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chronology 1983


1983/01/01 NHK総合テレビにて、国際連合「世界コミュニケーション年」TV-CM放送開始。
テーマソング/YMO「以心電信」
以心電信
「NHKの企画で、コミュニケーション年のキャンペーン・ソング」
(1)
「サウンドのほうは、幸宏の趣味ですね。彼のビートルズ好きは本当に本物ですから。かなり僕は影響されましたね」
(1)

高橋幸宏の証言
 以心電信
「非常にビートルズ的な、あのアプローチで作った曲だけども、これは3人で作りましたね」(2)

坂本龍一の証言
 以心電信
「NHKの『世界コミュニケーション年』のテーマ曲で、いい曲ですけど(笑)」(3)
「三人でつくった」
(3)
「ビートルズのにぎやかな感じに影響されてます。弦とかトランペットとかが、ごちゃごちゃ出てくるようなアレンジ」
(4)
「トランペットのフレーズとか、もろにビートルズ臭いし」
(5)
「ぼくたち、三人とも好きなんだよね〜。なんか華やかな感じがあって、式典っぽい音楽ですね」
(4)

湊剛の証言
「YMOの『国際コミュニケーション年』のテーマ曲を担当してもらったのは、やはりインターナショナルなセンスを持ってるグループだからだね。世界のどこ の人ともコミュニケーションをとれる活動のあり方、方法論を持ってる人達に頼みたかったからね。日本的なものを含んでいて、なおかつインターナショナルな 活躍をしている、というところかな」
(6)
「あのスポットで一般の大人の人もYMOに接したわけですけど、ビートルズに聞こえるんですかね、そういう人達には。『あれはなかなか面白いじゃないか』って反応がありますね」
(6)
※編注:3月まではインストゥルメンタル・バージョンを使用、4月以降ヴォーカル・バージョンに切り換えられた。

1983/01/01 イモ欽トリオ「ティーンエイジ・イーグルス/エレクトリック・スーパーマン」発売。
ティーンエイジ・イーグルス:compose
エレクトリック・スーパーマン:compose
ティーンエイジ・イーグルス
「元旦に、リリースされてますね。不思議なリリースですが。えー、作詞が松本隆でした」
(7)
「ムーン・ライダーズの、白井良明のアレンジ」(7)
「珍しい歌だな」
(8)
「なんか、一部のメロディが」(7)
「『ワイ ワイ ワイ』と、おんなじなのが気になりますが」(7)
「自分で歌いたい曲でした」(7)
「自分でもまたやってみたいようなタイプ」(8)
「すごく気に入ってたんだけど、あまり聴かれなかった」(8)

1983/01/01 高橋幸宏「アー・ユー・レシーヴィング・ミー?/僕は、信じている」発売。
アー・ユー・レシーヴィング・ミー?:bass
僕は、信じている:bass

1983/01/01 19:00 フジテレビ『初笑い!ひょうきんスペシャル ワイド生放送』放送。
コント/三匹の用心棒
 共演:坂本龍一、高橋幸宏、ビートたけし、前川清、鮎川誠、鈴木慶一、立花ハジメ、シーナ、小池玉緒 他

 YMO 
 高橋幸宏、坂本龍一、細野晴臣
  手掛かり
※編注:演奏はあて振り。ヴォーカルも口パクと思われる。放送時に演奏途中で挿入された前川清「雪列車」をコントのハイライト・シーンに差し替えたバージョンが、ビデオ・ソフト『TV YMO』(アルファレコード/1993年)やDVD『YMO Giga Clips』(東芝デジタルフロンティア/1998年)で商品化されている。

1983/01/02 日立 TV-CM「インターフェイス」、放送開始
出演、音楽

1983/01 プレイヤー・マガジン15周年記念特別別冊号『Player THE SPECIAL 1968-1983』(プレイヤー・コーポレーション)発売。
対談/TALK OVER THE 1970'S 細野晴臣 × 松本隆

1983/01 YMO、ミーティング。アルバムの発売延期が決まる。

1983/01/11 YMO、相倉久人のインタビュー取材を受ける。

※編注:『FMファン』5号(2月9日発売)に掲載。

1983/01/12 18:00〜24:00 YMO、「君に、胸キュン。」レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ガイド入れ、コード
「コマーシャル絡みのカネボウのキャンペーン・ソング」(9)
「先にタイトルが決まっていたんです。"君に、胸キュン。"という」
(10)
高橋幸宏の証言
カネボウ化粧品のCMということで、歌謡曲でやろうということも、曲名も作る前から決まっていました」(11)
「教授がベーシックなのを創ってきた。ぼくは、横についていて、"うん(と、指をさす)"とか、"それ違う"とか、ヒジョーに楽だった、みたいな(笑)」(10)

坂本龍一の証言

「『胸キュン』っていうコピーが、最初に投げられたんですよね」
(5)
「僕が作ってきた曲が母体になってる
んだけど、自分の中のポピュラリティーっていうか、そういうのをわりと健康に明るく出そうっていう」(12)
「いや、ひどいんだよね、みんな。だって、あの、僕がスタジオでピアノに向かって作曲してると、横でさ、「おっ、それはいい」「それでいこう」とか言ってるだけなんだよね。みんな太鼓持ちなのね」
(13)

1983/01/13 13:00〜18:00 YMO、「君に、胸キュン。」レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
synthesizer

1983/01/14 15:00〜21:00 YMO、「君に、胸キュン。」レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
synthesizer

1983/01/15 天辰保文のインタビュー取材を受ける。千駄ヶ谷。

※編注:『新譜ジャーナル』4月号(2月22日発売)に掲載。

1983/01/15 YMO、『ジュノン』取材。

※編注:詳細不明。

1983/01/19 18:00〜24:00 YMO、「君に、胸キュン。」レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
vocal, chorus
高橋幸宏の証言
「最後に歌入れる時になって出ていって、キメちゃうの。ここ一番みたいに(笑)」
(10)

坂本龍一の証言
「ぼくは『キュン!』しか歌わせてもらえませんでした。」
(4)

1983/01/20 『サウンドール』2月号(学習研究社)発売
コメント/細野晴臣のシーナ観

1983/01/20 YMO、『ジュノン』取材。

※編注:詳細不明。

1983/01/20 18:00〜24:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
君に、胸キュン。/mix

1983/01/24 『スタジオ・ボイス』取材。

※編注:5月号(3月26日発売)掲載分のインタビューか。

1983/01/24 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」13

1983/01/26 藤村美樹と対談。

※編注:『サウンドール』3月号(2月19日発売)に掲載。

1983/02/01 藤村美樹「夢・恋・人。/春 mon amour』発売。
夢・恋・人。:compose, arrangement, Prophet-5, MC-4, Linn Drum, TR-808
春 mon amour:
compose, arrangement, Prophet-5, MC-4, Linn Drum, TR-808
藤村さんという歌手とやってみて、アイドルというよりも、本格的な歌謡歌手だと思った」(8)

・恋・人。
「これはCMがらみでした」
(7)
「もう古典的な歌謡曲。ベタですよ」(8)
「モロ、歌謡曲まるだしのメロディでしたが、えー、結構、筒美京平さんの影響があるんじゃないでしょうかねえ僕も」
(7)
「自分でそういうのがやれるとは思わなかったんだけど、やってみたら結構ハマった」
(8)
「全部1人でやっていましたね…
…ギターを大村憲司に頼んだくらい」(14)

松本隆の証言

 夢
・恋・人。
「良い曲だった。細野さんの中に歌謡曲の王道の箱があるんだよ。普段、彼は封印してるんだけど、ときどき紐解いてくれるんだ」
(15)
「歌謡曲っていつの世にもある。形を変えているだけでね。そのとき売れているものが歌謡曲になるんだと思う。そういう王道のものを細野さんはきちっと持っているね」
(15)

1983/02/05 イエロー・マジック・オーケストラのビデオ・ソフト『コンピューター・ゲーム』発売
ビハインド・ザ・マスク:synthesizer
※1979/08/04@グリーク・シアター

1983/02/05 『キーボードランド』3月号(リットーミュージック)発売
インタビュー/コンピューターには、もう飽きた? 今度は日本語の歌詞に挑戦!!

1983/02/08 『朝日新聞/HOT VOICE』原稿〆切。

※編注:連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」の原稿と思われる。

1983/02/09 『FMファン』5号(共同通信社)発売
YMOインタビュー/移り気で浮気なYMOがどうして"解散"しないのかな?

1983/02/15 22:00 NHK-FM『サウンドストリート』でYMO「以心電信」CMバージョン(ヴォーカル入り)が放送される。

以心電信
「YMOからメッセージを発しているわけです」
(10)
「NHKには嫌われたんですね。詞がわからないと言われたんです。自分自身を助けようということが伝わらなかった。実は この『自助』っていう言葉は、当時アメリカでやっと芽生えたばかりの思想でね。幼児虐待とか、そういう社会現象の中から出てきた考え方なんですけど、子供 たちに自分を助ける術を教育しなくちゃいけないというのがあったんですね。僕はコミュニケーション年なら、テーマはそれだろうと思って、人を助けないで自 分を助けろということを言いたかったんですけど、それに日本の大人たちは誰も興味を持ってくれなかったんです」(1)

高橋幸宏の証言
 以心電信
「珍しく細野さんが日本語の詞をね、わりとこれ、一緒になって作ったの憶えてますよ」
(2)
「自己愛。"自分を愛すればいいんだ"と誤解されました(笑)。"人を助ける前に自分を助ける"って言ったつもりなんだけど」
(10)
「"自分を愛さなきゃ人を救えないよ"っていうのがテーマなんだけども、最初の、第一稿の歌詞を、ちょっと、自分、を愛すって言葉に抵抗を示されまして。でわかってもらうのにちょっと時間がかかったという」
(2)

湊剛の証言
 以心電信
「歌詞の事で一度モメた事があったんだね、NHKと。ちょっと聞くとあれは、女の人が身につけてるものをだんだん脱いでってるような歌詞でしょ。でも、本 当の意味は、コミュニケーションを妨げる先入感とかを取りのぞいていこう、ということだし、結局お互いに歩みよって」
(6)

※編注:CMでのオンエアに先駆けての初放送。

1983/02/18 『キーボード・マガジン』3月号(リットー・ミュージック)発売
インタビュー/『浮気なボクら』はYMOなりの解釈によるラヴ・ソング集なんだ

1983/02/19 『サウンドール』3月号(学習研究社)発売
対談/細野晴臣 × 藤村美樹

1983/02/21 YMOファンクラブ会報『Me & Her』No.13、発行。
インタビュー/もう早くお正月が来ないかと

1983/02/21 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」14

1983 かしぶち哲郎のレコーディング。

かしぶち哲郎の証言
「アルバムに入れた曲は、10年間ぐらいのうちに、チョコチョコ書きためてたもので、いつか自分のソロに入れようと思ってとっといた」(16)
「結局、10年のうちに生まれてきた曲なものだから、アルバムとしてのトータルイメージっていうのはないんですよね。それもあって、はじめは全部自分でやろうと思ってた。ところが、アッコちゃんなんかが手伝ってくれることになった」
(16)
「ベースにしても、あの細野さんがいるでしょう(笑)。アコースティックピアノは矢野さんがやってくれたし、ストリングスのアレンジは教授がやってくれる。出るマクはないですよね(笑)」(16)
「一カ月位で出来ちゃった」(16)
「みんなテイク・ワンでOKの人たちばかりだから、速いんですよ(笑)。ボクはイメージを伝えればよかった。けれ ど、それもスムーズにいったし、レコーディングもほのぼのと進んで楽しかったですよ。細野さんなんかも、久しぶりに鍵盤スタイルじゃないこーゆう(ベース ギターのネックの形を演じ)形のベースもってやって、『楽しい、楽しい』って言ってましたね(笑)。ノッてましたよ」(16)

※編注:アルバム『リラのホテル』のセッション。2月21日〜3月30日の期間に行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。

1983/02/22 『新譜ジャーナル』4月号(自由国民社)発売
インタビュー/今度のYMOは、可愛く、キュートに

1983/02/25 スターボー『たんぽぽ畑でつかまえて』発売。
月世界ナイト:compose
火星のプリンセス:compose
100億光年の恋人:compose
「全部清水くんにやってもらったんですよ」(3)

※編注:「ハートブレイク太陽族」「TOKYOベイ・ブルース」も収録。

1983/02/26 『With』取材。

※編注:詳細不明。

1983/02/26 『スコラ』取材。

※編注:詳細不明。

1983/03/01 川上さんと長島さん「きたかチョーさん まってたドン/正しいプロ野球訓示小唄」発売。
きたかチョーさん まってたドン:compose, arrangement, all instruments
正しいプロ野球訓示小唄:
compose, arrangement, all instruments
「不思議なデュエットでした」(17)
「『笑っていいとも!』関係で、えープロデューサーから依頼があった」(17)
「フジテレビの横澤(編注:彪)さんから依頼がありまして。高平(編注:哲郎)さんの詞が難しいんで 苦労したな。本当は生でやるべきものだったんでしょうね。クレージーキャッツみたいにとか、ビッグバンドでとか。当時何でもかんでも手法はテクノでしたか ら(笑)。まわりがとまどってましたね」
(15)
「僕はあまり野球は詳しくないんでね、えーよくわかんないんですけど(笑)、まあいずれにしろね、色モノというのは、なかなか当たらないもんですよね」
(17)

きたかチョーさん まってたドン
「不思議な曲でした」
(17)

1983/03/02 『ペントハウス』原稿締切。

※編注:5月号(3月下旬発売)に掲載。

1983/03/03 YMO、『WEEKLYオリコン』のインタビュー取材を受ける。

※編注:4月8日号(4月1日発売)に掲載。

1983/03/03 YMO、『月刊明星』取材。

※編注:詳細不明。

1983/03/04 遠藤賢司とミーティング。

1983 遠藤賢司の紹介で越美晴と知り合う。自宅。

「ディア・ハート・レーベルの方針が彼女とくいちがってレコーディングが中止になっちゃった。そ のころ彼女のデモ・テープを聞いて好きになって、それが出ないのは惜しいなと思ってた」(19)
「"これはいい"と思ってやる気になった。それだけじゃなくて、そのデモテープがもといた人たちの場所では合わなかったんだよね」(12)
「すごく浮いてた感じがした」
(12)
「デモ・テープはテクノで、実際にレコーディングしてたのはニュー ミュージックに近いものだったんです。で、そういう人はやっぱり、YENに来ないと…」(18)
「けっこうファイトがわいた」
(12)
「彼女の音楽は、ヨーロッパのエレガントさと暗さをメインにして表現しているようなところがある。それがぼくにもヒントになったんです」(18)
「幸宏とかトノバンとか、ヨーロッパのエレガントさみたいなものをやってきたでしょう。ぼくもほんとは、やりたかっ た(笑)。でも、できなかった。ぼくにとってヨーロッパは大きすぎて、深くて…。あこがれたままでやっちゃうと、それを再現することになって、かえって日 本的なへんてこりんな音楽をやっちゃうような気がしてた。でも」(18)
「また、ヨーロッパの深さがぼくに影響を及ぼしはじめた」(18)
「ヨーロッパの暗い部分を見きわめたいなと思いはじめた」(18)
「それまでは断ち切ってたんですが、どうしても無視できなくて。というのは、ヨーロッパの断末魔みたいな主張が、映画にしろ、音楽にしろ、強いと」(18)
「『ヨーロッパ!』という主張が強いんですよ。自分たちはヨーロッパなんだというね」(19)
「そうするとやっぱり自然に耳を傾けてしまう。そのヨーロッパの奥深いものというのが、『これはすごいなぁ』と思わざるを得ないところがいっぱいある」
(19)
ヘルツォークの『アギーレ』と『フィッツカラルド』を見たり、その前にシュレンドルフの『ブリキの太鼓』を見た り、あと、古い映画をビデオで見た。中心はドイツなんです。『愛の嵐』はイタリアから見たドイツ。『愛と哀しみのボレロ』はフランスから見たドイツ。『ソ フィーの選択』はアメリカから見たあの時代。『地獄に堕ちた勇者ども』『去年マリエンバードで』『二十四時間の情事』とか…。そういうときに越美晴の音楽 を聞いた」
(18)
「実を言うと、ぼくは越さんを知らなかったんです」
(20)

コシミハルの証言
「私は1983年の春、細野晴臣に出会った。」(21)
「わりと劇的だったのよ」
(22)
「その頃、私はシンセサイザーを買ったことをきっかけに多重録音に夢中になり、部屋に閉じこもって、毎日、作曲をしていた。」(23)
「家で音を出して、アッと思ったその日からそうなっちゃった」
(12)
「海の底にでもいるような絶望期で、芸能界デビューの悪夢から逃れるように、シンセサイザーに没頭」(24)
「80 年頃にエンジニアの吉野金次さんと、ティアック144という多重録音ができるカセットデッキを使ってカシオトーンのデモンストレーションをするというイベ ントに出ることになって、実際にダビングしながら曲を作っていくことがきっかけになりました。その後、自宅で遊びながらどんどん作品を作り続けるように なったんです」
(25)
「作曲をしてるという意識は皆無で、ただ機材の前に立つと次々と曲が出来上がっていったのです。」
(24)
「次から次へとできる不思議な時期があったんですね。リズムマシーン使うのがすごく面白くて、ものすごく世界が広がっちゃったの。それまではメロディーと詞とピアノだけの世界だったけど、全体の音を組み立てるほうがずっと面白くて」(20)
「ずっと多重録音してたの、自分で。デモ・テープいっぱい作ったりとか」(22)
「来る日も来る日も明け方まで部屋でデモテープを作っていました。」
(24)
「とにかく、作る。作りたい気持ちが止めどなく湧いてきて、デモテープの山となる。しかし、それをどうしていいものかと…(23)
「RCAでやってる頃は、どうしてもテクノをしたくて。でもテクノをできる状態じゃなかったじゃない」(22)
「(何しろ周囲は芸能界でしたから、否定的な眼差しで見られるばかり)混沌としていた。」(23)
「レコード会社とは路線が違ったし、当時はテクノ・ポップが流行り始めた頃で、"テクノに走っちゃって"とか言われてストレスがたまりましたね」(25)
「全員一致で『はい』だったよ。"このデモ・テープはダメだ"ということで」(12)
「このまんまの状態ではレコーディングは続けられない、みたいな言い方で」(12)
「自分がやりたい事と表に見える事って違うでしょ。すごくニューミュージック的に捉えられてたりとか、そういうのあったんだよね」(22)
「レコード会社の人に聴かせてもネガティブなことを言われるばかりで、すっかり自信を無くして混沌とした気持ちのまま、それでも何かに取り憑かれたように作り続けていたのです。」(24)
「その後、遠藤賢司さんのレコーディングでキーボードを頼まれたことがきっかけで、プロデューサーの細野さんにデモテープを聴いてもらうことになり」(24)
「遠藤賢司と細野さんちに遊びに行ったわけ。ちょっとテープ聴いてくれます?みたいな」(22)
「最初は何の気なしに」(12)
「なんか遊びの気持ちで聴かせたら、スッゴクいいっていわれて」(22)
「『これは、凄く良いよ!このデモテープを再現するようにレコーディングしよう!』」(24)
「とまどった。そういうことを言ってくれる人が全然いなかった」(12)
「そんなことは誰にも言われたことが無かったので、嬉し過ぎて何を言われたのかも解らなくて、しばらく放置しておいたりもして」(24)
「それでやろう!!ってことになって」(22)

※編注:3月4日のミーティングがこれにあたる可能性がある。

1983/03/05 中島みゆき『予感』発売。
ばいばいどくおぶざべい:bass
「ディレクターの奥島吉雄さんをよく知っているんですが」(26)
「『ベースを弾いてくれ』と電話をくれた」
(27)
「彼に会ったとき依頼されたんだったかな」
(26)
「いきさつは忘れてしまったんですけど」(26)
「おもしろそうだと思って行ったんです」(27)
「音楽より本人」(27)
中島みゆきっていうのは、僕は好きではないんです、決して。好きなシンガーではない。まったく違う世界というか…。だから、わりと客観的に見れる、そういう意味で興味があるし、惹かれる部分があります」(26)
「惹かれるところというのは、アタマ、頭脳と肉体と両方をうまくバランスとって音楽をつくっているというのかな。し かも、それが個性的につくられていて、パワフルなエネルギーを感じるんですよね。悪くいけばバランスが崩れていくところをきわどく調節している。その意味 で、オヤッと思ったのは、あのヒット曲『悪女』ですね。あれ以来です。以前はまったくキッカケがなかったから」(26)
「『悪女』を聴いたとき、こんな素敵なことをやっていると思った。それ以前の生理的な詞とか歌いかただとかをうまくコントロールして、アレンジして見事にやっているという印象があったんです。聴いたときは、ゾッとするぐらいでした」(26)
「『悪女』以前は、僕がタッチするような音楽と波長が合わなかった。彼女は生理的なままつくっていて、アレンジされてなかった。北海道の土壌をそのまま出しているような、まったく生理そのままの感じがしてたわけですけど…深く聴いたことはないんですけど、そのイメージが強かった。暗い彷徨というイメージです」(26)
「それが『悪女』では、僕が聴いても、うまく洗練されているなと思わせるようなアレンジがされていて、非常に入り込み易い入口をつくってもらったという気がします」(26)
「僕みたいなミュージシャンはスタイルにこだわるんです。だから、『悪女』でひとつのスタイルをもったということで僕にも理解できるようになったわけです」(26)
「直接本人に会ったのは、LP『予感』のレコーディングのときが初めてです」(26)
「でもあいさつしただけで、一言もしゃべらなかった(笑)」(27)
「なかなか喋らないですね。僕も喋らないし」
(26)
「僕はベースを弾くために行ったんですが、遊んでいたようなところもあったんです。半分、遊ばれているような感じもするけれどね(苦笑)。試されている感じもする」(26)

1983/03/05 サウンドール特別編集『YMO BOOK』の原稿執筆

1983/03/06 サウンドール特別編集『YMO BOOK』の原稿執筆

1983/03/07 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」15

1983/03/08 22:00 NHK-FM『サウンドストリート』でYMO「以心電信」フル・コーラスが初放送される。

※編注:歌詞の一部が異なるバージョン。モノ・ミックス。未ディスク化。

1983 キリンビール/ビヤ樽TV-CM、放送
出演、音楽、SE
「最初YMOに(編注:オファーが)来たんですよ。幸宏も教授も酒の仕事をしてたから絵コンテ見たときから坊主をやるのは自分だろうと予想してた」(28)
「反響がうるさいですね。似合いすぎるという声がある」
(28)

堀井博次の証言
「『よくあんなイヤミな三人集めたなあ』って言われました。あのときは、一番進歩的な平安貴族、という設定だったんやね」
(29)
「先端で活躍している人で、なおかつ、貴族になっても下品でないというか、みすぼらしくない人という基準と、三人のコントラストを考えて選んだんです。イヤミで集めたつもりは、さらさらないんやけどね」(29)

1983/03/11 共同通信社の取材。

※編注:詳細不明。

1983/03/14 『ポパイ』取材。

※編注:詳細不明。

1983/03/16 『ぴあ』取材。

※編注:詳細不明。

1983/03/19 『サウンドール』4月号(学習研究社)発売
対談/美女山田邦子+美男細野晴臣

1983/03 『ペントハウス』5月創刊号(講談社)発売
寄稿/アポロ飛行士たちが月の上で見てしまった神の存在とはなにか

1983/03/23 12:00 フジテレビ『笑っていいとも!』テレフォンショッキングのコーナーに電話出演。
出演:タモリ、伊武雅刀

1983/03/23 『朝日新聞』取材。

※編注:詳細不明。

1983/03/24 12:00 フジテレビ『笑っていいとも!』テレフォンショッキングのコーナーに生出演。
出演:タモリ、大滝詠一(電話)、糸井重里(電話)

1983/03/24 『GORO』取材。

※編注:詳細不明。

1983/03/25 YMO「君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)/カオス・パニック」発売。
君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス):produce, compose, arrangement, all instruments
カオス・パニック:
produce, compose, words, arrangement, all instruments, vocals
君に、胸キュン。
「『胸キュン』というのは、コピーライターから出てきたキーワードで」(1)
「コマーシャルに、使われる、ことが前提になってたんで、そういう条件が、バシバシと、2、3あったわけですね(笑)」(30)
「その条件を満たすためにこういう曲になったわけですね」(30)
「そこから発展していった曲だから。詞も曲もそこから発展していったものなんです」
(10)
「そういうものがあったからできたという意味では、自分たちだけではできない曲ですね。メロディも詞も」(1)
「タイアップとか表に出していく見せ方として『君に、胸キュン。』のシングルがある。それを歌謡曲とは自分たちは言ってないんですが、松本隆の詞で日本語 でやるということは、とても新鮮な仕事だったという印象があったんです」(5)
「前から日本語でやりたかったんですけど、イマイチ吹っ切れなかったみたいなところがあって。日本語ってムズかしいから」
(10)
「とにかく、やってないことをやるということだけでも新鮮だったんで。挑戦しがいが あるというか」
(5)
「わりと意図的ですね」(10)
「『君に、胸キュン。』っていう、そういう言葉をね、YMOの、まあ、俗におじさんと言われてるね(笑)、人たちが、歌うとどうなるかという、そういう面白さ、は自分たちで楽しんでるんですよね」(30)
「わりとカンタン、簡単っていうか、苦労しなかった」
(10)
「ポップに仕上げるってことで、かなりの頭を使いました」(3)
「けっして歌謡曲だと思ってないわけです。ニセ歌謡曲ですね」(5)
「『胸キュン』も、本質的な曲の作り方は、全然歌謡曲じゃないですから。このころはまだ、日本独特の湿っぽい風土が、歌謡界にもまだありましたからね」(5)
「日本のマーケットの中でこれがフィットするという気持ちは自分たちにはなくて」(5)
「そういう意味では、これは全然売れるというような確信犯的なものではないわけです。むしろ、からかい半分みたいなところがあって、こんなこともやってみたよ、みたいなもので」(5)
「このアイデアのもとは、イタリアの陽気な映画のイメージなんですね。幸宏とよく話してたんですけど、中年の疲れたオジ サンが、どっかのバーで若い女の子に会って、『オジサン、遊んでかない?』って言われて付き合っていくんだけど、フラれてまた傷ついていくっていう、そう いう、狂ったバカンスというような、中年の悲しさを自分に投影して(笑)。映画っていうのが、YMOでは何か作るとき、よくモチーフになってたんですね。 幸宏が映画好きでしたから」(1)
「幸宏や教授をアイドルとして捉えるということは、僕もたまにやってたんですけど、そこに自分が入っていくのは、どうも 違和感があったわけです。でも、しょうがなくやってました。『君に、胸キュン。』あたりからふざけだして、わりと子供のように振る舞ってましたね」(1)

カオス・パニック
「これ好きなんだ」
(21)
「YMOでやった中で一番ポップ・ミュージックを意識して作ったんだよ。だから引用がいっぱいある。R&Bとか、でも確かに、テクノにしか聴こえないけどね、(笑)。あと、バブルガム・サウンドも意識して作ったんだよ。バブルガム・テイストのテクノ。これはソウル
ミュージックの常套手段だしさ。何かイメージがあったんだね、とにかく。この曲は運命が儚かった」(21)
「シングルのB面に入れた」(21)
「何かを埋める立場だったんだよ、この曲は」(21)
「B面は、困ったんですよね。何入れるか。2曲創ればよかったんだけど、時間がなくて、LPから1曲持ってきたんだけど。結局、LPから持ってきた曲は、LPに入れないような形にしたんだけど。本来ならば、シングルB面用の曲を作りたかったですね」(10)

坂本龍一の証言
 君に、胸キュン。
「条件があるほうが作りやすいですね、遥かにね」
(30)
「最初からシングル・ヒット向きに作ったんだよね。レコード大賞狙いのね(笑)」(3)
「パッと耳に入るように」(10)
「三人の合作」(3)
「ほとんど俺が作ったねえ」
(13)
「『いけないオジサンたち』って感じだったと思うんですが」(4)
「とても『オジサン』と呼べるような歳ではないですね。若い、若い。(^^;」
(4)
「YMOってものを使い果たしてやったんだよね。ぜいたくしてやったの。昇天させてやった」
(6)
「正直に言っちゃうとね、"君に、胸キュン。"とかやった為にさ、もう個人としての僕らは『YMO』っていう名前に寄り掛かることが出来なくなったって言うか、自分たちでそういう風にしちゃったんだね」
(6)
 カオス・パニック
「細野さんのアメリカンな部分と、幸宏のブリティッシュな部分の、不思議な混淆の妙です。」
(4)
「これも一連の『CUE』の兄弟曲ですね。」
(4)
「『CUE』から始まる一連の5度の積み重ねは、ケルトの伝承の地下水脈がウルトラヴォックスに表れ、それが極東のYMOに飛び火したものと言えます。これは、例の細野さんの『お神楽』的ウネウネシンセにも言えるかもしれません。」(4)

高橋幸宏の証言

 君に、胸キュン。
「かなり計算してやりました」(28)
「オリコンのチャートで1位になるような曲をシングルでやってみようと」(11)
「別に歌謡曲っていうのは全然意識してないんですけど、要するにみんなが、聴きやすいとか、レコードを買ってくれるようなのを作ったらどうなるかっていうのを、考えたという」(30)
「クライアント側からの言い分とかね、イメージとか」
(30)
「全部決まってるから、そういう点では作りやすいですよね」(30)
「コンセプトというのが、女の子に翻弄される男なんで、年下の女の子っていうイメージなんですよね。『狂ったバカンス』とかのイメージだったんじゃないかと、イタリア映画の」(5)
「化粧品のCFでかかる前に、すでにもうチャートであそこまでいくだろうっていうノリにはなってましたね。だからCFでかかったからヒットしたんじゃなくて、出したときにはもういきなりという感じでした」(5)
「まんまと2位で終わりましたけどね」
(11)
「それも、YMOらしいといえばYMOらしいんですが」
(11)
「ぼくたちなりの、なんて言うんだろう、ポージングとしてYMOを汚して終わろうとする、あるいは、こういうこともぼくたちはできますよ、という屈折した気持ちがあったのも確かですね」(11)
「"YMO"という名前を抹殺する為の儀式だから、ビデオを含めてね。YMOは大した事ないよって自ら示したっていうとこあるね。マスの中にドカ〜ンと引き下げてね」
(31)
「YMOを抹殺しよう、大衆の中に完全に引き下げるべきだということで。しかもそれを無理にやるんじゃなくて自分たちとしては楽しみながらやりたかった」
(32)

松本隆の証言
 君に、胸キュン。
「イモ欽と逆で、これは細野さんから来た仕事。タイトルは、化粧品のCMのコピーから」
(33)
「あの頃はYMOが壊れはじめてて、僕が詞を書くとそれが加速するかなーと思った」
(15)
「細野さんに『格調高くいく? 売れる路線でいく?』と訊いたら、『売れる路線』の返事。でも一応、ヨーロッパの避暑地ものの線で書いた」
(33)
「何度もこの詞でいいの?って細野さんに聞いているよ。でも細野さんが歌謡曲をやりたいというから。確信犯だね」(15)

1983/03/25 藤村美樹『夢恋人』発売。
仏蘭西映画:compose, arrangement, all instruments
妖星傳:
compose, arrangement, all instruments
仏蘭西映画
「ベースはチョッパーやってる」
(8)

※編注:「夢・恋・人。」「春 mon amour」も収録。
「夢・恋・人。」は、シングルとはヴォーカル別テイクでミックスも異なる。

1983/03/25 エスケン『ギャング・バスターズ』発売。
sound coordination
 気分は殺し屋:arrangement, Linn drum, keyboards
 ドラゴン・シティー:keyboards
 ダイヤモンドの夜空に:arrangement, Linn drum, bass, keyboards
 どっちがカモ:keyboards

1983/03/26 『スタジオ・ボイス』5月号(流行通信)発売
インタビュー/「これからが楽しみだ」と言われると"解散"したくなる

1983/03/28 『宝島』のインタビュー取材を受ける。

※編注:6月号(5月10日発売)に掲載。

1983/03/29 『朝日新聞』取材。

※編注:詳細不明。

1983/03/29 ビートたけしのレコーディング
TAKESHIの たかを くくろうか

1983/03/29 佐藤チカと対談。原宿/ピテカントロプス・エレクトス。

※編注:30日未明の可能性もある。『サウンドール』5月号(4月20日発売)に掲載。

1983/03/31 1:00 YMO、ニッポン放送『オールナイトニッポン』生出演。
DJ:タモリ
共演:相田寿美緒

1983/04/01 『WEEKLYオリコン』4月8日号(オリジナルコンフィデンス)発売
YMOインタビュー/アーティスト・オブ・ザ・ウイーク

1983/04/01 郷ひろみ『比呂魅卿の犯罪』発売。
bass
※編注:収録の10曲すべてにベースの音を確認できるが、参加曲は特定不能。

1983/04/02 『中三時代』取材。

※編注:詳細不明。

1983/04/04 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」16

1983/04/05 松原みき「パラダイス・ビーチ(ソフィーのテーマ)/気まぐれコラージュ」発売。
パラダイス・ビーチ(ソフィーのテーマ):compose, arrangement
パラダイス・ビーチ(ソフィーのテーマ)
「この曲だなぁ、サビ始まりの最初というのは。画期的だったんだよ」(8)
「コマーシャルに使われたんで、えーそれに合わせて、Cメロディーから、作ったんです」(34)
 「その後、常套になってしまったね。リニアにAメロから始まってB、Cという展開ではない、『C始まり』というスタイルがここから始まった」(8)

1983/04/06 『FMレコパル』4月11日号(小学館)発売
インタビュー/ボツの曲とか他人に作った曲でLPを作ろうかな。

1983/04/09 サウンドール特別編集『YMO BOOK』(学習研究社)発売
インタビュー/時代への危機感が音楽に反映する。
アンケート
YMO座談会/メンバーが直接指導するYMO soundのつくり方。
YMO座談会/浮気なぼくらの悩みごと
寄稿/私は今、ルリランドに居る
太田克彦の証言
「僕は3人にそれぞれ絵を描いてもらったり、写真撮らせたり、文章書いてもらったりした」
(35)
「音楽バカって言葉あるけど、音だけの人なんてあり得ないし、音楽家はぜったい色もってるし、独自の言葉もある」
(35)
「それを感じてたから」(35)

1983/04/10 『ビックリハウス』5月号(パルコ出版)発売。通巻100号記念特別編集号。
エッセイ/ビックリハウスを作曲すると
特別出演/ビートニクスの写真小説文庫「ビートニクスがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」
※編注:エッセイは『ビックリハウス』通巻100号に寄せたもの。また「ビックリハウス100号史」記事内に、細野が書 いた「黄色魔術楽団症候群」のボツ原稿(日付けは1981年2月23日と記されているが、記事中のキャプションによると1982年2月)が採録されてい る。

1983/04/11 大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』試写会に行く。渋谷パンテオン。

「ボクは客観的にみれなかったんだ、ドキドキして……やっぱり身内が出てるとドキドキして落ち着いてみれなかった」(36)
「終わって外に出たら教授がソワソワしていたの。教授はその場では自分でみてないの。こわくてみれなかったって。でね、ボクに会うなり『どうだった?』って。で、ボク『映画になってたよ』って」
(36)
「ホメ言葉なんだけどね。『映画らしかった』って」(36)

1983/04/13 YMO、『月刊明星』取材。

※編注:6月号(4月24日発売)に掲載。

1983/04/14 21:00 YMO、TBSテレビ『ザ・ベストテン』「今週のスポットライト」生出演。赤坂/TBS Gスタジオ。
司会:黒柳徹子、久米宏

YMO
  高橋幸宏(vo)、坂本龍一(cho)、細野晴臣(cho)
 君に、胸キュン。
※編注:順位は17位。カラオケを使用し、ヴォーカル・パート以外の演奏はあて振り(以降特記なき場合、同年にYMOが出演した歌番組も同様)。

1983/04/15 YMO、『平凡パンチ』用撮影。麻布十番温泉。

※編注:フォトグラファーはハービー山口。5月30日号(5月23日発売)に掲載。

1983/04/15 YMO、さまたまさとのインタビュー取材を受ける。

※編注:『音楽専科』6月号(5月17日発売)に掲載。

1983/04/16 『ペントハウス』取材。

※編注:詳細不明。

1983/04/18 『朝日新聞/HOT VOICE』原稿〆切。

※編注:連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」の原稿と思われる。

1983/04/18 20:00 YMO、日本テレビ『ザ・トップテン』に初登場10位で生出演。
司会:堺正章、榊原郁恵

YMO
  高橋幸宏(vo)、坂本龍一(cho)、細野晴臣(cho)
 君に、胸キュン。

1983/04/19 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

1983/04/20 1:00 ニッポン放送『オールナイトニッポン』電話出演。
DJ:高橋幸宏
共演:坂本龍一
※編注:芝浦/スタジオ'A'から坂本龍一と共に電話で生出演。「君に、胸キュン。」に続くYMOのシングルをレコーディング中で、坂本は「フックが決まりそう」「イントロができちゃった」と発言し、高橋幸宏は翌々日(21日か?)にもレコーディングが行われると明かしている。

1983/04/20 『サウンドール』5月号(学習研究社)発売
対談/細野晴臣 × 佐藤チカ

1983/04/21 YMOのビデオ・ソフト『ウィンター・ライヴ '81』発売
ジャム:vocal
灯:bass
カムフラージュ:synthesizer, chorus
階段:bass
新舞踊:bass, chorus
ハッピー・エンド:electric percussion
音楽の計画:bass
キュー:synthesizer, chorus
体操:bass, chorus
コズミック・サーフィン:synthesizer
※1981/12/23@新宿コマ劇場

1983/04/21 森進一「紐育物語/ルーム・キー」発売。
紐育物語:compose, arrangement, programming, keyboards
ルーム・キー:compose, arrangement, all instruments

紐育物語
「わりとヒットしましたが」
(37)
「作詞は、松本隆」
(38)
「連作モノで、旅シリーズね」
(39)
「リヴィエラから、ニューヨークにこう来たという設定だからそこまではまあ決まってたの」
(39)
詞も、最初にあったし」(39)
「で内容とか、曲の感じっていうのはもう、おまかせだからね。僕とか、そのー大瀧くんとかに。で大まかなとこね、例 えば、マイナーにするか、メジャーにするか、それからアップテンポかミディアムか、バラードか、大体そのくらいが、ポイントになるのかな。あと大事なのは 音域だけで」(39)
「それぐらいしか、制約がないのね。だから、かえって制約があったほうがホントはやりやすいんだけど、ないからねえ。どんな曲できっかわかんないわけ」(39)
「自分でも」(39)
「『紐育物語』もね、もう、ディレクターの川原(編注:伸司)くんていうのがまた、すごい、凝り性でね(笑)」(39)
「いろいろ昔のほら、あのーアメリカのポップグループとか、すごい詳しい人なのね。そういうんですごいやりやすかっ たからね、ぼくもそのードリフターズっていう、これ日本のドリフターズじゃなくてね(笑)、アメリカの、あの黒人たちの、グループ、彼らの、感じとかさ、 ちょっと、混ぜてみたわけ」(39)
アンダーボードウォーク』に近いかな」(8)
それはわかる人にはわかるけど、一般的にはそんなこと関係ないけどね」(39)
「これはね、あのーミュージシャンが、いないんですよ。ぼくだけなの」(39)
「一人でコツコツとやっちゃう」(39)
「時間はかかるけどねちょっとね」(39)
「弦のアレンジが、坂本龍一。でー、途中の間奏のね、弦なんか『ドリフターズっぽく』って言ったらあのードリフターズのレコード聴いて研究してたのね」(39)

ルーム・キー
「B面というのはどうも遊んじゃう傾向がありまして」
(37)
「歌詞がね、昼メロなの(笑)」
(40)
「何と言ったらいいか、股旅モノみたいな感じ。森進一さんが歌ってくれるんで、チャンスだと。本当は僕は演歌は好きなんだなと思いながら、演歌へのトリビュートみたいな気持ちで」
(8)
「ぼくは演歌と接点があるんですよ。'60年代に聴いてたカントリーとかスワンプ・ミュージックとかボブ・ディランとかソウル・ミュージックは演歌に通じるんですよ」
(27)
トニー・ジョー・ホワイトとか、ボブ・ディランの
ブロンドオンブロンド』辺りの、えーイメージがあったんですね(37)
頭の中にあったのは『ビジョンズオブジョアンナ』」(8)
「そういうのの影響を出した」(27)
「それと演歌が、僕の中で結びついてしまって、ぜひ、えー、森進一さんに歌ってもらい、たいなと、思ったわけです」(37)
真面目な、『自分は演歌作家になりたいよ』という表明なんだけど、あまりにも表現が変わってて、嫌がられたんだと思う」(8)

1983/04/22 坂本龍一のレコーディング。銀座/音響ハウス。
チベタン・ダンス/bass

1983/04/23 YMO、『おじさんの浮気なヴァカンス〜YMO大集会』出演。『ウィンター・ライヴ 1981』のライヴ映像や「君に、胸キュン。」のプロモーション・ビデオ(立花ハジメ監督)が上映される。新宿/東京厚生年金会館。
出演:小池玉緒、戸川純、相田寿美緒

YMO
  高橋幸宏(vo)、坂本龍一(cho)、細野晴臣(cho)
 君に、胸キュン。
 以心電信
「ちょうど『君に、胸キュン。』のヒットのピークだったですね」(41)
「だから、昔の僕ら観て『こんなにクラかったのか』って言ってましたよ」(41)
「実はね、あれ(編注:『君に、胸キュン。』ビデオ)が僕 の自然な姿なんですよ。あれはすごい楽なの。普段周りでもってるイメージっていう方が僕にはツライですね。ですから僕は楽な方向に行ったわけですよ、 YMOの中では。地を出しちゃったから。ああいうことやってるのがいちばん楽しかった。ところが取材を受けて難しいこと聞かれたり、そういうのが一番憎た らしいことでね。屁理屈を述べられるのが。それに対してこっちも屁理屈を述べなきゃいけないから(笑)。そういうやりとりが一番うっとうしかった」(42)

高橋幸宏の証言
「久しぶりに『テクノデリック』『BGM』を中心としたフィルムを観たんですよ」
(41)
「そしたら肌に合うんです。こう、快感なほどにクラい」(41)
「"僕ら、こんなにクラかったのか"なんて…(41)
「(編注:『君に、胸キュン。』の)ビデオ・クリップの、監督が立花ハジメなんですね。でこの振り付けは立花ハジメなんですね(笑)」(2)
「ジ・アザー、コッチの頃のね」
(2)
「昔のソウル・ダンスですよね。しかも下手な」(2)
「一応フェリーニなんですよイメージは。衣装は」(2)
「(編注:美術は)イタリアの火山なんですよ。わざわざ作ったんですね、ハジメくんが」(2)
「なんというやる気のなさなんでしょうね(笑)。なーんか…教授はヤなんですかね、これ(笑)。細野さん、妙に、やる気出してますよね」(2)
「いいですね細野さんの動きが」(2)

さまたまさとの証言
「YMO自身の声による開演のベルが鳴る。『ジリジリジリ
』」(43)
「まず舞台に設置されたスクリーンに『カオス・パニック』をバックにYMOのスライドなど〈YMOの歴史〉っぽく映し出される。」
(43)
「次いでヴィデオの上映。81年の新宿コマ劇場のもの。」(43)
「『ミュージック・プランズ』、『カムフラージュ』、『キュー』の3曲。」(43)
「今度はユキヒロさん中心のアナウンスで、『ただのおじさんとかわいいおじさんの違い』など解明。スクリーンには『ただのおじさん』が映し出される。」(43)
「そしていよいよこの日の白眉、『君に、胸キュン。』のプロモーション・ヴィデオの上映。」(43)
「ヴィデオが終わるといよいよYMOの御3人が舞台に登場。」(43)
「教授は、『小田和正です』と自己紹介する。」(43)
「で『浮気なぼくら』から『フォーカス』と『音楽』の2曲を紹介する。」(43)
「次は対談のコーナー。ゲストは、小池玉緒」(43)
「戸川純、カネボウのキャンペーン・ギャル相田寿美緒。客席からは、『スケベ』『おじさん』『かわいい』などさかんに声が飛んでいた。中には『右向いて』『上向いて』『左向いて』などYMOが肉体的にも苦痛なものまで飛んだ。」(43)
「またまたヴィデオ。今度の奴は、『コンピューター・ゲーム』。同時にメンバー自身によるメンバーの」(43)
「予定が発表された。」(43)
「最後を飾ったのは、『以心電信』と『君に、胸キュン。』の演奏。ほとんどテープではあったけど」(43)

立花ハジメの証言
「あの"胸キュン"のヴィデオは、YMOの作品の中でももっともアヴァンギャルドなんだよ(笑)。それまでストイック&アカデミックな雰囲気でやってた YMOがいきなりあれでしょ。その時点でいちばんアヴァンギャルドなことをやるって意味で、いちばんYMOらしい映像でもある(笑)」
(44)
「僕 は『胸キュン』を初めて聴いた時、これは今年の夏のカップ・ヌードルになると思ったわけ、日本全国どこでも同じ価格で、同じ品質で、ビニールがかぶってい る間は新品で、ちょっとでも銀紙がはがれてしまうとクズ同然になるような…。そういう意味じゃ、『胸キュン』もレコード店にある時は新品なんだけど、買っ た瞬間からクズになってしまう類のものだとね。でも、それは別に悪いことじゃないわけ。だって、カップ
ヌードルって別に悪い食べ物じゃないんだ。いわば日本の一つのポップ・アートみたいなものだと思う。だから、『胸キュン』は83年の夏のカップ・ヌードルっていうか、塩化ビニールのマス・プロ的製品だと思ったわけ」(45)
「映像ってのは、プラスチックスの頃から自分たちのプロモとか作ってて、経験があるって言えばあった。それをYMOのメンバーも知ってたから、ジャケット のデザインを依頼するような感覚で頼んできたんじゃないかな。そもそもあの曲って企画ものっていうか、タイアップものでしょ。みんなあんまりシリアスにな らずに楽しもうよみたいな感じだったんじゃない? これがすごく思い入れのある曲とかだったら、誰かちゃんとした映像作家に頼んでってなったのかもしれないけど、ああいう曲じゃん?(笑) YMOってみんな機転のきく人たちだから、"こりゃマジに作ってもおもしろくない"ってなって"じゃ、ハジメぐらいにやらせるとちょうどいいんじゃない "ってなったんじゃないの?(笑)」
(44)
「でもそういうノリだったと思うよ。一日で撮っちゃったもん、あれ」(44)
「なんかねえ、撮影クルーがみんなどこか映画関係のチーム丸ごとで来たんだよね。プラスチックスとちがってYMOは 下手に予算があったから、そういうプロなチームを雇っちゃった(笑)。でもさ、そのチームってふだんはプロの監督の下で映画とかコマーシャルを撮ってるわ けじゃん。とにかく勝手がちがうんだよ。こっちはいつも友達関係のカメラマンとかとやってたわけで、すっごいやりにくかった。向こうにもなめられちゃって さ。僕がカメラの人に"次のカット、寄りで撮りますから、カメラを人物に近づけてください"なんて頼むと、海千山千のカメラマンがめんどくさそうに"カメ ラを動かさなくてもズームさせりゃいいんだろ〜"的な。たしかにその通りなんだけど、こっちがそう頼んでんだからさ。僕、監督なわけじゃん(泣)。基本的 に楽しく作ったヴィデオなんだけど、ま、そういうこともあった。まあねえ、ベテランの映像チームの人たちからすると早朝からスタジオ入って、撮る内容があ れでねえ、しかも深夜までかかってるわけじゃん。フテる気持ちもわかるんだけどね(笑)」(44)

高橋理の証言
「(編注:『君に、胸キュン。』のビデオは)僕がADで」
(44)
「3人が踊るシーンで床一面に『浮気なぼくら』のジャケット写真が貼ってあるんだけど、あれ、僕が貼ったんだ」
(44)
「後藤(編注:順一)さんがにっかつロマンポルノの撮影チームを雇っちゃって、彼らを使って撮れ!と」(44)
「ハジメさんがさあ、使いづらそうだったよ。相手はばりばりプロの映画人でしょ(笑)。おまけに床に貼った写真がだんだんズレてくるし…」(44)

※編注:応募抽選による招待制ファン・イベント。

1983/04/24 『月刊明星』6月号(集英社)発売
YMOインタビュー/ぼくらは、あ・か・る・いおじさん隊

1983/04/25 大空はるみ『VIVA』発売。
ラグーン・ホテル:compose
悪い夏:compose

1983/04/25 18:00 遠藤賢司のレコーディング。日本コロムビア赤坂スタジオ。
オムライス/rhythm 他
※編注:ミニ・アルバム『オムライス』のレコーディング。この日が初日。

1983/04/25 20:00 日本テレビ『ザ・トップテン』放送。
YMO
 君に、胸キュン。
 ※1983/04/23@東京厚生年金会館

1983/04/26 遠藤賢司のレコーディング。日本コロムビア赤坂スタジオ。
ロミオとジュリエット

1983/04/27 松田聖子「天国のキッス/わがままな片想い」発売。
天国のキッス:compose, arrangement, bass, keyboards, synthesizer
わがままな片想い:compose, arrangement, all instruments
「妙なプレッシャーがありましたね。『歴代初登場1位を守ってきた』とか。『キミの番だぜ』みたいな。『そりゃまずいなぁ。1位取れなかったら僕はどうなんだろう』というプレッシャーですよ。でもはずみで行っちゃうんだろう、という」(8)
「ある意味では、松本も松田聖子さんも、僕もピークだったのかもしれない。何をやっても上手く行くような感じはありましたよね」(8)

天国のキッス
「日立のコマーシャルのためにインストで作ったもの(編注:「インターフェイス」)」
(8)
「それをまあモチーフに。コマーシャルではコードだけだったんですよ。それにメロディをつけてみたら面白かったんで、『これ使っちゃおう』と」
(8)
「LDKでモチーフを作って、それをアルファAスタジオで広げていったんです」
(14)
「そこでまた新たに作り直すというか、AスタジオのMTRに録っていくんです」
(14)
「LDKスタジオにはOTARIのMTRがあったから、それを自分で回して録っていましたけど、基本的には打ち込みだけ。MTRに録っていたのはあくまでもスケッチですね」(14)
MC-4で打ち込んだデータはカセット・テープにセーブしてあったので、それをロードして使う感じでしたね」(14)
「アレンジも、全部自分でやっちゃったんで、思い切り、思い切り、好きなことできたから、すごく満足してるの」(38)

わがままな片想い
「ぼく好きなのね。もちろん、A面も好きなんだけど(笑)」
(39)
「『PHILHARMONY』 のときに作っていた曲で、全く『PHILHARMONY』の雰囲気を持った曲なんですよ(笑)。直接的な影響でいうと、マイケル・ナイマンの最初のヒット 曲の『モーツァルト』だったりする。わりと現代音楽的な方法論でやってるわけです。B面にそういうのをやっちゃうというのは最初から決めていたんです」(9)
「B面にわりと過激なことをやるの」
(46)
「みんな聴くわけじゃない、B面だって」
(46)
「子 供たちがA面聴いて、A面でさえちょっと難しいかもしれないけれども、全部ひっくり返してB面聴くわけですよ。当時まだレコード盤だったから。そうする と、みんな聴いちゃうんだなあと思うと、ワクワクするんです(笑)」(9)
「そこでB面好きんなってくれるとね、いつかはひっくり返る」
(46)
「周りはヒヤヒヤしていましたけどね。作詞家の松本隆のおかげで守られていましたけど」(9)
「最初にあのー、小池玉緒
(39)
「彼女のために、作った曲なのホントは。こういうことをあんまり言っちゃホントはいけないらしいんだけど(笑)」(39)
「『カナリア』っていう曲。詞が違うんです」(39)
「ボツになっちゃったのその場でね。もう、飽きちゃって。でーもったいないからと思って、聖子ちゃんにぴったりだと思って、それでやってもらったんだけど」(39)
「"♪しばしもやすまず"って(笑)」(39)
「聖子ちゃんに言われました」(39)
「歌入れの時に」(8)

松本隆の証言

「これは当時の王道だったからね。とにかく一位をとらなくちゃいけなかった」
(15)
「連続1位が続いてるじゃない?だから、ほんとに、曲の人は大変だよね。詞はずっと僕だから、まあ、いつかは落ちるだろうなと思ってんだけど」
(47)
「曲の人は、毎回変わって、あの、もし、これで、あのー、2位とか3位だと、ヤバイなみたいな(笑)」(47)
「無言の、プレッシャーだよね」(47)
「テレビで、聖子が歌ってる、のを、見て、あんなになんかさ、外に向かって発散してる、表現ていうのが、んーと、松本・細野から出てくるっていうのが(笑)」
(48)
「この、内向的なさ(笑)、おじさん二人からさ、ああいう明るくて爽やかで」
(48)
「健康的で、360度に向かって、外側に放射してるっていうさ、生まれてくるっていうのがやっぱりすごいなっていう」(48)
「ある意味最高傑作かもしれないって思ったね」(48)

村上"ポンタ"秀一の証言
 天国のキッス
「実は俺と林のツインドラムなんだ」
(49)
「キックやスネアはコンピュータの打ち込みで、ハイハットとタムのフィルとかシンバル・クラッシュは生楽器の録音という合わせ技をやったのね」
(49)

※編注:アルバム『ユートピア』(同年6月1日発売)収録時、歌詞カードに「天国のキッス」の演奏クレジットが掲載されたが、そこにドラマーの名前はなかった。

1983/04/27 18:00〜24:00 遠藤賢司のレコーディング。日本コロムビア赤坂スタジオ。

1983/04/28 YMO、フジテレビ『クイズ・ドレミファドン!』収録。

「『クイズ・ドレミファドン!』に出たときの愉快な気持ちは、すごい快感でした。好き勝手やってましたから。3人揃うとふざけるんですね、1人1人はけっこうシリアスなんだけど」(1)
「2週分とって夜中になっちゃったんだけど、そのあと『ベストテン』にでなくちゃいけなくて、TBSまで飛んでった」
(46)

1983/04/28 21:00 YMO、TBSテレビ『ザ・ベストテン』生出演。赤坂/TBS Gスタジオ。
司会:黒柳徹子、久米宏

YMO
  高橋幸宏(vo)、坂本龍一(cho)、細野晴臣(cho)
 君に、胸キュン。
「遅れちゃってね。みんなに頭下げて"どうもスイマセン""どうもスイマセン"ってね」(46)
「おもしろかったんだけどね、あやまるのも(笑)」(46)
「そいで頭を切り換えて、こんなんなって踊ってね"スリーファンキーズ"みたいに(笑)。でもさすがに顔がダメだった。最悪だったの。かわいそうなの(爆笑)」(46)
「やっぱりアイドルにはかなわないって」(46)

1983/04/29 高橋健太郎のインタビュー取材を受ける。

※編注:『週刊FM』5月23日号(5月18日発売)に掲載。

1983/04/30 18:00 遠藤賢司のレコーディング。日本コロムビア赤坂スタジオ。

1983/05/02 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」17
※編注:特に告知がなされないまま、この回をもって連載は終了。

1983/05/03 3:00 FM東京『マイ・サウンド・グラフィティ』放送。
共演:ウィリアム・ジャクソン、大橋俊夫、坂本龍一、高橋幸宏
※編注:2週間(全8回)にわたる『YMO全八巻』の初回。アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』特集。

1983/05/04 『FMステーション』5月9日号(ダイヤモンド社)発売
YMOインタビュー/YMOを絵で表わすと富士山の爆発になる!?
※編注:FM東京『マイ・サウンド・グラフィティ』用に収録されたインタビューの抄録。

1983/05/04 3:00 FM東京『マイ・サウンド・グラフィティ』放送。
共演:ウィリアム・ジャクソン、大橋俊夫、坂本龍一、高橋幸宏
※編注:『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』特集。

1983/05/05 3:00 FM東京『マイ・サウンド・グラフィティ』放送。
共演:ウィリアム・ジャクソン、大橋俊夫、坂本龍一、高橋幸宏
※編注:『パブリック・プレッシャー』特集。

1983/05/05 21:00 YMO、TBSテレビ『ザ・ベストテン』生出演。赤坂/TBS Gスタジオ。
司会:黒柳徹子、久米宏

YMO
  高橋幸宏(vo)、坂本龍一(cho)、細野晴臣(cho)
 君に、胸キュン。

1983/05/06 3:00 FM東京『マイ・サウンド・グラフィティ』放送。
共演:ウィリアム・ジャクソン、大橋俊夫、坂本龍一
※編注:『増殖』特集。この日は高橋幸宏が欠席。5月10、11日の放送にはYMOのメンバーは出演していない。

1983/05/06 13:00〜24:00 遠藤賢司のレコーディング。
vocal(遠藤賢司)

1983/05/07 寺内タケシと対談。

(編注:YMOを)インストゥルメンタル・グループとして、寺内タケシさんに褒められた」(9)
「インスト・グループという点がいい、と」
(50)
「そのころはまたヴォーカルをやりたかった時期なんで、寺内さんには、『いや、ヴォーカルも実はやってます』っていっちゃったりして(笑)」
(9)

※編注:『平凡パンチ』5月30日号(5月17日発売)、『サウンドール』8月号(7月20日発売)に掲載。

1983/05/07 13:00〜24:00 遠藤賢司のレコーディング。
vocal(遠藤賢司)

1983/05/07 22:00 文化放送『小林克也 ナンバーワン・ジョッキー』放送。
共演:小林克也、坂本龍一、高橋幸宏

1983/05/08 12:00 フジテレビ『クイズ・ドレミファドン!』放送。
共演:高島忠夫、坂上とし恵、江藤博利、坂本龍一、高橋幸宏、小林克也、森進一 他

YMO
  高橋幸宏(vo)、坂本龍一(cho)、細野晴臣(cho)
 君に、胸キュン。
 ワイルド・アンビションズ
※編注:2曲とも演奏はあて振り。「ワイルド・アンビションズ」のヴォーカルは口パクと思われる。

1983/05/08 19:00 FM東京『レコパル 音の仲間たち』放送。
共演:手塚理美、坂本龍一、高橋幸宏

1983/05/09 15:00〜24:00 遠藤賢司のレコーディング。日本コロムビア赤坂第4スタジオ。
vocal(遠藤賢司)、mix

1983/05/09 20:00 日本テレビ『ザ・トップテン』放送。
YMO  高橋幸宏(vo)、坂本龍一(cho)、細野晴臣(cho)
 君に、胸キュン。
※編注:VTR出演。収録は芝浦/スタジオ'A'。

1983/05/10 『宝島』6月号(JICC出版局)発売。
インタビュー/音楽にデジタルなんてないよ

1983/05 無印良品のためのレコーディング。

1983/05/12 3:00 FM東京『マイ・サウンド・グラフィティ』放送。
共演:ウィリアム・ジャクソン、大橋俊夫、坂本龍一、高橋幸宏
※編注:各メンバーのソロ作品を特集。

1983/05/12 21:00 TBSテレビ『ザ・ベストテン』放送。
YMO  高橋幸宏(vo)、坂本龍一(cho)、細野晴臣(cho)
 君に、胸キュン。

1983/05/12 22:00 FM東京『サウンドマーケット』放送。
共演:金子晴美、坂本龍一、高橋幸宏

1983/05/13 3:00 FM東京『マイ・サウンド・グラフィティ』放送。
共演:ウィリアム・ジャクソン、大橋俊夫、坂本龍一、高橋幸宏
※編注:『浮気なぼくら』特集。

1983/05/13 22:00 FM東京『サウンドマーケット』放送。
共演:金子晴美、坂本龍一、高橋幸宏

1983/05/15 12:00 フジテレビ『クイズ・ドレミファドン!』放送。
共演:高島忠夫、坂上とし恵、江藤博利、坂本龍一、高橋幸宏、小林克也、大島渚、相田寿美緒

YMO
  高橋幸宏(vo)、坂本龍一(cho)、細野晴臣(cho)
 君に、胸キュン。
 以心電信
 音楽
高橋幸宏の証言
 以心電信
「ハジメがなんか背景描いてくれたりして」
(51)

※編注:「君に、胸キュン。」は3人ともスタンドマイクで踊りながら歌唱。「以心電信」は3人ともハンドマイクを手に口パク。「音楽」の演奏はあて振りで、ヴォーカルは口パク。

1983/05/16 『平凡パンチ』5月30日号(平凡出版)発売。
対談/音楽療法対談 寺内タケシ × 細野晴臣

1983/05/17 『音楽専科』6月号(音楽専科社)発売。
YMOインタビュー/本気なぼくら。

1983/05/17 22:00 NHK-FM『サウンドストリート』放送。
共演:坂本龍一、高橋幸宏
※編注:『浮気なぼくら』特集。

1983/05/18 『週刊FM』5月23日号(音楽之友社)発売。
インタビュー/YMOを一人一人解剖する 3

1983/05/18 13:00〜17:00 遠藤賢司のレコーディング。日本コロムビア赤坂第4スタジオ。

1983/05/19 13:00〜17:00 遠藤賢司のレコーディング。日本コロムビア赤坂第3スタジオ。

1983/05/19 21:00 TBSテレビ『ザ・ベストテン』放送。
YMO  高橋幸宏(vo)、坂本龍一(cho)、細野晴臣(cho)
 君に、胸キュン。
※編注:VTR出演。番組オーケストラ(宮間利之&ニューハード)の生演奏をバックに、3人ともスタンドマイクで踊りながら歌唱。収録は赤坂/TBS Gスタジオ。

1983/05/20 『サウンドール』6月号(学習研究社)発売
対談/細野晴臣 × 藤真利子

1983/05/20 スネークマン・ショーのカセット・ブック『スネークマン・ショー』(角川書店)発売。
テーマ・オブ・バリ:mix

1983/05/21 藤真利子『アブラカダブラ』発売。
プロローグ:compose
天使と魔法:compose
エピローグ:compose
天使と魔法
「作詞が微美杏里となってますが、これは、藤真利子さんの、まあペンネームですね」(52)
「藤さんはいつもYMOの周辺にいて。YMOが好きだったのかな。割と近い仲間の一人という感覚でしたね。頼んでくれたんで、あぁ嬉しいなあとは思いました。綺麗な人だったんで、がんばろうと(笑)」(8)
「どうやってこんな曲ができたのかとは思うんですよ。自分ではいつも新鮮に聴けるタイプの曲で」(8)
「アレンジがよかった」
(8)
「白井良明、くん」
(52)
「自分でやる時間がなかったのかな」
(14)
「すごい、何 このアレンジって」
(8)
「シタールとかすごいですよね」
(52)
「本格的なシタールが入っていて、『ティーンエイジ・イーグルス』の時とまた全然違うっていうか」(8)
「アレンジができあがってきてびっくりしました」
(52)

1983/05/21 ビートたけし「TAKESHIの たかを くくろうか/男というもの」発売。
TAKESHIの たかを くくろうか:bass

1983/05/21 近田春夫・松任谷由実と鼎談。

※編注:『ザ・テレビジョン』6月10日号(6月1日発売)に掲載。

1983/05/23 『LEE』7月号(集英社)発売。
映画評/アギーレ・神の怒り

1983/05/23 『月刊明星』7月号(集英社)発売。
写真作品/YMO制作エレキテル・ポップアートの世界
※編注:メンバーが撮影したポラロイド写真を2〜3点ずつ掲載。

1983/05/24 YMO『浮気なぼくら』発売。
希望の路:produce, mix
フォーカス:produce, compose, words, arrangement, vocal, all instruments, mix
音楽:produce, vocal, mix
オープンド・マイ・アイズ:produce, arrangement, bass, mix
以心電信(予告編):produce, arrangement, all instruments, mix
ロータス・ラブ:produce, compose, words, arrangement, vocal, all instruments, mix
邂逅:produce, mix
希望の河:produce, mix
ワイルド・アンビションズ:produce, compose, words, arrangement, vocal, all instruments, mix
「僕がだんだん、身を引いていたころですね。だってもう辞めたかったんで(笑)」(5)
「いいアルバムだと思うよ」(21)
「『…胸キュン。』がLPを代表しているということはいえますね」
(10)
「これを出したときにスタッフもみんな解散することを分かってやっていたし、曲がポップミュージックになってきた。テクノの枠を一生懸命考えていたのが『テクノデリック』だったけど、『浮気なぼくら』は、ビートルズ還りというかね」(21)
「これ、ジャケットに騙されますけど、基本的には『テクノデリック』の第2弾みたいなものだったんです」(5)
「ジャケットがパステルなんです」(53)
「赤とグリーンと、ブルーを着てるんです。セーター」(53)
「LPを作った時の気持ちが、そういう色だったんですね」(53)
「音は、それ自体は、それほどパステルじゃない」(53)
「ジャケットだけです、明るいのは」
(43)
「根本的に内面から明るくなったわけではないんです」
(27)
「この中では、『君に、胸キュン。』『以心電信』が歌謡曲で、ほかはYMOなんです」(5)
「YMOっていうのは、基本的に実に真面目だっていうことなんですけど」(5)
「YMOの中で発見した自分なりの表現方法っていうのを、ここでもやっているだけですね。YMOでしかできないことっていうのを、ずっと考えてましたんで」(5)
「歌が入ってね、はじめて曲が生きてくるというスタイルになってきた」(54
「みんな歌なしではいられなくなってるんだ、声なしでは。曲作りがそうなっちゃってるし」(54
「日本語でやるっていうのが事前に決まっていたんです」(10)
「歌謡曲の歌詞というのは、全部、松本隆が種まいてきたことが実っているような気がするんです。そういうのをYMOでは使いたくない、という気持ちはあったな。かといって稚拙な詞も使いたくないし……。英語でやっているぶんには、そういうことがうまく守られててよかったんだけど。日本語でやるということは、一種の冒険に近いと思うんですよ。どう出るかわからない」(55)
「非常に使いづらくて、ずいぶん悩みました。内容的には、ほとんどがラヴソングといっていいと思うんだけど、ダイレクトに『愛してるよ』とかいえないんだよね。生々しくて(笑)。生々しいわりには観念的でね。ま、いつかはやろうと思っていたことだし」(55)
「潮時だろうと判断してやってみました」(55)
「やっぱり僕が作る場合は、はっぴいえんど風になっちゃうんだよね(笑)。昔やっていたものの続き」(55)
「かなり、ほとんどが日本語ですから、これもう日本の、国内の人に聴いてもらいたいという意志の表われです」(10)
「全曲スタジオで創ったんです」
(10)
「ずい分ギターに活躍してもらって、キュートなサウンドになった」(54
「コワモテでニクニクしいサウンドだったけど」(27)
「"ニクさあまってかわいさ百倍"になった」
(27)
「リン・ドラムが面白くなってきたときですね、これは」(5)
「プログラミングがしやすかったってのがありますね。インターフェイスがかなり肉体的な感覚に忠実だったんで、自分に向いていたわけです」(5)
「人にやってもらうと、まず、音楽以外のことからいろいろはじめなきゃならないでしょう」(18)
「そういうのをまず抜きにしたい(笑)。テクノにそういうのはいらない(笑)。リズム・ボックスと同じ気持で使ってる。それとある種のパターン化されたリズムとサウンドが、ぼくは」(18)
「心地よい」(18)
「ただ、好きなの」(18)
「ドラムスの音を常にいい音で録るというのは大変なことなんです。空気の関係で一時間ごとに音が変わってしまう。そういう時、リンとかオレンジだとメモリーできるし、いつでもいい音が出る。だからどうしてもそっちを使うことになってしまうんだな」(55)
「幸宏はドラム、あんまりたたかなかったね」
(54
「本人も叩かなくていいんだっていうのがあったんでしょう」(5)
「叩いても叩かなくても同じだと。ドンカマを聞きながら、必死になって追いかけて、全トラック、パンチインしながら録っていくっていうことから解放されたわけですね、幸宏も」(5)
「面白いドラム使ったね」(54
「キディランドで売っていたオモチャのタイコをわりと頻繁に使いました(笑)」(55)
「あれ、叩いている時の幸宏のかっこうは面白かったね」(54
「イーミュレーターやLMD、リンドラム、オレンジも使ったし、エフェクターも多用した」(54
「分らない所で凝って使った」
(54
「リンの音をそのまま使うってことはなかったね。いろいろいじくったね」(54
「シンセも安くて良いものがずい分出回っているし、MC-4みたいなコンピューターも」(54
「イーミュレーターにしろ何にしろ」(55)
「歌謡曲に使われる位で、レコーディングのあたり前のテクノロジーになってしまった」(54
「こういった物を今さら前面に出してもしょうがない、というわけで『浮気なぼくら』は聴いてて分らない所に凝った音を入れているけど、全体的にはあたり前ぽい音を使っているな」(54
「アクセントで必要な時にエレキベースを入れる」(54
「シンセベースを良く使うから」(54
「(編注:シンセベースは)プロフェット5が多いね」(54
「いろいろエフェクターをかけても良いしね」(54
「MC-4はベースやシンセリズムで使うんだけど一回録音すれば終りってわけじゃない。後で気に入らなくなったら入 れ換えなくてはならないから、いつでもMC-4が動かせるようにシンクロ信号を録音しておかなくてはならないんだ。こうしておけばベースパターンを変える なんてわけないからね」(54
「(編注:プログラミングは)僕の曲は僕が全部やってました」(5)
「(編注:ベースに)イーミュレーターも使ったけどこれも仲々面白かったね」(54

ロータス・ラブ
「ちょっと照れ臭い曲ですけど、好きな人がチラホラいる」
(1)
「『BGM』以降は"自分の曲"をちゃんと作り出しているから、これはやっつけじゃないし、そんな曲は普遍性を持つ」
(21)
「ちょっとビートルズのマジカルミステリーツアーの頃のサウンドを意識したんだけど。シタール風の音やインド風の音を多用してね。サイケデリックでしょ」
(54
「自分としては『CUE』を作ったときの高揚感が続いている」
(21)
「『世界の外で会おうよ』という詞に反応する人が多いんですが、心境の変化でいうと、『灰色の段階』からずいぶん変わってきたんですね。『U・T』とか、 地球外生命体の歌もありますが、そういう全地球規模、宇宙規模の中で自分を捉え直そうという。それがのちにアンビエントに至るんですけど、いろんな忙しさ の中から生まれた、自己防衛というか、そういう知恵ですね。神経症からの逃避であったりとか、ある種の解決に向かっていくプロセスにできた曲ですね」
(1)
「自分の意識をちょっと表現したいなという気持ちがあったんですね。非常にプライベートな意識。ソロのようなアプローチですね」(5)

ワイルド・アンビションズ
「ちょっと考えられない音源を使ったね。アルファのスタジオにあったソファーの下のゴムの板を叩くと良い音がするんだ。それでこの叩いた音をイーミュレーターに録音してベースとして使ってみたわけ。何ともファンタスティックな音になったね」
(54

高橋幸宏の証言
「解散を前提に作りました。だからレコード会社に、じゃあ、売れる音楽を作ってあげましょうという感じでした。当時の売れる音楽=歌謡曲をやってあげましょうと」(56)
「と同時に、自分たちなりのマスに対するアンチ・テーゼでもあったんです。反発しながらも同調してみましょうという複雑なものでしたね」(56)
「もう、『ライディーン』みたいなものには心が全然、動かなかったですね。やっぱり思うんだけど、あの80年頃の YMOブームって日本の音楽業界から切り捨てられたっていう面があるじゃないですか。やっぱりあれはなかったことにしようっていう。誰にも理由がわからな いまま"売れちゃった"ものだから、そういうものはなかったことにしよう、と。ぼくたちも、誰にでもわかる理由で売れる音楽を作ろうっていうことで、歌謡 曲をやることにしたんです」(56)
「とても、ポップですね」
(53)
「全部『胸キュン』のような曲が入ってるわけではないが、しかし、えー、作り方としてはとてもポップ」(53)
「パステルの軽いトーンになっている。作りながらドロドロしていない」(53)
「YMO の歌詞は、すごくシビアだったでしょ?それは英語だったから、できたの。同じような内容を日本語で歌うのには無理がある。混乱とか混沌とかいう言葉を歌に できる?そんなことするよりラヴ・ソング作ったほうが、よっぽど面白いんじゃないかと思ったわけ。それは細野さんも教授も同意見。ただ、ラヴ・ソングにし ても、日本語だと使える言葉が限られてくるでしょ。そうすると叙情派フォークの人たちが使うのと同じ言葉が、どうしても出てきてしまう。できるだけ観念的 にならないように、という意識はあったんだけどね。だから、同じ言葉を使っていても、聴く側がどう聴くか、という問題になってくるのかもね。そのへんのテ レみたいなものは、あったと思う。全員に。細野さんなんか、はっぴいえんどの頃からその道のオーソリティだからね。それをまたやらなきゃならないのか、と 思ったかもね(笑)」(55)
「自分の曲はあんまり好きじゃない」(5)
「そんなに凝ったことはやらなかったね。歌入れには苦労したけど。シンセもいつも使うやつのプロフェット5が中心で、ところどころローランドのジュピター4や8を使ったけれど」(54
「実験とか、本当はあるんですけど、聴く側がいかにそういうことを意識しないですむかってことに、とにかく細心の注意を払ってます(笑)。教授も言ってたけど、とにかく新しく聞こえる素振りだけでは困る、そんなのが一番古いんですよね。言い方が屈折してますけど」(3)
「実際にプレイしたのは僕たち3人と、ギターのビル・ネルソン」(55)
「わりとべったり一緒だった」(55)
「ギターがわりとふんだんに入ってる。ビルの好きなように弾いてもらったんだけど、すごくいいプレイをしているよ」(55)
「ドラムはリンの、僕の音がサンプリングしてあるやつを使ったりとか。あとはオモチャのドラムをいっぱい使っていますね」(5)
「おサルのオモチャあるでしょ?あれが叩いてそうなこんなちっちゃいやつで」(51)
「仲々良い音がする」(54
「『いい音だな、これ録ってみようか』って」
(51)
「ただ力いっぱいたたくと皮がやぶけそう」(54
「ド ラムの方には、実はいろいろ細工してるんです。タムをワンチャンで録って、それをディレイして両側へ拡げていく。オカズは逆に両脇から来るのね。で、スネ アのオカズと必ずどっかで重なって、最後は、一気にまん中へドバーッとくる。実にすごいんですよね。それが全部、オモチャの太鼓だったりするわけ。録音し てるところなんか悲惨なものでね。だけど、聴いてみると、普通のドラムなんかよりずっといい音がするんですよ」(3)
「例えばリンの音にイコライザーをかませるのはあたり前で、その音をベースアンプに送って鳴らし、マイクで拾うなん てこともやったし…。もっと凝ったのはアンプのスピーカーをドラムスのバスドラムやスネアーの所にセットしてバスドラムの皮やスネアーのスナッピーに共鳴 した音を拾うなんてこともやった。これでずい分リアルな音になったと思うよ」(54
「LMDやオレンジは歌謡曲のレコーディングにも使われ始めて」(54
「これはオリジナルのリンドラムといった使い方をした。エフェクトをかけたスネアーやタムの音をこれらに録音して、MC-4の信号や手で叩いたりで演奏するわけ」(54
「MC-4はリンドラムともシンクロできるし、LMDやオレンジも自動的に叩いてくれるからもうボク、ドラムスをやらなくて良くなった」(54
「MC-8はちょっと難しかったけれど、MC-4が出てから自分達で打ち込めるようになったね」(54
「教授はほぼ完璧に打てるんだけど、なまけてイクイップメント担当の人にやってもらってる」
(55)
「アルバム・タイトルは細野さんが考えてきたんだ。30個ぐらい。あの人は、わりとコピー・ライター的なとこがある から、YMOのタイトルとかキャッチを考えるのはいつもあの人。『あなたと夜と音楽と』なんていうのもあったよ(笑)。帯のコピーに決まった『憎さあまっ てかわいさ100倍』というのも、もとはタイトルの候補だったんだ」(55)
 ロータス・ラブ
「細野さんの好みがモロに出た曲」
(54
 希望の河
「気絶するぐらいキーが高いんですよね(笑)」
(2)
 ワイルド
アンビションズ
「ほとんど細野さんだと思いますよ」(5)
「歌詞も細野さんのイメージで」(5)
「非常に細野さん的な世界」(51)
「ただ、あのリズムを作ったのがまず2人ですから」(5)
「あのシークエンス、実はツイン・リバーヴの中にTR-808の音をぶっこんでるんですけどね。それにディレイをかけてるんですけど、独特な音色になってますね」(51)
「実は僕がいないところで、教授と細野さんがやってるんですよ」(5)
それが重要なことでね」(5)
「『わー、カッコイイじゃん』とかって、あとから言ったのを覚えてるから」(5)
「僕、歌だけ呼ばれましたから」
(5)

坂本龍一の証言
「ポップですね」
(53)
「曲の、作り方がね」(53)
「POP路線は、お遊びだったので、あまりやる意味がなかった。しかし、あの時点ではああでもしなかったら、息がつまりそうだった。無理に遊ぼうとしていたんだ。」(56)
「ま あ『軽さ』とでも言うのかなあ、そんなのを取り入れた。YMOとしては、前作の『テクノデリック』で、一番わかり難いことの極限まで演り尽くしちゃったん ですよね。それからは、もう各自ソロ活動が大きなウエイトを占めてて、みんながやりたいようにやってきた。細野さんなんかは、歌謡界の仕事が多かったで しょう」
(3)
「だからといって、歌謡曲をつくろうという感じじゃなく、別にシングル向きの曲ばっかりじゃないから、でも、まあシンプルで明るいものを目指しました(笑)」(3)
「軽い曲もあるしね、重たい曲もあるんですけども」(53)
「みんなに、聴いてもらおうと」(53)
曲の傾向はお互い似てますけどねえ」(3)
「喧嘩がおこらないようにアルバムを完全三等分(笑)」(3)
「ソロが各自二曲ずつと、坂本 - 細野、細野 - 幸宏、幸宏 - 坂本のコンビネーションで一曲ずつ、最後に三人の合作が一曲」(3)
「コントローラーにMC-4を使ったけれど手弾きが多かったね」(54
「大きいシステムシンセは使わなかった。かなりの部分は手弾きで演奏したから、プロフェット5が多かったね」(54
「MC-4と組み合わせてベースやシンセリズムに使った」(54
「ベースはほとんど手弾きでなくてMC-4でやってる。これを打ち込む時は譜面を書く」(54
「鍵盤をつないでプログラムも出来るし楽になったね」(54
「コード弾きなどのバッキングは手弾きで、ストリングスぽい音やブラスぽい音はもちろんだし…。凝った音も結構やっ ているんだけれど『絵日記』(編注:「音楽」の初期タイトル)の後の方で鳴っている音や『YOU'VE GOT TO HELP 〜』のイーミュレーターのラッパとからむ音だとか、『邂逅』の金属を叩いたような音とかあげていけばきりがない」(54
「プロフェットの他に使ったシンセはローランドのジュピター4と8だね。このシンセの特徴は何といってもアルペジオだろう。アルペジオのボタンを押してコードをワッと押えてやれば、パラパラパラパラ、アルペジオを演奏してくれる便利なもの」(54
「幾つかの曲でこの音を使っている」(54
「一番最初についたのがこのジュピターだろうな。デジタルシーケンサーとはまた違ったちょっと即興的な自動演奏ができるのがいい所だね」(54
「ほとんどのドラムスはリンのLM-1を使ったね。これには古いのと新しいのがあるのだけれど、どちらも音が違うんだ。曲やパートに合わせて使い分けているけれど」(54
 音楽
「ぼくが、娘の美雨のために書いた曲です。当時、彼女は3歳ぐらいかな。音楽が好きでした。時々、変な踊りを踊ってたんですよ、ほんとに。それがおかしく て、この曲を書いたようなもんです。『地図帳』とか『ピアノに登って』とか『リンゴかじって』とか『電車ゴトゴト』などは、実は60年台の前衛音楽の手法 のことです。そういうのも音楽なんだ、ということを言いたかったわけです。ちなみに、ピアノに登ったのは、言わずと知れたヨーコ・オノさんですね。 (^^;」
(4)
 ロータス・ラブ
「涅槃ですね!」
(4)
「この曲も『CUE』の兄弟と言えると思います。」
(4)
「ユキヒロの堂々としたドラムが、もう完全に初期のYMOとは別物ですね。」
(4)
「細野さんの『お神楽』的ウネウネシンセも、ほんとに堂に入ったものです。
細野さんの精神状態が何らかの確信を得たのを感じます。(4)
「インド風のスケール(音階)も使っているし、プロフェットで作った伸びる音をホイールを使ってクネクネした音にするのがポイントだろうね」(54
「中期ビートルズサウンドの感じを出すにはギターをレズリースピーカーに通してコードをカッティングするのも一つの方法」
(54
「別にレズリースピーカーじゃなくてエフェクターで同じような効果が出せるものもあるし、ギターじゃなくてシンセの鋭い音色を入れてもいいんだ。そんな音もこの曲では使っているよ」(54
 邂逅
「なんか熱に浮かされた感じがありますね。でも、甘い。この甘さは何だ?音楽って微妙なもんだね〜。この頃、E-mu(イミュレーター)ってサンプラーが大活躍っす。『戦メリ』でも活躍のワイングラスのサンプルも随所に。」
(4)
 ワイルド・アンビションズ
「ピアノも使っている」
(54
「ウーリッツァーっていう会社の電気ピアノでね。ふつう電気ピアノっていうとフェンダーのやつなんだけど、このウーリッツァのピアノはもっと音が軽いんだな」(54
「そういったイメージの音があったからひさびさに使ってみたんだ」(54

井上嗣也の証言
「僕にとっては、表よりも裏の"手"のポートレイトのつもりなんだ。表の顔にも、もちろん表情はあるんだけど、裏の手の方が表情は豊かだね」
(6)

1983/05/25〜26未明 小池玉緒のデモ・レコーディング。高橋幸宏との共同作業で小池玉緒も立ち会い、NHK教育『YOU』の撮影が入る。芝浦/スタジオ'A'。

※編注:のちの「鏡の中の十月」。レコーディング風景はNHK教育『YOU』で同年6月11日に放送された。スタジオ内での高橋幸宏・小池玉緒との写真が2023年12月20日発売のCD『TAMAO』ブックレットに掲載されている。

1983/05/26 小池玉緒のデモ・レコーディング。坂本龍一の作業に立ち会う。芝浦/スタジオ'A'。

※編注:「鏡の中の十月」の続き。前日と同様にNHK教育『YOU』の撮影が入ったが、6月11日放送分の映像に細野晴臣は映っていない。スタジオ内での坂本龍一との写真が2023年12月20日発売のCD『TAMAO』ブックレットに掲載されている。

1983/05/26 NHK教育『YOU』収録。渋谷/NHK。
共演:糸井重里、荻野目慶子、高橋幸宏、坂本龍一

1983/05/26 21:00 TBSテレビ『ザ・ベストテン』放送。
YMO  高橋幸宏(vo)、坂本龍一(cho)、細野晴臣(cho)
 君に、胸キュン。

1983/05/27 『ハイファッション』取材。

※編注:8月号(6月28日発売)に掲載。

1983/05/29 遠藤賢司・羽仁未央が自宅に来訪

1983/05/30 YMO、NHK総合『レッツゴーヤング』収録。

※編注:6月12日に放送。

1983/05/30 20:00 日本テレビ『ザ・トップテン』放送。
YMO  高橋幸宏(vo)、坂本龍一(cho)、細野晴臣(cho)
 君に、胸キュン。

1983 『MONTHLY PLANET』6月号(ポニーキャニオン)発行。
コメント
※編注:かしぶち哲郎 featuring 矢野顕子『リラのホテル』について。

1983/06/01 『ザ・テレビジョン』6月10日号(角川書店)発売。
鼎談/私たち、今、アイドル演ってます 松任谷由実 × 近田春夫 × 細野晴臣

1983/06/08 『週刊TVガイド』6月17日号(東京ニュース通信社)発売。
インタビュー/YMOの「胸キュン」音楽講座。

1983/06/08 『プレイボーイアイズ』7月号(集英社)発売。
写真・インタビュー/「浮気なぼくら」全曲誌上初公開 Y.M.O.のポラロイド

1983/06/11 20:00 NHK教育『YOU』放送。
誰でもミュージシャン パート2 〜YMOの音楽講座〜
共演:糸井重里、荻野目慶子、高橋幸宏、坂本龍一

YMO  坂本龍一(syn)、細野晴臣(syn)、高橋幸宏(syn)
 YOUエンディング・テーマ

1983/06/12 遠藤賢司と会う(?)。

1983/06/12 18:00 NHK総合『レッツゴーヤング』放送。
司会:太川陽介、石川ひとみ
出演:渡辺徹、シブガキ隊、ソフト・クリーム、岩崎良美、竹本孝之、シンディ・ウッド、サンデーズ

1983/06/13 『ビッグスター通信』取材。

※編注:詳細不明。

1983/06/13 『東京新聞』取材。

※編注:詳細不明。

1983/06/15 1:00 ニッポン放送『オールナイトニッポン』電話出演。
DJ:高橋幸宏
共演:坂本龍一、景山民夫 他

1983/06/15 『スコラ』原稿〆切。

※編注:7月28日号(7月14日発売)に掲載。

1983/06/18 15:00 FM東京『サタデーアドベンチャー』放送。
共演:松任谷由実、坂本龍一、高橋幸宏

1983/06/20 『サウンドール』7月号(学習研究社)発売
対談/細野晴臣 × 高橋章子

1983/06/21 かしぶち哲郎 featuring 矢野顕子『リラのホテル』発売。
ひまわり:bass
フレンズ:bass
屋根裏の二匹のねずみ:bass
堕ちた恋:bass

1983/06/22 『家庭画報』取材。

※編注:詳細不明。

1983/06/25 高橋幸宏「前兆/アナザー・ドア」発売。
前兆:bass

1983/07/02 『オリーブ』7月18日号(平凡出版)発売
選盤・解説/気分すぐれぬ日は、環境から登校拒否をくわだてる。

1983/07/07 スミスクライン&フレンチオーバーシーズ カンパニー/コンタック600 CM曲のレコーディング。赤坂/タムコスタジオ。

牧村憲一のディレクションのもとに、スタジオで作曲されたものである。」
(57)
「CFは細野晴臣がキャラクターとして起用されイタリア映画にイメージを求めた。」
(57)
「タイトルはロベルト・ロッセリーニであったが、なんとはなしにピエトロジェルミに変わってしまった。」(57)

※編注:のちにレコーディングし直され、『ピエトロ・ジェルミ」のタイトルで『コインシデンタル・ミュージック』に収録。

1983/07/09 ベルギーへ出発。

「最初はぼくのLPのレコーディングのつもりだったんですが、作ってる暇がなくなりそうになってきたので、急きょ越美晴のレコーディングに切り換えて」
(18)
「見聞しに行こうと思ってたんです。軽い遊びのつもりで」(18)
「ベルギーっていうのに気持が高まってたの。ベルギー、ベルギーベルギーって思って」(58)
「ベルギーっていうのは謎だったのね、ぼくには。で、だれに聞いてもよく知らないっていうので。で、ある人に聞いたら、あそこは何もなくて、人はうたがい深くて暗いって」
(58)
「ヨーロッパの通り道といわれていて、人々がいっぷう変わってるって」(59)
「あんまりいいこと言わない。だからよけい好きになった(笑)」(18)
クレプスキュールの音楽は全部好きでね」(58)
ロスト・ジョッキーソフト・ヴァーディクト、オムニバスの『ブリュッセルより愛をこめて』とか、わりと暗ーい感じの音楽に波長が合ってた」(18)
「とにかく暗い、ヨーロッパのダークサイドのような香りに惹かれる部分があって」(59)
「環境音楽のような手法をベースに置いてるというか、現代音楽的なものと、ヨーロッパのロマンティシズムや暗い部分やいろんなものが入りまじってますね」(18)
テレックスもそうだけど、田園的なのどかさの中に、重く暗いダークサイドを感じる"謎"があってね」
(59)
「あとミカドというグループもYMOがやり残しているようなノスタルジックなテクノをやっていて」(18)
「新しいなと思ったもの、生き方が。音楽そのものよりも」(58)
「ブリュッセルは、明るいものと暗いものが極端に存在する町ですね。テレックスやミカドは明るいでしょ」(18)
「この人たちは何なんだろうなと思って。で、たまたまテレックスっていうのは、ベルギーのグループでひとつだけ知ってたの」(58)
「ミハルちゃんが彼らの『ラムール・トゥジュール』という曲を気に入っててね。僕もすごく好きな曲なんだけど」(59)
「彼らのシングル」(18)
「まっ先に好きな曲」
(58)
「たまたま桑原茂一プロの人が、曲を選んでくれって来たの」(58)
「好きなミカドを中心にしてね。テクノ帰り、また。で、テレックスって言ったら、ちょうどその人が持ってて『これでしょ』って出して来たの。見ぬかれてた」(58)
「その曲が好きで、あ、もうこれテレックスのとこへ行こうと思ったの」(58)
「で、その前にテレックスのリード・ヴォーカルの人(編注:ミッシェル・モース)から手紙もらってたのね、YMO宛てに。『テクノデリック』が好 きだっていうファン・レターみたいな」(58)
「その中の1曲がすごく好きだっていうんですよ」(59)
「『グラデイテッド・グレイ』が好きだっていうの。ずいぶん変わった奴だなって思って(笑)」(59)
「これはいつか会おうかなと思ってたんだけど」(58)
「わりと軽い気持ちで"テレックスとやろう"と思いついたら、それがスムーズに決まったんですよ」(59)
テレックスってあんまり好きじゃなかったんだけど」(58)
「YMOを始めて1年ぐらいしてからかな?アルバムを聴いて」(59)
「"のんびりしてるな"ってみんなで言ってたんです。のどかなテクノ……(笑)」(59)
「かわいいバンドだと思っていた」(18)
「僕らはかなり異質なものと思ってた。クラフトワークなんかはやっぱりドイツ的だし、テレックスの場合はひじょう にヨーロッパ的な田園風景を思い起こさせるというか」(59)
「牧歌的なんです。そうするとその国がわかっちゃうんです。農業国だなって(笑)」(60)
「音自体はなじみのあるものだったから、その背後にある"感覚"の違いのようなものに、とても興味を 持ったんです」
(59)
「テレックスの曲の中でも『ロックアラウンドクロック』のやり方は、YMOではできないんですよ。YMOにはできない"のんびりさ"がある(笑)。彼らは凄いんですよ。どこかが違うの」(59)
「で、その後、積極的に興味を持ち始めたのは、やっぱりリオからかな。リオのサウンドはとても好きでね。テレックスのアルバムよりも、リオのプロデュースで彼らはどんどんよくなっていくんじゃないかって期待してたんです」(59)
「曲作りや音作りのセンスが"職人的"だなって、リオを聴いて感じてね。この人たちは、いっしょにできる人たちだなと思ったんですよ」(59)
「そんなこんなで、自分のレコードを作るとか作らないとか、そういうこと なしに、なにしろアルファ・レコードが行ってこいって言うからね」(58)
「ブリュッセルというところに顔をつっこんでみたいと思って」(18)
「自分のことはあんまり考えてなかったの。録れれば録れたらいいなって」(58)
「いってた期間がその、異常気象の始まりの頃でね」
(59)
「暑いのね。暑かった」(58)
「熱波。エルニーニョ現象」(58)
「異常な暑さだったんです」(59)
「涼しいと思って行ったんだけどね。セーター持って行った。スゴかったよ」(58)
「30度以上なのに、一流ホテルでもエアコンがついてないし、ほとんどの家はエアコンがついてないし、ほとんどの家エアコン持ってない。クルマにもついてないし。レストランも、もちろんエアコンない。と言うような状態だから、すごいと思う」(58)
「ぼくが行った時も、もうマイったね」(58)
「夜もね、スゴイんだよ。なにしろ風がないし。大陸でしょ。木が揺れないの、1ミリも。ジトーッ」(58)
「寝れない、寝れない。部屋に居れない、暑くて」(58)
「広場があるの、グラウンダーっていう。それは古い古い広場で、かっこいいんだけどね」(58)
「みんな居るんだよ」(58)
「だいたい1時くらいまではカフェが開いてるのね。そこにみんなすわってるの。なにしろすわってる」(58)
「で、もっと真夜中になると、そぞろ歩き。歩くと風が当たるでしょ、ソヨソヨと。だから歩いた方が涼しい。それくらい暑かった。インド行ったみたい(笑)」(58)
「ブリュッセルは、ヨーロッパの他の大都市よりも新しいものがひとつもない町なの」(18)
「不思議な、古びたゴーストタウンのような街でね。ベルリンとかドイツの街はモダンなところが多いですけど、ブリュッセルにはモダンなものが一個もなかった」(59)
「そういうところからテクノとかクレプスキュール・レーベルが発生してくる感じがなんとなくわかるような気がした」(18)
「びっくりするものはないけど、じわっとくるようなものがあったんです」(18)
「ただテレックスだけですよね、モダンな存在は」(59)
「クレプスキュールの人たちには会ったけど」(58)
「コンサートを観たりしたかったんだけれども、全然やってないのね。なにしろ、レーベルといったって、みんなバラバラで、孤立していてつながりとかないのね」(22)
「その人たちも音楽も、みな自閉症っぽいんだよ。なにしろおとなしいのね。声もちっちゃくてね」
(58)
「で、ヨーロッパの裏庭という意識が彼らの中にもあって」(58)
「囲まれてて支配されたでしょ、常に」(58)
「黄金期っていったらずいぶん昔だからね。中世以後の。でも、文化はかなりしっかりしてるから、いろんな所から入ってきている」(58)
「だから暗さの…。ヨーロッパを見きわめようと思ったら、ああいうベルギーなんかいいなと思う」(58)
「もっともヨーロッパっぽいところ。ブルージュっていう都市があって、昔のヨーロッパの中心地。行ってきたけど、すごくよかった」(58)
「本当に古い。そのまんま残ってる。住んでいる人たちも、ほとんどそのまんまとぎれないで来てるから」(58)
「スゴイと思う、まずは」(58)
「ヨーロッパのああいう、とぎれない連綿としている想いってあるでしょ、なんか。意識の変革もないっていう」(58)
「動かないね」(58)
「しかも、ヨーロッパってひとつの固まりだからね。国がいっぱいあるけどつながってるし」(58)
「ヨーロッパを見きわめることが、いちばんやる事じゃないかと思ってたの」(58)
「なぜかっていうと、あまりにも好きだから。みんながホラ、ぼくよりずっとヨーロッパっぽいもの作って、たとえば幸宏もそうだし、ター坊とか」(58)
「ヨーロッパのエレガンス。ぼくもそういうところはすごく好きだけど、ただ好きすぎて近づけないっていうのがあるの。あれをやっちゃうと、あれを模倣して、あこがれで終わっちゃうから」(58)
「だからヨーロッパを意識しだすとさ、本当に自分たちの伝統っていうか、自分たちにしかできないことをやんなきゃ、と思うのね。そのために見きわめようと」(58)

1983/07 越美晴のレコーディング。テレックスのダン・ラックスマンとマルク・ムーランが参加。ブリュッセル/シンサウンド・スタジオ。

「自分のは結局録んなかった」(58)
「『ラムール・トゥジュール』って曲が彼女にあうんでね。それが接点で一緒に行ってレコーディングして、3曲録って来たの」
(58)
「テレックスと最高にマッチングするんで、ぼくのレコーディングをするよりよかったと思います」(18)
「テレックスっていうのは世界のプロジェクトに、世界のマーケットにね、行こうと思ってて、まだひとつ出ていけないっていう」(58)
「それはなぜかっていうと、モロテクノだからだと思うんだけどね。ところがヨーロッパではけっこう認められてて、た とえばリオっていう女の子はぼくはメチャクチャ好きなんだけど、それをプロデュースして、それがゴールデン・ディスクもらったりね、ベストセラーで。そう いうのがかざってあるの、スタジオに」(58)
「で、最近どうしてるんですかってテレックスに聞いたら活動してないんだね。演奏活動はちょっと無理なんだろうね。3人だし、見た感じだとあまりウケない」(58)
ダン・ラックスマンていうのがエンジニアでリーダーなんだけど」(58)
「コンピューターのプログラムとミキシングをやってて、自分のスタジオをもってる」(18)
「MC-4をよく知っているわけ。機材は全部日本のなの。LDKスタジオみたいなの」(58)
「おんなじ、ほとんど。機材が」(58)
「僕たちの使っている機材と全く同じ機材があって、やり方も全く同じなんです」(19)
「ほとんど共通。まず真中にMC4がドカンとあって、となりにローランドのTR808というリズム・ボックスがある。そのセットは常設。ちがうのはぼくがプロフェットを使うところ、彼らはムーグのシンセサイザーとシンクラヴィアを使っていた」
(18)
「ほとんどシンクラヴィアを使ってましたね。彼らの宝物みたいな存在だったみたい」
(59)
「スタジオのマルチ・テープレコーダーのメーカーが、YENのスタジオと同じオタリだったのがおもしろかった。テクノやってる人は、好みが同じなんでしょう。コンソールはティアックでした」(18)
「24チャンネル」(59)
「コンピュータでつくっているし、ドラムもリンドラムという機械があって、それをプログラムしていく方法とか、音色まで全くそっくりなんです」(19)
「リンを使っていて、なるほどこうだったのかと思いました」
(18)
「リンがあって、すごく安心できた。彼らも東京に来て、同じようにリンがあれば同じようにテクノができる。テープも交換 できるしね。たとえば、ぼくがリズムトラックを作って彼らに渡したら、彼らは違和感なく受け入れて、そこに自分たちでつけ加えていける」(18)
「テクニックを交換し合えるんですね」(60)
「手法は同じだし、音の使い方も同じだし、音楽に対するベーシックな考え方も同じなんです。ちょうどYMOでやっていたときのように、地球規模の音楽という点で、ひじょうに似かよった考え方を持っているんです」
(61)
「テクノに関して は、万国共通の言語があるわけです」(18)
「国籍を問わずに、テクノミュージックというのはある種の世界を作っているんです」(19)
「テクノという音楽も、外に感覚器官をもつことにつながるんだと思う。どんな国に行っても自分と同じ器官をもっていて、情報交換もしあえるわけね。つまり、コンピュータやシンセサイザーを用いることによって、地球規模で互換性のある器官がもてるんです」(61)
「そうすると、今まで言語や文化のちがいで交流できなかった国の人たちとも交流しあえるようになる」
(61)
「日本とブリュッセルはひじょうにかけ離れていて、なんの接点もないと思うんですけど、テクノに関しては同じ座標上にいた」
(19)
「じゃあ、どこが違うかというと、純粋に国民性というものが浮き彫りにされてくるんです。要するに、違いを認め合うことができるようになる」(61)
「スタジオは裏町の中の、ほんとヨーロッパの古い家の一階を改造して、住んでる家なんだけどね、そこ」
(58)
「借りているアパートの一室を改造した、とても素晴らしいスタジオでね」
(59)
「音楽を作る場所として理想的だと思った」(59)
「キーボードのマルク・ムーランも傍につきっきりで」(18)
「結局、リード・ヴォーカルの人はバケイションでどっか行っちゃってたけど」(58)
「テレックスに一緒に曲書こうって言ったの、最初にね。そしたら顔がパッと明るくなった(笑)」(58)
「ただもう暑くて作る気が起こんなかった(笑)」(18)
「スタジオにクーラーがなくて、小さな扇風機があるだけ」(18)
「普段は涼しいんでクーラーなんかないんですよ。暑くて暑くて汗がどんどん出てくる。そんな中での作業だったんで、その印象がいちばん残ってるな(笑)」(59)
「東京でそういう状況だったら、みんな帰っちゃう。彼らにとっても異常な暑さだったと思うけど、物静かに、おとなしくつきあってくれた」(18)
「申し訳ない、今度来るときは必ずエアコンを入れておくからって何度も何度も言われて」(59)
「おとなしい人たちでね。ボソボソボソって話して」(58)
「暗い人間たちでね(笑)」(61)
「おしゃべりは一切しない
…(笑)」(59)
「ほとんどしゃべらないもんだから、言葉のコミュニケーションはないわけです。ベルギーという国はとくに悲惨な歴史を背負っているせいか、かんたんに人を信用しない(61)
「黙々とやってたんです」
(59)
「もう、ヨーロッパの、昔のヨーロッパ人て感じするけど」
(58)
「ゼンゼンおしゃれじゃないし」(58)
「地味、地味。不器用だし」(58)
「でも誠実で、そういう雰囲気が僕は本当に心地よかった。それまではアメリカとかのアングロサクソンと付き合ってて、おしゃべりに辟易してたんで、直感的に"これは仲間だな"って思ったんですよ」(59)
「好きですね」
(18)
「で、その人たちに、じゃあこうしようか。『ラムール・トゥジュール』をやっていいかって言ったら、それはそれは喜んでた」(58)
「すごく張り切ってくれて、大喜びだったんですよ」(59)
「その曲は彼らに好きなようにやってくれって言ってね、マカしたの」(58)
「リズムは東京で録っていったと思うんですが、それに被せるベースラインとかは一切彼らに任せちゃったんです」(59)
「彼らに新しいアレンジでやってもらった。ところがリアレンジというのはやりにくいらしくて、オリジナルよりよくなくて、どうしようかと相談された。それでぼくがいじくって、ちょっとずつ変えてアレンジしたんです」(18)
「日本に帰ってから手紙をくれてね
…。『エアコンいれたぞ』って(笑)」(59)

1983/07/14 『スコラ』7月28日号(スコラ)発売
寄稿/菩薩の域に達する。これぞ有名道の極みなり
※編注:「その日から僕は、有名になった」というコーナー・テーマに沿って執筆。

1983/07 河原温と会う。

河原温というアーティスト」
(19)
「ほとんどアメリカ人の中で成功してきた人」
(62)
「くる日もくる日も日付けだけを描いている」
(19)
「ペインティングしてるの。日付けだけを、何日かかけてキャンバスに描いていくわけ」(62)
「死ぬまで続けられるコンセプト。もっと言うと、子供の代にまで伝えられるコンセプトなの」(62)
「その人の生き方っていうのは、それを描くために、いろんなところで冒険生活をしてるのかな。誰にも知られずね。ニューヨークにいちおう住んでるんだけど、世界中を飛び回ってる」(62)
「なんにもしてないの。どうやって食べてるかわからない。それが謎でね。でもね、認められてて、個展やってて、本が出てる。不思議な存在だね。そういうことでちゃんと認められてて、それなりのギャランティーが入ってくる」(62)
「で、実をいうと電報が来たの、ニューヨークから。その人から」(62)
「電報の作品があるんです。温さんがいろんなミュージシャンとか、出会ったいろんな人に電報を送っているという」(19)
「電報を送ることもひとつのパフォーマンスなの。その作品集があるわけ。電報のね。文面は全部同じなの」(62)
「『
I AM STILL ALIVE. ON KAWARA』」(19)
「その電報をもらった時には、ちょっと感激したよ」(62)
「ワタシハマダイキテイル - 僕にはその感覚がすごくよくわかるんです」(19)
「時間がないという感覚があるんですね」(19)
「時間との戦い」(19)
「残された時間はすごく少ない。肉体というのは限りがあるし、残りを数えることができる。その中でなにか僕にできることをやらなくてはいけない。そういうワリと強迫観念に近いものがあるんです。それを、温さんというのはそのまま作品にしてしまっている」(19)
「その温さんがたまたま日本に来ていて」(19)
「なんか知らないけど会う機会があって」(62)
「なんの話をするわけでもなかったんだけど、どこか不思議なひとだった」(19)
「いろんな批評眼を持ってる人で、さまざまな場面に深いのね。政治から経済から。世界観というものを持っている。宇宙観もしかりで、洞察力がすごい」(62)
「紀伊半島の水脈について聞かされている。」(63)
「その前にぼく、その日付けの作品をチラッと見たことがあって」(62)
「なにしろあのペインティングでしょう」
(19)
「最初は、なんだって言って笑っちゃったのね」(62)
「おもしろくてね」
(19)
「で、 会ってからもう一回見たら笑えなくなっちゃった。ガーンと打たれちゃって」(62)
「かなりショックだった」
(19)
「これはちょっと、ナマハンカなことじゃないなって。そういうことをやる人ってい うのは、どういうことを通り越して、こういうことをやってるんだろうっていう」(62)
「こういうことを描く背景というのはなんなんだろうって」(19)
「一回通り越して、全部捨てちゃってからじゃないと出来ない」(62)
「かなり極限状態なんではないだろうかとか、いろんなことを想像していたんです」(19)
「作品が全てじゃないんだもの。その作品を生むために、毎日を新鮮に生きなくちゃいけない。そういう生活だったら、ぼくあこがれてるからね」(62)
「すごく具体的にいうとカルロス=カスタネダみたいな、ああいう生き方がしたかった。履歴書を消して、顔を消して、自分の余分のものを全部消して、世の中から消える。そう、表面的な世の中からは消えたいという気持ちが強かったんです」(19)
「だけど、その想いが強ければ強いほど顔はどんどん売れていく」(19)
「街を歩くとどんなところへ行っても指をさされる顔になってしまった」(19)
「つらくてつらくてしょうがないんだ」(19)
「それで、温さんに会った時も、そのカルロス=カスタネだと同じような感じがしたんです。写真はとらせない。サインはしない。だから誰も温さんの顔を知ら ないという、そういう生き方を徹底的にやっているんです。そうやって、自分を世の中から守っている。そんな生き方を、僕も」(19)
「できるのだろうかと、すごく思いはじめて」(19)
「ぼくの生き方を示してくれるような人なんだね」(62)

1983/07/20 『サウンドール』8月号(学習研究社)発売
対談/先輩対談 寺内タケシ × 細野晴臣

1983/07/25 22:00 フジテレビ『夜のヒットスタジオ』生出演。
司会:芳村真理、井上順

YMO  
高橋幸宏(vo)、坂本龍一(cho, pf)、細野晴臣(cho)
 過激な淑女
 ワイルド・アンビションズ
過激な淑女
「みっともない振り付けを考えて(笑)」
(5)

※編注:「ワイルド・アンビションズ」での坂本龍一のピアノは手弾き。演奏は2曲ともビデオ・ソフト『TV YMO』(アルファレコード/1993年)やDVD『YMO Giga Clips』(東芝デジタルフロンティア/1998年)で商品化されている。

1983/07/26 『中日スポーツ』取材。

※編注:詳細不明。

1983/07/27 YMO「過激な淑女/シー・スルー」発売。
過激な淑女:produce, arrangement, all instruments, chorus, mix
シー・スルー:
produce, arrangement, all instruments, chorus, mix
過激な淑女
「やって下さいって声がかかって来た、たたみ込みで。自分たちから出た発想じゃない」
(62)
「1枚で済ますわけにはいかないっていうか、引っ込みがつかなかったということでしょう」
(5)
明菜に書いたような曲の二番煎じみたいなもの」
(5)
「どんな曲作ろうかっていうんで」
(39)
「中森明菜に書いた曲のボツにしたほうのモチーフをちょっと引っ張り出してきて」(9)
「『これ、こういうのがあるけど』って言ったら『じゃあこれにしよう』っていうんで、最初の部分が、採り入れられたわけです」
(39)

高橋幸宏の証言
 過激な淑女
たぶんアルファ・レコードから、もう1枚シングルを出してくれって言われたんだと思うんですよ。『じゃあ、モロ歌謡曲をやろう』って細野さんが言って」(5)
「細野さんが中森明菜のプレゼンで、『禁区』と同じときに出してボツった曲なんですよね、確か。こういう曲あるんだけどってことで」(5)
「別にみんなも反対もせず、流れでやっちゃったって感じで。キーが高くて、僕、すごく苦労して歌った記憶がありますけどね」(5)

坂本龍一の証言
 過激な淑女

「中森明菜の曲(未採用)です!
サビから始まるところ、サブドミナントと呼ばれる和音からいきなり出るところ、複雑な和音の非常に短いエンディングなど、非常に歌謡曲的です。(4)
「悪ノリでしょうね」(5)
「あまりに遠い世界のものだから、歌謡曲って。楽しんでたって言うか、新鮮だったんじゃないでしょうか」(5)
「僕は『キュン!』よりちょっと多く歌ってますよ。(^^; ここまで来ると、YMOが『もう終わりにして〜!』と悲鳴を上げているのに、それをいけないオジサンたちが『まだまだ、ヒッヒッヒ!』といじめているような、マゾヒスティックな感さえありますね。(^^;」
(4)

ピーター・バラカンの証言
 シー・スルー
「時間がないから(編注:詞を)"ひとりで作ってくれ"っていうだけでした(笑)」
(64)

1983/07/27 YMO『浮気なぼくら インストゥルメンタル』発売。
カオス・パニック:produce, compose, arrangement, all instruments, mix
希望の路:produce, mix
フォーカス:produce, compose, arrangement, all instruments, mix
音楽:produce, mix
オープンド・マイ・アイズ:produce, arrangement, bass, mix
以心電信:produce, arrangement, all instruments, mix
ロータス・ラブ:produce, compose, arrangement, all instruments, mix
邂逅:produce, mix
希望の河:produce, mix
ワイルド・アンビションズ:produce, compose, arrangement, all instruments, mix
「これは、完全にアルファ主導で出てきたものですね」(5)
「ノータッチです、僕は。出しますよって言われて、OKって言っただけだと思います」(5)

小池光夫の証言
「さくさくと作業が進んだ感じですね。シンセのダビングはほとんど教授が1人でやったんですけど、やることが決まっているときの教授の作業は早いです」
(44)
「ただ、一部、細野さんや幸宏さんが弾いているパートもあります」
(44)

井上嗣也の証言
「音を聴いてポーンと旗になっちゃった。それも、プロパガンダの旗じゃなくて、運動会の旗とか、そういう感じのものだね。風にヒラヒラとなびく旗の自由さを表現したんだな」
(6)

1983/07/27 『SAY』取材。

※編注:詳細不明。

1983/07/30 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
マッドメン

1983/08/01 松田聖子「ガラスの林檎/スウィート・メモリーズ」発売。
ガラスの林檎:compose, arrangement, bass, keyboards
ガラスの林檎
「ハードルがまた上がっていたんです……オリコン1位だけでなく、レコード大賞狙いの曲だった(笑)。注文も"荘厳なものを作ってくれ"という感じで」(14)
ナタリー・シマールに書いた『夕べの祈り』」(8)
「最初の『夕べの祈り』のアレンジが川口真さん。それが良かったんですよ。素晴らしかったんですよ。そういうことが記憶にありつつ、ちょっとそれに近い気持ちで作ってた。曲構造は全く違いますけどね」
(8)
「ソニー信濃町スタジオで、茂にギターを弾いてもらっています。そのとき鈴木さえ子にもドラムをたたいてもらった」
(14)

松本隆の証言
「聖子曲の最高傑作だと思う。最高傑作は日替わりだから『天国のキッス』の日もあるんだけど」
(65)
「細野さんがめずらしく『今回は曲を先に作りたい』って言うから、『じゃあバラードでお願い』って注文した。なのにアップテンポの曲を作ってきたからボツ にしちゃったんだ。でも、締め切りを過ぎてもやり直しの曲が全然あがらない。結局詞を書いて渡したら、すぐにできあがった(笑)。はっぴいえんどっぽい曲 になったから、茂を呼んでファズギターを弾いてもらって」
(65)

1983/08/10 中森明菜『NEW AKINA 〜 エトランゼ』発売。
ルネサンス -優しさで変えて-:compose
モナムール(グラスに半分の黄昏):compose, arrangement, bass, prophet-5, programming

1983/08/10 『YEN-YOU-会』VOL.6の表紙を描く。

1983/08/13 高橋幸宏公演にゲスト出演。箱根自然公園
出演:RCサクセション

高橋幸宏  高橋幸宏(vo, syn)、ビル・ネルソン(g, cho)、デヴィッド・パーマー(ds)、立花ハジメ(sax, g, syn, perc, cho)、鈴木慶一(kbd, vo, cho)、細野晴臣(b*, syn**, cho**)
 
回想 *
 アー・ユー・レシーヴィング・ミー *
 きっとうまくいく **
 すぐそこにある **

1983/08/17 『サウンドール』取材。

※編注:詳細不明。『シンセ倶楽部』(10月8日発売)のインタビューか。

1983/08/18 『サウンドール』のインタビュー取材を受ける。原宿。

※編注:10月号(9月20日発売)に掲載。

1983/08/20 NHK総合『箱根オデッセイ ポップ'83 イン箱根』放送。
高橋幸宏
 きっとうまくいく
 すぐそこにある
 ※1983/08/13@箱根自然公園

1983/08/23 北中正和のインタビュー取材を受ける。

北中正和の証言
「インタビューしたのは越美晴のYENレーベル移籍第1弾LPレコーディング中のアルファ・レコードのスタジオ。富士山の麓で作られたという仁丹の粒のような妙薬の瓶をテーブルに置いて、彼は取材の席についた。」(18)

※編注:『ミュージック・マガジン』10月号(9月20日発売)に掲載。

1983/08/24 『太田螢一の人外大魔境』発売。
畸獣楽園 Deza Barimo:vocal
エピオルニス:vocal
「あまり歌ってって頼まれた事ない」(66)
「上野君がはじめて頼んだんだよね」(66)

太田螢一の証言
「特異な作品」
(25)
「細野さんが認めてくれたから出せたというところがある」(25)
「YENではゲルニカの2枚目が座礁したんで、頭の中にあった構想を企画書にまとめて提出しました。美術と歌詞は僕、音楽制作と監督が上野耕路君」(25)
「当時まだテクノポップ特有の乾燥した無機的な音楽が受けていたけど、僕はもうそれに飽きていたから、逆にどろっとした有機的なものを作りたかった。エスニックなもの、博物学的なものをレトロな視点を通じて音楽で表現する。一種のエキゾティシズムかな。僕は細野さんの『トロピカルダンディ』とか『泰安洋行』とか大好きだったから。あと、モチーフになったのが作家の小栗虫太郎さんの描くちょっと猟奇っぽい冒険小説の世界」(25)
「YMOの3人が"『人外大魔境』は最もYENらしい作品だ"と言ってくれたのを憶えています」(25)

1983/08/24 イノヤマランド『ダンジンダン・ポジドン』発売。
produce
イノヤマランドという地方の、天気予報を聞いているような、奇妙な心地よさ」(67)

井上誠の証言
「1980年からしばらくの間、僕は目黒の青葉台に住んでいました。ヒカシューの海珠君や泉水君、ナイロン100%の善美君たちと一緒に2LDKのアパー トをルームシェアしていたので、そこはいつも遊びに来た友人たちで溢れていました。部屋の一角にはシンセサイザーやメロトロンや何台ものテープレコーダー やアジアの民族楽器なんかが溢れ、壁面にはゴジラやモスラやラドンなんかの映画のポスターが溢れていました。」
(68)
「山下さんは1981年にヒカシューを脱退した後も毎週のようにこの部屋を訪れました。ヒカシュー時代はリズムボッ クス担当でしたが、この部屋では僕と2人で週一のラジオ番組のために作曲をする人でした。作曲に行き詰まると、それまでに録音したテープを聴き返します。 2人とも楽譜を書かないので録音テープが楽譜代わりです。その膨大な録音テープの中には1977年に録音した『COLLECTING NET』や、僕が個人的に録りためたシンセサイザーの多重録音素材なんかがありました。」(68)
「上野耕路君もこの部屋の常連のひとりでした。」(68)
「上野君は1982年にゲルニカの1st LP『改造への躍動』をYENレーベルからリリースしたことが縁で、細野晴臣さんが新たな中間音楽レーベルのための作品を探していることを知りました。」(68)
「ある日上野君が『イノウエ君、前からヤマシタさんと2人で何かいっぱい録りためていたでしょ。それ、カセットにま とめてみて。ボクが細野さんに持っていくから』と言ってくれたので、『COLLECTING NET』の中の数曲に僕のシンセ遊びの何曲かを加えて渡しました。するとほどなくして細野さんと高橋幸宏さんの新レーベルからレコード化することが決ま り、『じゃあ2人のユニット名をどうしようか?』『あまり洋風のはやだね』『山下井上でヤマイノ』『ヤマイモみたいだからひっくり返してイノヤマ』『大衆 食堂みたいだ』『じゃあ後ろに何か付けよう』そのとき山下さんが着ていたトレーナーにDisneylandのロゴがプリントされていたので『じゃあランド 付けよう。イノヤマランド』と、話はどんどん進みました。」(68)
「1983年の早春、僕が最初の『ゴジラ伝説』を仕上げた直後のことでした。」(68)
「A面の山下さんサイドは5曲とも青葉台で8トラック・テープレコーダーに再録音しましたが、B面は僕のひとりシンセ遊びの音源(4トラック)をほぼそのまま使いました。」(68)
「素材音源を江戸川橋のLDKスタジオのマルチレコーダーにコピーしてからミキシングを行い、さらに田町のアルファ レコードStudio Aで水槽内を通過した音声(ウォーター・ディレイ・システム)も加えてレコードマスターを仕上げました。LDKスタジオのエンジニアは飯尾芳史さん、 ウォーター・ディレイ・システムの発案は細野晴臣さん。実際はディレイ効果ではなく水槽のガラス面に固定した小型スピーカーの振動を水槽内のマイクで集音 し変調させるフィルター効果でしたが、飯尾さんの天才的なミキシングと相まって僕の拙いシンセ音を宝石のように磨き上げてくれました。」(68)

※編注:10曲中5曲が、細野晴臣が考案したウォーター・ディレイ・システムを用いて録音されている。

1983/08/24 高橋幸宏『薔薇色の明日』発売。
ディス・アイランド・アース:bass
※編注:「蜉蝣」「前兆」「アー・ユー・レシーヴィング・ミー?」も収録。

1983/09 『'83 NHKヤングミュージックフェスティバル』パンフレット発行。
メッセージ/スピリットを感じさせて欲しい 技術より新鮮さが第一

1983/09 無印良品 店内BGMのレコーディング。
Original BGM
TALKING あなたについてのおしゃべりあれこれ
GROWTH 都市にまつわる生長のことなど
秋山道男氏が担当した西友の無印良品における、店内用のBGM製作依頼に対し、断らなかったが為にできてしまった」(69)
「"西友"への捧げ物」
(70)
「でも"西友"とか"無印"はまったく関係ないんです。ボクは秋山道男っていう人のために仕事したと思っています」(70)
「一九八三年、九月当時、私は何の根拠もなく、ただただ『語る』ような散漫な音楽をやってみたかった時期でありました。フラクタルなんか知る由もなしに、 何の思想も持たず、ただ『語り』を録音することにしたのです。」(69)
「やりたいことは、何といってもトーキングなんだよね。トーキングとしての音楽だね」(63)
「言葉、メロディ、旋律、和音をひっくるめたもので、ある種の形がそれを語り口で語っていく。歌詞があったってなかったっていいんですけどね。そういうトーキング・アバウト・ユー、そんなようなもん」(63)
「ほとんどの音楽って、作ろうと思って作るでしょ。ボクも、実際はそうなんですけど、たまたまそうじゃない音楽が出てきちゃう場合があるんですよ」(70)
「なんかを作ろうという意識がないの。すごく楽なんですよ」(70)
「歌謡曲やYMOの場合、なにがなんでも作って出さなきゃいけないというプレッシャーを利用して作ってることが多いわけ。締め切りとか、ヒット性とか」(70)
「そういう目的とはまったく別のものだから、店頭用ということだけを、ボクは念頭に置いてた。すごく自由な気持ちで作ったんです。それにね、あの仕事がなくても、ボクは同じような音楽を弾いてたんですよ、自分のために」(70)
「シンセサイザー1台でね。レコーディングの合い間や、家で、いろいろ細かいフレーズのパターンを楽しんでたの。だから、そういった音楽の延長線上であの仕事をしたんです」(70)
「裸になっちゃうってことなのね。それが一番大事なんですね。曲を作るっていうのは仕事でやることが多いからいろんな条件があるわけです。昔だったら依頼してきた人の為に作ってたわけだけど」(69)
「例えそれが歌謡曲でもアレンジでも、音作り曲作りのテクニックはわかっちゃってるから、かえって自分の為になってきてる。だから僕にとって未知の領域っていうのは、表現のレベルじゃなくて」(69)
「体現に近いようなことなのかな。つまり、いろんな自分のテクニックも忘れて、コンセプトさえも考えずにね」(69)
「楽器の前に座ってね、筆を持って字を書くような心境になって音を出してみるんです。で、作ってる間、『こんなカン タンな幼稚なメロディーしかできないのかなー」とかまあいろいろ考えちゃうわけですよね。でも自分ではそんなことをやるのが好きで好きでしょうがないわ け。何回もできたやつを聞いてみると、自分の奥の本体のことが出てる場合は聞き分けられる。何度も自分のためにフィード・バックさせていく。そのプロセス は、『客観に至る主観』って言うと判りやすいコトバだと思うんだけどね。いろいろ模索して主観から始まって、音をつきつめていくとだんだん普遍的な客観性 を帯びてくるという、まあそういう音楽の第一号ですな」(69)
「バカにしか作れない」(70)
「私はこれ以来、楽器やコンピュータの前にすわると、『何も考えないですぐに録音をする』、と いう作曲法にとてつもなく興味をそそられております。」(69)

TALKING あなたについてのおしゃべりあれこれ
「ここで『語る』ということは、一つのセンテンスを色々な言いまわし、抑揚で言い換えてゆく、ということです。『誰に?』と聞かれれば、秋山道男風に言う と、それはあなたやおまえや君であってもいいし、花や森や山でもいいし、自分にでも、地球全部にでもいいわけです。ひとたび録音された『語り』が再生され る時、音は人を通して、又は猫を通して、さらには空気を通して、ささやかながらも地球という実体の一部に響くのです。つまり、音楽の響を聴いているのはあ なただけとは限らない。ということは慎重な音の選択を要するかも知れません。たまたま、このレコーディングの時の私の状態が、『客観にいたる主観』を持て ていたので、地球に迷惑をかけずにすんだと思ってます。」
(69)

GROWTH 都市にまつわる生長のことなど
TALKINGと同日に録音したものです。もう一曲この時に録りました」
(69)
「このGROWTHはそれらの曲と少し心持が違うと思います。秋山氏がもうひとつおまけを望んだ結果、この曲ができ ました。実はこの曲のデータを消失してしまい、どのようなプログラムでコンピュータを動かしたか憶えていません。ただ私は、反復するコンピュータの動きに 対し、ひとさし指一本で鍵盤を押し、移調を促したに過ぎません。私の『気持』は、その鍵盤をどう押すかということに集中し、どのように曲を書くかというこ とには無関心でした。その結果、後で再生してみると、そこには私ではなく、何者かの「気持」が確かに息づいている感じがしました。それを私は、この東京に 敷きつめられたコンクリートの下で、何十年と生長を諦めることなく、びっしりと根をはっている植物達のものに結びつけたのです。」(69)

1983/09/05 遠藤賢司『エンケン・オムライス・ナイト』出演。渋谷/エッグマン
出演:遠藤賢司、越美晴、鈴木慶一、S-KEN、土屋昌巳、須藤薫、平山三紀、かまやつひろし、藤村美樹、斉藤とも子、近田春夫、加藤和彦、りりィ、東京ブラボー、伊藤銀次 他

遠藤賢司  遠藤賢司(vo, g)、細野晴臣(syn)、越美晴(vo)
 オムライス

1983/09/07 中森明菜「禁区/雨のレクイエム」発売。
禁区:compose, arrangement, keyboards, programming
禁区
「『デモテープをください』と、こう言われましたぼくは」
(39)
「なんか2曲ぐらい書いたような気がするんだけど」(39)
「持ってったんだけど。ほら、デモテープって、寂しいでしょ?聴くと」(39)
「すごいなんか(笑)、力がなくてさ。それでー、なんか、信用されなくて(笑)。それでね、あのー『もっと、違う曲』とか言われたの」(39)
「あきらめてぼくは」(39)
「『禁区』に、切り替えたの。その時はもう、詞がーできてて先に。それに付けたわけ」(39)
「珍しく、松本隆ではなくて売野雅勇さんと一緒にやってます」
(71)
「これはほんとに歌謡曲スタイルを、踏襲してます。えー、まあ、僕の中ではそういう、ジャンルの中の、まあ遊戯みたいなもんなんですが」(71)
「時間が経つと客観視できます」(8)
「よくできてるなぁと思って。アレンジも」
(8)
「アレンジは、萩田光雄さん、の弦が入ってますね。バッキングはもちろん、テクノです」(71)
「ボツになった曲はね、後半、YMOの、『過激な淑女』に、なっちゃったわけ(笑)」(39)

1983/09/08 1:00 ニッポン放送『オールナイトニッポン』出演。
DJ:高橋幸宏
共演:坂本龍一、原田知世、三宅裕司、小倉久寛 他

ラジオドラマ/スター・ウォーズ

※編注:ラジオドラマでは細野はヨーダ役。またトーク部分では、坂本龍一が原田知世のために「Merry Christmas Mr. Lawrence」をピアノ演奏したのを受け、細野も同曲を"現代音楽風"に演奏した。

1983 降旗康男監督の映画『居酒屋兆治』撮影。

「日本の映画の人たちが、どんな風に作ってるかっていうのに興味があったの。どんなに大変なものなのか、とかの認識がぼくにはなかったから」(62)
「映画らしい映画に出たかったのね。僕は映画を作りたいから、んーと、そういうところに少しはいってみたかった。寅さんとかね、あーゆう映画づくりが一番それらしいし」
(66)
「ひとりじゃ出来ないっていう話はよく聞いてたけど、現場を見るともっともっと大変だと思うよ」(62)
「ぼくに全く関係ない役をね、やるの、うれしかった」
(66)
「函館に行ってきて。それがねー大変だった(笑)。初めて役をもらってね、かけだしの俳優の心情で行ったわけ」(66)
「端役なわけ。結局」(66)
「変な役だったんだよな」(72)
「あがっちゃった。緊張しちゃった」
(66)
「映画はTVと違うから緊張感がある。しかも、これは文芸作品だから、あまり地が出せない。演技を必要とされる場面が多いわけ。自分自身のキャラクターを忘れて、佐野という市役所員になりきらなきゃいけない」(73)
「ボクのゼンゼン理解できないタイプの人間。市役所員ってこと自体よくわからないでしょ。わりとボクも真面目だからサ、なりきれないわけよ、ヤなものに」
(73)
「ヤな奴。ボクはあんまり好きじゃない、佐野って奴のこと」
(73)
「市役所の連中とバレーボールやってる感じで。ジャージのトレパンなんかはかされて…」(66)
「ランニングシャツ。…ここに市役所って書いてある(といって胸を指す)。ガリガリのこんなんでいいんですか?っていったら、それ、それがいいんだって。それでなんかいろんな事やらされた」(66)
「最初はシリアスな役だと思って、ボォ〜っとシリアスにやってたんだけど、途中で、なんだか、もっとヒョーキンっぽさを望まれてるような気もうすうすしてきた。で、結局は、要するに、阿保で軽率で弱っちい市役所員という役割を与えられたことがわかった」(73)
「たとえばドレミファドンで演ったような、ああいう動きとか顔の表情っていうのは自然に出てくるんだけど、やっぱり市役所員の佐野さんってワクがあるでしょ。それでちょっと考えちゃったわけ」(73)
「実際のボクとの接点がないからむつかしいわけ。何か接点があればできるナって思う」(73)
「いつも河原って男と、どうしてもからみあっちゃうわけ」(73)
伊丹十三さん。伊丹さんが相手役だから、ボクとしてはすごく面白いんだけど伊丹さんにしてみると、相手役がボク だってことで心細いと思うんだよね。からむって、タイミングが大事だし、あのね、どなんなきゃいけないんだけど、どなりながらもセリフははっきり言わな きゃいけない」(73)
「日本語なんで、何をいってるのか、ちゃんとわからなきゃいけないわけ(笑)」(73)
「なんか、ボク、疑問持ちながら演ってたからサ、で、だいたいボクは演技派ではないからね、第一演技すること自体初めてなんだもの、やっぱり自信がないわけよ、ゼンゼン」(73)
「異和感があって入り込めない。はたしてこれでいいのだろうかって思いながら」
(73)
「"こんなんでいいのかナ??"って疑問持ちながら演ってるとどうしても声がちっちゃくなるの。声がだんだん沈んでいく。そうするとカントクさんにすぐ言われる。"声が小さい、もっと大きな声で!"って」(73)
「ボクのとなりにいるのが石山雄大さん。ケンカの相手が伊丹さんで、間に入ってケンカを止めるのが高倉健さん。加藤登紀子さんともやりとりがあって、ゲストに原作者の山口瞳さんと、イラストレーターの山藤(編注:章二)さん」(73)
「(編注:NGは)ボクのせいでっていうのはあんまりない。"まっ、こんなもんだろう"って思われてるらしいから」(73)
「自分じゃ、ウマくできてるとは思ってないの。もっとウマくできるような気もするんだけど、なんか、堅くなっちゃって、表情も堅くなってるような気がする」(73)
「むつかしい!ほーんと〜にむつかしい。面白いけど、むつかしい。脇役ってむつかしい」(73)
「ボク、俳優になろうとは思ってないから。ボクにはこんなにむつかしいことはできない。むいてないと思うの」(73)
「こういう文芸作品で日常的なドラマってサ、一番むつかしいような気がするの。状況に助けられないから。たとえばパ ニック映画なら主役はパニックってことじゃない。ところがこういう映画だと主役はあくまで人間で、みんなの味と演技が一場面一場面積み重なっていくわけで しょ。人間模様のドラマだから」(73)
「だから、ノッケからむつかしい映画に出ちゃったってカンジ。こうれはもう素人芸では恥ずかしくてだめだナって、自信なくしちゃったの、ボク」(73)
「だって、まわりがみんなウマいプロの人ばっかりでしょ〜」(73)
「いやー、ほんと〜にむつかしいわ〜」(73)
「ボクがミュージシャンであるってことの意味がゼンゼンないんだものね」(73)
「で、問題になってくるのは演技ができるかできないかってことだけなの」(73)
「こういう映画だと全体のストーリーが長くてサ、骨組みがあって、その中の狂言まわしって役割だとサ、ほんとうにささいなシーンなんだけどね、でも、そこでも手が抜けないってことでしょ」(73)
「そこに入ったら"ボクはYMOの細野晴臣です"っていうのがゼンゼン役に立たない」(73)
「これは教授の出た映画とは全く対照的なの。あの場合はYMOの坂本龍一が演んなきゃっていうのがあるわけでしょ」(73)
「佐野の役っていうのはボクじゃなくてもいいわけよね。もっとウマい名脇役みたいな人が演ってもいいと思う。左とん平さんとかサ、ああいうタイプの人が演るような役なんだもん」(73)
「だからね、いつもショボンってしちゃうわけ、終わると。自信持てなくて」(73)
「なんせ。ワンシーン撮るたびに監督さんにあやまりたくなっちゃうの。"スミマセン、本当に下手で"って。さぞガッカリしてんだろうナって思ってさ……」(73)
「ロケの時はメッチャクチャ緊張したんだけど、後でみんなが面白がってくれたの。でも、ボク、素直に信じられない」(73)
「まぁ、こう言ってるボクだって、俳優の人からみればやっぱりうらやましいと思われるはずなの。まずは役をもらう。しかもセリフのある役なんてかけ出しの俳優からすると大役なのね」(73)
「そうすると、普通の俳優さんにしてみれば、これはチャンスなんだよね。で、思いっきり演るわけ、遠慮しないで。もう、クサイ芝居だとか言われたとしてもなんと言われようとサ。でも、ボクはそういう意気込みが萎縮しちゃってて……さ」(73)
「なんかよくわからないまま出てるわけよね。なんでわからないかっていうとね、ボクは映画を作りたいから勉強のため に出てるって意識が強くてサ、いったいどんなものなのか一度みておきたいという見学者的な気持で来たわけだよね、ところが本番が始まると見学者ではいられ ない。表現者にならなければいけない」(73)
「心がまえがボクには最初からなかったから、すごくショック、だけどオモシロイ、だけどショックっていうサ……」(73)
「ああ……失敗しちゃった……もっとウマくできたかもしれないのに……」(73)
「いくらチョイ役といってもセリフのある大役だったんだから、もっと研究してサ、監督さんや共演者の人に聞いたりも出来たはずなのに、ボクはなんにもしなかった……ボォ〜っとしてただけだもの」(73)
「これで音楽をやめて俳優をやろうっていうんだったら最初から心がまえもちがってたんだろうけど、もう遠慮しないで演っちゃったんだろうけど……」(73)

1983/09/15 『アーガマ』のインタビュー取材を受ける

※編注:43号(12月28日発売)に掲載。

1983/09/17 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
リンボ

1983/09/20 『ミュージック・マガジン』10月号(ミュージック・マガジン)発売。
インタビュー/ポップスを聞き飽きちゃって、ちがう楽しみ方をはじめた

1983/09/21 9:00ごろ 愛猫・寝図美、死す。

1983/09/21 遠藤賢司『オムライス』発売。
オムライス:arrangement, keyboards, programming
ポドケインの白い花:
arrangement, keyboards
寒い朝:
arrangement, keyboards, voice
ロミオとジュリエット:
arrangement, keyboards, programming
木漏れ日の午後:arrangement
ポドケインの白い花:
keyboards

1983/09/22 フジテレビ『クイズ・ドレミファドン!』収録。
共演:遠藤賢司、越美晴、平山三紀 他
※編注:10月2日に放送。

1983/09/23 10:55 NHK-FM『箱根オデッセイ ポップ'83 イン箱根』放送。
高橋幸宏  
 アー・ユー・レシーヴィング・ミー
 すぐそこにある
 
※1983/08/13@箱根自然公園

1983/09/26 22:00 フジテレビ『夜のヒットスタジオ』生出演。
司会:芳村真理、井上順

YMO  
高橋幸宏(ds, vo)、坂本龍一(syn, cho)、細野晴臣(cho)
 以心電信
高橋幸宏の証言
「三人は画面の中でタメ息をついているんですね。やっぱり、つらいんですよ。あの場に居合わせることが
…」(41)
「歌謡界でシングルを売るっていう労力のたいへんさ。『胸キュン』っていう仕掛けがあって、次に『過激な淑女』があって。TVに話題曲コーナーってありま すよね。そこに出ないと売れないわけ。ところが僕たちは力尽きてね、もうTVはやだっていい出したわけで。結局最後までやりきれなかった。そこまでつき 合ってられなかったと言った方がいいかもしれない。自分たちの遊びに」
(32)
 以心電信
「電子ドラムと、テレビ局の方は思ったんでしょうね。あのマイク立ってないもんですからヴォーカル・マイク以外。シンバルの音がしませんね」
(2)
「トリガーで(編注:ドラム)ロールやったのは僕が初めてじゃないですかね(笑)」
(2)

※編注:高橋幸宏のシンセ・ドラムと坂本龍一のシンセサイザーは手弾き。 ヴォーカル・パートの多くは口パクと思われる。細野晴臣はあて振りか。演奏はビデオ・ソフト『TV YMO』(アルファレコード/1993年)やDVD『YMO Giga Clips』(東芝デジタルフロンティア/1998年)で商品化されている。

1983/09/27 タンゴ・ヨーロッパ「ダンスホールで待ちわびて/バンド・ガール」発売。
ダンスホールで待ちわびて:compose
戸田誠司の証言
「僕が細野さんと初めて逢ったのは、ノン・スタンダードに入る前でね。個人的に、タンゴ・ヨーロッパっていうバンドのアレンジをたのまれて、その曲を担当したのが細野さんだったの」
(74)
 ダンスホールで待ちわびて
「名曲だよな」
(74)
「スタジオに行ったら、まだ曲があがってないって、曲を作ってたんですよ。その時の細野さんの背中が泣いてて、"背中のさみしい人だな"っていうのが第一印象(笑)」(74)

1983/09/28 YMO「以心電信/希望の河」発売。
以心電信:produce, words, arrangement, all instruments, chorus, mix

1983/09/28 小池玉緒「鏡の中の十月/Automne Dans Un Miroir」発売。
鏡の中の十月:compose, arrangement, all instruments
Automne Dans Un Miroir:
compose, arrangement, all instruments

1983/10/02 12:00 フジテレビ『クイズ・ドレミファドン!』放送。
共演:遠藤賢司、越美晴、平山三紀 他

1983/10/05 18:00 TBSラジオ『ニッサン・ミッドナイト・ステーション』収録。
DJ:遠藤賢司
出演:越美晴、平山三紀

1983/10/05 TBS『第3回 日本作曲大賞』生出演。「天国のキッス」で優秀作曲賞を受賞。
松田聖子  松田聖子(vo)、細野晴臣(syn)、オーケストラ
 天国のキッス

1983/10/08 サウンドール特別編集『シンセ倶楽部』(学習研究社)発売。
インタビュー/Right Here, Right Now

1983/10 奈良/天川村へ行く。荒井唯義・久保山昌彦・宮下富実夫と会う。

「バンダイの環境ヴィデオの第一弾で、天河という場所の自然を撮ったヴィデオに音をつける仕事だったんです」(9)
「あの頃、アメリカで活動していた連中が何故か急に日本へ帰って来たんだよ、『これからは日本の神様だ』って共通のヴィジョンを持って。その中の1人に映 像作家の荒井唯義さんがいて、突然訪ねて来たんだ。『天河の風景を撮って環境ビデオを作るから、音楽を付けて欲しい』って。それで彼のロケハンに同行し た」
(75)
「どういうところなのか、まだよく知らなかったころ」
(9)
「最寄り駅から車で2時間くらいかかる山の中」
(75)
「奥深い大和」(76)
「僕は独特な感覚を受けたんです」(77)
「真夜中、真暗闇の中を車で行ったんですが、とにかく天河へ行くまでの道というのが山の中を曲がりくねっていて、どこをどう通ってきたのかわからない。そ れに車が揺れるもんだから、ずーっと吐気で大変だった。その上、ひどい頭痛にも襲われて、幻想か現実か、さだかではないんですが、いろんなものを見たり、 感じたりしながら、ようやく天河にたどり着けたんです」
(77)
「海の底 − 、まずそんな感じがしましたね。もう違う次元の場所だと思った。単に地理的に移動してきたにすぎないのに、なんか壁を乗り越えてやって来たみたいなところがあるんですよね。龍宮城みたいな、海の底、水の底みたいな印象を受けた」(77)
「いいところでね。弁才天が祀ってあり、世阿弥がこもって能を考えたという能楽堂も残っており、面白い宮司さんがいて」(75)
「『天河に最初に行った音楽家』の宮下富実夫さんとも会った」(75)
「荒井氏と私はそこで水と光をテーマにしたヴィデオの素材を求めると同時に、天河の芸能の神、弁才天に奉納しようという新鮮な目的もあった。」(76)
「"水と光と音"をテーマにしようと。それだけですね。決まってたのは」(70)
「これほど漠然としたテーマでやるのは、初めて」(70)
「ホントに静かだったですよ。十月だったし、お祭りでもなかったし」(77)
「その静かな雰囲気の中で過ごして、音をまとめるのはまた別の場所でやろうということで」(9)
「わりとのんびりしてたり…」(70)
「寝てばかりで何もしなかったですね」(77)
「寝ちゃう。起きられない。ぐっすり死んだように眠る。ほんとうに静かな所で、自然と仲良くしている。自然は自分を浄化する力を持っていますね。天川はその自然の一部で、自然の中にある村です。風が吹く、星がきれい、気持ちのよい森…… 日本全国にそう言う場所はいくらでもあるけれど、なぜ特に天河なのかというと、すごく深い意味があるような気がする。簡単にこうだ、と言えないところが あって、行った人がそれぞれ考えることになってしまう。個人的に、『なんなんだろう』、『なんでここに来るんだろう』ってね」(77)
「帰 りの電車の中で、自分の仕事と地球との関係を確かめたくなり、思い当たることがあって、地図を買ったのだ。この思い当たること、というのは真に思い当たっ ていた。自分と地球を結ぶ糸のようなものの手応えがあった。この手応えこそ真実であり、人を動かす原動力である。学ぶことの本質はこの手応えであり、密教 とはこのことであり、決してオカルトの持つ迷宮の中にはない。」(62)

久保山昌彦の証言
「荒井くんが細野さんとビデオ作品を作るんで天河に行くんだけど、いっしょに来ない? って言うんで行ったんです」
(69)
「天河で話した時に、YMOの曲を聞いて自殺をやめた子たちがいるっていうことを言ってた」
(69)
「その時細野さんが持って来てたカセットが無印良品のための音楽だった」(69)
「そのテープを聞いた時、僕びっくりしちゃいましてね」(69)
「YMOという華やかな表舞台の奥で、彼自身の最も孤独な舞台裏で燃やされ続けていた熱い霊の響きを感じた。」(69)
「簡単に言っちゃうと、この音楽は企画した上でできたもんじゃないっていうことなんです」(69)
「人間のもつ可能なかぎりの状態の中で、最上の部分が出てる。そこに非常に感動しましてね」(69)
「天河でもはっきり言いましたけど、まず聞いた時にね、この音を作った人の中には『信仰の成就』ってことがあるなという手ごたえが強かったんです」(69)
「一人の人間が長い間寝ても覚めてもホントにほしいと求めていた宗教的境地がみつかった時の状態、つまり、『これでよかった』という状態ってものが音楽の中にはっきり感じられる」(69)
「その状態が結局、経絡を通して伝達される」(69)
「身体の中心に魂があるんだけど、それとの中間に経絡というのが六本ほどあるわけです。経絡っていうのはまあ楽器の弦だと考えればいいんです」(69)
「だからいかに上手に演奏するかとかっていう演出された部分じゃなくて、その人に現実起こっている状態が経絡を媒介 として楽器にぶつかっていくわけなんです。そして相手の経絡を媒介にしてその人の中に響いていくんです。それは意図してもできない、表現を超えた体現なん です」(69)
「細野さんのテープ聞いた時、その証が出てましたね。それは音の中に証として出るんです」(69)

1983/10 YMO、栗本慎一郎と座談

「コトバ(編注:散開)の裏付けをしてもらった」(78)

※編注:『宝島』12月号(11月10日発売)及び1984年1月号(12月10日発売)に掲載。発表は『GORO』11月10日号よりも後になったが、既にこの場でYMOの「散開」が語られている。

1983/10/15 YMO、『GORO』のインタビュー取材を受ける

※編注:11月10日号(10月27日発売)に掲載。

1983/10/15 夜 YMO、『pax DO SCAN A CONCERT』の表紙撮影

※編注:1月号(12月発売)に掲載。

1983/10/18 テレビ朝日『独占!! デヴィッド・ボウイ来日 あの「戦メリ」から「チャイナガール」まで』放送。
司会:山本コータロー、ジュディ・オング
共演:デヴィッド・ボウイ、大島渚、ビートたけし、坂本龍一、高橋幸宏 他

1983/10/19 1:00 ニッポン放送『オールナイトニッポン』出演。YMOの「散開」を宣言する。
DJ:高橋幸宏
共演:坂本龍一
「散開って意味を説明すると、これは軍事用語というか、忍者用語で、要するにゲリラ的な活動をするって意味なのね。散ってそこで花開くってこと」(79)
「"散開"というコトバをポンと出して、そのコトバに引きずられてゆこうと」
(79)
「実際最初からそうでしょ、YMOに関しては」(79)
「つくった時から常に散開状態だった」(79)
「常に"散開"しているような状態があって、時の流れの中でそっちを活字にしたくなってきた」(78)
「最初から内部分裂してたし、最初から3人とも違うということをプロモーションしてきた」(78)
「最初からそういう危機的な綱渡りをしてきて、それが」(79)
「おもしろい活動を生んできたわけだしね」(79)
「それぞれ、個人のペースというものは相当違うんだっていうことがよくわかりましたね。それが無理矢理、足並みをそろえなくちゃいけない。YMOは」(41)
「5年かかって、やっと襟元を正してみようと」(41)
「発表するってことはサービスなの。別に言わなくてもいいんだけど、あえて散開するっていうことで、みんなの退屈が少しまぎれると思うから」(79)
「サービスなんて言うと、一般大衆を見下してるって風にとられるかもしれないけど、でも、サービスっていうのは奉仕ってことなんだよ」(79)
「サービスって意味は、オマケとか営利的な意味あいが強いけど、奉仕っていうのは営利的じゃないわけだよ。身を捧げるという……こんなことを言うとまた誤解されるかもしれないけどね」(79)
「ボクはこの件(編注:散開)に関して、別に何も思い入れがないの。ファンの人はすごく思い入れがあるだろうから、解散なんて聞くとショッキングだと思う。その辺を考慮してボクたちは最初から解散という言葉は使わなかったし、発表する気もなかった」(79)
「要するに『浮気なぼくら』の前に活動を休んでたでしょ、ああいう状態を想定してたわけ」(79)
「おもしろいことを考えついて、それがYMOでしか出来ない場合、揃ってやるっていうスタイルだね」
(62)
「『君に、胸キュン。』以降もそういうスタイルだったんだけどね。それまで休んでたし」
(62)
「『浮気なぼくら』を作ってる頃も、それを出して、いったいどのくらい受け入れられて、メンバーはどのくらいそれに対して満足できて、先のことを考えられるかっていうのがあったの。そういうのの答が、6月くらいに全部見えてきたから」
(62)
「TVに出たりシングル盤をヒットさせてると、YMOのかくれた魅力に対して、みんな見向きしなくなるってことがあるね、ああ、TVに出てる人たちだって。TVに出るようになって、かなりちがう見方をされるようになった」(79)
「YMOが冗談やってる部分もおもしろいかもしれないけど、そういうところばかり見ないで、目に見えない部分のパ ワーっていうのは、YMOを分析すればかなりわかると思うんだ。でも、それを感じてくれる人があまりにも少ない。感じてくれない人とはボクはコミュニケー ションとろうとは思ってないわけ」(79)
「でも、YMOをやってると、どうしてもその一般大衆というものが切り離せないわけ。YMOと一緒にくっついてるのよね。で、そこにボクは限界を感じて、もう人のことよりも自分のことを思わせてもらいたくなった」(79)
「あとは、ひとりひとりの活動がオーバーラップしてるから」(62)
「それがいちばん大事なんじゃないかな。YMO以前に、教授のソロ活動とか、幸宏のソロ活動とか。そういう結果も見えてきたし」
(62)
「たとえば、教授の場合は映画のこととか、幸宏の場合はソロ・アルバムとかコンサートとか、ぼくの場合は作家活動とかね。いろんな意味でちょっと見えてきた」
(62)
「YMOが最優先でその他にも個人的な世界ではない部分でやってく仕事が多かったから、それを優先させてたんです」(6)
「それを逆転させて、自分を最優先させる時期」
(6)
「ただ、ひとつピリオドを 打って今までお世話になった人たちに、『どうもありがとう』を言うような発表会をやろうかって提案がレコード会社からあって、その発表会の名前を『散開 パーティーにしようよ』って話になってたの」(79)
「で、これはコンサートが終わった後でと考えてた。ところが、この話がよくある情報のひとつとしてマスコミに流れて、その時点で各新聞にいっせいに『YMO解散!』って見出しで出てしまった」(79)
「メンバーにはそういう意志がなかった。もちろん、事務所もレコード会社も具体的には考えたことがなかったと思う」(79)
「たとえば、なんで解散かっていうと、みんなが解散って言ってるから、とかね、そういう思わくもあるわけだよ。事務所とかレコード会社は、メンバーがそう言ってるからってことだろうし、メンバーにとってみるとお互いのメンバーが言ってるからとかね、これは誰かが決めたわけじゃないんだ」(79)
「誰か一人の理性で決定したのではない。」(56)
「解散っていうのは、一見、不可能なことだと思うんだよ」(79)
「まだできるのに何故やめたんだろうってよく言われるけど、実際僕たちもそう思ってたのね(笑)」(77)
「まだやれることがあるというのは誰だって思ってることだし、ほんとにもったいないって声が多いわけだよね。これからだって声もあるし
…」(79)
「レコードを出せばかなりの安定した枚数が売れるわけだし、コンサートをやっても満員になるし」(79)
「ちょっと活動すると、刺激すると人は注目してくれるしね」(79)
「でも、そういうこととは全く関係のない次元で、こういうことは決まって行くから、誰もこういうことを権力で支配することはできないから…」(79)
「ちょっとボクなりの言い方をさせてもらうと、そういうことをつかさどってる世界がボクたちの知らないところにあると思う」(79)
「このことも、運命っていうか、神秘界ではすでに決まってたことだと思う」(79)
「ぼくは勝手に信じ込んでるんだけど、YMOの渦っていうのは、ぼくと教授と幸宏が作ったんじゃなくて、何かのたくらみがあるんだよ。『神様のたくらみだ』って言ってた人もいるけど」(80)
「エゴ中心に組み立てられたプロジェクトっていうのは、見極めがつきにくいんじゃないかと思うんだ。逆に、ひとりでやっているプロジェクトっていうのは、すごく見極めがつきやすいだろうと思う」(80)
「YMOっていうのはね、そのどちらでもなかったんだ。集団で音楽にかかわっているけれど、エゴだけでやってたわけじゃない。エゴだけでやってたとしたら、やめるやめないで、もうメチャクチャな紛争になってたと思うの」
(80)
「ところが、散開の話が出た時に、みんな示し合わせたように納得するわけだよ。不思議なことが起こるの。というのは、どうしても何かが働いているとしか思えないわけ」(80)
「だからボク自身、とても不思議だと思ってる」(79)
「僕は複雑な気分でYMOやめたんだけどね」
(77)
「いちばんボクは複雑な立場で、いちばんやりたいと思ってるのはボクだし、いちばんやりたくないと思ってるのも多分ボク」(79)
「まだ何か出来るんじゃないかと思ってるんだけど、それ以上に周りの動きがニブくなってて、苦痛」(62)
「でも、もうそれと、自分の気持とは関係なく、もうやんなくてもいいっていう感覚があるわけ。もう、じゅうぶんやったっていうような…
…」(79)
「結局、散開の最大の理由は、自由な発想のままに行動できなくなってしまったことだね。何も決めないで集まって、メンバーも誰でもいいからYMOっていう名前を使ってやるとかね。そういうことがほとんどできなかった。YMOの呪縛力が強くて、それが許されなかったんだ」(80)
「本当はいつでも辞められるようなシステムを作りたかったんだけど、あの位大きくなっちゃうと辞められなくなっちゃうでしょう。僕自身も、いつでも辞められるって気持ちで作ったにもかかわらず、辞められなくなっちゃった立場だから責任感じてね」(42)
「全部はっぴいえんどの延長なんですよ、僕にとっては」(42)
「"さよならニッポン"のコンセプトでYMOをやってたわけだから」(42)
「はっぴいえんどがウケてなかったかと聞かれれば、いや決してそうではないと思うんですよ。やっぱりある種の異常なウケ方をしてて」(42)
「非常に見えにくい形でウケてたんですよ。それがYMOってのは凝縮して見やすい形で、要するに売れるキャラクターを演じることによって分かり易いウケ方をしたという気がするけどね」(42)
「世の中に出ていけば出ていくほど、キャラクターとして出ていかなくちゃならなくて、三人のキャラクターが固定しちゃって、非常にフラストレーションがたまってしまった」(9)
「YMOっていうのは、社会現象を生み出したり、独特の磁力を持ってるんだよ。その磁力がYMOのメンバーに益、不益をもたらす要素がかなり大きいわけ」(79)
「やっぱり、売れるってことは未知の体験を背負い込むことだし、そこで教授なんかは非常に悩んでたし」(42)
「い ろんな利権がうごめいてて渦を作ってるし、そういうところにはぼくは入っていけないから、わからない。それでまあ、好きなことやって、いいもの作ってって ことに集中してるわけ。でも、なんかそういう渦が巻いてると、牽制しあってうまく展開していかないという状況があったりして」(62)
「そうすると、なんか音楽やってるような気持ちなくなっていくからね。政治の世界みたいになっちゃって、何もおもしろくなくなってきてしまうの。それは、誰のせいでもないんだろうけど」
(62)
「それにヘキエキしたということかナ…」(79)
「時 代の勢いとしてテクノロジー賛美の真っ只中にあった。そしてアメリカではレーガノミクスの破綻が明らかとなり、日本では貿易黒字が急上昇したりで、経済の 動きがとても目に入ってきた時期だった。たまたまぼく自身も経済に目を向けざるを得ない状況になるたびに、自分たちの音楽活動も、これは経済現象なのでは ないかと気づいてきた。そうなるとYMOばかりでなく、音楽というものがすべてメディアに乗っている限り、巨大な経済ネットワーク、経済的エネルギーの支 配下にあることに気がつかずにはいられなくなった。当然と言えば当然すぎるが、それまでのぼくたちは、ただ音楽が好きでやっていただけだったので、経済の 動向についてはほとんど目を向けていなかったのである。」(81)
「日本は政治レベルではなく、経済レベルの突端で動いているわけで、その経済の波が文化を運んでいたのである。その最先端で波乗りをしていたのが当時のYMOであり、逆にその波をあおっていたのもYMOであったと思う。」
(81)
「ところが、時代の動向というのはそんなに甘くなく、YMO解散前後の時期というのは、さらにいっそう時代の速度が増していった時期であった。」(81)
「時代の速度という渦巻の中にいたYMOであったが、最初はその渦が面白かった。ところがだんだん巻き込まれてゆく にしたがって、自分自身を客観的に見られなくなっていったのである。これでは何も見えない。イライラする。もはや、YMOを解散せざるを得ないという思い にいたった。」(81)
「日本の新陳代謝のスピードは速過ぎ」(78)
「ボクたちは日本を問題にしているし、日本の新陳代謝のままに生きている」(78)
「新陳代謝を止めて死んだようになって存続だけするのはいやだからね」(78)
「YMO自体が速度感を失ったということだったのかもしれない。あるいは逆に、あまりにも高速のために停止していくという一種のストロボ効果のような状態、そんな気持ちになったのかもしれない。」(81)
「メンバーにとって、4人目のメンバーがいるんだよ、YMOっていう。その4人目のメンバーであるYMOが完全に怪物化しちゃったわけね」(79)
「ぼくにとってYMOっていうのは怪物や妖怪みたいなものになってたの」(80)
「ある種"怪物"になってきてね。何をやってもいいという取り決めが出来ちゃってる気がする。最初は自分たちの中から出てくるものばっかりなのに、イザ動きだすと手におえない怪物になっている」(28)
「ミュージシャンが先走りして、どんどん引っ張っていったわけで、最初は誰もわからないと言って、わからないままついて いったらヒットしちゃったということで、スタッフがリーダーシップを取れずに、ミュージシャンのわがままがどんどん通っていっちゃう恐ろしい集団だったわ けです。いつの間にか僕はその頂点に立って、スタッフの人たちの心理もわからなかったわけです」(9)
「見極めができなかったら、YMOはぼくらの魂を吸い尽しちゃってたんじゃないかと思うんだ。そんな怖ろしさがあったよね」(80)
「発表してピリオドをつけるってことは、それを封印するって気持が強いの」(79)
「お釈迦様が孫悟空を石に閉じこめたでしょ、そういうカンジなの。散開でもなんでもいいの、言葉は。呪文なの。それをペタッとはって封印するわけ、結界っていうか…。こういう言い方をするとすごくわかりにくいかもしれないけど、これはすごく大事なことなんだ」(79)
「YMOはいつもいると思ったら、大まちがいだと思うのね」(79)
「みんな安心してたと思うの。YMOはいつでもいてくれるってね」(79)
「誰のせいでもないと言ったけど、逆にかかわってるものすべてのせいだとも言えるんだ」(79)
「ボクは一般大衆を見下してるんじゃなくて、警告してんですよ」(79)
「一人一人が、みんなかなりのパワーをもってるってことなんだ。YMOのことを考える時に、そのことは全部ボクたちにはね返ってくるから。そういう力がボクたちに散開と言わせたってことでもあるんだよ」(79)
YMOは来年はないんですよ、って言いたいのね、ファンに。そのかわり、なんかもっと積極的に感覚を研ぎすましてほしいわけ」(79)
「ボクが地味になにかやってた時にも、感覚を研ぎすましてくれてれば届くはずだと思うから」(79)
「そのかわり、研ぎすましてないと届かないと思う」(79)

坂本龍一の証言
「散る、開くですね。散って開くという…」
(6)
「最初は散会って、散る、会合の会ね、会うっていう字ね、最初はそうだったわけ。解散じゃなくて散会なんて言ってたわけね。そいで、国語辞典を引いたらさ、国会が解散することなんだよね、ヘヘヘッヘ」(82)
「ただ国会が解散するとき使うだけの話で。その散る、会うってやつはね」
(82)
「だからやっぱ解散なんだよね、置き換えて言っても。で散り開くだとさ、YMOの場合は最初っから散り開いてるから、今さら言うこともないから、やっぱり解散なんですよね」(82)
「YMOの氷結化」(41)
「ボクと幸宏と細野サンと、そして4番めにYMOがいる感じ」(78)
「坂本、高橋、細野と固有名詞を3つ足してもYMOにはならなくて、"YMO"っていうひとつの別の記号というか、何か体系があるわけ。そっちのほうが3人を足したものより大きい」(62)
「三人という実体を取り除いても、YMOは存在するような気がする」(28)
「具体的に言うと、3人集まって音楽を作ったり、演奏したりすることはYMOじゃなくても有り得る事なんだけど、YMOという名の下に集まってないと、それはYMOじゃない。YMOという名前があれば、2人でもYMOなの」
(62)
「YMOみたいな大きなプロジェクトをやっていると、どうしても燃やし切らない余燼みたいなものが残ってしまうんだ。その実体のないYMOというものを使って何かできないかということで」(78)
「活動したんだけど、その余燼も蕩尽しつくしたということだね」(78)
「『BGM』の直前から、YMOが化け物のような存在としてボクの中に入りこんできた。これは、不思議と幸宏や細野 サンも同じ感じだったと思うね。やりこめるか乗り越えるかしないと前に進めない自分の中の第一の問題としてYMOが立ち現われてきたのが、『BGM』から だった」(78)
「個人活動も、YMOというマンモスがいることを前提にしたソロワークになってしまった。YMOは、あるときは目の 上のタンコブであり、あるときは坂本という飛行機が帰る巨大航空母艦であったり、それからまだ独り立ちしていない自分の力を強めてくれるものだったりしま したからね」(41)
「結局、マイナスになっちゃうんですよね。マスコミのイメージ操作が。本人は気にしていないはずなのに、マスコミが 『YMOの』という枕詞をつけちゃうと逆に意識してしまう。そのマイナス面がすごい。たとえば、僕、坂本が高橋悠治と一緒に演るときはあくまで「YMO の」坂本じゃないんだ、と。今度は執着してしまうわけなんですよね」(41)
「実際は、そんな肩書き、あってもなくても同じなんです。ただし、困っちゃうのは、その肩書きのもとにいろんな人間が動いたり、僕ら三人の感情がかき乱されるんです。本当に、それだけが困りものなんだ」(41)
「それで、三人の足なみをそれぞれ確認するためにもこの辺で散会しなければならない、ということになったんです」(41)
「まぁ、もともとね、散会していたグループですから」(41)
「3人とも暗黙の了解でさ。別に同じ思想や好みを持ってるわけじゃなくて、でも何らかのメリットを持ってやってるんだと」
(62)
「村上龍と村上春樹が同じ部屋で二人で小説書いているような感じだと思ってくれればいいの。もう耐えられない。それを何年も続けていれば、やっぱり地獄ですよ」(83)
「特に細野さんが宗教に関心もって、神秘主義とか神道とかにどんどんいく時期だったから」
(83)
「そういうことも耐えられなくてね」(83)
「もちろん、尊敬しているんですよ、音楽家としては」(83)
「ちょっと生意気かもしれないけど、いいライバルだと思っているわけでしょう。でも、村上龍と村上春樹が一緒の部屋 ではお互い小説書けないですよね。お互いに、のたうちまわっているわけだから。一緒にやれっていっても無理でしょう。表現もライフスタイルも信条も信仰も 何もかも違うわけだから」(83)
「だからつくづく思うんだけど、アマチュアが一番いいんだよね、本当は。同人誌というスタイルが最高ですよね。で も、同人誌の中に一人スターが誕生したら、その同人誌はもう終わりでしょう。そういうようなものなんですよ。それがYMOの場合は三人のスターが同人誌を やっていたわけ。なんか知らないけど(笑)」(83)

高橋幸宏の証言
「ひとつの段階の過渡期の音楽としては、役割りを果たしたんじゃないかな」
(62)
「まあ日本の隠れた部分だけど、エレクトリック・ミュージックの手段としても、それからコンセプトとしても、ひとつの常識の形を作ったから」(62)
「やっぱり、5年ていうのは、この段階でひとつの区切りがつくと思うんだ」(62)
「YMOっていうブランド自体が、なんていうかな、新しくないとおもしろくない。そうじゃなくなっちゃったらやっぱりつまんないから」(62)
「一段落ピリオドを打ってね、一段落させる必要があるのかもしれない」(62)
「細野さんがYMOどうしようかなっていうのは」(62)
「ずっと話し合ってきたことでね」(62)
「僕なんかと」(62)
「たしかに出来ることはまだいっぱいあることもわかってるし。たぶん教授も同じような感じじゃないかな」(62)
「ただ、それをやるためにはそれなりのエネルギーが必要」(62)
「その労力を結集する、なんていうかな、そういうエネルギーをね、3人で生み出す、つなぎ止めるほうのエネルギーが不足してる」(62)
「みんなやりたいことがいっぱいある割には、そのエネルギーが不足するんだと思う」(62)
「つくづく思うことは、他のふたりがすごい才能のある人だってことね。そのことだけだったから、YMOをつなぎ止めてたのは」
(62)
「ほかにおもしろい人がいない!」(32)
「それがなかったら僕たちはYMOをもっと早くやめたと思うし」
(32)
「興味深い人がどんどんあればもっと早くこの散開って言葉の意味を使えたと思うんですよね」(32)
「解散っていうふうにハッキリしなくてもね。事実上自分たちで自分たちを縛った所があるのは、そういうところもありますけどね」(32)
「最初のころは、ボクにとってYMOというのは、ボクと細野サンの関係であり、ボクと教授の関係でしかなかったのね。ところが『テクノデリック』以降は、ボクと細野サン、教授との関係以外に、全く別のものとして独立したYMOってものが感じられるようになった」(78)
「細野、高橋、坂本、そして四番めにYMOがあるんだ」
(41)
「それぞれが独立して、ポンポンて孤立してるわけ、ちゃんと。それで見えてくるのは、それぞれの才能の大きさの割に、みんなのつながり方がチグハグになっていく感じなの」(62)
「お互いのことを認めてるのはとてもいいことだと思うけど、認めてることと、それでつながって自分のやりたい音楽をバンドとしてやっていくっていうこととは違うからね」(62)
「その認めること、尊敬することでね、音楽家としてやっていける範囲っていうのは、もうギリギリだと思う。だからテンションが高くなるの。認めてるから、つい」(62)
「別に、あいつたいしたことないと思えば、みんなそれなりに自我が強い人ばっかりだから、いくらでも自分の好きなようにやっちゃうだろうけど」(62)
「それだけテンションの高い部分を、自分ひとりで責任取れないっていうのがあるね、YMOは」(62)
「結局『YMO』という言葉から発するエネルギーが、僕たちを支配するんです。いつもその支配下にいなくちゃならない。それが非常に疲れる」(41)
「僕も教授も細野さんも、個人活動のペースをみだされましたからね」(41)
「次の段階でやることをYMOでやるか、それともソロでやるか。そういう風に言った時に、別にどっちでやっても同じことなんだったら、ソロでやってもいいっていう気持ちもみんなあるだろうね」(62)
「僕がソロでやるときとYMOのときと、作業はホントほとんど同じというケースがあるんです。僕が叩いて教授がキー ボード弾いて、細野さんがベース弾いてまたオカズにぼくがキーボード弾いて、みたいなね。ところが、"YMOの曲をやるんだ"という掛け声のもとに集まる と、不思議とYMOのカラーに染まっていくんですよ」(41)
「ホントは同じことなんです。でもYMOの曲になるとやっぱり違っちゃうんだよね」(41)
「それを自分たちで感じて、ああ、やっぱりプレッシャーになってるな、と思いましたね」(41)

小尾一介の証言
「82年に一回休んだ時点以降はYMOはプロジェクトチームのような感じになってたんで、解散というのもやれることはすべてやったプロジェクトが完了するぐらいの印象でした」
(44)

1983/10/20 『サウンドール』11月号(学習研究社)発売。
インタビュー/居酒屋兆治 出演記念インタビュー

1983/10/21 『2001』11月21日号(祥伝社)発売。
YMOインタビュー/Y・M・Oが古典帰り宣言

1983/10/26 越美晴『チュチュ』発売。
produce
 スキャンダル・ナイト:voice
コシミハルの証言
「『チュチュ』はそれまで作ってあったデモテープを再現する形でレコーディングしたのですが、この時に初めて、好きなものを自由に作っているという経験を しました。でも細野さんはちょっとキッチュな形で私を押し出すことを考えていらしたようで、"そのアイドルっぽい感じがいいんだ"と。当時まだ髪の毛が長 かったんですが、"そういうサーファーがテクノやってるみたいなキッチュさが、笑っちゃう感じでおもしろいんだよ"って。だから髪の毛を切ったのは、自分 の気分というか判断だったんですけれど、細野さんは長い髪のままやってほしかったのかも(笑)」
(25)

1983/10/27 『GORO』11月10日号(小学館)発売。
YMOインタビュー/日本の新陳代謝のスピードに合わせれば、やめるしかない。代謝を止めたくないからね。

1983/10/27 河原温展図録『ONE MILLION YEARS』(ギャルリー・ワタリ)発行。
寄稿
※編注:内容は未確認。河原温展『ONE MILLION YEARS -future-』は同年11月30日まで神宮前/ギャルリー・ワタリにて開催された。

1983/10 福澤もろ「宇宙の唄」発売。
宇宙の唄(サークル・マインド):bass
「音楽の神様は、いるのです。」(84)
「だから良い曲ができた時は、えばりたいけれど、感謝する方が先です。サークル・マインドは、そんな神様への讃美歌だと思って、ぼくは聴いています。」
(84)
「もろくんのテーマソングになってる、と思います」
(85)
「日本の世相の中で、きっともろくんは、子供たちにこそ歌って、あるいは聴いて欲しかったんだと、思うんです」
(85)

1983/11/10 『宝島』12月号(JICC出版局)発売。
座談会/Y・M・O VS 栗本慎一郎 YMOは氷河のなかに、いま静かに眠りにつくマンモスなのだ。

1983/11/12 映画『居酒屋兆治』公開。
出演
「自分が出てるのあんまり観たくないんで、ちゃんと観たことないんだよ」(71)

1983/11 サンディー&サンセッツのレコーディング。
スティッキー・ミュージック
「それまで僕も歌謡曲にべったり浸りこみ過ぎてたんで、YMOでさえ歌謡曲やってたしね、だからちょっと振り戻すっていうか、ニューウェイヴの頃の感じを取り戻したかった」(8)
「彼らもやる気で、ツアーがあったし。外国を意識せざるを得ないっていうか」
(8)

1983/11/17 YMO『1983 YMO JAPAN TOUR』通しリハーサル。砧/国際放映。

1983/11/18 高橋幸宏のビデオ・ソフト『ボーイズ・ウィル・ビー・ボーイズ』発売。
回想:bass
※1983/08/13@箱根自然公園

1983/11/19 『サウンドール』12月号(学習研究社)発売。
インタビュー/細野晴臣が語るYMO、散開(ピリオド)
コメント/25 Dec. 1983

1983/11 『プレイガイドジャーナル』12月号(プレイガイドジャーナル社)発売。
座談会/プロパガンダの極限をつくりたい YMO × 佐藤信

1983/11/21 高橋美枝『ひとりぼっちは嫌い/ピンクの鞄(トランク)』発売。
ピンクの鞄(トランク):compose

1983/11/22 YMO『1983 YMO JAPAN TOUR』会場リハーサル。札幌/北海道立産業共進会場。

高橋幸宏の証言
「3人にSPも付いたんですよ。警護ですね。僕たちの泊まってたホテルの同じフロアにファンが部屋をとってたりして、それの対策でもあったんだけど」(51)
「ホテルに着いてすぐに教授からぼくの部屋に電話がかかってきたんですよ。『幸宏、部屋の中に人がいるんだけど……』っ て。監視されてるっていうわけね。『それは外で待ってもらえばいいんだよ』って言うと、『あ、そうなの?』って(笑)。半分冗談だろうけど、笑いました。 で、後でロビーに降りてったら、細野さんも『部屋の中、人いるよね』って。『それは外に出てもらっていんだよ』『そうなの?』って(笑)」(51)

1983/11/23 YMO『1983 YMO JAPAN TOUR』ツアー・パンフレット『Chaos』発行。
インタビュー
寄稿/ワイルド・アンビションズ

1983/11/23 YMO『1983 YMO JAPAN TOUR』公演。札幌/北海道立産業共進会場。
YMO 高橋幸宏(vo, cho, ds)、坂本龍一(syn, vo, cho)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、デヴィッド・パーマー(ds)
 (プロパガンダ)
 東風
 ビハインド・ザ・マスク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 中国女
 音楽
 フォーカス
 シャドウズ・オン・ザ・グラウンド
 バレエ
 パースペクティヴ
 ワイルド・アンビションズ
 マッドメン
 リンボ
 チャイニーズ・ウィスパーズ
 希望の河
 邂逅
 シー・スルー
 手掛かり
 テクノポリス
 ライディーン
 以心電信
 過激な淑女
 君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)
 ファイアークラッカー
「僕は傍観者でしたね、本当に」(5)
「人に身を任せて、その道の、舞台を知ってる人にね」
(86)
「最後にそれができる」
(86)
「なんでできなかったかっていうと、いつも『時間がない時間がない』って」(86)
「自分たちで決めてたんだよね。それでちょっと重荷になってきて」(86)
「ビッグ・プロジェクトですからね。かなりシステマティックな中に組み込まれていました。PA関係とかも、試行錯誤の時代は過ぎていて、みんながこういうシステムを使い慣れていたころなんでしょうね」(5)
「システムができ上がっていて、特に僕はそれに乗っかってただけなんです」(5)
「そんなに思い入れはないんだけど、最後にぶち壊したらいいと」(86)
「もう、最後だから何やってもいい(笑)」(86)
「すごくドライになってる。YMOってことだけでなく、全てに対して」(87)
「なるべく感情を内に込めていようとしてる時期」(87)
「いつもと同じただのツアーだって考えるようにして」
(87)
「全然緊張感がなかったのが記憶にありますね」(5)
「すごいファッショ的な部分が強いと思うんだけど」(86)
「そこもYMOが持ってる強い部分だと思うんだな」(86)
「全体主義っていうのはね、やっぱり魅力的なわけですね、見せ方が。思想以前の問題として、とても構成されているという意味でね」(5)
「もとはイデオロギーではなくて、ロシア構成主義という芸術の分野だった。でも、どうしてもナチズムに結びついちゃうんですよね。それはたぶん、幸宏の美 学でもあるわけです。それは映像的なことなんですよね、ただ単に。例えばヴィスコンティの映画だったりリリアーナ・カヴァーニの映画だったり、そういう ヨーロッパ映画でナチズムを美的に扱っちゃう映画があったわけですけど、そういうものを見ると、やはり誰しもがカッコイイなと思っちゃう。特にファッショ ンに敏感な人には、抗いがたい魅力があるわけですね。幸宏はファッショの中に、そういう美を見出していたんだと思います」(5)
「ウィンター・ライヴのころまで、いろんな制服を着てきて、どれもファッショの匂いが強くて。最初はそれを『ファッショ=ファッション』と捉えて気軽に やってたんです。ところが、アルファに村井さんの秘書でイギリス人がいたんですよ。彼とは一時期ずっと親しくて、僕はよくいっしょに行動していたんですけ ど、彼はユダヤ系の人なんです。彼がYMOの制服を着たステージを観るたびに、嫌悪感を表していたんですよ。自分のおじいさんはアウシュヴィッツにいたか ら、これは許せないと。僕もそれはもっともだと。そのとき初めて、これは冗談ではすまされないと思って」(5)
「幸い僕は意識がハッキリした時点で、そういうところから離脱していったんですけどね」(5)
「たまたま、そういう人がまわりにいて、僕に言ってくれたことが影響していますね」(5)
「昔 の曲をアレンジを変えてやるというのは解散が決まるまえから考えてた」
(87)
「サービスっていう意識かな。その分、こっちが楽しみ方法を考えなきゃいけない。アレンジを変えてみるとかね」
(60)
「曲順に関しては思い入れはないね。練習をしている時に"いかに盛り上げるか"、って ところでの計算を働かせての職人的な決め方だし。最後は盛り上がって終わりたいというのはあるから、YMOのもってる鬱積した部分と盛り上がる部分という 両方をうまく強調した上でバランスをとるという事はかなり意識したけど」
(87)
「ステージの前は、早く終わればいいなとか、一時間半の辛抱だってことを考えたけど、演奏中はいっさい何も考えないし考えられない」(87)
デヴィッド・パーマー自体のドラミングは、とても正確でシビアなものだったんで、やりやすかったですね」(5)
「そういうコネクションは幸宏任せってところがありましたね。幸宏がそういうことをいちばん考えてたんじゃないかと思います」(5)
「これもデザインだと思いますね」(5)

高橋幸宏の証言
「かっこよくやろうと」
(62)
「いつもそうだったんだと思うの、YMOって」(62)
「単に聞く側に対するサービスっていうんじゃなくて、自分たち自身のことも含めてね、エンターテイナーになることがサービスなんだよね。悪い意味のサービスじゃないからいいんだけど」(62)
「ほ とんどメンバーはノータッチで、『今は自分たちでコントロールしてるYMOじゃない』っていう気持ちが完全にあったんですね。本当にシステマティックな、 コントロールが完璧になされていて、演出も決まっていて、しかも初めてっていうぐらい自分たちの演出じゃないもので。モデルの女の子たちを使うとかってい うのは、僕たちのアイデアじゃないし」(51)
「コンサート自体が、ややオドロオドロしい」
(31)
「結局YMOはコワモテだったという……(笑)」(31)
「ナチっぽいね。ファッショ!」(31)
「あれはね、ファッショ(ファシズム)のファッションなの」(87)
「ファシズムにはものすごくファッショナブルなところがあって」(87)
「YMOにも似合う(笑)」(87)
「一度やってみたかったことだから"解散"ってことがなかったとしてもやったかもしれない」(87)
「ステージの大まかなイメージとか制服を軍服にしようっていうのは、解散が決まる前から決まっていたことなの」(87)
「僕自身はデカダンみたいなのはいちばん嫌いだったんだけど、わかりやすいほうがいいだろうなってことで。佐藤(信)さんの映画のこととか、妹尾(河童)さんの舞台イメージが最初からあったんで、ああいう風にね」(51)
「そういうイメージにするために、あのコスチュームを考えたわけじゃなくてね。実はあれ、ダブルのジャケットをただベルトで締めているだけなんです。作っ たのは僕なんですけど」(5)
「かなり前からリハでセッティングしてやってたんだけど」(5)
「あれ着て最初にあそこに行ったとき、『うわ、マズイな』って思ったんですけ どね」(5)
あんな舞台セットになるってことはわからなかったから」(5)
「ちょっと失敗したなと」(2)
「衣装とですね、それから、この、まあ河童さんの、妹尾河童さんの、ステージ・デザイン、これを、おー、ある種、ファシズムを感じるようなね、ものとして、若者が捉えた、こう、現象があったらしいんですよね」(2)
「そういうところだけ影響受けちゃってるバンドがのちにいくつも出てきて、それが、YMOがヴィジュアル系のはしりと言われる所以でね(笑)」(51)
「BUCK-TICKの今井(編注:寿)くんなんかは、あれに影響受けたって言ってましたから(笑)」(5)
「コンサートでみんなを集団催眠的に盛り上げるためには、ファシズム的なものがいいんじゃないかとずっと思ってた。ファシズムは快感だからね、演る側も観る側にとっても」(87)
「まあ、あれで『君に、胸キュン。』歌ってるんだから、どうでもいいやって感じですけど(笑)」(5)
「イデオロギー的には僕達正反対だから、冗談として見てもらわないと意味がない」(31)
「ステージ・セットは大げさでしたが、わりと気軽に楽しんでやってましたね」(51)
「ボクはできるだけリラックスしてやるというのを心がけたし、やっててなかなか楽しいものがあった」(87)
「ステージの上がり下がりもあるし。恐ろしかったですね(笑)。もう、開き直りだよね」(5)
「全曲、ライヴっぽいアレンジ」(6)
「3人とも自分の世界で、手数少なくして楽にやりたいねって当時は言ってて、僕も歌なら歌に集中したいみたいな感じでしたね」(51)
「ドラムを叩きながら歌うのに疲れていて、オマケに上がり下がりしながらドラムを叩けないと思ったんですよ。それで、極端に歌が多い曲は前で歌いたいって」(5)
「誰かサポート付けてって言って、『誰がいる?』ってことで、スティーヴ(・ジャンセン)に声をかけたら、ちょっとスケジュールが合わなくてね。じゃあデヴィッドでって」(5)
「彼がABCで日本へ来た時に電話がかかって来て、会ったらすごいファンだって」
(32)
「僕のーライヴに一回やっぱり、来てもらった時がありまして、それで彼のドラムいいよってことで」
(2)
「やんないかって言ったらもう大喜びで。そしたらABCの連中に反対されたらしくって」(32)
ABC辞めてくるっていうから。本当に来ちゃいましたから(笑)」(5)
「だからドラムはデヴィッドにある程度任せていて、最後の、言うなればいちばんオイシイところだけ、ドラムやらせてもらってっていう感じでした」(51)
「やってる最中は夢中」(87)
「個人的には、ああこれでもう三人でこうやってやることはないんだナみたいな淋しさはあるね」(87)
「ただの"感傷"ですけどね」(87)
「ひとつのカタチあったものがなくなってしまうことに対してのただの感傷。『これっきりだナ、淋しいナ』なんて言えたギリじゃないんだろうけどね。自分たちで決めたんだから、『そんなこと言うナ』みたいにひとに言われそうだから、なるべく言わない」(87)
「でも、そういう気持がある」(87)
「教授によく、『幸宏泣いてたでしょ』って言われましたよ(笑)。これ、スモークたかれると、なんかね、うずくまって、むせて、涙が出てきた時があって、よく言われましたね。『泣いてない泣いてない』って」(2)
「"散開"の影響はそれ程ないみたい。"散開"だったら、昔からのファンが来ると思うから」(31)
「一般人が多いのは、『胸キュン』の影響が強いからかな」(31)
「YMOの中ではわりと大きめの小屋を全国で回ったんですよね。それで、まあ当時はそんな立派なドーム球場みたいのない し、それほどのキャパではないし、かと言ってこれだけのセットを持ち込まなきゃなんないので、地方の中ではかなり小屋探しが大変で、北海道なんかはなんか 牛の品評会とか馬の品評会やるようなとこだったりとか」(2)
「ホールの、担当者なんですけどもね。あのー、電源が、ここでは、そんなに使うなとかね、そういうつまらない話だったんですけど」(2)
「体育会系の、方たちなんでね。坂本くんちょっと怒り、ぶちまけてましたけどもね(笑)」(2)
「爆発してましたね」(2)
「で僕はもうすぐに、止めに入りまして、と思ったらしいんですけど、僕がそのあとケンカを始めましてですね(笑)。えーその方はなんか、ホールの、責任者に怒られて、お帰りになりましたけれどね。まあ初日での出来事でした」(2)
 音楽
「この衣装でこの曲ってかわいいですねなんか(笑)。ミスマッチで(笑)」
(2)
 ワイルド・アンビションズ
「僕はあまりたいして何もやってなかったんじゃないかな?ドラマーは、一応デヴィッドですからね。でも、フィルとかそういうのはやってたり、歌をいっしょに歌ってますね」
(51)
 希望の河
「アイドルが歌いそうな明るい歌だと思ってたのに、妙に物悲しいですね」
(2)

坂本龍一の証言
「やっぱり固定観念としてさ、ロックっていう、そういうものをひっぱってたってとこはあるよね」(86)
「せいぜいさ、照明でなんとかやるとか、スモークとかね。そういう中でぼくたちはとてもロック的じゃなくて、むしろ動きがないっていうかパフォーミングし ないっていうね。音楽もそうだけどしゃべりもあまりなかったし。お客さんとね、コミュニケイトしないやり方を無意識にとってきたよね」(86)
「コミュニケイトが成り立つような音楽を創ってこなかったし、それははっきり否定的にやってきたわけだから、最初から閉ざしてるわけよね。コミュニケイトに対する不信感を最初から持ってるわけだから、パフォーミングしなかったっていうのもそれに根ざしてる」(86)
「ぼくたち自身もヘッドフォンで閉ざされてるし。お客のリアクションと一進一退しながらっていうコンサートを1回もやったことないし。それを少しね、くずしたかった」(86)
「『細野さん、この曲は何弾く?』『ここんとこ、ベース弾く?』とかって聞いて」(5)
「みんなに聞いて回って」(5)
「弾く弾かないのリストを作って、ガーッと(編注:バックテープを)作りましたね」(5)
「僕が作りましたよ、責任を持って」(5)
「ライヴっぽく聞かせたいから、リヴァーブをかけたりして、ライヴ用にもう一回リミックスしたっていう感じですね」(5)
「舞台に凝っていて」(6)
「ナチスの祭典みたいな舞台を作って、軍服みたいなのを着たんです」(83)
「僕個人はYMOが教祖様として見られるとか、教祖と信者の関係が嫌っていうのが、ずっと根っこにあったわけで、それが解散につながっているわけですよね。それを逆説的に、YMOにやらせてみたんじゃないかと」
(5)
「終わらせるための儀式というか」(5)
「浄化ね」(86)
「カタルシスでもあるし、蕩尽ね。終わりだと思わすことが次につながるという…」(86)
「佐藤信さんのアイデアだったと思うんですけど」(5)
「佐藤信って言えば、いちばん近いところにいるのは僕なんですけどね。学生時代に、(黒テントを)手伝ったりしてましたけど、YMOに佐藤信を持ってくる発想は、僕にはなかったですけどね」(5)
「結局、20世紀のマスカルチャーっていうのは、言ってみればファシズムなわけじゃないですか。演台があって、PAで拡声して、たくさんの人々に聞かせるというのも、ヒトラーみたいな」(5)
「20世紀のカルチャーは、そういうものに基づいているんです。だからそれを戯画的にやったというか、そこに焦点を当てたんでしょうね、佐藤さんは」(5)
「ひょっとして佐藤さんは、断られるかと思って提案してみたら、全然OKだったので、ビックリしたのかもしれないな(笑)」(5)
「『ここまでやっちゃうの?』っていう疑問はありつつも、最後だからいいかっていう(笑)」(5)
「結局、そのセットを映画の中で燃やしちゃうでしょう。だから全部ウソだっていうことでしょ」(5)
「ちょっと無責任だったかもね」
(5)
「幸宏がとにかくいちばん未練があったと思う」(5)

デヴィッド・パーマーの証言
「YMOは僕のヒーローだったから一緒にやれるなんて思ってもいなかった」
(31)
「コンサートではシモンズのフル・キットを使ったんだ。シモンズはしっかり叩かないと思った音がでないから大きくて太いセカンド
パティーサイズのスティックと一緒に」(31)
「ABCにいた時はシンセ
ドラムはフルキットで使った事がなかったんだけど、YMOのリハーサルをアルファスタジオに見に行ったら、叩いてみないかといわれてシモンズのフルキットを叩いてみたんだ。その時は凄く神経使って汗びっしょりになったけど」(31)
「随分慣れたよ」(31)

佐藤信の証言
「すぐにコンサートのイメージが浮かんだ」
(62)
「YMOを使ってなんかやろうというのではなくて、一緒に何をやったらいいかっていうのが、パッとイメージとして浮かんだという感じでね」
(62)
「テーマは『プロパガンダ』にしようということね。『宣伝』っていう意味なんだけど」(86)
「非常に商業的なものもあれば政治的なものもあるし、空想的な宣伝とかね。あらゆる『宣伝』をタイトルにまずはじめてみようと」(86)
「言葉で言うと、聞いた人がめんどうくさく考えちゃうかなと思うけど、あえて言えば、宣伝というのをやりたいと思った。宣伝というのは、コマーシャリズムという側面と、プロパガンダという側面があるんだけど、プロパガンダというのをやってみようかなと」(62)
「YMOって、ぼくたちにとって、もちろん音楽から入る人もいるだろうし、現象的なところから入る人もいる、まあどういう関りでもいいんだけど、そういう全部の関係総体が何かを表わすという気がするんだよ」(62)
「その関係性の中に入り込めるかなと思ったのが、プロパガンダというテーマが出てきた理由かな」(62)
「で『宣伝』の極限みたいなものをちょっとやってみようと。『宣伝』の極限ていうのは、何もないことを宣伝することだってオレは思うんだよね。何もないことをさ、宣伝だけであるって思わせてしまうみたいな」(86)
「しかも宣伝をやっていくことによって実際にはなかったものが、在ってしまうっていうものがつくれればおもしろいコンサートになるっていう」(86)
「しかもフィクションとしてやるんじゃなくて、具体的に成立させてみようと」(86)
「それを単純に批評的に扱うんじゃなくてね、そういう現象を起こしてみたいっていう。しかもそのとたんに、宣伝して創り出したものがなくなっちゃうっていう状態がね、そのこと自体もイベントだと思うんだ」(86)
「コンサートの場合、ぼくは歌謡曲の人をやるのも何をやるのも同じだけど、演出というのはリングを作るまで」(62)
「劇の演出なんかとちがって、なんていうか、ボクシングでいえばさ、リングを創るとこで終わるんだよね。そっから先 の試合の内容までも決定するっていうのはさ、じつは演出じゃないっていうふうに思うんだね。だから、どれだけいいファイトができるリングを創るかってこと だからさ」(86)
「いかに 闘いやすいリングを作るかだね。闘争そのものは、たとえば八百長をやるにしても、本人たちだから。だから、ぼくのやることはどういうリングにするかってこ と。もちろん空間的なリングもそうだけど、時間的なリングもね」(62)
「むしろ客席へ向かって演出作業するよりは、アーティストに向かう部分の方が多いと思うんだよね。自分で発想したリングだと予想ができるわけだけど、そういう意味では、他人のリングへ上がるっていう、そういう緊張感をつくれるかどうかっていうことだけなんだけど」(86)
「YMOが今まで、なるべくなら乗ったことのないリングを作って、なおかつそれがYMOの音楽にふさわしいものだったらいいなと」(62)
「ど こでもやってないものをやるってことがまず第一の目的だったんだね。外から演出に入るんだったら、とにかく今までのコンサートで1回もみたことない舞台を つくることと、1回もみたことない(コンサートの)状態をつくることだと思った。しかもそれはできるならばコンサート以外の、演劇とか映画でもみたことの ないイメージでつくり出そうと。とりあえず、まず楽器の姿を消しちゃおうって思ったわけね。演奏してる姿はみえるんだけどね」(86)
「そういうことをショートしたうえで音楽が響いてくる、しかもそれは紛れもなくそこで演奏されてる、みたいなもの」(86)
「そういう意味では、ひとつの極限のコンサートっていうふうに」(86)
「YMOの、いろいろもってる要素の極限を全部出して」(86)
「ファッショ的っていう要素もとにかくやる。逆に、コマーシャルのところもコマーシャルの極限までやってみる。両方とにかくなるべくキャパシティの広いものをやりたいっていう」(86)
「打合せで会った時には、冗談は通じそうな気がしたけど。3人ともキャラクターは違うけど、多分、冗談でやってるとか、遊びでやってることがわかってるんじゃないかな」(62)

明石昌雄の証言
「ツアーの衣裳ですけど、軍人さんのイメージでやってますよ。ダブルの長いジャケットで、ズボンは短めで太いやつ。それで、ジャケットの上からベルトしちゃうんです」
(6)
「生地は、黒のフラノで、シャツはまっ赤です。スカーフは4種類あるのかな」(6)

高橋理の証言
「解散コンサートでは僕は油圧で上昇する台に細野さんと一緒に乗って、揺れないように押さえる役目だった」
(44)
「すごい怖いんですよ、あそこ」
(44)

1983/11/24 18:30 フィリップ・グラス・アンサンブル来日公演を観覧。霞ヶ丘/日本青年館。

1983/11/25 19:00 『モダン・コレクション VOL.4』出演。渋谷/パルコ・パート3 スペース・パート3。
越美晴 with TUTU  越美晴(vo, syn)、川島裕二(syn)、岡野ハジメ(b)、Woo(syn.ds)、細野晴臣(syn)
 プッシー・キャット
 キープ・オン・ダンシング
 シュガー・ミー
 Belle Tristesse 妙なる悲しみ

1983/11/28 V.A.『ウィ・ウィッシュ・ユー・ア・メリー・クリスマス』発売。
細野晴臣
 25 Dec. 1983:compose, arrangement, synthesizer

越美晴
 Belle Tristesse 妙なる悲しみ:arrangement, synthesizer, programming

大貫妙子
 祈り:arrangement, prophet 5, DX-7, chorus
25 Dec. 1983
「喧騒を包みこむ静けさというものが、クリスマスにはあります。この日は今でこそ宗教の祭式として受 けとめられていますが、幼年の頃はより通俗的なお祭りで、私の胸は楽しさと淋しさ、あるいは暖かさと興奮が交錯した気分でいっぱいになり、風俗としての趣 を堪能していました。世俗の織りなす混沌とした喧騒がいつしか訪れる夜の静けさに圧倒され包みこまれ、やがて眠る。このような現象を抽象して音楽にしてみ たのです。」(79)

高橋信之の証言
「10人の曲が同じようなタイプにならないように意識して、それぞれと打ち合わせていったんだけど、結局はこちらの意向を押しつけることはできないし、やっぱり自分の好きなようにやってくださいって言うしかなかった(笑)」
(79)
「企画を立てて10人のアーティストを選んだ時に想像したよりも、出来上がってきたものは全て一人一人のクリスマスに対する思い入れが浮び上がってきていて深いものになった」(79)
「ただのクリスマス・アルバムですよ、チャカチャカしてますよっていうのと違った印象が総合的に出来上がったって感じ」(79)
「一曲ずつちがうタイプの曲が並んでね、まるで計算したように、あきないように出来上がってね、すごく不思議だナって思ってる」(79)
「幸宏にそれを言ったら『みんなに好きなように作ってもらうと、こうなるんだよ』って言うんだけど……」(79)
「みんなが異なったキャラクターを持っているのだからこうなるのも当然かとは思うけど、それにしてもこのバラエティの富み方があまりにもうまく散ったもんでね、やっぱりボクとして不思議でしょうがない(笑)」(79)
 25 Dec. 1983
「この曲に関しては、ほとんど細野さんにイメージをおまかせした。基本的なコンセプトとして、決して否定的なクリスマスではなく、肯定的な思い入れが出るようにってことだけをお願いした」
(79)
「この曲で、このレコードの持つイメージが決まったってカンジがする」(79)
「このアルバムを買ってきて、みんなで聴くというよりは、男の子と女の子がね、静かなクリスマスイブに、どんなレコードだろうねって針をおとすの。そうすると、まずこの曲が流れてきてしばらくじっと聴き入っている…。で、それからポツンと『メリー・クリスマス』って言う(79)
「そんなシミジミとした聴く側に対する思いのようなものがあってね、可愛いでしょ(笑)」(79)
 Belle Tristesse 妙なる悲しみ
「聴いた瞬間に細野さんに『ブリキの太鼓だね』って言ったの。で、やってるうちにドンドンとポーランドとか東欧の、ものすごく暗い背景のメルヘンチックな ドイツ兵の出てきそうなそういう暗いクリスマスにしようってことになったの。で、とうとう機関銃や大砲の音まで入ってしまった(笑)」
(79)

高橋幸宏の証言
「それぞれのアーティストのソロ・アルバムを作る時の思い入れとは別のところで作られている」
(79)
「こういう企画モノの時って、ソロ・アルバムの時よりも気楽なんだよ。だからよけいに自分が出るの。自分の潜在意識をオブラートに包まないで表現してしまうところがあってね、気楽に無防備に出てきてしまう」(79)
「どういうロマンティシズムを持っているかっていうのが、みんなにわかっちゃうようなね。クリスマスに限らず」(79)
 25 Dec. 1983
「この曲は絶対にA面の一曲目にって、最初に聴いた時からそう決めてたの。優しくて、何の理屈もなくて、しあわせなカンジがする。肯定的な極地のようなイメージだよね」(79)
「これから始まるクリスマスってことでの暗示的な曲になってるよね」(79)
 Belle Tristesse 妙なる悲しみ
「細野さんのアレンジで、完全にベルギーとかのヨーロピアンテクノの極地。ロマンティックでメルヘンチックなテクノ」(79)
「サビのアタマはいかにも細野さんっぽいメロディーになってる。彼の東欧に対するドメスティックな思い入れが出てるね」(79)
 祈り
「彼女は最初からアカペラ中心でやりたいって言ってたね」
(79)
「バックコーラスで細野さんが歌ってて、もうなんともいえないくらい、いい(笑)」(79)

1983/11/28 YMO『1983 YMO JAPAN TOUR』公演。名古屋/愛知県体育館。
YMO 高橋幸宏(vo, cho, ds)、坂本龍一(syn, vo, cho)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、デヴィッド・パーマー(ds)
 (プロパガンダ)
 東風
 ビハインド・ザ・マスク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 中国女
 音楽
 フォーカス
 シャドウズ・オン・ザ・グラウンド
 バレエ
 パースペクティヴ
 ワイルド・アンビションズ
 マッドメン
 リンボ
 チャイニーズ・ウィスパーズ
 希望の河
 邂逅
 シー・スルー
 手掛かり
 テクノポリス
 ライディーン
 以心電信
 過激な淑女
 君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)
 ファイアークラッカー
前田祥丈の証言
「小走りに体育館へ急ぐ。パワフルな演奏がもう始まっているのがわかる。」
(87)
「会場に入り、2階席の入り口をくぐると、すでに広々とした会場は完全に熱気に包まれ、ぎっしりとスペースを埋め尽した聴衆は総立ちになっている。後ろの通路で踊りまくっている人たちもいる。」
(87)
「ステージの上では、ハッとするほどのスケール感のあるセットがスポットに浮きあがり、一種異様な雰囲気の中で、演奏が繰り広げられている。」(87)
「ステージ・セットは、なんとドイツの第三帝国、すなわちナチス・ドイツの式典会場をデザイン化したものなのだ。」(87)
「あのいまわしい世界大戦をひき起こした一方の張本人、ナチスの演説会場。ハーケン・クロイツのかわりにYMOと書かれた旗がいくつもぶら下がり、背後の建物の上には、3人がスクラムを組んだモニュメントが置かれている。」(87)
「灰色のコンクリートの建物、それも神殿を思わせるような荘厳な建物をデザインしたセットは、まるでこの大きな会場を威圧するようにそびえ立っている。」(87)
「その建物の前には、ヒトラーやゲッペルスが演説をしたのと同じような演壇が三つ並び、やはりナチスの将校の制服に似たコスチュームを着た3人が演奏をしている。」(87)
「演壇の向こうで、黒の、やはり威圧的スタイルで黙々と演奏する彼らからも、何か不気味な怖さを持ったエネルギーが放出されている。」(87)
「YMOはパフォーマンスとして"第三帝国の指導者達"を演じてみせる」(87)
「彼らはそのことを、きっちりしたエンターテイメントとしてやろうとしているようだ。」(87)
「暗くはあっても、このステージはすばらしくゴージャスだ。そして、サービス精神も満点といっていい。」(87)
「そんなステージに歓呼の声を上げている客席」(87)
「例によって、曲間の喋りなんて全くないステージだけれど、けしてシラケてなんていない。」(87)
「エネルギッシュな演奏だ。」(87)

1983/11/29 YMO『1983 YMO JAPAN TOUR』公演。大阪/大阪城ホール。
YMO 高橋幸宏(vo, cho, ds)、坂本龍一(syn, vo, cho)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、デヴィッド・パーマー(ds)
 (プロパガンダ)
 東風
 ビハインド・ザ・マスク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 中国女
 音楽
 フォーカス
 シャドウズ・オン・ザ・グラウンド
 バレエ
 パースペクティヴ
 ワイルド・アンビションズ
 マッドメン
 リンボ
 チャイニーズ・ウィスパーズ
 希望の河
 邂逅
 シー・スルー
 手掛かり
 テクノポリス
 ライディーン
 以心電信
 過激な淑女
 君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)
 ファイアークラッカー
日笠雅子の証言
「コトのスゴサを予想はしていたが、その予想をはるかに上回るステージだった。」
(87)
「YMO帝国の三人の首脳は一人の参謀補佐(D・パーマー)と四人の親衛隊(マヌカン)をバックにしたがえ、それぞ れの演説台に立った。軍服で。何度か手を高々と上げ、そして演奏した。古い城郭を型どったセットにはYMOと染めぬいた赤と黒の軍旗が舞った。白いスモー クと強烈なライトが彼等を、より幻想的により巨大に浮び上がらせた。」(87)
「セット最上部には三人の姿を象徴したオブジェが輝いていた。完璧なる儀式。」(87)
「散開のための儀式。細野さんが言うところのYMO封印のための儀式。」(87)
「いかにも!ファシズムである。ファンはそのいかにも!に扇動され先導され終始コンサートに酔いしれた。」(87)
「感動し興奮しコンサート終了後楽屋に行き」(87)
「賛美的感想として手短かに伝えた。すると彼等は『ほとんど冗談ですから(笑)』と…。」(87)

1983/11/30 YMO『1983 YMO JAPAN TOUR』公演。大阪/大阪城ホール。
YMO 高橋幸宏(vo, cho, ds)、坂本龍一(syn, vo, cho)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、デヴィッド・パーマー(ds)
 (プロパガンダ)
 東風
 ビハインド・ザ・マスク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 中国女
 音楽
 フォーカス
 シャドウズ・オン・ザ・グラウンド
 バレエ
 パースペクティヴ
 ワイルド・アンビションズ
 マッドメン
 リンボ
 チャイニーズ・ウィスパーズ
 希望の河
 邂逅
 シー・スルー
 手掛かり
 テクノポリス
 ライディーン
 以心電信
 過激な淑女
 君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)
 ファイアークラッカー

1983/12 日笠雅子のインタビュー取材(電話)を受ける

※編注:『サウンドール』1月号(12月20日発売)に掲載。

1983/12/03 YMO『1983 YMO JAPAN TOUR』公演。福島/郡山市総合体育館。
YMO 高橋幸宏(vo, cho, ds)、坂本龍一(syn, vo, cho)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、デヴィッド・パーマー(ds)
 (プロパガンダ)
 東風
 ビハインド・ザ・マスク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 中国女
 音楽
 フォーカス
 シャドウズ・オン・ザ・グラウンド
 バレエ
 パースペクティヴ
 ワイルド・アンビションズ
 マッドメン
 リンボ
 チャイニーズ・ウィスパーズ
 希望の河
 邂逅
 シー・スルー
 手掛かり
 テクノポリス
 ライディーン
 以心電信
 過激な淑女
 君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)
 ファイアークラッカー
「メンバーの乗ったバスを自転車で最後まで追っかけてきた小学生がいたり。(笑)最後までついてこれたのはその子だけだったんで、みんなで祝福してあげたんだけど、そういうのって大きな体験だったんじゃないかな」(88)

高橋幸宏の証言
「チャリンコ部隊が出動するようになって。坊主っくりの男の子たちがチャリンコ部隊で追っかけてくるんですよね、100人ぐらいで(笑)。それが危ないなって」
(51)
「こっちは振り切るために、ギリギリで行っちゃうわけじゃないですか。そうすると赤信号でも平気で、全員ガーッてくるわけ。それがスゴかった(笑)」
(51)
「いちばん印象深い」(51)

1983/12 『pax DO SCAN A CONCERT』1月号(ジェイ・エル・エイ)発売。
インタビュー/人の精神が求めるような音を追求していきたいナ

1983/12/10 『宝島』1月号(JICC出版局)発売。
座談会/Y・M・O VS 栗本慎一郎 やさしくて、悲しくて、最先端。巨大都市トウキョーの"聖と俗"が、イエロー・マジック・オーケストラを生み、そして散会させる!!

1983/12/10 「風の谷のナウシカ」の譜面を書く。

風の谷のナウシカ
「徳間ジャパンからアニメ映画を作るということで、そのプロジェクトの時に紹介されたんです。で、テーマソングを作ることになった」
(15)
「製作サイドからの依頼を受けて」
(89)
「主題歌のつもりで」(8)
宮崎駿さんにもお会いしました」(15)
「宮崎さんの所を訪ねて、絵コンテとか色んな資料を見せてもらって。試されてたのかな? 僕はアニメのこと何にも知らないから」(8)
「テーマソングは映画に入んないから、ただのポップ・ミュージックでいいと思って作りました。この曲は実験と王道の中間ですね(15)
「曲のテーマは"飛翔"。松本氏と話しあって、そこで一致したんです。」
「一番大事にしたのは作品の異国的要素です。ギリシャから東ヨーロッパ、中近東からカスピ海あたりを想定して曲想を練ってみました。それは『ナウシカ』という言葉のもつひびきが何か"古代"に通じるもの、神話的世界を感じさせたからです。」
「多分その当時はボヘミア地方の古典音楽をいっぱい聴いてた」
(8)
「色んな音楽を聴いてたことの反映が必ず出てくる」(8)
「ちょうどボヘミアのあたりのことに僕は興味があって、『ナウシカ』も舞台のイメージがそこら辺だったんで、『これはいけるな』と思ったんです。何か変なコード進行で、ミュージシャンの人はコード進行を取る時、ビックリしてるみたいだけど」(8)

松本隆の証言
「三浦光紀さんが、徳間ジャパンに移ってアニメを作ることになった時、主題歌は細野さんと僕にって指名してくれたの」(8)
「ナウシカは、やさしさと強さの両面をもっている。半分少年、半分少女でしょう。だから、彼女が風に乗って空を駆けるスピード感、浮遊感覚のようなものが表現できればと思ったんです。」

※編注:CD『細野晴臣の歌謡曲 20世紀ボックス』同梱ブックレットに譜面の写真が掲載。

1983/12/12 YMO『1983 YMO JAPAN TOUR』公演。九段下/日本武道館。
YMO 高橋幸宏(vo, cho, ds)、坂本龍一(syn, vo, cho)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、デヴィッド・パーマー(ds)
 (プロパガンダ)
 東風
 ビハインド・ザ・マスク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 中国女
 音楽
 フォーカス
 シャドウズ・オン・ザ・グラウンド
 バレエ
 パースペクティヴ
 ワイルド・アンビションズ
 マッドメン
 リンボ
 チャイニーズ・ウィスパーズ
 希望の河
 邂逅
 シー・スルー
 手掛かり
 テクノポリス
 ライディーン
 以心電信
 過激な淑女
 君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)
 ファイアークラッカー
※編注:この日の演奏の一部は、音源がライヴ・アルバム『アフター・サーヴィ ス』(アルファ・レコード/1984年)、CDボックス『テクノ・バイブル』(アルファ・レコード/1992年)、CD『コンプリート・サーヴィス』(ア ルファ・レコード/1994年)で聴かれ、映像は映画『プロパガンダ』(1984年)に使用された。

1983/12/13 YMO『1983 YMO JAPAN TOUR』公演。九段下/日本武道館。
YMO 高橋幸宏(vo, cho, ds)、坂本龍一(syn, vo, cho)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、デヴィッド・パーマー(ds)
 (プロパガンダ)
 東風
 ビハインド・ザ・マスク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 中国女
 音楽
 フォーカス
 シャドウズ・オン・ザ・グラウンド
 バレエ
 パースペクティヴ
 ワイルド・アンビションズ
 マッドメン
 リンボ
 チャイニーズ・ウィスパーズ
 希望の河
 邂逅
 シー・スルー
 手掛かり
 テクノポリス
 ライディーン
 以心電信
 過激な淑女
 君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)
 ファイアークラッカー
※編注:この日の演奏の一部は、音源がライヴ・アルバム『アフター・サーヴィ ス』(アルファレコード/1984年)、CDボックス『テクノ・バイブル』(アルファレコード/1992年)、CD『コンプリート・サーヴィス』(ア ルファレコード/1994年)、CDボックス『YENボックス VOL.2』(アルファレコード/1996年)で聴かれ、映像は映画『プロパガンダ』(1984年)に使用された。

1983/12/13 22:00 NHK-FM『サウンドストリート』放送。
DJ:坂本龍一
共演:高橋幸宏、デヴィッド・パーマー、ピーター・バラカン
※編注:「YMO FM散開式」。細野晴臣は遅刻。

1983/12/14 YMO『サーヴィス』発売。
リンボ:produce, compose, words, all instruments, bass, vocal, mix
S.E.T.
マッドメン:produce,
compose, words, all instruments, bass, vocal, mix
S.E.T.
チャイニーズ・ウィスパーズ:produce, bass, chorus, mix
S.E.T.
S.E.T.+YMO:voice
シャドウズ・オン・ザ・グラウンド:produce, bass, mix
S.E.T.
S.E.T.
パースペクティヴ:produce, bass, mix
S.E.T.
「本当にオマケみたいなものです」(5)
「たぶん解散が決まって余裕ができたから、また作れたということなんでしょう。余力があったことは確かですね。もうこりごりだっていうわけじゃなく」
(5)
「これは幸宏主導の企画なんですね。幸宏とSETの」(5)
「スーパー
エキセントリックシアターっていうプロの演劇集団」(6)
「当時、三宅(裕司)さんとコネクションがあって、幸宏がこの話を持ってきたんですよ、僕のところに」
(5)
「スネークマン・ショーみたいにやろう、今度はもっと新しいグループがいるから聞いてよってことで」(5)
「いいんじゃないの、面白いよ、やろうやろうと」(5)
「幸宏プロデュースと言ってもいいかもしれませんね、これは」(5)
「何か新しい刺激があれば、YMOまたできるんだろうと思いましたね。その新しい刺激というのは、SETなんですね。それがなかったら、この企画はなかったんじゃないかな」(5)
「音楽は真面目っていうか、全然SETに合わせているわけじゃないと思いますけどね」(5)
音楽的にはYMOの完成形といってもいいほど、成熟度が高いと思います」(1)
「別に何も考えないでやったらこうなっちゃった」
(5)
「教授の『パースペクティヴ』や幸宏の『チャイニーズ・ウィスパーズ』という名曲もあり」(1)
「それぞれの個性が、この時すでに確立されていたことを聴き取れるはずです」(1)
「個人に戻ってたってことはありますね。YMOのこと全体を考えて、どうやって見せていこうかってことは、あまり考えずに済んでるというか」(5)
「ほとんど個人作業なんです」(5)
「非常にパーソナルな作り方をしています」(5)
「ここでは幸宏は自分のサウンドをやってる」(5)
「非常にブリティッシュな音でね」(5)
「その後のソロに近いと思うんですけどね」(5)
「教授もやっぱりニューヨーク的なアプローチをしてるのかも知れない。僕だけは相変わらずウロウロしていて、日本のニュー・ウェーブの人たちと付き合っていくわけですね」(5)

マッドメン
「音楽のことを考えて作ったわけではないんです」
(5)
「音楽的なものは何も引用してないんです」(5)
「"マッドメン"って言葉は、パプア・ニューギニアの儀式の名前なんだよ、実は。泥の仮面をかぶった儀式のダンサーをマッドメンって言うんだ」(21)
「アニミズムなことや神道以前のことに惹かれ始めた頃だよね。それまでは人間だったのに、動物的になったり…」(21)
「ネタは、諸星大二郎のマンガのタイトルそのまま。これが面白くて面白くて」(21)
「坂本くんは読んでいたかも」(91)
「内容はあまり関係ないかもしれないんですけど、歌詞、発想は諸星さんの『マッドメン』からです」(92)
「ただ、綴りが違ってしまって」
(92)
「本当に情けない印刷ミスで」(91)
「MADMEN、気の狂った男になっちゃって」(92)
「もともとは漫画の通りで『土』の意味の『MUD』として書いたつもりだったんですけど、レコードができてみたら『MAD』になっていたんです(笑)」
(93)
「すでに出回った後で、直せなくなってしまった。この曲には諸星さんの『マッドメン』に共通する世界感があるということは誰にも話していなかったんで、まあ、しょうがないと。あとでアメリカで出るときには問題になったらしくて、印象深い曲です」
(94)
「"マッドメン"ってタイトルが問題になって、アメリカではタイトルが変わったんだ。『EVERYTIME I LOOK AWAY』って風にね」
(21)
「(編注:歌詞を)訳してくれたのは、ピーター・バラカン」(91)
「探せば原文が出てくるかもしれません」(91)
「どこかにはあるでしょう。そういうのは捨てないので」(91)
「リズムはぼくの中では、これはアフリカ。"JUJUサウンド"というか、キングサニーアデ大好きなんだよ。彼の影響は相当ある」(21)
「当時はアフリカン・ミュージックをよく聴いてたんですね」(5)
「どんどんドライになって行きますね、このころから僕は個人的に。イギリスに影響を受けていたころは、やはりヨーロッパ独特の石の建物のエコーっていうの がありましたが、このころはそれに辟易していたんです。ゲート・エコーには辟易していて、あれは疲れがくるんですよね。そこから気持ちは広々とした空間に 行きたいと思って、それでエコーがなくなっちゃったんだと思うんです」
(5)

シャドウズ・オン
グラウンド
「幸宏の趣味と教授のスティーリー
・ダンからの影響が感じられる、と誰かに指摘された曲です」(1)
「僕は、その曲にはあまり関与してないはずなんですね」
(5)

パースペクティヴ
「あれはロマンティックです」
(6)

高橋幸宏の証言
「僕は全然活力ないんですよ」(5)
「細野さんは、これは僕のプロデュースと言っているんだけど、全然そういうイメージもなくて」(5)
「前々から言ってたんだけど、細野さんと、もし最後のアルバムを作るのなら、ギャグ入りにしたいと」(31)
「もともと『オールナイトニッポン』で(編注:スーパー・エキセントリック・シアター=SETと)やってたつながりだけでね。話は僕が持っていったんですけど、もともともたなかったんですよ、アルバム自体が」
(5)
「それで言ってみたら、捨て鉢に細野さんも『いいんじゃない』っていうことで(笑)」(5)
「YMOの最後のアルバムで有終の美を飾るような、凄いコンセプチュアルなモノを作る気は毛頭なかった」(31)
「YMOが『YMO』という名前を抹殺する作業をやってたワケだから」(31)
「それでここまで辿りついて来たんだから」(31)
「『サーヴィス』って言ってるぐらいだから、惰性ですよね、半分は」(5)
「だいたいロックバンドの宿命って、終わるときっていうのはああいう感じになって終わるんです。だいたい最後のアルバムは、1、2曲ぐらいいい曲があってっていう程度でね」(5)
「終わりの季節っていえば、あんなもんじゃないんでしょうかとね。スッキリしてますよね」(5)
「そのころは衝突とかはもうなくて」(5)
「そういうのはもう吹っ切れていましたね。『BGM』のころは、顕著にそれがあったんですけど」(5)
「終わるって大前提があったから、けっこう穏やかにやってたんですよね」(5)
「もう終わりに向かって、ただ作ってる感じでした。だから、教授と僕が作った曲、僕と細野さんで作った曲っていう感じで」(5)
「アルバムには強烈な個性もないんですが、教授はそれなりに、自分でいい曲を結構書いている気がしますね」(5)
「実にYMOらしく、曲はまったく日本向けじゃない」(31)
「音自体は国内向けをそんなに意識してないんだ。なにしろ好きなことをやってる」(62)
「外国市場向けっていう。まあYMOはサービスという、細野さんが言ってるようなコンセプトで行くと、むしろ外国語のターゲットに近いような音って言えるんじゃないかな」(62)
「そういうコンセプトはいいなと思って」(62)
「音楽ファン・サービスかな。変な言い方をすれば、日本人だったら洋楽ファン・サービスみたいな。歌謡曲とはちょっと違うところで」(62)
「全編ダンサブルで、ファンキーっていうか」(62)
「それでギャグが入ってる」(31)
「三宅くんと話して、ギャグを抜粋して。それでSETにやってもらって」(5)
「20個の中から選んでる」(31)
「それであのクダラナサっていうのは飽きないね」
(31)
「それだけで流行りものになる感じでね。スネークマンよりも軽いね。日常的な感じと言うか…。細野さんは『今日的』と言ってるけど」(31)
「まあ、成功しているとは言えないと思うんですけどね」
(5)
「要するに、別々なものになっちゃってるんですよね。ギャグがあって、音楽があってっていう。ひとつのショーになってないっていうか」(5)
「ただ、ウッチャンナンチャンとかは、あのアルバムを聴いて、メチャクチャ笑って、YMOを初めて知ったと言ってましたから」(5)
 リンボ
「僕好きな曲ですけどね」
(5)
「答みたいのが出てないんだけども、まあ出るもんでもないんですが、一つのコンセプトができあがってね」(32)
「細野さんと『CUE』を作った時に」
(32)
「それが『CUE』とか『KEY』って曲とか」(32)
「『LIMBO』って曲になるんですよね。だからそこらへんいつも行ったり来たりしてるような。実際"LIMBO"なんですよね。リンボっていうのは行き場のない所だから。そのコンセプトはもうあれで終りにしたい」(32)
「結局答えはない、という」(32)
 チャイニーズ・ウィスパーズ
「気楽に一所懸命作った」
(62)
「気軽にね。ライト感覚で凄い暗い曲を作ったの」(6)
「踊れる(つまりダンスミュージックということです。)マイナーのラブソング。ビートを強調しつつも、彼女がいなくなってボロボロになってしまった男の哀しみを唄っておるのです。」(62)
「深々とした思いやりのない曲(笑)」(6)
「歌詞が暗いんだあ(笑)」(6)
「リズムはちょっとファンキー、それもあまりシンプルではなく、かといって複雑でもない。ベースラインをコンピューターで打ち込むと、いや仲々軽薄な感じ が出て来まして、ユキヒロ君の生のドラムが一所懸命な感じがして、踊れそう。キーボード類は、ユキヒロ君の奏(編注:原文ママ)っている部分はあくまでもシンプル」
(62)
「全体にパーカッシブル(編注:原文ママ)な感じに、坂本君の見事なストリングスでお化粧というわけです。」(62)
「好きじゃないです」(5)
 パースペクティヴ
「いい曲だと思う」
(5)

坂本龍一の証言
「ほとんど記憶がないですね」
(5)
「あまり賛成も反対もせずに、もう最後だから、なんでもやろうという」(5)
「ほとんど主体的にはやってないわけですよ」(5)
「回収プロジェクトなんですね、もう。だから、メンバーは誰も主体的じゃなくて」(5)
「これで終わらせようという。とにかく、なんでも大変じゃないですか、終わるときは。離婚にしたって、葬式にしたって、卒業にしたって。黙って、さあ終わらせようっていう感じだったと思いますよ」(5)
「精神的な葛藤というのはとっくに終わっているわけだからね」(5)
「これをYMOっていうふうには捉えてないですよね。バラバラ」
(5)
「一人一人が分担するのと、あとは共作」(6)
「下手すると達郎の曲みたいなのもあるよね」
(5)
「スネークマンショーほどのギャグのひねりとか、パフォーマンスはなかった気がしますけどね」(5)
 マッドメン
「この曲のドロッとした感じは、諸星大二郎の『マッドメン』の世界そのものなんでしょうか?そうなんだろうね。細野さんから直接その話は聞いたことがないんですが。しかし、このベース、聴いてよ!すごいよ、国宝級でしょう!」
(4)
 シャドウズ
オングラウンド
「幸宏のソロの曲を作ってるようなノリで、2人でやってるわけですよ」
(5)
「『サラヴァ!』のころから、ずっと継続的にやってるわけじゃないですか。クロード・ルルーシュの(映画の)あの感じとか、(編注:クラウス・)オガーマンの感じとか」(5)
「もうYMOとかって、あまり考えてないかもしれない」(5)
 パースペクティヴ
「ロマンティックな曲ですね」
(6)
「一枚の絵画を見るような」
(6)
「僕の曲のなかではいちばんAORっぽい」(5)
「特にサビのところなんかは、LAのアーバンソウルみたいなコード進行だから、それは、ロンドンから来るABCとか、あのへんのポストニューウェーヴの連中が、急速に昔のソウルを取り入れたりして、換骨奪胎したりしていたものの影響かな。1年前だったら恥ずかしくてできないようなコード進行なんかも、わりと全然OKみたいな」(5)
「『Every day...Every day...』と続く詞は、コンセプチュアル・アートの河原温さんに影響されてます。YMOの解散が、一日一日近づいている、ということでしょうか?忘れ ました。愛し合っているのに、どうしてもうまくいかないで別れなきゃならない恋人みたいですね。」(4)

ピーター・バラカンの証言
「『サーヴィス』のときのレコーディングはこれはもう…(笑)」
(64)
「本当にすごいスケジュールだったんです。マスター・テープの納入の前々日ぐらいにようやく歌詞を書き始めたんですもん」
(64)
「あまりにタイトなスケジュールで、ミキシングはヴォーカル・トラックを抜きでやったぐらい」(64)
「ふつうは、ヴォーカルも含めたすべてのトラックを収録し終えてからミキシングをしますよね、当然。『サーヴィス』 の場合は曲の完成が遅れて、歌詞も作れず、ヴォーカル・トラックを抜きでミキシングして、後からそこにヴォーカル・トラックをそのまま完成したミキシング 済みのマスターに落とし込むっていうすごい手法をとってる。冷や汗ものですよ。だから、スタジオで曲がミキシングされている脇で、僕はラフ・ミックスのカ セットをヘッドホンで聴きながら歌詞を書いてたっていう、ものすごい状況で(笑)」(64)

小池光夫の証言
「またアナログのレコーダーに戻ってます」
(95)
「『増殖』のスネークマン
ショウとちがって、スーパーエキセントリックシアターのコントはすべてスタジオでの新録でした」(95)
「三宅裕司さんがいたこともあってスタジオの雰囲気は明るかったですね」(96)
「2チャンネルで同録だったんで、賑やかにやっていました」
(96)
「コントのBGMはYMOというか、ほとんど教授が作っていて」(95)
「メンバーも出演する落盤事故のコントで」(96)
「岩を打ち付けるシーンがあって、なかなかいい音のS.E.がスタジオに無いんですよ。それで石を持ってきて実際に叩いて録音していた」(96)
「スタジオで実際に石を床に落として『ゴツン』という音を録ったんですが、その余韻に『コロコロコロ…』と石が転がる音が入ってる。あの余韻はなかったほうがよかったんですが、コントはマルチじゃなくてL、Rの2チャンでレコーディングしてたんで消せなかった」(95)
「同録だから録り直しも出来ないっていうことがありましたね」(95)
「それがちょっと心残りですね(笑)」(95)

小尾一介の証言
「普通に作っても面白くないって事で、スーパー
エキセントリックシアターという連中のギャグを入れて、企画物のアルバムっぽくやっていこう、という事になったんです。そのギャグの部分は僕がディレクターをやりました」(6)

※編注:「以心電信」「シー・スルー」も収録。「以心電信」はシングルよりも約5秒長い。

1983/12/14 『Rio』1月号(シンコー・ミュージック)発売。
YMOインタビュー/ライト感覚で散開します。

1983/12/19 『週刊プレイボーイ』1月1日号(集英社)発売。
YMO鼎談/12/22散開記念 YMO座談会

1983/12/19 YMO『1983 YMO JAPAN TOUR』公演。福岡国際センター。
YMO 高橋幸宏(vo, cho, ds)、坂本龍一(syn, vo, cho)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、デヴィッド・パーマー(ds)
 (プロパガンダ)
 東風
 ビハインド・ザ・マスク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 中国女
 音楽
 フォーカス
 シャドウズ・オン・ザ・グラウンド
 バレエ
 パースペクティヴ
 ワイルド・アンビションズ
 マッドメン
 リンボ
 チャイニーズ・ウィスパーズ
 希望の河
 邂逅
 シー・スルー
 手掛かり
 テクノポリス
 ライディーン
 以心電信
 過激な淑女
 君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)
 ファイアークラッカー

1983/12/20 『サウンドール』1月号(学習研究社)発売。
取材記事/'83 YMO JAPAN TOUR
※編注:細野晴臣と高橋幸宏への電話インタビューを含む。

1983/12/22 YMO『1983 YMO JAPAN TOUR』公演。九段下/日本武道館。
YMO 高橋幸宏(vo, cho, ds)、坂本龍一(syn, vo, cho)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、デヴィッド・パーマー(ds)
 (プロパガンダ)
 東風
 ビハインド・ザ・マスク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 中国女
 音楽
 フォーカス
 シャドウズ・オン・ザ・グラウンド
 バレエ
 パースペクティヴ
 ワイルド・アンビションズ
 マッドメン
 リンボ
 チャイニーズ・ウィスパーズ
 希望の河
 邂逅
 シー・スルー
 手掛かり
 
以心電信
 ファイアークラッカー

 過激な淑女
 君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)

 テクノポリス
 ライディーン
「ほんとにピリオドでした」(63)

住田幸彦の証言
「朝の9時から取材が入ってて」
(44)
「当時はとにかく取材がいっぱい入ってて、その対応に追われて動き回ってた」(44)

小尾一介の証言
「アルファから3人に記念品を渡した。いままでありがとうございましたって。ピラミッド型の音の出る時計だったんですけど、レコード会社からアーティストに記念品を贈るなんて、あまりないと思う」
(44)

高橋理の証言
「最後の日も怖かったです(笑)」
(44)
「YMOの3人と、小尾さんと、僕、当時のアルファの人とで写真を撮ってもらって」
(44)
※編注:この日の演奏の一部は、音源がニッポン放送とNHK-FMで放送ののちCD『コンプリート・サーヴィス』(ア ルファレコード/1994年)に収録され、映像はNHK総合で放送ののちビデオ・ソフト『YMO伝説』(アルファレコード/1995年)として商品化された。

1983/12 中沢新一と知り合う。九段下/日本武道館。

「最 初、彼に会ったときには『よくしゃべる人だなあ』と思った。『この人、なんでこんなにしゃべるんだろう』というのと、すごく頭がいいなという2つの印象が 同時に来た。で、この人は世界のことを、なんでこんなに言葉にしようとしているのか、すごく不思議だった」(97)

中沢新一の証言
「『散開コンサート』の終わった楽屋前の廊下で、ぼくと細野晴臣ははじめて出会った。」(63)

1983/12 NHK-FM『細野晴臣作曲講座』収録。音羽/LDKスタジオ。
共演:遠藤京子

1983/12/28 1:00 ニッポン放送『オールナイトニッポン』生出演。
DJ:高橋幸宏
共演:大久保林清(景山民夫)、三宅裕司、八木橋修、小倉久寛
、今村明美、トシ矢嶋、坂本龍一 他

YMO
 東風
 ビハインド・ザ・マスク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 中国女
 フォーカス
 パースペクティヴ
 バレエ
 マッドメン
 チャイニーズ・ウィスパーズ
 希望の河
 シー・スルー
 手掛かり
 テクノポリス
 ライディーン
 以心電信
 過激な淑女
 君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)
 ファイアークラッカー
 ※
1983/12/22@日本武道館
※編注:「YMO散開ライブ・スペシャル」として4時間放送。細野晴臣は1部(1:00〜3:00)のエンディング 近くから2部の前半まで生出演。番組では日本武道館公演のライヴ音源が初放送され、バックステージでのメンバーの肉声も流された。上記共演者の他、矢野顕子、鈴木慶一、 立花ハジメ、糸井重里、伊藤洋一、ピーター・バラカン、近藤雅信、日笠雅子らが電話、スタジオゲスト、コメント等で出演。

1983/12/28 『アーガマ』43号(阿含宗総本山出版局)発売
インタビュー/いま僕の中であたためていること

1983/12/29 22:30 NHK-FM『1983 YMO JAPAN TOUR』放送。
出演:吉見祐子

(プロパガンダ)
東風
ビハインド・ザ・マスク
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
中国女
音楽
フォーカス
シャドウズ・オン・ザ・グラウンド
バレエ
パースペクティヴ
ワイルド・アンビションズ
マッドメン
チャイニーズ・ウィスパーズ
希望の河
邂逅
シー・スルー
手掛かり
以心電信
ファイアークラッカー

過激な淑女
君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)

テクノポリス
ライディーン
※1983/12/22@日本武道館


1983/12/31 16:00 NHK総合『YMOスペシャル』放送。
共演:伊武雅刀、遠藤京子

(プロパガンダ)
東風
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
マッドメン
邂逅
以心電信
君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)
テクノポリス
ライディーン
※1983/12/22@日本武道館
※編注:オープニングとエンディングのナレーションも担当。細野晴臣の紹介VTRで、前年にボツとなった「日立パディスコ」TV-CMの映像が使用された。上記共演者の他、デヴィッド・ボウイ、樋口可南子、菊池武夫らが出演。

<出典>
(1)CD イエロー・マジック・オーケストラ『YMO GO HOME』ブックレット 東芝EMI/1999年
(2)DVD イエロー・マジック・オーケストラ『Visual YMO』 ソニー・ミュージックハウス/2003年
(3)『宝島』6月号 JICC出版局/1983年
(4)CD イエロー・マジック・オーケストラ『UC YMO』ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年
(5)YMO読本『OMOYDE』 ソニー・ミュージックハウス, GT music/2003年
(6)『Rio』1月号 シンコーミュージック/1984年
(7)J-WAVE『Daisyworld』 2001年7月16日
(8)CD『細野晴臣の歌謡曲 20世紀ボックス』同梱ブックレット コロムビアミュージックエンタテインメント, デイジーワールド/2009年
(9)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(10)『WEEKLYオリコン』4月8日号 オリジナルコンフィデンス/1983年
(11)高橋幸宏『心に訊く音楽、心に効く音楽』 PHP新書/2012年
(12)『ミュージック・ステディ』11月号 ステディ出版/1984年
(13)『スタジオ・ボイス』5月号 流行通信/1983年
(14)『サウンド&レコーディング・マガジン』5月号 リットーミュージック/2009年
(15)コイデヒロカズ編『テクノ歌謡マニアクス』 ブルース・インターアクションズ/2000年
(16)『宝島』8月号 JICC出版局/1983年
(17)J-WAVE『Daisyworld』 2001年8月13日
(18)『ミュージック・マガジン』10月号 ミュージック・マガジン/1983年
(19)『アーガマ』43号 阿含宗総本山出版局/1983年
(20)『朝日ジャーナル』11月13日号 朝日新聞社/1987年
(21)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(22)『シンセ倶楽部』 学習研究社/1983年
(23)『銀星倶楽部』11 ペヨトル工房/1989年
(24)CD コシミハル『エポック・ドゥ・テクノ』 ソニー・ミュージックダイレクト/2009年
(25)田山三樹『アルファの宴』第15回(『レコード・コレクターズ』7月号) ミュージック・マガジン/2007年
(26)『中島みゆき ミラクル・アイランド』 創樹社/1983年
(27)『FMレコパル』4月11日号 小学館/1983年
(28)『週刊TVガイド』6月17日号 東京ニュース通信社/1983年
(29)『堀井博次グループ全仕事』 マドラ出版/1998年
(30)FM東京『マイ・サウンド・グラフィティ』 1983年5月13日
(31)『宝島』2月号 JICC出版局/1984年
(32)『ミュージック・ステディ』2月号 ステディ出版/1984年
(33)CD 『風街図鑑』風編ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/1999年
(34)J-WAVE『Daisyworld』 2001年7月23日
(35)太田克彦「21世紀のシャーマンを追う 4 細野晴臣」(掲載誌不明) 1992年
(36)『サウンドール』6月号 学習研究社/1983年
(37)J-WAVE『Daisyworld』 2001年7月30日
(38)J-WAVE『Daisyworld』 2001年8月6日
(39)NHK-FM『細野晴臣作曲講座』 1984年1月4日
(40)Inter FM 897『Daisy Holiday !』 2015年9月28日
(41)『宝島』12月号 JICC出版局/1983年
(42)『ロッキング・オン』9月号 ロッキング・オン/1985年
(43)『音楽専科』6月号 音楽専科社/1983年

(44)『Weekly YMO Web magazine』No.08 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年8月4日
(45)『サウンドール』2月号 学習研究社/1984年
(46)『ザ・テレビジョン』6月10日号 角川書店/1983年
(47)NHK-FM『サウンドストリート21』 2009年5月24日
(48)Inter FM 897『Daisy Holiday !』 2015年7月13日
(49)村上"ポンタ"秀一『自暴自伝』 文藝春秋/2003年
(50)『スタジオ・ボイス』12月号 インフォス/1992年
(51)CD イエロー・マジック・オーケストラ『ONE MORE YMO』ブックレット 東芝EMI/2000年
(52)J-WAVE『Daisyworld』 2001年8月20日
(53)FM東京『レコパル 音の仲間たち』 1983年5月8日
(54『YMO BOOK』 学習研究社/1983年
(55)『キーボード・マガジン』3月号 リットーミュージック/1983年
(56)『コンパクトYMO』 徳間書店/1998年
(57)細野晴臣『コインシデンタル・ミュージック』ライナー・ノーツ テイチク, モナド/1985年
(58)『サウンドール』10月号 学習研究社/1983年
(59)CD テレックス『イズリリースユーモア? 〜ウィラヴテレックス〜』ブックレット アルファレコード/1994年
(60)『スティーブ』12月号 近代映画社/1984年
(61)細野晴臣+吉成真由美 週刊本15『技術の秘儀』 朝日出版社/1984年
(62)1983 YMO JAPAN TOUR パンフレット『Chaos』 ヨロシタミュージック/1983年
(63)中沢新一, 細野晴臣『観光』 角川書店/1985年
(64)『Weekly YMO Web magazine』No.10 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年8月18日

(65)『KAZEMACHI SONG BOOK』 2015年
(66)『YEN-YOU-会』VOL.6 アルファレコードYEN友会事務局/1984年
(67)CD イノヤマランド『ダンジンダン・ポジドン ニューマスター・エディション』帯 ExT Recordings/2018年
(68)CD イノヤマランド『ダンジンダン・ポジドン ニューマスター・エディション』ブックレット ExT Recordings/2018年
(69)細野晴臣『花に水』 冬樹社/1984年
(70)『FMステーション』12月3日号 ダイヤモンド社/1984年
(71)J-WAVE『Daisyworld』 2001年8月27日
(72)Inter FM『Daisy Holiday !』 2014年12月29日
(73)『サウンドール』11月号 学習研究社/1983年
(74)『キープル』No.11 自由國民社/1986年
(75)『PAPER SKY』no.11 ニーハイメディア・ジャパン/2004年
(76)細野晴臣『マーキュリック・ダンス』ライナー・ノーツ テイチク, モナド/1985年
(77)柿坂神酒之祐 監修『天河』 扶桑社/1986年
(78)『GORO』11月10日号 小学館/1983年
(79)
『サウンドール』12月号 学習研究社/1983年
(80)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(81)細野晴臣『音楽少年漂流記』 新潮文庫/1988年
(82)
高橋悠治+坂本龍一『長電話』 本本堂/1984年
(83)坂本龍一『SELDOM-ILLEGAL 時には、違法』 角川書店/1989年
(84)EP 福澤もろ『宇宙の唄』 サークルマインドステーション/1983年

(85)Inter FM『Daisy Holiday !』 2002年5月25日
(86)『プレイガイドジャーナル』12月号 プレイガイドジャーナル社/1983年
(87)『サウンドール』1月号 学習研究社/1984年

(88)CD YMO『テクノ・バイブル』同梱ブックレット アルファレコード/1992年
(89)『キネマ旬報』10月下旬号 キネマ旬報社/2014年
(90)映画『風の谷のナウシカ』パンフレット 東映, 徳間書店/1984年
(91)文藝別冊『総特集 諸星大二郎』 河出書房新社/2011年

(92)文藝別冊『諸星大二郎 マッドメンの世界』 河出書房新社/2015年
(93)松永良平 監修『音楽マンガガイドブック 音楽マンガを聴き尽くせ』 DU BOOKS/2014年
(94)『彷書月刊』7月号 彷徨社/2005年
(95)
『Weekly YMO Web magazine』No.11 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年8月25日
(96)
『Weekly YMO Web magazine』No.06 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年7月21日
(97)
『宝島』12月号 JICC出版局/1984年
update:2024/01/28

1982< >1984
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