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chronology 1984


1984/01/01 秋山道男の「二代目YMO」襲名を任許。

「YMOを一つのブランドとして残せるかなという計画もあったんです。YMOというのは三人じゃなくてもよかったわけで すよ。マニュアルがあれば誰でも入れるように作ってあって、いろいろな人が入って然るべきだと思っていた」(1)
「メンバーは代わってもいいと思ってた」(2)
「10人になっても1人でもYMOだみたいなことやり通したかったんですが」
(3)
「解散寸前のころは、 YMOは一つのブランドとして、原点に戻って音楽活動の総称としてYMOブランド、レーベルでもいいんですけれども、やっていく可能性が強いなと実は思っ ていたんです」
(1)
「YMOって名前を誰かにあげてもいいと」(2)
「そういう人たちがいればだよ、YMOのやれることをできる人がいればね」(2)
「で、個人個人がいろんなバンドをつくってもいいと」(2)
「YMOを利用しなきゃいけないと」(2)
「もちろん、メンバーそれぞれが後継ぎになってもいいわけ。YMOって名前を使いたい人は使ってもいいと思って」(2)
「当時はまあ、YMOを封印しようというようなことで、YMOというのはシンボル化されちゃった、具体性をなくし て。封印するに当たって、YMOをあげる儀式という会をやったんですけどね。それをもらったのがね、秋山道男という変な男がいて、彼がもらったはずなんで すけど、その後活用してないようです(笑)。それも遊びで、結局YMOというのは、登録商標されていてアルファが持っているんですけれども」(1)

※編注:「YMO理事 細野晴臣」の名義で、秋山に1月1日付の「任許証」が発行された。文面には「YMOを引き継ぐといふ重荷を背負うことをここに認められたかもしれません」「二か月の期間を持って(原文ママ)二代目をやることを任せます」などとある。

1984/01/01 22:30 NHK-FM『細野晴臣 作曲講座』放送。
共演:遠藤京子
遠藤響子の証言
「NHK-FM音楽講座シリーズ(P湊剛、D佐藤輝夫)は非常に人気のある番組で、大瀧詠一さん、山下達郎さん、松本隆さんなど綺羅星のごとく活躍されて いる方々を講師に迎え、それぞれのスペシャリストならではのマニアックな講義を聞くという、ミュージシャン志望の若者にとっては夢のような番組でした。私 は毎回そのアシスタントを務めさせて頂きました。」
(4)

1984/01/02 22:30 NHK-FM『細野晴臣 作曲講座』放送。
共演:遠藤京子

1984/01/03 10:30 NHK教育『ヨー・ヨー・マ チェロ・リサイタル』視聴。

フランクの曲(編注:チェロ・ソナタ イ短調)を知った」(5)
「セザール・フランク」(6)
「NHKで中国のチェリスト、ヨーヨー・マがやっていたんですが、涙が出ました。音楽を聴いて涙が出るなんて本当に久し振りです。」
(5)
「やたらと感動しちゃったんです」(6)
「聴いてて、作者の持っているなだらかなものじゃなくてとんがったものがモロに来ちゃった」 (7)
「ほんと心を打たれましたねぼくは(笑)。ええ。久しぶりですよ音楽聴いて、えーゾクッとしたのは」(8)
「ああ自分にはまだ音楽に感動できる力があるんだなと思ってうれしくなってね」
(6)
「ぼくはそういう力が麻痺してると思ってたからね」(6)
「ロック・ミュージックを聴いても何も感じないんです。どうも、ロック・ミュージックやポップ・ミュージックを聴くと不自由な感じがしてしょうがない。逆にクラシックの方がより自由だと感じますね。昔は、クラシックはほとんど聴かなかったんだけどね」(6)
「こんなに感動できたのは、私のクラシックに対する無教養と、作曲者の精神スピード、そして演奏の魔法によるもの、と思っています。この経験のおかげで、私は再び音楽のパワーを再確認できたのです。」(5)
「もちろん、その下地というのはあって、環境音楽というのがその第一で、次にエリック・サティというふうにつながって行くんだけれど」
(7)
「きっかけは、やはりアンビエント・ミュージックだったんです」
(1)
「環境音楽っていうものが僕たちの心を慣らしてった…
…という気がします」(9)
「自 分自身がやっぱりその、音楽やってるでしょ? 仕事として。ですから音に疲れる、ことが多いわけですよね。もうほんとにスタジオばっかりだから。ですからー帰ってきて、調整するわけですよね、耳とか気 持ちを。そういう時には、ほんとに静かな音楽、聴きたいと思うわけですね。全く音楽がなくても、いいんですけどやっぱり、んー、ひとつの空間をこう、調整 してくれる、音楽が欲しくなるんです」(8)
「雑然とした感覚をフラットにしてくれるんです。波風があるようなものを水平にしてくれるわけです、いい意味で」(1)
「荒れた波をなで、水面を静かにさせるようにね」
(9)
「そうすると、わりと白紙状態になってなんでも受け入れられる状況になってくる。それと同時に、すごく微妙な感覚も育ててくれるんですよね。微妙で繊細な ちょっとした波が気になったりとか。そうすると音楽の聴き方が徐々に変わってくるわけです。つまり、フラットな上に抑揚をつけていく、アクセントをつけて いく準備ができたんです。だから、クラシックも新鮮に聴こえてくるわけです」
(1)
「そこにクラシックがポンと入ってくると、聴けるんですよ。感じることができる」(9)
「作曲家たちの微妙な感覚というのが伝わってきたんです。音楽だけじゃなくて感覚として伝わってきたんです」(1)

1984/01/03 22:30 NHK-FM『細野晴臣 作曲講座』放送。
共演:遠藤京子

1984/01/04 22:00 NHK-FM『細野晴臣 作曲講座』放送。
共演:遠藤京子

1984/01/04 22:00 FM東京『サウンドマーケット』放送。
インテリア・ミュージック '84
インタビュアー:立川直樹

1984/01/05 22:00 NHK-FM『細野晴臣 作曲講座』放送。
共演:遠藤京子

オー・ミステイク:compose, arrangement, Prophet 5, Linn Drum, programming
遠藤響子の証言
 オー・ミステイク
「細野さんと番組用に作った曲です。」
(4)
「遠藤響子が作詞と歌を担当し、細野さんが作曲、編曲をして下さり完成した曲で、素晴らしい出来栄えでした。これが後に細野さんのメロディーだけを活かし、松本隆さんの詩に差し替えて、松本伊代さんが『月下美人』として歌ったというエピソードのある曲です。」(4)
「私はこの曲から80年代のこぼれるようなきらめきを感じます。」(4)

1984 宮崎駿監督の映画『風の谷のナウシカ』サウンドトラック制作を降板。

松本隆の証言

「最初は細野さんが映画音楽をやるはずだったんですよ」
(10)
「サウンドトラックもやる予定だった」(11)
「でも芸術的指向が違ったらしくて」(10)
「監督と意見が合わなくて」(11)
「途中でパンクしちゃった」(10)

※編注:『サウンドール』2月号(1月20日発売)のニュース・ページは、2月に天河から帰京後にサウンドトラック制作に着手すると報じていた。また、『週刊FM』1月30日号(1月25日発売)掲 載のインタビューで細野晴臣は、複数のテーマの編曲をアレンジャーに発注するプランを明かすなど制作に向けた意欲をうかがわせていた。

1984/01/11 映画『プロパガンダ』撮影。江の島水族館。逗子泊。

「断れませんもんね、流れに巻き込まれていて。これが最後だと思ったし」(12)

山下理真の証言
「江の島水族館で細野サンの撮影。驚いたことに細野サンが早朝の集合時間を守る。何と、一度寝たら起きられないのではないかと一睡もせず、完徹をしたのだそうだ。」(13)
「この日の撮影はシルエット撮影のみで2時間ほどで終了。逗子泊。」
(13)

1984/01/12 映画『プロパガンダ』撮影。江の島水族館。

山下理真の証言
「前日に続き細野サンを撮影。前日よく寝たせいか顔もサッパリ。撮影にもかなりノッている様子。角砂糖のオブジェ、授業のカットでの黒板の文字、記号、教壇前のバッテンマークなどは、すべて細野サン本人が考えて作ったもの。コート、帽子などの衣裳も自前のものだ。」(13)
「途中一回、雲隠れ。『ハイ、細野サンお願いします』の声にも不在。探したら、真暗な水族館の中で、緑色の光をはなつ水槽の前にボーッと立っていらっしゃった。」(13)

1984/01/12 『GORO』1月26日号(小学館)発売。
寄稿/ボクの背後に立ちのぼるエクトプラズマを見て迷いがなくなる
※編注:記事「Y.M.O. 最後の証言」内。

1984/01/14 『サウンド&レコーディング・マガジン』2月号(リットーミュージック)発売。
インタビュー/日本人が作るソフトウェアがこれから世界に注目されるはずですよ

1984/01/16 映画『プロパガンダ』撮影。根岸競馬場跡。

山下理真の証言
「横浜、根岸競馬場跡で3人を撮影。3人とも予定の時間に遅れないなんて、YMOとしては驚異的。3人いっしょに乗れるロケバスで出発。文句をいいつつも、『遠足みたいだ』と3人とも楽しそう。3人がいっしょになると、お互いにテレくさいもんだから、やたらはしゃぐ。」
(13)
「現場はベスト・ロケーション。教授、細野サンはカメラ持参で、根岸競馬場跡地めぐりツアーを実施。教授のカメラはプロ風、細野さんのはコンパクト。」(13)
「この日は撮影カット数も多くスタッフは緊張しっぱなし。」(13)

1984/01/17 映画『プロパガンダ』撮影。成城/三船プロダクション撮影所。

山下理真の証言
「三船プロで3人撮影。娼婦の館のシーン。裸の女優サンたちがスタジオ内を右往左往。『何これ、すごい世界じゃない』と3人とも大いに驚く。撮影カット数は少なかったが、段どりに手間どり、待って待って、待っての1日だった。」
(13)

1984/01/19 映画『プロパガンダ』撮影のため館山/平砂浦海岸に向かうが、雪で延期になる。

山下理真の証言
「早朝の集合時間に細野サンのみ少々遅刻。集合時間ごろから雪がチラホラ、出発時刻には本格的に降り始める。途中でチェーンを買いロケ地の館山、平砂浦海 岸に向かうが、到着予定時間を大幅にオーバー。大雪のため、撮影延期。3人ともホテルで1日待機。3人そろって、(冗談ぽくだが)不満ブーブー。」
(13)

1984/01/20 映画『プロパガンダ』撮影。館山/平砂浦海岸。

坂本龍一の証言
「千葉の海に、『散開』の時のステージを再建し、最後にそれを燃やしたんですね。」
(14)

山下理真の証言

「雪の残る平砂浦海岸で、ステージの炎上シーンのロケ。ステージへ向かって走るシーンはカメラの位置を変えて3回撮影。自分の息づかいをタナに上げて、『細野サン、大丈夫? 無理しないでよ』と心配するふたり。」
(13)
「昼食のとき細野サンが売店で買ったモデルガンで遊び始める。」(13)
「夕方の撮影では、3人とも衣装の下にラクダの下着の上下を着用。3人は控室で衣装の赤いシャツの下にラクダのモモヒキだけつけ、バレリーナの真似をしていたとか。セット全焼のシーンは撮影が深夜になったため、3人はそれを見ず夜中に車で東京へ出発。」(13)

高橋幸宏の証言

「細野さんと大声で歌ったの、バスの中で、館山からの帰り(笑)」
(15)
「『星屑の町』(編注:三橋美智也のヒット曲。高橋は1994年のアルバム『Mr.YT』でカヴァー。)」(15)

1984/01/21 テレビ東京『テレビ説法 極意なり』収録。八王子/兜率山広園寺。

※編注:1月29日放送分。

1984/01/25 戸川純『玉姫様』発売。
隣りの印度人:chorus
玉姫様:compose
篠崎恵子の証言
「女性の生理とそれによる心理的錯乱やエロスがテーマだったんですが、最初の編成会議で猛反対を食らいました。『そんなテーマでうちの会社からは出せな い』って。私の記憶だと、細野さんからも『情念ではなく情感でないと』という意見をいただいて、このコンセプトそのものが問題なのかなあ、と考えてしまっ た」
(16)

1984/01/25 安田成美「風の谷のナウシカ/風の妖精」発売。
風の谷のナウシカ:compose
風の妖精:compose
安田さんがどういう人かも全然知らないまんま歌入れになって」(11)
「一応歌唱指導したんですよ、スタジオで」
(11)
「まだ少女のような、感じでね」(17)
「歌が……ああいう感じでしょ(笑)、だから、その場で歌い方を教えてあげながらレコーディングしましたね」(10)
「独特の、歌声ですよね。なんか、えー、不思議な、なんか魅力があったんですね」
(17)

風の谷のナウシカ
「本当に初々しくて、独特の歌いぶりに、他の人にはない何かがあって。それと『ナウシカ』の何かが重なってるんで、広く伝わって行ったんだろうと思います」(11)
「アニメ『風の谷のナウシカ』は結構、当時僕も、よく観てました」(17)
「結局映画では使われなかった。どうしてなんだろうと思ってずっと生きてきたのである(笑)。嫌われ たのかなあとか、いろいろ思うところがあるし、当事者たちのあずかり知らないさまざまな事情もあったのだろう。また、当時はシングル盤の全盛期でもあり、 ヒットチャートのための仕事だったともいえるが、それにつけても微妙な感情がそこにはある。」
(18)

松本隆の証言
「レコーディングの時は、安田成美さんがすごく緊張していた」
(11)
「上手く歌えなくて」(19)
「『楽な格好で歌ったらいいよ』って言ったら、床にあぐらをかいて座って歌ったのを覚えている(笑)」
(11)
「床にペタンと座って」(19)
「とても可愛かった(笑)」(19)
 風の谷のナウシカ
「映画音楽の方は、久石譲さんがピンチヒッターで登場して、場外ホームランみたいなことになった」
(10)
「で、主題歌用の曲がイメージソングになっちゃった」(11)
「監督とレコード会社の大人の事情で映画から迫害されてしまった」(19)
「劇中から歌がはみ出ちゃったわけです」(10)
「でも『ナウシカ』は、僕もすごく好きな曲なんです」(10)
「すごくいい歌だと思うよ」(11)
「多くの人の心の中に特別な歌として残っている。曲の自力がすごくあるんだと思う」(19)
「不思議な曲」(19)

1984/01/25 『週刊FM』1月30日号(音楽之友社)発売。
インタビュー/おいしい いんたびゅう

1984/01 三浦憲治とフォト・セッション。

※編注:YMO散開記念写真集『シールド』(3月15日発売)に掲載。撮影は飯倉スタジオと多摩川河川敷で行われた。

1984/01/28 映画『プロパガンダ』撮影。中野刑務所跡。

山下理真の証言
「中野刑務所脇の塀のシーン。3人撮影。雪で撮れなかったカットを撮影し、すべてのロケを終わる。」
(13)

1984/01/29 11:30 テレビ東京『テレビ説法 極意なり』放送。
共演:丹羽慈祥
※編注:丹羽慈祥老師との対談の模様は『サウンドール』3月号(2月20日発売)に採録されている。

1984/01/29 鈴木慶一・鈴木さえ子の結婚披露宴に出席。芝公園/東京タワー展望台。

1984 テイチク・レコードから契約のオファー。

「テイチクが、僕とやりたがってるって最初にきいた頃僕はちょうどYENと契約が切れてて事実上フリーだったんだけど、ま、1年間はどこともやろうとは思ってなかったんです。でも一度会って下さいということで、会いまして尾崎専務という人と」(20)
「最初、僕はテイチクのことを全然知らなくて、『古い会社だなあ』という気持ちと、『帝国蓄音機という名前がすごいなあ』という印象ぐらいしか持っていなかったんだ(笑)」
(21)
「1、2月ぐらいのことかな。YMOはもう散開してたけど、僕はYENレーベルの仕事(プロデュース)とかあって、 なかなか自分の仕事ができなかった。そのときは『もう他人(ひと)のプロデュースなんてやるもんか』なんて思っていたぐらいだった。YENのそれぞれの アーティストも、それなりに自立してきた時期で、僕は自分の作品が作りたくなってきていてね。それまで、なかなか時間が取れなくて、自分の事がどうしても 後回しになっていたからね」(21)
「そもそもぼくは、YENレーベルをね、ずーっとやるつもりだったの」(22)
「で、そこそこ、うまくいってると思ってたわけ」
(22)
「YENの音楽は、本当に面白かった。面白かったんだなあ。ゲルニカ、戸川純、立花ハジメ、テストパターン、インテリア、イノヤマランド、越美晴(21)
「面白いし、楽しいけれど、レコード会社とそれを取り巻く環境が、彼らの面白さを受け入れるだけの余裕がなかった - 面白いものではなく、売れるものを、と常に要求され続けていたんです」(21)
「好きでやっている。快感原則にしたがってやっている。それしかないんですよ。ところが、どういう環境のなかでやってるかというと『売りたい!』という状況のなかでなんだよね」
(21)
「一枚でも売りたい、明日にも出したい…。そこいら辺のギャップが、僕にはつきまとっていた」(21)
「僕はその姿勢がまず疑問なんです。その欲がね」(21)
「古いと思えてくるんだ」(21)
「会社がね、『やめたい』って言うわけ」(22)
「突然。『なんで? だめなの? あのーうまくいってないの?』って言ったら『いや、採算は合ってる』って言うわけ」(22)
「決して経営が悪かったわけではないんですけれど、終わらせられちゃったんです」(1)
「理由がわからない」
(22)
「疲れたんじゃないかね(笑)」(22)
「そのころから経済学的な音楽の可能性が、何かこう、だんだんしぼんでいったんです。レコード会社の経営が変わってきたということなんです」(1)
「その後すぐにね、あのテイチクのほうから声がかかって」
(22)
「僕はいつも現場ですから、フルにやってしまう。ところが金がかかった分だけ回収できないということが起きる。そういうことに対して僕自身とても責任を感 じていたことは事実です。それにアルファの中が分裂していて、上手くコミュニケーションできない状態でね、それが悩みでもあった」
(23)
「アルファだけの問題というのではなくて、要するに企画に直接参加できないというようなことです」(23)
「たとえば、何でもないつまらないものを作っていれば、売れるだろうけれど、後に何も残らない」(21)
「面白いものを作れば作るほど軋轢が強くなっていく。その過程を、僕はまのあたりに見てきたわけです。そのいたたまれないような気持ちが、『ゼロから始めたい』という気持ちにつながったんでしょう」(21)
「YMOが終わってから僕はひと休みする予定だったんです」(21)
「本当は、YMOが出てきて、それに刺激されて若い人たちがやり出す、というキャッチ・ボールみたいのがあったはずなんですけど、それが出てこれないというのが僕にとって謎だった」
(24)
「YMOが売れたことによって、何も変わらなかった。そう思うほど、自分が、YMOを始める前の気持ちに戻っていったんです」
(21)
「『少数派意識』がまた強くなってきたんですね」(21)
「僕の気持ちには、いろんな構造があると思うけれど、とりあえず僕は比較的人数の少ない、狭いところに生きているという夢想があって、そのイメージに完全に戻って」(21)
「春は、全部の仕事をやめて遊びに行こうと思っていたんだけれど、この話が出て来て、実際は逆に忙しくなってしまったわけだね」(21)
「話があったときも、最初は軽く考えていた」(21)
「レコードを何枚か作ることを考えたんです」(23)
「『環境音楽を3枚ぐらい出せばいいや』みたいに。でも、テイチクの尾崎専務に会って話を聞いて、考えが変わった」(21)
「『テ イチクを変えて下さい』と(笑)。いちばん古い会社で、演歌でかなり安定した地位を持ってはいる。でもここで新しいことをやりたいんで、テイチクを変えて 下さいと言われてね。それだと、ちょっと僕にはムズかしいから『それはできない』って。でもそこで純粋なものが望まれてるんで。ま、純粋と言っても商売を 含めた意味でですけどね」(20)
「事態が事態なんで、これはどうしてもハデなものを作らなくちゃ悪いような気がしてきて(笑)」(20)
「テイチクというレコード会社は、新しい音楽に対して真っ白である。これがもっとたとえばアメリカの資本が入ってきたりする会社はシステムが洗練されてて、そこに僕が組み入れられるって形になるけど」(20)
「面白いものを自由に作れる環境」(23)
「テイチクさんと組むことによって、また新たにそういった場所ができるのではないかという期待があったんです」(23)
「で、尾崎専務の話によると」(21)
「テイチクの社長が言い始めたらしいんだ。『我が社に、細野を呼べ』とね」(21)
南口(編注:重治)社長さん」(22)
「かなり年配の方なんですけど、ともかくその人が言い出したんですね。何でだろう。不思議なんですよ」(20)
「社長がその話をはじめて口にしたときは『そんな唐突な話……』と、社内で猛反対を食らったらしい。でも、その熱意がすごかったみたい」(21)
「『神のお告げ』かどうかは、僕にはよくわかんないですけれど。社長が夢床でお告げを聞いたらしいんだ」(21)
「ぼくの夢を見たという。どういう夢だったのだろうか。」(25)
「何を見たんだ。タヌキかな。わかんない(笑)。ぼくが出てきたのか、よくわからないの。とにかく夢で見て、『君とやりたい』って言うわけ」(22)
「そのことがぼくにノンスタンダードをやる気にさせたことは本当である。」(25)
「とり あえず『理由がない』というところが、すごく気に入ったんです」(21)
「割と僕は何でも受け入れちゃう方なんで、そういうところが行きやすいですね」
(20)
「ふつうならばビジネスがどうしたこうしたと、かなりシビアな契約を突き付けるんでしょう が、僕はもうそんな会社ではやりたくなかったんですよ」(21)
「いつもそうだが、こうしてぼくの頭にはビジネスではなく、運命が渦巻いていたのだ。」
(25)

南口重治の証言
「創立50周年を迎え」
(20)
「その半世紀の歴史を振り返り、これを契機に、新たな出発をどのように展開すべきかと種々思いをめぐらせておりまし た時に、私の頭の中に閃いたのは、YMOの細野晴臣と言う人のことでありました。早速社内の幹部に話をしましたところ、YMO細野とテイチクはチョット無 理でしょうと言うのが大方の意見でありました。しかし、私は必ず実現するものと確信しておりました。何故なら、これは神の啓示であると思っていたからで す。」(20)

1984/02/01 中沢新一との対談企画のために、奈良県吉野郡/天河大辨財天社を訪れる。中沢新一・奥村靫正・後藤繁雄と合流。

「『観光』の第一歩」
(26)
「なんだか不思議な力で呼ばれて行ったという感じだったんですけど」
(27)
「順番としてね、まずどういう気持ちでいたかっていうと」
(20)
「自分だけでレコード作ってると思えないところがあってね」
(20)
「子供の頃ってのは全部自分が作るんだと思ってましたよね。自負っていうのはそこから生まれるし、自信もそこから生まれる。ところがそうやっていて煮つまってくると、今度は神頼みになるんですよ」(24)
「音楽をやってるとね、枯れることがあるんですよ」
(28)
「それまで考えていたのは、才能っていうのは限りがあって、使い切ったら終り、とね。そしたら音楽やめようと思っていましたね。そしたらふと全く違ったものが出てくるわけです」
(28)
「そういう経験をしてくと、今度は『あ、外から入ってくるもんなのか』と思う」(24)
「『フィルハーモニー』で実験してみて、全く考えずにレコーディングのとき、まずマルチ・テープレコーダーを回わしちゃって、レコーディング・ボタンを押 してね、それで弾き始めることをやったんです。曲を作る過程をレコーディングしちゃったわけです。すると勿論その場の自分の中から出てくるし、まだ何かの 反応を通して(自分以外のものが)自分から出てくるっていう割と緊張した音楽が出てきた。その頃から、インスピレーションみたいなものが自分の回路を通っ て、自分とプラス自然のプラスアルファがないと面白いものができないと思った」
(20)
「つまり自我を捨てると、そういうものが入ってくるってことなんです」(20)
「これは自分一人で作ってはいないなって、感じるようになりましたね」(28)
「その両方の微妙なバランス、自分でもない外でもないってとこから出てこなくちゃいけないと思ってるんです、僕は。全く自分じゃない人が作るんだと思ったら、それは悲しいことでしょ」(24)
「それはもう僕の音楽の作り方の願望なんですよ」
(20)
「なんか宙吊りみたいなものでね。そういう時は恍惚状態でつくりますね」
(24)
「そう思ってくると、だんだん…
…大体音楽家ていうのは高慢で、僕もそうだったんですけど」(20)
「自分の特色とか才能とか履歴とかね」(20)
「どうでもよくなっちゃったんですよね。謙虚になれるっていうか(20)
「そういうものに僕は頼れなくなっちゃった時があって、まー音楽作れなくなると皆考えるわけですよね。いろんな手段 を講じてみて、生半可に落ち込んでると生半可に解決しちゃって、結局うやむやになっちゃうんだけど、僕の場合、YMOを通して、落ち込み方というのが結構 面白かったんです。まず忙しかったこととヒステリックな受け入れられ方をしたってことと。そういったいろんな状況で、音楽作るのが苦痛になってきて、もう その頃からお人形さんみたいに動いてた」(20)
「自己、崩壊しました」(29)
「しかも曲を作る時間もないし、スタジオ入ってから曲を作ることにして」
(20)
「できていないのに、できたような顔をしてスタジオに行くということをやっていたんだ」(30)
「最初は恐かったんですよね。たとえば歌謡曲の仕事を頼まれる。時間がないから準備していくことができない。で、 30分くらい遅れてスタジオに入っていきますよね。そうするとレコード会社の人たちがいっぱいいて、皆曲ができてると思って待ってるわけですよ(笑)。シ ラーッとして」
(20)
「さあやばい。そんな戦闘状態みたいな状況に自分を置くんです」(28)
「そういうときに背水の陣を敷いて、できてる顔をして『ちょっと整理しますから、30分くらい下さい』って言う(笑)」(20)
「その場で、コンピュータとか利用して曲を作るわけです。そういう方法でないときもあるけれど、ピアノとか頭の中でね」(30)
「で、ピアノの前に坐っ て、
そういうときって神の助けを借りるほかないって気持ちになるでしょ(笑)。するとそこで結構ヴォルテージの高いものができちゃうんです」(20)
「限界超えるといいみたいですね」(28)
「ある時点で、もうダメだとあきらめかけた状態でフッとインスピレーションが入ってくることがある」(24)
「自分を観察してて、もう参りましたっていう時になるとスッと入ってくるような」
(31)
「自分を鍛える一種の作業ですね」
(20)
「プレッシャーに負けると崩壊してしまうんだけれど、鍛えられていくと……」(30)
「勝つと逆の作用が起こる」(30)
「一度勝ったら二度と負けないんだよね」(30)
「それはコマーシャルの仕事に一番いいみたい(笑)」(30)
「一番プラスに働いた時期もあって、コマーシャルでお互いに了解しているときがあったわけ」
(30)
「それをー通してですね、新しい、音楽体験システムっていうのを、勝ち得た」
(29)
「インスピレーションがその場で起きて即興的に音楽を作ってくっていうような、スタイルなんですが」(29)
「頭脳的につくらないっていうこと」(24)
「それをやってくうちに、自分を捨てることができるようになってきた」
(20)
「そういう経験を何度もしてきて(笑)、そういう現実的な場面からね、あのォ得たものなんです」(20)
「何も才能ないんだって自分では割り切ってるんです」(20)
「だからボケーッとしている。こうすれば売れるだろうなとか、ああすれば受けるだろうなんて考えるとだめです。ボクの受けてるインスピレーションは地球からっていう感じがするんです」(28)
「音楽にとって不可欠な、あらゆるインスピレーションというのは、知れば知るほど、地球から発信されてくるような気がしてね」(24)
「で、その頃から地球に助けてもらおうと。地球が何か言ってるような気がしてしょうがなくなってきた。でも最初は何をしていいかわかんなくて、何しろ歩き回わんなきゃって思ったんですよ。地面の上を」
(20)
「行きたいんです、ほんとにぼく、あちこち。んー、温泉好きだしね(笑)。ですけど、なかなか行くチャンスがなかったんですよね」(32)
「休むつもりだったんです、ぼくね」(32)
「これをチャンスに、そのー、日本全国、ちょっと旅してみたいななんて思ってたんです」(32)
「たまたまそう思ってたときに、中沢さんと小説王の人が来て(20)
「『なんか、やりましょうよ』って言うんですよね。んー何やろうかなあ、じゃあ、じゃあ日本全国歩くんなら、やってもいいよって話になって(笑)。それでまあ、まあ、名所旧跡めぐりですね、みたいな、観光、めぐりみたいなね、そういう、対談やったんです」
(32)
「こ のころ、あのー仏教とか神道とか、えーその裏に、ずっと流れてきた古代からのそういう、知恵です、そういうものに魅かれて、えーいろいろ、勉強してたと言 うのは、おかしいんですが、身をもって体験してた、時期なんです」(29)
「たとえば、『秀真伝(ほつまつたえ)』っていう文献を発見した人が、一人で声を大にして『こんないいものがあるのに』って言っているわけですよ」(6)
松本善之介さん」(27)
「それこそ、日本人が利用できる、最大の知恵であるとね」
(6)
「本を読んで彼の熱意に打たれて」(27)
「その辺に触れたりすると、ある種の昂揚感を感じる。神道に興味があるというのは、そういう部分でなんです。昔の人間はどうだったんだろう、言葉そのものが神だった時代というのはどんな時代だったのかっていう、素朴な興味なんです」
(6)
「この、元になるのはYMOの、前からあるんですが、このころは、かなり、現実的になって きてて」(29)
「この対談が始まるころ、僕は日本地図を買いあさり、やたら線をひっぱりまわしていた。」(33)
「このアイデアっていうのは
漠然と前からあったんだけど、天河とはるかかなたの鹿島をなぜか結んじゃったわけ」(33)
「鹿島神宮」(33)
「というのは、このあとビデオの仕事(編注:『マーキュリック・ダンス』)のためにバンダイの鹿島スタジオに行くから なのね。まあ、その前にも富士山の方へも行くけど、ま、とりあえず結んでみようと思ったわけ。そうするとね、そのラインっていうのは、大山通って、足高山 通って、富士山通って、天龍通って、伊勢神宮を通って、天河へ続いているんですよ、一直線上に。このラインっていうのはすごく僕に関係があるらしいのね」(33)
「足柄山に家を求めようとしているところ」(33)
「つい引きよせられて」(33)
「契約しようと」(33)
「このラインの上にバッチリあらわれてるんです」(33)
「これをなぞって、一通り行けると思うんです。もう一つは戸隠へのライン。こういうのはフトマニクシロって言うんですか?」(33)
「このラインに僕すごく執着してるんです。うれしくてしょうがない。これを伸ばしていくと東京の真上を通っていくわけ。東京駅、御茶の水、神田あたり、皇居通ったり」(33)
「玉川あたりから岡本を通って」(33)
「どんどんこのラインに吸い寄せられてる」(33)
「これは一つの経絡ですか?」(33)
「僕はそう思った。このラインを引っぱるヒントを与えてくれたのは、富士山に住んでる女性なんですけどね」(33)
「天河に来る前に思ったことが一つだけあってね、それは僕なりの言葉なんだけど、都市対地球って気持ちがあるのね」(33)
「僕も含めて、都市文化の中で人間を刺激してきたんだけど」(33)
「それがちょっと変形というか、変成してきて、細胞に例えるとガン細胞みたいになってきたと思うのね」(33)
「自分も含めてガン細胞になりつつあるという感じがしてね」(33)
「それまでは地球にとっての人間ていうのは苔のような、あるいは大腸菌のような存在だったと思う」(33)
「それで、このラインを考えてたら、これはやっぱり地球の経絡だと思うんですね」(33)
「地球の神経組織の背後にフトマニクシロみたいな本当の経絡があると」
(27)
「そこにすい寄せられて、そこで音楽を作ることっていうのが、僕のやりたいことだなあって思うようになってきた」
(33)
「東京を離れたところで音楽を考えたり」(34)
「そういう場所に住んで音楽をやってみようかというアイデアがでた」(27)
「経絡、そこに鍼を打つような仕事が大事だと思うんです」
(33)
「自然の側にたってね、最初は対立を考えてたわけ。ちがう文化、ちがうエコロジーって感じでね。ところが地球には経絡ていうのがあって、都市というのはそのツボだ、そのツボを結んでいけばいいと思うようになったのね」(33)
「日本というものを考えてきているんですよね。表面的なものよりも、日本の自然からくるような、もともと持っている日本の精神風土みたいなもの、もう一度そこに浸って、何かインスピレーションを受けたいと」(34)
「このラインはやっぱり地球を巡ってるからね、いつも地球のことを考えちゃう。歩いてるうちにもっともっとわかってくることがいっぱいあると思うんです」(33)
「ただ歩くだけでおのずと開けてくる世界っていうのは、これこそ密教ですね、どうですかねえ」(33)
「歩くっていうのは、昔の芸能民みたいだしね」(33)
「言い古された言い方かもしんないけど、一つにはさすらうということだから、自分自身が浄まってくと思うしね」(33)
「僕は、この話がある前から一人でも歩くつもりだったから、一瞬ちょっと考えたんです。つまりこれは仕事にしていいものかどうかね」(33)
「本当に偶然なんだか、用意されてたんだか、中沢新一氏が一緒に歩こうよ、ということで仕事になっちゃったんです。それで休めなくなっちゃった」
(35)
「仕事があんのかーって思っちゃったわけね。でもやってくうちにかわった」
(33)
「それもひとつの出会いなんですけど。ちょうどYMOが散開した後に、中沢くんなんかのニュー・アカデミズムが脚光を浴びた」
(24)
「それだけ音楽がつまんなくなってて、ロジックとか言葉が面白くなってる」
(24)
「僕は中沢さんにとっては、一つのサンプルだと思うの」
(33)
「それがまた面白いと思うんだけど。僕には理論てものがないからね」(33)
「どっちかというと、『間(はざま)』というか、『朧(おぼろ)』なものばかりが頭の中にちりばまってるから(笑)」(33)

中沢新一の証言
「一緒に旅をはじめた。その旅をぼくたちは天河からはじめた。」
(33)
「第一回が天河というのはものすごく良かったですね」(33)
「最初、後藤(編注:繁雄)君の方から細野さんと対談しないかって話があった時、発作的に霊地を歩いてみたいというのが浮かんだわけ」(33)
「日本の何かにものすごく魅かれてて、それはジャパネスクとかそういうレベルのものではなくて、まだ言葉にもされて ないし、形にもなってないような日本なんだろうと思うんだけどもね。それが確実に僕らにヴァイブレーションをかけ始めてるでしょ。それをつかみたいってこ とがあるのね。それを細野さんは音楽の現場でやろうとしているんだろうと僕は『フィルハーモニー』を聴いたとき思ったわけです」(33)
「で、形になってないものをつかむためには、聖地を歩くことがいいんじゃないかと思ったわけですよ」(33)
「自分の中の、まだ言葉にもされてないし形にもなってない日本のものを言葉とか思想のレベルで扱いたいと」(33)
「煮つまっちゃった現代思想に、小さい風穴をいっぱいあけたいなあということなんですね。それでなんで細野さんかというと」(33)
「仕事していく上で細野さんのやってきたことがすごく参考になってるわけです。『はっぴいえんど』から『キャラメル・ママ』や『ティンパンア レイ』をへてソロでずっとやってきた時期の仕事のやり方というのと、僕が二十代で右往左往してて、中国なんかをずいぶん大回りしてやってた作業っていうの がすごく似てる感じがしたんですね。たぶん求めてる何かというのに似てるものを感じたんです。で、問題はその出し方をどうするかということなんだけども ね。細野さんが向かっているベクトルと、僕なんかが向かっているベクトルっていうのが、ことによると同じ方向に向かってるという予感がまずあったわけで す」(33)
「それから、七〇年代の終わりから八〇年代にかけては、音楽が先行してましたでしょう。例えば、現代思想の現場でも、時代の無意識に形を与えるという作業において音楽が先行していた。だから、例えば、YMOもそうだし、ブライアンイーノがやってた仕事とかそういうのは、僕などのやろうとした作業に先行したものだったわけです。だけど、八〇年代にはいって二、三年たったら割と音楽が失速しはじめたでしょ」(33)
「となると、今音楽というもので形にされた以上に言葉で形にしといた方が、思想の言葉みたいなものだけど、その方がもっと先に進めるんじゃないかと」(33)
「いろんなものが大崩壊を起こすその前夜だったんだね」(36)
「崩壊への道を加速させる仕事をしちゃった」(36)

後藤繁雄の証言
「到着した日は節分の前々日で、聞けばこの神社では『福は内、鬼は内』と言うという。さながらわれわれは鬼なのかと思いつつ話はいつの間にか始まっていた。その奇妙な宴はビデオ
アーチスト荒井唯義らもまじえ夜半まで続いた。細野晴臣と中沢新一は浄土(ルリランド)や神秘体験や霊界について語った。その話の途中さまざまなシンクロニシティがおこり異常な興奮のうちにその夜は終わった。」(37)

※編注:のちに中沢新一との共著(対談集)『観光』(角川書店/1985年)に結実する旅の始まり。

1984/02/03 奈良県吉野郡/天河大辨財天社「節分祭」を訪れる。

「おもしろい経験だったよ」(33)
「精神世界同好会というか、精神世界六本木だったね。東京でもめったにあわない人たちがいっぱい来ちゃった」(33)
「もう神霊界の六本木だったね」(33)
「あれは一種の憑霊現象だと思うんだけど、おしゃべりがすごくて、ちょっと辟易するぐらい」(33)
「節分の儀式のあと僕は護摩の儀を見に行ったんです、隣りの毘沙門天へ。夜の暗闇の中に火がすごく上がってて、かな り気持ちがよくて、けっこう感動的だった。その帰りにみんなで歩いてたら、弥山が光ってたり、鳳凰が飛んでるのが見えたりして、ハイになってきちゃったわ けね。つまり全開しちゃったのね。僕だけそんなでもなくて、わりと観察する立場にあったから、まあ音を採るために天河に来たからね。それで夜中の十二時ぐ らいに、天河弁財天の社務所の方へ行って録音やろうと思ったんだけど人につかまっちゃったの。霊能力者といわれる人たちですね。中年の女の人」(33)
「高野山の人だけど、霊界の世間話してたんだよ」(33)
「まずいこと聞いちゃったなあと思って」(33)
「そんな人がここにいたなんてね。どこで誰に逢うかわかんないもんです。お友達と二人でヒッソリ、霊会しちゃってる ところへ僕が来ちゃったのが運のつきで、まあお茶でも、ということで、お茶を飲んですぐ帰るつもりだったんだけど、とっつかまっちゃったわけ。話が三時間 ぐらいとぎれないんだよね。それでみんな僕が行方不明になったと思って探し回ってた(笑)」(33)
「そのあと、こんどは富士道場の人がいて、その道場の人がポンポンといいこと言ってる。ところが、その隣りに僧侶が いて、僧侶は悩んでるのね、その明暗の浮きぼりというのがおもしろくてね。要するに聖(ひじり)たちの集まりらしいんだけど、聖たちもその場所で、禊がれ てる感じがするわけです。このおしゃべりというのが独特でさ、語りかけじゃないわけ。憑霊現象なんだよね。だからしゃべり出すと句読点がない、全部接続詞 でつながってるだけだからすごいですよね。そういう現象だっていうのは聞いてたけど」(33)
「特に女の人のパワーがすごいですね。神道っていうのは裏で連綿と女の人が伝えてるんだと思ったなあ」(33)
「女性優位だから逆に男の人が形を伝えていったり、形を確保しなきゃなんないということがあるみたいね」(33)
「そんなことがあちこちであって、宮司さんはついに倒れちゃった。宮司って職の人は、陰できっちりそんな現象をひきうけちゃうんだよね」(33)
「オシャベリの渦のあとで人がバーッといなくなったんだよ。僕は頭の中を交通整理したくていろいろ書いてたの。シン ボルマークとか集めて書いてたわけ。天河の『いすず』のマークを書いて、アダムスキーの円盤書いて、富士山は三角、戸隠は"十(とお)"を隠すから"十" で十字架になっちゃった。白山は白旗で、まあ、あとで見るとなんでもないわけね。で、こうやって書いてたら、弁天様のとなりで行をやってた清涼寺の『庵 主』さんが帰ってきてね、胸をたたいたら動物の声を出しちゃってるのね。そこで世界が急に変わったのね。で、庵主さんが、この図は何、とか聞くからいろい ろ答えてるうちにヒントがわいてきたんです。で、そのあと線を引いてみたんだけど、その時の楽しいことといったらなかったね」(33)
「フワッとふっ切れたというか、神道の稀薄さに気がついたのね。最初はね、神道の奥にもいっぱい露路があるって思ってたの。でも身体の方がそういう思いに 反してどんどん動いていくわけ。天河へ行ったりしたこともそうだしさ。で、行っちゃっていろんな神道界の人にあってみると、最初もってた濃密さは無視して いいんだと思い出してね。そこで初めて、ほかに見るべきものがあるんだと思って、天河の自然を見るわけ」
(33)

1984/02/04 中沢新一と対談。奈良県吉野郡天川村/民宿柿坂。

※編注:『小説王』7号(3月28日発売)に掲載。

1984/02 荒井唯義のビデオ作品のため、茨城/鹿島を訪れる。

「ビデオの仕事でね。(編注:鹿島神宮の)要石見てきましたよ」(33)
「あっちかな、こっちかなって感じで、行くともなく行くっていう感じで行くと、ボソッとあった(笑)」(33)

後藤繁雄の証言
「細野晴臣は天河の後、春日大社をへて鹿島にむかった。」
(38)

1984/02/10 YMO、レコーディング。
M-16:mix
坂本龍一の証言
 M-16
「M-16というと、まるで米軍の銃みたいっすね。Mはなんのことはない、Musicの略。ぼくたち、よく使うんですよ。『Mナントカ』という曲が無数にある。これは映画(『プロパガンダ』)の16番目に作った、最後の曲だったんですね。」
(14)
「一番最後の、エンド・ロールのところ」
(39)
「もう解散したあとに、実はあれ作った曲ですね。散開したあとに、えー、みんなまたスタジオに入って(笑)、やっていたというね、悲惨な話ですけどね」
(39)
「苦しい、悲しい解散の過程を経て、とうとう別れた恋人たちの今後の人生を祝福するかのような、ファンファーレ調の曲ですね。(^^;」(14)

1984/02 『ビデオ・ゲーム・ミュージック』レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

「テレビゲームが初めて出て新鮮だった頃、あのゲームから出てくる音をどうにか表現したくって、 YMOのファーストでシンセ・ドラムなどを使って表現したのがあの風船割りゲームのテーマ・ミュージック。いろいろ試してみて、まあまあ近い音が出たんで すが、どこか違う。それでもあの頃は、それで結構楽しめたんです。その後はそれほどゲームミュージックには興味もなかったんですが、レコーディングの合間 に楽しんでたゼビウスと言うゲームに熱中していた」(40)
「『インベーダー』以降は仕事場でのかかわりが多くて、というのはスタジオにはどこでもおいてあるでしょ。待ち時間にはビデオ・ゲームっていうのが一番あってるんですね。
パックマン』から『ギャラクシァン』とか『インベーダー』から『ゼビウス』の間にあるゲームをひととおりやったんだけど(33)
「ビデオ・ゲームって熱中してる間はできるけど、ひとたびさめちゃうと二度とできない。ところが、『ゼビウス』というのは特殊でね。景色がかわっていくでしょ。この先何かわかんないっていう引っぱり方をするから、なかなか抜けられない」
(33)
「だから時間かかるでしょ。『ゼビウス』ってどんな人でもある程度技術がマスターできてくるわけだから。他のだと、最初で『あっこれはダメだ』と思ってやめちゃう。『ゼビウス』っていうのは時間とともに条件反射がトレーニングされてきて」(33)
「『ブロック』とかをやったら戦っちゃうと思うんだけど、でも『ゼビウス』というのは、『ゼビウス』の世界と対話してるってことの方が大きいから、おこったりあせったりしないわけよ」(33)
「他のゲームとは違ったリズムをあのゲームに発見しまして、それでまた熱が入り出しちゃった。それがちょうど松田聖 子ちゃんのレコーディングの頃で、曲やらないでどうしたらリアルにコピーできるか、なんてことばかりエンジニアの人たちとやってたモンだから怒られたりし て。そうして考えたコンセプトで表現した」(40)
「音の録り方も、いろいろ考えたんですが、ゲーム基板のライン出力から直接イミュレーターに音を入れ、それをプロ フェット5とMC-4でかたちにして、マシンの原音を大切にしたんです。どうしてもスピーカーを通した音や、シンセだけで作った音じゃ、本当のサウンドが 出てこないんですね。ゲームマシンの基板、CPUからサウンドジェネレーターまでの音はデジタル信号ですが、シンセで弾くとアナログになる。このデジタル からアナログへの変換がレコーディングのポイントになっているんです」(40)
「レコーディングルームにゲームマシンを持ち込んで、実際の画面を出しながらのレコーディング。ちょっと他のレコー ディングでは考えられないセッティングですよ。録音中は、ナムコの方に実際のゲームをしてもらいながら、コインを投入する音から、ゲームの最高点をクレ ジットするまで完璧に録音。そこでイミュレーターにひろった音をプロフェットなどを使ってもう一度弾きなおして録音して行ったんです」(40)

遠藤雅信の証言
「僕と細野さんがあるマイコン専門誌で対談やってた時、その中で『ビデオゲーム・ミュージックをもっとクォリティーの高い音質でストックしたいね』っていう話から始まった」
(40)

大野木宣幸の証言
「ゲームを一般の方は、パソコンの延長ぐらいにしかお考えにならないようですが」
(40)
「ミュージック部を構成するパーツなどは、市販のICだけじゃなく、特別に作ったモノを使用していますので、言うな れば小型のデジタルシーケンサー並の機能がギッシリ詰ってるんです。普通のシンセサイザーはアナログで、ボルテージの高さでコントロールしていくんです が、コンピューターでは処理しづらくて、考え方としてはアナログのサウンドジェネレーター的にデータ処理でいろいろの音程がでるようにアレンジしてあるん です。その他にもディレイとかエコー処理などもデジタルで表現できるようにデータ処理がなされていて、そのためにメインの頭脳であるCPUの他にサウンド 専用のCPUも組み込まれている本格派です」(40)
「サウンドジェネレーターの部分も市販のICよりも豊かな音を表現できるように手を加えてありますから、小型のシンセサイザーユニットっていうのもウソじゃないわけです」(40)

1984/02/20 『サウンドール』3月号(学習研究社)発売。
対談/一段落 極意なり 細野晴臣 × 丹羽慈祥
インタビュー/臣眠不覚暁 処処聞啼鳥

1984/02/21 YMO『アフター・サーヴィス』発売。
 produce, mix
  プロパガンダ
  東風:synthesizer
  ビハインド・ザ・マスク:synthesizer, chorus
  ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー:synthesizer, chorus
  中国女:bass
  音楽:synthesizer, vocal
  フォーカス:bass, chorus
  バレエ:synthesizer, chorus
  ワイルド・アンビションズ:bass, vocal
 
 邂逅:synthesizer
 
 希望の河:synthesizer
  シー・スルー:synthesizer, chorus
  手掛かり:synthesizer, vocal
  テクノポリス:synthesizer, chorus
  ライディーン:synthesizer, chorus
  以心電信:synthesizer, chorus
  過激な淑女:
synthesizer, chorus
  君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス):synthesizer, chorus
  ファイアークラッカー:synthesizer
  ※1983/12/12, 13@日本武道館
「(編注:ミックスが行われたスタジオには)いたんでしょうね。でも、もしも体はいたとしても、心はいなかったので、いないのも同然ですね」(12)

1984/02 荒井唯義のビデオ作品のためのレコーディング。戸隠/BIWAスタジオ。

「レコーディングは戸隠でやったんです」(1)
「この年日本は大雪であった。天河での映像に音楽をつける為、紀伊の裏ということで戸隠〜飯綱にスタジオを構える宮下氏の所へ、紀州から関東に渡って降り積もる雪のベルトに乗って『観光』の第二歩を進めたのである。」
(26)
「神秘性を出そう、という意図ではなく、その中に包まれて音楽を作ったらどうなるか、というコンセプトでした」
(24)
「戸隠行った時は僕ちょっとつらかった」
(33)

後藤繁雄の証言
「天河で細野晴臣と中沢新一は、日本列島をつらぬく一本の経絡線を発見した。そのラインをたどる前にどうしても行ってみたい場所があった。それが天河の「裏」、戸隠神社である。」
(33)
「天河の宮司さんが天河の「裏」だといい、そして音楽家宮下フミヲが住む戸隠飯綱」
(38)
「偶然とは不思議なもので、細野晴臣は、荒井唯義との仕事のために、戸隠の宮下フミヲの琵琶スタジオへ録音に行くことになった。」(33)

中沢新一の証言
「細野さん山の中で音楽作ってたけど、すごく苦しそう」
(33)

1984/02/25〜26未明 中沢新一と対談。戸隠/BIWAスタジオ。

後藤繁雄の証言
「対談は二晩にわたって宮下フミヲのスタジオの内で行なわれた。」
(33)
「窓の外は、空気も凍りつくような厳寒。山のオーラと星々がハーモニーを奏でる。」(33)
「細野晴臣がつくる『マーキュリック・ダンス』のデモ・テープを聞きながら、2人は、鉱物や浄土や環境音楽の話を語りあかした。」(38)

※編注:『小説王』8号(4月28日発売)に掲載。

1984/02 中沢新一・奥村靫正・後藤繁雄と戸隠神社を訪れる。その足で帰京。

後藤繁雄の証言
「戸隠奥院へ半日がかりで参拝」(33)
「できればその後、鬼無里をへて、細野村のある白馬の方まで行ってみるというのがアウトラインだ。」(38)
「戸隠の連山 - 中沢はその山を見るなり『ゴジラの背中だ』とつぶやいた。それはまさに九頭竜権現であった。地表にむき出しになった岩山は地球がメッセージを発している聖域だった。2人の男は、その大きな鉱物に導びかれ戸隠にやってきたのかもしれない。」(38)
「腰までつもった雪をかきわけてついに到着、戸隠奥ノ院。でも社はなんとほとんど雪の下。」(33)
「われわれをのせたロケバスは、いざ白馬細野村をめざした。しかし、折からの猛吹雪は行手をさえぎる、視界ゼロ。」(33)
「鬼無里への一本道は完全凍結。夕闇が何やら不気味だ。」(41)
「われわれは強行するのをやめ」
(41)
「道をひき返す」
(33)
「ふりかえってみると、そこには、宝石のように、オーロラのように輝きを放つ夕暮があった。」(33)
「奥村靫正が撮った一枚の写真がある。その写真はまるでオーロラか何かを撮った蚊のような凄絶な光に覆われていた…。」(41)
「サイキックな夕暮れだった。」(33)
「山の乱流や環境音楽とルリランド・ミュージックの話にふさわしいエンディング……」(33)
「われわれは戸隠の山をあとに東京へむかった。途中、セブンイレブンで休息したり、またある時は、山の上に建ち空宙に光を発つ異様な館に魅(ひ)かれ道に まよいこんだり(闇夜にもかかわらずわれわれは空にかかる虹を見た)それこそ何やら狸にダマされているような気分だった。闇の中にまっすぐ伸びる中央高速 を猛スピードで疾走しながら細野晴臣と中沢新一は、『トワイライトゾーン』や『アウターリミッツ』に興奮した子供時代の話、二人のカスタネダ体験の話に華 を咲かせた。」
(41)
「そして- 細野晴臣はカバンをかかえ宿泊先のホテルオークラに姿を消し、奥村靫正は原宿の仕事場に、中沢新一は運転手とともにいずこにか消えた。東京午前三時。」(41)

1984/03 神奈川県足柄に別邸「渓松庵」購入。

「日本家屋で、檜舞台の能楽堂が家の中にある」(33)
「茶室があって、全部木は飛騨から持ってきたものなのね」
(33)
「檜のニオイがいっぱい。その場所って別に聖地でも霊地でもないし、人はまずこない」(33)
「人はソッポを向く。まあ、そういうとこだからみんなに反対されたわけです」(33)
「そんな場所にしてはネダンが高いとか(笑)、僕と合わないとか、そんなことを言う人もいるわけ。そんな否定的条件をかいま見ながら」(33)
「でもそんなものを手に入れるのは不安だったけどね」(33)

※編注:のちに「孔雀庵」と改称。能楽堂は『紫式部 源氏物語』(1987年)のレコーディングに使用された。

1984/03 『オールライト!』4月号(CBS・ソニー出版)発売。
取材記事/日めくりのように東京は変わった。
※編注:特集「1984年、東京。素敵に乾いた街の唄が聞こえる。」内。

1984/03/04 『NHKヤングミュージックフェスティバル '84』全国大会で審査員。渋谷/NHKホール。
司会:飯島真理、千田正穂
ゲスト:EPO
審査員:矢野顕子、伊藤銀次、渋谷陽一、波田野紘一郎
ローザ・ルクセンブルグのことは覚えています、強く残っていますよ。他の出 ていた人達のことはまったく覚えていない。どんとくんの佇まいがそのままローザだったですよね。ニュー・ウェイヴがまだそれほどでもなかった頃にでてきた こともあって、強い印象があった。『在中国的少年』をやったんですよね。当時のニュー・ウェイヴのムーヴメントの中では、当然ありうべきサウンドで、その 歌詞やバンド名も、イギリスやヨーロッパで共産圏ロックというものがあったような、ファッションの流れとエキセントリックな流れの中にある、音楽的センス のひとつと捉えていました。その後は交流がなくて…。ノン・スタンダードで契約する話もあったという気がするんだけど、こっちの準備ができなかったんじゃ ないかな」(42)

※編注:久富隆司(どんと)が在籍していたローザ・ルクセンブルグが「在中国的少年」で金賞を受賞。この日の模様は同年3月24日にNHK総合で放送された。

1984/03/10 旺文社/戦略戦術シリーズ CM曲のレコーディング。音羽/LDKスタジオ。

「バブルの、真っ只中に、行きつつある、時でした」(29)
「そのバブルっぽい、CMに、出た時の、音楽です」(29)
「LDKで録音しながら同時に作られた。」(43)
「旺文社の戦略戦術シリーズのCFは、細野がとてもオモシロイ起用のされ方をした代表作である」
(43)
細谷巖のポスターが素晴らしかった反面、TVCFの細野はとても奇妙であった。重い鎧兜と不思議なマントをつけ、 遠くから不気味にズームされ、あげくのはてに顔のアップになり、セリフをうめく。『戦の土地に花が咲く』だったっけ。その画面はまるでかつてのジョージ秋 山の名コミック『デロリンマン』を彷彿させるし、人々からは『大魔神』とののしられる始末であった。であるが、せめて音楽だけは格好よくいきたい。」(43)

※編注:「マジンガー・H」のタイトルで『コインシデンタル・ミュージック』に収録。

1984/03/11 映画『プロパガンダ』パンフレットのためのイラストを描く。

1984/03/15 YMO散開記念写真集『シールド』(小学館)発売。
寄稿/未来の手紙

1984 映画『さよならジュピター』を観る。

「日本の映画の大作っていうのは見なくちゃいけないと言ってたけど、ついやっぱり見ちゃってさ(笑)」(33)
「やんなっちゃったんだけどね」
(20)
「断絶の話なんだ。スター・ウォーズみたいな音楽が鳴ってるのも、タイトルの字がとんでいくのもまあ許せるとして、人間が地球に住めなくなって、そこでおまけにブラックホールが出てきて、これをよけるために木星を爆破するというんだよ(笑)」
(33)
「それを見て泣けというんだけど、無理だよ、そんなこと」(33)
「木星が泣いてるって言いながら終わるんだけど」(33)
「木星破壊に反対する感心な人たちが出てくるわけ。まあ映画だから勧善懲悪なんだけど、いい人が悪い人で、悪い人がいい人だから、もう混乱しちゃう。主人公たちは爆破に燃えてるわけ。そんなふうな映画でした」(33)
「でもそれがね」(33)
「同時代に十億円をかけてつくられたということは」(33)
「断絶です」(33)

1984/03/21 藤真利子「危険な眠り/哀しきマリオネット」発売。
危険な眠り:compose
危険な眠り
「アレンジが素晴らしい」
(11)

1984/03/24 14:30 NHK総合『ヤングミュージックフェスティバル '84』放送。

1984/03/27 『流行通信』5月号(流行通信)誌上で秋山道男作詞による「殿A」のメロディ譜を発表。

秋山道男の証言
「巻頭二四頁をA(編注:秋山自身のこと)が演出することになり、『秋山城の姫々』と表題することも決定した。」(44)
「が、気になるのはAの狼藉振り。『歌だ! 歌。俺のこの二四頁には、蜂鳥のように刺し、始祖鳥のように舞う歌、主題歌が要るんだ!!』」(44)
「この世に音楽づくりのために生を受けた細野晴臣悩殺妙音男が風のように現れ、風のように消えて…、間もなく、 どこか異邦の風のような妙なる音の連続がAの耳元に届けられた。Aの紡ぎ出した言の葉を載せた細野のその旋律は、琴線の谷間をそよそよとそよぐ、風のごと きものであった。Aが求めていた歌が出来上がったのである。」(44)

川村容子の証言
「流行通信の'84年5月号で、秋山氏に特集を依頼した時にできあがったものです。20数ページある雑誌の特集 のトップに主題歌をつけようというわけです。音の出ない雑誌に主題歌ですよ!? 楽譜は、サンゴ・大豆・ちりめんじゃこ・柿の種・宝石・かいわれ大根な ど、異色の素材で豪華絢爛に仕上がりました。」(44)

※編注:「秋山城の姫々」は、秋山道男の企画・演出により、甲田益也子、中川比佐子ら7人のモデルを起用 して作られた、24ページに及ぶビジュアル・ストーリー。撮影=小暮徹、衣装=北村道子らが参加している。細野が秋山の詞に曲をつけた「殿A」はこの企画 の主題歌として作られたものだったが、のちに秋山がプロデュースした安野とも子『ラ・ミューズィック・エキゾティク』(同年11月21日発売)のために「フラワー・バード・ウィンド・ムーン」と改題され、実際にレコーディングされた。


1984/03/28 『小説王』7号(角川書店)発売。中沢新一との連載対談「ストレンジ・スター・クラブ」開始。
連載対談「ストレンジ・スター・クラブ」1/天河 細野晴臣 × 中沢新一

1984/03/28 中沢新一と対談。六本木/東風。

お互いにゼビウスの中に神話性を見つけたなんて言い合って」(40)

後藤繁雄の証言
「戸隠の厳寒を忘れかけたある夜、六本木で突然対談をすることにした。」(33)
「山からおりた二人は、こんどはテクノポリス東京のドマン中で出会った。場所は、かつてのエスニックのルーツともいうべきチャイナ・レストラン『東風』二F。」
(33)
「とび入りでまず雑誌『GORO』のビデオ・ゲームをテーマにした対談を一時間ばかり。そしてちょうどその日に出た『現代思想』掲載の、中沢新一『劇場国家論批判(南方熊楠ノート)』をまわし読みし休息。」(41)
「対談は深夜まで続いた
。」(41)
「途中、野々村文宏やいろんな人が遊びにきて、七〇年代のおさらいというカンジの一夜だった。」
(33)

※編注:『GORO』4月26日号(4月12日発売)、『小説王』9号(5月28日発売)に掲載。

1984 荒井唯義のビデオ作品のためのレコーディングを見学に訪れた秋本奈緒美と会う。芝浦/スタジオ'A'。

「4月か5月だったんじゃないかな? ボクがレコーディングしているときにスタジオにフラッと来た」(45)
「『マーキュリック・ダンス』というビデオのレコーディング」
(45)
「キンタロー(編注:荒井のニックネーム)もいた」(45)
「キンタローが、ネパールから麝香(じゃこう)のタバコが送られてきた、と、わりと高価なもので、おいしいの、それ で『これを吸うと、絶対人が来る』って言うんだ。『女の人が吸うと男の人が来る、男の人が吸うと女の人が来る』って。へえ、面白いね、とか言いながら吸っ ていたら(45)
「まったく突然来るでしょ、面識のない人が。だから、ボクはびっくりしちゃって」(45)
「緊張しちゃって、顔を見るなり『アッ、"オールナイト・フジ"だ』と、言っちゃったわけ。それで、あとで、失礼なことを言っちゃったなぁと思って(45)
「キンタローが、あの子は円盤とか好きなんだよ、とか言ってた」(45)

秋本奈緒美の証言
「ビデオを見ながらレコーディングしてました」
(45)

1984/04/05 映画『プロパガンダ』プレミアム試写会に坂本龍一・高橋幸宏と出席。新宿/シアター・アプル。

1984/04/07 『音楽王 細野晴臣物語』の「はじめに」脱稿。

1984/04/12 『GORO』4月26日号(小学館)発売。
対談/いまは音楽について語りたいことはないよ。音楽よりゼビウスのほうがすごいよ 細野晴臣 × 中沢新一

1984/04/18 映画『プロパガンダ』パンフレット発行。
寄稿/SHONENとONNA
イラスト

1984/04/18 映画『プロパガンダ』公開。渋谷公会堂。

※編注:以後、全国100会場以上で順次上映された。

1984/04/22 『音楽王 細野晴臣物語』の「おわりに」脱稿。足柄/渓松庵。

1984/04/25 サンディー&ザ・サンセッツ「スティッキー・ミュージック/ミラーズ・オブ・アイズ」発売。
スティッキー・ミュージック:compose, arrangement, synthesizer
スティッキー・ミュージック
「オーストラリアで(編注:サンディー&ザ・サンセッツの)ツアーがあって、この曲がちょっと話題になった」
(11)

1984/04/25 『ビデオ・ゲーム・ミュージック』発売。
produce
 ゼビウス:arrangement, all instruments
 ギャラガ:arrangement, all instruments
「ビデオゲーム大好き人間たちにとって、ゲームミュージックは映画のサウンド トラックと同じように一種のBGMだと思うんです。映画のBGMはリッパにレコードになっているのに、何故かゲームのBGMはレコード化されて整理される コトもない。僕はテレビゲームファンとしてね、資料っぽいものを作りたかったんです、本当はね。でもそれじゃテイメントに欠けるんで、少し音楽的にアレン ジしたんです」(40)
「ゲームマシンのサウンドって、グラフィックの添え物的存在のように思えるけど、サウンドだけの方が想像力の世界は 広がりますよね。たとえばこのアルバムを聴いて、この部分はどのパートだってわかる人はそうとうのゲーム大好き人間で、普通にゲームやっている人や知らな い人にとってはあまり関係あるコトじゃない。でも、大好き人間たちには、『マッピー』の曲を聴いて、実は実際の画面の得点物よりも多い得点物がレコードの 中に入っているコトに気が付いて、ひとりホクソえむなんていう仕掛けがところどころにあるんです。だからこのアルバムは、そういったマニアたちのBGMと して楽しいモノなんじゃないですか」(40)
「ゲームセンターで、ゼビウスに向ってカセットで録音してるマニアたちに楽しんでもらいたい作品」(40)
「でも、マニア以外の人にもこのサウンドを聴いてもらいたいですね。ここに収められているビデオゲームたちは、以前の効果音だけじゃなくって、ストーリーを白熱させてくれるメロディーがあるモノばかりだし」(40)
「音楽とビジュアルは密接な関係だけど、逆に言えばビジュアルによって規制されている部分が音 楽には多いですよね。ところがビデオゲーム・ミュージックというと、ゲームやってる場合はゲームに集中してるから、ゲームが音楽と一体感であって、常に生理 的に感じてるにすぎないんですね。だからこそもう一度、音楽的にとらえて見れば違ったゲームミュージックの良さが見えてくるんじゃないですかね」(40)
「制約だらけの中で生まれるものこそ生命力が強い」(46)
「中沢新一氏と」(40)
「対談した時もゼビウスの話になり」(40)
「要するにゼビウスに は以前のインベーダーのように何発目に母船を打てば何点とかいう、単純な秘密じゃなくって、もっと隠されたキーワードがいっぱいある、そのコンテーション がスゴイ!という話で。YMOもそういった遊びの中から広めていく伝達性があり、その手段もお互いテクノでやるという共通点が、ビデオゲーム・ミュージッ クの中にはあるんですよね。最新技術を、テクノロジーを遊びに使うという点でね」(40)
「YMOの軌跡とゲームのムーブメントは並行していた。テクノのプロト・タイプとして、ゲーム・ミュージックは重要だった。」(46)
「YMOもコンピュータやイミュレーターという技術を使って遊戯をしてたわけです」
(47)
「この共通点があったからこそ、YMOの中でゲームミュージックを使っても おかしくなかったし、このアルバムにしても自然に楽しめるんじゃないですか」
(40)
「それにビデオゲーム・ミュージックそのものが、興奮するよう考えて作曲してあるモノばかりですから、かなりそれ自 体が仕上がった作品なんですね。僕がこのアルバムでアレンジを加えた曲は、『ゼビウス』と『ギャラガ』の2曲ですが、それぞれ独特のノリっていうか、他の ゲームに見られないスピードとリズム感があり、アレンジを合わせてもストーリーがちゃんと流れていく自然がありますし、いわゆるテクノ的サウンドの響きが あるマシンたちなんです」(40)

ゼビウス
「僕の仕事としては、ほとんど手を加えないようにしたんですが、一曲目の『ゼビウス』には相当の思い入れがあったんで、これはかなり楽しみながら自分の音 に作っちゃったんです。ゼビウスに関して画面のすみずみまでわかっているし、音楽的広がりもゼビウスにはありますから。ストーリーのあるゲームだからこそ アレンジのしがいがあるんです」
(40)

遠藤雅伸の証言
「ゲーム・ミュージックなんて、サシミでいえば大根のツマみたいにしか思われてない」
(40)
「だけど、あれで音がなかったらゲームの魅力は半減どころか1/3以下になるほど、ゲームにとって重要なファクターなんですよ」(40)
「そういった意味で、ゲームファンには嬉しいモノだし、またゲームにあまり関心のない方たちにもゲームの音楽的オモシロさを知ってもらう上でも、重要なアルバムになると」(40)
「ひとつの方針として、非常に凝ってるところを作ろうというので、随所にキーワード的隠し味を振りかけてあるんです よ。一見、ゲームの音をそのまま録音してあるように聴こえますが、実際のゲームでは起こり得ないつながり方をさせて、音楽的に聴きやすいようにとかの工夫 をしてあるんです。熱狂的なゲームマニアの諸君たちも、その内の何点に気が付くか、細野さんとも楽しみだなんていい合ったりして」(40)
「だからレコーディング中は、録ったテープを聞きながら『あっ、ここ、ここで切って下さい』というと編集の人がつな ぎ合わせてくれて、それをもう一度聞いてみて、『ああ、半拍早いですね』とか、『あと0.3mm切ってみましょう』なんてやりながら、ノリのいいテンポを 重視しながら作りあげたんです」(40)
「完成したテープをアルファのスタジオで一番最初に聴いた時の衝撃ったらなかったですね。ラジカセなんかで小さい音 量で聴くと、ゲームセンターとあんまり変わらない音なんだけど、でかいスピーカーとまともなアンプを通して聴くとモノ凄くいいサウンドなんですね。これが 本当にゲームマシンの原音から取った音なのかって耳を疑いたくなるほど驚きました」(40)
「僕は、特に『ギャラガ』での細野晴臣さんのアレンジが気に入っていて、ゲームのサウンドとしてじゃなく聴いてほしいな」(40)

1984/04/28 荒井唯義と連名のビデオ・ソフト『マーキュリック・ダンス』発売。
音楽
「個人的には、一番好きな映像っていうのは夢の中で見るものなんです。四次元のよさみたいなね。だからSFXとか、特殊撮影とか、コンピューターグラフィックスとかにひかれるわけ」(48)
「一番面白いのは、だまし絵感覚なんです。だまし絵で現実に穴を開けて意識を変えて行く、それはすでにアートといっちゃっていいと思うんだけど」(48)
「『マーキュリック・ダンス』なんかは、一つの方向を示したものだと思いますね」(48)
「お互いに違う場所で、同時進行で作ったんです。つまり、荒井さんは漠然と音を想像しながらビデオを撮ってたし、ボクのほうも画面を想像しながら音を作ったの」(49)
「荒井さんも、わりと初めての試みをやったんじゃないかな」(49)
「ふつうはやりにくいです。ただ」(49)
「考える時間がたくさんあった」(49)
「天河神社での、おー光と、えー音を、採集したような、そういうような、音楽なんです」(29)
「光と水っていうのはね、おそらく映像のほうで使われるだろうけど、音でも光や水の流れる感触、そういったリフレクティブなキラキラしたものを考えてたの。でも、それをそのままやったんじゃ」
(49)
「ボクらがやれば、まあそうはならないとは思ってたけど」(49)
「天 河の印象を音楽にまとめるといっても、手がかりがないと何を作っていいかわからないものだから(笑)、いつものアルバムを作るのと同じように、構成を考え なくちゃならない。そこで天河をいろんな角度から調べていって、テーマにしたんです。それまで神道といっても、神社でおはらいするところぐらいのイメージ しかなかったものだから」(1)
「全く映像のことは考えないで作ったんです。作り方が絵画的だとは思うんですけど。要するにこうキャンバスに向かって絵の具を塗りたくっていくようなね」
(1)
「コンピューターをほとんど使ってなくて、手弾きですね。鍵盤に向かって、テープを回して、エイッと弾いてできた」(1)
「あと、キーは同じまま違う気持で弾き直して、ふたつを重ねるとかね。その場合は、もちろん、たまたま合うことを期待してやるんです」
(1)
「拍子はないんです」(1)
「とにかく拍子も決めずに、まったく生理的な感覚だけで作ったんです」(1)
「天川にずっと泊まってると、東京にいるときと、だいぶ違う感覚になってくるんです。で、そういうところで感じたことを音にしようと思ったんです」(49)
「昨 日聴いた曲にそのまま影響されて出てきたとか、そんな音楽じゃなくてね、今までずっとやってきた事を捨てちゃって、と言うとなんだけど、思い出さずにね、 その時に出てきたものを素直に……だから自分のキャパシティがそのまま出てきちゃうと思うの。ある意味では自分で聴くのが恐い音楽です」(50)
「わりとリズムのない世界。あまりポップじゃない(笑)。自然の風景を見てる感じにすごく近いですね。それを、長野 の戸隠っていう山の中のスタジオで録ったんです。そういう場所で音楽作ったから、東京に帰ってきて聴くと、なじめないのね、自分で。これは山の音楽だなと 思ったんです」
(49)
「ところが、後半は東京で作ったんですが、不思議なことに、聴いてるとそこらへんからなじんでくる。山に持っていって聴いたこともあるけど、そうすると今度は後半がなじまないの」(49)
「思いもよらなかった。だから、『マーキュリック・ダンス』っていうのは、不思議な体験をした音楽なんです」(49)
「わりと天川とか戸隠に捧げたっていうのが強い」(49)

1984/04/28 『小説王』8号(角川書店)発売。
連載対談「ストレンジ・スター・クラブ」2/戸隠 細野晴臣 × 中沢新一

1984 ミカドのライヴを観覧。

「ミカドの音には、打ちのめされたけどね。あの、音の、質」(22)
「レコードを聴いたことが(笑)、きっかけですねやっぱり。えー、ロンドンの友達(編注:トシ矢嶋)から、送って来てもらって。最新、音楽情報みたいな ね、そういうのをカセットで送って来てくれるんですね。その中に、ああこれはいいなあと思うような曲が入ってたんですけど。それが、ミカドっていうグルー プだったわけです」
(32)
「'82年のシングルが、そのテープの中に1曲だけ入ってたわけ。その曲だけがフランス語で、テクノ・ポップで印象的だった」(51)
「とにかく最初の印象はね、音の作りはすごくシンプルで、曲は良き時代の『シャンソン』っていうか」
(51)
「ほとんどフランスでも聴かれないような、ロマンティックなものってかんじ」(51)
「まだロンドンあたりはニュー・ウェイヴの、真っ只中の頃に、珍しく、ミカドが、混じってた。ああいうサウンドが」(22)
「だから際立っちゃったわけだよね」(22)
「ミカドという名前も覚えやすかったし、そんなわけで他に入ってた曲はみんな忘れちゃったけど、YMOの3人で『ミカドはいいな、いいな』って聴いてたんだ」(51)
「最初情報が乏しくて、ベルギーのグループらしいとか、とにかく謎のグループだったよ。それからレコーディングでブ リュッセルに行って、テレックスのメンバーと一緒に仕事をした時も、彼らにミカドについて聞いたんだ。でもよくわからなくて、フランスのグループだといわ れて、とりあえずやっとレコードを買ったというかんじだった。その後、僕は移籍とかでごたごたしちゃってたんだけど、それでもミカドのことはあきらめ切れ なかったんだよ」(51)
「たまたま彼らが日本に来てて、えー、話が早く、弾んじゃったんですね。それで、えー、(編注:ノンスタンダード・レーベルで)やることになったんですけど」(32)

グレゴリー・チェルキンスキーの証言
「来日した時、レコードを日本から出すという話になった」
(51)
「すぐにOKしたんだ」
(52)

パスカル・ボレーの証言
「ミカドに興味を持ってくれていたらしくて、私たちがその頃クレプスキュールをやめたことを知って、ノンスタンダードに誘ってくれたの」
(52)

※編注:ミカドはクレプスキュール・レコードのショーケース・ツアー『ミュージック・エパーヴ』 のためドゥルッティ・コラムらとともに来日中で、東京公演は4月28日@渋谷公会堂、29日@新宿/ロフト、5月4・5日@原宿/ピテカントロプス・エレ クトス、6日@六本木/インクスティックで行われた。うち4月29日はミカドの単独公演。細野晴臣の観覧日は特定できない。


1984/04/30 中沢新一・奥村靫正・後藤繁雄と、足柄/渓松庵を経由して大山に向かう。大山/かめい旅館泊。

後藤繁雄の証言
「晴天のゴールデンウィークどまんなか。まずは細野さん運転のローバーで、足柄の渓松庵へ向かう。そこで一息入れてから、いざ大山へ。到着した夕方から何やら雲ゆきがあやしい。夜半には雨もふり出す。」(33)

1984/05/01 中森明菜『アニヴァーサリー』発売。
100°Cバカンス:compose
100℃バカンス
「これは印象深いです。アレンジが瀬尾一三さんで、すごくがんばってくれて」
(11)
「アレンジを、瀬尾さんっていう大御所の人に頼みたいって言われて…
…それで僕がMC-4で作ったデモを渡したら、瀬尾さんが仕上げたものはもっとバキンバキンのコンピューター音楽になっていた。こういう人も使いこなしている時代なんだなと」(53)
「いいアレンジしてくれたなあ、と当時、思いまして。ところが、当初、制作サイ ドからは『明るくしたい』って言われてて、それで思いっきり明るい曲を書いたら、なんかキャラクターがちょっと合わなかったんだなあ。ライバルの松田聖子 の雰囲気に近くなっちゃたんでね」(11)
「歌入れの時ぼく行った時、中森さんは、なんと、『松田聖子みたいな曲ね』と、一言、言われました」
(54)
「アルバムに入りましたけど、最初はシングルのつもりでやってた」
(11)

1984/05/01 中沢新一・奥村靫正・後藤繁雄と大山に登る。観光団体「妙音講」結成。

「中学以来だからね、登山は」(33)
「丹沢とか登ってたんだけど、大菩薩峠とか行って、中学ん時にやめちゃったね、忙しくて。それ以来。ハハハハ。だからほんとに久しぶりに山登りして。高尾山も、ロープウェイで登っちゃったし、戸隠ん時も麓にいたしね」(33)
「中沢さんに引っぱられちゃったね」(33)
「わりと気軽に登れたね」(33)
「調子よかった。いつもはみんなのお荷物になるんじゃないかと心配だったけどね」(33)
「よかったね。大山の雰囲気が初めてわかった。いつも外から見てたからね、外から見てると、狐の火みたいなのがパーッととんだりするんだけど、登ってみると、全然違う」(33)
「江の島が見えたり」(33)
「とうとう『講』をつくろうって話になった」(33)
「妙音講」
(33)
「唐突だね、登山して、下山して思いついたのね」(33)
「いろんな講の石の碑があったでしょ。あれをみて自分たちもやってみたいと」(33)

後藤繁雄の証言
「快晴。」
(33)
「旅館で『かめい会』の講の半纏を貸してもらい、前日の夕方にオミヤゲ屋で買っておいたアミ傘と金剛杖をたずさえ て、いざめざすは大山山頂。六本木対談の時に、徹底的に六〇年代、七〇年代のヘビーなおさらいのようなことをしてしまったので、二人とも今日は気楽に歩け る気分だ。普段は、ちょっと歩くと心臓にくる細野さんも、この日はメチャクチャ元気で、最後までトップで歩きとおす。」(33)
「途中、中学生の一群に山の中を追いかけられるというハプニングはあったが、最高の物見遊山であった。」(33)
「大山山頂に登りつめた時二人が見たモノ、それは大量のゴミの山だった。」(41)

1984/05/01 中沢新一と対談。大山/かめい旅館

後藤繁雄の証言
「いよいよ次代のテーマと方法が語られはじめた、それも具体的に。」(41)

※編注:『小説王』10号(6月28日発売)に掲載。

1984/05/02 『週刊FM』5月6日号(学習研究社)発売。
インタビュー:細野晴臣の『遊・音・学』

1984/05/07 パルコ CM曲のレコーディング。六本木/セディック・スタジオ。

「パルコのCFはジョルジュ・ドンの来日中にあわただしく撮影され、井上嗣也がこの大変な仕事に 取組んでいた。」(43)
「二、三日のうちに撮って、突然音楽を付けないといけないので駆り出された」(30)
「音楽の依頼は突発的に井上氏本人からあり、どんな曲を作るか考えるヒマもなくスタジオ入りした。」
(43)
「できてないのはもちろん分かっているので、『スタジオに来て、その場で好きに作ってくれ』と言われて、これは思い切り遊ぼうと思ってコンピュータの遊びをやったんです」(30)
「旧式のコンピューターを使ったんです」(1)
「その結果、この曲はコンピュータによる即興 的な音作りに(左の脳にとっては何の根拠もないであろうところの)自信をもたらしてくれた。」(43)

※編注:「ジョルジュ・ドン」のタイトルで『コインシデンタル・ミュージック』に収録。

1984/05/08 ヤクルト CM曲のレコーディング。六本木/セディック・スタジオ。

「勿論この曲も録音と同時に作曲された。」(43)
「ヤクルトの虹編は、日立、コンタック、キリンに続いて細野がキャラクターとして起用されたCFであった。虹の上に座り、ひとくちヤクルトをごっくんと飲み干し、『ヤッホー』とさけぶ。おまけに半ズボンである。」(43)
「37歳であるとは思えぬ幼児性が痛ましい。」(43)
「音楽だけでも哲学してみたかった」(43)

※編注:「バイオ・フィロソフィー」のタイトルで『コインシデンタル・ミュージック』に収録。

1984/05 テイチク・レコード社長の南口重治と会談。奈良。

「5月頃です。社長さんは、奈良県に住んでいるんですよ。東大寺の真ん前に。テイチクの本社も、奈良県にあって、県下で一、二を争う規模の企業なんですよ。もう、ビックリしちゃってね」(21)
「僕と、社長と、世代がメチャクチャ離れているでしょう。でも」
(21)
「僕にはこういう出会いが」(21)
「何度かあったんです」(21)
「『長老』と呼ばれる隠居生活者や、高齢の宗教家から、僕は何度もコンタクトを求められてきました」(21)
「あの世代はあせっていると思うんです。地球の将来(こと)について。それで、社長が言うのに、『テイチクは古賀政男で今まで大きくなってきた。が、この時代にはどうも遅れがちである。君にテイチクを変えてもらいたい』」(21)

1984/05/21 小川美潮『小川美潮』発売。
光の糸 金の糸:compose, arrangement, all instruments
光の糸 金の糸
「『フィルハーモニー』の直後にできたもので、そのデモテープを発掘した越(編注:美晴)がYENレーベルでの2ndアルバム『パラレリズム』で途中まで 録音し、保存しておいたものを、その後小川美潮のLPに提供してシマッタ幻の名作である。」
(55)

小川美潮の証言
「細野さんに1曲書いてもらうことは最初から決まってました。ソロ・アルバム出すときは、細野さんに1曲書いてもらえると嬉しいなあと思ってて。でもその ころ細野さんは、スタジオに遅れて来るとかいろんな噂があって、果たして曲ができあがるかねえって言ってたんだけど。そしたら思いがけず、『こういうもの (オケ)があるから、これ好きに使っていいよ』って言われて。これなら、しゃべるみたいな歌い方できるなと思って、どこに何入れてもいいって言うんで。た まにタランタランって入ってくるのが、これがメロディーかなとか(笑)。自分で指示して機械を止めながら。すごく面白かった」
(56
「誰の指示も受けず、好き勝手に作ったのは初めて」
(56
「自分にしかわからないタイミングだとか、合わせ方とか、細かく指示できる面白さがありました」
(56

1984/05/25 サンディー&ザ・サンセッツ『祝再生』発売。
ウォーク・アウェイ:produce, compose
ウォーク・アウェイ
「『スティッキー・ミュージック』の姉妹曲みたいな感じだなあ。サンセッツの恩蔵くんのベースがミック・カーンみたい」
(11)

1984/05 新潮文庫版 小澤征爾・武満徹『音楽』(新潮社)発売。
解説
「地球のことを書いたんだよ」(33
「かつてはそんなこと、音楽のことで書くなんて考えられなかった」
(33

1984/05/30 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
インタビュー/環境と音楽の融合に取り組む細野晴臣

1984/05/30 テレビ東京『TOKIOロックTV』収録。

※編注:6月5日放送分。

1984 中沢新一・奥村靫正・後藤繁雄と、豊川〜伊勢を周遊。中沢と対談も行う。

「着いたのが七時頃だったかな」(33)
「六時になると人がガランガランで、町もヒッソリとしてね、淋しいとこへ来ちゃったナ、と思って境内に入ってくと、真っ暗で、すごい霊気なの。ところが何 が何だかわかんないわけ。何しろ豊川稲荷って有名な神社だから、神社っていう先入観しかないわけでしょ、全く無知だったわけです。りっぱな鳥居があるんだ けど、ところが奥の方に見える本殿の方が宮造りじゃなくてお寺の造りなんだ。最初何だろと思ってね。神仏混交なわけだよね、新鮮な驚きがあったね」(33)
「それで宿坊に泊まったんだけど、これがまた奇々怪なお神楽形式というか、トランプのおうちみたいにどんどんつぎ足して作ったおうちでね。外と内とはっきりしないの」(33)
「到着するなり寺男がお風呂のことでやってきて、『あなた、以前にもきたからお風呂の場所わかってますね』とかいきなり言われてね」(33)
「陰陽眼の人なの」(33)
「陰陽眼の人は中国では何でもわかる人といわれて、貴重にあつかわれるわけです。それで、僕も自分じゃ気がつかないうちに来てたんじゃないかと思って……」(33)
「で、例によって僕ら以外誰もいないの、貸し切り。大山の時と同じなんだよ、これが」(33)
「九時以降は門がしまっちゃって閉ざされた世界になるんだけど、ただ境内はどこへ行こうとかまわないのね。豊川閣は宿坊と本殿とかが廊下で全部つながって て、どこへでも行けるわけなんです。宝殿や千手観音やダキニ天とかいろんなとこに行けちゃうわけ。行けちゃうんだから行っちゃおうって感じで行っちゃった わけね。その時はまず本殿に行ったんだけど、モロ君が『何で引っぱられちゃうのかな』なんか言って、ドンドン本殿の方へ行っちゃうの。それで行ってみる と、千手観音の奥にまた部屋があって、真っ暗な中に歴代の神主の位牌が並んでるの。普段ならとてもコワ畔は入れないようなとこなんだけど、夜遊びの楽しさ もあって、わがもの顔で行っちゃったんだよね。そしたら、気がつくとまわりがものすごい霊気なわけ。夜明りの中に、左右にボンボリが立ってるんだけど、真 ん中に目みたいなのが二つ光ってるんだよね。それがこわいんだ。それでみんな恐れおののいてひきかえしたんだけど」(33)
「何のことはない宝珠だった。それがどういう加減だか眼に見える。でもあの霊気は本物ね」(33)
「夜中は外にも行ったよ、奥の院まで。モロ君が白いキツネを見たり」(33)
「写真畔の奥村画伯が、写真撮るんで石の上にカメラのせて長時間露光してたら、カメラが動くんだよね!!」(33)
「奥村君困ってたみたい。何か撮ってるかもしれない」(33)
「で、奥の院の迷路みたいな中を一めぐりしてその夜は終わったんだったかな」(33)
「で、早朝六時に起きて祈祷をうけてね。その祈祷も修験みたいで、とても曹洞宗とは思えないようなのね」(33)
「密教だと思うよねェ」(33)
「僕も楽だった。もう物見遊山の極致」(33)
「で、昼寝してたりそうこうしてると中沢さんがやっと到着」(33)
「豊川にはまだいたかったんだけど、次にお土産に熱狂しちゃってね」(33)
「前半は巡礼の旅だった。下痢だったし(笑)。ところが下痢がなくなっちゃうと突然買物に走っちゃった」(33)
「豊川っていうのはお土産がイキイキしてるもんね」(33)
「客引が出てくるというのがいいね」(33)
「気にいらないものまで買っちゃったりしてね。目の色かえて奪い合いだよ、お土産の」(33)
「きしめん屋の主人に『これ(編注:中沢新一が買ったキツネのお面)はダメだ。こんなもん買ってショーガナイなあ』って言われてんの」(33)
「きしめんとおいなりさんのセットがおいしくて」(33)
「で、それで本物のお面屋さんへ行って」(33)
「そこは老人が細々と伝統を保ってやってるんですけど、何でか知らないが二十数点買っちゃった、ハハハハ」(33)
「(編注:伊良湖岬へは)『いなりタクシー』に乗ってった」(33)
「ラインに沿っていくとちょうどそこにフェリーが通ってる。こんなうれしいことはなかった」(33)
「僕はね、やっぱり海の方が好きなんだ。なつかしいような」(33)
「(編注:フェリーで)思わず寝ちゃった(笑)」(33)
「豊川のノリで伊勢まで行っちゃった」(33)
「仏教だとお寺があって、仏様を隠してたりするけど、伊勢神宮みたいなとこは大きさも構造も見えないし」(33)
「最後はただ何も見えず呆然としてね。あの西行の歌あったじゃない」(33)
「何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに なみだこぼるる」(33)
「中沢さんに言わせれば、神道は自然の拡散の方向に同化しようとするから、惹かれるんだというんですがね。たしかに考え てみるとそうなんです。お寺の場合は奥の院があって、奥の方に向かって集中していくわけですよね。ところが、神社の場合は、鳥居はあるけど、その奥には、 何もない。ただパッと鏡があって、自分が写ったりするでしょ。自然をうつしてるような鏡だから、全くスカスカなんですよ。そこで何か、気持ちが楽になった」(6)
「伊勢に着いて最初に泊まった旅館はかなり秘宝館ぽかったね。あそこは昔はすごい遊郭だったみたいね」(33)

後藤繁雄の証言
「中沢さんが原稿〆切で東京のホテルにカンヅメのため、先に細野さんだけ豊川へ。その夜は豊 川稲荷の宿坊に泊まる。豊川稲荷(豊川閣)は午後九時閉門。それ以降は俗世とはまったく切り離された世界になる。神社と寺が習合合体した広大な深夜の境内 を探検することにした。闇の中を白い影が走り、知らず知らずのうちに、われわれは闇の迷路のなか。魅せられし夜であった。」(33)
「翌朝一番の新幹線で中沢新一到着。いきなり神仏習合の御祈祷のパフォーマンスに一同ビックリ。なにせ、うけそうな宗教儀礼をすべて盛りこんだハデなものだったからだ。」
(33)
「しかし気持ちは一挙にオミヤゲに。狐の面や神具やマンジュウや生せんべいなど、もう持てるだけおもいっきりオミヤゲを買う。」(33)
「タクシーで一路、伊良湖岬へ。フェリーで伊勢詣へと。そこにはフラクタルな、どこまでも明るい神道の森が待っていた。」(33)

中沢新一の証言
「僕は着くなりいきなり祈祷所へまわされて、例の『パフォーマンス』を見たわけですよね。あのパフォーマンスには正直びっくりしたね(笑)。豊川稲荷の知識はあったけど、まさかあんなにエグイとはね(爆笑)。禅、曹洞宗とはとても思えないよね」
(33)
「だってダキニ天にしてもみんな密教の神様だし。もうアイデア商法。むかし江戸時代頃に曹洞宗の坊さんなんかが、あのパフォーマンスを考えついたんだろうね。民衆に『うけた』」(33)
「うけるもんならみんなやっちゃえっていうとこにひどく好感をもちました」(33)
「密教はやっぱり動物に変わっていくコワサがあって、それが仏教の深層意識みたいなのにつながっていく通路にもなってる。神道には動物に変身してくというのは無いわけよね。豊川のパフォーマンスはそれを全部とり入れててよかったですよ」(33)
「豊川はお土産に活気があった」(33)
「キツネの面なんかいっぱい買っちゃったもんね。とり憑かれてた」(33)
「見て! 見て! ってはしゃいでた」(33)
「その後タクシーで伊良湖岬へ行ったんですね。あの運転手も良かったですね」(33)
「海へ出たんですね」(33)
「で、海を渡ったんですよね。鳥羽。よかったなあ、あの海は」(33)
「それから鳥羽についた。いよいよ国際秘宝館(笑)」(33)
「伊勢はこのラインをたどる旅行のひとつのクライマックスですよ」(33)
「それで神社へ来て、身も心もシャンとして」(33)
「御手洗川の橋渡る時なんか、みんな顔かわってたもんね」(33)
「お伊勢参りまでは結構みんな禁欲して、お参りしたら精進落とし(笑)」(33)

※編注:対談は『小説王』11号(7月28日発売)に掲載。

1984/06/04 『小説王』9号(角川書店)発売。
連載対談「ストレンジ・スター・クラブ」3/六本木 細野晴臣 × 中沢新一
※編注:発売予定は5月28日だったが1週間遅れた。

1984/06/05 0:15 テレビ東京『TOKIOロックTV』放送。
司会:小林泉美、小牧ユカ
共演:中沢新一、
奥村靫正、秋山道男、イヴ、テストパターン(比留間雅夫・イヴリン)

1984/06/09 『ムー』7月号(学習研究社)発売。
対談/1984年、われわれは今、宇宙的ターニング・ポイントに立っている…… 細野晴臣 × 武田崇元

1984/06/15 『an・an』6月22日号(マガジンハウス)発売。
インタビュー
「『環境音楽』っていうとそれはひとつの固定したアイデアだから、それで全部を語ることはできない。空間を埋めていく音が環境音楽だと思ったらマチガイで、無限に広がっていくんだと言った」(33)
「そういうふうに見ていかないと、単に流行で終わっちゃってね。ハイ、ここでオシマイ、ということになるからね。そうすると環境音楽というか、ああいう音楽自体が先に行かなくなっちゃう。僕は先に行きたいから」
(33)
「だから環境音楽って言葉使いたくない」
(33)

1984/06/18 パフォーマンス・イベント『ナム・ジュン・パイクをめぐる6人のパフォーマー』出演。原宿/ピテカントロプス・エレクトス。
出演:ナム・ジュン・パイク、坂本龍一、高橋鮎生、高橋悠治、立花ハジメ、三上晴子
パイクさんがいち早くマルチメディアアートを手がけたころだ。」(57)
「原宿のクラブで行われたパフォーマンスに駆り出されたのが、我々ミュージシャンだった。」
(57)
「僕 はピテカンのその場で何を演じたかっていうと、皆んなの音を聴いて(笑)。ミキシングしたわけ。最初のイメージだと、僕はスカスカの音を期待したわけで す。スカスカだとミキシングが行かせるわけで、いろんな音を加工することができる。ところがいざ始めると、計算がないわけだから一度に鳴り響いちゃって、 またそれにエフェクターが全部にかかっちゃってるの。要するにもうルツボです(笑)」(33)
「本当に古典的な即興、インプロヴィゼイションだった。そうすると、やっぱり一人一人の音がぶつかりあって摩擦が大きいわけだよね」(33)
「ともかく、ステージは混乱し、とっちらかっていた。」
(57)
「ぼくはこの混とんがアートなんだろうと思った。」(57)

坂本龍一の証言
「たとえばね、まあ最左翼に高橋悠治がいるとしたら、最右翼に細野さんがいるという、仮にさ、そういう視点を持ったとすると、ある意味で非常に接近してるっていう面もあるわけね」
(58)
「でも、その線は強引なものだからね。もちろん、線はたくさん出てるわけ、お互いにね。だから、もちろん僕と細野さんとが近い面もあるし、高橋悠治と近い面もあるしね。割と、でも僕は行ったり来たりできる」(58)
「僕から見ると、とてもちゃんと線がつながって見える」(58)
「事実、ピテカントロプスでもね、あのふたりが同じステージに上がったわけだし。まずあり得ないことなわけ、本来ね」(58)

※編注:ナム・ジュン・パイクの作品集『タイム・コラージュ』刊行記念。

1984/06/19 ローリー・アンダーソン来日公演『ミスター・ハートブレイク』を観覧。中沢新一が同行。ラフォーレ・ミュージアム飯倉。

「感じたことは、非常に完成されているということだ。彼女がアート志向をもって様々な実験をくりかえしてきたこの10年間の成果が形になったな、ということだった。そこにはニュー・ウェイブだとかニュー・フォークだとか、そういう遡った音楽的な反映がある。」(59)
「東京にいるミュージシャンが非常に影響されて、中には、涙、流してる人もいました(笑)」
(60)
「綿密な準備と計算があって、一つ一つのディテールはすごく偶然性とかに基づいてるんだけど、もはやジョン・ケージからも随分進んでて、それらのディテールがあまりにもパーフェクトに組み立てられてて、僕たちはそれに圧倒されたわけだよね」
(33)
「(編注:中沢は)『冷気、冷気』ってつぶやいてたよね。『ローリーはすごい。クールな人だ』って(笑)」
(33)

1984/06 ローリー・アンダーソンと会い、ビデオ『マーキュリック・ダンス』を手渡す。

「スタジオに遊びに来てくれた」(59)

1984/06/25 矢野顕子『オーエス オーエス』発売。
HI, HI, HI:arrangement, bass, spanish guitar, synthesizer
ラーメンたべたい:bass
終りの季節:arrangement, synthesizer, acoustic guitar

1984/06/28 『小説王』10号(角川書店)発売。
連載対談「ストレンジ・スター・クラブ」4/大山 細野晴臣 × 中沢新一

1984 中沢新一・奥村靫正・後藤繁雄と富士山周辺を訪ねる。中沢との対談も行う。

「ラインにそって歩き出した時に、富士に来る時は絶対に仲小路先生や恵山流の人たちにお逢いしたいと思ってたんです」(33)
「仲小路先生は御病気で会えなかったですけどね」(33)

後藤繁雄の証言

「朝、なんと北口本宮浅間神社境内で待ち合わせ。中沢新一は山梨のお屋敷から、細野晴臣は足柄の別院から、奥村靫正と後藤繁雄は原宿の事務所から一路富士へ。都内で待ち合わせても時間通りに行ったことがない妙音講メンバーだが、なんとかOK。」
(33)
「まずは『観光の父』ともいうべき地球文化研究所の仲小路先生を訪ねる。しかし先生は御病気でお会いできず、秘書の吉田さんと談笑。ニューアカデミズムの 動向までバッチリ知っておられるので驚く。テキストをいただく。地球文化研究所と関係の深い、生花の『恵山流』の人たちの案内で、古富士を登る。日本の経 絡の中心富士。コケなども採集する。」
(33)
「その夜は河口湖の富士屋ホテルに宿泊。例によって夜半より活動開始。まずは、樹海ドライブに出かけることにする。」(33)
「細野・中沢・奥村・後藤の四名、細野の運転するスポーツカーに乗りこむ。空は真っ暗、ほとんど『未知との遭遇』のシーンのよう。湖畔のホテルにいきなりマッド・サイエンティストの集団、はたまたマルクスブラザーズが到着した感じである。」(33)
「ひとしきり大騒ぎしたあと、夜中の二時ごろより対談スタート。」(33)

中沢新一の証言
「富士山に来て大切なのは、例の経絡(ライン)上にあるってこと。と同時に」
(33)
「僕もすごくお逢いしたかったんだけど地球文化研究所の仲小路先生がいらっしゃる」(33)
「恵山流の人たちの案内で富士山の六合目まで上がった」(33)

※編注:対談は『小説王』12号(8月28日発売)に掲載。

1984 キリンビール ビヤ樽・絵樽 TV-CM、放送開始。
出演

1984/07 『音楽王 細野晴臣物語』(シンコー・ミュージック)発売。
はじめに
絵物語/平熱をぢさん
おわりに
「この本の主人公は、私です。」(31)
「主人公だから、それだけでエライのに、さらに大げさにエラクしてあります。」
(31)
「それは何故かというと、この本が少しでも多く売れる事を想って、編著者の方が並々ならぬ努力で面白可笑しく書いているからです。」(31)
「また、この本は伝記モノです。」(31)
「主人公はまだ生きているのに、伝記にされたのです。」(31)
「伝記ですから、美化されてるわけで、そんな所から『音楽王』などというジョークも、許すつもりです。」(31)
「いやぁ、感動しました。」(31)
「『ぼくなんか音楽王なんですからね!』と言いたい気持です。」(31)
「何か、自分でもどこまでが本当で、どこまでが作り話か解らなくなりました。」(31)
「これは、ひとえに例の並々ならぬ方……つまり」(31)
前田祥丈氏の、的確な分析と豊かな想像のタマモノと思います。」(31)
「しかし、フィクションである、と言うつもりはありません。」(31)
「全ては事実です。」(31)
「つまり、その、『音楽王』というタイトルを除いては…。」(31)
「私の友人及び関係者諸氏は、この本を読む事を禁じます。」(31)
「私の死後読んでいただきます。」(31)
「並々ならぬ編著者と、そのスタッフに敬意を表します。」(31)

※編注:細野晴臣のライフ・ヒストリーを軸に、編集を担当した前田祥丈がファンタジックな虚構性を盛り込んで執筆。随所に細野の談話・さし絵・手書きメモ等が挿入されている。当初5月中旬発売と告知されていた。

1984/07 徳間文庫版『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』(徳間書店)発売。
あとがき
「小生の本が文庫に入れてもらえるとは思ってもみず、秘かに文学者の楽しみを味わっている。」(61)
「YMOは散開し、ひとつピリオドが打てた。そんな時にかつての願望ともいうべき自らの想念が文庫本になり、いやでも振り返らざるを得ない。果して私はスーパーマンになれたであろうか。」
(61)
「人にとってできることとできないことは確かにある、しかし言い方が違うのではないか」(61)
「それはこう言い直すべきだ。つまり、人にとってやることとやらないことが確かにある、と。やった事は結果としてできたことになり、やらなければ出来ないことだ。」(61)
「36歳の肉体は今日も一歩死に近づく。すると精神は一歩死から後ずさりする。肉体のスピードが遅くなると、魂のス ピードが加速度をつける。こんな状態で、私はかつてない程の仕事の量をこなしている。これはスーパーマンでなくてはできない。しかも寝たきりスーパーマン である。」(61)

1984/07/10 アポジー&ペリジー「月世界旅行/真空キッス」発売。
月世界旅行:compose, arrangement, all instruments
真空キッス:compose, arrangement, all instruments
「これは情けなかったなあ」(10)
「いや、内容は全部保証しますよ。でも、その出て行き方に紆余曲折があったんです。これは割と大きなプロジェクトで、何を勘違いしたんだか、匿名でやろうということになった」
(10)
「匿名のユニットで」
(11)
アポジー&ペリジーだけでやろうと。これが敗因だった」
(10)
「当時、何の反応もなかったんですよ」
(11)
「レコード出しても誰も聞いてくれなかったんです」
(10)
「戸川純で出せば、もうちょっと話題になったろうけど。匿名ってのは考えものだなぁと。傲慢な態度だったと反省したんです」
(11)
「曲がいいだけでは世の中に通じないっていう経験がいっぱいありますよ、僕には」
(10)

月世界旅行
「娘が小さい頃、これを聴いてて、一番好きな曲みたい。僕の曲の中では(笑)。でも僕は戸川純の歌が好きですね。このわざとらしい(笑)、子供っぽい。なかなかグッときますよ」
(11)

真空キッス
「すごく器楽的に作っちゃったんで、途中のサビみたいなところはよく歌えたなと思います。難しい…。これはサウンドが面白い曲ですね。これはこの曲でしかできなかったサウンドのスタイルです」
(11)
「もうLinnDrumじゃないな」
(53)

1984/07/11 日本生命・ロングラン CM曲のレコーディング。麻布台/サウンドシティ・スタジオ。

「これもスタジオですべて作られたが時間は多くかかった。」(43)
「日本生命ロングランのCFは高倉健の起用で定評がある。」(43)
「高倉健の代名詞とも言える『不器用ですから』はこのCMシリーズから始まったのだ。」
(62)
「クライアントの熱い要望により前回の音楽(戦場のメリーク リスマス)のイメージを尊重し、オリエンタリズムがとりいれられたが、このために後になってこの曲は坂本龍一の影響が強くはないだろうか、などという有難 いファンの忠告に悩まされることになろうとは夢にも思わなかった程の自信作である。」
(43)

※編注:「ノルマンディア」のタイトルで『コインシデンタル・ミュージック』に収録。

1984 日本生命・ロングラン CM曲のレコーディング。

「特別な思い入れがあった。」(62)

※ 編注:実際にCMで使用されたのは1988年(キャッチコピーは「機嫌よく遊んでますか。」)。レコーディング日程の詳細は不明だが、CMシリーズの初回 受注時に複数の楽曲を提案している可能性に鑑み、暫定的に前項「ノルマンディア」と同時期に置く。2017年、「オブリオ」のタイトルで『Vu Jà Dé』に収録。

1984/07/16 奈良県吉野郡/天河大辨財天社 能舞台で奉納演奏。
細野晴臣  細野晴臣(syn)、福澤諸(voice, perc)、原田裕臣(perc)
 
神秘の生成
 
地球への帰郷
 五十鈴の響き
 他
※編注:ビデオ・ソフト『マーキュリック・ダンス』の楽曲を初演。この日の演奏の一部は同年9月24日にNHK総合で放送された。なお、曲名表記はテレビ放送時のものに倣った。

1984/07 鎌田東二と知り合う。奈良県吉野郡天川村/民宿柿坂。

「覚えてます。なんて不思議な人だと思いましたよ。いつも笛を吹いていて、その笛を持ってどっか森に隠れちゃって」(63)

鎌田東二の証言
「天河大弁財天社の柿坂神酒之祐宮司さんの実のお姉さんが営んでいる『民宿柿坂』で初めて細野さんに会った。細野さんには、風が吹いてくるような、ひょうひょうとした、さわやかさとさやけさがあった。」(63)
「会って直接話したのは、一九八四年、奈良の天河のあの宿が最初ですよね」
(63)

1984/07 藤幡正樹のコンピュータ・グラフィックス作品『弥勒』が『シーグラフ'84』に出品される。アメリカ/ミネアポリス。
音楽
「シーグラフというアメリカのコンピュータ・グラフィックを集めた会に、日本からはSEDICの藤幡正樹氏が参加しました。その作品がミロクというテーマで、それに音をつけた」(64)
「この曲の前に『ゼビウス』のゲーム・ミュージックをやって、そのノウハウがここに来ている」
(65)
「画面に合わせて音をつけるのは大変面白く、僕にとっては新しい作曲のコンセプト」
(64)
「藤幡正樹のCGに併せて作っていて、しかも映画とも違う、ある制約の中で作る快楽っていう感覚があったんだ。ポップスの時系列とも違うな。当時、それは画期的なものだったんだよ」(65)
「C・Gは、僕の音楽の作り方とすごく似てるんですよね」
(48)
「特に、藤幡氏のコンピュータ・グラフィックはとても音楽的」
(64)
「絵を書いたり、アニメをやってたりが、かわりにコンピューターを使い出した人で、だから味わっている事が、まったく同じなわけ」(48)
「時間がかかる事や、数字に置き代えるっていう事とかでもね。テクノロジーを相手に創作するというかそこら辺をわかち合えるという事が、一緒にやってて面白かったですね」(48)
「アニメーションからCGへ、というのは、ぼくの音楽テクノロジーの使い方とすごく重なっているから、やっぱりお互い近い意識があるんだろうね」
(21)
「藤幡君とは奇妙な出会いがあって、YMOを始める直前に、彼がまだ芸大の院生だったころ、江古田のラーメン屋であったことがあるんです。『細野さんの"北京ダック"を僕のアニメーションに使わせてもらいました』って彼が言っていたのを覚えている」
(21)

※編注:アメリカコンピュータ学会が主催するコンピュータ・グラフィックス分野の国際会議および展覧会。この年の会期は7月23〜27日(現地時間)。

1984/07/24 テイチク・レコードと業務提携の契約。新レーベル「ノンスタンダード」「モナス」発足の発表記者会見を行う。

「YMOをやっていくうち、"POPS"という言葉に惑わされて、リスナーのことを考えながら音を作るようになっていってしまった。みんながYMOブランドの、自分たちの好きな音楽を期待したしね」(66)
「みんなYMOのイメージが強くて、YMOを求めるのもよくわかっていた。でもなぜYMOを辞めたのか、考えたらわかるはずなのに、ね」
(65)
「ポップスっていうのがつまらないの。なにかエネルギーが感じられないし、どんどんみんな標準化してしまってるみたいでね」(67)
「出口がない」(24)
「全部スタイルができちゃって早めに固まっちゃったような気がするんですよ。歴史が浅いにもかかわらず。それは、僕にとってすごく面白くない」
(24)
「みんなが好きなもの=標準、この図式が世の中をつまらなくしていると思う」
(66)
「小市民感覚とかさ平均指向みたいなものは、つまんないものを生んじゃうから」(58)
「だからこそ、超標準(ノンスタンダード)なものを作っていかなきゃいけないと」
(67)
「ど んなつまんないもんでも何か面白さを発見できるっていう考え方はもうしない。つまんないものが集まって何かを作ってもそれは僕にとっては関係ないものだと 思うし。理屈で聴いてもつまんないしね。もっとわがままに言っちゃえば、自分でやることは面白くなくちゃいけない。しかも、それは流通に乗っかって世に出 てかなくちゃ面白くない。だから、他人のことはさておき、自分がつまんなくなっちゃったら、これは何もできないんじゃないかっていう」(24)
「僕は、ずっとそういうものをやってきたつもりだし。YMOだってそうなんだよ」
(67)
「ポップ・ミュージックは、大勢の人々に支持されないと成り立たないという意味でスタンダードであることは大切で す。だけど感覚中枢まで"標準化"しちゃうと面白いものができなくなる。脱・標準こそ快感だと思うんです。それでノン・スタンダードとつけました」(68)
「ポップスということではスタンダードを目ざしてはいるんですが、そういったスタンダード=標準をぶち壊した上でポップスを作りたいという気持が込められているわけです」(23)
「これは、自分に対する宣言みたいなものもあるでしょう。僕は、僕自身はかなりスタンダードな音楽家だと思っている。聖子ちゃんに向けて書いた曲を自分で聴いても、スタンダードだと思うんだよね。だから」(21)
「いままでとは別のことをやろうとしているということなんだな」
(69)
「今までやって来たものも、最早スタンダードになってしまっている。それを更に越えたい」(23)
「今 までのレコード会社の体制だと、お金がないっていうこととか、明日のことを考えなくちゃいけないっていう状況にかなり支配されててね。音楽がそれに負け ちゃってる部分があるんですよ。そうじゃなくて、音楽が引っぱってくような、力っていうのは絶対必要だと思うんですよ。実際にYMOっていうのも、当初の きっかけは音楽が引っぱってったわけで。そういう意味では音楽を信じてるんですよね」
(24)
「自分でもやってみたいし、才能ある人たちすべてにやってもらいたいことは『こんな音楽もあったのか』っていうもの。聴きたいんですよ、それを。っていう のは、小中学生の時からロックン・ロールを聴いて大変に興奮した記憶があってね、まあ、ある種のエクスタシーですよね。エクスタシーをもう一度味わいた いっていうのは、人間の一番の欲望でしょ。それがこんなに長い間ないっていうのはおかしいなあ、と思って」
(24)
「何か違う音楽があるのではないか。これまでのものとまったく違ったものではないけど」
(69)
「何か時代を支配するような音楽を感じていく、予感していくということ」(69)
「これ追っかけていくと、いつの間にか音楽の上での少数派になっちゃうんだよね。ただ、『Y・M・O』以来のピークの状態で、そのまま活動をやっていくってのもボクには耐えられないし。少数派の音楽のなかに見るべきものを見たいと思って」
(69)
「単純に言って、スタンダードなものに音楽家として辟易してるということがあってね。特に日本では単一の情報で皆同じテレビ観て、皆同じ感覚持って、それはある意味で素晴らしいことがおこれば素晴らしいことが一気にスピードつけて広まるけど」(33)
「やっぱり違うものっていうのは埋もれちゃう、忘れちゃうわけでしょ? 絶対出てこない。その出てこないものに対してぼくは苛立ちを感じてるわけですよ」
(33)
「もっ とメチャクチャなものが出てきていいと思うんです。そのきっかけになれば、と思ってるんです。ですから『標準(スタンダード)』っていうものがあるんだっ たら、その今つくられた標準ってのはつまんないものだから、そこからはずれたい、ずれていきたい」
(24)
「冒険する人がどんどん出てこない状態が嫌なんです。いつまでたっても僕やYMOのメンバーや大滝くんとかじゃ。もっと若い世代で出てきてもいいはずなんです」
(24)
「"ノン・スタンダード"というアイディアを出したのは中沢くん」
(65)
「数学用語なんです」(20)
「新しい数学の分野にノン・スタンダード・アナリシスという考え方があるんです。古典ではない、標準的ではない、という意味なんでしょうけど」(1)
「何か雰囲気を数学寄りにどうしてもしたくて。憧れちゃってるんですね(笑)」
(20)
「ボ クはわりと神秘主義にとらわれてきたところがあった」(69)
「YMO結成当初から、ぼくたちの底辺に渦巻いていたものはドロドロした神秘主義であった。そこにはぼく自身も巻き 込まれていて、非常に直観的に動いていたきらいがあった。当時のぼくは、テクノロジーを支えているのはこういった神秘主義であるという幻想をもっていた。 言い換えれば、サイエンスと神秘主義がひとつの頂点をきわめて行くという幻想……。」(70)
「けど、Y・M・Oをやっているうちに大きく変わってきてね。そんな不確かな世界だけでは、何も見えない のではないか、これからは科学的なものの見方が必要だろうって。こっちのサイドからの自然の解明にボクは共感以上の驚きを持つようになったんです」(69)
「それに影響されたいと思うところから、あえて新しい音楽活動の開始にあたって一番科学的だと思われる、数学の用語を使ってみようと思ったんです」(69)
「音楽だけでは何か語りにくいと思うようになったんです。音楽が飽和状態というか」(69)
「音楽のパワーが極端に弱くなってる時代」(69)
「そ ういう時期に、偶然のようにニュー・アカデミズムの人たちがスターのように出てきて、音楽の代わりをやっているような気がする。ですから、彼らがいくら難 しいことを言ってても、僕は音楽を聴くように聴いているんですけど(笑)」(71)
「簡単に言うと、音楽がつまらない、と思うようになったのだ。」
(70)
「中学時代から爆発するような感覚で音楽と係わってきたわけ。最初に出会った音楽のパワーが強かったんですね」(69)
「その中から『Y・M・O』に蓄積していくようなパワーが生まれてきたんだと思う。つまり、ボクの人生を決定づけてしまうほどの価値というかパワーを、かつての音楽は持っていたんです」(69)
「それが『Y・M・O』を解散した頃から、世界的に音楽がお互いに刺激し合えなくなってきた」(69)
「だから別の角度から音楽を突っついてみたくなったんです」(69)
「自分自身、過去にも戻れない、かといって未来にもすぐ行けないという、狭間にいるような気がしてね。そういう時はやはり勉強が必要なんだと思う(笑)」(6)
「ぼくは中沢新一と聖地を歩きまわり、ある種の不気味な感覚を通して『地球』の意識に触れる体験をした」(70)
「地面の上を歩いていて、まったく何の脈絡もなく地球というものに気がついた。ただたんに、地球が生命体であるということに気がついたのである。」(70)
「歩き回わってるうちにいろんな視野が開けてきたんですよね」(20)
「そしてさらにぼくなりに地球のことを考えてみた。」(70)
「ぼくはインド哲学などに影響されて、宇宙意識というものにとても興味があったのだが、地球の生命感を感じて以来、 それはあまりに飛躍しすぎた考え方であって、地球をないがしろにした考え方であることに気がついた。人間の視線は水平に適したようにつくられているから、 天をあまり見ないのだが、足下は見ているようでもっと見ていない。ましてや地面の下の生命体としての、あるいは有機的なシステムとしての地球など、考えよ うともしないのではないか。」(70)
「ぼくのような人間も含めてシリアスに地球そのものにぶちあたったのは、非常にシニカルで面白い。それまで地球とい うのは、教科書の中でとりあげられる地理学的、地質学的、天文学的な球体であって、生理的にとらえる対象ではなかった。ぼくは大きなショックを受け、地球 が神にかわる存在であったことに気がついた。」(70)
「宇宙意識に飛躍する前に地球意識と同化する事が、ひとつの衝動としてある。」(72)
「当然のように、ぼくは自然のほうに魅かれていった。」
(70)
「デジタル的な思考に馴れ親しんでゆくにつれて、テクノロジーというのは人工的なものではなく、自然が人間を通じて生み出したひとつの知恵だと思うようになった。」(70)
「自然は無限のサンプリングをしているような世界であって、とうてい人間には追いつけない、人智を超えた厖大なペーパーのようなもの。人間が書き込むには広大すぎる。」(70)
「サイエンスのほうにも同じように、自然にもとづいて発想をするというような動きがあった。」(70)
「そン中にフラクタルって理論があったり、ガイア仮説があったり」(20)
「ジ ム・ラヴロックの『ガイア仮説』、デヴィッド・ボームの『ホログラフィー理論』、フリッチョフ・カプラの『ターニング・ポイント』といったニューエイジ・ サイエンスの人たちの思想。また、もっと地味なジャン・ピアジェとかジョセフ・チルトン・ピアスといった心理学者の思想。」(70)
「視野が数学だけじゃなくて、もう地球とか宇宙単位になってきた。もっと自然のトータルな有機的なね、生命力みたいなものも学問の中に取り入れるっていうか、それを考えざるを得ないとこまで来て」(20)
「特 にぼくが興味をもったのは、ピアスの『マジカル・チャイルド』とか『人間の脳と地球が対応関係にある』という考え方だ。つまり脳を研究していくと、非常に ホロニックで、部分が全体をふくむという、アーサー・ケストラーの『ホロン』にとても近い考え方だ。これは仏教的な思想に近く、ぼくはそれがいちばん『自 然』の真実をつかんでいる考え方だと感じた。」(70)
「僕がまず最初に入ったのはガイア仮説で、これは昔から言われてるんですけど、もっと実証的に試みているラブロックという人がいて、地球に生えてる植物の色とか数とか種類とか、動物の種類・色、人間もそうですけど、そういうものがなぜ地球上に分布されてるか、それは全 て地球が浄化していくサイクルなんだけど、それのための必然的な数字が出てくるわけ。たとえば花の色でも太陽光線を吸収して繁殖するために色が決まってる とか」(20)
「花は何で色がついてるかわかんなかったんだけど、そういう仮説によって、だんだん説明されてきて」(20)
「つまり地球がひとつの生命体であることを言い切っちゃってる仮説なんです」(20)
「それは全く僕が感じていたことと同じで、どうしても地球が生物だとしか思えなくなってきたんです。これはかなりリアルな実感で」(20)
「地球の上に住んでいるにもかかわらず地球が遠かったんですけど、それがぐっと地球の生命体ていうのが眼前に出てき て、それをもっと細部に理論を進めていくと、フラクタルていうのが出てくる。それは、あのォ僕はあんまり説明が上手くできないんですけど(笑)、んー、ひ と言で言っちゃうと、自然を観ると無秩序である。数学もそういうふうに観てたわけですね。たとえば松の木の幹ていうのはツルツルじゃなくて、でこぼこであ る。それは数式にはできない。全くランダムで無秩序だ。気ままにできてるとしか思えない。というわけで、数学の範疇外だったんだけど、実を言うと、それを 単純な数式にしちゃった人がいてね」(20)
「それはマンデルブロートという人で」(20)
「つまり松の木の幹を遠くから観てるとでこぼこで、5メートルぐらいに近づいても、まだでこぼこ。で、目の前に来て もまだでこぼこで、さらにもっともっと接写してって、マイクロ・レンズで観ても同じようにでこぼこだ。あるいは、ある石を金槌で割りますよね。で、その接 点を観ると、元々の石と変わらなくて、ただ小っちゃくなってる。もっと割ってもそうで性質は変わらない。つまり割ってても、、その石は何であるかっていう のは判る。つまりどんどんどんどんスケールを変えていっても、自然の中の法則性は変わらない。ある無秩序性を取りしきる法則性があるっていう」(20)
「それの最小単位をまず数式で考えて、それをジェネレーターを通していろんなふうに展開してって、要するにマクロを増殖していくと、ある変数を使ってずらしていくと、でこぼこになっちゃう。ていうのが、フラクタルなんですね」(20)
「この考え方のおかげで、ぼくはユングの言う『シンクロニシティ(共時性)』という概念を非常に分かりやすい形で再確認することができた。これは喜びであった。」(70)
「僕が思ってる以上に進んでる考えが既に学者たちの間では検討されてたわけです」
(20)
「このころからぼくは、科学者と音楽家とが同じ方向感覚をもち、同じ世界観に向かって直観を働かせていると確信するようになった。以前だったら文学に触発されることが多かったのだが……。たとえばドイツの神秘主義者、ゲーテニーチェシュタイナーヘッセなどに…。それで、マンデルブロートにしても、直観的、幾何的な視覚でもって、自らのフラクタル理論をあみだしていったわけである。そしてぼくたちも、音楽を直観的にあみだしていく。この共通項に気がついたとき、ぼくはかなり興奮したものだ。」(70)
「当時の日本は拝金主義が席巻しつつあったが、科学的思想が新次元に向かっていることは刺激的で、経済の枠に入り切らない潮流を肌で感じることができた。」(25)
「ロマンティックで興奮する学問」
(20)
「数学と物理学というのは」(20)
「学問というよりクリエイティヴな仕事だと思うんです。で、NON STANDARDってつけた数学者たちと僕の気持ちはきっと同じだと思うんです。それは、過去のユークリッド幾何学とか平面上の幾何学では、もう自然は語 れないというパラドックスの問題があった。それに対抗して、スタンダードなものじゃない脱標準、超標準数学、それしかやらない人たちが増えてきた」(20)
「非標準解析とは常識的ではないということだ。この世の不条理な、しかし無限の可能性を諮詢しているように感じたのだった。」(25)
「中沢氏や、彼を通じて知った科学の最先端の人達にノン・スタンダードな研究者が居るというコトが、僕をより一層励ましてくれたんです」
(21)
「否定なの。すごく否定的なの、一見ね」
(58)
「今までのものさしじゃないよっていう意味でね」(6)
「でも、ノン・スタンダードは『破壊』って感じがしないね。別のモノサシで新しい魅力を引き出すというのか、否定的な意味はあまりない」(21)
「寺山修司が標準に関することとノン・スタンダードについて言ってた本を読んだんだけど、それは巨人と侏儒の話、畸形の話なの」
(58)
「昔は畸形とか魔術師とかが世の中で活躍してたじゃない。それがだんだん陳列箱に入れられて無用のものとして隠されてった。というような話なんだけど」(58)
「つまり、標準への退行を警告してるわけだね」(58)
「ぼく自身も本当はいろいろな実験がしたいんです。それと仕事をいっしょにしていきたいわけです。そのつもりで、おもいきりあほらしい名前をつけたんです」(6)
「外国でさえも意味を持たない名前です。登録商標にできない」(6)
モナド・レーベルというところで地味な実験的なことをやって、ノン・スタンダードではその応用ということを考えていた」(6)
「(編注:YENの)MEDIUMでできなかったことをMONASでやりたいと」
(20)
「若い人たちが気軽に出せちゃうような、心配しないで出せるような巣箱をつくろうと」(24)
「ただ、それだけだと、やっぱりレコード会社が慈善事業になっちゃうんで、その応用として『ノンスタンダード』をつくって」
(24)
「まあ、ポピュラー・ミュージックってくらいだからあんまり他人の解んないもんはやりたくないんですけど。やはりYMOでやってきたこともちょっと続けたほうがいいみたいだと」
(24)
「『ノン・スタンダード』という名前はすぐに決まったけれど、実験的レーベルの名前については、割とどうでも良かったんだ」
(21)
「最初は、中沢君が僕のコンセプトの『物見遊山』とか『観光』という言葉を、フランスの哲学者G・ドゥルーズの『遊牧民(NOMADE)』という言葉に置 き換えてくれたの。僕はわりと簡単に考えて、この言葉に自分の構造と似たようなものを感じて、『あっ、いいなあ』と思った」
(21)
「観光っていうことの意味は物見遊山だと思うんですよ。移動ってことですね」
(24)
「NOMADEの文字を入れ換えると、DAEMON(デモン)になったりするんだよね。そこで、ちょっとやめて、MONAS(単子)→MONAD(単子) にした。モナドっていうのはライプニッツの作った観念的な実体(もの)で、ただの丸いものなんだけれど、宇宙はモナド同士の予定調和によって成り立ってい るという非物質的な物質、精神的な物質なんだ」
(21)
「"モナド"というのは何かわからないけど面白い、非・標準音楽という抽象的キーワードといえばいいかな」(66)
「何だかわからないけれどおもしろい音楽を出していきたい。環境音楽的なものも含まれますが環境音楽という標準からもはみ出した音楽をね」
(68)
「私の中には極端な2つの趣向があります。」
(5)
「リズムの強い音楽と静かな音楽と」(50)
「音楽がハッキリ二つに分かれつつある。もちろん表裏一体なんだけど」(73)
「レーベルを2つに分けたのも結局そういうことですね」
(73)
「一つのアルバムにこのタイプの違う2つを収めたくなかった」(50)
「分けた方が作り易いし、容れ物が2つあった方が楽なんじゃないか」
(50)
「本来分割できそうもない2つの表裏をわかりやすく切りさき、名前をつけました。」(5)
「ノンスタンダードって、ハッキリ言ってダンス・ミュージックなんですよ。だから本当はディスコとか」(9)
「そういう場所での音楽にしていきたいと」
(9)
「スタジオでは大音量で演ってるから
…ディスコの世界を楽しんでる」(50)
トレヴァー・ホーンハービー・ハンコックは氷山の一角に過ぎなくて、それを生み出す底辺がすごく厚いので、そこら辺の音楽はめちゃくちゃ聴いて」(9)
「一番飽きられやすい音楽であると同時に、刺激をどんどんエスカレートさせていって、どこまでいくか、なにしろ行きつくところまでいっちゃわないと気がすまない類の音楽ですからね。僕自身もそうなんだけど
…」(74)
「ざるソバにおつゆをつけないで食べるのが粋だっていうんじゃなくて、思いっきりつけて食べた方が美味しいっていう感じなんだよね(笑)」(74)
「こういうのって、生理的な刺激なんですよ」
(9)
「ダンス・ミュージックは外に向かって行く刺激ですから涙ヌキ、センチメンタリズムとは無縁にしたいもの」(5)
「モナドとはそこら辺に違いがあるわけなんです」(9)
「クラシックは内面的な刺激」(9)
「情動を刺激します。」(5)
「静かな音楽ってのはいつも部屋の空気に流して聴いています」(9)
「やはり空気を通して聴こえた方がいいし、ラウドネスもさほど必要としない」(50)
「クラシックや環境音楽、つまり観光音楽とも言うべきものは、空間に満たされてこそ、と言う気もしますので。」(5)
ダンス・ミックスみたいなすっごく大きい音で聴きたいのと、もう一つ、ちっちゃな音量でBGMみたいに聴きたいもの」(73)
「僕の中ではこのふたつがハッキリ独立して存在してまして。独立してっても、背と腹でしっかりくっ付いてるんですけどね。表裏一体になってる。でも、違うものなんです」(9)
「西洋にあるキリスト教圏のシステムが、どんどん完成に向けて進んできた。もちろん、ポップ・ミュージックはその手のひらの上にしかないわけ。アバンギャルドでさえね。70、80年代はそれでうまくやっていけたんだけど」(65)
「20世紀に収まりきらないものがあふれ出してきた。それは混沌としてなんだか分からないもの、そうやってこぼれて 来たものがいっぱいあった。もはやポップ・ミュージックと呼べないものになったんだ。ぼくはポップス好きだけど、だからこそ言えるのは、ポップスの真髄っ ていうのは、常に新鮮な驚きにあふれていて発見がなくてはいけない。その考えを進めていくと、20世紀のポップ・ミュージックの姿には、もう何も求められ なくなっていったんだよ。で、80年代のこの頃は、かろうじてうっすらと見えてきたものの、そんな道筋をぼくは集めていたんだよ。それがMONAD MUSICだったんだ」(65)
「自分で『イー・チン』という占いをやってみた」(1)
「だって大仕事でしょ? こういうのって」
(22)
「ビッグ・プロジェクトだから」(22)
「あんまりこう、大らかには、なれないわけ。うれしいけど、心配になっちゃうんですよ。だからイーチンっていう、こう、陰陽五行の、占い、あるんです。すごく論理的な。ロジカルな」(22)
「それで占ったら、うん、『苦労する』なんて出てきて(笑)」(22)
「『道は楽そうに見えて、実は困難である』と出たんです(笑)。それでそんなに長くは続かないと思っていたんですが」(1)
「当たったね」
(22)
「やっぱり、遊びたかったんじゃない? うん。苦労してでも」
(22)
「苦労はしたくないんだけど、遊びに苦労はつきものだっていうのはあるから」(22)
「それで、まあ、できるだけやれば、いいじゃんと思って。自分で、あのほら、やってるわけじゃないじゃない?」(22)
「レコード会社が、レーベルを作って、ぼくは雇われる、わけで」(22)

中沢新一の証言
「ノンスタンダードというのは現代数学のノンスタンダード・アナリシス(分析)というところからアイデアをひいてるんです」
(75)
「まず世界の把え方として、ニュートンとライプニッツという二人の人がおりまして、ニュートンの微分法というのは、どんどん微分していくとついには滑らか な状態になってしまう。つまり、彼は自然の無限小の領域というのは均質に滑らかにならないといいけないという発想がベースにあるんです。まあ、そうささや く神様がいる。これに対してライプニッツの微分方は、どんな微分の領域に行っても滑らかになんない。いつもズレたり方向の違う運動性をはらんでるからどん な細部に行っても滑らかにならないと考える。で、ノンスタンダード・アナリシスはライプニッツのアイデアを使うわけです。今までだと無限小の領域はニュー トン風にツルツルにしちゃうか、排除しちゃうかだった。ところがノンスタンダードっていうのは、モナドという単子をアナリシスの基礎にすえてしまう。フラ クタル図形をC・G(コンピュータ・グラフィックス)でつくって、部分をいくら拡大しても自己相似性(セルフシミュラリティ)を保っているけれどそれと同 じなんです。それはある意味でパラドックスを前提としている。だけどそれはあらためてパラドックスなんて言わなくてもそんなもんなんですね」
(75)
「今までの学問というのはパラドックスを除いてハッキリさせようとしてきたわけだけど、ノンスタは最初からそれを拒否するわけです。矛盾のない世界を人間 がつくることが不可能だってことをゲーデルが一九三〇年代に証明した。しかし、そこから五十年たってやっと僕らはその認識にたどりついたわけなんですね。
一 九三〇年代の数学者のアイデアがやっとわかってきた。だからノンスタ・サイエンスの基礎というのは近代以降の科学とか数学がベースになっている。ところが 一方で、ゲーデル問題にしてからが『世界は人智をもってしても宇宙をつかめない』みたいな具合に神秘主義と結びつけたりする場合があるんだけど、ノンス タ・サイエンスの出発点というのは、それを言わないってことがカンジンなんですね」(75)
「ノンスタは神秘主義がのめりこもうとするカオスの闇みたいなものを引き裂いていくとこがあるわけです。だからフラクタル幾何にしても、カオスをカオスの闇として放置するんじゃなくて、その中をすごくシンプルな音楽のようなもんで切り裂いて渡っていく。
クールだけどその切り裂き方って戦闘的だと思うんです」(75)
「ノンスタっていうのは煮つまらない方法なのね(笑)。矛盾を除いて行く方向じゃなくて、世界のベースはパラドックスだけど明るい何かがあって、そこを出発点にいつもダンスをし続けようというカンジがある」(75)

牧村憲一の証言
「プロデューサー、アーティストとレーベル主宰に細野が、レーベル・マネージメント業務にYMO以来の細野のビジネス・パートナーである伊藤洋一が就き、僕は制作マンとして参加することになった。」
(76)
「細野さんと元YMOのマネージャーだった伊藤洋一さん、このおふたりが最初にテイチクに向き合ったんですよ。で、伊藤さんが僕のところに電話をしてき て、『これからやる作業は1人じゃできないから、どちらかというとプロデューサー型のスタッフが欲しい』と。つまり細野さんにはセルフ・プロデュースの仕 事もあるから、現実的に新レーベルの全部の作品をプロデュースするわけにはいかないっていう意味合いで僕のところに話が来たんです」
(25)
「細野が名づけた『脱・標準』というレーベル名は、自らの育ててきたテクノ・ポップを超えていくという意思だと感じていた。」
(76)

※編注:「モナス」はのちに「モナド」と改称。

1984/07/28 『小説王』11号(角川書店)発売。
連載対談「ストレンジ・スター・クラブ」5/豊川稲荷から伊勢神宮へ 神道と自然 細野晴臣 × 中沢新一

1984/07/31 高嶺剛監督の映画『パラダイスビュー』撮影のため沖縄に出発。
「沖縄に対して、文化として日本の原型を感じてた」(77)
「最初は主演にという依頼があった」(1)
小林薫さんがやってる役」(78)
「監督が突然やって来て、"主演しろ"と」
(79)
「それはちょっと荷が重いので」(1)
「絶対無理だし、時間もないし、自信もないし、ヤだから断わったんです」(78)
「"端役と音楽ならやる"って言ったんです」
(79)
「で、イトーさんの役ならどうだって話がきて、それなら出来そうだって思って」(78)
「端っこのほうで植物学者の役で出たんですけど、沖縄の人から直接話があったのがうれしかったですね。というのは、それまで沖縄の音楽が好きで、その要素を取り入れた音楽をやったりしていたわけですけど、沖縄は遠かったのが、一歩内部に近付けたような気持になれたんです」
(1)
「『パラダイスビュー』というタイトルに何より惹かれましてね。つまり、沖縄からの重いアプローチと、高嶺氏との出逢い」(80)
「実を言うと沖縄からのアプローチは、僕には重いものだったんだけど、ひとつの決着をつける機会かな、と思ってね」(77)
「沖縄は僕にとってはまだ決着のついてない所ですから。例えば僕のエキゾチック・サウンドというのは、すごく曖昧としてて実際どこにもない音楽ですよね。 そんな曖昧さを大切にしつつも、結局インドに行ったりして、ある程度知っちゃったわけ。だから決着がついてないという意味では、僕にとって沖縄はインドよ りも遠い所です。そんな時に高嶺さんと音楽的な出会いをしたんです」
(77)

高嶺剛の証言
「映画を作る場合は当たり前だと思うけど、現実から始まったわけですね。でもそれを押し進めていくと、ひとつ向こうの世界に行けちゃう気がしてしまう。それが結果として『パラダイスビュー』だった、ということです」
(77)
「僕は1950年に石垣市で生まれて、高校を卒業するまで那覇市にいたんですが、まあ実際、沖縄はパラダイスじゃないわけでして……。 72年に本土復帰があって、それを境にいろんな価値感が変わったということがあるんですけど、沖縄で映画を作るということは、何かのために作るのではなく て、沖縄から何か言いたいというのがあるわけです。だからそんな僕の中から、何かが滲み出してくるのなら、それはもう仕方がないって感じです。ただ期待と しては心地よさみたいなものが出せればと思っていましたが」(77)
「植物学者という設定自体は見ていくという設定ですよね。見ていくことによって島の中に入るという。これは僕の直感 みたいなものも多少ありまして、人間と接触するような職業だと感じがちがっちゃうし、植物から入ると非常に入りやすいのではないかというようなことです ね。それとやっぱり細野さんの雰囲気的なこともありました」(77)

※編注:沖縄には10日間ほど滞在。

1984/08/01 松田聖子「ピンクのモーツァルト/硝子のプリズム」発売。
ピンクのモーツァルト:compose, arrangement
硝子のプリズム:compose, arrangement
「自分ではもう何か煮詰まってましたね。ネタが尽きてたんじゃないかな」(11)

1984/08 映画『パラダイスビュー』撮影。沖縄。

「沖縄本島の鄙びた村でロケしたものの、小学生たちが"あっ、YMOだ!"って飛びついてくる。TVの力には参った(笑)」(79)
照屋林賢さんにはじめて会ったのもこのときでした」(1)
「この映画作りは、ぼくの音楽作りと似ていると思いましたね。沖縄の風土にのっとってパラダイスという眼差しでものを作っていく。そこでいろいろなテクノロジーとか、映画的手法を使っているところなんか」(80)
「イトーさんという植物学者の設定はすごく気に入ってるんです」(80)
「憧れますね。平気で葉っぱ食べちゃったりね」(78)
「セリフの中で、儀式をあえてやることによって植 物とか土とか虫とのコミュニケーションが可能になるんじゃないかというのがありましてね。それが実に共感できるんですよ。ぼくがイトーさんみたいにああい うところに行ったら、同じようなセリフを吐くだろうと思うんだ」
(80)
「同じようなことをやると思うね」(77)
「でも、ぼくにはコケとかは食べられないでしょうね。やっぱり怖い。ということは、ぼくは植 物学者にはなれない」(80)
「セリフにもありますけど『虫とかそういうものが怖いと沖縄にも来れないし、植物学者にもなれない』って。だけど僕は人一倍そういうのが怖いので(笑)、なれないんです」(78)
「撮影で実際に森に入ってみると、これはハブが怖かった」
(80)
「東京に居たってヘビとかに本当は心が惹かれていくのだけど、そういうものが生活の場に機能してないというだけでね。だけどハブは恐かったですよ」(77)
「ジャングルに入って行くんですけど」(78)
「森に入る前にスタッフの人たちがヤブをたたく」(80)
「必ず入る前にハブを用心して地面を叩いて入るんです。それだけでも怖くて仕方ないんです(笑)」(78)
「だけど、みんな"出てきちゃったらしょうがない"って感じでいるんだけどね。噛まれる人は噛まれるし」
(80)
「これもやっぱり出会いでしょうね」(77)
「そういうことを勉強しました(爆笑)。それとマブイがどこかに行ったんじゃないか、という不思議な感覚に襲われたりして」(77)
「マブイというのは、沖縄の言葉で、魂のことなんです」
(1)
「心。えー沖縄ではよく、『マブイを落とす』というようなことを言います」
(29)
「島ではよくあるらしいんですよ。魂を落として、もぬけの殻になって、茫然としちゃうわけで」(1)
「ぼくも、この、『パラダイスビュー』の撮影中に、どっかにマブイを落としたようで、えーその後、ユタという、占い師の方が、占ったりして、魂を取り戻した憶えがあります」(29)
「ほんとにそのころ僕はボオっとしてましたから」(1)

1984/08 『週刊ミュージック・ラボ』8月13日号(ミュージック・ラボ)発売。
インタビュー:創立50周年を迎えたテイチクと業務提携した細野晴臣

1984/08/20 『オーディオビデオ』9月号(電波新聞社)発売。
インタビュー/音と映像の世界でいろいろな実験をやってみたい

1984/08/25 『スーパーゼビウス』発売。
SUPER XEBIUS:compose, arrangement, all instruments, mix
GAPLUS:arrangement, all instruments, mix
THE TOWER OF DRUAGA:
arrangement, all instruments, mix
「僕も一緒に遊んでる人間だからそんなに考えないでつくったものですね。好きだからやっちゃうっていう」(24)

1984/08/25 23:35 NHK総合『TV-TV』放送。
共演:池田裕子、寺田康彦、竹中直人、吉成真由美

細野晴臣  細野晴臣(syn)
 SUPER XEBIUS(GUST NOTCH MIX)

安野とも子  安野とも子(vo)、細野晴臣(syn)
 フラワー・バード・ウィンド・ムーン
吉成さんとは、NHKの『TV・TV』という番組で初めてお会いしたんです よね、十分くらい。けれどその十分の間に、コンピュータの話からはじまってフラクタル理論についていろいろ聞いて、最後は<ガイア> - 地球生命体の話までいっちゃった。ぼくにはとにかく十分間がぼーっと通り過ぎた感じでして……」(6)

桑原茂一の証言
「あるコーナーを私にまかせるので何かやって欲しいとの依頼で(編注:コントの台本を)書いた」
(81)
「で、司会者・細野氏、浅田アキラカ・竹中直人で収録した」
(81)
「しかし、編集段階でプロデューサーから待ったがかかりボツになってしまった。」(81)
「私はこの台本の他にもう二本書き、収録したが、そのうち一本だけOKでもう一本もハシャギすぎるとのことでボツになってしまった。」(81)

※編注:「テクノ・ファンタジー」と題して細野晴臣をフィーチャー。スタジオ・ライヴの演奏は当て振り。桑原茂一が書いたコントのボツ台本は二本とも『広告批評』1984年9月号(マドラ出版)に掲載されている。

1984/08/28 『小説王』12号(角川書店)発売。
連載対談「ストレンジ・スター・クラブ」6/富士山 地球観光 細野晴臣 × 中沢新一

1984/08/30 『ミュージック・ステディ』9月号(ステディ出版)発売。
インタビュー/僕はやっぱり、音楽を信じてるんですよね。

1984/09 薩めぐみ『則天去私』発売。
シリコン・レディー:arrangement, all instruments

1984/09/05 『FMレコパル』9月10日号(小学館)発売。
インタビュー/どんなに過激にやってもポップなものが忘れられない!

1984/09/05 レコーディング。六本木/セディック・スタジオ。
ノン・スタンダード・ミクスチュアー
寺田康彦の証言
「WAVEビルは1階がレコード店とオシャレなカフェ」
(82)
「スタジオの下の階には藤幡正樹さんのルームがあり、覗きに行ったこともあるかな」
(82)
「セディックはブースの残響音が多くて、細野さんにとっても新しい次世代のスタジオっていう印象だったみたいね。そ れまでは、デッドなスタジオばっかりだったから、明るい響きのライヴなスタジオという感じ」(82)
「ビデオの仕事だとか『スーパーゼビウス』の録音とかで、ちょこちょこと借りて『ああ、いいな』と思って…
…」(83)
「コンソールはニーヴのVR、レコーダーはSONY PCM-3324。で、ニーヴはレンジが広く感じたね。特に上(高音域)がきれいに伸びてるっていうか」(82)
「ヴォーカルの微妙なニュアンスを出したりするのにニーヴのヘッドアンプはよかった」(82)
「特別難しさは感じませんでしたね。ただ、イコライザーのポイントとかやはり勝手が違ったり、チャンネル・セレクターが各フェーダーについてないんですよね」(83)
「そういうところでとまどったりはしましたね」(83)
「コンデンサー(編注:マイク)は定番もので、ノイマンの67や87、49とか……細かくは覚えてないけど、あまりマイクをたくさん使うセッションじゃなかったから(笑)。セディックはソニー系だったから、六本木ソニーや信濃町スタジオと似ている機材が多かった気がするね」(82)

1984/09 映画『グレムリン』(ジョー・ダンテ監督)試写会に行く。

「ちょうど試写会があって、ほんとに、飛んでったんですけど、レコーディング中止してね(笑)、観に行ったんです」(32)

1984/09/10 カセットブック『花に水』(冬樹社)発売。
produce, compose, arrangement, all instruments, engineering
 
TALKING あなたについてのおしゃべりあれこれ
 GROWTH 都市にまつわる生長のことなど
「シリーズの第一弾という話がありまして、本に関しては僕のスタッフでやらせてもらったんです。もともと秋山道男さんが西友の方で音楽のプロデュースをしてたんで、秋山さんにやってもらおうということで」(58)
「元々店内用のBGMですから、レコードにしようとは思わずに作ったものなんです」
(24)
「短波放送のインターバル・ミュージックのイメージなんですけどね。あれこそ空間を通して来る成層圏の音楽だと思うんです」
(24)
「出しましょうよと言われて出すんですけど」
(24)
「レコードで出そうかとも考えたんだけど、やっぱり本というかいろんな周りの動きをひっくるめて出さないと、音楽だけポンと出して もあんまりおもしろくないかな、と思ってたんですよ。そういう意味ではカセット・ブックに向いていたと思いますね。カセット
ブックというのは手軽な感じがしていいんだけど、形としてはピークを迎えてる気がするね」(58)
「レコードよりも軽いという意味では、週刊誌のような扱いでやっていったらおもしろい」(58)
「カセットの感触ってそうでしょう。週刊誌っていうのは、いつまでもとっとくものじゃないですよね。カセットでも消しちゃってもかまわないと思う」(58)
「読み捨てっていうか聞き捨てみたいな音楽もあるべきだと思うしね」(58)
「出版会社がつくる場合、僕はレコードとは違うメディアだと思ってるから、本が主人公になってでもいいから本屋さんで売って欲しい。音楽に関して何でもかんでもレコード屋さんで売ると拡がんない気がするから」(58)

1984/09/10 レコーディング。六本木/セディック・スタジオ。
ミディアム・コンポジション No.1
ミディアム・コンポジションというのは、その場で作ったんですよというような(笑)、そういう感じなんです」(32)
「大作でも小品でもない、中位のという意味ではなく、即興作品ということに近いのです。つまり、ミディアムというのは媒体(メディア)の単数形であり、私自身、音を感じてすぐに表に現す媒体でありたい、ということ」(64)
「これにはコンピューターが不可欠なのです」(64)
「作曲法の中に組み入れてみたんだ。そんな理論的にやったのではなくて、感覚的にどれだけなるかということでね。 感覚の中に入ってこないと、(編注:コンピュータを)好きになれないからね。それでやってみて、MC-4だからできたんだろうけれど、例えばランダムな数 字を打っていったり、あるいは、音を頼りにリアルタイムで打っていく。それとステップは別の問題で、音楽を違う次元で考えられるわけ。音楽を分解しちゃっ てメロディの流れ、音と音との相関関係をまず作ってしまう」(30)
「普通音楽ってそれをトータルに作るわけじゃない。それを分解してコンピュータを使って、音階のプロセスだけを作る とかね。そういうときはリズムを考えない。ビートを無視して、あとでステップを任意に作って、それを生理的に入れていくわけ。ステップの感覚をプラスする わけです」(30)
「つねにフィードバックしながら作っていくと、今まで自分が作ったことがないような音楽ができるんだよね。当たり前だけれどね(笑)。それが面白いのは決して的外れでないということなの」
「結局感覚としては音の配列でしょ。これは自分のセンスで出てくるもので、音の長さとか、ゲイトとかステップも、非常に感覚的で生理的に入れていくわけ で、やはり自分のセンスでできてくる。そうすると、トータルに聞くと、分裂されたものが初めて全貌が明らかになるというスリルがある。しかも、それは決し て自分から離れていない。そういう感覚は味わった」
(30)

1984/09/11 レコーディング。六本木/セディック・スタジオ。
ミディアム・コンポジション No.2

1984/09/12 レコーディング。六本木/セディック・スタジオ。
ミディアム・コンポジション No.2(テイク2)
※編注:アウトテイク。

1984/09/17 『音楽専科』10月号(音楽専科社)発売。
インタビュー/地球人・細野晴臣

1984/09/24 16:00 NHK総合『シンセサイザー・ライブ「天の川夢想」〜奈良県天川村〜』放送。
共演:福澤諸、原田裕臣、竹中直人、宮下富実夫 他

神秘の生成
地球への帰郷
五十鈴の響き
※1984/07/16@天河大辨財天社 能舞台
※編注:番組では竹中直人のレコーディング風景(アルバム『かわったかたちのいし』か?)も映るが、そこで細野晴臣の指示のもと歌入れされていた楽曲は未発表のままである。

1984/09/24 ジャン・ジョエル・バルビエ『エリック・サティ・アルバム』のための原稿を脱稿。

※編注:11月21日発売のレコード及びCDに掲載。

1984/09/25 越美晴『パラレリズム』発売。
produce, mix
 龍宮城の恋人:arrangement, instruments
 カプリシャス・サラダ:
arrangement, instruments
 イマージュ:
arrangement, instruments, chorus
 サン・タマンの森で:
arrangement, instruments
 逃亡者:
arrangement, instruments
 パラレリズム:
arrangement, instruments, bass, chorus
 デカダンス120:
arrangement, instruments
「このアルバム僕、思い出深いですね」(84)
「好きですよ。おもしろいから」
(58)
「つまんないもののなかにおもしろいこと見出そうという、積極的な態度をもてないんだよね」
(58)
「つまんないものにおもしろいって言っちゃうとつまんないもの生んじゃうから(笑)言わないの」(58)
「つまんないものはつまんないのしか生まれないから、ほっとこうと思って。おもしろいことはおもしろいって言うからね」(58)
「テクノのピークの頃ですね、僕の中でも」(84)
ミュージック・ステディ読んだら"今さらテクノって言うこともないんじゃないか"って書いてあったね、誰かが。越美晴のレコード評に」
(58)
「そこでわざわざ(編注:テクノと)付けたことをなんで考えてくんないんだろうね、そういう人は、だってさ、そのくらいの少数派だと思うの」(58)
「エレクトロ・ポップって言っちゃうと全然違うもんね」(58)
「要するにテクノロジー使ってるからテクノって訳じゃなくてさ。もうそれはしょうがないからそう言ってるみたいなとこあるでしょう」(58)
「エレクトロ・ポップには価値観見出せないもんね、我々は。ひとつの表現としてテクノってあるから」(58)
「それはカッコいいとかそういう言葉と同じなの」(58)
「僕たちが何がカッコいいかっていうと、ある種の過激性とか美意識とか、ほかとは違うことやってるんだっていうよう な自負心とかさ、そういうのがいっしょくたになったカッコ良さを、ほかに言いようがなくてテクノって言ってるとこもある。わざわざそこに名前付けんのも恥 ずかしいというかね」(58)
「それに変わるのは僕はレーベル名にしちゃったけどさ"ノン・スタンダード"なの」(58)

※編注:細野晴臣の発言で触れられている『パラレリズム』評は、『ミュージック・ステディ』10月号に掲載されたもの。

1984/09/25 竹中直人『かわったかたちのいし』発売。
かわったかたちのいし:arrangement, all instruments

1984/09/25 22:00 NHK-FM『サウンドストリート』放送。
DJ:坂本龍一
共演:高橋悠治、如月小春 他
※編注:カセットブック特集。

1984/09/29 0:30 フジテレビ『面白予約ショウ』放送。
司会:浅葉克己、越美晴
共演:高橋幸宏、スティーヴ・ジャンセン、金子國義

越美晴  越美晴(vo, syn)
、細野晴臣(syn, syn-ds)、高橋幸宏(syn-ds)、スティーヴ・ジャンセン(syn-ds)
 パラレリズム
 デカダンス120

1984/09/29 『ミュージック・ステディ』10月号(ステディ出版)発売。
対談/松本隆 × 細野晴臣

1984/10/10 ソロ・アルバムのレコーディング。六本木/セディック・スタジオ。
北極
MAKING OF NON-STANDARD MUSICのレコーディングを終えたころ、私は既に次のLP、つまり『SFX』にとりかかる決意をしなければなりませんでした。」(5)
「その前の日まで12インチ・シングル作って本も作って、できた…
…というゆとりもなくアルバムへ!という雰囲気だったので呆れ果てましたよ、周りの人たちと一緒に(笑)」(9)
「正直いうとカンベンしてもらいたかった(笑)」(9)
「時間がありませんでした。何故か? そんなことは考えませんでした」
(5)
「そういう状況を辛いと考えるかどうかは、基本的に辛いワケなんですけれど、考えるとキリがないので捨てて」(9)
「どんな条件でもやることが私のクセであり、過剰なストレスを乗り越えてこそ進歩があるという思い込みが、私にレコーディングへの決意を促しました。」(5)
「普通だったら、断るらしいの、スケジュール的に見て。でも、やっちゃう。僕は『壁』をつき破るのが好きなんだ。音速の壁とか、光速の壁とかね。進めば進むほど速度が速くなっていくということが、快感なんだな」
(21)

寺田康彦の証言
「レコーディングは夜ですね。6時頃から始まって夜中の2時とか3時まで。それを毎日続けるわけです」
(83)
「スタジオへ入ってから、すべてが始まるという感じです。だから僕らはどんな音楽が出てくるのか、見当もつかないんですよ。ミックス・ダウンが終わってか ら、『ああ、こういうものだったのか』と思うことがよくあります。多分、細野さんは初めからひとつのテーマを持っていると思うのですが、それを早めに伝え ないというか、どう変わっていくかわからない…
…そこが面白いところなんです」(83)

※編注:アルバム『S・F・X』のアウトテイク。2019年、『NON-STANDARD collection -ノンスタンダードの響き-』に収録された。

1984/10/11 セゾンカード CM曲のレコーディング。六本木/セディック・スタジオ。

「西武セゾンカードのコマーシャル・フィルムは亀井武彦のディレクションにより、リキテンシュタインの絵と藤幡正樹によるC・Gで映像が完成された。音楽はモニターTVを見ながら、その場で出来たものである。」(43)

※編注:「リキテンシュタイン」のタイトルで『コインシデンタル・ミュージック』に収録。

1984/10/12 坂本龍一『書物の地平線 本本堂未刊行図書目録』(朝日出版社)発売。
装幀/ジュリアン・バコット『樹木状網目 思考の原初的図式』
   ジョルダノ・ブルーノ『無限・宇宙と諸世界について』
   武邑光裕編『往復書簡 ウィリアム・バロウズ - 出口王仁三郎』
   『細野晴臣画集』
   中沢新一=文 藤原新也=写真『チベット・死者の書』
※編注:『週刊本』シリーズ6。坂本龍一が役員を務める出版社「本本堂」によ る未刊の書物のための装幀を、装幀家、グラフィック・デザイナー、美術家らが実際に制作した、架空の出版目録。ラインナップには細野晴臣の上記装幀作品の他、同年6月18 日の原宿/ピテカントロプス・エレクトスでのイベントを記録したカセットブック『ナムジュンパイクをめぐる6人のパフォーマー』(奥村靫正装幀)、細野と 坂本の対談集『BRAIN STORMING』(日比野克彦装幀)が含まれる。

1984/10/15 筑紫哲也と対談

※編注:『朝日ジャーナル』11月16日号(11月9日発売)に掲載。

1984/10/15 吉成真由美と対談

※編注:吉成との共著『技術の秘儀』(週刊本15)として11月9日に発売。

1984/10/16 ソロ・アルバムのレコーディング。六本木/セディック・スタジオ。

※編注:アルバム『S・F・X』のアウトテイク。

1984/10/22 ソロ・アルバムのレコーディング。六本木/セディック・スタジオ。
アンドロジーナ
「確か生ピアノで作りました。ピアノが、一番曲が作りやすいんですよ。別に代 わりになるものであれば、何でもいいんですけどね。細かいことなんだけど、鍵盤のタッチの問題とかがあって、シンセサイザーだと曲を作ってる気がしないん です。小さい時からピアノをいじくっていたので、ピアノのタッチが気持ちいいんですよね」(83)

1984/10/24 坂本龍一『音楽図鑑』発売。
チベタン・ダンス:bass

1984/10/25 安田成美「銀色のハーモニカ/悪戯な小鳥」発売。
銀色のハーモニカ:compose, arrangement, keyboards, programming
銀色のハーモニカ
「松本隆作詞で、萩田光雄ストリングス」
(16)
「エキゾティック・サウンド。何でか分からないけど(笑)。ともかく『銀色のハーモニカ』という世界を作った松本のイメージに、音楽的に刺激された」
(11)
「(編注:コードの変化は)意味はないですけど、自然に。曲を作る時はいつでも、1小節ずつ進めて行くんで、その先何が来るかわからないままやってる」
(11)

1984/10/25 ワールドスタンダードのメンバーと会う。同じく来訪していたマルタン・メソニエ、キング・サニー・アデとは入れ違いになり、会えず。六本木/セディック・スタジオ。

「沖縄のユタにね、アフリカから迎えが来ているって言われたの」(65)
「那覇でユタに会ったんです」
(1)
「洋服屋さんで、隠れユタだと思うんですが」
(85)
「昔は看板を出してそれ専門でやってたのが、いまはひっそりとやってる人が多いらしくて、僕が会った人もそうでした。ユタは怖い、何でもズバズバいっちゃ うからという話を喜納昌吉さんから聞かされてましたけど、僕の場合はそんなに辛辣なことは言われなかった。ただ、自分しか知らないことを見抜かれたんで す」
(1)
「いろんなこと言われたんですよ」(86)
「僕はエイプリル・フール時代に」(1)
「海に落ちて助かったのに、助かったお礼もしてないって。僕はお礼なんてことは考えたこともなかったわけです。誰にお礼していいかわからないし」(1)
「伊勢神宮に年に一回必ず行ってくださいとか。そんなことをいわれるとは思わなかったので、びっくりしました。沖縄 の人にとっては、伊勢神宮なんか、もってのほかの場所と思っていましたから。祖先の話もありました。沖縄では祖先を大切にしますね。ところが戦後それが崩 壊して、例えばいままで起きなかったような殺人事件が起き出したのは、そのせいだというようなことをいうわけです。そのときは、日本人が失ってしまった心 みたいなものがまだあるのかなという気がしました。それもいつかは失われていくんだろうと、沖縄に行くたびに感じますけど」(1)
「占うときに、ユタは直観的にパッと言う場面もあるし、空から紙が降ってきて、そこに内容が書いてあるのが見えたりすることもあるそうですね」(1)
「その人は、紙に書かれたメモが空から降ってくるのを読む。それが全部当たるんですって」(86)
「その書かれていることを読んでくれたら」(86)
「『アフリカから大きな船で迎えに来ている』って言うんです。その人には映像が見えるらしい。『でも、その船に乗らない』って」(85)
「僕に問題があるので、その船にはたぶん乗れないだろうと」
(1)
「まだぼくには用意はできていない、だからアフリカには行けないって言われたんだ。まあ、アフリカは住むってことじゃなくって、音楽的なことだとは思うけれどもね」(64)
「そのときには、何のことか全然わからなかったんですが」(85)
「その後にキング・サニー・アデが来て、僕がスタジオに遅れて会えなかったことなんじゃないかと(笑)」
(1)
「フランスの音楽プロデューサーが僕に会いにきた。マルタン・メソニエという人なんですけど、フランスでレコードを作らないかといってきたんです。彼はアフリカのキング・サニー・アデのプロデューサーで、彼を連れて来たんですね。一緒にレコードを作らないかといって」(1)
「僕の事務所に連絡をしてきた。それで、僕がスタジオに入ってるっていうのを聞いて。スタジオに会いに行くって言うんですよ」
(86)
「『SFX』のレコーディングをしているスタジオに来てくれたんです」
(1)
「そのとき僕はいろいろなアイディアがあって、キング・サニー・アデとやろうという気持もあった時で」(1)
「ところが僕は寝坊して遅れちゃって、とうとう会えなかった(笑)」(1)
「一時間以上も遅刻しちゃって、サニー・アデは忙しくて、とうとう帰っちゃったんです。僕をずーっと待ってたんですって」
(86)
「セッションしたかったらしいんだけど。『SFX』のオケを聴きながらスタジオでトーキング・ドラムを叩いてたんですって(笑)」(85)
「そんな仕事があって以来、マルタン・メソニエが僕の中では重要人物になってきた。彼からは何でもいってくれといわれてたんですが、そのうち彼のレーベルがつぶれちゃったんですよ」
(1)
ワールド・スタンダードはずいぶん前からテープで聴いてたんですけど」
(78)
「『贅沢貧乏』」
(22)
「聴いてた頃は街では環境音楽っていうものがもてはやされてた頃でね。そ ういった事をワールド・スタンダードもやはり意識したグループだったんです。けど何かもっと広がりがあってね。いわゆる僕の概念でいう観光音楽というもの にね、近かった。妙にさめてない所があって、何かこう揺れ動いている所があった。で、そういう部分にすごい興味があったんです」
(78)
「言葉の問題っていうのもすごくこだわっていて、確かに歌は入ってるけど、ラララで歌ったりとかね。それはやはり言葉に対して持ってる不安感とかがそうさせてると思うんですよ。そこらへんがすごく面白くてねえ」
(78)

鈴木惣一朗の証言
「(編注:久保田)麻琴さんが、実はトリオ(編注:レコード会社)でコンピレーション・アルバムを作るんだけどやらないかと言ってくれたの」
(87)
「麻琴さんとは、それがきっかけで非常に仲良くさせてもらって、『こういうことをプロでやる気はあるのか』って聞かれたの、それで僕は細野さんの話をし た。YENレーベルに入りたいって」
(87)
「僕の音も聴いてもらってたりして」
(22)
「細野さんがどの時点でぼくらを認めてくれたのかは、よく判らない。そういう話とかは、あんまりしない人だし」(88)
「デモテープ『贅沢貧乏』を細野さんに渡してた」(88)
「新たなデモの『音楽列車』は久保田麻琴経由で渡されてたらしい」(88)
「当時ぼくはアルファのYENレーベルにいきたくて、レーベル宛で『音楽列車』を送ったけど、その時レーベルは無反応だった。そのなかのどこかの時点で、細野さんが興味を持ってくれてたんだと思う」
(88)
「でも、ほぼ同時期にミディからも話が来た。で、いろいろ事務所との話し合いがあって、一旦ミディに決まったの。ミディ で一枚作っちゃおうって。それで、その話が細野さんに伝わる」(86)
「『ミディに決まったんだってね』って呼ばれたの」(87)
「ぼくは六本木のセディックというスタジオのロビーで、バンドのメンバーと共に細野晴臣を待っている。」(65)
「コントロール・ルームを覗くと、自分が使っているようなティアックの民生機やディレイ・マシンがあって……。細野さんも自分と同じような市販のもので、すごい音楽を作ってるんだなって、素朴にびっくりしたんです」(82)
「TEACの144がポンとおいてあったの。まさにぼくらがデモを録ってたヤツね。細野さんは『S-F-X』を録るとき、その4トラック・カセットを一回通して、デジタル・レコーダーに録ってた。そうすると音がファットになる」(88)
「スタジオの奥に、どこかの黒人ミュージシャンがちらりと見えた。コントロール・ルームでぼくと同じように、細野晴 臣を待っている。ぼくにはわかった。あのサニー・アデさんなのだ。」(65)
「サニー・アデがいたんで、なんかそのことに感動してて…」(89)
「1時間待っても、細野晴臣は現れず、サニー・アデさんは帰ってしまった。すると、ほんの 時間差で細野晴臣は現れた。」
(65)
「おしゃれだなあと思ったんだ(笑)」(89)
「ゆったりしたジーンズにネルのチェックのシャツをタック・インして、格子の靴下を履いていた。ベルトにはカントリーっぽい飾り も光っていた。」
(65)
「細野さんが着ていたシャツがすごくおしゃれで、そのあとあっちこっちで捜したら、ハリウッド・ランチ・マーケットで売ってた(笑)。おしゃれだっていう印象の他に、こわいっていう感じも受けたな」(89)
「細野さんはちょうど『S・F・X』のレコーディングしている最中だったから、すごく入り込んでいたみたいだった」
(89)
「『そうか、サニー・アデ帰っちゃったか、テヘヘ』細野さんはおちゃめに話す。『君たちがワールドスタンダードか』ぼくはうれしかった。 『いっぱいメンバーがいるな』ぼくはうれしかった。『誰を見て話せばいいのかな』ぼくはうれしかった。『君がスズキくん?』ぼくはうれしかった。」
(65)
「その時に初めて第1種接近遭遇(笑)、確認してもらったって感じ。で、その時、僕は『でも契約はしてないんです』って言っちゃったの、つまり寝返った?」(87)
「『ところ で、新しいレーベルでレコード作る気ある?』ぼくはうれしかった。ぼくはうれしかった。」(65)
「『うちでやったりする気はあるの?』って」
(87)
「僕は『もちろんです』って(笑)その場で即決」(87)
「ノン・スタンダードにいくことに決めた。そこで細野さんに言われたのが、君たちのでデモ・テープ、そのままレコードにしたら?ってこと」(88)
「この頃は、細野さんにとってデジタル指向の時代にロー・ファイな機材がもつバランスの良さを見直してる、そういう時期でもあったらしい」(88)
「ぼくらのテープについても、いやぁ、すごくいい音だよ!と言われたんだ」(88)

※編注:キング・サニー・アデの来日公演は10月26日に代々木第一体育館で行われており、細野晴臣とのニアミスはその前後のことと思われる。

1984/10/25 ソロ・アルバムのレコーディング。六本木/セディック・スタジオ。
ストレンジ・ラヴ

1984/10/27 高橋幸宏『ワイルド&ムーディー・ツアー '84』公演にゲスト出演。渋谷/NHKホール。
高橋幸宏  高橋幸宏(vo, g)、アイヴァ・デイヴィス(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn)、ロドニー・ドラマー(b)、立花ハジメ(sax, cho)、沢村満(sax)、細野晴臣(syn, cho)
 きっとうまくいく
 プライス・トゥ・ペイ

1984/10 ソロ・アルバムのレコーディング。六本木/セディック・スタジオ。
あくまのはつめい
「そのころ僕はクラシックでボヘミアの音楽を聴き出して、チェコのスメタナとか、ドヴォルザークを聴いているときに、チェコの映画も見たんです。子供のこ ろ一度見ているんですけど、原爆を扱った『悪魔の発明』というすごく不思議な、アニメとの合成映画です。フランスのSFの小説家ヴェルヌ原作の映画なんで す」(1)

※編注:「ボディー・スナッチャーズ」の原型と言うべき、アルバム『S・F・X』のアウトテイク。2019年、『NON-STANDARD collection -ノンスタンダードの響き-』に収録された。

1984/10/30 『ミュージック・ステディ』11月号(ステディ出版)発売。
対談/細野晴臣 × 越美晴
コメント/カセットブックはどうなってゆくのか

1984/10/31 『Steve』12月号(近代映画社)発売。
インタビュー

1984/11/01 『広告批評』11月号(マドラ出版)発売。
アンケート/CM音楽と私の仲

1984/11/01 インスタレーション『L'histoire Naturelle』の展示開始。六本木/WAVE 1階ウェイヴトップ。

※編注:WAVEオープン1周年記念企画の一環で、当時の雑誌広告には「細野晴臣のノンスタンダードな音を楽しむ巨大ビジュアルオブジェ。ビデオ制作は藤幡正樹。構成は山田修」とある。11月27日まで展示。

1984/11/01 ソロ・アルバムのレコーディング。六本木/セディック・スタジオ。
ボディー・スナッチャーズ
「普通はエディットしながら作っていくようなところを、最初からコンピューターで作っちゃったので、異様な音楽になっちゃったんです」(1)

1984/11/06 ソロ・アルバムのレコーディング。六本木/セディック・スタジオ。
第3の選択

「ほとんど即興演奏なんですよね。テープ回しながら作ったようなものですから」(9)
いっそがしかったよ〜。複数の、音源を立ち上げといて」(90)
「トランス状態で、何かの音源をターンテーブルで回しながら」(82)
「即席の、サンプリングで、えー、これを、即席で作ったんです。えー回しながら、録ったような即興なんです」(91)
「インスタント・サンプラーってのがあって」
(90)
「SDD1000」(82)
「メモリーできなくて、ボタンを押すと、ランダムに、ループを作ってくれるやつがあって、適当にやったの」
(90)
「で、マルチに録って、まぁあとで、ちょっと整理して」(90)
「偶然録れた音源をループにしたり、それを聴きながら、音を重ねていったんだよ」
(82)


1984/11/06 19:20 NHK-FM『高橋幸宏ライブ』放送。
きっとうまくいく
プライス・トゥ・ペイ
※1984/10/27@NHKホール

1984/11/09 細野晴臣+吉成真由美『技術の秘儀』(朝日出版社)発売。

※編注:朝日出版社の『週刊本』シリーズ15。当時NHKのプロデューサーだったサイエンスライター・吉成真由美との対談集。

1984/11/09 『朝日ジャーナル』11月16日号(朝日出版社)発売。
対談/若者たちの神々 筑紫哲也 × 細野晴臣
※編注:「若者たちの神々」は『朝日ジャーナル』の当時の編集長・筑紫哲也による連載対談。のちに全4巻の単行本にまとめられ、細野晴臣の回はPart3(第3巻)に収められている。

1984/11/10 『メイキング・オブ・ノン・スタンダード・ミュージック』発売。
produce, compose, arrangement, mix
 ノン・スタンダード・ミクスチュアー:prophet-5, emulator, linn drum, TR-909, voice, MC-4
 ミディアム・コンポジション No.1prophet-5, emulator, MC-4
 ミディアム・コンポジション No.2:prophet-5, emulator, MC-4
 ミロク:all instruments
「ノン・スタンダード・レーベル発足記念のようなレコード」(64)
「創刊準備号みたいなもの」(20)
「次のソロを出す前の準備なんです。予告編なんです」
(92)
「ホントは11月に(編注:アルバムを)出してくれるとありがたいと言われたんですけど、とてもムリなんで、じゃ予告編を出しますってことで」
(92)
「作品としても聴け、両レーベルの音のダイジェストとしても聴けるもの」
(68)
「まずはコミックな世界を音楽で表現してみようとしているんです」(69)
「2つのレーベルを生かしてAB面でね」
(20)
「12インチ・シングル」
(64)
「7インチ・シングルを作る必然性が、ボクにはないっていうことと、アルバムより手軽な、雑誌みたいな感覚のものがほしかった」
(49)
「12インチ・シングルならミックスでも遊べるし、ノンスタンダードはミックスを売りもののひとつにするつもりですしね」(49)
「テイチクから僕のレコードが発売されると決まったときに、最初にマニュアルが必要だと思ったわけです。ノン・スタンダード・マニュアルね」(21)
「ふつう、作品ができて、その説明、どういうふうに作ったかっていうのが『メイキング…』ですよね。ノンスタンダードっていうのはなじみのないことばでしょ。でも、ノンとスタンダードっていうのは、みんなわかってる」
(49)
「だから、ノンスタンダードについてのマニュアルを、まずボクは必要としたわけです。それを最初に作った。サンプルみたいなものを作って、さらにそのレコードに本を付け加えたんです」(49)
「ペーパーバックとマキシ・シングルがくっついたかたちになっているんです。それで、段ボールに入っていて、レコード屋さんで売るという、要するに……大変な商品(もの)です」(21)
「予告編というからには、視覚的にもあった方がわかりやすいしそれで本を」(92)
「格別新しいとは思ってないんですけどね」(92)
「カセット・ブックがあるように、洒落でレコード・ブックがあっても良いではないのかと思って作ってしまいました」(69)
「レコードブックっていうのは、なんかやっかいなものなんですけど。"いいでしょう"と言われたときはうれしかったです」
(92)
「これはけっこう映画的手法なんです」(49)
「YMOの頃ですけど、ボクは、もう映画にはかなわないな、と思った時期があって。映画の力強いメッセージに、音楽だけではたち打ちできないな、と思ったんです」(49)
「SFX使ってる映画とかが、めちゃくちゃ好きなんです。なんかイキイキしてて、すごく面白いことやってるなって思ってたんです」(49)
「とにかく、ボクも映画にかなり近づきたいと」(49)
「でも、ボクは現実に音楽やってる人間でしょ」(49)
「映画を10何年やってる人はそれだけの蓄積があるわけだから、ボクが映画やろうと思ったら、やっぱり10何年かかるんだろうな、なんて思ったりするわけ」(49)
「だから、本、それもマンガの本を付けたっていうのはボクなりのアプローチ」(49)
「かたくならないようにマンガにしてあるんです」(92)
「日本でいちばん面白いのは映画よりもマンガだと思うんです。でも、ゆくゆくはそれが映画に発展していく可能性もあるだろうし、そういうことも含めて、自分でもやってみたいと思ったんです」(49)
「時間的な問題でほとんど本は不可能だと思ってたんですけど、手伝ってくれた人がみんな、面白がってやってくれて、しかも、わりとコーフンして、すごいものができたって。作ってる人たちの熱中できるものができたんです」(49)
「中沢新一さんや奥村靫正さんたちと作ったんですけど」(92)
「なにしろ、レコードと本というのはミスマッチですから。サイズ的にも。扱いにくいと思うんですけど、でもそれをうまくやってもらって……」(92)
「実をいえば、サンプルかどうかは、どうでもいいことなんですよね。実際、その場で出てきたものをやるしかなかったし」(49)
「これも、ひとつのエンターテイメントですね(笑)。ただ、本のほうはわかりやすくなってると思います」(49)
「この時に星の子供というキャラクターである『グロビュールちゃん』が生まれました。」(64)
「けっして僕の個人的なキャラクターの投影じゃないみたい」(21)
「異星人(エイリアン)」
(21)
「UFO(未確認飛行物体)であることには変わりがないんだけど」
(21)
「でも、昔のUFO体験と似ているとは思わない」
(21)
「僕が昔体験したUFOは、何が何だかわからない物体だった。『未確認』だったからね。で、それを取り巻く人々の『想い』のほうが独特の世界を作りすぎ ちゃっていて、ちょっといたたまれなかったんだよ。新興宗教みたいになっていたから。それが、'81年から'82年頃にかけて崩壊した」
(21)
「僕がいろいろなところで目撃してきたのは、UFOじゃなくて、UFOの下に集まってくる人達の未確認行動みたいな不思議な行動を見てきたと思うんだ」
(21)
「たとえば、奥さんだけがUFOを見る夫婦がいて、みんなが集まっているなかで、すごく一生懸命に自分の体験を話すわけ。と、突然、となりに座っていたダ ンナがカーッとなって奥さんを叩いた。『もうUFOの話はするな!』って。それ以来、僕もUFOの話は人に聞かなくなった。これは聞いちゃいけないことな んだと思って。UFOというより『円盤(ソーサー)』だよね、聞いちゃいけないのは。円盤って、すごく人間臭いなと思った。やっぱり、ユングじゃないけ れど『投影』しているから。だけど、それとは別にUFOという物体(もの)が存在していて、結構、僕はそれに影響されていると思う。『円盤』の形態(かた ち)をとらないUFOにね」
(21)
「発端はねえ、まずグロビュール[GLOBULE]って、言葉があったの。それが頭のなかにこびりつ いていて、なにかに使おうと思っていた。ノン・スタンダードとか、モナドとは別のところでね。−つまり、もう『かたち』があったんだね、グロビュールに は。その言葉が生まれたときに。グロビュールって言葉は、胞子とか、砂の粒とか、流動状態にある小さな球体のことで、グローブ[GLOBE](球体、地球)と同じ語源なの」(21)
「で、そのイメージをもとに、できた生き物がアレなんです」
(21)
「自分の頭の中だけでできたものじゃないと思うんです」(21)
「いろいろ手伝ってもらった少数の人達のなかから生まれてきたと言ったほうが正しい」
(21)
「本のタイトルに『グロビュール』と付けようと思っていて、後藤(繁雄)さんとか、奥村さんに最初から話してたんだけれど、いつのまにかあの姿が出来上がってしまったわけ」(21)
「ずっと地球上をグルグル歩いてて、地球とお友達になりたいって気持ちから、地球=グローブ、その子供っていう意味でグロビュールってつけたんです。地球 の星の胞子っていうかな」(93)
「はじめは、しずくのようなものだったの。水滴みたいなもの。グロビュールはもともと真ん丸だったのが、落下しているというか、移動している感じで頭がトンガってきた」(21)
「最初はまんまるだったんですけど、たとえばしずくみたいなものは、落ちてくる時まんまるじゃいられないでしょ」
(93)
「で、トンがっているのはあまり良くないから、丸くしてみようということになって、結局ダルマさんみたいなかたちになった。だから、止まった状態は真ん丸だと思う」
(21)
「動いてる時は、そ ういうひょうたん形になってるんです」(93)
「動くことによって、いろいろなかたちをとれるはず」
(21)
「足は、一応あるみたい。足っていうのかなあ」
(21)
「チャーミングで可愛くてしようがないから、僕は、落下してきたというより生まれてきたんだと思っている。『ああ、やっと、よく来たね』っていう感じで迎えてあげたい」(21)
「できてみると、まるでキャラクター商品みたい(笑)。さっそくライターにしたいって話が、ライター会社からきたりして」(93)
「こういうのは不思議なことなんだけど、作ったと同時に自分から離れてっちゃうから、なんか"勝手にしろ"って感じがあるんです」(93)
「ときを同じくして『グレムリン』や『ゴーストバスターズ』みたいな映画が出てきてるでしょ。その二作の映画を観る前に作った『グロビュール』が、やっぱ り共通点があるというのが、面白い。で、本の造りも、自然と『グロビュール』って架空の映画のメイキング・ブックっぽくなった気がする。不思議だね」
(21)

ノン・スタンダード・ミクスチュアー
「このレコーディングの合い間をぬってグレムリンとゴーストバスターズの試写を観るチャンスがあり、大いに勇気づけ られたものです。そんな雰囲気の影響かどうか、この曲はテクノに敏感な幼児にも気に入られているようです。そうそう、大瀧詠一氏から彼のご子息達のフェ ヴァリットソングだというお便りが届いたのには感激しました。」(64)
「途中にyum, yumという声が入っているのはグレムリンの特別出演です。」(64)
「『グレムリン』の世界に入り込んだまんまレコーディングしちゃったんで(笑)、ちょっと似たような声が入ってます」(32)
「この曲はナムコット(TVゲーム)のCMにも使われました。」
(64)

1984/11/10 『POPEYE』11月25日号(マガジンハウス)発売。
インタビュー/音と映像で綴る、"無欲"のメッセージ

1984/11/10 『LOO』12月10日号(日本キャパシティ)発売。
インタビュー/ノン・スタンダードの、輪廻

1984/11/10 高橋幸宏『ワイルド&ムーディー』発売。
ストレンジャー・シングス・ハブ・ハプンド:bass
キル・ザット・サーモスタット:bass
「レコーディング手伝って音聴くじゃない」(58)
「言えちゃうの」(58)
「"わーテクノしてる"みたいなこと」(58)


1984/11/11 ソロ・アルバムのレコーディング。六本木/セディック・スタジオ。
ダークサイド・オブ・ザ・スター
「レコーディングも終了させなければならなかった最後の日」(94)
「時間がなくなって最後に録ったといういわくつきの曲」
(93)
「生ピアノなんです。他のピアノ部分は、ほとんどカーツウェルなんですが……。その時たまたまカーツウェルがなかったんで、生ピアノを使ったんですけど、まあほとんど変わらないんでね(笑)」
(83)
「30分位で全部できちゃった。そのくらい即物的なんです」(9)


1984/秋 野中英紀に偶然会う。原宿/ハナエ・モリ ビル。
「『地 球』のことがとても気になってるわけです。その前は『月』だとか『アンドロメダ』だとか、興味が宇宙のハテに行っちゃってたんだけど、もう1回『地球』に もどしてみると、実にいろいろと、リアルな感覚がよみがえってきたわけなんです。そういう感覚をもとにして『フレンズ・オブ・アース』という1つのアイデ アをあたためていた時に、野中君と僕との出会いがあったんです」(59)
「YENのインテリアでギターを弾いていた人」
(7)
「インテリアのときに考え方が面白いと思ってて」(7)
「ある日アンティック・ショップに行ったら偶然そこで会って」(7)
すると彼も同じことを考えていた」(59)

野中英紀の証言
「細野さんと久しぶりに再会したのは、確か1984年の秋ごろ。場所は原宿のモリハナエ・ビルの地下にある友人のアンティーク・ショップの前だったと思う。」
(95)
「立ち話でお互いの近況報告をしつつ最近何を聴いているのかという話題になり、たまたま2人とも当時メジャーな存在になりつつあったHIP HOPが気になっていることが判明して、大いに盛り上がった記憶がある。」
(95)
「当時の気分、個人的には当時の日本に対する"生理的な違和感"とか"ある種の怒り"のようなものがあって、それを細野さんに伝えると『僕も同じだ』と言う。それでその場で何となく、『じゃあ、何か一緒にやろうか?』ということになったのだ。」(95)

1984/11/16 『ぴあ』11月30日号(ぴあ)発売。
インタビュー/YMO散開から1年、細野動く

1984/11/20 『HiVi』12月号(ステレオサウンド)発売。
インタビュー/HiViの達人、細野晴臣にきく。

1984/11/21 安野とも子『ラ・ミューズィック・エキゾティク』発売。
フラワー・バード・ウィンド・ムーン "ジャングルMIX":compose, arrangement, sound performance
Sur La Terra
:compose, arrangement, sound performance
フラワー・バード・ウィンド・ムーン "フレンチMIX":compose, arrangement, sound performance

コメント/私達は素晴しかった
「このプロジェクトは秋山道男が中心になってやっていたんで、ほぼ『冗談だろう』と思って付き合ってたんです(笑)。真面目にヒットを狙うとか、そういう生真面目さはなくて、遊びでやってたっていう。悪い意味じゃなくて。みんなで遊んで、楽しんでと」(11)
「何故私はジャングルに憧れるのであろうか。昔は日本といえども熱帯のジャングルであった、というのが私のわが ままな仮説である。そのような密林というのは人をして方向感覚を失わせしめ、自然界の迷宮として私の幻想をかきたてる。あまりにも密であるため、それはあ たかも砂漠と同様に何も無いに等しい。アラビアのロレンスが、砂漠に於ける死の行軍中、突如目撃した貨物船の煙突。スペインのアギーレが、アマゾンの密林 で垣間見た帆船。そして日本の安野とも子が、ジャングルを散歩していて、偶然発見する蜃気楼のような近代都市。花や鳥に導かれ、そこに見た未知なる土地 (テラ・インコグニタ)に困惑した彼女は突然唄い出す。何故彼女は唄ったのだろうか。それは、秋山道男という見えざる手に導かれ、ジャングルに入りこんで しまったのだから、その計画に沿って唄をうたうのは運命であった。もしそれがあなただったとしても、ここでは唄わなくてはならない。そこに求められるのは 歌い手としてよりも、しなやかなパフォーマンスの才能である。つまり、無いに等しい密林の中で迷うことに吝かでない、という可愛いくらいの生真面目さがい いのである。」(44)
「このような思想は、見えざる手、秋山計画が醸し出すのであろうか、このレコード全体に、ホログラフィックな形で染み亙っている。」(44)
「それに加え、互いに干渉し合う光のようなジャングルの過密さと都市のそれは、レコードの溝に刻みこまれたデー タに、フラクタルな構造を与え、そのあまりにも過激な密度故に恰も無いに等しい音楽をつくり出す。だからというわけではないが、このレコードに対し『無 かったことにしようね』、などというコピーをつけるのは不可能である。」(44)

Sur La Terra
「90年代に出した僕のソロの中に、『AIWOIWAIAOU』という曲がありますが、このモチーフを使ってます」
(11)

秋山道男の証言

「四月の月光に、『口が淋しい、歌でもください』とねだる坂戸生まれの天使、安野とも子は、せいせいするほどの愛の鼻歌との出会いをずっとずっと待ってい た。Aと細野の風のごとき歌の行方を見定めようとしていた月の女神は、安野に味方し、密林のフォトンチッドとパリスの空気をおまけに『フラワー
バードウィンドムーン』さらには『シュールテラ』、都合ふたつの愛の鼻歌を安野にめぐり会わせた。」(44)
「日 曜日以外は普通の国民、普通のはたらく婦女子として、はた(傍・かたわら)をらく(楽)にしながら、はたらくとらばーゆしている1/7芸能芸術労働者がヤ スノなのだ。100%芸能芸術する気はなく、そんなようなこともやりつつ、とらばーゆもやり、自宅にもどれば猫を叱ったりもすればお猫さまにお相手してい ただきもし、天気の明朗なる日にはフトンを干し、金のある日は故郷に仕送りを重ね、悲しい日には歯を食いしばったりしている埼玉県生まれ千駄ヶ谷ライフの 『ガイア(地球生命体)の生活者』なのである。」
(96)
「情熱を秘めながら涼しく、高校在学中程度の学力でありながら『生きものの女としての知性(ヒラメキや創造性)』にあふれ、キャリア(仕事)もパフォーマ ンス(歌やマヌカン)もフトン干し(実生活)もすべて同じ資格でホリスティックヘルス(全包括的調和)しているガイアの女、ヤスノ。」
(96)
「『ガイアの生活者』ならば、ガイアの歌もうたえるぞ、と、細野晴臣と私は、ヤスノを選び、三者一丸となって、快盤『ラ・ミューズイック・エキゾティク』をつくった。」(96)
『ラ・ミューズイック・エキゾティク』は、『ここではないどこか に誰かさんを連れてってあげたい』というロマンティクスと、『人間て、変で素適で、すごい才能あるわねー』というような『人間的生命の怪力』に充ち溢れ、 それは芸能芸術が本来持つべき『気高さ』を発散するまるで新型の国民歌謡である。」(96)
「この「気高さ』は、主に、フェミニティ(女の価値、とでもいうのかな)のなせるわざであり、ヤスノという価値のある女の直観力(ヒラメキ)がなければ、このレコードが持つ『ロマンティクス&人間的生命の怪力』のようなものは、ぐっと薄口になってしまったのだろう。」(96)
「こうした成り行きに魅かれた芸能芸術界の住み人たち、マシオ、イイジマ、アサヌマ、ヤマダらは、西暦一九八四年十一月二一日、この青い地球に生息するだいたいの人々から、安野の歌と交換に一五〇〇円を集めよう、とレコード売りにおけるテラインコグニタに旅立つのであった。」(44)

1984/11/21 ミカド『冬のノフラージュ』発売。
executive produce
「プロデュースというより推薦。プレゼンテッド・バイ・細野晴臣」(21)

1984/11/21 ジャン・ジョエル・バルビエ『エリック・サティ・アルバム』発売。
選曲
寄稿/ノンスタンダードなエリック・サティ
「まるでポップ・ミュージックの出来事のように、エリック・サティはコンピュレーション・アルバムを現代の私たちにつくらせてしまう。」(97)
「19世紀末におけるサティの異端性が、時の流れにズレを生じさせ、今日に振動してくるからだろう。このことは例えば'50's(フィフティーズ)に戻っ ていくような感傷とは本質的に異なるできごとである。サティのズレ方は途方もなく大きく、当時の世界に振動しにくかったと思われるが、それが」
(97)
「飢餓状態にあった私の音楽的状況に訴えかけ始めたのだった。」(97)
「空気や気分、或いは感情のレベル以上に響くものを感じた」
(97)
「そのレベルとは、100年毎に巡って来るこの世紀末を振動させる何かである。」
(97)
「特にサティとか、ああいう人たちの時代は激動、つまり世紀の変わり目でね」
(9)
「そこら辺の気分が共鳴し合えるところなのかなって思いますけど」(9)
「サティという人の感覚も、ダイレクトに伝わってくるんです、メッセージとして。時を超えて、やっと届いてくれる。時間差のあるタイムマシンのようなものです」
(1)


1984/11 「ボディー・スナッチャーズ(Special MIX)」完成。

「日本語版が気に入らなくて、別ヴァージョンを作ったりして」
(82)
「12インチ・シングル用にミックスしなおしたんだ」(50)
「そっちの出来がもっと気に入ってたね」(82)
「完成した時は、ウワーッすごい! やったあ……って。でも次の日になると落ち込んでしまう(50)
「もっと良くしたくなってくる」
(50)
「とにかく自分の中のスピードが速い」
(50)
「ニュージーランドの学生に『オーヴァー・ザ・トップ』だって言われたんです」(59)
「当時、オーストラリアとニュージーランドの学生たちに聴かれていて、大ファンがいるんですよ。彼らはYENのレコードも聴いていた。YMOというのは、 世界的に変なマニアを作っちゃったんですね。後を引いて、一回取りつかれると中毒になるみたいなので、次から次に供給されないと飢えていくらしいんです ね。YMOの解散後も当然のように僕のレコードを聴いていて」(1)
「聴かせたら、その人が『OVER THE TOPだ』と言ったの」(7)
「ニュージーランド人とかイギリス人が、これはOTTだと言ったことがあるんです。それは何だと聞いたところ、オーバー・ザ・トップだと言うんですよ」(35)
「それ、いろんなニュアンスがあって、いちばんストレートに言えば『過剰だ』という意味」
(7)
「32ビートが過剰な印象を与えたらしくて」
(1)
「最初はよくわからなかったんです。普通に"オーバー・ザ・トップ"って言うと"トゥー・マッチ"よりは良い意味だけど"やりすぎだ"というふうなことなんです」
(98)
「それは、決して批判めいているんじゃなくて、喜んで言ってるの。学生とか一部の人間の間では『OVER THE TOP』というのが共通用語になっているわけ。昔でいえば、『キャンプ』みたいな言葉だよね」
(7)

※編注:細野晴臣は12インチ・シングルとして翌1985年初頭のリリースを構想していたが実現せず、CD『S・F・X』(1985年2月25日発売)が初出となった。

1984/11/26 『キープル』の原稿を脱稿。

※編注:No.6(12月下旬発売)に掲載。

1984/11/28 『FMステーション』12月3日号(ダイヤモンド社)発売。
インタビュー/細野晴臣の音楽探検

1984/11 ナムコット TV-CM、放送開始。
出演
※編注:音楽は「ノン・スタンダード・ミクスチュアー」。

1984 戸田誠司と会う。代官山/GEO。
「いわゆるリアル・フィッシュから矢口(博康)くんが抜けると、Shi-Shonenになる(笑)。で、全然違う音を作り出している。戸田くんっていう人間がまた面白くって」(78)
「ビーチ・ボーイズを最近になって突然聴き出したりね。それからさらに辿って行って、ヴァン・ダイク・パークスを掘り当てたというね。そうすっと、また僕の過去につながっていく」
(78)
「とまどいながら接したんです(笑)。でもすごく面白かったですね。そういう人が集まってくるっていうのは因縁があるなと思いましたね」
(78)

戸田誠司の証言
「そのころ、僕はビーチ・ボーイズが面白くてね。聴いたことなかったんだ、ビーチ・ボーイズ。それで細野さんに話したら、『それはビーチ・ボーイズが好きなんじゃなくて、ブライアン・ウィルソンが好きなだけだよ』って指摘されたりして」
(99)

1984/12 映画『パラダイスビュー』サウンドトラックのレコーディング。ソニー六本木スタジオ。
「音楽が僕にまかされたのは、これを作った高嶺剛監督も沖縄を通してパラダイスを見ようとしていて、けっして民俗的なことを主体にしているわけではなくて、沖縄そのものでなくていいということだったんでしょう」(1)
「高 嶺さんの代弁しちゃうと、あれは別に舞台が沖縄じゃなくてもよくて、世界中のどこでもない国にしたかったらしいんですよね。で、映画作る人っていうのは社 会的なことも入ってくるんだけど、日本で言えば沖縄がそういう制約がより少ないから選んだらしいんです。だから意味はどうでもよくて、その感触がヘンテコ リンなものだったら、きっと監督は満足すると思うんですよね」(78)
「ホントによく全くわからない映画でね(笑)。僕はラッシュ観た時字幕がなかったんで全然わからなかった」
(78)
「不思議な映画でね、やっぱりあれは監督の高嶺さんにきかないとわかんないと思いますね」(78)
「映画がね、音楽によって救われるような気がしたんで、より音楽的なものにしようと思ったんです」(78)
「すごく楽に作ったんです。映画としてあまり音楽がいっぱい出てくるのは好きじゃないし」(80)
「映像の人っておまかせにしてくれるから、こっちは楽しいんだよ」(65)
「実際にはラッシュを見ながらやったんですけどね。特に変わったところはないです。いつもと同じで設計して作ったんじゃなく、即興的音楽です」(80)
「沖縄をとおして、バリ島のガムランや東南アジアの風景が見えてきたりしたんで、沖縄の民俗楽器はあまり使わないでいこうと思ったんです」(1)
「沖縄の映画なのに、音が全然沖縄っぽくない。癖なんだろうね。沖縄っぽく作ってくれって言われたらそうしたかもしれないけど」(65)
「沖縄民謡なんかも出てきますが、沖縄音楽に金属はないんですよね。弦の音と木の音、そういういものをナチュラ ルにやろうかなと思ってたんだけど、自分なりに鉄の音を入れちゃったんです。民謡なんかもずいぶん違う感じになってしまう。ハイテックなものが随所に出て くるでしょ。民謡ということで救われてはいますけど…」(80)
「どうせなら洋画に近いものっていう考えがあったんです。音的にね。だからわざと泥臭くする必要はない、カッコよく行っちゃえってね」(80)
「土臭いものよりもっと洗練されたものの方がいいんじゃないかと思って」(78)
「そう見てほしいっていうのがかえって強くてね…」(80)
「気持ちよく作りましたよ。すごく刺激になって、くすぶってたエキゾチック・サウンドにまた火がついたりして」
(77)
「タイトルが不思議な意味合いを持ってきた気もして」(77)

1984/12 『S・F・X』プロモーション映像が一部映画館にて上映開始。
「プロモーション用の予告映画」(21)
「映画館用の予告編作ったんです」
(3)
「『ゴースト・バスターズ』などの上映館で流す」
(21)

牧村憲一の証言
「SF映画上映館での、細野主演による特撮映像の集中スポット。これは予想以上に効果があった。」
(76)

1984/12/05 21:00 FM東京『ミュージック・タイム』放送。
細野晴臣 VS ノンスタンダード part1
DJ:田中美登里

1984/12/06 『GORO』1月1日号(小学館)発売。
インタビュー/"今"のスピード感は異常だね。このあたりが、文明のピークかもしれないヨ!

1984/12/09 22:00 FM東京『ザ・ミュージック』放送。出演。
DJ:難波弘之

1984/12/10 『スコラ』1月1日号(講談社)発売。
インタビュー/飽食の時代を彷徨いながら

1984/12/10 『平凡パンチ』12月17日号(マガジンハウス)発売。
インタビュー/A MYSTERIOUS ASTRONOMER

1984/12/12 11:00 FM東京『コーヒータイム』放送。
DJ:マーシャ・クラッカワー

1984/12/12 21:00 FM東京『ミュージック・タイム』放送。
細野晴臣 VS ノンスタンダード part2
DJ:田中美登里

1984/12/13 11:00 FM東京『コーヒータイム』放送。
DJ:マーシャ・クラッカワー

1984/12/14 11:00 FM東京『コーヒータイム』放送。
DJ:マーシャ・クラッカワー

1984/12/16 『S・F・X』発売。
produce, compose, arrangement, mix
 ボディー・スナッチャーズ:vocals, prophet-5, DX-7, emulator, KORG SD-1000, linn drum, MC-4
 アンドロジーナ:words, vocal, kurzweil, DX-7, linn drum, MC-4
 SFX:KORG SDD-1000, prophet-5
, linn drum, MC-4
 ストレンジ・ラヴ:words, vocals, prophet-5, kurzweil, DX-7, linn drum, TR-909, MC-4
 第3の選択:KORG SDD-1000, linn drum, TR-909, MC-4
 ダークサイド・オブ・ザ・スター:piano, prophet-5
「僕は先にタイトル決めちゃって、それで世界を作ってく」(5)
「まずタイトルから考えるんですけど、いつもその時たまたま思いつくことがタイトルになるんです」(83)
「音楽は、映画とかと同じようにエンターテイメントだと思うんです。そういうこと考えてたら次のアルバム・タイトルが出てきちゃった」(5)
「SFXというのは御存知のように映画で使われるスペシャル・エフェクツのことです。」
(5)
「YMOのころから、SF映画は新たな局面を迎えて盛り上がっていたわけですよ。『未知との遭遇』以来、『スターウォーズ』とか」(1)
「その前は映画がダメになってて、ハリウッドはおしまいだっていう。完全に世代が交替しちゃったでしょ」
(3)
「ニュー・シネマで過渡期を通ってきて、ルーカスの世代が面白い映画を作れるようになってきて」
(3)
「そういうスピルバーグとか、ルーカスの流れがあって、インスピレーションを受けたんですけれども、かたや昔からある、古典的なSFの映画のことも頭にあった」
(1)
「昔からSFは好きだった。子供の頃から。『地底探検』とか『タイム マシン』。そういうのをヤケに覚えていて」(21)
「単純に"SFX"という字が好きでね」
(5)
「映画のSFX(特撮)の技術に」(5)
「僕がすごく魅かれてるってこともあって」
(5)
「SFXを使った映画がかなり好きで、ちょうどこのLPを作ろうと思い立った頃は、SFX映画のことで頭が一杯になっていたんですよね。音楽よりも、映画の方が遥かに面白かったからね(笑)」
(83)
「とくにSF映画は、『こんなの見たこともない』っていう映像を見せてくれるでしょう」(21)
「スピルバーグの映画とかは『見たこともないもの』を容易に体験させてくれる」
(21)
「高揚感がありますね。『ゴースト・バスターズ』でマシュマロ・マンって大男が出てくる。それを見ていると、わけもなく高揚してくるんです、本当に。この 感覚は、昔、夢中になって読んだ杉浦茂のマンガなんかに共通するものがある。手塚治虫にもそういうところがあるね」
(21)
「やっぱりアメリカ映画の特殊撮影っていうのは見物ですね」
(3)
「これは幻想文学でも、絵画でもそうなんでしょうけど、幻想的なものほどディテールがしっかりしてないと幻想を作れないんだと思うんですよ。それは自分達 が生きてる世界とかマクロの世界まで現実を伸ばしていくとね、細かいディテールの積み重ねでしょ。そういう自然の本質に人間が根ざしているから、そういう 方向に行くんじゃないかなあと思うんです」
(3)
「アメリカのそういう特殊技術に携わっている人たちのヤル気だとか、面白がり方ってのが音楽界以上に燃えてるところがある」
(9)
「例えばアメイジング・キッズと呼ばれるSF映画作ってる人達のね、面白いことを真剣に遊んで行こうっていうとこですね」(3)
「そういうところが僕は一番好きなんでネ」
(9)
「SFXの記事を読みあさったものです。」(5)
「しかし、そのうち、音楽でも同様のことができると確信するようになりました。」
(5)
「音楽がだれちゃってるような気がしてたから、音楽もそれに負けてらんないっていう」(3)
「自分がSFX映画を見た時のワクワクした気持ちとか楽しさを、音楽で表現してみたかったんです」
(83)
「音楽っていうのは『こんなの聞いたこともない』っていう音を提供しづらい。そんな音楽は、ないんですから。そういう意味で、音楽やってると煮詰まってくる部分はありますよ」(21)
「一時はね、映画の魅力っていうのはすごく大きいので、音楽がつまんなく思えたんですけど、比べちゃあ、音楽がかわいそうだしね(笑)。やっぱり違うメディアですから音楽なりの面白さを同じスピリットで。ミュージシャンも共通のもの持ってるし」(3)
「タイトルにSFXと付けたのも実はどんなにSFXが好きであろうとも、映画のタイトルに"SFX"という言葉を持ってくることが、ひねくれた人は別として、なかなかありえないだろうということで……」(9)
「映画で『SFX』ってのは、作りにくいと思うんですよね(笑)。やっぱり裏方だから。より音楽的になるような言葉なんですよね、SFXってのは」(93)
「S-F-X(特撮)とは、知らない世界を見せてくれたり、体験させてくれるための手法です。」(96)
「普通じゃ見えないもの、体験できないものを見せてくれる方法だよね」(67)
「音楽においても、私は、どこか知らないところに連れていってくれるような作品にこそ魅せられてきました。そして、自分でも、知らない世界に入ることを願って音楽を作ってきたのです。」(96)
「その意味では、レコードそのものがSFXの産物なの。レコーディング技術っていうのは、音楽を固定するためのSFXだし、音がどんどん良くなるっていうのも、まさにSFXの進歩のおかげなんだよ」(67)
「テクノ・ポップってものが、そもそもはSFXだと思うんですよ」(83)
「テクノロジーと深くかかわっているしね」(83)
「機械をいっぱい使って、遊びながら作ってくという、そこらへんがもうすでに、特殊効果なんですけど」(32)
「SFXって意味では、今までの音楽の中で刺激度が一番強かったのがテクノ・ポップだったんです。テクノ・ポップと敢えて言ってしまいますけどね。そこから生まれてきた、音づくりやミキシングも含めたトータルな音楽が」(83)
「音楽性うんぬんだけじゃなくてね」(83)
「もう語れる時代だと」(83)
「コンピュータ使ったりね、えー、それから音質も、かなりその、どんどんどんどん、刺激的にエスカレートしてて、まあぼく たちだけじゃなくて」(32)
「世界的にね、そういう、音が、その、音自体の、刺激的なね追求がなされてると思うんです。そういうのをひっくるめてそのー、なんか、 特殊効果みたいな(笑)、ことなんだと思うの」(31)
「だから既にやっていたことではあるわけだけど」(83)
「そういうレコーディング・テクニックを、さらにエスカレートさせる」(83)
「もう一度面白くしたいなという気持ちがあった」(83)
「音楽的手法はもちろんつながっています」(1)
「テクノ幻想の最後の時期。アナログだからテクノを夢見れる。テクノだけの時にできなかったことが、よりできるようになった。あのジャケットもアナログだしね」
(65)
「ジャケットが気に入ってるから、店頭に並ぶといいだろうなあって思って」
(93)
「レコーディングもデジタルとアナログの過渡期だったし」
(65)
「『フィルハーモニー』から『SFX』で、自分の音楽の制作状況が変わってきたんだよ。世の中がデジタルに移行する、発端の時期」
(82)
「デジタルという新しいことが怒涛のようにやってきた時代だったからね、みんなそれに追われていた」(82)
「新しい機械、一番可能性のある機械というのを目の前に提示されれば、僕はどうしても使ってみたくなる。デジタル・レコーディングっていうのも、そういうことなんです」(83)
「僕も実際、デジタル嫌いだって思う時があるんですね。ところがあるもんですから(笑)、やっぱり使いたくなる」(3)
「ちょうど、ソニーのPCM-3324が出始めたとき」
(82)
「"シャキーン"とした音で悪くはなかったね、3Mに比べたら全然よくなってたから『これは迷うな』と。だから最初、両建てでやってたの。アナログ録音とデジタル録音と。まだ、どっちかぼくは選べなかった」
(82)
「悩んだんですけどね」
(83)
「PCM-3324は、やっぱり便利だし。結局『SFX』はそれでやることに決まっていったね」(82)
「まず作り方としては、1曲の構成以前にリズムを決めちゃうんです。コンピュータで打ち込みをすると何分何秒とか、曲の長さが出てくるんですよ。それを小節数で割って、後で構成する。ほとんどコラージュみたいです」(9)
「リズム・パターンは大事といえば一番大事ですね。リズムだけでもイイなと思うくらいで(笑)」(9)
「けれど、最初に入れたリズムをそのまま使うということはないですね。もう一度構成に合わせてやり直しますから」(9)
「いろんなものを乗せながら」(93)
「曲とフィード・バックしながらできてくってカンジです」(9)
「レコーディング、すごく難しくて。デジタル・レコーディング、デジタル・ミックスだったんだけど」(5)
「デジタルっていうテクニックはすごい好きだし、まだ答えが出ない状態ですよね」(3)
「デジタル・レコーディングをすると、聞こえない音を使ってるわけだから、イコライジングしても全然変わらないのね、音が。アウト・オブ・コントロールで、まだまだ開発されてないと思った」
(5)
「まだ100%じゃない」(83)
「謎の部分が多いんですよ。対応するモニター・システムがまだ確立されてないし」(5)
「それはわかっているんですが、やはり使ってみたいという(笑)」(83)
「レコーディング中にも、デジタルからアナログに変換してみて聴き比べをやったんですが、『アンドロジーナ』のような曲はアナログの方がいい。そこを敢えて全部デジタルでやってみたんですが……」(83)
「『ストレンジ・ラヴ』は、細かいブレイクが、いっぱいある曲で、そこがデジタルだと無音なわけ。ヒスノイズがまったくない世界。そのとき『無音が大事な んだ!』と思ったね。これはデジタルでしかできない、と思ったのがきっかけで、その後、ぼくはデジタルに没頭していったね」(82)
「何 しろシャーッていうテープのヒスノイズがないだけでも割と好きで。音質的に言えば、あまりイコライザーいじって不自然に加工したりすると、本当に変な音に なっちゃう。だから、録った音そのままにしておく方がいいと分ってきた。でもそれは、僕にとってすごく扱いにくいことだけど」
(5)
「僕は早い仕事はできないので、レコーディング前半2週間位はボーッとしてまして」(9)
「なにしろ、まってるエンジニアの人もあきれはてているような状態ですから」(93)
「だから実質的には2週間位でレコード作ったことになりますね」(9)
「さあやるぞって思わないと、なかなか出てきませんね。考え始めるといろいろ出てくるけど」(5)
「社会はほとんどしめ切りで成り立っているので、しめ切りがないと何もできてこないみたいですね」(9)
「そのしめ切りというひとつの壁に向ってくスピード感が楽しめましたよ」(9)
「かなり切羽詰っていて、音楽の末期的な状態という想定でレコーディングしていたんです」(1)
「しかし、結果的にみて、やはり時間が足りないということは、おそろしい体験であった、ということです。」
(5)
「このことは私に異常なスピード感をつけました。このスピードのおかげで、YMOはいうにおよばず、MAKING − の音さえ遠くにすっ飛んで行ったのです。」(5)
「ボク自身がすごいスピードで変化してるっていう感じではなくて、何かを作ろうとしたとき、環境との間にスピードを感じるんだ」
(100)
「時間がワーッと経つと時間感覚が伸びるんですよね。昨日のことがすごい遠くのことになっちゃう。だからさっき作った音が2時間後には色あせてきたりね。SFの世界ですね」
(3)
「刺激的なものが作りたかったんです」(9)
「イイ本読んだり、イイ音が聴けたり、それらをひっくるめての刺激です。レコード作れ!って言われることもひとつの刺激ですし、そのスピード感もそう」(9)
「何の刺激もないところでは音楽ってできなくて」(93)
「生理的な刺激をエスカレートさせて、スピード感を増していくっていう方向に向かっているんですよね」
(74)
「一番加速度がついている時期」(3)
「映画の特撮で1秒を作るのに1日かかるように、音楽でも出したい音がわかっていても、それを作るのに時間がかかりすぎて肉体が追いつかないことがある。緻密なものを作ろうとすればするほどスピード感が増すね」
(100)
「一度『PHILHARMONY』のころからアンビエントに全面的に入り込んでいた時期があって、ロックのビートから離れたいというような時期があって、離れていたんですよ」(1)
「同じテンポを聴いていると、快感もあるし、同時にイライラしてくる部分も必ずあるわけです。一時、僕はそういうリピートがダメになっちゃってて」(3)
「殆ど同じリズムが出てこないような曲を作ってたんですよね」
(3)
「ですけど僕は、同じビートの音楽の可能性をね」
(3)
「やってみたいと」
(3)
「微分していく方向に魅かれている」
(6)
「ビートとビートの間の世界を微分していきたいという強い衝動に駆られてね」
(3)
「リズムがどんどん……何て言ったらいいのかな? 内側に細かく分解されていくと、速度が出てくる。フラクタルで微分的な考え方だけれどね」(21)
「加速度的にスピード感がついてきてて、音楽もスピード感が増していると思うんだけど、リズムそのものは限界が あるわけですよね。たとえば一秒間に何拍子打つかっていう場合、そういうスピードは、可視光線と同じように人間には聞きとれる限界があるわけです。その中 でどうやってスピード感を増していくかっていうと、一拍の中のどれだけを細かく微分して、リズムの中のリズムを作っていくかということです」(6)
「リン・ドラムとかリズム・ボックスとか、32ビートまで打ち込めるんですよね」(3)
「要するに16ビートの時代じゃなくなっちゃったんですよね」
(3)
「16ビートじゃ物足りなくて、32ビートで作ったりして。そういうことに没頭していた時期だよ」
(82)
「七〇年代からもう二十年近く、ビートがどんどん細分化されてきましたが、『SFX』では三十二ビートの音楽を作ってみたわけです」
(1)
「32ビートの時代に突入し、微分していく他はないだろうと思ったのです。」(5)
「リズムを微分させたり、ビートを痙攣させたりするのが気持ちいいんです」(74)
「そういう ことしかできないんですよね。そうすると聞く側にも今まで知らなかった新しい感覚の地平が拡がってきてね、それがちょっと面白いなと思ってるんだけど」(6)
「それをレコードでやっている」(21)
「研究しているわけじゃないんだよ、快感にそってやっているだけだから(笑)」(21)
「僕のとっていく方法は、理詰めで考えるんじゃなくて、快感にそってやっている、特に音楽は、そう。音楽やリズムっていうのは、そういうものでしかないと思っているから」
(21)
「一番刺激的なリズムだったんで、そういったリズムからレコーディングしていったんですけど」
(3)
「映画のSFXに匹敵する音楽ということで、サンプリング使って、けいれんするようなある種の非現実的な快感を出していきたいと」
(5)
「これはもう人間のテクニックだと、何年か苦労してやっとできるかできないかっていう領域なんです。できれば名人ってい う世界なんですよね。ところが、そのへんをもう排除しちゃって、機械にやらせることの面白さが確立されているわけだから、今さら名人になろうとすることは 空しいことなんです」(83)
「どんなに上手いドラマーでも出来ないことがテクノでは出来ちゃう」(74)
「リズム作る時にテンポ落として、一拍を2秒くらいにして、16ビートの間を32で埋めていくんです。で、元のテンポに戻すと人間には演奏不可能なビートが刻めたりするんです」(3)
「レコーディングを見ていた人は異様な気分で見ていたらしくて、今度のは揺れていると言うんです ね。何が揺れているのか、とにかく変なレコーディングだったんです(笑)。三十二ビートというのは、ほとんどビートじゃないんですよ。ただ揺れているんで す。三十二以上になると、ただつながって聴こえちゃうだけなんです。ですから、三十二のビートと言っていいかどうかわからないけど、十六ビートの次に三十 二ビートが来て、その後はもうない。末期的な状態なんです。人間の今の感覚が感知できる限界のビートで。もうこれまでだという気持で作ったんですね。この 先どうしようかと思っていたわけですけど」
(1)
「最初、思いつきでやったんです。こんなことやっちゃったなんて、まあ一人で興奮してたんですね(笑)。それで後でレコードきいてみたら、やってる人がもういるんです。ニューヨークの黒人だけですけど」
(3)
「実を言うと、このアルバムをレコーディングしてる時はニューヨークの黒人音楽の動きを知らなかったんです。でも後から気がついたら同じことをやってた」
(74)
「ブレイク・ダンスがはやっていて、その後にヒップホップという言葉が出てきて」(1)
「ニューヨークのヒップ・ホップのレコードを手当たり次第に聴いてみると、音楽はそれほど面白くないんです。音楽そのものは、一時アメリカがつまらなかった頃のソウル・ミュージックをそのまま引き継いだりしているんですけど、微妙な違いが出ていて…
…」(83)
「多分音楽的なことよりも、もっと意識的なものが変わってきているのじゃないかと」(83)
「そのへんが結構重要なことなんだけど、一番見えにくいところでね。というのは、実は黒人たちは、R&Bの人間臭い部分がきらいなんじゃないか」(83)
「それで彼ら自身、テクノというコンセプトにかなり憧れてきていて」(83)
「『ファイアー・クラッカー』をアメリカで出した時に、一番受けたのはソウル・チャートでしたからね。黒人たちがまず聴いてくれたっていう…。それで、彼ら自身テクノっていう言葉を使ってくれてるんですよ。自分たちのことを"テクノ・フリークス"といったり」(83)
「おどろくことは"テクノ・フリークス"という曲が入っていることです(編注:Junie Morrison『Evacuate Your Seats』)。さて、そこで私は、ひとしお感慨に打たれたわけです。」(5)
「世界的な現象として、テクノが注目されているような気がするんだけど、こういう現象をシンクロニシティーっていうのかな」(101)
「近い感覚」(5)
「本家本元の肉体派のブラック・ミュージシャンが、コンピュータを使ってファンク・ビートを作りだしてる。これには、本当に驚いて」(101)
「そのへんがすごく興奮するところ」(83)
「わりとそれでフィードバックされてるんですね」(96)
「いわゆるテクノ、そしてダブ、スクラッチなどを含めた意味の"テクノ"」
(96)
「スクラッチ〜ヒップ・ホップとテクノの結びつきこそがもっとも刺激的で」(5)
「僕自身も、やってたことが、ちょうどニューヨークの連中とオーバーラップしてきて」(96)
「気持ちに加速度がついているっていう点では、ニューヨークだろうと、ロンドンだろうと、東京だろうとそう大差はないと」(74)
「かつてロンドンが面白かった時、同時にYMOが結成され、テクノ・フィードバック・グループが人知れずできあがったのです。これはつまり影響ということです。YMOが散開したころ、ロンドンの動きも停止し、ニューヨークに移ったのでした。」(5)
「いい意味での刺激のし合いっこというのかな…。それはニューヨークにいても、ロンドンにいても、国籍には関係ない。トレヴァー・ホーンのある部分がニューヨークのノン・ストップ・ミックスの中に入っていたり、ニューヨークのヒップ・ホップがイギリスに流れていたり、つまり"参加"ですよね」(83)
「極端に言っちゃえば、音質だけで曲ができてる(笑)。これがリズムと同様エスカレートしてて、それを競い合ってる状態なんですよね。音質が共通の言葉になってると思うんです」(3)
「トータルにまとめるのはミキシングですね。これが大事なんですよ。例えばアメリカなんかスクラッチ・アーティストがエンジニアになって音に接してて」(3)
「一番刺激的なのはスタジオでミックスする作業だと思うんです」(3)
「ミックスで大事なのは音だと思うんだ」(50)
「東京だけで見てると解んないけど視点を世界に広げれば音で参加してるんだよね、皆んな」
(50)
「東京はそういうとこに参加してないんで、共通の言語を持てないんですね。それは絶対参加しないと、せっかくYMO で一時参加した意味がなくなっちゃうんでね。で、自分のレコードもまだ参加してないと思うんですよね。ところが世界的に見ると、みんな共通の言葉を必要と してるんですよね。12インチ・シングルっていうのも一つの参加する言葉だしね。音楽の面白さというより音のユニークさで言葉を交わしてる」(3)
「音の生理的な響きで語り合う」
(50)
「それが僕には 面白く思えてね」(3)
「そういう意味では、すごく面白いんだけど、同時に絶望感が入り混じっているような複雑な気持ち」
(74)
「このアルバムは一応ソロだけど」(9)
「ソロ・アルバムというコンセプトが好きじゃないんですよね。それで"フレンズ・オブ・アース"なんて名前をつけてグループ的なニュアンスを出してみたりして…」(9)
「特に意識したんじゃないけど、グループ名をつけちゃったのね」(5)
「ソロというにはあまりにもノン・スタンダードなのでFRIENDS OF EARTHというグループに助けてもらったのです。」(5)
「『地球の友』」(5)
「僕は、地球のことが気になってしょうがなくて、そういうキーワードが『S-F-X』と同時に出てきちゃったの」(5)
「一時第一次宗教ブームみたいなのがあって、宇宙意識てことばがもてはやされて、それはでも地球を忘れたことばだったわけ」(20)
「その宇宙に行く前に地球意識にならないと宇宙に飛び出せない」
(20)
「『SFX』 を作ったときは、横尾さんとインドを旅して以来ずっとつきまとわれている円盤とか超常現象のことが頭にあったんです。インドに行ったころは仏教に興味が あったし、出家うんぬんの話で釈迦に興味を持ったことなどが入口になって、その後、アニミズムや原始宗教の方向に好奇心が広がっていったわけです。それに 神道のような謎の世界に足を踏み入れたりして。この頃は『観光』という本の仕事を通して、日本各地を歩き回って、いろんなインスピレーションを得ていた時 期でね。気がつくと、その旅で感じていたこととシンクロするような本が、そのころ情報として紹介されはじめたんです。フラクタル理論のように自然を解析す る科学とか、ラブロックの『ガイア仮説』とか、ライアル・ワトソンの一連の本とか、いわゆるニュー・エイジ・サイエンスのもとになってるような世界観が出 てきた。そういうことも『SFX』のけっこう大きな要素になっているんです」
(1)
「ただ、それをメッセージとして言う以前に、音楽的な面白さを訴えかけていきたいんです。僕自身が精神的に荒廃しないためにもね」
(83)
「楽器なんです。"地球の友"は」(9)
「僕のバンドですけど」(93)
「楽器、機械ばっかり」(9)
「ドラム・マシンとリズム・ボックスと、それからサンプラーですね」(9)
「カーツウェル使ったんだけど、生ピアノとかウッドベースとか、ほとんど本物としかとれない音してる」(5)
「結構使っています」(83)
「木管の音は、DX-7だったな」(82)
「サンプリングはSDDでやりました」(9)
「本当にスクラッチをやって、それをサンプリングして使ってるんです。コンピューターにコントロールさせてね」(83)
「イミュレータは過去には随分使ってたんですけど」(9)
「あんまり…もっと即物的なやり方を見つけたんですね」(9)
「ヒップホップの影響で『そんな高い機材はいらないんだ、もっと即物的にやったほうがいいんだ』と知るわけ」
(82)
「ミュージシャンを刺激するのは音楽だけじゃなくて楽器ですね。こんな使い方もできるんだよって提示されると使いたくなるわけです」(3)
アート・オブ・ノイズみたいにアート志向の高い機材使う一方で、ニューヨークの黒人達がコルグのサンプラー使ってた」(5)
「と にかく、まず最初に、インパクトがあったのは、当時の、えーブレイク・ビーツから、ヒップホップに至る、プロセスの中で、えー、サンプリングを、使い出し たという。それの筆頭がアフリカ・バンバータ、だった、と思うんです」(91)
「『フランティック・シチュエーション』という曲を偶然、手に入れたんだけど、とても興奮したね。ちょうどそのころ、何か新しいことが起こってるなという気はしていたんだけど、あのレコードを聴いて、それを実感できた」(101)
「この12 inchシングルこそ、私がかなりの刺激的洗礼を受けたものでした。」
(5)
「大きなインスピレーションを与えられたワケだ」(101)
「サンプリングをYMOがやっていた以上にポップに使っているのを聴いて、異常な刺激を受けたんです」
(1)
「彼らの音楽をすごく聴いて、かなり、触発されて、ぼくはサンプラーの安いも のを、探し求めたんです。当時は高かったんで、そういう、手軽な使い方ができなかった。ところが、バンバータあたりが、非常に軽やかに使ってる」
(91)
「同じ手法を使って遊んでる。これはきっと安い楽器を使っているにちがいないと」(1)
「そうい うものがあるに違いないと思って探したら、あったんですね」
(91)
「楽器店に行くと、実際、安い楽器を売ってるわけです」
(1)
「彼らはロー・テックなスクラッチの代りに、サンプラーを手軽に使用しています。しかもそれは日本製なのです」
(5)
「日本製の機材を使ってコントロールしてるようなのを"テクノ・スクラッチ"と言ったりね」(91)
「コルグ のSDD1000で、その場で即興的にボタンを押して、サンプリングするアフリカ・バンバータの使い方とか」(82)
「外部記憶はできないけど、即興性がある。その場限りのいさぎよさがあるわけです」(1)
「喜んで使えるオモチャですね、あれは」
(102)
「私は狂喜したと同時に、一人赤面しました。」(5)
「何で日本人がそれ使ってないんだって思ったの。テクノの本家本元が」(5)
「かつて日本の最先端と言われたYMOはおろか、多くの新鋭音楽家の誰もがテクノを甘く見ていた訳です」(5)
「何 か実りがあるなあっていう、嬉しい気持になれるんですよ。日本では、ここで終わっちゃってあと何にもないよということが多い中で、そういうことを体験し た。エネルギー伝播の法則がちゃんと効いているようなね。この当時、エネルギーを失ったと思っていた音楽がまだ生きてるっていう実感があって、その刺激は 『SFX』に全部入ってますけど」(1)
「ヒップホップとか、サンプリングのやり方、音楽自体を『SFX』としてとらえていた」
(1)
「黒人達はクラフトワークもYMOも好きでした」
(5)
「クラフトワークとYMOは、彼らの引用の大もとなんです。また生かされているという感動があったんですね」(1)
「サンプリングを俗っぽく使い、クラフトワークの曲をそのまま使ったりしていて」
(5)
「それまでの重厚な、YMOの音楽の作り方は、 もう時代遅れだと思ったね。TR-808もYMOで使い倒したと思ってたんだけど、バンバータが新鮮に使ってた」(82)
「彼らはそれをさらにしたたかに発展させて、YMOも思いつかなかったような使い方をしていた」(1)
「キッ ク・ドラムが和太鼓みたいなボーン、ボーンという音で、発売されたころはニュー・ウェイヴのタイトな音が人気あったから、よほどセンスの悪い人が作ったん だろうと思われていたんです。ところが向こうの連中は、それもうまく使って、おもしろさを教えてくれる。向こうの人にとっては、それが異国的な音なのかも しれませんね」
(1)
「その影響は強かったね」
(82)
「それを聴いたときに、僕はまた刺激されて使いだした。自分でもまさか使うとは思っていなかったんです。もう終わったと思っていたから」(1)
「変わり目だったん だよ、機材のチープ化っていうか」
(82)
「日本のプロは、フェアライトとかシンクラヴィアとか、高級志向なんです。サンプリングの機械なんか、何百万円もする。そんなものでは簡単に遊べないですね」(1)
「AMSやイミュレーターやフェアライトのような高級な手続きではない、もっとシンプルなやり方でなくては面白くないとも思いました。」
(5)
「その面白さをまた教えてもらったようなもんですよね」(1)
「一見、聞くとみんな同じだけど、そこが面白いって思っちゃうと、もう止まらない。僕はそう。俗っぽさがたまらなく好きで」
(5)
「チープさが好きで、魅力的でね」(5)
「メチャクチャ好きになっちゃった」
(83)
「ミュー ジシャンと機械がキャッチ・ボールしてるっていうか、お互いに歩みよって、刺激し合っているっていう感じだよね。機械が人間に"もっと使ってくれ、もっと 刺激的なものが作れるぜ"って語りかけていて、人間がそれに対応して機械からいろんな可能性を引っぱり出しているっていう状態だよね」(74)
「自分でマニピュレートするので、僕の指紋が付いてますよ。でもね、人間は必要なんです。人間が集まることは演奏の合体というよりも、コンセプトの合体になるわけですからね。より刺激がありますよ」(9)
「やっぱり僕はバンドが好きなんです」(5)
「ひとりだと解散できないんで辛いですよ(笑)」(9)
「ピリオドがなくなっちゃうから」
(5)
「人間っていう存在が機械に負けないものであってほしいし…。 実際、テクノっていう音楽は、負けてないんです。かえって機械を吸収してしまって、その上に面白さを見つけていくというような、エネルギッシュなものなん ですよね」(83)
「機械が楽しませてくれるんだから、こっちも楽しんじゃうという間柄ですから、おもちゃなんですよ。そういう意味では、男の子の世界ですね」(93)
「すごく健気な音楽だと思うし、とても人間的なんです。『遊んじゃおう』っていうパワーですから…」(83)
「そこいらへんが一番大事なことだと」(83)
「そういう意気込みというか、気概が僕に音楽を作らせているわけですから、それを感じとってもらえればベストですよね」(83)
「演奏してる姿が見えにくいのは確かかもしれない」(5)
「実際にベース弾いてるわけじゃないから、ミュージシャンとしてのアイデンティティーは出してない。でも、トータルな意味では、パフォーマーとしてそういうことを意識してるね。見えにくい分、そこで声が大事になってくるんじゃないかって」(5)
「ソロ・アルバムを作ってくれといわれると、どうしても歌わなきゃと思う(笑)。ソロ・アルバ ムって七〇年代的でしょう、響きが(笑)。ソロ・アルバムっていわれると、もうそういう感覚になっちゃうんです。歌わなくちゃいけないと。みんなもいうわ けですよ。歌ってほしいとか。ポップスの中でもやり残したことがあるでしょうといわれたり、おだてられたりして、つい歌っちゃう」(1)
「自分で歌っちゃうと自分の世界が濃くなってくる。でも、そういうプライベートな部分が入るのって、つまんないなぁって思って(9)
「歌詞は、曲ができる前は重要だけど、できた後は分離できないんです。イメージが歌詞になって固定されるのでね」(9)
「哲学にばかりたよってると、人間ばなれしちゃうから少しエロチックにと思ったんだ。SFXにもフェティッシュな乾いたエロチシズムがあるよね」(100)
「歌われていることっていうのは、二の次なんです」(83)
「まず日本だけでと考えてた」(5)
「聴き手として意識するのも、まず日本人だしね」(5)
「作ってみてから、どう受けとられるか実は心配になっちゃったんです」(96)
「自分で評価ができない」(50)
「僕はいつも音楽作る=レコードなんですよね。だからレコードになって初めて安心するんです。マスタリングしてもテープだと安心できない(笑)」
(3)
「ミックスが終わったとたん、やった! 出来た、嬉しい!(笑)と飛び上がって喜ぶ。で次にカッティングを終えた頃にはもうつまらなくなってる」(50)
「マスター・テープができてカッティングに出してるうちは、まだ直したいところは直せるような気になるから一番イヤな時期なんですが、レコード盤になっちゃうと『あ、もういいや』って(笑)、ことになりますね」(93)
「完 成させたくないっていう否定的な気持ちもあるんですね、僕の中に。つまり未完にしておくと、飽和してないから必ず動くっていう気がするんですよ。特にね、 LPの場合がそうなんです。かつてはLPがミュージシャンの発表のスポット・ライトみたいなもんだったでしょ。僕もずっとLP作ってて、LPとして未解 決っていうか、そういうものを作ってきたんですが」
(3)
「LPじゃあ全然間に合わないんですね」(3)
「LPが嫌いで、12吋盤のスピード、ダイナミズム、これがいい」(50)
「即物性っていうのに興味があるんです」
(3)
「新鮮さが大事だと思うんですよ。生物。お寿司みたいな音楽がいいな、一時間経つと干からびちゃって食べられないという(笑)。その代わり出た時は旨いっていう」(3)
「これは作る側の意見じゃなくて、僕は聴く立場としてLPが要らないんですね。LPが何か一つの世界を表すより濃密 な音が一曲の中にあれば、そっちの方が大事なんですね。それを分散させて薄めてLPにするのがすごいいやで、例えば教授のように一年何ヶ月かかけてLP作 るなら話しは別ですけど、僕や幸宏は6曲が精一杯だったんです。とにかく今日やったことは今日出しちゃいたいっていう気持ちなんです」(3)
「短期間で作ったので、1曲1曲がつながっているんですよね。出来上がってみれば、みんな違う曲なんですけど…」(83)
「やっぱり1曲1曲、うーん、その世界を持たせてあげないとね、せっかく、曲が集まってるんだし」(8)
「なるべく、1曲を長くして、曲を減らそうかなと思って」(8)
「数が少なければ少ないほど1曲1曲、違う世界、出せるし、えー聴いてもらうとわかるんですけど、かなり、違うと思うんですね」(8)
「タイトルなんかが、1曲1曲そのー映画の、イメージを借りてるんですけど」(8)
「曲として『ストレンジ・ラヴ』『アンドロジーナ』は」(82)
「好き」(82)
全く何も、関係のない、自分の中のロマンチシズム」(91)
愛着があります」(91)
「で、こういう音楽は僕自身、ヘッドフォンで聴いてるんです」(96)
「なるべく大きな音できいてほしいと思うんですけどね」
(3)
「居住の問題が出てきてね、大きい音できける状態が整備されないと意味がないんですね。大きな音出さないと出ない音もあるし」(3)
「ダンスものはスタジオやディスコ以外では大きな音で聴くことが難しい。ですから、ヘッドホーンで頭の中をDISCOにします。これを、私なりにヘッド・ディスコ或いはアーティフィシャル・ディスコとでも言っておきましょう。」(5)
「空気を揺らすクラシックなんかと違うんで、やっぱり大きい音で聴いて欲しいですね」(96)
「片やモナド設けたのは、本当に小さな音でも心を満たしてくれるような精神的な刺激の方と、分けたかったからなんですね。それがはっきり分かれてきたのは、本当にこのレコーディングしてからですね」(3)

ボディー・スナッチャーズ
「元になったのが、SF映画なんです。えー、肉体を乗っ取るというボディ・スナッチャーもので」
(91)
「宇宙人の侵略の話で、インベーダーですね。人間に住みついて人間を占拠していくという」(1)
「宇宙から来たね、生命体が人間の、体を奪っちゃって、人間になりすましてっていうような、そういう、話なんですけど(笑)」
(8)
ジャック・フィニイの小説『盗まれた街』を原作に、ドン・シーゲルが監督した」(103)
ボディ・スナッチャー/恐怖の街』という、オリジナルのモノクロ映画があったんですけれども、これにはリメイク版の映画の方もありまして、そちらのタイトルはSF/ボディ・スナッチャー』かな。その映画が好きでね」(1)
「1作目が’'50年代、でぼくが気に入ったのが2作目の、ドナルド・サザーランドの、主演したものです」(91)
「最初のリメイクで、監督はフィリップ・カウフマン。」(103)
「初めて人面犬というものが、出てくる映画でね(笑)」(1)
「音楽としてはヒップホップの過激なやつですね」
(1)
「アフリカ・バンバータあたりのスクラッチの入れ方、あれが音楽のSFXだよね。これを突き詰めると、すぐドラムン・ベースに行ったかもしれないけれど。
『32ビートだ!』って言ってるやつは他にいなかったね。孤独だった」(65)
「声はね、一番、やっぱり大事なもんだと思うんですけどね」(8)
「あったほうがやっぱり、いいですよね(笑)」(8)
「それでもまあ、機械で、この曲はかなり、コントロールしてるんです。えーと、こう痙攣するようにね(笑)、『ボボボボ』とかいう(笑)。あそこらへんはやっぱりその、んー一番、好きな、感じなんです、自分で。あれは機械じゃないとできないんです」(8)
「いろんな人が入ってます。えーと、イギリス人だったりね、アメリカ人だったり(笑)」(8)
「"THING"と言ってるのは、『遊星からの物体X』、あれは、『THE THING』という、原タイトルだったんですが、このころぼくはそういう、ちょっと恐怖ものの、SFを好んで観てました。えーそれの全盛期だったんです ね。ジョン・カーペンター監督の、その『遊星からの物体X』は、ほんと恐ろしかった、憶えがあります」(91)

アンドロジーナ
「曲らしい曲ですね」
(83)
「ルナティックっていう言葉好きなんだね、僕。インセインとは違うから。ルナティックっていうのは、狂気というよりもっと直感的な世界」
(67)
「もちろん太陽のほうが、より恩恵をこうむってるわけだけど、ものをクリエイトする力は月のほうが強いと思うんだ」(67)
「月って、子供の頃から不思議なものだったよ。見える神秘。だって、36万キロも離れてるのに見えるんだから」(67)
「ロマンティックな存在だね」(66)

SFX
「最初に作ったのが『S-F-X』だったんですが、これはリズム・マシンだけで作ったんです。それだけでやめちゃおうかと思ってたんですけど、やっぱりどんどん音を入れて行っちゃう
…(笑)」(83)
「こ のころ、その、映画の手法の中で、SFXという手法が、かなり洗練されてきて脚光を浴びてきたので、ぼくはそれーに敬意を払ってSFXと、音楽的なその、 効果ですよね。それが、例えばアフリカ・バンバータの、サンプリングの使い方とか、そういうような、ところで、重ねていったわけです。でー、それを、ま あ、トータルに、表した」(91)
「ホントにコラージュで、SF映画がすごく好きな人ならわかるだろうっていうような、いろいろな秘密が隠されている んです。ただ、スピルバーグが嫌いな人は、わからないでしょうけどね(笑)。僕は『未知との遭遇』にはかなりショックを受けたので、その要素がかなり多い んですが
…」(83)
「まず、サイレンはね、あれは『エイリアン』で」(91)
「最初の作品。リドリー・スコットですね」(91)
「最後に、逃げる、宇宙船の中の、シーンだったんですが、えーそのあとに、えーっと、『未知との遭遇』で、えー、空 に太陽が、来たっていうようなこととか、えー、トリュフォーが、『うらやましいよ』って言うセリフとかね、あと『2001年』の、感じとか、まあごっちゃ 混ぜにいっぱい入ってるわけです。で『ET』の、感じも入ってますし」(91)
「トリュフォーの映画はあまり見てないんですけれど」(83)
「ちょうどトリュフォーが亡くなった時期なんですね」(1)
「レコーディングに入る2, 3週間前に他界されてしまったでしょ」
(83)
「最後に彼が出演していた作品が『未知との遭遇』だったんですよ。彼の『華氏451』という映画が学生のころ好きだったし」(1)
中学生の頃にその原作を読んで、かなり好きだったんですよ(83)
「スピルバーグの作品や、それから、トリュフォーの『華氏451』とか、そういった作品へのオマージュでもあるんです」
(91)
「SFXへのオマージュを捧げたわけです」
(1)
「もう一つこの曲で、言えるのは、あのベースに、西村くん。フェンス・オブ・ディフェンスっていうユニットをその後作った人なんですが」
(91)
「あるレコーディングで知り合って、すごく才能があるなと思って」 (7)
「彼ももともとベーシストで」
(7)
「ベースを弾くっていうんで、スタジオに呼んで、この曲の後ろでベース弾いてもらったんです。なんとそれがあ のー、実は、ハービー・ハンコックで、ビル・ラズウェルがベース弾いてる感じにそっくり、だったんですね」(91)
「自分では弾かなかったので…面倒臭かったから(笑)」(9)

ストレンジ・ラヴ

「ぼくは好みのリズム狭いよ(笑)。何度もやるよ、ぼくは、同じようなリズム」
(65)
「『アイウォイワイアオウ』とかね、これと同じ(笑)。アフリカ大好き。フェラ・クティも大好き。マヌ・ディバンゴとかもね、その頃聴いていたな」(65)
「これは『奇妙な愛』って訳しちゃってもいいんですけど別に、えー、『博士の異常な愛情』っていう映画があったんですよね。スタンリー・キューブリック。その博士の名前が、Dr.ストレンジ・ラヴだったんですけど、そのイメージをちょっと、借りてるんです」
(8)
「映画のタイトルを借りていますけど、内容はあまり関係ないんです」
(1)

第3の選択

「やっぱり『第3の選択』が一番!」(82)
「特にこの曲は、地下鉄で聴くとイイなんて説もあります、ヘッドフォンでね(笑)」
(9)
「部屋ではあまり大きな音は出せないから」(9)
「この曲は、ぼくにとって特殊な曲でしたが、当時これを聴いた、坂本龍一くんが、『サンプラーの鬼』と、言うんですね。彼は多分、高いサンプラーを使ってたんで、そう思ったんでしょうが」
(91)

ダークサイド・オブ・ザ・スター

「地球上の夜にむけての夜想曲」(94)
「社会のスピード或いは消費度が人類始まって以来の加速をつけ」(94)
「このレコードをつくった期間というのも、1ヶ月もない状態で私自信過剰なストレスを体験しています。速度がつくと一点に停止したかに見えるストロボ効果 のように、時間=精神の速度とは相対的に肉体感覚はスローモーションのようでした。映画のコマ撮りは1秒間の画面をつくるのに1日かけたりします。その緻 密な作業に入りこめばこむほど、肉体感覚は速度をおとしていきます。その結果音楽は異常に肉体的なスピード感がつき、この加速度に耐えられなかった人もい るかと思います。この最後の曲はそんな人の為に、そしてまた自分の為に速度調節の役割を果たしてくれそうです。」(94)
「このような曲が必要だったのです。私やスタッフの人々は夜7時から明け方まで毎日仕事をしました。私達は星の暗が りで働いていました。太陽は生命の源で常に恩恵にさらされています。そして星の暗黒面はその太陽のくれたエネルギーを使って様々なものを生み出します。し かも静かに、深く、すばやく、緻密に。」(94)
「これが一番いいって人が多いんですよね(笑)。アルバムの他の曲とは、僕の中でハッキリ独立して存在してるんです。ある意味で裏の音楽と言えるかもしれない」
(93)

寺田康彦の証言
「音的な問題で、デジタルでの完璧な録り方というのは僕も把握していませんでした」(83)
「だから最終的に出来上がったものが、バランス的にあまりよくないんじゃないかという危惧はありました。一方細野さんは」(83)
「S/Nとかにシビアなものがありまして、イメージ的にではなく、音と音の間の空間を出したいと…。その時にS/Nが悪いとまずいということで、デジタルに決めたわけです」(83)
「まず、MC-4にデータを入れていきますよね。データを入れて、曲の長さとかテンポを決めます。それでまずリン・ドラムを鳴らします」(83)
「リンとローランドのTR-909、808です。ほかにイミュレーターをドラムに使うこともありました」(83)
「細野さんはリズムにすごくシビアな人だから、例えばベースなどを弾いて、こちらが『アナログ的で、感じが出ていいな』と思っても、結局打ち込みでやり直したりしていましたね。リズムのことは、すごく気にしています」(83)
「だいたいの構成は決まっていますから、仮コードを入れて、ベース・ライン…そのあとはストリングスを入れて、その合い間にパーカッションを入れたりします。あとは、オブリガードっぽいブラス系の音、ピアノ、木管系の音で色づけしていくという感じですね。そして最後の方でメロディが浮かんできて…」(83)
「(編注:メロディは)多分、後半の方にできるのだと思います」(83)
「新しい楽器をとても使いたかったから、カーツウェルも使いましたし、イミュレーター、DX7、プロフィット5、そのへん一連は全部使ったと思います」(83)
「特にプロフィットは使い切りましたね。木管系の音とかガムランの音とか、ストリングスもすごいし、そのへんの作り方というのは長い間やっているだけあるなあと思います」(83)
「すごくうまいですよ」(83)
「カッティングの日が決まっていたので、ミックス・ダウンの最終日は一昼夜通しで24時間やりましたね」(83)
「曲によって僕がミックスしたり細野さんがやったり、分けていますよね」(83)
「ミックス・ダウンはほとんどふたりでやっている感じです。細野さんが『こういう音を出したい』という時に、どういうエフェクターを使ってどういうセッティングにするかを僕が出してくとか…。 また細野さんが使い方を知っている場合でも、0VUしか振らせちゃいけない音をバーッと振らせちゃうこととかあるわけです。そんな時に、止めたりね。そう いう意味では僕がカバーしてるんですが、リズムのバランスとかでは細野さんのイメージというのがすごくあると思うし、僕はそれを尊重していますから、すべ て任せて」(83)
「(編注:リバーブは)AMSが多かったです。コンテックも使いましたけども…」(83)
「リバーブっていうのは使い慣れですから、普段使っているのが一番なんですね。細野さんはコンテックが一番使いやすいみたいです」(83)

奥村靫正の証言
「細野君は、このアルバムで"SFX"という映画の手法をイメージした音作りを進めていました。ジャ ケットも同じアイデアでいこうと考えて、光学的なアプローチで彼の顔と女性の顔を合成したものです。セル・フィルムのマスク・スクリーンを数十枚ほど作っ て、そこに多重露光で新しい図像を何枚もはめ込んで重層化させていった暗室作業による作品です」(104)
「ドイツの象徴主義をイメージしていました。デジタルなイメージと象徴主義が僕の中で重なり合って、イメージが生まれてくる。そんな感じです」(105)
「この時は網整版も自分のところでかけています」(104)
「結構すごいものができているという自覚はありましたね」(104)
「デジタル以前にデザインした仕事の頂点だろうと思いますが、あの作品が生まれるためにYMOの仕事があったと捉えることも可能でしょうね」(104)

※編注:奥村靫正は『S・F・X』ポスターのデザインにより、1985年にADC賞を受賞した。

1984/12/16 22:00 TBS『すばらしき仲間』放送。
共演:中沢新一、奥村靫正、秋山道男


1984 野中英紀が来訪。フレンズ・オブ・アースの構想を話す。代官山/ミディアム。

「同じようなバンドを作りたがっていたみたいで、ボクのコンセプトを話したらすごく賛同を示してくれて」(7)
「FOEでやる音楽をなんて説明しようかというときに"OTT"と言うことにしたんです」(7)
「『F.O.E』というのは『FRIENDS OF EARTH』の略なんですが、『FOE=敵』になっちゃうんですよ。『フレンズ』が『敵』になるってのには、びっくりしちゃったんだけど」(59)
「"OTT"というのは『OVER THE TOP』の頭文字を集めたもの」(7)
「言い回しが面白いわけで言葉自体は新しくないよね。『It's too much』みたいなものと同じで。だから、わざわざ、"OTT"と言って、コンセプトとして自立させようと思っているの」(7)
「ボクは"テクノ"という言葉を使っていたでしょ? でも、それはテクノにかわる言葉が見つからなかったからというのもあったの。しかも、テクノというと、まだ誤解されているところがあって、なおさら意地に なってテクノと言ってきたんだよね。でも、そんなことはチッポケなことだから、もう"テクノ"という言葉には見切りをつけようと思って」(7)
「ぼくも含めて日本人には名詞が必要だと思うんです。いつまでもテクノじゃ音楽がかわいそうだし」(35)
「すべて"OTT"を必要としているなと思うわけ。飽和状態になっているでしょ?」(7)
「音楽状況の話と同じだけれど、リミッターが強くかかっちゃってる。ものがあふれればあふれるほどどんどんリミッ ターはきつくなっていくよね。そうしてまっ平らになっちゃってるわけ。ホワイト・ノイズみたいに、ただジーッといってるだけみたいなもので、なにもパワー がなくなっちゃうんだよね。で、それを突き破るためには"OTT"が必要だと思うの」(7)
「時勢がホワイト・ノイズ化している時なら、なおさら凹凸のある現象が必要なのである。」(106)
「過剰なことというのは、プラスとマイナスというような2つの方向性があって、例えば音楽でいうとメチャクチャ刺激的なもの、うるさいもの − ヒップホップとかヘヴィ・メタルをもっとやりすぎるぐらいの方向にもってゆくと"OTT"になる」(7)
「傾向として、息ができないぐらいのリズムというのがはやっててね、(笑)それがどういう社会現象なんだか知らないけど、ぼく自身にもそういう安心できないリズムというのがあるんですよ。(笑)それに非常に魅力を感じるんですよ。ぼくはこれをOTTと言ってるんです」(35)
「これこそ抗ストレスの音楽だと信じてるんですけどね。神経症とかジャンキーに一番効くのはやり過ぎの音楽だと、こう思っているんです」(35)
「もうひとつ、MONADでやっていることを突きつめてゆくと、音がどんどんなくなってゆくとか」(7)
「極端にいうと音のない音楽」(106)
「そういう方向も"OTT"に入るの」(7)
「呼吸できないようなビートがあるかと思うと、あるいは全く呼吸できないような音の持続というか、要するにビートがないもの。だからプラスかマイナスかという両極端な方法があると思うんです」
(35)
「O.T.Tとは、成熟と未熟、安心と不安、善と悪などの彼岸を超えた状態のことで、いい方を変えれば飽和(エント ロピー極大)かゼロ(エントロピー極小)というプラスとマイナスの両極性を合せ持つ状態ということがいえる。フレンズ・オブ・アースという活動は、このマ イナスであり、またプラスである。」(106)
「過剰な刺激と過剰な沈黙」(106)

野中英紀の証言

「改 めて代官山にある細野さんの個人事務所に出向いて、細野さんの最新音源を聴かせてもらったのだが、それは当時テイチクからリリースされたばかりの 『S.F.X』に収録されている楽曲で、冒頭の『BODY SNATCHERS』はYMOの細野さんからは想像もできない、非常にアグレッシブかつダークな印象の音で、このアルバムには『WORLD FAMOUS TECHNO POP』というサブ・タイトルがついていたのだが、音楽的にはむしろアンチ・ポップなものを感じさせた。」
(95)
「ちょっと意表を衝かれた僕に対して、細野さんはこのアルバムのコンセプト、後にF.O.Eの基本コンセプトとなる『OVER THE TOP』(O.T.T)について語ってくれた。」
(95)
「"過激な""過剰な"あるいは"やり過ぎの"状態を表す表現だという。」(95)
「『S.F.X』には、"HARUOMI HOSONO with FRIENDS OF EARTH"のクレジットがあるのだが、細野さんは『そのまま読めば、"地球の友"ということになるんだけど、イニシャルにするとF.O.E、つまり"敵 "という意味になる。2つの相反する意味に取れる。イエロー・マジック・オーケストラは白魔術でも黒魔術でもない中間的なものとしてイエロー・マジックと いう言葉を使ったんだけど、YMOというイニシャルだけにすると記号化されて意味を持たない、ある種の暗号になる。FRIENDS OF EARTHの場合は、"地球の友"というフレーズを記号化することで"敵"という全く逆の意味を持つところが面白いんじゃないかと思う』と言う。」(95)

1984/12/21 ブレッド&バター「特別な気持ちで/引き潮カフェ」発売。
特別な気持ちで:arrangement

1984/12/21 23:00 イベント『細野晴臣 エキゾティク・ナイト・ショー』開催。シネ・ヴィヴァン六本木。
出演:安野とも子、ワールドスタンダード、中沢新一、奥村靫正、秋山道男

細野晴臣  細野晴臣(vo, syn)、西村麻聡(b)
 ボディー・スナッチャーズ
鈴木惣一朗の証言
「六本木のシネ・ヴィヴァンって映画館で、一晩かけてやったイヴェント。ぼくらは夜中の1時に演奏したの。この日はすごく業界の人とか来ていて」
(88)
「デビュー前のピチカート・ファイヴの小西くんなんかも来てたり」(88)

1984/12/22 アニメーション映画『銀河鉄道の夜』イメージ音楽のレコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

「ヘラルド製作、グループ・タックによるアニメーション『銀河鉄道の夜』の為に作られた最初のイメージ音楽でありサウンド・トラックとは違うピアノ・ヴァージョンである。」(43)
「チェコとか、そこいらへんの音楽がすごく好きで、子供のころからユーモレスクとか聴いていて、もう一度聴きなおすと、僕の大事なところに響いてくるものがあった。なんだろうなんだろうと思っていて、ボヘミアの音楽観はどういうものかなと考えていたとき、そこへ『銀河鉄道の夜』の仕事がきた」(107)
「音楽の依頼があったとき、なぜか賢治の存在が、非常に身近に感じられました。そのせいでしょう、すぐ引き受けてしまいました」(108)
「公開の日から逆のぼること何と半年前のレコーディング」(43)
「この曲もスタジオで即興的に作られた」(43)

※編注:「銀河鉄道の夜〜ピアノ・ヴァージョン」として『コインシデンタル・ミュージック』に収録。

1984/12/24 アニメーション映画『銀河鉄道の夜』イメージ音楽を提出。

田代敦巳の証言
「音楽監督の細野晴臣さんのイメージ音楽が出来あがってくる。『素晴らしい』。」(109)
「なかなか理解の難しい作品だし、音楽でもきちっと表現してもらわなくてはいけない。それは単なる映画音楽として起承転結の厚みを出すだけに使うのでな く、心をも表現しなくては。映画を成功させるために、『銀河 −』を理解してもらうためには音楽にも持ってもらわなければならない分担があって、それは心を適確に誤解のないように表現してもらうということです。必ず しも人の心だけでなく、存在する周りの宇宙全ての心を表現してもらいたい。そういうところで細野さんだと思えるんです」
(110)

1984 成田忍に会う。

「高橋幸宏の音楽にすごい近いものを感じてまして」
(78)
「デモ・テープの段階で聴くと、外国のバンドとかを連想するんですね。何て言って説明していいかわかんないんだけど…
…(笑)。そう、過去と未来っていうのがそれほど濃くない。ワールド・スタンダードとの違いはそこで、最も今の音をストレートにかっこよくやるタイプのミュージシャンですね。そういうミュージシャンて多いかっていうと、決して多くないんですね」(78)

成田忍の証言
「キッチン・レコードっていうインディ・レーベルをやってた人が高橋幸宏さんと知り合いだったのかな」
(111)
「その人に間に入ってもらって、デモテープを幸宏さんに聴いてもらっていたんです。わりと何回もしつこく送った気がする(笑)。そうしたら急に会いに来てください的な感じで、事務所に呼ばれて」
(111)
「プロデュースしてもらえることになったんです。それで"レーベルどうしよう?"って話になった時に、細野晴臣さんがノンスタンダードってレーベルを立ち上げるから、そこの第1弾新人にしましょうってことに」(111)
「僕はともかく、最初に細野さんと逢ったのが、いつ、どこでかも覚えていないんだ。ただ、思っていたより小さかったっていう感じぐらいで(笑)。だから、特別に何も残らなかったっていうのが印象ですね。やっぱり、それまでテレビで見ていたからなあ」(89)

1984/12 『キープル』No.6(自由國民社)発売。
インタビュー/FRIENDS OF EARTH これが僕の次のバンドだ!
選盤・解説/MY DEAR RECORDS SPECIAL
寄稿/SFX-WORLD〜続SFX-WORLD〜その後のSFX-WORLD

1984/12/26 『週刊FM』12月31日号(音楽之友社)発売。
対談/新春デリシャス対談 細野晴臣 × 高橋幸宏

<出典>
(1)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(2)『サウンドール』12月号 学習研究社/1983年
(3)『ミュージック・ステディ』2月号 ステディ出版/1985年
(4)CD 遠藤響子『ゴールデン★ベスト・リミテッド もう一度会いたい 1988〜1995(+'15)』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2016年
(5)『キープル』No.6 自由國民社/1984年
(6)細野晴臣+吉成真由美 週刊本15『技術の秘儀』 朝日出版社/1984年
(7)『キーボード・スペシャル』12月号 立東社/1985年
(8)FM東京『ミュージック・タイム』 1984年12月12日
(9)『キーボードランド』2月号 リットーミュージック/1985年
(10)コイデヒロカズ編『テクノ歌謡マニアクス』 ブルース・インターアクションズ/2000年
(11)CD『細野晴臣の歌謡曲 20世紀ボックス』同梱ブックレット コロムビアミュージックエンタテインメント, デイジーワールド/2009年
(12) YMO読本『OMOYDE』 ソニー・ミュージックハウス, GT music/2003年
(13)映画『プロパガンダ』パンフレット ヨロシタミュージック/1984年
(14)CD イエロー・マジック・オーケストラ『UC YMO』ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年
(15)『サウンドール』3月号 学習研究社/1984年
(16)田山三樹『アルファの宴』第14回(『レコード・コレクターズ』6月号) ミュージック・マガジン/2007年
(17)J-WAVE『Daisyworld』 2001年9月10日
(18)『キネマ旬報』10月下旬号 キネマ旬報社/2014年
(19)『KAZEMACHI SONGBOOK』 2015年
(20)『音楽専科』10月号 音楽専科社/1984年
(21)『宝島』12月号 JICC出版局/1984年
(22)J-WAVE『Daisyworld』 2000年9月25日
(23)『ミュージック・ラボ』8月13日号 ミュージック・ラボ/1984年
(24)『ミュージック・ステディ』9月号 ステディ出版/1984年
(25)『ベリー・ベスト・オブ・ノンスタンダード・シリーズ』フライヤー インペリアル・レコード/2001年
(26)細野晴臣『マーキュリック・ダンス』ライナー・ノーツ テイチク, モナド/1985年
(27)『ムー』7月号 学習研究社/1984年
(28)『POPEYE』11月25日号 マガジンハウス/1984年
(29)J-WAVE『Daisyworld』 2000年10月23日
(30)『ムーグ・ノイマン・バッハ』 日本ソフトバンク/1988年
(31)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(32)FM東京『ミュージック・タイム』 1984年12月5日
(33)中沢新一, 細野晴臣『観光』 角川書店/1985年
(34)『週刊FM』1月30日号 音楽之友社/1984年
(35)相倉久人『日本ロック学入門』 新潮文庫/1986年
(36)中沢新一, 細野晴臣『観光』 ちくま文庫/1990年
(37)『小説王』7号 角川書店/1984年
(38)『小説王』8号 角川書店/1984年
(39)NHK-FM『サウンドストリート』 1986年2月18日
(40)『週刊FM』5月7日号 音楽之友社/1984年
(41)『小説王』9号 角川書店/1984年
(42)『ミュージック・マガジン』8月号 ミュージック・マガジン/2000年
(43)細野晴臣『コインシデンタル・ミュージック』ライナー・ノーツ テイチク, モナド/1985年
(44)安野とも子『ラ・ミューズィック・エキゾティク』コメントブック 秋山計画/1984年
(45)『FMファン』2月25日号 共同通信社/1985年
(46)CD 『レジェンド オブ ゲームミュージック 〜プレミアムBOX〜』同梱ブックレット サイトロン/2005年
(47)『GORO』4月26日号 小学館/1984年
(48)『HiVi』12月号 ステレオサウンド/1984年
(49)『FMステーション』12月3日号 ダイヤモンド社/1984年
(50)パンク&ニュー・ウェイブ ライブ写真集『B-5』 三和出版/1985年
(51)『Rio』5月号 シンコー・ミュージック/1985年
(52)『キーボード・スペシャル』5月号 立東社/1985年
(53)『サウンド&レコーディング・マガジン』5月号 リットーミュージック/2009年
(54)J-WAVE『Daisyworld』 2001年8月27日
(55)越美晴『エコー・ド・ミハル』ライナー・ノーツ シックスティ・レコード/1987年
(56)CD 小川美潮『小川美潮』ブックレット ウルトラ・ヴァイヴ/2012年
(57)『美学、考』9号 ワタリウム美術館/2006年
(58) 『ミュージック・ステディ』11月号 ステディ出版/1984年
(59)『O.T.Tマガジン』 テンポラリーセンター/1986年
(60)FM東京『サウンドマーケット』 1986年1月31日
(61)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(62)CD 細野晴臣『Vu Jà Dé』ブックレット ビクターエンタテインメント, スピードスター/2017年
(63)細野晴臣, 鎌田東二『神楽感覚』 作品社/2008年
(64)CD 細野晴臣『S・F・X』ブックレット テイチク, ノンスタンダード/1985年
(65)
CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(66)『LOO』7号 日本キャパシティ/1984年
(67)『平凡パンチ』12月17日号 マガジンハウス/1984年
(68)『FMレコパル』9月10日号 小学館/1984年

(69)『スコラ』1月1日号 講談社/1985年
(70)
細野晴臣『音楽少年漂流記』 新潮文庫/1988年
(71)『朝日ジャーナル』11月16日号 朝日新聞社/1984年
(72)
小澤征爾, 武満徹『音楽』解説 新潮文庫/1984年
(73)『週刊FM』12月31日号 音楽之友社/1984年

(74)『プレイヤー』2月号 プレイヤー・コーポレーション/1985年
(75)NON-STANDARD BOOKS 1『GLOBULE』 テイチク/1984年
(76)牧村憲一『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989』 スペースシャワーブックス/2013年
(77)『キネマ旬報』4月下旬号 キネマ旬報社/1985年
(78)
『キープル』No.7 自由國民社/1985年
(79)『PAPER SKY』no.16 ニーハイメディア・ジャパン/2006年
(80)映画『パラダイスビュー』パンフレット プラスキュー/1985年
(81)『広告批評』9月号 マドラ出版/1984年
(82)鈴木惣一朗『細野晴臣 録音術』 DU BOOKS/2015年
(83)
『サウンド&レコーディング・マガジン』2月号 リットーミュージック/1985年
(84)
J-WAVE『Daisyworld』 1998年7月27日
(85)オムニ・サウンド編集委員会『細野晴臣 OMNI SOUND』 リットーミュージック/1990年
(86)鎌田東二編著『サルタヒコの旅』 創元社/2001年
(87)ガジェット4『モンド・ミュージック 2』 アスペクト/1998年
(88)CD ワールドスタンダード『音楽列車』ブックレット ポリスター/2000年
(89)
『キープル』No.11 自由國民社/1986年
(90)
Inter FM『Daisy Holiday !』 2004年11月22日
(91)
J-WAVE『Daisyworld』 2000年10月9日
(92)『Steve』12月号 近代映画社/1984年
(93)
『キーボード・マガジン』2月号 リットーミュージック/1985年
(94)
細野晴臣『S・F・X』ライナー・ノーツ テイチク, ノンスタンダード/1984年
(95)田山三樹 監修『YMO GLOBAL』 シンコーミュージック/2007年
(96)『CLIP』3号 学生援護会/1985年
(97)ジャン・ジョエル・バルビエ『エリック・サティ・アルバム』ライナー・ノーツ ビクター音楽産業/1984年
(98)『ミュージック・ステディ』11月号 ステディ出版/1985年
(99)田中雄二『電子音楽 in JAPAN』改訂・増補版 アスペクト/2001年
(100)
『GORO』1月1日号 小学館/1985年
(101)
『GORO』8月8日号 小学館/1985年
(102)
『FMレコパル』7月15日号 小学館/1985年
(103)『キネマ旬報』5月下旬号 キネマ旬報社/2015年
(104)備酒元一郎編『ジャケット・デザイン・イン・ジャパン』 ミュージック・マガジン/2004年
(105)奥村靫正展『第2回 奥村祭り』小冊子 リクルートホールディングス/2013年
(106)細野晴臣『F.O.E MANUAL』 扶桑社/1986年
(107)『アルビレオ』創刊号 岩手放送/1994年
(108)『朝日新聞』夕刊 1985年1月23日
(109)映画『銀河鉄道の夜』パンフレット 東宝/1985年

(110)ファンタスティックコレクション・スペシャルNo.51『銀河鉄道の夜』 朝日ソノラマ/1985年
(111)CD アーバン・ダンス『UDクロニクル』ブックレット ウルトラ・ヴァイヴ/2015年
update:2020/05/04

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