良かったです。当時の自分の気持ちに合ってました。自分の曲でないものを歌う時はほとんどすべてがそうなんですけど、最初の譜面に忠実 に歌うというか、一番最初にある形にどれだけ近付けるかっていう。だからこれは細野さんと糸井重里さんが書いた原形に近付けたらなというのがありました」
(57)

1985/11/27 不思議な体験。

「11月の27日にね、夢を見て、夢といってもそれは全然覚えていないんですけど、起きたら右手の頭脳線の切れ端にですね、筆で"ア"という字が書いてあるんです」
(67)
「たぶん本当の墨で書いてあるんです。わりとこう、スッときれいな字でね。それで手を洗えば消えるようなんだけど、僕はこうして(手のひらを眺める)悩んじゃったんです。つまり夜中に夢遊病のように起きあがって自分で…
…」(67)
「でも僕は右利きですから。わざわざ左手で書いたことになる。実際やってみたんですけど、メチャクチャな字になっ ちゃうんですよね。それでこれはもうありえないとは思っていても、会う人ごとに書けるチャンスのあった人ごとに知らないかって聞きまくったんです。で、結 局は自分で書いたと納得するほかなかった。これは何かのメッセージに違いないと受けとってね。ちょうどそれがハレー彗星が肉眼の範囲で一番地球に近づいた と報道された日なんですよ。しかもその日、僕の友人が天河という神社の宮司さんから突然電話をもらって『今日は夜明けだ』と告げられたという。そんなこと が続いて、あぁ、やっぱりこれは何かのメッセージだと思わざるをえなくなって」(67)
「僕は言魂(コトダマ)というのに凄く興味があって、で、記号論が一時流行ったでしょう、日本でも。それで日本人が 記号論から入る世界は、最後は言魂にしか行かないんでね、ああ、いい傾向かなって思ってたんですよ。日本の向かう先はそういう古代、2000年前にルーツ があるはずだ。そう思っていた時にずっと読みたかった『秀真伝(ホツマツタイ)』という本が出たんです。ホツマという古代文字に関する本で、当時僕は言葉 だけの"ア"とか"ワ"とかいう夢、いわば言魂の夢を見ていたんです」(67)
「何といったらいいのか、よくわからないんですけど、余韻が言葉で残るんです。それで、ある日"ユシマ"っていう夢 を見たんですね。そのあと『秀真伝』を読んでいたら"ユ"というのは清めるという意味で、"シマ"というのは集中しているという言葉だと。それで"ユシマ "っていうのが"清める壺"だなってことが自分なりにわかって、実際湯島神社に行ってみたりしたんですよ。水晶を買ってきたんですけど」(67)
「"ア"というのは"天"という意味があるんです。それで僕はまぁ、それまで自分の仕事も含め、音楽自体にどうなっちゃうんだろうという強い危機感があってもがいていたんですけど、これはもう天とつながるほかないな、と」(67)

1985/11/28 あがた森魚『永遠の遠国』発売。
淋しいエスキモウの様に:arrangement, acoustic guitar, castanets
ルージュのワルツ〜SMILE:arrangement
※編注:「永遠の遠国のうた」(初出はあがた森魚の1978年の非売品LP『少年洋菓 永遠の遠国』)も収録。

1985/12 『ホリック』5号(雪渓書房)発売。
インタビュー/人間関係が薄れた時コンピューターが待っていた

1985/12 取材のためアメリカへ。野中英紀が同行。

「目的はそのー、ミュージシャンに会うことで」
(68)
「仕事だったんだけど、あのーインタビューをしてきたのね」
(69)
「きっかけは、FM東京の番組作り(編注:『サウンドマーケット』)にあったけど、FOEの音楽は新型のダンス・ミュージックでテクノ・ファンクだからそのあたりの動きも注目したよ。2年ぶりのニューヨークで、様々なことが確認できたね」
(70)
「非常にぼくは、勉強になりましたね」
(71)
「クリスマス・シーズンだったからね」(72)
「多分ホリデイで、誰もいないんじゃないかと思ったんですけど」
(68)
「あんまりいなかった」(69)
「4、5人、いましたけど」
(68)
「だからニューヨークにどっかりとこう、いる人たちにしか会えなかったんだけど」
(69)
「毎日毎日違う人に会ってたんで、一日一日が、非常に違う印象を持ってたんです」
(71)
「かなりそのー、翻弄されましたが」
(71)
「独特の、旅を、してきました」(71)
「いつも行くたんびにね、"世界の果て"っていう感じがするのね、ぼくは」(68)
「ところがニューヨーク住んでる人は、世界の、中心と思ってるでしょ(笑)? そこでね、なんかこう、ギャップがあるみたいで、いつも行くたんびにこう、空港からね、えーハイウェイ行って、マンハッタンが見えてくると、なんか、独特の気分になる」(68)
「どういう気分かっていうと、喩えて言うならまあ、『ブレードランナー』みたいなね、ああいう、錆びた感じ? 鉄の。そういうなんかね、物悲しいというか(笑)、すさんだというか」(68)
「最初に着いた日にそのー、あーこれは『ブレードランナー』の街に来ちゃったーと思って、非常に、まあスリリングな、気持ちになったんですけど」
(71)

※編注:滞在期間は約1週間。

1985/12/09 ビル・ラズウェル、アントン・フィア、アイーヴ・ディエングにインタビュー。通訳は野中英紀。ニューヨーク/ZUTTO〜マスターディスク。

ビル・ラズウェルと逢ったのはニューヨークのまっ暗なコリアン・レストランだった。」(61)
「予期せぬ場所だったんですけど」(72)
「看板が、ハングルで書いてあって、誰も入ってこれないようなとこ」
(72)
「彼がカンファタブルな所がいいというので、自ら、そのコリアン・バーを指定してきた。それも営業前の、真っ暗で雑然とした感じのところにね」(70)
「韓国の歌謡曲が流れる濃密な空気の店が彼の一番落ちつける場所なのだ。」
(61)
「彼がなぜそこを選んだかというと、そこはニューヨークでは(音楽的には)まったくどこにも属していない空白な場所 なのね。さらに営業前で、飾りっ気もまったくないし。そこでひとつだけテーブルに光があたって、コリアンのホステスがひとり、サーブしてくれるんだけど、 非常にSF的だった。すさんだ感じはまるでブレード・ランナーのようでもあったね。彼にしてみれば、東洋が好きで、日本的な東京のような感じのする場所と いうことで快適なんだろうけど、僕らにはとても、そんな感じはなかったね。いわば彼らには温泉のようなところだろうけど、本当の温泉に行きたくなったね」(70)
「ニューヨークの、シーンのことをちょっと、まあ、あー訊いたんですけど」(73)
「ビル・ラズウェルがー、話したことっていうのはすごく、面白かったんですけど何が面白かったかって言うとやっぱり、 えー東京、ではすごくあのヒップ・ホップというのは、まあ、わかりやすいニューヨークのね、音楽的な状況の一面だったんですけど、今はもうそんなものはな いというね」(72)
「いきなり『何もない、まったく何もないよ。ヒップ・ホップなんて最初からなかったし、今ではまったくダメだ』なんていわれて、ガックリきたね」(70)
「ニューヨークの、音楽状況というのがそれほど、面白くないよと、いう印象をまず持っちゃったんですね最初に」
(71)
ニューヨーク行ってすぐちょっと落ち込んじゃって」(73)
「クールでね、『ヒップ・ホップ・シーンなんかもともとなかった』とかね」(69)
「だから『アフリカン・ミュージックはどうだ』って言ったら『そういうシーンもない』と」
(69)
「もう白紙で、混沌としてるという、ことが、まあ、その中心的な人物であるそのビルから、そんなものはないんだと、そういう発言によってそ のー、より一層明らかになってきたという。これはまあ、世界的に見ても」(72)
「面白いことがあんまりないというね(笑)、えーことの裏返しの発言だということなんですけど。えー、まあ白紙に戻っちゃった状態なんで、そのー、混沌と した状態と言っても一身にあのビル・ラズウェルとか、それからトレヴァー・ホーンとか、そういった、なんかやってくれるプロデューサーのとこに全部こう集 まってきちゃう。でしかもジャンルがもうなくなっちゃってきて、ジャズからーカントリーから、あーいろんなそのー、トレヴァー・ホーンを見ててもね、そ のー、おーもう、ああいった音楽をやんないという、宣言、したり」(72)
「ビルは東京には音楽はない、ニューヨーク自体に音楽的なエネルギーは全くな いと言い切った。その一方で実は東洋の、とりわけ東京の秘められたエネルギーを、そして韓国のサムルノリのパワーを掘りあてようとしている。そういう彼を 思いうかべてみると、彼が『ヒップ・ホップは無かった』と言っているのは非常に興味深い。ヒップ・ホップとニューヨークを、そしてヒップ・ホップとビルを 結びつけるのもマチガイだと彼は言う。彼はヒップ・ホップが広がりすぎてしまってもうニューヨークのものでもなんでもないと言い切ってしまっているのだ。 バンバータとは正反対だけど、それも一つの認識だ。」(61)
「ちょっと暗い、あのー会話だったんですけどね」(72)
「でも初めて会ってね、あのーなかなか、刺激的だったんですけどね」(72)
「何か揺れているところもあるようだった。」(61)
「彼もまた過剰を通してトリートメントを求めているのだ。頭のいい男だと思う」(61)
「OTTですね。彼の、存在自体がね」(72)
「結構ね、芸術家タイプのとこあるよ」(69)
「レコードはあれはね、レコードのためのもんだからね、ほんとに好きなのは、その、セッションだって言ってんのね(笑)」(69)
「ミュージシャンだね。根っからの」(69)
「『東京は新たな音楽の発振地になる可能性が高いから、長いつきあいになりそうだ』といってたね」(70)
「FOEの来日メンバーとも会ってきた。ドラムのアントン・フィアーとパーカッションのアイーブ
(70)
「セッションに加わってくれるという」(72)
「カセットテープを渡したんですよね」(72)
「FOEというグループ、ぼく、グループというかユニットですよね、それをやってて、準備してる最中」(69)
「どんどんどんどんこう、時間の、速度が速くて、えー、なんかもう、いつの間にかやることになっちゃって」(69)
「コンサートを(笑)」(69)
「メンバーが入ってくると動きがパブリックになってきて、レコード会社も売ろうとして、宣伝の仕掛けを考えて、コンサートをやろうといいだした。そのたびにコンサートをやるバンドじゃないと、拒絶して」(30)
「イヤで3度断ってたんだ。でも、4度目にどうしてもと言われて」(34)
「十回断わっていたんですけど、十一回目に負けて、ああ、わかったわかったということになって(笑)」(30)
「メインアクトやってくれって言われて。とんでもないですよね、それは。あー全然、レパートリーないし、できないんで」(69)
「条件を出して、ワン・バンドではなく、しかもトリじゃなければいいといったんです。つまりメインじゃなければいいと」(30)
「オープニングじゃなくっちゃやらないと言って」(34)
「メインアクトは誰か呼んでくれと」(69)
「最初は、まだメインもJ.Bと決まっていたわけじゃなかったんだよ」(34)
「じゃあ誰にしようかとみんなで相談した結果、これはもうジェームス・ブラウンしかいないと(笑)」(69)
「『ロッキー4』という映画で、一躍」(69)
「脚光を浴びてますからね。まあ、いいんじゃないかと」(69)
「急遽決まっちゃったんですよね」(40)
「コンサートのスポンサーが『テンポラリー・センター』という人材派遣の若い会社で、社長さんがジェームス・ブラウン好きだったせいか、それで決まっちゃったんです」(30)
「それにしてもニューヨークはすさんでいたね。もう酸化都市だね。さびた街。こちらが元気な時は、ブレード・ランナーを 楽しめるけど。街を歩いているとどんどんすさんでいくね。クリスマス・シーズンなのに飾り付けはないし、もちろんロックフェラーなんかはりっぱだけど、ダ ウン・タウンなどはひどいものだからね。ビルもいっていたけどもう何もないのね。クラブ・シーンもだめだから当然音楽もだめ」(70)
「結局どの店行っても別に、えーヒップ・ホップ、かかってるわけじゃないし、タクシー乗ると、クラシック、かけてるしね、運ちゃんは」(72)
「おとなしい、静かな音楽を(笑)、聴いてるわけで」(72)
「ラジカルなものはあんまり、いー、敬遠してるという感じもしないでもないという」(72)
「ニューヨークはとにかくすさ んでいるということを確認できたね」(70)
「僕の友人たちもニューヨークから逃げ出していたし」
(70)
「マンハッタンにいる連中はまだ何かあると思っているニューヨーク病にかかっているだけだからね。言わば頂上現象なんだろうけど、一年ごとにクルクルと シーンが変わったり、『パラディアム』がシティ・バンクのパーティをやってコンサバティヴの権化と化しているしね」
(70)

野中英紀の証言
「渡米取材の頃、メーカーがフレンズ・オブ・アースで盛り上がっていて、大阪城ホールと日本武道館を『フレンズ・オブ・アース・ライヴ』という形で押さえてあったんです」(11)
「武道館でやるつもりなんか全然なくて、何回も断ってたんです、やりたくないって。細野さんと僕との間で F•O•Eはマテリアルの段階から地道に育てていこうという方針があったんですけど、周りの要請に応えなきゃいけないという状況になってしまって、セカン ド・アクトという形で引き受けたんです」(74)
「果たしてフレンズ・オブ・アースで人が来るのか?』ということで、誰か有名な人と組んでダブル・ビル(ジョイント・ライヴ)にしようとなって、誰が言い出したか覚えてないですけど『ジェームス・ブラウンを呼ぼう』ということになったんです」
(11)
「(編注:当時のジェームス・ブラウンは)サウンドを打ち込みでやっていて『来たら面白いんじゃないか?』ということでフレンズ・オブ・アースを前座に見立てて『ジェームス・ブラウン・メインでやろう』と仕切り直されたわけです」(11)
「フレンズ・オブ・アースのメンバーは、その時点では、ぼくと細野さん、ベースの西村くん、レコーディングに参加してくれたミハルちゃんだけです」(11)
「曲もできていないしレコーディングも終わってなかったんですが、リズム体はテープじゃなくて人間でやりたいと思ってて」
(74)
「ハービー・ハンコック『ロック・イット』バンドのリズムセクションに頼もうということになりまして」(11)
「アントン・フィアーとムサ・サソーに白羽の矢を立てたんです。ところがセルロイド(編注:アントン・フィアーが参加したゴールデン・パロミノスなどをリリースしていたレーベル)の方がムサ・サソーよりアイーブ・ディエングの方がいいコンビだって推薦してくれたもんで」(74)
「ドラマーのアントン・フィアとアイーヴ・ディエングにぼくが声をかけます」(11)
「『ロック・イット』バンドのプロデューサー/ビル・ラズウェルに会いに行きました。場所はニューヨークの危ない韓国バー(笑)で『『ロック・イット』バンドのふたりを貸してくれ』と依頼しました」
(11)

※ 編注:翌1986年1月28日にFM東京『サウンドマーケット』で放送。また、『O.T.Tマ ガジン "FRIENDS OF EARTH"VOL.1』(1986年)および『サウンド&レコーディング・マガジン』1986年3月号に、それぞれ別編集のテキスト版が掲載された。マ スターディスク(マスタリング・スタジオ)では、ビル・ラズウェルがプロデュースしていたPIL『ALBUM』(坂本龍一参加)を全曲試聴。

1985/12/10 アフリカ・バンバータにインタビュー。通訳は野中英紀。ニューヨーク/トミー・ボーイ・レコード。

「バ ンバータとはトミー・ボーイ・レコードのオフィスで会った」
(70)
「彼の、レコードを出してるトミー・ボーイ・レーベルという小さな、レコード会社です。えー非常にね、入口が、汚くて、大丈夫かなと思って入ってったらすごいきれいなとこだった(笑)」(73)
「奇跡的に30分、だけ遅れて、えー、バンバータ、が来た。えーわたくしたちはラッキーだそうで」
(73)
「相変わらず、彼はね、おとなしくて、ジェントルマンで(笑)。あー、東京で会った、感じと全然、おんなじなんで、安心しましたけど」(73)
「非常に音楽的に、面白い話がいっぱいできて」(73)
「バンバータとね、ビル・ラズウェルの意見の対立が面白かったね(笑)」(69)
「ヒップ・ホップ・シーンをめぐってね」
(69)
「違う立場からの発言があって」
(73)
「ヒップ・ホップはもう終わったのかと聞くと突然、身をのりだして、『冗談じゃない、ヒップ・ ホップは終わっていない』っていうんだ」(70)
「『絶対、ヒップ・ホップ・シーンはまだ、元気だ』と」(69)
「『死んじゃいないんだ』と」(71)
「そういう発言は僕は、すごく好きですね」(73)
「ストリート・ピープルは、みんなもう、それしかないわけよね。自分たちでやる場合の、手段としてさ」(69)
「そのー、ビル・ラズウェルが非常に否定的な(笑)、考えの持ち主でね」(73)
「アチャ〜、じゃあだめか、と思ったんですけど」(71)
「その次にその、バンバータは、それに対抗してるというか」(73)
「まったく逆のことを、言いましてね」(71)
「非常に、あのー、まあ、行き詰まってるけど、打開したいという、そういう気持ちが伝わってきて、非常に、面白かったです」(73)
「気分が、かなり変わった」(71)
「カセットを聞かせてもらったけど、生きのいい、新しい感じがしたね」(70)
「リリースが、実を言うと決まってないんだって。結局そのー、ヒップ・ホップ・シーンというのがそのー、思ったよりも、やっぱり、日本で、そのー『ニューヨークはヒップ・ホップ』って言われてるほどでもなくてねやっぱり」(69)
「もうやっぱり終わると(笑)、思われてて、で孤立してるわけ。その孤立、奮闘しててね、バンバータなんか。で新し いところでゴー・ゴーの要素とり入れてね、結構すごく、いい、レコードを作ってるんだけどね。レコードになってないんだそれ、ゴメン、テープ作ってて、で 聴かせてもらってすごくよかった」(69)
「『ヒップ・ホップってのはじゃあ何だ』って訊いたら、『エレクトロ・ポップだ』と(笑)」(69)
「ヒップホップというと、日本では黒人独特の哲 学のような感じがするけど、彼がいうには、YMOやクラフトワークが大好きなように、音楽的にはエレクトリック・ポップだっていうんだ」(70)
「バンバータの、気持ちっていうのはさ、YMOとかね、クラフトワークとか、そういったーあの当時のさ、高揚感というのを非常にね、大事にしてるわけ(笑)。それでだから『エレクトロ・ポップ』って言っちゃうんだろうと思うんだけどね。そこが面白かった」(69)
「エレクトリック・ ポップっていうのは僕らFOEの考えていることのひとつでもあるし、感じることは多かったね」(70)
「日本でも会っていたから、その再確認だったけど、YMOなどの影響が、ヒップ・ホップにあって、僕らにも彼らの影響がある、お互いに影響し合っているんだっていうグローバルな動きをね」
(70)
「でも寒さのせいもあるかもしれないけどストリート・シーンがつまらなくなって、クラブ・シーンがだめになり」
(70)
「面白くないという声がいっぱいあったりして」(71)
「スクラッチやブレイク・ダンスは完全 になくなってしまったようだね。クラブのかわりにFM局などで頑張ってやっているようだけど、やはり少数派だって感じはしたね」(70)
「ニューヨークで、新しいことが起こってるとはやっぱり、どうしても思えないし、あー、例えばその、ロンドンでさえ そういう、新しいことっていうのは、感じられないし、えー、東京でさえもちろん、そうなんですけど、あー、そん中でやっぱり、非常に少数のね、あのー、動 きというのが、まだ、また潜りつつ、こう潜行して、えー、次のチャンスをね、窺ってるという感じがするわけですよ」(73)
「面白いことがないってわけじゃなくて、地下に潜って、えー表にあまり出てこない時期じゃ、ないかなと」(71)
「だからー、やっぱりこう新しい音楽、ま あヒップ・ホップをベースにしても、新しい音楽を、まあやっぱり、やって欲しいと」(73)
「YMOとか、ぼくたちが、そのー、ヒップ・ホップが好きだっていう感じはね、あのー、やっぱり、エレクトリックなビー ト、ファンク・ビートみたいなね、そういうもののその、おーやっぱり、強さってのがさ、非常に、なんて言うんだろうな、もうこれは、嫌いになれないという (笑)、感じがするわけ。もうこれはもう、ずっと、好きだと。だから、そこら辺で、それをこう、なんて言うんだろうな、簡単に捨てちゃうのはね、惜しいよ うな気がすると。だからープロデュースということよりも、自分たちでなんか、作りたいと」(73)
「そこら辺で、まあ、ぼくは応援したいと」(73)
「バンバータを」(73)
「新しいこと、おもしろいこ とをやろうとしているのが珍しい存在になってしまうのはニューヨークでも東京でも同じだっていうのはちょっと驚きだったけどな。そうなるとミュージシャ ンっていうのはかえって燃えるけどね。それでかなり盛り上って、一緒にやろうって約束してきたよ。とにかくバンバータっていう男はキュートな奴だったな」(70)
「非常に、一緒にやりたがってたね。日本の、YMOと(笑)」
(69)
「『ボディー・スナッチャーズ』を聴かせたの。そしたら『クレイジー!!』と言われたよ」
(11)
「なんか
怖かったのかな」(11)

※編注:翌1986年1月29日にFM東京『サウンドマーケット』で放送。また、『O.T.Tマガジン "FRIENDS OF EARTH"VOL.1』(1986年)および『サウンド&レコーディング・マガジン』1986年3月号に、それぞれ別編集のテキスト版が掲載された。

1985/12/11 ドクター・ジョンのコンサート観覧。終演後にインタビュー。通訳は野中英紀。ニューヨーク/ロンスター・カフェ。

「予定に入ってなかったんですけど、突然、会っちゃったんですね」(75)
「ロンスター・カフェっていう、非常にちっちゃなクラブで、えー、ポスターが出てて。『あしたの夜やるから、じゃあ行こう』っていうことで、行っちゃったんです。そこで、再会して」
(75)
「再会をよろこびあった。」(61)
「ニューヨークで唯一ほっとする人だったな。まるで親父みたいだったしね」(70)
「非常にあったかい気持ちになれるというのかな。でこう、普通、社交辞令でね、握手したりするでしょ。そうじゃなくてほんとにこう、あーなんて言うんだろう、握手したくなるっていうのかな(笑)。お互いに、なんか近寄ってって」(75)
「救われたというかね、ほっとしましたねぼくは」(75)
「ニューヨーク、と言っても彼は、ニューオーリンズの人なんで」(75)
「非常にね、日本人に近い、感性っていうのかな。なんて言うんだろう、東洋っぽいっていうか」(75)
「ドラッグから足を洗おうとしている時期で精神状態も安定しているようだったし」(70)
「非常に、気持ち、良く、会えて、よかったんです」
(75)
「ぼくたち、新しいグループ作って、非常にヒップ・ホップなこと、やろうとしてんだけど。あー、まあ好きでね。それでードクター・ジョンのその、『ジェット・セット』っていうのを聴いて、あ〜おんなじことやってるなと(笑)」(75)
「でもニューヨークにいるドクター・ジョンってなんとなく似合わないね。ニューオーリンズから一旗上げようとやってきたんだろうけど」(70)
ニューオーリンズっていうとこは不思議なとこでね、あのー非常に、不思議な、音楽とか、あのー生活があって、なかなかこうアメリカの中では異色な場所でね、エキゾティックな感じなんです」(75)
「やっぱり、彼はニューオリンズを背負いつづけている人で、あの暖かくて豊かで、ブルー・バイユーという美しい森と湖がある土地を離れていることが、彼を ナーバスにさせているようにも見えた。彼には、ニューオリンズ音楽のロックン・ロールへの貢献とか、アメリカン・ポップスのルーツ的な部分とかに、すごい 自負心があり、その素晴らしいニューオリンズ音楽を広く知ってもらいたいという願望があるのである。ニューオリンズというのはアメリカ人の心の故郷みたい なところだ。そういう豊かな自然を背負ったドクター・ジョンが、ニューヨークという人々の想念だけでできているような街にいるのは、異和感があって可哀想 な気もしないではなかった。」(61)
「ニューオーリンズとニューヨーク、(編注:コンサートを)観てるとどこだかわかんなくなっちゃって。すごい粋な、スマートなね、サウンドなんだけど」(75)
「でも、ジャズの伝統的なクラブでジャズの連中と互いに影響し会っている姿はステキだね」(70)
「ぼくにとって先生のような、ニューオリンズを心にもった男が言っていた。『音楽は魔物のようなものでね、どんなに無理をしてもそこから逃れることはできない…
…』とね。」(61)
「もう最高だな(笑)。こういう言葉、ニューオーリンズなんだよね(笑)」
(75)

※編注:翌1986 年1月30日にFM東京『サウンドマーケット』で放送。また、『O.T.Tマガジン "FRIENDS OF EARTH"VOL.1』(1986年)および『サウンド&レコーディング・マガジン』1986年3月号に、それぞれ別編集のテキスト版が掲載された。な おこの時、細野晴臣はドクター・ジョンに「ライト・プレイス・ロング・タイム」をカヴァーしたい旨を伝え、快諾を得ている。

1985/12/12 ジェームス・ブラウンにインタビュー。通訳は野中英紀。終了後、コンサート観覧。ニューオーリンズ郊外/バトン・ルージュ。

「一緒にやることになったりして、なんかこう、会うチャンスがあって、追っかけてったんですけど」(68)
「ニューヨークからぼくたちがあのー、ツアーの現場まで飛んでって」(40)
「南部の、おーすごくいいとこなんですね」(68)
「インディアンのスピリットを強く感じましたね」(67)
「ブルー・バイユー」(68)
「ディープ・サウスというか」(68)
「バトン・ルージュっていう、フランス名の、地名がついてるとこでね(笑)。非常に豊かな土地に」(68)
「ジェームス・ブラウンが、コンサートをやるために、控えてたんですよ。そこでーぼくたちも泊まって、会ったんです」(68)
「冗談のようなんですが」(68)
「ぼく寝てないんで、部屋で寝てたんですよ。突然で、起こされて、『いま始まるぞ!』っていうんで。『待ってるから』『まだか』って、怒られそうなんで(笑)、もう慌てて、来たんですよね、ドキドキしながら(笑)。そしたらもう、頭ん中まっ白でね」(68)
「ぼくは何が何だかわかんなくて、なに訊いていいかわかんなくて、非常に慌てたんですよ」(68)
「半分寝てんだけど、強制的に、頭が起きちゃいました、一部分だけ」(68)
「キングですね」(68)
「王様。いやほんとに。あのー取り巻きがワーッといまして」(68)
「物々しい雰囲気」(68)
「でよく見るとあんまり関係ない人もいっぱいいて(笑)」(68)
「マネージャーの人はなんか、のんびりした人で」(68)
「本人はそれほど、なんて言うんだろう、ちょっと孤独っぽいんだけどね(笑)」(68)
「とにかく、最初の雰囲気はその、非常に貫禄がある、威圧感がある、人でしたね」(68)
「5分ぐらいで、終わらせたいと。怖いんで」(68)
「非常に、怖いんですね、ぼくは。なぜかというと、おー、すごい、先生なんです。で、えー、大スターですね、やっぱり」(68)
「とにかく元気のよいおじさんだった。最初は大声でどなるようにしゃべるので、いささかうんざりしたが、その内容はいたって単純、人類みな兄弟っていうよ うなものなんだ。その合い間に合いの手のように『セックス・マシーン』って入る」(70)
「インタビューしても答えが全部歌詞で出てきちゃう」(67)
「笑っちゃったりしてたわけだ本人の前で。だってぼくの目の前で、『セックス・マシーン!』とか、怒鳴るんだもん(笑)」(76)
「笑うよね(笑)」(76)
「人間はセックス・マシーンということ、ですかねこれは(笑)」(68)
「この世はセックス・マシーンです」(68)
「もう最初は圧倒されてね、凄かった(笑)」(67)
「なんか、うなってんだよ。わめいてんの。このおっちゃんはなんだろうと思って」(76)
「話していくうちに、とはいっても」(70)
「話じゃないのよねこれは」(40)
「ステージの前だったからね」(40)
「単語を大声でただ並べているようなしゃべ り方なんだけど、だんだん愛着がわいてきて、おもしろかったね」(70)
「僕も一緒に高揚してくるんですよ。一緒に『セックス・マシーン!』(笑)」(67)
「もうちょっとちゃんと話そうと思ってたんだけど」(40)
「台風に巻き込まれたような感じでね、クラクラしました(笑)」(68)
「でもね、よく聞いてるとね、ちゃんと人の話聞いてて、言ってることはねすごく、やさしいのね。親切なの。『アイスクリーム食べるか』とかね。『ストロベリーはうまいぜ』とかね。全部それ怒鳴ってんの」(40)
「周りによってくるファンにも、ひとりひとり丁寧に 一言そえてサインをしてあげるんだ、それには感激したね。それでついのせられて、サインをもらったんだけど、それには『Thank you always ジェームス・ブラウン、セックス・マシーン』と書いてあってね、うれしくなったね。サンキュー・オールウェイズなんてなかなかいってもらえないからね。コ ンサートも見たけど、すごかったね。50を過ぎているのに、エネルギッシュでさすがセックス・マシーンっていうだけのことはあったね」(70)
「伝記を書いているとかで、ソウルのバイブルになりますねっていったら、『そうじゃない世界の音楽のさ』っていったよ」
(70)
「バトン・ルージュへ行ったり、ドクター・ジョンとか、非常にレイドバックした人たちに会って、また気分が変わって」
(71)

野中英紀の証言
「ルイジアナ州のバトンルージュでやっていた彼のコンサートまで追っかけていって」(11)
「ニュージャージーのそばですね。ニュージャージーからまたさらに飛行機で、1時間ほど行ったとこですけど。そこで、コンサートを彼がやってたんで、そこまで出かけて行って」
(40)
「ホテルのラウンジに来てもらいました。ジェームス・ブラウンは、ひとりで歩いてやって来ましたよ(笑)」(11)
「本当にピストルがいつ出てきてもおかしくない雰囲気で。英語を話せるのがぼくしかいなかったので‥‥仕方なく交渉したんですが」(11)
「ぼくたちのレコーディングにも参加してください」
(11)
「お願いをしました」
(11)
「それが簡単に決まってしまったんですね実に(笑)」(40)
「快く、『やりたい』と」(40)
「おっしゃってくださったんで」(40)
「結構シビアに話そうと思ってたんですよ」(40)
「顔は脂ぎってるし(笑)まともに話はしてくれなかったです」(11)
「こっちの言うことをまったく聞かないんですよ。(笑)もう、とにかく一人でね、気合い入れてるわけもう」(40)
「だから、文章になるようなことは、しゃべらないですね、ほとんど。だから一人でこう、細野さんがこうなんとかこう一生懸命、なんか言おうとするとね、『セックス・マシーン!』とかね」(40)
「『スピリット! ウ〜ン』とかってやってるわけですよ。ほとんどヨーダかなんかと話してる感じが、ありましたけどね」(40)
「ピリオドが『セックス・マシーン』なんですよ、彼の言葉の場合はね」(40)

※編注:
翌1986年1月27日にFM東京『サウンドマーケット』で放送。また、『週刊FM』1986年1月27日号、『GORO』1986年2月13日号、『O.T.Tマガジン "FRIENDS OF EARTH"VOL.1』(1986年)および『サウンド&レコーディング・マガジン』1986年3月号に、それぞれ別編集のテキスト版が掲載された。細野晴臣の上記証言で触れられているジェームス・ブラウンのサインは『O.T.Tマガジン "FRIENDS OF EARTH"VOL.1』の図版に使用されており、取材が行われたバトン・ルージュ・ヒルトン(ホテル)のレターヘッドに書かれていることが確認できる。

1985/12/13 ローリー・アンダーソンにインタビュー。通訳は野中英紀。ニューヨーク/サウンド・イメージ・スタジオ。

「ニューヨーク最後の日なんで、ローリー・アンダーソンが、こぼれると、おー、まずいということで、スタッフ、大慌てで、段取りを、しましたが、おかげでこちらは、ごはんもろくすっぽ食べれずに(笑)」(71)
「スタジオに訪ねてって」(71)
「ミックスしてる、新しいLPのミックスで、エディティングしてる最中で、えースタジオーが、押し迫ってるという。 あとがつかえてるらしくてね。そんな状態でぼくだったら、ほんとにやっぱり断りますよね。ですからちょっと恐縮気味で、行くわけですね。腰を低くして。も み手をしながら。『ドーモホントスイヤセン』って感じで行くんですけど」(71)
「すごく、快く受けてくれました」(71)
「スタッフも含めて、会ったのは男ばかりだったから」(70)
「やっと、女性に会えるという」(71)
「ローリーは僕には女性的でいい人だったね。コーヒーを自らいれてくれたり、タバコを勧めてくれたり、なにくれとなく気をつかってくれたやさしい人だった」(70)
「最後に結局そのーローリー・アンダーソンで、非常にぼくは、あーひと息、つけたと」
(71)
「非常にねしっかりした、人だと思うのね」(71)
「精神が、しっかりしてるっていうんですか? まるでその、男勝りというか。でスタッフがね、そのー全部女の人なんですよ。あとでそれ、気がついたんだけどね(笑)」(71)
「一種、独特の、雰囲気でしたね」(71)
「彼女は音楽への接し方が非常に違っていて、自分は音楽をしらない、テンポのとり方がわからないと言っている。より感覚的に音楽をとらえていて、それは新しい言葉を創るというか、やっぱり"言霊"をテーマにしているように見える。」(61)
「ローリーの曲で『ここく』というのがあって、これは非常に日本的で僕は惹かれた。彼女がそこで日本語を使いたかった理由というのが、何よりも言葉のもつ響き、音の響きだったということもある。」
(61)
「すごく気に入っているんだって。音の響きがとてもいいといっていたね」(70)
「しきりに、日本語は英語と違って1個1個の言葉を区切って言ってもそれぞれが意味をもち言葉として完結しているから素晴らしいと言っていた。」
(61)
「その話を聞いた時に、言霊のことを僕らは思いだした。ニューヨークでそんな言葉を聞くとは思っても見なかったし、言霊としか言いようがなかったね」(70)
「彼女はとにかく、言葉から音楽に入る"言霊"的なアーティストなのだ。」
(61)
「専心しているプロジェクトは、かなり大がかりな(1年半を費した)もので」(61)
エイドリアン・ブリューと一緒に映画を作っているんだそうだ」(70)
「それは東京でのコンサートを基にした映画であるという。」
(61)
「東京のステージを中心にいろいろな映像を重ねているらしいけどね。当然劇映画ではないよ」(70)
「彼女の東京に対する印 象というのが、とにかく全体的なものが一体どうなっているのかわからない、説明しようがないくらい混沌としたものだったそうで、そのことが映画のテーマに もなっていると真剣に言っていた。」
(61)
「映画のダビング・スタジオで会ったんだけど、そのスタジオがあの『ティン・パン・アレイ』だったのには驚いたね。コール・ポーターやガーシュインが曲を思いついたっていうエレベーターがまだあってね。それにも乗ったよ」(70)

※編注:翌1986年1月31日にFM東京『サウンドマーケット』で放送。また、『O.T.Tマガジン "FRIENDS OF EARTH"VOL.1』(1986年)および『サウンド&レコーディング・マガジン』1986年3月号に、それぞれ別編集のテキスト版が掲載された。

1985/12/16 フレンズ・オブ・アース『フレンド・オア・フォー?』発売。
produce, compose, words, arrangement, synthesizers, programming, vocals, mix
 ワールド・フェイマス・テクノ・ポップ
 リターン・オブ・ボディ・スナッチャーズ(エクスターミネイテッド・ミックス)
 ストレンジ・ラヴ(フォンク・ヴァージョン)
 OTTマニフェスト(OTTミックス)
「YMOのエネルギーはどうなっていったか。まさかどこかに消え去るわけはな い。必ず何かの形に変わって残っていくはずである。そう考えたとき、ひとつは『ニューアカ(デミズム)』の台頭に、もうひとつは『おニャン子(編注:クラ ブ)』に結びついていったと、ぼくは思っている。これはYMOを面白がっていた人たち全てにも言えることで、例えば糸井重里氏とか秋山道男氏とか奥村靫正 氏なども、YMOと一緒に何かを解散しているはずだと思う。それはコトバだったり、コンセプトだったりして、そういうものの基本的なエネルギーが消費しつ くされたという感じをもっているはずだと思う。つまり、消費の速度ということ。」(77)
「社会的な背景として消費の速度がどんどん勢いづいているってことがあったんです」
(30)
「ぼくの『OTT』という考え方も、そういった消費の速度を終わらせるものなら早く終わらせようという考えのもとでやったのである。それを」
(77)
「FOE(フレンズ・オブ・アース)という音楽グループで表現しようとしたわけだ。」(77)
「ぼくが、何を考えてたか。当時から言ってたかもしれないけど(笑)、うまく表現できなかったんですよ。OTTとしか言えなかった」(76)
「ぼくが『OTT』って言ってんのはね、何も新しいことを言ってるわけじゃなくて、現状をそのままね(笑)、言うと『OTT』になるわけ(笑)」(69)
「コ ンセプトって言うよりも、これはね、現状がそうなのね。音楽がそうで、っていうわけじゃなくて、もちろんアートがそうっていうわけじゃなくて、例えば街出 るでしょ。でラッシュでしょ。あれはやっぱりその、ぼくは、いつまで経っても慣れるものじゃないわけ。車が動かない。ああいう車の量とかさ、人の量とか、 それから情報量とか、すべてがもう、超えてるわけですよ。で個人のその、感覚超えてるわけですよ(笑)。でー、音楽やっててもさ、んー、それに、対抗する ためのね、なんかこう、過剰さをもって、なんか戦いたくなるわけね。イライラしてくるから。そういう、だから現状のことを、ただ単に、こう言うと、 『OTT』とこうなるわけ(笑)」
(40)
「現状が、ピークが、リミッターが、壊れてね、飛び出しちゃったっていう状態」(40)
「日本の社会は行き過ぎてたわけ。行き過ぎを予感してたのかな。まだ、バブルの絶頂がその後に来るんだけど、あ のーもう何もかもが全部、うーこう何て言うの?  極限まで行って、そっから何かが、変わってくんだろうっていう予感の中でね、すごいつらかったわけ、ぼく」(76)
音楽の消費速度も速いし、自分自身も虚脱感の方向に走っていて、無力感(アパシー)にさいなまれつつあった」(30)
「音楽にとっての酸欠状態は加速していくに違いないから、終わるものなら早く終わってほしいと思っていたんです。それと、音楽的なビートの問題が重なっ て、早く燃え尽きて次の時代に行きたいというような気持があって、フレンズ・オブ・アース − Friends of Earth(F・O・E)− というのは、その僕の気持にピッタリ乗っかっちゃったんですね」
(30)
 「『FOEはテクノを卒業する』。」(77)
「OTTにテクノミュージックを超えていく、これがF・O・Eのテーマなのだ。」(78)
「中沢新一君なんかが、テクノのことを指して、あれは人間の歴史の中の一過的な『批評』だと言うけれど、その見方は正しいと思う。ぼくはテクノミュージッ クをやっていたおかげで『観光』という自然とのコミュニケーション・テーマを得て中沢君とその名も『観光』という対談紀行集や『観光音楽シリーズ』という のを作ったのだが、テクノが教えてくれたことがいろいろあった。」
(78)
「テクノで遊べば遊ぶほど自然に接したくなるわけだ。」(78)
「テクノという『外部』は人間にとってすごい飛躍だったと思う。その飛躍はぼくにとってもものすごい快感だった。ところが、じゃあ人間がテクノを通して何 をやっていたかというと、例えばコンピュータは人間の大脳というものを外に出してそれと対面するということだった。複雑なプロセスとテクノを使って、自然 をシミュレーションしようとする。自然に近づくためにテクノの極地をつきつめる。つまりそこには、自然に近づくためには自然からもっと離れていくというパ ラドックスがひそんでいたのである。」(78)
「その文明のパラドックスのダブルバインド状態を突破する方法としてのOTTなのだと思う。」(78)
「自然に近づこうとするテクノ科学者ほど文明のコリがたまっていって、ある時に一過的なテクノを卒業していく。」
(78)
「とにかく、行き着くところまで行かなきゃならないだろうと。経済のほうは終わらないで、ますます盛り上がっちゃう んですけど、自分の中ではもう終わっちゃった。つまり、自分が生きているシステムから外れ出したと思うんですね。例えば、今のこんな世の中でレコードを出 しちゃいけないとか、そういった具体的なことなんですけれども」(30)
「虚脱感に襲われたというのは、そういうことなんです。そのOTTで自分の気持を定めて消費し尽くそうと」
(30)
「始まりのような終わりのような、よくわからないことをやっていた」
(77)
「明日はどうなるかわからないというね、そういうことをやってるわけね」
(69)

OTTマニフェスト(OTTミックス)
「自分はOTTなんだから、OTTでいこうといって、『OTTマニフェスト』という曲を作った(笑)」
(30)

野中英紀の証言
 ストレンジ・ラヴ(フォンク・ヴァージョン)
「ベーシック・トラックはほとんど細野さんがプログラミングして、僕がその上にヴォーカルを何本か重ねて完成したこの曲は、O.T.TというよりSF的なニューオリンズ・ミュージックといった雰囲気のサウンドだった」
(62)
 OTTマニフェスト(OTTミックス)
「本格的に2人で制作した」
(62)
「僕がAKAI S612にサンプリングした音源を使って細野さんがプログラミングしたトラックに、2人でそれぞれオーバーダブしていった作品で、後のF.O.Eの楽曲に登場するさまざまな要素が含まれた、いわば最初のO.T.T的作品だ。」(62)
「当時の僕のメイン機材は、このAKAI S612と細野さんが入手したE-MUのサンプリング・ドラム・マシンSP-12で、これらの12ビット・サンプリングが持つザラッとした質感がF.O.Eの音作りにもたらした影響は計り知れない。」(62)
「この曲はそのタイトルどおり、F.O.EによるO.T.T宣言ということもあって、F.O.Eにとって記念碑的な作品だと思う。」(62)

1985/12/16 V.A.『ベスト・オブ・ノンスタンダード』発売。
executive produce

ピチカート・ファイヴ
 What's New PIZZICATO!:produce

細野晴臣
 銀河鉄道の夜(インストゥルメンタル・ヴァージョン):
produce, compose, arrangement, all instruments, programming

ノンスタンダード合唱団
 主よみもとへ近づかん<賛美歌(プロテスタント)320番>:produce, all instruments, programming

<出典>
(1)『Rio』5月号 シンコーミュージック/1985年
(2)ファンタスティックコレクション・スペシャルNo.51『銀河鉄道の夜』 朝日ソノラマ/1985年
(3)CD 細野晴臣『銀河鉄道の夜 ・特別版』ブックレット テイチク, ノンスタンダード/2018年
(4)『キープル』No.7 自由國民社/1985年
(5)CD ワールドスタンダード『音楽列車』ブックレット ポリスター/2000年
(6)『宝島』5月号 JICC出版局/1985年
(7)『写楽』11月号 小学館/1985年
(8)『ロッキング・オン』9月号 ロッキング・オン/1985年
(9)『FMレコパル』7月15日号 小学館/1985年
(10)『ミュージック・ステディ』7月号 ステディ出版/1985年
(11)CD『ノンスタンダードの響き』ブックレット テイチク, ノンスタンダード/2019年
(12)門間雄介『細野晴臣と彼らの時代』 文藝春秋/2020年
(13)12" はっぴいえんど『THE HAPPYEND』ブックレット CBS・ソニー/1985年
(14)『宝島』12月号 JICC出版局/1985年
(15)『FMステーション』9月9日号 ダイヤモンド社/1985年
(16)鈴木茂『自伝 鈴木茂のワインディング・ロード はっぴいえんど、BAND WAGON それから』 リットーミュージック/2016年
(17)『ミュージック・ステディ』11月号 ステディ出版/1985年
(18)FM東京『珈琲サロン』 1985年8月4日
(19)『キーボード・スペシャル』9月号 立東社/1985年
(20)『キープル』No.11 自由國民社/1986年
(21)長門芳郎『パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録 1972-1989』 リットーミュージック/2016年
(22)鈴木惣一朗『モンドくん日記』 アスペクト/2001年
(23)J-WAVE『Daisyworld』 2000年9月25日
(24)『レヴ』VOL.3 レヴ・プロダクト/1985年
(25)『週刊朝日』7月19日号 朝日新聞社/1985年
(26)『アルビレオ』1号 岩手放送/1994年
(27)映画『銀河鉄道の夜』パンフレット 東宝/1985年
(28)『キープル』No.8 自由國民社/1985年
(29)『キネマ旬報』10月下旬号 キネマ旬報社/2014年
(30)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(31)『キーボード・スペシャル』12月号 立東社/1985年
(32) CD『細野晴臣の歌謡曲 20世紀ボックス』同梱ブックレット コロムビアミュージックエンタテインメント, デイジーワールド/2009年
(33)コイデヒロカズ編『テクノ歌謡マニアクス』 ブルース・インターアクションズ/2000年
(34)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(35)細野晴臣『コインシデンタル・ミュージック』ライナー・ノーツ テイチク, モナド/1985年
(36)細野晴臣『エンドレス・トーキング』ライナー・ノーツ テイチク, モナド/1985年
(37)J-WAVE『Daisyworld』 2000年10月9日
(38)『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド』 DU BOOKS/2020年
(39)細野晴臣『HOSONO百景 いつか夢に見た音の旅』 河出書房新社/2014年
(40)FM東京『サウンドレコパル 音の仲間たち』 1986年1月5日
(41)『ミュージック・ステディ』6月号 ステディ出版/1985年
(42)『Rio』11月号 シンコーミュージック/1985年
(43)『KAZEMACHI SONG BOOK』 2015年
(44)『ホリック』5号 雪渓書房/1985年
(45)『Gb』10月号 CBSソニー出版/1985年
(46)ニッポン放送『オールナイト・ニッポン・スペシャル 〜俺たちがはっぴいえんどだ!』 1985年9月5日
(47)相倉久人『日本ロック学入門』 新潮文庫/1986年
(48)『宝島』12月号 JICC出版局/1985年
(49)大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』 SFC音楽出版/1986年
(50)FM東京『サウンドマーケット』 1986年1月29日
(51)嵐山光三郎『人生対談 話の秘密箱』 朝日新聞社/1986年
(52)細野晴臣『銀河鉄道の夜』ライナー・ノーツ テイチク, ノンスタンダード/1985年
(53)『小冊子 echo de MIHARU』 パルコ, 麻田事務所/1987年
(54)『ほっちぽっちNagoya』1月号 ほっちぽっち出版部/1986年
(55『FMレコパル』12月2日号 小学館/1985年
(56)『プレイヤー』12月号 プレイヤー・コーポレーション/1985年
(57)CD 越美晴『ボーイ・ソプラノ』ブックレット テイチク, ノンスタンダード/2001年
(58)『スタジオ・ボイス』10月号 流行通信/1985年
(59)『キーボードランド』10月号 リットーミュージック/1985年
(60)『ミュージック・ラボ』8月13日号 ミュージック・ラボ/1984年
(61)『O.T.Tマガジン』 テンポラリーセンター/1986年
(62)田山三樹 監修『YMO GLOBAL』 シンコー・ミュージック/2007年
(63)『キーボード・スペシャル』4月号 立東社/1986年
(64)細野晴臣『マーキュリック・ダンス』ライナー・ノーツ テイチク, モナド/1985年
(65)『サウンド&レコーディング・マガジン』3月号 リットーミュージック/1986年
(66)CD 高橋幸宏『T.E.N.T YEARS 19851987』ブックレット ポニーキャニオン/2016年
(67)『CLIP』4月号 福武書店/1986年
(68)FM東京『サウンドマーケット』 1986年1月27日
(69)NHK-FM『サウンドストリート』 1986年1月28日
(70)『プレイボーイ』3月号 集英社/1986年
(71)FM東京『サウンドマーケット』 1986年1月31日
(72)FM東京『サウンドマーケット』 1986年1月28日
(73)FM東京『サウンドマーケット』 1986年1月29日
(74)『サウンド&レコーディング・マガジン』7月号 リットーミュージック/1986年
(75)FM東京『サウンドマーケット』 1986年1月30日

(76)J-WAVE『Daisyworld』 2000年10月2日
(77)細野晴臣『音楽少年漂流記』 新潮文庫/1988年
(78)『サントリークォータリー』23号 サントリー/1986年

update:2024/01/17

1984< >1986
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