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chronology 1981


1981/01/01 『スーパーアート・ゴクー』2月号(パルコ出版)発売。
選盤、インタビュー/JACKET SELECTION これからは、覚悟の時代だ


1981/01/08 13:15 テレビ朝日『徹子の部屋』放送。
司会:黒柳徹子
「YMOのひとりとして呼ばれたんだ」(1)
「一人だけ」
(2)


1981/01/09 『横尾忠則展覧会』トーク・イベントに出演。西武百貨店渋谷店B館8階特設会場。福沢もろと会う

横尾忠則の証言
「正月二日から渋谷西武で二十余年間に制作したデザイン、絵画、版画、ビデオなどほぼ全作品を展示するという大規模な個展を開催」(3)
「期間中対談や講演を行なった。」
(3)
「本日のゲストはYMOの細野晴臣君と高橋睦郎君。」
(4)
「イベンントハウスには店員100人をオーバーして300人も押し寄せる。本当に押し寄せるという感じであった。細野君が現れただけでも大変なところへ、 今度は飛び入りで糸井重里君。またまた熱気は一段と上がる。そこへまた飛び入り決定版があらわれた。西城秀樹君の出現である。キャー、という歓声。一度に ステージにお客が殺到。」
(4)

※編注:横尾・福沢それぞれとのスナップ写真が、YMO写真集『OMIYAGE』(小学館/1981年)に掲載されている。福沢との写真には細野によるキャプションも。


1981/01/15 YMO『BGM』レコーディング開始。芝浦/スタジオ'A'。

「テクノっていうのは、ソフトと両方の意味があるから、いわゆる"テクノ・ポップ"っていうとクラフトワークの音楽を基 本にしたような、初期の未発達なテクノロジーの面白さ、それをYMOも利用したんですけど。そこから『BGM』に至る時、テクノって言葉の質がハードの方に移 行していってレコーディング技術を総称してテクノと思いつつありましたね」(5)
「最初は自分たちの衝動だけで音楽を作ればよかったけど、それを売ってゆく過程で、いろんなリアクションがでてくるなかで、次に作ってゆく音楽がより具体的になってきた」(6)
「『ソリッド・ステイト』が売れた後で、それとはまったく逆のレコードを作りたくなったの」(7)
「意識的に強引にね」
(7)
「売れすぎちゃったということと、自分たちがコントロールできなくなってしまった状況に対して布団を投げたということ」(8)
「バカウケして、こんどは次に、あきられるというパターンがあるでしょう。そういうのにまきこまれたくなくて、それにすごい圧力を感じてたのも事実だし」
(7)
「YMOというと子供の音楽だと言われる(笑)。『ライディーン』がやたらに人気があって、アニメのテーマみたいな感じでね」(5)
「そう思って作ったわけじゃないんだけど、たまたまそうなっちゃって。そうしたら『次を作る時も小学生の期待を裏切るな』とレコード会社から言われたんです」
(8)
人民服のイメージとか、ピコピコというのはもううんざりしてたのに、それをさらに続けろという社会的なプレッシャー があった。パブリック・プレッシャーというようなことで、逆に要求が多くなってきた。そうすると、ビジネスにどんどんはまって抜けきれなくなってくる」(9)
「『ライディーン』が良かったから、『ライディーン』みたいなものをもっと、もっとということになると、いつまでたっても『ライディーン』ばかりやってなければならなくなる。そういう関係になってくるとつまんなくなっちゃうんですよね」
(10)
「そういうことが一番嫌いだったんですよ。それは自分たちの息の根を止めるようなことだった。そこには創作の喜びがないから」(8)
「だ からとにかくそこから抜けることが大きな目的の一つだったと思うんです。同時にそれを楽しんでやるというふうな複雑な気持なんだけど」
(9)
「全部捨てちゃっ て、YMOの実体なんて本当は何もないのに探していこうと。つい本気を出しちゃったんです(笑)」(5)
「ぼく達の本音をね、地味でもいいから出したいっていうことで」
(11)
「やりたいようにやろうよ、というようなことで、サービスじゃなくて自分たちのためにちょっと没 頭してみようかというような」(9)
「ファンの人は、『ライディーン』みたいな曲を、もっと欲しいと思ってるんだろうけど、そういう堂々めぐりは、絶対しないよ、という気持ち」
(11)
「何がなんでもそれはやめようと思った」(12)
「そういう意味では、聴く側をどういうふうに裏切って行くかが問題だと」
(11)
「ことさら冷たくしようとかそういうことじゃないんだけどね。肩すかしをくわしたり、フェイントをかけたり、そういうことがすごく面白いと思って」
(10)
「ひとつのパターン認識に陥りそうになったら、それを破壊してね、出て行くような運動を続けようと」(11)
「一度出来上ったものをぶち壊すのも面白いと思いはじめてね」(13)
「出来上ったものを壊さないと次が見えてこない」(13)
「常に破壊と再生を繰り返していく、と。そういう世の中の法則にのっとってやってるに過ぎないんですけどね(笑)」(14)
「主流になるかなと思うと、ついパッと体をかわしちゃうとか、あるでしょ。自分が居すわりそうになると、自分が座ってる椅子を蹴とばしちゃうとか……そこらへん動物的直感が鋭いんだよ、みんな(笑)。このまま居すわってもいいけど、それじゃ面白くないし、長続きしない。トントンでやっていっても、世の中ちっとも面白くないしね(14)
「レコーディングに入る直前に、そういう傾向がすごく強くて」(13)
「予約の段階でもう20万枚以上のオーダーが来てるわけね。だからそれだけの聞き手を想定しながらレコーディングを進めていった」(13)
「周りの人が感じる以上に、ファンの人はYMOを愛してると思ってますね、僕は」(10)
「何か信頼関係のようなものがあって、それが基盤になってる」(10)
「だから、その信頼関係を裏切るものは絶対に作らないということを前提にしてきてる。それはつねに面白くて、刺激的なものをやってゆくということね」(10)
「実験的なレコードを世に出しちゃおうって目論見があったのね」(14)
「ヒットチャートに LPが一位とか二位とか、当時、何を出したって、とりあえず勢いで行っちゃう」
(9)
「この勢いでマニアックなもので売っちゃおうってよく3人で言ってたの」
(15)
「こんな面白い状況は二度と来ない、ここで遊ばなかったら二度と遊べないとい う、それはもう大きな遊びでしたね」
(9)
「どうせ次にどんなレコード作ったって絶対売れちゃうんだから。そんなこと一生に一度しかできないんだもの(笑)」
(14)
「人との関係の中で生きている音楽を作りたいと思っていたぼくらにとっては、これだけ多くの人が、YMOというだけで音楽を聴いてくれるようになったことは、まさに天の助けだと」(6)
「自分の本当にやりたいこととかマニアックなものとかは売れないものと相場は決まってる。とっつきが悪かったりしてね。 実験的なことをくり返してないと作る側としてはやってられないという気持はあるわけだけど、売れなきゃ次が作れないのが現実でしょう。逆に言えば売れてる から実験的なことも出来る」(13)
「ちゃんと状況をプレゼントしてもらえたっていうかな、成功すればなんでもできるということの片鱗をそこで体験できたんだ」(15)
「とんでもないもの作っても、慣性の法則で1位になると」
(5)
「こうなった理由は全くわからないけど、とにかくこの信頼関係があるからこそ、次はより進んだ音楽が作れるんだと」
(6)
「だから、よりいっそうひねてより暗く、病的に(笑)」(9)
「よりマニアックな面を押し進めようということで」
(16)
「人間が変わったんですよ(笑)。何かに呑み込まれちゃったんです。僕が変えられてたんですね」
(9)
「エキゾティシズムもだんだん薄くなってきて、ぼくの趣味が奥に引っ込んでいったわけです。うまく言葉でいえないけど、音楽で表現するということじゃなくて、活動自体の流れの中に置き換えられていったんです」
(9)
「活動範囲が音楽だけじゃなくなってきましたからね」
(9)
「クールさはその頃もうどっかへ行ってましたね。自分の人生の中でなんか特異点を通過してるっていう感覚があってね」
(9)
「その当時、毎日生活していて、仕事をやって、異常な時間の使い方をしてる中で、体とか精神の使い方を訓練されていたようなところがあって、普通の人間で いたら対処できない状態だったんですよね。自分の人間的な弱さも突っつかれてきて、まあ鍛えられてたというか、半分は楽しんでたんですけど。だから、引き ずっていたものを何のこだわりもなくどんどん捨てることができたときですね。フュージョンも捨てちゃったし」
(9)
「作る前に、YMOをベースレス、ドラムレスにするかって、かなり深く話しあったこともあった」
(7)
「音楽的にはロンドン的なサウンドの作り方をだんだん取り入れて『BGM』を作っていったんです」
(9)
「ロンドンから矢継ぎ早に生まれてきた音楽は非常に豊かだった。その豊かさの恩恵をこうむったんですね。」(9)
「そういう影響がいちばん強いんです。マイケル・ナイマンの『モーツァルト』のシングルは向こうで買ったんですが、本当に愛聴盤でしたから。そのころは ポップスとして聴いてました。なにかその時期って、特殊な時期なんですよ。カテゴリーがなくなって、すべてがオープンになっちゃったんです」
(17)
「ロックっていうのは、ひとつの伝統音楽に過ぎなくなってたわけですね。アメリカの伝統音楽。そこにテクノっていう、いろんなものを取り込める、非常に吸収力のあるジャンルが出てきた。もうロックだけでは語れない時代が、そこから始まってるんですよ」
(17)
「並列にみんなそこに並べられて、自由に選択できるようになってきたわけですね。20世紀の終わりに、やっとそういうことが始まったのが、その時期だと思いますね」
(17)
「そういうときに、ちゃんとした音楽が出てくるんですね、ヒョッコリと」
(17)
「そこらへんで坂本君の範疇である現代音楽にも興味 を覚えて、真面目に聴きだした」
(9)
「そういう環境音楽みたいなものが好きになってきて」(6)
「現代音楽の人たちも、固いものが開いちゃった時期ですよね。それはマイケル・ナイマンにとってもね」(17)
ジョン・ケージとかスティーヴ・ライヒとかが、僕みたいなポップス人間が聴いてわかる時代になったんだなという気持で聴い てました」(9)
「本来ならばね、BGMっていうのはそのー、環境音楽に、即したそういう、なんて言うんだろう、うるさくない(笑)、うーん、まあバック・グラウンド・ミュージックに、なるんだけど」(18)
「YMOの場合そういう音楽っていうのは、好きだけど、当時は、『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』っていうレコードが売れて、その次に『マルティプ ライズ』っていう、ジョークの、レコードが売れて(笑)、とてもそんな、急に静かな音楽がね、できる、状態じゃなかったわけ。だがしかしそのー、なんか違 う方向に持って行きたかったときに、ちょうどまあ、そのー、イギリスの、ウルトラヴォックスがやってるようなこととか、お互いにこう影響し合った部分って いうのを、わりと素直に、出してっちゃおう、っていうんで。まあ内容はそういうことをやろうと思って、えーそうする場合はきっとまあ、売り上げは、少し落 ちるだろうっていうのは想定して、あったんだけど(笑)」
(18)
「最初の意気込みでは、全部3人で作っていこうということであったのですけどね」(19)
「当時、けっこう『BGM』に関して突き詰めて話した相手は幸宏なんですね。教授はあまり、たぶん顔を出さなかった。コミュニケーションが、僕とあまりとれてなかったから」
(17)
「坂本君がちょっと弱っててね」
(9)
「心身不調だったと思う。」
(20)
「いや、YMOっていうのは順繰りにくるんですけどね(笑)。一番最初に乱れていたのは僕で」
(9)
「落ち込んでいた時期が長くて」
(21)
「混乱してて、みんなに迷惑をかけて、嫌がられていたんですね。ああいう風にはなりたくないねって」
(9)
「僕はツアーがきっかけで立ち直って」
(9)
「『BGM』あたりから少しよくなっていたんです」
(21)
「僕たちみんなツアーが大嫌いで、ホントはすごく悲惨だったんだ。でも、それをこなすことでなんか強くなったような気がしてね。自分が弱いと思い込んでいたのは、やっぱり甘えん坊だったんだなって分かった」(22)
「僕みたいに甘ったれな人間が、いちばん苦手なことをやらされて、強くなって、背筋がピンと伸びるようになる。本当はずっと甘えん坊のまんまでいたいけど…
…」(22)
次は坂本君がひどい状態になって」(9)
「穴蔵にいるような感じで何考えてるか分かんなかった」(21)
「だから、教授はソロっぽく作ってもらうことにして」(17)
「幸宏は僕と教授が落ち込んでる間でバランスをとってたっていうか、幸宏のパワーで『BGM』までこれたんです」
(21)
「歌がもう少し入ってきて……。じゃっかん、言葉を持とうと」(6)
「YMOの音楽というのは、言葉というものを全部否定してきた。喋れば喋るほどむなしい世の中だから、言葉の意味を一切なくしちゃってた。詞をかいている のはクリス・モスデルという人で、彼はまじめにメッセージを持って書いているんだけど、そのメッセージはぼくたちと関係なかったワケ。それをただ素材とし て、何の感情も持たずに歌ってきた。その意味も知らないし、知りたくもない。音も歌詞も、自分たちの気持ちを入れる入れ物として扱ってきた。でも、そのへ んが」
(6)
「ちょっと変化している」(6)
「最初全部日本語で作ったわけ。日本語というのがいかに歌として難しいものかが、初めてわかったので、また英語に直しましたよ」(13)
「訳詞みたいなもの。外人(編注:ピーター・バラカン)に直してもらう」
(13)
「イエロー・マジックの音楽は多様な構造を持っていたいから、日本語になってわかりやすくなると面白みが半減するかもしれないからさ。言葉は何語でもいいというところからイエロー・マジックの音楽は始まってる部分もあるし」(13)
「自分で言葉を作るというのは、それを聞いて人が分かろうと分かるまいと、日本語であろうと英語であろうと、想いが一層こめられるからなんです」
(19)
「ひとことでもいいたい言葉があれば、それが歌詞になってゆくと」(6)
「ただ、音楽の構造だけはカッチリしたものを」(6)
「しっかりした器のほうが、有機物のようなドロドロしたものがおさまりやすいと」(6)
「レコーディングに入ってからは時間的問題もあって、異例の短期間の録音で、ほとんど作りながらレコーディングしたという感じです。スタジオで作ったり」(19)
「しかし、形だけは作っておかなければならないわけで、曲数は10曲、1曲の長さは何分、ということを初めに決めました」
(19)
「最初にパターンを決めちゃったワケ」(13)
「機能的な作り方に非常に興味があって」(5)
「情を排して、例えば全部の曲を3分33秒まで来たらデータをカットしちゃうとか考えた」(5)
「何考えてたんだろう、僕は(笑)」
(17)
「片面の5曲のうち、4曲は4分30秒で、残り1曲は5分20秒で作ろうと」
(13)
「すべて無意識でやってますね。全部揃えちゃえって。それはコンピュータで制御してるから、できることなんだけど」(17)
「曲作りのときの基本は、すべてミニマルなリズムをずーっと延々スタジオで鳴らしていたんですね、それを発展させて、上に色をつけていったんです」(17)
「スタジオに入ってから曲作りが始まるわけ」(13)
「いったんスタジオ入りすると1日平均6時間ぐらい完成するまで連日やる」
(13)
即興的な作り方をしてましたね」(17)
「ですから、そこに松武さんもいなかったわけです。プログラミングではなく、そういうループみたいな世界のほうが強かったわけですね」(17)
「リズムが何かを呼び込む」
(17)
「延々ループにして、そこに浮かんでくる情感っていうのかな。それを捕まえて、メロディーっていうかコードにするんです」(17)
「その後、自分でもMC-4を使うようになって、もっと確立化するんですけど。だから、リズム・ボックスみたいな気持ちに戻っていったというか」(17)
「俗に我々が『八百屋』と呼んでる、ローランドのTR808という古典的なリズム・ボックスがあって、『BGM』で一番多用してたんです。そのころは他に使ってる人がいなかった」
(9)
「TR-808は何と言ってもその音色が好きです。」(23)
「タムも和太鼓のようで、他の機械にはない音。」
(23)
「次の1週間は音決め」
(19)
「初めてデジタル・レコーディングになったんですよ」
(9)
「アルファのエンジニア・チームの新しもの好きが、3Mっていうデジタル機材を入れたんですよ」
(17)
「アメリカの3Mの最初のデジタル・レコーダー」
(9)
「本邦初」
(17)
「それを使えということで」
(9)
「でも、それは音が詰まってて、決して好きになれない音だったんですね」
(17)
「これでやるしかないところまで来ちゃってたんで、1回アナログに戻ろう」
(17)
「イギリスなどのベッド・ルーム・レコーディングのように」(19)
「それで、ティアックの民生機の8チャンネル・レコーダーでリズムとベースを録っ て、最終的にそれを3Mに入れ込めばなんとかなると」(17)
「僕が気に入っているティアックの8chとミキサーをレコーディングに使い、個性的な音づくりを目指した。」(16)
「8チャンで録音し、ディジタルの32チャンに移しかえるわけです。つまり8チャンでとったのを32チャンの1〜8まで押し込んで、またとって押し込んで、32チャン使うというふうに…。 まずTEACのタスカムを回して、コンピューターのデータ信号とガイド信号で2チャンを、残りの6チャンネルをドラムスに使って録音する。そんなふうにリ ズムを先にとってしまうのですが、これは曲ができていないとできないし、最初考えていた即興というか、実験的なものとはちょっと違う音になった。コギレイ な音を壊すことには成功しましたが」(19)
「だから、『BGM』の低域の豊かさみたいなものは、そういう音なんですね」(17)
「リズム隊が独特の音になっちゃったんです。デジタルのカチッとしたところと、ティアックの民生機的な変な特性の音がうまい具合にミックスして、ああいう音になったんです」
(9)

高橋幸宏の証言
「我々もだんだんシリアスな音楽をやり始める」(24)
「まず、ミーティングするんです。学生っぽくね。どういうコンセプトのアルバムにするか、みたいなことを」(25)
「それを何日かやるわけです」
(25)
「細野さんといっしょに六本木の『東風』に行ったのを覚えてるんですよ。YMOっていうのは、音楽の話なんてほとんどしなくて、だいたい世の中のこととかを話すんですけど」(17)
もう、政治の話とか、哲学の話までする」(25)
「そこらへんをきっかけにしてできた曲がありますね、『BGM』には」(17)
「そろそろ本当に、みんなが好きなものをやろうというのは言ったかもしれない」
(17)
「教授なんかももう飽き飽きしてるだろうし」(17)
「それは結果的に、レコード会社が喜ばないものになるかも知れないけどって」(17)
「で、レコーディングの日までに、こういうテーマでそれぞれ作ってこようってことになるでしょう」(25)
「ところが、その当日になるとふたりは書いてない(笑)」(25)
「つまりね、みんなが遠慮しあっちゃって、やろうとしないの。"やれば、幸宏"みたいなね(笑)」(25)
「で、ぼくの曲から始めるということになるんです」(25)
「実はみんなアイディアはすでにあるんだけど、出さないんですよ。で、誰かがまず一曲やるでしょ。そうすると、ああこういう感じかって(笑)。ケンセーしあってるんです」(25)
「だから、しょうがないから、ぼくがいつも最初にやるっていう(笑)」(25)
「『BGM』あたりから、その傾向が顕著になってきてるんですよ」(25)
「僕は『バレエ』とか『希望』とかいうようなタイトルのアイデアがあって、それであのへんの曲から作り始めたのかな」(17)
「作 詩をメンバーが担当したんです。責任は自分たちにあるというかね(笑)。言葉を大切にするという点で言えば、好きな詩をクリスからもらって、コラージュ的 な作品を作るという作業ではなく、自分たちで書いて、むしろ英語になっていなくてもいい、という細野さんの考えがあったし、そのことの方が重要と3人で確 認してね。まず、日本語で書いて、それを英語に直して歌ったんです」(19)
「僕はすごく元気だったんです。精神的にはいろいろあったんですけど、とにかく『こういうのどうかな』っていうアイデアがいっぱいあって、それを細野さんと形にしていった」(21)
「あの頃からスタジオに全員で入ることが少なくなってきて」(20)
「教授は別作業でやってましたね」(17)
「教授と僕が共作する時もあったけど、三人でっていうのはあまりなかった。だから『BGM』でYMOの三角形が一回壊れちゃった感じはあるかもしれない」(21)
「レコーディング・メンバーもYMOの3人と松武さんだけ」
(19)
「『BGM』でいちばん大きいのは、ティアックの8チャンネルで録ったことですね。ここで飯尾くんが登場してくるんですけど。なぜそれを使ったかという と、アルファが3Mのデジタル・レコーダーを導入したんですね。それはとても音がきれいなわけです。それで細野さんが」(17)
「音響的なことにこだわり始めて、音がきれいすぎるってことで」
(17)

坂本龍一の証言
「ごく普通に考えると、社会に迎合してYMOのスタイルみたいなものを受け継いでやれば売れるんだろうけど、そうしなかった」
(26)
「ツ アーを終った段階で、それまでYMOの持っていたエネルギーを燃焼し尽くしちゃったみたいなところで、前作の"ソリッド・ステート・サバイバー"に続く ヒット商品を作ることよりも、失ったエネルギーを自分たちの中で、そうやってまた作っていくかっていう方が問題だったんです」
(27)
「結局、ツアーでやっている1、2枚目の曲っていうのは、前に出る音楽ですよね。メロディーもハッキリしていて、グイグイ主張するような。ディスコのビー トだってそうだし。そういうものに冷めちゃったんでしょうね。だからもっと、メロディーのはっきりしない、分散した、曖昧でディスクリートな音楽のほう に、興味が移行していって、それは純正音より、ノイズに近くなるのと似てるんですけど、音楽的にメロディー・ラインとか、和声がハッキリした音楽から、 ハッキリしないノイズに近い音楽になっていくってことで」
(17)
「普通、サイン波なりパルス波なりっていうのは、リダクトしていくと、最後はこういうひとつの山みたいな波形になるわけだけど、ノイズの観念というのは、どこを切っても常に同じという。そういう音楽に憧れていたような気がしますね」
(17)
「そういうものを少年少女が喜ぶとは思っていなかったけど、自分たちの中のエネルギーの方が切迫したことだったし、それをどうにかしないと、とても続けていけないという、そういう所までいってしまって」
(27)
「田町のアルファ・スタジオにデジタル(レコーダー)が入ったんだよね」
(28)
「3Mの32chでね。アナログに比べて全然SNがいいし、テープ質がよくて、クリアーなの。音がないところはシー ンとしてて、ノイズといえば、アンプとエフェクター、それとエコーが一番大きんだけど、テープから出てくるノイズが全然ないんで、立ち上がりとか下がる時 なんか、まるで違うのね」(28)
「非常に困るのがテープ編集できないということ。テープ切れないのね。24ch使ってる時は、切ったりつないだりテープ編集できたけど、それが無理。だからデビッド・カニンガムとか、ああいったテープ音楽的発想できない」
(28)
「ずいぶん主張が離れていたとはいえ、たぶん細野さんなんかと、だいたい同じようなものを聴いていたわけです。デヴィッド・カニンガムなんかが好きで。それで細野さんが、ティアックの8チャンネルで(ドラムの録音を)やりたいって言い出して」(17)
「僕はあまり、それに気乗りしなかったのを覚えていますね。それは違うんじゃないかと。本当に自分の家のベッドルームで、ロンドンの貧乏なアーティストが やるならいいけど、あんなアルファみたいなゴージャスなスタジオに、それらしきものを持ち込んでやるっていうのは、おかしいんじゃないかと」
(17)
「ファッションで貧しさをやってるみたいでね」
(17)
「気分が乗らなかったのを覚えてますけど、反対すると喧嘩になってしまいますので、ふてくされて何も言わなかった気がしますけど」
(17)
「当時、とても違和感があり、いやいやレコーディングに参加してました。」
(20)
「よくすっぽかしていたと思います」
(17)
「その頃からお互いにあまり顔を見ないようにしだした。だからレコーディングもバラバラにやったりとかね」
(26)
「あえて顔を合わさない」
(17)
「話し合いを避けていた」
(17)
「いつも誰か一人が抜けているとか、外に出ていたりとか、スタジオでも一言も喋らなかったりとか、そういう感じで、ものすごい音楽上の確執があったんですよ」
(26)
「細野さんもずいぶん苦しかったと思うんだ。こんな荒っぽい男をさー。こんなはずじゃなかったと(笑)」
(17)
「坂本は反発してるけど、こういうお題を与えれば、こういうものがでてくるっていうのはわかってるだろうから、最小限のコミュニケーションでやってるというね」(17)
「メンバーがそれぞれ詞というか、言葉でいいから書いて、自分の音声でやろうと最初に主張したのはボクでして」(19)
「YMOの音楽にとっては、詞はイメージをふりまくぐらいで、内容自体はあまり関係なかったんです。もともとYMO は遊び的なものからスタートしたけれど、売れたということひとつでも、遊びではなくなってきてしまった。ということは、自分を隠すのではなく、自分たちを 出して、売れたっていうことに対してパワーを持たなければならなくなってきたわけ。自分たちが強くなって、表に出て、裸になるってことが必要でね」(19)
「ツアーの後遺症でしょうね。あまりに無意味な言葉の羅列みたいなものが、つまらなくなってきたんじゃないですか」(17)
「けっこうショックなことがあってね。2回目にニューヨークでやったときに、それなりにウケて、ステージから掃けてきた ら、アメリカ人がいてね、素晴らしい、グレイトとか言ってるんだけど、『ところで何を歌っているの?』って。こっちは英語で歌っているわけじゃないですか (笑)。だけど、全然通じていないのね。それは僕にとってショックなことだった」(17)
「けっこう僕ら3人ともショックだったかもしれないですね(笑)」(17)
「もう少し意味を求めるというか。そういう気持ちに、3人ともなっていたんですね」(17)
「レコーディングのときはずっとヤオヤが延々ループで回っていて、それを聞きながら作っていたような印象がありますね」
(17)

小池光夫の証言
「曲が出来るのや、人を待っている時間が多かったような(笑)。だいたいレコーディング時間を13時とかに設定していても、始まるのは早くて16時、17時とか。あ、でも高橋幸宏さんはそんなに遅れませんでしたね」
(29)
「プロフェット5が多用されて、これまでのオーバーハイムやアープと違うものが入ってきた感じがありました」
(29)
「モーグとかに比べて非常に音が多彩で、作りやすかったという印象がありますね」(30)
「それまでオーバーハイムやアープで作っていた音もほとんどプロフェット5になっていて、どういう音作りをするかメンバーの人たちが真剣に取り組んでいた」
(31)
「このシンセサイザーはプログラマブルといい、作った音色をメモリーに落として記録しておくことができるんです。メンバーがスタジオでいろいろ試しながら 音色決めをしていったのを憶えていますね。あと、通称"ヤオヤ"、TR-808というローランドのリズム・マシンが出て、これはいろいろな打楽器の音を同 時に鳴らしながら、ひとつずつの音をラインで取り出して加工できるんです」
(29)
「チャンネルごとにパラレルで音を出力できる」(31)
「ヤオヤからタンス(E-mu)に出力して、タンスから音を出したり、すごく凝ってる」(31)
「TR-808のアウトをE-MUに入れて、モジュレーションをかけたり、フィルターでピークを出して低域を出したり」(32)
「"ヤオヤ"はシンクロが大変でした。まだMIDIはなかったし。"ヤオヤ"はハットとかは録りやすいんですが、低いほうの音(ベース・ドラム、ロー・タム)はメーターが大きく振れるのに音はあまりしない。そのバランスをとるのが大変でしたね」
(30)
「生だけのときとリズム・マシンが入るときの音の処理の仕方…
…低域の出し方とかは変わります。でもそれはカットする場合もあるしブーストする場合もあるし、それは曲によって」(32)
「そんなふうに新しい機材がいくつか入ってきて」(29)
「『BGM』から、32チャンネルのデジタル・レコーダーがスタジオAに入るんです」(30)
「3Mのデジタル32トラック」(32)
「日本で最初(32)
「これは新しいものを入れようという、吉沢さんのアイデアですね」
(30)
「24から32チャンネルになって、チャンネル数にちょっと余裕ができましたね」
(31)
「音的には良かった」(32)
「僕らは、いちいちアナログだとか、デジタルだとかそう意識しないでやっていたんですが、細野さんはデジタルよりアナログが好みだったように記憶しています」(29)
「アナログと違ってテープの逆回転とか、けっこうやれないこと、制約があるんですね」(29)
「いわゆるアナログ的な変化は望めない」
(32)
「『BGM』では、リズムだけアナログMTRを使うということをやっていました」(32)
「バス・ドラム、スネア・ドラム、それにシンセ・ベースをティアックで録り」(16)
「それを3MのデジタルMTRに落として、キーボード関係はデジタルで録るという」(32)
「それが独特の音質を生んでますね」(31)
「多分細野さんの意向だったと思うんですけど、TEACの卓まで借りて録ったんですよ。デジタルでは得られない低域の感じとか、音の太さみたいなものが出るってことで」(32)
「ほとんどの曲のベーシック・トラックはティアックのミキサーと8chのテープ・レコーダーで録った」
(16)
「ティアックにはFSK信号とドラムとベースを入れて、FSKごとデジタルにコピーしちゃいました。ドラムはスネア、ハイハット、キックだけ録ってあって、デジタルに移したあとでタムを録音した曲もあります」
(30)
「ダビングする時も入口はティアックのミキサーを使い、それをAPIのコンソールに入れ、それから3Mへという方法を使った。」
(16)
「ハイ・インピーダンスのコードをたくさん使ったため、どうしてもノイズを拾いやすく、通常のレコーディングよりノイズ問題が多くあった。」
(16)
「細野さんがデジタルを気に入らなかったというより、ティアックで録りたかったんですよ。アナログの民生機とプロ機の中間で、独特の特性があって、細野さんの好みの音に音が変化するという」(30)
「ティアック独特のあの音がほしいということで」
(16)
「特に低音のクセが何とも言えず好きだと」
(16)
デジタルで録っちゃうと、録った音がストレートに出る。行為と考えれば、これもエフェクトですよね」(30)

寺田康彦の証言
「3Mのデジタル・レコーダーを入れてたんだけど、デジタルだと音がなまらないから。細野さんがティアックの音が好きで、低域がいい感じに持ち上がるんで すよ。その特性を使いたいということで、立派なAPIのコンソールがあるのに、その上にティアックの卓を載っけて(笑)。吉沢さん、怒ってたかもしれない なあ(笑)」
(33)
「いろいろ工夫してましたね」(33)
「譜面とは違う、進行表を作ったのかな。『BGM』の頃からでしたっけ?」(33)
「これを『譜面』と呼んでましたよ。共通認識が簡単にできる」(33)

松武秀樹の証言
「実験しながらの録音だから、しょっちゅう構成が変わっていたような…『また小節番号が変わった』って」(33)
「(編注:進行表は)当時は画期的でしたよ。進行がやりやすかった」(33)
「テンポを書き込んで、小節ごとに番号を割り当てておいて、みんなでコピーを一人ずつ持って『じゃあ、25番から』とか」(33)
「TR-808の出現で、『BGM』は圧倒的に変わった。あれはローランドから出る前から(プロトタイプを)使っていました。音数もグンと減らしました。 ブライアン・イーノとかの方向ですね。このころから、パッド系は全部プロフィットになったんです。タンス(E-muモジュール)はシーケンスとベース・ラ インだけに使うようになるんだけど、ベースは何度も録り直しましたね。オーバーダビングして何度も聞き直しながら、ベースの音が何か違うなって細野さんに 言われて、E-muで何度も作り直して変えていった覚えがある」(30)
「『BGM』のレコーディングのあたりで、MC-8から、MC-4に入れ替わったんだね」
(34)

飯尾芳史の証言
「中心だったのはTR-808ですね。曲によってはほとんど808だけでリズムを作ってました。808をそのままラインで録るってこともほとんどなくて、 大抵はベース・アンプに繋いでその音をマイクで拾って録ってました。で、そういうアイディアを出すのはだいたい細野さんでした」
(35)

ピーター・バラカンの証言
「メンバーの仲がいちばん悪かった頃ですよね(笑)。スタジオの雰囲気が暗くて」
(36)
「メンバーの精神状態が極めて良くない時があったりして」(37)
「僕はYMOにかかわりだして間もないからそうなった事情も経過もわからないんだけど、とにかくスタジオに行くと体調が崩れちゃうぐらい雰囲気が暗くてまいったな。なるべくスタジオには長時間いないようにしてました(笑)」
(36)
「自分たちで作詞を始めて、詞の英訳をする人間が必要になった。で、たまたま僕がそこにいた(笑)。ある日いきなり"お前がやれ"ですよ。えっ!?って(笑)。僕は著作権の仕事をするためにいるんだし、べつに作詞家じゃないしって抵抗したんだけど、やればできるだろうと」(36)
「不安だったんですけどねえ」(36)


1981/01/21 虫歯の治療。三浦憲治が撮影。協和歯科。

※編注:写真は細野によるキャプションとともにYMO写真集『OMIYAGE』(小学館/1981年)に掲載。


1981/01/26 YMO『BGM』レコーディング。三浦憲治が撮影。芝浦/スタジオ'A'。

※編注:写真はYMO写真集『OMIYAGE』(小学館/1981年)に掲載。


1981/01/29 YMO『BGM』レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ラップ現象

1981/01/30 『ぴあ』2月12日号(ぴあ)発売。
インタビュー/時代と僕らは、今まさに現在進行中


1981/02/01 矢野顕子「春咲小紅/在広東少年」発売。
春咲小紅:arrangement, bass
矢野顕子の証言
「YMOですね。ワールド・ツアーやった後に、これレコーディングしたんです。アレンジは、みんなで考えた。」
(38)


1981/02/08 YMO『BGM』レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
キュー
「ぼくにとって大事な曲」(15)
「本来の意味で、初めての共作ナンバーです。残念ながら、教授がいなかったので、ボクとユキヒロで作った曲なのですが」
(19)
「僕とユキヒロの半分半分アイディアが入ってる」(13)
「歌詞は僕が作って、コード進行も作ったんです」(9)
「バグパイプのようなフレーズは僕が弾いたんです。うしろで鳴ってるTR-808も僕が作りました。あとは全部幸宏です」(39)
「これまでは共作といっても、誰か1人のアイディアをみんなでにつめていたけど、これは僕ともユキヒロとも言えない」(13)
「ユキヒロでもボクでもどちらでもないところから出てきたものなんです。それに気付いた点だけでもこの共作の意味は大きかったのです」(19)
「僕の『マス』という曲が最初『キュー』という曲だったの。『キュー』というのは"行列"という意味だったんだけどもっと調べてみると精神分析用語で"合図"とか"手がかり"とかいう意味もあることがわかって」(13)
「心理学用語」(15)
「キーワードっていう意味。患者と先生が話してて、なにか言葉の中に、その人の深層心理の手がかりをみつける時の言葉がCUEなの」(15)
「僕と幸宏がそのころどういう心理状態だったかというと、非常にテンションが高くて、何かに追われているような感覚でし た。気持ちは高揚してるんですけど、不安に包まれてるというのかな。そんな自分たちを、引っぱっていく頼りになるような、そういう手掛かりとか、キューと かサインとか、そういうものを音楽に見出そうという意味がありますね」(39)
「『ソリッド・ステート・サヴァイヴァー』のころまでは、地球感覚みたいなものがあったの。焦点をすべてに合わせるという念を込めて作っていたみたいなね」(15)
「それが、『BGM』の時に、拡散してたものがレーザー光線みたいに細くて焦点の小さなものになっちゃったの。まわりから圧縮されたみたいな感じで。別の 言いかたをすれば、自分の全体をそういう感覚が包んでるっていうんじゃなくって、気持ちの奥のほうに、どんどん沈んでいって、結晶みたいになっていった の」(15)
「その頃から、UFOの話とか、大ゲさなことは言わないようにしてたのね。ストレートな表現は避けてた。それよりも、激流を乗り切ることのほうに集中しようとしてたっていう感じかな」(15)
「とにかく一回、そういうものを自分の内側に閉じ込めちゃって、その結晶みたいなものを磨こうとしていたんだよ、あの頃」(15)
「そういう思いが『CUE』っていうあの一曲に集約されちゃった。だからパワーがあったんだ」(15)
「いろんな意味があるんだけど、ぼくは"兆し"の歌を作ったんだよ」(15)
「いろんな"兆し"が見えていて、どれもこれも手がかりだらけだ。それを放っておく手はない。それを全部、ひとつひとつ調べていけば、なにかがわかる。そういう、地球感覚の歌」(15)
「地球が全部用意ができててね、あとは人間がそれを探すだけだと。だから"Give me a cue"って言ってるのは地球かもしれない」(15)
「非常にダイレクトにウルトラヴォックスの音楽に影響されてる曲で」(9)
「それは隠してなかったですね、当時から」
(17)
「彼らの『PASSIONATE REPLY』っていう曲を聞いた時に、バーッて光を浴びたような感覚があったのね。ぼくたちがこういうのをやりたいと思ってて、でもなかなか出来なかった 時に、そういう曲を聞いちゃったもので、ショックを受けてね。それがひとつのきっかけになってるんだけど」
(15)
「(編注:ベースの音は)まったくもろにその影響で。まったく同じと言ってもいいぐらいですね(笑)」(17)
「僕以上に幸宏が、もう本当にあの曲に打ちのめされていて。2人でそういうことになっちゃったんですね。それは誰にも止められなかったですね」(17)
「無意識過ぎちゃったかも知れないな、素直過ぎちゃって(笑)」(17)
「でも自分たちは、それは大成功だと思ってた音楽なんです。なに考えてるんだか、わからないんですけど(笑)」(17)
「そういう形の中に思いを込めることができた曲だね」(15)
「『Cue』が、最後にできるまで、暗中模索で、気分的にも、重苦しくて」(11)
「完成した時は、幸宏とふたりで、スタジオで記念写真を撮ったんだ。大きな紙に『CUE』○月○日って書いて、ポラロイドで」
(15)
「なにか達成感があってね」(17)
「作ってみて、こういう世界も作れるというか、とっかかりでできるというか、久しぶりに背筋が寒くなってね、ボク自身」(19)
「音 楽っていうのは、昔から背骨に電気が走るみたいな快感を僕は求めて来たわけだけど、それが何となく消え失せてきたんでイエロー・マジックでそれをまたとり もどしたいと思ってた。それがこの曲を作った時には久しぶりに感じられたわけ。ほんの一瞬のことだけど、うれしかった」(13)
「YMOがもし続くとしたら、次の核になるようなサウンドはこれだというようなことを話してね」(9)
「ヨーロッパの人たちの音楽の影響のもとに出てきたっていう気持ちもあるし、これはそのお返しだっていう気持ちもあるし」(17)
「イギリスが近かった。アメリカが一番遠かった。だから、イギリスのニュー・ウェーヴの連中と見えない所でキャッチボールしているつもりでYMOをやっていたな」(35)
「当時は、ウルトラヴォックスに影響されて僕たちが作る、それに影響されて誰かが何かを作るというふうにぐるぐる回ってる時代でね」(9)
「僕らと同じようなことやってる。そういうところから僕らはエネルギーを貰うわけだよね。"元気"を貰う。そのエネルギーで曲を作って、それをまた返すわけ。そうするとまた向こうが作る」(10)
「イギリスと東京はつながっていたと思う。音のクォリティも競い合ってた時代ですよ、東京のスタジオとロンドンのスタジオで」
(9)
「自分たちなりの完成形だという気持ちがあります。その後の幸宏のソロに影響を与えた曲だと思いますね」(39)

高橋幸宏の証言
「シングル『ヴィエナ』のB面」
(17)
「細野さんといっしょにスタジオで聴いて、何回聴いてもいい音だなあって思って」
(17)
「音色ですね、あのパターンとか、コード感とか」
(17)
「あれが『キュー』になるんですけども(笑)」
(17)
「2日ぐらいで作ったんですよ、スタジオで」
(17)
「細野さんと二人で、リズムを作りながら、途中からオクターブユニゾンの早口で歌入れしてみたんです。確か、デヴィッド・ボウイが、同じようなことをやっていたのを思い出して、それをヒントに細野さんとハーモニーをつけてみた」
(40)
「その瞬間に、サウンドと歌詞と、当時ぼくたちが表現したいこと、言いたかったことがすべて繋がった。まるで、お互いが求め合っていたかのような奇跡の瞬間でした。少し大袈裟かもしれませんが、そういう感じでした」
(40)
「ぼくたちはもう、こういう世界には疲れてしまった。誰か、袋小路から抜け出すための手がかりを下さい、キューを下 さい、というような歌です。カルデサック----、袋小路から抜け出したい、当時のぼくたちの思いが、メロディーやサウンドと初めて合体したような、そう いう気がしました」(40)
「それが、とても嬉しくて」(40)
「できあがったときに、2人で紙に『CUE』って書いて、記念写真を撮った覚えがあります」(17)
「別々に、『こういう世界を描きたいんだ』とイメージしていて、誰かが妥協して歩み寄ることなく、それが実現できた。『キュー』は、極めて稀な成功例だと思います」
(40)
「自分たちがもがいているんだということを初めて歌詞で表現した曲、しかも、サウンドと一緒になることでいちだんと強く訴えることができたということで、『キュー』は、ぼくには大切な曲の一つです」
(40)
「きっと教授は嫌だったんでしょうね、俺のいないところで盛り上がりやがってって(笑)」(17)
「『この曲は嫌いだった』と(笑)、おっしゃってるようですね。それは曲そのものよりも、自分が参加してないじゃないかと(笑)」
(41)

坂本龍一の証言

「僕は嫌いな曲なんです」
(17)
「細野さんと幸宏が、ぼく抜きで、2人で作ったんです」
(42)
「2人っきりで」
(17)
「ぼくは、このトラッキングに参加してないんですよ。」
(43)
「弾いていないし、関わってもいない」
(17)
「きっと意識的サボタージュだね」
(17)
「僕は本当に批判的だったのね。ティアックの8チャンネルの話に劣らず、『ここまで真似していいわけ?』っていう。これはやっちゃいけないんじゃないのって」
(17)
「当時も言っていましたね。ロンドンから投げかけられるものに対する、好意のレスポンスだって。それはわかるんだけど、同じじゃんっていう」(17)
「やっぱりツアーの後遺症だと思いますよ。精神が荒廃していたんだと思います」(17)
「この曲のもつ、清冽さと若さの同居は、いいですね。こういう幸運な『時』は、人生に一度しか訪れないものです。」
(43)


1981/02/12 YMO『BGM』レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
来たるべきもの
「頼りになるのは、自分の中の編集感覚というか、選ぶ感覚ですね。音の長さ、高さ、音色、和声、すべて一瞬一瞬選んでいく」(9)
「初めてそういうことを考えたのは、『BGM』で『LOOM 来たるべきもの』を作ったときでした。初めてそこで僕は音楽以外の方法で作ってみたんです」
(9)
それが一番最初のきっかけかな」(9)
「ほかの曲は全部音楽ですけど、『LOOM』は非常に抽象的な形をしているんです。どうやって作ったかというと、多 分そのころ頭の中にあったのは、イーノのアンビエントだったんですけど、たまたまそのときに無限音階を作るICというか音源があったんです。松武秀樹さん が持っていて、それを使うと音程がどんどん無限に上昇していくような錯覚を起こす周波数を選べる。どうしてもそれを使いたくて、この曲を作ったんです」(9)
「1回使ってみようかな、と」
(35)
「そ れまでのYMOの曲はポップスの構造を持っていたわけですけど、それをなくしてみたらどうなるんだろうと」
(9)
「単純に無限音階だけで1曲終わらせようかなと思ったんだけど、あまりに息苦しくてね(笑)。で、この後、何をやったかというと、Prophet-5で一番好きな音色を作って…
この音が出るだけで好きなんだけど……これのディケイを長くして、1回弾いたフレーズがどのくらい続くかを計った(35)
「そこで、それまでやったことがなかったんですけ れども、例えば呼吸だったらどうなるか」
(9)
「その音色を深い呼吸のリズムに合わせた波になっているんだよ。曲の最後はそれで聴く人に安心してもらおうと」
(35)
「呼吸のタイムをストップウォッチではかって、それで、音の進みぐあいの構造や強弱を決めていったりして、すべて機 械で作ったんです。コンピューターで打ち込んで作って、わりと思うようにできたんです」
(9)

坂本龍一の証言
「松武さんの出番ですね。あれはE-muでやっているんです。松武さんが、音の錯覚(現象)があるよって持ってきて、面白い面白いって言って、ついでに曲にしちゃったみたいな曲で」
(17)

松武秀樹の証言
「『BGM』 の時に、レコーディングに入る前に、僕が(12)分周器(ひとつの周波数を入れると、音が12音一遍に出る装置)を使って遊んでたんで す。で、それをスウィープさせ、音程の下がるところをゴマかすと、耳には音程が上がりっぱなしになっているように聴こえるわけ。それをたまたま彼らが聴い て、オモシロイから是非使おうということになったんです。ちょうど『エッシャーの絵』みたいなものですね。その時、アイディアとしては、何か恐いものが来 る感じが欲しいということだったので、それでは『来たるべきもの』ということにしようじゃないかと(笑)」
(16)

小池光夫の証言
「エンドレス・オクターヴ(無限音階)」
(16)
「分周器とムーグIIICで作ってある。これをたくさん使った」(16)
「数種類の音を録り、上昇するものと下降するものとを混ぜ合わせ人間の呼吸に合わせた動きをするように、セットし造った」(16)
「ああいうふうには普通は録れないんですよ。あれはすごく時間のかかる録音だった。松武さんのユニットのツマミの操作ひとつで、ああはならないっていうぐ らい。リヴァーブの長さもあれぐらいないと、上昇音には聞こえない。アンビエント・ミュージックに対する何の知識もまだなかったから、それでああいうこと ができたっていうのはありますね」(30)

飯尾芳史の証言
「『無限音階』ってのがあるよって松武さんが機材を持ってきたんです。『どこで切り替わってるか分からない』って言いながら面白がってみんなでいじってま した。使ってた音源はE-MUのモジュラー・シンセなんですけど、あれはボイスが8声なんで、1つのボイスが上がっていって聴こえなくなるところで次のボ イスが追従して出てくるって感じでできたのが『LOOM』です」
(35)


1981/02/12 20:00 NHK教育『NHK文化シリーズ・現代社会のしくみ』放送。

※編注:『BGM』レコーディング風景が放送された模様。


1981/02/14 YMO『BGM』レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ユーティー
これは僕のアイディアでわけのわからないものの方が面白いだろう、というところからはじまってるんだ」(13)
U・T』というのは、"ULTRA-TERRESTRIAL"の略で、とにかく超越した存在みたいなもの。宇宙人のことを、円盤愛好家の中では当時、 U・Tと言っていたんです。ETとも言ってたんで、どっちにしようかと思って『U・T』にしたんですが、ETはその後映画になっちゃったんで、『U・T』 にしといてよかったですね(笑)」(39)


1981/02/14 夜 YMO『BGM』TV-CM撮影。芝浦。


1981/02/15 東京12チャンネルでYMO出演回の『ソウル・トレイン』が放送される。


1981/02/21 『スネークマン・ショー』発売。
磁性紀 -開け心-(Y.M.O.):produce, words, arrangement, keyboards
レモンティー(シーナ&ザ・ロケット):produce
黄金のクラップ・ヘッズ(ザ・クラップ・ヘッズ):produce, compose, arrangement
メケ・メケ(Dr.ケスラー):produce
咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー(ユー・アンド・ミー・オルガスムス・オーケストラ):produce, compose, arrangement, bass, keyboards

ごきげんいかが アゲイン
(ユー・アンド・ミー・オルガスムス・オーケストラ):produce, compose, arrangement, bass, keyboards
「スネークマンショーのラジオがもう終わっちゃうと」(17)
「『え、終わっちゃうんだ』と。僕はファンでしたからね。次は何も決まってないというんで、もう聴けないんだというそのときの思いが、あのアルバムを作らせたんですね。残そうよ、やろうよということで」
(17)

咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー
「この頃の楽曲提供というのはまあ僕にとっては、YMOの傍ら、やってたような、感じですね。80年代の初期というのはそんな感じでした」
(44)
「そのような一環で、書いた曲です。えー伊武雅刀さんと、おー小林克也さんの、おー、まあラップのような面白い曲でしたね」
(44)

※編注:ユー・アンド・ミー・オルガスムス・オーケストラのシングル「咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3/えぶりぼーでい・しんぎんぐ・ばーじょん」同時発売。


1981/02/21 大村憲司『春がいっぱい』発売。
インテンシヴ・ラヴ・コース:bass
アンダー・ヘビー・ハンズ・アンド・ハンマーズ:bass
ファー・イースト・マン:bass
ナイフ・ライフ:bass
ザ・ディフェクター:bass
マップス:bass
ザ・プリンス・オブ・シャバ:bass


1981/02/21 金井夕子『écran』発売。
走れウサギ:compose, arrangement, bass
走れウサギ
ジョン・アップダイクというアメリカの小説家の作品タイトル」
(45)

※編注:シングル曲「Wait My Darling」もアルバム・ミックスで収録。「走れウサギ」はシングル曲「ハートブレーカーのために」の歌詞およびミックスを改めたバージョンで、『金 井夕子 アナログ・アルバム完全復刻パッケージ』(ポニーキャニオン/2007年)の解説によると、歌詞の変更は細野晴臣が要望したとのこと。


1981/02/21 YMO『BGM』ミックス。芝浦/スタジオ'A'。

ユー・ティー

「これは最初のときとミックスは全然違うんです。最初はただの8ビートで、ミックスのときに僕がテープエコーのフィードバックをかけたんですね。で、16ビートの面白い曲になっちゃったんです」
(39)

坂本龍一の証言
「『BGM』でいちばん印象深かったのはミックスですね。ミックスに1曲1時間半しかかけちゃいけないというルールで」
(17)
「まあ、時間がなかったんでしょうね。しかも、モニター用のスモール・フェーダーで。大きなフェーダーは使っちゃいけないと」
(17)
「結局、毎日少しずつレコーディングして、その日のラフ・ミックスみたいなのを録るじゃないですか。そのときはスモール・フェーダーを使ってるんですよ。そのほうがいいのね、乱暴で。大きいところはバーンって大きくするし、すごく明快なので」(17)
「YMOに限らず、ラフ・ミックスのほうがいい場合がよくあるんです。フェーダーが大きいと、それだけ用心するか ら。微妙に2デシ、3デシみたいなところで時間かけたり、エフェクトなんかもたくさん使いたくなっちゃうから、そうすると音楽の世界がどんどん縮こまって いくというか。それで、1時間半か2時間で1曲という、取り決めをしてやった覚えがあります」(17)

1981/02/26 『GORO』3月12日号(小学館)発売。
インタビュー/新LPは『BGM』バリバリの新しさに自信がある

1981/03/08 14:00 FM東京『レコパル 音の仲間たち』放送。
共演:糸井重里、伊早坂紀子、高橋幸宏
※編注:YMO『BGM』特集。

1981/03/10 YMO写真集『OMIYAGE』(小学館)発売。
写真解説/Image Collection by HOSONO
寄稿(YMO)/大量の誤解を期待する
インタビュー/Personal History
解説/YMO/BGM
※編注:三浦憲治による1980年の『FROM TOKIO TO TOKYO』ツアーの写真を中心に、メンバーのプライヴェート写真を織り交ぜて構成。写真の一部には細野によるキャプションやコメントが添えられている

1981/03/12 『週刊サンケイ』4月2日号(サンケイ出版)発売。
インタビュー/超人気"YMO"のリーダーが語るサウンド学

1981/03/13 スーザンのライヴを観覧。新宿/ツバキハウス。

1981/03/14 18:00 NHK『ぼくらのエレクトロポップスタジオ』放送。

※編注:作曲家・櫻井映子がアマチュア時代
(当時中学3年生)に出演し、シンセサイザー中心のバンド「コングラチュレーションズ」としてオリジナル曲のスタジオ・ライヴを披露。ゲスト出演者だった細野晴臣はその演奏テクニックを讃えながらも、「もうちょっとメチャクチャなものが聴きたい」などとコメントした。

1981 高橋幸宏のレコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

1981/03/20 『YMO百貨展』初日。池袋/西武百貨店池袋店8階 特別催事場。9階 屋上で糸井重里・高橋幸宏と座談会。

※編注:3月25日までの開催で、写真と所縁の品の展示、ツアー・パンフレット等グッズの販売が行われた。

1981/03/21 YMO『BGM』発売。
バレエ:produce, arrangement, synthesizer, mix
音楽の計画:produce, arrangement, mix
ラップ現象:produce, compose, words, arrangement, all instruments(except drums), rap, mix
ハッピー・エンド:produce, arrangement, mix
千のナイフ:
produce, arrangement, mix
キュー:
produce, compose, words, arrangement, synthesizer, TR-808, vocals, mix
ユーティー:
produce, compose, arrangement, voice, mix
カムフラージュ:
produce, arrangement, chorus, mix
マス:
produce, compose, arrangement, synthesizer, TR-808, mix
来たるべきもの:
produce, arrangement, mix
「あっという間の命だったんです、天下をとったのは(笑)。『BGM』は、もう後戻りできないようなものを作っちゃったんですね」(9)
「ウケる、ウケないっていうのを無視して作っちゃったんだ」(14)
「方法論は捨てちゃった。こうやったからこれだけ売れたとか、そういうものにいっさい触れたくない。分析もしたくない。新しいと思ってやったことはすべて自分のためになってるんだって自信があるから」
(14)
「少なくともベスト5にあのレコードが入ったらおもしろいなと思ってたんだけど、結果的に2位までいっちゃったね」(15)
「もちろん、その後のアルバムは売れ行きがガクッと落ちるだろうっていうことも、わかってたんだ」
(15)
「チャートにはともかくあがるだろう。でもそれをきっかけにして、次からは落ち目の評価をうけるだろうって」
(7)
「YMOの人気は下降線をたどる、と」
(14)
「あらかじめ予想をつけて」(7)
「本気になると、みんな聴かなくなるんですよね(笑)」(46)
「ま、自滅の方向をたどったわけです(笑)」(14)
「僕の責任ですね(笑)。ただ、メンバーもそういう気持ちだったからできたんですよ」(5)
「制作するうえで、イエローマジック現象を初めて意識したなという気がします」
(19)
「興味があるのは、YMOがどんなふうに聞かれているのかということ」(19)
「音楽療法とかに興味もあったし」(13)
「イエロー・マジックの音楽の1つの側面として"BGM"というものを意識してたの」(13)
「音楽というものはいろいろな効果をもっていますが、そのなかにBGMという効果があります。」(47)
「例えば『ライディーン』や『テクノポリス』を聞きながら、人は何をしているのだろうというか」(19)
「ボクなんかもクラフトワークとかのレコードをかけると部屋をきれいにしたくなったりしますが…
…」(19)
「『ライディーン』をかけたりするとお掃除に勢いがつくというようなのが、BGMの効果としては最大の働きで」(47)
「出始めの頃からそうだったけれど、そういう要素を強く持っているんですよね、YMOって」(19)
「そこに興味がある」(19)
「皮肉を込めて言うなら、イージー・リスニングとして聞いてくれてもかまわない。だからこそ、『BGM』なのです」(19)
「BGMってのはムード音楽みたいなもんだと思ってたから。まあどうでもいいような音楽を(笑)、称してBGMと、言ってたんだけど」(18)
「BGMというのはYMOの悪口として一時使われていたことがあるしね。実際よくBGMとして聴かれていたと思うし」
(6)
「BGMとして、イージー・リスニングとして聞かれてる」(13)
「『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』とか、ああいうレコードは。街で流れてたり」(18)
「一番顕著な例はそのー、例えば、デパート街を歩いてっと」(18)
「道で歩いてると聞こえちゃう、聞こえてきちゃう」(18)
「ああこれはーBGMだなあと(笑)。しかも誰かに言われたことがあってね。ある、音楽評論家に。YMOはBGMだと、断定されたことがあって(笑)、ああ、なるほどなと、こう思ったわけ。じゃあ次のそのー過激な音をね、これはーBGMにしちゃおうと」(18)
「皮肉の塊です(笑)」(5)
「イ エロー・マジック・オーケストラをYMOといってしまうとひとつの記号になるでしょう。イエローとか、マジックという意味がなくなる。それと同じように 『BGM』というのも、いわゆるバック・グラウンド・ミュージックという規定された意味だけじゃない広がりをもたせたいんだ」
(6)
「YMOのBGMは、音量によって、その効果が実をいうと違うんじゃないかと思います。」(47)
「多重構造っていうかね。ある意味では、どんな聞かれ方をしてもらってもいいように作ってあるし、音量の大きさによっても違った世界が広がってくるはず」
(19)
「音楽っていうのはヴォリュームに大きく左右されるということね。レコーディングの時のボクらはフル・ヴォリュームで聞いてるわけだし、レコードを聞く側の人たちも作る側のボクたちと同じ状態の時が一番いいんじゃないかと思ったわけ」(13)
「音 量を上げることによってYMO/BGMのもうひとつの世界が鮮明に広がるのです。それは多少の危険をともなっていて、その世界に没頭すると、ロマン神経症 ともいうべき病気になったり、逆にまた、鬱病が治ったりという期待以外の効果があるんじゃないかと思います。」(47)
「そしてさらに、口径が25センチほどのスピーカーを使用しますと、隠された重低音が出てくるので、物理的に肉体へ共振作用を及ぼし、たとえば脱腸になったり、痔になったりするかもしれません。逆に、腸閉塞や便秘が治ったりすることも考えられます。」
(47)
「一歩身をひいて、ボリュームを小さくして聴くと、全く邪魔にならないけど、入り込んで聴くとすごく刺激的で、愛欲とか、いろんな葛藤がドロドロとうずまいている。苦い薬をオブラートでつつんであるみたいな、そういう多重構造みたいなものがとても好きなんだ」
(6)
「いずれにせよ、刺激が強いので、5歳以下のかたは親の付き添いが必要ですし、80歳以上のかたは音量を上げて聴かないこと、とレコードには銘記しておくべきと考え、レコードの帯に入れました。」(47)
「まきこまれたくない人はBGMとして聞いて下さいと」(13)
「それを小学生が勢いで聴いちゃうわけです(笑)」(8)
「こんなアルバムを、みんな聴いちゃうんだぞと。ただ、それがいいことか悪いことかは、まったく考えなかったんだけど。セールスのことはまったく考えずに、とにかく『ライディーン』を聴いていた少年少女たちが『BGM』を聴くんだと思うと、うれしいわけです」
(17)
「子供を洗脳するっていう恐ろしい考えを持ってました」(5)
「かなり年齢の低い人も聞いているでしょうが、全てを理解できなくてもいいですしね」
(19)
「絶対、聴いて戸惑うのはわかってますけど、聴いてくうちにわかってくれるだろうと。『深く入り込む と病気になる』なんて言ったのは方便であってね。いつも表面でしか音楽を捉えてない人たちに、音楽ってのは一歩入るとすごい深い世界だっていう、感覚的な 喜びのある世界だってことをわかって欲しかったんですね」(17)
「聞く側にも刺激を与えたいから」
(13)
「非常に好きなレコード」
(9)
「とっても重要なレコードですよ」
(48)
「『いいものができそうだ』という予感と『いいものをつくるんだ』という意志だけを頼りの綱としてこさえたもんですから、どんなのができてくるかなんてことは、できてからでないと人には説明できませんでした。」
(47)
「メロディーに関心がなくなっていてね。だからって、リズムとかハーモニーというような細分化されたものに興味があるというわけじゃない。まず、具体的に言って、メロディーが邪魔なんです。そういう部分が、BGMというタイトルにも出てるんです、想いだけですけどね」(19)
「メンバーひとり一人の個性が強調されてきたという評価があるかもしれません」(19)
「自分の根っこを見せ始めてきた音楽、YMOで初めてミュージシャンとしてやりたいことをやろうとして作ったものだね。これは自然な流れとして、出てきたものだよ」(35)
「メンバー自身から出てくるものをそのままやってしまうという」(19)
「つまり基本的にノー・プロデュースの世界」(19)
そういう部分がA面で出てきているという言い方もできる」(19)
「YMO というグループを組織論として語る場合、個人のパーソナリティが出てくるのが、良い徴候なのか、それともある過渡的な現象なのかというと、実は両方なんで す。『BGM』にはその両方が出ています」(19)
「ふたり以上で作ろうとすると、結局誰かひとりの世界になってしまうのは分かっている」(19)
「それが、ユキヒロのものでも、教授の世界でもかまわない。それを3人の方法を持ち寄って作り上げるわけだし」(19)
個人でやってできるものを、YMOで作る必要はないという気持ちでやったけれど、個人が出てしまったという意味 では良くないのかもしれない。時間的制約があったためもあって、なにしろ曲を作るのはたいへんな作業だから…、そういう意味では、次にYMOがどんなことをやるのか、というのが見えるレコードです。つきつめれば、個人でやる音楽は、個人でやればいいということですね」(19)
「なんか説明できないけど、徹底的な影響力があってね。音質なのか。まあ、そういう分析はできないけど。音の塊としての影響力ってのは、特に外国の人たちに影響が強かった。潜在意識に影響するのね。本当にBGMなんだよね」(48)
「コンセプト自体もあると思う。人類のBGM」
(48)
モヤモヤとしている。エーテル・サウンドだね」(35)
「僕には静けさっていうのが感じられるんですよ」(17)
「気持ちは清々しいまま、音の静けさに向かって内向していたところがある。より精神的な音楽。そのぶん、非常に高揚して作っていた印象がありますね」
(17)
「幸宏と僕のコンビネーションで『BGM』を作り上げたっていう気分がある」(17)
「僕の中では、とりあえず幸宏の曲が『BGM』の中心にある曲なんです」
(17)
「彼にはそういう、YMOの音作りをある方向に持っていこうっていう、明確な意図があったんですね」
(17)
「それまではテクノというのは特殊な単純性を持ってて、クラフトワークのような独特の単純な音楽だったんですけど、『BGM』は非常に複雑に作ってあっ て、コンピューターが、テクノロジーというよりも、レコーディングとか曲作りのテクニックの中にかなり奥深く溶け込んでいて。もう一度もとに戻っちゃった というか、音楽的なニュアンスが。そこらへんでコンピューターが普遍性を持ちだしたというか、定着したんだなと思います。いつまでもピコピコやってたら、 きっと消えちゃったと思うんです」
(9)
「"BGM"というのはあの、登録商標」(49)
「BGMっていう会社があるの」(49)
「怒られた」
(49)
「その人が来て」
(49)
「『これは実は商標登録されてるんですけどまあ、いいでしょう』って言われて(笑)。そうだったんだ!と思って」(49)

バレエ
「僕は『バレエ』とか、本当に好きなんですけどね」
(17)
「あの音が」(17)
「当時、作曲よりもアレンジの面白さがすごく好きで、幸宏とのコンビが非常に面白かったんです」(17)
「音作りを二人でやった」(17)

ラップ現象
「僕にとってはちょっと困ってる曲なんですけどね。実験したけど、うまくいかなかったみたいな曲なんで」
(17)
「あんまり自分でも好きではない」(9)

ハッピー・エンド
「教授のシングルのB面、32チャンネルだから音をいっぱい入れた曲だけどその完成される前のものをYMOで使ってみたもの」
(13)

千のナイフ
「教授にあんな曲
(編注:「千のナイフ」のような曲)が欲しいね、って言ったんだけどなかなか出来なくて、結局あれを使うしかなくなった」(13)

ユーティー
「3人が喋っているのは、宇宙人について討論しているんです」
(39)
「イギリスのひねくれ者が、みんなこれがいいって言ってましたから、印象に残ってますね。そんなにいいのかねえと思ってました」
(39)

カムフラージュ
「『YMOは病気だ』というふうに言いふらして、世の中がそんな認知になっていたのがこのころだったと思うんですが、たぶんその原因は、幸宏にあると思う んですね。幸宏も僕も神経症なんですけど、僕は過換気症候群というもので、幸宏のほうは神経症恐怖症っていうのかな。発病するのを恐れるという、そう言っ てるだけの神経症。そういうことを自分の中に取り込んでいくという過程が、実はある種の治療なんですよね。YMOのサウンドの中でも、そういうことを補完 していく作業を随分やっていたことがあるんですけど、例えば、声をそのままで使わないで、フランジャーという機械を通して歌ったりとかね。決してロボッ ト・ヴォイスをやろうと思ってたわけじゃないんです。自分の歪んだ感じを、そこに出したかったんですね。それが病気っぽかったと言われる理由かも知れな いですね」
(39)
「『カムフラージュ』という詞の意味? 一人一人に思惑があるんでね。特に幸宏という人は、3人の中でいちばん謎ですから(笑)」(39)

マス
「この曲はやけに小学生に反応があってね。くらーい集団のイメージの曲です。ロシア語が入ってきて。行列のイメージなんです」
(9)
「『ひとりで寝るときにゃよー』っていう、そのメロディとおんなじだっていわれた」
(9)

高橋幸宏の証言
「BGMと言うと、誰しもがあるイメージを浮かべたり、感じたりすると思うんです。それに対する皮肉も含めた、つまりBGMです」(19)
「一番大きく変化したのが『BGM』の時でしたね。ファンを切り捨てるみたいな作業を自らしてしまったという」(5)
「それまで100万枚以上売れていたレコードを、いきなり30、40万枚に意図的に落としたわけですから」(20)
「結果的にそうなったということでしょうね。もちろん、裏切る楽しみっていうのはあったんだけど」(20)
「とりあえずファンの誤解みたいなものが、そこで一回整理されたのね」(50)
「音楽的にはぼくはすごく好きなアルバムなんですけれど、意識の面ではすごくネガティヴなことをやってるなって感じる。マスに対してサーヴィスもしてない。でも、皮肉なことにYMOのレコードの中で一番好きなアルバムなんですよね」
(20)
「もうモロにぼく自身のやりたいこととか、そのままやってるもの。もちろん、それが良かったか悪かったかは別としてね」
(50)
「音色的なトーンが好きなんだよね。コンセプトも」
(48)
「ロマンティックに暗い」(48)
「暗いですよ、とにかく」(21)
「重いよ」
(50)
「本当に重い」(50)
「『増 殖』まではみんなついてきたけど、あのあたりから変わってきて、『BGM』でいきなり内面的なものをがーっと出してる。反動が一気に出てるって感じですよ ね。いろいろ言われた反動が(笑)。どうだこれなら!って(笑)。そしてそれが見事に当たったんですよ。それまでいろいろ言ってた評論家たちが、いきなり 手のひらを返したように褒めはじめて(笑)」(20)
「むしろね、ぼくは楽しかった。これが正常なんだ、と。ぼくたちとマスは一瞬、交錯しただけなんだっていうことが証明さ れたようで(笑)。でも、交錯したときにYMOは、じゃあ、マスのほうに寄り添おうとはしなかったんです。レコード会社にとっては痛いですよね、それ。 『なんでもっと売れるものを作ってくれないんだろう』って不満は絶対にあったはずだし」(20)
「できるだけシンプルなサウンドを目指したし、逆にひとつひとつの音色を異常なまでに凝ってしまったんです。まともな音は使いたくないというか、ちょっと神経質になりすぎたくらいね」(19)
「リズムに16ビートを取り入れている」(19)
「根本的に違う点です。音色とかイメージの中にあるのは、東南アジア、ロシア、インド、もちろん日本を含めてね、そのへんの音がいっしょくたになって出てくるというか…。リズムは、ファンキーだし、なにしろ、出が出なもんでフュージョンをやっちゃおうみたいなこともあったし(笑)、単純に言っちゃえばね」(19)
「聞いてもらった時、理屈抜きに楽しいという感じはしないかもしれないけど、不快な音楽をやろうなんて思ってはいません」(19)
「不思議なことに教授色が薄いんですよね」(20)
「曲は、メンバー3人が同じ比重で担当してますが、それも、細野さんの配慮でね」(19)
「誰の面も強く出し過ぎないというか(笑)」(19)
「バラバラだもんね」(50)
「バラバラなんだけど、どっかにね、どうしようもなく結びついているところがあってね、わりとそこらへんがドロドロしてるの」(50)
「どちらかというと、細野さんの曲が少ないくらいだけれども、その分プロデュースをしているっていう彼の自負もあるしね」(19)
「僕は『BGM』には、結構教授の好きな曲があるんですけどね。本人はつらかったみたいだけど。まだ、立ち直るきっかけにはなってなかったみたいで」(17)
「確実にワールドツアーの名残がありますね。『千のナイフ』が入ってたりするのは、そういうところですから」(17)
 バレエ
「コンセプトは暗い」(20)
「暗いイメージ」
(17)
「タマラ・ド・レンピッカのことを歌ってるんですけど、霧の中にあるワルシャワな感じを勝手に描いていたんです」(17)
「彼 女はよくカラーの花を描いたじゃないですか。キュービズムっぽい、アール・デコが似合う絵。で、『古い色褪せたページをめくるとカラーの香り』という歌 詞。あの当時ねえ、なんでぼくはワルシャワに生まれなかったんだろうとか(笑)、あの人たちは激動の時代を生きてカッコいいなあ、とか(笑)。細野さんと 『闇の文化史』って本を読んでは、ベルリンにはローマニシェズ・カフェっていうのがあったらしい、こんなアーティストたちがカフェに集まってたりする時 代ってカッコいいなあとか話してたんですよ。わりと軽薄な憧れ感覚で作った曲ですよね」(20)
「耽美的なものが欲しくてね、それで教授に、そういうピアノを弾いてって言ったんです、確か」(17)
「SEっぽいのはあきらかに機関車のイメージ。あれは細野さんが音を作っていました」
(17)
 カムフラージュ
「細野さんが『こわい。子供に聞かせたら泣くよ』って(笑)」
(21)
「細野さんはベストテイクって言うんですけど、僕はそんなふうに思われるとは思わなかったところがあって。あのイントロの部分、僕が教授に口で説明して、弾いてもらったのを覚えていますね」
(17)

坂本龍一の証言
「細野さんの音作りの好みに左右されてます。」
(20)
「非常にアイロニカルなタイトル」
(26)
「たぶん細野さんはイーノ経由だと思うんだけど、もとを正せば、サティの『家具の音楽』っていうのが源流にあると思うんですよ。サティの真似をしているんだなと。そんな孫引きみたいなことをやっても、っていう感じがあったかもしれないですね」(17)
「本当は自分だって持ってる力を出してやりたいんだけど、そういうボタンの掛け違いがあって、ちょっと鬱屈しているところがあって。それが『音楽の計画』とか『ハッピー・エンド』とかの過激さにつながっていると思いますけど」
(17)
「非常に内向的」
(26)
「内向的ということは、無責任の反対、責任があるということだよね」(26)
「有名性をもってやんなきゃいけなくなってきて三人ともそれぞれの個性みたいなものを考えだしちゃってね。そうすると自分の音楽という、バンドのアルバムだけど、その中の個人の音楽性みたいなものを主張しだして、重たくなってきたわけね」(26)
「非常にヘビィ」(26)
「それぞれのキャラクターを表面に押し出して、超個人的な一曲、一曲になっていると思う」(27)
「YMOのアルバムの中でもメンバーの個性が強く出てるとか言われそうだけど、まあいろいろな戦いがあって、ボクが主張、表現できたのが、あの時点でああいう形になっただけです」
(19)
「結局一位にならなかった」(26)
「前が100万枚ぐらいで、『BGM』が30万枚ぐらいだったかな。すごい落ち方だよね」(17)
「みんな期待してたらさ、いきなり『BGM』でさ、ガクーッと落とされてさ」
(50)
「すごいひどいことしてると思ったよね。でも、ああいう偶然ていうか、売れたっていう情況がなけりゃ、あんなことはできないわけだからね」(50)
「ずいぶん離れたファンもいたんだと思う、なんだ、とか言って(笑)」(26)
「やっぱりすごく残念でしたね。どういう意味かっていうと、結局100万人が買ってくれたとしても、本当にYMOの音楽が好きで、僕たちのクリエイティ ヴィティを評価してくれていた人なんて、実はそんなにいなかったんだと。みんな付和雷同で買ってるわけでしょう。30万人でも、やっぱり3分の2ぐらい は、まだ付和雷同で買っているんだと思うし、本当にYMOが好きっていう人が、まあ10万人いるってことだけでもすごいことなんだけど。ある程度予測でき たとはいえ、ハッキリとそういう結果が出たんで、やっぱり残念でしたね。本当に聞いてくれない付和雷同のファンがいてもしょうがないんで、そういう意味で は幸宏と同じ感情なんだけど。まあ別に聴いてくれなくてもいいやっていう、驕りというか(笑)」(17)
「ボクの『B-2ユニット』の影響を少なからず受けていると思います」
(19)
「『B-2ユニット』は、極私的な作業で、つまりレコードという商品を極個人的にでっち上げたという趣味性の極致ということで個人的に評価しています。音 楽が人様に与える影響というのは、とてもおさえてあるしね。"音楽をこわす"なんていうのではなく、どこまでマス・メディアを私的に、乱暴に利用するかと いうコンセプトを持ったアルバムなんです」
(19)
「だけど、それだけでは人様が聞いて面白い音楽を作ることができないことが分かった、遅ればせながらね。自分が0 (ゼロ)に近づくだけで、何も生まれてこないと気づいたんです。その結果、歌を作ったり、歌ったりする共同作業が見えてきた。歌う人と聞く人の関係とか、 ひとつの音楽を作る場合の共同の作業などがね。これには、例えば、偶然とかノイズなどのファクターが入り込んできたり、主体が分散したりするわけ、そこが 面白い。そして、そういう作業の中から、音楽というか、歌として力の強いものが生まれてくる可能性が高いと」(19)
「そういう前提があって、音、サウンド、リズムという表面的な部分だけを見ても、『BGM』には『B-2ユニット』の影を感じるんです。B面の語りのところなどもその影響と言えるかもしれない」(19)
「ある意味で、ボクが細野晴臣というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワー・アップしている」(19)
「決して嫌いなアルバムじゃないんです。でも、当時はやっぱりちょっと甘いなと感じていましたね。それは幸宏のせいなんですけど。幸宏の楽曲がちょっと甘いから。でもね、幸宏の甘い部分がなかったとするとさ」(17)
「幸宏のああいうロマンティシズムみたいなものがまだ保たれていたから、YMOのアルバムとして、人によってはいちばん好きなんていう傑作になっていると 思う。あれがなかったら、もっと本当にザラザラしてるだけの、なんだかわからないものになっていたと思うし。アングラの人には、もっとウケたかもしれない けど」
(17)
「結局『BGM』の印象を取ると、幸宏のそういう甘さとかロマンになるんじゃないかと思います」
(17)
 バレエ
「『BGM』というアルバム全体を支配している『暗さ』は、この『BALLET』によるところが多いと思います。変な言い方ですが、最も『BGM』的なトラックではないでしょうか。『RYDEEN』とも異なる、甘い暗さですよね。」
(43)
 音楽の計画
「作った意図は、YMO的なものをマイナスにもプラスにもしないし、延長線としてひきずるのでもなく、自分を0(ゼロ)にしようとした作業の結晶ですね」
(19)
「レコーディング中に作ったこともあって、かなり短い時間内に作らなければならなかった。その短時間ということから、本音の部分が出てきた」(19)
「比喩的な表現が多少あるけれど、詩的立場から見れば単純なもので、神と人間に関してとか、祭りに関してとか、音楽のありようとかを、心情、思想を含めて、ダイレクトに表現できたつもりです」
(19)
「まだ少し知的なインテリゲンチャ的部分を残していた」(19)
 ハッピー・エンド
「細野さんへの嫌がらせかな(笑)」
(17)
「3人ともツアーでものすごく精神的に参っていたから、『ハッピーエンド』は、もう辞めてもいいんじゃないっていうような気持ちを投げたんじゃないかな」
(17)
「これ以上、お互い傷を深くするのはやめようよっていう。美しく終わっておこうっていう」
(17)
「シングル用の『ハッピー・エンド』が、えー元でして、で『BGM』用に、えーそれを、一応いじくって、こういうふうになったと」
(51)
「ちょうど『BGM』を、録音してる時に、作ってたわけですね。それでそれを聴いた、細野さんが、えー『どうしてもこれを 入れたい』というふうに、えー、プロデューサーですからね、おっしゃったんで、えー『BGM』に入れたと。それで、えーまるっきり、おんなじじゃ能がない ので、えー、なんて言うのかな、いじくってね」
(51)
「違うんですよね、音が。元になってるね、録音した時の音はおんなじなんですけども、それを、なんて言うのかな、仕上げる段階でいろいろ変えちゃうわけですね」
(51)
「換骨奪胎したようなものですね」
(17)
「コード感がかなり薄れていますよね。もともとのコードは、かなりクラシカルでシンプルな、マイケル・ナイマンかなんかに影響されている曲なんですが」
(17)
「けっこう密室的ですね」
(19)
「ボクは、脈絡づけないと気がすまない傾向があったけど、それより自分をそのまま出すというか、矛盾は矛盾のまま形にしようと思ってね。あの曲、ボクにもよく分かんないところがあるんです(笑)」(19)
 千のナイフ
「ツアーでやっていたから、たぶんもうYMOの曲のようになっていたと思うんです」
(17)
「モジュレーションがかかってるような感じで。和声が壊れた感じっていうのかな。すごく快感でしたけどね。中間のシンセ・ソロは、かなり気に入っていますね」
(17)
 キュー
「2人は『キュー』を、とても大事にしている」
(17)
 ユーティー
「なんでしょう、この熱に浮かされたようなエネルギーは? さまざまな感情が非常に複雑に絡み合っているのを感じます。とても変な連想かもしれないけど、シューベルトの『魔王』を思い出してしまうんですね、ぼく は。音質のせいかもしれないけど、とてもドイツっぽいです。ゲルマンの森を疾走する、何だかわからない『魔』的なもの…。」
(43)

小池光夫の証言
 ラップ現象
「『バカバカバカ
…』っていうのはデジタル・ディレイのフィードバックなんです」(30)
 マス
「『あ』『う』って声が入ってる」
(30)
「細野さんの声をテープに録って、ループにして、リズムに合わせて使ってるんです」(30)

ピーター・バラカンの証言
「歌詞を作るのはいちばん最後でしたね。彼らってスタジオで曲を作り始めるでしょう。それで最初に3日ぐらいかけてリズム・パターンを録っていくっていう パターン。とにかく時間がかかったし、スタジオ代はすごい額になってたと思うんだけど、こんなに時間とお金を無駄にしていいの?って不思議でしたね。日本 の音楽業界の仕組みもずいぶん勉強しました。日本だとまず発売日があって、それにあわせてレコーディングしなきゃいけないって知ったんだけど、スタジオに 来てから曲を作り始めるYMOが、レコード会社の決めたスケジュールを守れるわけがなくて(笑)、案の定、発売日の1か月前、ジャケット周りの印刷の締切 日が来てもまだ曲名も決まってない(笑)。曲名が決まってないのに歌詞なんか、もちろんあるわけないじゃない(笑)。"印刷の締め切りはきょうなんですか ら!"ってせかされて、メンバーは"じゃあ、この曲のタイトルはこうしよう"なんて、初めて決めにかかるんですよ。この時点では1曲も完成してない、歌詞 なんか影も形もない。歌詞カードなんて作れるわけがない。だから『BGM』には歌詞カードが入ってないんです(笑)。歌詞ができたのはだから、当初の予定 よりずいぶん後ですよ」
(36)
「まず、彼らがそれぞれ日本語で歌詞というか、言葉を考える。その言葉を僕がメロディに合うように英語に訳して、韻を踏ませてっていう」(36)
「『BGM』のときはわけもわからず夢中にやってたっていう印象」(36)
「五里霧中の作業で、あのときはまだ韻を踏んでなおかつカッコイイ言葉にする余裕まではなかった(笑)。なんとか歌詞の形にはなってるんだけど、それ以上のことができなかった」(36)
「とても暗いレコードですよ。題材もそうだし、音的にも『BGM』のB面を聞いていると体調がほんとに悪くなっちゃう時があった」
(37)
「『BGM』以降のYMOは、外国ではレコード会社レベルで、まずシングル・カットできる曲がないとか言われて、シングルがないとその時点でラジオにかか らなくなって、誰も知らなくなるという悪循環が始まる。雑誌のレコード評も悪くなる。そうするともう駄目ですね。シングル・カットしてプロモーションが行 われていればもうすこし可能性があったのかもしれないけれども」
(37)
 ラップ現象
「先取りだった。ラップ・ミュージックってそもそも79年に"ラッパーズ・ディライト"がヒットして始まったようなものなんだけど、81年の当時は日本で はまだほとんど知られていなかったでしょ。そんな時期に細野さんが"超心理学のラップ現象と、音楽のラップ・ミュージックをひっかけてやろう"って言われ て、それを僕がちょっと発展させたんですが、細野さんはさすがですよね。あんな早い段階でラップがおもしろいって直感したんですね」
(36)
 マス
「僕、高校の頃ロシア語を習ってたんですよ」
(36)
「偶然というか」(36)
「ナレーションは英語だけじゃなくてロシア語でも入れたいって言われて」(36)
「その場に他にできる人がいなかったからという理由で担当したんだと思う。また"お前やれ"ですよ(笑)」(36)
「ところがロシア語はもうさっぱり忘れちゃってて、スタジオの近くの本屋に走って、辞書と首っぴきで訳しました。だから、ひょっとしたら『マス』のロシア語はまちがってるかも(笑)」(36)

奥村
靫正の証言
「1980年のツアーに出る前から『BGM』の構想はあって」(52
「従来のジャケット・デザイン制作の流れって『音が出来た。じゃあ、これはだれにデザインを頼もうか。やってくれる?』みたいな」(52
「彼らから『もうそういうやり方はやめよう。最初からヴィジュアルも込みで音と一緒に』と」
(52
「最初から一緒に、僕が、いわばYMOの一員のような形でやれないか、という話になったんです」(52
「意匠については、僕の興味とチャレンジですね。そこは全部任されていた」(52
「できるまで見せませんでしたからね」(52
「その代わり、スタジオにしょっちゅう通って、音をデモ段階から聴いて、イメージを作っていきました」(52
「まだアルバムのレコーディングも全然終わってない時期だったんですけど、このデザインのラフを持っていって、こん なのどう?って」(31
「僕の絵です。水彩で描いたやつ。どこかの展覧会で飾っておいたら盗まれちゃったんだけど(笑)」(31
「表ジャケットにメンバーの写真も載せなかった」(31
「同時に『OMIYAGE』っていう写真集を出してるでしょ。あれがあるからレコードのほうはいいんじゃないかってことだったかな」
(31
「マスに媚びない、迎合しないっていう」(31
「オリジナルのアナログのジャケットだと、カラーのイラストの上に白のインクを重ね刷りして、このイラストがすごく薄く、あいまいに見える ようになってたんです」(31
「4色刷った後に白のオペーク・インクを2度かけた6色刷りなんです」 (53)
「そのぶん温泉マークがくっきりと浮かんで」
(31

村井邦彦の証言
「いいアルバムなのかもしれない」(30
「でも『BGM』が出て、その前は200万枚とか記録的な売り上げだったんだけど、『BGM』になって突然、10万枚とか5万枚って数字になっちゃう」
(30
「そりゃ小学生はわかんなかっただろう」(30
「ビジネスとして考えた場合に、YMOのファースト・アルバムやシングル<ファイヤー・クラッカー>にやっと火がついたくらいのところで、それとまったく違う音楽を作ったらせっかくついてくれたお客さんは戸惑って買わなくなっちゃうでしょう」(54)
「で、自分としては当時"いったい何をやろうとしているのかまったく理解できない"と、この状況に対してかなり強烈なメッセージを発したことがある」(54)
「要するにこっちはちゃんとビジネスを考えているのに、ここでその段階を踏む作業から外れてはいけない、と。ただ、その真意は本人たちには…たぶん伝わらなかったんじゃないのかな」(54)
「彼らが現代音楽的ないい音楽をやるんだったら、それは趣味でやってくれと。あんなのを聴くんだったら、僕はクラ シックだとか現代音楽を聴いたほうが楽しいと思うよ。誰かが作ってくれて、自分の家で聴くんだったらいいけれど、自分の会社で作ってこれを売れっていうの はシンドイよね」(30

小尾一介の証言
「あの頃は誰もYMOに口を出すのが難しくなっていたんじゃないでしょうか。それはメンバーの人間関係だけじゃなく、その周りのスタッフ、 マネージメントも含めてとりまとめるのが難しかったという意味ですけれど、制作担当者としての自分はメンバーより年下だし、音楽的に口出しすることはな い。ただ、いい作品であるということは思っていたから、外に対してはそのクオリティの良さを押し出したという憶えがありますね。それは、僕も2回目のワー ルド・ツアーにベタで付き合って、門前の小僧習わぬ…じゃないけど、当時の時代意識を共有していたからです。海外の最先端のロックの波長にあっているもの が『BGM』だったと思います。そういう意味ではあれはアルファが目指したワールドワイドな製品なんですよね(笑)。英語圏で流通させるために英語で歌っ ているし。自分でも現場ディレクターとして、YMOの真のファンだったら買うだろうなというアルバムを担当したという自負はありますよ。ただ商売のことで 言えば、それまでと比べるとガクンとセールスは落ちた。あのアルバムはジャケットの印刷に特色を使っていて、印刷に時間がかかるんですよ。僕は『増殖』の 時にバック・オーダーが来ても即時対応ができなくて大変だった経験があったから、『BGM』はかなり多めにプレスしておいたんです。ところが在庫が残った ままになってしまって…。あの時にセールスの不振を実感しましたね。YMOは人気の頂点にあり、それ以前のアルバムも依然として売れていたからその流れの 中で"こういう難しいのも1枚くらいはいいかな"と思っていた部分もありましたけど」
(54)


1981/03/21 YMO『BGM』TV-CM放送開始。

高橋幸宏の証言
「くだらないですねえ。こういうのがYMO、好きだったんですねえ。まあやっぱり笑いは必要だと。必ず」(41)

1981/03/21 『YMO百貨展』でYMO座談会。池袋/西武百貨店池袋店9階 屋上。


1981/03/21 YMO、アルバムの制作を開始。

「最初は確か、『体操』を教授に依頼したんですね」(17)
「ミニマルでと注文して」
(2)
「ミニマルの手法も全部、教授の中にあるものですけどね。僕がこのときリクエストしたのは、ジョン・ケージのプリペアード・ピアノです。あのアルバムをちょうど聴いていたころで、それがとてもポップに聴こえたんですね」
(39)
「ミニマルなピアノを。プリペアード・ピアノみたいなものを作ってみてくれないかと言ってたんです」
(17)

坂本龍一
「最初かどうかわからないな。そういうミニマリズムっていうのは、たぶん当時は彼らは、そんなに聴いていなかったと思うんですよ。だけど『シンセを使わな くてもYMO』っていう意識はあったから。ピアノをメインに使うことにも、もう抵抗がなくなっててね。むしろピアノを使うことで、スティーヴ・ライヒ的な ミニマリズムの影響を、ポップスの枠の中に持ちこめるというか。ポップスの文脈でも成立するんじゃないかっていうような、すごく前向きな気持ちがしたの を、よく覚えていますね」
(17)

高橋幸宏の証言
「『BGM』ではやり足らなかった感じをみんな持ったんじゃないかな」
(20)

1981/03/22 『YMO百貨展』でYMO座談会。池袋/西武百貨店池袋店9階 屋上。

1981/03/24 『YMO百貨展』で金井南龍・武田洋一と座談会。池袋/西武百貨店池袋店8階 スタジオ200。


1981/03 『FMスペシャル』5月号(音楽之友社)発売。
対談/テクノDEデート 只今、音楽に没頭中。 細野晴臣 VS 真行寺君枝

1981 高橋幸宏のレコーディングのためロンドンへ出発。

高橋幸宏の証言
「当時、ピーター(・バラカン)が僕らのマネジャーみたいな立場にあったので、ピーターと2人でロンドンに渡って合宿生活をしながら作ったんですよ」(55)
「アルファが用意してくれた部屋があって」
(55)
「EX3人、PLASTICSのハジメが泊まってたし、サンディ+サンセッツもいたし、もちろんチカやトシもいたし、当然細野さん、ケンジ、松武さんも僕のレコードに参加するためにいた」
(56)

梅林茂の証言
「フラットにベッド・ルームが3つぐらい」
(57)

1981 高橋幸宏のレコーディング。ロンドン/エア・スタジオ。

1981 ニコラス・ローグ監督の映画『地球に落ちて来た男』(デヴィッド・ボウイ主演)を観る。鋤田正義が同行。ロンドン。

「オールナイトで」(58)
「ノー・カット版を見ました。スキタさんにさそわれて、ついにボウイのおちんちんをはからずも垣間見てしまった。」
(58)


1981/04/4 3:00 FM東京『スピーチ・バルーン』放送。
DJ:大滝詠一

1981/04/04 加藤和彦のレコーディングのため、空路フランスへ移動。高橋幸宏、大村憲司、ピーター・バラカンが同行。パリ郊外/シャトー・デルーヴィル着。

「パリ郊外にあった古城のスタジオでやったレコーディング」(59)
「すごい田舎の畑のど真ん中、幽霊屋敷みたいなわけ」(guts8110)
「寝泊まりしての作業だったんだけど、おばけが出そうな雰囲気で怖かったし、実際、奇妙な音がしたりしていたから、結局みんなで近くのホテルに泊まることにしたんだよね」
(59)

高橋幸宏の証言
ドゴール空港についた僕とケンジ、細野さん、そしてピーター・バラカンの4人は、先のりして迎えに来ていたわがオフィスの伊藤さんに手を振った。」(61)
「飛行機嫌いの僕ではあったが、ロンドン - パリ間約45分程度のフライトなら、まだ少しは元気も残っているようだった。」(61)
「パリ郊外ということだったが、約一時間ほど走っただろうか、そこは本当にフランスの片田舎の小さな村のはずれにたたずむ、まさに石でできた大きなお城といった風であった。」(61)
「中に入って居間とダイニング・ルームを兼ねている大きな部屋のドアを開けると、トノバンと奥様のズズ、そしてレコード会社のスタッフ等が、ニコニコして『ようこそっ』と言った。僕らも軽く会釈してこたえる。」(61)
「『いや〜、想像してたよりも、もっとスゴイとこだね』」(61)
「『でもね、ユキヒロ、ちゃあんとシェフがいて、料理とワインはバッチリだからね』」(61)
「トノバンの声がいつになく弾んでいる。」(61)
「『いや〜、おもしろそ〜』」(61)
「細野さんが子供のような顔になってつぶやいた。ケンジもピーターも、なんだかうれしそうだ。僕はちょっと嫌な予感がしていた。」(61)
「その日は教授夫妻がまだ到着せず、セッションはなかった。スタジオを下見して、注文しておいたドラム・セットをチェックすると、案内されるままにそのスタジオ(?)ご自慢の宿泊施設とやらを見に行った。」(61)
「さっきの予感は、当たった。まことに大きな部屋である。ホテルのスウィーツどころではない。天井はバカみたいに高く、壁は石でできている。」(61)
「『ここに寝るのか』」(61)
「僕は心の中でつぶやいた。せめてもの救いはその部屋が僕一人きりのものではなく、それぞれ隅にベッドが置いてある、とりあえずは僕、ケンジ、細野さんの3人用の部屋ということだった。」(61)
「『3人なら、そんなに恐くないか』」(61)
「僕は自分に言い聞かせるように、もう一度心の中でつぶやいていた。」(61)
「夕食は素晴らしく美味だった。フランスの田舎の家庭料理といった風で、決して豪華とは言えないが、僕の空腹は次々に満たされていく。そして、これまた高価ではないが、素朴な味の飲みやすいワインとまじわって、みんなを楽しくさせるには十分なものだった。」(61)
「ふいにトノバンが言った。」(61)
「『ユキヒロたちの部屋、なんか雰囲気すごいでしょ』」(61)
「『うん、けっこうキてるよね』」(61)
「僕はあいまいな返事をした。どういう意味でスゴイのか、よくわからなかった。」(61)
「『あそこは出そーだね』」(61)
「細野さんの低い声。」(61)
「『ウン、ありゃ、絶対出る』」(61)
「ケンジもあとを続ける。『やっぱりだ』僕は思った。みんなもそう感じていたんだ。じわじわと、しかしあきらかに、あせりが出始めていた。」(61)
「食事の後は、暖炉の前に陣取っての楽しい会話となった。ロンドンではこんな曲が流行ってるよ、とか、世界のどこど このスタジオはこうだ、とか、誰々も何日にロンドンに着くらしいから、ますます日本はガランとしてさびしいだろうね、といったまったく他愛もない話であっ た。」(61)
「『さあて、今日はもう寝ますか』」(61)
「誰かが言った。ドキッとした。いよいよあの部屋へ行って寝るのか。覚悟を決めなければ。『しかし、3人だ。なんのことはない』僕は一番先に部屋に入ると、寝るしたくを始めた。」(61)
「『なぁんか、ここ気持ち悪いな』」(61)
「細野さんが言った。触れたくない話題であったが、ここはわざとでも言葉にしたほうが気が楽だ。」(61)
「『絶対、ヤだよね。夜中に鎖を引きずる音とかしてさ、うめき声なんか聞こえてきちゃったりしてさ、ウワ〜ッなんつって』」(61)
「僕は大きな声で明るく言ってみた。」(61)
「『やめてよユキヒロ、それマジに恐いヨ』」(61)
「ケンジがまじめとも冗談ともつかない様子で言う。」(61)
「『ウン、そりゃ嫌だなぁ』」(61)
「細野さんも、半分笑いながらもちょっと真剣だ。」(61)
「『でもさぁ、ウウ〜ッ、ウウ〜ッとかって』」(61)
「自分が恐いものだから、僕の声はよけい大きくなった。みんながベッドに入って明かりを消してからも僕は続けた。」(61)
「『やめてよ、ユキヒロ』『やめてくれ〜』」(61)
「ケンジも細野さんも悲鳴を上げる。さらにおおきな声で、僕は続けた。」(61)
「ふと気づくと、まわりはシーンとしている。まさか、と思った。いくらなんでも2人とも寝てしまうには早すぎる。」(61)
「『ケンジ、細野さぁん』」(61)
「……返事がない。しまった。先に寝られてしまった。しばらくすると外から聞こえる鐘の音。」(61)
「身動きできないほどの恐ろしさが僕のまわりを包む。」(61)
「『ケンジ、細野さん、鐘が鳴ってるョ』」(61)
「返事はない。」(61)
「あれ? 何だろう。ヒタヒタ。どこからともなく足音が聞こえる。」(61)
「僕は混乱し、恐怖におののいた。しかし、そんな僕の状況をよそに、足音は次第に大きさを増し、僕らの部屋の前でピタリと止まった。」(61)
「にぶい音を発して、ドアが開いた。」(61)
「『うわぁ〜ッ!!』」(61)
「僕は誰にはばかることなく、大声で叫んだ。」(61)
「『ねぇ、変なうめき声聞こえなかった?』」(61)
「トノバンだった。ニコヤカな彼の表情とは反対に、そのとき僕は、ほぼ失神状態にあった。」(61)
「あくる日から、僕のこの話はみんなの笑い話となった。結局、一睡もできなかった僕は、近くにホテルの部屋をとってもらい、そこから通うことになったのである。」(61)

加藤和彦の証言
「YMO全員いる。だから彼らの発散にもなってたんだね。特に『ベル・エキセントリック』はパリ郊外のシャトーっていう隔絶された所でやったから」(62)
「シャトーを改造したスタジオ」
(63)
「シャトーの一番上の教会の所がスタジオになってる」
(62)
「シャトーとはいうもののドラキュラ城なのよね、部屋が。部屋割りしてみんなブウブウ言ってるから、好きな場所に替わっていいよって」
(62)
「悪いんだよ、細野さん。幸宏が怖いから、一緒に寝るって細野さんと一緒の部屋で、幸宏が寝たのを見ると、『ウォーッ(笑)』。幸宏、ガバッと起きる。『なに、なに』、意外と細野さん悪いんだよ」(62)
夜中の遠吠え合戦」(62)
「細野さんいちばんうまいんだよ。」(62)

坂本龍一の証言

「パリから、そうですね、えー、タクシーに乗って行きまして、大体40分ぐらいですか。えー、見渡す限りの田園でして」
(64)
「ほんとに地平線までこう田園、フランスの田園風景でしてね。で、そこにポツンとこう、村があって、教会があって、それでその辺の領主さんのですね、おで えかん様ってやつ、あのーお代官様の、あのお城があってね。シャトー。そこが、昔からあったとこなんですけどもね、そこを、スタジオにしまして。その一角 を。で、えーと、そこの、シャトーっていうスタジオはですね、えー昔は、T.レックス、えーローリング・ストーンズ、デヴィッド・ボウイと。でその、大昔は ですね、ジョルジュ・サンドとショパンが、なんと、いたという。そういうとこなんですけども、ほんとにガチョウは鳴くわニワトリは走るわ、猫は子を産む わっていう所で、えー、シャトーとは名ばかり、ほんとに田舎の、フランスでしたけども」
(64)
「屋根裏部屋を、改造したような、感じでして。えー、さすがにね、ヨーロッパですね。あのー柱に、キリストが、キリ ストの十字架が、かかってまして。であのー天井、天井から、えー大きなね、鋼鉄製の、シャンデリア、ですか。かかってました。今にも落っこって来そうでし た。であの、えースタジオの外の、鳥の鳴き声とか、どんどん、聞こえちゃうんですね」(64)

折田育造の証言
「パリから北に30キロくらい行ったところです。完全に林の中のお城、中世の荘園ですね。それこそ18世紀、ジョルジュ・サンドとショパンが住んでいたところ。それを1960年代にフランスの作曲家、ミシェル・マーニュが買い取って離れをスタジオに改造したのです」(65)
「住環境という点ではまったく素晴らしかったですよ。オアーズ川が近くにあり、そこにはいかにもヨーロッパらしい船 で生活しながら旅する人たちがいたりですね。毎朝シャトゥの玄関にはバゲットが籠で届き、ワインセラーがあり、生ハムは食べ放題みたいな。玄関には山羊や 鶏が放し飼いされ、テニスコートがあり、乗馬も可能。文字どおり"時間が止まった"ところでした」(65)

牧村憲一の証言
「加藤夫妻と、レコード会社の担当者である折田さん、そして僕が先乗りしました。他のメンバーは翌日という段取りです」(65)
「気分よく動けたのはシャトー到着までで、早速問題勃発でした。まず電圧が致命的に低いんです。それと届いているはずのSEQUENCIAL Prophet-5などの機材が届いていない」(65)
「電圧は何とかなったんですが、Prophet-5はパリ中探しても見つからない。しょうがないからロンドンに電話して急遽送ってもらったんです」(65)
「宿泊設備がこれまた問題でした。50年だか100年だか前のダブルベッドに毛布一枚しかなくてすごく寒かったんで す。翌日からは急遽シャトーのそばのビジネス・ホテルに移りましたけど、メンバーからは"ビジネス・ホテルの方がお城よりいいじゃん"って言われました (笑)。そんな感じで、当初のトノバンのもくろみははずれた面もあったりしましたが、食事はたしかに給仕付きのフレンチでよろしかったですね。何であれ、 こういう短い期間でもメンバーと一緒にトラブルも含め共有していくというのは、やはり重要だとは思いました」(65)

1981/04 加藤和彦のレコーディング。パリ郊外/シャトー・デルーヴィル。

「すごくひなびた音がしていいんですよ。ただ、機械の故障はしょっちゅう、慣れっこです。自分でも直しましたよ」(guts8110)

牧村憲一の証言
「セッションはトノバンが持参したデモをみんなに聴かせるところから始まりました。4トラックとかで作った簡単なものですけどね。その後は譜面を使うので はなく、ヘッド・アレンジで進行していきます。基本はトノバンが"こんな感じにしたいんだよ"って方向性を提示し、みんなでふくらますというようなやり方 です」(65)
「シャトーでは6曲録音したんですけど、全員で演奏したのは4曲だけです。あのメンバーですから、すぐにいいテイクが録れました」(65)

高橋幸宏の証言
「シャトーのスタジオは、ドラムの自然の鳴りがすごくよくて。もともとお城だったから天井が高くて石がたくさん使われていてね。だから自然のエコーがかかるんで、それをゲートで切るような加工も簡単にできる」
(65)

加藤和彦の証言
「一時ドラキュラごっこが流行って、幸宏がまたうまいんだ、仮装が。ご飯食べてると、変な格好でこんなやって出てくる」
(62)
「それで一応、全部発散させて、その次は教授が急に『「コンバット」に似てない?』って(笑)。みんな全部名前がつ いて、『坂本大尉殿』、『戦メリ』の前よ。なんだか知らないけど、教授がいちばん偉くて、坂本大尉、細野さんも大尉かな。幸宏も高橋なんとかってランクが ついてて、僕なんかずっとトノバン。階級無しなんだよね。教授がいちばんハジケるじゃない、ああいう時って。ピーター・バラカンなんか泣いてた。『おっ、 異国の奴だな、敵性だ』とか。ハジケっ放し、みんな。『今日は敵性用語無し』。『よし、これから録音に行く』だもん。一日中やってた。どこも出かけられな いから、欲求不満の極致じゃない。シェフとかみんなついてるから、聞きに来るの。『夜ご飯、何にしましょう』とか、フランス語しか喋れない。レコーディン グの途中に入ってきちゃうの。真面目にやってる時に、『食事が』って」(62)


1981/04/08 『ロッキンf』5月号(立東社)発売。
インタビュー/"多層構造"という言葉が今のボクらを解く鍵なのです


1981/04/11 3:00 FM東京『スピーチ・バルーン』放送。
DJ:大滝詠一

1981/04/14 スペイン/イビザ島へ移動。

1981/04 サンセッツのレコーディング。イビザ島/イビザ・サウンド・スタジオ。

「倫敦では高橋くんのレコウディング 巴里では加藤くんのレコウディング 伊美座では久保田くんのレコウディング、おてつだいばーっかりですごくおもしろかった。」(58)
「アトランティスの末裔かと思わせる島の住民が暮らす反面、レイヴで有名なおちゃらけた島だけど、そういうビーチには全然足を運ばず、山の上にあるスタジ オに寝泊まりしながら作業していたんだ」
(59)
「エスプレッソ・マシンが置いてあって、自分で淹れるスタイルだったんです。そこで中毒になっちゃった」
(67)
「レコーディングスタジオにはコーヒーメーカーがあって、自分で淹れたり、あるいは煮詰まったコーヒーがポットに入れてあったりして、知らないでそれを飲 み続けていたんですよ。そうすると、必ず調子が悪くなって、最初はそれに気づかなかった。ところがローストしてあるコーヒーではそうならないことに気がつ いて、それからは深煎りのローストを飲むようになったんです」
(67)
「何週間か滞在した」(67)
「曇っていたり雨が降っていたり、ちょっと暗い雰囲気で、とてもおもしろかったよ。でも、金縛りにあって、一人で山 を下りて海辺のホテルに泊まったこともあったな…」(59)


1981/04/15 『音楽専科』5月号(音楽専科社)発売。
インタビュー/新作のタイトル"BGM"には多少の皮肉もある、フル・ヴォリュームで聞けばわかるよ


1981/04 『遊』5月号(工作舎)発売。
インタビュー/TECHNO 観音 青霊 菩薩


1981/04/21 YMO「キュー/ユーティー」発売。


1981/04/21 22:20 NHK-FM『サウンド・ストリート』放送。
DJ:坂本龍一
※編注:坂本龍一がパリで録音した加藤和彦のレコーディングの模様を断片的に放送。細野晴臣の声も聴ける。

1981 板倉文明からチャクラのレコーディングへの協力を依頼される。

「突然、ギターの板倉文明くんに頼まれたんだよ。」(68)
「4〜5月ごろ電話があって」(69)
「リーダーの板倉クンが『ぜひレコーディングのアドバイザーとして来てください』というので、OKしたんです」(69)
チャクラというと、いい意味で、できあがっているグループなんで…。ボクの思っていることを実現するには、バンドを解体しなくちゃいけない。緻密に手を加えられないので、"音"を管理することに徹しようと、それなら協力できるんじゃないかと…。板倉クンの音楽に対する今の気持ち、音楽に対する接しかた、をわかってあげて、よき相談相手になってあげようと思ったんです」(69)
ほんと、急にやることになっちゃって。でも、前から美潮には興味があったんだ」(68)
「チャクラの魅力というとヴォーカルの美潮なんですよ。あのヴォーカルが好き。美潮のエネルギーが中でかっとうしているんですね。音楽のための音楽か、そうでない音楽か、よく言い表わせないけど、そんなもんです」(69)

板倉文明の証言
「プロデュースも自分たちでやろうと思ったんです。だけど、具体的な音というより、もっと重要な雰囲気を創り出してくれる良きアドバイザーが欲しい、とい うことで細野さんに電話をしたんです。『いっしょにやってくれませんか?』。そうすると『べつに名目なんかは何でもいいから、いっしょにやってみましょ う。とくにエンジニアとして加わってみたい』と快諾してくれたんですね。バンドとして願ってもない正しい判断をしてくれるひとがみつかったわけです。いろ んな音の録りかたのテクニックのアイディアも出してくれそう
…ということで…」(69)

小川美潮の証言

「渡辺音楽出版の人は引き続き矢野(編注:誠。前作のプロデューサー)さんにと思ってたらしいんですけど、私たちも子供だったから、何をどう言っていいか わからず、矢野さんと次作のミーティングをするところまで来ちゃったんですね。その場で『今度は細野さんに頼みたい』って。それで細野さんに聞いてもらっ たら、『バンドとしてのサウンドはできてるから、僕が介入できるところはあまりないと思う』って言われて」
(70)
「『困ったことがあったら協力する』ということで、関わってくれたんですね」
(70)

※編注:板倉文明はのちにアーティスト名を「板倉文」と改める。


1981/05/13 『高一時代』6月号(旺文社)発売。
インタビュー

※編注:「YMO Special」と題した大特集号。


1981/05/20 11:20 日本テレビ『11PM』放送。
司会:愛川欽也、かたせ莉乃
出演:今野雄二、川添象郎、サンディー、小野ヤスシ、


1981/05/21 大貫妙子『アヴァンチュール』発売。
最後の日付:bass


1981/05/21 YMOファンクラブ会報『Me & Her』No.6、発行。
インタビュー/「細野晴臣近況あれこれ」

1981 イモ欽トリオのプリ・プロダクション。虎ノ門/ホテルオークラ。

「オファーが無かったらそういう仕事はしなかったでしょうね。僕は常に受ける立場、舞い込んできた仕事をするだけなので」(71)
「飛びつきやすかった、題材でもあるね」(72)
イモ欽トリオが出てたテレビも視てたしね」
(72)
「面白いと思いました」(72)
「松本の魂胆は伝わってきました……僕に何かやらせようとしているなと」(71)
「いつも『はっぴいえんど』のメンバーの動向を気にして、引っぱり込もうとしてたんだよね」(73)
「自分の範疇の歌謡界に。孤独だったんだね」(73)
「でも、引っぱり込むにはまだみんな無名だったし、歌謡曲に対して斜めに構えてた連中だからね。それがやはり、何かが変わったんでしょうか。ちょうどYMOが売れてきて…」(73)
「YMOでちょうど時代との交叉点を渡ったような感じだったし」(73)
「そういう事って関係あると思うんだ。YMOと歌謡曲に共通する何か。だからYMOも歌謡曲って言っちゃえばそうだし(73)
「一時期YMOが異常なほど世に出てった時に僕はものすごく自由な気持ちになれた。その前までは、YMOは日本ではダメというところから始まって、聴いてくれる人はいないんじゃないかと思ってやり始めたら、なんかのまちがいではまっちゃって」(73)
「それでずいぶん自由な気持ちになれて、歌謡曲とかっていう垣根がなくなっちゃったからね」(73)
「当初、僕は"歌謡曲は大嫌いだ"って松本に言っていたらしい」(71)
「できないと思ってた」(72)
「自分とは違う世界、と思ってたからね」
(72)
「でも、実は抵抗は無かった。歌謡曲という概念も無かったんですよね」(71)
「事前の作業はね、なんか、イモ欽トリオの歌声をね、聞かされたね」(74)
「テープに入ってるの。カセットに入れてきてくれて」(74)
「まあそれでもさ、それ聴いてもしょうがないから。うん。ぜんぜん何たってね、歌手じゃないから彼らは」(74)

松本隆の証言
「僕から頼んだんだよね」(73)
「YMOがブレイクしてた頃で、フォーライフの社長の後藤(編注:由多加)さんから直接頼まれた 気がする。『欽ドン!』で、すごい人気のある男の子たちがいるから、歌を作りたいと。で、作曲家誰にしようかという事になって、しばらくぶりに細野さんと やってみたいと思ったんだ」
(75)
「歌謡曲の世界に細野さんを引っぱりこんだのは、ぼくの計画的な犯行かな(笑)。ずっと一匹狼だったから、仲間が欲しくて(笑)。昔の仲間と音楽業界を変えたかったんだ」(76)
「有名になったから、頼みやすくなった感じだね(笑)」(73)
「一緒に温泉に遊びに行ったりして、会ってはいたけど、『歌謡曲は嫌いだ』って言うから、困ったなと(笑)」(76)
「この仕事なら頼んでも細野さんに断られないんじゃないか、っていう予感があった。そしたら、断らないどころかノリノリでやってくれた」(76)
「細野さんに決まって、曲のことを話した。とにかく学園ソングが作りたい。で、サウンドはYMOでいいんじゃないか(笑)、ってね」(75)
「初めから、テクノポップのパロディ、テクノ歌謡を狙った」(76)
「ホテル・オークラに続き部屋を取って、細野さんとカンヅメになった」(76)
「合宿したんだ」(45)
「細野さんにね、隣り合ったツインを二部屋とってもらったんだけど、細野さんは部屋中いっぱいになるくらい機材をたくさん持ち込んできた。録音できるぐら いのすごい機材でね。僕は隣の部屋でタイトルとかを考えてたんだけど、多分細野さんは寝てたと思うんだ(笑)。タイトルとサビのフレーズを別々に5種類ず つ考えて」
(76)
「サビの頭のところを」(45)
「『どれがいい』って細野さんに見せたら、『100%、片想い〜』がいいって言うから」(45)
「タイトルが『ハイスクールララバイ』で、サビが『100%片想い』、これで行こうということに決まって」(75)
「これで書こうと」(45)
「じゃ、もう帰ろうかって(笑)」(75)
「結局、タイトルしかできなかった(笑)」(76)
「一晩かかってサビだけできた(笑)」
(45)
「部屋中機械だらけだったけど、あの機材は一体何だったんだろうって(笑)」(45)
「たくさん機材を運んだ人がかわいそうだなって僕は思ってましたけど」(75)


1981/06/02 『モノンクル』7月号(朝日出版社)発売。
座談会/YMO インドへの恋心 YMO+小泉文夫

1981/06/05 高橋幸宏『ロマン神経症』発売。
大いなる希望:compose, words, keyboards
非・凡:keyboards
ドリップ・ドライ・アイズ:keyboards
チャージ:keyboards
予感:keyboards


1981/06/10 『ビックリハウス』7月号(パルコ出版)発売。「イエロー・マジック・オーケストラ・シンドローム」連載開始。

※編注:YMOのメンバーが一人1ページを担当し、手描きでつづるビジュアル・ページ。


1981 レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

サンセッツのレコーディング中に余った時間を利用して録った」(77)

※編注:ここで録られたトラックは1982年2月にシングル「夢見る約束」のB面曲「気流の鳴る音」としてカッティングされたが発売中止となり、アルバム『フィルハーモニー』に「エア・コン」のタイトルで収録された。

1981 イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」のレコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

「曲ができてなくて、ALFAスタジオに入ってから作った。スタジオではスタッフがズラッと並んで待機していて。できたような顔して行ったんだけど、やっぱり『できてない』と告白して。そこからみんなに待ってもらって、1時間くらいで作った曲です(笑)」(45)
「苦労はね、ぜんぜんしなかったの」(74)
「30〜40分ぐらいちょっと考えたんだけど」
(74)
「とにかく、いいかげんに作った」
(78)
「『こんな感じかなあ』なんて、和風なメロディがなんとなく出来ちゃった(笑)」
(79)
「短調の曲で、変なメロディだろうと思いました」(45)
「確かマイナー系の5音階なんです」(78)
「その音階しか使ってないんです」
(78)
「1時間くらいで出来たんだけど、Aメロ、Bメロと、最初はずっとコードが変らなかったのが、何かの拍子に転調したら、よくなっちゃった」
(79)
「なんでそうなったのかちょっと憶えてないんだけど。なんかひょうたんから駒みたいな」
(72)
「予測できない、事故みたいなことが時々あるわけ。あとから考えれば、転調がなければ、あの曲は駄目だったなあ」(79)
「キー上げたりするんだけど普通は。この場合はメロディーを変えちゃったっていう(笑)」(72)
「テクノの真っただ中でやってたんで。YMOの子供ポップス版というか」(45)
「当時僕はもう、YMOで、えー『ライディーン』なんかがもうヒットしてたんですけど、まあそれの、パロディみたいなつもりで作ったんですが」
(80)
「そういう所は面白がって、興奮してやった記憶がありますね」
(45)
「自由に作ったね」(73)
「松武さんに打ち込みをやってもらった」
(71)
「ドラムは生で幸宏です。YMOスタイルで」
(45)
「幸宏自体が『打ち込み』みたいなもの」(45)

松本隆の証言
「曲ができ上がってきたら、キーが違うんだよ(笑)。リード・ヴォーカルの声がハイトーンなのに、キーが低くて歌えない」
(45)
「音域がさ、低すぎて、お経みたいになったんだよ(笑)」(72)
「もうオケ録りを、やり直す、時間がない」(72)
「テレビのオンエアが決まってて」(72)
「もう、すっごい困っちゃってさ (笑)。後ろには、レコード会社やプロダクションやテレビ局の人や代理店のお歴々がずらっと並んでいて、大ピンチなわけ(笑)。で、細野さんだけ脇のピア ノのところに呼び出して、『3度上げられないか』って」(45)
「『ちょっとヤバイから(笑)、3度上のメロディーない?』って言ったら」(72)
「『ああ、なるなる』って(笑)」(45)
「『4度上なら付けられるかも』って。で、それが今のメロディーなの。だから4度下のメロディーがほんとのメロディー(笑)」(72)
「おかげで、怪我の功名かもしれないけど、予定調和ではない印象に残 る曲になった(笑)」(45)

1981 スーザンのレコーディング。

※編注:アルバム『恋せよおとめ』のセッション。6月29日〜8月7日の期間に行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。


1981/07 『週刊FM』の取材でインドネシア/バリ島へ

「(編注:場所は)オベロイ。いい、いいって久保田・サンディ両氏から宣伝されてたから」(81)
「リゾート地だね」(81)
「着いた日に、せまい道通ってたでしょ、バスで。あのメインストリートね、クタの」(81)
「あそこ通った時にね、アセチレンランプの匂いとね、薪の匂いがするの。あの、なんか燃やしてる匂いと、ランプの光っていうの、なんかホッとするね」(81)
「東南アジアに行った時も、フィリピンの島の方だったけど、同じような感じだった。あと、日本でも漁師町なんか行くと、わりとそういう感じするね」(81)
「取材を兼ねてたの週刊FMかなんかの」(81)
「バリへいくんだといったらみんないいなといったでもぼくがたったよっかかんだよというとなあんだもったいないといわれたしかしたったよっかかんでもぼくはバリにいくことができてしあわせだった」(82)
「取材はそのうち1日だけにしてくれって。2日間はほとんど寝てた」
(81)
「病気はぜんぜんしなかった」(81)
「まずはね、音楽がめちゃめちゃ好きなんで。これは、いつか行こうと思ってたんだけど」(81)
「ガムランがムチャクチャ好きなのは、この世のものという気がしないから」(82)
「ガムランのメインになってるのはゴングですけれど、まずあの音に惹かれます。かなりの刺激があって」(83)
「なぜかものすごく興奮するんだよね」(82)
「ずいぶん昔からきいてたことはきいてたよ」(81)
「ガムランを知ったのは、高校か大学1年の頃、テレビのドキュメントを見た時だったと思います。その後、カリビアン・ミュージックをやって『トロピカル・ ダンディ』を出した時も、そばに"インドネシアの民族音楽"なんていうレコードがあって、ガムランを聞いていました。でもその頃は、聞くだけでマイッ ちゃって一種の聖域みたいな存在でした」
(83)
「魅かれつつも近づきたくないような音楽ね」(81)
「呪術的なものってのはみんなそうだね。特に、ガムランのゴングのひびきってね。もともとはゴングしか使わない、あれがこわいみたい」(81)
「なんか、霊界に通じてるような音ね」(81)
「怖さと快感のちょうど中間ぐらいの音ですね」(83)
「横尾忠則さんとインドに行った時から、あの辺一帯に感じてた神秘的なものがより身近になってきたんですが、ガムラ ンも沖縄音階と同じ音階のもあるし、一度入り込むと、とても親しみ易いんです」(83)
「僕自身は沖縄の音楽に非常に興味を持っていましたけど、ガムランもある意味ではそれに近い音楽で、旋律のモードが似ているので聴いてたんです」(9)
「ポリリズムも魅力的ですしね。ケチャなんてすごいですよ、ただただ感心する だけです」
(83)
「それで、来てみたらやっぱり宗教的なところだった。島のどこへ行っても、お宮というかお寺というか、いっぱいあって、ヒンズー教が定着しているみたいだね」(82)
「ベサキ寺院に行く途中の風景なんか最高におもしろかったね。村人が沐浴していたり…ああいうところを車で通りすぎ るというのは、変な感じだ。夢を見ている気分になってしまう。彼らとは全く別の世界に住んでいるぼくが体験している。ありえないことが目の前で起こってい る。インドに行った時もそうだったけど、道端に寝っころがっている人の心がわかんなかったり…、あまりにも違いすぎる別世界がそこにあるんだ」(82)
「バリにはシャーマニズムやアニミズムが未だに息づいていると思うんです。ぼくの思い入れかもしれないけど、バリには神秘性をすごく感じます。漠然とした 印象だけど、仏像のかわりにカメやカエルがいたり、というように。それに、カメやカエルの音楽もあるんです。カエルの格好して踊り、バックで、竹で出来 た、吹くとプゥーと鳴る楽器を使ってやるんです。隣の島々の音楽はダイナミックで人間的だったりするんだけど、バリは違う。それだけ神が入り易い土地だと 思うんです。島で一番の名誉というのが、個人でお寺を建てることらしいから、生活の中心に神があるんです。だから音楽も、最初に神なんです」
(83)
「ガムランじゃないけど、竹とゴムでできたいわゆるジューズ・ハープみたいな楽器があるんです。ポリリズムで、数人 で演奏するんですが、バリに行ってまず感激したのはこれでした。ガムランは知的な部分を刺激するでしょ。でもこれは、それ以前からの音楽のように聞こえ た。呪術的なんです」(83)
「ぼく自身、バリの音楽に刺激を受けたことは確か」(83)

※編注:同年7月15日発売の7月20日号に掲載。


1981/07/10 『ビックリハウス』8月号(パルコ出版)発売。
連載/イエロー・マジック・オーケストラ・シンドローム


1981/07 松武秀樹『たった1人のフルバンド YMOとシンセサイザーの秘密』(勁文社)発売。
コメント/僕も勉強したいんですね。


1981/07/13 『朝日新聞』夕刊発行。
対談/うん、結論は恐怖的だねぇ。 細野晴臣 × S-KEN
※編注:広告局制作『HOT VOICE』の面に掲載。


1981/07/13 恵山流の花展に招かれ、出席。

「来客として呼ばれて」(84)
「はじめて行った」(84)
「花展に行くと仲小路(編注:彰)先生がいていろんな話をした」(84)
「最初はね、ある企業の人に連れられて、『おもしろい人がいるから一緒に逢おうよ』てな軽い感じで、 何の脈絡もなくわけのわかんないまま逢いに行ったのね。山中湖に仙人みたいな人がいて、いろんなジャンルで働く人が行きづまるとそこへ行っておうかがいを たてるって話は前々から聞いてたけど、まるで少年マンガみたいだし(笑)。実際いるというので逢いに行った」(84)
「僕じゃなくてね、その連れてくっていう人が行きづまっててね(笑)。最初逢った時には何やってるとか、具体的なことはわかんなかったんだけどね」(84)
「『地球文化』ってことをさかんに言うわけ。グローバリズム。で、すごく分厚い、書店で売ってない本を書いてるのね」(84)
「『地球学原論』。専門書風のカタイ装丁で、それを帰る時に土産として持たされた。目次だけ読むのに僕の場合だと一週間かかりそうな代物でね(爆笑)。僕の場合肌が合う文章だと一気に読んじゃえるけど、その時はバテちゃった」(84)
「最初行った時、僕は幼稚園の先生だと思ってた。そこの場所が幼稚園のような講堂(ホール)で、ピアノが置いてあったり幼稚園みたいな飾りがあったし、先生も音楽のことをいっぱい喋ってたから」(84)
「その時はまだ『こういう人もいるんだなあ』ぐらいの印象で、僕の中で断片的だったんです」(84)
シュタイナーアインシュタインを混ぜたような」(84)
「でももちろん人間だから、逢えばそれ以来どういう人かっていうのは気になってたのね」(84)
「で、(編注:花展の)会場で僕は遠慮して隅の方に居たんだけど、仲小路先生がその日の新聞を読んでて」(84)
「朝日新聞にね、連載になる前に単発でホットヴォイスの欄があって、そこで僕はいろんなことをしゃべってたのね」(84)
「その偶然の出逢いに二人ともビックリしちゃってね(笑)。先生はわりと学者肌なんだけど、一見偶然に見える出逢いとか、神秘的な出逢いとかそういうことをすごく大切にする人なんです。そういう出逢いが一番大事だって本当に感動してくれてた。うれしかったな」(84)


1981/07/15 『週刊FM』7月20日号(音楽之友社)発売。
取材記、寄稿/Music Sketch Book ミュージシャンがつづる旅の歌

1981/07/16 坂本龍一のレコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
サルとユキとゴミのこども/bass
坂本龍一の証言
「録音方法としては、即興的っていうか、スタジオの現場で積み重ねていくというやり方だったのね。その場その場のインスピレーションで録っていこうとい う。それはボクの演奏だけに限らず、一緒にやってくれるアーティストにも、これをやってくれとかいう指定じゃなくてね。計算以上の思いつきでいいものを集 めたいという気持ちから」
(28)
「毎日その日その日曲つくっていってね」
(28)
「でき上がった音楽をつくるんじゃなくて、例えば、ドラムのアイディアだけがあって、それをベースに、ベースのリフ、ギターのリフだけとかを録っていくとかね。何かひとつでも面白そうな要素がちょっとあれば、それをどんどん入れてっちゃって」(28)
「インスピレーションで聴こえてきたものは、惜しまず入れていった」(28)
「なんかこう計算された音楽から離れたい、という気持ちからね」(28)

※編注:アルバム『左うでの夢』のセッション。「サルとユキとゴミのこども」は、7月17、30日のレコーディングで坂本龍一が自ら同曲のベースを演奏。最終的に細野のベース・トラックは使用されていない可能性がある。

1981/07/23 坂本龍一のレコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
リビング・イン・ザ・ダーク/bass
※編注:坂本龍一、高橋幸宏、エイドリアン・ブリューとのセッション。

1981/07/25 加藤和彦『ベル・エキセントリック』発売。
ロスチャイルド夫人のスキャンダル:bass
浮気なGigi:bass
アメリカン・バー:bass
わたしはジャン・コクトーを知っていた:bass

1981/07/28 坂本龍一のレコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ザ・ガーデン・オブ・ポピーズ/percussion
※編注:坂本龍一、高橋幸宏、仙波清彦、エイドリアン・ブリューとのセッション。

1981/07/29 伊藤強のインタビュー取材を受ける。

※編注:同年8月22日発売の『guts』10月号に掲載。

1981/08/01 チャクラのレコーディング開始。

「ボクが実際にスタジオの中でやった作業というのは、すでにチャクラがアレンジしてあるから、出番はあんまりないわけで − というより、ボクがどういうふうに加わっていったらいいかわからないのが実情でしたね」(69)
「すでにバンドとしてできあがっている曲に手を加えるのは難しいですね。残るのは音の処理ぐらいでしょ」(69)
「何か起こった場合とか、エコーの処理とかの指定のためにボクがいた、みたいなものですよ」(69)
「エンジニア的な作業もしましたけど、梅津(編注:達男)さんというエンジニアがいましたから」(69)

小川美潮の証言
「(編注:細野は)来る日と来ない日があって、基本的にバンドで進めてった感じですね。ほぼ曲はできあがってて。とにかく練習してたので」(70)
「細野さんは"音"の面で協力してもらったの。まず、"音決め"というのをしっかりとやってもらうとか、"音質"とか、ドラムの"リズム決め"とか。だから、ダビングの時は、きてくれなかったこともだいぶあったの」(69)
「細野さん、いつも出前はチャーハンで、『僕はチャーハン』ってセリフだけ覚えてる。文ちゃんといっしょに細野さん家に遊びに行ったりして、意外と軽く扱ってもニコニコしてて(笑)。すごくいい人なんだと思いましたね」(70)

※編注:アルバム『さてこそ』のセッション。完成作での細野のクレジットは「制作協力:チャーハン細野」となっている。


1981/08/04 坂本龍一のレコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
かちゃくちゃねえ/bass
ヴェネチア/bass
Relâche/bass

1981/08/05 イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ/欽ドン!良い子悪い子普通の子のテーマ」発売。
ハイスクールララバイ:compose, arrangement
ハイスクールララバイ
「売れたんだよ。記念すべき曲だ(笑)」
(45)
「大層ヒットして、うれしくて」(74)
「みんなで面白がってやったものがたまたまヒットしちゃった感じ」(71)
「簡単に作った割にはヒットしちゃったっていうケースですね」(80)
「人もうらやむような話だよね」(82)
「いいかげんに作るとヒットするんだなと、それ以来信じているんです(笑)」(78)
「まあでもその時だけだけどね(笑)」
(72)
「当時、新聞でユーミンがコメントしていて、この曲の分析をされたんです。日本的な音階を使ってるところがミソだって。ユーミンって分析派なんだなあと思った」(45)
「なぜヒットしたか、学者の方に分析されたんですよ」
(78)

松本隆の証言
「それまでは、どこか洋楽を引きずっていたけど、これは本当の歌謡曲だった」
(45)

1981/08/10 『ビックリハウス』9月号(パルコ出版)発売。
エッセイ/あじさいの歌
連載/イエロー・マジック・オーケストラ・シンドローム
※編注:「あじさいの歌」の後半は、1980年12月9日に書かれた細野の夢日記になっている。

1981/08/10 高久光雄・吉野金次と鼎談。新宿御苑前/テイクワン・スタジオ。

※編注:同年10月15日発売の『サウンド&レコーディング・マガジン』創刊号に掲載。

1981/08/21 サンセッツ『ヒート・スケール』発売。
ヒート・スケール〜ワーズ・アンド・ダンシズ:produce, mix, electronics, effects
ザ・グレート・ウォール:produce, mix, electronics, effects
ボンガズナ:produce, mix, electronics, effects
トーメイニンゲン:produce, mix, electronics, effects
エル・パズロ:produce, mix, electronics, effects
ジ・イブ・オブ・アダム:produce, mix, electronics, effects
アン・アンテナ:produce, mix, electronics, effects
ゴング・ループ:produce, compose, mix, all instruments
キングダムズ・ウィズアウト・コーナーズ:produce, mix, electronics, effects
ディアナ・プラ:produce, compose, mix, all instruments

1981/08/22 『guts』10月号(集英社)発売。
インタビュー/YMOの音楽で友人となった世界のミュージシャン達と、僕ら3人は動き始めている

1981/08/24 横尾忠則と対談。聞き手は中村とうよう。横尾忠則宅。

※編注:同年9月20日発売の『ミュージック・マガジン』10月号に掲載。

1981/08/24 イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ/欽ドン!良い子悪い子普通の子のテーマ」がオリコンシングルチャートで1位獲得。

「1位になったりして、えー僕の、歌謡曲作家としての転機になるわけですね」(80)
「個人的な蓄積につながる仕事でした。ヒット・チャートで1位をとったのは、初めてでしたから」
(10)
「自分の能力でそうなったわけじゃないことは最初から分かってましたから。『まな板』の上に乗った緊張感のほうが強かったよね。だから、『1位とって良かったなあ』という感想しかないですね。割とひとごとなんですよ」(45)

松本隆の証言
「歌謡曲が変わったよね、確実に。それ以前のものとは全然ちがう。歌謡曲だけじゃなく、日本の音楽を変えたと思う。まあ、はっぴいえんどの時も1回変えてるんだけど、その時は量がわずかだった。今度は質と量が両立できると感じた」
(45)

1981/08/28 夜 高橋幸宏、鈴木慶一、ピーター・バラカンと会う。

※編注:この日は鈴木慶一の30歳の誕生日。

1981/08/29 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
体操
高橋幸宏の証言
「『体操』なんかは、3人でスタジオに入ってやってます」
(17)

小池光夫の証言
「シングル用ということで最初に録音しているんじゃないかな」
(29)
「デジタルのレコーダーで録られていてマルチがもうない」(85)


1981/09/01 22:20 NHK-FM『サウンド・ストリート』放送。
DJ:坂本龍一
ゲスト:細野晴臣、高橋幸宏
※編注:YMO座談会。収録は六本木/Tong-Fuで行われた。

1981/09/02 夜 『アングル』取材。原宿近辺。

※編注:同年10月21日発売の11月号に掲載。

1981/09 ゲルニカのデモテープを聴き、構想中の新レーベルとYMOツアーへの参加を打診。

「奇妙で愛らしい振る舞いの」(86)
上野耕路戸川純そして太田螢一に会った。」(86)
「ぼくたちの気付かない、できないことをやるような人たちに出てきてほしい。ぼくはゲルニカはそういう印象を持った」(87)
「刺激が欲しいしね。ずっと欲しかったけど」
(88)
「若い人たちは何をやっているんだろう、ダメだな、ロクなのいないって思ってた」(88)
「だからゲルニカが出てきたときには、興奮した」(87)
「そういう時に聴いたから、よけい面白かったんです」(88)
「ニューウェーヴ・ブームの中から出てきたグループなんですけど」(89)
「彼らの音楽には関心がありましたね」(90)
「デモ・テープを聴いて、きっとこれは他では出してもらえないんじゃないかと思って、(編注:新レーベルの)第1弾に考えていた」(88)
「すごいコア持ってるんですね」(89)
「会って話した時、戦前のイメージが強いわけ」
(88)
「今は戦前だというテーマはあるみたい」
(88)
「そういう危機感っていうのもあって、特に若い人達がそういう事感じてる。特に感受性の強い人達がそういう事表現しだしたっていうこと。それはすごいパワーあるんじゃないかと」(89)
「割と僕はオーバーにとらえてるんですよね。ポップっていう感じで。すごく問題児なんですよね」(89)
「強度の自閉症だね。しかも明るい自閉症だと思う」(88)
「新しい世代が出てきたと思いました」(90)
「『新人類』という世代論がブームのさ中」(86)
「その新人類みたいな様相だったので。喋り方とか」(90)
「ヘンな人だったの(笑)。最初から(笑)。何なんだろうと思って。なんか演劇が入ってんのかなと思ったんだけど、あのままだったね、ずっと」(91)
「上野くんもなんーか面白かった。『ぅ上野です』(編注:モノマネ)とか言ってたんだけど。最初からね」
(91)
「結局新人類っていう人達があの二人、だったんだね、当時」(91)
「ゲルニカの出現は日本の音楽史上、ある極点を示しているだろう。つまりそこから先は誰も行けない深淵の果てに位置している。」(86)
「それはかつて誰もその存在すら知らなかった感覚の発見を意味する。フランス近代以降に花開いた華麗で意地悪な音楽を思い出しても良いが、そのミヨープーランクでさえ想像できない極東の花がゲルニカだ。」
(86)
「圧倒されちゃう」(92)
「当時日本のポップスがここまで来たのかという思いを忘れてはいけない。」
(86)

戸川純の証言
「一番最初にお会いした時に、すごく気に入った言葉があって、『これを聞きたまえ、あれを聞きたまえ』と言われるんじゃないかと思ってたんだけど、逆に『他のは聞いちゃだめだョ』とか、それで信頼したところがあったんです」
(89)

上野耕路の証言

「細野晴臣さん、彼に拾われなかったらゲルニカは、アルバムといえばインディーズからといった当時の幾多のライブバンドと同じ運命を辿っただけだったよう に思う。その後の人々との交流、幾つかのプロジェクトへの参加という経緯を考えると、彼の許に集ったのとそうでないのとでは、発展において雲泥の差があっ たように思える。拾われた私たちはいささか野良猫のような連中で、その後何かとイライラさせたかもしれない。」
(86)

1981/09/05 YMO「マス/カムフラージュ」発売。


1981/09/07 クラフトワーク来日公演パンフレット発行。
寄稿/クラフトワークさん、万才!!


1981/09/08 22:20 NHK-FM『サウンド・ストリート』放送。
DJ:坂本龍一
ゲスト:細野晴臣、高橋幸宏
※編注:前週に続きYMO座談会。

1981/09/09 チャクラのレコーディング終了。

小川美潮の証言
「ものすごく時間がかかりましたよ、レコーディングは」(70)
「ミックス・ダウンの時、音が多かったりしたの。いろんな音をシンセで、いろんなチャンネルに入れたの。細野さんに四苦八苦してもらって、やっとミックス・ダウン。『カチッとした船頭がひとりいないと難しい』と細野さんもこぼしてました」
(69)

1981/09/10 『ビックリハウス』10月号(パルコ出版)発売。
連載/イエロー・マジック・オーケストラ・シンドローム

1981/09/10 クラフトワークの来日公演を観覧。渋谷公会堂。終演後、坂本龍一・高橋幸宏とともにクラフトワークのメンバーをディスコへ案内。

「クラフトワークを見てて、ドイツの農民のテクノだと思いました。ドイツの民族音楽をスゴク意識しているみたいですね。本人たちも、"新しいドイツの民族音楽だ"と言っておりました」(69)
「機材については、ボクはあんまりセンサクするのは嫌いなので、あんまり興味はなかったけど、演奏をテープでフォローするのか、コンピューターを使うのか、ということで同業者的な興味はありました。テープを使ってもクラフトワークはムダがなかったな」(69)
「終ってからみんなでディスコに行ったんですよ」(11)
「渋谷公会堂のコンサートのあと、彼らが『東京の夜を見たい』というので新宿のツバキハウスと六本木の玉椿に連れていってあげたけど、ふつうのひとたちで、親しみやすかった」
(69)
「遠くから見てると、立派そうに見えるけど、つき合ってみると、実にオジサンなんだよね。アメリカ人でもなく、イギリス人でもなく」(69)
「服も電気技師みたいなカッコしてディスコ行くんだから」(11)
「最初は新宿のツバキハウス。ガラガラだったの。あのドイツ人が暗い顔して、ツマンナイっていうの。もっとオモシロイとこ行きたいって」(11)
「で、どこがいいかっていうと、六本木に行きたいって。みんなでおもしろいとこないかなぁなんていいながら、ドイツ人つれてタマツバキ行ったんですよ」(11)
「ジーっとしてるの」(11)
目がすわってるんです」(11)
「こわかったあ」(11)
「朝までいたんですよ(笑)」(11)
ストレイ・キャッツも遊びに来てたな」(69)
「となりにストレイ・キャッツがいたんですよ。女の子ワーッと集めて」(11)
フローリアン・シュナイダーラルフ・ヒュッターが奇妙な動きで踊っていた記憶がある。『あ、クラフトワークだ!』って(笑)」(59)

坂本龍一の証言
「シーケンサーは使っても、コンピューターは使ってなかったみたい」(69)
「ボクが思うにバックの演奏は90%ぐらいテープじゃないかな。テープ・ヒスでわかっちゃうもの。完全にマニュアルなのは、『ショー・ルーム・ダミー』と『モデル』がそうだったな」(69)

※編注:細野晴臣とクラフトワークのメンバーはこの時が初対面。クラフトワークはこの日の他、9月7、8日に中野サンプラザ、11日に大阪で公演を行なった。公演のない9日には坂本・高橋が『ミュージック・ライフ』の取材でラ ルフ・ヒュッターと鼎談している。

1981/09/11 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

1981/09/14 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
階段/TR-808、piano 他
京城音楽
高橋幸宏の証言
 階段
「最初にできたのは、僕は『階段』だったかな。2人が何もやらないわけですよ、それでしょうがないなあって作り始めて」
(17)

小池光夫の証言
「24チャンネルのアナログ・レコーダーに戻ってますね。デジタルはやっぱり音がしっくりこなかったという理由だったと思います」
(85)

寺田康彦の証言
「テープ編集出来ないから、デジタルだと。テープ・カットするとエラーが出ちゃうし」
(33)

※編注:以下、10月6日までのYMOのレコーディング内容は、『話の特集』12月号(話の特集/1981年)で松武秀樹が公開したレコーディング・シートを参考に、楽器名等をわかりやすい表記に改めて記載する。

1981/09/15 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
灰色の段階/TR-808、prophet 5(細野晴臣)、organ(細野晴臣) 他
「リズムをループに仕立てて作った」(39)
「何時間も何時間も同じリズムをずっとループさせて、それをトランス状態で聴きながら組み立てていったんだよ」
(35)
「適当に作ったらできちゃった」
(39)

1981/09/16 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
新舞踊/TR-808、prophet 5、prepared piano(YMO) 他
高橋幸宏の証言
「プリペアード・ピアノを使ってるんですよ」
(17)
「ジョン・ケージ的なね。みんなでメンバーで少しずつフレーズをサンプリングしようってことで、『幸宏もなんかやって』って」
(41)
「『幸宏も弾いてよ』って言われて」
(17)
「なんか、弾いてんですよ」(41)
「それを切り貼りしてサンプリングしていて」(17)
「随所に入ってる(41)

1981/09/17 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

1981/09/18 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
灯/MC-4、prophet 5(坂本龍一)、bass(細野晴臣)
「教授だったかな、誰かに言われたのかな、ベース弾いてよって」(17)

坂本龍一の証言
「きっと僕も、ミニマルや民族音楽、ミュージック・コンクレートとかをどんどん出していたから、それぞれのいいところを、もっとてらいなく出していこうよっていう感じがあったんだと思いますね」
(17)
「いちばんいいところを、どんどん出しなさいよ。僕も出してるんだから、みたいな」(17)

高橋幸宏の証言
「『灯』のとき、教授と僕が頼んだんだよね、細野さんに。チャック・レイニーみたいなベース弾いてよって」
(17)

1981/09/20 『サウンドール』10月号(学習研究社)発売。
対談/相談 細野晴臣 × 秋山道男
連載/YMO SPECIAL 大丈夫「三人三様」
※編注:「三人三様」ではイラストを発表。

1981/09/21 スーザン『恋せよおとめ』発売。
恋せよおとめ:compose, words, bass, keyboards, backing vocals
トレイニング:bass
ゴー・ゴー:bass
サンジェルマンの夜:bass
マイ・ラヴ:backing vocals
恋せよおとめ
「幸宏のプロジェクトでしたから、彼に任せて、アレンジしてもらいました」
(44)

1981/09/21 YMO、レコーディング。サンプラー・LMD-649が導入される。芝浦/スタジオ'A'。
新舞踊/bass drum(高橋幸宏)、sampled voice(高橋幸宏)
灯/snare drum(高橋幸宏)、bass drum(高橋幸宏)、石油カン(高橋幸宏)
「まったく新しい機械が出てきた」(9)
「特注の機械」
(9)
「サンプリングの機械なんですが、当時はまだサンプリングという言葉もなくて。とにかく生音をデジタルに閉じ込めて、それをコンピューターで動かすと生音が使える、そういう機械が出てきたんです」(9)
「ナマ音をコンピュータで変化させる」(93)
 「アコースティックな音を、シンセサイザーと同じように、コントロールできるようになってきたってことなんです」(11)
「松武秀樹さんが誰かと共同で開発して、試作品を持ってきた」
(9)
「何かのレコーディングの最中に、松武さんがその機材を持ってスタジオに入ってきて、やっとできたんですよみたいなことを言ってたんだと思う」(17)
「なんかね、薄々は聞いてたんですよ。作ってますよということは、情報は聞いてて」
(17)
「どうやって扱うかもわからない。液晶じゃないデジタルのディスプレイが付いていて、数値でトランケートしていくっていう。よくこんなものを作るなと尊敬してましたから」(17)
「やりたいことが、ウワーッて広がって(笑)」(17)
「待ちに待ってたような感じがしました。現れる前までは、そうでもなかったんだけど」(17)
「焦って使ったって感じです」(17)
「それ以前のYMOは、"これ、すごいじゃないか!"とわれわれを鼓舞してくれるような音楽を聴いて、アドレナリンを高めて、それ以上のものを作ろうとやっていたんです。でも、だんだん触発されるような音楽が無くなってきて…
…そこにサンプラーがやってきた。これがなければYMOはもっと早く解散していたと思います(94)
「真っ先に考えたのは、これをドラムに使おうということ。それまでYMOはアナログ・シンセをシーケンサーで動かし てたけれども、ドラムだけは幸宏の生演奏でやってたんです。シンセでドラムの音を作るということもあったけど、やっぱりちょっと違ったものになるじゃな い? そこにサンプラーが登場して、幸宏のドラムの音をシーケンスで制御できるようになったわけです。これで初めてテクノになった」(94)

新舞踊
「これがあると何でもリズムになっちゃうんだと。でも、まだリズム以上のことが難しかったんでね」
(17)
「環境音や声でリズムが作れると思った」(93)
「ビートのあるものに、全部これは置き換えられるなって思って、最初にまずケチャを思いつきましたね」
(17)
「ケチャで最も使いたかった」(9)
「バリの音楽は常にやりたいなと思ってましたから。ガムランはもう謎の音楽だったんで、常に触れていたかったんです」
(17)
「ケチャを地声でなんかできないですから、テクニックがないと息が続かないし、これはできるなということで、ケチャのサウンドを作ったんです。『NEUE TANZ ノイエ・タンツ』という曲です。この機械が出てきて初めて僕はミニマルという手法に興味を持ったんです」
(9)

坂本龍一の証言
「ある日やってきて、『できました』って」(17)
「結構優秀だったですよ、1秒ぐらいサンプリングできたわけだから」(17)
「持ってるシンセサイザーで、だいたいいい音っていうか好きな音っていうのはだんだん淘汰されてきて、限られてきた」
(93)
「音楽は、いい音から触発されるっていうこともあるでしょ。だから、すごく音色っていうのも大事でさ、シンセサイ ザーもまだ使いきってないときは、次々に新しいサウンドっていうか、サウンドっていうのはひとつのコンセプトでもあるんだけど、みつかっていくんだよね。 で、だんだんそれを限界まで使いきっちゃって」(93)
「普通のシンセサイザーで出せる音の中でぼくたちが好きな音っていうのは限られちゃったんだ」(93)
「でも、やっぱり新しい音の追求っていうのは止まんないから。新しい音が欲しいっていう気持は変わんないから、こんどはナマ音を変化させるやり方に変わってきた」(93)
「一度シンセサイザーの正弦波みたいな世界を通して、現実を見ると、現実音の複雑な状態っていうのが、より自覚的に見えてくるわけです」(17)
「シンセで作り上げる音の世界というのは、どうしても単純すぎて。正弦波を重ねているだけではすぐ飽 きが来ちゃう、もっとギザギザが足りないと。YMOみたいに、1回単純な音を極めていくと、生楽器とか現実音の複雑さ、その複雑な音のよさっていうのが見 えてくる」(17)
「ワールド・ツアーでの、非常に整った正弦波の世界から、『BGM』みたいなノイズを経由して、もっとギザギザの多い、複雑な現実音に向かうという。方向性としては、一貫しているというか」
(17)
「自然の具体的な音を、単にエフェクティヴにね、アタッチメントとかを使って変わる範囲は予想ついちゃうから、そうじゃなくて、アーならアーっていう音のアタックを切っちゃったりね」
(93)
「伸びてる音を切っちゃって、すごくパーカッシヴなアみたいな音にしたりね」(93)
「声でもそうだし、
(パンと手を打ち合わせて)こういうものすごい微妙な、自然音のすごい短い間の時間の中のいろんな部分をとったりすると、いままであんまり聞いたことのなかった音が聞こえてくるんだ」(93)
「普通なら結びつかない音同士をワーッと並べてさ、何回もリピートするとかね」
(93)
「結局、現代音楽とかそういうところでだいぶ前からやってきた手法とか、それは手法を追っかけるんじゃなくてさ、新しい音を追っかけてたら、そういう方法をとり入れることができてくるっていうかさ、必要になってくる感じがするんだけど」(93)

高橋幸宏の証言
「やっぱりね、特別な空気の音がするのね、ナマのモノって。そういうのが機械と違う。ようするにいい音だよね」
(93)
「ドラムスも、バケツひっぱたいたり、石油カンとかね」(93)

松武秀樹の証言
「東芝EMIで加藤和彦さんのエンジニアをやられていた方で、村田研治さんという人がいまして」
(30)
「PCMを研究してたんです。トリガーを与えると、同じ音をサンプルさせて再生してくれる装置というのをね」
(30)
「村田さんがこういうことをやってるって話を、(東芝EMI)のディレクターに紹介してもらってね」(30)
「好きな音を入れて、トリガーで取り出せる機械を作ってくれませんかって頼みに行ったら、すでにプロトタイプでできてるのがあった」(30)
「形はあったんです。オーダーする前に機械はあった。まだ変な形でしたけどね」(30)
「ただそれは、トリガー・イン(端子)は付いてなくて、指でボタンで鳴らすようになってた。これを改良してちゃんと操作できるようにしたのが、LMD-649なんです」(30)
「スペックは8ビット」(30)
「1回音を録音(1.5秒以内)すれば、あとはコンピューターに演奏したいフレーズをプログラムすればいくらでもその音を取り出せるのです。テープに録音 するのではなく、コンピューターが音を記憶します。例えば、石油カンの音を一つ記憶させれば、その音をどのように組合わせて演奏することも可能です。」(95)
「ですから音源はなんでもよく、ドラムの音なら、たとえばスネアもたたけない人がたたいた音でも、一回録音してしまえば演奏することができます。」(95)
「打ち込むというか、確か4、5桁のスイッチを組み合わせて、記録した音のスタート・アドレスとエンド・アドレスを決めるんです。上げていくとスタートが縮まっていくわけです」(30)
「全部16進のディップ・スイッチでやってた」(30)
「スタートとエンドも16進数の数字を見て選んでいくんですよ」
(32)
「すごく時間がかかった」
(32)
「波形も何も出ないから、聞いた感じでしかわからないんでね。それでもピッチ(ピッチ・コントロール)はあったんですよ。5段階になってて、2度から3度まで上下できた。リバース・スイッチも付いてました」(30)
「シンセサイザーの中から、生の音? が出てくる。それもリズムが正確に‥‥。僕たちがのぞんでいた装置が出来た」(95)

村田研治の証言
「LMD-649は、8ビットでした」
(16)
「YMOが使っているような方法を想定して作ったものではないのです。エンジニアとしての経験から、ミックス・ダウン時の音決めを何とか短縮出来ないもの かと思ったのが始まりでした。つまり、ドラムスなどのイコライジングに満足できない場合、テープの中に入っている楽器の音に同期して、スリカエてしまうと か、またはミックス出来る機械があればなぁと思ったわけです。そうすれば、まったく新しい音源として
ミックス・ダウン時の武器になると」(16)
「基本的な構成としては、音が入る入口にアナログ/デジタルのコンバーター、出口にデジタル/アナログのコンバー ターがあり、その中間にメモリーがあるものです。そのメモリーは、コントロール・ロジックなりCPUで良いわけです。だから、パソコンとA/D、D/Aの コンバーターがあれば、簡単に作れるものなんです。イーミュレイターやリンのドラム・コンピューターもこれと同じ原理であり、コントロール系の違いで、音 階にしたりしているんですね」(16)

小池光夫の証言
「まだ名前が付いてなかった。サンプラーって名前もなかったですから」
(32)
「スタジオの外でも、中でもいろいろ録音しています」(29)
「スタジオの中でいろんな音をサンプリングしたり、おもちゃのドラムを使ったりした」(85)
「その中で結局使ったのは何十分の一とかだったんじゃないかな」
(29)
「しょうもない機械だったけどね。電源切ったらデータは消えちゃうし」(32)
「サ ンプリングに関するノウハウなんて当然なくて、どのようにサンプラーに録って、どのようにレコーディングすればいいのかが手探りでしたね。単純にサンプリ ングするときのレコーディング・レベルひとつとってみても勝手がわからなかった。どうすれば"ちゃんとした音"になるかが、このときの僕の課題のひとつ だったですね」(85)
ビット数の問題じゃないんですよ。4ビットでも8ビットでも、正しいレヴェルで録音されていればそんなに違いはないと思います。音をいかにしてうまくサンプリングに取り込むかということだと思うんですよ」(30)
「普通にサンプリングすると、あまりいい音しないんですよ」(32)
「サンプリングの精度もよくないし、サンプル時間にも限界がありますから、そこでできる範囲ということで音を厳選しなきゃいけない。録った音をPCMに移す作業も自分でやったんですが」
(30)
「まず録り込むときに、歪まないように、な おかつ音圧があるように、送り込んであげなきゃいけない」
(32)
「いい音で使えるように加工して送り込まなきゃいけなかった」
(30)
「リミッターでつぶすとか、アナログ・テープに1回録っておくとかしてね」
(32)
「サンプリング・マシンのマイクから直接録るんじゃなくて、一度アナログのテープに録音して、ある程度音を加工してからサンプリング・マシンに入れてあげるとか、いろいろ試行錯誤してました」
(85)
「それで何回かやるんです けど、毎回録音ボタンの押すタイミングでも音が変わる。何回も試行して、いい音になったらそこで頭とお尻を切って、それが失敗すればもう1回録り込まな きゃいけないっていう。えらい大変でしたよ」
(32)
「いろいろとできないことが多かったんです」
(32)

飯尾芳史の証言
「音質的に云々できるレベルじゃなかったけど、とにかく今出した音がすぐに再生できるっていうのが衝撃でした。噂は聞いてたんですよね。そういう機械ができるらしいけど、コストが何百万もかかるって。やっとできた試作品を松武さんが持ってきたんです」
(35)
「やっぱり最初にスネアを録った記憶があります。いつもスタジオに楽器類はセットしてたんで、じゃスネア録ってみようかって感じで。スネアも予めテープに 最初何種類も録っておくんですよ。カウントを『1・2・3・4』って入れてから『ダン!』って。それで一番良さそうな音をサンプリングして曲に合わせてみ る感じでした。メモリーができなくて電源切ると音も消えるから大変でしたけれど」
(35)

1981/09/24 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
階段/piano(坂本龍一)
灰色の段階/逆回転SE(細野晴臣)、organ(細野晴臣)

1981/09/25 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
灯/sampled voice(YMO)
灰色の段階/voice(細野晴臣)、organ(高橋幸宏)
京城音楽/sampled voice(YMO)

1981/09/29 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
前奏〜後奏/sampled industrial noise、prophet 5
階段/sampled industrial noise
「ケチャのあとで考えたのが、工場のノイズを録ってきてくれと。飯尾芳史くんに頼んだら、ちゃんといい音で録ってきてくれて」(17)

坂本龍一の証言
「飯尾くんが録ってきたんだよね、芝浦の先に工場があったんですよ」
(17)

高橋幸宏の証言
「飯尾くんが録ってきたんですよ。わざわざ工場に行って、ボーリングの音を録音してきた。それを教授が『前奏』『後奏』で使ってますね」
(17)

小池光夫の証言
「アシスタントの土井(章嗣)君が工場の音を録ってきたりとかね。飯尾君も録りに行ってたし、みんな録りにいってたね」
(32)

松武秀樹の証言
「YMOが凄かったのは、ああいうインダストリアルな音をループさせて、それがリズムになってるって考え方だよね。あとでトレヴァー・ホーンがアート・オブ・ノイズでやったことを、YMOが先にやってたわけだからね」
(30)

1981/09/30 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
手掛かり/TR-808、arp odyssey、石油カン(高橋幸宏)、prophet 5(細野晴臣, 高橋幸宏)

1981/10/01 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ジャム
「『ジャム』がどうしてできたかっていうと、鍵盤のレとミを同時に押して、『レ、ファ、レ、ファ』というフレーズをずっと弾いてたんですよ」(17)
「シンセサイザーなんですが」
(17)
「モヤモヤっとした音にして。それが気持ちよくて、それだけで僕の中では十分だったんです。結局、家に帰って聴いているものは、そういうものばっかりだったわけだから」(17)
「ブライアン・イーノを中心とした、オブスキュア・レーベルのものを全部聴いてたんです。あと、デヴィッド・カニンガムの『GLAY SCALE』っていうソロが好きだったんですね」(17)
「そういうパーツを自分で提供したんですね。それで幸宏が作ったんです、上ものを。僕には書けないようなメロディーを幸宏が書いて」(17)

高橋幸宏の証言
「一番最後にできた曲」
(17)
「僕がメロディを考えて」
(96)

松武秀樹の証言
「多分TR-808は最初に録ったと思う」
(32)
「一発で録ったのかな?」
(32)

1981/10/02 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ジャム/逆回転エコー、prophet 5
高橋幸宏の証言
「逆回転を駆使したりして、楽しみながらやっていた覚えがありますね」
(96)

松武秀樹の証言
「Prophet-5をみんなでいじりまくってた時期ですから。使いこなさないとこんな音にならない」
(32)
「要はノイズなんです。ノイズを混ぜて作ってますから、その絶妙なところがよく出てますね」
(32)
「ベースも独特の音してますね」
(32)
「(編注:逆回転は)テープで逆回転させたものをLMDに録ったものですね」
(32)

1981/10/03 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
手掛かり/prophet 5(坂本龍一)
後奏/prophet 5(坂本龍一)、sampled industrial noise 他
ジャム/石油カン(高橋幸宏)、snare drum(高橋幸宏)、sampled voice(細野晴臣)
高橋幸宏の証言
 ジャム
「細野さんがあの『ミョン、ミョン』っていうのを『口でやっていい?』なんて言って」
(96)

松武秀樹の証言

 ジャム
「パーカッション的な声は全部細野さんがやったんじゃないかな」
(32)
「"ミョン、ミョン"なんか、サンプリングしても細野さんの声帯の感じが残っている(笑)」
(32)

小池光夫の証言
 ジャム
「最後にボイス関係を、空きチャンネルを見つけて録っている。おそらく後でボイスを入れることが決まった」
(32)

1981/10/05 坂本龍一『左うでの夢』発売。
かちゃくちゃねえ:bass
ザ・ガーデン・オブ・ポピー:percussion
Relåche:bass
リビング・イン・ザ・ダーク:bass
ヴェネチア:bass

1981/10/06 YMO、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
後奏/prophet 5(坂本龍一)
新舞踊/MC-4
灰色の段階/prophet 5(細野晴臣)

1981/10/08 『ロッキンf』11月号(立東社)発売。
インタビュー/彼らはドイツの農民テクノをやっている
インタビュー/美潮のヴォーカルに魅かれて協力を決意!
※編注:前者は「KRAFTWERK大接近インタビュー」内コラム。後者は「チャクラのレコーディング現場潜入記」内コラム。

1981/10/10 映画『陽炎座』(鈴木清順監督)パンフレット発行。
インタビュー/「魂が、ゆれてるんです…」ってわかるんですね、とても面白い

1981/10/10 『ビックリハウス』11月号(パルコ出版)発売。
連載/イエロー・マジック・オーケストラ・シンドローム

1981/10/10 『ホットドッグ・プレス』10月25日号(講談社)発売。
取材記事/グルジェフ・シンドロームは日本にも上陸! YMOの細野さんも興味シンシン
※編注:特集「有名ミュージシャンを次々トリコにする不思議人間グルジェフとは何者か。」内。細野晴臣の発言を含む。

1981/10/13 YMO、レコーディング。最終日。完成後、視聴会が行われる(14日未明)。芝浦/スタジオ'A'。

前田祥丈の証言
「10月13日の深夜、ぼくは田町のスタジオAを訪れた。」(97)
「1時過ぎ、マスター・テープが完成、その場にいる全員で、試聴会が行われた。」
(97)
「この時点で、もうツアーは決まっていたと思う。細野晴臣が『今度のツアーは3人だけでやりたいね』と言っていた記憶がある。」
(97)

1981/10/15 『サウンド&レコーディング・マガジン』創刊号(リットーミュージック)発売。
座談会/一枚のレコードの色づけと方向性を決めるのがプロデューサーの基本的な仕事だ 高久光雄 × 吉野金次 × 細野晴臣

1981/10/20 『サウンドール』11月号(学習研究社)発売。
YMOインタビュー

1981/10/21 『アングル』11月号(主婦と生活社)発売。
取材記事/夕暮れの神宮前三丁目。渋谷川の埋立てアベニューで温泉人情にチョイとつかる。

1981/10/21 大貫妙子「黒のクレール/アバンチュリエール」発売。
黒のクレール:bass

1981/10/21 スネークマンショー『死ぬのは嫌だ、怖い。戦争反対!』発売。
アイ・ウィル・コール・ユー(アンド・アザー・フェイマス・ラスト・ワーズ)(メロン):remix
ハニー・デュー(メロン)
:remix

1981/11/05 矢野顕子「あしたこそ、あなた/あいするひとよ」発売。
あしたこそ、あなた:bass
矢野顕子の証言
「このレコーディングは楽しかったの覚えてます。メンバーはYMO。それにコーラスとギターで山下達郎。ドラムのあの感じとか、ラスカルズがやりたかったの。それにコーラスは、アソシエイション。それがやりたかった!」
(38)

1981/11/10 『ビックリハウス』12月号(パルコ出版)発売。
連載/イエロー・マジック・オーケストラ・シンドローム

1981/11/13 スーザンのライヴを観覧。新宿/ツバキハウス。

1981/11/15 『音楽専科』12月号(音楽専科社)発売。
インタビュー/出たゾ必殺技!スペシャル・テクノ固め
対談/細野とイブは同一人物だった!? 細野晴臣 × 伊武雅刀

1981/11/20 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』通しリハーサル。砧/国際放映 2スタジオ。

1981/11/21 YMO『テクノデリック』発売。
ジャム:produce, arrangement, vocal, voice, mix
新舞踊:
produce, arrangement, bass, prepared piano, voice, mix
階段:produce, arrangement, bass, mix
京城音楽:produce, arrangement, bass, voice, mix
灯:produce, arrangement, bass, voice, mix
体操:produce, arrangement, bass, vocal, mix
灰色の段階:produce, arrangement, synthesizer, SE, vocal, voice, mix
手掛かり:produce, arrangement, synthesizer, vocal, voice, mix
前奏:produce, arrangement, mix
後奏:produce, arrangement, mix
「『BGM』の延長線という感じのアルバム」(16)
「テクノって意味をもう少し広げたかった」(11)
「やっとテクノから脱してきたというか。テクノポップというのは、初期のYMOの古典的な手法のことですからね」(17)
「ぼく達がシンセサイザーを使ってきて、ある種のパターンに陥りそうな言葉だったんで、そういうのではないことを主張したかった」
(11)
「シンセサイザーの殻にとじこもってしまうのじゃなくて、気にいった音が出るものなら楽器じゃなくても使っちゃおうという……。だから、いままでの方法は繰り返したくない、同じところにズーッといないという姿勢みたいなものがテクノだと(98)
「ある種のサイケデリックという気持ちはあったわけです」(17)
「サイケっていうのは、僕たちには根本的に、あるんですけどね。あのう眩惑するようなことだとかね。んーッ、一種の祭りみたいな非日常的な部分が、すごく好きなんだよね」
(11)
「テクノというのは非常に無機的で、サイケっていう、いわゆる精神的な有機的なものを排除してきた。でも、もうそうではない段階だと。テクノもサイケデリックなんだと」(17)
「サイケデリックって言葉に準じて、『テクノデリック』って付けたんです」
(11)
「毎回同じだけど、できた瞬間は"こりゃ世界一だ"と思うんだ」(98)
「音圧が強くて、民族音楽っぽい」(93)
「あんまりそれぞれ意識的には、やってないんですけど、下地を十分吸収したっていうかなあーッ。まあ個人的な趣味もあって。たとえば、教授は、実際に韓国に行ってきて、かなり興奮して帰ってきて、ぼくもバリ島に行ったり、そういったことで、そんな音が出てくるのだと思う」(11)
「コンセプトはあまりないんですよ、『テクノデリック』は。教授が復帰してきたって感じだけで。3人になると、わりと社会性が出てくるんですね。2人の場合は、まだパーソナルなんです」(17)
「ほとんど全部共作ですね」(11)
「とにかく誰が、どこを作ったとかいうことじゃなくて、一つの作品を、共同で作るってことをしたかった」(11)
「メンバーの潜在的な暗さが出てきてるんで、暗くなっちゃったんです」(9)
「自分でもちょっと暗すぎるなと思ってね。入ってきた要素がロシアのアヴァンギャルドとか、それ自体がもう明るいものじゃないですからね。クラフトワーク の構造的な音楽は、昔ニューオーリンズがわかんなかったように、クラフトワークの奥のところもわからなかったんです。それがロシアのアヴァンギャルドに根 ざしてたり、バウハウス以前の構造主義に根ざしてたりして、ということがわかってきた。それをもとにして、自分たちはどういうことができるかというのをや ろうと思ったんですけど、うまくいかなかった」
(9)
「ぼくが不調」
(20)
「ただ暗くなっちゃった」
(9)
「息苦しい」(9)
「YMOは実質的には『TECHNODELIC』で終わったんですね」(9)
「これが完成したことで、1枚目からの大きな流れが完了した」(16)
「ひとつのサイクルが終ったと」
(7)
「精神状態は、なんか落ち着いてますよね。YMOのプロデュースに達成感があったという意味でね」(17)
「それに伴って精神的にも落ち着いてきたんですね。何かを解決するにはいい時期だったし、安定期だったわけです。解決というのは、忙しさだったり、顔を知られて街を歩けなかったりってことの解決と、もうひとつはメンバー間の緊張関係の解決」(17)
「何事もひとつじゃ通らないという。思い通りにはならないわけですね。村井さんもそういうことにはもう辟易していたと思うんですよ」(17)
「そのいちばんいい方法として、YMOはもういいんじゃないかというね。もう十分だったと」(17)
「最初に僕が辞めるって言い出したんです」(17)
「メンバーには話さなかったけれども」(35)
「それで村井さんにあるとき聞いたんです。そうしたら、村井さんのほうからもう辞めてもいいんじゃないってサジェスチョンがあったんで、意外だったんですけどね。村井さんは、もっとやれと言うのかと思ってましたから」(17)
「『YMOは、ぼくと細野くんとふたりで作った』って、口ぐせのように言ってた村井さんが散開を言い出したんだからね」(15)
「あとはビジネスサイドの思惑が残ってただけ」(17)
「止められたんですね。アルファからではなく、マネジャーから」(17)
「延命ですね。延命治療」(17)

ジャム
「『ジャム』は、僕の中では到達点というか、あの曲は金字塔なんですよ」
(17)
「アルバムとしては『BGM』がいちばん好きだったんですけど、楽曲では『ピュア・ジャム』ですね。まるで自分の曲のように好きですね。残念ながら幸宏の曲なんですけど(笑)。でも、ずいぶん僕が作ったところがあって、そういう意味で愛着があります」
(39)
「幸宏とほとんど共作です。サウンド作りはほとんど僕がやった」(9)
「これはアルファの1階にあった、喫茶店のトーストの話なんです。よく食べたんです、下らないことなんですけど。なんかそういうことを詞にするのが、粋な んじゃないかと。意味を持たせることをやってもしょうがない。これは幸宏のアイロニカルな、あのファッション・センスと同じような、ちょっと日本人離れし た感覚ですね」
(39)
「サイケデリックなコーラスの歌い方は、ある種の研究の賜物です」
(39)
「ビートルズ好みがまた出てきたんだ」(17)
「ビートルズ好きといっても偏ってまして、僕も幸宏もジョージ・ハリスン好きだったんですね」
(39)
「幸宏は本当にジョージ・ハリスンが好きで、歌い方を真似したりしてたから、その影響が僕にも伝わってきて、いっしょに歌ったりしたんですけど。そういう遊び心はあるんです」(17)
「それまでも『灰色の段階』でジョージ・ハリスン的な発声をしたり、ビートルズの真似事をレコーディングを通してやっていたんですが、『ピュア・ジャム』はその完成形でしょうね」
(39)

新舞踊
「ケチャとかやってて、こんなに簡単にできちゃって、うれしいけど悪いなっていうね。サンプリングに対する後ろめたさの意識はもう、『テクノデリック』のころすでにあったんですよ」
(17)

京城音楽
「(編注:坂本龍一は)韓国に行ったら元気になっていて、ソウルは面白いよって韓国の話をしていた。自動車がなんかうるさいんだよって、それがそのまま歌詞になって。無線の音をシミュレーションしたりしてね」
(17)

体操
「YMOの中で唯一、可能性を秘めたまま発展しそこねた音楽のスタイルが、ミニマルなんですけど。これはその唯一の作品だと言ってもいいですね」
(39)
「『体操』には、けっこうポップスの新しい可能性があるんじゃないかなと思います」
(39)

灰色の段階
「僕のなかでは出来がいいほうかなと思う」
(39)
「『灰色の段階』というタイトルは、このころの精神状態そのままなんですけど、灰色の人生を歩んでいたわけですね。YMOをひっくるめて、僕にはそれが灰色に見えていたんです、実は。灰色の段階の中を進んでいくような、トンネルのような感覚っていうのかな。『キュー』を作ったときのような説明になると思うんですが、高揚感と不安感を抱えながら、何か解放に向かっていくような気持ちがあったんです(39)
「当時いろんな苦い経験をして、自分がじっとしてれば、時間が解決していくということを覚えたんですね。うまみを。 時間というのは非常にありがたいもので、どんないつらくても、ひどい状態でも、いいことでも時間がたつと平均化されていったり、振り出しに戻ったりするわ けです」(9)
「人間の飛躍とかそういうことに非常に興味があって、どういうことで人間が飛躍していくのかなと。連続的に進むんじゃなくて不連続で飛躍していく。そうい うことっていうのは、ある耐えられないような体験を通していかないと、自分からはチャンスを作れない。YMOでは、非常にヘビーで、なんか常軌を逸した体 験をしていて、それがずいぶん頭脳を刺激したんですね。脳みそがフル回転になった。それまでのんびり暮らしてたんですけど、頭を使うことを覚えて、YMO というのもそういう体験だから時間の問題だと、一つのトンネルを抜けるような感覚があってね。特に『TECHNODELIC』はすごい暗いわけですから。 トンネルのようなサウンドなんですよ、エコーのつけ方とかも。ただトンネルというのは出口があるわけで、出口のないトンネルに入ったらもう最悪ですから。 抜けていく感覚という意味でそういう歌を作ったんですけど」
(9)
「音楽が完成形を提示するんじゃなくて、そういう感覚を刺激するようなものが作りたかったということですね。これはポップ・ミュージックで人を楽しませたいという目的とは、またちょっと違うものです」
(39)

手掛かり
「僕の曲です。『キュー』の二番煎じの曲」
(9)

高橋幸宏の証言
「『BGM』のときと比べると共作が多いね。ひとりひとりの個性とか持ち味もうまく出てると思うんだけど」
(93)
「教授が元気になって戻ってきたというのが大きいですね」
(17)
「教授の実験的な部分がすごくうまく出ている」
(20)
「前のはひとりひとり独立してる感じがあったでしょ。そういうのはゼンゼンなくて、あまり個人の顔は出てこない」
(93)
「僕は『BGM』でやりきれなかった叙情的な部分をもう1枚やりたいと思っていたんで、それが『テクノデリック』につながっていますよね。マイナーな曲が多いしね。メジャーなのは『体操』ぐらいで。当時は、そういう気分だった」(17)
「よくできてるんだけど、その分『テクノデリック』は後で聞いてみると軽いっていうかな」(50)
「よくできすぎちゃってるんだ」
(50)
「観念的に聞こえる」(50)
「作り終えて、教授の発言だったかな? やれることを全部やっちゃったっていうのがあった」
(96)
「当時の僕たちは最先端じゃないと嫌な気持ちになっていて、特に『テクノデリック』ではちょっとやりきった感はありましたよね」
(24)
「音楽的には『テクノデリック』で一段落しちゃったということがある。このテのものは売れないってこともわかったし(笑)。レコード会社にしても、これ以上ああいうレコードを作られても困るっていうのがあったでしょうしね」
(20)
「YMOはもうやめようということでした」
(20)
 ジャム
「当時、アルファの1階に喫茶店がありまして」
(17)
「喫茶店"BAN"」
(96)
「レコーディング中、よくそこで出前をとってたんですよ。そこでトーストをとったら、こんなに分厚いのが出たんです」
(17)
「すごく分厚いんですよ、いつも。トーストっていうのはもっと薄いものだと思ってるんで、『こんな不味そうなパン見たことないよね』ってところから始まって、それを歌詞にしちゃった」
(96)
「『こんなに可愛くないトースト、見たことない』っていう歌詞にして(笑)」
(17)
「"ジャム"っていうのは、イギリスのスラングで『偶然』っていう意味があって、だからこれもまったくの偶然っていうことで」
(96)
「この曲、僕の中でわりとジョージ志向なんですよ」
(96)
「コーラスをあとから曲の頭に持ってきたんですね。それを貼り付けて作ってるんです。実は『イエロー・サブマリン』の映画の中にそっくりなのが出てくるんですよ。サントラには入ってないんですけど、映画に出てくる曲で、そっくりなんです」
(17)
 新舞踊
「『YMOはケチャが上手いね』なんて、言われたわけじゃないです(笑)」
(41)
「サンプリング・マシンがあったからできること」
(41)
 階段
「ブギーなんですけども」
(17)
 京城音楽
かなり神経質に、きちっと叩いている」(96)
「無線機の声というか」(17)
「あれを離れたところから飛ばして、声を録音したりしてますね」
(17)
 体操
「間奏のところとかは『ううっ』っていう僕のクセの声とか、足の関節の裏のふくらはぎのところを、手で押さえて『プッ』っていわせる音とかを、サンプリングして使っていますね(笑)」
(17)

坂本龍一の証言
「いろんな確執を乗り越えて」
(42)
「もう一回やろうやというので作ったのが『テクノデリック』」
(26)
「ぼくも言いたいことをかなり言い、2人もそれぞれに言い、3人の力がいい形で重なりあって、120点ぐらいのアルバムができちゃったんです」
(42)
「僕の趣味というのを、わりとてらいなく出してますよね」
(17)
「かなりぼくの音の好みが反映されていて、録音も楽しんでやりました。」
(20)
「ぼくはYMOで一番好きなアルバムです。『BGM』という非常にヘヴィなアルバムを作って、ヘヴィな時期を何とか乗り越えたふりをして、また三人でわり と元気な顔を見せているという感じではあるんだよね、このアルバムは。最初の二枚は責任がないから、当然、陽気ですよね。『BGM』で非常にヘヴィになっ たでしょう。『テクノデリック』には、ヘヴィなことをそのまま引きずりながらも陽気な顔をしているという感じがあるわけ」
(26)
「一番真摯な態度というか、自家撞着的に螺旋状にキリキリ舞いするんでもなく、三人で、なるべく前向きにやろうという音楽的意思があると思うんです」(26)
「3人が一曲の中で入り乱れて」(93)
「誰かが作ってきた曲でも、どんどんそれに上からアイディアを重ねていくから、結果的に共作っていう形になってくる」(93)
「たとえばガムランとかね、まあエスニックなもの取り入れて、ポップ・ミュージックにしては実験的なもの」(99)
「原始的でね、民族音楽っぽくて、それにドイツのヴォイスとか、ああいうザラザラした感じのものと、すごくアートっていうかヨーロッパっぽい前衛的な感じもある」
(93)
「実験的な要素はずいぶんあるのに、『B-2ユニット』のように、前衛的や攻撃的にならず、暗くないでしょう」(17)
「シンセサイザーはなるべく少なくしてる」
(93)
「ぼくもピアノばっかり弾いてる」(93)
「それまで抑えていた何かが弾けて、ぼくは現代音楽の引き出しも、臆面もなく、どんどん使った」(42)
「わりと屈託なく、持てるものをどんどんつぎ込んでいた感じがしますね。自分のソロでさえ、スティーヴ・ ライヒとか、そのへんは使ってないわけで、それを惜しげもなく使ってしまう。というか、『テクノデリック』のときっていうのは、雰囲気として『坂本くん、 なんでも好きなことやってよ』っていう空気があったんですよ。ツアーの後遺症が、『BGM』で一応解消されて、ウェルカムな感じになっていて。だからわり と僕は、嬉々として、今まで持っていた知識とかをどんどん出していったのね」(17)
「それがYMOのポップな形式にうまく収まったと思います。3人の持っているものが、最良の形で結晶したという、一種の達成感があった」(42)
「音楽的に行けるところまで行っちゃったねっていう、いい意味での達成感」
(17)
「そして、もう終ってもいいかな、という感じになったんです。やることはやった、もうシェアできるものは何もない、これ以上続けても意味がない。そういう感じになった」(42)
「もういいんじゃないのみたいな」
(17)
「『テクノデリック』の後、『休止しよう』と申し合わせた記憶があります。あの時点で音楽的な共通の目的は失われたのでしょう。」(20)
「だから1年の休みというのは、やめてもいいみたいな意味だったんじゃないのかな」
(17)
「自分たちの中で、何かやりたいということが出てくるまで、ちょっとほっておこうと」(17)
「解散にちょっと近い、いい加減に言葉を濁したような感じですね(笑)」(17)
 京城音楽
「このソウルは、京城ですね、韓国の。京城を、英語で言うとソウル」
(100)
「僕が作って、幸宏と僕で、あの、歌のところを、一緒に作りましたけども」(100)
「初めて韓国に行って衝撃を受けたのは、ものすごく近いなというね。あっちに降り立っても、まるで日本の街みたいで」(17)
「違うっていえばハングル文字だけで、その中の感情とかは恐ろしく違うわけだけど、たぶんDNA的に、こんなにも近いのかという。それは衝撃的でね」(17)
「取材ですね。『週刊FM』かなんかで、行きませんかっていうオファーがあったので、ホイホイと行ったっていう」(17)
「すごく印象が強かったわけですよ、あの旅行は」(17)
 体操
「僕にとっての『CUE』でしょうか。」
(43)
「たぶんトーキング・ヘッズかなんかの影響ですね。『リメイン・イン・ライト』の中に、わりと男らしいメロディーが出てくるんだけど、あれの影響だと思う」
(17)
「下地はなんのことはない、ブルース進行。」
(43)
「それにスティーヴ・ライヒ風のミニマルなピアノ・パターンをのっけました。」
(43)
「音響的には、複雑になっちゃうわけだからね。その分、土台としてストラクチャーはシンプル化するよね。コード進行みたいなものをそのままもってきても成り立つというか、そのバランスなんだと思うし」
(17)
「結局、あのライヒみたいな組み合わせの音だと、ブルース進行でもあまりブルースに聞こえないんですよ」(17)
「ユキヒロのドラムの8分音符のキックは、ちょっと他に聴いたことがない。」(43)
「間奏のループで、幸宏の足の音とかを使ってるんですよね」
(17)
「テープ・ループ」(17)
「ユキヒロの『あっ』という声とか」(43)
「あとアルファのスタジオのソファの音とか」
(17)
「いろんな音をサンプルしました。」
(43)
 手掛かり
「細野さんが作りました、YMO版、ハイスクールララバイ」
(100)

村井邦彦の証言

「当初の目標から外れていっているわけで、まいったなという感じがあったのと、同時にYMOのメンバーがこの頃、疲れてきてるなっていうのもわかった。だから、ぼくが細野君にYMOの解散をもちかけたんだ」
(101)
「時期的には『テクノデリック』の後だったかな」
(101)

小池光夫の証言
「結構、発売日から逆算したスケジュールがタイトだったんですよ」
(29)
「いちばんテクノロジーと格闘したレコーディングだったと思います。いろんな音を作ったりサンプリングしたりして、それをどう加工するかっていう闘いだったですね」(86)
「トラック名もすごい。『大豆油のカン』『タンころがし』『バケツ』『鉄工所の音』…(笑)」
(86)
 ジャム

「(編注:"ジャムでしょ?"は)細野さんの声ですね。ハンド・トーキー(トランシーバー)を使った。これはエフェクターでは出ない音なんで、スタジオに ハンド・トーキーを置いて、片方で喋って、もう片方から出る音をマイクで拾ったんです。喋り終わった後のPTT(送話ボタン)を離した音もそのままです ね」
(32)
「トラック20、21には"Nnn…
"ってコーラスが入っている。これは"七人の刑事"って言ってましたね(笑)」(32)
「スタジオのドアの鉄のストッパーを叩いた『STUDIO STOPPER』なんていうのも『ジャム』に入ってますね」
(86)
「スタジオのドアを止めておく鉄の塊ですね。それを金づちかなんかでたたいた音」
(32)
 体操
「『TAISO』の教授の声もハンド・トーキーですよ。だから説明の後に"カシャ"ってPTTの外れた音が出る」
(32)

飯尾芳史の証言
 灰色の段階
「完全に細野さん1人で作った曲です」
(35)
「ボーカルに関してはとにかく声は楽器より小さくしようというのがあったみたいです。80年代のニュー・ウェーブってそうでしたよね」
(35)

ピーター・バラカンの証言
「出来がいいと思います。自分が係わったYMOのレコードの中では一番好きですね」
(37)
「楽しかった。メンバーの仲もまたよくなっていたし(笑)」(36)
 ジャム
「詞がおもしろい。アルファ・レコードの1階にあった喫茶店のジャム・トーストが醜いっていう、ただそれだけでできた詞でおかしかったなあ(笑)」
(36)

奥村靫正の証言
「よくその頃話してたのは、どんどん自分たちがみていくものが先祖帰りしていくというか、アメリカからニューヨークを通ってヨーロッパの方 に回帰していく、ロックの流れみたいなものがあるんですよね。逆に進化としてはヨーロッパの方からアメリカに行って西海岸にいきついたものを我々は吸収し てたんだけど、それを逆にたどっていくようなところがあって、そうするとその中にクラシカルなものがあったりアヴァンギャルドなとこがあったりビートニク ス的な思想がはいってきたり、今度ヨーロッパ行っちゃうとダダイズムとか、それ以前だとロシア構成主義だとかそういう部分にまで行っちゃうんですね。だん だん同じように僕も勉強しながら、情報収集しながら自分の作風を変えていったところがあるんです」
(102)
「ジャケットは、ご存知のとおりもともと女性のデザインのほうだったんですよ」
(31)
「コルホーズ(ソビエト連邦時代のロシアの集団農場)における労働者の女性ですね。そういう共産主義社会的体制の中で幸せを感じているというようなイメージで。いい写真だな、と思って使ったんですけど」
(52)
「『BGM』のときと同様、まだ音はなかったですね。コード進行ぐらいしかできてないときにデザインを始めたから。ただ、もう彼らの方向性としてはこっちに進むしかないだろうっていう確信がありました(笑)」
(31)
「ところがジャケットにメンバーの写真がないのはダメだって話をレコード会社からされて、どうしても写真を入れてくれと」(31)
「初回プレスが40、50万枚というアイドルの世界でしたから、やっぱり彼らの写真がないことにアルファ・レコードが難色を示した」(53)
「村井さんも出てきて『アーティストの写真を使ってほしい』とお願いされて」
(52)
「もちろんクライアントの意見としてはよくわかる」(53)
「そこで僕は『「BGM」のジャケットのときはメンバーいなかったよね』ってところからレコード会社と話をして(笑)。で、折衷案として」(52)
「じゃあファースト・プレスだけ入れましょうと」(31)
「とにかく初回は彼らの新しい写真でいくことになった」(53)
「初回プレスだけで、以後はオリジナルに切り替える契約を結んでいました」
(53)
「困りましたね(笑)。もうあまり時間がなくて、それで自分で彼らがレコーディングしてるスタジオに行って写真を撮ってきたんです。フォト・セッションを組むスケジュールの余裕もありませんでしたね。メンバー3人が集まる場所ってスタジオしかなくて」
(31)
「彼らも乗り気で、最後のミックス・ダウンの作業中でしたから、僕が彼らにペイントしてポラロイドでぱっぱっと撮影しました」(53)
「スタジオで待ってて、メンバーがひとり来る度に写真を撮っていったような憶えがありますね」(31)
「細野さんが持っている赤電話も、坂本くんが持っているスタンドの灰皿も、そこにあった備品ですよ(笑)」(52)
「彼らの顔を出す最低条件はクリアするけれど、アイドルらしくはしなかった」(53)
「クライアントの要請に対して流されないっていう意思表示でしたね」
(53)
「現行版の裏ジャケにある写真はビデオで撮ってますね」(31)
「スタジオ"A"のコントロール・ルームのモニターに映したメンバーの顔です」
(52)
「これは、『テクノデリック』のレコーディング前に撮ってたのかなあ」
(31)
「(編注:ブックレットの写真は)1920年代の時代性というか…
…ジャケットの女性に表れているコルホーズと同じ次元での共通性ですね。古めかしくて、ちょっと機械文明のようなものが入っている。イギリスの放送局の機材の写真からとったんです。まあ…未来的な感じですよね。その時代から見た」(52)
「(編注:フォントは)全部手書きで2〜3週間ぐらいかけて一文字ずつ書いていって、それを写植の原版にしてます」(31)

1981/11/21 チャクラ『さてこそ』発売。
制作協力
「終わってみると、板倉クンがメインで、ボクは何もしてあげられなかったような気がして申し訳ないんです」(69)
「レコーディングという共同作業は、だれかが引っぱっていかなくちゃならない。ボクが、つまんないな(ああやっ ちゃ、つまんないな)という曲をアレンジというか組み替えたのはあります。『ユー・ニード・ミー』という曲で、これも、もうできあがっていたのをガラッと 変えちゃったわけですよ」(69)

板倉文明の証言
 You need me

「この1曲だけ、どうアレンジしていいかまったくわからなくて、迷ってるんですって相談したんです。そしたら細野さん、わかったと。
メモしたものを元にリズムを作っていった。そういう音の組み立て方は初めてで、影響を受けましたね(70)
「細野さんのやり方だけど、決まってたアレンジを完全にやめちゃって、その場その場で気が向くままにアレンジを決めてった。
まず、リズム・ボックスで適当 なパターンを細野さんが決め、テープに入れて、それにフィットした形でベースを入れた。そこでみんなの意見でいろいろ考えて、結局そのベースはやめて、マ リンバ、ドラムをバーッと入れて、音をどんどん煮詰めて行き、それにシンセで適当にコードを入れた」(28)
「リズム・アレンジが細野さん、メロディー・アレンジがボクという感じかな。歌なんかも、ローランドのエコー・チェンバー・RE-201を歪ませたりして効果を出しました」
(69)
 いとほに
「ロックみたいに繰り返さないってところを、細野さんはすごく気に入ってくれて」
(70)

小川美潮の証言
 You need me
「この曲は、細野さんがドッとアレンジを崩してくれた。他のメンバーはあんましタッチしてない曲なのよね」
(69)
「文ちゃんが細野さんと相談して、オケを作っていました」(70)
「リズムだけ細野さんが組みかえて、インド・ポップ風にして、マリンバ、スチール・ドラムは文のアレンジを生かしてもらったんです」
(69)

1981/11/21 鈴木慶一と対談。

※編注:同年12月21日発売の『バラエティ』2月号に掲載。

1981/11/21 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』通しリハーサル。砧/国際放映 2スタジオ。

1981/11/23 夜 フジテレビ『欽ちゃんのドーンとやってみよう』公開録画を観覧。高橋幸宏夫妻と鋤田正義が同行。河田町/フジテレビ。

1981/11/24 10:15 羽田空港から仙台へ出発。

1981/11/24 14:00 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』初日通しリハーサルのため会場入り。仙台/宮城県民会館。

前田祥丈の証言
「飛行機で仙台入りしたメンバーは、ホテルにチェック・インして、すぐに会場にやってきた。ツアー初日ということで、とくに念入りにリハーサルしようということになっているのだ。」(97)
「午後4時。ぼくは仙台の宮城県民会館の、ガランとした客席にいた。ステージの上では、本番通りのリハーサルがおこなわれている。」(97)

1981/11/24 17:00すぎ YMO、宮城県の新聞社のインタビュー取材を受ける。仙台/宮城県民会館。

前田祥丈の証言
「5時過ぎにはリハーサルも終り、メンバーは地元新聞のインタヴューを受けた後、メイクにとりかかる。前年のワールド・ツアーでは、ヘアー・メイクのスタッフが同行したけれど、今回はすべて自分たちの手で。手慣れたものだ。」(97)

1981/11/24 18:30すぎ YMO『ウィンター・ライヴ 1981』公演。仙台/宮城県民会館。
YMO 高橋幸宏(vo, ds, perc, syn, cho)、坂本龍一(syn, vo, g, ds, cho)、細野晴臣(syn, b, cho)、松武秀樹(prog)
 (来たるべきもの)
 (前奏)
 ジャム
 灯
 バレエ
 カムフラージュ
 階段
 マス
 新舞踊
 ハッピー・エンド
 音楽の計画
 京城音楽
 untitled instrumental
 キュー
 手掛かり
 体操
 テクノポリス
 ライディーン
 (後奏)
「『ウィンター・ライブ』では、もうサヨナラって気持ちだった」(35)
「言葉に出してはいないけど、終わりっていうことをコンセプトとして見せちゃったんだろうね」
(35)
「ステージでフィルムを使って出てくるのは、幻想の中に入っていくような、そんな夢を見てもらおうと思ったわけ」(35)
「いちおう全部コンピューターが制御してる」(97)
「すごかったです。なんであんなに盛り上がったんだろうね」
(10)
「みんな冷静になって見にくると思って、そういうステージを用意してたんだけどね」(10)
「後半になったら、突然ワーッと前に出てきてね、アンコールの2曲が終わっても30分ぐらい騒ぎがおさまんなくてね」(10)
「興奮するね。こんなにウケてるっていうのを感じるのは久しぶりでしょう。ちょっと戸惑っちゃうと同時に、ああ、こうだったのかと思った。やっぱり、ライブはいいね」(10)

前田祥丈の証言
「開場と同時に、待ちかねたファンがドッと入ってくる。高校生、中学生の姿が多い。」(97)
「ごく普通の少年、少女たちが目につく。仙台という土地柄のせいなんだろうか。それとも
…。」(97)
「客席が暗くなる。『BGM』の最後に収められている『来たるべきもの』の、無限上昇音が流れだす。大きな歓声、拍手。やがて緞帳が上がる。けれど、ステージは真暗。そして、ステージの前には紗幕が下りている。」(97)
「紗幕の上に工場を写したカラー・フィルムが投映される。音楽は『テクノデリック』に入っている『前奏』に変わる。」(97)
「実は、この段階でもう演奏は始まっているのだが、客席からはフィルムしか見えない。客席がとまどっている感じがわかる。」(97)
「フィルムは工場の鉄のトビラのアップに。そのトビラを開くと、中でYMOが演奏している。曲は『ジャム』に。」(97)
「やがて、紗幕の下半分が、やや明るくなる。そして、初めて実際のメンバーがシルエットで浮かびあがる。上半分には、YMOのフィルムが。しかも、フィルムのセットと実際のセットが同じなのだ。」(97)
「フィルムが終わり、ステージはまるで蛍光色のようなトーンの、さまざまな色に包まれる。紗幕を通して見るそれは、まるで霧のむこうの出来事のように、もどかしさをともなう、不思議な美しさを持っている。」(97)
「この美術を担当しているのは、YMOのレコード・ジャケットも手がけている奥村靫正だ。」(97)
「ステージが1/3ほど進んだとき、やっと紗幕が上がる。」(97)
「細野、坂本、高橋に加えて、ゲストは松武秀樹のみというコンパクトな編成。そして、松武も今回はごく目立たずに、3人が前面に出ている。」(97)
「『新舞踊』では、坂本がエレキ・ギターを弾いて見せるし、『キュー』では、坂本がドラムス、高橋がキーボードを担当。また、細野もいままでになくベースを多用して、動きを見せている。」(97)
「さらに目につくのは、3人のコーラス・パートの多さ。例によって喋りはいっさい無いが、メンバーのアクションを見ていても、ずいぶん派手になったなと感じる。」(97)
「やがて、ラスト・ナンバーの『体操』が終わり、メンバーが次々とステージから消えてゆく。一瞬の空白があって、『アンコール』の手拍子が湧きあがった。」(97)
「アンコール・ナンバーは『テクノポリス』と『ライディーン』。それまで、ステージにむしろ飲まれていた超満員の客席は、やっと安心してノレるという雰囲気で総立ちとなった。そのとたん、ホールは普通のコンサートのノリになってしまう。」(97)

高橋幸宏の証言
「ファン切り離しをやったあとに、ますます切り離すようなコンサートだった」
(96)
「なんと、お客様を突き放したステージだったんでしょうか(笑)」
(41)
「僕たちの中では、『BGM』と『テクノデリック』を作ったっていう、それなりの達成感があったから、精神状態は必ずしも悪くなかったんです」
(96)
「半ば自虐的に、あるいは本音の部分でも、けっこう楽しんでたんじゃないでしょうか」(96)
「『BGM』『テクノデリック』、の曲を中心にやってるんですけどもね」(41)
「ほとんどマイナーの曲なんですね」(41)
「気分がそういう時期だったですね」(41)
「ある種こう耽美的なものを何かで壊そうっていう意識がすごい強かった時期で、随所に教授のその、耽美性みたいなのが出 てくるんですよ。でもそれを、壊していく、ところに楽しみを感じてるようなとこが教授の中にもあって、その、両方がこう、相反してるとこがね、こう絶妙な バランスで、ここに存在してるって感じなの」(41)
「いちばんメイクとかヘアが過激だったんじゃないかな。それでいて本当に抑えたストイックなライヴで、最後だけアンコールでハジケるという」(96)
「最後はサーヴィスしてしまうってところが僕たちらしくて悲しいんだけど(笑)」(96)
「好きなコンサートでした」(96)
「当時中学生ぐらいだと、やっぱりちょっとー理解しがたかったみたいですね、この辺の感じは。でのちになって、もうちょっと大人になって『ああそういうことだったのか』ってわかると言うかね」
(41)
「このとき、初めてカセットの8チャンネルのシステムを使ったんです」(96)
「テープを使ったのもかなり実験的だった」(96)
「あの頃の曲はスタジオで実験を積み重ねた結果の曲で、ライヴで再現するのが非常に難しくなっていた。で、ライヴでも、ライヴ向きのちがうアプローチを取るという方法じゃなくて、なるべくあのスタジオの雰囲気を再現しようとしたんです」(20)
「その分楽になって、僕が半分ヴォーカルをとるというスタイルになったんです。同じシステムで、後に『ボク、大丈夫?』のツアーをやりました」
(96)
「舞台美術がADC賞をとるんですが、そういう意味で言うと『ザ・ウォール』みたいなものですかね。いや、全然違うか(笑)」(96)
「場所によってはちょっと狭すぎて、幕との距離とか、うまくできなかったりとかもあったかもしれない」(96)
「ロシアン・コンストラクティビズムの、影響ってすごい当時強かったんで、奥村さんもそうだし、メンバー自体もそうだったんでね、この辺がもう頂点でしたね、その、気持ちの」
(41)
 ジャム
「生ドラムではなく、サンプリングのドラムを手で叩いてます」
(96)
「トリガーで鳴らしてるんです。だけどそのトリガーのセンサーが未熟で、ちょっとした振動で音が出ちゃうんですよ。ほんの少しの振動も拾っちゃって、『ガーン、バーン』って鳴っちゃう。そういう状況でやってましたね」(96)
 マス
「細野さんと教授が掛け合いでキーボードを弾いていて、僕が生ドラムを叩いてるという、究極のカタチですね、本来のYMOの。細野さんが重厚なあのメロ ディを弾くと、教授が合いの手を入れてくるみたいな。教授のメロディは原曲と全然違って、ゴージャスなカクテル・ピアノのような感じで弾いてますね」
(96)
 京城音楽
「レコードより全然ドライヴしてるんです。データをきちんと計ると、きっとレコードより何パーセントか弾んでますね」
(96)
「人によって、ベーシストとドラマーって違う場合があるんだけど」(96)
「2人の跳ね方、結構似てるんです」 (96)
「2人の間ではかなり共通してると思います。あとは教授が、本来はハンド・トーキーでやってたのをメガホンでやってたでしょう。その生々しさも、またよくてね」 (96)
 キュー
「『キュー』を初めて演奏できたのが個人的には嬉しかった」
(96)

坂本龍一の証言
「奥村さんがステージ・デザインをやるんだけど、火の玉を飛ばそうとか、細野さんのオカルト好きが、奥村さんと合致しちゃうんだよね。ノイズが多いとか、 暗いとか、エッジがハッキリしてないのは、僕も好きだったんだけど、火の玉はちょっとやりすぎなんじゃないのって(笑)」
(17)
 キュー
「僕、自分からドラム叩かせてよって言ったと思うんですけどね(笑)」
(17)

近藤健一朗の証言
「たしかMC-4を使い始めたのがあのツアーじゃなかったかな? 8トラのオープンも使っていたし。機材の発達でトラブルも少なくなりましたよ」
(20)

松武秀樹の証言
「最初にフィルムが映るじゃないですか。そのフィルムの中でステージが映っているでしょ。工場の中っていう設定で。あれがリハーサル会場ですね」
(103)
「このツアーの特徴といえば、やっぱり全曲でMC-4かテープが同期されていることだと思うんですよ」
(103)
「それまでとはライヴのやり方をガラッと変えたという点でも画期的ですよ、このツアーは」(103)
「MC-4は3台使っています。1台は、万一壊れた時用の予備ですね」
(30)
「MC-4が出てきて助かったな」(34)
「MC-8はトラブルは多かったわ、データのロードに時間がかかるわで、大変でしたから」
(34)
「いろんな新しい記憶装置のおかげで、機材の制御とか、シーケンサーの動作に関しては、かなり安心してやってた」(34)
「テープはクラリオンの4チャンネルのカセット(XD-558)なんです。これもマイナス・フォーぐらいのかたちで作っておいて同期させた。でも、カセットでもクオリティ的には十分でした」(30)
「幸宏がLMDを操作したりしてました」(30)
「LMDを鳴らすトリガーを、それ用に圧電センサーで作ったんですよ。ショックを与えるとトリガーで鳴るようにね」
(30)
「教授のシンセが凄かったなあ。音色を汚して、ギターみたいな音を出してた」(34)
「アドリヴのパートがすごく多かったし、ソロでの自由度もそれまでのツアーの中でいちばん高かったんじゃないかな。テープ使用のいい悪いはべつにして、ある意味、YMOのライヴ形態の最終完成形ですね」(103)
 untitled instrumental
「要するに教授が『キュー』のときドラムに移るから、その入れ換えのための時間稼ぎ用に曲を用意したんだと思うんですよね。この曲の間に教授がドラムへ行って」
(103)

長曽我部久の証言
「基本的にYMOの御三方はライヴが好きな方々じゃないですからね。細野さんにいたっては、どうやったらライヴをやらずにレコードが売れるか?って真剣に考えてましたからね。当時、楽屋からステージまで担架で運んでくれって言ってたぐらいで(笑)」
(20)

奥村靫正の証言
「完全にロシア構成主義。わりとそれが自然な流れでできて」(102)
「特に三人から明確な要望があったわけではありません」(104)
「アングラ劇団に近い手法をとりました」
(104)
「まず色と光というのがテーマにあって、あと楽器を全部隠そうっていうところから始まりましたね」(31)
「この頃はなににしても"隠す"というのがひとつの戦略になってましたね、YMOの。ジャケットでは顔を隠す。ステージでは楽器を隠す、といった具合に。 照明に関しても、それまでは電飾のような派手なもので、それがこのツアーではそういう派手な光の使い方じゃなくて、この頃の彼らの音のイメージにあわせた ものになってる。螺旋を描くような光とか、くるくる回る光とか、サウンドのたとえば無限音階なんかをイメージしてデザインしました」
(31)
「構想は一瞬でしたよ。図面を1時間くらいで描いて、舞台の簡単な模型も作って、メンバーに説明して」(52)
「メンバーも理解してくれて、全然オッケーでしたよ」
(52)
「ゲネプロも砧の映画スタジオで入念にやって、ほぼ思い通りの出来になりました」(52)
「冒頭の十五分くらいは映像だけなんです。お客さんは、本人たちが出てきたのかと思って盛り上がる。でも、そのうち映像だということに気づいて、ざわざわしてくる。そこで、ドカーンと三人が登場するわけです。その辺は舞台監督との共同作業ですよね」(104)
「ひとつの劇場で何日も何週間もやるものだったら、いくらでも凝った複雑なことができるんですけど、ツアーで基本的 には毎日バラして移動させるものじゃないですか。一時間ぐらいでバラしたりセッティングできるような構造にしなきゃいけなかったんで、すごくコンパクトに 作ってはあるんです」(31)
「リーズナブルによくできたセットじゃないかな。ほとんどベニヤと紙ですけど、色もうまく塗れてるし、あの時点でやれることはすべてやったと思います。しかし、これをよく全国に持っていったなあ」(31)
「ライヴが終わると、みんな"遊びたい!"って、クラブなんかないから土地のディスコに行くんだけど、これがまた見事に閑散としていて(笑)」
(31)
「当時って、きゃーきゃー言ってくれる層のファンを切っちゃったわけでしょ。だから追っかけみたいな女の子とか全然 いなくて、メンバーだけががらーんとしたディスコで"なにココ?"みたいな(笑)。全然盛り上がらなくて黄昏てて、そうこうするうちにお腹が減ってきたん だけど、ラーメン屋しか行くとこがない。みんなあのメイクのままでラーメン屋に(笑)」(31)
「たしか仙台だったかな」(31)

※編注:セットリスト中、カッコ内の曲はテープのみでメンバーの演奏はなし(『ウィンター・ライヴ』全公演共通)。

1981/11/25 高橋幸宏のイラストを描く。

※編注:同年12月20日発売の『サウンドール』1月号に掲載。

1981/11/26 18:30 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』公演。盛岡/岩手県民会館。
YMO 高橋幸宏(vo,ds,kbd,cho)、坂本龍一(kbd,vo,g,ds,cho)、細野晴臣(kbd,b,cho)、松武秀樹(prog)
 (来たるべきもの)
 (前奏)
 ジャム
 灯
 バレエ
 カムフラージュ
 階段
 マス
 新舞踊
 ハッピー・エンド
 音楽の計画
 京城音楽
 untitled instrumental
 キュー
 手掛かり
 体操
 テクノポリス
 ライディーン
 (後奏)
前田祥丈の証言
「客層、そして反応も仙台とほぼ同じだった。」(97)

1981/11/28 『超宇宙マガジン』1号(三崎書房)発売。
対談/細野晴臣と語るUFOと宇宙 福沢もろ × 細野晴臣

1981/11/28 18:30 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』公演。広島/郵便貯金会館。
YMO 高橋幸宏(vo, ds, perc, syn, cho)、坂本龍一(syn, vo, g, ds, cho)、細野晴臣(syn, b, cho)、松武秀樹(prog)
 (来たるべきもの)
 (前奏)
 ジャム
 灯
 バレエ
 カムフラージュ
 階段
 マス
 新舞踊
 ハッピー・エンド
 音楽の計画
 京城音楽
 untitled instrumental
 キュー
 手掛かり
 体操
 テクノポリス
 ライディーン
 (後奏)


1981/11/29 18:30 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』公演。大阪/フェスティバル・ホール。
YMO 高橋幸宏(vo, ds, perc, syn, cho)、坂本龍一(syn, vo, g, ds, cho)、細野晴臣(syn, b, cho)、松武秀樹(prog)
 (来たるべきもの)
 (前奏)
 ジャム
 灯
 バレエ
 カムフラージュ
 階段
 マス
 新舞踊
 ハッピー・エンド
 音楽の計画
 京城音楽
 untitled instrumental
 キュー
 手掛かり
 体操
 テクノポリス
 ライディーン
 コズミック・サーフィン
 (後奏)
松武秀樹の証言
 コズミック・サーフィン
「ファン・サービスと、ちょっと公演時間を延ばす。(編注:セットリストに追加されたのは)そういう理由でしょうね(笑)」
(103)

1981/11/30 18:30 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』公演。大阪/フェスティバル・ホール。
YMO 高橋幸宏(vo, ds, perc, syn, cho)、坂本龍一(syn, vo, g, ds, cho)、細野晴臣(syn, b, cho)、松武秀樹(prog)
 (来たるべきもの)
 (前奏)
 ジャム
 灯
 バレエ
 カムフラージュ
 階段
 マス
 新舞踊
 ハッピー・エンド
 音楽の計画
 京城音楽
 untitled instrumental
 キュー
 手掛かり
 体操
 テクノポリス
 ライディーン
 コズミック・サーフィン
 (後奏)
 

1981/12/01 18:30 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』公演。名古屋市民会館。
YMO 高橋幸宏(vo, ds, perc, syn, cho)、坂本龍一(syn, vo, g, ds, cho)、細野晴臣(syn, b, cho)、松武秀樹(prog)
 (来たるべきもの)
 (前奏)
 ジャム
 灯
 バレエ
 カムフラージュ
 階段
 マス
 新舞踊
 ハッピー・エンド
 音楽の計画
 京城音楽
 untitled instrumental
 キュー
 手掛かり
 体操
 テクノポリス
 ライディーン
 コズミック・サーフィン
 (後奏)


1981/12/01 22:20 NHK-FM『サウンド・ストリート』放送。
DJ:坂本龍一
※編注:『テクノデリック』特集。別録りされたYMOのコメント(鋤田正義も一瞬登場)が流された。

1981/12 ゲルニカのレコーディング開始。芝浦/スタジオ'A'。

「デモ・テープをそのまんま、実は、レコーディングーに持ち込んでね、使ってたりしたんですよ。面白い音だったんで」(91)

上野耕路の証言
「12月から間欠的にレコーディング」(105)
「ゲルニカというのは、作、編曲、演奏の私と、歌の戸川純、作詞の太田螢一らによるもので、楽器の演奏に携わるものは私一人であるから、レコーディングにおいて私の役割は、馬車馬的になって来るのである。」
(105)
「たださいわいにも、アルバムに収録される11曲のうち8曲は、なんと自宅のティアック、144で作った、デモ・ テープやライブの時のカラオケ(一人しか演奏者がいないためテープ・レコーダーを使っている)で使用しているものを、そのまま使うことになったので、幾分 か肩の荷は降りた。つまり、スタジオで一から作るのは3曲だけなのだ。」(105)

※編注:アルバム『改造への躍動』のレコーディング。翌1982年2月からは音羽/LDKスタジオに場所を移して同年3月まで行われたが、細野晴臣の参加日は特定できない。


1981/12/05 イモ欽トリオ『ポテトボーイズNo.1』発売。
失恋レッスン(A・B・C):compose, arrangement
雨のライダーブルース:compose, arrangement
「乱作したんですが、あんまり、自分では気に入ってないわけですね」(80)

※編注:「ハイスクールララバイ」も収録。

1981/12/07 『ビックリハウス』連載「イエローマジックオーケストラシンドローム」手書き原稿を書く

※編注:1982年1月9日発売の2月号に掲載。段落ごとに執筆の日付が書き添えられている。

1981/12/07 18:30 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』公演。札幌/厚生年金会館。
YMO 高橋幸宏(vo, ds, perc, syn, cho)、坂本龍一(syn, vo, g, ds, cho)、細野晴臣(syn, b, cho)、松武秀樹(prog)
 (来たるべきもの)
 (前奏)
 ジャム
 灯
 バレエ
 カムフラージュ
 階段
 マス
 新舞踊
 ハッピー・エンド
 音楽の計画
 京城音楽
 untitled instrumental
 キュー
 手掛かり
 体操
 テクノポリス
 ライディーン
 コズミック・サーフィン
 (後奏)

1981/12/08 『ビックリハウス』連載「イエローマジックオーケストラシンドローム」手書き原稿を書く

※編注:1982年1月9日発売の2月号に掲載。

1981/12/09 『ポップティーン』1月号(飛鳥新社)発売。
インタビュー/♪ブルーマ、トレパン、トレシャツ、ハチマキ…これが、YMOの『体操』ダ

1981/12/09 『ビックリハウス』連載「イエローマジックオーケストラシンドローム」手書き原稿を書く

※編注:1982年1月9日発売の2月号に掲載。

1981/12/10 『ビックリハウス』1月号(パルコ出版)発売。
連載/イエロー・マジック・オーケストラ・シンドローム

1981/12/16 18:30 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』公演。福岡/サンパレス。
YMO 高橋幸宏(vo, ds, perc, syn, cho)、坂本龍一(syn, vo, g, ds, cho)、細野晴臣(syn, b, cho)、松武秀樹(prog)
 (来たるべきもの)
 (前奏)
 ジャム
 灯
 バレエ
 カムフラージュ
 階段
 マス
 新舞踊
 ハッピー・エンド
 音楽の計画
 京城音楽
 untitled instrumental
 キュー
 手掛かり
 体操
 テクノポリス
 ライディーン
 コズミック・サーフィン
 (後奏)


1981/12/18 18:30 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』公演。金沢/観光会館。
YMO 高橋幸宏(vo, ds, perc, syn, cho)、坂本龍一(syn, vo, g, ds, cho)、細野晴臣(syn, b, cho)、松武秀樹(prog)
 (来たるべきもの)
 (前奏)
 ジャム
 灯
 バレエ
 カムフラージュ
 階段
 マス
 新舞踊
 ハッピー・エンド
 音楽の計画
 京城音楽
 untitled instrumental
 キュー
 手掛かり
 体操
 テクノポリス
 ライディーン
 コズミック・サーフィン
 (後奏)

1981/12/20 『サウンドール』1月号(学習研究社)発売。
連載/YMO SPECIAL 大丈夫「三人三様」
※編注:YMO『ウィンター・ライヴ 1981』で訪れた仙台での高橋幸宏を描いたイラストを発表。

1981/12/21 『バラエティ』2月号(角川書店)発売。
対談/変移3年周期説 鈴木慶一 × 細野晴臣

1981/12/22 18:30 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』公演。新宿コマ劇場。
YMO 高橋幸宏(vo, ds, perc, syn, cho)、坂本龍一(syn, vo, g, ds, cho)、細野晴臣(syn, b, cho)、松武秀樹(prog)
 (来たるべきもの)
 (前奏)
 ジャム
 灯
 バレエ
 カムフラージュ
 階段
 マス
 新舞踊
 ハッピー・エンド
 音楽の計画
 京城音楽
 untitled instrumental
 キュー
 手掛かり
 体操
 テクノポリス
 ライディーン
 コズミック・サーフィン
 体操
 (後奏)
高橋幸宏の証言
「コマ劇場は奥のほうが高くなってるんですけども、前のほうだと、ほとんど見えないですねこれ。何やってるか」
(41)

松武秀樹の証言
「イミュレーターの存在も大きかったですね」
(103)
「新宿コマの時はもうありました。あれはヨロシタのものじゃなかったのかな?」(30)

1981/12/23 18:30 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』公演。新宿コマ劇場。
YMO 高橋幸宏(vo, ds, perc, syn, cho)、坂本龍一(syn, vo, g, ds, cho)、細野晴臣(syn, b, cho)、松武秀樹(prog)
 (来たるべきもの)
 (前奏)
 ジャム
 灯
 バレエ
 カムフラージュ
 階段
 マス
 新舞踊
 ハッピー・エンド
 音楽の計画
 京城音楽
 untitled instrumental
 キュー
 手掛かり
 体操
 テクノポリス
 ライディーン
 コズミック・サーフィン
 体操
 (後奏)
※編注:この日の演奏の一部は、NHK-FM特別番組とテレビ東京『サウン ド・クリエイション』で放送後、まず映像作品『ウィンター・ライヴ'81』として商品化され、次いでその音声のみを抽出してCD化された。また、それらに 収録されていない音源がDVD-ROM『YMO Giga Capsure』やCD『ONE MORE YMO』で商品化されている。なお、NHK-FM特別番組で1982年1月3日に放送された「手掛かり」「体操(2回目)」は、その後どこにも収録されて いない。

1981/12/24 『ビックリハウス』連載「イエローマジックオーケストラシンドローム」手書き原稿を書く

※編注:1982年1月9日発売の2月号に掲載。

1981/12/24 18:30 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』公演。新宿コマ劇場。
YMO 高橋幸宏(vo, ds, perc, syn, cho)、坂本龍一(syn, vo, g, ds, cho)、細野晴臣(syn, b, cho)、松武秀樹(prog)、ピーター・バラカン(voice*)
 (来たるべきもの)
 (前奏)
 ジャム *
 灯
 バレエ
 カムフラージュ
 階段
 マス
 新舞踊
 ハッピー・エンド
 音楽の計画
 京城音楽
 untitled instrumental
 キュー
 手掛かり
 体操
 テクノポリス
 ライディーン
 コズミック・サーフィン
 体操
 (後奏)
高橋幸宏の証言
「毎日、新宿コマに通った、あの印象しかないですね。地方でやったのも全然覚えてないです、圧倒的にコマの印象が強すぎて。あれが完璧な演出ができるステージ・サイズだったと思う」
(96)

松武秀樹の証言
 ジャム
「(編注:ピーター・バラカンの声『ジャムでしょ』は)その場にいたってことでしょうね。ステージの脇とかでしゃべったとしか考えられない」
(103)

※編注:この日の演奏の一部は、CD-ROM『SELFSERVICE』、DVD-ROM『YMO Giga Capsure』、CD『ONE MORE YMO』に収録されている。

1981/12/27 20:00 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』公演。新宿/ツバキハウス。
YMO 高橋幸宏(vo, ds, perc, syn, cho)、坂本龍一(syn, vo, g, ds, cho)、細野晴臣(syn, b, cho)、松武秀樹(prog)、立花ハジメ(sax* **)、梅林茂(g**)
 ジャム
 灯
 バレエ
 カムフラージュ
 階段
 音楽の計画
 京城音楽
 キュー
 手掛かり
 体操
 新舞踊 *
 中国女 **
 untitled instrumental **
立花ハジメの証言
「楽しかったなあ。すごく楽しかった」
(85)
「楽しく"バンド"をやったって感じだったね」
(85)
「"ノイエ・タンツ!"ってのを憶えてる。インスト曲は、ほんとにその日のリハとかで初めてやった曲だと思う。なんかねえ、土台の部分はもうできてて、その上に好きなような音を被せてよって感じだった」
(85)

松武秀樹の証言

「憶えてるのは、とにかく客の熱気がすごかったこと。せまい会場にびっしり人が集まって、その熱気たるやもう…。MC-8だったら危なかったですよ(笑)」
(103)
※編注:ツバキハウスで演奏された「untitled instrumental」は、12月24日までの公演のものとは別曲。

1981/12/27 22:00 YMO『ウィンター・ライヴ 1981』公演。新宿/ツバキハウス。
YMO 高橋幸宏(vo, ds, perc, syn, cho)、坂本龍一(syn, vo, g, ds, cho)、細野晴臣(syn, b, cho)、松武秀樹(prog)、立花ハジメ(sax* **)、梅林茂(g**)
 ジャム
 灯
 バレエ
 カムフラージュ
 階段
 音楽の計画
 京城音楽
 キュー
 手掛かり
 体操
 新舞踊 *
 中国女 **
 untitled instrumental **

1981/12/31 『ビックリハウス』連載「イエローマジックオーケストラシンドローム」手書き原稿を書き上げる

※編注:1982年1月9日発売の2月号に掲載。

<出典>
(1)細野晴臣 星野源『地平線の相談』 文藝春秋/2015年
(2)Inter FM『Daisy Holiday !』 2009年12月7日
(3)『横尾忠則自伝』 文藝春秋/1995年
(4)『横尾忠則の画家の日記』 アートダイジェスト/1987年
(5)『宝島』7月号 JICC出版局/1988年
(6)『GORO』3月12日号 小学館/1981年
(7)『ミュージック・マガジン』5月号 ミュージック・マガジン/1982年
(8)『ユリイカ』9月号 青土社/2004年
(9)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(10)『GORO』1月28日号 小学館/1982年
(11)『音楽専科』12月号 音楽専科社/1981年
(12)『Loud』10月号 エクストラ/2002年
(13)『音楽専科』5月号 音楽専科社/1981年
(14)『話の特集』9月号 話の特集/1982年
(15)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(16)『サウンド&レコーディング・マガジン』6月号 リットーミュージック/1982年
(17)YMO読本『OMOYDE』 ソニー・ミュージックハウス, GT music/2003年
(18)FM東京『サウンドマーケット』 1984年1月4日
(19)『ロッキンf』5月号 立東社/1981年
(20)『コンパクトYMO』 徳間書店/1998年
(21)『リトルモア』21号 リトルモア/2002年
(22)『宝島』10月号 JICC出版局/1981年
(23)『サウンド&レコーディング・マガジン』10月号 リットーミュージック/2011年
(24)鋤田正義+イエロー・マジック・オーケストラ『Yellow Magic Orchestra × SUKITA』 TOKYO FM出版/2010年
(25)『サウンドール』3月号 学習研究社/1983年
(26)坂本龍一『SELDOM-ILLEGAL 時には、違法』 角川書店/1989年
(27)『ロッキング・オン』8月号 ロッキング・オン/1981年
(28)『サウンド&レコーディング・マガジン』創刊号 リットーミュージック/1981年
(29)『Weekly YMO Web magazine』No.06 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年7月21日
(30)田中雄二『電子音楽イン・ ジャパン 1955〜1981』 アスペクト/1998年
(31)『Weekly YMO Web magazine』No.07 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年7月28日
(32)『サウンド&レコーディング・マガジン』11月号 リットーミュージック/1999年
(33)田山三樹編著『NICE AGE YMOとその時代 1978-1984』 シンコーミュージック・エンタテインメント/2007年
(34)『ピリオド』 徳間書店/1993年
(35)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(36)『Weekly YMO Web magazine』No.10 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年8月18日
(37)『銀星倶楽部』11 ペヨトル工房/1989年
(38)CD 矢野顕子『on the air』ブックレット ミディ/1992年
(39)CD イエロー・マジック・オーケストラ『YMO GO HOME』ブックレット 東芝EMI/1999年
(40)高橋幸宏『心に訊く音楽、心に効く音楽』 PHP新書/2012年
(41)DVD イエロー・マジック・オーケストラ『Visual YMO』 ソニー・ミュージックハウス/2003年
(42)坂本龍一『音楽は自由にする』 新潮社/2009年
(43)CD イエロー・マジック・オーケストラ『UC YMO』ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年
(44)J-WAVE『Daisyworld』 2001年7月2日
(45)CD『細野晴臣の歌謡曲 20世紀ボックス』同梱ブックレット コロムビアミュージックエンタテインメント, デイジーワールド/2009年
(46)『ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1968-1980』 音楽出版社/1999年
(47)
YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(48)後藤繁雄編著『テクノドン』 小学館/1993年
(49)Inter FM『Daisy Holiday !』 2010年1月18日
(50)『YMO BOOK』 学習研究社/1983年
(51)NHK-FM『サウンドストリート』 1981年4月28日
(52)田山三樹監修『YMO GLOBAL』 シンコーミュージック・エンタテインメント/2007年
(53)備酒元一郎編『ジャケット・デザイン・イン・ジャパン』 ミュージック・マガジン/2004年
(54)田山三樹『アルファの宴』第11回(『レコード・コレクターズ』3月号) ミュージック・マガジン/2007年
(55)CD 高橋幸宏『ニウロマンティック』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2005年
(56)『ビックリハウス』8月号 パルコ出版/1981年
(57)CD EX『EX2』ブックレット ポリスター/2000年
(58)『ビックリハウス』7月号 パルコ出版/1981年
(59)細野晴臣『HOSONO百景』 河出書房新社/2014年
(60)『guts』10月号 集英社/1981年
(61)高橋幸宏『犬の生活』 JICC出版局/1989年
(62)加藤和彦/前田祥丈『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』 スペースシャワーネットワーク/2013年
(63)加藤和彦『加藤和彦 ラスト・メッセージ』 文藝春秋/2009年
(64)NHK-FM『サウンドストリート』1981年4月21日
(65)『バハマ・ベルリン・パリ〜加藤和彦ヨーロッパ3部作』 リットーミュージック/2014年
(66)『guts』10月号 集英社/1981年
(67)『タイトル』11月号 文藝春秋/2007年
(68)『サウンドール』10月号 学習研究社/1981年
(69)『ロッキンf』11月号 立東社/1981年
(70)CD チャクラ『さてこそ+5』 ウルトラ・ヴァイヴ, ソリッド・レコード/2011年
(71)『サウンド&レコーディング・マガジン』5月号 リットーミュージック/2009年
(72)NHK-FM『サウンドストリート21』 2009年5月24日
(73)『ミュージック・ステディ』10月号 ステディ出版/1984年
(74)NHK-FM『細野晴臣作曲講座』 1984年1月4日
(75)コイデヒロカズ編『テクノ歌謡マニアクス』 ブルース・インターアクションズ/2000年
(76)CD 『風街図鑑』風編ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/1999年
(77)『CAMPYEN』 アルファ・レコード/1982年
(78)
『細野晴臣 OMNI SOUND』 リットーミュージック/1990年
(79) 『TV Bros.』8月2日号 東京ニュース通信社/2008年
(80)J-WAVE『Daisyworld』 2001年7月9日
(81)『プレイガイドジャーナル』7月号 プレイガイドジャーナル社/1982年
(82) 『週刊FM』7月20日号 音楽之友社/1981年
(83)『ミュージック・マガジン』9月号 ミュージック・マガジン/1982年
(84)中沢新一, 細野晴臣『観光』 角川書店/1985年
(85)『Weekly YMO Web magazine』No.08 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年8月4日
(86)CD ゲルニカ『IN MEMORIA FUTURI』ブックレット テイチクエンタテインメント, インペリアル・レコード/2002年
(87)『ミュージック・マガジン』10月号 ミュージック・マガジン/1983年
(88)『バラエティ』5月号 角川書店/1982年
(89)『ミュージック・ステディ』4号 ステディ出版/1982年
(90)CD 細野晴臣『フィルハーモニー』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2005年
(91)J-WAVE『Daisyworld』 2000年8月7日
(92)『ロックマガジン』7月号 ロックマガジン社/1982年
(93)『サウンドール』11月号 学習研究社/1981年
(94)『サウンド&レコーディング・マガジン』4月号 リットーミュージック/2006年
(95)『話の特集』12月号 話の特集/1981年
(96)CD イエロー・マジック・オーケストラ『ONE MORE YMO』ブックレット 東芝EMI/2000年
(97)『週刊FM』1月18日号 音楽之友社/1982年
(98)『ポップティーン』1月号 飛鳥新社/1982年
(99)
高橋悠治+坂本龍一『長電話』 本本堂/1984年
(100)
NHK-FM『サウンドストリート』 1981年12月1日
(101)『Weekly YMO Web magazine』No.12 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年9月1日
(102)中村政人『美術の教育・1999』 mtom/1999年
(103)
吉村栄一・田山三樹『ザ・ケミカル・エクスペリメンツ』 1999年
(104)
奥村靫正展『第2回 奥村祭り』小冊子 リクルートホールディングス/2013年
(105)
『YMMプレイヤー』4月号 プレイヤー・コーポレーション/1982年
update:2024/01/07

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