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chronology 1980


1980/01/01 クレスト・フォー・シンガーズ「ヘイ!ミスター・スマイル/ラムはお好き?」発売。
ラムはお好き?:compose, arrangement

1980/01/01 22:00 FM東京『ライブ・フロム・ザ・ボトムライン』放送。
イエロー・マジック・オーケストラ
 ラジオ・ジャンク
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 在広東少年
 ※1979/11/06@ボトムライン

1980/01/02 22:00 FM東京『ライブ・フロム・ザ・ボトムライン』放送。
イエロー・マジック・オーケストラ
 東風
 デイ・トリッパー
 千のナイフ
 ※1979/11/06@ボトムライン

1980/01/03 22:00 FM東京『ライブ・フロム・ザ・ボトムライン』放送。
イエロー・マジック・オーケストラ
 (ロケット工場)
 中国女
 ファイアークラッカー
 ※1979/11/06@ボトムライン

1980/01/04 22:00 FM東京『ライブ・フロム・ザ・ボトムライン』放送。
イエロー・マジック・オーケストラ
 コズミック・サーフィン
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ※1979/11/06@ボトムライン

1980/01 イエロー・マジック・オーケストラ、ライヴ・アルバムのトラック・ダウン作業を中止し、渡辺香津美のギターの代わりに坂本龍一のシンセサイザーをダビング。芝浦/スタジオ'A'。

「そういうこともありました」(1)
「ニュー・ウェーヴの神様がそうさせたんだろうね(笑)」
(1)

坂本龍一の証言
「YMOの音楽には、もともとギターは必要ないわけですよ」(1)
「ミニマリズムのバンドだから、普通のポップスの中にある展開とかを、わざと排して厳格にミニマルにいきたい気持ちがあるわけですよ。だけどそれだと、ライヴでは飽きちゃうのね」
(1)
「ライヴを持たせるために、ギタリストを入れざるを得ないわけです。シンセでソロをやってもダサいじゃないですか」
(1)
「香津美が、自分の持てるものを使ってやると、結局ジャズになっちゃうわけじゃない。僕らはすごくスクエアなパターンをずっとキープしていて、弾きながら、それ見て『ジャズになってるなあ』って思いながらね」
(1)
「だから、コロムビアからダメって言われたときは、一種よかったなっていうかさ。本当にYMOからジャズ的なものがスッポリ抜けて。だから香津美の代わり にシンセ・ソロを弾いた時も、わざとジャズ的じゃない、クラフトワーク的な稚拙なソロっていうか。ヘタウマみたいな、ドレミみたいな稚拙な感じで、意識的 にやってるんですよ」
(1)
「その経験を通して、よりYMOの姿が明確になったという感じでしたね」
(1)
「2、3日でやったと思う」
(1)

高橋幸宏の証言
「僕は、やっぱりギターがないっていうのは、ちょっと残念かなって思ってましたね、当時は。でもレコード会社の都合もあるんだろうなと」
(1)
「やっぱり本質が伝わらずに、彼(編注:渡辺香津美)のプレイに注目が集まったりするのは、そんな悪いことじゃないんだけど、やっぱりそこがフュージョ ン・バンドっていう一線を越えられない理由だと思ったんでね。もっと明確にするためには、別の方法がいいんじゃないかと思ってましたから」
(1)

渡辺香津美の証言
「その前の段階として、村井さんから僕に『アルファの専属アーティストにならないか?』というお誘いがあったんですね。ところが僕はその直前に日本コロムビアとの専属契約をもう結びかけていたからお断りしたんです」
(2)
「グリーク・シアターの後くらいかな? だから僕はイエローに入っている間にコロムビアの専属になっていたんです」
(2)
「で、坂本龍一さんはコロムビアで『千のナイフ』というアルバムを一枚出しながらもその後は、アルファでYMOの中 枢メンバーとして華々しくやっている、と。そんな状況なんで、コロムビアとしては坂本さんがアルファに行っちゃった上に渡辺香津美までYMOの流れでアル ファから何かの形でガーンと出ちゃったりするとマズいだろうと判断したと思うんです。実際、アルファからYMOのライブ盤を出したいからって言ってきた時 に、コロムビアに対して僕は…『これから新たに何かやるんならともかく、既にやっちゃったことなんだからよく話し合っていい形に落ち着けてくれ』というこ とを伝えたんですけど…結果はね」(2)
「僕が直談判でもして『絶対にそのままの形で出してくれ』って強硬に主張すればよかったのかもしれないけど、まさか全部カットするとは思わなかった。後で坂本龍一も怒っていたようだし、僕もショックでしたよ」(2)
「多分…レコード会社の一人の非常に頑固な人のためにそうなってしまったんだと思うよ。前向きなことをやろうとしてるのにそういう対応はいかんよと思いますね。当人たちも知らない間に決まっていて、蓋を開けたらそうなっていたというのが残念でした」(2)

小池光夫の証言
「確か、トラック・ダウンは何曲か終わっていたんだと思うんです。それで(ギター・パートを)差し換えてやり直しだということに急遽なってしまって」
(3)
「ギターの代わりに教授がシンセをダビングしたんですけど、その作業は早かったですね。もうやることが決まってる、ギターの代わりになるフレーズ、コードを入れればいいってことですぐにダビングしちゃいましたね」
(4)
「他のお二人も、作業には立ち会われて。とにかく、一旦作業したものを、ダビングを含めてやり直すのが大変だったという記憶があります。もう空いているチャンネル数も限られていたし」
(3)

1980/01/11 『朝日新聞』朝刊発行
座談会/80年代のロックはいずこに 宇崎竜童 × 内田裕也 × 細野晴臣 × アン・ルイス

1980 南佳孝のレコーディング。

※編注:アルバム『モンタージュ』のセッション。1月12日〜3月16日の期間に行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。

1980/01/16 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
シチズンズ・オブ・サイエンス/drums(高橋ユキヒロ), guitar(大村憲司)
坂本龍一の証言
「メロディーは僕が書いたんだけど、意図的に音楽の胸を熱くさせるようなグッとくるものを排除している。それは『B-2 UNIT』にも共通するコンセプト」
(5)
「音楽のあのグッとくる要素を捨ててしまう方向を考えていた。」
(5)
「たぶん、もともとはYMOのために作った曲じゃなくてね。『レキシントン・クィーン』みたいにお店のために書いた、あれの関係で作った曲っていう記憶があるんです。それをYMOに転用したんじゃないかと思う」
(1)

1980/01/19 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
シチズンズ・オブ・サイエンス/vocal(高橋ユキヒロ), voice(クリス・モスデル)
「詩を書いているクリス・モスデルっていうのは、やっぱりYMOの第4のメンバーだと言ってもいい人ですね。クリスの念力というか、意欲というのかな。そういうものがYMOを作っていったということも言えるかもしれないですね」(6)
「後にソロ・アルバムも作ったりする人だったんですが、だんだん裏か ら表に出そうになったころですね。で、とうとう『シチズンズ・オブ・サイエンス』では歌っています。やってみたらってことでやったら、すごい乗ってやって くれて、『こいつは危ないな』って思った記憶があります。クリス、ごめんね(笑)」
(6)

坂本龍一の証言
「歌詞が『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』などにつながる曲」
(5)
「ぼくのイメージを説明して作ってもらって、曲とあわせる時に現場で多少修正してもらった」
(7)

1980/01/20 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ナイス・エイジ/synthesizer
シチズンズ・オブ・サイエンス/synthesizer, vocoder(坂本龍一)

1980/01/23 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。クリス・トーマス、福井ミカ、リンダ・マッカートニーが来訪。芝浦/スタジオ'A'。
ナイス・エイジ/voice(福井ミカ)
「当時、来日したポール・マッカートニーが大麻所持で拘留されて、その一週間後にこのエピソードを歌にして録音したはずです」(6)
「僕はそのとき、いなかったと思う。記憶がないんで」
(1)

高橋幸宏の証言
「ミカになんか喋ってもらってっていうのは、細野さんのアイデア」
(1)
「細野さんがミカに何か喋ってもらおうよって、喋ってもらってるだけなんですよ」
(1)
「たまたま、スタジオに遊びに来ていただけなんですけどね(笑)」
(1)
「『He's comin' up like a flower』っていうのは、ポール・マッカートニーの次のシングルがそういう曲だっていうのをミカが知ってて」
(1)
「だから、『花のように姿を現します』っていうのは、そのシングルを引っさげてポールが登場しますって言ってるんですね」
(1)

坂本龍一の証言
「クリス・トーマスを介して、ポールがYMOを聴いていて、すごく興味を示してくれていたんです。ポールが来日したとき、アルファに遊びに来るって話になっていたと思うんですよ。ポール・マッカートニーとYMOで何かやろうっていうような感じで」
(1)
「ところが捕まっちゃったんで、それでミカの言葉を入れたんですよ、確か」
(1)

福井ミカの証言
「日本に滞在中に、YMOがレコーディングしている芝浦のアルファ・レコードに遊びに行った」
(8)
「ユキヒロが『ミカも何かやっていってよ』って言うんで、リンダやクリスと相談して、ポールのことをメッセージにしようということになったんですよ。リン ダは『He's comin' up like a flower』という言葉を入れてほしいって言ったの。おそらく彼女は正式に発表はされていなかったけど、もうすぐポールが釈放されるということを知って いたんでしょうね。そのフレーズと例の"二二番"という言葉を使って、私が日本語のナレーションをレコーディングしたんですよ」
(8)

小池光夫の証言
「ミカさんの話は、何かの拍子にスタジオに来ることがあって、急きょまとまった話だと思う。来たのは確か1日だけだったと思う。何か使ってはいけない言葉があるとモメたのを覚えています」
(9)

1980/02/03 イエロー・マジック・オーケストラ、フジ・カセットTV-CM撮影。大泉/東映東京撮影所。

鋤田正義の証言
「海外ツアーの直後だったかな。フジの偉い人に呼ばれたんですよ。当時、カメラやフィルムの会社 と写真家が懇談することってよくあって、ぼくはてっきりその一環のお話だと思ってフジに行ったんですけど、どうも様子が違う。なにしろ先方が振ってくる話 はYMOばかり。ワールド・ツアーの様子だとか、感想とかをいろいろ聞かれたんです。そのときはどうしてYMOのことばかり聞かれるのかわからなかったん だけど、どうも当時、YMOを広告のキャラクターに使おうかどうしようか決めかねていたみたいですね。YMOといっても、なんともよくわからないグループ だったでしょうから、ぼくを通してイメージを掴みたかったんだと思います。それからしばらく後になって、フジフイルムの広告にYMOが出演することになっ て、ぼくに撮影の話がきた。ようやく、ああ、あの懇談はそういうことだったんだって合点がいきましたね。それでADの上條喬久さんと組んでシリーズが始 まった」(10)

上條喬久の証言
「初めてYMOの噂を聞いて、一週間も経っていない時に、富士フイルムのカセットテープの広告の話が来た。カセットテープのイメージキャラクターにYMO を起用することが既に決まっていた。僕としては、YMOの音楽も全く聴いたことが無いのだから驚いた。早速レコードを買った。そのジャケットの写真家が鋤 田正義さんだった。」
(11)
「鋤田さんとは『サイレンサー』という作家グループのメンバー同士で面識があったが、仕事を一緒にしたことは無かった。」
(11)

小島正彦の証言
「テーマとしてですね、まあ時代を先取る広告をいかにうまく出せるかと」
(12)
「特にカセットテープというのは」
(12)
「時代の最先端技術というのを、まあ非常に集中的に出したもの」(12)
「イエロー・マジックの音楽を聴いた時に、えー、特にあのシンセサイザーと、まあ、えーマイクロ・コンピューターを使ったというサウンドがですね、非常にイケると。非常にあのー、イメージ的に高いと」(12)
「特に彼らの音楽というのが、非常にテクニックもしっかりしてまして、えー非常にまあ高品質イメージが出せるんじゃないかと、いうところに注目したんですね」(12)

高橋幸宏の証言
「ニュー・ウェーヴを意識していた私たちとしてはですね(笑)、マスに対して、こういう供給のされ方を、こう、ね、されることを、ちょっとね、どうかなというのは、あったような気がする」
(13)
「面白がったりはしてましたね」(13)
「クライアントはですね、YMOを、お安く(笑)、契約できてよかったなと。最初の頃。途中からですからね火がついたのは」(13)

1980/02/08 『ロッキンf』3月号(立東社)発売
鼎談/音楽の<今>を知るための衛星中継座談会 ロビン・スコット × 細野晴臣 × 佐久間正英

1980/02/10 『宝島』3月号(JICC出版局)発売
寄稿/幼年期を終えて、未知へ飛躍するために

1980/02/10 大瀧詠一が自宅に来訪。

「『ロング・バケイション』が出る前」(14)
「1年前だ」
14
「珍しいことがあった」14
「大瀧くんが僕のうちに来たんですよ」14
「何年ぶりだったかな当時。驚いたことに自分で車運転して来たの(笑)」14
「それでね、なんか予知をしてるんだよ彼は。『ロング・バケイション』について」14
「僕にね宣言をしたの」14
「『売れるからね』って」14
やる前から言ってたんだ」14
絶対言ったよ」14
「妙な感じだよ。つまりそのー、トランス状態だよね、言ってみれば(笑)」14
「憶えがないもんなんだよそういうことって」14
「なんかね、特別な意味を感じたわけその時。ああ、報告しに来てくれたと、思ったわけ」14
「なんかの作用だと思うの。音楽の、なんか、こう、神様と言うかね。そういうことを感じたね僕は当時。要するに YMOが売れたのも自分のせいじゃないしね。僕も予測がついてないけど、でも、根のとこでなんか持ってるわけよね。なんかこう、なんか感じてることがある わけ。うまく言えないんだよそれがね。それを、だから、彼は、僕に、報告しに来たから」14
「そのことは僕、クリヤーに覚えてる」14
「当時インド音楽いろんな人に聴かしてた(笑)、そう言えば」14

大瀧詠一の証言
「いろいろ証言を集めたところ、細野さんの家に行って来年は僕の年にすると言ったそうです」15
「伺ったのは憶えてんですけどね」
14
「何を言ったかに関してはまったく憶えていない」14
「『ロング・バケイション』出る1年前だよ」14
「80年だよ。81年じゃないよ」14
レコーディングする3ヶ月前」14
「インド音楽聴かされたのよ」14
「インド音楽聴かされて、なんか面白そうな打楽器あったでしょう? ポワァンとかいうやつ。あれ、あそこで聴いて、あのー、矢野(編注:誠)さんが叩きに来たんだもの。『スピーチ・バルーン』っていう曲。だからやる前ですよ」14
「まあ曲はできてたよ。3曲以上はね。でもどういうふうになるかなんてまったく皆目見当つかなかったんだよ」14
「考えてはもちろんいましたけどね」14
「3ヶ月前だったからね。始めるぞということで」14

1980 高橋ユキヒロのレコーディング。CBSソニー六本木スタジオ。

高橋幸宏の証言
「お金かけてもらったのに『サラヴァ』が売れなかったんで、すでにYMOが売れてたから、これで恩返しできるかなと」(16)
「ほとんど気持ちはYMOと変わらないんですけどね」(1)
「細野さんも教授も参加していて、まあYMOの延長なんですけどね」
(1)
「僕の場合は常に、YMOの3分の1の部分をもっと広げてやってみたいということ」(16)
「YMOの3分の1の部分を、うんと表に出してみたらどうなるかっていう」(1)
「ヴォーカルに目覚めたんです。細野さんが命名した"フー・マンチュー唱法"で歌い始めて、曲がいっぱいできてきたんで」(16)
「前はギターで作曲してたんですけど、教授に習ってキーボードで作るようになって、コンピュータがあるからどんどんやっていけるなっていう。あと、クリス・モスデルの詞がたくさんあったから」(16)
「僕のソロ用ですね。でもトゥー・クレヴァーな詞が多かった」(16)
「とにかく考えすぎで、イギリス人が聴いてもちょっと鼻持ちならない詞が多いんで。そこを上手く取り除いて、とにかくキラッキラなレコードを作りたかった」(16)
「『増殖』の前ですから。スカが出てきたり、ヴォーカルものってことで、ここから『増殖』につながっていますよね」(16)

※編注:アルバム『音楽殺人』のセッション。2月7日〜4月2日の期間に行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。

1980/02/21 イエロー・マジック・オーケストラ『パブリック・プレッシャー』発売。
ライディーン:synthesizer
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー:synthesizer
東風:bass
ジ・エンド・オブ・エイジア:synthesizer
コズミック・サーフィン:synthesizer
デイ・トリッパー:synthesizer
ラジオ・ジャンク:synthesizer
中国女:synthesizer
「もともとライヴ・アルバムは作りたくなかったのだが、会社側の要請もあって出来たアルバム。」(17)
『ライディーン』のヒットというのが、僕たちにとって予想外だったんです。実はパブリックっていうよりは、アルファ・ プレッシャーというか(笑)。売れたものに関しては、非常に興味を示してくれる会社なんです。過去の実績でしか、僕らの音楽は予測できないから。『ライ ディーン』が売れたから、次も『ライディーン』だろうという、そういうプレッシャーの渦の中にいたんですね」(1)
「音的には、ヨーロッパで録ったものが、そのホールの音をうまく伝えていて気に入っている。」(17)
「気持ちがワイルドになってるんですね。ニュー・ウェーヴというものが、僕たちを解放してくれたんですよ。イギリス、ヨーロッパの音楽が。喜びに満ちているわけですね、僕たちの耳には。その気持ちがすごく強くて、解放感が音に表れてますよね」(1)
「音を録ってくれたのは、外国のスタッフだったと思う。録った場所はロスアンジェルスとイギリスだったと思うが、その場所の違いが音の差になっているかもしれない。僕らにとっても貴重というか、興味深いものではある。」
(17)

高橋幸宏の証言
「最初にオリコン1位になったのはこれでしょう」
(1)
「各場所によって、シアターやクラブの音の反響に特長があり、デッドな所やライブな所で、いろいろ音色が違う」
(18)
「付録としてTOKIO公演の様子もやや登場したり」
(18)
「(編注:タイトルは)クリス・モスデルのアイデアなんですよ。その言葉を出してきて、『ねえ、どうかな』って細野さんが言ってて。いろんなプレッシャーの中でこれを出すわけだから、いいかも知れないって」
(1)
 ライディーン
「ロンドンのベニューでのライブ。曲の始まる前に坂本龍一君のボコーダーでのあいさつがムードを盛り上げます。曲の途中に、細野さんと坂本君のエフェクティブなSEがあり、そしてそれが軽いあいさつがわりのソロへと移行してゆきます。」
(18)
「快調なスタートのナンバー、後半のマイクロ・コンポーザーMC-8氏の奏でる横笛もなかなか心地良く(マシーントラブルもなく)響きます。」
(18)
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
「アルバムの時とは又一味違った演奏です。」
(18)
「矢野顕子さん(以下、AKKOちゃん)のプロフェットのクレイジーなリズム・リフが気持ちよく、坂本君との絶妙なカフテールが聞きもの。AKKOちゃんのコーラスに支えられて、恥も外聞もなく堂々と唄うは高橋ユキヒロであります。」(18)
 東風
「徐々に盛り上がっていく様子はライブならではのものです。坂本君のメロディーの叙情的演奏に加えて、細野さんの唯一のエレキ・ベース・プレイ。」
(18)
 コズミック・サーフィン
「ロスのグリーク・シアターのライブ録音」
(18)
「リッキー・ファーのアナウンスに続いて」(18)
「ドラム・フィルから始まる」(18)
「1枚目のアルバムの中とは全く違うアレンジで、よりロック色の強いビートになり途中、コンピューター・プログラマーの松武さんも、強力なSEで大ハリキリ。」(18)
 デイ・トリッパー
「エフェクトや変拍子、色々な仕掛などはステージの上では強烈に速いテンポになり、よりストレートなインパクトを重視、オウディアンスと共にグワーンと盛り上がります。」
(18)
 ラジオジャンク
「教授と松武さんのSEでフェイド・インし、全体に、特に間奏がエフェクティブで不思議なボーカル・ナンバーです。」
(18)
 中国女
「ライブでは、やはりビートを強調しています。イントロや間奏には例のセクシュアル・ボイスがテープSEで入ってユキヒロのボーカルもやや興奮気味なようです。」
(18)

坂本龍一の証言

「シビアに選曲して出した」
(9)
「『パブリック・プレッシャー』というタイトルを付けた僕らの思いは、かなり重いものがあってね。本当に3人とも、社会的抑圧があったので」
(1)

クリス・モスデルの証言
「『このアルバム、タイトルどうしようかな』ってYMOのメンバーに聞かれて、咄嗟に浮かんだ言葉だったんだ。彼らはその頃には人気者にな り始めていて、外圧というか、いろんなプレッシャーがかかり始めていたからね。その状況がバッとあの言葉になったんだと思うよ」
(2)

小池光夫の証言

「ソースはいろいろあって、まず79年8月のグリーク・シアターはFM番組がオン・エア用にマルチ・トラックで収録してて、アルバムでもそれを流用してます」
(4)
「"トランス・アトランティック・ツアー"のうち、ロンドンで収録された曲は僕たちが自分でマルチを回し、ニューヨークのボトムライン公演の曲はボトムラインのスタッフが録音してますね。アメリカはユニオンが厳しかったんで」
(4)
「中野サンプラザの凱旋公演の『バック・イン・トキオ』はマルチは回してないです。『バック・イン・トキオ』の部分だけを2チャンネルのテープで収録してるだけなんです。だからあのライヴの他の部分はレコーディングしていない」(4)
「このアルバムの思い出というと、やはりギターのトラックを収録できないことになったんで、いかにギターの音を消す かが大変だったっていうことです(笑)。『コズミック・サーフィン』だけは他のマイクが音をひろっちゃってるからどうしてもギターが聞こえちゃうんです が、他はうまく隠せたと思います」(4)

羽良多平吉の証言
「鋤田正義さんの写真ですね。ツアー中に楽屋で撮った一枚です」(19)
「凱旋公演が終わって、ライヴ・アルバムを出すとなった」(19)
「『パブリック・プレッシャー』ってタイトルが決まっていて、そのタイトルを受けてアート・ワークを考え始めたんで すが、そのとき僕の脳裏に浮かんだのがこの写真だったんです。というのも、メンバーの3人が対等な大きさで写ってる写真って、実はあまりなくて、ソロの写 真だったり2人だけだったり、3人いても誰かが横を向いていたり…。ツアー中の慌ただしい中で撮影されたため、使えるものは少なかった」(19)
「でも、ただそのまま使うだけじゃおもしろくないっていう気持ちもあって、細野さんに"画像処理をしませんか?"って持ちかけたんです。細野さんも非常に乗り気で、当時、小田急線の鶴巻温泉にあった東海大学の画像情報処理センターに行って画像加工したんです」(19)
「デジタル処理といっても、当時はブラウン管のモニターを直接撮影するんですよ」(20)
「まずテレビのモニターにこの写真を映して、その研究所にあったモニターを撮るためのカメラを走査線が見えるくらいまで近づけて、なおかつコンピューターを使ってカラー・アナライズ、色彩変換して撮影しました」
(19)
「機械のツマミをいじると色がワッと変 わったのを覚えてます」(20)
「あそこまで行かなきゃ撮れない写真だったんです」(19)
「YMOとおつきあいするようになる前から、コンピューターで画像を処理してみたいっていう希望はずっとあったんで すよ。なかなかその機会がなかったんですが、YMOを手がけて、音楽家の人たちがシンセサイザーやコンピューターを使ってテクノロジーと格闘しているの に、ヴィジュアルがいつまでもアナログのままじゃだめだろうという気持ちが強くなって、ここで実現させたんです」(19)
「東海大に行く時、細野さんから熱心に何度も連絡があってどうしても一緒に来たがっていられました。プロデューサーとして全部を把握 していないと気が済まなかったんでしょうね」(20)
「ぜひ同行したいって、スケジュールをいろいろ調整されてたようですけど、もう、この頃からYMOは殺人的に忙しくなってきてて、どうしてもかなわなかったんですね。細野さんはそういうヴィジュアル表現に対して本当に、すごく熱心で、当時は密に連絡を取りあってましたよ」
(19)
「ものすごく激しかったですよ。透明な白いレコード盤にするといったアイデアも細野さんですね」(21)
「この頃のデザイン作業は、細野さんと密にやりとりをしてて、僕がアイデアをひとつ口にすると細野さんから的確な反応がいくつも返ってきて、本当に楽し かったですね。六本木で飲茶なんかしながら、そういう打ちあわせをいつもやってました。……そういえばこの頃、細野さんは香水を作る会社を始めたいとか 言ってたなあ。いろいろアイデアややりたいことがあるんだと感心した憶えがあります」
(19)
「アルバム・タイトルは"ファルマン・ディド"っていう書体なんですけど」(19)
「これはファッション誌の"ヴォーグ"の書体なんです」(19)
「以前から"ヴォーグ"の書体のコレクションもしていたんで、小さなそのコレクションを拡大して修正して組み合わせて、ようやくこれができたんです」(19)
「イエロー・マジック・オーケストラというロゴがかなりアグレッシヴにテクノしてるんで、アルバム・タイトルのタイプ・フェイスは逆にそれに負けないくらいのコンサヴァティヴなものにしなきゃと思って、これにしたんですよ」(19)
「図版は、当時"シノワズリー"関係のデザインを集めた本や、"アタナシウス・キルヒャー"の資料などを持っていたんで、そこからの引用ですね」(19)

1980/02/25 『月刊プレイボーイ』4月号(集英社)発売
グラビア/コンピューター・サウンド共和国よりの使者 黄金魔術団"異聞" イエロー・マジック・オーケストラ
※編注:細野晴臣のコメントを含む。

1980/03/07 イエロー・マジック・オーケストラを起用したフジ・カセットのポスター「音楽は増殖を始めた。」バージョン、掲出開始。

上條喬久の証言
「広告代理店と打ち合わせる中で、直感的に感じたのは、レコードジャケットの持つ強烈な印象をそのまま広告のパワーにしてしまうことが最も効率的で効果的である、ということであった。」(13)
「そこで、広告の第一弾はYMOのセカンド・アルバムの麻雀卓を囲んだ赤い人民服の3人とマネキンの女性、それにウ エイターのシチュエーションをそのまま再現して、麻雀パイの替わりにカセットテープを置いた。当然、写真家は鋤田さんにお願いした。その結果、タイミング 的にも時代の変化を的確に捉えて、新しいイメージで評判を呼んだ。」(13)

鋤田正義の証言
「『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』のジャケットをほぼそのまま再現した」(12)
「あるグループのジャケット写真を再現して広告に使うなんて、例のないことで、当時驚いた記憶があります」
(12)

1980/03/10 イエロー・マジック・オーケストラ『パブリック・プレッシャー』がオリコンLPチャートで1位獲得

「僕も驚きました」(1)
「ほとんど他人事のような出来事だったんですけどね」
(1)
「レコードが売れて悩む人はいません。みんな『ワーイ』って思います。しかし顔が売れると話は別で、何もいいことはなかったのです。」
(22)
「幸宏は僕よりもポピュラリティに対する可能性を感じていたような気がするけれど、どうだろうか。坂本くんは、僕以上に巻き込まれた感じが強かったんじゃないかな」
(13)
「ひとつの現象として巷で騒がれているということ、それを見たときに一瞬の満足感があったことは事実です。しかし、それは本当にその一瞬だけです。満足感 というものはそもそもそういうものかもしれませんね。その後は、怒涛のような現実の恐ろしさに巻き込まれていく。持っていた幻想もぶちこわされていくわけ です」
(13)
「YMOが、自分たちではコントロールできないものになっていくんです」
(13)
「なにかがうごめいてるのは確かだったんです。YMOが動くと何かが動くというね。芸能というのはなんで もそうだと思いますけど、何かエネルギーがそこに集中したりするんですよ。人の情念というか、気持ちが集まると、それが怪物になっていくわけですよ。あの とき、自分たちではどうしようもないことが動きだすってことを、非常にリアルに体験できたんですけど」
(1)

高橋幸宏の証言
「意識はしてましたね、いよいよなんかが始まるだろうなっていう。ワクワクと、メジャーに行かなきゃいけないっていう恐ろしさみたいなものも、ちょっとありました」
(1)

坂本龍一の証言
「海外でウケたらしいということで、それまでYMOのことを知らなかったような人たちにも、一気に知られるようになっ た。社会現象とまで言われました」
(23)
「特に僕には有名になることへの反発というか。有名になりたくてYMOをやったわけじゃないし。先進的で面白いことをやりたかったからYMOに参加したわけで」
(1)
「それまで『無名でいたい、前に出たくない』と思って生きてきたのに、気がついてみれば、道を歩いているだけで指を 差されるような人間になっていた。それはまったく予想外のことで、本当に困りました」
(23)
「それまでのぼくのライフスタイルと全く変わっちゃったんです。ぼくはわりとアノニマス(匿名性)でいることが好きというか、無名性が好きなんですね」(24)
「人の前に立つというのがいやで、たとえでよくあるのが、ある他人が自分の名前を呼んだりという幻聴が一般的によくありますよね。そうすると、街を歩いて いて、あ、坂本だとかって言われるのが非常に恐ろしい、幻聴に近いようなことが現実に起こってしまって、急激に変化が起こって混乱したんです」
(24)
「そういう状況を、ぼくは憎悪するようになりました。とにかくほっといてほしい。心からそう思いました」(23)

※編注:同日のチャートで、『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』5位、『イエロー・マジック・オーケストラ』27位。

1980/03/13 『GORO』3月27日号(小学館)発売
グラビア/アンチ・モラルへの偽装 イエローマジックオーケストラ ウォークマン時代の音の幾何学模様
※編注:細野晴臣のコメントを含む。

1980/03/14 イエロー・マジック・オーケストラを起用したフジ・カセットTV-CM「テクノポリスの感性工場」篇、放送開始。

高橋幸宏の証言
「まあ典型的日本人、サラリーマンをやってみたいという。海外の人が見た、名刺交換、メガネ、まあスーツはこんなスーツじゃないですけどね(笑)」(15)
「灯りが少ないですね、東京に」(15)
「高層ビルが少ない少ない」(15)

1980/03 イエロー・マジック・オーケストラ『テクノポリス2000-20』リハーサル。芝浦/スタジオ'A'。

大村憲司の証言
「事前にこういう所はこういう風に、とかいう説明がなくてね。リハーサルやりながら、色々と決めていったのね」(25)
「僕はわりとロックに根ざしたものをやりたかったのね」
(25)
「YMOのサウンドは、やり様によっちゃ細かいこともできるし。まあ、それは香津美がやってたし、僕は僕なりのやり方を考えてやったわけ」(25)
「わりと一任されていたというかな」(25)
「それで、ギターもストラトの方がマッチングがいいと思ったからそうした」(25)
「どうしても楽器の持つ音色って、音楽を左右すると思うのね」(25)
「僕自身の考えるサウンドの色あいというのが、あのギターの方が、Y・M・Oのサウンドには合ってると思った」
(25)

1980/03/21 イエロー・マジック・オーケストラ『テクノポリス2000-20』ツアー・パンフレット『スートラ』発行。

羽良多平吉の証言
「千円だったと思います」(19)
「中にいろんなキーワードの解説が載ってるでしょ」
(19)
「それって、当時、『宝島』誌でYMO特集があったとき、そこに掲載されたものを転載したんですよ。すごくいい特集 だったので。細野さんに提案して転載となったんですけど、当時の『宝島』誌の編集長にその許可を得るのに何度か連絡とろうとしたんだけど…結果事後承諾み たいな形になっちゃった」(19)
「申し訳ないと思ってます」(19)
「いわばYMOというバンドのコンセプト・ブックを作ろうと思ったんです。本当は凱旋公演のときに作るべきものではあっ たんですけど、そもそもYMOというバンドはどういう成り立ちをして、どんな背景があって、なにを目指しているのかっていうのを示したほうがいいと思った んです」(19)
「見開きにしたときに、大きさがちょうどA3判になるようになってるんですよ。やはり『スートラ(ヒンドゥー語で教典の意)』というタイトルのパンフだか ら、お経の本のような形にしようかなって思ったんですね(笑)。タイトルのネーミングは、もちろん細野さんでした。こういうネーミングにかけては細野さん の右に出る人はいない」(19)
「この時は黄色の使い方がすごく勉強になりましたね。表紙のグラデーションのボケ足のズラシに青を長くするかピンクを長くするかで相当悩んだけど、こうなりました」(20)
「こんなことをやらせてくれたYMOの懐の深さに感謝します。細野さんも喜んでくれて、それが本当にうれしかった」
(19)

1980/03/21 19:00 イエロー・マジック・オーケストラ『テクノポリス2000-20』公演。名古屋/愛知県勤労会館。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g)、橋本一子(syn, cho)
 (Untitled Instrumental)
 ビハインド・ザ・マスク
 
中国女
 
ライディーン
 ラジオ・ジャンク
 ナイス・エイジ
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ファイアークラッカー
 キャスタリア
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 
コズミック・サーフィン
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 
千のナイフ
 ザ・コア・オブ・エデン
 東風
高橋幸宏の証言
「憲司がここから参加するんですよね」
(26)
「'80年の憲司のヴァージョンのほうが、当時は好きでね」
(26)
「ここからメイクをするようになったのは、教授のアイデアですね」
(26)
「僕は多少抵抗ありました。ヒゲがあるから(笑)。このあたりからコンサート会場に小学生の姿が見られるようになるんです」
(26)
 ザ・コア・オブ・エデン
「タイトルは、エデンの中心。コアという言葉は、中心という意味と、リンゴの芯という意味とダブル・ミーニング」
(27)
「曲調は、実はトム・ヴァーレイン(テレヴィジョン)なんですよ、イメージ的には」(16)
「ツアーに憲司が参加してくれたんでね。あの曲は憲司のソロが好きだったので、あれをステージでやりたいってことだったと思う」(16)

坂本龍一の証言

「手元でミックスできるキューシステムを望んでいた」
(1)
「技術屋さんが作ってきたんです」(1)
それまで音のバランスは、モニターさんに『ベース上げてよ』とか言ってたんで、手元で各自が自由にミックスできる 手作りのシステムを持ってきた」(1)
8チャンネルになるんだけど、僕はクリック しか聞いてなかったと思う(笑)。全部ゼロにして」(1)
「結局、みんなほとんどそうでしたね。みんなクリックしか聞いてなくて、お互いの音は聞いてない(笑)」(1)
「肉体も制御できるというような、尊大な自負があったな。アホだよね(笑)」(1)
「こんなに黒人に近い音楽ができるミュージシャンはいないっていう自負があったんですね。黒人のグルーヴの秘密はもうわかったと。だけど他を見ると、誰もその秘密をまだ知らないんですよ」
(1)

丸山晴輝の証言
「80年春の国内ツアーの直前だったんですが、まず、マイクのついたヘッド・フォンが欲しいという要望がありました」
(4)
「YMOはドンカマ(クリック音)を聴きながら演奏するというライヴのスタイル」
(4)
「ヴォーカルはヴォーカル用のマイクを立ててメンバーの顔の近くに持ってくるというのが79年までのYMOのスタイルだったんですが、それがどうも見映え がよくないし、動きも制限される。なにかいいやり方はないかっていうことでヴォーカル用のマイクをヘッド・フォンに装着したいとなったんです」(4)
「当時、たとえば空港の管制官やテレビのディレクターがしているような似たような形のものはあったんです。ただ、ステージでヴォーカルをとるのに耐えられ るような音質のマイクがついたヘッド・フォンのシステムというのはなかった。ヘッド・フォン自体もプロ用の高品質なもので、そこに単独でヴォーカル用マイ クとしても通用するプロ仕様のマイクを組み合わせることになりました」(4)
「これに関してはそんなに苦労した憶えはありませんね。というのも、これは他の人と一緒に作って、本当に大変な部分はその人がやっていたと思います。私は マイクの配線関係を主にやってケーブルの取り回しのあたりとか、ちょっと苦心したかなってぐらい。本来太かったマイクのケーブルを細いものに取り換えて、 それをヘッド・フォンのケーブルとまとめて一本のチューブに通したりとか、そういう工夫をしましたね」(4)
「写真や映像ではわかりませんけど、うまく配線するためにあちこちにビス穴があいてたり、両面テープでケーブルを貼り付けたり接着したり…(笑)」(4)
「大量生産じゃない、ひとつひとつの手作りです」(4)
「それまでは音楽用に使用できるこういう形のものはありませんでした。我々が作ってからですね、市販されたのは」(4)
「キュー・ボックスというのは、もともとレコーディング用の機材として存在していて、録音スタジオなんかには以前からあるものなんです。ヴォーカリストや 各楽器のプレイヤーがそれぞれの楽器のチャンネルの音を手元で好きなようにミックスして、ヘッド・フォンでモニターするためのミキサーのようなものです」(4)
「任意のトラックを選んでキューできる機械ですね」(4)
「ステージの上でもスタジオと同じように個々にミキシングしてモニターをしたいという要望が出てきた」(4)
「それまでのキュー・ボックスというものはあくまでスタジオ用の機材で、スタジオにあるミキサーと一体化している機械だったんです。大きさから電源システ ムから、とてもスタジオの外に持っていけるものじゃなかった。ライヴのステージでキュー・ボックスを使うという発想も、YMO以前にはなかったと思いま す」(4)
「YMOはそれぞれ楽器の前から動かないじゃないですか。それまでの普通のバンドはヴォーカリストやギタリストがステージ上を動き回る」(4)
「それと、スタジオとステージというのはそれまでまったく別次元のものと考えられていたんですよ」(4)
「YMOはそれを、動かないという前提もあったんでしょうが、ステージでもスタジオと同じクオリティのサウンドを提供したいという希望があって、そのためにもキュー・ボックスのシステムを必要としていたんでしょう」(4)
「それでステージ上で使えるキュー・ボックスを作ろうということになったんですが、そう決まったのは"TECHNOPOLIS 2000-20"ツアーの十日前だったんですよ(笑)」(4)
「こちらは私がひとりで設計しました」(4)
「設計と同時に試作して、かつ製作に入るというスケジュール。最後の数日は徹夜でした」(4)
「なにしろステージというのは、横でドラムが叩かれてるわ、後ろでギター・アンプが鳴ってるわ、ホールの中にはPAから流れる音がガンガン鳴ってるわとい う凄まじく音が溢れているところで、そんな中で自分の聴きたい音をヘッド・フォンで聴くというのは大変な音圧を必要とするんです。ヘッド・フォンの中にあ る振動菅が一日で壊れるぐらいの。それぐらいの音圧の音をライヴの2時間に出し続けられるようなものにしなきゃいけない」(4)
「超ヘヴィ・デューティーなプロフェッショナル仕様のものでなければならなかった」(4)

渡邊基行の証言
 Untitled Instrumental
「たしか、CFが流れている所からメンバーは板付き(舞台袖で待機)だったんですけど、CFの後に、舞台セットの後ろにかかっているCF投影用のスクリーンをバトンで巻き上げてそれから本編だったと思うんですよ」
(3)
「その巻き上げ時間って1分もなかったですからねえ。シーケンスの打ち込みの時間持たせ用だったのかもしれませんね。ともかく、"ビハインド・ザ・マスク"で遮幕が上がって、本編スタートでしたから」(3)

※編注:開演予定は18時半だったが大幅に遅れた。

1980/03/26 19:00 瀬戸龍介『ひとりごとコンサート』にゲスト出演。渋谷/PARCO西武劇場。

※編注:翌27日も出演というのが定説化しているが、当時のフライヤーによると27日のゲストは冨田勲。

1980/03/31 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ『テクノポリス2000-20』公演。仙台市民会館。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g)、橋本一子(syn, cho)
 (Untitled Instrumental)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 ライディーン
 ラジオ・ジャンク
 ナイス・エイジ
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ファイアークラッカー
 キャスタリア
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 
コズミック・サーフィン
 
シチズンズ・オブ・サイエンス
 
千のナイフ
 ザ・コア・オブ・エデン
 東風

1980/04/01 『スーパーアート・ゴクー』5月号(パルコ出版)発売
寄稿/Dear Sheena & The Rokkets

1980/04/01 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ『テクノポリス2000-20』公演。秋田県民会館。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、橋本一子(syn, cho)、藤井丈司(g)
 (Untitled Instrumental)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 ライディーン
 ラジオ・ジャンク
 ナイス・エイジ
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ファイアークラッカー
 キャスタリア
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 コズミック・サーフィン
 
シチズンズ・オブ・サイエンス
 
千のナイフ
 ザ・コア・オブ・エデン
 東風
高橋幸宏の証言
「憲司が仙台かなんかで耳の具合が悪くなって、静養せざるをえなくなったというのが衝撃的な事件でした」
(26)
「当時楽器のテックのスタッフとしてついていた藤井がギタリストとしてステージに立って、無事終って楽屋に戻ってきて事務所の社長の大蔵さんに『ギャラ下さい』って言って、大蔵さんが激怒して『明日から来ないでいい』って言われたという(笑)」
(26)

渡邊基行の証言
「大村さんが欠場っていうのが会場に知れるとざわめきが起きたりっていうのはあったと思います」
(3)
「当時ローディだった藤井丈司さんが代役をやった」(3)
「その時ばかりはコンサートが終わった時も、"今日は君はミュージシャンだから、後片付けはしなくていいから"って(笑)。でも、律儀な人なんで、コンサートのユニフォームを脱いだ後にちゃんと手伝ってましたね」(3)

1980/04/04 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ『テクノポリス2000-20』公演。広島郵便貯金ホール。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、橋本一子(syn, cho)、藤本敦夫(g)
 Untitled Instrumental)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 ライディーン
 ラジオ・ジャンク
 ナイス・エイジ
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ファイアークラッカー
 キャスタリア
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 千のナイフ
 東風
 コズミック・サーフィン
 ザ・コア・オブ・エデン


1980/04/05 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ『テクノポリス2000-20』公演。福岡市民会館。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、橋本一子(syn, cho)、鮎川誠(g)
 Untitled Instrumental)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 ライディーン
 ラジオ・ジャンク
 ナイス・エイジ
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ファイアークラッカー
 キャスタリア
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 千のナイフ
 東風
 コズミック・サーフィン
 ザ・コア・オブ・エデン


1980/04/07 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ『テクノポリス2000-20』公演。大阪/毎日ホール。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、橋本一子(syn, cho)、藤本敦夫(g)
 Untitled Instrumental)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 ライディーン
 ラジオ・ジャンク
 ナイス・エイジ
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ファイアークラッカー
 キャスタリア
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 千のナイフ
 東風
 コズミック・サーフィン
 ザ・コア・オブ・エデン


1980/04/08 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ『テクノポリス2000-20』公演。大阪/毎日ホール。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g)、橋本一子(syn, cho)
 (Untitled Instrumental)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 ライディーン
 ラジオ・ジャンク
 ナイス・エイジ
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ファイアークラッカー
 キャスタリア
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 千のナイフ
 東風
 コズミック・サーフィン
 ザ・コア・オブ・エデン

1980/04/09 『週刊FM』4月9日号(音楽之友社)発売
インタビュー/観音様に魅せられてから僕は変わった……。

1980/04/09 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ『テクノポリス2000-20』公演。神戸国際会館。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g)、橋本一子(syn, cho)、鮎川誠(g)
 Untitled Instrumental)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 ライディーン
 ラジオ・ジャンク
 ナイス・エイジ
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ファイアークラッカー
 キャスタリア
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 千のナイフ
 東風
 コズミック・サーフィン
 ザ・コア・オブ・エデン


1980/04/09 六本木/レキシントン・クイーンのオープニング・パーティーで、アレックス・シュナイダー「レキシントン・クイーン」が招待客に配布される。
レキシントン・クイーン(アウトサイド):bass(synthesizer)
※編注:レキシントン・クイーンは川添象郎が経営するシロ・プランニングがオープンしたクラブ。配布されたシング ル・レコードは、坂本龍一がアレックス・シュナイダー名義で制作した楽曲を収めた非売品である。「レキシントン・クイーン(アウトサイド)」に坂本がさら に手を加えた別バージョンが「ウォー・ヘッド」として同年7月にシングル・リリースされたが、オリジナル・バージョンはこの配布盤でしか聴くことができない

1980/04/11 イエロー・マジック・オーケストラ『テクノポリス2000-20』公演。京都会館。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g)、橋本一子(syn, cho)、鮎川誠(g)
 Untitled Instrumental)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 ライディーン
 ラジオ・ジャンク
 ナイス・エイジ
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ファイアークラッカー
 キャスタリア
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 千のナイフ
 東風
 コズミック・サーフィン
 ザ・コア・オブ・エデン


1980/04/13 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ『テクノポリス2000-20』公演。渋谷/NHKホール。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g)、橋本一子(syn, cho)、鮎川誠(g)
 Untitled Instrumental)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 ライディーン
 ラジオ・ジャンク
 ナイス・エイジ
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ファイアークラッカー
 キャスタリア
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 千のナイフ
 東風
 コズミック・サーフィン
 ザ・コア・オブ・エデン
※編注:この日の演奏の一部は、同年5月4日にNHK-FMで放送された。

1980/04/15 イエロー・マジック・オーケストラ『テクノポリス2000-20』公演。札幌厚生年金会館。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g)、橋本一子(syn, cho)
 Untitled Instrumental)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 ライディーン
 ラジオ・ジャンク
 ナイス・エイジ
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ファイアークラッカー
 キャスタリア
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 千のナイフ
 東風
 コズミック・サーフィン
 ザ・コア・オブ・エデン


1980/04/17 『夕刊フジ』取材。

※編注:詳細不明。

1980/04/19 『読売新聞』取材。

※編注:詳細不明。

1980/04/21 イエロー・マジック・オーケストラを起用したフジ・カセットのポスター「音楽はいつも先兵だ。」バージョン、掲出開始。

上條喬久の証言
「YMOが売れに売れて、スターになって行くのに同調して、カセットテープも売れた。ポスターもシリーズ化」(13)
「僕が原案を出して鋤田さんが写真として肉付けをして行く。」(13)
「どんどんそのー、えーカセットで録るというかね、そういうあのー増殖していくという図を、映像化した」(14)

市田喜一の証言
「メンバーが見えないようになっているバーに腹ばいになって飛んでいるように見せているんです。あと、メンバーと一緒に飛んでいるカセットは、手前の方は 実物を吊っていて、奥の方の小さいのはカセットの外見をいろんな縮小率でカラー・コピーをとって背景に遠近感をつけて貼っていったんです」
(2)

1980/04/21 イエロー・マジック・オーケストラ、スネークマン・ショーとのコラボレーションのためのレコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
タイトゥン・アップ
ジングル Y.M.O.
「『パブリック・プレッシャー』を出した後、パートIIを出して欲しいという要望がレコード会社からあったわけ」(28)
「で、ぼくは買い手側の心のほうがよくわかるから、ということは売る側のほうもわかるんだけど」
(28)
「ぼくなら(パートIIが出ても)絶対買わない。とくに、よりすぐったものを集めて一枚出したんで、後は二番煎じになっちゃう」(28)
「売れるのはわかってるから出してほしいって言われても、それはぜひやめてほしいと」(28)
「ただつまんないものを、売れればいいっていうので出しちゃったら、たとえYMOでも、すぐにアキられちゃう」(28)
「パッパッパッとこう、はっきりできてたわけじゃなくてね、曲だけあって、でー追いつめられてね(笑)」(29)
「時間とかね、いろんなことに。でー、そういうときにパッとこう、出てくるんですね」
(29)
「『スネークマン・ショー』というラジオ番組があって」(1)
「非常に面白かったのでよく聴いてたんですね」(30)
「そこの桑原茂一と個人的に親しくなってたんですね。幸宏も大ファンだったんですけど」
(1)
「よくまあ、会ったりもして」(29)
「あのギャグの感じが非常に音楽と合うので」(30)
「電話を一本入れて」
(29)
「『一緒にやらないか。企画物を作ろう。今ならなんでもできる』(笑)と。そういう悪徳プロデューサーみたいなことをいって」(30)
「僕のやりたいことは、ほったらかしでしたから。まったく思うままにね」(1)
「スネークマン・ショーのアルバムを残そうという気持ちですね」(1)
「レコードとして残しておいてもいいと思ってね」
(30)
「ならYMOと合体すればいいじゃないのっていう、安易な気持ちでやったんですね」
(1)
「毒のある話題をYMOのポピュラリティにのっけて、聴く人々のプレーヤーの上で荒らしてしまおうと。」(17)
「YMOが売れた勢いでこのギャグもきっと出回るだろうというので、桑原君も非常に興奮して」
(30)
「『レコードが出せるなんて』っていう感じでね」
(29)
「それで決まって」(29)
「バーッと生のままやっちゃったんですけどね」(30)
「気楽なもんでしたよ。スネークマン・ショーのコントをつなげる何曲かがあれば成立するという。25センチ盤でいけるってことが決まった時点で、これは楽にできるなっていうのがあったんで」
(1)
「スネークマン・ショーという番組自体が、非常にパンクでニュー・ウェーヴな香りを放っていたこともあって、音楽と同等のノリがあったというのかな。そういう意味では、まったく音楽のアルバムを作るのと同じ。お笑いではないんですね、彼らは決して」(1)
「わかりにくいニュー・ウェーヴ・コントでしたから、音楽的なアルバムになると思ってたんですよ」(1)

タイトゥン・アップ

「YMO結成のとき、1回ベーシストとしてのアイデンティティが崩壊してるんですが、そのころはそれも通過してる時期ですね。要するに、プレーヤーのこだ わりもないし、シンセサイザー・アーティストなんていう気持ちもないし。なにか音楽が作れれば、手段は選ばないというところがあったんですね」
(1)

桑原茂一の証言
「私が日本版"ローリング・ストーン"を作っていたときに、加藤和彦さんと知りあって、彼から幸宏とか今野雄二さんとか、たくさんの人を紹介してもらって、人の輪が拡がっていくうちに細野さんとも知りあいになって、みんなでよく一緒に遊んだりしましたね」
(31)
「その頃からスネークマン・ショウの編集テープを作って、会う人みんなにあげてたんです」
(31)
「作ってる私たちはすごく自信を持ってたから、いろんな人に聴いてほしかった。でもみんなラジオを聴いたりしないから、しようがなく自分でカセット・テープに編集して、それをダビングしては渡してたんです」(31)
「テープを配った中には細野さんらメンバーをはじめ、写真家の鋤田さんなどのYMOの関係者もいて、そういう人たちにもすごくおもしろがってもらったんです。そしてあるとき、細野さんからYMOのアルバムで一緒にやらない?って声をかけてもらって」(31)
「彼らにとって、変身するのが必要なタイミングでもあったんでしょうね。その頃、YMOの人気が急激に高まって、いろん な意味でものすごいプレッシャーがかかってきたんだと思うんですよ。そういうプレッシャーに押しつぶされないためにも、あの時点で一度遊びの要素の強い、 世間に肩透かしをくらわせるような動きが必要だったんでしょう」(31)
「誘われたのはすごくうれしかったし、名誉なことだとは思ったんですよ。ただ、私もそれなりに若かったし、つっぱっ てもいたから、二つ返事というわけじゃなかったですね。そもそも、誤解されがちなんですが、スネークマン・ショウって、私たちは音楽番組のつもりでやって いたんです。コント集団だなんて思ってなかった。で、当時、自分たちがスネークマン・ショウでかけていた音楽がいちばんカッコいいとおもってた。だから、 スネークマン・ショウには音楽ってすごく大事なものだから、YMOと一緒に組むんだったら、すごく強い力を持った音楽をYMOが作ってくれないと困る、た だコントだけを求められるんじゃなしに、音楽的にもYMOとスネークマン・ショウのコラボレートが必要なんだって細野さんに訴えましたね」(31)
「心がけていたのは、YMOって当時既に巨大な存在じゃないですか。YMOという虎の威を借りてなにかをするっていうんじゃなしに、あくまでYMOと自分たちは対等な立場なんだっていう気概を持ってコラボレーションしなきゃってことだったんです」(31)
「細野さんにも私たちがかけているような音楽を選曲したテープを聴いてもらって、こういう音楽にいまいちばん力を感じるんだって力説しました。そして細野さん、YMOもそれをすごく理解してくれたんです」(31)

高橋幸宏の証言
「巷からの要請として、ライブのパートIIを出すようにというのがあった。でも、われわれとしては、2枚目のライブというのはファンに対してしのびないというか…」
(9)
「かといって、スタジオ録音の新作を出すには、ぼくたち、まだ、コンセプトを暖めてなくて作れない。でも、レコードを出してほしいという要請が高まってきたので、じゃあ、サービスのレコードを作ろうということで」(9)
「もっと変わったことをやりたい。どうせなら限定盤でいいから」(28)
「当時、桑原茂一に聞かされたラジオの『スネークマン・ショー』が、メチャメチャ僕は好きでね」(1)
「ぼくは(編注:桑原と)昔から友達でね。ミカ・バンド時代から」
(9)
「それを細野さんにも聴かせたんですよ。そしたらすごく気に入って、細野さんがこれを間に挟んでギャグ・アルバムを作ろうって言い出して」(1)
「ギャグの内容が普遍的でオチがないから、何回聴いても大丈夫っていうことを、細野さんはたぶん直感的に、思ったんじゃないかな」(1)
「でも、全部作っている時間もないんで、10インチ」(1)
「ミニ・アルバムでちょうどいいんじゃないかってことで、ひとつのショー形式にしちゃおうよっていう、細野さんのアイデアがあって」(1)
 タイトゥン・アップ
「60年代のアメリカのR&Bのヒット・ナンバー、アーチー・ベル&ザ・ドレルズのカバー、ファンキーで、リズムがご機嫌なやつですね」
(32)
「スカでやろうと言ったのは僕でした」
(32)

坂本龍一の証言
「もともと、どういう経緯でジョイントすることになったか知らなくて。僕はだって同意してない」
(1)
「僕にはきちんとした説明がなかった」(1)
「あえてきっちり説明しちゃうと対立しちゃうから、ちゃんと言わないっていうことじゃないのかな。やっぱり僕も、大喧嘩になることは避けていたし」(1)
「幸宏と細野さんのあいだでやろうよっていうのがあって、僕はもちろん面白いと思うけど、なんでYMOとやらなきゃいけないのっていう。そのへんが僕的には整理なされないまま、ダーッて流れて行っちゃったから」(1)
「幸宏・細野連合みたいなのができちゃって。そういうものに対する反発があったので、スネークマン・ショー自体はとても過激で面白いものだと思ったけど、YMOといっしょにやるってことは、違うんじゃないかっていう気持ちが強かったですね」(1)
 タイトゥン・アップ
「難しいからね、実はあれ」
(1)
「あの時点でも半分冗談としてやってるんだよね。昔カヴァーしたことあるんだよねって、高校時代の60年代のノリを思い出して」
(1)
 ジングル Y.M.O.
「単にジングルっていうんで、職業作家みたいなノリで書いただけでね。ジングルっぽく、ちょっとジャズっぽい感じで」
(1)

小池光夫の証言
「『増殖』を作ることが決まってから」
(31)
「まず『タイトゥン・アップ』、『ジングル・YMO』を4月21日から録り始めて」
(31)

飯尾芳史の証言

「初めてスタジオに行ったのは『タイトゥン・アップ』のリズム録りのときです」
(33)
「みんなで一斉に録るっていう珍しいセッションでしたね。それ以降はそういうレコーディングはほとんどなかったですから。初めて3人を見たときは震えが来ましたね(笑)」
(33)

1980/04/23 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ、雑誌『写楽』創刊記念イベント『イエロー・マジック・サーカス どうしようもなく世界一 写楽 IN 武道館』出演。九段/日本武道館。
出演:咲坂守(小林克也)、畠山桃内(伊武雅刀)、シーナ&ロケット、EX、サンディー、久保田麻琴、スーザン、近田春夫、クリス・モスデル、村井邦彦、川添象郎 他

イエロー・マジック・オーケストラ
 細野晴臣(g, vo)、高橋ユキヒロ(g, vo)、坂本龍一(g, vo)
 花はどこへ行ったの?
 グリーン・バック・ダラー
 中国女

イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g)、橋本一子(syn, cho)、鮎川誠(g)
 ライディーン
 ビハインド・ザ・マスク
 ラジオ・ジャンク
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 東風
 コズミック・サーフィン
 ザ・コア・オブ・エデン
「茂一が演出でした」(1)
「事前にいろいろアイデアを練ったり、じゃあプール造ろうかなんて僕が言い出したりして。何の意味もなく(笑)。バブルだなあ」
(1)
「アコースティックでやった3曲は選曲もクソもない。フォークって言ったら、それしかないじゃない(笑)。あとは『パフ』とか『ドナドナ』とかくらいのもの」(33)
「恥ずかしかったな。冗談だからできたんだ。ストライプのボタン・ダウン、白いコットン・パンツ、スニーカーっていうキングストン・トリオのスタイルでステージに上がった。それはビーチ・ボーイズにも繋がるんだけどね」
(33)
「YMOの中でも印象的なコンサートだったんですけど、僕は個人的にいちばん面白かった」(8)
「なんだこれはと。誰もコントロールできない状況が展開されていく。予期せぬ面白さというか。しかもタダのコンサートなのに、無料で来た客が騒ぐわで」(1)
「冗談をやりたかったに過ぎないんだけど(笑)」(1)
「笑ってもらいたかった」(33)
「技術的なミスが重なって、怒号と野次に結びついてしまったんだな」
(34)
「ある程度、ああいうふうになる、っていう予測はついていたけど、演出じゃないよ」(34)

花はどこへ行ったの?
「キングストン・トリオやピーター・ポール&マリーのヒット曲です。フォークをやろうというのが先にあったんですが、フォークと言えば、もう日本では『花 はどこへ行ったの?』なんです。その世代にとっては、国民的な歌でもある。ほかの曲を知らなかったので、これをやりました」
(8)
「あの怒号の中でプロテスト・ソングをやったのは暗示的です。例えば僕にとって、『ウィ・アー・ザ・ ワールド』とか、ああいうものは笑止千万の世界で、おちょくる対象に過ぎないんですね。もちろん世界平和は大賛成なんですけど、世界平和をおちょくるとこ ろに世界平和があると。そういうような冗談を貫いてると思いますね、YMOは。そういう冗談とのバランスは保っていたと思うんですね」(8)

中国女
「客の野次が飛ぶ前でパフォーマンスとしてやった、フォーク・ヴァージョンです。これがまたウケなかったんですね」
(8)
「『僕たちは世界平和のために歌います』って台詞は、それは即興で言ったんだと思いますが、誰も笑わなかったんですね」(8)
「シーンとしちゃった」(33)
「それが日本の風土なんですね」
(8)
「幸宏と僕は、たまに『結婚しようよ』をおちょくって、ギターでパクったりしていたんですけど、根っこでフォークっ ていうのが僕たちにはあるわけで、全然違和感はないわけですね。そういった、昔取った杵柄みたいなことをやってみただけの話なんですね。冗談なんですけ ど、通じなかったという」(8)
「でも、いいんだよ別に。悪夢みたいなものでね」(33)

高橋幸宏の証言
「『写楽』という雑誌なんですね」(15)
「創刊記念イベント」
(15)
 「YMOがあまりにもむちゃくちゃなことをやったんで、伝説のライヴと呼ばれておりますけどね」(15)
「基本的にあれは無料招待コンサートだったっていうのが、僕たちの中で大きくて、だから僕たちの好きなことをやらせてもらおうっていう意識が強くあったんです」(26)
「客に受けようが受けなかろうが、いまやりたいことを、もう一度白紙に戻してやってみよう、ということがあった。まあ、半分はぼくらの冗談もあったんだけど」
(34)
「どうしてもアリーナにプールを造りたいって言ってたんですよ。『プールサイドでパーティーをやりたい』って言い出したのは茂一とメンバーだったような(笑)」(26)
「最初のプランでは飛び込むつもりだった」(9)
「だけど、水って案外重いんですよね。だから深さ何十センチのプールしか作れないって言われて、じゃないと武道館の 床が抜けると(笑)。でも、『そんなんじゃ泳げないじゃねーか』とか、言いたい放題いってました(笑)。招待客のお客様はタダで来てるんですから(笑)、 そういう裏切られることの快感を覚えてもらおうっていうのもあったと思うんですけどね」(26)
「まず3人が、ボタンダウンのストライプのYシャツを着て出ようっていうアイデアがありまして、それで、『YMOが ついに武道館でコンサートをやる』っていうんで、期待して集まってくれたお客さんを前に、始まって3曲で終わっちゃうっていうのがやりたかったんですよ (笑)」(26)
「'80年代になってあまりにもYMOが大きくなりすぎて、多少すさんでたというか、3人ともその現象に戸惑って たっていうか、だから、なんでも裏切りたくてしょうがない時期だったんですね。もちろん、ちゃんと最後には演奏する予定にはなっていて、そのセットは隠し てあったわけだけど」(26)
「最初にスネークマン・ショーの司会者の呼び出しがあって、ぼくたちは、ストライプのシャツを着てキングストン・ト リオの格好で出て、生ギターで『花はどこへ行ったの』『グリーン・バック・ダラー』それに『中国女』をやった。その途中で、細野さんが『ぼくたちは、愛と 平和のためにこうやってうたっています。どうしていつまでも世界から戦争がなくならないんでしょうか。戦争が続く限り、ぼくたちはうたい続けます』という ようなセリフを言ったら、ワーッと熱狂的な拍手が来た。その反応には、ぼくたち若干あせりましたけどね。それで一旦ぼくらは架設ステージを下りた。そのあ とに司会者が出てきて『これで、今日のYMOのコンサートは終りです』と言ったわけです(笑)。そしたら、招待されてきた1万3千人のお客さんがモーレツ に怒りはじめちゃってね(笑)」(9)
「その後は演奏ナシの、さまざまなプログラムが延々と続くという」(26)
「スネークマン・ショーって、落ちのないギャグとか、受けない面白さとか、ものすごく細かいところがあるでしょう。それを武道館のような大きなところでやることの矛盾はあったけど、ぼくらはあえてやりたかったわけです。でも客が怒っちゃって、その後が大変だった」(9)
「あの大武道館全体が大変な騒動になってしまって。客で見に来てたウチのマネージャーの佐藤なんかも、まわりの客みんな怒鳴りまくってて、何がなんだかわからなかったって言ってましたもんね」(26)
「教授がパーフェクトに女装して、クラシックのバイオリンの女の子と二人で完璧に演奏するコーナーもやりたかったの。でも客は、その女が坂本龍一かどうかを確かめるすべもないくらいに、早くYMOを出せーっと、盛り上っちゃって」(9)
「『うるせーぞ、このヤロー!』って教授が言って、幸宏がなだめるっていう」(26)
「細野さんは『僕、知らないもん』って(笑)」(1)
「途中のコーナーでは生島ヒロシさんが司会でね、『ひっこめー!』って言われて『まあまあそうおっしゃらずに』ってなだめるんだけど、『早くYMOを出せ!』とか言われてね。可哀想でしたね」(26)
「ファッション・ショーのコーナーとか写真のコンテストの表彰のコーナーとかが、メチャクチャになってしまった」(9)
「篠山(紀信)さんは椅子蹴飛ばして帰っちゃったらしいですよ」(26)
「ぼくは全然OKでした。ああいうものをやるべきだと思っていたし、お金を払って来る人たちじゃないっていう意識もあったので。だから、なんでウケないんだろうって、途中から結構イラだったりしてましたけどね」(1)
「だけど、YMOが出ていって演奏したら、コロッと収まっちゃった」(9)
「つまらなければ『つまらない』と言って帰ればいいんです。そういう抵抗をしないで、表に出て、コンサートになったらまた入ってきた。それだったら帰りゃいい。半分ぐらい帰ってくれた方がよかった」(34)
「つまり、桑原くんたちの面目も、『写楽』を出した小学館の面目もまるで立たなくなっちゃった。ぼくたちの狙いはそうじゃなかったのにね」(9)
「はっきり言って主催者には申しわけないと思う。中途半端になっちゃったのは決して無理やりやらされたわけじゃないし、ぼくたちの責任も相当あるから」(34)
「中には、それが全部演出だと思った人もいたみたいだけどね」(9)
「10パーセントくらいの人は、わかって楽しんでくれたみたいだけど、30〜40パーセントは女の子のファンで、 『キャー!キョージュー、こっち向いてー』とか『ユキヒロさーん』とかやってるの。残りは『冗談じゃねえ、もう帰るぞ』なんていって怒ってる。もうサイケ デリックで、わけのわかんない世界だった(笑)」(9)
「最初は届かないことを面白がっていたくせに、途中でだんだんイラついてきて、演奏が過激になったりしてるっていう、勝手なコンサートですよね(笑)」(26)
「どうせなら、もっとわけのわからないことをやればよかったね」(9)
「主催の小学館には多大なご迷惑をおかけしていながら、プロデューサーの桑原茂一はそれを楽しんでいて、僕たちも実は、すごく楽しんでいました……(笑)」(26)
「お客さんには申し訳なかったけど、ぼくらは楽しかったですね。1万3千人を相手に『テメエ、馬鹿ヤロー』って言ったから(笑)」
(9)
「トノバンいわく。『YMOは武道館を私物化した』と(笑)。そう言って喜んでたそうです」(9)
「僕たちにとっては、すごく快感だったんですよね。これでYMOはやっと次に進めるんだっていう。いうなれば、そこでファンの切り捨てをやったということかもしれないな」(26)

坂本龍一の証言
「『写楽祭』も成り行きでやることになっちゃったけど、僕はすごく引いてたんですよ」
(1)
「だって、桑原茂一が誰だとか、スネークマン・ショーが何かとかって、全然知らないんだから僕、その時点で」
(1)
「怒鳴ったっていうのは、ただ近視眼的にパッと頭に来て、ただ怒鳴ったわけじゃなくて」(1)
「要するに、なんでこんなことをやるのかわからないっていう。でも結局、やるからには楽しみたいじゃない」(1)
「武道館のアリーナの真ん中に、三角形のプールを作った」(9)
「ところが武道館の床はベニヤ板で、重いプールを置くと底が抜けちゃうんだって。だから浅いプールしか作れなかった」(9)
「まあ楽しんじゃおうって感じだったんだけどね」(1)
「それで女装かなんかしてラヴェルとか弾いてるんだよね。そうしたら客がワーッて怒り出したから、『うるせー、この野郎!』って」(1)
「女装のまま、『テメエラ、文句あんのか、このやろー』って。でも収拾つかなくて」(9)
「女装してるのも忘れて怒鳴ってるから、客にしてみれば、なんかデッカい女が怒鳴ってるぞって(笑)」
(1)
「武道館ではギャグをやることがメインだったんだけど、わかってくれた人は少なかったみたい」(9)
「お客を読んで、演出して盛り上げるという読みは、最初から捨ててたからね。でも、もうちょっと楽しんでもらえるかと思ってたけど」(9)
「絵に描いたような冗談をやっても、それが通じなかった。みんな真剣になっちゃって(笑)」(34)
「グシャグシャになって、小学館の主催者とか、篠山さんとかが恐れをなして、全員帰っちゃった」(1)
「篠山紀信なんか、途中で椅子を蹴とばして」(9)
「それで茂一も、スポンサーが小学館だったから、これでラジオももう終わりだと思って。本当にそうなっちゃったんだけど」(1)
「一生に一度できるかできないかというサイケな体験だった。楽しかったね」(9)
「あれが全部演出だったらすごかったんだろうけど」(34)

桑原茂一の証言
「私はYMOのメンバーたちから頼まれて手伝うことになったって記憶してるんですが」
(31)
「スネークマン・ショウがYMOと『増殖』を作ってたし、そのスネークマン・ショウのラジオのスポンサーは小学館だ しで、接点がないことはないんですが、よくわからないですね。これはあくまで想像なんですけど、もともと小学館がYMOにイベントのためのコンサートを やってくれっていう要請をして、YMOが断ったんじゃないですかね。それでもと頼まれて、じゃあ好きにやっていい? バカなことをやってもいい? それなら出るよってなったんじゃないかなあなんて想像してるんですが」(31)
「通常のYMOのコンサートじゃない企画、ふつう絶対やらないようなことをやろう、YMOのイメージを覆そうって、それだけを考えてアイデアを出していったんです」(31)
「伝わらなかったのは内容のせいじゃないと思っているんです」(31)
「『写楽祭』で問題だったのは、なによりテクニカルな面だったと思います」(31)
「たとえばステージ上で小林克也さんがしゃべっているセリフが、客席には全然聞こえていなかったり、当たるべきところにスポット・ライトが当たっていなかったり」(31)
「仕掛けのタイミングとかもうまくいかなくて、あのイベントでは最初、YMOがアコースティック・ギターでフォークを歌ったじゃないですか」(31)
「お客さんがなぜYMOがフォークをって思っているうちにきれいに演奏が終わって、その瞬間、積み上げられたハリボ テのスピーカーが崩れ落ちてアコースティックな世界からエレクトリックな世界に場面が転換する。そういう意図があったんですけど、それも歌い終わった瞬間 に、スピーカーが崩れない(笑)。ジャーンと演奏が終わって、崩れるはずのものが崩れない。崩れないからメンバーはその場を動くこともできなくて、客席も シ〜ンと静まり返って、やがて"なにやってんだ?"ってざわざわと…。しようがないから教授なんか足でスピーカーを蹴って"崩れろこの野郎!"なんて (笑)。とにかく間が悪くて笑ってもらうはずのところが笑えない。予定通りにぽんぽん進んでいけば絶対におかしいはずなのに、外してばっかりでお客さんも ぽか〜んとしてる。あらゆることが予定どおり進まなかったっていう印象が強くて、克也さんと伊武ちゃんがかけあいしてても全然、セリフが聞こえないし、そ もそもスポット・ライトがふたりを追いかけていかないから、ステージのどこにいるかもわからない」(31)
「私たちが意図した演出を武道館という広い空間で、意図した通りに演出しようとする"仲間"がいなかったということに尽きる」(31)
「あのとき、たとえば演劇とかいろんなジャンルに得意なスタッフが集まっていたら、ちがった結果になったんじゃない かと。あのときのスタッフは、みな音楽関係の仕事をしている方たちばかりで、そういう方たちがそれまで経験していないような役割をさせてしまったのかもし れない。コンサートが得意なあのときのスタッフに、演劇が得意なスタッフが加わっていればよかったのかもしれない。あのときは普段コンサートを運営するス タッフの人たちに、演劇的な舞台の運営をお願いしちゃったんです」(31)
「イライラしてた(笑)。頭に来るというか、もう、悔しくて体に火がついたようになってました。すべてが演出どおり 進まなくて、そりゃお客さんからブーイングが出るのは当たり前ですよ。私もブーイングしたいぐらいだったけど、そんなことはもちろんできないし(笑)、 YMOをはじめとする出演者や、関係者たちから"お前の演出が悪いんじゃないのか"的な目でも見られ、途中から本当につらかったです(笑)」(31)
「一万人近くからブーイングされる経験なんてふつうないですからね。ある意味貴重な経験ではあるんですけど、当時は つらかった。だから、ステージ上で教授が"バカヤロウ!"なんて怒ってくれたことは、一種、私の気持ちを代弁してもらったような気がしてちょっと胸がすき ました」(31)
「どん底の状況を一挙にくつがえすようなあの演奏はすごかったです。音楽って、いくらデジタルな楽器を使おうとも、演奏するのが人間である以上、どれだけでも感情的な音楽になるんだっていうことを見事に表現した、奇蹟のようなライヴだったですね(31)
「幸宏ともその話をしたんですけど、あのときは"よし、いっちょやってやるぜ! おら!"ってすごくそういう男くさい気持ちだったと(笑)。教授は教授で最初からヒート・アップしてるし。あのYMOの演奏が最後にあったことで自分的に は救われた感じですね。観客も燃えたし、あれほどの暴力的なフラストレーションを一気に燃え上がらせて気持ち良さに変えたコンサートって、そう世にはない んじゃないでしょうか(笑)。ずっと後に知ったんですけど、あのとき観客席には"俺はもう会社なんかやめてやる!"ってネクタイを捨てて踊ってたサラリー マンとかもいたらしい(笑)。人生変わっちゃった人もいたみたいで、ちょっとうれしいエピソードでした」(31)
「終わった直後は、私はもう楽屋で真っ青になって虚脱状態だったんだけど、その場にいた糸井重里さんが"この状況っ てコンセプチュアル・アートだよね"みたいなことを言ったんですよ。それがあまりに冷静に的確にその日の状況を表現した言葉だったんで、ムカッときた憶え がある。そんなに冷静にまとめるなよ!ってムカつきと、やっぱり言葉のプロが言うことはちがうなって感心が半々という複雑な心境でしたけど(笑)」(31)
「イベントの失敗はスネークマン・ショウのせいだってことにされちゃって、番組は終わっちゃうし。人身御供になりましたね」(31)
「ぼくたちがいちばん貧乏くじを引いたんです(笑)」(31)
「しばらくは人生でこんなひどいことが起こるのかってぐったりしてましたね」(31)
「虚脱感だけじゃなく、もう二度と思い出したくないって、資料とか記録もすぐ捨てちゃって…。それぐらい怒りがあっ た。ただ、そのぶん、次のことをやるエネルギーにはなりましたね。ラジオは終わったんですが、この後に『増殖』が出て、スネークマン・ショウのアルバムへ と続いたじゃないですか。それを作るときにこの『写楽祭』での体験っていうのはやっぱりそうとうバネになってる。あのとき私たちが人身御供のような形にな らざるを得なかったのは、やはりYMOにくらべるとスネークマン・ショウが弱い立場にあったからで、叩きやすかったから。自分たちがもっと強い立場になれ るような、力のある作品を作って、それで存在をアピールしないといけない。そういう思い」(31)

渡邊基行の証言

「最初にセットの図面を渡されて『プールがあるのか、じゃあ水深は何メートルで』とかいろいろあるセットをひとつひとつ組んでいきましたよ。あと、最初は武道館って『天井の日の丸外せないかな?』っていう案もあって、結局それはダメになった」
(3)
「招待客だけの、お金を取らないイヴェントだったんで、あまり内容の告知もしないままやったんじゃないでしょうか。アリーナにお客さんを入れないというセットの組み方も、招待客だけだからということで敢えて、演出優先でそうしたんじゃなかったかな」(3)
「1ベル(開演5分前を知らせる会場ベル)が鳴った時から、関係者全員ピリピリですよ。ひとつでも演出の段取りが 狂ったら、受けるギャグも受けなくなるし、後へ後へしわ寄せが来る事になるから。でも、そんな中にも和やかなというか、リラックスした空気も同時にあった と思います」(3)
「最初の方でメンバー3人がキングストン・トリオの"グリーンバック・ダラー"をやって、"ハイ、今日のYMOのコ ンサートはこれで終わりです"っていうのが、ひとつのギャグだったりするんだろうけど、そういうのが上手く伝わらなかったですよね。"こんなコンサートを 実際にやっちゃったら面白いだろう。笑えるだろう"というつもりでやってたでしょうから」(3)

ボブ・グルーエンの証言
「巨大な空間の中心にステージが置かれ、それはまるでエレガントなアール・デコ調ナイトクラブのように作られていた。鏡のプール、小さなテーブルがあり、 その周りに椰子の木が置かれ、ウェイターは横のバーから飲み物を注ぐ。私はよくクラブでやっていたようにバーのところに立っていた。バンドはその小さなス テージから"クラブ"内のオーディエンスに向けて演奏した−
−他の12,000人のオーディエンスがその小さなクラブを見下ろすなかで。あれは純粋芸術だったと思う。」(13)

長曽我部久の証言

「アリーナの真ん中に実際に水をはったプールがあって、そこにいるのが、全員水着を着た外人の女の子っていう。で、武道館の北側の2階席にハリボテのス ピーカーを作っていて、そこにメンバーが現れる。そこでライヴをやるのかな?と思わせといて、フッとメンバーがいなくなるとスピーカーが崩れたりしてね。 かと思えばYMOがギターでキングストン・トリオをやったり。スネークマンが出て、シナ・ロケが出て」
(35)
「やたらテープが沢山あって、テレコ4台くらい並べてやりましたね。それで、『合図にあわせてこれこれのテープをかけてくれ』って(笑)」
(35)

鮎川誠の証言
「僕らはいつもの手慣れたショーを30分くらいかな?やって気持ちの良かったライブだったということしか憶えとらんよ。なんか四角い、平たい変わった形のステージでね」
(2)
「ミッキー・カーティスさんが楽屋にいらしてて、楽しく話をしていたような、そんな記憶はあるけどね」
(2)

三浦憲治の証言
「フォーク・グループみたいな格好で撮ってくれって言われて(笑)。キングストン・トリオって知ってる? ああいう感じで撮って!ってリクエストされて(笑)」
(36)
「(編注:イベントのポスターは)レーザー光線をメンバーの体に照射して撮ったんだ。グリーンのレーザーを当てようって、それはメンバーからのアイデア だったと思う。そういうふうにYMOからはヴィジュアル表現のアイデアってすごく出てきた。もう、ぽんぽん出てくる」
(36)
※編注:このイベントの模様は、同年4月28日〜5月13日にわたりTBSラジオで放送された。アコースティック・セットのイエロー・マジック・オーケストラの演奏は、CD『YMO GO HOME』(東芝EMI/1999年)、『ONE MORE YMO』(東芝EMI/2000年)でも聴くことができる。

1980/04/23 イエロー・マジック・オーケストラ、『写楽 IN 武道館』打ち上げ。六本木/東風。

坂本龍一の証言
「どこも打ち上げをやってくれないような状態だったから、自分たちでただで集めた友人たちなんかもいたし、六本木のレストランで自前で打ち上げパーティーをやって大騒ぎしてた」(34)

シーナ
「この日の打ち上げは六本木の『東風』でやって、みんななんでもないふうだったけど(笑)」
(2)

1980/04/24 NHK総合『朝のニュースワイド』でイエロー・マジック・オーケストラ特集放送。

※編注:前日の日本武道館公演のレポートなど。

1980/04/25 加藤和彦「ソルティ・ドッグ/レイジー・ガール」発売。
ソルティ・ドッグ:bass

1980/04/25 イエロー・マジック・オーケストラ、スネークマン・ショーとのコラボレーションのためのレコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
マルティプライズ
ジ・エンド・オブ・エイジア
タイトゥン・アップ

1980/05/01 南佳孝『モンタージュ』発売。
ミッドナイト・ラブ・コール:bass
クレッセント・ナイト:bass

1980/05 阿木譲『ロック・エンド』(工作舎)発売
対談/汎世界とポップ・マジック 阿木譲 × 細野晴臣

1980/05/04 19:15 NHK-FM『イエロー・マジック・オーケストラ・ライヴ』放送。
DJ:襟川恵子

ビハインド・ザ・マスク
中国女
ライディーン
ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
デイ・トリッパー
ファイアークラッカー
テクノポリス
シチズンズ・オブ・サイエンス
東風
コズミック・サイエンス

1980/05/07 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ、FM東京開局10周年記念公開録音『フジ・カセット セレクテッド・アーティスト'80スペシャル』出演。新宿/東京厚生年金会館 大ホール。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g)、橋本一子(syn, cho)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 ライディーン
 ラジオ・ジャンク
 ナイス・エイジ
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ファイアークラッカー
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 千のナイフ
 東風
 コズミック・サーフィン
 ザ・コア・オブ・エデン
※編注:この日の演奏は、同年6月9、16日にFM東京で放送された。

1980/05/22 イエロー・マジック・オーケストラ、北中正和のインタビュー取材を受ける。六本木/プランテーション

※編注:『プレイヤー』7月15日号(同年6月20日発売)に掲載。

1980/05/23 加藤和彦のレコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
おかえりなさい秋のテーマ
折田育造の証言
「資生堂タイアップのCMソングの話が入ってきたので、そのためのシングルを東京で制作したんです。キャンペーンソングだから『おかえりなさい秋のテーマ』ってタイトルでね。演奏はYMO」
(37)

1980 スーザンのレコーディング。

スーザンの証言
「テクノポップの録音現場というのに遭遇するのも初めて。細野さんたちが難しい顔で作業してる傍らにいて、毎日発見の連続でした」(38)

※編注:アルバム『ドゥ・ユー・ビリーヴ・イン・マジック?』のセッション。5月24日〜6月27日の期間に行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。

1980/05/26 イエロー・マジック・オーケストラを起用したフジ・カセットのポスター「音楽は磁性紀に入った。」バージョン、掲出開始。

上條喬久の証言
「楽器 → 蓄音機 → それから、あの『磁性紀』と」(14)
「当初はYMOの、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏の3人のライフマスクを採って300人に増やし、その整列する姿が「カセットテープの形」になっているという案であった。」
(13)
「後楽園球場(まだ東京ドームではなかった)のグラウンドで撮影するプランで進めていた。ところが、それはあまりに も制作費が嵩み、実現は不可能であった。そこで、正確な4分の1のミニチュアモデルを創って広いスタジオに並べて撮影することに変更した。そのポスターは 評判を呼び、貼るそばから剥がされてしまうという嬉しい悲鳴になった。」(13)

鋤田正義の証言
「画像処理ではないんです」
(21)
「サンク・アールの市田喜一さんが造ったこの人形」
(12)
「ミニチュアのグラウンドに並べた」
(21)
「30センチぐらいあったかなあ。ずらりと並べたときは壮観でしたよ。まず人形をこれだけ作るのに手間も予算もかかるし、スタジオも大きいところじゃないと撮れないし、ずいぶん贅沢な作りですよね」
(12)
「このポスターはねえ、とにかく貼ったはしからはがされて持っていかれたって記憶がありますね。あっという間に街から消えていった。YMOファンが持っていっちゃったんですね(笑)」(12)

市田喜一の証言
「それまではメンバーご本人たちに生身でやっていただいていたんですが」
(2)
「『今度は趣向を変えよう』ということで」
(2)
「人間を使わずに人形でいこうとなったんで」(2)
「私が人形を作ることになったんですね」(2)
「1週間ぐらいかけて、ろくに睡眠もとらずに作業したような(笑)」(2)
「まず服を着た形で3人の写真をYMOの事務所かどこかで撮影しました。高橋幸宏さんがデザインした服を実際に着てもらって、いろいろな角度から撮って、それをモデルにしましたね」(2)
「最初は真っ白な人形が成形されて」(2)
「我々は『FRP』と呼んでますが、割と一般的な素材ですよ。固くてヘルメットだとかに使う。ガラス繊維が入っている素材で、精密な形を取れるんです」(2)
「そこに顔色、服の色、とわけて彩色していくわけです」(2)
「それが二百何十体かあって」(2)
「一人ずつの顔を、絵を描くように立体に筆で描いていく」(2)
「一体一体顔が少しずつ違うでしょう?」(2)
「大変に手間がかかりました」(2)
「ともかく時間がかかった(笑)。それは鮮明に憶えています」(2)
「時間がなかったので、何十体かぐらいはソフト・ビニール素材の人形もあって、あの撮影ではそれらが混じって並べられているんです。実はソフト・ビニール素材は、FRPに比べるとちょっと精密さに欠けるんですが、ああいう形で見ると殆ど区別はつかなかったと思いますね」(2)
「人形を自分で作ったこともあって愛着があります。CMのセットなんていうのは大がかりなものを一斉に作り上げる作 業なんで、それはそれで頑張ってやった記憶があるんですが、これは人形を自分で一体ずつ作っていって時間も倍くらいかかってますから、自分の中で特に記憶 に残る仕事のひとつです」(2)
「人形がいっぱいあるんでファンにプレゼントをするというような企画も持ち上がっていたんですが、ご本人たちが乗り気じゃなかったとかで没になったようです(笑)」(2)

坂本龍一の証言
「本当は、直接、体から型をとって作るみたいだけど、われわれの時間の都合がつかなくて」
(9)

高橋幸宏の証言
「色の塗り方とか、手描きの部分があるんですよ。いまひとつ、ぼくは似てないんですよね」
(9)

1980/05/28 『月刊mimi』7月号(講談社)発売。
グラビア/TOKYO感覚で世界を制覇
※編注:細野晴臣以下、メンバーのコメントを含む。

1980/06/02 22:00 イエロー・マジック・オーケストラ、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』生出演。
司会:芳村真理、井上順

イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds)、細野晴臣(syn)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g)、橋本一子(syn)
 ライディーン
 テクノポリス
高橋幸宏の証言
「ぼくらは条件がむずかしい。器材全部持ちこんで生を演奏するとすごい金がかかる。それから持ち時間をちゃんと演奏させてほしい。1曲で13分はほしい。それをのんでくれるんだったら、テレビに出るということです」
(34)
「(編注:衣装は)当時の僕のブランドで作ったんですけども、教授が色っぽいですね。お化粧がほんとによく似合うと言うか。なんか僕と細野さんはどっかに無理があったんですけどね(笑)。まあそんなに濃くないし」(15)
「教授はこの辺が一番似合ってて、いいですね」(15)
「一人座ってる人間いますけどねえ。まああのー、ダミーと言うかね、人形的な、そういうので一人、置いとこうという、まあ、テレビ的な発想ですけどねー。当時のマネージャーですね僕たちの」(15)
「伊藤(編注:洋一)さんていうんですけどね」(15)
「すべてに時代を感じますね。なんか細野さんがくわえタバコだったりする感じも。実際には火はついてないでしょうけど(笑)」(15)
「細野さんこれもチェリー(編注:タバコの銘柄)なんですかね(笑)」(15)
「大村憲司くんが、着ているスーツは、僕が『音楽殺人』のジャケットで着ているものと同じデザインですね。生地も同じです」(15)
「僕のシンセ・ドラムが、かなり増えてますよね」(15)
「右側に、ブルーの、上に乗ってるバージョンと、そう、あれ、アルト・サウンドっていう会社なんですけども当時、下が白いんですよもう。だからあれはニュー・モデルなんですね」(15)

小尾一介の証言
「フジテレビに当時、疋田(編注:拓)さんという有名なプロデューサーがいて、その人がYMOをずいぶんおもしろがってくれたんです。まだそれほどYMOが売れてなかったときから応援してくれたんですよ」
(39)
「ふつうは1アーティストが1曲じゃないですか、あの番組は。ところがYMOは特別で2曲やらしてくれたり」
(39)

※編注:演奏シーンは、ビデオ・ソフト『TV YMO』(アルファレコード/1993年)、DVD『YMO Giga Clips』(東芝デジタルフロンティア/1998年)に収録された。

1980/06/05 イエロー・マジック・オーケストラ『増殖』発売。
ジングルY.M.O.:produce, direction, compose, arrangement, remix
ナイス・エイジ:
produce, direction, arrangement, remix, synthesizer
スネークマン・ショー(KDD)
タイトゥン・アップ:
produce, direction, arrangement, remix, bass
スネークマン・ショー(ミスター大平)
ヒア・ウィ・ゴー・アゲイン:
produce, direction, arrangement, remix, bass
スネークマン・ショー(ここは警察じゃないよ)
シチズンズ・オブ・サイエンス:
produce, direction, arrangement, remix, synthesizer
スネークマン・ショー(林家万平)
マルティプライズ:
produce, direction, arrangement, remix, bass
スネークマン・ショー(若い山彦):voice
ジ・エンド・オブ・エイジア:
produce, direction, arrangement, remix
「やはりスネークマン・ショーとやった『増殖』というアルバムが、YMOのイメージを決定付けたところがあって、それ以前のテクノとは、またちょっと違うグループになってきたんですね。冗談もやらかす、人を食ったようなバンドだと」(8)
「わりと真面目に作ったんですけど、YMOのファンにとっては、はぐらかされたというか、いい意味で変てこりんなことをやるなという印象を与えたらしくて」(30)
「新作ですけど、世間からは『つなぎ』と見られてまして、そうか、それならつなぎでもいいと思いました」(40)
「省エネに協力したわけです。入れる曲が4曲で、しかもジョークだから、30センチLPじゃ間のびしちゃう」(34)
「ギャグは、ほとんど放送されたやつを使ってる」(28)
「放送でけっこう面白かったやつを入れてもらった。林家三平のギャグとか」
(30)
「気に入ったものを、ポンポンって並べてるうちに、皆の気持が入ってきたって思うんだけど、ひとつのこういうコンセプトになったんだ」
(28)
「曲も気楽に出来たし、実際には僕らがクセになって、快感を楽しんでいたという感じが強い」(17)
「『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』のころとは、ずいぶん違いますね。あのころはわりと真面目だったというか、シリアスだったですから」(1)
「ニュー・ウェーヴの影響が強いと思いますね。解放感、なにか明るい気持ちなんですよ。音楽を作る喜びがあるわけです」
(1)
「わりと大人たちにインパクトを与えたんですけどね。内外ともに」
(30)
「あそこでなんかが動きだしちゃったものがありますね。その後、日本の広告媒体の人たちとYMOが共鳴していくのも、そういうところから始まってますか ら。糸井重里とか秋山道男とか、そういう人たちとね。彼らを刺激したというか、面白がらせたところがあると思います」
(1)
「サウンドとしては『ソリッド・ステート〜』の延長ではあるが、この頃すでに『BGM』へのアイディアが芽生えていた。」
(17)
「とにかく、『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』の次に出すものをどうするか、ずっと考えていたという。もう一度それを繰り返すのか、違うものを作るのか…
…。もちろん違うものを作ると決めてたんですけど、アルファとかファンとか、それらとの調整というのかな」(1)
「小学生ぐらいも聴いてたり。彼らの中でフィードバックがだんだん出てきて、手紙が来たり、コンサートを見にきた り、街を歩いてると小学生がついてきたりとか(笑)」(30)
「僕らの側もそういう現実を見て、少しずつ表現を変え始めるわけです」
(13)
「彼らの中では『ライディーン』みたいな曲が異常にもてはやされてね。次のレコードも『ライディーン』 みたいなものを作れというような要望があるもんで、レコード会社も『ぜひひとつ』というようなことで(笑)。でも『増殖』を作っていたおかげで、これはは ぐらかそうということでね(笑)」
(30)
「そう言われれば言われるほど、違うものをって考えちゃった。ちょうど、テクノっていうのがひとつの節目に来てたってこともあるしね。"ピコピコ音"と言われてたけど」
(41)
「あれが、もう底をついちゃってて」(41)
「僕がプロデューサーやってるかぎり不可能だったんですね(笑)」(30)
「いろいろみんなとも話して、そのとき『本気出してやろうか』って言ったような気がするんです」
(1)
「ここで真価を発揮しようじゃないかっていうことを、みんなで言ってたような気がするんです。それがのちに『BGM』になるんですけど」(1)
まあ、すぐにはできなかったということですね」(1)

ジングルY.M.O.
「作った本人たちもあまり聴いていないロゴみたいなもんですけど、ジングルから始まるということをやってみたかったんです。これは教授が作ったものです」
(8)

ナイス・エイジ
「幸宏の歌をフィーチャーして、かなりニューウェーブっぽい仕上がりになっています」
(8)

タイトゥン・アップ
「『タイトゥン・アップ』は、前後のコントを含めて、欧米の大人たちを喜ばせたわけですね。これをきっかけに、外国人の大人たちが初めてYMOを聴き出し たんです」
(8)
「実は日本でウケてるよりも、イギリスやアメリカの友達のほうが反応が強かったんですね、コントの反応が」
(1)
「日本人のオチンチンはちっちゃいという、あのジョークはかなり出回ってましたね、外国でも。そういうような、自分たちをおちょくるようなジョー クを言うバンドとして、特にイギリス人の感覚をくすぐったところがありますね。彼らはああいうものが好きですから」
(8)

スネークマン・ショー(ミスター大平)
「遊びのつもりで入れたんだが、その直後に大平(編注:正芳)さんが亡くなってしまった」
(42)

シチズンズ・オブ・サイエンス
「個人的に聴くと、いちばんニューウェーヴっぽい音楽だなと。テクノ・バンドから逸脱して、ニューウェーヴのサウンドになったころ」
(8)

マルティプライズ
「YMOがいちばん景気がいいころですね。勢いがあるというか、あんまり考えなくて済んでいる。ですから、演奏も肉体的な、珍しいものですね。思い切り伸び伸びと演奏してますね。シーケンサーに縛られずに、解放されている。珍しい1曲」
(8)
「サウンドは、もろスペシャルズのスカの影響です。ただやってるだけで面白かったんです。反射神経だけでやってたような時期で」
(8)
「それが取り柄でもあり、弱点でもあるかも知れない。そういう意味では、思いつきがすべてなんです。その皮膚感覚というか、思いつきの喜びがYMOを作ってきたようなものでね」
(1)
「『荒野の七人』を入れたのは、スカの伝統的なやり口のひとつだと思うんですね。ただの引用なんで、敬意を表してるに過ぎないんですが、気楽にそれをやっ たんですけど、シリアスなクレームがつきましてね。頭にきました(笑)。作曲者のエルマー・バーンスタインはしっかり者ですから」
(8)

スネークマン・ショー(若い山彦)
「対談のところだけアレンジして自分たちが役をやった」
(28)
「YMOが加わっただけであって、基本的にはラジオでやってたやつです」
(30)

ジ・エンド・オブ・エイジア
「最後のセリフが絶妙」
(8)

高橋幸宏の証言
「このLPの制作と、武道館でのコンサートは、時期がオーバーラップしていてね。武道館のあの大惨事の後だっただけに、このLPには思い入れがあって」
(9)
「ちゃんとした音楽アルバムなんですね。それは音楽ありきのギャグだから。そこが逆転していない以上は大丈夫だと」(1)
「桑原茂一という人が、音楽がないとダメな人なんですよ」
(1)
「彼の作り方が、細かいから、とにかく(笑)」(1)
「コンセプトがシリアスなのか、ただほんとに冗談だけなのか」
(9)
「自分たちでも、両方にとれるの。どっちでもいいんです」(9)
「押しつける気はないしね」(9)
「作った側から、こじつけて言うなら、表現方法に柔軟な面白さを加味してるけど、コンセプトは実にシリアスだ、というような意見が出てくるんじゃないかな」(9)
「小・中学生のファンの人たちには不親切になるかもしれないと思ったんですけど、ぼくたちとしては、一回、自分たちを白紙に戻したかったというのはありますね」(9)
「ユキヒロ色が強いとか言われましたが、YMOが細野さんのプロデュースするバンドであることは、こだわりとか、葛藤とかをボクや教授が持っているにしても、現実的にはゆるがない事実です」(43)
「ボクが個人的に、スネークマン(桑原茂一)と仲が良かったということはあるけれども、最終的なまとめ方やギャグの使い方、そして音楽の質は細野さんのものだしね」
(43)
「結果になったものが、YMOだし、細野さんのプロデュースしていることが、YMOの音を作っていくうえでは一番いいとボク自身は思ってるんです」(43)
「『増殖』がいきなり1位になって、『ソリッド〜』も再び順位が上がってまた1位に成るんだけど、1stも上がって、ベスト10に3枚チャートインしたんだったかな」
(13)
「その頃になると、もう普通には街を歩けませんでしたね。当時は120〜130万枚の売上だったと思いますが」
(13)
「もう、街を歩くとどこに行ってもYMOがかかっている感じです」(13)
「こうなるとこちらはすごく屈折した考え方になっていってね。当時教授とよく話していたのは、好きな音楽でやってい きたい、売れちゃうと好きじゃない音楽をやっているのかもしれないということでした。そこで敢えて、実験的なことをやりたいと思っちゃうんですよね。それ がアルバム『BGM』になるわけなんですけれど」(13)
 タイトゥン・アップ
「"ジャパニーズ・ジェントルマン・スタンダップ・プリーズ"というコンセプトはね、彼(編注:桑原茂一)のギャグの中から生まれてきたわけです」
(9)
 マルティプライズ
「僕、セレクターがすごく好きだったんです」
(1)
「セレクターに『トゥ・マッチ・プレッシャー』という曲があるんですが」(32)
「細野さんもすごく好きで、『じゃあ、あれみたいなのをやろう』って、作った曲なんですね」
(1)
「聴くとそっくりですよ」(1)
「もちろん曲の感じは違うんですが、音色というのかな、ドラムのスネアのカンカンな感じと、細野さんがベースをピックで弾いている感じとかがね」
(32)
 スネークマン・ショー(若い山彦)
「興味深いでしょう。(笑)」
(9)
「やっぱり、多少はまわりの空気というか、日本の音楽評論家やアンダーグラウンドな連中の攻撃の影響もちょっとあって。だから、スネークマン・ショーで評 論家のネタをやったのも、それに対する意図もあったんですね。『いいものもある。悪いものもある』。あれって、明らかに誰のことを言ってるのかわかります もんね(笑)」(1)

坂本龍一の証言
「(編注:ギャグは)ラジオのスネークマン・ショーで放送したのをそのまま使ったり、アレンジして使ったりした」(9)
「何十本とあるテープを聞いて、その中から、時間との関係で、LPに収録した4つを選び出した」(9)
「逆にギャグのコンセプトに合わせて、流れを作っていったわけ」(9)
 ジングルY.M.O.
「100%僕が全部作ったわけじゃないと思う」
(1)
「この『カチカチさ』って、カッコいいっすよね。なんか『作りもの』って感じで。」(44)
 タイトゥン・アップ
「改めて細野さんとユキヒロというリズム隊のすごさを思い知らされますね。」(44)
「前後の英語のギャグはラジオから流れたもので、曲のほうはそれに近づけてる」(28)
 スネークマン・ショー(若い山彦)
「秀逸でしょう。(笑)」
(9)
 ジ・エンド・オブ・エイジア
「真性の『街道もの』です。」
(44)
「東海道五十三次っぽい、広重の浮世絵みたいなやつ」(1)
「初期からそういうことをやりたかったので、やったっていう感じですね」
(1)

小池光夫の証言
「やっぱり曲数が少なかったからレコーディングも短かったですね」
(31)
「スネークマン・ショウと一緒にやることは決まっていたので、その部分のコントはラジオでやったテープを持って来て…、あ、"若いやまびこ"だけはメンバーも参加しているんで、新しく録音しました」
(3)
 ナイス・エイジ
「本当にいろんな音が入ってますね。SEの音が『鉄腕アトム』とかになってる(笑)」
(31)

桑原茂一の証言

「『増殖』に収録されているYMOの曲って、それまでの彼らの音楽のイメージからすごく自由になってるじゃないですか」(31)
「音楽的にすごく自由で楽しく遊んでいますよね」(31)
「"マルティプライズ"のような2トーン風のスカもあれば、"タイトゥン・アップ"のようなブラック・ミュージックもある。まさにスネークマン・ショウでかけていたような音楽で、あそこまでやってくださるとは思わなかった。非常にうれしかったです」(31)
「最終曲の"ジ・エンド・オブ・エイジア"なんかにしても、時代劇の大団円のBGMのようなのんびりした曲」(31)
「本当に楽しかったですね。ああ、YMOの人たちって、みんな粋で洒落がわかるんだなあってびっくりしましたね」(31)
「(編注:ギャグは)細野さんたちにこういうのはどうですかってプレゼンをしました。それに対して彼らから"これが好きだ""あれがいい"というリクエストがあり、楽しく進んでいきましたね」(31)
「(編注:ギャグ『KDD』は)海外発売うんぬんよりも、あのギャグに国際性があったから選ばれたんじゃないかと思 いますね。国際性のあるなしって海外発売とは無関係に大切なことだと思いますから。逆に林家三平のものまねみたいに、彼らも三平師匠のものまねが好きだっ たからなんていう単純な理由で収録されているものもあるし(笑)。そういう俗っぽいというか、趣味で選んだものと、ちょっとブラックで時事性のあるものが ちょうどいいバランスになっているんじゃないかな」(31)
 スネークマン・ショー(若い山彦)
「本当は別のもあったんですよ、一緒にやったのが。そちらはちょっと成功しなかったんですが(笑)」(31)
「パンクですよね、精神が(笑)。そういう時代だったんです。私はあの頃、パンクに強烈に影響を受けていて、ひょっとしてそういう個人的な嗜好が突出したのかもしれませんけど」(31)

鋤田正義の証言
「この企画にはスネークマンショーなども関わって、楽しむためのものになっているんで、それで細野さんもコマーシャルのポスターだけどジャケットに使おうみたいなノリだったですね」(21)
「ジャケットに使われるってことを、ぼくはレコードが出る直前まで知らなかったんです」
(12)
「びっくりしました」(12)
「フジフイルムってそのあたり寛大だったんだなって思いますよ」(12)
「とにかく遊び心に富んだアルバムだったですね」(12)

上條喬久の証言
「ポスターのシリーズはレコードジャケットの写真から始まったのである。」(13)
「今度は逆にポスターの写真がレコードジャケットの写真となったのだ。巡り巡って大いなるループとなって最初と繋がった。こんな体験は初めてであった。何か不思議な縁を感じる。」
(13)

ピーター・バラカンの証言
「YMOの一枚目、二枚目は嫌いだったんだよね。
僕は機械のノリに弱かったし、YMOの音楽はすごく自意識過剰な気がして興味をもてなかった。『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』ってアルバムもどうにも苦手で」(45)
「軽薄で大っ嫌い。ああいう軽薄なポップって僕は嫌いだから」
(46)
「シンコー・ミュージックにいたころに『マルティプライズ』を聞いて初めて面白いと思った」
(46)
「スネークマン・ショウもあったし、YMOの音楽も変化を見せていて、これはちょっとおもしろいかなと感じ始めてはいた」(45)
「『エンド・オブ・エイジア』とか『ナイス・エイジ』とか変わりましたよ」
(46)

1980/06/05 『週刊明星』6月22日号(集英社)発売。
イエロー・マジック・オーケストラ インタビュー/Y・M・Oが初めて語った本音

1980/06/09 22:00 FM東京『セレクテッド・アーティスト1980』放送。
DJ:山田康雄、ケイ・アンナ

イエロー・マジック・オーケストラ
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 ライディーン
 ラジオ・ジャンク
 ナイス・エイジ
 ソリッド・ステート・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 ※1980/05/07@東京厚生年金会館 大ホール

1980/06/11 『ヤングレディ』(講談社)発売。
取材記事/イエロー・マジック・オーケストラ 変幻自在のサウンド・トリップを生み出した男たち
※編注:号数不明。

1980/06 『テクノ・ボーイ』(双葉社)発売。
インタビュー
イエロー・マジック・オーケストラ インタビュー/ジャパニーズ・ジェントルマン・スタンダップ・プリーズ、THIS IS YMO
アンケート

1980/06/16 22:00 FM東京『セレクテッド・アーティスト1980』放送。
DJ:山田康雄、ケイ・アンナ

イエロー・マジック・オーケストラ
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 千のナイフ
 東風
 ザ・コア・オブ・エデン
 ※1980/05/07@東京厚生年金会館 大ホール

インタビュー

1980/06/20 『プレイヤー』7月15日号(プレイヤー・コーポレーション)発売。
イエロー・マジック・オーケストラ インタビュー/文句言わないで聞いてほしい。楽しんでもらえなければゴメンナサイ。

1980/06/21 イエロー・マジック・オーケストラ「ライディーン/コズミック・サーフィン」発売。

1980/06/21 高橋ユキヒロ『音楽殺人』発売。
悲しきブルーカラー・ワーカー:compose, bass
ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ:bass
ミラーマニック:bass
ザ・コア・オブ・エデン:bass
高橋幸宏の証言
「『MURDERED BY THE MUSIC』というタイトルを思いついて、それで細野さんに『音楽殺人』ってタイトルにしようと思うんだけどって言ったら、『それ、いい』って言ってくれた」
(16)
 悲しきブルーカラー・ワーカー
「細野さんを僕の自宅へ呼んで、出来上るまで帰さなかったという、謂わくつき」
(27)
「いちばんこだわった」
(16)
「バグルズの影響なんですよ。セブンスを使ったりして、細野さんが非常に上手く作って。コード転調やメロディーがちょっとシックスティーズなんですよね」(16)
「あの曲の気分は悲しいんですよ。ウチの家業だったバズショップが倒産しかけてたころで、だから『会社は辛いなあ』ってセリフが入ってるし(笑)。本当はホワイトカラーの辛さのことを言ってるんだけど」(16)
 ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ
「"ダイアナ・ロスとシュープリームス"の大ヒット曲。モータウンのホーランド兄弟の作品です」
(27)
「"スカ"のリズム」(27)
「サンディ、カルメン、ホセの3人のコーラスに支えられて、幸宏、気持ちよく唄っております。曲中のステップの音、トノバン(加藤和彦氏)、教授、憲司、幸宏ものっています。」
(27)
 ミラーマニック
「当時、ロンドンから友人に送ってもらったテープに、口笛で始まる曲があって、そのイメージで僕が勝手に作った曲」
(16)
「全体にMC-8をフィーチュアして、音はちょっとソフト・さわやか・アルプスのなんとか風なのですが、それでいて、気持ちの悪い内容です。細野さんのベース、憲司くんのギターが心地よく、途中と最後のガラスの割れる音は、本物であります。」(27)
 ザ・コア・オブ・エデン
「イントロはヘリコプターの音で始まります。」(27)
「『ヘリコプターの音を入れたい』っていうんで、5時間ぐらいかかって作ったんですよ。別にヘリコプターの音を録ってきていれりゃあいいのに」(16)
「ドラムは六本木のスタジオで録ったんですが、そのとき、長いエコーをドラムの音にかけて、わざとゲートで切ってみたんです。のちにこの手法が一般化して、ゲートエコーという言葉があるくらいですが、当時は、まだ珍しくて」
(32)
「ドラムの独得のきれるエコー、MC-8+ムーグ3Cのストリングス、教授のアコースティック・ピアノ、細野さんの重いベースなど、聞きものが沢山ありま す。そして何よりも憲司君の悲しいオブリガードとワイルドなソロは、最後にふさわしく盛り上り、最高だと思われます。幸宏のボーカルも、この曲の歌詞を表 現しようと頑張っております。」
(27)

1980/06/21 ベンチャーズ『カメレオン』発売。
オクトパス・ツリー:compose
オクトパス・ツリー
「これぞベンチャーズだろう、というサウンドは把握していた訳です。聴きこんでましたから。だから彼らもきっと演奏し易かっただろうと思います。イメージ通りに演奏してくれていて嬉しかったですね」
(47)

1980/06/21 喜納昌吉&チャンプルーズ『ブラッド・ライン』発売。
アキサミヨー:synthesizer
イヤーホイ!:synthesizer
ヤンバル:synthesizer

1980/06/24 『月刊明星』8月号(集英社)発売。
対談/YMO ADLIB TALKIN' 一触即発 細野晴臣 × 谷岡ヤスジ

1980/06 シーナ&ロケットとのミーティングを兼ねて『ラモーンズ VS シーナ&ロケット』観覧。高橋ユキヒロが同行。渋谷/PARCO西武劇場。

鮎川誠の証言
「幸宏と細野さんがラモーンズと一緒に演りよう西武劇場に見に来てくれて、リハーサルが終わって、打ち合わせして」(48)

※編注:6月27〜29日に3日連続で行われた公演。細野晴臣の観覧日は特定できない。

1980/07/05 イエロー・マジック・オーケストラを起用したフジ・カセットのTV-CM「YMOシャツプレゼント」篇、放送開始。

高橋幸宏の証言
「CMの夏編ということでね、僕がデザインした、シャツをプレゼントしますという。かなり僕たち もCMに慣れ、かなり楽しくやってた頃ですね。まあこれ不織布という、あの紙で、えー作ったシャツなんですけども、えーディーヴォの制服なんかも同じ素材 ですけれどもね、ああいう、あー素材でなんか作るっていうのが、まあ、面白かった時代ですね」(15)

1980/07/05 18:00 グルジェフ舞踏 公開パフォーマンスを観覧。赤坂草月ホール。

1980/07/10 『文藝春秋』8月号(文藝春秋)発売。
インタビュー/同級生交歓 西岸良平 細野晴臣

1980/07/10 『中一時代』8月号(旺文社)発売。
イエロー・マジック・オーケストラ インタビュー/世界にふきあれるイエロー・マジック・旋風

1980 ラジのレコーディング。

※編注:アルバム『真昼の舗道』のセッション。7月11日〜9月3日の期間に行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。

1980/07/14 『アドリブ』8月号(スイングジャーナル社)発売。
寄稿/YMO細野晴臣による「イーティン・プレジャー/SANDII」うつろ目解説

1980/07/18 西ドイツ/ベルリンに出発。

加藤和彦の証言
「自分自身のレコードを作る時は、アルバムのタイトルのコンセプトに関係あるところで、レコー ディングしてるのね。それはなぜかっていうと、レコードっていうものは、こう、買って聞くでしょう。すると音が出てきますよね。その音だけじゃなくて、音 の背後にあるものが好きなんです。たとえば本だと行間を読むってことばがあるでしょ、単に活字だけじゃなくて。音だってそうなんだよね。なんかそういう奥 行きがないと」(49)
「そういう気配、匂いとか香りをレコードに入れるにはさ、音そのものは、東京でレコーディングしようが」(49)
「ロンドンやニューヨークやベルリンだろうが、まあ、好みの問題であって変わらないと思うのね。でも、レコードの裏にある、というか、ミゾとミゾの間にあるね、匂いとかさ、空気とかさ、気配というものがすごい違うんだよ」(49)
「なんていうか精神力みたいなものが不思議に入っちゃうんだよ。音楽をはじめたばかりのミュージシャンにとってはそ んなこと関係ないと思うけど、だけど細野さんたちの場合は完璧になんでも表現できるから、気配までも表現できるわけ。そして、みんなの意気がビシッと合っ た時には、恐いっていうか、恐ろしいっていうか……。僕たちが恐ろしいっていうのは美しい意味で使っているんだけども……(笑)、そういう気配が出ちゃ う。僕はそういう意味で、いろんな場所へ行くのが好きなのね」(49)
「みんないろいろ背負ってるわけよね」(50)
「その頃でさえ『大先生』やってるわけ。ところが、外国へ行っちゃうと普通の人になってプレイできる。これがすごい差が大きいんだよね」
(50)
「アルバムのテーマにあった録音場所や人材が必要なのね。僕にとっては映画を作っている感じ。まず、出演者を選んで、たとえばベルリンにロケに行っちゃうわけ。そこで『みなさんハイ、演技しますよ!』というと、やっぱり演技しやすいじゃない」(49)
「直接的なきっかけは、ポンピドー・センターで、パリ←→モスクワと、パリ←→ベルリンっていう展覧会があったでしょ、美術関係の。で、それは直接的には見てないんだけど、そのカタログを友達が持ってて、見せてもらったのね。そうすると非常に、パリ←→モスクワ←→ベルリンっていうのが、ある種つながっているのね、精神的にね。それでドイツのもろもろの美術関係の本を読んだり見たりしてると、非常に触発される部分が多くて」(49)
「それまではドイツなんて見たいとも思わないし、あまり関心をもたなかったんだけど、なんか非常に関心をもつように なって」(49)
「ベルリンの一九二〇年代かな、興味を持って、山ほど本を買ってきて」
(50)
「で、ちょうどその時クラフトワークが、『TRANS-EUROPE EXPRESS』を出したりして、ドイツにはこういうことをやってるのがいるんだなあ、というようなね。それが直接的な引き金っていうか」
(49)
「僕の中にずっと前からあるテーマなんだけど、戦後っていうことばが僕は非常に好きっていうか、なにか印象が深くて。なんで戦後かというと、僕の生まれたのが一九四七年なのね。まあ、戦争直後の一番人数の多い時なんだけども」(49)
「僕がやってるような音楽をみると、僕以上の年齢の人っていないわけ。僕らがちょうど上限かなあ。歌謡曲とかね、ク ラシックとか、違う分野だったらいるんだけれどもね。僕らがもっているいろんな物事の感じ方だとかね、物の作り方だとか、生き方みたいなものっていうの は、見本っていうか、規範となる人がいないわけだ。僕らの上っていうと、すぐ焼跡派とか違うのになっちゃうでしょ。そういう人たちが書いたりしたものを読 んでても、あまり感激も感動もしないしね。明らかに違う世代だと思う。そういう中で僕は物を作っているわけでしょ。と、いつもぶちあたるのは、日本の歴 史っていうことになってしまう」(49)
「そういうことの諸々の状況が戦後ということに象徴されてて、だから戦後っていうのが常に、潜在的なテーマなのね。で、」(49)
「ベルリンの動機と結びついたというか」(49)
「ベルリンっていうのは、ある種ヨーロッパの一番本質的なところをもった都会だと思うし、戦争とも関係するしね。ベルリンへ行くと、なにかがつかめるんじゃないかな、というものがあって」(49)
「バハマでレコーディングしてた時も、ドイツへの興味ってのはもうあったわけ。ベルリンのことをいっぱい調べたわけ じゃないけれども、自分の中でたまってきたもので作りたいのね。聞く人にとっては、僕がベルリンで録音しようと、僕がいろんなところに旅行しようと、たぶ ん関係ないと思うのね。でもそういうことによって生まれるものが必要だし、それをまあ僕自身がしたいから一生懸命やってるだけで。それをなにか変ないい方 をしちゃうと趣味と実益をかねてるって、よくいわれるんだけど、そうではなくてそういうことをしてこそ作れるものだっていうことをね、あんまり取り上げて くれないんだよね。いわゆる評論家ってことではないけど」(49)
「YMOの三人と大村憲司が行くはずだったの」
(50)
「幸宏とフランス飯屋で、明日ベルリンに行くけど、あっちはうまいものないから食べようよって食べてたの。そしたら電話で『すみません、坂本が体調が悪くて行けなくなりました。代わりに矢野が行きますということですが』って」
(50)
「でも、『いいやあっこちゃん来るなら』。で、あっこちゃんが本当に来てくれて」(50)
「急に不思議な組み合わせになった。だって変わってるよね。幸宏に憲司にあっこちゃんに細野さんに僕っていう。結果、すごい面白い組み合わせで良かったんだけどね」(50)
「みんな感受性がすごいから、ベルリンに行った途端に笑顔が消えちゃった」(50)
「僕らがイメージしてるベルリンってありますよね。壁があって、なんとなくあまりあったかいとこじゃない、冷たく、寒いところかな、っていうとこが。まさにその通りのところだったのね。予想以上に街がもってるテンションっていうのかな、それが非常に強力だった」
(49)
「ベルリンの中心部にあるクアフュルステンダムに滞在したんだけど、まだ東西冷戦だから、街を歩いていても緊張感があった」
(51)
「西ドイツの都市なんだけど、未来っていうものがあんまりないとでもいうか……」
(49)
「細野さんだけ喜んでいたな。細野さん、空港に着いて開口一番、空港が赤と黒で、車も幾何学的に停まってるんだよ ね。『あっ、構成主義』。いきなり車見て、確かに車はそう停まってる。色もすごいの、『あっ、全部クラフトワークじゃない』。結構のってるわけよ。幸宏は なんか暗いのを察して、『トノバン、帰りたいよ(笑)』」(50)
「ベルリンだからよけい暗くなっちゃうのね」
(50)
「あっこちゃんは『どうもすみません』みたいな。憲司は憲司で、一人知らん顔。そんな感じだから ね」
(50)

折田育造の証言
「加藤がパパ・ヘミングウェイの終盤で、『うたかた〜』の構想みたいなことを言い出してたと思いますよ。まあ、ざっくり、次はドイツ、ベルリンで録りたいってことだったのですが」
(37)
「YMO+大村憲司でドイツに行く予定でブッキングしてたんですね。でも直前になって坂本くんが急病ってことで行け なくなって。そうしたら矢野顕子ちゃんが『私が行きます!』って立候補してくれたという。この時期のYMO+憲司はスケジュール的には超ヘビーだったはず ですよ。YMOでワールド・ツアーの準備とかしてましたからね。その隙間を縫ってベルリンに集合したのです」(37)
「夏に行ってるのだけど、なんだか寒かった印象がありますよ。この80年夏というのはモスクワ五輪だったけどボイコットが相次いだから全然盛り上がらなかった時でしょ」
(37)

1980 加藤和彦のレコーディング。ベルリン/ハンザ・スタジオ。

「僕も参加したんだよね」(52)

加藤和彦の証言
「曲は日本で作って行って」(50)
「ボウイも使ったことのあるハンザ・スタジオでのレコーディングだった」
(51)
「まだ有名になる前のマイケル・ツィマリングがエンジニア」(51)
「スタジオには八〜九時間いるんだけど、実際の演奏は一時間くらい。なにか抵抗なくOKになっちゃうんだよね。あとは食べたりして遊んでるわけ」(49)
「不可解なレコーディング」
(50)

折田育造の証言
「ミュージシャンは毎度のことながらウマかった。あっという間ですよ、録音は。この時も加藤が概略を説明し、少しリハしたらすぐ録音だもの」
(37)
「録音エンジニアリングはまだ若き日のマイケル・ツィマリングが担当してくれたのですが、彼は非常によく働いてくれて助けられました」(37)

※編注:アルバム『うたかたのオペラ』のセッション。細野晴臣は8月上旬までの日程で参加。

1980/07/21 サンディー『イーティン・プレジャー』発売。
アイドル・エラ:produce, compose, arrangement, engineering, mix, all instruments(except drums)
ラヴ・シック:
produce, arrangement, engineering, mix, bass, keyboards
ドリップ・ドライ・アイズ:
produce, arrangement, engineering, mix, bass, keyboards
シャンティー:
produce, compose, arrangement, engineering, mix
アライヴ:
produce, arrangement, engineering, mix, bass, keyboards, vocals
ヘイ・ロッカララ:
produce, arrangement, engineering, mix, keyboards
イーティン・プレジャー:
produce, compose, arrangement, engineering, mix, bass, keyboards, voice
ジミー・マック:
produce, arrangement, engineering, mix, all instruments(except drums)
ズート・クーク:
produce, compose, arrangement, engineering, mix, all instruments(except guitar)
オイノリ:
produce, compose, arrangement, engineering, mix, vocals
「サンディーがデヴィッド・ボウイから『パクられるから気をつけろ』と忠告されたという曰くつきのアルバム(笑)」(47)
「久保田くんを、通して、伝言もらったよ。ボウイ」
(53)
「『イーティン・プレジャー』が、彼は好きで、『あれ、パクられるよ』と、警告を受けたわけ(笑)」
(53)
「けっこう、いい出来だった」(54)
「東洋にもっともっと近づきたい気持があって、特にインドの歌謡曲みたいな世界を歌える人をずっと探していたんです。英語ができて、ロックが歌えて、しかもドロドロしたものを持っているみたいな。そしたら灯台もと暗しでサンディーがいたというわけです」
(55)
「このアルバムはエポックですね、我々にとっては。サンディーにとってもね。久保田くんも同じように変わり目の時期だったんだろうね」(47)
「みんなイギリスからのニューウェイヴの斬新な音楽に触発されて、興奮気味でした」
(47)

アイドル・エラ
「私の曲にクリス・モスデル(back vo)が詞をつけました。アイドルの悲劇を歌ったもの。しかしその意味よりも、全体のサウンドに秘められた哀しさにお気づきでしょうか? この曲はドラムの高橋幸宏君以外、MC-8と私が演奏しました。」
(56)

ラヴ・シック
「久保田麻琴(back vo)とサンディーの共作で、詞はクリスです。」
(56)
「イントロのシンセサイザーは坂本龍一君、ギターは大村憲司君、そしてソロは井上憲一君のギターです。MC-8も入っています。」(56)

ドリップ・ドライ・アイズ
「高橋君の曲。いいですネ。ダブっぽくアレンジしました。このような曲は、ミックス・ダウンがとてもおもしろいのです。高橋君のガイド・ボーカルが実に良いできだった」
(56)
「ちなみにキーボードは私がやりとげました。うまいんですから。」(56)

シャンティー
「これは曲というよりノイズです。どこかの庭で男2人が食事をしています。すると通りの方から食事のためのマントラ(祈り)が聞こえてきます。このマント ラは後でまた登場します。実を言うと、このノイズは、クリス君とレコード会社の水谷君がスタジオのロビーでスシを食べているところをカセットで盗み録りし たもので、何を語っているかは」
(56)
「わかりません」(56)

アライヴ
「きわめつけのウザっこい曲で、クリスの詞に久保田君とサンディーが協力して曲を作りました。曲そのものがウザっこいのかアレンジがウザっこいのか? 実は両方ともウザっこくて、相乗的なウザっこさとなっております。バック・コーラスのおはやしはチャンプルーズの喜納シスターズで本物の大迫力!」
(56)

ヘイ・ロッカ・ララ
「ちょっとニューオリンズっぽいんだけど」
(54)
「サンディーならではの迫力です。」(56)
「彼らの友人、ロニー・バロンの原作をしのぐできばえ」(56)

イーティン・プレジャー
「3年前(編注:1977年)に作ったモチーフがヒョンなきっかけでこの曲につながりました。もともとのアイディアは、エクサイターズとかトーイズのよう な女性黒人ボーカル・グループを想定して作ったのですが、スカ・ビートとサンディーの歌におきかえても多少そのニュアンスは残っています。タイトルナン バーとなっていますが大したことはないんです。」
(56)
「サンディーによりますと『イーティン・プレジャー』とは、"美しくなりたいために余計なぜい肉を落とすダイエット を必死でやった後、世の中の食べもの全てがほんとにありがたく、おいしくいただけるので、また太るまで食べる、イコール、抑圧されていた世界から解放され たように自由に歌うこと"だそうです。」(56)

ジミー・マック
「懐かしきモータウン・サウンドからマーサとバンダラスの大ヒット曲を取りあげました。高橋君も『音楽殺人』で<ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラ ブ>というシュプリームスの大ヒット曲を、まるで申し合わせたようにやってますが、実を言うと、申し合わせたのです。この曲のアレンジで注目してもしなく てもいいところはリズムです。これぞ我が秘伝、1拍子のリズム」
(56)
「ところで山本翔(vo, g)が"この曲イイネ!"と言っていましたが、"でも原曲聴いたらもっとイイネ!"とも言ってました。私はそうは思いません。こっちの方がいい、ワルイけど。」(56)

ズート・クーク
「作詞がクリス・モスデル」
(57)
「個人的にはとても好みのシチュエーションを持つ詞で、<ズート・クーク>とはイギリスで黒い背広のことを言うらしいです。その服を着た、つまり普通の男 とエスカレーターですれちがうのだけど、どうやら彼は異星人で、テレパシックな余韻を女性に残して去っていく。その間の描写がクリス君ならではです。曲は 私で、ジョージ・ハリソン風テクノ・モータウンといったところです。ここでのドラムはなんと人間がたたいてるのではありません。コンピューターがコント ロールしているのです。」
(56)
「ドラムスはたぶんムーグを使ってます」(57)
「間奏のサイケなソロもコンピューターです。」(56)
「ギターが、大村憲司だったんじゃないかな」(57)
「エンディングでクリスが"また会いましょう"と歌っていますが、"マータ・ライマ・ショ ウ"と聞こえます。」(56)

オイノリ
「これは本当のお祈りで、ダラニ、呪文、マントラともいい、インドのサンスクリット語です。このマントラは赤坂のインド料理店のチーフ・マネージャーであ るマニール・チョーカルさんから教えていただき、スタジオまで一緒に来て、となえてもらいました。このレコーディングはなんと6時間もかかり、サンディー はトランス状態でお祈りしてました。このトラックは実際に効果があり、久保田君が腹痛の時、このお祈りを聞いているうちに治ってしまいました。」
(56)

サンディーの証言
「細野さんほとんど、『イーティン・プレジャー』は、ご自分のソロのつもりで、私の歌を乗っけただけで作ってくれた、アルバムだからほとんどソロ・アルバム、みたいなもんだったんじゃないですか」
(53)
「すごい細野さんの世界、が、なんかキラキラしてて、あの水面の、あの、こう、光みたいな、印象を、受けるんですよ」(53)

高橋幸宏の証言

 ジミー・マック
「ぼくがドラムを叩き、アルバムのプロデューサーの細野さんがベースを弾いて、二人でリズムを担当した」
(32)
「細野さんと、ちょっとスカっぽいのをやりたいねということで、やっていくうちにニューオーリンズのリズムみたいになっていった」
(32)
「しかも、それがもっと進んでいくと、沖縄のリズムも混じった感じになった。沖縄のリズムとニューオーリンズのリズムは、そうやって共通するところがたくさんあるんです。ぼくたちは、一拍子と呼んでたんだけど、一拍の中に裏がある」(32)
「だから、弾みながら、ツッタ、ツッタ、ツッタ、ツッタとなっていく」(32)
「それも、訛りながら弾んでいく感じで、そこが、沖縄の音楽の面白いところです」(32)

1980/07/21 大貫妙子『ロマンティーク』発売。
カルナヴァル:bass
ディケイド・ナイト:bass
若き日の望楼:bass
ボヘミアン:bass
新しいシャツ:bass

1980/07/21 坂本龍一「ウォー・ヘッド/レキシントン・クイーン」発売。
ウォー・ヘッド:bass(synthesizer)

1980/07/22 加藤和彦のレコーディング。ベルリン/ハンザ・スタジオ。
ルムバ・アメリカン
50年目の旋律

1980/07/24 『月刊明星』9月号(集英社)発売。
選盤/YMOのお好みレコードアンケート調査報告

1980/07/29 イエロー・マジック・オーケストラ「X∞MULTIPLIES』アメリカ発売。
Nice Age
Behind The Mask
Rydeen
Day Tripper
Technopolis
Multiplies
Citizens of Science
Solid State Survivor


1980/07/30 『ラジオマガジン』9月号(モーターマガジン社)発売。
インタビュー/今、これだけは伝えておきたい

1980/08/01 加藤和彦「おかえりなさい秋のテーマ - 絹のシャツを着た女/サンサルヴァドール」発売。
おかえりなさい秋のテーマ - 絹のシャツを着た女:bass

1980 YMOの次作のタイトルとして『BGM』を発案。西ドイツ/ベルリン。

「ベルリンに行ってる時、ユキヒロとこれにしようと決めてたんです。たまたま教授がいなくて決定はできなかったけれどね」(43)
「YMOをイルカに聴かせたら、イルカが逃げたっていう話があって。あと、ドイツに行ったときに、YMOの音楽が好きで、聴き過ぎて精神病院に入ったやつ がいたとか、ネガティヴな話をいっぱい聞かされたんですよ。入り込むとそういうことになるかもしれないと。でも表層的に聴いてると、YMOの音楽って、な んの毒もないような音楽かもしれないでしょう。だから、ヴォリュームを上げないようにして聴いてほしいと」
(1)
「スタジオで作ってるときは、フル・ヴォリュームでモニターして、耳がぶっ壊れるぐらいの音で作ってるわけです。だから、それぐらいのヴォリュームで鳴らすことで再現できる。でも、それは危険なんだよと、あえて表明しようと思ったんですね、子供たちに」(1)
「入り込むのは危険だと」(1)
「だから、聴くときには距離を置いて、BGMのように聴いてくれと」(1)
「全部裏返しで付けてますから。裏を読み取ってくれというメッセージなんです。ただじゃ済まされないよっていう挑戦なんですよ、聴く人にとっても。そこまで汲み取ってくれれば、ある理解に達してもらえる確信があるわけです」(1)

1980/08 西ドイツ/ベルリンから帰国。

「ベルリンというと退廃的なイメージがあったんですよね。ニナ・ハーゲンが出てきたり、ボウイやルー・リードがレコーディングしたりという。ところが街全体がすごく牧歌的で……チロリアンて言うとおかしいけど、景色についてだけ言えばそうなんです」(55)
「ただ、週末になると、街中に、どこからともなく若い人があふれ出してきて、昔のヌーベルバーグの映画みたいな雰囲気になるんです。それがこう、ディスコなんかにたむろしてて、じーっと押し黙ってしゃべらないんですよね。あれは無気味だった」
(55)
「だから街自体は民芸調で、のどかな風景なんだけど、奥底に退廃が横たわっているみたいな感じで、それと、ベルリンの壁がやっぱりとても不自然で、なんとなく登りにくい、越えられないという点が非常に象徴的でしたね」(55)
「レコーディングは、ほんと成功したみたいね。あんなにうまくいくとは思わなかったな」(49)
「ベルリンということから出てくる、ヨーロッパの暗い部分がすごくいい影響を与えたんじゃないかな」
(55)
「集中してやれた」(55)
加藤氏自身もそう思ってると思いますよ」(55)
「東京でやると、あんな風にはなんない」(49)
「散漫になっちゃう。それがまた、軽薄でおもしろいけど」(49)
「基本的にスタジオにこもりっきりだったんだけど、たまに街に出て食べたゴハンがマズかった。なんか、薄い塩味のゆで豚ばかりで……。他には、おイモとソーセージとキャベツの酢漬けを食べたような気がするけど、あんまり覚えていないな」
(52)
「アッコちゃんはえらい。おかあさんのニオイがする。ベルリンではとうとう手をつないで歩いてくれなかった。どうしてなんだろう。いやなのかなやっぱし」
(58)

加藤和彦の証言
「テンションが高かったな」
(50)
「毎日暗〜いの。写真もあったんだけど、暗い」
(50)
「地下鉄駅で細野さんと幸宏たちと記念撮影したモノクロ写真が残っていて、幸宏のサングラスがYMOでよくかけていたやつで」
(51)
「あっこちゃんがいちばん活躍してくれた。みんなの盛り立て役」(50)

折田育造の証言
「矢野顕子ちゃんは終始明るく、パワー全開という雰囲気でしたね」
(37)

1980/08/11 大滝詠一のレコーディング。CBSソニー六本木スタジオ。
雨のウェンズデイ:bass
Niagara CM Special Theme:drums

1980/08 イエロー・マジック・オーケストラ「X∞MULTIPLIES』イギリス発売。
Technopolis
Absolute Ego Dance
Behind The Mask
Computer Game "Theme from The Circus"
Firecracker
Snakeman Show
Nice Age
Multiplies
Snakeman Show
Citizens of Science
Tighten Up(Japanese Gentlemen Stand up Please !)

1980 スネークマン・ショーのレコーディング。

「あるとき、スネークマン・ショーのラジオがもう終わっちゃうと彼(編注:桑原茂一)が言ってき たわけです。『え、終わっちゃうんだ』と。僕はファンでしたからね。次は何も決まってないというんで、もう聴けないんだというそのときの想いが、あのアル バムを作らせたんですね。残そうよ、やろうよということで」(1)
「エイドみたいなもので、それでまた続けばいいなと思ってたんです。本当に好きだったんですね」(1)

梅林茂の証言
 RE-MAKE/RE-MODEL
「EXも参加してよって誘われて、企画ものだし、カヴァー・ヴァージョンをやるのが面白いだろうと思って、これを録音したんです。プロデュースは細野さん」
(59)
「ライヴでもやってたし、アレンジの方向性も見えてたから。これはいいものができたって細野さんも喜んでくれた。終わって六本木の『東風』ってレストラン で盛り上がりましたね。でも、リリースの段階になって所属事務所からクレームがついたんです。『オリジナルじゃないとダメだ』ってことで、結局アルバムに は収録されなかった」
(59)

※編注:細野晴臣プロデュースのEX「RE-MAKE/RE-MODEL」は、のちにEXの未発表音源集『EX2』(2000年)に収録され陽の目を見た。

1980/08/18 19:15 NHK-FM『サウンド・オブ・ポップス』放送。
共演:糸井重里、高橋幸宏、坂本龍一
※編注:イエロー・マジック・オーケストラ特集。

1980/08/19 19:15 NHK-FM『サウンド・オブ・ポップス』放送。
共演:糸井重里、高橋幸宏、坂本龍一
※編注:細野晴臣特集。

1980/08/20 加藤和彦と対談。

※編注:同年9月28日発売の『スタジオボイス』11月号に掲載。

1980/08/20 『ホットドッグ・プレス』取材。

※編注:詳細不明。

1980/08/20 19:15 NHK-FM『サウンド・オブ・ポップス』放送。
共演:糸井重里、高橋幸宏、坂本龍一
※編注:高橋幸宏特集。

1980/08/21 シーナ&ザ・ロケットのレコーディング開始。芝浦/スタジオ'A'。

鮎川誠の証言
「『チャンネル・グー』のためのレコーディング・セッションっていうのは、きっちり予定が組んであったよ」
(60)
「YMOは、ものすごく忙しい大スターになっとってね」
(60)
「細野さんも、忙しかったり、昼夜逆さまになってたり。その代わり、幸宏が名プロデューサーぶりを発揮してくれたよ」(60)
「幸宏が本当にようスタジオで面倒見てくれたんよ。同じドラムスの川嶋のこともよう気を使って面倒見てくれてね」(2)
「『ホット・ライン』とか『デッド・ギター』は、『チャンネル・グー』を録るっていう時に、ババーっと作ったもんね。『グッドラック』も何となく作って。『浮かびのピーチガール』『ベイビー・メイビー』『キス・ミー・クイック』は、細野さんたちが持ってきて、同時進行」
(60)

シーナの証言
「幸宏さんは意外にタフだった(笑)。あの頃、細野さんは生活が昼夜逆転してたから昼間は来ないで、幸宏さんがずいぶんとアシストしてくれてたわね。細野さんも夜中は元気だったけど(笑)」
(2)

※編注:アルバム『チャンネル・グー』のセッション。9月10日頃までの予定で始められており、YMOのワールドツアー『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル開始までには終了したものと思われる。

1980/08/21 19:15 NHK-FM『サウンド・オブ・ポップス』放送。
共演:糸井重里、高橋幸宏、坂本龍一
※編注:坂本龍一特集。

1980/08/22 19:15 NHK-FM『サウンド・オブ・ポップス』放送。
共演:糸井重里、高橋幸宏、坂本龍一
※編注:イエロー・マジック・オーケストラ特集。

1980 大村憲司のレコーディング。

※編注:アルバム『春がいっぱい』のセッション。クレジット上は8月26日からYMOのワールドツアー『FROM TOKIO TO TOKYO』を挟んで12月22日まで行われている。細野晴臣の参加日は特定できないが、YMOファンクラブ会報『Me & Her』no.3(8月21日発行)に記載の細野のスケジュールには8月25日とあり、レコーディング初期の参加であっただろうことは推測できる。

1980/09/01 矢野顕子「ごはんができたよ/ひとつだけ」発売。
ごはんができたよ:bass
ひとつだけ:bass
※編注:初回プレスには、「ひとつだけ」ではなく「ごきげんわにさん」が誤って収録されていた。

1980/09/05 アメリカ盤と同内容のイエロー・マジック・オーケストラ『X∞MULTIPLIES』国内発売。

「輸入盤対策として、アメリカ盤と同じものを日本でも出す、という恥ずかしくもせこいことをやるのがレコード・ビジネスらしいんですが、こんなのまで売れる必要ははっきり言ってありません。」(40)

1980/09/05 福沢もろ「7:00AM/レインボー・スター」発売。
7:00AM:arrangement, bass
レインボー・スター:arrangement, synthesizer

1980/09/08 『ロッキンf』10月号(立東社)発売。
寄稿/今、世界はエネルギーが充満しつつあるのです。そして…

1980/09/13 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル。芝浦/スタジオ'A'。

1980/09/14 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル。芝浦/スタジオ'A'。

1980/09/15 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル。芝浦/スタジオ'A'。

1980/09/16 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル。芝浦/スタジオ'A'。

1980/09/17 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル。芝浦/スタジオ'A'。

1980/09/18 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル。芝浦/スタジオ'A'。

1980/09/21 スーザン『DO YOU BELIEVE IN MAZIK』発売。
モダン・フラワーズ・イン・ア・ブート:bass
24,000回のKiss:bass
Ah Soka !:compose, bass
フリージン・フィッシュ・アンダー・ザ・ムーンライト:bass
グラス・ガール:bass
スーザンのビブラートをリズムに合わせる歌い方が画期的だった」(47)

1980/09/22 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル。芝浦/スタジオ'A'。

1980/09/23 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル。芝浦/スタジオ'A'。

1980/09/24 『コンパル』10月号(立風書房)発売。
インタビュー/MUSICIAN REPORTAGE

1980/09/24 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル。芝浦/スタジオ'A'。

1980/09/25 加藤和彦『うたかたのオペラ』発売。
うたかたのオペラ:bass
ルムバ・アメリカン:bass
パリはもう誰も愛さない:moog
ラジオ・キャバレー:bass
S-Bahn:electronics, percussion
キャフェ・ブリストル:bass
ケスラー博士の忙しい週末:bass
ソフィーのプレリュード:moog, ULT sound
加藤和彦の証言
「いちばん奇妙なアルバム」
(50)
「この変さがベルリンなんだよ」
(50)
「ベルリンのテンションをうまいこと移動できたと思うんだ」(50)
「すごいベルリンの緊張感のなかでできたと思って、僕自身面白いアルバムだと思ってる」(50)

折田育造の証言
「スタジオは壁の目の前にあったのです。だから窓の向こうは東側で、当然兵士が銃を構えてる。壁のあちらこちらに壁を越えようとして亡くなられた人の花が あったり。このアルバムに通底するなんとも言えない雰囲気は、直接現地でミュージシャンがそういう情景と対峙して得たものじゃないですかね」
(37)
「まあそんなだから逆に言えば壁のことは忘れて音楽制作に集中していたとも言えますけど」(37)
 S-Bahn
「当時は外国人は申告すれば地下鉄で東側に行くことができたと記憶してます。『Sバーン』という曲はそこからインスピレーションを得て、現地で行われた即興演奏だったはず」
(37)
※編注:「絹のシャツを着た女」(リミックス)も収録。

1980/09/25 『FMスペシャル』秋号(音楽之友社)発売。
インタビュー

1980/09/25 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル。芝浦/スタジオ'A'。

1980/09 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』に関するミーティング。川添象郎宅。

「最後の世界ツアーに行く前にもうやめたくて、解散を提示していたんです。メンバーも疲れ果てていて、ポジティヴな考えが浮かんでこないし。そういうとき は徹底的に休めばいいんだけど、休んで次に何かやろうというような気力もなかった。理由はいろいろあってね、忙しいだけじゃなくて、消耗していった中で、 メンバー同士のコミュニケーションが取れなくなってきた」(30)

小尾一介の証言

「ワールドツアーの直前って、YMOが社会現象みたいになっちゃって、メンバーは街を歩けないとかそういう状況になってた。教授はそういう状況に本当に参っちゃってて」
(39)
「ツアーもやるかやらないかって、けっこうみんな真剣に悩んでました。海外ではイベンターやA&Mがもう準備を終えてたんですけど、出発の直前、 一週間ほど前に川添さんの家で、川添さん、村井さんと、細野さん、高橋さん、あとマネージャーの大蔵さんとでツアーはやるべきか、いまならまだやめられる とか、そういう話し合いがありました。最終的には大蔵さんが教授を説得するような形でツアーができたんですけど」
(39)

1980/09/27 『MORE』11月号(集英社)発売。
インタビュー/理性と感性の融合を、執拗に追いかける音の狩人

1980/09/27 『スタジオ・ボイス』11月号(流行通信)発売。
対談/いま、ビンビン気配を感じるね。 加藤和彦 × 細野晴臣

1980/09/28 イエロー・マジック・オーケストラを起用したフジ・カセットのポスター「音楽は104番目の元素だ。」バージョン、掲出開始。

上條喬久の証言
「カセット人間と言いますかね、カセット・ロボットと言うか。そういうイメージです」(14)

市田喜一の証言
「カセットテープを何千個かな。大量のカセットを使って組んだロボットを作った」
(2)
「実際にカセットテープのケースを使って組み立てたんですよ。その中に人が入れるようにして」
(2)

1980/10/01 矢野顕子『ごはんができたよ』発売。
ぼんぼんぼん:bass
げんこつやまのおにぎりさま:bass
また会おね:bass
てはつたえる→てつだえる:bass
※編注:「ひとつだけ」「ごはんができたよ」も収録。

1980/10/02 イエロー・マジック・オーケストラ、ワールド・ツアー発表記者会見。有楽町/日本外国特派員協会。

「自分の意志では物事が決まんないわけで、ツアーとかに出なくちゃならない。そういうのは僕には向いてないわけですけど、ただYMOの顔というものがありますから。端っこにいてベースを弾いてる人の顔にならなきゃいけない(笑)」(61)
「本当はYMOにとって、ツアーをやる時期じゃない。東京にいて、スタジオでレコードを作っていたいんだ」(62)
「このツアーのために、早くつくりたい次のLPになかなか手をつけられません。皆もともとツアー嫌いで、その理由は単純に『疲れるから』です。」(40)
「ボクたちメンバー、みんなライブは好きじゃない。できるならレコードだけつくっていきたいと思ってる」(63)
「疲れると大事な大事なレコードづくりに力が入りませんから、そこんとこはメンバーが一番神経をつかいます。」(40)
「孤立した状況の中でやるわけだから、特に負担は重いからね」(64)
「大局的に考えれば、海外ツアーったって大騒ぎすることが不思議なんだよ。ぼくらにしてみればエネルギーがたまったから自然に出てゆくもんでね。ま、先兵みたいな役割りを背負わされてしまった」(62)

高橋幸宏の証言
「メンバーがやろうやろうと進んで(編注:ツアーを)実行したわけではない。」
(65)

小尾一介の証言
「アメリカのA&Mレコードからオファーしてきたものなんです。昨年のツアーのおかげでアメリカ、イギリスなどでレコードが売れ出し、特にイギリ スでは『ファイアー・クラッカー』がシングル・チャートの上位までゆくヒットになりましたからね。これはもう一度ツアーをやる価値があるグループだ、と判 断してくれたのでしょうね」
(62)

1980/10/03 22:30 イエロー・マジック・オーケストラ、成田/新東京国際空港からイギリス/ロンドンへ出発。

「公演地の規模から言っても大変なツアー」(55)
「2日に1回のステージ。肉体的にもギリギリ追い詰められることになると思う」(64)
「会場も、前回はライブハウスだったのが、すべて3000人クラスのホールになりますしね。まあ、Y・M・Oの場合、会場は大きいほうがいいんですけど」
(55)
「アピールしなくちゃいけないと思ってるし、ポシャったらもうあとがないという覚悟」(55)
「一応失敗は断じて許されないという運命に従うつもりですが、それでも成功したらもうけもの、失敗してもともと、の精神で」(40)

高橋幸宏の証言

「わりと心して行くぞっていう感じでしたが、それでも飛行機がイヤでイヤでしょうがなかった」
(26)

小尾一介の証言
「成田に出発するためアルファのロビーでみな集まったとき、本当に教授が来るのかどうかけっこう半信半疑でしたね」
(39)

近藤雅信の証言
「教授が姿を現したときのドキドキ感はいまでも憶えてる(笑)」
(39)

1980/10/04 6:55 イエロー・マジック・オーケストラ、ロンドン著。

1980/10/07 12:00〜19:00 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル。シェパートン/シェパートン・スタジオ・センター Lステージ。

「ヒースローの南にあるシェパートン・スタジオ・シティっていうとこ。『未知との遭遇』を撮った映画のスタジオなんだよ」(66)

松武秀樹の証言
「Setをきれいに組んで、本番と同じようなライティング・リハも同時に行う。初日なので午後7時Up。」(67)

渡邊基行の証言

「映画『スーパーマン』の撮影もやったという大きい所で」
(3)
「演奏のリハーサルというより、照明のリハーサルというところが大きかったんじゃないかな」(3)
「パトリック(照明デザイン:Patrick Woodroofe)が、ライトの操作板のパネルというかコントローラーを、なんて言うかな、キーボードを弾くみたいな感じで操作して、曲に合わせて演出する。そういうリハーサルはずいぶんやりました」
(3)
「手動とコンピューターの両方じゃなかったかな? 明滅させたり、縦に光を流して行ったり横に流したりという」(3)

1980/10/08 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル。シェパートン/シェパートン・スタジオ・センター Lステージ。

松武秀樹の証言
「同じようにライティング中心に6時間程リハーサルをする。」(67)

1980/10/09 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル。シェパートン/シェパートン・スタジオ・センター Lステージ。

松武秀樹の証言
「仕上り状態を見ながら、夕方より、ラン・スルーをする。」(67)
「ツアーの流れがだいたい決定する。」(67)

1980/10/10 イエロー・マジック・オーケストラ、吉見祐子・前田祥丈と会う。ロンドン/ヒルトン・ロンドン・ケンジントン。

吉見祐子の証言
「雨だった」(68)
「『ティー・ウィズ・ミルク』などとカタカナで注文していたら、メンバーがぞろぞろロビーへやってきた。」
(68)
「みんな元気そうだった。なんだかロンドンっぽく見える。細野クンもユキヒロクンもなかなかこったジャンパーを着ている。フランソワーズ・ジルボとかいう人のデザインでキングス・ロードで買ったばかりのものらしい。」(68)

前田祥丈の証言
「サザンプトンのテレビ局に行っていた細野、坂本、高橋の3人が帰ってきた。昨日までのリハーサルの様子を細野に聞いてみる。」
(66)

1980/10/10 夜 イエロー・マジック・オーケストラ、会食。ロンドン。

松武秀樹の証言
「ツアーの前夜祭がロンドンにある、焼肉屋で盛大に行なわれた。」(67)

1980/10/11 イエロー・マジック・オーケストラ、オックスフォードへバス移動。

1980/10/11 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。オックスフォード/ニュー・シアター。
出演:コムサット・エンジェルス

イエロー・マジック・オーケストラ
 坂本龍一(
syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 ライディーン
 マーダード・バイ・ザ・ミュージック
 ナイス・エイジ
 マップス
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 
在広東少年
 中国女
 
ファイアークラッカー
 
千のナイフ
 コズミック・サーフィン
 東風
「やっと世界中に、いちおうぼくらのアルバムが出まわったわけでしょ」(66)
「2年分のレコードがいま出揃ってて、ぼくたちはコンサートで2年前の音楽をやってるわけなんだ」(66)
「ようするに、自分たちはYMOのコピーをもういちどやらなくちゃならない、ってことにすごく苦痛を感じてたわけ」(66)
「ぼくらはすでに発売されたレコードのコピーを演奏するグループじゃないんだ。なによりメンバー全員の気持が変化している」(63)
「ディスコなんて概念はとっくに吹き飛んでる時期ですから。ニュー・ウェーヴのおかげで」(1)
「だから当然、過激にならざるを得ないところがあるんです。それを楽しんでもらいたいと思っているのです」(63)
「やりたいまんまだったんでしょうね。たぶん、ステージで同じことを繰り返す苦痛だけは避けよう、という気分があったんですね。飽きちゃうことが、いちばん怖かったんです」
(1)

ライオット・イン・ラゴス
「あの曲は、すごく好きなんですよ」
(1)
「非常に知的な刺激のある曲だと思った」
(1)
「奇跡的な出来だと思ってるんです。YMOの理想の音でもあったんですよ」(1)
「世の中だと、文学界ではミニマル文学が先行していましたし。展開していくことをなるべく避けたいと、みんなが思っ ていた時期なんですね。したくなくても、どうしても展開しちゃうんですよ、心が。いちばん難しいのは、ワン・コードの曲なんですね。それは3人のテーマで もあった。ワン・コードでかっこいい曲が作れたらいいねって」(1)
「教授のトンガってる部分で生まれてきた曲なんです。それをYMOとしても表現してもらいたいって気持ちが、あった んだと思うんですね。そういう方向に、これ以降ずっと行くもんだと思ってたんです、僕の中に。『YMOは女子供のバンドじゃないんだぞ』という気持ちが。 お子さんや女性に対して失礼ですが(笑)」(1)
「自分が作る前に、そういう見本があったってことで、手っとり早いってことでね。ワールド・ツアーの1曲目に持ってきたんです」(1)
「難しい曲ほど持つっていう。自分に課すものが多いほど、飽きないですから。まあ、難しい曲なんですね、『ライオット・イン・ラゴス』とかも。そういうもので、自分を刺激していたところはあると思いますね」(1)

高橋幸宏の証言
「レコードの音を破壊するというところから始まっている、みたいな」(66)
「まさに実験室ですよね」(15)
「例えば教授なんかも、自分でいろんな実験がもうできることに気がついて、ライヴの最中に、いろんな試みをやってみたり、僕も機材どんどん増やして、例えばあのドラムに、トリガーで、ノイズを乗せたりしてるんですね」(15)
「チューニングを変えたスネアをふたつ置いて、ポラードとアルト・サウンドのシン・ドラムもある。ノイズだらけ の音を出してましたけど、『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』という曲では一度にスネアとシン・ドラムを同時に叩かなければ出したい音が出ない。それ をどうにかしたくてノイズの音をトリガーで被せることにしたんです。でも、当時はベロシティーの問題が難しくて、トリガーが反応しなくてノイズが出たり出 なかったり…(笑)」
(69)
「ユニフォームは、僕がイメージしてたのは日本の中学生なんですよ」
(15)
「根本にあるのは日本の制服なの」
(66)
「でーその、中学生の夏服の感じに、まあ構成主義的なプリントの"ymo"っていうの を、入れたらどうかなあと。で腕章をするというちょっとなんか、妙な過激さを、醸し出してて、個人的には好きだったんですけどね」(15)
「パンツのシルエットは当時、僕、フランソワーズ・ジルボーの、あの感じにちょっと影響受けてたんでそういうスタイルなんですよ(笑)」(15)
「ニューヨークやロンドンのお客さんを見ると、すごい鳥みたいな人たちばかりじゃない。頭を3色とか4色ぐらいにしてたり。ああいう人たちに対抗するにはこれしかない、と思ったんだ」
(66)
「こういうスタイルって、日本人にいちばん似合って、しかもそれを受けとめる人たちは、ロジカルなイメージを言うんだ」
(66)

坂本龍一の証言
「好きな音色が変わってしまった」(68)
「ノイジーにしたいと」(1)
「結局僕ら3人ともすぐ飽きちゃうんで。結局ツアーなんていうのは、毎日同じことの繰り返しなわけだから」(1)
「たぶんお客さんは一晩一晩違うからいいんだけど、やってるほうは飽きちゃうから、どんどん変えたくなっちゃうんですよ」(1)
「きっと、曲順を決めるときなんていうのは、集まっても誰も何も言わないから。しょうがないから業を煮やして、細野さんがノートに書いて『これでいい?』『いいんじゃない?』とか、そういう感じで決まってますから」(1)
 ライオット・イン・ラゴス
「これは僕のものっていう」
(1)
「『ライオット・イン・ラゴス』の持っている過激さみたいなものを、YMOに吸い取られちゃうのはいやだなっていう (笑)。でも、一方で(テクニック的に)あれを生でできるとしたら、YMOぐらいしかないから。あれを生でやる快感みたいなものはありましたし、細野さん が評価してくれたっていう喜びもあるし、複雑でしたね」
(1)
「僕の曲には珍しくワン・コードでできている。何故そうしたかというと遊べるようにしたかったからで、自然発生的な演奏者の思いつき、やりたいことをやるという自由をとり入れたかった。」
(7)
「だからイントロなども長さは決まっていない」
(7)
 ジ・エンド・オブ・エイジア
「アレンジ、音質感、リズム感とか随分かわっている。以前はスカッぽい感じだったが、リハーサルの途中で急に『Riot In LAGOS』に共通するイメージを持つようになった。アフリカのR&Bっぽいリズムがすごく気に入っている」
(7)
 ナイス・エイジ
「イギリス公演でも反応が凄かった。イントロになるとちょっとわく」
(7)
 在広東少年
「矢野顕子ヴァージョンと同じかな。」
(7)
 東風
「いちばん困ったのは東風ですね。あんなにきちんと書かれている、和声もメロディーラインもできあがってる曲を、なんとか壊したいっていう思いがあって。 それで、矢野さんのアルバム(『ごはんができたよ』)でやった、キック4つ打ちじゃないディスコじゃないリズムにトライしたりとか」
(1)

松武秀樹の証言
「初日なので全員緊張するが無事公演終わる。」
(67)
「音数増やして、ゴージャスにするよりも、いい音を選んで、一音ずつの音をちゃんと聴かせるって感じで」(70)
「プレイヤーはみな8チャンネルのキュー・ボックスを使って演奏をモニターしてました。当時、8チャンネルの キュー・ボックスがライヴで使われること自体が斬新だった。YMOの場合、ラインの楽器ばかりなのでキュー・ボックスがないとバランスのとれた演奏をする のは難しかったと思う。キュー・ボックスがあることによって他の人がどんな演奏をしているのかをしっかり聴きわけて、合わせることができる」
(69)
「機材はだいぶ充実してましたね」(70)
「MC-8も2台、モーグIIICとE-muのタンスが2台。E-muのほうがIIICにくらべCVが4つある のでメインに使われてました。そしてシーケンシャル・サーキットのプログラマーは、エンベロープ2器とフィルターの電圧のコントロールを記憶してくれる機 械。タンスが2台で、1台を操作中はもう1台が遠くなっちゃうから、手元でもう1台もコントロールできるように、曲ごとに音色を変えなきゃいけないベース の音色につないでました」
(69)
「スネアにつけたバーカス・ベリーのピック・アップからの音をE-muのタンスに送って、幸宏さんがこのスネア を叩くと同時にE-muがバンッ!ってノイズを被せるんですね。シンセ・ドラムと一緒に、こういうやり方で不思議な音やノイズを出してた。E-muの4つ あるCVのうち、CV4というところにスネアの音を入れてノイズを被せてたんです」
(69)

丸山晴輝の証言
「頑丈に作ったキュー・ボックスではあっても、万一、ツアー先で壊れるようなことがあったら演奏に支障を来すわけですから、そのときに備えて必要なパーツとともに同行しました」
(4)
「とくにワールド・ツアーとなると壊れたからといって換わりはないわけですからね」
(4)
「ヘッド・フォンやキュー・ボックスの保守のためだけじゃなくて、電源周りの担当もしてたんですが」(4)
「ワールド・ツアー中は国によって電圧もばらばらで、電気の供給の安定性もずいぶんちがうんです。当時のシンセはただでさえ不安定な楽器で、せめてちゃん とした電源で電力を供給しないとどうなるかわからない。私の役目はどこの国のどの会場でも安定した電気を各楽器やシステムに供給することで、やっぱりその ための機材を作って持っていきました」
(4)
「一系統こちらが指定した容量の電気さえもらえれば、それを各楽器ごとに必要な電圧に調整して分岐させて供給する よっていう機材を作りました。100ボルトのもの、117ボルトのもの、220ボルトのものといった具合に楽器によって必要な電圧がちがうんで、YMOの ライヴの楽器構成にあわせて作った変圧トランス兼レギュレーターなんですけれども、とにかくそのトランスに現地の電源をつないでしまえば、細かい調整や振 り分けはもうそれでしちゃおうと。現地の電源がどんなに怪しくても、各楽器にはトランスを通じてちゃんとした電気が行くようにって」(4)
「そうしたほうが取り回しやステージ床下でのケーブルの配置はシンプルになるんです。電源のところから各楽器ごとに一本いっぽん電源ケーブルを引っ張るんじゃなしに、このトランスから伸びる一本のマルチ・ケーブルから各楽器そばで分岐させればいいんですから」(4)
「セッティングや撤収もずいぶん楽になるんです。そしてこのシステムで安定した電源を供給したからこそキュー・ボックスもトラブることはなかったんだと思いますね」(4)

後藤順一の証言
「YMOは日本の文化を背負って海外に出るんだから、ちゃんとしたツアー・パンフレットを作らなきゃって。工作舎の松岡正剛さんに作ってもらったんだけど、すごく立派なものができた」
(39)

小尾一介の証言
「ちょっとオリエンタルな感じもあり、とてもいいパンフでしたよね」
(39)

吉見祐子の証言
「ニュー・シアターとは名ばかりのアンティック劇場。」(68)
「ステージは市松もようの背景にライトがしこまれ、それがコンピューターによってさまざまな色と形に変化する。『Y・M・Oを宙に浮かせる』意図だ。衣装がまたスゴイ。」
(63)
「高橋ユキヒロのデザインによるロシア青年共産主義同盟のイメージ。白いシャツ、黒いズボン、黒い靴、左腕に赤のハンカチをぎゅっと結ぶという、実に過激なスタイル。」(63)
「ステージはまるで科学実験のよう。メンバーはロボットのようにその位置から動かず、突然のように音楽がスタートするというスタイル。」(63)

前田祥丈の証言
「イギリス国内のツアーには、前座のバンドがついていた。コムサット・エンジェルという4人組の新進グループだ。」
(66)
「前座が入ることをYMOが知ったのはロンドンに来てからのことだという。」(66)
「コムサット・エンジェルのステージが終って、20分ほどの休憩。」(66)
「客席が暗くなると同時にアナウンス。『レディースアンドジェントルメン。プリーズ・ウェルカム・ディレクト・フロム・トーキョー・ジャパン。イエローマジックオーケストラ!』」(66)
「ブルーの照明の中にYMOが浮かび上がる。」(66)
「ステージには、ウォール・オブ・ライトと呼ばれる新兵器が登場する。これは、一辺が60センチほどの正方形のブロックをヨコに18列、タテに8列重ねた感じのパネル。それぞれのブロックの中には、赤、青、白のライトが仕込んである。」(66)
「このパネルは、コンピュータで操作され、YMOの演奏に同調して、ステージの背景にさまざまな光のパターンを描き出す。」(66)
「そして、コスチューム。」(66)
「真黒のズボンに黒いクツ、白いシャツというスタイル。左腕に赤いハンカチを巻いている。」(66)

佐藤チクロの証言
「約7割の入り」
(71)

トシ矢嶋の証言
「8割くらいの入りで、若い人が多く、『Riot In Lagos』から『Thousand Knives』迄は、単にリズムを取るという会場の雰囲気だったのが、アンコール曲の『Cosmic Surfin'』が演奏されると一転してステージ前に駆け寄り、リズムに合わせて踊り出した」
(72)


1980/10/12 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。バーミンガム/オデオン・シアター。
出演:コムサット・エンジェルス

イエロー・マジック・オーケストラ
 坂本龍一(
syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 ライディーン
 マーダード・バイ・ザ・ミュージック
 ナイス・エイジ
 マップス
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 
在広東少年
 中国女
 
ファイアークラッカー
 
千のナイフ
 コズミック・サーフィン
 東風
佐藤チクロの証言
「幕があいたとたん、どどっとステージ前にお客さんが走って『ウォーッ』という歓声をあげた」
(71)

1980/10/13 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。マンチェスター/アポロ・シアター。
出演:コムサット・エンジェルス

イエロー・マジック・オーケストラ
 坂本龍一(
syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 ライディーン
 マーダード・バイ・ザ・ミュージック
 ナイス・エイジ
 マップス
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 
在広東少年
 中国女
 
ファイアークラッカー
 
千のナイフ
 コズミック・サーフィン
 東風
前田祥丈の証言
「地方都市での盛りあがりはもう一歩というところ。マンチェスターまでは、どこも6分から7分の入りといったところだ。」
(73)


1980/10/14 19:45 フジテレビ『スター千一夜』放送。
出演:坂本九、高橋幸宏、坂本龍一

1980/10/15 イエロー・マジック・オーケストラを起用したフジ・カセットのTV-CM「テクノポリス25時」篇、放送開始。CM曲は「磁性紀」。

磁性紀
「ニュー・ウェーヴの影響はずっと続いていて。音楽的に言うと、ニュー・ウェーヴの中で、ヨーロッパの民族的なケルティックなものに向かう、先祖返りのようなものがあって」(1)
「開放感があったり、明るいものでね」
(1)
「『開け心』(編注:「磁性紀」の副題)も、そういう部分を持ってると思うんですが」
(1)
「音響派だよね(笑)」(1)
「破壊的な気持ちが、あったの」
(74)
「絵的にはドラム缶が、ゴロゴロゴロゴロいってる(笑)」(74)
「工事現場ですね」(74)
「ベースが入ってないんです」(74)
「お互い顔を合わせないようにしだした時期というか、なんかバンドっぽくなってきたというかね」(1)

小池光夫の証言
 磁性紀
「この『磁性紀』ぐらいから、スタジオに3人が揃わなくなってくるんです。いつも揃わないわけじゃないけど、メモに書いて残しておくとかで作業はできた」
(11)
「演奏は、実は憲司さんがひとりでやってるんです。『ゴーッ』というギター・アンプを叩いて出す音も憲司さんが持ち上げてやってるんです」
(11)
「もともとテレビでしか流れない予定だったんでモノラル録音なんです」
(3)

高橋幸宏の証言
「珍しくあの、ちょっとデカダンと言うかですね、耽美的な場面で。教授がまた似合ってますねこの 感じにね。まあでも、僕たちは実はちょっとこの感じ好きじゃなくてですね、ちょっとこれを壊したくて、当時奥村靫正さんに、もうちょっとこう、ロシア構成 主義的な、破壊的な映像を、挿入して、くれと、頼んだバージョンもあるんですよ」(15)
 磁性紀
「教授も、細野さんもやってるし。あの『あー、もー、ヤダ』って言ってるあの歌詞、細野さんのアイデアですから」
(1)
「ベードラとスネアとハイハットだけを使ってありまして、えー、ベードラとスネア、のマイクに、要するにそのラインの回路に、軽く、ディレイを、かけまして」
(74)

坂本龍一の証言
 磁性紀
「フジカセットのこのコマーシャルのために、特別に作った、ものです」
(74)
「かなり壊れてる」
(44)
「ドラムから、録りましたね」
(74)
「例えば、1920年ぐらいの時代の、あの、ビル、を建てる、工事現場とかね、そういう、イメージが、あるでしょうね」(74)
「ハイテクとかなんとかっていう、感じのね、例えば超高層ビルとかさ、そういうんじゃ、なくて」(74)
「やっぱり、エンパイア・ステート・ビル? だから外見的にはまあデコな感じで」(74)
「絵的にそういうイメージして、その、機械の、機械から生ずるノイズ、の音、それを、やったんですけど」(74)
「モーターから出る、ノイズですね」(74)
「電気ノコギリか。そういうその、んー金属的な、速い摩擦音って言ったらいいのかな、そういう、ものの独特なこう、高い倍音が含まれてる、音ってのがわりと好きで」(74)
「決していい音じゃない。むしろ悪い音ね」(74)
「ヤな音と、いう風に一般には、言われてるわけですけども、なんかこう、惹かれる。惹かれるものがあると」(74)
「そういう音を、シンセサイザーで作って、これが全編ウーンと唸ってるわけですね」(74)
「次にイメージしたのは蒸気の音かな」(74)
「それがあの、えーBの部分って言うかな、そういうところに入ってるんですけども」(74)
「もうひとつ、爆発音のような、ものが、入ってますね」(74)
「ガシャーンとこう」(74)
「鉄管をね、高いとこからね、あの転がすの。落っことしてね、そうすっと、あちこちにこう、当たってガランガランガランガラーンっていう」(74)
「鉄管って重たいから、あんまり余韻がないでしょ。たくさんこう当たっても、ガランガランガラン、ぐらいな、感じで。そういう音をイメージして」(74)
「そういう音がイメージされる背景には」(74)
「破壊的な気持ちがあったと」(74)
「あの爆発音みたいなものは実は、フェンダーのツイン・リバーブっていう、アンプですね、ギターのアンプ。それに、リバーブが付いてるんですね、ツイン・リバーブっていうぐらいで。それを、あの大村憲司さんが、スタジオの中で」(74)
「持ち上げて、アンプをね、重いやつを、落とすと。そうすっとああいう音になる」(74)
「画面に合わせてね、あのーわざとその、チェンバロのような、チェンバロ、の音楽のようなね、そういうものをやろうかな、っていう案もあったんですね、実は。だけど、それじゃあまあ、合いすぎちゃうっていうんで」(74)
「ひねってないというんで、それをギターでやってみた。ギターでやったんですけども、そのギターも普通に、えー、みんなが知ってるエレキ・ギターの音じゃなくて、あのー、アンプを通さずに」(74)
「ラインアウトを、ダイレクトで録ると言います、が、えー、しかも、ディストーション、ひずませて、やったと。そうするとなんか、あのーギターの音じゃなくて、こう、空気で鳴る、楽器。ブラス楽器みたいな。リード楽器とかね。そういう音色がして。これは実は、イーノが」(74)
「ずいぶん前から使っていますけども。あのー大村憲司くんは」(74)
「バハマの、えー加藤和彦さんの、レコーディング、辺りからああいう音に、目覚めまして」(74)
「完成の域に達してると。その見本みたいなものですね、これはね」(74)
「違う音で、エレキ・ギターの、コード、が出てきます。えーそこに、あの、なんっかわけのわからない、声が入ってますけどあれは何を隠そう我々3人の声」(74)
「作詞は細野さん」(74)
「鼓笛隊のあのピッコロのようなイメージの」(74)
「あれは、一番ど最後、ど最後じゃない、最後に」(74)
「あまりにも、単純で、音楽だと思ってくれないんじゃないかっていうことで」(74)
「バロックのノリをね、えー活かして、僕が、あの、まあ、長年培われた技術でもってね」(74)
「分析していただくとよくわかるんですが、あのー非常に、バロックの、えー音の、つづり方と、言いますかね。でーあの、その元になってるあのー、ギターでやった、コードね」(74)
「あれはもうほんと、和声学の初歩です」(74)
「こういうものを使うと。使えるものはどんどん利用すると」(74)

1980/10/16 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。 開演前に記者会見が行われる。ロンドン/ハマースミス・オデオン。
出演:コムサット・エンジェルス

イエロー・マジック・オーケストラ
 坂本龍一(
syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 ナイス・エイジ
 ザ・コア・オブ・エデン
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 中国女
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 千のナイフ
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 東風
「『ファイアー・クラッカー』がヒットしてるし、気持良く終われるから、(編注:アンコール前の)最後にもってきたんだ」(66)
「YMOの音楽ってのは基本的に踊れるリズムなんだけど、全体的に緊張を強いるところがあるでしょ。ロンドンでは、最初緊張してるものの、それがズンズン ゆるんでって最後に爆発する。そういうふうにノッてくれるから好きなんだ。日本だと緊張しっぱなし。NYは逆に最初から踊りだしちゃうからね」
(62)
「アイルランドの音楽誌『ホット・プレス』のピーター・オウエン記者と会ったら、『素晴らしかったが、もう少しエキサイティングな演出があってもよかったんじゃないか。こっちの聴衆はロックンロール的な熱っぽさがあったほうが喜ぶから』と言っていたよ」
(62)
「公演後、オシャレでかわいい女の子達が追いかけてきて、ほっぺにキス攻めされた」
(22)
「彼女たちがなんと言っているのかを聞くと、僕らのことをキュートだと言っているわけです。『え、僕らって、キュートなんだ!?』と僕ら自身が驚いた (笑)。それまではタフでハードにやってきていて、自分たちがキュートだなんていう気持ちはなかったのに、ロンドンのティーンエイジャーにとってはキュー トに見えちゃうんだな、と」
(13)

松武秀樹の証言

「『音楽殺人』を途中でやめた(編注:セットリストから外した)のは、ユキヒロ君から申し出があったんじゃないかな。それしか考えられない」
(75)

トシ矢嶋の証言
「前売券はソールド・アウト、当日券も開場前の7時頃から長蛇の列が出来、ダフ屋まで登場するという始末だ。」
(72)
「このロンドンの評判は、シングル『Computer Game』がトップ20に入るという、イギリスでのヒットとなったからである。」(72)
「ファースト・アルバムが話題になり、その後『Solid State Survivor』『Public Pressure』の発売がなく、イギリスではセカンド・アルバムとして、日本で4枚目に当たる『X∞Multiplies』が、『Solid……』と ファースト・アルバムとのカップリングで発売され、LPチャート、トップ30までランクされたことが大きな要因となっている。」(72)
「YMOが世界で最初に使用するコンピューター・パネルボードのライティングシステムと5分間のフィルム上映ののち幕開けし、『Riot In Lagos』でスタートした。超満員の会場」(72)
「オーディエンスに混ざってやって来たのは、ジャパンやブームタウンラッツの連中、ジョン・フォックス、デビッド・カニンガム、スロッビング・グリッスル、クリス・トーマス、デザイナーのサンドラ・ローズらが姿を見せていた。」(72)
「しかし残念なことに、ステージのサウンドのバランスの悪さ、YMOの連中がほとんど喋らないということで、演奏は パーフェクトだが、音楽を楽しんでいるように見えないこと等が、イギリス人には物足りなかったようだった。そんな中で彼らオーディエンスが注目したのは、 昨年のツアーの時と同様にキーボードを担当し、紅一点のジャパニーズ・ケイトブッシュと言われ評判の高かったアッコちゃんのアピールの強さだった。いつも曲に合わせてリズムを取り、飛んだり跳ねたりしてオーディエンスの目を集中させ、日本語で歌った『Kang Tong Boy』の反応が良かった。」(72)
「大村憲司のロックギターサウンドの『Maps』も評判が高かった。」(72)
「後半の『千のナイフ』や『Firecracker』の頃になると、オーディエンスが立ち上がり、ステージ前でリズ ムに合わせて踊り始めた。ここでステージを降りたYMOの連中、"モア!モア!!"の大連呼に応えて再び登場。『Cosmic Surfin'』『Tong Poo』でバンドもオーディエンスもダンス、ダンスの雰囲気でコンサートを終えた。」(72)
「最後にステージ前に全員集まり、サヨウナラ、そして左腕に巻いたYMOの赤いハンカチを会場に投げて幕は下りた。」(72)

福田一郎の証言
「ロンドン西部の住宅地区ハマースミスにある最も有名なロックの常打ち劇場で、定員三千三百。」
(76)
「入りはほぼ満員。奇抜な服装と化粧のニューウエーブ・ファッションの若い男女が圧倒的大多数。それに新しいロック・スター、ロック・バンド、業界関係者の姿が目立って多かった。」
(76)
「ブームタウン・ラッツ、ジャパン、フライング・リザーズ、ベイパーズ、スロッビング・グリッスル、ザイン・グリフ、レズリー・マッコーエン、エレン・フォーリー、ダム・ブロンドなど。」(76)
「九時すぎ、今度のワールド・ツアーのために、とくに製作した映画の上映が始まる。YMOの三人と音楽の紹介を集約した六分ほどの短編。ミュージカルの舞台でいえば主題、そう入曲をつなぎ集めた<序曲>といったもの。内容はなかなかに凝っている。」(76)
「『フロム・トッキョー(編注:原文ママ)・ジャパン、イエロー・マジック・オーケストラ!』の紹介でステージに登場。黒のスラックスに白いシャツ姿、赤い腕章が唯一のアクセントである。」(76)
「サウンドはみごとにまとまっていた。ロンドン公演に先立ち、地方都市を回ってきたのが、良かったのだろう。」(76)
「アンコール二曲を入れて十六曲、ざっと一時間半のショー。客席で見聴きしていて『公演は成功!』と確信できた。」(76)
「終演後、楽屋に押し寄せてきたゲストたちの人の波を泳いで批評を聞いて回った。異口同音のエクセレント! ファンタスティック! ワンダフル!の連続。これは外交辞令としても独特なメロディー、みごとなまでのまとまり、それに照明には一様に驚いたらしい。」(76)

前田祥丈の証言
「ツアー前半の最大のヤマ場」
(66)
「さすがに楽屋にも緊張感が漂う。スタッフも、これまでになくピリピリしている。」(66)
「8時から始まったコムサット・エンジェルの演奏が終る。9時10分、『コンピュータ・ゲーム』のフィルム、地方ではやらなかったものだ。とたんにワーッという歓声。リズムにあわせて手拍子が起こった。」(66)
「キャパシティ3483人」(66)
「二階の奥までギッシリ入っている。完全に満員だ」(66)
「これまでのホールでは感じられなかった熱気が客席にみなぎっている。」
(73)
「幕が上がりはじめたとたん、ウォーッと地鳴りのような歓声と拍手が起きた。」(73)
「これまでのステージと、拍手の密度が違う。」(66)
「彼らはYMOをほんとうに待っていたんだ。そんな手ごたえが客席の空気の中にある。」(66)
「演奏もパーフェクトだった。」(66)
「ワイルドといっていいほどに迫力に満ちたものだった。ホールのすべてが興奮の中にあった。」(73)
「これまでのステージとは構成も変えている。よりダイナミックな曲の流れになっているのだ。」(66)
「客席は総立ちでアンコールの声を送っていた。そして、アンコールがはじまると同時に、彼らはステージの前に殺到していった。」(73)
「楽屋には、フライング・リザーズのデヴィッド・カニンガム、エレン・フォーリー、XTCのアンディ・パートリッジ、ザイン・グリフ、ブームタウン・ラッ ツ、クリス・トーマスとミカ、ジャパン、ヴェイパーズ、スロッビング・グリッスル、そしてレスリー・マッコーエンまでが駆けつけた。」
(66)
「楽屋の混乱が一段落したころ、ぼくは細野に『よかったね、成功して』と声をかけた。細野は、大きくうなずいて『うん、よかった』とコトバを噛みしめるようにつぶやいた。」(66)

吉見祐子の証言
「コンサートがスタートする前は客席の騒ぎぶりがすごい。口笛、歓声、ヤジ、ウォーというい声が飛び、中には『タカハシ!』という声も飛ぶ。これはサディ スティック・ミカ・バンドのメンバーでもあった高橋ユキヒロのロンドンでの呼名なのだ。しかし、音が出るとショックでシーンとなるのだった。」
(63)
「特筆すべきウケ方をしたのは矢野顕子の『KANG TONG BOY』のヴォーカル。」(63)
「曲は進みやがてアンコールへの拍手。足を踏みならし、手をあげ、みんな立ち上がる。曲を聴いている間中は目をカッと見開き、ジーッと聞き入っていた聴衆のこの大騒ぎ。」(63)

水上はるこの証言
「楽屋には収容人員70人くらいのバーがあり、訪れたゲストは、そこでグラスを片手に、"ロビー外交"に花を咲かせるというのが習慣になっている。」
(77)
「YMOのコンサートの夜、このバーがパンクした。あまりにも多人数のゲストが押しかけたため、ただ汗をかきながら立っているのがやっと、という状態になり、劇場側が招待状の有無にかかわらず、バーへの出入りをストップしてしまったのだ。」
(77)
「YMOの楽屋を訪れたイギリスのミュージシャン、およそ40人。やはりシンセサイザー音楽に興味を持つミュージシャンたちが『偵察』というふん囲気をかくそうともせず、YMOの演奏に聴きいっていた。」(77)

鋤田正義の証言
「楽屋にいろんなアーティストが来て賑やかだったですね。スロッビング・グリッスルもいたしジャパンもいたし、ウルトラヴォックスもいたし、フライング・リザーズもいましたね」
(11)

デヴィッド・カニンガムの証言
「ハマースミス・オデオンでサウンドチェックを行うYMOのバックステージに招かれた私が楽屋に入ろうとすると、20くらいのカメラのフラッシュが光った。」
(13)
「私はYMOのライヴを見ていない。なぜなら彼らと同じ日に、ザ
フライングリザーズの最初のライヴパフォーマンスが予定されていたからである。奇妙な偶然によって、我々はともにハマースミス地区でプレイした。私はすぐ近くのリバーサイドスタジオにいた。そんなわけで、私はその日の午後に彼らを訪れるだけになってしまった。」(13)
「コミュニケーションが簡単ではなかったことを覚えている。私は日本語を話せなかったし、そして彼らの側も英語がそれほど上手ではなかった。」
(13)

渡邊基行の証言

「なんかちゃんとしたコンサート会場の風格があって、舞台セットも、あそこだとフルでちゃんと組めましたしね」
(3)
「スタッフ、メンバーの中にも"ここがメイン"という気持ちがあったんじゃないでしょうか。成功へ向けて集客もかけたでしょうしね」(3)

三浦憲治の証言
「すごく賑やかでしたね。ジャパンとか以外、知らないアーティストばっかりだったけど、とにかく撮っておけって、ひたすらシャッターを押してましたね」
(36)

高橋幸宏の証言
「一生忘れられないほどのにぎやかさだった」
(65)

※編注:この日の演奏の一部は同年11月7日にニッポン放送で放送された他、イギリスBBCでの放送と同内容のものが1981年1月15日にNHK-FM で放送された。CD『YMOワールド・ツアー1980』(アルファミュージック/1996年)でも一部の楽曲を聴くことができる。

1980/10/16 イエロー・マジック・オーケストラ、『FROM TOKIO TO TOKYO』ロンドン公演打ち上げ。ロンドン/ヘル。

「200万人の失業者を抱えたロンドンは、凄まじい開き直りを見せています」(78)
「『ヘル』とか『ブリックス』とかいうのが挙げられるんだけど、ここへ集まってくる人種のファッションたるや、僕から見るとまるで仮装大会みたい。 ニュー・クラシズムと言われてるんだけど、完全にビクトリア期のものなんだ。根っこが違うと痛感しました」
(78)

1980/10/17 朝日新聞ヨーロッパ総局ジャネット・ドノバン記者のインタビュー取材を受ける。ロンドン

※編注:10月下旬から、各地方版の朝刊に順次掲載。

1980/10/17 イエロー・マジック・オーケストラ、パーティー。ロンドン。

松武秀樹の証言
「アルファレコード主催のパーティが市内の中華飯店で行なわれた。」(67)


1980/10/18 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。サザンプトン/ゴウモン・シアター。
出演:コムサット・エンジェルス

イエロー・マジック・オーケストラ
 坂本龍一(
syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 ナイス・エイジ
 ザ・コア・オブ・エデン
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 中国女
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 千のナイフ
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 東風

1980/10/20 朝 イエロー・マジック・オーケストラ、ロンドンから空路ハンブルグへ出発。

1980/10/20 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演(無料)。ハンブルグ/マルクト・ハーレ。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 ナイス・エイジ
 ザ・コア・オブ・エデン
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 中国女
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 千のナイフ
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 東風
「ぼくらはプロだからね、やはりお金を払って見に来てくれるお客を満足させようと思ってやってる。そういう意味じゃプライドが傷つくというか、気が抜けるというか」(62)
「客がノッて来て、その目の感じがフィード・バックしてくると、こっちもガンバッちゃうんだなあ」
(62)
「大ホールと違った演奏ができたよ」(62)

小尾一介の証言
「レコード会社が組織したプロモーション・ツアーで、興行収益を狙ったものじゃない。だから、依頼を受けた現地のエージェントが、『宣伝のためには無料でたくさんの客を集めたほうがいいだろう』との独断でフリーにしたらしいんです」
(62)

高橋幸宏の証言
「ようやくメンバー、そしてスタッフらも、ちょっとは緊張がほぐれつつ、またそれとは逆に、あまりにもハードなスケジュールに少し憂うつな気分が起きつつあるという複雑な時期」
(65)
「満員のオーディエンスはスゴク盛り上がっていて、演る側の僕たちも適度にリラックスしてのびのびとやれたよーな気がする。」
(65)

松武秀樹の証言
「ライブハウスなので全員乗りまくる。」
(67)

1980/10/21 シーナ&ザ・ロケット『チャンネル・グー』発売。
ホット・ライン:produce
マイ・ボーイフレンド:produce
, keyboards
アイ・スパイ:produce
デッド・ギター:produce
キス・ミー・クイック:produce, keyboards
オー!スージーQ:produce
浮かびのピーチガール:produce, compose, arrangement, keyboards
たいくつな世界:produce
グッドラック:produce
ワン・ナイト・スタンド:produce, keyboards
ベイビー・メイビー:produce
スネークマン:produce
「彼らの持ち味をこわさないように、なるべくシンプルにやってます。ただ、ラ イブとレコーディングっていうのはまったく違うものだから。ライブの場合は、ステージで発散されるエネルギーが観客に伝わってまた返ってくる、お祭りのよ うなところがありますね。レコードの場合は、そういった視覚的な要素がないから、より厳密に計算してやってます」(55)

浮かびのピーチガール
「YMOの3人でプロデュースしました」
(54)

鮎川誠の証言
 マイ・ボーイフレンド
「『フーン』、と入るのは、シーナがブロンディを聞いていたからだったって」
(60)

シーナの証言
 スネークマン
「あれは細野さんのこと。『やさしい目をしたこわい人』とかね(笑)」
(2)
「彼、移り気な方だから(笑)」
(77)
「ご本人にそれを言ったら『ええー!? ぼくぅ?』って驚いてたけど(笑)」(2)

1980/10/21 金井夕子「Wait My Darling/ハートブレーカーのために」発売。
Wait My Darling:compose, arrangement, bass
ハートブレーカーのために:
:compose, arrangement, bass
「A面に書いた曲がいつの間にかB面になってて」(57)

Wait My Darling
「A面になってしまってました」(57)
「アレンジをB面用になんかちょっと、やったんで、えー、けっこうショックでした」(57)

ハートブレーカーのために
糸井重里作詞で、けっこう僕は気に入った曲」(57)
「『走れウサギ』という曲に変えられて、えー、詞も変わりました」(57)
「もっとあとになると、越美晴もカヴァーしてます」(57)

1980/10/21 ラジ「ラジオと二人/ヨジレアン・ツイスト」発売。
ラジオと二人:bass

1980/10/21 9:15 イエロー・マジック・オーケストラ、ハンブルグから空路ロッテルダムへ出発。

高橋幸宏の証言
「移動時間が2時間20分って書いてあった。僕、こわいぶんだけ飛行機には異常にくわしくて、そ の距離だと1時間15分ぐらいなんですよね、普通は。だから、『これ絶対プロペラだよ』ってみんなに言ったんです」(26)
「『ユキヒロ、また始まったの?』」(65)
「細野さんが、つくづくナサケないな、という顔をする。」
(65)
「『またなんか幸宏が言ってる よ』っていう調子で、『国際線でプロペラなんてあるわけないじゃない』って軽くあしらわれて。そうこうしながらバスに乗って行くと、ジャンボ機の前は全部 素通りで(笑)、空港の隅っこに小さなプロペラ機がポツンと(笑)。そこでバスが止まって、おまけに外は、雨。僕、降りるのイヤだって、バスの柱にしがみ つきましたよ」
(26)

1980/10/21 11:05 イエロー・マジック・オーケストラ、ロッテルダム着。

1980/10/21 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。ロッテルダム/デ・ランタレン。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 ナイス・エイジ
 ザ・コア・オブ・エデン
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 中国女
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 千のナイフ
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 東風
松武秀樹の証言
「ライブハウス的な所」
(67)

羽良多平吉の証言

「小さな体育館みたいな会場だったんですけど、来場者の若い人たちがみんなカッコいいんですよ」
(19)
「みんな地味めなんだけど、よく見るとセンスがすごくいい。インテリ・パンク的というか、とにかくファッションのレベルもとても高かった」(19)
「同じヨーロッパでもミラノ、ロンドン、パリといったところとはまたちがった雰囲気がありました」(19)

1980/10/22 11:00 イエロー・マジック・オーケストラ、アムステルダムへバス移動。

1980/10/23 8:10 イエロー・マジック・オーケストラ、アムステルダムから空路ストックホルムへ出発。

1980/10/23 10:05 イエロー・マジック・オーケストラ、ストックホルム着。

1980/10/24 『毎日新聞』夕刊(毎日新聞社)発行。
取材記事/Y・M・O イン ロンドン

1980/10/24 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。ストックホルム/ゴータ・レオン。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 ナイス・エイジ
 ザ・コア・オブ・エデン
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 中国女
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 千のナイフ
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 東風
松武秀樹の証言
「久しぶりにSetを使用した公演」
(67)

三浦憲治の証言

「楽屋にABBAのお姉さんが来たからよく憶えてる(笑)。デカい人だなあって(笑)」
(36)

1980/10/25 17:00 イエロー・マジック・オーケストラ、ストックホルムから空路パリへ出発。

1980/10/25 19:25 イエロー・マジック・オーケストラ、パリ着。

1980/10/27 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。パリ/ル・パラス。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 ナイス・エイジ
 ザ・コア・オブ・エデン
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 中国女
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 千のナイフ
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 東風
松武秀樹の証言
「パリ最大のディスコなので乗りも最高!」
(67)

渡邊基行の証言

「客席に縛られずに踊れる会場ですよね。それでお客さんのノリが凄く良くて最初っから踊ってるみたいでした。やっている音楽と、それを受け入れる会場の雰囲気とかそういう全体的な場のノリみたいなものがしっくりはまっていた」
(3)
※編注:この日の演奏の一部は、同年12月29日にFM東京で放送された他、CD『YMOワールド・ツアー1980』(アルファミュージック/1996年)でも聴くことができる。

1980/10/28 12:35 イエロー・マジック・オーケストラ、パリから空路ミラノへ出発。

1980/10/28 14:00 イエロー・マジック・オーケストラ、ミラノ着。

1980/10/29 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。ミラノ/テアトロ・エスメラルド。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 ナイス・エイジ
 ザ・コア・オブ・エデン
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 中国女
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 千のナイフ
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 東風
松武秀樹の証言
「SetやPAの問題が出るがどうにか終了。」
(67)

1980/10/30 イエロー・マジック・オーケストラ、ミラノから空路ローマへ出発。

1980/10/30 イエロー・マジック・オーケストラ、ローマ着。

松武秀樹の証言
「エージェント・ストのため到着が遅れるが、どうにか間に合う。」(67)

1980/10/30 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。終演後に記者会見が行われる。ローマ/テアトロ・オリンピオ。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 ナイス・エイジ
 ザ・コア・オブ・エデン
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 中国女
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 千のナイフ
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 東風
高橋幸宏の証言
「僕の演奏もね、陸路で次に行くことになってる日は元気があるんですけど、明日は飛行機でロスまで向かうみたいなときは、なんか気が乗ってないっていうか、そのぐらい飛行機がイヤでした」(26)

1980/10/31 13:15 イエロー・マジック・オーケストラ、ローマから空路アメリカへ出発。

松武秀樹の証言
「朝、全員でローマのアメリカ大使館にVISAをもらいに行く。そのままローマ空港でNEW YORK行きにとび乗る。」(67)

1980/10/31 21:50 イエロー・マジック・オーケストラ、ロサンゼルス着。

1980/11/01 フジカセットがブックカセット『テクノポリス』プレゼント・キャンペーンを開始。

※編注:1981年3月31日まで応募を受け付け、合計10,000名にプレゼントされた。カ セットは、細野晴臣が語る「YMOの秘密」、「YMO座談会」、「『磁性紀』発表説明会」の3部構成。ブックにはイエロー・マジック・オーケストラのイン タビューや、メンバーへのアンケートなどを掲載。

1980/11/01 ラジ『真昼の舗道』発売。
真昼の舗道:bass
※編注:「ラジオと二人」も収録。

1980/11/02 イエロー・マジック・オーケストラ、アメリカNBCテレビ『ソウル・トレイン』収録。ロサンゼルス。

高橋幸宏の証言
「カメラもスタッフも皆が黒人で、本当にソウル・ミュージックのど真ん中に来ちゃった、本当にここで僕らがやるの?とも思いました。そうだな、司会のドン・コーネリアスがクラフトワークを知ったかぶりしていたのも覚えてる(笑)」(13)

坂本龍一の証言
「『ジャパニーズ・ジェントルマン』こと、伊藤(編注:洋一)さん」(44)
「スタジオで、黒人の間でギンギンに踊っていた」(44)

松武秀樹の証言
「機材がまだ届かないので、僕は出演中止。」(67)

1980/11/03 イエロー・マジック・オーケストラ、ラジオ・パシフィック・ジャパン『ビバ イエロー・マジック・オーケストラ』収録。ロサンゼルス/ラジオ・パシフィック・ジャパン。

※編注:ラジオ・パシフィック・ジャパンは現地の日本語ラジオ放送局。放送日時は不明だが、番組の後枠で8日のハリウッド・パラディアム公演が告知されている。

1980/11/05 16:00 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』リハーサル。ロサンゼルス/A&Mレコード・スタジオ チャップリン・ステージ。

1980/11/06 『週刊FM』11月10日号(音楽之友社)発売。
取材記事/ハマースミス・オデオンの大成功!そして彼らはすでに明日をサウンド化している…

1980/11/06 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』カメラ・リハーサル。ロサンゼルス/A&Mレコード・スタジオ チャップリン・ステージ。

松武秀樹の証言
「日米間の打ち合せがうまくいかずメロメロ。」(67)
「夜8時終了。」(67)

1980/11/07 1:00 ニッポン放送『オールナイト・ニッポン』放送。
DJ:タモリ
出演:水上はるこ、イエロー・マジック・オーケストラ
※編注:同年10月16日のロンドン公演の模様を放送。曲目は不明。

1980/11/07 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。ロサンゼルス/A&Mレコード・スタジオ チャップリン・ステージ。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ライディーン
 ビハインド・ザ・マスク
 マップス
 ナイス・エイジ
 東風
 ラジオ・ジャンク
 中国女
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 オール・ユー・ニード・イズ・ラブ
 テクノポリス
 在広東少年
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 千のナイフ 

高橋幸宏の証言
「新設のA&Mスタジオの杮落し公演で、日本に衛星中継するためのコンサートだったんですけど」
(26)
「通常のライヴと言うよりは、あーむしろ、テレビ放送用に、やったライヴ」
(15)
「招待客ばかりでしたね。本当に僕たちの曲を聴きたくて来た人もいるだろうけど、まあ社交辞令で来てた人も多いだろうから」
(26)
「みんなVIPの人たちで、当時のA&Mの、おーアーティストばっかりなんですよ。もうカーペンターズとかですね、オズ モンド・ブラザーズとかですね(笑)、なぜこの人たちがいるんだろうというような、MORの方々がズラリと。マンハッタン・トランスファーもいたし。でみ んな、これはなんなの?っていう顔で見てるんですけどもね(笑)。で途中で、あの一生さんのファッション・ショーがあったりとかですね、非常にテレビ的 な、公演で」(15)
「芸能チックな演出がいまいちピンと来なかったですね」
(26)
「えー実は個人的には、あのー、まあメンバー的には、あまり、楽しめなかったかなと。おまけに間違えたらどうしようっていうのもありますし ね」
(15)
「ディーヴォは入れなくて外にいたんですよ。あのプラスティックの帽子あったでしょう。あのユニフォームで来ていたのには笑いましたけどね(笑)」
(26)
 ライオット・イン・ラゴス
コンピューター止まりましてで すね、イントロで。でー、困ったなあと思ってたら、全員が僕のほう見るんですよね(笑)、メンバーが。僕じゃない僕じゃない!という、まあアピールはして るんだけど、お客さんはきっと僕がなんか間違えたんだろうなあと、思ってただろうなあと思うんですけども」(15)
 オール・ユー・ニード・イズ・ラブ
「唯一の皮肉でしょうか。衛星中継って言ったら、『All you need is love」でしょう、という、わかりやすいベタな理由で」
(26)

矢野顕子の証言
「日本に中継されるっていうことで、松武さんの機材がちゃんと走るかっていうのが気になってましたね(笑)」
(4)
「生中継と謳いつつ、本当の生中継じゃなかったんですよね。1時間遅れで日本で放送されるとか、たしかそんな中継で」
(4)
 ライオット・イン・ラゴス
「いきなり機材が止まっちゃったか、タイミングがずれたような(笑)。でも、みんなそのときも何食わぬ顔で平然と演奏を続けましたね」
(4)
 在広東少年
「オリジナルの歌詞というのは、放送で使えない言葉も入っていて、中継や録音があるときにはちょっと変えて歌ってたんですけど、ロスからの中継のときは"オリジナルのまま歌っちゃおうかなあ"なんてフジテレビの人を脅した憶えがあります(笑)」
(4)

松武秀樹の証言
「リハーサルをやるがとりあえずぶっつけ本番でのぞむ。」(67)
 ライオット・イン・ラゴス
「緊張のあまり」
(67)
「コンピューターのボタンを1つ押し忘れてメロメロ。」(67)
「ローランドDR-55」
(69)
「とてもシンプルなリズム・マシンの原型のような機械」(69)
「"ライオット・イン・ラゴス"の同期の失敗というのは、これのせいなんです。ぼくが操作をまちがった。本当は このDR-55のシンクロ・ボタンを押してスタンバイさせてからMC-8をスタートさせなきゃいけないのに、先にMC-8をスタートさせてから、DR- 55のシンクロ・ボタンを押しちゃった。それでDR-55から出るクリック音が半拍ずれた。よく言われるような"ドンカマがずれた"んじゃなく、ドンカマ とシンクロするはずのこのDR-55の音がずれたんです」(69)
「ちょっと聴いただけじゃ、わからないけどね、ヴィデオと一緒に見てるとよくわかる」(70)
「どうにも演奏しにくかったと思いますよ。ユキヒロは、なんとかしてくれって、うしろを向いて合図するしね」
(79)
「ドラム叩きながら、こっちをチラッ、チラッと、見てる」
(70)
「途中で何度もシンクロさせようとしたんですが、どうしても合わない」
(69)
「結局、コンピュータの信号はオフにしたんだけど……、今日は宇宙中継だから慎重にいこう、なんていわれてただけに、1曲めでつまづかせちゃって、何とも申し訳なくて……」(79)
「コンピュータの操作を失敗した場合には、どうしても教授に助けてもらわなければならないね」(79)
「2曲めからは気を取り直しあとはOK」
(67)
 テクノポリス
「日本に中継されるんだから、日本でヒットしたこの曲もやろうということだったと思います」
(75)

※編注:この日の演奏の一部は、CD『YMOワールド・ツアー1980』(アルファミュージック/1996 年)、『ライヴ・アット武道館1980』(アルファレコード/1993年)、『ONE MORE YMO』(東芝EMI/2000年)、書籍『ピリオド』付録CD(徳間書店/1996年)で聴くことができる。


1980/11/08 16:00 フジテレビ『イエロー・マジック・オーケストラ ワールドツアー '80 イン・アメリカ』放送。
出演:芳村真理、加藤和彦、加藤タキ、ハーブ・アルパート、島田陽子、リタ・クーリッジ、ブッカー・T・ジョーンズ、ダニー・オズモンド、マンハッタン・トランスファー、三宅一生

イエロー・マジック・オーケストラ

 ライオット・イン・ラゴス
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ライディーン
 ビハインド・ザ・マスク
 マップス
 ナイス・エイジ
 東風
 中国女
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 オール・ユー・ニード・イズ・ラブ
 テクノポリス
 在広東少年
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
小尾一介の証言
「富士フィルムもスポンサーについてくれたから実現したんですよね」
(39)
「ロスに行くときに"今度のは富士フイルムがスポンサーなんだから、富士のロゴを幸宏さんのドラムに貼ってこい"って言われたんだ(笑)。そんなの貼れないじゃないですか(笑)。ドラムなんてガムテを貼るだけで音が変わっちゃうのに、幸宏さんに頼めるわけがない…
…とはいうものの、"そういうことになってるんだ"とのことなので、前日に幸宏さんに話をしてなんとか貼ってもらいました。バスドラの下のほうに」(39)

※編注:放送された映像の一部は、ビデオ・ソフト『TV YMO』(アルファレコード/1993年)、DVD『YMO Giga Clips』(東芝デジタルフロンティア/1998年)、『Visual YMO: the Best』(ソニー・ミュージックハウス/2003年)に収録された。

1980/11/08 20:00 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。ロサンゼルス/ハリウッド・パラディアム。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 ナイス・エイジ
 ザ・コア・オブ・エデン
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 中国女
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 東風
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 千のナイフ
「東京やロンドンのお客さんの反応のしかたとすごく似てきた。『オーケスト ラ』で勘違いして来た人達もいたみたい。そういう意味でまったく別なものを期待してた人達の中には途中で席をたつ人達もいたけど、他の人達は感情的に反応 するというよりかなり真剣に聞いてたみたい。最初すごく緊張してる感じでだんだん後半になってもりあがってのってくるっていう感じ」(80)

高橋幸宏の証言
「2000人規模のホール・コンサート」
(15)
「すっごい演奏の出来はよかった憶えがあるんですけど、実は記録が残ってないんです。残念なんですけどね」(15)
「一般のオーディエンスばかりで、客の反応もよかった」
(26)
「チケットを買ってくれたお客さんの前で演奏するほうが、僕らもやっぱり楽しかったんですね」
(26)

佐藤由紀の証言
「快晴。夜8時30分、公演の切符は売り切れとなり、ボックスオフィスに長い列ができた。客席の前半分には日本人や日系人の姿が目立ち、まるで東京のようだ。反応もよく似ている。」
(81)
「YMOを『オーケストラと間違えて』やって来た老齢の日系人紳士は、最後から2曲目で中座してしまったが、ドラムスとボーカルの高橋ユキヒロの歌声を 『デビッド・ボーイ(編注:原文ママ)かと思った』というハリウッド・ハイスクール2年の女の子たちは終始、踊り出さんばかりにはしゃいでいた。」
(81)
「いちばん受けたのが、矢野顕子が日本語で歌った『カントン・ボーイ』だった。」(81)

1980/11/09 イエロー・マジック・オーケストラ、サンフランシスコへ移動。

1980/11/09 夜 マイク・コットン(チューブス)主催のパーティーに出席。高橋幸宏・矢野顕子が同行。サンフランシスコ。

佐藤由紀の証言
「夜10時、シスコの下町。」(81)
「細野、高橋、矢野の3人は、ロックバンド『チューブス』のパーティーに顔を出した。」(81)
「朽ち果てた倉庫を改造したスタジオには妖しげな雰囲気のある人々が集まっている。レコードが流れた。YMOのLP。"スネークマンショウ"のジョークの部分だ。」(81)
「みごとな身体つきのオカマたちがおなかをかかえて笑いころげた。細野と高橋は、少しだけニヤッと笑った。」(81)
「坂本はとうとう姿をみせなかった。」(81)

1980/11/10 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。サンフランシスコ/カブキ・シアター。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 ナイス・エイジ
 ザ・コア・オブ・エデン
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 中国女
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 東風
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 千のナイフ
松武秀樹の証言
「日本的な会場の作りで全員なつかしい思いをする。」
(67)

佐藤由紀の証言

「コンサートとしていちばん成功したのは、10日のサンフランシスコ公演のようだった。」
(81)
「幕が閉じたあとの楽屋には、いろいろな国籍の記者が押しかけ、YMOを質問攻めにした。3人は機嫌よくカメラのために一緒のポーズをとった。めずらしいことだった。」(81)

1980/11/11 『週刊プレイボーイ』11月25日号(集英社)発売。
取材記事/YMOはホントに世界で認められていた!!

1980/11/11 イエロー・マジック・オーケストラ、ニューヨークへ移動。

松武秀樹の証言
「夜9時すぎレキシントン・ホテルに着く。」(67)

1980/11/13 夜 小倉エージと会う。高橋幸宏が同席。ニューヨーク。

小倉エージの証言
「細野晴臣と高橋ユキヒロに久々に出会って、いろいろと話を聞かせてもらったのだが、ロンドン、 ロスアンジェルスに続く残る最後の拠点ニューヨークの『パラディアム』における公演に関しては、なによりもその動員が気になる事と、はたして観客を集めら れるかどうか気になるのと、そんなことを話していた」(82)

1980/11/14 20:25ごろ イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。ニューヨーク/パラディアム。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 ナイス・エイジ
 ザ・コア・オブ・エデン
 
シチズンズ・オブ・サイエンス
 
中国女
 
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 
ラジオ・ジャンク
 
在広東少年
 東風
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 千のナイフ
松武秀樹の証言
「全員感無量でノビノビと演奏する。」
(67)

小倉エージの証言
「ニューヨークの下町独特のゴミゴミした少々うさんくさそうなところにある古い劇場」
(82)
「場所はマンハッタンの南部地区の14丁目の3番街と4番街の間に位置する。」
(82)
「開演予定の8時を25分遅れてコンサートはスタート。ロンドンとロスアンジェルスなど、限られた少人数収容のホールでしか用意しなかったというプロモーション用ビデオ・フィルムからはじまる。」
(82)
「そしてフィルムが終るや否や、坂本龍一のシンセサイザーのフィーチャー・ソロがはじまり、しばしのインプロヴィゼイション・プレイにゴツゴツしたリズム・セクションが絡んでくる。」(82)
「『ライオット・イン・ラゴス』の登場である。意表をついたオープニングだ。」(82)
「レコードでは、前衛的、とはいえクリアーに聞こえる演奏も、ステージではごつごつとしたさまざまなリズムの塊が、放り投げられるといった感じで、そのカ オス的状況をただただ受けとめるしかない。その演奏やサウンドは、予想以上にハードかつワイルドなものであった。そうしたサウンドは続く『ジ・エンド・オ ブ・エイシャ(編注:原文ママ)」でも聞かれる。」(82)
「彼らをすでにロンドンで見た日本のジャーナリストの何人かが"彼らは過激になった"と、一様に評していたが、それはこのことをさすのかと思わず納得。しかし、僕個人の印象としては過激というよりも、ハードかつワイルドになったというのがふさわしいように思ったのだが。」(82)
「そして『ビハインド・ザ・マスク』に続く『ライディーン』あたりからは、なじみのYMOらしい(?)演奏とサウンドのオン・パレードとなる。」(82)
「大村憲司と高橋ユキヒロが交互にヴォーカルをとる『マップス』」(82)
「それに『ナイス・エイジ』、『コア・オブ・エデン』と続くヴォーカルをフィーチャーしたナンバーは、中盤の見せどころだ。」(82)
「正直いってヴォーカルははっきりとは聞きとれない。それより、冷たくつき放すクールさの方が目立つのだが、そのことが逆にヴォーカルに対する関心をもたらしてしまう。」(82)
「それらはまたガッシリとしてめりはりの効いたストレートなロック・ビートが強調されたサウンドを持っていて、体がぐいぐいとのせられていく感じになる。」(82)
「実をいえばその頃になってようやくPAのサウンドが整い、音が客席にぬけて聞こえはじめたのだ。そうしたこともあったのだろうか、とくに『ナイス・エイジ』の終った後には、その日はじめてといえるほどの大きな拍手が起こる。」(82)
「何が起こるのだろうか、といった疑心暗鬼の興味が、歓迎と声援の声に変っていくさまが、このあたりから観客の間で見えはじめたのである。そして『中国 女』『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』から「レディオ・ジャンク』に至って、遂に叫び声をあげて僕の横をステージに向ってかけ抜けていこうとする若 者を見かけた。但し、警備員に押しとどめられたが。」(82)
「男性軍はユキヒロがドラムをたたくために体をゆする以外、ほとんど身じろぎもせず、しかも、無表情のままである。」(82)
「そのいでたちは、YMOとプリントされた白のワイシャツに黒のズボン、それに赤のチーフと、赤黒白を主体とした構 成主義、コンストラクティビズムをモチーフにアレンジしたものだとかで、ロシア青年風と日本の学生風の趣がある。さらにステージのバックもそのモチーフが 貫かれていて、赤黒白に点滅する80センチ四方の箱が、縦8メートル、横16メートルほどに積み上げられている。」(82)
「そして身じろぎしないメンバーの中にあって、ひとりリズムにあわせて体を動かす矢野顕子には、何かと目がいくのだ が、それは彼女がリードを取る『在広東少年』において人気爆発。彼女のキュートな歌いぶりや、大村憲司のギター・ソロが受けて、その日最大と思える程の絶 大な拍手を受けることになったのだ。」(82)
「『千のナイフ』を最後にコンサートは、また、今回のワールド・ツアーは幕を閉じた。拍手と歓声はそれからしばし、鳴りやまなかった。」(82)

ボブ・グロスワイナーの証言
「普通は8ドル〜10ドル、あるいはそれ以上するチケットを特別に3ドルで売り出した。会場には普段なら『ベェニュー(編注:原文ママ)』でロックンロールを満喫していてパラディアムにロックンロールを聞きには来ない多くの日本人ファンもかけつけていた。」
(80)
「お客さん全員に、ポスター・サイズで光沢のある豪華な12ページのプログラムが無料で配布された。」(80)
「ホールのあかりが消え、コンピューター・アニメのYMOのフィルムがコンサートに先がけて紹介された。フィルムではコンセプトのはっきりしない部分もあったが、少なくともコンサート前にはずみはついた。そしてYMOの登場。」(80)
「6人全員が腕に赤いハンカチを結びつけており、1時間半のコンサートの終わりにそれをそれぞれ観客席に投げた。」(80)
「矢野顕子がかなり踊っていた以外、他の5人はコンサートの間中ずっとほとんど動かなかった。」(80)
「ボーカルはバックグラウンド・ボーカル的で判別しにくかった。」(80)

佐藤由紀の証言

「3千人を収容するパラデュウム(編注:原文ママ)劇場はほぼ満席となった。だが立ち上がりがいつもの調子でないような気がする。皮肉にも最高に盛り上がったのは、アンコールの曲あたりだった。」
(81)

近藤雅信の証言
「"ライオット・イン・ラゴス"が始まると黒人たちが踊りはじめて…
。あれはカッコよかったなあ」(39)

※編注:20時開演予定だった。

1980/11/15 イエロー・マジック・オーケストラ、『FROM TOKIO TO TOKYO』フィラデルフィア/エメラルド・シティ公演をキャンセル。

1980/11/15 午後 イエロー・マジック・オーケストラ、ボブ・グロスワイナーのインタビュー取材を受ける。ニューヨーク/レキシントン・ホテル。

ボブ・グロスワイナーの証言

「インタビューはレキシントン・ホテルのコーヒー・ショップで行われた。」
(80)
「コンサートの翌日の午後」(80)
「高橋幸宏は最初からいて、細野晴臣は数分後に話の中にはいってきた。坂本龍一は遅れて参加できなかったが、写真には間に合った。」(80)

※編注:『アドリブ』1月号(同年12月13日発売)に掲載。記事からは、この取材の前に少なくとももう一件別のインタビューを受けていたことがわかる。

1980/11/15 夜 イエロー・マジック・オーケストラ、会食。ニューヨーク。

佐藤由紀の証言
「メンバーは、ホテル近くの焼肉屋で夕飯を食べた。くつろいだ穏やかな空気がテーブルの上にあった。」(81)

松武秀樹の証言
「アルファレコード主催の本当のおつかれさん会」(67)
「タキシード着用風な店なので我々はちょっと違った感じがした。」(67)

1980/11/16 イエロー・マジック・オーケストラ、『FROM TOKIO TO TOKYO』ボストン/ライヴ公演をキャンセル。

1980/11/17 イエロー・マジック・オーケストラ、ニューヨークを出発。

松武秀樹の証言
「朝9時すぎにロビー集合。12時発のJAL(67)


1980/11/18 イエロー・マジック・オーケストラ、成田/新東京国際空港着。フジテレビのインタビュー取材を受ける。

「YMOというのはヘッドホンをし、コンピューターのガイドに合わせて演奏するんだから、場所とか気分に影響されないバンドだと思ってたけど」(62)
「精神的に破壊的になってくると、わざと音のバランスを悪くしてみたり、決められたメロディをとっちゃったりして1回1回のステージが違ってくる」(62)
「これほどその場の気配で微妙な影響を受けるバンドはないんじゃないかと思うようになったね」(62)
「世界進出はね、十分気持ち的には満足したんです。なぜかというと、最初に思った通りのことが起こったんです。各国にいる少数派の音楽好きの人たちに届け ばいいと。それが実現した段階で、もううまくいってるという気持ちはあったわけですね。それはもちろん、ワールド・ツアーをやったときの交流を通してわ かったことなんですけど。そういう意味では、それはビジネス以前の問題なんです」(1)
「音 楽的な、文化的な捉え方としては、YMOの明るさを評価してくれる人が多くて、『キュートだ』という評価があってね。考えてみればヨーロッパの人たちは暗 かったんですよね。ほんとに暗い音楽をやってた。ニュー・ウェイヴの半分以上がなんか暗い響きがあって。でも、ただの暗さじゃなくて楽観主義も出てきて、 そこらへんとYMOがけっこう共振し合ってね」(30)
「音楽的交流っていうのが、ミュージシャンをいちばん落ち着かせるというのかな。非常に心が安心するという」(1)
「自分たちの心許なさに2、3の確信を芽生えさせてくれましたね」
(13)
「ビジネス以前の、そういう成功って大事だなと思ったんです」
(1)
「他は全部、意思疎通はできていなかったと思います。大人達、ジャーナリストたちは特にそう」
(13)
「やっぱり本質的なところは無理みたい」(78)
「彼らは頭で考えて理論でくる。組み立て機構を通って初めて言葉として出てくるんです。そういう場に直面した時、僕 は日本人だなーって思うし、結局、日本特有の曖昧さは解ってもらえないと思う。彼らは東洋の事を僕ら以上によく知っているけど、言葉で表現できない部分 は、全く理解できない」(78)
「ロックをやるにしても、文化や伝統の上でやらなきゃいけない。崩すのも大変な作業のようです、彼らにとっては。そ の点、僕らは楽です。守るべきものも、崩すべきものも何もない。だから滅茶苦茶できる。その分、いろんな可能性が僕らにはあると思うんだけど、そこがどう しても彼らには解ってもらえないようです」(78)
「ツ アーというのは監獄みたいな、牢獄みたいな旅なんですよ。ホテルからホテルでしょう。別に遊ぶ暇もないですから、毎日毎日場所が変わっていって、その場所 を楽しむ余裕もないし。自分で自分に向き合う時間が多くなるわけですよ。スタッフは仕事で大変ですから、めんどう見る人なんかいないですし。最初はもう耐 えられないなと思っていたんです。そういう状況って。それでいろいろな本を持っていって、『写経』というのをそのころ覚えて、唯一それで自分を落ち着かせ ていた。楽しかったんですよ、筆ペンでお経を書くのが。そうすると落ち着くんですよ。そうやってね、最初はかなり病的に不安定だったんだけど、ツアーから 帰ってきたら元気になっちゃって、メンバーの尊敬をまた取り戻したんです。やはりリーダーということで(笑)」(30)

高橋幸宏の証言
「会場も大きなところばかりでしたし、どこでももう本当に盛り上がりましたよね」
(13)
「とてもたいへんだった」(65)
「3日に1回は飛行機に乗ってました」
(26)
「行く国行く国で言葉はちがい(ま、だいたいは英語で通せたけどね)、お金だって毎回変えにゃあいけない。買物が多いもんだから、小銭ばっかりたまるんだ」(65)
「小銭ってエクスチェンジできないでしょう。だから溜まってくんですよ、どんどん重くなっていくの(笑)」(26)
「気候は目まぐるしいほど変わり、果ては文化や思想まで異なるとなると、もう、どうなってもいーもんネ、と言いたくなってしまう。もちろん、考え方次第で は、そんな経験めったにできないし、そうした部分に触れることってーのもけっこう楽しいことなんじゃないか、というのもわからないではない。だが、そのと きの僕たちには、そんな余裕なんてなかった。遊びに来てるわけじゃなし、どうしても気楽な気持ちにはなれなくて…
…。(65)
「コンサートがオフの日でも、その合間を狙って入る雑誌やラジオのインタビュー、TV出演等など、日本でもこんなにやったら煮詰まるだろうに、ましてや毎日のように国がちがうんじゃ、これは頭が爆発しそうになるのもあたりまえ」(65)
「細野さんとはツアー中、いつも帰りたい 帰りたいって言ってまして。ところが、ニューヨークのパラディアムのコンサートを終えて、2人で部屋でいっしょに写真を撮ったり、手紙なんか書いていた ら、突然、細野さんが『このまま続けようか?』って言い出して、『もういいよね、このままずっと回ってても、世界中をずっと』『もう平気になっちゃった』 とか言いあってたのを覚えてますね。明日帰れるっていう嬉しさで、そういう発言が出たのかもしれないけど(笑)」(26)

坂本龍一の証言
「最初、ロンドンでのリハーサルやロンドンあたりまでの公演では、楽音よりもむしろノイズに近い方にと僕なりに音をねじまげてみたいと、メロディを弾くに してもあまり歌わずに弾いてみたいと、そんな風に思って努力してみたんだけれど、ステージでは無理だったんだ。ノラないし、盛り上らない。ショーとして ね。その辺サービスしないとだめなわけだし」
(82)
「それよりもとになってる音楽そのものが歌うメロディを持ってるし、歌わなくちゃいけない。つまり僕の意図を実現するには曲そのものから変えていかないとってことになってね、そんなわけで方針が変ってきたんだ」(82)
「かたちだけノイズっぽくしてもダメだってことが、けっこう努力する中でわかったような気がするんです」(1)
「ワールド・ツアーなんていうと、監獄が移動しているような感じで、地獄なんてもんじゃないわけ(笑)」(24)
「人は2回誕生すると思うんだよね。1度めは生体的な母からの誕生。2度めは心的な誕生。ツアーから帰ってきた後、その第2の誕生をした。細野サンはツアーの最中、ヨーロッパで誕生したらしいけどね」
(83)

矢野顕子の証言
「最初のころは、1回ごとに違う演奏をして、同じようにはやらなかったけど、終わりのほうになって、ライブ・バンドとし て固まってくると、それをこわすような不作法はしない。やっぱり3人ともアーチストだから、音楽のうえでお互いを尊重しているところがありますね」(79)
「大変でしたよ。よく無事に帰ってこれたワ」
(79)
「みんなそれぞれの問題をかかえた人たちだから
…、ツアーという余裕のない状態の中だと、人柄がはっきり出る」(79)
「みんなで団結したり、弱い面を出したり、東京ではあり得ないノリがあった。ストックホルムのホテルで、みんなでウスノロマヌケをするなんて、東京での、彼らの人との付き合い方のパターンからすると考えられないのね」(79)
「体力的には、あの鉄人みたいな教授が弱ってたのをはじめ、3人とも病気がちで、かなりみすぼらしい 体だったね。でもそれを精神力で乗り切ってゆける強さみたいなものに驚いたワ。やっぱり、男の人って強いんだなあと思っちゃった。特に細野サンは寂しがり 屋の面もあるんだけど、あんなたくましい人だとは思わなかった。リーダーの面目躍如っていう感じだったワ」(79)
「私は、弱い状態だったから、生きて帰ってこれたのは皆様の団結のおかげです(笑)」
(79)

大村憲司の証言
「3人とも大きな現象を巻き起こしているパイオニアだから、ビートルズほど大袈裟じゃないにしても、日本にいるときはちょっとしたひとことが、大きな影響 力を持っちゃう。そういうワケで、めったに本音を出さない人たちなんだけど、ツアーだとメンバーだけが隔離されて私生活を共有するワケだから、本音は出ま すよね。最初は、社交的にうまくやろうとしていたけど、やっぱり弱い部分、はずかしい部分がさらけ出されてしまう」
(79)
「三人三様の意外な一面を見させてもらった」
(79)
「ぼくはなりゆき上、教授といることが多かったんだけど、彼はひとりのときはけっこうはしゃぐんだよね。でも、3人でいっしょになると、とたんにお仕事の 顔になる。その切りかえが面白かった。彼は体をこわしていて、そういう意味で、あんまり機嫌がよくなかったんだけど、ユキヒロサンと細野サンはそういうこ とに一切タッチしないのね。3人がそれぞれ、お互いに相いれないところを持っていることもわかったし、また、どこでつながっているのかも見えてきた。相い れないものを持ちながらやってるんだから、そのつながりはよほど強いんだなあと、本当に感じたね。そして、ツアーがあったからこそ、そのつながりがいい方 向に出てきた。こういう関係は本当に面白いね」
(79)
「いっしょにまわってたわけだから、客観視できないところもありますけど、細野サンは、彼の言葉でいえば、ひとつの業(ごう)をはらいのけて、いいところへ抜け出たという感じがします」
(79)
「やってる最中は大変。同じ顔ぶれと、同じスケジュールで行動しなければならないという、その制約がかなり重苦しいし…
…。その中に、自分の役割みたいなものがあるでしょう、出すぎてもいけないし、足りなくてもいけない。ぼくの場合、そのバランスをとるのに、すごく苦労したね。ただ、短期間で世界をまわったわけだから、後から考えると、それなりの充実感はあるね(79)
「自分のことをいえば、シッチャカメッチャカ。もう、必死でしがみついてたっていう感じですね」
(79)
「悪い意味じゃなく、公私ともに破廉恥なツアーだった」
(79)

松武秀樹の証言
「ぼくの場合、持っていった楽器がすごく多いんで、それにすごく神経を使いましたね。途中で何かひとつでも故障すると、演奏ができなくなるわけだから」
(79)
「細野サンの場合、1曲めとか2曲めは普通なんだけど、右足が前に出て、前かがみになり出すと、ノッてきている証拠なんですヨ」
(79)

羽良多平吉の証言
「プレスとして同行しました。雑誌『アサヒグラフ』と『平凡パンチ』の取材という形です。サンフランシスコだけは観れなかったんですけど、それ以外は全部観ています」
(19)
「79年のツアーはすごくアット・ホームな、メンバーとスタッフ同士のホスピタリティに溢れた雰囲気だったのに対して、こちらはもう、メンバーと親しく話をするなんていうのは不可能で、近づくことも簡単にはできなかった。とくに僕はプレス(取材)という立場だったんで」
(19)

三浦憲治の証言
「大変だった。なにしろ毎日ちがう国にいるんだもん」
(36)

鋤田正義の証言

「ツアーは長かったんですよね。二か月くらいやってたのかな。ぼくは全部はついていってない。主要なところは行ったけど、北欧を回るときにはぼくはロンドンに戻ったり」
(12)
「オフィシャル・カメラマンは三浦さんでしたからね」
(13)

村井邦彦の証言
「僕がガッカリしたのは、せっかく海外で成功の芽が出てきたのに、みんな体力ないわけよ。くたびれちゃって、もう海外に出ていくのがやだって言うんだ」
(11)
「裏腹に日本でメチャメチャ売れちゃうんだよ。それは僕は予想しなかったことだった。売れて悪いことはないんだけど、それはそれとして回収できるし、ただ僕としてはさ、日本から初のグループを出そうって必死だったわけだからね」(11)
「彼らは日本の生活、日本の成功に満足しちゃってたんだろうね。結局ハングリーさがなかったんだろうな。ほかの新人グループのツアーなんかに比べりゃ、よっぽど楽なツアーをさせてるんだけど、それでもツライって言ってねえ」
(11)

1980 沖縄旅行。福沢もろが同行。

「それまでは行ったこともなかったし、行きたいと思ったこともなかった」(84)
「たしかYMOのツアーから帰ってきた翌日」
(84)
「ワールド・ツアーでヘトヘトに疲れきっていた僕を、心配した友人の福澤もろくんが『沖縄に行こうよ』って誘ってくれてね」
(52)
「沖縄に行って休もうと誘われたんです」
(85)
「僕のあまりの忙しさを見るに見かねて、"休みが必要だ"って」
(86)
「どこに行くか決めないで、まぁその頃飛行機もすいていたから、行きあたりばったりで、とにかく那覇まで飛んで、それからどこへ行くか決めようと……」(85)
「予定を立てずに、とりあえず羽田へ行って、那覇で一泊して」(86)
「那覇で一晩考えて、やっぱり竹富島だってそん時は思ったんです」(85)
「翌日、南西航空で石垣島へ飛んで、船で竹富島へ着いた」
(86)
「独 特な、旅だったんで、そこの土地の風俗や歴史、なんにも知らないで行くわけですから、下調べしてから行くっていう様な旅をしたことがないんで、衝動的に行 きあたりばったりでよく(あちらこちら)行ったんで当時、で、初めて行ったのがちっちゃなサンゴ礁の島ですから(本島は)全部素通りして
(85)
「ある種、文化があるという印象があって、かなりそれも品格がある香りがしてね、町のたたずまいとか人間とか、それが一つのカルチャーショックでしたね。でも、それ以上にもっとね、やはり大自然に包まれたっていうのは初めてですから」
(85)
「コンドイという素晴らしい浜のそばの雑木林に建つ、比較的新しい民宿に泊まったんだ」
(52)
「適当に選んだ民宿」
(85)
「モルタル二階建て」
(84)
「出来たばっかりで、とてもいいところにあったんですね。村からはずれてて、海のそばにあって」
(85)
「周りには人もいなかった。」
(84)
「人の気配がないところで、泊まっている人も少ない」(85)
「サンゴ礁の海っていうのはなにしろ初めてで、海と同化するっていうか、朝から一日中、陽が沈むまで海を見て」
(85)
「本当に人がいなくて、貸切のビーチみたい。僕らは陽が落ちるまで、でっかい風呂に丸一日浸かってたようなもんだね(笑)」(86)
「宿を一人で切り盛りしていたオーナーが、夜にな るといろんな話をしてくれてね。彼はもともと竹富出身なんだけど、人間関係がうまくいかなくて石垣島に飛び出したと。その後、また竹富に戻ってきて宿を建 てたけれど、あいかわらず土地の人たちとうまくいかずに孤立していて、スゴく深い悲しみを抱えていたんだ。死にたくなるような目にも遭ったらしい。『竹富 というのは女の島だ』とも言っていたな。この言葉が本当に意味するところはよくわからないけれど、なぜか僕はなるほどと思ったんだ。つまり彼は、島と恋愛 するような気分だったんじゃないかな。でも、彼はそんな切ない話をした後に、急に踊り出したりしてね(笑)」(52)
「独特の人で、その当時僕は大変落ち込んでいまして、いろんな事を言われたんですね。的確な、別になんか僕に説教するとかではなくて、ぶつぶついっている事が全部僕の問題にあたっていたわけで
…、こりゃ僕の先生だと思ったわけですね」(85)
「その後も、いろんな事があって、とんでもないものをそこで見たりしているんですよ」(85)
「精霊みたいなのが、飛んできたんですよ。僕は、別にお酒も飲めないし、ただただ星を見ていただけなんですよ」
(85)
「民宿の屋上で、生まれて初めて満天の星を見たんです。10時頃かな」
(86)
「見たこともないほどすごい数の星に我を忘れて見入っていた。と、そのとき」
(84)
「ガジュマルの林の中を光が飛んでいるのに 気がついた」
(86)
「一匹の蛍が下の林をすーっと通っていくのが視野に入った。『蛍がいるな』と思ったが無視して星を見ていたところ、その蛍が自己主張しはじめた。」
(84)
「ストロボを焚いたみたいにバンッと周りが明るくなる」
(86)
「ピカッと光ったのだ。変だとは思ったが、やはり星を見つづけていた。すると今度は、僕の右のほうに飛んできてまたフラッシュする。」
(84)
「空じゃなくて、地上をね、飛んできたんです」
(85)
「2回目のフラッシュで、空を見るのをやめて"そい つ"を見たら、僕の目の高さの5、6m先にピタッと停止したまま浮かんでいる」
(86)
「『やっと気づいてくれたか』とでもいうように」
(84)
「よく見ると、蛍にしてはちょっと大きい。普通の蛍のように点滅もしない。しかも停止したままだ。頭が真っ白になり、何を見ているのか自分でもわからなくなった。」
(84)
「1分間くらい凝視してたら」
(86)
「それは再び動き始めた。僕が何かを思うと、それは違う行動を開始するようだった。次の行動は、上方斜め四十五度に向かって定規で引いたようにまっすぐな 対角線を描き出すことだった。声も出せずに見ていると、2メートルほど上まで線を描いてパッと消えてしまった。そして対角線のもう一端の上方に再び現れ、 前の線と平行に斜め四十五度の軌跡を描きながら昇っていく。」
(84)
「ゆっくり上っては消え、また2mくらい先に現れて……」
(86)
「同じ行動を何度か繰り返したあと、その光は星に紛れてしまった。」
(84)
「気がついたら、もろくんも、僕の後ろか ら"そいつ"を見ていたんだ」
(86)
「その当時はね、東京でもそういうものを見たりしたんですけど、その竹富島で見たものっていうのは、それはもちろん初めてだし、それ以後もないんです。すごく強い印象を持ったんです」(85)
「すぐにそれを曲にするとか、そういうダイレクトな事はできなかったですけど、その気持っていうのは、その後の僕の音楽活動にずいぶん影響があるんで、そ の事自体を歌った曲はないんですけど、精神的な力をもらった体験だから、そこから音楽が出来てきているので、僕にとっては、大事な出来事だったんです。た だ見たっていうだけじゃないんですよね」(85)
「そこが"幻の民宿"だったんです。翌年行ったら、もう無くなっていたからね」(86)
「周りの林も伐られてしまっていた。島の人たちに変わり者と目されていた宿の主が、追い出されてしまったらしい。僕がたまたま泊まったのは、そんな孤立した人が孤立した場所に建てた民宿だったのだ。それでも僕は、毎年のようにそこを訪ね続けた。」
(84)
「10年くらい通ったよ」
(52)
「最初の年だけが、特別のときと場所だったのだろう。」
(84)
「あのときの光が何だったのか知りたくて、僕は何人かの人に同じようなものを見たことがないか訊ねた。見たという人もいた。小型円盤ではないかという説を唱える人もいた。」
(84)
「あれはキジムナー(沖縄の精霊)だったのだろうと思っている。聖域と思えるほどの素晴らしい環境のなかで、精霊も姿を現してくれたのではないかと。」(84)
「濃密な聖域の空気に触れたヘンな旅だった」(52)


1980/11/24 NHK-FM『矢野顕子ライブ』放送。
矢野顕子 矢野顕子(pf, vo)、細野晴臣(syn)、高橋幸宏(ds)、大村憲司(g)
 在広東少年
 ごはんができたよ

1980/11/26 第22回『日本レコード大賞』部門賞審査会で、イエロー・マジック・オーケストラ『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』のベスト・アルバム賞受賞が決定。

1980/11/29 アメリカNBCテレビ『ソウル・トレイン』放送。


1980/12/02 イエロー・マジック・オーケストラ、フジテレビ『発表!FNS歌謡祭'80優秀賞』生出演。「ライディーン」で特別賞を受賞。中野サンプラザ・ホール。

1980/12/03 週刊FM別冊『JOY MUSIC』(音楽之友社)発売。
取材記事/YMO闇鍋風ツアーリポート・プラスアルファ

1980/12/06 「三千礼拝佛名会」に参加。1日目。京都/清凉寺。

1980/12/07 「三千礼拝佛名会」2日目。京都/清凉寺。

1980/12/08 「三千礼拝佛名会」3日目。京都/清凉寺。

1980/12/09 『平凡パンチ』12月22日号(平凡出版)発売。
インタビュー/細野晴臣 イン・L・A

1980/12/09 『サンデー毎日』12月21日号(毎日新聞社)発売。
取材記事/アメリカのYMO

1980/12/13 『アドリブ』1月号(スイングジャーナル社)発売。
イエロー・マジック・オーケストラ インタビュー/Y.M.O. IN USA

1980/12/16 『読売新聞』取材。

※編注:詳細不明。

1980/12/20 イエロー・マジック・オーケストラ「タイトゥン・アップ/ナイス・エイジ」発売。

「これはね、日本のマーケットを意識していたわけじゃないんです。シングルの必要性なんて、僕には全然わからなくて。言われたら、そのときいちばん面白い ものを出しちゃうほかないって。それで、いちばん面白かったのが『タイトゥン・アップ』だったんですね。実際、アメリカの『ソウル・トレイン』で『タイ トゥン・アップ』をやったときに、そういうリアクションが返ってきたんですよ」
(1)
「『JAPANESE GENTLEMEN STAND UP PLEASE』というのは、やっぱりアメリカとか西洋に向けての皮肉っぽい冗談だなと」
(1)
「日本はよくわからないんです。『ライディーン』を小学生が聴いてて、街を歩いてると小学生が僕をつけてくる。まるで野球選手のようで、それが理解できな いんですよ。一方で、外国の大人たちが反応を返してくれるのには、すごくリアリティがあったんです。だから彼らに向けて、シングルを切ったりしてるつもり だったんですね。常に外国のことが頭にあったんです」
(1)

1980/12/21 糸井重里『ペンギニズム』発売。
孤独のローチ・ハント:compose
「この頃糸井重里さんはもう、ほんとにあの、輝くような、存在でしたね」(57)
「なんと、おー、自分のアルバムを、出したりしてました。えー、その前にコマーシャルで、YMOと一緒に、シーナ&ロケット、まあシーナの歌で『浮かびのピーチガール』というのを作ってますが」(57)

孤独のローチ・ハント
「鈴木慶一編曲です」
(57)

鈴木慶一の証言
 孤独のローチ・ハント
「ゴキブリを嫌悪する心、時には女も敵となる青年自閉症マンのためのネオ4畳半ソング。この曲には、TVゲームが織り込まれている。歌のうしろに響くノイ ズをよく聞いて欲しい。逃げるゴキブリをノイズとドラマーが追っかけ回すってェ寸法だ。トラック・ダウンの時に、ゴキブリ登場の音を、オート・パンという 機械で自動的に右往左往するようにしておいて、エンジニアがスイッチ一つで追っかけるという作業が行われた。偶然にも何匹かをつかまえるのに成功してい る。」
(87)

1980/12/23 鹿取洋子『ライブラ』発売。
気分はケセラセラ:bass

1980/12/24 『朝日新聞』朝刊(朝日新聞社)発行。
取材記事「ひと」/今年のLP売り上げ断然トップのYMOのリーダー 細野晴臣

1980/12/24 13:30〜16:00 イエロー・マジック・オーケストラ、会場リハーサル。九段下/日本武道館。

1980/12/24 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。九段下/日本武道館。
出演:シーナ&ザ・ロケット
オープニングMC:ピーター・バラカン

イエロー・マジック・オーケストラ
 坂本龍一(
syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 
ナイス・エイジ
 中国女
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 東風
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 千のナイフ
 オール・ユー・ニード・イズ・ラブ
 テクノポリス
ピーター・バラカンの証言
「後藤美孝さん」
(45)
「彼とは波長が合って、よく音楽の話をしたりご飯を食べに行ったりしてた。あるとき彼から電話がかかってきて、今度彼の大学のときの友人がソロ・アルバム を作ることになった、ついては1曲、詞の英訳をしてほしいと依頼されたんです。その友人というのが坂本龍一で、英訳した詞が『B-2 UNIT』収録の"ザットネス・アンド・ゼアネス"」
(45)
「まだ坂本龍一なる人がどういう人でアーティストなのかもわからずにやってて、レコードができて初めてああ、こういう人なんだって」(45)
「そうこうするうちYMOの事務所だったヨロシタミュージックの大蔵博さんから電話がかかってきて、英訳のギャラの 話もしなきゃいけないし一度会いましょうと。会ってみたらギャラの話は1分で終わっちゃって、本題はヨロシタで働かないかって勧誘だったんですね。僕はそ の頃、もうシンコー(編注:ミュージック)をやめることになっていて、次の仕事先を探していた時期なんで、まあありがたい話ではあったんです」(45)
「シンコーで海外のものを日本に紹介する仕事をしてたでしょう。YMOの場合は逆に日本の音楽を海外に出そうという動きがあったわけで、それはおもしろいと思いましたね。だから二つ返事というわけじゃなく、1分ぐらいは悩んで(笑)、それでやりましょうと返事しました」(45)
「なにより大きかったのは矢野顕子の存在。以前から僕は彼女にすごく注目していたし、ヨロシタの兄弟会社のやのミュージックに彼女がいたから、じゃあおもしろいかなって」(45)
「YMOが全面的にバックをやっているアッコちゃんの『ごはんができたよ』の方が、当時のYMOよりずっとよかったね。ああ、こういう音楽にかなり可能性があるな、と感じたんです」
(46)
「80年の秋ですね。シンコーを11月にやめて、12月の終わりにヨロシタに入社しました」(45)
「ちょうど彼らが海外ツアーから帰国して、その凱旋のコンサートをやる直前でした」(45)
「(編注:MCを担当したのは)とにかくヨロシタの社員になった瞬間から、英語の知識が必要な仕事はすべて僕に回ってきてたから(笑)」(45)

1980/12/25 『シティロード』1月号(エコー企画)発売。
インタビュー/YMOはただのロックバンドじゃないワケ。だから解散はないんだな。

1980/12/25 16:00〜17:00 イエロー・マジック・オーケストラ、会場リハーサル。九段下/日本武道館。

1980/12/25 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。九段下/日本武道館。
出演:シーナ&ザ・ロケット
オープニングMC:ピーター・バラカン


イエロー・マジック・オーケストラ
 坂本龍一(
syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 
ナイス・エイジ
 中国女
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 東風
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 千のナイフ
 オール・ユー・ニード・イズ・ラブ
 テクノポリス

※編注:この日の演奏の一部は、同年12月29日および1981年1月15日にNHK-FMで放送された。

1980/12/26 2:00 FM東京『ラジオ・パラノイア』に電話出演。
共演:伊武雅刀

1980/12/26 16:00〜17:00 イエロー・マジック・オーケストラ、会場リハーサル。九段下/日本武道館。

1980/12/26 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。九段下/日本武道館。
出演:サンディー&サンセッツ
オープニングMC:ピーター・バラカン


イエロー・マジック・オーケストラ
 坂本龍一(
syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 
ナイス・エイジ
 中国女
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 東風
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 千のナイフ
 オール・ユー・ニード・イズ・ラブ
 テクノポリス

※編注:この日の演奏の一部は、同年12月29日にNHK-FMで放送された。

1980/12/27 15:00〜16:30 イエロー・マジック・オーケストラ、通しリハーサル。九段下/日本武道館。

1980/12/27 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』公演。九段下/日本武道館。
出演:サンディー&サンセッツ、コスミック・インベンション、小林克也、伊藤洋一
オープニングMC:ピーター・バラカン


イエロー・マジック・オーケストラ
 坂本龍一(
syn, vocoder)、高橋幸宏(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、大村憲司(g, vo, cho)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ナイス・エイジ
 ライディーン
 マップス
 中国女
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 東風
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 千のナイフ

 オール・ユー・ニード・イズ・ラブ
 テクノポリス
「そのころは変だったんですよ。YMOを宗教法人にしたいという申し出があったりね。身辺がなんかキナ臭くなってきて。自分じゃコントロールできない方向にどうしても行くんですよ」(30)
「腕章なんかつけて、手を上げたりしてやってたんです。これは労働者の気分だったんですけど、それがファシズムのほうに移行していく。最後までそれを引き ずっていたのが坂本君だったんですよ(笑)。何ていうんだろう。一つのグループが勢いを持って爆発的に売れ出すころは、何でもできちゃう怖さがあるんです ね。そのときに宗教法人なんか作ってたら、きっと実現したと思うんですよ。それが嫌で。多分そのころはもう、YMOをやめようと思っていたんですね」
(30)
「YMOでやってきたのは、東京テクノポリスの幻想をどこまで見られるかってことで、それは色あせる運命にあったわけだ。なぜならテクノロジーは、経済と 密接に結びついていたんだから、テクノポリスという構想は、経済的な考えに取り込まれていくのは仕方のないことだった」
(33)
「海外ツアーから帰って来るたびに東京が変わっていく。あれほど幻想を見られた東京が、どんどん衰えていったんだ」
(33)

坂本龍一の証言
武道館のステージは宗教的儀式のようだった」(43)
「YMOがなんか一種、宗教バンドみたいな様相を呈してきた」(24)
「ボクらは少なくとも楽器をコントロールするのが第一なんだけど、そんなボクらを絵として、偶像崇拝的に儀式化しちゃうんだよね、何の打ち合わせもしていない少年少女たちが…
…。つまり作り手よりも受け手側の運動エネルギーのほうが高い。それは恐いことだし、若い世代のカリスマ待望とか、ナショナリズムに結びつく可能性を持っているわけ。ヒットラーが出てきてほしいとか、神が降りてくるみたいにね(43)

高橋幸宏の証言
「僕の記憶ではね、この時の、えーコンサートはすごくよかった記憶があるんですよ演奏が。あのーちょっと落ち着いてるんですけれども、なんかこう、自分た ちが、やってきた感じっていうのが、こう、自分たちでもう一回見直しながらやってるっていう感じでね。非常に整理されてるんですけど。荒削りではないんだ けれども、まあひとつの、ライヴ・スタイルがこれで確立できたなという頃ですね」
(15)
「明らかに海外の時よりもその、攻撃的ではないんだけど、演奏がもう、熟してますよね」
(15)
「余裕のある、なんて言うのかなあ、奥に秘めた、こう、過激さって言うかね、そういう感じに変わってきてんですよね、みんな」(15)
「バランスも、なかなかこなれてますよね」(15)
「79年のグリーク・シアターからここまで来たかなあという感じなんですね」(15)
「コンサートとしては充実してたかなあ」(15)
 ライディーン
ここまでのYMOにおける総決算というか、この演奏形態での集大成という気がしますね。この後、YMO は変わっていっちゃうわけですから。演奏もこなれてきていて、まとまりもあるし、松武さんもこのころになると、だいぶ遊ぶ余裕も出てきている。後ろのもの がいろいろ鳴ってますね」(26)

森岡みまの証言
「武道館で初めてお会いしました。その時のユニークな記憶があって、三人揃って廊下の角に隠れてるんですね。それで待ち伏せして顔だけ出したりして。本当に子供扱いだったんだと思います。そうすると次の角まで走っていってスパイみたいな動きをされていたのを憶えてます」
(88)
「コンピューターを扱っててすごく無機質なバンドのイメージなのに、愛がたっぷりなんです。忘れられない思い出ですね」(88)

※編注:この日の演奏の一部は、同年12月31日にフジテレビで放送後、まずビデオ・ソフト『ライヴ・アット武道館1980』(アルファレコード /1993年)として商品化され、ついでその音声のみを抽出してCD化された(アルファレコード/1993年)。映像はDVD『YMO Giga Live』(東芝デジタルフロンティア/1998年)と『Visual YMO: the Best』(ソニー・ミュージックハウス/2003年)に、音声はCD『ONE MORE YMO』(東芝EMI/2000年)にも収録されている。


1980/12/29 21:00 FM東京『セレクテッド・アーティスト1980』放送。
DJ:山田康雄、ケイ・アンナ

イエロー・マジック・オーケストラ
 ライディーン
 ナイス・エイジ
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 ファイアークラッカー
 ※1980/10/27@ル・パラス

インタビュー

1980/12/29 22:30 NHK-FM『FMライブ・スペシャル』放送。
出演:吉見祐子

イエロー・マジック・オーケストラ
 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 マップス
 ナイス・エイジ
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 東風
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 千のナイフ
  ※以上、1980/12/26@日本武道館
 オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ
 テクノポリス
  ※以上、1980/12/25@日本武道館

1980/12/31 16:00 フジテレビ『イエロー・マジック・オーケストラ ワールド・ツアー '80 FROM TOKIO TO TOKYO IN 武道館』放送。
出演:コスミック・インベンション、芳村真理、小林克也、サンディー&サンセッツ、伊藤洋一
コメント出演:岩崎宏美、ぼんちおさむ、ピンク・レディー、島田洋七、千昌夫、ビートたけし、田原俊彦、浜口庫之助

イエロー・マジック・オーケストラ

 ライオット・イン・ラゴス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ビハインド・ザ・マスク
 ナイス・エイジ
 ライディーン
 マップス
 中国女
 シチズンズ・オブ・サイエンス
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 ラジオ・ジャンク
 在広東少年
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 千のナイフ
 ※1980/12/27@日本武道館

インタビュー

<出典>
(1)YMO読本『OMOYDE』 ソニー・ミュージックハウス, GT music/2003年
(2)田山三樹編著『NICE AGE YMOとその時代 1978-1984』 シンコーミュージック・エンタテインメント/2007年
(3)『Weekly YMO Web magazine』No.06 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年7月21日
(4)『Weekly YMO Web magazine』No.04 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年7月7日
(5)イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』ツアー・パンフレット ヨロシタミュージック/1980年
(6)CD イエロー・マジック・オーケストラ『YMO GO HOME』ブックレット 東芝EMI/1999年
(7)『プレイヤー』7月15日号 プレイヤー・コーポレーション/1980年
(8)福井ミカ&中村俊夫『ミカのチャンス・ミーティング』 JICC出版局/1988年
(9)
田中雄二『電子音楽イン・ ジャパン 1955〜1981』 アスペクト/1998年
(10)『Weekly YMO Web magazine』No.02 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年6月23日
(11)鋤田正義+イエロー・マジック・オーケストラ『Yellow Magic Orchestra × SUKITA』 TOKYO FM出版/2010年
(12)日本テレビ『11PM』 1981年5月20日
(13)DVD イエロー・マジック・オーケストラ『Visual YMO』 ソニー・ミュージックハウス/2003年
(14)FM東京『空想紀行』 1992年6月19日
(15)『ロッキング・オン』6月号 ロッキング・オン/1982年
(16)CD 高橋ユキヒロ『音楽殺人』ブックレット キング・レコード/2005年
(17)『サウンド&レコーディング・マガジン』6月号 リットーミュージック/1982年
(18)『アドリブ』3月号 スイング・ジャーナル社/1980年
(19)
『Weekly YMO Web magazine』No.03 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年6月30日
(20)『アイデア』346号 誠文堂新光社/2011年
(21)備酒元一郎編『ジャケット・デザイン・イン・ジャパン』 ミュージック・マガジン/2004年
(22)『スタジオ・ボイス』12月号 インファス/1992年
(23)坂本龍一『音楽は自由にする』 新潮社/2009年
(24)坂本龍一『SELDOM-ILLEGAL 時には、違法』 角川書店/1989年
(25)『ロック・ステディ』7月号 ステディ出版/1980年
(26)CD イエロー・マジック・オーケストラ『ONE MORE YMO』ブックレット 東芝EMI/2000年
(27)『アドリブ』7月号 スイング・ジャーナル社/1980年
(28)
『テクノ・ボーイ』 双葉社/1980年
(29)NHK-FM『サウンド・オブ・ポップス』 1980年8月22日
(30) 北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(31)『Weekly YMO Web magazine』No.05 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年7月14日
(32)高橋幸宏『心に訊く音楽、心に効く音楽』 PHP新書/2012年
(33)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(34)『週刊明星』6月22日号 集英社/1980年
(35)『コンパクトYMO』 徳間書店/1998年
(36)『Weekly YMO Web magazine』No.09 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年8月11日
(37)『バハマ・ベルリン・パリ〜加藤和彦ヨーロッパ3部作』 リットーミュージック/2014年
(38)CD スーザン『DO YOU BELIEVE IN MAZIK』ブックレット EPIC・ソニー/1992年
(39)『Weekly YMO Web magazine』No.08 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年8月4日
(40)『ロッキンf』10月号 立東社/1980年
(41)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(42)『朝日新聞』10月下旬(各地方で掲載日が異なる) 朝日新聞社/1980年
(43)
『ロッキンf』5月号 立東社/1981年
(44)
CD イエロー・マジック・オーケストラ『UC YMO』ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年
(45)『Weekly YMO Web magazine』No.10 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年8月18日
(46)『銀星倶楽部』11 ペヨトル工房/1989年
(47)CD『細野晴臣の歌謡曲 20世紀ボックス』同梱ブックレット コロムビアミュージックエンタテインメント, デイジーワールド/2009年
(48)
CD シーナ&ロケット『真空パック』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2006年
(49『スタジオ・ボイス』11月号 流行通信/1980年
(50)加藤和彦/前田祥丈『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』 スペースシャワーネットワーク/2013年
(51)加藤和彦『加藤和彦 ラスト・メッセージ』 文藝春秋/2009年
(52)細野晴臣『HOSONO百景』 河出書房新社/2014年
(53)J-WAVE『Daisyworld』 1999年7月11日
(54)J-WAVE『Daisyworld』 2000年8月7日
(55)『コンパル』10月号 立風書房/1980年
(56)
『アドリブ』8月号 スイング・ジャーナル社/1980年
(57)J-WAVE『Daisyworld』 2001年7月1日
(58)矢野顕子『ごはんができたよ』プレスシート ジャパン・レコード/1980年
(59)CD EX『EX2』ブックレット ポリスター/2000年
(60)CD シーナ&ザ・ロケット『チャンネル・グー』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2006年
(61)シリーズ20世紀の記憶『かい人21面相の時代』 毎日新聞社/2000年
(62)『週刊プレイボーイ』11月25日号 集英社/1980年
(63)『毎日新聞』10月24日付夕刊 毎日新聞社/1980年

(64)『MORE』11月号 集英社/1980年
(65)高橋幸宏『犬の生活』 JICC出版局/1989年
(66)『週刊FM』11月10日号 音楽之友社/1980年
(67)松武秀樹『たった1人のフルバンド YMOとシンセサイザーの秘密』 勁文社/1981年
(68)『MCシスター』1月号 婦人画報社/1981年

(69)『シンセサイザークロニクル』 学習研究社/2008年
(70)『ピリオド』 徳間書店/1993年
(71)
『くりくり』10月30日 毎日新聞社/1980年
(72) 『ロッキンf』1月号 立東社/1981年
(73)『公明新聞』11月2日 公明党/1980年
(74)
カセットブック『テクノポリス』 富士写真フイルム/1980年
(75)吉村栄一・田山三樹『ザ・ケミカル・エクスペリメンツ』 1999年
(76)『読売新聞』10月25日 読売新聞社/1980年
(77)『夕刊フジ』12月12日 産経新聞社/1980年
(78)『シティロード』1月号 エコー企画/1981年
(79)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(80)『アドリブ』1月号 スイング・ジャーナル社/1981年
(81)『サンデー毎日』12月21日号 毎日新聞社/1980年
(82)『音楽専科』1月号 音楽専科社/1981年
(83)『GORO』3月12日号 小学館/1981年
(84)『エスクァイア』12月号 エスクァイア・マガジン・ジャパン/1995年
(85)『天使館』0号 おきなわ情報/1992年

(86)『PAPER SKY』no.16 ニーハイメディア・ジャパン/2006年
(87)LP 糸井重里『ペンギニズム』ライナー・ノーツ エピック・ソニー/1980年
(88)CD コスミック・インベンション『コンプリート・ベスト』ブックレット ビクターエンタテインメント/2011年

update:2023/10/15

1979< >1981
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