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chronology 1982


1982/01/03 NHK-FMでYMO『ウィンター・ライヴ 1981』の特別番組放送。YMO出演。
共演:イモ欽トリオ

キュー
手掛かり
ハッピー・エンド
音楽の計画
ライディーン

テクノポリス
コズミック・サーフィン
体操
※1981/12/23@新宿コマ劇場

1982/01 高橋幸宏のレコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
回想
高橋幸宏の証言
「1月に龍一のを日本でテイクして」
(1)

1982/01/09 『ビックリハウス』2月号(パルコ出版)発売。
連載/イエロー・マジック・オーケストラ・シンドローム

1982/01/14 『GORO』1月28日号(小学館)発売。
インタビュー/僕がセクシーなのは、内面的にすごくスケベだってことが、女のコ達にわかるからですよ

1982/01/20 YENレーベルの拠点となるLDKスタジオが文京区/音羽に完成。

「アルファが僕のプライベートな遊び場ということで作ってくれた」(2)
「村井さんから出てきた突発的な話だったんです。村井さんのプライベートな財産として」
(3)
「『スタジオを作るから、何かで使ってよ』っていうから、それはありがたいということで」
(3)
「スタジオを作る計画っていうのは、ずい分前からあって」(4)
「YMOを始めたのは29才の時なんだけど、その時に思ってたのは、YMOから次のステップに自分が行く時に必要なものは、スタジオとレーベルだと」(5)
「YMOが成功したらスタジオ作るっていう約束があって、アルファと僕のね。そういう事がないとどうしても発展していかないっていう事でね」(4)
「ま、YMOが売れたら作ってあげるよと、前々からの話だったんですね」(4)
「僕は、スタジオができてもできなくてもよかったんだけども、おかげ様で作る事ができて」(4)
それが本当に完成してくれてね、うれしかったですよ」(2)
「三年間っていうのが無駄じゃなかったんで嬉しいんです」(4)
「もともとアルファの内部で本当に好き勝手な事をやれるセクションを作ってもらおうと思ってたんです。その為にはスタジオがどうしても必要なんですよね」(6)
「僕自身レコード・プロデュースというのは、自分のスタジオを持っていることがベストだと思ってますから」(7)
「レコードを作り始めてから、結局自分で最終的に納得出来る音っていうのは、スタジオを持っていないとダメだと考えるようになったんです」(7)
「一般のスタジオでの録音というのは、何かと面倒なんですよ」(8)
「やっぱとりあいになりますよね」(9)
「今やりたいことを来週の火曜日の何時からっていうふうになっちゃうわけで、すぐできない」(9)
「何時から何時までってきまってるその中で録らなきゃならない」(9)
「借りてる時間が限られてるから、せっかく調子が出てきても、途中でやめなくてはいけない」(8)
「時計をかなり気にしますよ」(9)
「時間をたっぷりかけてやろうと思っても、今度は経費の面で問題が出てくる」(8)
「かかる時間で制作予算が変わってきちゃう」(9)
「普通、スタジオというのはそういうものなんです。1時間数万円という」(3)
「それで、自由に使えるスタジオがほしかった」(8)
「プライベートに自由に使えるスタジオを夢見てたんです」
(10)
「自分のわがままにできるスタジオ」
(6)
「その代り自分で全部やるというスタイルで」
(6)
「これが目標だったわけです。正直、ここまでくるには、時間もだいぶかかりましたが」(7)
「自分自身がプロデュースする上でも全てに責任が負えて自分の色を持ちたい…その第1歩がやっと実現した」(10)
「結局、『HOSONO HOUSE』とつながっているんです。プライベートな空間が好きだったので、そういうところで音楽を作りたくて。それで"LDK"と付けたんですよね」
(3)
「LDKとは、リヴィング、ダイニング、キッチンの略で」(10)
「僕がつけたんですよ」(7)
「早い話が、リビングとキッチン付きだと言うことなんですよね(笑)」(7)
「リビングのスペースに近い空間で仕事をしたいという発想なんです。もともとは、自宅録音の発想ですね。ベッド・ルーム・レコーディングとでも言いますか」(7)
「自分の部屋のようにしたかった」(11)
「夜中にフッと録音したくなったらここへ来て録音して、寝泊りもできてコーヒーも飲める
…そんな生活空間に密着したスタジオを作ったんです」(10)
「実験の場というか、アトリエ、ファクトリーみたいに使うつもりでね」(12)
「いつでも好きな時間にほんとは行けて、えーわりと気軽に使えるとこなの」
(13)
「家よりも、スタジオにいるときの方がリラックスできる性分なんだよね。だから、いってみれば音作りのスペースがダイニング・キッチンで、バーのあるところがリビング
…かな」(8)
「設計も自分でやった」(12)
「内装も奥村靫正くんと一緒に考えて、全部、特注でオーダーしたんだよ。椅子もね、コルビジェの椅子だったかな」
(14)
「やっぱり、僕好みの音ですね。音響学の面ではシロウトなんですが、感覚的には想像していたものに近い」(7)
「喫茶店だったんですが、とにかくコントロール・ルームを広くとって、ブースみたいなものは、ドラムスが入ればいいぐらいのスペースでということでお願いしたんですよ」(7)
「YMOのレコーディングを通じて、ブースよりもコントロール・ルームにいる時間が長かったから、ブースはせいぜいドラムが置けるぐらいでいいと思っていて」(11)
「大きなレコード会社のスタジオや、プロ用の大スタジオだと、ミックス・ダウンをする場所でちょっとしたオーバーダブが出来るようになっているところがありますよね。まあ、それに近いものなんです。でも普通、スタジオではブースの方が大きいですから」
(7)
「器材にしても、自分で選んだりした」(12)
「自分の気にいった機材をピック・アップしていれた」
(9)
「すべてヨーロッパ製と日本製なんですよ」(7)
「アメリカ製はイーヴン・タイドだけ」(9)
「コンソールは、トライデント。イギリス製です」(7)
「24インの24アウトです。どちらかと言うとこれはコンパクトなモデル」(7)
「クラウン・レコードにいた時、スタジオにあったのがこのメーカーだったんですが」(7)
「それが好きだったんです」
(3)
「歪み系の面白い音」(15)
「イギリスよりになってからは、ますます気に入ってしまって」
(7)
「マルチ・トラック・レコーダーは、オタリのMTR-90シリーズの24ch」(7)
「スタジオの心臓にあたる部分はテープレコーダーなのですがそれが日本製なんです。心臓は日本製で、頭脳にあたるコンソールがイギリス製なんです。日英の合体です」(16)
「マスター・レコーダーは、デンマークのライレックという会社のものです。モニター・スピーカーは、やはりイギリスのタンノイ社のものをビルト・インしています」
(7)
「レーベルを作るというのは、YMOの前から考えていたんですけど、やるからには実のあるものをと。スタジオを持ったらと考えていて」
(17)
「ワガママ・スタジオが完成していよいよやろうと」
(17)
「YMOが成功したといっても、お金だけにしか還元できないんじゃ寂しいですから、何か証というものがあってもいいだろうと思って、レーベルを作ってもらった」
(3)
「アルファ・レコード内に」(10)
「YMOだけじゃつまんないということで」(18)
「二年間の契約」(4)
「世界ではほんとに無数のグループや音楽がいっぱい出てきてニュー・ウェイヴを豊かにしてる。日本でもニュー・ウェイヴの落とし子が当時いっぱいいたんで す。その中でゲルニカとかと接していくうちに、これは無視できないなと思って、そういうのが出せる場を作ろうと考えたんです」
(18)
「たまたま、いちばん近くにゲルニカと立花ハジメがいたの」(19)
「彼らが世にでるきっかけとして、つまり、レコードをだす足がかりとして、結局、ぼくや高橋幸宏が彼らを助ける立場にいて、土台になってあげるというかね、そういうことになった訳です」
(20)
「ビジネスとしてじゃなくて、ただ単に出せればいいと思った。ゲルニカや立花ハジメを。幸宏もそういうことに乗ってくれて」(18)
「幸宏に何か手伝ってっていう話してて」
(4)
「手伝ってくれることになって」(2)
「"ヤル?""ヤル"って、それだけのことだった」
(12)
「彼はもっと積極的に来てくれて、それが変わるきっかけになったんですけど。その時まだレーベルは漠然としてたんですけど。で、僕はゲルニカっていうグ ループ、スタジオで録って出したいって。すると幸宏の方からハジメのレコードのアイデアが出る。ゲルニカとハジメと僕と幸宏ってなると、ちょっとしたレ コード会社の機能を持っていかないと、やってる意味がなくなっちゃうんで、それで」
(4)
「レーベルというか、ま、垣根のようなものを作って旗色を鮮明にしてやっていこうじゃないかと」(2)
「アルファからの垣根を作って、一つの音楽活動の場を作りたいって事になって」(4)
「名前は"YENレーベル"」(17)
「経済状況からですね。当時の日本の風潮から付けたんでしょう」
(3)
「もちろん皮肉で付けたわけです」(3)
「スタジオが、先にあったわけ」(13)
「スタジオが核になっているんですよね」
(4)
「それがもとになってあの、レーベル活動ができるわけ。だからスタジオがないとあんまり意味がないんだよね」(13)
「スタジオがあるってことはすごいメリットでね、これがなかったら、考えもしなかった」(12)
「思惑というのは、全然なかったんです。とりあえずはじめちゃったというかね」(20)
「最初はね、独りで黙々と地味な音楽を、商売ぬきでつくってこうと思ったんです、YENレーベルでは」(9)
「小さな枠の中で、個人的なことだけをやろうと」(20)
「俗にいう、環境音楽とか、ミニマル・ミュージックとか、ああいったものに近いことをやりたかった」(12)
「マイナーな活動をしようと」
(19)
「細々と地味にやろうと思ったんですけど」
(17)
「ぼくにはこういう図式があるの。インドの、人生を4つに区切って、勉強をする時期、働く時期、林に住む林生期みたいな優雅な時期、そして最後は山の中とかガンジス河にお遍路みたいに行くという」(19)
「その林生期に入りたかったんだ。YMOではもう十分やったと自分では思って、そそくさと林生期に入る身支度をしていた」(19)
「YMOが一段落した状態で、そこでのんびりと、実験のようなことをやれたらいいなあと思ってたんです。だから、その時は、レーベルを作る気持ちは全くなかった。こんなにめんどう臭いことは考えてもいなかった(笑)」(20)
「YMOで疲れた分だけ引っ込んで、楽になってね、わがままにやりたいなという気持が強かったんです」(4)
「ところがそれはちょっと甘かったんですよね」(4)
「そういうことをやってる余裕がない」(12)
「よほど余裕がないとできないのね(笑)」
(20)
「もうちょっと待ってくださいって呼び戻された。で、旅支度をほどいて」(19)
「フタを開けるといろんな人が集まってきちゃって」(17)
「なんかここ(編注:LDKスタジオ)に集まる人たちが多くて」(6)
「垣根の中に亡命してくる人が膨れあがってね(笑)」(4)
「パワーの出しようがなくってたまってる若い人がね。ゲルニカ・フィルムズ筆頭にね」(6)
「すごくいいことをやってる若手のミュージシャン」(12)
テストパターンインテリアなど、皆が集まってきた。彼らはYMOの『BGM』を聴いて来たんだと」
(3)
「そういう人が集まったら、やるしかないでしょうということですね」(3)
「YMO というのは、ひとつの柱になってると思うのね。その柱のところで、新しい音楽を出していける、というような信頼関係が、若い人達と僕らの間であると思うん だ。そういう意味で、やんなくちゃいけないというか。やっぱり、世にいけない、いきにくい人達が多いと思うの。他のレコード会社が相手にしないような」(12)
「パワーを秘めた人がいっぱいいる訳ですよ。で、その人は自分に合う場がないんです」
(4)
「そういう人達にとってのひとつの窓口っていうか」
(12)
「そういう人が、『表現する場はここだ』っていうね」
(4)
「結局、僕も彼らのやってることにすごく興味があったし」(12)
「メジャーのレコード会社に切られた連中の中に面白いのもいるから、それも呼んでしまおうと。うん、好きなグループをみんなめんどうみちゃおう、YENは難民収容所だなんて思っちゃって」(2)
「難民キャンプみたいなとこになっちゃって(笑)」(6)
「このレーベルに集まってきた人たちを助けてあげたいと」(20)
「限りはあるけれども」
(20)
「彼らのレコード作るのがメインになっちゃって」(6)
「やっぱり時間のとりあいになっちゃった」(9)
「最初『ボクの!』って言ったんだけど、誰も聞いてくれなくて」
(17)
「ボクとユキヒロの協同プロデュース・システムなんです。実質的にはどっちかに片寄ってるんだけど、ひっくるめて1つの顔で」(17)
「プロデュースしてくって事が即、YENレーベルを発展させるって事で」
(4)
「一応名前を共同責任としてね」(4)
「ただ、YMOが売れたからといって他の人が売れるという保証はなかったんです、最初から。そもそも、YMOみたいなことは、突発的な、何か気狂いじみた 出来事だったわけです。そんなことが普通起こるはずがない。だから、続けていけるかどうかという一つの試金石がYENだったと思う」(3)
「レコード業界はすぐに売れるものを望んでるしね。ぼくは、種を蒔くことが大事なことだといつも思ってるんですよね」
(20)
「種を蒔いておかないと、何年か後には何にも咲かない状態がやってくる。そういうことを考えると不安なんです」(20)

高橋幸宏の証言
「細野さんのスタジオってことはボクも使ってもよいのだろうと思いまして、使ってもよいですかって尋ねたら使ってもよいと」
(16)

立花ハジメの証言
「6時から、夜中の12時の間だったらいつでも好きな時間に行っていいんですよ(笑)」
(13)

飯尾芳史の証言
「高 橋幸宏さんのソロ『音楽殺人』のレコーディングのころから、コニー・プランクのスタジオやエアー、サームとか、イギリスやヨーロッパ系のスタジオがいいと いう話題に細野さんとなっていて、自然とLDKスタジオは『非アメリカ系』っていうノリになっていたみたいです」
(14)
「LDKは完全にワンマン・スタジオなので、アシスタントもなしで卓の横にロケーター置いてレコーディングしてました。ミキサーはTRIDENT。当時は ニュー・ウェーヴっぽいイギリスの音をすごく意識してましたし、トニー・マンスフィールドとかあの辺がみんなTRIDENTを使っていたというのもあった からだと思います」
(21)
「中域の1kHzあたりを2〜3db上げるとすぐ歪むんで、ブーストするよりも削りながら音を作るっていうタイプの卓でした」(21)
「コンプレッサーは、フェアチャイルドを細野さんが個人で持っていて、1台搬入してました。エコー類はEMT-250、スプリングリヴァーブはAKGの BXシリーズです。フランジャー系は、ローランド系のものが確かありましたね。でも、ほんと、それだけなんですよ」
(14)

寺田康彦の証言
「(編注:ブースは)8畳くらいだったかなぁ」
(14)

小尾一介の証言
「(編注:YENレーベルは)自然発生的に形成されたという印象があるんですよね。細野さん、幸宏さんの周りに個性的なアーティスト達が集まっていたか ら。僕のイメージだと、低予算でアーティストの自由を認めてユニークなものを出すという、後にいうインディーズ。当時だとイリーガル・レコードなんかの独 立志向がヒントになったような…。ただ当時、日本ではメジャーなレコード会社があってその傘下にレーベルが予備軍的にあってみたいな構造は理解できなかっ ただろうから、中にはメジャーから出せばすごく予算をかけて売り出されるだろうと思っていた人もいたように記憶していますね。その辺はこちらと認識の違い があったと思います」
(22)

野中英紀の証言
「(編注:ボストンのレコード店で)店頭に何十枚も『BGM』がディスプレイされていた」
(23)
「最初は"ああ、YMOか。そういえば海外で発売されてるんだな"くらいの軽い気持ちで。でも何かあのジャケットにピンと来るものがあったんですね。気に なったんで買って聴いてみて。そうしたら…僕がそれまで持っていたテクノ・ポップのイメージとまるで違う。売れ線の彼らがこんな大胆な音響的冒険をやって いることに大きなインパクトを受けました」
(23)
「それで"そうか、東京はこんなものが受け入れられるくらい進んでいて、大変なことになってるんだ"と思い込んで (笑)、82年に帰国。後にインテリアを一緒にやる沢村満の紹介で、細野さんと幸宏さんに会うことができたんですよ。実はその最初のきっかけは音楽じゃな いことだったんですが、その時に自分が音楽をやっていることも話しているうちに、"やってみるか"ということになって」(23)
「僕は日本のアルファから発信してアルファ・アメリカで自分たちのアルバムを出せないかと思っていました。自分たちの音楽は日本で大衆的に受けることは難しい。アルファはアメリカに関連会社を持つ日本唯一のレコード会社だったから、ここで出せれば10万枚はいく、と」
(23)

1982/01/20 『サウンドール』2月号(学習研究社)発売。
書き下ろし絵物語/細野晴臣劇場

1982/01/25 山下久美子のレコーディング。麻布/サウンド・シティ第2スタジオ。
赤道小町 ドキッ

1982/02/01 『ホットドッグ・プレス』取材。

※編注:詳細不明。

1982/02/01 『キーボードランド』のインタビュー取材を受ける。音羽/LDKスタジオ。

※編注:NO.6春号(4月3日発売)に掲載。

1982/02 立花ハジメのレコーディング。

プラスチックスがツアーを終えて日本に帰った時に、解散するって話を聞いて、解散しないでほし いって頼んだことがある。もったいないと思ってね。ところが解散するハメになって。そういう縁があって、解散しなければビクターから出てただろうし、解散 してしまったんで、YENにきたというわけ」(12)
「まず、個人的なつながり、人間的な信頼関係からはじまる」(12)
「どういう音楽をやるのか別にわからなかったけれど、本人が燃えてるし、是非やりたいってことで」(12)
「そういう人間関係でしか、こういう音楽って、できないと思うんだ。売れるのか、売れないのか、大人にとってわけのわかんない音楽はね」(12)

立花ハジメの証言
「¥ができるっていうんで、声をかけてもらってうれしかったね。プラスチックスは解散だし、まだサックスを始めたばっかりで、自分じゃおもしろいことを やってるつもりなんだけど、人の評価がどう下されるのかっていう自信はなくてさ。とくにポップ全盛の時代にオルタナなインストの音楽なんてやろうとしてい いのかなあ、なんて、ちょっと焦ったり不安になりながら夜の代々木公園とか新宿西口公園でがむしゃらにサックスを吹きまくっていた頃に、"B-2 UNITS"バンドのときの教授もそうだったけど、細野さんと幸宏が僕がやろうとしていることをおもしろいって言ってくれて、レコードを出そうとまで言っ てくれたんだよ。"だいじょうぶ、ハジメがいま考えているよりもっとおもしろいことができるから、一緒にやってよ"って。ありがたいし、励まされたね」
(24)
「譜面は書けないし、レコーディングのテクニカルなこともよく分からないという状態でやってました。幸宏は僕に好き勝手にやらせてくれつつ押さえるところは押さえるというプロデューサーで、実にうまく手綱を捌いてくれた」
(25)
「自分の発想や音楽のイメージには自信があったんだけど、それと実作業のギャップを埋めてくれたのが、幸宏をはじめ、鈴木さえ子ちゃんやロビン・トンプソンたち」
(25)

※編注:アルバム『H』のセッション。細野晴臣の参加日は特定できない。

1982/02/08 大滝詠一と対談。

※編注:『FMレコパル』3月15日号(3月10日発売)に掲載。

1982/02/10 『宝島』3月号(JICC出版局)発売。
寄稿/<断片的経験>
※編注:杉浦茂特集内。

1981/02/10 『ビックリハウス』3月号(パルコ出版)発売。
連載/イエロー・マジック・オーケストラ・シンドローム
※編注:最終回。

1982/02/11 ソロ・レコーディング。
夢見る約束
「CFに使う曲で」(17)
「昭和歌謡とテクノがごっちゃになった感じ」(26)
「この頃、ノスタルジックなものをすごく聴いていた」(21)
「ゲルニカ/上野君の存在も大きかっただろうね」
(21)
「この曲は、ゲルニカというより太田螢一の持っている世界観に引っ張られたけど…
…」(21)
「かなり僕も彼らに影響されたところがあってね」
(6)
「影響されていいと思った」
(6)
「僕の場合ノスタルジックというよりももっと力をもらえる音楽っていうかな それに影響されてます。あの頃の歌を聞くとみんなこう、元気が出るっていう」(6)
「全体の、あの時代の感じがね」(6)
「亡きものって言うかな、失なってしまったものだという時代だと思うんですよね。で、もう何か繋がってないような気がするんですね、あの時代と」(6)
「だから、ロマンチックなノスタルジックではちょっと僕考えられないです。何となく切実なもんだと思うんです」(6)

※編注:杉田かおると細野晴臣共演の「日立パディスコ」TV-CM用に制作。4月5日にシング ル・リリースの予定でB面曲「気流の鳴る音」(1981年、サンセッツのレコーディング時に録音。のちに「エア・コン」と改題の上『フィルハーモニー』に 収録)とともにカッティングまで行われたが、完成したCM自体がボツとなり、レコードの発売も中止となる。初出は『フィルハーモニー』の初回特典フォノシート。

1982/02/20 『FMスペシャル』3月20日号(音楽之友社)発売。
インタビュー/想い出話して
※編注:特集「音楽人間大研究 坂本龍一」内。

1982/02/21 YMO「体操/手掛かり」発売。

1982/02/21 YMOファンクラブ会報『Me & Her』No.9、発行。
アンケート

1982/02/21 テレビ東京『サウンド・クリエイション』放送。

※編注:YMO『ウィンター・ライヴ 1981』(1981年12月23日@新宿コマ劇場)の模様を放送。曲目は不明。

1982/02/25 『ホットドッグ・プレス』3月10日号(講談社)発売。
架空広告/YMO『フェイカホリック』
小林敬治の証言
「たしか、タダの広告枠があったんで(笑)」
(24)

後藤順一の証言
「あの頃、とにかく雑誌の広告枠を買いすぎだって誤解もあったんだけど、実はけっこうタダの広告枠っていうのも代理店からいっぱいもらってたんだ」
(24)
「そういう枠があるならそこで遊んじゃおうと。それでいろいろヘンな広告とかも作ってたんですね」
(24)
※編注:ジャケット写真、全8曲のタイトル、品番(Y・E・N-0001)、 細野晴臣コメント、北中正和による解説文が掲載されているが、この号の特集「82年はフェイクがぼくらの合言葉」の一部として制作されたニセの広告であ る。「憎さあまって、可愛さ100倍」のキャッチ・コピーは、のちに表記を微妙に改め、アルバム『浮気なぼくら』で実際に使用された。

1982/02/28 テレビ東京『サウンド・クリエイション』放送。

※編注:YMO『ウィンター・ライヴ 1981』(1981年12月23日@新宿コマ劇場)の模様を放送。曲目は不明。

1982/03/01 レコーディング。音羽/LDKスタジオ。
インド/TR-808

1982/03 新事務所、オフィス・インテンツィオ設立。

1982/03 ソロ・アルバムのレコーディング開始。音羽/LDKスタジオ。

「(編注:YENレーベルの)第一弾で、とにかくソロを注文された」(18)
「最初の立ち上げ人が僕と幸宏だったから、ということでしょうね」
(3)
「『ハライソ』と気持ち的にはつながっているんですよ」(7)
「ハライソはそれまでの自分の生活や音楽の集大成だったんだ」
(27)
「ひと通り音楽に接してきて、自分の中に貯め込んで来たものを、『はらいそ』の頃で全部燃焼しちゃったっていうのかな」(1)
「で、違う新たな場所に行きたかった。新たなものっていうのは、YMOのこと」
(1)
「ハライソが完成した時にその後3年間は自分の変化の期間にしようと思って、変化が完了するまではソロ・アルバムをつくらないと自分の中で決心したんだよね」(27)
「『ハライソ』っていうレコードが出来た時点でもう決めちゃった」(6)
「『はらいそ』出した後にイエロー・マジック・オーケストラっていうアイデアがあって、それが実現していってですね、その間おそらく3、4年はかかるだろうと思ってたんですけど」(4)
「これからはYMOってグループを作って三年間やって売るんだってね」(6)
「YMOをしている間は、ソロを作るつもりはなかった」(21)
「ソロは作るまいという考えを自分に課していた」
(28)
「多分、自分が作っても面白いものが出来ないなと思ってたのかな」(1)
「自分にとっても自信がなくって」(6)
「意識的に自分の気持ちをね、コントロールしてきて」(1)
「計画的に、作んなかったの」(13)
「YMOのころ考えていたのは、音楽にはデザイン的な音楽と絵画的な音楽があるということだったんですが、YMOはデザ イナー的な作り方をしている。チームワークとして作っているのもあるし、デザインして作っていく音楽だと思うんです」(18)
「いろんな人が集まって、アイデア出していって、それでデザインされていくわけです」(29)
「アイデアがあって、コンセプトがあって」(4)
「コンセプトを持って集団で世の中にア ピールしようというときは非常にデザイナー的な発想になってくるわけですよ」
(18)
「とりあえずYMOというプロジェクトに頭を切り替えて、自分のことはちょっと考えずにいこうというか、あんまりわがまま言わずにいくというかな(笑)」
(4)
「イエロー・マジックにひとつちょっと僕は頭を、おー、預けて」(13)
「自分のことは、ちょっとね、ええ、遠ざけとこうと、思ったわけですね」(30)
「何しろYMOが面白かったんでね、ソロよりも。それで、一段落ついたらソロ・アルバム出そうという気持ちがあった」
(4)
「一段落したら、自分のこともやると」
(13)
「そこら辺がやっぱり超常的なもんだと思うんだけど、人間の、ある部分決意みたいなもの。あの感覚ってのは意志が決めるんじゃないっていう風なね。何だろう、腑に落ちるっていうかな」(6)
「そういう時期が必ずあると思うんですよね、人間に。三十前後ってのはそれがあると、全く考えが現実になるっていうか、現実化させて、それが当然であるっていう体験してきてそれが終った後、ソロを出そうと決めてた」(6)
「ソロを作ったということは、すでに気持ちは解散の方向に向かっていたんですね」(28)
「一段落ついたって事なんでしょう(笑)」(4)
「そろそろ先が、見えてきたなと。ぼくの記憶だと、もう、終わってたのかな。どっちかな」(30)
「個人の表現じゃないという決意でやってたのに、『PHILHARMONY』を作ったということは、YMOが終わったということですよね」
(18)
まあ、ほぼ終わってた時期に、取りかかった」(30)
「(YMOは僕の中では)終わってましたから」(3)
「『テクノデリック』でYMOは(自分の中で)終わってしまったと思った」
(21)
「『テクノデリック』を出した時点で、ひとつのサイクルが終わったと」(12)
「具体的になったのは、LDKスタジオが完成してからです」
(5)
「それをフルに活用できて、それがずい分違う結果になったんですよね」(4)
「LDKがなかったらソロ・アルバムは考えなかったでしょうね」
(2)
「アトリエに入るつもりでスタジオに入ったのは、この『フィルハーモニー』のときが初めてなんです」(28)
「ずーっと、引きこもって、ぼくにとっては初めての、引きこもり録音。ヒッキーと言うかね。ま宅録と言うか。それのー最初の、経験です」(30)
それまでは、あのパブリックなスタジオでやってたわけですけど」(30)
「どうしてもスタジオの時間の事とか、もうちょっと違う雑念みたいなものがありますよね。人に分かってもらおうという、より強い気持とか」(4)
「スタジオっていうのは、とても社会的な場所で、人とのコミュニケーションの場でもあったわけですから」
(28)
「えー昔『ホソノハウス』っていうのをやったときもあれは人が多かったわけでやっぱり、結局はパブリックなものだったんです」(30)
「YMOの反動かもしれないけど、デザインじゃない絵を書くってことに強く惹かれててね」(29)
「個人でやるときは絵画のように作ろうという意図があった」(18)
「久しぶりに自分の絵を描こうということなんです」(1)
「絵を描きたい、音楽でね。キャンバスで絵を描きたい」(4)
「YMOって存在に僕は助けられていますから、より自由な気持ちで作らなくちゃいけないと思ったんですよね」(4)
「自分の絵を描くという気持ちだったんで、なるべく人を介さない方法がいいと思った」
(3)
「ソロだけはわがままに、全部思ったとおりにやりたいなって思っていた」
(2)
「自分に対していかに素直に、ワガママになれるか……自分の殻の中でね。自閉的だとは思うんだけど、そういう時期ってぼくにはどうしても必要なのね」(29)
「4年間ソロ・アルバム作らないで、YMOって開かれた場で活動してきたでしょ。ここらでもう一度、自分を追いつめて、醸造していくことをやらないと、音楽続けたくてもできなくなっちゃうから(29)
「全部一人でやろうっていうこと がもう最初に決まってたことなんでね。もともと人を介して自分の表現をするってことが苦手だっていうか、納得できないんですよ」(28)
「複数で作る場合やっぱりデザインになると思うんですよね」
(4)
「YMOみたいなデザインと かチームワークの音楽は、それはそれでいいんですけど、
自分の絵を描くという行為は、自分の筆でキャンバスに向かわなくちゃいけない。人に描いてもらうわ けにいかないんです」(28)
「僕はもっとケイレン的な、発作的な絵が描きたいんです。それはやっぱりソロでないとできない事ですから、ソロでやるって事は、それが一番自然な形だと思うんです」
(4)
「YMOの音楽に、ずいぶん影響を受けていたので、どういうソロを作ろうかと」(28)
「その前は『はらいそ』 ですから、ずいぶん間が空いているわけです。その間にいろんなことが変わっちゃったんですね。いちばんは音楽の作り方が変わっちゃったことなんで、まずそ こから始めよう。音楽よりもまずコンピュータだと」(28)
「一人でやるために勉強したんだと思います」(3)
「コンピュータは自分でコントロールできるものじゃなかった。まったく謎だったので、松武さんだけが頼りだった」(3)
「わかんないことだらけだったけれど、いつかこれは解決しなきゃと思ってたわけです」(3)
「松武さんがやっているような作業を自分でやらないと、自分の音楽は作れないと。でないとコンピュータ・ミュージックはできないというような必然性ですね。クリエイティヴなツールというか楽器のひとつとして、コンピュータに密かに興奮していたわけですから」(28)
「これを自分でコントロールすれば、もっと面白くなるはずだと」(3)
「コンピュータで音楽を作るっていうことをYMOで経験してきて、いかにそれが重要なものかってことは、誰だってわかるわけです。それを自分で使えないということは、致命的ですからね」(28)
「僕の好奇心というのは、『泰安洋行』のころまでに取り組んでいた、自分の中の体内リズムというか、自分なりの音楽的な発見というのを、一度知的に置き換えて、自分の中で形而上学的に把握しておきたかったんですね」
(3)
「(MC-4を)自分で買ってきてマニュアル読んだら、『何だ、簡単なことじゃないか』と気が付いて」(3)
「スタジオで打ち込んでいた。リズムからこつこつと数字でね」(31)
「楽器とは程遠いインターフェイスでしたからね。数値で打ち込んでいくわけだから、最初は抵抗があったんですけど」(28)
「マニュアルを読みながらやっていくと、非常にわかりやすいものでした。初めてそこで謎が解けて、それ以来没頭したんですね」
(28)
「時間がかかるようになった(笑)。ただ、譜面で伝える必要が無くなったという意味では集中できるようになって、やってて面白くなってきたんです」
(31)
「コンピューターを使っても、絵画のように作れることがわかってきたんですね」(18)
「各音階の数値も全部覚えて、松武さんくらい速く打ち込めるようになりましたよ(笑)」
(31)
「必要なことは全部、ぼく全部覚えるよ。不器用だけど」(32)
「レコーディングの初期の頃はね、割といろんな意識があって」(6)
「いろんな事考えますよね」(4)
「4年ぶりということでなかなかエンジンがかかんなくてずっとアクセルをふかしている状態だった」
(27)
「久しぶりに作ると、どうやって作っていいのか思い出せなくてね(笑)」(4)
「僕の場合、日常の雑務から、一度脱け出してレコーディングに入るので最初の頃は大変でした」
(5)
「ソロになると入り込む性質(たち)なんで、入り込まないと作れないんですね、不器用なんで。それに至るまではいろんな事考えました」(4)
「最初のね、設定っていうのは、いろんなこと考えてた。ポップにしようとかね」(32)
「訳のわかんないものを作ろうと思ってたんだけどね(笑)」(20)
「ほんとはぼくは、地味なものっていうか。ほんとにやりたいことは、うるさくない音楽。でも突然、YENの第一回目に出してくださいっていう要望があったんでね」(32)
「レコード作る前って、人の言うことが気になる」(29)
「周りの人達の期待感…プレッシャーなんですけどね、ある種の」(4)
「久しぶりのソロだったんでね。プレッシャーが大きかった」(20)
「早く出してくれって声もあるし」(29)
「テクノ作ってくれとか、はたまた昔みたいな曲作ってくれ、日本語でやってくれ……すごくまどわされる。けど、それ考えてたら自分のものができなくなっちゃう」
(29)
「第一弾っていう責任感とか、ポップなものを作ってくれっていう注文とかいろいろあって考えてたんです」(6)
「売らなきゃとか、ポップにとか、YMOのファンが聞くんだとか」(5)
「YMO聴いてくれる人に、どういう風なものを聴いてもらおうとかね」(4)
「そんなことが頭の中にありました」
(5)
「幸宏なんかも、ポップなほうがいいっていってたし」
(32)
「そうするとやっぱりポップなものじゃないかなあと」(32)
「ポップなもの作んなくちゃいけないとか」(4)
「そのつもりでいたの。だから当初はリズムのある、いわゆるテクノみたいなね、曲をいっぱい録ったの」
(32)
「メロディーを伝えたりね、言葉を使ってみんなが楽しめるものとかを考えていたんですけど」
(4)
「で音楽あちこちいじり回してるうちに何か面白くなくなっちゃってね、自分でこんなの作りたくないなって」
(6)
「それはYMOでやっていける事なんで」(4)
「数曲リズムの強いものができていたが、そのテープはついに日の目を見なかった。」
(33)
「途中からぼく気が変わっちゃってね(笑)。やっぱり、ほんとに自分のやりたいことを素直に、いまやりたいなと思って」(32)
「レコーディングしてる間に変わっちゃったの」(32)
「僕 は作ろうと思って作らないと作れないタチで、それもほかの人を見ていると、LPとLPの間に完成された構想が出来るはずなんだけど、そうはいかない。なん か自分の意識がガラガラッと回転している間に、作っちゃうところがあるんです。変わり目というかな。心もとないときに、ポンと、出来ちゃう」
(2)
「すごく、こう、ちぐはぐでね」(2)
「つらくて、つらくて、途中でやめちゃおうかと思ったけど、24時間、自由に使えるスタジオがあるわけで、一切そういう気分は忘れてのめり込もうと」
(2)
「そんなところから入りこんでいって」(6)
「なるべく視野を狭くしないと作れないと思ってて、本当に視野を狭くしたのね」
(34)
「全部断ち切ってね、ほとんど一人になった状態で作った」(29)
「それで自分が出てきたところがうれしかった」(2)
「一人になっちゃうと、入りこんじゃうんですよね」(6)
「自分の絵を書くときって、人がいると気になって書けないじゃない。入りこまなきゃならないから、自分の中に」(29)
「やはりソロというのは自分と対面しなくちゃいけないんで、頭がずい分切り替わりましたが、それで」(4)
「日常の雑念から脱け出して自分の世界に入り込んでからは、スピードが随分早かった」
(5)
「アトリエを持った絵描きのような生活でね、寝泊まりして作ったんです」(2)
「三日に一遍くらいは風呂入りに抜け出して帰ってましたけど」
(2)
「夜中はもう、ひとりでやってるわけ。人がいるとカワイソウだから、待ってる人は」(32)
「かわいそうになっちゃうの。ひと晩中やってるからね。ひとりでやってたほうが楽なんだ、はっきりいうと。もちろん、やりたかったらつきあってもらうし、 そういうときも多かったけど。ただし、ひとりになりたかった時も多いの。全体的にみると、ポップな曲っていうのは手伝ってもらうの」
(32)
「ぼくがなんか床で寝てたと、いうんですね。えー記憶がないんですが」(30)
「延々と居ましたからね、スタジオに」(11)
「四六時中そこにいて、一人で割と思うままに作れた」(4)
「外に行くといろいろなことがあって落ち着かない日々を過ごしていたから、ほかに誰もいないスタジオは逃げ場……サンクチュアリだった」(11)

飯尾芳史の証言
「ちょ うどそのころ、佐藤博さんの『awakening』をやっていて、ぼくはアシスタントだったんですが、急に、吉沢さんから『細野ちゃんのアルバム、明日か らあるんだけど、やってね』って言われました(笑)。それで『コンソールってぼくは触ったことないですけど、大丈夫ですか?』って答えましたね」
(14)
「突然でしたから、ほんとびっくりしましたね」
(14)
「細野さんもスタジオで曲作りからのスタートだったんで、ぼくで、ちょうどよかったんでしょう」(14)
「いわゆる、細野さんのコタツ状態(目の前がコンソール、振り返るとMC-4&プロフェット5があり、どちらも手が届く)でしたね。細野さんが曲を作るという日は『飯尾くん、帰っていいよ』ということで」
(14)
「『今日はこれから曲作りするから帰っていいよ、明日も適当に来てよ』って言うので帰ってました」(21)
「それで夜中、細野さんは曲を作って、思いついたものをメモ録音してゆく。次の日に行くと、ソファーで細野さんが寝ていて」
(14)
「地ベタに倒れてたりして(笑)。死んでるのかなと思ってビビりましたよ。すごく集中してやってたから気絶してたみたい」(21)
「それをぼくが起こしまして、また録音再開という日々ですね。すでに曲があるもの(『フニクリフニクラ』など)は、最初からぼくが録音してました」
(14)

※編注:『フィルハーモニー』のレコーディング。

1982/03/03 ソロ・アルバムのレコーディング。音羽/LDKスタジオ。
リンボ

1982/03/10 『FMレコパル』3月15日号(小学館)発売。
対談/同窓会ふう対談なのです!! 細野晴臣 × 大滝詠一

1982/03 ソロ・アルバムのレコーディング中、自費で購入したイミュレーターが届き、早速導入。アルバム・タイトルを『フィルハーモニー』に決定。
フィルハーモニー
ピクニック
「タイトルはレコーディング半ばで決定した。それはイミュレーターがついた日で、その日からつくる曲が理想に一歩近づいた。」(33)
「イミュレーターI」
(30)
「サンプリングの楽器の、初めての、ものだったんです。それをいち早くぼくは、あー買い求めて」
(30)
「『TECHNODELIC』のときに使った特注の機械が発展したような商品だったんで、つい欲しかったんですね(笑)」
(18)
「鍵盤がついているから、シンセの一種というか、これはすごいおもちゃだと思ったんです。"機械"ではなくて、楽器としてユニークだとね、とてもやる気が出てくる」
(11)
「なくてはならないと思いました。高かったけどね(笑)」(3)
「車が買えるくらいの値段」
(11)
「届いてみたら、すごい抵抗があったんですね。それは多分、NASAの色をしていたからだと思うんですけれども(笑)」(18)
「NASAの秘密兵器が来たと思いました、最初」
(3)
「色もすごくて」
(3)
「グレーとブルーみたいな、何か兵器みたいな色でね。どうせこれは軍需産業の技術が転用されたものだろうと。そういったら全部がそうなっちゃいますけど、 最初はそういう抵抗感がありましたね。だから、それに同調するために魔的な気分にならなくちゃいけないのかなとかね(笑)」
(18)
「製品番号が書いてあって、1号機はスティービー・ワンダーが入手して、僕が買ったのは60番台だった」
(15)
「サンプリングが面白いというのは、実は使ってみて初めてわかったところがあって。なにか新しい概念の楽器の登場というのに、僕はかなり興味があってのめり込んでいましたね」
(3)
「新しい次元が来たって感じ」(21)
「没頭しちゃいましたから」(3)
「それまでサンプラーを使った作品なんて世の中に無かった……参考にできるようなものは無かったから、白紙の状態から即興的に作るしかなかった」(11)
「テレコと楽器の両方であることが面白かったんです」(11)
「演奏を記録できるから、再現性があるんだよ」
(21)
「その場で自分の声を入れて、入れたと同時にそのフレーズを即興的に出したりできる」
(18)
「そういうときにテープレコーダーを回して、即興的に録っていった」
(18)
「コンピューターとイミュレーターの即興性を活かせる環境ができて
自分でMC-4も扱えるようになった」(14)
「その即興性が、とにかく面白かったね」
(14)
「"Emulatorが来た、作ろっ!"というくらいの衝動で、曲を作っちゃった」
(11)
「マルチのテープレコーダー回しながら、その場で曲作った」(29)
「演奏しながら即興的に録音した」(33)
「賭けみたいなものだね」
(29)
「一人でテープ回して、テープ回しながらキーボード弾いて」(6)
「弾いたものをループにして、それを元に使った」
(21)
「その日にできたのは、『フィルハーモニー』と『ピクニック』で、全曲この調子でやりたかった」
(33)
「初めて自動筆記状態で音楽を作れるようになった」
(21)
「どの様な手順でキーボードを押したか覚えていない。無意識につくってしまったといえる。」
(33)
「曲調もそれまでと違うものが生まれてきて」(21)
「それで変わっちゃったんだな」
(3)
「曲のアプローチの仕方が全く変わったということですね」
(3)
「絵を描くように作り始めたのは、このときが最初ですから」(3)

フィルハーモニー
「サンプリングの、声で、作ったわけです」(30)
「一度演奏したものをイミュレーターのリアル・タイム・シークェンサーで再現し、L・R・にワン・ステップずらしてレコーディングした。」(33)

ピクニック
「コーダーでF・O(編注:フェードアウト)する部分は違う曲としてとっておいたが、習作なのでそのトラックの上に『ピクニック』を録音した。しかし、偶然に『ピクニック』の終った後に消し残しが出てきたので、それをそのまま曲にとり入れた。」
(33)
「『ピクニック』という声は私で、イミュレーターを使用。」(33)
「"ピクニック"と声を録っておいて、鍵盤を押す長さで"ピ、ピ、ピ、ピクニック"と演奏できる」
(11)
「バックのピアノもイミュレーターでシークェンサーでループにしてある。途中任意にフロッピー・ディスクをピアノから私の声に入れ替えてみた。」
(33)

飯尾芳史の証言
「イミュレーターが搬入されたのは、レコーディングの中盤ぐらい」
(14)
「細野さんはイミュレーターが来たその日に、冒頭の『ピクニック』を作ってるんですよ。レートを落とすと4秒ぐらい『ピクニック』ってサンプリングできるので。あの曲に関しては『いろんな人のいろんな声を録ろう』というテーマになってましたね」
(14)

1982/03/15 『YMMプレイヤー』4月号(プレイヤー・コーポレイション)発売。
インタビュー

1982/03/16 『フィルハーモニー』レコーディング。音羽/LDKスタジオ。
ホタル
ホタル
「沖縄の竹富島で見た驚くべき謎の螢を想い起こしてつくった。」
(33)
「蛍、あるいは、空飛ぶ円盤なのかよくわからないんですが、それのー思い出というかイメージを、音にしたものなんです」
(30)
「その螢は木陰の 間を縫ってフラッシュするのだが、その感じを再現しようと没頭している時、偶然ブースの照明がショートしてクラッシュした。この様にして入りこむ場合は常 にL・D・Kでは一人でやることにしていた。基本になっているゴングの音はバリとフィリピンで買ったもの」
(33)
「ガムランの、おーゴングを、叩いてます」(30)
「古いやつでね、竹でできてる素朴なやつなんだけど」
(35)
「それをサンプリングして」
(30)
「イミュレーターでコントロールした。」(33)
「イミュレーターに音を記録して、メモリーでね」(35)
「コンピュータで、制御してるわけです」(30)
「ゴングに関しては合成した部分ってのはいっさいないのね。だから、現代科学の粋と、昔の音とをフルに利用してる」
(35)

1982/03/20 『サウンドール』4月号(学習研究社)発売。
インタビュー/ホソノさんのスタジオができたヨ! 細野晴臣+高橋幸宏
対談/無口対談 細野晴臣 × 伊武雅刀

1982/03/21 『バラエティ』5月号(角川書店)発売。
座談会/細野晴臣の"YENレーベル"発足 出席者:鈴木慶一、細野晴臣、立花ハジメ、上野耕路、戸川純

1982/03/21 イモ欽トリオ「ティアドロップ探偵団/サーフサイドX」発売。
ティアドロップ探偵団:compose, arrangement

1982/03 真鍋ちえみのレコーディング。信濃町/CBSソニー信濃町スタジオ。
ねらわれた少女
蒼い柿
酒井政利さんからの依頼でした」(36)
「プロデューサーの酒井さんの計略っていうか(笑)」
(15)
「『阿久悠の作詞で、新人のアイドルを、アルバムを、やりませんか』ということで」
(37)
「(編注:阿久悠とは)1、2度会って打ち合わせをしましたけど」
(15)
「顔合わせやったりして」(38)
「真面目な方だったな」(15)
「寡黙なんで、お互いに。詞を通して、なんかこうコミュニケーションしてたっていうか」(38)
「すごいことだったんだなと思いますね」(15)
「僕にとっては、なんか、記念すべき、うーん、作品ですよねそういう意味ではね」(38)
「(編注:曲作りは)この辺からほとんどその場になっていきますね。
スタジオで作ったりしていました(15)

ねらわれた少女
「初めて100%シンセサイザーとリン・ドラムで作った」
(15)
「そのころ丁度リンドラムが入ってきたんですね。それが(編注:松武秀樹と)二人でやるひとつの動機だった。リンドラムが入る前はサンプラーというものがなくて、ドラムスは幸宏に頼んでたんです」(36)
「TR-808ってリズム・マシンがあって、YMOのころからよく使っているんですが、あれはリズム・ボックスの音なんですね。あれはあれで好きなんですけど、アイドルの曲を作るときは生のドラムが必要。だから幸宏にやってもらっていた」
(31)
「でもリンドラムがあればプログラムでできる」
(36)
「リアルな音が出るので、ドラム・パートも自分でハンドリングできるということが衝撃的だったんですよ」(31)
「生ドラムというよりLinn Drumの音なんですけど(笑)、当時は生にしか聴こえなかった。しかもLinn Drumはスウィングのパーセンテージが決められたので、ノリをコントロールできるのが面白くてね」(31)
「スタジオで遊んでたんですね。まあ僕の場合はいつも仕事を利用して遊んでいるんです(笑)」(36)

※編注:録音日は特定できないが、イミュレーターが使用されていることから3月の後半ではないかと推測される。

1982/03/24 YMO、フジテレビ『THE MANZAI 10』収録。

横澤彪の証言
「キッカケというのは、彼らが『ミュージック・フェア』に出演した時なんですけど、空き時間を利 用して『オレたちひょうきん族』のスタジオに遊びに来てくれたんです。その時に、とても『笑い』が好きだって事が分かりましてね。だから『THE MANZAI』のゲスト大会の時に出演してもらったんですね。それまでの僕らの印象だと、レベルの高いミュージシャンですし、『笑い』なんてきっと好き じゃないんじゃないかなぁ、と思っていたんです。だけど、話を聞いているうちにだんだん、『笑い』がみんな大好きで、自分達でもこっそりやっている、なん て事も聞いたんですよ。細野さんなんて、ああいう顔しているから、考えられないけど、すご〜く好きですよ、『笑い』が」(39)

1982/03/24 23:20 日本テレビ『11PM』放送。出演。

※編注:詳細不明。高橋幸宏とともに出演した模様。

1982/03/26 『フィルハーモニー』レコーディング。音羽/LDKスタジオ。
お誕生会
「来た人に参加してもらいました」(3)
「たまたま来た人に」(3)
「そんなにいっぱい来るわけじゃないから、貴重なので」(3)
「ミュージシャン以外の人たちが多いんです。お世話になった人たちとかね(笑)」(32)
「寂しかっただけです(笑)。おおよそできたなと思ったとき、おや? と思ったら周りに誰もいなかったので」(3)
「このコンセプトはレコーディング開始以前に『フニクリ・フニクラ』と共に決まっていたもので、つまり色々な特に音楽家以外の人々にその人の好きな音を任意にトラックに入れてもらおうというものだった。」(33)
「その人まかせなわけ、ホントいうと。その人がやりたいようにやってもらう。それで曲ができるっていうコンセプトだったんだけど」(32)
「最初にやってもらおうと思ったのはフォトグラファーの鋤田正義さんで、彼にはここでハァハァというお産の声を担当していただいている。」(33)
「『ハアハアっていう声を下さい』って言ったら、『わかった。ちょっと走ってくる』って」(3)
「この為にL・D・Kスタジオの周りを三周ランニングしてきて、その荒い息づかいをレコーディングした。頭が下がる想いでした。その他モロ君のオンカカカ ビサンマエイソワカというマントラのVOCAL、南無という大変な名前の猫君の声(これが誕生の主役の声となった)、そしてあとはそこに偶然そこに居合わ せたフィルムズの人々のノイズ、鋤田さんと一緒に来た立花ハジメの『君のー』(タイガースの唄)と日笠嬢の『アジャ』、YENの篠崎嬢の『ハッピー・バー スデー』がイミュレーターで再現された。」
(33)
「最初みんな緊張して、そのままできなくて、イミュレーターを使って、ぼくがコントロールしてまとめてみたの」
(32)

1982/03/27 『フィルハーモニー』レコーディング。音羽/LDKスタジオ。
L.D.K.

1982/03/27 20:00 フジテレビ『オレたちひょうきん族』放送。YMO出演。
共演:島田紳助、山村美智子、松武秀樹、山田邦子 他
※編注:「ひょうきんベストテン』コーナー中、『ミュージック・フェア』のスタジオを探している体(てい)でカメラ前を横切る。コーナー終わりの記念撮影にも参加。

1982/03/28 『フィルハーモニー』レコーディング。音羽/LDKスタジオ。
L.D.K.

1982/03/30 19:00 フジテレビ『THE MANZAI 10』放送。YMO出演。
漫才/トリオ・ザ・テクノ(YMO)
横澤彪の証言
「YMOが漫才をやって、テレるところがまたいいんですよね。そのテレが無くなっちゃうと駄目ですよね。だから、文化人にならないためにも、こういうバカな事を常にやっていないと駄目なんですよ」(39)

1982/04/01 山下久美子「赤道小町 ドキッ/トラブル99」発売。
赤道小町 ドキッ:compose, synthesizer
赤道小町 ドキッ
「わりとヒットした曲です」
(37)
「この頃になってくると、あまり何も考えずに作ってましたね」
(15)
「要するに、フックみたいなもののコツを掴んだ。耳に残るような。ツボみたいなもの。『赤道小町〜』で言えば、『ドキッ ドキッ』という言葉がそれに当たるかな」
(15)
「ギター弾いてるのは、今は亡き大村憲司くんでした」
(37)
「わりと周辺のミュージシャンと一緒に、やってたわけです」(37)

松本隆の証言
 
赤道小町 ドキッ
「この曲は、イモ欽の次に細野さんに書いてもらった」(40)
「ホテルに2部屋続き部屋を取って、細野さんと一緒に作ったような記憶がある」
(41)
「僕は僕の部屋で詞を書いて、細野さんは細野さんの部屋で曲づくりをしようってね。で、細野さんの部屋に遊びに行ってみたら部屋中機材だらけ。このまま武 道館でライヴをやるのかなってぐらい(笑)。1泊か2泊したけど、細野さんの曲はあがらなかった。僕はちゃんと詞を書いて渡したんだけどね」
(40)

山下久美子の証言
 
赤道小町 ドキッ
「シンセサイザーなんかは機械的で冷たい雰囲気がして嫌だったのね」(4)
「最初、細野さんが音作りをやって、ほとんどシンセだけのサウンドだったんで、歌入れをやろうとした時に、人間的なものが感じられなくて、すごく煮詰まっ ちゃった。歌えないの。歌がウラに聴こえてきちゃうの。だけど、引っ張ろうとか、ついて行こうとか思わないで、機械が忠実にリズムを刻んでることをわかっ てあげると、非常に自由に伸びのびと出来ることがわかったの」
(4)
「機械というものをカワイイと思えるようになったのが不思議なの」(4)

1982/04/02 『宝島』取材。

※編注:詳細不明。『宝島』と同じJICC出版局発行で、7月に発売された『プレイヤーズ・ハンドブック』の可能性も。

1982/04/03 『キーボードランド』NO.6春号(リットーミュージック)発売。
インタビュー/テクノ・サウンドをリフレッシュする"音のアトリエ"。

1982/04/05 『エアジン』取材。

※編注:詳細不明。

1982/04 『フィルハーモニー』ミックス。

「きついスケジュールの中でミックスダウンは一日で終わらせるはめになり、又、それが順調に行った」(33)
「新記録。自慢になんないけど、ハハハ」
(32)
「ミックスし終わった後は、ぼくのベストだと思ったの」
(32)
「もう物凄い良かった。気持ち良くって やった、出来た!って」(6)
「ただミックスダウンしてカッティングした後、いつも落ち込むんですよね。ミックスダウン直後は元気いいんだけど、どうしてもその後なんかもう反省になっちゃって」
(6)
「翌日は落ち込む、必ず(笑)。それがクセになってるの」
(32)
「こういうものってやっぱりYMOファンのね、子供達がどういう風に聞くか」(6)
「それ考えて落ち込んだんです」(6)
「他人が聞いて通じるかっていうのがいちばんの不安」
(32)

飯尾芳史の証言
「(編注:ミックスは)全曲を1日でやってるんですよ。本ミックスは夜の12時から始まったんですけど、終わったのは次の日、昼の12時ぴったりで。で、その日にマスタリングだったんです。本当に締め切りギリギリでした」(14)

1982/04 メロンのレコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

中西俊夫の証言
「1982年4月から、アルファスタジオAでベーシック・トラックの録音が始まった。」(42)
「東京とニューヨークで録音する予定だったので、東京ではリズムセクションをしっかり録音することが重要だった。」
(42)
「ドラムは全曲、幸宏。」(42)
「ベースは細野さんが3曲やってくれることになった。」(42)

※編注:アルバム『ドゥ・ユー・ライク・ジャパン?』のセッション。細野晴臣の参加日は特定できない。

1982/04/15 22:30 フジテレビ『ミュージックフェア '82』放送。YMO出演。
司会:星野知子
共演:中本マリ、ジミー原田とオールド・ボーイズ

YMO+中本マリ 中本マリ(vo)、坂本龍一(syn)、高橋幸宏(perc)、細野晴臣(syn)、松武秀樹(prog)
 ラヴァー・カム・バック・トゥ・ミー

YMO 高橋幸宏(vo, syn)、坂本龍一(ds, cho)、細野晴臣(syn, cho)、松武秀樹(prog)
 キュー
坂本龍一の証言
 ラヴァー・カム・バック・トゥ・ミー
「これ、わざわざトラッキングしたんでしょうかね??? すごい労力はらってますね〜。歌は、わざと変調させてるのかな??? でも、好きです、このアレンジ。」
(43)

高橋幸宏の証言
 キュー
「本番、6回ぐらいやったんじゃないかな(笑)」
(44)
「教授のドラムいい音してんですよ。ものすごい神経質に叩いてますけどね」(44)
「レコードと同じように」(44)

1982/04/17 『ビックリハウス』取材。

※編注:詳細不明。

1982/04/19 『サウンド&レコーディング・マガジン』のインタビュー取材を受ける。音羽/LDKスタジオ。

※編注:6月号(5月15日発売)に掲載。

1982/04/19 『ロッキンf』取材。音羽/LDKスタジオ。

※編注:取材記事が6月号(5月8日発売)に掲載。

1982/04/20 『ミュージック・マガジン』5月号(ミュージック・マガジン)発売。
インタビュー/新しい波紋をひろげ始めた細野晴臣 YENレーベルとLDKスタジオの仕事

1982/04/20 『サウンドール』5月号(学習研究社)発売。
コメント/ホソノ氏のなんと4年ぶりのソロ・アルバム
※編注:記事中、アルバム・タイトルは『明星』と報じられている。

1982/04/21 『音楽専科』のインタビュー取材を受ける。

※編注:6月号(5月17日発売)に掲載。

1982/04/24 阿木譲と対談。大阪/東急イン。

※編注:『ロックマガジン』7月号(6月25日発売)に掲載。

1982/04/24 阿木譲と心斎橋のバー・It'sへ行く。

1982/04/26 『オリコン』取材。

※編注:詳細不明。

1982/04/30 『ミュージックラボ』取材。

※編注:詳細不明。

1982/05ごろ 中京テレビ『5時SATマガジン』出演。

※編注:毎週土曜日の17時から生放送されていた情報バラエティ番組。YENレーベルのプロモーションのための出演。

1982/05/01 真鍋ちえみ「ねらわれた少女/蒼い柿」発売。
ねらわれた少女:compose, arrangement, all instruments
蒼い柿:compose, arrangement, all instruments
「歌入れちょっと見ただけで、(編注:真鍋ちえみとは)それほど、接触がないんですよね、ええ。残念ながら(笑)」(38)

蒼い柿
「歌声のおかげでかわいらしい曲に聞こえますよね」
(15)

1982/05/02 ぴあテン&もあテン10周年フェア『スネークマン・ショーでおなじみの咲坂守と畠山桃内の ごきげんいかが、ぴあテン&もあテン発表会』出演。霞ケ丘/日本青年館。
出演:小林克也、伊武雅刀、高橋幸宏、立花ハジメ、ゲルニカ、沢村満、永田どんべー、横山忠正、ロビン・トンプソン、坂本龍一

1982/05/08 『ロッキンf』6月号(立東社)発売。
取材記事/これが、細野晴臣のLDKスタジオの全貌だ!

1982/05/08 資生堂/リヴァイタルCM曲のレコーディング。音羽/LDKスタジオ。

「LDKスタジオに一人で閉じこもってレコーディングすることが多かった。」(45)
「資生堂リヴァイタルのCFは山口小夜子のシリーズとして知られるが、見られる機会は少ない。この曲のタンゴ風イメージはカメラの横須賀功光のアイデアであり、それを尊重しタイトルを両氏の名前のミックスにした。」(45)

※編注:のちに「サヨコスカッティ」のタイトルで『コインシデンタル・ミュージック』に収録。

1982/05/09 YMO、細野晴臣+高橋幸宏プレゼンツ『モダン・コレクション VOL.1 for THE YENDLESS NIGHT part 1』出演。渋谷/パルコ・パート3 スペース・パート3。
出演:サンディー&サンセッツ、フィルムス
※編注:YMOの出演はオープニングのトークのみ。

1982/05/10 『カセットライフ』取材。

※編注:詳細不明。

1982/05/11 YMO、細野晴臣+高橋幸宏プレゼンツ『モダン・コレクション VOL.1 for THE YENDLESS NIGHT part 2』出演。渋谷/パルコ・パート3 スペース・パート3。
出演:ゲルニカ、H
※編注:YMOの出演はオープニングのトークのみ。

1982/05 YENマガジン『CAMP・YEN』発行。
コメント/YENアーティストカタログ
手記(アルバム解説)/細野晴臣 Philharmony

1982/05/14 菅岳彦のインタビュー取材を受ける。

※編注:『ミュージック・ステディ』4号(6月下旬発売)に掲載。

1982/05/15 『サウンド&レコーディング・マガジン』6月号(リットーミュージック)発売。
インタビュー/刺激的な時代だからこそ、刺激的な音が僕に取ってのイイ音になる

1982/05/17 『音楽専科』6月号(音楽専科社)発売。
インタビュー/生かすぜ!環境音楽〜フィルハーモニー
イラスト
※編注:YENレーベル特集内。

1982/05/17 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
インタビュー/今夜は感涙
※編注:広告局制作『HOT VOICE』の面に掲載。欄外で翌週からの細野晴臣の連載開始がほのめかされている。

1982/05/18 YENレーベル発足記念パーティー。西麻布/レッドシューズ。

1982/05/18 22:15 NHK-FM『サウンド・ストリート』放送。出演。
DJ:坂本龍一
共演:立花ハジメ
※編注:YENレーベル特集。

1982/05/20 『サウンドール』6月号(学習研究社)発売。
インタビュー/細野さん、元気してますか?

1982/05/20 『毎日新聞』取材。

※編注:詳細不明。

1982/05/21 『フィルハーモニー』発売。初回のみ「夢見る約束」フォノシート付属。
produce, arrangement, all instruments, engineering, mix
 ピクニック:compose, words, voice
 フニクリ、フニクラ
:vocal, voice
 ホタル:compose, words, vocal, voice
 プラトニック:compose, words, voice
 リンボ:compose
 L.D.K.:compose, words, vocal, voice
 お誕生会:compose, 鈴
 スポーツマン:compose, words, vocal, voice
 フィルハーモニー:compose
 エア・コン:compose

夢見る約束:produce, compose, words, arrangement, all instruments, vocal
「『フィルハーモニー』は、とても好きな作品だね。忘れ難い作品」(21)
「自分で何が出来るかわかんなかったんですけど、わりと好きなものが出来ました」(1)
「『泰安洋行』に次ぐ、自分の中では大事な作品だね」(14)
「とても、自分の中では、特異な存在です」
(30)
「そ もそも『フィルハーモニー』、という、言葉の意味は、"音楽愛好家"という、意味なんです」(30)
「音楽愛好症・愛好家」(6)
「別に深い意味は無くて、意味を考えると分かんなくなっちゃうんですよ。いろいろノートにメモってあるんですよね、タイトルみたいなもの」(4)
「タイトル迷っちゃうから、迷っちゃうっていうか、すぐひらめかないんで曲のタイトルとか、ためたんです。で、それに当てはめて行く訳だけど」(6)
「例えば『ピクニック』っていうタイトルも好きだったし、いろんなタイトル考えたんだけど」
(4)
「もう1コ何かあったんだけど、意味が狭くなっちゃって」
(6)
「意味考えると、フィルハーモニー・オーケストラみたいな感じになるけれど、実をいうと、もっと古い意味があって、"音楽愛好家"っていうような」(4)
「オーケストラっていう意味じゃなくて、それよりもフィルハーモニーっていう語感の方が強いです」(6)
「何か音楽的な響きがするんですよね、フィルハーモニーってすごく。意味よりも」(6)
「ほんとに音楽ーを、まあメインに持ってきた、アルバム、なんで す。で、決して、何か歌詞で、訴えたいことがあるわけでもなし、えー、ほんとに純粋に音楽に、没頭して作ってったんです」(30)
「好きな作品だけど、全然コンセプチャルなものじゃない。即興で作ったものを入れただけ(笑)」
(21)
「計算も何もなしで、気のおもむくままに作った」
(29)
「直接制作期間は、3月中旬から4月中旬のまる1ヶ月間です」
(5)
「入り込んだのが遅かったんで、正味二週間ぐらいですかね。メインの部分は」
(6)
「作る最中ってのは、てんやわんやの騒ぎでね。YENレコードは出来るわ、新しい事務所作るわ引っ越しするわでね、大変な騒ぎでやってたんです。そういう状態に関わらず元気だったからね。元気出てきたんです。疲れた先から」(6)
「LDKで録音しながらできてしまった曲が収められている。」(33)
「あ、できた、とかね(笑)。で、あとそれに少し音かぶせたり」
(29)
「ほとんど即興なんです、何曲かを除けば」(18)
「普段は頭で考えて組み立ててね、目の前に譜面やらスケッチやら並べてやるんだけどね」(2)
「『フニクリ・フニクラ』とか『スポーツマン』はニューウェーヴの影響があってポップだけど、それ以外は全部白紙」(11)
「実験的な作品が並んでて、その中にポンポンとね、ちょっとポップな曲が混じってるってスタイルになっちゃった。本来なら、ポップな曲が中心で、その間に実験的なものを散りばめるのが常套なんだろうけど
……それじゃ自分自身が許せなくって……(29)
「我慢できなくって、逆にしたんです」(6)
「切 り捨てちゃったものがいっぱいあるんですよ」(4)
「最初使おうと思ってた5、6曲」
(32)
「そういうもの一つ一つは好きなんですけど、LPの機能って考えてたんですよ。僕はいつも。で、一曲が良ければ それは一曲の価値があって、それはシングルで十分だし、LPっていう事は曲を並べて聞かせているっていう機能がありますから、時間的な事とか、一つLP自 体の味っていうのは絶対に無くちゃいけないと思ってるんですよ。それが無いと飛ばし聞きしちゃうんですよね」
(4)
「ところが環境音楽とか、そういうものっていうのは、長い時間が必要なんですよね。そのためにLPがあるような気が して。その機能っていうのを十分に使いたいな、そうしないと何か無駄な事やってるようなね。LPを作るためにいろんな曲書いて、ここ足りないから埋めてこ うっていうね、自分で気に入らないもんまで入れちゃったりしなくちゃならないっていうのは、すごくつらくてね」(4)
「客観的には、サービスした方がいいんじゃないかと…主観的には自分の一番スナオなものがでてきたと思っています」(5)
「ぼくらしければそれでいいと思う。ぼくらしくないことやっちゃいけない」(32)
「『ピクニック』とか『リンボ』とか、ああいうのが好きなんです」(1)
「『好いてくれてる人には、わかってもらえる』と」(5)
「僕が聴いても短く聴こえますけど(笑)。どういうことかなあ、自分でも良く分かんないんですけどね。例えばメロディーが多いとね、メロディーっていうのはすごく時間を感じさせるものなんですけど、それによって時間が左右される…そういうものが割とあのLPでは少ない。ですから、その時の気分によってずい分時間の感じ方が違うんじゃないかな」(4)
「時間にあんまり縛られたくないっていうのがありますし、僕にとってはメロディーがじゃまな感じがするんですよね。時間に拘束される事とか、規則に縛られる事とかが、すごくつらいなあという気持」
(4)
「例 えば触感っていうのが皮膚にちらばっててね、例えばひっかいたとすると刺激ありますよね。それを繰り返していくと麻痺してって感じなくなるんですよ。それ で、脳というのもそういうもんだと思うんです。同じパターンをどんどん聞いていくとね、何か麻痺していく。ポップスの繰り返しって僕好きなんですけど」(4)
「それは頑張ってる人がいるんで、お任せして。で、僕は違う刺激が必要だしね、そういう事がポップスになる可能性が一番あるんですよね」(4)
「'82 年ごろの、この、音楽界の傾向っていうのが、いわゆる現代音楽の、新しい、流れ、ミニマルというのが、とても元気がよくて、ほんとに、毎日ぼくはそれを聴 き、えー、暮らしていました」(30)
「壁かけの絵のようなね、ああいうBGMしかきけないところがあってね」(20)
「聴いてたものっていうのは殆ど具体的なメロディーがないんです。例えばイーノのレコード、その周辺の人達の音楽が僕の気持ちを救ってくれたというか」(4)
「ぼく自身、曲にしても、ストーリーを作るということが考えられなかった。ある意味では、音楽に対しておちこんでいたのかもしれない」(20)
「情報が氾濫してて、みんな望みは果てしないですから、この曲聞いて次、何聞く…… どんどん果てしなく広がっていって追い求めてる訳ですけど、パッとメロディーの無いものとか聞くとね、時間的な感覚が無くなるっていうか、そういう音楽が あってもいい。もっと積極的にいうと、無くちゃ僕は救われなかったっていう事なんですよね。ですから、そういう音楽をやってる人達に感謝をしたいくらいな んです」(4)
「自分が聞いてて、そういう気持が起こるものを望んだんですよね。ですから入り込めば入り込むほど、そういうものに近くなって」(4)
「ですから、あのー『フィルハーモニー』っていうのはかなり、そういう、手法をとり入れた、ポップ・アルバムなんです」(30)
「YMOをやり始めた時も、壁に掛ける音楽とか、いろんな事考えたんですけど、それをもうちょっと、さらに実現していこうっていう気持」(4)
「実際、実験とかアヴァンギャルドやってるって気はまったく無くて、ポップスだと思ってやってるんですけど、もともとそういう音楽しか知らないし、もう出てきたものを素直にやるという事しかないんですよ」
(4)
フィリップ・グラスやマイケル・ナイマン、ていった人たちの、あのー、現代音楽。これは非常に、えー、論理的に作られてるわけですが、まあぼくの場合、 同じようにミニマルなんですが、ほとんど、即興で、えーイミュレーターという楽器で、作ってったわけです」(30)
「サンプラーがなければ作っていなかった」
(11)
「シーケンス・ソフトを使ったのはちゃんとした曲だけで、後はEmulatorの記憶装置を使ってループを作ってた」
(21)
「それ一台でほとんど作ったようなものですね。えー、もうひとつは、プロフェット5というような、えーシンセサイザーも使いましたが、ほとんど、3、4台の、機材で、作ったわけです」(30)
「シンセサイザー弾きながら、キャンバスに、こうバーッと絵の具を塗りたくるようなノリで、作ってしまったんですよ」(2)
「素材は全部自分で作ってやったものばっかりですね」(18)
「全ての曲のドラムはLINNを使用していて、つまり、自分以外のミュージシャンの音は入っていない」(33)
「音楽に加わった人はいないんですよ。で、声とか物音とかで加わってもらったりしてるの」
(32)
「ほとんど僕ひとりで作りました」(7)
「ほぼひとりだね。とにかく、入り込んでた」
(14)
「入りこんで、入りこんで、しまいにはもう何が何だかわからないときに、いつの間にか音楽ができていたって状態」(29)
「気がつくと曲ができてるという」
(4)
「そういうふうになるまでがたいへんなんだけど」
(32)
「自動筆記の音楽版−−ぼくにとっては、まさにそれができたんだって意味がある」(29)
「方法論とか、刺激とか、いっさい締めだしたところで
……霊媒っていうのかな、自分がカラッポになったところで何が出てくるかって試みなのね。"自分の絵を書く"ってのはそういうこと。LDKスタジオというすごくプライベートな場を持てたおかげで、長年できなかったことをやっと実現できたんだよ」(29)
「もともと"音楽対人間"の関係にはすごく興味があったから。音楽が外からやってきて、人間の体を通して表現されると思ってたからね……それでやってみたかったんだ。自分にはたして霊媒的体質があるかどうか」(29)
「うん。ほとんど霊媒だね、ぼくは(笑)」(29)
「無意識に作った曲なんか、全然自分のパワー使わなかったような気がする。霊媒みたいになって作った」(6)
「僕が憧れてた事でね、憧れてたっていうか、そういう風になりたいと思った。音楽作る時は、どうせロクなものじゃないから自分のエゴはね、そういうものを通り越して、もっと大きなものをエネルギーを使って作りたいって。そういう霊媒的な音楽を作りたいと」(6)
「だから、他人が作ったような感じだよね。どうやって作ったんだか覚えてないんだもの、ホントに」(29)
「思い出せないんだよね。もう一回、頭の中で再編成しないと」(32)
「コピーできないの。おもしろいんだけど、自分で聞いててね。そういうところが好きなの」(32)
「肉体感覚がない、記憶がない、夢遊病みたいなものだよ。幽霊も見たしね」(14)
「入り込みすぎちゃったんでしょうか。んー、なんかおばあちゃんの、霊が、フワーッて出てきたり」
(30)
「リズムマシンのTR-808は、お化 けを引きよせるらしいんだよ。その音が、お祭りの音、和太鼓みたいに聴こえるらしい。当時、いつもスタジオに行くと、ぼくは最初にTR-808を(ガイド として)打つんだけど…
…そうすると、おばあちゃんの幽霊が出てくる。ぼくは『うわーっ』となって、スタジオのドアを開けて大通りに出たりしてたね。それで、隣でお葬式をやってて、すごいびっくりしたこともあるよ」(14)
「ミニマルと言えども、ちょっとなんか、神秘的な部分も入ってるわけです」(30)
「僕が聴いても短く聴こえますけど(笑)。どういうことかなあ、自分でも良く分かんないんですけどね。例えばメロディーが多いとね、メロディーっていうのはすごく時間を感じさせるものなんですけど、それによって時間が左右される…そういうものが割とあのLPでは少ない。ですから、その時の気分によってずい分時間の感じ方が違うんじゃないかな」(4)
「ジャケットは以前からポラロイドを使用したかった。フィルハーモニーというタイトルを決めた日に、コンセプトが決 まり、ポラでモンタージュ風のものをつくろうということになった。」(33)
「ポラロイドの、自画像みたいな写真です。絵みたいな、モンタージュの様な」
(6)
「汽車の窓から田園風景を見てるような、ちょっと印象画風なもので」(32)
「撮影はA・Dの奥村氏自身で行なわれ、レコーディング同様難航したが、又、レコーディン グ同様『入り込み』の一発が決まった。」(33)
「すごく自分では気に入ってます」(6)
「すごく好きなの。内容と同じくらい好き」(32)
「音楽とジャケットと、『フィルハーモニー』というタイトルが一番バランスがとれていた」(1)
「内容とジャケットと僕の気持にぴったりきた」(4)
「レコーディングには参加しなかったんだけど、実は脚本家・映画監督の倉本聰さんもスタジオに来てたよ、倉本さんは意外にもオカルティックな話を聞かせてくれたな。あと息子を連れて、ビル・ワイマンも来たよ(笑)。じーっと、黙って聴いてたね」
(14)
「ぼくのレコードをレヴォン・ヘルムに渡した人がいて、レヴォンからビル・ワイマンに行ったんだって」
(32)
「あとは、山下達郎も来たね。『打ち込みとは何なのか?』を知りたかったみたい」
(14)

ピクニック
「好きな曲」
(32)
「すぐ終わっちゃうんだけど」(32)
「ぼくはほとんどコトバでいいたいことがないの」(32)
「伝えたいことはあるの。声でいいたいことはある。たとえば"ピクニック"っていう単語。それだけでいいの」(32)
「僕はホントにピクニックに行きたいという気持ちで作ったんですよ。だから言葉としてはね、ピクニックっていう一言だけで、ほかに言いたいことはないんです」(2)
「時代の気分ともいえると思うんだけど、それは説明する必要はないと思うんですよ。もう、みんな、それをちゃんと知っていると思うし、誰しも、感じていることでしょうから」(2)
「その時の瞬間的なね、ピクニック行きたいなっていう印象をね、それで感じられれば」(32)
「だからどうしたっていわれると困るんだけど」(32)
「イントロの笛の様な音はアルファ・AスタジオのAPI社製コンソールについているオシレーターのON/OFFで作った。」(33)

フニクリ、フニクラ
「このレコードをつくる以前から、『フニクリ・フニクラ』をアレンジしてやろうと思っていた。この曲は19世紀の終りにイタリアのデンツァがナポリのヴェ スヴィオス登山電車開通記念に作曲した歌曲で、子供の頃から叔父に聞かされていてYMOのツアー中などに、『白銀は招くよ』とこの『フニクリ…
…』は景気づけによく唄った。」(33)
「ツアーのバスの中で」(21)
「間奏のフニクリ・フニクラの声はイミュレーターで、同じくコーダーのウーンという声はA・Dの奥村氏のものだ。」
(33)

ホタル
「ある意味では、ミニマルなんですね。歌も入ってますが」
(30)
「螢とはT・Vドラマ『北の国から』の螢ちゃんを想い起こさせてくれるので、発光している(ルミネッセント)螢というタイトルにした。」
(33)
「光るもの、ということですね」
(30)
「この曲はあのー、ジャパンのデヴィッド・シルヴィアンがとても、気に入ってくれてて。弟のスティーヴ・ジャンセンは、あのもう1曲の、『SPORTS MEN』というポップ・ミュージックが、大好きだと言ってくれましたが、お兄さんは落ち着いた人なんでこういう曲が大好き、なんだと思います。その後です ね、あのー'90年代になって、アンビエント・ムーブメントがあったときに、えーシステム7ていう、まあ、わりと有名な、えーユニットがあったんですが、 えー彼らの中で、『BATUKAU』という曲があったんですが、それを聴いたら、なんーか似てるんですよね」(30)
「まあこのような、えー似たような、音楽ができるってことはよく、あることなんです。お互い様だと、ぼくも思って、こういうのは楽しんでます」(30)

プラトニック
「ポップ・ミュージック、とは言いがたいんですが、ちゃんと歌詞を作って、えー、まあビートがある曲」(30)
「レコーディングの初期の頃にオケと"I Love"というPCMによるVOICEができた」(33)
「この曲はMC-4で全てコントロールされている。」(33)
「タイトルはあとでつけられたが」(33)
「一月に次のアルバムのタイトルにしようと思い、ユキヒロに言ったところ、不思議なことに彼も同じLPタイトルを考 えていて」(33)
「気持ち悪いけど。要するに、世の中にそういう気持ちが湧いてきていて、それをかんじとって、自分もそんな気分になっているということになって。そうでないかぎり、ふたりが同時に同じこと考えるってないと思うんです」(1)
「二人で協議した結果、タイトルとして使うのを中止した。」
(33)
「よく考えてみたら、あんまり僕には似合わないし(笑)」(1)
「レコーディングの期間中は特にプラトニックな気分になるのだが、それ以外の時の自分のイ メージがどうしても合わないので、プラトン的な…ということで勘弁してもらいたい。」(33)

リンボ
「壮大な曲になる筈であったが、予想をうらぎって唄のないものに仕上った。リンボというとリンボダンスを思い浮かべるが、ここではIN LIMBOとなっていて、もともとリンボとは進むことも退くこともできない状態の事をいい、地獄の真の姿である。バミューダ・トライアングルも消失地獄 (リンボ・オブ・ザ・ロスト)と云われている。この曲は全てイミュレーターを使用した。」
(33)

L.D.K.
「レコーディング前半の、ということは、まだ入り込む前の時にできたトラックで、それに無理矢理英語でことばをつけて完成させた。」
(33)
「全然言いたくない事言ってるから、そんな自分は好きじゃない」(6)
「言いたくない事も歌わなくちゃなんなかったりする場合が一番辛いね」(6)
「この曲だけ教授に計8小節のピアノを弾いてもらった。」(33)
「キーボード弾きたかったみたいなので」(32)
「トロピカルダンディーってソロ」(13)
「そん時の1曲めにこの曲ができたわけ」
(13)
「ちゃんとオケも録って」(13)
「カッコよくできたわけ」(13)
「それテープ残ってるけどね。ま、もろスライみたいな感じ」(13)
「その時の曲を使ったの(笑)」(13)
「その時はできなかったの」(13)
「恥ずかしくて」(13)

お誕生会
「曲として完成されすぎているが、当初はもっと訳のわからないものだった。」
(33)
「基本になっているゴングの音は、このLP中唯一、生で録音されたもので、仏壇に置く『リン』を三つ使用している。」
(33)

スポーツマン
「レコーディング後半にできた歌曲である。満足のゆく曲を数曲完成させた後、どうしても親しみ易い曲が必要だったので24時間でつくった。」
(33)
「ポップ・ミュージックで、サービスだよ(笑)」(21)
「自分の好きな音楽が二、三できた後にね、やっと落ち着いてポップスに取り組むことができたの」(32)
「詞の方は英国の 若人、ジャイルズ・デュークとの初の共作であり、初の成功作である。このレコーディング中、加藤和彦氏がL・D・Kに遊びに来た際、彼に throbbingというひとことを唄っていただいた。」(33)
「アルバムの中で、これが一番反応があった。ジャパンのメンバーとか。ピーター・バラカンは、別の英詞をわざわざ書いてきてくれたんだ。何か『こういう詞ができたんで、出さないか』と(笑)。でもレコード会社は一切興味を持たなかったんだ」
(21)

フィルハーモニー
「タイトル曲だが、タイトルがフィルハーモニーに決定した後期の段階でこの曲にこれをつけた。歌を入れてもいい様な気がしたがやはり、生のインスピレーションのままにしておきたかった。」
(33)

エア・コン
「やはりイーノの手法に準じていることは免れない。」
(33)
「(編注:録音した1981年)当時は心理状態が暗鬱としていたにもかかわらず、ここでは日の光を感じてしまう。」(33)
「二月にオクラ入りしたシングル『夢見る約束』のB面に『気流の鳴る音』としてカッティングされたが、この同名の本からインスピレーションをもらってタイトルを変えた。」(33)
「エア・コンディションのことでクーラーのことではない。大気の状態というべきか。」(33)

飯尾芳史の証言
「レコーディング期間は、長かった気がしますね。細野さんは、ゲルニカのプロデュースと交互にやってましたから。両方で、2ヶ月ほど」
(14)
 フニクリ、フニクラ
「幸宏さんは『フニクリフニクラ』で一緒に歌ってました」
(14)
 L.D.K.
「(編注:梅林茂は)『キープ・オン・ドライヴィング!』と歌ってました。細野さんとマイクの前でノリノリでしたね(笑)」
(14)
 スポーツマン
「最後の録音です。なぜ、最後に録音したのかを覚えてるかというと、ぼくも感じていましたが、『あまりにも暗いアルバムだな』ということを、細野さん自身 も思っていたらしくて(笑)。『スポーツマン』ができたときは『わー、明るい曲ができた!』っていう感じだったんです。で、その日、ちょうどディレクター の篠崎さんが病欠だったんですが、彼女に『今日は、明るい曲ができたよー』って電話したのを覚えています(笑)」
(14)

奥村靫正の証言
「彼の前に大きなガラス板を斜めに立てて、そこに風景を反射させて僕がポラロイドで撮影したものです。大陸横断鉄道に乗ってヨーロッパの広野を旅しているミュージシャンと窓から見える風景というイメージです。これは好きな作品ですね」
(46)

高橋幸宏の証言
「『What, me worry?』のタイトル考えてた時、細野さんが『フィルハーモニー』やってたでしょ?二人ともおんなじタイトル考えててね、『プラトニック』っていうタ イトル(笑)。恥しいからやめたんだよね、気恥しいから(笑)。いいトシして何やってんだって(笑)」
(47)

ビル・ワイマンの証言
「レヴォン・ヘルムが細野晴臣のカセットを持っていて、来日する前に聴かせてくれたんだ。その時僕はドクター・ジョンやブッカー・T&ジ
MG'sのメンバーと一緒にパーティー会場にいたんだが、彼の音楽がすごく気に入って、日本に行った時に会いたいと思ったんだ。彼はすごくナイスだったよ」(48)
※編注:「夢見る約束」の冒頭には細野晴臣による前説が収録されている。

1982/05/21 立花ハジメ『H』発売。
H(テーマ・フロム・クラブ・フット):marimba
アルプス2:marimba
ソプラノ・シルエット:bass
ザ・ベースマン・フロム LDK:bass
アルプス:marimba
「いいできだと思うよ、あれは。実にわかりやすくっていい」(12)

立花ハジメの証言
「楽器のプロから見たらフェイク・アルバムっていうか(笑)」
(25)
「聴き直すと稚拙なところもあって、サックスもうまい人が出す音とは全然ちがうんだけど、なんだろう、たとえると、その後のゆずとかフリッパーズ・ギターみたいな青さとか瑞々しさがあるよね(笑)」(24)
「僕の当時のやり方っていうのは、例えば外にいてフレーズとか曲を思いつくと、家の留守電に鼻歌で吹き込んでおく。それを家に帰ってから再生してギターに 置き換えて弾いてみる。そんな作曲方法。そうするといろんな気分やシチュエーションで作った曲やその断片がどんどんストックされていく…」
(25)
「だから『H』はコラージュ・ミュージックと言えるかも…。それぞれが生まれた時には関係がなかった断片が、組み合 わさったり同じ時間軸で混成したりして音楽になっていくわけだから。それらを周りの音楽のプロたちが固めてくれてきちっと音楽に育っていった。これは人物 で言えば幸宏の功績が大きいし、それが許容されるYENを作った細野さんやアルファもすごいよね」(25)

1982/05/21 『ぴあ』6月4日号(ぴあ)発売。
インタビュー/細野晴臣氏に聞く 1 インタビュアー:高橋幸宏
※編注:YENレーベルの広告。

1982/05/21 YMOファンクラブ会報『Me & Her』No.10、発行。
インタビュー/3年をついやしたソロアルバムPhilharmony(YEN盤1号)完成にあたって緊急インタビュー!!

1982/05/22 『ビッグミュージック』取材。

※編注:詳細不明。

1982/05/24 テストパターンのレコーディング。音羽/LDKスタジオ。
クレッセント・ナイト
篠崎恵子の証言
「1982年、5月24日月曜日、この日からYENレーベルの放つ話題のリハビリテーション・ミュージック・シリーズ第1弾"TESTPATTERN"の録音が、細野晴臣プロデュースで開始されたのであります。」
(49)
「この日は『クレッセント・ナイト』という曲。」
(49)
「録音はTESTPATTERNの音楽に細野氏が色づけし立体感をもたせるといったやり方で、それが実に和気あいあいとした楽しげなムードをかもしだします。」(49)

1982/05/24 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。広告局制作『HOT VOICE』の面で隔週連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」開始。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」1
※編注:主に当時の愛聴レコードを紹介するコラム。

1982/05/25 テストパターンのレコーディング。音羽/LDKスタジオ。

1982/05/26 テストパターンのレコーディング。音羽/LDKスタジオ。

1982/05/27 テストパターンのレコーディング。音羽/LDKスタジオ。

1982/05/28 松任谷由実と対談。原宿/フレンチクォーター。

※編注:『新譜ジャーナル』8月号(6月22日発売)に掲載。

1982/05/29 テストパターンのレコーディング。音羽/LDKスタジオ。

1982/05/30 テストパターンのレコーディング。音羽/LDKスタジオ。

1982/05/31 テストパターンのレコーディング。音羽/LDKスタジオ。

1982/06/02 『平凡パンチ』取材。

※編注:詳細不明。

1982/06/03 『FMステーション』取材。

※編注:詳細不明。

1982/06/04 『ぴあ』6月18日号(ぴあ)発売。
インタビュー/細野晴臣氏に聞く 2 インタビュアー:高橋幸宏
※編注:YENレーベルの広告。

1982/06/05 八木康夫編『ペンギンカフェオーケストラ』発行。
寄稿、イラスト
※編注:ペンギン・カフェ・オーケストラ『ジャパン・ツアー '82』会場で販売された、B4判の特製パンフレット。

1982/06/05 竹芝桟橋/LUFTのオープニング・イベント第1夜をプロデュース、ゲスト出演。
インテリア+立花ハジメ 沢村満(sax, kbd, perc)、野中英紀(g)、別当司(ds)、細野晴臣(kbd)
 曲目不明

1982/06/07 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」2

1982/06 ペンギン・カフェ・オーケストラ『ジャパン・ツアー '82』公演観覧。五反田/簡易保険ホール。

「彼らのステージを見て改めて感動した。同じミュージシャンとして、彼らの余裕に嫉妬を覚えた。 室内環境楽団というのも憎い。さりげないようでいて実は訓練されてないと不可能なアンサンブルも憎い。その音楽のルーツとなっているのは、現在までに出つ くした、すべての音楽の色彩である。これらの印象をまとめると要するに『カッコイイ』のであった。実に憎い。しかし、そのニクサを上回る何かがあって、そ れに感動した」(50)

※編注:五反田/簡易保険ホール公演は6月8〜10日に3日連続で行われたが、細野晴臣の観覧日は特定できない。

1982/06/09 TBSテレビ『悪友親友』収録。赤坂/TBS。

※編注:毎週月〜金曜日の12時20分から20分枠で放送されていた、芳村真理の司会 によるリレー形式のトーク番組。各ゲストは友人からの指名で出演、さらに自分が指名した次回ゲストの出演日にも続けて登場する。細野晴臣は加藤和彦の指名 を受け、風吹ジュンを指名した。放送日は不明。

1982/06/10 『写楽』取材。

※編注:詳細不明。

1982/06/10 『The Japan Times Weekly』取材。

※編注:詳細不明。

1982/06/12 『夕刊フジ』取材。

※編注:詳細不明。

1982/06/12 竹芝桟橋/LUFTのオープニング・イベント第2夜をプロデュース。
出演:テストパターン、ゲルニカ

1982/06/16 『ノンノ』のインタビュー取材を受ける。

※編注:8月5日号(7月22日発売)に掲載。

1982/06/16 『キネマ旬報』原稿〆切。

※編注:7月下旬号(7月5日発売)に掲載。

1982/06/16 『高橋幸宏ツアー 1982』リハーサル。

1982/06/16 戸川純と対談。原宿。

※編注:『サウンドール』8月号(7月20日発売)に掲載。

1982/06/19 竹芝桟橋/LUFTのオープニング・イベント第3夜をプロデュース。『高橋幸宏ツアー 1982』公開リハーサル。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)
 曲目不明
高橋竜一の証言
「東京は浜松町、伊豆七島に向けて定期船が出港する竹芝桟橋のすぐ横、倉庫に使われているビルの一室は、報道関係者とファンでホントに足の踏み場もない。 50センチ前には観客がいる、という、喜ぶべきか悲しむべきか悩んでしまうような状態でリハーサルが行われた。やる気マンマンの土屋昌巳と立花ハジメ。黙 々とドラムを叩いていたスティーヴ・ジャンセン。一見リラックスしているように思わせる表情の細野さん。」
(51)

1982/06 『ミュージック・ステディ』4号(ステディ出版)発売。
インタビュー/こっちはもう燃えてるんです

1982/06/21 ゲルニカ『改造への躍動』発売。
produce, engineering
 潜水艦:prophet 5
 曙:synthesizer
「デモ・テープを聞いたとき、それはもはや完ぺきな作品だった。カセットに記録された夢のような音楽を、ほとんどそのままアルバムにしたのがデビュー・アルバムになったわけである。」(52
「彼らに任せたっきりで」(6)

上野耕路の証言
「デジタル・ビートの世界になるのかと思ったけど、全然、好きな、勝手な事やっちゃって、どうも、ハハ」(4)
「勝手にやっちゃった曲もあるしね。トラックダウンでも……」(4)
御本人は忘れているようだが、ファーストアルバム中『曙』『大油田交響楽』『動力の姫』の3曲はアルファのスタジオで録音した。」(52
「当初は、YENレーベル第1弾として、5月21日発売だったのが、1ヶ月のびて、6月21日発売となってしまった。」(9
「レコーディングが遅れた最大の理由は、私がなまけ者のせいで、レコーディング前にこつこつとアレンジをすすめるの を怠ったためである。私は、そもそも、音を出すにあたり(作曲でも編曲でも)用意周到な準備がないとなかなかアイデアが浮かばないたちなのである。だか ら、スタジオで音を出しながら曲を作るだの、アレンジするだのということが甚だ苦手なのだ。そういう自分が、用意周到な準備を怠ると、どういうことになる かというと、これはもう惨たんたるもので、ミキサーの方々への指図はしどろもどろになるわ、シンセサイザーで音色を決める時はいい加減になるわでどうしよ うもないのである。」(9
「他にも理由がある。それは、これまで少ないチャンネル数しか使えなかった(ようするに自宅録音)ことから、 24chをもてあましてはならぬという、かつてミケランジェロが大理石の山をすべて彫刻してしまいたいといった衝動にかられたことにも似た興奮を憶えたこ とである。このことは、これまでに私が参加したレコーディングで、24chをあますところなく使いきったことがなかったせいも手伝った。これまでのレコー ディングはすべて、協同作業、ようするに、バンドだったため、他のメンバーとのからみ合いということで、遠慮があったというわけだ。」(9
「そんなわけで私は、アレンジを3管編成にすることに決めた。」(9
「ゲルニカのアレンジ、つまり音色の選定は、ゲルニカの雰囲気であるところの、20世紀前半、戦前、戦中、戦後の雰 囲気をかもしだすために、あまり電気楽器的でない音色、つまりはオーケストラの模倣をするという一種のマニエラによることにしている。ようするに、オーケ ストラの楽器、弦、木管、金管をシンセサイザーで積み重ねてゆくのである。しかし、完全にオーケストラとぴったり同じことは、出来るはずもないし、しよう とも思わないので、適当にカリカチュアされたオーケストラを作るのである。実際には本物を使いたいという気持ちも強いのだが、私は、管弦楽法については、 まったくの独学」(9
「オーケストラなどとなれば実際に使えたとしても、問題が持ち上るに決まっているので、シンセサイザーによるカリカチュアにより、そこからしか得ることができないであろう腰の軽さやポップさや現代性をひきかえにすることにより、満足することにしている。」(9
「しかし、カリカチュアとはいえ、私の場合は、オーケストラのためのスコアを書き、それをシンセサイザーで再現する ことにしている。ここで、断っておくが、私は冨田勲氏のようなことをしようとしているのではない。彼は、管弦楽のために書かれた名曲の数々をシンセサイ ザー的音色の拡がりで再現しているのであるが、私のしていることは、一応シンセサイザー的音色は拒否することから始めている。」(9
「とにかく、オーケストラ用のスコアを一応書くのであるが、これまでは、チャンネル数の関係でせいぜい大きくて2管 編成(2管、3管編成という言葉は、本来、木管楽器の編成内容だけをさすものであるが、普通2管編成といったら、木管楽器、フルート、オーボエ、クラリ ネット、バスーン各々2組と、金管楽器、ホルン4、トランペット2〜3、トロンボーン2、バス・トロンボーン1、チューバ1、及び弦楽をさすことが多い) だったのが、24chということで3管編成(木管楽器、フルート、オーボエ、クラリネット、バスーン各々 2に加えこれらの派生楽器、ピッコロ、コール・アングレ、バス・クラリネット、コントラバスーン各1を加えたものに前述の如き金管、また弦楽、ハープなど を含んだ編成)を試してみることができることになったのである。」(9
「しかし、アレンジが進まず」(9
「普通、マルチ・トラック・レコーディングの時は、水平に、チャンネルごとに1つの音色を1回で、1曲分すべて録って、それを繰り返すのに、アレンジができていないせいで、垂直に、出きている部分だけ、すべてのチャンネルを埋めていくという録りかたになった」(9
「こうなると、一つのチャンネルで、音色、音量が、録音した日時のちがい、つまりその日までのアレンジができていた 部分によって、みんな微妙にちがうという、トラック・ダウンの時に、非常に不利な事態を招いた。こんなことは初歩的な過ちであることは、百も承知なのだ が、ついアレンジがまにあわずしてしまうのであった。」(9
「また、楽器の問題もでてきた。始めのころは、一切、自分の機材を使わずにやってきたのだが、どうも使いにくく、途 中から、自分の楽器に取り変えたりもした。そうしたら、普通、チャンネル全部を録りなおすべきだったのだが、使っているチャンネル数が多いため、またたい へん時間がかかってしまうので、止むを得ず、録り直すことは控えた。その途中で取りかえた楽器というのが、その前まで使っていたポリフォニック・シンセサ イザーであるところのプロフェット5とうって変わって、いつものSH-5(ローランド)とCS-15(ヤマハ)といういずれも、モノフォニックのシンセサ イザーで、和音を出すために、(自宅ではいつもそうしていた)2台を一度に両手で弾き、1つのチャンネルに入れるということを強いられることになった。」(9
「『潜水艦』の泡の音、『曙』のハープの音をプロフェット5で作ったのは細野さんだ。」(52
「レコーディングをしたLDKスタジオのモニターの前で、プレイバックを聴きながら、スケートを滑る真似をしたり、チャップリンの歩き方を披露していた細野さん」(52
「その時の写真がないのが非常に残念だ。」(52
 
「後半のとある早いカノニックなパッセージは細野さんと僕で同時に手分けして弾いてトラック数を稼いだ、という事実がある。」
(52
ヘヴィ・オーヴァーダブのせいでダビングするトラックがなくなったため」(52

戸川純の証言
「11曲のうち8曲は私達がデモ・テープで作ったのをそのまんまレコードで出しちゃったんです」
(4)
「最初やっぱりピコピコされちゃうんじゃないかとかね、考えるわけですよ」(4)
「細野サンは音には全然たずさわらないで、せいぜいアブクの音はどうやって出すんだとか……。楽譜に触るとかも、もちろんしなかったし、バランスにしても……」(4)
「いろいろ変えられたというところがなくて、逆に本人が私たちの影響を受けたって言ってくださったりとか
…」(4)
ホント、音を作る段階の自由さに関しては、自主制作みたいな感じで、自由にやれました」(4)

1982/06/21 高橋幸宏『ホワット・ミー・ウォーリー?』発売。
きっとうまくいく:backing vocals
回想:bass
高橋幸宏の証言
「僕と細野さんがレーベルの顔だから、2人ともちゃんと作ろうよっていう気持ちでした」
(53)
 きっとうまくいく
「サビでの細野さんとのハーモニーももうすっかりおなじみのスタイル」
(49)
 回想
「細野さんのベース、やっぱりぐっとくるじゃあありませんか。」
(49)

1982/06/21 V.A.『音版ビックリハウス 逆噴射症候群の巻』発売。
飯場の恋の物語:compose, arrangement, all instruments
エンピツ賞ドラマ「おじさんは」:主演
エンピツ賞ドラマ「おじさんは」
「『ビックリハウス』のエンピツ大賞ドラマ」
(54)
橋本治、さんが、脚色してたの」(54)
「いやいやながらやったんですよ」(54)
「なんか、ちょっとねえ、いやらしいでしょ? ぼくとはちょっと違いますから、キャラクターが」(54)

※編注:「飯場の恋の物語」(作詞:秋山道男/歌唱:伊武雅刀)にクレームがつき、発売当日に店頭から回収。8月21日に再発売された"改訂版"では、同曲は「夢見る約束」に差し替えられている。

1982/06/21 14:30 浦安市文化会館ホール入り。

1982/06/21 15:00〜19:00 『高橋幸宏ツアー 1982』通しリハーサル。浦安市文化会館ホール。

1982/06/21 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」3

1982/06/22 『新譜ジャーナル』8月号(自由国民社)発売。
対談/細野晴臣 × 松任谷由実

1982/06/22 12:30 浦安市文化会館ホール入り。

1982/06/22 13:00〜19:00 『高橋幸宏ツアー 1982』通しリハーサル。浦安市文化会館ホール。

※編注:この日はツアー初日の公演が行われたというのが通説だが、『サウンドール』同年9月号に掲載のツアー行動表から、前日と同様にリハーサル日と判断した。なお、同じく『サウンドール』9月号では、6月25日の福岡公演 が「ツアー初日」と明記の上、レポートされている。

1982/06 大滝詠一・松本隆・鈴木茂とミーティング。紀尾井町/ホテルニューオータニ。

「はっぴいえんどのエネルギーで種をまいて、物を食べてる」(55)
「その種を食べたあとにどうするのか。ほとんどの人は次の種をまかない。あとは年貢を徴収したり楽をしようとする。はっぴいえんどの特質というのは、そういう時に、今までのものをすべて捨てて、また1からやる、次の種をまくという精神だと思うんです」
(55)
「みんなそういう、はっぴいえんどの顔を持ち続けていた」(55)

松本隆の証言
「タ イムスリップしちゃったね。昨日まで一緒にやってたような気がしてきて。解散してないような気がしてくる。YMOも『ロング・バケーション』も作詩家も消 えちゃう。"再会した"なんていう感じじゃないのね。別れた恋人っていうより、離婚した夫婦っていうのかな。全然他人になっていないのね」
(55)

※編注:田家秀樹による記事「10年目に入った"はっぴいえんど"」(『FMファン』8月16日号掲載)によるとミーティングは6月下旬、21時から翌日の明け方まで行われたという。

1982/06 『プレイガイドジャーナル』7月号(プレイガイドジャーナル社)発売。
対談/ハリー・ホソノのバリ レギアン・ロードはアセチレン・ランプの匂い 細野晴臣 × 久保田真筝

1982/06/24 福岡へ移動。

※編注:この日から西鉄グランドホテルに3泊。

1982/06/25 『ロックマガジン』7月号(ロックマガジン社)発売。
対談/音楽愛好症 細野晴臣 × 阿木譲

1982/06/25 矢野顕子『愛がなくちゃね』発売。
どんなときも どんなときも どんなときも:bass

1982/06/25 E.S. アイランド「テクテクマミー/真夏のクリスマス」発売。
テクテクマミー:監修
ズーニー・ブーにいた人がやってるポップなグループ」(6)
「僕は音楽聞いて興味持ったんだけどどういう人だか知らなかった。で彼らのレコーディング手伝ったんですけど、イン ドや沖縄のようなリズムとか音がね、入ってんですよね、シンセサイザーが作って。彼らは意識してないって、で、インドの音楽を聞かせたらかなり顔色が変 わった。無意識に音ってそういうのが出ちゃうでしょ。音楽作るのにいつも僕、怖いなって思うのはそれです」(6)

1982/06/25 13:30 福岡サンパレス入り。

1982 YENマガジン『CAMP・YEN』NO.1、発行。

※編注:『高橋幸宏ツアー 1982』会場で販売された。

1982/06/25 18:30 『高橋幸宏ツアー 1982』公演。福岡サンパレス。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)
 ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 すぐそこにある
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり
 予感
 イッツ・オール・トゥー・マッチ
 非・凡
 キュー
高橋竜一の証言
「コンサート・ツアーの初日。」
(51)
「ドンチョウが下がっているうちに一曲目の『What Me Worry?』が流れはじめた瞬間からユキヒロ・コールと喚声が止まらない。しかも、MCになるとより大きくなって、舞台の上の人たちは、予想していたと はいえさすがにテレ臭そう。YMOのステージとはだいぶ違うバイブレーションだ。」(51)
「舞台のセットも、ウィンター・ライヴのときとは比べものにならないくらいシンプルだ。」(51)
「白い板、黒いパイプ、黒と光沢のある灰色による階段によって組まれていて、立体的でありハイ・テックなデザインだ。」(51)
「セットを地味というか渋めにおさえた分だけ、ミュージシャンたちの動きがダイレクトに伝わってくる。左右に分かれた、ビルにたとえれば三階の、向かって右側にスティーヴ・ジャンセンがいる。」(51)
「オフ・ステージでも、とても大人しいマジメな彼は、レコードに収められている師匠(?)のドラミングを完璧にコピーして、アンサンブルを乱さないようにさりげなく気を使っている。」(51)
「幸宏さんのレギュラー・ポジションには、プロフェット・ファイヴというオナジミのシンセが見える。」(51)
「一階は多少広めのスペースで、左側に土屋昌巳と立花ハジメ、右側に細野さんがいる。アクションに限らず漂ってくる ものが、まったく対照的だ。ギター、シンセ、サックス、と忙しく働くハジメは、それでもまだヒマそうで、ダンサブルな曲になると、陽気に踊り出す。土屋昌 巳も、指と一緒に体を大きく動かしている。左側は外向的なムード、右側は内気? このアンバランスな具合が、どういうわけだか自然で、ユーモラスに想えてくる。」(51)
「向かって左から順にメンバーを紹介して細野さんだけ残し『といったところが主なメンバーで……』なんて、根の浅く明るい冗談を言いつつ、サポート・メンバーひとりひとりを中心にした曲に移る。」(51)
「幸宏さんがあらためて細野さんを紹介すると、ものすごい喚声が上がり、本人はおどけて得意の林家三平の真似。」(51)
「『Sports Men』のあとは『Key』。エンディングに近くなると、照明が暗くなり、立花ハジメが考え出したヴィジュアル楽器の第二作"アルプス2号"のオデマシ だ。天井から舞台まで垂直に向けられたスポットの後ろにスティーヴを残して4人立ち、リズムに合わせて光を切る。シンドラムのような音が飛び交って、なに やら行進曲を聞いている気分になってきた。」(51)
「次の曲がラスト・ナンバーだったが、観客はもちろんのこと、メンバーも『もっとやっても…』 の表情だった。戸惑う時間もなくすぐさま手拍子が。そして、2分後。先に登場した幸宏さんが、メンバーの名を順々に呼びはじめる。中央奥の階段から、一人 一人現れてくる。そのとき、誰よりも陽気だったのが、あの細野さん。総立ち大喚声のなか、おどけて足をカックンカックン折り曲げながらの入場でありま す。」(51)
「アンコールの2曲め、この夜の最後は『Cue』。」(51)

立花ハジメの証言
「アルバムのツアーっていうことでアルファ・レコードの完全なサポートがあって、ちゃんとオーガナイズされてたから居心地がよかった。会場もみんな大きなとこでお客さんもいっぱいだし」
(24)
「楽しく演奏してればいいだけの役割」
(24)
「僕の場合それまでライヴ・ハウスがメインの会場でやってきたわけじゃない。ホールで、レコード会社やプロモーター のスタッフがちゃんとツアーに同行して、楽器から移動からみんなセッティングしてくれて、こっちがもうそこに行って音を出すだけでいいなんていう状態は初 めてだったから、これはいいぞと(笑)」(24)
「仲のいい人ばっかりだし、そういう人たちと毎日一緒に演奏できて、その後に飲みに行ってって、そんな楽しい生活はないよね。パーティーみたいなものでさ、あんなパーティーだったら1年365日やったっていい(笑)」(24)

1982/06/27 広島へ移動。

※編注:この日から広島グランドホテルに2泊。

1982/06/28 15:30 広島郵便貯金会館入り。

1982/06/28 18:30 『高橋幸宏ツアー 1982』公演。広島郵便貯金会館。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)
 ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 すぐそこにある
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり
 予感
 イッツ・オール・トゥー・マッチ
 非・凡
 キュー

1982/06/29 大阪へ移動。

※編注:大阪ホテルプラザに宿泊。

1982/06/29 15:30 大阪厚生年金会館入り。

1982/06/29 18:30 『高橋幸宏ツアー 1982』公演。大阪厚生年金会館。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)
 ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 すぐそこにある
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり
 予感
 イッツ・オール・トゥー・マッチ
 非・凡
 キュー

1982/06/30 仙台へ移動。

※編注:この日からホテル仙台プラザに2泊。

1982/07/01 15:30 仙台/宮城県民会館入り。

1982/07/01 18:30 『高橋幸宏ツアー 1982』公演。仙台/宮城県民会館。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)
 ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 すぐそこにある
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり
 予感
 イッツ・オール・トゥー・マッチ
 非・凡
 キュー

1982/07/02 東京へ移動。

1982/07/03 テレビ大阪『ザ・ヒップ』収録。大阪。

近藤雅信の証言
「10時30分に細野宅へ迎えに行く。」(56)
「大阪へ向かう。大阪のテレビ番組『HIP』のゲスト出演の為である。」(56)

※編注:同年7月10日放送分。


1982/07/03 スタッフや桂文珍らと会食。大阪。

近藤雅信の証言
「テレビ出演のハネた後アルファ大阪の石原、金子両氏と細野さんと食事をする。石原氏がその時桂文珍さんを連れてきてくれた。」(56)

1982/07/05 『キネマ旬報』7月下旬号(キネマ旬報社)発売。
寄稿/真理はロマンを超えた所に
※編注:ピーター・ブルック監督の映画『注目すべき人々との出会い』評。

1982/07/05 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」4

1982/07/05 萩原健太のインタビュー取材を受ける。原宿/パレフランス。

萩原健太の証言
「当惑、混乱、そして不安。」(29)
「5月の末に発売された細野晴臣のソロ・アルバム『フィルハーモニー』をはじめて聴いたときのぼくの気持を、ちょっと気どって言葉にすれば、こういうことになる。」
(29)
「平たく言えば……要するに、途方にくれてしまったのだ。」(29)
「が、二度三度と聴き返すうちに、ただひとつ、このアルバムがぼくに確信させてくれたことがある。細野晴臣は、また新たな岐路に立たされている、彼と音楽との関係・距離が確実に変質しようとしている ----- そんなことだ。」(29)
「細野晴臣のインタビューが決まったとき、ぼくは何よりもそのことを本人に語ってもらいたいと思った。今、彼を創造へとかりたてるエネルギーは何なのか。およそ12年間の音楽活動を経て、彼はどのように変わろうとしているのか。」(29)
「『そういうことって、たいてい本人より周りの人の方がよくわかる者なんですよ』」(29)
「こんなふうに、まず軽いジャブを放ってから、細野さんは、独特のやさしい声でゆっくりと語りはじめた。」(29)
「別れ際、最近は自分のスタジオもできて毎日楽しいんじゃないですか? と訊いてみた。細野さんはニヤリとひと笑い。『いやあ、あんまり楽しくないねェ』と答えた。目がイタズラっぽく輝いていた。」(29)

※編注:『話の特集』9月号(7月27日発売)に掲載。

1982/07/06 上野駅発の東北新幹線で盛岡へ移動。

※編注:10時集合のところ、細野晴臣は予定の新幹線の発車時刻に約4分遅刻。『高橋幸宏ツアー 1982』メンバー中、一人だけ乗り遅れた。宿泊はホテルロイヤル盛岡。

1982/07/06 18:30 盛岡/岩手県民会館入り。

※編注:予定の開演時刻ぴったりの到着。細野晴臣は10分でメイクと着替えを終えたという。

1982/07/06 18:45 『高橋幸宏ツアー 1982』公演。盛岡/岩手県民会館。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)
 ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 すぐそこにある
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり
 予感
 イッツ・オール・トゥー・マッチ
 非・凡
 キュー

1982/07/06 21:30 『高橋幸宏ツアー 1982』盛岡公演打ち上げ

1982/07/07 スターボー「ハートブレイク太陽族/TOKYOベイ・ブルース」発売。
ハートブレイク太陽族:compose, arrangement, all instruments
TOKYOベイ・ブルース:compose, arrangement, all instruments
「不思議なグループだ」(37)
「恐ろしい思い出だな(笑)」(36)
「ぼくも記憶を消してる、とこがあるんで」(37)
「頭抱えてた。ユニークすぎて(笑)」(15)
「コスプレの、はしりですね。うん。アニメっぽい。いや失敗するに決まってますよね」
(37)
「元々(編注:スターボーの)名前はついていたはずですよ。スターボーは深く関わるつもりはなかったんだけど、いつの間にか巻き込まれていったという感じ です。松本隆からの依頼で、アルバムづくりを全面的に手伝ってくれということだった。宇宙から来たとかいう筋立ても最初にプロダクションサイドで出来てい たんだと思いますよ」(36)
「一人称を『オレ』って言うとかね、宝塚系というか…」(15)
「男の子っぽい、ね」(37)
「男言葉の、おー、女の子たち」(37)
「それがねー不思議だったなあ。これでいいのかなあと思ってたんだけど」(37)
「彼女たちは、歌い方がわからなくて、ボイストレーナーと組んで指導をしました。それには僕は付き合いました」(36)
「ボイスレッスンも独特だった」(37)
「あの変な歌い方ね」(36)
「いや、どうしたらいいかわかんなくて(笑)。元々ああいう歌い方しかできない人たちなのかなあ」(36)
「全部付き合ってみたんですが、不思議だなあと思って聴いてたんですね」(37)
「不思議な人たちだった。事務所はかなり力いれてやっていたんですけどね」(36)
「松本隆は、これはどう思ってたのかな。よくわからないです」
(37)

TOKYOベイ・ブルース
「なんか上手くいった感じはしないんだよね」
(15)

松本隆の証言
「スターボーに関しては全然記憶がない(笑)。多分ね、思い出したくない、早く忘れようっていう自己防衛本能が働いてるんだよ。なにがどうなってああなっちゃったんだろう」
(36)
「日音から、『ちょっと色モノなんだけど』って話がきて、作っているうちに怪作になっちゃって(笑)。まったく売れなかった(笑)」(15)
「松本・細野コンビっていうのははっぴいえんどの時代からいつも結構売れるんですよ。なのにあそこまでスカだったのは初めてだった」(36)
 ハートブレイク太陽族
「ネットなどで細々と語り継がれていて、テクノ歌謡のコンピレーションに入ることが多くて、不思議なスタンダードになっている(笑)」
(15)

1982/07/07 東京へ移動。

1982/07/08 『スコラ』7月22日号(講談社)発売。
対談/今月今夜の熱海会談 音楽は地球を救えるか? 細野晴臣 × 高橋幸宏

1982/07/10 『ビックリハウス』8月号(パルコ出版)発売。
寄稿/論文集第一回「意味の健全性を問う」

1982/07/10 柏原よしえ「しあわせ音頭/恋人よ帰れ」発売。
しあわせ音頭:compose
しあわせ音頭
「ほとんど幻の曲だ」
(15)
「これがまたー別に嫌いじゃないんです、僕。好きなんです。自分の趣味なの」(57)
「音頭なんですよ」
(57)
「ちょっと企画もんだったんですが」(37)
「夏にね、あ、お盆かな? なんだかわかんないけどあのー(笑)、お祭りがあったの。どっかの代々木公園かなんか」(57)
「盆踊り大会かなんか」(58)
「その時の、テーマソングにするっていうんで」(57)
柏原よしえさんが歌った」(58)
「でシングル盤も出たんだけど」(57)
「限定発売のものだったんですね」(58)
「でーこれは、自分でねアレンジ、できなかったのね、時間がなくて」(57)
「僕の好きなようにやったらもっともっとひどい、じゃないや不思議な曲になるんだけど」(57)
「アレンジャーが変わるとやっぱりね、どうしてもまとまっちゃうのね、きれいに」(57)
「まとめようとするしね」(57)
清水信之くんていうね、けっこう才能のある人なんですけどね。のめり込んでやったって言ってたけど、僕ーから見っとやっぱりまだねあのー、若気の、若気の至りという」(57)
「和風にすると、若くて才能のあるアレンジャーはつい照れ隠しでふざけちゃう」(15)
「僕のデモテープでは沖縄色が濃厚だったんです」(15)
「沖縄風の、音頭なのね」
(57)

清水信之の証言
「たぶん打ち込みで沖縄民謡やったのはあれが最初だったと思う。いわゆる日本の古典的な民謡のリズムと沖縄音階をフュージョンさせてて、よく聴くとリン・ドラムがリトル・フィートみたいなシャッフルになってるっていう(笑)」
(59)

1982/07/10 『高橋章子の逆噴射対談』に出席。渋谷/西武百貨店渋谷店B館 地下特設会場。

※編注:高橋章子・伊武雅刀とのトーク・イベントに出演予定だったが、間違って池袋店に向かったため間に合わず、トーク後のサイン会にのみ参加した。

1982/07/10 16:00 テレビ大阪『ザ・ヒップ』放送。出演。
共演:黒田征太郎、小川美潮

高橋幸宏バンド

 スクール・オブ・ソート
 ※1982/06/29@大阪厚生年金会館
※編注:ライヴ映像は完奏ではない。

1982/07 『プレイヤーズ・ハンドブック』(JICC出版局)発売。
インタビュー/細野スタジオへようこそ
アンケート/ミュージシャンズ ミュージシャン 22人本音アンケート

1982/07/11 札幌へ移動。

※編注:この日から札幌プリンスホテルに2泊。

1982/07/12 15:30 札幌市民会館入り。

1982/07/12 18:30 『高橋幸宏ツアー 1982』公演。札幌市民会館。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)
 ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 すぐそこにある
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり
 予感
 イッツ・オール・トゥー・マッチ
 非・凡
 キュー

1982/07/13 帯広へ移動。

※編注:帯広グランドホテルに宿泊。

1982/07/13 15:30 帯広市民会館入り。

1982/07/13 18:30 『高橋幸宏ツアー 1982』公演。帯広市民会館。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)
 ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 すぐそこにある
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり
 予感
 イッツ・オール・トゥー・マッチ
 非・凡
 キュー

1982/07/14 東京へ移動。

1982/07/16 14:00 渋谷公会堂入り。

1982/07/16 18:30 『高橋幸宏ツアー 1982』公演。渋谷公会堂。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)、サンディー(vo)*
 ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 ディスポーザブル・ラヴ
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ *
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり
 予感
 イッツ・オール・トゥー・マッチ
 非・凡
 すぐそこにある
 キュー
※ 編注:7月6日の盛岡公演終了後のインタビュー(『音楽専科』9月号掲載)で高橋幸宏が「東京までとっておいてあるのがあって」と発言していることから、 ツアー前半で演奏されていなかった「ディスポーザブル・ラヴ」は、この日の公演からレパートリーに加えられたものと判断した。

1982/07/18 神戸へ移動。

※編注:神戸ワシントンホテルに宿泊。

1982/07/19 15:30 神戸国際会館入り。

1982/07/19 18:30 高橋幸宏『ジャパン・ツアー 1982』公演。神戸国際会館。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)
 ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 ディスポーザブル・ラヴ
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり
 予感
 イッツ・オール・トゥー・マッチ
 非・凡
 すぐそこにある
 キュー

※編注:この日の宿泊は神戸ポートピアホテル。

1982/07/20 『サウンドール』8月号(学習研究社)発売。
対談/細野晴臣 × 戸川純

1982/07/20 『ノンノ』8月5日号(集英社)発売。
インタビュー/ゾーッとするお話 有名人13人の恐怖体験

1982/07/20 京都へ移動。

※編注:京都ロイヤルホテルに宿泊。

1982/07/20 15:30 京都府立勤労会館入り。

1982/07/20 18:30 『高橋幸宏ツアー 1982』公演。京都府立勤労会館。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)
 ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 ディスポーザブル・ラヴ
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり
 予感
 イッツ・オール・トゥー・マッチ
 非・凡
 すぐそこにある
 キュー

1982/07/21 コスミック・インベンション「プラトニック学園/コズミック・サーフィン」発売。
プラトニック学園:compose, arrangement
コズミック・サーフィン:compose, arrangement
「謎だったね。ALFAからの持ち込みでしたけど。彼らはYMOの完全コピーをやってたんだよね。それを聴いて、これなら書いてもいいかなと。子供だし、面白いかなと思って」(15)

プラトニック学園
「そんなに気に入っていない(笑)」
(15)

森岡みまの証言
「細野さんの曲で、近田さんの作詞ってすごいですよね。宝物です。とにかく恵まれた環境だったとつくづく思いますね」
(60)
「カップリングでYMOさんの『コズミック・サーフィン』を歌わせていただいたことに、細野さんの愛情を感じました」
(60)

1982/07/21 名古屋へ移動。

※編注:名古屋都ホテルに宿泊。

1982/07/21 15:30 名古屋市公会堂入り。

1982/07/21 『高橋幸宏ツアー 1982』公演。名古屋市公会堂。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)
 ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 ディスポーザブル・ラヴ
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり
 予感
 イッツ・オール・トゥー・マッチ
 非・凡
 すぐそこにある
 キュー

1982/07/22 東京へ移動。

1982/07 高橋幸宏のレコーディング。
僕は、信じている

1982/07/26 14:30 新宿/東京厚生年金会館入り。

1982/07/26 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」5

1982/07/26 18:00 NHK総合『600こちら情報部』生出演。新宿/東京厚生年金会館。
出演:高橋幸宏、立花ハジメ、土屋昌巳、スティーヴ・ジャンセン、加藤和彦、坂本龍一、鈴木慶一、デヴィッド・シルヴィアン

高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn)、細野晴臣(syn, cho)、立花ハジメ(sax, cho)、土屋昌巳(g)、スティーヴ・ジャンセン(ds)
 本当の君(リハーサル)
※編注:『高橋幸宏ツアー 1982』開演直前の楽屋から中継。

1982/07/26 18:30 『高橋幸宏ツアー 1982』公演。新宿/東京厚生年金会館大ホール。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)、坂本龍一(syn* **, ds***)、加藤和彦(g)** ***、鈴木慶一(g)** ***、デヴィッド・シルヴィアン(syn)***
 
ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 ディスポーザブル・ラヴ
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり *
 予感 **
 イッツ・オール・トゥー・マッチ **
 非・凡
 すぐそこにある
 キュー ***
※編注:この日の公園の一部は同年9月15日にNHK-FMで放送された他、CD『YEN BOX VOL.1』『YEN BOX VOL.2』(いずれもアルファ・レコード/1996年)に収録されている。

1982/07/27 『話の特集』9月号(話の特集)発売。
インタビュー/細野晴臣 VS 大滝詠一 2 細野晴臣に聞く

1982/07/27 14:30 渋谷公会堂入り。

1982/07/27 18:30 『高橋幸宏ツアー 1982』追加公演。渋谷公会堂。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)
 ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 ディスポーザブル・ラヴ
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり
 予感
 イッツ・オール・トゥー・マッチ
 非・凡
 すぐそこにある
 キュー

1982/07/28 『FMファン』8月2日号(共同通信社)発売。
対談/ミュージシャンっていうのは子供のように無邪気で そのうえ意識をもつことのできる人 ホルガー・シューカイ × 細野晴臣 特別ゲスト:コニー・プランク

1982/07/28 16:00 新宿/ツバキハウス入り。

1982/07/28 19:00 『高橋幸宏ツアー 1982』追加公演。新宿/ツバキハウス。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)
 ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 ディスポーザブル・ラヴ
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり
 予感
 イッツ・オール・トゥー・マッチ
 非・凡
 すぐそこにある
 キュー

1982/07/28 22:00 『高橋幸宏ツアー 1982』追加公演。新宿/ツバキハウス。
高橋幸宏バンド 高橋幸宏(vo, syn, ds)、細野晴臣(syn, b, vo, cho)、立花ハジメ(sax, g, syn, cho)、土屋昌巳(g, cho)、スティーヴ・ジャンセン(ds, syn, cho)
 ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
 スクール・オブ・ソート
 本当の君
 ディスポーザブル・ラヴ
 グラス
 大いなる希望
 コネクション
 ナウ・アンド・ゼン
 ドリップ・ドライ・アイズ
 サヨナラ
 回想
 improvisation
 H
 スポーツマン
 手掛かり
 予感
 イッツ・オール・トゥー・マッチ
 非・凡
 すぐそこにある
 キュー

1982/07/29 『ミュージック・マガジン』のインタビュー取材を受ける。

※編注:9月号(8月20日発売)に掲載。

1982/07/31 17:00 中京テレビ『5時SATマガジン』放送。
高橋幸宏バンド
 きっとうまくいく
 ディスポーザブル・ラヴ
 ※1982/07/21@名古屋市公会堂
※編注:バックステージでのインタビューに細野晴臣も登場。高橋幸宏はこの時点でYMOの次作について「予定では来年の1月ごろ。10月ごろから(レコーディングに)入れたら入りたい」と言及している。ライヴ映像は完奏ではない。

1982/08/10 西武百貨店/ヴァリエCM曲のレコーディング。音羽/LDKスタジオ。

「西武ヴァリエのCFは、ミラノのデザイナー集団メンフィスの人達が出演していた。」(45)
「ソロ・アルバムの後の遊びで作ったものであり、スタジオでの自閉的な作業から生まれた。なお曲想は細野のこよなく愛するブルクミューラーの『狩猟』をモチーフとした。」
(45)

※編注:のちに「メンフィス・ミラノ」のタイトルで『コインシデンタル・ミュージック』に収録。

1982/08/11 『FMファン』8月16日号(共同通信社)発売。
インタビュー/10年目に入った"はっぴいえんど"
※編注:個別に取材が行われたはっぴいえんどメンバーへのインタビューを中心に、田家秀樹がまとめた記事。

1982/08/16 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」6

1982/08/17 『音楽専科』9月号(音楽専科社)発売。
コメント
※編注:高橋幸宏バンド特集内。

1982/08/19 1:00 TBSラジオ『サウンドストーム DJANGO』放送。出演。
スペシャル・パーソナリティ:鈴木慶一、細野晴臣
※編注:毎週月〜金曜日に放送されていた2時間枠の音楽番組で、水曜日は週替わりのスペシャル・パーソナリティがDJを担当した。この日の副題は「ほとんど病気の仲間たち」。

1982/08/20 『ミュージック・マガジン』9月号(ミュージック・マガジン)発売。
インタビュー/神と切り離せないバリの音楽

1982/08/20 YMOファンクラブ会報『Me & Her』のインタビュー取材を受ける。芝浦/スタジオ'A'。

※編注:No.11(8月下旬発行)に掲載。

1982/08/21 V.A.『改訂版 音版ビックリハウス 逆噴射症候群の巻』発売。

※編注:伊武雅刀「飯場の恋の物語」を細野晴臣「夢見る約束」に差し替えて再発売されたバージョン。

1982/08/23 シーナのソロ・アルバムのミーティング。音羽/LDKスタジオ。

「シーナっていう人は、とにかくものすごく元気なんですよね。パワフルで、いつもエネルギーを秘めているんです」(61)
「それを出してあげないと、溜っちゃうでしょ。で、溜ってる
ような気がしててね、ロケッツでは出せない、要するに、我ママなレコードを作ってあげようかな、って思ったんです」(61)

近藤雅信の証言
「LDKスタジオで、11月21日発売のシーナのソロ・アルバムのミーティング。プロデュースは 細野さん。詞は『原宿キッス』の宮下智、安井かずみ、コピーライターの仲畑貴志他、曲は細野さんはもちろん、他に鮎川誠、高橋ユキヒロ、立花ハジメ、加藤 和彦他のラインナップで行こうと決定。」(56)

シーナの証言
「今年(編注:1982年)になって『シーナ、ソロつくろうか!?』っていってくれたの」
(61)
「細野さんの中では、そういう計算があったみたいね、全て細野さんにおまかせしたって感じ」(61)
「云われたことは全てやりますってカンジ。たとえ、その中で私に似合わないことでも、やっていくうちに私らしさが出てくるわけだしね、いつもいろんな事をやりたいって思ってるから、思いがけないことを細野さんが思いついて私にくれた時にね、すごく嬉しいね」(61)
「ものすごくたのもしい!出来ないものはナイ、みたいなさー」(61)
「すごく細野さんとは縁があるような気がするのネ。身近でいて、遠くの人でネ、不思議な存在なのよネ。いつも期待してたわけ。早くプロデュースして欲しいナって」(61)
「催促するのイヤだしね、ほら、すごく忙しい人でしょ、それに忙しいの嫌いみたいだし」(61)
「細野さんってすごく日本的だと思うのね。いろんなことを知ってて、それを表現するやり方が、すごく日本的でね、すごく魅かれるのよね。小学生の頃放課後あるいてて、どこからともなく聞えてくる唱歌みたいな感じを持ってるみたい。花でいえばアヤメね」(61)

1982/08 YMOファンクラブ会報『Me & Her』No.11、発行。
インタビュー
※編注:通常は21日が発行日だが、この号は8月21日(映画『戦場のメリー・クリスマス』ラロトンガ島ロケ出発日)に取材された坂本龍一のインタビューを掲載するために遅れた。

1982/08/25 真鍋ちえみ『不思議・少女』発売。
supervise
 不思議少女:compose
 ロマンチスト:compose
「ビジネスとしては成功しなかったんですよね。残念ながら」(15)

ロマンチスト
「この曲もアレンジが清水信之くんでしたね」
(37)
「アレンジも真面目な感じがぴったりで、よかったですよ」
(15)

※編注:「ねらわれた少女」も収録。

1982/08/27 17:00 TBSテレビ『アップルシティ500』生出演。
司会:細野晴臣、高橋幸宏
出演:立花ハジメ、戸川純、上野耕路、渡辺めぐみ、松本伊代
「屋外の、『夕やけニャンニャン』みたいなセットで(笑)。なぜか、幸宏と僕が、司会をやるはめになって(笑)、生で。全部自分たちで決めろというの。段取りもなんにもないの。だからダラダラ〜ッて(笑)」(62)
「しかも僕ね、熱があったの。8度ぐらい。だから、出ないよって言ったら、そうはいかないと。出てもらわないと困るっていうんで、布団しいてあげっから寝てていいって言うから(笑)、ほんとに寝ちゃった。」(62)
「視た人、どういう気持ちだったんだろう」(62)
「びっくりするかもね」(62)
「ゲルニカ、上野くんと戸川純が出て」(62)
「上野くんが『お、音楽しかやってませぇん』(編注:モノマネ)とか言うんだよね(笑)。そんなこと訊いてない(笑)」(62)

1982/08/27 『ロック・マガジン』取材。

※編注:詳細不明。


1982/08/28 3:00 FM東京『スピーチ・バルーン』放送。出演。
DJ:大滝詠一

1982/08/30 『朝日新聞/HOT VOICE』取材。

※編注:詳細不明。連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」の原稿〆切か。


1982/09/04 3:00 FM東京『スピーチ・バルーン』放送。出演。
DJ:大滝詠一

1982/09/06 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」7

1982/09/10 『ARENA37℃』10月号(音楽専科社)発売。
対談/元祖ネコブームの仕掛人エンケンの愛猫"寝図美"は今、細野晴臣宅で大平の世をおくっている 遠藤賢司 × 細野晴臣
コメント/家出体験カタログ

1982/09/10 『宝島』10月号(JICC出版局)発売。
イラスト/バリ島にて
※編注:NOWいシロウトまんが大会。細野晴臣の他には糸井重里、山田邦子らが参加。

1982 矢野顕子のレコーディング。

矢野顕子の証言
「うちの、旦那さんが、南海の孤島に、幽閉されてた時(編注:坂本龍一の映画『戦場のメリークリ スマス』ラロトンガ島ロケ参加を指す)に、あのー、その隙に、ずっともう、昔からね、あの一緒にやってたんだけど、いつも、あのーなんて言うのかな、主従 関係ばっかしだったんで、こう、ちゃんと、二人で音楽を作ろうと思って、細野晴臣さんにお願いして、アレンジしてもらいました」(63)

※編注:当時「11月頃発売予定のシングル用にアレンジを担当し、レコーディング中」と報じられたが、その後、続報が途絶えた。
矢野顕子はのちにラジオ番組で、アルバム『オーエス オーエス』に収録された「HI, HI, HI」がこの時期に録られたものであることを明かした(この行の情報協力:bgmtechnodelicさん)
矢野の上記証言はそのラジオ出演の際のもの(音源の発見に伴い、2017年9月15日に追記)。

1982/09/15 NHK-FM『高橋幸宏ライヴ』放送。
ホワット・ミー・ウォーリー?〜きっとうまくいく
本当の君
ディスポーザブル・ラヴ
グラス
ドリップ・ドライ・アイズ
サヨナラ
回想
H ※Fade Out
スポーツマン ※Fade Out
予感
イッツ・オール・トゥー・マッチ
キュー
※1982/07/26@東京厚生年金会館大ホール

1982/09/18 映画『夏の秘密』(川上裕通監督)公開。
主題歌(パンジー「ナイトトレイン・美少女」)作曲
※編注:パンジー(北原佐和子、真鍋ちえみ、三井比佐子)が3人で歌う「ナイ トトレイン・美少女」はディスク化されておらず、この映画のエンド・ロールでしか聴けない。また、ヴォーカル・トラックを抜いたインストゥルメンタル・ バージョン(これも未ディスク化)が劇伴として使用されている。

1982/09/20 『サウンドール』10月号(学習研究社)発売。
イラスト/Gallery HOSONO
コメント/新レーベル"MEDIUM"が、YENの中に誕生。
コメント/お知らせしまーす。シーナがソロ・アルバムをネッ!

1982/09/20 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」8

1982/09/21 サンディー&サンセッツ『イミグランツ』発売。
じんじろげ〜チャンコ・ファンク:bass
イリュージョン:bass

1982/09/22 前田祥丈のインタビュー取材を受ける。箱根湯本。

※編注:『サウンドール』11月号(10月20日発売)に掲載。

1982/09 シーナのレコーディング開始。音羽/LDKスタジオ。

「本当は9月頭からレコーディングに入る予定だったんだけど、下旬からにしてもらったんだ」(64)
「やっぱりシーナはメチャクチャ"火の玉ガール"だからね。こっちもエネルギーがなくちゃいいレコード作れないでしょ。だから、エネルギーをたくわえるためにお休みをもらったわけ」(64)

1982/09/27 松本隆と対談。

※編注:『スタジオ・ボイス』12月号(10月27日発売)に掲載。

1982/09/27 秋山道男・伊武雅刀と音版ビックリハウスのミーティング。渋谷。

1982/10/01 真鍋ちえみ「ナイトトレイン・美少女/ロマンチスト」発売。
ナイトトレイン・美少女:compose
ナイトトレイン・美少女
「4拍目にビートが来る、なんかマイアミサウンドみたいだな。このパターンはこの頃によく使ってた。この曲は好きだな。やっぱりアレンジは人にやってもらったほうがいい(笑)」
(15)

1982/10/01 『FMスペシャル』取材。

※編注:詳細不明。

1982/10/02 18:00 NHK総合『人形劇 三国志』放送開始。
主題曲作曲・作詞
「当時ぼくはYMOというグループにいましたが、その人気というか旋風に巻き 込まれて疲労していた頃です。そんな時に何の脈絡もなく突然依頼されたのがテレビの人形劇のテーマ音楽でした。それが『三国志』です。歌謡曲は時々頼まれ ることもありましたが、テレビの、それも人形劇というのは珍しかったのです。そんなことで興味が湧き、担当の方にお会いして話を伺い、割と早く音が出来た 記憶があります。」(65)
「ドラマのテーマ音楽というものは、その内容に深く感情移入して作ることもひとつの方法ですが、逆に漠然とした距離感を保ったまま、思いつきで作ることも良い方法で、ぼくは概ね後者のやり方を好みます。」
(65)
「人形劇『三国志』の場合もそうでした。」(65)
「それにしても何故ぼくがこのテーマ音楽を頼まれたのか、その選択理由はなんだったのでしょう。思うに、おそらくそれもぼくと同じような『思いつき』だったのだろうと推測します。」(65)

※編注:オープニング曲と、小池玉緒が歌うエンディング曲を担当。両曲のカップリングで11月21日にシングル・リリースされた。

1982/10/04 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」9

1982/10/07 秋山道男による「だって、ホルモンラブ」の歌詞が完成。

1982/10/07 音版ビックリハウスのレコーディング。
ビックリパーティーのテーマ/all instruments(高橋幸宏)、Emulator(細野晴臣)

1982/10/12 池袋/西武百貨店池袋店8階 スタジオ200に出演。

※編注:詳細不明。YMOファンクラブ会報『Me & Her』No.11には「細野DAY」と告知されている。

1982/10/12 音版ビックリハウスのレコーディング。
ビックリパーティーのテーマ/mix

1982/10/14 「だって、ホルモンラブ」のデモ完成。
※編注:細野晴臣による仮歌入り。後年、小林克也のAMラジオ番組(放送年月日・番組名は不明)にゲスト出演した際に放送された。

1982/10/14 フジテレビ『LA PORT』収録。

※編注:放送日不明。

1982/10/17 18:00〜翌1:00 YMO、ミーティング。芝浦/スタジオ'A'。この頃、YMOの「散開」が決まる。

「(編注:YMOを)発作的にやめようということになった後に、レコード会社やマネジメント・サイドの都合もあるということで、少し延びたんです」(18)
「最初の3年が、思ったより自分にもメンバーにも、または聞く人にも影響があったんで、じゃあ3年終わったからといってかたづけるんじゃなくて、まだなんかもっとできるエネルギーがある」
(66)
「ソロの活動が活発になってきて、みんなポップな方向に向いはじめたというか」(12)
「本来は、ソロっていうのは、実験をどんどんやっていって、YMOにそれを利用するというコンセプトがあったのに、それが逆になって。YMOで実験したこ とを、ソロに応用しているっていうような。そういう状態を一度元に戻そうという気持もあって、そういう意味でピリオドをうった。もちろん、やめた、という 訳じゃなくて」
(12)
「半年間休んでなんか考えようということがあって」(66)
「あのまんまやってると、YMOっていうものが大きくなってひとり歩きしてるから、メンバーが引きずられて疲れはてちゃう。そういう時期にちょうど休みになって、じゃあ次に何やろうかっていう段階」(66)
「当時は、資生堂とかカネボウがコマーシャル・ソングっていう分野でヒット曲を作っていた時代で、『赤道小町(ドキッ!)』もそうだし、矢野顕子の『春咲小紅』とかそういう流れがあったところに、今度はYMOだっていう」
(28)
「企画が先行」
(67)
「それを売るためにアルバムを出したようなものだね(笑)」
(21)
「『解散』と言わずに『散開』といおうとか、いろいろそこで計画を立てて、最後にもう一つ、遊んで終わらせようと。そのころは、だから、わりと冷静になっていて楽しんでいた」
(18)
「かなり醒めてて、また何か遊びに戻ったところがありますね」
(28)
「とてもニュートラルな状態になっていた、というふうにも言えますね。そういう意味では、責任感から解放されてるっていうのがあります」(28)
 「すごくいい状態」(66)
「ソロも出したこともあって、自分に戻る感じにもなっていたんだね」(21)
「みんなそれぞれソロをやってるでしょ。そうすると、みんな音楽への取り組み方って前と一緒なんだよ」
(66)
「ひとりになるとみんなマニアックな部分が出ちゃう」(66)
「みんなYMO休んでソロで長い間やってると、またそういうことに気がつくわけ。結局、自分は好きなことやってるけど、変わってないって」
(66)
「ということは、やっぱりYMOが必要なんだなってわかるんだ」(66)
「自分の中にあっても、ひとりでは出せない部分てあるじゃない。みんな出しおしみしてる(笑)」(66)
「それを全開するとすごいパワーになるのに、全開するチャンスがないんだ」(66)
「センを開けるとワッと出てきちゃうようなね。どうしても自分ひとりだと、ホラ、カッコいい音楽ばっかりやりたがるから」(66)
「というようなことを全部忘れて」(66)
「考えないで」(66)
「作りたいんだ」(66)
「きっかけはどうしても音だね」(66)
「実際リアルな問題だから、音だから」(66)
「誰かいるんだったら、他人にまかせるとかね、そういう要素が強くなってくるんだ。彫刻みたいなね、みんなで作る」
(34)
「一応原型だけ作って。で、誰も出さなきゃ自分で作る」(34)
「3人とも強いからさ、お互いに遠慮しあってるとこもあるし、尊敬しあってるというか、ハハハ」(34)
「だから、ひとりがいい曲書いてくると、みんな発奮していい曲描こうっていう気になるみたい。また、それがないと乗ってこないね」(34)
「(編注:ミーティングでは)出てこないね。なんかわかった気になるだけで」(66)
「なるべく僕らは自然に出てきたものを表現できたらいいと思っているんで、とりたてて細かいことは話し合わなかったんですけど」
(68)
「30分ほどで終わっちゃうけどね(笑)」(20)
「取り決めはね、かわいくということだけ、ハハハ」(34)
「方向としては"キュートなもの"でいこうということになって」(68)
「キーワードを"キュート"、色でいえば"パステル・カラー"にしたんです」
(69)
「ああでもないこうでもないと喋ってた中から生まれてきたんです」
(28)
「YMOってのは、キュートだと言われたことがある。自分たちでは意識してなかったけど、外国でそういう表現されたことがあった」
(20)
「デビュー当時の外国の評価には"キュート"という表現が多かったんですよ。そういう面って確かにあると思うし」(70)
「そこをちょっと見直してみたらどうだろうということで取りかかった。もう少し、可愛くいこうということでね、はじめたんです」
(20)
「『テクノデリック』では、キュートな部分を全く隠しちゃって、コワモテの音を作ったんですけど、皆に暗いといわれましてね。別に暗いのは嫌いでもないんだけど」(68)
「自分たちなりに、強面の音楽だという解釈があって、それはもうやりたくないという気持ちがあった」(20)
「暗い曲を書く気がしなくて。といって、バカみたいに明るいかというと、根本的なところで時代を反映しているから、そうできない部分もあったりして…」(68)
「時代は明るくないから。で、前回出しおしみした"キュートさ"を前面に押し出してみようと」(68)
「まあ、せいぜいかわいくと思ってないとという、心がけみたいなもんで…」(34)

高橋幸宏の証言
「覚えてますね、なんとなく」
(28)
「とりあえずカネボウのタイアップの話があって急遽呼ばれて」
(28)
「それを作る以上はアルバムも作らなきゃいけないかなっていう感じだったと思います」(28)
「とにかくレコード会社の意向でしたね」(28)
「何ていうか、コミュニケーションっていうか、何もいわなくてもわかる良さっていうのかな。もちろん、信頼関係とか尊敬しあっているというのも大げさに言 えばあるんだけど、他に面白い人がいないせいが一番大きいんじゃない。皆、好奇心ていうんじゃなくて、性(さが)みたいに何かを求めるってところがあっ て、教授なんか歌謡曲とか加藤登紀子さんみたいなのやったりとかね、ぼくも向こうのミュージシャンとやってたし。でも、しばらくすると、また3人でやりた くなる」(68)
「レコーディングが始まる前に話し合いがあったんだけど、30歳過ぎた男が頭突き合わせて真剣に夜中まで討論してるわけ。何かすごく学生っぽくて、マジメなんだよね。そのマジのなり方がYMOの場合、重いの」(68)
「当時、細野さんの意見として、YMOって結局、実験の場になってしまってる。みんなソロ・アルバムのほうで売れようとポップなことをやってる。それは正 しい姿じゃないっていうのがあったんです。ソロで実験的なことをやって、YMOは売れるものを作るべきだっていう細野さんの言葉に、なるほどと思ったんで す。じゃあ、次のYMOはポップな売れるアルバムにしようとみんなで決意したんです」
(71)
「強い思い入れとか、どろどろした部分とかいうのは『BGM』、『テクノデリック』あたりでひと区切りついたと思うんだよね。だから、今度は、そういうのをできるだけふっ切って、ポップに、お祭りっぽく、明るくやりたいと」
(70)

坂本龍一の証言
「いよいよ最後っていう感じは、『浮気なぼくら』のレコーディングの最初からあったと思うんです。はしゃぐ感じで」
(28)
「それまで解体とか脱構築みたいなことばかり考えていたから、もう一回、音楽の豊かさのようなものに戻りつつあったのかもしれませんね」
(28)

近藤雅信の証言
「カネボウのCM曲に決まった瞬間から、じゃあその状況を楽しもうっていうふうにモードが切り替わったんでしょうね」
(24)

小尾一介の証言
「それまでカネボウとはサーカスの曲が使われたりしててつきあいはあったんですよ。あのとき、そろそろアルファからまた使う? みたいな話になって、ならばYMOはどうですか? って提案したんです。どうだ!って感じで」
(24)
「みんなでシングルチャートを当てにいこうっていう意識がありましたね。それまで"ライディーン"のシングルとかもヒットはしていたけれど、YMOにとってはわりと日本のシングル・チャートって眼中になかったじゃないですか」
(24)
「カネボウのCMソングにタイアップが決まったということもあって、ここはひとつシングルをヒットさせて、『トップテン』や『ベストテン』にも出てやろうっていう勢いが出てきた」(24)
「82年の1年間を休んでいるうちに3人にとってはYMOっていうのが一種の劇団のような、ちょっと非日常的な存在 というか、自分個人の音楽活動とはちょっと切り離して見ることのできる存在になってたんでしょうね。そこに僕らがシングルを1位にしましょう! いっぱい露出をしましょう! そう持ちかけたわけです。最初はね、僕らもYMOでこんなことしていいのかなって気はしないでもなかったんだけど、メンバーの人たちはすぐ乗り気になって くれましたね」(24)
「それからしばらく後ですね。村井さんからもう解散ということにしたほうがいいんじゃないの?っていう提案があって、あっという間に解散ということになっちゃった」(24)
「まったく知りませんでした。考えてもいなかった」(24)
「細野さんはちょっとさみしそうだったなあ」(24)

村井邦彦の証言
「会社全体とかみんなが、もっとコマーシャルな路線に戻そうってことで、『君に、胸キュン。』とかやってたんじゃないのかな」
(59)
「ますますわけのわからないほうに行ってるし、メンバーはケンカしてるし、それぞれに事務所があってマネジャーも三人三様でいろいろ言うと。それを見てて、これ以上グシャグシャやってもしようがない。それでみんなを呼んで、もうやめようとね」
(59)
「このままYMOをやってたってしょうがないでしょう、って、YMOの解散を奨めたの」(72)
「もう解散だって」(59)
「頭にきちゃったんだね」(59)
「同時に"散開"って言葉も提示した。"散開"っていうのは、僕が考えたんだ。それはYMOの歴史の教科書にちゃんと残しておいてほしい(笑)」(72)
「YMOの難しいところは、日本で売れることは売れているんだけど、メンバー三人のマネージャーが全員ちがってて、 それぞれが目指す方向もバラバラになりがちだったんです。そんな彼らを無理にまとめて、"君たち一緒にやり続けろ"って言うよりも、いったん散ってひろが れ、と。解散じゃなく、軍事用語の散らばるという意味の"散開"をしたらどうだ、またこれはミュージシャンが昔よく使っていた反対言葉、かいさんの反対が さんかいというしゃれでもあるのですよ。このあたりでYMOという集団じゃなく、ひとりひとりで活動してみるのもいいんじゃないかって提案したんだよ。ま た機会があれば一緒にやればいいじゃないかって」(72)
「雰囲気としては、メンバーみんな、僕のそういう提案を待ってたんじゃないかと思った。誰かに解散しろと言ってほしかったんだと思う」(72)
「細野なんて、僕が言ったんでホッとしたんじゃないかな。やめたいんだと思うけど、やっぱり自分からは言えないってね」(59)

1982/10/18 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
インタビュー/特別拡大版 細野晴臣の"なんとも"まったくアレなのよ

1982/10/18 音版ビックリハウスのレコーディング。
だって、ホルモンラブ/all instruments(細野晴臣)

1982/10/19 音版ビックリハウスのレコーディング。
だって、ホルモンラブ/vocal(伊武雅刀)、mix

1982/10/20 『サウンドール』11月号(学習研究社)発売。
インタビュー/気持がいいから哲学までしてしまいそう。

1982/10/21 テストパターン『アプレ・ミディ』発売。
produce
 ビーチ・ガール:arrangement
「彼ら2人組はグラフィックな視点を持つ音楽家である。いや音楽家であって欲 しくはない。いつまでも新鮮な音を提供して欲しいということでもある。又、彼らは先鋭的なクリスタル・ジェネレーションでもある。全て心地良いものを感覚 の二進法が選び、選び、選び抜いた地点が音楽の、しかもテクノ・ミュージックであった。」(73)
「縁あってYENレーベルがこの様なレコードをつくることになるのである。彼 らの音楽はテクノという側面ではYMOよりマニアックであり、より音を楽しむ余裕があり、病的にいそがしい職業音楽家たちの忘れている音楽を提供してくれ る。」(73)
「大好きだった」
(54)

比留間雅夫の証言
「顔見せというか、包装紙といいましょうか。もしくは一曲目という感じです」
(74)
「細野さんと相談しまして、最初はごく分かりやすいやつで、まず伝えたいことを伝えようというか、伝えたいというか、まずテストパターンというグループがいるんだということを、多くの人にわかってほしいという気持ちで作ったんです」
(75)
「やっぱり欲っていうんでしょうかね、より多くの人にテストパターンというグループを知っていただきたいというか、好かれたかったっていうか」
(74)
「まずは関心持ってもらわないと」(74)
「シロートだから、スタジオでレコードを作るのがどういうことなのかナっていうのが、ひと通りわかったっていう感じですね」(74)
「ひとつひとつの曲について言えば、軟弱っていうか、クリスタルっぽい部分が緩和されて、湿っぽい部分やあまりに感傷的なものは排除されて、もうちょっと固いというか、りりしいものになったのかな?」(74)
「編曲というか曲のやり方はスタジオで大分変えて全体に堅くしてあるんです」(75)
「それでもまだクリスタル・ジェネレーションの体質が抜けなくて、細野さんはアキれたんじゃないでしょうか」(74)
 クレッセント・ナイト
「自分たちで作ったデモ
テープはめちゃくちゃ甘かったんですけど、元の音域をやわらかくして高音をカットして、フィードバックするエコーをビンビンにきかして、クールに、耳元で直接、鳴っているようなドライな感じ」(75)

1982/10/21 インテリア『インテリア』発売。MEDIUMレーベル第1弾。
produce
「YENの中に"環境音楽"を中心にしたレーベルを作ることにしたわけ」(60)
「第1回発売」
(60)
「どうしてインテリアになったかっていうと、偶然なんだよネ。こういう音楽をやる人って探そうと思ってもいないし、だから、ふさわしいものができたときに出していこうと」(60)
「こういう音楽って、決めて作っていくものじゃなくて、ハジケるもんなんだよね。だから、ハジケた時にこのレーベルで出していく。いってみれば"半透膜"みたいなレーベルなんだね」(60)

野中英紀の証言
「YENの頃はアーティストにとって最も幸福な時代でした。LDKは時間に追われずに納得するまで音作りに没頭できる、本当に自由で贅沢な空間でした」
(23)

1982/10/23 18:00〜22:00 YMO、レコーディング。ビル・ネルソンとミーティング。芝浦/スタジオ'A'。
希望の河
「(編注:レコーディング期間の)前半はねえ、何が始まったかゼンゼン、みんなわかんなかったんだ。ひとりひとりでやってたから、バラバラに」(34)
「とくに、ぼくなんかいちばん最後にスタジオに入ったのね。ずっとシーナのソロ・アルバムをやってたから」(34)

高橋幸宏の証言
「レコーディングは、まず初めに3人それぞれがベーシックなものを作り、ある程度できあがった段階で、とっかえひっかえになるわけ。これに何か入れてよっていう感じで。これは信頼関係がないとなかなかできないことだよ」(70)
「皆、自我が強い方で、人に説明してやってもらうくらいなら自分でやった方が絶対にイイと思ってる連中だから
…」(68)
「この3人だったら自分でやるよりも、もしかしておもしろいものができるかもしれないという期待が持てるからこそ、できることであってね
…」(70)
「僕が『希望の河』をチャチャチャって弾いて、そこから初めたのを覚えていますね。じゃないと、いつまでたっても2人とも何も言わないから。そしたら細野さん、『あっ、それは地中海サウンドだよ』とか言って(笑)」(28)
「ビルとのつき合いは、彼のアルバムのドラムを頼まれたのがきっかけ」
(70)
「僕のソロ・アルバムで、ギターをやってもらったんだ。で、意気投合しちゃった」
(70)
「一緒にやっているうちに、やりたいこと、目指すものが、僕と非常によく似ているのがわかってきたんだ」(70)
「完全に一致するわけではないにせよ、僕と共通する部分が、すごくあるわけ。音色や声質の選択の仕方とかの、ハードの面でもそうだし、歌詞のコンセプトや考え方、ヴォーカルのとりかたなどのソフトの部分でもそう」(70)
「で、細野さんなんかとも相談して、頼もうってことに」(68)
「なんか新しいことがないとつまんないというか、みんながやる気にならないかなあと思って、ビルのギターを入れてみようかって」(28)
「細野さんと教授は、ビルのことを特に知っていたというわけじゃなかった。でも、僕が『一緒にやりたいんだけど
』という感じで相談をもちかけたら、すんなり『いいんじゃない』って(笑)。わりと軽く決まっちゃうんだ、そういう話は」(70)

ビル・ネルソンの証言
「来た時にはね、最初からもっとビッシリ仕事に入るんだと思ってたけど、そういうやり方じゃなかったね」
(34)

坂本龍一の証言
「(編注:ビル・ネルソンは)幸宏が仲良かったんだよね、幸宏のソロで知り合って」
(28)
「いいじゃないって。外国人への憧れもあるし」
(28)
「彼のE-BOWはすごく好きだったですね」(28)

小池光夫の証言
「『浮気なぼくら』でまたデジタルに戻ったんです。だからこのアルバムもマルチがもうない。トラック・シートも一部しか残っていないんです」
(76)
「なんでここでデジタルに戻ったかというと、たしか、教授がデジタルの音が好きだったからじゃなかったかなあ」
(76)
「坂本さんがどちらかというとデジタル好きなんですよ。それが少し関係してるのかもしれません。まあ、デジタルかアナログかということは、現場での僕自身はそんなには意識していなかったですね」(77)
「ここでまた『テクノデリック』とはがらりとレコーディングの仕方が変わるんですけど、変わること自体には苦労を感 じることはないんです。苦労はスタジオでメンバーが来るのを待ったり、曲が出来るのを待ったりする時間の方が…(笑)。このときはもう散開は決まっていた んですけど、スタジオの中ではとくにそういう雰囲気はなかったですね。そもそもこのレコーディングのときはメンバーの3人が揃うことはめったになくて、各 曲のレコーディングに関して申し送りノートがあった」(76)
「二人か一人が来て作業をして、次に来るメンバーのために申し送り事項を書き残して」(77)
「次にまたべつのメンバーが」(76)
「というようなやり方が多かったと思います」
(77)

※編注:アルバム『浮気なぼくら』。「希望の河」のレコーディングはこの日に先立って10月20日から始まり、22日にも行われているが、両日とも細野晴臣は不参加。

1982/10/23 ビル・ネルソン歓迎会。代官山/スワミー。

1982/10/26 『音楽専科』取材。

※編注:詳細不明。

1982/10/27 『スタジオ・ボイス』12月号(流行通信)発売。
対談「はっぴいえんど対談」1/今だから話せる僕たちの"明るい過去" 細野晴臣 × 松本隆

1982/10/27 『ビッグコミック』取材。

※編注:詳細不明。

1982/10/28 日本テレビ『モーニングサラダ』収録。

※編注:毎週土曜日の朝7時から45分枠で放送されていた、西城秀樹司会の若者向け情報番組。放送日は不明。

1982/11/01 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」10

1982/11/01 伊武雅刀と対談。渋谷/聚楽。

※編注:『ビックリハウス』1月号(12月10日発売)に掲載。

1982/11/02 『カレンダー』のインタビュー取材を受ける。

※編注:12月号(11月20日発売)掲載。

1982/11/05 19:00 モダン・コレクション VOL.2『YEN Records presents Interior』ゲスト出演。渋谷/パルコ・パート3 スペース・パート3。
インテリア 沢村満(sax, kbd, perc)、野中英紀(g)、日向大介(kbd)、別当司(ds)、細野晴臣(kbd)
 曲目不明

1982/11/06 18:00〜翌3:00 YMO、レコーディング。ビル・ネルソンが見学。芝浦/スタジオ'A'。

1982/11/07 19:00 モダン・コレクション VOL.2『HI-TECH・HI-TOUCHへの夢』ゲスト出演。渋谷/パルコ・パート3 スペース・パート3。
立花ハジメ・オーケストラ 立花ハジメ、沢村満、ロビン・トンプソン、矢口博康、永田どんべい、鈴木さえ子、細野晴臣、原マサシ 他
 曲目不明

1982/11/08 18:00〜24:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ロータス・ラブ/ガイド入れ

1982/11/09 18:00〜23:00 YMO、レコーディング。途中、遠藤賢司とミーティング。芝浦/スタジオ'A'。
ロータス・ラブ/仮コード、仮メロディー

1982/11/10 松田聖子『キャンディ』発売。
ブルージュの鐘:compose
黄色いカーディガン:compose
「(編注:松本隆が)いよいよ、松田聖子の仕事を持ってきたんです」(37)
「テストケース。試されたんですね」
(15)
「まあ何がなんだかわかんないけど」
(78)
「やるしかないなっていう。頼まれたらね」
(78)
「ちょっと気軽だったのはもう既に、松田聖子っていう人はもう、売れてたんで、そういうことを考えないでも、いいなという」(79)
「(編注:アレンジは)当時、松田聖子といえば大村(編注:雅朗)さんと決まっていた」
(15)

黄色いカーディガン
「すごい、印象的だな」
(79)
「ちょっとクラシカルな、うーメロディーっていうのは、作ろうかなと思ってて」(38)
モーツァルトみたいなね」(38)
「ぼくはデモテープを自分で歌ってて、なんかこう、『王子様よっ』みたいに歌ってたのを、まぁ、松田聖子さんに聴かれてしまいましたね」(37)

松本隆の証言
「松田聖子のデビュー曲『裸足の季節』を聴いた時に、この人の声と僕の詞は合うなと思ったけど、そのうち他の人の作品でバンバンヒットしちゃったから、僕 の出番はないなと思っていたんだ。ところが、やりませんかって誘われた。その時は歌の年齢を少し上げたいという話だった。ちょうど彼女の喉の調子が悪く なった時で、手術して声が変わっちゃうから、今までにないものを歌わせたいと。それには細野さんのような人が必要だったんだ」
(15)
「直感的なものだよね。まあ、当時のディレクターやってた若松さんて人がさ、わりと、なんて言うのかな…天性の、なんか、センス、みたいなの、持ってた人でさ、ぼくが細野さんとやりたいと言うと、普通の、ディレクターだとさ、『うーん』て言うかもしれないんだけど(笑)」(78)
「若松さんはわりとね、『ああ面白いですね』って言うのね。で、そういう、理解者がいたから、ぼくは、あのーできたんだと思うな」(78)
「『やってよ』って言っただけ。そしたら、『うん、いいよ』って(笑)。あとはすべて詞に託すだけ。彼は、松本隆の詞を一番深く理解しているから説明がいらないんだ」(15)
「まあ、挑戦ではあったよね」(78)

松田聖子の証言
「歌ってくださってたんです」
(80)
「それが最っ高にかわいくておかしくてね、よかったです」
(80)

1982/11/12 18:00〜翌2:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
フォーカス/ガイド入れ、Linn Drum

1982/11/13 18:00〜23:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ロータス・ラブ/synthesizer(細野晴臣)
フォーカス/synthesizer(細野晴臣)

1982/11/15 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」11

1982/11/15 17:00〜翌4:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

1982/11/16 イモ欽トリオ「ティーンエイジ・イーグルス」を徹夜で作曲。

「バブルガム・ミュージックを思い出しながら。そういう曲作りたかった」(15)

1982/11/16 18:00〜翌2:00 YMO、レコーディング。ビル・ネルソンが参加。芝浦/スタジオ'A'。

1982/11/17 イモ欽トリオ「ティーンエイジ・イーグルス」の譜面を書く。

「(編注:アレンジは)全くおまかせです。僕はメロディとコードだけ」(15)

1982/11/17 18:00〜24:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

1982/11/18 18:00〜翌3:00 YMO、レコーディング。鮎川誠とシーナが来訪。芝浦/スタジオ'A'。

1982/11/19 18:00〜翌2:00 YMO、レコーディング。シーラ・ロック、宮下智らが来訪。芝浦/スタジオ'A'。

1982/11/20 『ビックリハウス ライブ 珍芸、自慢芸』で審査員。有楽町/ニッポン放送 ラジオハウス銀河。
司会:立花ハジメ、高橋章子
審査員:糸井重里、小林のり一、鈴木慶一、高橋幸宏
マスコットボーイ:渡辺和博
ゲスト:南伸坊
※編注:イベントの模様は翌1983年1月2日未明にニッポン放送で放送された。

1982/11/21 「三国志」発売。
三国志メイン・テーマ:compose, arrangement, all instruments
三国志ラヴ・テーマ:compose, words, arrangement, all instruments
三国志メイン・テーマ
「音はYMOサウンドだけれど『フィルハーモニー』の気分に近かったね、自動筆記状態でさ。日本神話、神道的な世界。確かにそうだ。自動筆記っていうの は、仏教じゃないから。神懸かりというか。そういうことに没頭していたのは確かだね。この頃に、変わってきているんだ」
(21)

三国志ラヴ・テーマ
「嫌いじゃないんですけどね。ちょっと恥ずかしい感じはあるんだよね、自分では」
(15)
「ミスマッチだったと思うことがあるんです。しかし結果的には良いミスマッチだったのかもしれません。」
(64)
「この歌を好む人が多いからです。」(65)
「聴いている人がいかに多いかは知らされている」
(15)
「やけに人気がある」
(21)

1982/11/21 メロン『ドゥ・ユー・ライク・ジャパン?』発売。
ハニー・デュー:bass
ミリオン・イヤーズ・ピクニック:bass
(ドント・ウォリー・アバウト)アフター・デス:bass
中西俊夫の証言
 
(ドント・ウォリー・アバウト)アフター・デス
「細野さんに『ここはティナ(・ウェイマウス - トムトム・クラブ)みたいな、高域にスライドする跳ねるようなベースが欲しいんだけどな』と言ったら、『じゃ、ティナに頼めば?』と言われた。」(42)
「そりゃ失礼な話だよね、天下の細野さんにティナみたいに弾けっていう…
…。」(42)
「でも、僕は曲が何を欲しがってるか?に重きを置いてたので、『うん、分かった。ティナに聞いてみる』と言って実際にコンタクト取ってみたんだが、トムトムの仕事が忙しくて他のセッションどころじゃないと断られてしまった。」(42)

1982/11/22 『カレンダー』12月号(ぴあ)発売。
コメント/日本に夢中 住みつくというウワサのJAPAN
インタビュー/影響はひとつのエネルギー。受けたら与え返すのだ
※編注:発言の内容から、細野晴臣は取材日(11月2日)の時点では、12月8日のジャパン日本武道館公演に出演予定だったことがわかる。実際の公演には坂本龍一、高橋幸宏、矢野顕子がゲスト出演したが、細野は不参加

1982/11/22 YMO、フジテレビ『ひょうきんスペシャル』ミーティング

「マンザイやった時に、『また何かやってみよう』という話しがあって、いつの間にか突然決まったの」
(81)

1982/11/24 YMO、ジャケット撮影

「『テクノデリック』までは、化粧だらけでなんか重いものがあって、自分でもヘヴィになっていたんです。疲れちゃったわけですね、『テクノデリック』的な見せ方に。その反動だと思うんですけどね、このパステルっていうのは」
(28)

1982/11/25 エスケンのレコーディング。音羽/LDKスタジオ。

※編注:アルバム『ギャング・バスターズ』のレコーディング。レコーディング全体は10月29 日〜12月7日にわたり行われているが、この日以外の細野晴臣の参加日は特定できない。完成したアルバムで細野は2曲のアレンジと演奏を担当、また、全体 のサウンド・コーディネーターとしてもクレジットされている。

1982/11/25 『サウンドール』のインタビュー取材を受ける。

※編注:1月号(12月20日発売)に掲載。

1982/11/25 松本隆と対談。

※編注:『Player THE SPECIAL 1968-1983』(1983年1月発売)に掲載。

1982/11/26 18:00〜翌1:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
カオス・パニック/ガイド入れ、コード、仮メロディー

1982/11/27 18:00〜翌1:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

1982/11/28 18:00〜翌3:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

1982/12/02 18:00〜翌3:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
以心電信/ガイド入れ、コード、仮メロディー

1982/12/03 YMO、フジテレビ『ひょうきんスペシャル』かつら合わせ

「かつらも初めてだったの」
(81)
「かつらは痛いね」
(81)

1982/12/03 18:00〜翌2:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

1982/12/04 18:00〜翌2:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ワイルド・アンビションズ/ガイド入れ、仮コード

1982/12/05 イエロー・マジック・オーケストラのビデオ・ソフト『イエロー・マジック・オーケストラ』発売。
東風:bass
コズミック・サーフィン:synthesizer
千のナイフ:synthesizer
※1979/08/04@グリーク・シアター

1982/12/05 山田邦子「哲学しよう」発売。
哲学しよう:compose, arrangement, synthesizer, bass
哲学しよう(Viens Philosopher):compose, arrangement, synthesizer, bass
哲学しよう
ヘヴン17を、思い起こすような曲」
(37)
「当時、よく聴いてたんで。曲というよりも、音の響きがそっくり。重いダークなサウンドで、イミュレーターを駆使してやってました」
(15)

1982/12/05 山田邦子『贅沢者』発売。
哲学しよう:compose, arrangement, synthesizer, bass
※編注:ロング・バージョン。

1982/12/06 18:30 ゲルニカ『秋の大興行 〜歌いて止まぬ〜』出演予定をキャンセル。謝罪のコメント音声が流される。水道橋/労音会館ホール。

※編注:チケットには「お話し:細野晴臣」と記載されていた。

1982/12 YMO、フジテレビ『ひょうきんスペシャル』収録

「すごくイヤだった。辛かった」
(81)
「殺陣なんかも初めてやったんだけど、気持ちよかった」
(81)

※編注:1983年1月1日放送。

1982/12/10 『ビックリハウス』1月号(パルコ出版)発売。
対談/ホソノ・イブの おめでとう!!1983年 細野晴臣 × 伊武雅刀

1982/12/13 18:00〜翌1:00 YMO、レコーディング。作詞を開始。芝浦/スタジオ'A'。

「(編注:作詞は)曲と同じくらいはかかるね。物によっても違うけど、とにかくスケジュール内には収まるよ」
(67)
「もちろん、できそうだと思うから作るんだけど、わりとルーズに考えてるから。できなかったらインストゥルメンタルにしちゃえとかね」(67)
「日本語の詞を作るのがいちばんむつかしいのね、やっぱり。どうしても新しいものっていうのが作りにくいんだよね、日本語では。だから、それができなきゃ英語でやっちゃえということになる」(67)
「『テクノデリック』の時にも日本語の詞は考えたけど、ほとんどできなかった」(67)
「そこに行きたかったんだよね、本当は最初から。でも、できるまではやんなかっただけでね」(67)
「何を言いたいかっていうのはあんまりないんだけどね」(67)

1982/12/14 18:00〜翌2:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

1982/12/15 『朝日新聞/HOT VOICE』取材。

※編注:詳細不明。連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」の原稿〆切か。

1982/12/15 『カセットライフ』取材。

※編注:詳細不明。

1982/12/15 18:00〜翌3:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

1982/12/16 V.A.『音版ビックリハウス ウルトラサイケ・ビックリパーティーの巻』発売。
ビックリパーティーのテーマ:Emulator
だって、ホルモンラブ:compose, arrangement, all instruments

1982/12/16 シーナ『いつだってビューティフル』発売。
produce, remix
 ボン・トン・ルーレ:arrangement, keyboards
 ワイ ワイ ワイ:
compose, arrangement, bass, keyboards, programming, chorus
 コワレモノ:
bass
 浮かびのピーチガール:
arrangement, bass, keyboards
 ビューティフル:
arrangement, keyboards
 ヨー・ヨー・ユー:
keyboards
 ヘルプ・ミー:
keyboards
 シャネルの5番のオン・ザ・ロック:
keyboards
「LDKスタジオで全曲作ったという印象がありますね。当時はすごく忙しくて。アルバム全曲付き合うのは大変だったという記憶がある」(15)

ワイ ワイ ワイ
「いい曲じゃない!」
(82)
「打ち込みで作ってます」(83)
「作詞が、コピーライターの仲畑貴志さん」(83)
「仲畑さんの詞もいいね」
(82)

シーナの証言
 ヘルプ・ミー
「言葉通りの意味よ。ソロってことに対して、心の準備も出来ていなかったし。ほんとにバンドが好きな時期だったのよ」
(84)
「このまま流されてっていいのでしょうか、みたいな不安があった」
(84)
「この曲は、LDKで録ったんじゃないよ。ビクターのスタジオ」
(84)
  シャネルの5番のオン・ザ・ロック
「別の詞が用意されとったんだけど、何故か合わなくて、歌いたくないって幸宏さんに言ったら、その気持ちわかるって。いいよ、好きなようにして、ってね」
(84)

鮎川誠の証言
「日本にこんなアルバムがある。これを知らんでどうする、ちゅう。音楽の『粋』も『ルーツ』も、ミュージシャンシップとプロダクション・ワークが遊びなが ら出てきて。こんな声で歌えるやつ、連れて来てみって。ある意味ではシーナ&ロケッツなんか、遥に超えとる。ちゅうか、テクノ・ポップと、オレたちが3年、4年演ってきたライヴ感のピーク」
(84)
「その後一般的になる『サンプリング』のサウンドが、まだ手探りで、だけど楽しみながら作れた、一番新鮮な時期のアルバムっちゅうことかな」(84)
「『ignore』(わざと無視された)と言うほど、ひがんではいないけれど、日本の『ベスト・ポップス』何百撰、 みたいな時に漏れがちやけど、『innocent』(純粋、無垢な)な人たちが作り上げた素晴らしい作品、と思う。手前味噌やろうけどさ。この中で、何曲 かロケッツが演らせてもらったのも、嬉しい」(84)
「オレの白いテレキャスターが大活躍したっちゅう」(84)
「『コワレモノ』と『 シャネルの5番のオン・ザ・ロック』は幸宏が曲を書いてきて、次にオケ、トラックを作って、詞を発注したんやけど、その詞がピンとこなくてさ。柴山さんの詞を適当にめくって。そしたら、元からそのために用意されたっちゅうげな、一体化した歌になった」(84)
「LDKっぽいサウンドなのは『ボン・トン・ルーレ』に『ワイワイワイ』よね」(84)
「細野さんのアレンジも強烈やった」(84)
「(編注:加藤和彦作曲、安井かずみ作詞のボツ曲は)ビートルズの『抱きしめたい』ばりのリフのあったカッコいい 曲!でもそれは、レコーディング終了時に、シーナのお腹も大きくなって、録音されないまま打ち切りになったんよ。結局『再現』できんやった。残念やったけ ど。その替わりに『ピーチガール』のリミックスが入ったんで、なんとかLPの体裁を保った、ちゅうとこやね」(84)
 ワイ ワイ ワイ
「どうしてこんないい曲ができるんだろう」
(82)
「クッキン、ロッキン、ダンシン、キッシン、っちゅうのを、オレたちが考えついたんよ。コード進行もカッコいいし。怪しげなエレクトロニクスの音と、細野さんのセカンド・ラインの結集」(84)
「これほんとに細野さん、だけで作ったね」
(82)
「この曲は、細野さんひとり」(82)
 コワレモノ
「歌ももちろんいいけれど」
(84)
「白井良明のギターもいい」(84)
 ヘルプ・ミー
「不思議な旋律に合った、あんな詞を(編注:シーナが)よく書いたもんだっち思うよ」
(84)
「ハジメの才能にも感心したし。矢口(博康)君とか、(ロビン・)トンプソンさんとか参加して、彼らのプレイのレベルの高さとか」(84)

1982/12/16 18:00〜翌2:00 YMO、レコーディング。唄入れと仮ミックス。村井邦彦が来訪。芝浦/スタジオ'A'。

1982/12/17 18:00〜翌1:00 YMO、レコーディング。唄入れと仮ミックス。立花ハジメが来訪。芝浦/スタジオ'A'。

1982/12/20 『サウンドール』1月号(学習研究社)発売。
インタビュー/近況報告

1982/12/20 『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)発行。
連載「細野晴臣の まったくアレなのよ」12

1982/12/20 『キーボード・マガジン』のインタビュー取材を受ける。

※編注:1983年3月号(1983年2月18日発売)に掲載。

1982/12/20 21:00〜翌3:00 YMO、レコーディング。銀座/音響ハウス 第3スタジオ。
音楽/vocal(YMO)、mix

1982/12/21 15:00〜20:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
フォーカス/vocal(細野晴臣)、chorus(高橋幸宏)

1982/12/21 21:00〜翌3:00 YMO、レコーディング。銀座/音響ハウス 第3スタジオ。
フォーカス/mix

1982/12/22 15:00〜20:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ロータス・ラブ/vocal(細野晴臣)

1982/12/22 21:00〜翌5:00 YMO、レコーディング。銀座/音響ハウス 第3スタジオ。
邂逅/mix
音楽/mix

1982/12/23 15:00〜20:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ロータス・ラブ/chorus(高橋幸宏)
ワイルド・アンビションズ/chorus

1982/12/23 20:00〜翌2:00 YMO、レコーディング。『キーボード・マガジン』の写真撮影が行われる。銀座/音響ハウス 第3スタジオ。
フォーカス/mix

1982/12/26 13:00〜17:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
希望の河:vocal(高橋幸宏)
オープンド・マイ・アイズ:vocal(高橋幸宏)

1982/12/26 18:00〜翌3:00 YMO、レコーディング。銀座/音響ハウス 第3スタジオ。
希望の河/mix
オープンド・マイ・アイズ/mix

1982/12/27 14:00〜17:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

1982/12/27 18:00〜24:00 YMO、レコーディング。銀座/音響ハウス 第3スタジオ。

1982/12/28 14:00〜20:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

1982/12/28 忘年会

1982/12/29 14:00〜20:00 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

1982/12/29 21:00〜翌1:00 サウンドール特別編集『YMO BOOK』撮影。

<出典>
(1)『音楽専科』6月号 音楽専科社/1982年
(2)『朝日新聞』5月17日付夕刊 朝日新聞社/1982年
(3)CD 細野晴臣『フィルハーモニー』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2005年
(4)『ミュージック・ステディ』4号 ステディ出版/1982年
(5)YMOファンクラブ会報『Me & Her』No.10 YMOファンクラブ/1982年
(6)『ロックマガジン』7月号 ロックマガジン社/1982年
(7)『サウンド&レコーディング・マガジン』6月号 リットーミュージック/1982年
(8)『キーボードランド』NO.6 リットーミュージック/1982年
(9)『YMMプレイヤー』4月号 プレイヤー・コーポレーション/1982年
(10)『プレイヤーズ・ハンドブック』 JICC出版局/1982年
(11)『サウンド&レコーディング・マガジン』4月号 リットーミュージック/2006年
(12)『ミュージック・マガジン』5月号 ミュージック・マガジン/1982年
(13)NHK-FM『サウンドストリート』 1982年5月18日
(14)鈴木惣一朗『細野晴臣 録音術』 DUブックス/2015年
(15)CD『細野晴臣の歌謡曲 20世紀ボックス』同梱ブックレット コロムビアミュージックエンタテインメント, デイジーワールド/2009年
(16)『サウンドール』4月号 学習研究社/1982年
(17)『バラエティ』5月号 角川書店/1982年
(18)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(19)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(20)『新譜ジャーナル』4月号 自由国民社/1983年
(21)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(22)田山三樹『アルファの宴』第12回(『レコード・コレクターズ』4月号) ミュージック・マガジン/2007年
(23)田山三樹『アルファの宴』第13回(『レコード・コレクターズ』5月号) ミュージック・マガジン/2007年
(24)『Weekly YMO Web magazine』No.08 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年8月4日
(25)田山三樹『アルファの宴』第15回(『レコード・コレクターズ』7月号) ミュージック・マガジン/2007年
(26)CD HARRY HOSONO & THE WORLD SHYNESS『FLYING SAUCER 1947』ライナー・ノーツ スピードスターレコーズ/2007年
(27)『サウンドール』5月号 学習研究社/1982年
(28)YMO読本『OMOYDE』 ソニー・ミュージックハウス, GT music/2003年
(29) 『話の特集』9月号 話の特集/1982年
(30)J-WAVE『Daisyworld』 2000年9月18日
(31)『サウンド&レコーディング・マガジン』5月号 リットーミュージック/2009年
(32)『サウンドール』6月号 学習研究社/1982年
(33)『CAMP・YEN』 アルファ・レコード/1982年
(34)『サウンドール』1月号 学習研究社/1983年
(35)『プレイガイドジャーナル』7月号 プレイガイドジャーナル社/1982年
(36)コイデヒロカズ編『テクノ歌謡マニアクス』 ブルース・インターアクションズ/2000年
(37)J-WAVE『Daisyworld』 2001年7月9日
(38)NHK-FM『サウンドストリート21』 2009年5月17日
(39)『Rio』1月号 シンコーミュージック/1984年
(40)『KAZEMACHI SONG BOOK』 2015年
(41)CD 『風街図鑑』風編ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/1999年
(42)『プラスチックスの上昇と下降、そしてメロンの理力(メジャー・フォース)・中西俊夫自伝』 K&Bパブリッシャーズ/2013年
(43)CD イエロー・マジック・オーケストラ『UC YMO』ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年
(44)DVD イエロー・マジック・オーケストラ『Visual YMO』 ソニー・ミュージックハウス/2003年
(45)細野晴臣『コインシデンタル・ミュージック』ライナー・ノーツ テイチク, モナド/1985年
(46)備酒元一郎編『ジャケット・デザイン・イン・ジャパン』 ミュージック・マガジン/2004年
(47)『ミュージック・ステディ』2月号 ステディ出版/1984年
(48)『レコード・コレクターズ』10月号 ミュージック・マガジン/2005年
(49)『CAMP・YEN』NO.1 アルファ・レコード/1982年
(50)『朝日新聞』6月21日付夕刊 朝日新聞社/1982年
(51)『サウンドール』9月号 学習研究社/1982年
(52CD ゲルニカ『IN MEMORIA FUTURI』ブックレット テイチクエンタテインメント, インペリアル・レコード/2002年
(53)CD 高橋幸宏『ホワットミー・ウォーリー?』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2005年
(54)J-WAVE『Daisyworld』 2000年8月7日
(55)『FMファン』8月16日号 共同通信社/1982年
(56)『ARENA37℃』10月号 音楽専科社/1982年
(57)NHK-FM『細野晴臣作曲講座』 1984年1月4日
(58)J-WAVE『Daisyworld』 2001年8月12日
(59)田中雄二『電子音楽イン・ ジャパン 1955〜1981』 アスペクト/1998年
(60)CD コスミック・インベンション『コンプリート・ベスト』ブックレット ビクターエンタテインメント/2011年
(61)『サウンドール』2月号 学習研究社/1983年
(62)Inter FM『Daisy Holiday !』 2012年1月16日
(63)FM東京『小室等の音楽夜話』 1984年6月11日
(64)
『サウンドール』10月号 学習研究社/1982年
(65)別冊太陽『川本喜八郎 人形 - この命あるもの』 平凡社/2007年
(66)『サウンドール』11月号 学習研究社/1982年
(67)『YMO BOOK』 学習研究社/1983年
(68)『キーボードランド』3月号 リットーミュージック/1983年
(69)『FMレコパル』4月11日号 小学館/1983年
(70)『キーボード・マガジン』3月号 リットーミュージック/1983年
(71)『コンパクトYMO』 徳間書店/1998年
(72)『Weekly YMO Web magazine』No.12 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年9月1日
(73)テストパターン『アプレ・ミディ』プレス・シート アルファ・レコード/1982年
(74)
『サウンドール』12月号 学習研究社/1982年
(75)『ロックマガジン』10月号 ロックマガジン社/1982年
(76)『Weekly YMO Web magazine』No.10 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年8月18日
(77)
『Weekly YMO Web magazine』No.06 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年7月21日
(78)NHK-FM『サウンドストリート21』 2009年5月24日
(79)
Inter FM 897『Daisy Holiday !』 2015年7月13日
(80)NHK-FM『サウンドストリート』 1983年1月18日
(81)『サウンドール』4月号 学習研究社/1983年
(82)
J-WAVE『Daisyworld』 1998年7月13日
(83)J-WAVE『Daisyworld』 2001年7月16日
(84)CD シーナ『いつだってビューティフル』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2006年
update:2020/05/08

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