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chronology 1979


1979/01/02 1:00 FM東京『フュージョン・ライブ '79』放送。
イエロー・マジック・オーケストラ
 プラスティック・バンブー
 東風
 コズミック・サーフィン
 ウォンテッド
 千のナイフ
 ※1978/12/10@紀伊國屋ホール

1979/01/07 矢野顕子のライヴでバッキング。六本木/ピットイン。
矢野顕子  矢野顕子(pf, vo)、松原正樹(g)、細野晴臣(b, syn)高橋ユキヒロ(ds)、坂本龍一(kbd) 他
 曲目不明

1979/01/08 矢野顕子のライヴでバッキング。六本木/ピットイン。
矢野顕子  矢野顕子(pf, vo)、松原正樹(g)、細野晴臣(b, syn)高橋ユキヒロ(ds)、坂本龍一(kbd) 他
 東京は夜の7時
 津軽ツアー
 達者でナ
 やめるわけにゃいかないわ
 Walk on The Way of Life
 カタルン カララン
 ト・キ・メ・キ
 こどもたち
 大いなる椎の木
 Tong Poo
 ごはんができたよ
 また会おね
※編注:細野晴臣が演奏参加した楽曲のみを記載。

1979/01/09 『ロッキンf』取材。

※編注:詳細不明。

1979/01/11 『映画少年』のインタビュー取材を受ける。

※編注:同年2月19日発売の3月号に掲載。

1979/01/15 『イラストレーション』創刊号(玄光社)発売。
エッセイ&イラスト/UFO・魔法・神 そしてイラストレーション
※編注:「科学と魔法の交響楽」と改題の上、『地平線の階段』(八曜社/1979年)に収録。その際、文章の一部とイラストが割愛されている。

1979/01/17 『ロッキンf』取材。

※編注:詳細不明。

1979/01/18 イエロー・マジック・オーケストラ、『GORO』のインタビュー取材を受ける。

※編注:同年2月22日発売の3月8日号に掲載。

1979/01/20 『ニューミュージック・マガジン』2月号(ニューミュージック・マガジン社)発売。
選盤/78ベスト・アルバム
「僕の好きなレコードは殆ど1977年の発売ばかりだった。僕の感覚が1年ズレていたとしかいえない。この原稿を依頼された時、この10枚が即座にでてきたのだ。」(1)
「他にもかなりレコードを買ったが、どれも右から左へ流されて、残っていなかったのだ。」
(1)
「ここで1977年盤を強引に入れてしまったのは、これらのアーティストが1978年にも、さらに79、80と生き続けるほどの魅力を持っているから」(1)
「僕はレコードの聴き方が変わってしまい、そのアーティストがどこへ向いているか、そんなことに敏感になってしま い、例えばキャット・スティーヴンスは昔はとてもヘヴィで嫌だったのが、僕自身がヘヴィになって来たせいか彼の向く方角が痛いほどわかり、とても共感を抱 くようになった。」(1)
「宇宙、UFO、オカルト、コンピューター、TVゲームで明け暮れた。音楽では、ディスコ、パンク、ニュー・ウェーヴ、フュージョン、サンバ、アフリカン達の中にもそのような明け暮れ方をした人々がいた。」(1)
「重くつんのめって行く音楽より、この樣なアーティストのレコードに共感できる。」(1)
「この共感を主役に選ばせてもらいました。」(1)

※編注:細野晴臣が挙げたのは、クラフトワーク『人間解体』、ミーコ『未知との遭遇』、オリジナル・ サヴァンナ・バンド『今宵サヴァンナと』、ディーヴォ『頽廃的美学論』、フェラ&アフリカ70『ゾンビー』、坂本龍一『千のナイフ』、ジョン・ウィリアム ス『未知との遭遇』、ジョルジオ『永遠の願い』、キャット・スティーヴンス『イズ・イット・ソー』、ウェザー・リポート『ミスター・ゴーン』の10作品。

1979/01/21 スペシャル・セッション featuring 村上"ポンタ"秀一『トーキョー・フュージョン・ナイト』発売。
ナビズ・ナッピング:steel drum

1979/01/24 『大貫妙子リサイタル』でバッキング。神宮前/青山タワーホール。
大貫妙子  大貫妙子(vo)、坂本龍一(kbd)、高橋ユキヒロ(ds)、細野晴臣(b)、松原正樹(g)、難波弘之(kbd)、本多俊之(sax)
 言いだせなくて
 約束
 海と少年
 横顔
 サマー・コネクション
 時の始まり
 ワンダー・ラスト
 黄昏れ
 あこがれ
 ゲット・オフ
 何もいらない
 突然の贈りもの
 くすりをたくさん
 都会
 4:00 A.M.
 じゃじゃ馬娘
 愛は幻

1979 ベース教室で講師を担当。渋谷/ヤマハ。

※編注:楽器は教えず主に自らの音楽体験を語る内容で、月1、2回、約半年〜1年にわたり続けられたというが、詳細な開催時期は特定できていない。細野晴臣によって「エキゾチック・クラブ」と命名された受講生たちの中に、篠原章や永田純がいたことも知られている。

1979 近田春夫のレコーディング。

近田春夫の証言
「割と『電子歌謡みたいにしてよー』ってYMOには言ったのかな」(2)
「たまたまやる人が決まってなかったんじゃない?4曲分だけ(笑)。別に曲数に意味とかはなかったよ」
(2)
「作るときに考えていたのは、パフォーマンスとして歌うこと、それから曲を作ること、詞を書くこと、アレンジするこ と、の4つを分けたときに、歌うのはしょうがないけど、作詞してる曲はアレンジと作曲を他の人にしてもらうとか、とにかく一個だけ自分でしてあとは他の人 にしてもらうという組み合わせをいくつもやったらどうなんだろうということだったんですよ。なぜかというと、ちょうどハルヲフォンというバンドを解散した 後だったんで、これからこの業界で食っていかなきゃいけないなと思って、だったら作詞家の部分、作曲家の部分、アレンジャーの部分っていう、それぞれ独立 したショーケースみたいなものを作っていれば、これ聴いて『こいつに詞を頼もうかな』とか『曲を頼もうかな』とか『アレンジ頼もうかな』って仕事が来るん じゃないかなって。そういうコンセプトでやるのはどうかねって、冗談で考えたんですよ」(3)
「自分で全曲アレンジするのって大変だなみたいなレヴェルで頼んじゃったんだけど、あれは大変だったです」
(4)
「全曲頼んでおくべくだったのかもしれないけどね。でも全曲任せてたら5倍くらい時間がかかって、パーになってたかも(笑)」(2)
「まぁ、YMOがっていうか、松武さん?プログラムの。それがものすごい時間かかってさ」(2)
「まだMC-8の頃でさ」(4)
「普通の三分ぐらいの曲を作るのに三日ぐらいかかるんだもの」(4)
「自動演奏でシンセを走らせるプログラムに3日くらいかかってまだ終わらない。それも別に難しいフレーズじゃないんだよ?ホントに簡単なベースの『ドッテドッテドッテ』ぐらいの」(2)
「ただベースでデッデッデッデッと弾くだけで四日ぐらいかかるようなすごいやつだったんだけどね」(4)
「で、自分らは、細野さんとかも含めて、松武さんがそれを打ち込んでる間は、全員手が出しようがないんですよ」(2)
「細野さんとかも当時自分では打ち込めなかったから、全部松武さんがやっていたじゃない」(4)
「で、肝心の松武さんすら暗中模索みたいな(笑)」(2)
「MC-8っていう機械は動作もなんか不安定で、『同期するはずなんだけどしない』なんてやっててね」(2)
「テテテテテテ♪というベースみたいなのがあるとするじゃん。それ一曲打ち込んでレコーディングして、同期しねぇとか、ズレちゃったとかさ、音が出ねぇとか」(3)
「すぐデータがとんじゃうとか」(4)
「松武さんですらわかんなくて悩み込んじゃうみたいなことが起きる」(3)
「あとボーヤ(ローディ)が、ちょっとけつまづいてコンセント外したら1日かけたプログラムがパーとかさ」(2)
「しかも、ものすごく複雑なシンセサイザーを運んで、スタジオは一日やっても終わりやしなくて」
(3)
「しまいにはスタジオの入り口にテープ張って、『立ち入り禁止』みたいにしてさ。すごいものものしいのよ」(2)
「次の日同じところから始まって、でも違う音になるみたいな」(3)
「俺なんか現場行っていたんだけどほとんどやること無くって、ロビーでずっとビールを飲んでいた」(4)
「結構無意味な時間が多いんだよ」(4)
「あのころってスタジオにインベーダー・ゲームの機械とか置いてあったんじゃないかなぁ。細野さんたちはそれをやってたんじゃない?僕はああいうの好きじゃなくてさ、女の子のとこに遊びに行っちゃったり(笑)」(2)
「だって何時間待ってたって何も出てこないんだもん。だからみんな三々五々って感じで散っていってさ。またしばらく してから様子を見にくるんだよ。結局松武さんの作業がすべてだからさ。そんな調子だから、俺もだんだん『コンピューターってすごいもんなんだなぁ。でも何 がすごいか分かんないや』っていう(笑)」(2)
「とにかく『これはなんだかわかんないけど、コンピュータでやるとこんなに大変なのか』っていう、そこがいちばん面白かった。それってお金がすごくかかる んだけど、当時はいい時代だったから、レコード会社がちゃんと払うのがおかしくて楽しかったですね。しかも、レコーディングしていて、そのスタジオに『荷 物が届きました』って、アメリカから初めてプロフェット(編注:プロフェット5)が届いて、みんなで見て。そんなことばっかり味わえたから楽しかったね」
(3)

※編注:アルバム『天然の美』のセッション。

1979 イエロー・マジック・オーケストラ、海外発売記念記者会見。村井邦彦らが同席。

※編注:細野晴臣以下メンバーがタキシード姿で会見に臨む写真が複数残されている。日時・会場は不明。

1979/02 アメリカ/ロサンゼルスへ出発。

「A&Mが出すにあたって、彼らの範疇でリミックスしたいとトミー・リピューマからオファーがあった」(5)
「来てくれといわれて一人で行ったんです」
(5)

1979/02/10 『宝島』3月号(JICC出版局)発売。
インタビュー/ぼくが音楽に出会った日 1

1979/02/11 『朝日新聞』朝刊発行。
取材記事/もう一つの私 エレキ・ベース

1979/02/12 『イエロー・マジック・オーケストラ』リミックス。ロサンゼルス/キャピトル・レコード・スタジオ。

「相変わらず誰もわかんないんで、僕まかせなわけです」(5)
「任せるつもりで行ったところが、彼らは何やっていいかわかんなくて、『ここはどうしたらいいんだ』とか。それで、オリジナルのミックスを参考にして忠実 に作ってもらったんです」
(5)
「ホライゾンで出すにはホライゾンの質でやる替り、細かなディテールや曲順、バランスはこちらからの指示を通したんです」
(6)
「エンジニアがアル・シュミットといって、僕が好きなミキサーだったんで、非常に興味深く一緒にやったんですけど」(5)
「アルが是非やらせてくれ、ということだったし、彼の仕事はデイブ・メイソンと組んでいるころから好きだったので引き受けたわけです」
(6)
元のミックスを聴きながら、アル・シュミットとそれをそっくりに再現するっていう、面倒臭 い、全然面白くなかった仕事なんだけどね」(7)
「でも、僕らの音をアルが完全に理解していなかった」(6)
「憧れの人だったんだけど、YMOと合わないのはわかってるんですよ、向こうも。アコースティックの人だし、非常にナ チュラルな録り方をする人だから、違和感があったままずっとやってましたね」(7)
「ミックスはほとんど変わらなかったですね。ただ彼らはエコーがだめだっていうんです」(5)
「トミーの見解なんだけど、日本のエコーがダメだと」(7)
「リミックスはキャピトル・タワー(LA)でやったんだけど、そこのエコー・ルームが彼らの自慢なわけです。大きな部屋 で、壁に水がつたってる、そういうエコー・ルームなんですよ」(7)
「伝統的に素晴らしいエコー」(8)
「それで、やはりイメージとは違ったものが上がってきた」
(7)
「確かにエコーの質と低音部の処理が太くなったというか、まろやかになったというか。ひょっとするとよりフュージョン寄りにされたというか、ナチュラルな感触に少し近づいちゃった。あれだったら僕は東京ミックスのほうが好きだな、みたいなことを思ってるんです」
(5)
「前のほうが東京っぽ かった」
(7)
「東京臭さというか、ある種民族的な香りが削ぎ落とされると、面白くなくなっちゃうと思うんですよね」(7)
「トミー・リピューマもわかんないわけで」
(5)
「トミー・リピューマはそれほどシングル志向の人じゃない。ですから買って聴くものとして、ヤッピー向けというか、大人向けに考えてたと思うんです」
(7)
「そこでやってわかったのは、テクノっていうのは非常に東京臭いものなんだと。それが彼らにはわからないところだったんですね」(7)
「トミーの中では、あれもフュージョンの変な一形態というか、へんてこりんなものだったんじゃないかと思うんです」
(7)

吉沢典夫の証言
「細野さんにしてみればサウンドのポリシーがあって日本版のああいう音にしたんだから、そこからあまり外れたものを作ってもらっちゃ困るという意識もあったでしょうしね」
(9)
「78年当時、スタジオ"A"はエコー・マシンだけがちょっと貧弱だった。輸入しようとしてたエコー・マシンがなかなか入ってこなくて、そこが弱点だったから。だからエコーを変えたっていうのは納得できるんです」
(9)

1979/02/13 『イエロー・マジック・オーケストラ』リミックス。ロサンゼルス/キャピトル・レコード・スタジオ。

1979/02/14 『ロッキンf』3月号(立東社)発売。
連載「プロデューサー研究」1

1979/02/14 『イエロー・マジック・オーケストラ』リミックス。ロサンゼルス/キャピトル・レコード・スタジオ。

1979/02/15 『プレイヤー』3月号(プレイヤー・コーポレーション)発売。
対談/細野晴臣と共に語る、エレクトリック・パンク&ファンクのテクノポップ・ミュージック 坂本龍一 × 細野晴臣
※編注:坂本龍一の連載「シンセティック・エッセンス」の第2回。

1979/02/15 『イエロー・マジック・オーケストラ』リミックス。ロサンゼルス/キャピトル・レコード・スタジオ。

1979/02/16 『イエロー・マジック・オーケストラ』リミックス。ロサンゼルス/キャピトル・レコード・スタジオ。

1979/02 アメリカ/ロサンゼルスから帰国。

「ハリウッドのチャイニーズ・シアターの前とか大きなビルボードの下をクルマでよく通ったよ」(8)

1979/02/19 『映画少年』3月号(白夜書房)発売。
インタビュー/日本歌謡界の突破口を開きたい!

1979/02/22 『GORO』3月8日号(小学館)発売。
イエロー・マジック・オーケストラ インタビュー/意識と音を直結した新感覚ポップスをめざす、イエロー・マジック・オーケストラ

1979/02/24 坂本龍一と対談。

※編注:同年3月発売の『ジャズライフ』4月号に掲載。

1979/02/25 『ハイフォニックス・ハイフォニックス』発売。
ジャマイカ・ジンジャー:compose, arrangement, bass, gut guitar, steel drum
ジャマイカ・ジンジャー
「マイアミのホテルのロビーにいる様な、楽しいハッピーな感じの作品にまとめてみました。サンバ風、カリプソ風、レゲェ風……そんな風に、いろんな風や香りが伝わってくるように考えてみました。ジャマイカの風や香りを運んでいけたらと………。」
(10)

1979/02/26 『読売新聞』取材。

※編注:詳細不明。

1979 南佳孝のレコーディング。

※編注:アルバム『スピーク・ロウ』のセッション。2月26日〜5月18日の期間に行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。

1979/03/01 坂口良子『果実酒』発売。
大人の匂い:bass
失恋コラージュ:bass
果実酒:bass
風もなく……:bass
メランコリーホテル:bass
傷心:bass
春待ち人:bass
P.S. I love you:bass
想い出色の雨:bass

1979/03/02 イエロー・マジック・オーケストラ、アルバムのレコーディングを開始。芝浦/スタジオ'A'。
デイ・トリッパー
ビハインド・ザ・マスク
「まず、コンセプトとして、A面・B面に分けて、B面は1枚目のイメージをひきつぎ、A面はイメージを少し変える、ということが決まった」(11)
「このコンセプト以外に、レコーディング前に決まっていたのは、3人のメンバーが、それぞれ、3曲ずつ作品を書くこと、そして、レコーディング・スケジュールだけだった」
(11)
「事前にこれしか決まっていなかった、というのは、ほんとうに異例のこと。これには、いろんな事情があるんだけれど、ようするに打ち合わせをする時間がなくなってしまったんだ」(11)
「べつに、あわてて作る必要もないんだけど、ただ、作りたいという欲求が、すごく強くてね。それにまかせてレコーディングに入っちゃったんだ」(11)
「第一作業として、あらかじめテンポだけを決めておき、各人三曲ずつくらい作ってくるようにして」(12)
「お互いの個性を尊重し合う"機会均等主義"にのっとってね」
(12)
「ふつうは、曲は全部用意されていて、リハーサルをやって、選曲、アレンジも事前にやってある。こうしてやってゆ くっていうのが、立派なプロデュースのやりかたなんだけれど、そういうのは全部やめちゃったわけ。だから、曲についても、どんな曲が出てくるかわからな い、というスタイル。これもひとつの手段だと思って、何が出てくるかわからないままで、てさぐりで進んでいった」
(11)
「とはいっても、まったくデタラメにやったというわけでもないんだ。まず、タレントのイメージは、最初からあった。どんどん変化してゆくメタ・ポップスであるというコンセプト自体がそうだ」(11)
「イエロー・マジック・オーケストラのテーマはメタ(超)・ポップス」(11)
「常に変化してゆくこと、ひとつひとつがすぐれていて、しかも際限なく、どんどんよくなってゆく。可能性が広がってゆくっていうのが、このグループ全体のコンセプトなんだ」(11)
「1枚目は皆現状に満足できないというか、社会全体にね。でアイマイだけど良くなりたいって意識があって、人間的にもっと超越したいとか」
(13)
「その反動として自分たちの生活がかなり病的で好きな音楽もかなり病的な、クラフトワークとかそういったものにすごくひかれてて」(13)
「最初から僕等は理想を求めちゃってて、LPの中にそれを作ろうとして、それが出来ないことが分かって。まず自分達 がそういう状態じゃないし、現実にはかなりマイッタ精神状態でやってるし……ただ求める心だけは強かった。だから今すぐできないものを今求めるんじゃな く、LPを作っていく度にベールがはがれていって、最後には到達するという大きなコンセプトでやっていったんです」(13)
「『メタ・ポップ』という言葉を考えていたんです。ジャンルから逸脱している状態がずっと続いていて、言葉をいろいろ探していたときですね。こういう音楽はなんなんだろうと」(7)
「自分を落ち着かせるための意味のようなものとしてね」(7)
「いろいろキーワード探してたんです。当時の僕たちの世界観に対して、影響を与えてくれたのは最新物理学の世界なんですね。それは大きな哲学を含めたもので"メタ"っていうことに非常に憧れを持って」
(14)
「これは、すごく俗っぽいキャッチ・フレーズでね。まあディーヴォの逆なんだ」
(11)
「東京っていうのは、ひとつの実験場で、ぼくたちは実験動物で、汚されて変わってきたというわけ」(11)
「トミー・リピューマに、プロモート用のメッセージを送ったんだ」(11)
「僕の考えをまとめて手渡したんです」
(13)
「なんかA&Mに求められて、海外用に書いたことは書いたんですね」(7)
「これから売っていってもらうことを基本的に理解して貰おうと思ってなんだけど」
(13)
「売り文句といえば『東京からきた音楽』ということと、それから『病気』ね」(13)
「『東京は実験場で、これはそこから出てきた音楽だ』とか」(7)
「『自分としては、この音楽をメタ・ポップスと呼びたい。われわれの目標は、メタマー(変態形)』」
(11)
「今までのジャンルをとびだしたいという意識を打ち出して、それでも当然共通の部分がないと受け入れられないので、それをディスコに求めて」(13)
「作品こそできてなかったけれど、作家は決まっていた。さらにタイトルも『メタマー』と決めてあった。もちろんレコーディング・スタッフも、基本的に前作と同じだから、すでに決定していたわけで、その意味では全体のコミュニケーションにも問題はなかった」(11)
「それ以外に、事前に決めておかなければならない要素としては、スタジオがあるけど、それは最初からアルファ・スタ ジオに決定していたし、ミュージシャンも、自分たちだから、すでに決まっていることになるしね。さらに、レコード完成後のプロモート計画も、基本的にはで きている。つまり、アメリカ・ツアーをするということだ」(11)
「すべてについて変則的ではあるけれど、レコーディングの必要条件だけは満たしているわけ。もっとも、そうでなけりゃ、レコーディングはできないけどね」(11)

デイ・トリッパー
「鮎川君とのセッションでアレンジが決まった」
(15)

高橋幸宏の証言
「1枚目を作ったばかりの勢いがまだ残っていて。僕の中では、よりイギリス的なものをやりたいっていう感じだったんですね」
(7)
「ヨーロッパというよりイギリス。それは僕が勝手に持ち込んだものです」
(16)
「ディスコだったファーストから、意識はロックに移っていたんです」
(16)
「それでどんどん、自分のアイデアを言うようになって、わかってもらいたいっていう感じでした」
(7)
「他の二人も感覚的にすぐに賛同してくれた。とくに教授は、ヨーロッパの実験的なニュー・ウェイヴに詳しかったし、細野さんはいい音楽だったらなんでも吸収するタイプだから、YMO全体が一気にそっちに傾いていったんです」(16)
「三人とも世の中の動向に影響を受けてたんですね。78、79年頃はパンクからニュー・ウェイヴに移り変わっていった時期で、テクニックよりも精神性を重視する風潮になっていった。YMOもそうなったんです」
(16)
「70年代半ばのアメリカってMORの時代じゃないですか。なんでもソフィスティケイトされて、黒人までもがシャープさを失ってメロウなものばかりをやり だしていた時代。アメリカの音楽がつまらなくなってきたなと思いだして、それに対する反発がパンク、ニュー・ウェイヴに向かわせたんです」
(16)
「ただ、あくまで僕は、プロデューサーは細野さんだと思っていたので。というか、細野さんは何もやらないんですよ。自分から曲を作ってこない。『どんなの?』って聞いてくるだけで」
(7)
「人にやらせるのがすごくうまい人だったですね、当時から」(7)
「細野さんはまだ沖縄とか細野さんのイメージでやっていて、僕と教授は完全に意識がイギリスに向かっていたので、これは任せちゃったほうが面白いかもという感じは、あったかも知れないですね」(7)
「皆で言ってたのはメタ・ポップスってこと。メタっていうのはメタモルフォーセスのメタで、要するに 超突然変異。いわゆるニュー・ウエーブとかああいった流れとはまた異なった音楽をTOKYOから出したい、東京を売り文句にしたいって気持が個人的にはあ るわけで」(13)
「"病気"だと言ってるんです。東京に住んでる俺達はね。色んな抵抗力とか生活の基準とかね、全て含めて音自体が病気で、それを極端にプロモーションのためのポーズとして出していきたい」(13)
「たとえばDEVOがDEVO(退化、退廃?)というのなら我々はもっと強力なメタモルフォーセスだと……。そういう強いインパクトでプロモーションしたいな、と。それがどんな軽薄なものでも構わない。外国ってのは分かりやすくしないと、あまり複雑な回路でプロモーションすると非常にインパクトが弱くなるし、ストレートでなきゃ駄目でしょう」(13)

坂本龍一の証言

「メタっていうのは、メタファー(隠喩)のメタでもあるわけですよね。システムの下部構造というか、パラダイムに近いものを意味していますね。『メタ・ ポップ』というのは、ポップ・ミュージックの歴史を換骨奪胎するというか、もう一回リコンストラクションするっていうか」
(7)
「細野さんがアメリカに行って、アメリカのプロデューサーと、考えて」
(17)

小池光夫の証言
「吉沢さんから代わって、というのはスケジューリングの関係で、だと思うんですが」
(18)
「トラック・シートを見ると、レコーディングを始めた頃はアルバム名も決まってませんね。それでもこの頃まではスタジオに入ってから曲を作るっていうんじゃなしに、ある程度骨組みの部分を作ってきた上でスタジオに入ってきてましたね」
(19)
「前例のない音楽なので、録音作業に関するルールを手作りで決めていった」(18)
「例えば"シンセサイザーの音を"って言ってもシンセだけでトラックの大半が埋められてしまうから、なんのシンセか?というのをひとつひとつ名前を決めていったりとか」
(18)
「機材名で表記するにしても、数や種類が多すぎるんで、そうするしかなかったんですね」
(18)
「そういう小さなことからミックスに至るまで、もう本当に…ひとつひとつですよね」
(18)
「最初は『デイ・トリッパー』と『ビハインド・ザ・マスク』っていうもう原型ができあがってて、アレンジだけをすればいい曲から取りかかってますね」(19)
だいたいの基本リズム・パターンとテンポを決めて、軽くやってみるんです。ある程度まとまると、その長さ分のMC-8のデータ信号であるFSKを録音して、それに合わせてクリックを録るわけです」(20)
「データ信号は一番最後のトラックに、クリックはその隣のトラックに録音していましたね。最初はそういうノウハウがなくて、どこでもいいと思っていたんで す。でもデータ信号を真ん中のトラックに持ってくると、両方にクロストークが出る。だからデータ信号を端のトラックに、その隣をクリックに……実際には再 生しない音にして、データのクロストークが出てもいいようにしたんです。つまりクリックが防波堤になるんですね。ただ、クリックはピークの音があるんで、 データに影響を与えてエラーを起こすんですよ。このクリックとデータ信号のレベルを調整するのに手間取りました」
(20)
「だからその辺を加味して、データ信号の方にはDOLBYを入れず、クリックの方に入れるとか、どうしてもだめな場合は、クリックを逆にトラック1に置いておくとか。余裕があるときは、トラック24にデータを入れて、22にクリックを入れて、23は空けておきましたね」
(20)
「当時、マイクでの録音がメインで、シンセサイザーをシーケンスでコントロールする方法は、ある意味で確立されたスタイ ルじゃなかった。そのため、いろんな技術的なトラブルが多く、それを回避するのが大変でしたね。ほとんどがライン録音だし、シーケンサーの同期をスムーズ にするシステムを作るのにも試行錯誤しました」(20)
「ラインのノイズを消すためにアース・ループを取ることなんて、だれも教えてくれなかったから。シンセの出力レベル が低くてノイズが出るときに限って、メンバーがいい音だと言うことが多いんで、ノイズを取らざるを得ないんですよ。でも、どこでループを取るかはやってみ ないと分からない。だからループ用のシールドをシンセに当てたり、MC-8に当てたり、ペダルに当ててみたこともある。で、ピタッと止まることがあるんで す。その喜びは本当にすごいものがありましたよ(笑)」(20)
「"スタジオ占拠状態"とかは、実際はなかったですよ。要するにあれだけの機材があるわけじゃないですか。それを次の人の時間が来たからっていちいち片付 けていては非効率的だ、と。それで置いておいた方がこちらも楽だしという理由でそのままにしておいたのが、大袈裟になってしまったわけで。まあ、ドラム・ セットに毛布をかぶせて置いたりしたから、後から使った人は"なんだろう?"って思ったかもしれませんけど(笑)」
(18)
 デイ・トリッパー
「カヴァーで、もと歌が分かってますから、とっかかりがあったということで」
(18)

松武秀樹の証言
 ビハインド・ザ・マスク
「完成するまでには5日間ほどかかった。まず曲の構想をみんなでじっくり練り、できる限り楽譜に表わした。それから次にその楽譜にコンピューターで演奏するために必要なメジャー・ナンバーをふった。」
(21)
「ここで曲の全体のテンポを決めるのだが、あとになってこのテンポを直すことは、普通の楽器を演奏する場合は、なんでもないことだが、MC-8を使って自動演奏させ、多重録音をする場合には、このテンポは絶対に変えられない。」(21)
「その決まったテンポで今度はMC-8を使って次のパートを一緒に録る。」(21)
「(1)テープとの同期信号」(21)
「(2)演奏者のためのガイド信号(メトロノームのような役割)」(21)
「(3)なかには2つでは満足できない人がいるので、もうひとつ他にリズムBOXで、ガイド信号を入れる。」(21)
「これら3つの信号は、後のパートで必要な時にいつでも取り出すことができる。」(21)
「次に録音した部分は、ベースであった。さて次の段階の録音手順」(21)
「(1)ベースの部分 (2)16分音符のアルペジオ (3)MOOG III-Cを使ってキック (4)幸宏によるスネア・ハイハット (5)テーマの部分 (6)ボコーダーの部分/コードの部分」(21)

日笠雅水の証言
「レコーディングはたいてい夕方から明け方にかけて行われていました。」
(22)
「出来上がって来るサウンドがいかに凄いものであるかスタジオにいた誰もが実感していましたし、みんながみんなとても若くて、このアルバムがいかに凄いブームを作り出すか確かな予感に興奮もしていました。」
(22)
「あるとき幸宏さんが『僕たち今にきっとYMOとかって略されて呼ばれるようになったりするんだよ』と言い、細野さんが『ワイエムオーか、イモよりはいいね』と答えたのを覚えています。」(22)

1979/03/06 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
インソムニア
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
クリス・モスデル君の詩にインスパイアされてユキヒロが一気に書き上げました。」
(15)

インソムニア
「不眠症というタイトル」
(15)
「僕が当時、不眠症だったのを、そのまま曲にしたっていう、悪夢のような曲」
(23)
「唯一テーマが先行した曲です。」
(15)
「『INSOMNIA』みたいな曲は味つけとして、スパイスとして、後で僕が入れるわけです(笑)」
(5)
「このころ、YMOのダークサイドの部分を僕が受け持つことになりがちでした。僕の音楽の作り方は、みんなができたあとを埋めていくという作業だったので、ついバランスを取っちゃうような曲ができてきて」
(23)

坂本龍一の証言
 インソムニア
「悲しくも不思議な曲ですね。」
(24)
「あまりこういう楽想ってのは、POPSにないような気がするのですが、ルーツは何だろう????」
(24)

クリス・モスデルの証言
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
「プラスチックスのための詞を書いたのですが、パンク的なアイディアの詞でした。それが『ソリッド・ステイト〜』の原型です。発想としては、疎外された、 オートマ化され、個性が潰された社会の光景のような感じで。いわば、映画の『ブレードランナー』とかジョージ・オーウェルの未来小説『1984』のような 世界ですね。個性をなくした世界の光景を断片的に綴ったような。あれをどこかのカフェで書き上げた時は『おお、うまくできた!』って興奮して、そのまま家 に自転車で帰ったら、なんと、書き付けた紙をどこかに落としていたことに気づきました」
(25)
「それで慌てて自転車で通った道を戻っていって、幸いなことに見つかったんですよ」
(25)
「まあその歌詞も全部は歌われなかったけど」(25)

中西俊夫の証言
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
「クリス・モスデルとかよく詩を売り込みにきてた。」
(26)
「『Solid State Survivor』とかちょっと僕的には恥ずかしいタイトルがついていました。僕らが没にした後で、彼はYMOに持って行って後は…歴史です。」
(26)

1979/03/08 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
デイ・トリッパー/syn drums
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー/synthesizer

1979/03/13 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
テクノポリス
「教授がヒット曲とはどんなものかと頭をひねって作曲した」(15)
「『テクノポリス』の中には、欧陽菲菲のベンチャーズ版というのがあったと思う」
(7)
「分析して作ったにせよ、メンバーの中で坂本くんは唯一、歌謡曲の才能があるんじゃないかと。幸宏や僕も、歌謡界で仕事をしたりしていますけど、ポップセンスはあるけど、歌謡曲センスっていうのはないんじゃないかと思いますね」
(23)
「コンピューターのデーター信号とガイドリズムを先に録音し、それを聞きながらドラムを入れていきました。」
(15)

坂本龍一の証言
「これは当時『東京歌謡』(そんなジャンルは存在してなかったが)のつもりで作った」
(24)
「東京歌謡曲の回答」
(7)
「六本木ピットインとかで、YMOは確かピンク・レディーの曲をやってるでしょう」(7)
「東京の民族音楽としてピンク・レディーのメロディーを使って、東京から発信するという気持ちはあったはず」(7)
 「細野さんから頼まれたというより、むしろ僕からのオファーだった気がするんですよ」(7)
「あんまり歌謡曲になってませんね〜、これは歌えないと思うよ(笑)。サビの部分は、ぼくが好きなパターンらしくて『U.T.』にも出てきますが、本人は意識してません。」
(24)

小池光夫の証言
「やはり、まずFSK信号とクリックですね」
(20)
「クリックが終わると、ベースからでしょうね。普通はトラック1から順に録っていきますから。まあその前に、どこか のトラックにガイドのコードがあったと思うんですよ。それを聴きながらシンセ・ベースを録っていって、スネアとかドラム系を録っていったという感じでしょ うか」(20)
「キック、ハイハット、スネアは同時に録ってますね。音を聴いたらハイハットにスネアがかぶってましたから」(20)
「僕はこの曲の録音を最初からやってないんですけど、最初に録ったのはベースからリズムまでと、(編注:トラック)11、12のProphet-5による "ビヨーン、ビヨーン"っていうハチの音(0:02)と17、18のフルートみたいなKORG PS-3100のコード(0:43)ですね。というのも、トラック・シートの字が僕じゃない(笑)。それ以外は仮で録ったのを全部録り直してると思いま す」
(20)

1979/03/14 『ジャズライフ』4月号(立東社)発売。
対談/キーボードが鍵盤楽器でなくなる、そんな未来がくるかもしれない 坂本龍一 × 細野晴臣
※編注:記事中、同年5月30日 日本青年館でのイエロー・マジック・オーケストラ公演が告知されているが、実際には開催されていない。

1979/03/15 『プレイヤー』4月号(プレイヤー・コーポレーション)発売。
イエロー・マジック・オーケストラ インタビュー
※編注:北中正和によるこのインタビュー記事は一部改変の上、同年7月25日発売のLP『イエロー・マジック・オーケストラ』のライナー・ノーツに収録された。

1979/03/16 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
デイ・トリッパー/synthesizer
ビハインド・ザ・マスク/synthesizer
インソムニア/synthesizer

1979/03/17 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ライディーン
「別に整然と出てきたんじゃないんですよね。幸宏がポーンと提示したやつに、皆が反応してできた」(7)
「これはアニメだと思ったんですよ。タイトルは僕なんですけど、いい加減な気持ちで付けたんですよ」(7)

坂本龍一の証言
「生まれる瞬間というのをよく覚えてるんですけど。レコーディングが終わって、どこか青山の近くに飲みに行ったんですよ、幸宏と2人で。幸宏はノルマの曲 ができなくて悩んでたんだけど、そこのお店で、幸宏が鼻歌を歌い出したんです。それで僕が、慌ててそのへんのナプキンだかにそれを書き取ったんだけど、そ れが『ライディーン』のメロディーなんですね(笑)。翌日にスタジオに行って、それにハーモニーを付けたりして、かたちにしていったんです」
(7)
「『七人の侍』とか『椿三十郎』といった黒澤映画がテーマだったでしょ」
(12)

高橋幸宏の証言
「教授は、僕が鼻歌で歌っていたって話をするんですけど、僕は覚えていないんですよ」(7)
「どこかのカフェでぼくの鼻歌を教授が採譜したというのが通説になっていますが、それはたぶん、教授の記憶違いだと思います。『中国女』と、この『ライディーン』のときのことがこんがらがってしまったのかもしれません」(27)
「ぼくの記憶では、この『ライディーン』に関しては、ごく簡単にですが、譜面に書いたような気がするのでね」
(27)
「この曲がどういう経緯で、どういう音楽に影響を受けて生まれたか、それは漠然としていて覚えていないんです」(27)
「ただ、映画『スター・ウォーズ』を、黒澤明監督が撮ったらどうなるんだろう、みたいなことを細野さんが言ってて、そこから、この曲は始ったような気がします」(27)
「黒澤と『スター・ウォーズ』を掛け合わせたようなっていう」(7)
「僕の勝手なイメージですね。『街道モノ』って言ってましたから。桜吹雪が散るようなイメージにしたいとかね」(7)
「それで最初の『チャンチャンチャーン』があって、マイナーで次に3度下がって、メジャー・セブンにっていうのは、 キーボードで考えてたんです。それでたぶん途中のメロディーを、どっかで教授に話したんだと思う。出だしのところじゃなくてね。それを教授が、ブロック・ コードにしてアレンジしてくれたわけです。それが非常に大きかった」(7)
「細野さんが、『アメリカで今、「(勇者)ライディーン」っていうアニメがヒットしてるよ』って言うんで、『じゃあ「ライディーンにしちゃおう』って」(7)

1979/03/19 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー/drums(高橋ユキヒロ)
ビハインド・ザ・マスク/synthesizer

1979/03/20 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
テクノポリス/synthesizer
ライディーン/synthesizer

1979/03/21 古谷野とも子『フロム・インサイド』発売。

※編注:bassで参加しているが、参加曲の詳細は不明。

1979/03/22 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
アブソリュート・エゴ・ダンス
「僕のアクの強い作品」(15)

坂本龍一の証言
「ほとんど細野さんが(スコアを)書いてきた曲です」
(7)

1979/03/23 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
デイ・トリッパー/drums(高橋ユキヒロ)
テクノポリス/synthesizer


1979/03/24 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ビハインド・ザ・マスク/SE, drums(高橋ユキヒロ),  synthesizer

1979/03/25 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
テクノポリス/synthesizer, SE


1979/03 福澤諸と知り合う。練馬。

「ある日、頭から水を浴びて彼のとこへ逢いに行ったの。何故水を浴びて行ったんだかはわかんないんだけど、そういう気持ちになって」
(28)
「そこにもろくんがいまして26歳だったと思うんです」(29)
「その彼が撮った写真というのが驚きで、えー、自分の部屋の窓から、ポラロイドで、アダムスキー型タイプの、円盤というのをね、えー写してあるんですがこれがまたリアルでね。本物なんですね。いるんです。円盤は」(29)
「彼はその後、目の前でスプーンを曲げてくれたり、サービス精神が旺盛なん ですか、えー念写をしてくれたり、まざまざとその力を、見せつけられて、ぼくは、びっくりしちゃいまして。その後あのー、超能力少年ブームが来るんです が、幸い彼は巻き込まれずに、えー守られて、いたんです。えー、まあ、誰よりもすごい力だなと、思ってましたけどね」(29)
「全く宗教的じゃなくて、とにかく円盤について逢うと話してたのね」(28)

※編注:『地平線の階段』(八曜社/1979年)所収の年譜には、福澤諸と並んで秋元秋成と木島昌利の名がある。同席者か。福澤との出会いについては、quiet voiceも参照。


1979 福澤諸が所有する『第三の選択』のビデオを視る。

「イギリスで製作されたTV番組です。このドキュメンタリー・ドラマが日本で放映された状況は内容に勝るとも劣らず異常でした。」
(30)
「フジテレビで『スパイ大作戦』の再放送をやっていたのですが、突然その時間帯に何の予告もなくこのフィルムが放映されたのです。内容というのは、現在世 界中の行方不明になっている科学者のリストを追ううち、あるビデオを入手したのですが、それを見るとそこには米国とソ連が共同で行った火星探査の模様が録 画されていたのです。火星の空は青く、モグラのような生物が動いていました。ほどなく行方不明の科学者達は人類の火星移住計画に組み入れられたということ が判って来たのです。それは現在の地球が、『温室効果』という危機にさらされ、人類存続を真剣に検討した結果3つのアイデアが生まれました。しかし、はじ めの2つは不可能であり、遂に第3の選択が決定されたというのです。この番組は放映後も大きな反響を呼び、製作スタッフ達は何故か口をつぐみ行方知れずの 人も出て来たのです。日本での放映も反響を呼び、翌日の新聞にはコメントがのりました。放映日がたまたま4月1日だった為、エイプリル・フールのジョーク であるというものです。このフィルムは米国ではおくらになり、その異常さの為、殆んど無視されています。日本ではスタッフの著した本が出版され、さらに謎 を深めた内容となっています。」
(30)

※編注:『第三の選択』は1978年4月6日の23時55分からフジテレビで放送された。細野晴臣はインド滞在中でこの放送を視られず、録画ビデオの所有者を探していたと思われる。

1979/04 『ビートルズサウンド』(CBSソニー出版)発売。
寄稿/マジカル・ミステリー・ツアー

1979/04/05 矢野顕子コンサート『東京は夜の7時』でバッキング。大阪厚生年金会館。
矢野顕子  矢野顕子、坂本龍一、高橋ユキヒロ、細野晴臣、大村憲司
 曲目不明

1979 桐ヶ谷仁のレコーディング。

※編注:アルバム『マイ・ラヴ・フォー・ユー』のセッション。1978年12月4日〜1979年10月15日の期間に行われており、細野晴臣の参加日は特定できないが、 坂本龍一編曲のセッションに参加したYMOは当時「ちょうど作っている最中」とする桐ヶ谷仁の証言(CD『コンプリート・アルファ・イヤーズ』 ブックレット, ソニー・ミュージックダイレクト/2005年)が『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』のレコーディングを指すものと判断し、暫定的にこの時期とした。

1979/04〜05 シーナ&ロケットのレコーディングに向けたリハーサル。音羽スタジオ。

「(編注:鮎川誠に)コンサートをずっといっしょにやってもらおうか、なんて考えてた。そうしたら、彼らがレコード会社とうまくいかなくなって、そのスキをねらって、アルファのスカウトマンが、スカウトしちゃったんだ」(11)
「で、ぼくも(編注:プロデュースを)やりたかったし、むこうもやってもらいたがっているということで」(11)
「まず、彼らのデモ・テープを聴いて、構想を練りはじめたんだ。つぎに、鮎川クンと話をした。彼がどんなタイプの音楽家なのかをつかむためにね。たとえば、曲は自分で作るのか、作るとしたらどんな曲かとかね」(11)
「で、話した結果、自分たちのレパートリーにしている曲の選曲は、すごくセンスがいいってことがわかった」(11)
「間口が広いの。最初それ聴いてびっくりした。ロック演ってる人たちって、ロック以外のもの受けつけないじゃない。 でも鮎川君って体験が長いじゃない。フォーク・ソングから見てるんだけど、リズム&ブルースとか、昔のロックン・ロールとか、ポップスからね。すごいポッ プスの要素が強いのね。60年代2・3年の頃とか(31)
「彼らはスタイルもいい。ニューウエイブの人たちみたいな感じだ。じゃあ、ニューウエイブのスタイルに固執してやってゆくつもりなのかどうか。そうでもな い。スターになりたいっていう。ただし、ロックンロールは好きだ。それだけはゆずれない。あとは、どんなレールを敷いてもいい、すべて、ぼくにまかせる」(11)
「さらに、もっと細かい話をする」(11)
「たとえば、リズム・ボックスは好きか、とかね。そういうときには、ぼくの頭の中にはリズム・ボックスとロックンロールをミックスしてってアイデアがあるわけ」(11)
「そうやって、イメージを固めてゆく」(11)
「最初にシングルをやろうということで、その曲はアメリカン・ポップス・タイプの曲にしようということになった」(11)

鮎川誠の証言
「プロデュースっちゅうことを俺もミュージシャンの側からずっとやってきよううちに、ものすごう大事なものだっちゅうことが少しずつわかってくるやろ」(31)
「実際レコーディングやってきてわかったけど、プロデューサーが決め手よね。もう共同作業やからさ。そうやらんといいもん作れんっていうのが、エルボンで やってて、つくづくわかった。『俺はこれをやりたい』− それはもう、基本的に持っとかな、いかんばってん。それから先の人間関係っていうかね。もう、細野さんならね、俺たちまかせられるっていうね。なんもない よ。細野さんがどんな音楽好きだからっていう…そんなんじゃなくて、細野さんのセンスっていうものを俺はものすごう期待してたし、細野さんのやってきた音 楽…一本道をストレートに歩いてきとるっちゅうこと。俺たちと道は違うけど、同じばってん。もうなんか全然、まかせられる感じやった」(31)
「音羽の村井邦彦さんの家に、アルファの練習スタジオ兼デモ・テープ録りスタジオがあったんだけど」(32)
「音羽スタジオって名前でね」(33)
「俺たちはそこを自由にたっぷり使わせてもらっていた。4月から5月にかけては、俺たちは週に2、3度のペースで何週間か通いました」(32)
「細野さんも来てね」(33)
「細野さんもいっしょに演奏したり」(32)
「あらかた出来上がった〈YOU MAY DREAM〉を演奏してみたり、シーナが思いつきで「スーパーガール」と叫んで、みんなでジャム・セッションしたり」(32)
「俺たち、こんな曲が出来るよ、てっちゅうデモテープを細野さんと一緒にスタジオでガチャガチャ演った」(31)
「ミーティングもそこでした」(32)
「レパートリーはアルバム一枚分以上ゆうにあったから、流れを考えながらどれを入れるかっちゅうのをみんなでミーティングしながら決めていってね」(25)
「オレたちが細野さんと決めたのは、『バットマン』から始めよう、とか。曲順、A面とB面を、目算で、だいたい同じ分数にして。偏ると溝の刻み方が変わって、音質まで響くとか」(34)
「細野さんが手帳に『列記』するのが、凄い驚きでさ。ほぉ、レコードっちゃ、こうやって前もっていろ いろ決めていくんだ、っちゅう感じよ。ヘアメイク、誰、デザイナー、誰、カメラマンは誰がいいかな、っていうようなことを、レコーディングの前から相談し て決めていく」(34)
「全部、俺たちと相談しながら作業チームを決めていった」
(32)
「ヘア・メイクは本多三記夫さんに頼んで、カメラは鋤田正義さんに頼んで、トータル・デザインは羽良多平吉さんに頼んでと」(32)
「アルバムを作る前にそういうことを決めていくのはすごいなあと思ったね」(32)
「細野さんがノートを出して。"ニュー・アルバム、曲は10曲、カメラマン鋤田正義"とか"ヘアメイクはCLIP"とか、そういうこと書くんですよ。それが凄い俺ら面白くて。これがコンセプトというやつか、なるほどねって」(35)
「鋤田さんの名前を見た時は、俺もシーナもぶったまげてさ。マーク・ボランやデヴィッド・ボウイを撮りよる鋤田さんが俺たちを撮ってくれるとね」
(32)
「細野さんはYMOもしながら、すごい時間を俺たちに割いてくれたね」(32)
「よう俺たちをドライヴに連れていってくれた。東京のいろいろなところをぐるぐるいっしょに回って楽しかった。細野さんしか知らん道とかあってさ」(32)

シーナの証言
「毎日通ってた」
(33)
「私たち、練習に使ってたの。『ユー・メイ・ドリーム』が出来たのもそこ」
(33)

※編注:音羽スタジオは、のちのL.D.K.スタジオ。

1979/04/13 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ライディーン/synthesizer
アブソリュート・エゴ・ダンス/synthesizer

1979/04/14 『ロッキンf』5月号(立東社)発売。
連載「プロデューサー研究」2/個性と研究心とアイディアを持っている事が重要な事なの? 細野晴臣 × 高橋ユキヒロ

1979/04/14 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー/voice(日笠雅子, 細野晴臣)
アブソリュート・エゴ・ダンス/synthesizer

1979/04/17 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
デイ・トリッパー/guitar(鮎川誠)
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー/guitar(鮎川誠)
鮎川誠の証言
「YMOのアルバムでギターを弾いてほしいって言われて、録音当日は『よし!ぶちかますぜ』って気合い入れて家を出てね、5弦ギターにビシッとチューニングして」
(25)
「キース・リチャーズの5弦オープンG・チューニング」
(32)
「せっかくやけピットインの時のノリで5弦でやろうちゅうことになって」(25)
「ピットインでやった時はレスポールだったんやけど、『ソリッド・ステイト〜』のスタジオ録音の時はストラトキャスターを一本ガシッと持って乗り込んだ。それだけを考えていったのは憶えている」(25)
「『よかった』と言われて、『それはよかった』っちゅうて帰って(笑)」(32)
 デイ・トリッパー
「僕の最初のアマチュア・バンドで初対面の奴との挨拶代わりに『これ弾ける?』ってやってみたっちゅう、個人的にも思い出深い曲なのよ。ソロになると1フ レット上がってGフラットで弾くんよ。1音上がったとこでソロをやるっちゅう、ビートルズがR&Bの定型をぶち壊した展開を創ったちゅう、その部 分やろうね、この曲の素晴らしさは」
(25)
「僕にとってはあのスッと変調する展開が見せてくれた魔法のような感じがソロを弾く時の心構えに繋がってるのよ。変 調してキーがEに変わるとこで…5弦ギターのEっていうのは、指を伸ばさんと届かんのよ(笑)。12フレット目から3フレット下がったところがEになるん よ。ガッとそこまで指持ってって…まあいつもの俺の手癖で『ギャン、ガガン!』って何通りか弾いたよ」(25)
「ガーンと弾いて。終わると『もう1本弾いて』と言われて、単弦で『ガガガガ』と弾いて。さらに、『もう1本録っておこう』と。トラック・シートには俺が3回弾いたことが書いてあった」(32)
「YMOのヴァージョンはリズムが独特で速いやろ?」(25)
「そんで俺、ちょっと戸惑ったんやけど『ここでつっかえたりしたら笑われる』って思って、涼しい顔作って懸命に弾いてた(笑)」(25)
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
「〈デイ・トリッパー〉と同じ時にギターを弾きました」
(32)
「その時初めて聴いた。『ああ、こういう曲ね』と」(32)
「AmからA#mに上がるなんて、過去のロックにもあまりないコード進行で、それだけでも幸宏はすごいなと思った」(32)
「曲を聴いた瞬間に幸せな気分よ。こんないい曲に参加できてと」(32)
「5弦だったストラトキャスターに、もう1回、6弦を張り直した(笑)。あの曲は、Dでバーンと伸ばした後、開放を 使ったAで『ジャーン』とせんとスプレット感が出ないから。5弦ギターのリズムで、『ガガッ、ガガッ』と入れるのとは違って、『ジャーン』とせんと。それ で6弦にした」(32)
「レコーディングでは、ジャーンと弾いて、1本録って。それでよかった気がする。強調するためにもう1回重ねたかもしれないな」(32)
「ロキシー・ミュージックの〈ヴァージニア・プレイン〉のような広がりのあるギターを弾きたいと思った」(32)

1979/04/19 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。川俣隆のインタビュー取材が入る。芝浦/スタジオ'A'。
ビハインド・ザ・マスク/vocoder(坂本龍一)
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー/guitar(細野晴臣)

テクノポリス/vocoder(坂本龍一)
※編注:インタビューは同年5月25日発売の『ロック・ステディ』7月号に掲載。

1979/04/21 矢野顕子『東京は夜の7時』発売。
東京は夜の7時:bass
行け柳田:bass
いもむしごろごろ:bass
カタルン カララン:bass
ト・キ・メ・キ:bass
ウォーク・オン・ザ・ウェイ・オブ・ライフ:bass

1979/04/21 近田春夫「エレクトリック・ラブ・ストーリー」発売。
エレクトリック・ラブ・ストーリー:arrangement
「本来なら、大衆に受け入れられれば、どんな音楽だって歌謡曲になるんだ。ポップスっていうのも同じ意味だよね」(11)
「でも、ぼくの音楽は、日本の大衆の好みとちょっと違う。そういう認識から、ぼくは出発している」
(11)
「ぼくのセンスと、日本の大衆のセンスとは、ズレてることは確かなんだけれど、少しずつ、重なりつつある」(11)
「ぼくらが参加して作った近田春夫のレコードっていうのは、ある意味で、そういった方向を示してるんじゃないかな」(11)
「歌謡曲と、ぼくらの音楽がね、ピッタリ重なりあうっていうことが証明された」(11)

近田春夫の証言
「『エレクトリック〜』のアレンジはいいんじゃないかな」
(2)
「聴いてみていいと思った」
(2)
「できたアレンジを聴いていいとかっていうよりか『歌謡曲って、いずれは全部こういうもんになっちゃうんだろうなー』って思ったのを憶えている。全部、機 械が演奏して、生でやるなんてなくなるんだろう、と。だってそれでいいんだもんね、歌謡曲のバックなんて別に誰がやったていいんだしさ」
(2)
「YMOアレンジが合ってたんだろうね。割とそつがない感じでこの曲にうまくフィットして」
(2)

1979/04/21 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
キャスタリア
インソムニア/vocoder(細野晴臣)
キャスタリア
「教授の作品」
(15)
「一番最後に仕上がった曲」(15)
「この曲のイメージは当初『惑星ソラリス』だったものが『サスペリア』になり、結局ギリシア神話を素材にして『キャスタリア』になりました。これはギリシャの神が音楽の霊泉とする場所の名で、この曲にはぴったりです。」(15)

小池光夫の証言
 キャスタリア
「当初『サスペリア』というタイトルで、レコーディングを始めたときはまだそのタイトルで、あとからそれを消して『キャスタリア』に直してありますね」
(19)

坂本龍一の証言
 キャスタリア
「そうだっけ(笑)。『ソラリス』は好きだったですけどね。東京の高速道路が延々と出てくるでしょう。東京っていうのは、『AKIRA』じゃないけど、核戦争後の未来都市というイメージがあったから」
(7)
「だから、東京が世界でいちばん進んでいる都市っていう。まだ映画はできてなかっただろうけど、『ブレードランナー』的なイメージがあったんだと思う」
(7)
「直接的な影響は、武満(徹)さんなんだよね。『弦楽のためのレクイエム』とか、高校時代からファンだったから。具体的にどれってことじゃないけど、下敷きになっているのは、武満さんの音楽なんですね」(7)
「技術参謀みたいな役割に、飽き足らなくなっていたのかもしれないですね」(7)

1979/04 矢野顕子のテレビ放送用ライヴ収録。六本木/ピットイン。
矢野顕子  矢野顕子(pf, vo)、坂本龍一(kbd)、高橋ユキヒロ(ds)、細野晴臣(b)、大村憲司(g)
 ト・キ・メ・キ
 東京は夜の7時
 また会おね
※編注:放送された楽曲のうち、細野晴臣が演奏に参加したもののみを記載。東京12チャンネル『サウンド・クリエイション』のためのセッションで、矢野顕子『5 Days・東京は夜の7時』のセッティングをそのまま利用して収録されている。放送日は不明。

1979/04/24 矢野顕子『5 Days・東京は夜の7時』出演。六本木/ピットイン。
矢野顕子  矢野顕子(pf, kbd, vo)、坂本龍一(kbd)、高橋ユキヒロ(ds)、細野晴臣(b, syn)、大村憲司(g)
 在広東少年
 千のナイフ
 東風
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 他

1979/04/25 山本達彦「ある日この夏〜TWO WAY SUMMER/バースデイ」発売。
ある日この夏〜TWO WAY SUMMER:bass
バースデイ:bass

1979/04/26 矢野顕子『5 Days・東京は夜の7時』出演。六本木/ピットイン。
矢野顕子  矢野顕子(pf, kbd, vo)、坂本龍一(kbd)、高橋ユキヒロ(ds)、細野晴臣(b, syn)、大村憲司(g)
 曲目不明

1979/04/26 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
デイ・トリッパー/vocal(高橋ユキヒロ)

1979/04/27 矢野顕子『5 Days・東京は夜の7時』出演。六本木/ピットイン。
矢野顕子  矢野顕子(pf, kbd, vo)、坂本龍一(kbd)、高橋ユキヒロ(ds)、細野晴臣(b, syn)、大村憲司(g)
 曲目不明

1979/04/28 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
テクノポリス/synthesizer(坂本龍一)
ライディーン/synthesizer

1979 松任谷由実のレコーディング。銀座/音響ハウス。

※編注:アルバム『OLIVE』のセッション。4月〜6月の期間に行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。

1979/05/21 近田春夫「天然の美」発売。
何故かアップ・サイド・ダウン:arrangement, bass
ワン・シーン:arrangement
プシー・キャット・ラブ:arrangement, bass
※編注:「エレクトリック・ラブ・ストーリー」も収録。

1979/05/21 クレスト・フォー・シンガーズ「サンタナへの道/サン・シェイド」発売。
サンタナへの道:arrangement
サン・シェイド:compose, arrangement
サン・シェイド
「苦労した。習作にちかいですね。試行錯誤して作ったという」
(36)
「作詞が小林和子さんという方で、えー、アレンジが僕がリズムやって、松任谷正隆くんが、あーなんかやってくれまして、なんと、三保敬太郎さんという往年のね、えー、アレンジャーが、まぁかぶせものをやってくれました」
(37)
「アルファでレコーディングした憶えがある」(37)
「これはDr.バザードと、オリジナル・サヴァンナ・バンド、の影響が、えーモロ、かぶってますね。えー、ハリウッド趣味です」
(37)
「当時は参考にしてましたね、サヴァンナ・バンドは」(7)
「モロですね。恥ずかしいなあ。とにかく、彼らのサウンドが何もかも新しくて。ラテン系のリズムなんだけど、リズム&ブルースっぽい。混ざり具合が一級品 で、誰もやっていなかった。リズムの隠し味の使い方というか、何とも言葉では言い表せないマジックがあって。そして、それを聴いた人たちを、または音楽業 界全体を変えていく力があった。スライもそうだったけど、一種の「発明」なんですね。その方程式を皆が使い出すんです。物理学みたいなもので」
(36)

1979/05/22 ディーヴォ来日公演パンフレット発行。
寄稿

1979/05/23 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ライディーン/synthesizer, SE(細野晴臣)
アブソリュート・エゴ・ダンス/synthesizer

キャスタリア/piano(坂本龍一)

1979/05/25 『ロック・ステディ』7月号(インターナショナル音楽産業)発売。
イエロー・マジック・オーケストラ インタビュー/イエロー・マジックを信じるかい!?

1979/05/25 サーカス『ニュー・ホライズン』発売。

※編注:bassで参加しているが、参加曲の詳細は不明。

1979/05/26 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
キャスタリア/synthesizer(坂本龍一)

1979/05/30 海外向けにリミックスされたイエロー・マジック・オーケストラ『Yellow Magic Orchestra』、アメリカで発売。
Computer Game "Theme from The Circus":produce, compose, arrangement, synthesizer
Firecracker:produce, arrangement, marimba
Simoon:produce, compose, arrangement, synthesizer
Cosmic Surfin':produce, compose, arrangement, bass
Computer Game "Theme from The Invader":produce, compose, arrangement, synthesizer
Yellow Magic(Tong Poo):produce, arrangement, bass
La Femme Chinoise:produce, arrangement, bass
Bridge Over Troubled Music:produce, compose, arrangement, synthesizer
Mad Pierrot:produce, compose, arrangement, synthesizer, bass
「アメリカですんなり出るわけですね」(5)
「トミー・リピューマとはそれ一枚でサヨナラになったんですけどね(笑)」
(5)
「YMOとトミー・リピューマ、ミスマッチといえばミスマッチですから」
(5)

Firecracker
「『ファイアークラッカー』が目玉だということで彼らは戦略を立てるし、ソウルのチャートにも入ったわけです」
(5)
「アメリカのダンス・チャートに上ったんですね。そういうことがあったんで、マーティン・デニーから電報が届いたのがとても嬉しかったです」
(23)
「アルファ・レコードにわざわざ電報で感謝の言葉をいただいたんですよね」
(38)
「『とりあげてくれて、ありがとう』と書いてありました」
(23)

Simoon
「思い出があって、トミー・リピューマに褒められたんです。アメリカに行ったとき、これは名曲だ、『ユール・ビー・ア・リッチマン』って言われたんです」
(23)
「『お前は金持ちになる』っていうんですよ。何かアメリカの映画に出てきそうな台詞で、うれしいなあと思ってね(笑)。そういうことを予言するんですね」(5)
「アメリカの音楽ビジネスははっきりしていていいなあと思いましたね」
(23)

坂本龍一の証言

「リミックスは、どこがどう違うのかわからなかったな(笑)。ちょっとイージー・リスニングになってる気はしましたけど」
(7)
「トミー・リピューマは、もちろんクラフトワークなんか聴いてないはずだし、彼らのなかで整理すれば、要するにシンセを使ったフュージョン、ウェザー・リポートのようになるんでしょうね」
(7)
 Firecracker
「シングル・カットした『ファイアークラッカー』がディスコ・チャートに入って、特にアトランタでかなり上までいったんです。アトランタはサウスでしょ う。南部の黒人に受け入れられたっていうのが、ものすごく嬉しかった。MC-8で黒人のグルーヴを分析して作ったっていう、僕らの方法論が正しかったとい う証明ですからね」
(7)

マーティン・デニーの証言
 Firecracker
「電報を打ったのはよく憶えてないんだけど…」
(38)
「初めてYMOによる『ファイアー・クラッカー』のカヴァを聴いた時は驚いたよ。まさかこんな形で自分の曲がプレイされるとは思ってもみなかった。原曲とは全くちがってたし、それもたったの3人だけでやったというのが信じられなかったね」(38)
「とにかくビックリです。特にディスコ調になってたことに。自分には考えも及ばなかった。でも何度も聴けば聴くほど、それが自然に感じられるようになってきたから不思議だったね」(38)
「カッコ良かったよ」(38)
「色んな人に聴かせたんですが、皆一様に感心してましたよ」(38)
「それにあのおかげで随分と印税が入りました」(38)
「アメリカばかりでなくアイルランドやイギリスからも入って」(38)
「ホント。ありがとう(笑)」(38)
※編注:7"「Computer Game/Yellow Magic(Tong Poo)」同時発売。タイトルは「Computer Game」だが「Firecracker」が収録されている。両面ともシングル・エディット。

1979/05/31 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
テクノポリス/synthesizer(坂本龍一)
小池光夫の証言
3月6日に録音を始めて5月の終わりになってもダビングしてますね」(19)
「最後はもうチャンネルの空きがなくて4小節ごとにパンチ・インとかいう感じで、ガイドの信号も消した後。でも教授 がどうしても追加のメロディーを入れたいっていうんで入れたんですが、15トラックめの『根性のブリッジ』とか、みんな教授が手弾きで弾いてたんですね (笑)」(19)
「同期信号がないから、仕方なく手弾きで付けていったんですね。別にシーケンスと競争して根性の手弾きをするって意 味じゃなくて、裏を返せば物理的にできなかったと。だから(編注:トラック・シートの)一番上に書いてある仮タイトル……"うさばらし"ってのになったの かな?(笑)」(20)

松武秀樹の証言
「同 期信号のチャンネルも消してしまって、もうシーケンサーではなく、手弾きで演奏してダビングするしかなくなってる(笑)。5月31日にレコーディングされ たトラック15"根性のブリッジ"とトラック22の"根性のコルグ"なんていうのは、そんながむしゃらなレコーディングの様子をよく表したネーミングです ね(笑)」
(39)
「思うに、ある程度出来上がっていたんだと思うんです。で、同期信号も消して、他の音を録音していったけれども、やっぱりやり直そうっていう」(20)

1979 イエロー・マジック・オーケストラ、資生堂'80春のキャンペーンCMコンペ用楽曲制作。芝浦/スタジオ'A'。
ピーチパイ
鮎川誠の証言
「5
月、6月の出来事だった」(32)
「YMOのサウンドで、〈浮かびのピーチガール〉の元になる〈ピーチパイ〉を録音するチームを作るからシーナに歌を入れてほしい、ギターを弾いてほしいと」(32)
「化粧品のCMソングのコンペやったんやけど」(25)
「ロケッツ&YMO組と竹内まりや&加藤和彦組で」(25)
「何社かの競合だからこっちも提出しようというわけです」(32)
「だから歌詞はCM用のヴァージョンでは『ピーチパイ』って言ってるんやけど」(25)
「負けちゃってね。あれはショックやったなあ」(25)
〈浮かびのピーチガール〉は、後に《チャンネル・グー》に入れるけど、その時期には土台を作っていた」(32)

シーナの証言
「YMOの3人が目の前で…アルファのAスタの上にピアノ室があって、サビは教授で他が細野さんと幸宏さんていう感じで作ってくれたの」(25)

1979/06/01 V.A.『エーゲ海』発売。
レゲ・エーゲ・ウーマン:compose, arrangement, bass, synthesizer
ミコノスの花嫁:compose, arrangement, bass, synthesizer

1979/06/01 佐藤博「オリエント」発売。
空飛ぶじゅうたん:bass
ピクニック:bass

1979/06/04 松本零士と対談。

※編注:同年8月1日発売の『FMレコパル』8月6日号に掲載。

1979/06/08 アン・ルイスのレコーディング。麻布/サウンド・シティ・スタジオ。

※編注:山下達郎のプロデュースによるアルバム『ピンク・キャット』のセッション。同年8月5日 に発売されたレコードには6月11日〜 7月7日との期間が記載されているが、ここではレコーディング当日に取材が行われたという『ロッキンf』8月号(立東社/1979年)の細野晴臣のインタ ビュー記事中の日付を採用した。なお、このレコーディングで録られたトラックのひとつは、同年10月21日発売の山下達郎 のアルバム『ムーングロウ』で「レイニー・ウォーク」として使用された。

1979/06/08 三原元のインタビュー取材を受ける。高橋ユキヒロが同席。麻布。

※編注:同年7月14日発売の『ロッキンf』8月号に掲載。

1979/06/12 『アンアン』取材。

※編注:詳細不明。

1979/06/13 イエロー・マジック・オーケストラ、TBSテレビ『家路 ママ・ドント・クライ』収録。

※編注:毎週水曜日21時の「水曜劇場」枠で、同年8月15日〜11月7日に放送された連続ドラマ。イエロー・マジック・オーケストラ出演回の放送日は不明だが、舞台となっていた中華料理店の客として登場したらしい。店のコック役で近田春夫とタモリがレギュラー出演していた。

1979/06/14 『ロッキンf』7月号(立東社)発売。
連載「プロデューサー研究」3/プロデューサーとアーティストとの<関係>が問題!!

1979/06/18 イエロー・マジック・オーケストラのプロモーション・ライヴ『イエロー・マジック・ショー』開催。六本木/Bee。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一、高橋ユキヒロ、細野晴臣、松武秀樹、渡辺香津美、矢野顕子
 曲目不明
「世界ツアーが決まった。それはまた大変な騒ぎでした」(5)
「どんどん先が決まってきてね。ツアーが組み立てられて、スタッフとして大人が参加しだしてきた。僕らのマネジャーがその下になって、一応、体制ができてきたんですね」
(5)
「人民服は、幸宏のファッション・センスがそのまま出てるものでね。あれは要請がある前に、彼の中でそういうものを作ってみようという意欲があって。モミアゲを切ったのと同じで、仕事の中のリクエストで作ったものではないですね」
(7)
「結束を固めるユニフォーム」
(7)

川添象郎の証言
「5月のゴールデン・ウィーク中にヨーロッパに行きまして、Y・M・Oのヨーロッパ発売及びそれに伴うプロモーションの下打ち合わせをやっ てきました。発売元は全ヨーロッパA&Mなんですが、英国のA&M社長のディレック・グリーンと打合わせてレコード・リリースに伴うあら ゆる作業、例えばプロモーション用のビデオをあちらに送るとか、発売日及びそれに供うプロモーション・ツアーをどうするか、とか」
(13)
「向うでレコードを売るというのはライヴのツアーを見せていくというのが非常に重要なわけで、A&M系の アーティストのヨーロッパ・ツアーをやってるニール・ワンノフという男がいまして、彼との間で9月第1週から6週間にわたるツアーをすることを決めてきま した。その為にニール・ワンノフを日本に呼びまして」(13)
「と言うのは実際技術的な部分で、どれだけの機材を運ばなければならないのか、どれだけの人員が動くのか、またY・M・Oのライヴがどんなものかをハッキリ見て貰わないと全貌がつかめないし。で、18日にBeeでライヴを見て貰う」(13)

宮住俊介の証言
「六本木の裏のディスコで、A&M様御一行専用のライブをやったの」
(40)
「すごくいい演奏でした。それとYMOが赤い人民服で初めて登場して、身ぶりも何か中華人民風というかパロディみたいな感じでね。メンバー紹介の時には両 手を胸の前に掲げて大きなジェスチャーで拍手したりして、それが怪しくて面白いんです。で、いざ演奏してみると凄く高レベルで新しい音楽をやっているで しょう?そのギャップがA&M側に大受けでね」
(41)
「もう、大乗りで。いくらだっけかな。一億出すから、アルファも出せって。金、いくらでもかけるから世界ツアーをやろうって」
(40)
「もう大盛り上がりですよ」
(39)

高橋幸宏の証言
「初めて人民服で出たのがそれです。プレスの招待だけでしたけど。YMOのカタチがこれで決まるかなっていう予感がしました」
(42)
「海外に出る際に衣装が重要だと思いましたね。衣装とビジュアル面でのアプローチ。子供だましでもいいから、なんとかしてインパクトを与えないとと思ったんです」(16)
「なんかインパクトのあるもので、みんなで同じ格好しようっていうのはまあ、思いついたんですけど」(43)
「イギリスなんかではおシャレな連中が多いから、ネクタイが細いか太いかとか、かなりマニアックに見てるんだけど、そういったものを超越してて、なおかつこちらが東洋人、日本人であるというのを強調するようなもの」(13)
 「特に中国に興味があるわけじゃないんだけど、外的で軽薄な部分でいってしまえばすごくインパクトはあると思うんだ。パリとかロンドンなんかはファッショ ン感覚を誇示しないと受け入れられないし……。ファッションをファッションとして利用しようという、一種の"毒"だね」(44)
「みんなよく人民服って言い方しますけど」
(43)
「赤くしたからそういうイメージあるかもしんないけど、これ、スキー服なんですよね」(43)
「『日本のユニフォーム図鑑』というのがありまして。昭和の頃の、えー初期の頃の、スキー服っていうのが、あるんですね。それのデザインを、ある程度コピーして」(45)
「ウエストとかちょっと、絞らしちゃったりして、で、すごい上等な」
(45)
「いいウールを使って、作ったんですよ」(45)
「まあユニフォームのひとつの形っていうのを、とろうと。そしてそれが、まあ赤で、過激で、あればあるほどインパクトは海外で強いだろうなと思って」(43)
「当時は、みんな『ディーヴォみたいな格好して出てきた』って言ってたんですけど、よく考えたら、全然ディーヴォと違いますよね。モミアゲ切って制服着てるっていうだけでね」(42)

松武秀樹の証言
「メンバー全員がヘッドホンをして演奏するキュー・システムはこの時からなんです」
(46)
「そういうキュー・システムが必要だからってことで、PA屋に作らせた。確か6チャンネルか8チャンネルのキュー・システムでした」
(46)
「時間的には30分ぐらい。曲数にしても5〜6曲ですね。ファーストから何曲かと…、『ソリッド…』から何を演ったかっていうのは憶えてないなあ」
(47)
「『シムーン』と『マッド・ピエロ』をやらなくなったのには、いろいろテクニカルな理由があるんです。シークエンスが難しかったのもあるし」
(46)
「『マッド・ピエロ』をやらなくなったのは、ダンサブルというより聴かせるほうの曲だったからね。踊るのも難しい曲だったしね」(46)
「ヴォコーダーのいいやつがなくて、(歌詞が聞き取れなくて)やっても意味がないってことで外したんだと思う」(46)

丸山晴輝の証言
「ドンカマの音を聴くために終始ヘッド・フォンをつけなければならない」
(48)
「79年まではメンバー全員がPAから送られる同じ音をモニターしていた」
(48)

長曽我部久の証言
「全員ヘッドフォンでモニターしますから、ほとんどスタジオに近い状態ですね」
(16)
「初期は2ミックス送りだった」
(16)

坂本龍一の証言

「最初は4チャンネルぐらいだったと思うんですよ。Beeのときには」(7)
「衣裳のことは幸宏にお任せという感じで、もう言われるがままでした。」
(49)

渡辺香津美の証言
「MC-8の『キッコッコッコ、カッコッコッコ、キッコッカッコッキッコッコ』っていうクリック音はどの曲でも頭に鳴っていて、それがキュー(合図)でした」
(25)
「メトロノームを使って練習するのと同じですけど」
(44)
「そんなに長くやっていられるものではありませんね。でも、自分が走りそうになるのを我慢しておさえてゆくという快感はありますね。熱くなりすぎるのをさけてクールさを保つというような」
(44)

矢野顕子の証言
「メンバーとして参加したのは正式の依頼があって、それにこたえてということかな」
(44)
「『東京は夜の7時』のライブ・レコーディングをしたとき、イエローのメンバーを借りたから、こんどはイエローのメンバーに借りられたというところね」(44)
「三人が楽しそうにやってるのを見て、いいなって。私も手伝えるならいくらでも手伝うよって思ってましたし」
(48)

1979/06/19 シーナ&ロケットのデモ・テープ録音に立ち会う。音羽スタジオ。

「<I Got You, I Feel Good>なんか、すぐにレコーディングできる状態だったので、凄いなと思った」(35)

鮎川誠の証言
「メンバーだけで貸しスタジオに入って、アルバムに入れたいレパートリーをスタジオ・ライブみたいに録音して」(25)
「カセットで俺らが好きなように演奏したのを録りよったんよ。それに
細野さんがその場でいろんなエフェクトかけたりして、俺らは『細野トリートメント』って呼んどったけど」(25)
「エフェクトかけたりアレンジを考えていった」(25)

※編注:このデモ・テープ音源は、2023年10月5日にCD『1979 DEMO』として発売された。

1979/06/21 朝比奈マリア『MARIA』発売。
おんなともだち:compose, arrangement
金色のなぎさ:compose, arrangement
おんなともだち
「うまくいかなかった」
(37)
「なんとこれはクレジットに、編曲が、イエロー・マジック・オーケストラとなってまして(笑)。いいんですかね。でも、いいじゃないですか。えー、誰でしたっけ?あれ。リンダ。『リンダ困っちゃう』の人」(37)
「あっ、山本リンダ(笑)。似てますよね。うん」(37)

1979/06/21 南佳孝『スピーク・ロウ』発売。
ライオン・アンダー・ザ・ムーンライト:bass
スリーピング・レディ:bass
マリー,カム・バック:bass
ディア・ミスター・シャーロック:bass

1979/06/21 坂本龍一&カクトウギ・セッション『サマー・ナーヴス』発売。
ニューロニアン・ネットワーク:compose
ニューロニアン・ネットワーク
「元々は、お蔵入りになったリンダ・キャリエールのアルバムの中の1曲として書いたもので、そのレコーディングで坂本くんも演奏していたので、彼も気に入っていたんだと思いますね」
(36)

坂本龍一の証言
 ニューロニアン・ネットワーク
「たぶん、僕が頼んだんだと思う」
(50)
「『シムーン』に近い曲ですね」
(50)
「僕は『シムーン』よりこっちのほうが好きなんです。仕上がりもスタイリッシュというか。スタイルが確立されているし、グルーヴもいいし」(50)

1979/06/23 格闘技セッション『東京格闘技オールスターシリーズ 第一戦』(六本木/ピットイン)への出演をキャンセル。

「坂本くんが"カクトウギ・セッション"をやっていて、六本木の『ピット・イン』でよくライヴをやってたんです。僕はあまりそこには行ってなかったんですが」(36)

坂本龍一の証言
「おこがましい言い方ですけど、僕を中心に、こっちにYMOがあって、こっちにKYLYNがあって、当時日本の最高のプレイヤーたちが、僕の周辺にいたわけです。それを合体したいというか、対決させたいという意識があって」
(7)
「同じ楽器が2人ずついると。例えばギターなら香津美と憲司、ドラムなら幸宏とポンタとか、ベースなら小原と細野さんがいるとか。とにかく同じ楽器で、2人最上級のプレイヤーを集めるというコンセプトですね」(7)
「どっちかっていうと、YMOの2人は僕のフュージョン的なネットワークに対して距離を持っていたと思うんですが」
(50)
「それをわざと僕は融合させようと思ったんですね、2人を」
(50)
「わざと放り込んだんですね」(50)
「僕が中に入ることで、その壁を取り払うような努力はしていましたね」(50)
「僕は、どっちかというと、ジャズ・フュージョン系の人たちに、ロック系の人のよさ、スキルを学び取ってほしい気持ちでやっていたんです」(50)
「音色のよさとか、タイム感のよさとか。(ジャズ系の人には)全然なかったから」(50)

高橋幸宏の証言
「僕はまだ、プレイヤー意識が残ってたんですよ。それでプロフェッサー=教授の教えを請うために、ミュージシャンではなくプレイヤーとして、あそこにつき合っていた感じです」
(7)
「すごくフィジカルな世界でね(笑)。だから格闘技のときなんか、細野さん、ピットインの裏の楽屋から逃げましたから(笑)」
(7)
「裏の楽屋から、柵を乗り越えて(笑)」(7)

※編注:細野晴臣の欠場について、観客には「プールに行って日射病になった」旨、開演前に説明があった。

1979/06/25 ブレッド&バター『レイト・レイト・サマー』発売。
あの頃のまま:arrangement
タバコロード 20:arrangement
別れのあとの憩い:arrangement
ザ・ラスト・レター:compose, arrangement
渚に行こう:arrangement
ゆううつ:arrangement
忘れ得ぬ貴女:arrangement
サマー・ブルー:arrangement
青い地平線 - Blue Horizon:arrangement
ザ・ラスト・レター
「高橋幸宏の作詞」(37)
「演奏は、えーティン・パン系、の人たち、の流れでやってます」(37)
「モロ、スタッフとか、ポール・サイモンの影響が強いですが。ま、音楽はオリジナルなんです」(37)
「ポール・サイモンの曲のスティーブ・ガッドのドラミングが大好きで」(36)
「ミュージシャンというのは僕に限らず、みんなそういうことにすぐ影響されるんです」
(36)

岩沢幸矢の証言
 ザ・ラスト・レター
「僕らの書く曲はメロディアスなものばかりだったから、それで細野さんの提案でリズミックな『THE LAST LETTER』を入れたんですよね」
(51)

有賀恒夫の証言
 ザ・ラスト・レター
「このドラミングは、もろスティーヴ・ガッド(笑)」
(51)

岩沢二弓の証言
 ザ・ラスト・レター
「最初リズム・ボックスから作っていったんだよね」
(51)
「ポール・サイモンの、あの世界ですよね(笑)」(51)

※編注:bass, keyboards, acoustic guitar, back ground voiceで演奏参加もしているが、参加曲の詳細は不明。

1979/06/25 シーナ&ロケットのレコーディング初日。芝浦/スタジオ'A'。
レモンティー
ビールス・カプセル

「とにかく鮎川君とシーナのコンビはカッコいいんだな。ステージに立つだけで バシッと決まる人はなかなかいないものだ。ロケッツはだから、ライヴがとてもいい。でもレコードとライヴ・ステージは別ものと考えるべきだ。だから前のデ ビュー・アルバムのように1発録りだけに終始するのは考えもの」(52)
「ステージ演ってるロケットをそのまま持ってきて、ステレオ入れて、精巧に録って、溝に刻んだっていうだけのレコードだったから。そういうの、僕はレコードとしての面白さがないと思うわけ。レコードとステージをまったくわけて考えている」(31)
「レコードの良さはレコードの良さであるから」(31)
「せっかくYMOの助っ人がそろっているんだし、レコーディングで音を練って創っていく、と いう面白さを味わってもらおうという事になった。LPの片面を最先鋭の手段を使ってポップなものに、そしてもう片面をロケッツのパーティーにする。そして LP全体をスピード感とカッコよさで貫徹してくれば、プロデュースの80%は成功だな」(52)

鮎川誠の証言
「《ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー》の時に使った機材が、もう1回、田町のスタジオAに運び込まれた」(32)
「置きっぱなしでは決してないんよ。《真空パック》の時にまたあの機材がドーンと来てさ」(32)
「だから、《真空パック》の録り始めには、YMOはみんなおった」(32)
「細野さんも、出来たての自分のバンドが嬉しくてしょうがなくて、全員引き連れて来た、って感じよね」(34)
「いざレコーディング・スタジオに行くと物々しいシンセの機材があって、松武さんがそれにカチャカチャってなんか打ち込むと、物凄い分厚い、いい音が鳴り響くんよ。それにすっかり感激しちゃってね」(25)
「ムーグ・シンセサイザーを見て、シーナが『骨董屋さんに箪笥が並んでいるみたい』と笑いよったのよ(笑)」(32)
「小手調べに、『レモンティー』と『ビールス・カプセル』も、初日かなんかに録ってる」(34)
「とりあえず僕たちは、いつものヤツから始めようって、スタジオでライヴをやったんですね」(35)
「調子づけに」(32)
「すぐ出来るんだぜ、ちゅうと こをスタジオ中に見せつけてやる、みたいな。そしたら細野さんが、その2曲はこないだ(編注:ファースト・アルバム『#1』で)演ったから置いておこ う、って」(34)
「肩慣らしのテイクとして置いておこうと」(32)
「そりゃそうだよね」(34)
「その2曲はオレたちも、使うつもりもなかったんだけど」
(34)
「そのうち『スネークマン・ショー』で、何か1曲ないか、っていうんで、『レモンティー』はそこから使った」(34)
「『ゴメン』て言ってから始まるとこを切って」(34)
「<ビールス・カプセル><レモンティー><バットマン>。そのまま止めんで<たいくつな世界><ワンナイト・スタンド><アイ・ガット・ユー(アイ・ フィール・グッド)>も演奏して、<ユー・リアリー・ガット・ミー>も。40〜50分ライヴをやった」
(35)
「基本的に俺たちが一杯曲出して、細野さんがそれをトリートメントするっちゅう…曲によっては、これは筋なおして、メタリックなカチャカチャ、コンピューターにかけようかとかさ(31)
「細野さんが、<ユー・メイ・ドリーム>と <レイジー・クレイジー・ブルース>だけ、自分たちのシーケンサーで作る音でアレンジ組み立て直したいちゅうてくれたの」(35)
「『鮎川くん、悪いけどこの2曲だけは僕たちにアレンジ任せて』って言われて」(25)
「それは全部細野さんのアイディアで − 俺たち、根本的に全部ストレートにしか出来んから。で、そんなかから、"ああこの曲は、ちょっと遊びたいなぁ""あ、いいんじゃない""OK"っちゅうて」(31)
「どんなのができるのか楽しみだったよね。思った以上のいいものになるだろうという予感はしていた。ディスコ・ビートでね」(32)

※編注:アルバム『真空パック』のセッション。

1979/07 西岡恭蔵のレコーディング。

※編注:アルバム『ヨーソロ』のセッション。7月11日〜8月21日の期間に行われているが、細野晴臣の参加日は特定不能。

1979/07/14 『ロッキンf』8月号(立東社)発売。
インタビュー/世界侵略を開始したYELLOW MAGIC ORCHESTRA

1979/07/17 シーナ&ロケットのベーシック・レコーディング終了。芝浦/スタジオ'A'。

1979/07/20 松任谷由実『オリーヴ』発売。
甘い生活:arrangement, bass
冷たい雨:arrangement, bass

1979/07/20 マイヤ「ワンダーランド/イズ・ジス・リアル」発売。
ワンダーランド:bass
イズ・ジス・リアル:bass

1979/07/24 石原信一のインタビュー取材を受ける。

※編注:『ヤング・ロック』10月号(同年8月23日発売)に掲載。

1979/07/24 『ヤングフォーク』取材。

※編注:詳細不明。

1979/07/25 海外盤と同内容のイエロー・マジック・オーケストラ『Yellow Magic Orchestra』国内発売。

1979/07/26 『ミュージックライフ』取材。

※編注:詳細不明。

1979/07/26 格闘技セッション『東京格闘技オールスターシリーズ 第二戦』出演。六本木/ピットイン。
出演:渡辺香津美、坂本龍一、村上秀一、小原礼、ペッカー、高橋ユキヒロ、矢野顕子、大村憲司、松原正樹

イエロー・マジック・オーケストラ 
坂本龍一、高橋ユキヒロ、細野晴臣、渡辺香津美、矢野顕子
 東風
 他

1979/07/27 格闘技セッション『東京格闘技オールスターシリーズ 第三戦』出演。六本木/ピットイン。
出演:渡辺香津美、坂本龍一、村上秀一、小原礼、ペッカー、高橋ユキヒロ、矢野顕子、大村憲司、松原正樹

イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一、高橋ユキヒロ、細野晴臣、渡辺香津美、矢野顕子
 東風
 他

1979/07/30 『アドリブ』原稿〆切。

※編注:9月12日発売の秋の号掲載分か。

1979/07/30 イエロー・マジック・オーケストラ、アメリカ/ロサンゼルスに出発。

「たまたま、チュ−ブスのメンバーがイエローのテープをよく聞いてくれていて」(44)
「いたく気に入ってくれて」(7)
「コンサートのゲストに出てくれということになって」
(44)
「前座に呼んでくれた」(7)
「同じA&Mレコードということで、急に話が決まったわけです」
(44)
「最初はロンドンが決まってたからそれしか考えてなかったんだけど」(53)
「ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールをファースト・アクトとする、ヨーロッパ単独ツアーで世界に出てゆく考えだったわけだから」(44)
「予定外だったことになるね」(44)
「アルファの戦略的な思惑でね」(7)
「国内向けのプロモーションだから」
(44)
「アメリカを攻めなきゃというハリウッド的な志向が、村井さんの中にあったと思います」(7)

川添象郎の証言
「A&Mから連絡が来て、人気ロック・グループTUBESが行うLAグリーク・シアター野外ロックコンサートにYMOが客演しないか?という打診 が来た。ただしキャスト&スタッフの旅費・滞在費は全てアルファ・レコードが負担するとの条件であった。」
(54)
「社長・村井邦彦の英断で、全てアルファの自己負担のみならず、日本でのPRに役立てるため応援してくれそうな音楽専門紙、ラジオ媒体に働きかけ、当時人 気A&Mアーティストのインタヴューをエサにして彼等に同行してもらうことを取り付けた。勿論、これらの費用もアルファ持ちである。」
(54)
「僕はこのヤケクソプロジェクトの現場リーダー(エグゼクティヴ・プロデューサー)に任命され、というより自ら買って出て、1979年8月2日から3日間 行われたLAグリーク・シアター(6000人収容の野外劇場)でのYMO海外初公演に、当時はまだろくな英語もしゃべれないスタッフとYMO+サポーティ ング・ミュージシャンズ……矢野顕子(キーボード)、渡辺香津美(ギター)、松武秀樹(コンピュータ・プログラマー)を引き連れツアーガイドの如くLAに 向かった。」
(54)
「村井邦彦と僕の20歳代からの夢、日本のポップ・ミュージックの実力を世界に知らしめたいという、当時の日本の芸能界やレコード関係者にとってはいささか「誇大妄想」なんじゃないの?と思われていたに違いない夢、それに僕は賭けたのだ。」
(54)
「彼も僕も若さゆえの冒険心に満ちあふれ、『レコード創り』はどうせだめでもともとという気概でアルファをやっていたので」
(54)
「無謀と言えるこのプロジェクトに、その社運を賭けちゃったのである。」
(54)
「メンバーの3人もこのプロジェクト実現には半信半疑だった様子で、正式に決まったことを知った時にはおおいに喜んでいたことを覚えている。もっとも細野君は口癖の『なんか疲れそうだな〜〜!』と、いつもの変わらぬポーカーフェースでつぶやいていた。」
(54)
「ステージのスタッフ編成は勿論のこと、LAへ同行する各メディアの方々へのアテンド、ステージ演出プランとそれを実現するためのリハーサル等、様々な困 難があったが、若さ故の特権でもある冒険心で、未知のステージへの出演決定は彼等に大きな希望を与えたのではないだろうか。」
(54)
「YMOのメンバーやスタッフよりも2週間ほど前に一人で現地入りをして状況チェックをしていた僕は、TUBES人気により、3日間のグリーク・シアター のチケットが完売していることを知った。すなわち18,000人のアメリカ人観客を前に、日本からやって来た無名のバンドが対することになる。ネガティヴ な部分は全く考慮せず、勢いにまかせてこの海外初ライヴを行うことを決めたのだから」
(54)
「ノーテンキ+ヤケクソとしか言いようがない。」(54)
「僕はメンバー一行到着前に彼らがベスト・パフォーマンスが出来るよう、様々な手を打っていた。」
(54)
「まず、ライヴのMCの人には必ず『SPECIAL GUEST FROM JAPAN!!』と紹介させ、仮にもTUBESの前座扱いさせないこと!!」(54)
「また、欧米のライヴではメイン・アクトを際立たせるため、前座のアクトの音量を極端に下げてしょぼくするというの が常套手段である。これは何としても阻止しなければならない重要ポイントだった。YMOの音楽はインストゥルメンタルである。音量のみならずバランスその 他のサウンドが最適に行われなければ、聴衆に彼らの音楽をベスト・コンディションに伝える事が出来ない。」(54)
「そこで僕はTUBESの舞台監督のマット・リーチに直接掛け合い、?,000ドルを手渡した上で、『A&Mのジェリー・モスから招待され、日本からはるばるやって来たスーパー・バンドだから、音量、バランス共にメイン扱いでくれぐれも宜しく!』と根回しした」(54)

坂本龍一の証言
「LAのグリークシアターのライヴっていうのが、急に決まってね」
(55)
「アルファレコード経由で、当時アメリカで人気のあったチューブスというロックバンドの前座をやらないかというオファーがあった。話が来て、もう次の週には行くというような日程でした。」(49)
「す ごい、急だったんで、どういう場所で、どういうセッティングでやるかも、知らないで、ほんとに急遽、僕のマネージャーが飛んでって、えー、向こうのステー ジなんかをこう見てきて、帰ってきてそれで、翌週すぐ行ったという感じだったんですけど」
(55)
「当時、ドイツのクラフトワークとか、イギリスのニューウェーブとか、ぼくの目はヨーロッパのほうに向いていたので、不遜にも『こんなの、アメリカ人がわかるのかなあ、しかもニューヨークならまだしもLAのやつらに』なんて思っていた。」
(49)

松武秀樹の証言

「いきなりマネージャーの大蔵さんから電話がかかってきて、松武さん、ロスに飛んでくれますかって言うんで、何するんですかって聞いたら、これから演奏し に行くって言うの。それでチューブスといっしょにやるって聞いてスゲーって。彼らの『リモート・コントロール』(79年)っていうアルバムが好きでね。 チューブスの前座ができるってのは、凄いことだなって思った」
(46)

マイケル・コットンの証言
「最初にYMOを耳にしたのは、ロサンジェルでのレコード会社幹部とのミーティングでのことだった。」
(54)
「私は、その音楽との恋に落ちた。」
(54)
「レコード会社はアメリカで彼らをプロモートすることについて考え込んでいた。私は立ち上がって大声で言った。『これこそが未来の音だ、この人達をアメリカに連れてこなければならない!』。」(54)

森脇美貴夫の証言
「新東京国際空港を7月30日の夕方飛び立った飛行機は、アメリカはシアトル国際空港を目指す。」
(56)
「細野晴臣は、シアトルまで一睡もしなかった。単に眠くなかったのか、初の海外公演の緊張のせいなのか。彼はときおり窓から飛行機の下に浮かんでいる雲を見るほかは、これといったことをするでもなく起きていたのだ。」
(56)
「飛行機はシアトルを経由し、澄み切った青空がどこまでも広がっている夕方のロサンゼルス国際空港に到着。空港から ホテルに向かう車に乗り込むまで、メンバーはほとんどしゃべらない。ロサンゼルスのフリーウエーは多すぎる車を次から次へ見事なスムーズさで目的地まで運 んでくれる。ホテルに着いて食事をすませるころ、やっと空がぼんやりと暗くなりはじめる。夜の8時」(56)

1979/08/01 『FMレコパル』8月6日号(小学館)発売。
対談/少年時代、あなたの仕事があこがれでした 松本零士 × 細野晴臣

1979/08/01 イエロー・マジック・オーケストラ、リハーサル。ハリウッド/スタジオ・インストゥルメント・レンタル。

「ロスアンジェルスっていうところはいちばんウケにくいところだと思っていたから、どうでもいいやと思っていた」
(53)
「ニューヨークにくらべてロスはさらに保守的だからイエローには合わないだろうと覚悟はしていた」(44)
「でも行ったとたんにね、アメリカでのファースト・アクトだから、失敗したらダメだと思って(笑)」(53)
「プレッシャーが大きかった」
(52)

松武秀樹の証言
「グリーク・シアターから、MC-8を2台使ってやってるんです。もう1台はローランドから借りてきてね。ひとつはモーグIII-Cを鳴らすもので、もうひとつはヤマハ・インターナショナルから借りてきたモーグ(システム15)を鳴らしてるんです」(46)
「『ライディーン』なら5分のロード時間が必要だった。必ずしもそうとは言えないんだけど、テープ・ロードの時間を埋め合わせるために曲のアレンジや長さ を考慮している部分がありましたね。実際にリハーサルやってみて、ロードが間に合わないからあと8小節ソロでつないで、というふうにやってたんです」
(46)

高橋幸宏の証言
「(編注:MC-8の使用理由は)当時はいいコンパクトなテレコがなくて、やっぱり音が悪かったんです。少しでもいい音を出すために、実際のシーケンサーから 音を出そうというのが第一の目的でした。で、コンピューターからロードできるデータには限りがあったし、ロードできるまでに10分ぐらいかかる場合もあっ たんで、その時間は生でやるとか、いつも松武さんと駆け引きのようなことをやってました(笑)。サイズも曲の終わりの合図を出すぼくしだい」(16)

川添象郎の証言
「僕はメンバーと相談し、最初のナンバーから最後のナンバーまで曲紹介などは一切やらず、拍手が来ても曲間では一切頭を下げたり手を振るなどの愛嬌を振り回したりせず、無表情のまま"怒濤の如く"全曲を演奏しまくることにした。」
(54)

1979/08/02 イエロー・マジック・オーケストラ、チューブス公演でオープニング・アクト。ロサンゼルス/グリーク・シアター。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 コズミック・サーフィン
 ライディーン
 デイ・トリッパー
 千のナイフ
 東風
「アメリカでの最初のステージ」(7)
「緊張してたから、まあまあ」
(53)
「はっきり言って、ウケちゃった(笑)」(53)
「僕たちヘッドホンしてるでしょ?」(57)
「ほとんど、聞こえない。観客の反応がね」
(57)
「波があまり伝わりにくい」(57)
「目で見てみると、ロサンジェルスってとこはすごい、動きが」(57)
「立ち上がって」(57)
「手を、上に上げて拍手してる」(57)
「こらあウケてるなあと思ったのね」(57)
「わかりやすかったのね」
(57)
「実際ぼくらは前座だったし、見に来た人はチューブスのファンなんだけどね」(53)
「くっちゃったんじゃないかな」(53)
「前座のほうが気がラク」(53)
「メインアクトで失敗するより、前座でくっちゃったほうが、気がラクでしょう」
(53)
「ふつう前座だと無視するかブーイングするかなんだけど、ステージに出る時いろいろシカケを考えてたから、最初から、あっ、あれはなんだ、っていうかんじでね」(53)
「レコードとちがってライブでは、なんだあれはっていうかんじがあった」(53)
「PAはね。前座はパワーを20パーセントダウンさせるのが向こうのシキタリなんだよ。メインバンドをもりあげるためにね。リハーサルもなし、モニター・チェックもぼくらとしてはいちばん時間をかけたい部分なのに、なしなんだよ」(53)
「ユニオンとかの決まりだから」(53)
「すごくきびしい。それで失敗しても文句言えない。日本ではちょっと考えられないようなことばっかりだったよ」(53)

坂本龍一の証言
「とても受けたんですよ。」
(49)
「僕 らの場合、一連のスペース・ミュージックっていわれるケース、つまり物理的にいろんな操作を音に加えて、聴覚上楽しむということだけじゃなくて、メッセー ジを伝えるっていう目的がひとつあるから、マインドレーション、バイブレーションを共有ってのかな、伝えるためのメロディーやリズムが必要だと考えてるわ け。だからライブの方が楽しめるって見方もあると思う。アメリカではそういう受け取られされていたみたいね」
(58)
「ぼく個人としては、ちょっと複雑な気持ちでした。『LAで受けちゃうのはまずいんじゃないか』と思ったりした。その公演自体、自分たちで選んでやったと いうより、レコード会社主導で突然降ってきた仕事だし、お客さんもチューブスを聴きに来た人たちだし、ぼくとしてはちょっと釈然としないところはありまし た。」(49)
「チューブスのゲストって形で、客は入ったわけだけれど」
(58)
「アメリカでのロックってのは完全なビジネスでしょう。しかも、レコード・ビジネスは、セールスというのが大きなわけよね。だから、コンサートで客が入る ということとビジネスとしての成功はまた別な話になる。グリーク・シアターっていう3000人くらい収容できるところでやったんだけど、客は入った。で も、それがストレートにアメリカでの成功を意味するか?っていうとそうじゃないでしょう」(58)

高橋幸宏の証言
「村井さんに言いましたよ。『アメリカ人の前で、英語の歌を歌ったの初めてで、ドキドキしましたよ』って(笑)」
(7)
「やはり西海岸はちょっと遅れてましたね」
(16)
「みんなただただびっくりしているという…(笑)。チューブスのオープニング・アクトで初めてやったときなんて、ほんとにそうでした。まずステージ上に並んだ機械の多さにびっくりしてる(笑)」
(16)
「どう考えても向こうのほうがね、その、田舎っぽいわけです(笑)。ニュー・ウェイヴっぽいことをしようとしていても、まだ、どこかほのぼのしているというか」
(54)

森脇美貴夫の証言
「次々と観客が車で会場に到着してくる。」
(56)
「夜の8時ごろ、イエロー・マジック・オーケストラが登場。司会者が、『日本から、アメリカに初めてきたバンドだ。 彼らは素晴らしい音楽で、ロスの音楽ファンを、ここにいるみんなを楽しませてくれるだろう。ウェルカム!イエロー・マジック・オーケストラ!』と声高らか に紹介し終わると同時に演奏が始まる。」(56)
「『ビハインド・ザ・マスク』がオープニング・ナンバーだ。大きな拍手で彼らを迎えた観客は、小気味よいスピードで 流れ続けるシンセサイザー・ミュージックをシーンとしながら受けとめているようだ。メンバーの調子は完調とまではいかなくても悪くはないようだ。曲が終わ る。」(56)
「初めて見る日本のバンドが、どんな演奏をするのかわからなかった観客は、イエロー・マジック・オーケストラのノリのいいシンセサイザー・ミュージックに驚いたのだ。20歳ぐらいの耳のこえた観客が彼らの音楽にハッとするものを見つけたのだ。」(56)
「大きな拍手だ。アメリカにおいて、新人バンドが観客に受け入れられないとき、観客はあからさまにウンザリした表情をみせ、"帰れ!帰れ!"とバンドをコキおろす。そんなアメリカでイエロー・マジック・オーケストラは大きな拍手で受け入れられたのだ。」(56)
「演奏前、メンバーは『ぼくらの音楽は、ヨーロッパやニューヨーク、ウエスト・コースト、サンフランシスコでは受け 入れられると思う。でも、ロスではダメかもしれないな。音楽的な違いが大きいから……。でもチャレンジするよ』と言っていたが、そのチャレンジが早くも功 を奏しはじめている。観客の中には、イエロー・マジック・オーケストラの出演を知らないのもいたようだ。だが、彼らの演奏に接して驚いた表情をしている人 もいる。」(56)
「オープニング・ナンバーを終わり、『中国女』の演奏。このころになると会場はほぼいっぱいになった。曲が次々に、ほとんど休みなく演奏されていく。曲が終わるたびに大きな拍手。大きな声で、『イエー!イエー!』と言ってる観客も。」(56)
「細野晴臣の表情を見る。ニコリともしない。他のメンバーは?これまたニコリともしない。緊張しているに違いない。だが、演奏は快調に『コズミック・サーフィン』『雷電』『デイ・トリッパー』とつづいていく。」(56)
「25歳ぐらいの2人連れの若者が『このバンドはキミの友だちかい?なかなかイカしているよ』と話しかけてくる。イエロー・マジック・オーケストラの演奏に合わせて、しきりに体を動かしている観客が目に入る。」(56)
「コンサート終了後、メンバーは『たしかに緊張していたな。でも、観客の反応はわかった。悪くない。ぼくらに関心を持ってくれたようだ』と語った。」(56)

川添象郎の証言
「LAは、アメリカ西海岸でハリウッド映画産業が集結する屈指のエンターテインメント中心地である。映画のみならずポップ・ミュージックに於いても各レ コード会社の本拠地でもあり、A&Mレコード本社もここにある。必然的にこの街の観客達の目も耳も肥えていて、厳しいとも言える。気に入られれば 拍手喝采だが、ダメな場合はブーイングも覚悟しなければならない。」
(54)
「LAの1979年当時の若者ファッションは、まだ60年代文化の名残りが主流で、例えばヘアスタイルも髪を肩まで伸ばしたヒッピースタイルが殆どであ る。特にロック・コンサートに集まる若者はこの手の連中である。YMOは、このファッションの正反対に髪を短く切り、真面目な日本人サラリーマンのような ヘアースタイルで乗り込んだ。」
(54)
「3人のステージ衣装は揃いの学生服のような詰め襟のジャケットで統一している。ただし色は真っ赤で、まるで中国の 人民服のようだった。サポーティング・ミュージシャンとして参加した渡辺香津美、矢野顕子、そしてステージに出演するコンピュータ係の松武秀樹は黒色の人 民服である。」(54)
「YMOのステージはまさに当時のファッションの正反対を行くものであり、ある意味ではアメリカ人が日本人を揶揄する時の象徴のような制服、そして無表情を、敢えて日本人のアイデンティティとして積極的に舞台で表現したのだ。これはまさしく大冒険と言えると思う。」(54)
「グリーク・シアター満杯の6,000人の観客にYMOのグルーヴィなテクノ・ポップは鮮烈な刺激を与え、メンバーの演奏力に引きつけられて、なんとそれこそバカ受け」(54)
「それを目の当たりにした、日本から同行してくれた各メディアの人たちは、興奮気味に日本にその様子を伝えてくれた。」(54)

渡辺香津美の証言

「僕にとってもレコーディングや小さいライブ・ハウスを除けば、初めてですよ。海外でのあんな大きなステージは」
(25)
「いきなりの大舞台ですからね。それはもう、みんなプレッシャーを感じてたんじゃないかな」
(25)
「確か楽屋で細野さんが胃薬飲んでたね(笑)」(25)
「その上で根性決めて『ともかくやるしかない!』みたいな」(25)
「その会場で前の日までジョージ・ベンソンのライブがあったんで、まだギター・ケースが置いてあったんです。で、頼んでそれを開けてもらってギターを見ながら『ジョージ・ベンソンが演奏したステージで自分もやるんだな。よーし!』って気合い入れてましたよ(笑)」(25)
「『海外ツアーを手伝って欲しい』と言われたときには、正直、自分の(インプロヴィゼーションがメインの)ギターでどう関わることができるのかを思案した。」(54)
「『じゃあイエローの音楽を際立たせるための自分の役割は何だろう?』って考えて細野さんに『何やればいいんですか?』って聞いた覚えがある」(25)
「だが『切り込み隊長として、ステージの前に躍り出てガンガン弾いてくれればいい』と言われ、充分に楽しませてもらった」
(54)
「『僕らが作った土台の上でブンブン弾いてくれ』と」
(25)
「だからブンブン弾きましたね(笑)」(25)
「イエローの音楽というのはしっかりとプログラムされている音楽なんですが」
(44)
「生の要素もかなりありましたね」(25)
「(編注:コンピュータに合わせての演奏は)実際にやっているのは2、3曲です」(44)
「松武さんがその場でデータを打ち込んでロードさせる時間稼ぎもあったし、レパートリーを自動演奏が入る曲で全部固めるのは危険でもあったから」
(25)
「その中でぼくは即興の部分を受け持っているといえます。ステージの上を動きまわれるのもぼくだけ」(44)
「特にアメリカなんかはカントリーとジャズの国だから、聴衆はイントロを聴 きながら『いつ歌が始まるのか?』って待ち構えているわけです。でも、イエローには基本的に歌がない。また、それを必要とする種類の音楽ではなかったか ら、ライブ現場ではどうしてもわかりやすい見せ場が必要になる。そこを受け持っていたのが自分のギターですよね」
(25)
「ライブの見せ場をギター・ソロで作って、その長さもオープン(長さを決めないでやる)にすれば、当然そのソロイストの音楽性が出るよね?」
(25)

松武秀樹の証言
「演奏曲目は3日とも同じでした。ただ、曲順は日によってちょっとちがったかもしれない。初日、2日目は『東風』が本編に組み込まれてましたね」
(47)
「このときにはもう『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』その他の曲もできていたんですけど、まだアルバムが発表されてないし、なによりこの頃にアメリ カで最初のアルバムが発売されて、それのプロモーションをしっかりやりたいということもあったはず。ぼくも当時、細野さんに"なんで2枚目からもっとやら ないの?"って聞いた記憶があって、たしかそういう答えだったと思います」
(47)
「電飾のアイデアは僕なの。細野さんにシンセがピカピカ光るって面白いでしょって言ったら、面白いからやってみたらってことでね。ウケるかなって思って、 クリスマス用のやつを2つ持ってって。あれが音とシンクロしてたらよかったなって思うけど、まだ当時はできなかったからね」
(46)

1979/08/03 イエロー・マジック・オーケストラ、記者会見。ロサンゼルス/A&Mレコード・スタジオ。

「根も葉もないことを開き直ってやろうということで陽気だったんですよ。でも根も葉もないことを やってるのに反応が大きすぎて、理屈をつけなくちゃなんなくなっていった。外国に行けば行ったで、やっぱりジャーナリズムというのがどんどん攻撃というか 質問してくる。それに答えられないとこっちが困るわけですよね。何を聞くかというと、ソニーとかトヨタとか、そういう企業と並べてYMOが捉えられた」(5)
「うんざりするような質問がいっぱい来たんですよ、ソニーだのホンダだの」
(7)
「トランジスタだICだとかいわれて、
根も葉もないとはそのときにいえなくてね(笑)(5)
「なんで今まで日本のグループは出てこなかったんだって。ぼくたち、そんなことを突然きかれて、すごいむずかしいんだよね」
(53)
「だから真面目に答えてたんです」
(5)
「日本の経済的、文化的な代弁をせざるを得なくなり、ついに『日本の文化使節団』などと、ムリヤリもちあげられてしまった」
(59)
「ぼくたちは音楽が好きなだけで、使節団などというつもりは全くなかった」
(59)
「そこでもう(編注:アメリカが)やんなっちゃったんですね」
(7)
「アメリカには音楽ビジネスはあるけど、カルチャーがなかったんです。せいぜいディーヴォとチューブスがいたぐらいで」
(7)
「気持ちはもう終わってたんです。もうローカルヒットに過ぎないだろうと」(7)
「英語はやっぱりしゃべれないとダメだ、と思ったな。記者会見でもね、まだるっこしいの。向こうが日本語しゃべってくれないから。通訳がいるけど、なるべく自分たちの声で話さなくちゃって思った」
(53)

1979/08/03 イエロー・マジック・オーケストラ、チューブス公演でオープニング・アクト。ロサンゼルス/グリーク・シアター。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 コズミック・サーフィン
 ライディーン
 デイ・トリッパー
 千のナイフ
 東風
「2日目も、同じような調子だった」(53)

森脇美貴夫の証言
「イエロー・マジック・オーケストラは昨夜より大きな拍手を得る。メンバーは初日に比べてずいぶんとリラックスして演奏していた。」
(56)

川添象郎の証言
「初日の成功で残り2日間のパフォーマンスの成功を確信した僕たちアルファ・レコードのPRスタッフは、急遽ヴィデオ・クルーを手配してその様子を映像記録した。」
(54)

後藤順一の証言
「さすがだと思うんですけど、ビデオをちゃんと収録していたんですね。お金をかけてプロのクルーに撮影させた」
(60)

1979/08/04 イエロー・マジック・オーケストラ、チューブス公演でオープニング・アクト。ロサンゼルス/グリーク・シアター。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn)
 ビハインド・ザ・マスク
 
中国女
 コズミック・サーフィン
 ライディーン
 デイ・トリッパー
 千のナイフ
 東風
「3日目になったら、慣れてきたせいか東京でやってるノリと変わらなくなってきた。それが出せればいちばんいいんだよ」(53)
「予想以上によかった」(56)
「かなり手ごたえはありました」
(53)
「反応がよくて」
(7)
「アンコールまでウケちゃって、全員総立ち(笑)」
(53)
「それに味をしめたところがあるのかな」
(7)
「アンコールを求められるなんてハナっから頭になかった。でも、自信はあった。ウケるとかウケないじゃなくて、ぼくらの演っている音楽に対しての自信はあった」
(56)
「ぼくたちとしては、むこうへ行って失敗して、なんにもうけなかったら次ができなくなっちゃうから、すごく心配だったんだけど」
(53)
「ゲスト・バンドということでいろいろ障害はあったけれど、観客のリアクションがあったから救われましたね。その点で、やってよかったと思っています」
(44)
オーディエンスの中に大笑いしてる人たちがいるわけ。大人の女性が僕らを見てのたうちまわって笑ってるの。あの笑いはなんというんだろう、単におかしくて笑っているんじゃなくて、そうだな、なにか未知なものに出会ったときの驚きが笑いになっている感じかな(笑)」(54)
「すごく健康。あれを見て、自分たちは大丈夫だ、分かってくれている人はいると思ったのを覚えています」(54)
「いちばんカンゲキしたのは、PA席にいたマネージャーまでがのってくれたことだね」
(53)
「わかってくれる人は必ずいるという確信はあるけれど、わかってもらえない人とどうつながれるかという点でいつも悩 んじゃうんだよね。コミュニケーションというのはあらゆる意味で誤解の上にしか成り立たないとも思うし、第一、自分が何かを表現しようと意識するというこ とは、自分でも気がついていないもうひとつの自分の本質を切り捨てていることだからね。とにかく人類全体のレベルが上がって、コミュニケーションの手段が 変わらない限り、誤解はさけられないだろうね。であればヘタな誤解をされるよりは美しく誤解されたいね。ロス公演の成功もある種の誤解だろうけど」(44)

森脇美貴夫の証言
「イエロー・マジック・オーケストラはチューブスのファンを完全に魅了した。日を追うごとに高まってきた観客の反応は、ついに、この日、イエロー・マジック・オーケストラにアンコールを求める熱狂的拍手を送ったのだ。」
(56)
「アンコール・ナンバーはデビュー・アルバムに収められていた『東風』だ。」
(56)

高橋幸宏の証言
「最後の曲が終わる。司会のリッキー・ファー(チューブスのマネージャー)が出てくる。ヘッドフォンをはずすと凄い歓声。立ち上がり、無意識にサイド・ス テージへ。『もう一度出て』と、マネージャーやスタッフに促され、逆戻り。ステージにメンバー全員で立つと、まぶしいライトの向こうに観客の姿が初めて見 える。」
(61)
「グリーク・シアター一杯の聴衆が、ほとんど全員立ち上がっている。アンコールだ!!」
(61)
「ようやくシアターのユニオンからOKが出て、もう1曲」(61)
「バックステージに戻ると、スタッフは柄にもなく興奮している。完全に頭の中がはじけた!!」(61)
「特にボクはひどかった模様。あいかわらずのインタビューや写真撮りも、この日は、わけもわからず終えて、関係者用 のホスピタリティー・ルーム(このシアターは、終わるといつもここで小さなパーティーがある)へ行き、酒など飲む。そして、今日はよかった、と思う。他の 人たちは3日間ともよかったというが、ボクらにとってはモニターの問題も解決したこの日が一番よかった。その内、チューブスの連中、スタッフ、 A&M関係者、雑誌関係者などが来て、またまた大騒ぎになって行く」(61)

坂本龍一の証言
「同じだね。東京と同じ」
(56)

渡辺香津美の証言
「いい感触だったんじゃないかな。チューブスっていうちょっと先鋭的なバンドと一緒だったから、お客さんもイエローの音楽を受け入れやすかったんだろう ね。彼らもイエローをプッシュしてくれたし、口コミで『面白いバンドだ』っていうのが伝わって、最後の日の盛り上がりに繋がったところもあるだろうし」
(25)

川添象郎の証言
「(編注:記録映像を)スタッフの一人が、即、日本に持ち帰り、NHK7時のニュースで『日本の新しいバンドが、ポップ・ミュージックの本場ロスアンジェルスで大喝采を浴びる快挙!!』として流してもらうよう働きかけた。」
(54)
「ニュースといえば暗い事件報道が日常である中で、YMOの快挙はNHKにとっても新鮮だったのだろう。『日本のバンドがポップスの本場、アメリカで大成功!!』というコメントでグリーク・シアター・ライヴの映像が日本中で流れたのである。」
(54)

※編注:この日の演奏は、全曲が同年9月23日にFM東京で放送されたのち、ライヴ・アルバム『ライヴ・アット・グリーク・シアター1979』(アルファ・レコード/1997年)としてCD化された。数曲分の映像も残され、同年11月5〜9日に東京12チャンネルで放送された他、VHS、LD、DVD等で繰り返しソフト化されている。

1979/08/05 アン・ルイス『ピンク・キャット』発売。
Just Another Night:bass
※編注:その他の参加曲は特定不能。

1979/08/06 イエロー・マジック・オーケストラ『オン・ツアー・イエロー・マジック・オーケストラ』公演。ロサンゼルス/マダム・ウォン。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn)
 東風
 他
高橋幸宏の証言
「チャイナ・タウンの『マダム・ウォン』の店で単独コンサート。これも超満員。正直なところ、ややうけすぎの感あり(外人は大げさね)。当のメンバーやスタッフより周りが盛り上がっている。」
(61)

松武秀樹の証言

「そんなに長いライヴじゃなかったですよ。大体、MC-8のデータもグリークの演奏曲のぶんしか用意してなかった。 グリーク・シアターでの7曲と、『ファイヤークラッカー』と『ジ・エンド・オブ・エイジア』ぐらいじゃなかったかな。10曲やったかやらないかぐらい」
(47) 

1979/08 イエロー・マジック・オーケストラ、トミー・リピューマ邸でのパーティーに出席。終了後、ディズニー・ランドを訪れる。ロサンゼルス。

「リピューマ邸に招かれて、音楽業界人との懇親会があったんですよ。そこにドクター・ジョンが居た」(62)
「彼も新しい音楽人生を歩もうとしていたところでね。帰り際に僕の肩を優しく揉みながら"音楽ビジネスには気をつけろ!"と忠告してくれたんだ」
(62)

高橋幸宏の証言
「ドクター・ジョンがいて、『コズミック・サーフィン』を褒めつつ『気をつけろよ』って言うんですよ。ミュージック・ビジネスに気をつけろという意味だと思うんだけれど」
(54)

1979/08 イエロー・マジック・オーケストラ、アメリカ/ロサンゼルスから帰国。

坂本龍一の証言
「海外で演奏するのは初めてですし、大量の楽器を搬送するとか、そういうことも初めて。何から何まで初めてで大変でした」(49)

1979/08/14 『ロッキンf』9月号(立東社)発売。
連載「プロデューサー研究」4/音楽とは言葉の意味を伝えるだけのものじゃない!!

1979/08/17 シーナ&ロケットのレコーディング再開。芝浦/スタジオ'A'。

1979/08/21 『平凡パンチ』8月27日号(平凡出版)発売。
取材記事/世界へ飛翔…イエローマジックオーケストラ
※編注:8月2〜4日のロサンゼルス/グリーク・シアター公演同行記。細野晴臣以下メンバーの発言を含む。

1979/08/23 『ヤング・ロック』10月号(徳間書店)発売。
インタビュー/ミュージシャンは人に影響を与えるから悲劇であってはいけないんですよね

1979/08/24 『流行通信』取材。

※編注:詳細不明。

1979/08/25 『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』(CBSソニー出版)発売。

「実はこの本、私が書いたものではない。ただしゃべっただけだ。それを丹念に聞き取る人がいて、 その人達(太田克彦さん達のことです)にまとめていただいたものである。こういうと、私はペンも持てぬ脆弱な人間に見えるが、実際自他共に認めるように、 『寝たきりプロデューサー』と呼ばれている。」(11)
「『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』」
(11)
「このタイトルは、この様な寝たきりプロデューサーから発せられたものだ。私はスーパーマンになりたい。この本の中 身は、だから私自身ができそうもないことについてのおしゃべりが羅列してある。できないことを並べたてて行く内に、本当にスーパーマンにならなければ、と 思ったものだ。」(11)

太田克彦の証言
「ぼくが企画した」
(11)
「当時、誕生したばかりのCBS・ソニー出版で編集長をしていたぼくは、若い読者に向けてカメラマン、イラストレー ター、エディターなど、いわゆる"カタカナ職業"のためのハウ・ツー・ブックをつくろうと思った。カタカナ職業に人気が集まり始めたころだった。機械的な 職業案内ではなく、むしろプロとしての精神を伝える本にしたかったので、著者を考えるのに苦労した。しかしこの本に関しては、著者のイメージが先にあった といっていいほど、コンセプトがはっきりしていた。」(11)

1979/09/01 シーナ&ロケットのレコーディング終了。芝浦/スタジオ'A'。

「かなりこなれた演奏ができていて、手間はかからなかった気がする」(35)

鮎川誠の証言
「夢のようにちゅうかな、毎日エキサイティングになって楽しくレコーディングしとったよ」
(25)
「スタジオでYMOと実演コラボレーションをしとったね」(25)
「細野さんと一緒になって実験したり、閃いたらすぐに録音してみたりっていう、スタジオでの曲作りをしたんね」(25)
「コンピュータとやるのはめっちゃ面白い新しい経験だったのよ。シンセやコンピュータの音に反応して自分の中から新しいモンがどんどん出てくるのは凄い気持ちよかったよ」(25)
「レコーディングでは、エンジニアに説明するために、いつもレコードを持って行っていた。ラモーンズやら、イギー・ポップやら、リンク・レイ やら、クリス・スペディングやらは、必ず持って行っていた。細野さんや幸宏も持ってきていた。まず、みんながあつまると、ドンッとレコードを置いて、何を 持ってきたのかなと見てね。そんな感じやった」(32)
「YMOとのレコーディングは〈YOU MAY DREAM〉から始めたのかな。それで〈レイジー・クレイジー・ブルース〉〈BATMAN THEME〉〈RADIO JUNK〉〈ロケット工場〉と録っていった」(32)
「その数日前に、ロケッツだけで、いつもの『せーの』で録り始めたと思う。〈I GOT YOU, I FEEL GOOD〉も弾いて、〈YOU REALLY GOT ME〉も弾いて、〈BATMAN THEME〉も弾いて。〈BATMAN THEME〉をガーンと弾き終わっても、そのままテープをまわしていて、そのままライヴのように〈たいくつな世界〉を録って。〈ワンナイト・スタンド〉も演奏したね。〈オマエガホシイ〉もそうだね。俺たちも張り切っていたから、やれるだけやって」(32)
「あえて王道のカヴァーをしようとなって、〈I GOT YOU, I FEEL GOOD〉と〈YOU REALLY GOT ME〉はやったんだね」(32)
「僕たちのロックの始まりをおおらかに出したいという気持ちだったと思うね」(32)
「嬉しく選んだ2曲やね」(31)
「そして、いろいろやっているうちに友達になったクリス・モスデルに〈HEAVEN OR HELL〉〈STIFF LIPS〉の歌詞を書いてもらって、それから曲を作った」(32)
「クリスが俺たちのステージを観に来て、次の日、どかっと詩、くれたの。俺たち用に書いてくれた」(31)
〈センチメンタル・フール〉〈恋のムーンライトダンス〉もレコーディング中に作ったね」(32)
「あらかたサウンドができると、ギターをダビングして。細野さんもダビングして。それでシーナが歌を入れて」(32)
「レコーディングでは、頭と身体と心の3つがいっしょになってアイディアを出していた。アレンジャーがいる世界ではないから。みんなでやっていた。それを細野さんがまとめていた」
(32)
「『真空パック』というタイトルはシーナが後から提案した」(35)
「レコーディングの途中で、シーナのアイディアで、それは決まっていた」
(34)
「アルバム・タイトルは《真空パック》にしようとシーナが言ってね。当時、まだ、『真空パック』と言えば、八百屋の食品のところにしかない名前だったけど、シーナから聞いて、すぐに音楽と結びついて、『うん』と言うてね。いつも新鮮に聞いてもらえるといいなという願いがこもったタイトルだった」(32)

シーナの証言
「面白くて仕方がないっていうか、レコーディングの楽しさを知った。それは全部YMOのお陰。テクノ・ポップとロックンロールが合体される感じが素晴らしいことだと思った。作りながら『自分たちは今のロックの最先端を行ってるんだ』って、誇らしかった」
(25)
「タイトルは、『いつ聴いても新鮮な音がそこから飛び出してくる』っていうイメージで付けたの」(25)

1979/09/06 『FMファン』取材。

※編注:詳細不明。

1979/09/10 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ、チューブス来日公演でオープニング・アクト。中野サンプラザ・ホール。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn, cho)
 (ロケット工場)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 コズミック・サーフィン
 ライディーン
 デイ・トリッパー
 千のナイフ
 東風
※編注:中野サンプラザ・ホールでの演奏の一部は同年11月5〜9日に東京12チャンネルで放送されたが、この日と翌11日のどちらの公演のものかは不明。

1979/09/11 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ、チューブス来日公演でオープニング・アクト。中野サンプラザ・ホール。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn, cho)
 (ロケット工場)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 コズミック・サーフィン
 ライディーン
 デイ・トリッパー
 千のナイフ
 東風

1979/09/12 『アドリブ』秋の号(スイングジャーナル社)発売。
楽曲解説/ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー

1979/09/13 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ、チューブス来日公演でオープニング・アクト。芝/郵便貯金ホール。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn, cho)
 (ロケット工場)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 コズミック・サーフィン
 ライディーン
 デイ・トリッパー
 千のナイフ
 東風

1979/09/14 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ、チューブス来日公演でオープニング・アクト。芝/郵便貯金ホール。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn, cho)
 (ロケット工場)
 ビハインド・ザ・マスク
 中国女
 コズミック・サーフィン
 ライディーン
 デイ・トリッパー
 千のナイフ
 東風


1979/09/15 『Melody』No.3(メロディーハウス)発行。
インタビュー/チューブスをもノックアウトした、ジャパニーズ・テクノポップ必殺仕掛人

1979/09/17 『アンアン』取材。

※編注:詳細不明。

1979/09/23 22:00 FM東京『ビクター・オーディオサロン ザ・ミュージック』放送。
イエロー・マジック・オーケストラ
 ビハインド・ザ・マスク
 
中国女
 コズミック・サーフィン
 ライディーン
 デイ・トリッパー
 千のナイフ
 東風
 ※1979/08/04@グリーク・シアター

1979/09/24 『ニューミュージック・マガジン』のインタビュー取材を受ける。青山/モロゾフ。

※編注:同年10月20日発売の11月号に掲載。

1979/09/25 イエロー・マジック・オーケストラ『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』発売。
テクノポリス:produce, arrangement, remix, bass, keyboards
アブソリュート・エゴ・ダンス:produce, compose, arrangement, remix, keyboards
ライディーン:produce, arrangement, remix, keyboards
キャスタリア:produce, arrangement, remix, keyboards
ビハインド・ザ・マスク:produce, arrangement, remix, keyboards
デイ・トリッパー:produce, arrangement, remix, keyboards
インソムニア:produce, compose, arrangement, remix, keyboards, voice
ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー:produce, arrangement, remix, keyboards, voice
「下半身モヤモヤ、みぞおちワクワク、あたまクラクラの標語のもとに、天才坂本龍一、異才高橋ユキヒロ、32才細野晴臣ら、メンバー3人の分離したタレントの力を並列に統合し、一挙に練りあげた」(15)
「作ってるときは、みんな一番楽しそうに作っていましたね。『未知との遭遇』の影響がまだ強くて。円盤を見たとか見ないとか、そんなような話ししながら、子供のようにレコーディングしてました」
(5)
「1枚目のディスコ臭さから、もう一歩出たいという気持ちがあったと思います。恐らくニュー・ウェーヴができつつあるころの、そういうスピリットに影響されているところはありますね。非常にアメリカ寄りだったのが、イギリス的になってきて」
(7)
「ポップスという分野では、アメリカから動きが出て来ないとなかなか動かなかったのが、突然ロンドンを中心にして新鮮なポップス ー ポップというより理想的な音楽ですね、が出てきて、それと一緒に発展したんですよ」
(14)
「一番大事なのはイギリスの若者の新しい音楽。フライング・リザーズとか出て来た頃ですね」
(7)
「『マネー』っていうビートルズの曲へのアイロニーみたいな音楽がヒットして、それにもすごく影響されました」
(7)
「一緒にやっていきたい仲間だと思ってたし、非常にエネルギーがあって新鮮だったんです」
(14)
「笑いが込み上げてくるぐらい面白かった。そういう沸いてくるエネルギーが大事なんですよ、音楽にはね」(7)
「ヴォーカルを入れて、よりロックに近いインパクトを持たせた。それは、イエロー・マジック・オーケストラのサウンドが、ディスコ・ミュージックのカテゴリーに吸収されないように、脱皮する種をまいておく必要があると思ったから」
(11)
「ユキヒロの声はとてもメタリックでYMOのカラーにとてもうまく合っています」
(15)
僕なんかが歌うとソロっぽくなっちゃうし、顔が出てきちゃう。幸宏もソロは1枚出してたけど、まだ色がなかったから。歌というか声なんだけど、彼の声が『YMOの声』として確立していったというのはありますね」(7)
「僕が強ーく希望したんです。『中国女』のときの歌の思いつきが面白かったんで」(7)
「二枚目はコンピューターをより重点的に使うようにしたんです。全部に。ただドラムスは相変わらず人力でやってました」(5)
「ドラムは人力だったんで、リズムの基本はベースになるわけですね。それをコンピューターでやることには大きな違いがある。それまでわれわれは非常にアナログ的な演奏をやっていて、コンピューターの演奏とは大きな差があったんです」
(5)
「コンピューターの真似をして手で弾こうと思ってもだめだったんです。甘くなっちゃう。われわれがそういう甘さを持ってたおかげで、コンピューターに触れたときの感動がより大きかったんです」(5)
「当時のフュージョンあがりの、あるいはリズム&ブルースとかファンクやガンボをやってたような、おっちゃんのリズムをやってたようなミュージシャンにとっては驚きであり、快感だったんです」(5)
「1枚目にあった違和感や一瞬の葛藤は、すべてなくなっていたね、この頃には。コンピューターに全員がフィットしてくるというか、コンピューターに慣らされていった感じ。ドンカマと一緒に演奏するのが快感と感じるかどうかで、かなりふるい分けがあったんだろうね」(63)
「基本的にはグルーヴといわれるようなノリは捨てる方向の動きに入ってたんですよ。単純化の行きつく先は、ディスコの四つのキックのビートで押し通しちゃ うということで。それで別に嫌ではないわけです。やってるほうは、逆にこだわらなくて済むようになって楽になったというところがあってね。ミュージシャン としての誇りというか自覚の崩壊ですね(笑)。マニアックな部分がどんどん崩壊していくということに自虐的な快感があって。だからもうベーシストなんてい う気持ちはないわけですよ」(5)
「コンピューターを使ってやっていくことがいかに今までと違うかということにだんだん目覚めていったわけで、それに比べたらほかのことは何の意味もなくなっちゃうんですね」
(5)
「ただ、その面白さだけだね。例えば『泰安洋行』でエキゾティック・サウンドの面白さを感じたのと同じような質の面 白さですね。熱狂的な興奮状態で作っていくような。それがジワジワッときたんですよね、二枚目ぐらいから。全部、相乗効果ですよ。『未知との遭遇』も人の 心をあおるしね。しかも私生活では」(5)
「ニュー・エイジ運動みたいなもんですけど、瞑想だの仏教だの、それと円盤と宇宙人とが絡まってきてね(笑)。ただ の妄想じゃなくて、現実に円盤をひんぱんに見るようになったんですよ。『はらいそ』ではけっこう地べたにはいつくばって、パラダイスを夢みたんだけど、 YMOが始まってから、地上と宇宙とが近くなって、円盤を見たりするような不思議なことが現実の中に漏れてきたという感じがして。錯乱状態になってきたん ですよ(笑)。ユリ・ゲラーなんかも来てスプーンを曲げたりとか、魔法が復活した時代ですよ。何か根本的な変化がその時代にあった。それまでの合理主義 が、スプーンが曲がったのと同時にちょっと曲がっちゃったんですね」(5)
「それまでは音楽と自分とが一体化していた。それを切り離して、仕事としての、仕事といっちゃうといいすぎなんですけど」(5)
「距離を保って、自分を少し守ろうと思ったのかな」(5)
「おそらく自分で防禦の顔を持とうと思ったんでしょうね」(5)
「それだけ混沌としてたんですね、内部が。全部出しちゃうわけにいかないし。精神的な葛藤は音楽的な葛藤ではないか らね。音楽には全く関係ないものだったんで。本来なら、そういうときは音楽やらないでたぶん休んでる時期だと思うんですよ。休むべき時期にやってたことが YMOなんです(笑)」(5)
「(編注:コンピュ・ミックスは)アルファのエンジニア・チームが、そういうものをすぐに導入するんで、勧められるままやってましたね」(7)
「でも、非常に厄介な機械だったという記憶がありました。うまく作動しないし」
(7)
「ジャケットは人民公社風」
(15)
「まだなんか、固まってなかったんだろうね、YMOのアイディアもね。うん。なんか、東洋趣味で、なんか、香港あた りの、感じで、麻雀やってようかっていうような、ことだったと思うんだけど。たぶんそれを写真にするってのは難しかったんじゃないですかね」(45)
「そしてレコードは色つきです!」
(15)

テクノポリス
「『テクノポリス』という言葉は最初からあったんです。当時ぼちぼち、そういうような言葉が出回ってたんですね、経済的な意味で」(23)
「ピンク・レディーが唄ったらぴったりと思う程、東京歌謡の雰囲気があり、東京=テクノポリスというコンセプトが生きて来ます。」(15)
「かなり真面目な音楽ですね。ていねいに作られた、非常に完成された大人の音楽なんだなと」(23)
「ドラムとメロディーとコード以外はコンピューターが演奏していますが、ディスコ調のElベースも入れました。聞き所はボコーダーの"トキオー"というロボット・ボイスです。」(15)
「『TOKIO』と言ってるのは教授です。みんなでああいうふうに東京と言わずにトキオと。そのネタは『泰安洋行』 のころから、僕の中にずっとあったものなんです。アメリカのフィルターを通して、一回転した悲壮的な東京の捉え方を、ずっと僕は引きずっていたんですね。 かつて戦後の進駐軍のころ、トーキョーとは表記せず、トキオって言ってたんですよ。その通りの『TOKIO』っていう表記を、アメリカがしていた時代が あったんですね。つまり敗戦国日本の、そういう戦争体験を通した逆転した見方だったんですね」(23)

アブソリュート・エゴ・ダンス
「キライなんだよ(笑)。そうキライなんだ」
(63)
「コブラ笛のようなメロディーが頭にこびりつき、うなされます。これもコンピューターにかなりお世話になっていて、ローランドのMC-8によってMOOGのIIICを動かしているわけです。」
(15)
「間奏でサンディーのおはやしが入っていて、インド歌謡と沖縄とディスコが入り乱れております。クラッピングの音もMC-8で動かしているんです。」(15)

ライディーン
「とにかくパチンコ屋でかかりだしてから聴かなくなったんです。耳を塞いじゃう。でも、作った当時は、本当にいちばん好きな曲でした」
(23)
「みんなの予想を上回る展開をしてきた楽曲だと思いますね。これは幸宏の鼻歌と、教授の編曲能力で、非常によくまとまった曲です。それに+αで僕が、『ライディーン』という名前を付けたり」
(23)
「適当なアニメのSEを入れたり」(7)
「面白おかしくしました」
(23)
「とにかくメチャクチャやったのね。もう、何も考えずにやってたんで、なぜだと言われると困るんですけど(笑)」(7)
「全体の雰囲気は東映の時代劇にある『街道もの』や黒澤明の馬がでてくる戦闘シーンがぴったりです。そんなニュアンスをTVアニメの勇者ライディーンのイ メージに置きかえるとグッと現代的になり、日本版スター・ウォーズです。パーカッションもピッコロも全てコンピューターが演奏しています。苦心したところ は間奏のSEで、僕がコルグ・ポリフォニックの"ミュー"という音、教授がアープ・オデッセイの"ピューン"というレーザー兵器の音で馬上の戦斗シーンを 展開して行きます。よく聞くと馬のひずめの音もあり
、これもコルグです(15)
「なぜか知らないけど馬も駆けてきて」(7)
「馬が向こうからやってくるような音にしたいって、それで『タッタカタッタカタッタカ、ババッ!』って」(7)
「これらSEの音はQSを使用して位相をずらしてあるので、音が前面に飛び出して来ます」(15)
「非常にヴィジュアル的な作り方ですね。遊んでるんです。非常に楽しいレコーディングでした。これは、自分たちで作れるとは思ってなかったサウンドだなと思った」(7)
「以上3曲は全て同じテンポ」
(15)

キャスタリア
「絶対に映画のテーマ曲にしたい、と思う様な音楽に仕上がりました。」
(15)
「キックはIIICの音で、これもMC-8が動かしています。」(15)

ビハインド・ザ・マスク
「唄はボコーダーを使用して教授自身が演奏しています。」
(15)

デイ・トリッパー
「重要なポイントを占める選曲とアレンジで、この曲をステージで演った時からユキヒロのロック魂が燃え上がった次第で、ボーカルがフィーチャーされています。」
(15)
「声にハーモナイザーを使用し、より機械的な音にしてあります。苦心した場所は変拍子の入る部分で、コンピューターに合わせてのドラミングはとても難しかったのです。」(15)

インソムニア
「この曲もドラム、メロディー、ボコーダー以外は全てMC-8とIIICのコンビでつくりました。僕としてはWARの感じをドイツ仕掛けでやってみたので すが、もちろん雰囲気はジャパニーズです。どうも僕はメロディーがインド歌謡になってしまいますが、出来には満足しておりますです。聞き所はブリッジの無 限音階で、人間の可聴範囲外の周波数を全て含んでいるという恐ろしい音でできているのです。メロディーはコルグを使用しています。」
(15)

ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
「これを録音している時は病気の音楽であると皆騒いでいた程、吐き気を催す臭気迫るサウンドになりました。しかしイギリスでシングルを切れそうな位にポッ プ感覚を持っています。モジュレーションのかかったSEの声は、マネージャーの女性(編注:日笠雅子)で何を云っているのかは」
(15)
「もう謎です。」(15)

坂本龍一の証言
「1枚目については、イエロー・マジック自体が、まだきちんと固まってなかった、っていうのか、単なる"集合"だったわけ。だから、それまでの"トロピカル志向"とか引きずっていたんだけど」
(58)
「音楽的には、二枚目で確立したんだよね、YMO的なスタイルを」(64)
「余計な部分とかけずり落してひとつのスタイルにまとめあげることができたと思ってる」
(58)
「まだ売れてなかったわけですから一枚目と同じ気分で作ってたんです」(14)
「YMOって、あのう、ヴォーカルはあっても歌じゃなかったと思うのね」
(65)
「わけのわかんない英語の歌詞でさ。で、別に意味を伝えるとかっていうことでなくって、なんかそういうサウンドがあればいいっていう感じだったんだけど」(65)
「細野さんが歌うとね、細野さんの顔がね、見えすぎちゃって」(65)
「顔が見えすぎるんで、よくないっていうんで、細野さんは歌うなとかさ、言ってたわけ。でユキヒロっていうのはわりと機械に乗っかりやすい声で、いいんじゃないかとか言ってね」
(65)
 テクノポリス
「ヴォコーダーで『TOKIO』って言うアイディアは誰が出したんだろう?」
(24)
「覚えてませんが、細野さんが『イントロにTOKIOって入れたら』と言ったのかもしれませんね〜」
(24)
「僕たちが『TOKIO』って言ったときのリファレンスというのは、決してニューヨークでもロスでもなくて、やっぱりロンドンなんですね。ロンドンから新 しい音楽が次々生まれてることに、僕たちは敏感だったから、こっちからやり返してやろうという気持ちがあったと思うんです」
(7)
 アブソリュート・エゴ・ダンス
「沖縄音楽はみんな好きでしたからね。沖縄独特のグルーヴというのが、世界の宝だって気持ちもあったし」
(7)
「これは細野さんの影響なんだけど、沖縄のグルーヴとニューオリンズって非常に共通していてね。海洋文化というか、海のリズムっていうのかな。(世界的視点で)特異であるけれど、普遍的であるっていう」(7)
「あれをキーボードでできるのは、矢野顕子と僕しかいないと思っていたんで。だから沖縄音楽っていうのは、どこかで使いたいという気持ちが、みんなあったと思うんですよね」(7)
 ライディーン
「浮世絵的なものっていう、幸宏に与えられた課題があったような気がします」
(7)
「東海道五十三次のイメージがあったわけです。浮世絵にみんながハマっていたころで、結局、浮世絵ってゴッホにもモネにも影響を与えた、印象派を作った直接の原動力だし、日本から世界に発信した文化の、3本指のひとつじゃないですか」(7)
「今まさに日本から発信しようとしている自分たちを、浮世絵の世界に重ね合わせているような意識があって、富士山があって、柿の実がなってて、飛脚がいて、波飛沫がパーッと散ってて、そういう世界で」(7)
「アニメとかに、けっこう近い発想があったと思うんですよ」(7)
「この曲、なんで悲しい感じがするのかな?」
(24)
「アレンジとか曲調とかは、決して悲しくないんですけどね。あの、虚飾を排した(笑)ピュアなアレンジも、そういう感じを与えるのかもしれない。単に繰り返しているだけですもんね。」
(24)
「でも、だからエンディングのピッコロのフレーズが生きてくるんですね。」(24)
 インソムニア
「細野さんもぼくも、あの頃長らくハマっていた、沖縄っぽいハネ方です。MC-8上では、13:11のハネ方っすね。」
(24)
「ユキヒロの、バシバシにデッドなスネアが、脳に響きます。」(24)
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
「これはパンクっぽいっすね。こういうのを、ぼくたちは当時『デジタルパンク』なんて呼んでました。テクノと同時に、ディーヴォなんかにも影響されてたから、ああいう解体されたロックみたいなものと、テクノを合体させたいと思ってたんですね。」
(24)
「途中に入っている咳のような音は、本当にマーコ(当時の細野さんのマネージャー)の咳です。」(24)

高橋幸宏の証言
「直後のニュー・ロマンティックの連中に影響を与えたアルバムなのかもしれないです」
(16)
「このジャケットは僕、何度も見ててね、3人のソックスの色が違うのが失敗したな!って思うんですよ。なんで気がつかなかったんだろうっていう」
(45)
「コカ・コーラとか、それからマネキンとか」
(45)
「僕もなんか言いました」
(45)
 テクノポリス
「無機的という部分があるんですね」
(7)
「教授の中では、あれは明確に『テクノで歌謡曲をやる』っていう、ひとつの分析があったから。あの曲は他の曲に比べると、ハッキリとコンセプトを打ち出していたので、違和感がある曲なんですよ。僕はなるほどなあって思ってて、『分析してるんだ、音楽を』と思いましたから」(7)
 ライディーン
「(編注:イントロのチッチキチッチキは)僕じゃないですね。あれはコンピュータで作ったパーカッションなんだけど、『ハイスクールララバイ』も同じように始まってるから、たぶん細野さんじゃないのかな」
(7)
 デイ・トリッパー
「僕が裏声で、オクターブ・ユニゾンで歌ってるんですけど、それが気持ち悪いんですよ(笑)。それを妙に細野さんが気に入ってて」
(7)

松武秀樹の証言
「アルファにはキーペックス(KEYPEX)があったんですよ」
(25)
「ノイズ・ゲートですよね」
(25)
「他のスタジオにはなかった。もちろんあの時代だから初期のキーペックスだけど。キーペックスがあることでゲート・リヴァーブとかね」(25)
「あるときスネアにリバーブをかけたんだけど、幸宏君に『これ、次の音が鳴るまでに切ってくれない?』って言われたんです。それが始まりだったような気がしますね。で、MOOGのVCAのエンベロープで切ってみたりとか、いろいろ試したんですけど、結局ゲートを使った」(20)
 テクノポリス
「7割くらい手弾きですね。そんなたくさんシーケンスは走ってない」
(20)
「『トキオ』っていう、ローランドのあれは試作機でしたよ。まだ売り出す前でしたから。『頼むから貸してくれ!』って言って(笑)。だってまだ、日本に2台とか3台くらいしかなかった」
(25)
「技術的なことを言うと、『ト・キオ』ってピッチが下がってるように聞こえるけど、『ト』で一回、上げるんですよ。『ト』『キオ』」
(25)
「(ベンダーを)上げて、下げる」
(25)
「スラップ・ベースは最後の方に入れたんじゃないかな、細野さんが」
(20)

小池光夫の証言
「VALLEY PEOPLEのゲートKeypexを使って、ドラムなどのリバーブをバッサリと切るという」
(20)
「ゲート・リバーブ」(20)
「もう『ソリッド〜』のときには使ってますね」(20)
「簡単にいかなくて、リバーブを組むだけでも1時間ぐらいかかっていた。それを作る間は、他のみんなが待っていてくれるんですけどね。多分それも忍耐だったと思いますよ」(20)
「デジタル・リバーブがなかったですから、鉄板式のアナログ・リバーブとかを加工していたんです。逆にアナログ・リバーブだから、かかり方が毎回違って、ああいう音になったんでしょうね。同じ音が入っても、前の揺れが残っているのといないのでは違いますから」(20)
「このアルバムでは初めてコンピューターによるオート・ミックスを試した」(19)
「(編注:スタジオの卓は)APIです。オートメーションのシステムが付いてた」
(20)
「フェーダー・コントロールだけですけどね」
(20)
「やっぱりオートメーション初期の機械なんでトラブルが多かった」(20)
「まだ精度が充分じゃなくて」(19)
「完動しませんでした」(20)
「ムービング・フェーダーじゃないですから、うまく動いているかどうかも分からない。それにオートメーション用のSMPTE信号で録音トラックが1つつぶれてしまう」(20)
「24トラックめに『Timing Code』って入ってる曲が多いですけど、このコードがコンピュ・ミックス用の信号なんです」(19)
「あと、途中からデータをアップロードすることができなかった。MC-8と同じです」
(20)
「あんまり苦労したから、この後のアルバムはまた手動ミックスに戻りました(笑)」(19)
「ベースの音色の入れ替えとかずいぶんありましたねえ」(19)
(編注:トラック・シートの)曲名の下に描いてある『alfa』と『A』の旗はそれぞれ細野さんによる、レコーディング済み、ミックス済みの印ですね(笑)。旗が描かれたらもう手を加えちゃいけないっていう掟があったんですよ。そうじゃないと終わらないから(笑)」(19)
 テクノポリス
「大変でした。ヴォコーダーのタイミングとかけっこう直したし」
(19)
「この曲はオートメーションでミックスしていませんね。マニュアル・ミックスです。というのも、トラック・シートにはコンピューター用の信号が入っていないんですよ」(20)
 ライディーン
「馬が走ってくる場面を音で描いているところがあるでしょう?あれは逆相でイコライジングしているんです。それにOSエンコーダーを使用しています。後ろ から駆け抜けていく感じを出すために。それをいったんカッティング段階ではねられたことがありますね。逆相の音をレコードにする、カッティングするなんて それまで前例のないことだったんで、当たり前のように"こんなのダメですよ"って注意されちゃって(笑)」
(18)

鮎川誠の証言
 デイ・トリッパー
「出 来上がったものを聴いたのかな。それまではミキシングで(編注:ギター・ソロを)2本出したものを聴かせてもらって、いい感じやね、と思ってたけど、やっ ぱり、いい感じやった(笑)。ギター弾きやったら誰でもやりたいことやし。なかなか一遍に2本出してくれんから(笑)。『2本出しゃいいじゃん』というの は、ギター弾きとしてはロックのギターの憧れであるよね」
(32)
「新しいムーグのコントロールされた音色やら、電子音はかなり整然と聴こえていたから、生のギターのタッチはとてもかっこよく聴こえた。嬉しかったね。すごくかっこいいことをしてくれた。俺もYMOの一部で嬉しいちゅうかさ(笑)」(32)

クリス・モスデルの証言
 ビハインド・ザ・マスク
「もともと、僕は能面をかぶった人間のことを書いたんだ。実際、歌詞で書かれたシワを能面の上に刻み、ヴィジュアル的に書いた」
(66)
「僕がスタジオに行ったら、龍一から『あの詞に曲をつけたけど、詞が足りないからつけ足してほしい』と言われて」
(25)
「僕の歌詞の一部を使って龍一が書いたメロディにあわせて、また別のヴァースを書くように依頼され」
(66)
「数行を付け加えて、ああなりました」
(25)

鋤田正義の証言
「マネキンを持ってきたりすることや、色なども含めてヴィジュアルは僕が考えました。衣裳だけ幸宏が担当でしたけどね」
(67)
「当時、ぼくがすごくマージャンをしてたんですよ。徹夜マージャンをしょっちゅうやってた。そういうところからマージャン卓が出てきたのかなあ」
(19)
「赤い、人民服とかね、そういうなんかこう、色の記号みたいなものもあるから、まあやりやすいって言えば、やりやすいですけど」
(45)
「ぼくが羽良多さんを指名して一緒にやってもらうことになったんです」
(19)
「いろんな仕事を一緒にやってきて、すごく気心が知れてるし、おもしろいことができますから」
(19)

羽良多平吉の証言
「依頼を受けたのは、立川直樹さんがプロデュースした細野晴臣さんの本『地平線の階段』(八曜社)で、書容設計をした縁からです」
(67)
「ジャケット写真の撮影時にはスタジオには行ってませんが、その前に鋤田さんに誘われて撮影スタジオに行った記憶はあります。試し撮りだったのかな……」
(68)
「青山のスタジオ」(4)
「そもそもYMOについての知識がなくて、スタジオに行ったのも、ただ鋤田さんから誘われたのでついていっただけなんですよ」
(69)
「撮影に遊びに来ない?って誘われたんで。ジャケットのデザインをすることになったのは、だからその後ですね」(69)
「(編注:音は)できてましたよ」(69)
僕はちょうどWX-raY(ダヴレクシィー)という雑誌を始めてて、そのスタッフと、みんなでクルマに乗っているときに、もらったばかりの『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』の試聴用テープを初めてかけてみたんですよ。そしたらみんなブッ飛んじゃって(笑)」(69)
「とくに"ライディーン"にはみんな夢中で聴き惚れて、危ないから運転代わろうよとか(笑)」(69)
「そもそもあのアルバムのジャケットはけっこう急に作ることになったようでした」(69)
「アメリカのA&Mで作ったジャケットがあったんです」(69)
「メトロノームかなにかのイラストだったかな。メンバーの意向を抜きにアメリカで作られたそのデザインじゃちょっと、ということで日本でジャケットを作ることになったんだと思います」(69)
「 ルー・ビーチのロゴも写真もすでにあったもので、ここで僕がやったのは書体選び、レイアウト、色指定でした」(68)
「完全に任せてもらえたような記憶しかない」
(69)
「まずバンド名のロゴが決まってましたし、写真も表、裏とも決まっていた。それをどんと載せれば、後はやれることは決まってます。そういう意味では工夫できることは少なかった」(69)
「まだ手探りだったっていう印象のほうが強い(笑)」(69)

小尾一介の証言
「初日のバックオーダーが1800枚もあったんですよ。初登場17位だったんですけど、当時うれしかったなあ」
(60)
「ともかくあのLAのライヴ・ヴィデオが大きかった。当時はヴィデオ・ソフトがで始めた頃で、レコード店にもヴィデオ・デッキが置いてあるのが常態になっ ていたんです。そのインフラがあって、あのヴィデオがレコード店で引っ張りだこになったんですよ。たくさんの店から"あれ回してほしい"って言われました し、配給をやっていたビクターのセールスの人もあれは評判がいいと」
(70)

後藤順一の証言
「ビデオ映像を宣伝や販促に使おうっていう発想、店頭用のプロモーション・ビデオを作ろうっていうアイデアはあの当時、日本のレコード会社で初めてだったんじゃないかな」
(60)
「ビデオ・デッキもこっちで手配して店に貸してあげて、だからこのビデオを流してねっていう。それをやったら、ものすごい反響が来た」
(60)

※編注:2011年4月2日、日笠雅水が「ソ リッド・ステイト・サヴァイヴァー」曲中の声についてツイッターで証言。それによると台詞は「みなさんこんにちは」「みなさんこんにちは」「みなさんさよ うなら」「これが最後の放送です」で、坂本龍一が「原爆が爆発して地球最後の日、放送中のアナウンサーが煙が入ってきたスタジオから冷静に最後の放送だと告 げるようなイメージで」と指示したという。恐怖で発狂した人を模した笑い声は細野晴臣のものである、とも。

1979/09/30 『地平線の階段』の原稿「おわりに」を脱稿。

1979/10/01 『ヤングロック』取材。

※編注:詳細不明。

1979/10/03 イエロー・マジック・オーケストラ、リハーサル。メンバーにセイカノート製の自由帳を配る。南箱根/ロックウェル・スタジオ。

渡辺香津美の証言
「リハーサルで細野さんがみんなに配ったんですけど、レパートリーのコード進行とか、コンサートのセットリストが書き込まれてる」(25)
「記名欄に『イエロー2年ゲスト組 わたなべかずみ』って書いてある」(25)
「細野さんの中での私の位置付けとしてはこれだったんだ。サポーティング・メンバーというよりは、ちゃんと『ゲスト』って見てくれていたんだ。なんか、うれしいなあ」(25)
「海外ツアーは自分でもやりたかったからね、着々と準備を…イエローのイメージに合うようなブラックのギターを2本新調してね、気合い入ってましたよ」(25)

松武秀樹の証言
「YMOの最初にして最後の合宿ですよ。みんなで、ああでもないこうでもないと言いながらレパートリーやアレンジを決めていって、歌の練習をしたりとか……」(47)
「プログラミングもここでツアー用にやり直して、それでツアーの最後まで行きましたね」
(46)

1979/10/04 イエロー・マジック・オーケストラ、リハーサル。南箱根/ロックウェル・スタジオ。

1979/10/05 イエロー・マジック・オーケストラ、リハーサル。南箱根/ロックウェル・スタジオ。

1979/10/06 イエロー・マジック・オーケストラ、リハーサル。南箱根/ロックウェル・スタジオ。

1979/10/13 『地平線の階段』入稿打ち合わせ。芝浦/アルファ・レコード。

羽良多平吉の証言
「最後の打ち合わせは海外ツアーに出かける直前のアルファレコードのロビーであわただしかったですね」
(68)
「ちょうどトランス・アトランティック・ツアーに出かける頃が入稿で、さあ出発だってメンバーやスタッフのリムジンがアルファレコードを出るときまで出版社の人を交えてロビーで入稿作業をしてたんですもん(笑)」
(69)

1979/10/13 21:30 イエロー・マジック・オーケストラ、成田/新東京国際空港からロンドンへ出発。

「YMOのツアーっていうのは、Aクラスのツアーだったんです」(7)
「いきなりファースト・クラスのツアーをアルファが組み立てたんですね」
(5)
「これは村井さんの、ある種のハッタリですよね」
(7)
「非常に見栄を張った、村井さんならではのやり方で。それをやるにはかなりの資本力が必要なわけですし、やはり村井さんが賭けたんですね、YMOに」
(7)
「超Aクラスのツアーをセッティングしてくれたのは、お金もさることながらアーティストに対するリスペクトを持ってくれなければ出来ないこと」
(71)
「村井さんは、アメリカで成功させるという個人的な野心があった人だから、トミー・リピューマの話をきっかけに、投資する決意をしたんでしょうね。そのころはまだ売れてないわけですけど」
(5)
「そういうツアーのお膳立てをやって、それを日本にフィードバックしようという明確な戦略があった」
(7)
「よくYMOが戦略的だと言われてたのは、その村井さんの戦略だと僕は思うんですけどね」
(7)
「独特の戦略を持ってたんだろうと思うね」
(5)
「当時の僕らは、そこまで考えてなかったんです」
(7)

坂本龍一の証言
「初めてのワールド・ツアーに出かけるころは、YMOの人気はまだたいしたものではありませんでした」(50)
「幸いにというか、YMOの最初のアルバムを作った一年間ぐらいというのは、社会的にはあまり売れてなくて」
(64)
「というのはレコード自体が売れなくて、三人ともむしろ他の仕事で忙しくて。生活は安定しているんだけど、幸いにバンドとしては売れなかったから、遊び半 分でやれていたという、わりと都合がよかったのね。業界内では新しいことをやっているというんで評価されて、自分たちも自己満足があるし、金銭的には他の 仕事で充分成り立っているしーというわけ。それは非常に居心地よかった」
(64)
「そうこうしているうちに、まあ一回目のワールド・ツアーをやるということになって」(64)
「このツアーをきっかけにして、本格的に売り出していこうという時期でした」
(49)

高橋幸宏の証言
「僕はとにかく飛行機がイヤで、ずっとそのことばかりでしたね」
(42)

川添象郎の証言
「PRライヴ・ツアー」
(54)
「A&Mレコードがセットした」
(54)

村井邦彦の証言
「贅沢なツアーだよね。当時はまだ日本が二流国、三流国って思われていて」
(46)
「僕らの先輩の川添の親父(川添史郎/キャンティ・オーナー)たちが考えていたことは、極東の小さな国から誰かが来ましたっていう時に、売春宿みたいなホ テルに泊まってるとそういう人間かと思われるかもしれないから、ちょっと金はキツくてもちゃんとしたところに泊まれという考え方でね。僕らは東洋の無名な バンドじゃないんだと。ちゃんとしたエスタブリッシュなバンドのミュージシャンなんだというふうに、体裁を整えてあげたんだよね」
(46)

吉沢典夫の証言

「社運をかけたね、凄い世界ツアー」
(40)
「全員行けってんで、事務の女の子まで行ったよ」
(40)

近藤健一朗の証言
「ぼくらもね、初めて海外で音を出すっていう経験でしたから、日本を出るときにはどういう状況でやれるのか全く見えなかったんです」
(16)
「当時は、各会場の設備リストも来ない状況で、必要な機材リストをアルファ経由で送って、後はまかせるって感じで。こちらから機材の指定は一切できなかったですからね」
(16)

長曽我部久の証言
「YMOっていうバンド自体にスタッフがついているわけじゃなく、各メンバーにマネージャーとアシスタントがいるっていう状況でしょ。だからツアーのため のシステムがないわけですよ。楽器なんかも、日頃使っている機材をいきなりパッキングして『さあヨーロッパに持ってくぞ』ってなって。それこそ専用ケース もない状態ですから、アルミのトランク山ほど買ってきてね(笑)。ひたすらデカいトランクかかえて搬入するっていう。とにかく膨大な量でしたね」
(16)

鋤田正義の証言
「仕事じゃなく、メンバーの友人としてついていって、勝手に写真を撮ってただけです。幸宏とはミカ・バンドの頃からつきあいが長いし、細野さんや教授とも 仲が良かったし、そんな彼らが海外ツアーに行っちゃうとなると、なんだか取り残されたようで寂しいし(笑)、じゃあ一緒に行っちゃえと自費でついていった んです」
(19)
「僕はヴィジュアル面、アーティスト写真やレコード・ジャケットに関わっていて、周囲も仲間の一人として見てくれていたんだと思います。写真を撮らなくと も、レコーディングの時にもスタジオに行って、一日中その音楽や空気を味わっていましたから。そうなると、ワールドツアーに行こうという話が出ると、行こ う行こうという感じでね」
(54)
「ノリで決めちゃったんです」
(54)
「当時のヨロシタ・ミュージックの大蔵さんが誘ってくれたことも覚えていますね」
(54)
「羽良多さんもたしか自費で同行してましたね」
(19)

羽良多平吉の証言
「一緒に行きませんかって誘ってもらえて、すごくうれしかった。実は僕、飛行機に乗ったのってそのときが初めてだったんですよ(笑)。」
(69)
「アルファレコードの社員だけで20人はいたのかな。それにPA関係も入れると相当な人数での移動で、なおかつ四つ星クラスのホテルを全部貸切」
(68)
「僕は自主的に鋤田さんの付き人みたいなことをやっていましたね」
(68)

1979/10/14 6:05 イエロー・マジック・オーケストラ、ロンドン/ヒースロー空港着。

※編注:ロンドンではロイヤル・ガーデン・ホテルに宿泊。

1979/10/15 12:45 イエロー・マジック・オーケストラ、フランスの雑誌『クーラン』のインタビュー取材を受ける。ロンドン。

1979/10/15 16:00 イエロー・マジック・オーケストラ、『メロディ・メーカー』のインタビュー取材を受ける。ロンドン。

1979/10/15 17:30 イエロー・マジック・オーケストラ、ラジオ番組のインタビュー収録。ロンドン/キャピタル・レディオ。

1979/10/15 イエロー・マジック・オーケストラ、リハーサル。ロンドン/ヴェニュー。

近藤健一朗の証言
「ホールに入ったときに、システムもしっかりしていてホッとしました。ここなら大丈夫だって思いましたね」(16)

長曽我部久の証言
「本番入るまでに数日あって滞在期間は短くなかった」
(16)

1979/10/16 16:00 イエロー・マジック・オーケストラ、ロンドン/ヴェニュー入り。

長曽我部久の証言
「ヴェニューでは電気が来なくて、リハがしばらく出来なかったんですよ。あのときはどうしようもなかったなあ」
(16)

小池光夫の証言
「イギリスは電気事情が悪くて、リハやってる最中に雨が降ってきて、漏電か何かで電気が止まっちゃったんですよ。そしたらリハーサルができなくなってね。電気がないと何もできないグループなんだと思いましたよ」
(46)

松武秀樹の証言
「開演の直前まで停電しててさ。あそこは雨が降ると、電気が来ないという凄い会場で」
(72)
「しょうがないから、懐中電灯使って、シンセのパッチングやりました」
(72)

1979/10/16 イエロー・マジック・オーケストラ『トランス・アトランティック・ツアー』公演。ロンドン/ヴェニュー。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 キャスタリア
 ライディーン
 ビハインド・ザ・マスク
 コズミック・サーフィン
 ラジオ・ジャンク
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 インソムニア
 (ロケット工場)
 中国女
 在広東少年
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 デイ・トリッパー
 ファイアークラッカー
 千のナイフ
 東風
「イギリスにはニュー・ウェーヴ・シーンが塊としてあったんですね。YMOを受け入れてくれたんです、仲間として。だから東京にもない、そういうフィット感があったんですよ」(7)

坂本龍一の証言

「ツ アーはロンドンから始まりました。当時のロンドンはパンクからニューウェーブへ、というころで、キングズ・ロードにはニューウェーブっぽいカッコいい若者 があふれていた。ファッションもビジネスも、たぶん世界一高感度に発信していたのがそのころのロンドンだったと思います。そんなこともあって、ぼくらの気 分はLA公演のときよりもずっと盛り上がっていました」(49)
「五百人ぐらいのイギリス人の前でやった」
(64)
「いわゆるミュージシャンとかDJとか、ロンドンの業界の人はほとんど集まった」(64)
「ロンドンていうのはね、わりと、東京にね、近いような、面もありますね」
(57)
「かなり感じましたね。つまり僕たちが、こういう風に聴いてほしいなっていうようなところを、わりと、聴いてくれた」(57)
「ぼくの曲をやりだしたら、当時はニューウェイブの華やかなりし頃で、ロンドンのいかにもストリート・キッズという感じのおしゃれなカップルがダンスフロアで踊り出したんですよね、二人で」
(64)
「『ジ・エンド・オブ・エイジア』をやったとき、初めてパンクスのカップルが踊り出したんですよ」
(64)
「ステージのすぐ前」
(49)
「ニューウェーブ風のファッションの、カッコいい男女でした」(49)
「自分の曲やっている時だし、これは感動した。オレってなんてカッコいいんだろと思った。ぼくってシンプルだから、すぐいい気持になっちゃう(64)
「自分の曲で、イギリス人たちを踊らせたことが嬉しかったし」
(7)
「こんなカッコいいカップルを踊らせているんだから、俺たちって、俺ってすごいぜ、みたいな、そんな恍惚感を演奏しながら覚えた。電気が走るような感じ。そして、『そうだ、これでいいんだ』と思った」
(49)
「ぼくはそれまでずっと、自分はこういう方向で生きていくんだ、と思い定めるようなことはなるべく避けていました。できるだけ可能性を残しておくほうがいいと思ってもいた。でもそのときロンドンで、『この形でいいんだ』と思った」(49)
「日本経済が盛り上がってる時期で、ヨージ・ヤマモトとかコム・デ・ギャルソンなんていうのは、本当に日本人にしかできない表現なわけです。で、コム・ デ・ギャルソンがいちばん似合うのって、やっぱり足の短い、日本人の体型なんですね。イギリス人がコム・デ・ギャルソン着てもカッコよくならないわけ。だ から、白人たちが日本人に生まれたかったと思わせる表現なわけですよ、ギャルソンは。YMOも、それぐらいインパクトがあったと思う。だから『ああ、僕た ちが発信する意味があるんだな』と思いましたね」(7)
「あのとき彼らロンドンの若者の耳には、『ジ・エンド・オブ・エイジア』はどんなふうに聴こえていたのか。推測するしかありませんが、キテレツで日本的 な、何か異質な音楽として聴こえていたんじゃないかとぼくは思います。しかし、それにもかかわらず、ぼくらの音楽に反応して踊り出したということは、 YMOの音楽が何らかの形で彼らに『わかった』ということです」
(49)
「簡単に言ってしまうと、文化的な背景がまったく違うところの音楽は、聴いてもほとんどわからない」(49)
「ロンドンの彼らがおそらくはYMOの曲を異質な音楽として受け止めながらも、それを『わかった』、何か心や体を揺さぶるものとして感じたということは、ぼくらと彼らとの間にポップ・ミュージックという共通の基盤があったからだと思います」(49)
「YMOの音楽の源流の一つは、イギリスやアメリカのポップスです。とくに細野さんと幸宏の2人には、50〜60年 代を中心とした膨大な量のポップ・ミュージックが、音楽データ・ベースとして入っている。そういうものが、ロンドンの観衆がぼくらの音楽に共鳴する土台に なっていたのだと思います」(49)
「欧米のポップ・ミュージックは、ラジオやレコードを通して、世界中に行き渡りました」(49)
「資本主義的な商品として世界中にばらまかれ、ロンドンの聴衆も細野さんも幸宏も同じものを聴いて育つ、という状況 が生まれていた。ポップスはもう、欧米だけのものではなくなっていたわけです。そして今度は、そのポップ・ミュージックを土台とするYMOの音楽が、日本 から欧米へ入っていくことになった」(49)
「もしリズム・セクションの2人の中にポップ・ミュージックがあれほどしっかりと染み込んでいなかったなら、YMOの音楽が世界中の聴衆の耳に届くことはなかっただろうと思います」(49)

高橋幸宏の証言
「イギリスなんかだとね、この人たちは音楽、わかろうとしてるなという」
(57)
「なんか聴きたがってる」(57)
「お客さんがスタイリッシュなんで、ちょっとビビリましたね」
(7)
「聴衆の方がステージの僕たちよりカッコいいと思った」
(42)
「客席がファッション業界や、クラブ・シーンの有名人ばっかりで、こっちもすごく緊張するわけですよ(笑)」
(16)
「当時有名だったブティックの店員たちのほとんどが集まっていたイメージがあるんですよね」
(42)
「ワールズエンドだとか、ロックスとか、見たことある店員が、みんないましたね、ズラッと」
(7)
「みんなすごくお洒落して来てて、その立ち方からこう、ポーズ極めてるんですよ」
(42)
「もう、彼らの立ち居振る舞いからして実にカッ コいい」
(16)
「ステージから見ても客席が派手でしたね」
(54)
「ロンドンで、僕たちの人民服が受け入れられるかは、実は行く前は気持ち半々ぐらいだった」
(42)
「うわ、こいつらの前でこのヴィジュアルで通用するかなあ、ってすごく緊張しましたね。やってみたら大丈夫だったんで安心しましたけど」
(16)
「彼らから見ると、見事に、気持ち悪かったみたいですね(笑)」
(42)
「『メロディー・メイカー』とかの記事だと、とても奇抜な連中が出てきたみたいな書き方でしたね。だから、それなりにインパクトはあったんだと思います」
(7)
「ヴェニューの衝撃的なコンサートをやって、やっぱりYMOはお洒落なバンドっていう捉え方が正しいんだろうなって確信しましたね。キッチュな日本のバンドっていう方向性を、そこからだいたい掴んでいったようなツアーでした」
(42)

松武秀樹の証言
「演奏もいいんですよ。みんな気合いが入っていたし」
(47)
※編注:この日の演奏の一部は、CD『フェイカー・ホリック』(アルファ・レ コード/1991年)および『ONE MORE YMO』(東芝EMI/2000年)で聴くことができる他、渡辺香津美のギターをカットして坂本龍一のシンセサイザーを加えるなどしたテイクが、ライヴ・ アルバム『パブリック・プレッシャー』(アルファ・レコード/1980年)に収録されている。

1979/10/16 イエロー・マジック・オーケストラ、『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』のインタビュー取材を受ける。ロンドン/ロイヤル・ガーデン・ホテル。

1979/10/17 13:30 イエロー・マジック・オーケストラ、ロンドン/ヒースロー空港からパリへ出発。

1979/10/17 14:30 イエロー・マジック・オーケストラ、パリ/シャルル・ド・ゴール空港着。

※編注:パリではホテル・シュバイツァーホフに宿泊。

1979/10/17 17:00 イエロー・マジック・オーケストラ、『ロックン・ストック』のインタビュー取材を受ける。パリ。

1979/10/18 16:30〜21:30 イエロー・マジック・オーケストラ、リハーサル。パリ/ル・パラス。

1979/10/19 0:00 イエロー・マジック・オーケストラ『トランス・アトランティック・ツアー』公演。パリ/ル・パラス。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 キャスタリア
 ライディーン
 ビハインド・ザ・マスク
 ラジオ・ジャンク
 インソムニア
 中国女
 (ロケット工場)
 テクノポリス
 在広東少年
 千のナイフ
 東風
 デイ・トリッパー
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 ファイアークラッカー
「すごく有名なディスコ」(8)
「ぜんぜんウケてなかった(笑)」
(57)
「聴いてなかったって言うかね」(57)
「お客さんがセレブばかりで、『ちょっと違うんじゃないの?』なんて思ったり」
(8)

坂本龍一の証言
「あんまり聴いてないな」
(57)
「踊ってはいるのね」(57)
「自分たちが思っていた東洋とはあまりにもかけ離れていたので、『これは面白くない』と」(57)
「面白かったのはさ、その、パリでね、すごくね、あのステージはさ、『ロックっぽかったから』さ、『面白くなかった』。そういう、あれがあったのね」(57)

高橋幸宏の証言
「お客はたっくさん入ってんの」
(57)
「もう、よくまあこんなに客入るなっていう感じ」(57)
「フランスの場合はね、まず誉めないのね。それでね、なんかこう、あのー興味が半分、あとの30%ぐらいはファッションでね」(57)
「あの人たちの東洋へのね、コンプレックスはひとつだけあるんですよ。フランス人の」(57)
「東洋の神秘主義なのね」(57)
「絵に描いたような無機的とかね、神秘的とかね」(57)
「それがなかったらだめなわけ」(57)
「例えば、ファッション・ショーのBGMにはイエローがものすごい多かった」(57)
「だからものすごい期待してたと思うんですよね。その割には『ああなぁんだ』。あのー例えば彼らの名前で出てくるのはディーヴォ、クラフトワーク、相変わらず」(57)
「それはもう、ねぇぜんぜん、例外にもれず、比べてみて、『変わんないじゃないの』と」(57)
※編注:この日の演奏の一部は、CD『フェイカー・ホリック』(アルファ・レ コード/1991年)および『ONE MORE YMO』(東芝EMI/2000年)で聴くことができる他、渡辺香津美のギターをカットして坂本龍一のシンセサイザーを加えるなどしたテイクが、ライヴ・ アルバム『パブリック・プレッシャー』(アルファ・レコード/1980年)に収録されている。また、映像作品『トランス・アトランティック・ツアー』(東 芝EMI/2000年)に、DVDバージョンとVHSバージョンそれぞれに違う楽曲が収録されている。なお、NHK-FM『サウンドストリート』で1981年6月23日に放送された「在広東少年」は、その後どこにも収録されていない。

1979/10/19 14:00 イエロー・マジック・オーケストラ、『ファサード』のインタビュー取材を受ける。インタビュアーは山本寛斎。パリ。

1979/10/19 15:30 イエロー・マジック・オーケストラ、『アクチュール』のインタビュー取材を受ける。パリ。

1979/10/19 16:30 イエロー・マジック・オーケストラ、『ロック&フォーク』のインタビュー取材を受ける。パリ。

1979/10/20 『ニューミュージック・マガジン』11月号(ニューミュージック・マガジン社)発売。
インタビュー/コンピューター音楽に映し出されるドイツ的な表情

1979/10/20 12:30 イエロー・マジック・オーケストラ、フランス・テレビジョン『コーラス』公開録画。パリ/エンパイア・シアター。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn)
 ライディーン
 中国女
 他
高橋幸宏の証言
「(コスチュームを)拒否されたんですよね」
(7)
「1枚目のジャケットに載ってる、黄色いタキシードで出てくれって言われて。だってあれ黄色って言っても……」
(7)
「ブルーと赤と黄色のを着てやったのを覚えています」(7)
「しょうがないから」(7)

松武秀樹の証言
「フル・セットのコンサートじゃなかったはずです。曲数をかなり絞ってやったと思う。30分とかじゃないかなあ」
(47)

長曽我部久の証言
「たしかモーテルズと一緒だった」
(16)
「ぼくらにしてみたら大変だったんですよ。フランスはユニオンが強いところで、『絶対に機材にさわるな。でも、助言はかまわない、むしろどんどん指示して くれ』と言われて。それで向こうのエンジニアにアドバイスしたんですけど、そのフランス人は知らん顔しているわけ。ぼくらは英語で話しかけて、しかもエン ジニア同士だから意味が解らないはずないんだけど…。こっちもカリカリきて『このツマミのレベルをここまで上げろ』って指でさしてね(笑)。でも無視す る。しかたないから日英、さらに英仏っていう、通訳を2人にしてやっとできた記憶があります」
(16)

近藤健一朗の証言
「ぼくはひらき直って日本語で通してました(笑)」(16)

1979/10/21 ラジ『キャトル』発売。
月の光:compose
月の光
やまがたすみこ路線の延長ですね。その先に金井夕子がいたりするという」
(36)
「高橋幸宏の作詞で、アレンジが坂本龍一だったんです。これはテクノの、楽曲提供、初なんじゃないかな」
(37)
「フェミニンな路線というのはYMOには向いていなかった。女性ヴォーカルが必要だった、こういう曲をやるにはね」(36)

1979/10/21 山下達郎『ムーングロウ』発売。
レイニー・ウォーク:bass
山下達郎の証言
 レイニー・ウォーク
「このアルバムの直前にアン・ルイスのアルバムのプロデュースを行なった時のストック曲ですが、気に入っていたので譲ってもらい、自分用に仕上げたもので す。そのせいで、アルバムでこの曲だけメンバーが異色ですが、高橋幸宏氏と細野晴臣氏のリズムのコンビネーションの素晴らしさ!時まさにYMOの全盛期で したから、あのころの日本の演奏家がいかに多彩な表現力を持っていたかがわかります。」
(73)

1979/10/22 イエロー・マジック・オーケストラ、ヨーロッパ1(ラジオ局)『クロロフィル』のインタビュー取材を受ける。パリ。

1979/10/22 移動中、セルジュ・ゲンズブールに遭遇。パリ。

「前の仕事が押してしまって、ラジオ局まで走らなければならなくなったのね。メンバーとス タッフはバラバラに走って、僕 と幸宏がちょっと遅れていたんだけど、なんとか局の前の広場に着くと、向かいから黒いコートを纏った人物が現われて『入口はあっちだよ』みたいなことをニ コニコしながらフランス語で教えてくれたんだ。その人こそ、ゲンズブールだった! 振り返りながら、『あれがゲンズブールか!』と驚くと同時に、良い人だなと思ってね。スゴく親しみを感じるエピソードでしょう。まあ、フランスでもYMO は話題になっていたから、彼は僕らのことを知っていたんだろうね。それで、『YMOのヤツらが慌てているよ』と思い、声をかけたんじゃないかな。一瞬の出 会いではあったけれど、彼の人の良さは伝わってきたよ」(8)

高橋幸宏の証言
「ボロボロの格好で、最初は気づかないくらいでした(笑)」
(54)

1979/10/22 イエロー・マジック・オーケストラ、レディオ・ルクセンブルグ提供『ディスコ '79』出演。パリ/ディスコティーク・スタジオ。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn)
 中国女
「フランスのラジオに出たときに、フランス語でインタビューされますね」(5)
「司会者が僕にいろいろ質問してきたんだけど、僕はフランス語がさっぱりわからなくてね」
(8)
よくよく考えれば、番組が通訳の人を用意すれば済む話なんだけど、フランス人ってそういう面倒くさいことをしないんだろうな」(8)
「全然わかんないわけですよ」(5)
「だから、仕方がなく『たぬきそば食べたい』って日本語で答えたの(笑)」(8)
「『天ぷらそば食べたい』って答えたんです(笑)」(5)
「事実、長い海外ツアーだったので本当に食べたかったんだけどね。それを聴いていたパリ在住の日本人はビックリしたらしい(8)
「ラジオ聴いてたら突然、『天ぷらそば!』って叫ぶんだから」(71)
「とっさに出てきて、そういうことをすごい言いたい時期だったんです」
(5)
「ユーモアだけは大事だったんですね。それがなかったら頭狂ってましたから」(5)
「ニュー・ウェイヴ的な大らかさというのをけっこう自負してましたから(笑)」(5)

川添象郎の証言
「生放送があって、三人がえらく疲れてて、インタビュアーが細野さんにフランス語でべらべらと何か聞いたら『ざるそば食べたい!』って日本語で応えたんだ よ、僕は可笑しくて死にそうになったんだけど、さらにそのインタビュアーが構わずまたフランス語で何か言ったら今度は『天ぷらそば食べたい!』だってさ (笑)」
(71)
「真面目そうな顔でニコリともせず……本当にユーモアがあるっていうか細野さんの音楽を形づくっている本質の一部だと思うよ」
(71)

近藤健一朗の証言
「みんな『今、何て言った?』『ざるそばって言わなかった?』って大笑い(笑)」(16)
※編注:演奏はバッキング・テープ使用。

1979/10/23 イエロー・マジック・オーケストラ、『トランス・アトランティック・ツアー』ベルリン公演をキャンセルしてパリからロンドンへ移動。

「パリには馴染めなかったんだ。ロンドンに比べるとどこか保守的に感じていたんだよね」
(8)
「ロンドンに着いたときにはホッとした」
(8)

1979/10/24 11:00 イエロー・マジック・オーケストラ、『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』のフォト・セッション。ロンドン。

1979/10/24 12:00 イエロー・マジック・オーケストラ、『ロッキー』(ドイツ)と『ローリング・ストーン』(オーストリア)のインタビュー取材を受ける。ロンドン。

1979/10/24 17:00 イエロー・マジック・オーケストラ、リハーサル。ロンドン/ヴェニュー。

1979/10/24 22:00 イエロー・マジック・オーケストラ『トランス・アトランティック・ツアー』公演。ロンドン/ヴェニュー。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 キャスタリア
 ライディーン
 ビハインド・ザ・マスク
 ラジオ・ジャンク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 在広東少年
 東風
 デイ・トリッパー
 千のナイフ
 (ロケット工場)
 インソムニア
 中国女
 ファイアークラッカー
 コズミック・サーフィン
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
渡辺香津美の証言
「めちゃくちゃよかった記憶があります。なんて言うか…受け入れられている空気が既にある中で、心地よく演奏出来たという気持ちよさが印象に残ってますね。またここに帰ってきた、みたいな」(25)

吉沢典夫の証言
「現場はみんな忙しくてね。ボクもツアーの途中に一度戻って日本で録音して、またツアーの続きの為渡英。一週間強で2往復した」
(40)
※編注:この日の演奏の一部は、CD『フェイカー・ホリック』(アルファ・レコード/1991年)および『ONE MORE YMO』(東芝EMI/2000年)で聴くことができる他、渡辺香津美のギターをカットして坂本龍一のシンセサイザーを加えるなどしたテイクが、ライヴ・ アルバム『パブリック・プレッシャー』(アルファ・レコード/1980年)に収録されている。

1979/10/25 イエロー・マジック・オーケストラ「テクノポリス/ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」発売。

※編注:「テクノポリス」はシングル・バージョン。

1979/10/25 シーナ&ロケット『真空パック』発売。
バットマン:produce, remix, MC-8
ユー・メイ・ドリーム:produce, compose, remix, MC-8
センチメンタル・フール:produce, remix, piano
オマエガホシイ:produce, remix
レイジー・クレイジー・ブルース:produce, remix, MC-8
恋のムーンライト・ダンス:produce, remix
スティッフ・リップス:produce, remix, arp bass
ヘヴン・オア・ヘル:produce, remix
アイ・ガット・ユー:
produce, remix
ユー・リアリー・ガット・ミー:
produce, remix, arp bass
ラジオ・ジャンク:
produce, remix, MC-8
ロケット工場:
produce, remix
「ミュージシャンとしては、参加しなかった」(31)
「僕はプロデューサーとして、ロケットに関わっているから、プロデューサーとして見てもらえば、異和感とか面白さとかあんまりないんじゃないかと思う」(31)
「半分くらいは当時世界的にひとつの流れになっていたテクノ、ニュー・ウェイヴ系にしたいなと」(35)
「僕はもともとそう考えてたんだけど、要するにロケット・パーティーっていうコンセプトがあってね。その、ステージのストレートなバンドがわぁっと演るもんと、テクノ・ポップのようなものを分けてね、演ろうと思ったんだけど」(31)
「彼らにとってどうかなと はあまり考えてなくて、ロック・バンドというよりは新しいニュー・ウェイヴ・バンドみたいな。それで<ユー・メイ・ドリーム>ができて、これはいけるん じゃないかなと」(35)
「根強いファンというのは、ジャーナリストに多いんだけど、これから何か広げてゆくには、今まで聴いていなかった人が多いと思うのね」(31)
「そういう意味では、(編注:従来のファンに)どういう風に聴かれるとか、あまり考えてなかったけどね。いつも僕はそうだけど、"こういう風に聴かれたら困る"っていう風に考えている人はね、ちょっと危ないんじゃない」(31)

バットマン
「ロケットのレパートリーに入っているから関係なくないわけ」(31)

ユー・メイ・ドリーム
「サビは僕が作ったような気がする。スペクター系のサウンドではないけど、アプローチがそうですね」
(36)
「本来はシーケンスが無くたっていいんだけど、とにかく入れたかったっていう」
(36)

スティッフ・リップス
「クリスが英語の詩を持ってこなかったら、『スティッフ・リップス』という曲も出来なかった」(31)

ロケット工場
「あれだけが別格ね」(31)
「イエロー・マジックのコンセプションっていうのは、ああいう所には入ってないわけですよ。おそらくそれはサウンド面で、流行が音楽やってるっていうか。世界中に流行っているね、一つのスタイルみたいな、流行みたいな、それをロケットもとり入れたってだけだと思う」
(31)

鮎川誠の証言
「俺らとYMOで作ったって言っても間違いじゃない」(25)
「YMOにコントロールされてっていうのはよく言われたなあ…俺らも了見狭いとこあるけど、世間にはもっと狭い奴もおりようからね(苦笑)」(25)
「自分らのロックンロールがテクノ・ポップに寄らされたゆうんじゃなくて、逆に自分らがテクノ・ポップちゅうもんを取り入れて広がったんよ」(25)
「こっ ちはテクノ・ポップですよ、こっちはロックン・ロールですよっちゅう、そんなんじゃなくて。俺たちはテクノ・ポップだってロックン・ロールだと思うとるし ね。あんまりそういった、これは機械、これはライヴっちゅうよりも、もう全部包み込むパワー持っとるっちゅう − 自分たちで思うとるし、楽しゅう全部演れたし」(31)
「い つも最新型のフレッシュな音が飛び出してくるアルバムが作りたいと願いよったけん。チャック・ベリーやらチャーリー・パットンやらを聴いても、リトル・ブ ラザー・モンゴメリーのピアノを聴いても、レコード作りでは、こうしたぞくぞくするようなものにちょっとでも近づきたいと思っていた。マディ・ウォーター ズやらリトル・ウォルターやらローリング・ストーンズやら、憧れの人はいっぱいおるけれども、彼らはいつもリアルでフレッシュでね。自分たちのレコード作 りでは、同じように、ロックの一番素敵な夢、明るいこととかビートとかが、レコードから聴こえてくるようなものを作りたいと思ってきた。それこそが素敵な ことだと思ってきたからね」(32)
「時代は変わるし、それと共に音楽も変わるけれども、その時代に誕生したものは本物だと思う。何かがあって、その時代におもねって合わせた音楽は、やっぱり見抜かれると思うよ」(32)
「たまたま、時代の風が吹いて、いろいろな試したいことをコンピュータがひとつに結集してくれるようになった。嫌な ことでも、同じことでも、コンピュータは延々とやってくれる。あの時代に初めてコンピュータの制御が入ったんよね。クラフトワークやタンジェリン・ドリー ムなどの先達はおるけれども」(32)
「俺たちに新しい世界を教えてくれた細野さんにはホント、感謝の気持ちしかないね」(25)
「1979 年には、パンク・ロックとニュー・ウェイヴの全員参加型というか、みんなが思っていることに直結するような音楽が出てきた。生き方がストリートにこぼれ落 ちるような音楽が出てきたよね。それまで、音楽家の世界は、ダンス・ホールやったり、劇場やったり、テレビ局やったりにあって、ロックの世界と言っても、 全然身近なものではなかった。俺たちも崇められるような場所から始めたから。パンクの時代は、自分たちがやりたいようにやるというのを実践した時代だっ た。《真空パック》や《ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー》は、そんな時代に生まれたんよね」(32)
《ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー》にしても、《真空パック》にしても、リズムとメロディの世界だけやないんよね。ロックの先達が使ってきたアイディアや遊びを散りばめているんよ」(32)
「俺たちはミュージシャンやけんね。細野さんや幸宏や坂本は素晴らしいミュージシャンやけん。自分の中のアンテナで取り入れることに関しては、ものすごく進んだ人達やった」(32)
「俺たちが聴いてきた音楽への想いは、YMOのみんなといっしょやったと思う。ハナ肇とクレイジーキャッツ、ザ・ ピーナッツといった、テレビから流れてくる面白い曲やら、洋楽やら、主題歌やら。『ララミー牧場』とかね。俺たちの世代は、異文化とは言わないけど、 1960年代の洋楽の薫りがあった音楽を愛聴しよったんよね。そして、ビートルズが出る。おまえもやってみろとローリング・ストーンズに言われたような感 じで、日本のバンドのロックは始まった。俺たちはその頃からの音楽ファンだから」(32)
「イエローにてつどうてもらったっていうのは、俺達にとっては、もうすごい。ラッキーなことやし、もう口大きゅうしていいたい」(31)
「『真空パック』できっちり最初からアルバムゆうもんを組み立てていくやり方の面白さに目覚めたんよ。最初からラストまでの流れを考えたり、ジャケット・ デザインもいろんなアイディアを出しおうてね。レコードのA面、B面も「INSIDE」、「OUTSIDE」って書いて、「INSIDE」には日本語の 曲、「OUTSIDE」には英語の曲を入れるようにしたりして凝ってた」(25)
「それは俺が便宜上(編注:英語が)ちょこちょこ出てくるよりも、スパッと分けてしまおうみたいな感じで」(31)
「当時、ディーヴォのファーストが、レコードの取り出し口がジャケットの横じゃなく 上についておったり、6種類のカラー・レコードだったりいろんな仕掛けゆうか…ゆうたらアートやね。そういうのを『カッコいいなあ』って思ってたんで、自 分らも細野さんや鋤田さん、羽良多さんとミーティングしてね。そういうレコードの作り方は初めてやったから面白くて、ものすごう興奮したよ」(25)
「出来上がると、『《真空パック》っていいねえ』とすぐに気に入ったんよ」(32)
 バットマン
「ライヴとミックスした」
(32)
「フェイド・アウトで終わるけど、本当は最後の瞬間に『たいくつな世界』のイントロが聞こえるんよ。メドレーで録っとったったい」(34)
 ユー・メイ・ドリーム
「まさに細野さんの意図した所」
(31)
「柴山さんは、詞が出来たらその時々に渡してくれていたんよ。それで『ユー・メイ・ドリーム』に当たる歌詞も貰ってた」(74)
「で、曲を付けたんよ。『あなたの……』から、すぐ『それが私の……』のサビになる」
(74)
「口づけをかわす・バンバンッ・それが私のすてきなユメ、と作っとった」(32)
「そしたら細野さんが、この間にブリッジをちょっと入れていいかな、っ て言うて」(74)
「ラララララの部分を入れてもいい?と聞いてきたんよ」(32)
「急にサビに行くよりもインタールードを作ったらどうかと提案してくれて、『ああ、いいね』となって」(32)
「挿入したんよ、それも即興で。『こっから急にFに行く前に、何かFに行く必然性のある……』とか言いながら。凄いな、流石だな、っちなって」(74)
「オレはいろいろ曲作るけど、作ったら大体美意識に合うような作り方するし、イントロはストーンズに教わったこういうやり方で、とか法則もあるけれど、そ れを、添削されたちゅうか、手直しされたんは、後にも先にも、それしかない(笑)。おかげでポップになった、ほんとに」
(74)
「ラララララのフレーズができた時に、『どうする?』となったんよね。その時、シーナが、『台詞にしよう』と言ったんだね。ブレンダ・リーとかのポップスの手法で」(32)
「で、クリス・モスデルに来てもらって、曲のイメージに合う台詞を考えてもらった。クリスもすごくノッてさ。あっという間にできたね。おまけにシーナの英語の先生もしてくれて(笑)」(32)
「『任せるゆうたけど、どんなんなっちゃうんだろう』っていう不安もあったんよ」(25)
「生身のロックンロールが機械としてのコンピューター、テクノの音に呑み込まれてしまうんじゃないかという不安」
(75)
「細 野さんがプログラミングしだして、ズバーンと音が出て。そしたらシーナは特に気に入って、これヴォーカル入れん方がいい、ちゅうたぐらい。そんなぐらい壮 大な音に一気に仕上がって。でも、バンドがやれんことをレコードでやっていいのかなと迷いがきたり、したいことすればいいんだと思ったり」
(35)
「シーナはシーナの感覚で、『わぁ、面白い』って入っていたけれど、僕は内心、『どうしてこんなことになったのか』って考え込んじゃって(笑)」
(76)
「『俺ら、最初のレコードはストレートなロックンロールで、2枚目がこれでいいんかな?』ちゅうね。その部分で抵抗がなかったとは言えん」
(25)
「僕らはライヴ・バンドとしてやってきていたから」
(76)
「それで細野さんに、こんなの入れたらロケッツじゃないかもしれんねとか言うたら、細野さんに"鮎川くん、やってみようよ、スタジオでやれることは思い切りやってみようよ"って励まされて」
(35)
「『ライヴはライヴ、レコードでは、思いついたアイディアを全部入れてみよう』と、わざわざおコトバをかけられるほど悩んでいたんです(笑)」
(76)
「細野さ んの『鮎川くん、レコーディングの時はスタジオでしか出来ない冒険を思いっきりやろうよ』っていう言葉で吹っ切れたんよ」
(25)
「ギターについては、僕の頭の中ではローリング・ストーンズの
〈テル・ミー〉がずっとあった。ブライアン・ジョーンズが〈テル・ミー〉を弾くように俺は弾くんだと思って弾いていたね。それが〈YOU MAY DREAM〉での基本のビートやった。その次はニュー・ウェイヴみたいなギターやね。最後は、ジェフ・ベックか、ジミ・ヘンドリックスか、俺の大好きなロック・スターになる。ユメ・ユメのところは、3本の弦をクリス・スペディングの弾き方で弾くんよ」(32)
 センチメンタル・フール
「エルヴィス・コステロのライヴでの
〈パンプ・イット・アップ〉が頭から離れんようになったので、そういうのをイメージしながら録音したけど、ライヴでこの曲の時、コステロは歩くんよ。その絵が浮かんで、シーナが、『パンパンパン』という音が入った方がいいと言って、細野さんや俺など何人かが靴を脱いで、みんなで靴を叩く音を録音した」(32)
 オマエガホシイ
「イギー・ポ
ップは、ロックの嗜みとして、尊敬すべき先駆者だからさ」(32)
 レイジー・クレイジー・ブルース
「『レイジー・クレイジー・ブルース』と歌う柴山さんの歌詞に曲をつけたいと思ってね。1979年、《シーナ&ロケッツ #1》が出る前だね、新宿ロフトでフリクションといっしょにやって、
〈クレイジー・ドリーム〉という曲を聴いたばかりだったんよ。フリクションは好きやったし、〈レイジー・クレイジー・ブルース〉にあの曲のムードがほしいなと思ってね。それと、キンクスの〈アイム・ノット・ライク・エブリヴァディ・エルス〉のコード進行をパターンにして」(32)
「細野さんは、あの荒涼感がヒューッと漂うサウンドを作ってくれた。後で幸宏はリズムをオーバーダブしてくれて。心が不安で爆発するような不思議な世界だよね」(32)
「レコーディングの時は、『フー、フー』というシンセの音を入れたし、ギターでバック・ビートも入れた。色々な音が入っているね」(32)
「コンピュータとのセッションやね。俺のギターが『ジャッジャッジャッジャッジャッ』って響きよるやろ」(25)
「あれ全部手弾きなんよ。少しずつミュートかけてね。エコーでそうしてるみたいに聞こえるよね?」(25)
「機械でそんなのやる奴はいっぱいおるけど、それを手弾きでやったらどうか?って思ってね。そんなふうにね、コンピューターに触発されて、こっちもいろいろ新しいことをやってたよ」(25)
「すぐに思いついたんよ。巷にあるディレイ・マシーンでバッと弾いたら似たようになるのは知っとったけど、面倒やけ、手でしたんよ。それも、単調な繰り返しの中に、時々、不連続な箇所を作るのがいいかなと思いついてね」(32)
「細野さんも、それを活かすために、『ピューッ』と出るホワイト・ノイズというボタンを、ギターといっしょに『ピューッ、ピューッ、ピューッ、ピューッ、ピューッ、ピューッ』と押して。そんなことを思いつくのはすごいよ。やることは簡単なんだけど、後の時代では思いつかないかもしれない。みんなが同じ気持ちでやれる作業だったんだから、すごいね」(32)
 恋のムーンライトダンス
「違 う坂本龍一がおってね。『あとでオルガンをダビングさせて』と言われていたんだけど、ダビングの時には、もう演奏に没頭していてさ、多少うなだれた格好 で、目をつぶったまま弾いていた。ああ、坂本はすごいなと思ったね。ジーンと来たんよ。すごいミュージシャンが、最高のプレイをしていた。自分を見せるた めではなくて、曲を仕上げるために演奏していた」
(32)
 スティッフ・リップス
「ディーヴォみたいな曲を作りたいなと思って作った曲やね」
(32)
「クリスは確かに俺たちのステージを観て、書いてくれた詩やったし。彼が外国語を使う一人の人間として俺たちに持ってくれたフィーリング」(31)
 ヘヴン・オア・ヘル
「歌詞を見たら流れるように曲調が浮かんできた」
(32)
 アイ・ガット・ユー
「『ジェームス・ブラウンをやったら、パンクが好きな人はびっくりするぜ』という感じがあったんよ。『パンクがファンクかよ』とね(笑)」
(32)
 ユー・リアリー・ガット・ミー
「幸宏くんが言ってくれたんよ。『細野さん!シーナの<ユー・リアリー〜>最高だよ、やろうよ』って」
(25)
 ラジオ・ジャンク
「クリス・モスデルが幸宏に歌詞を渡して、幸宏が作ってくれた」
(32)
「幸宏が一晩くらいで作ってきたんじゃないかな。ポップで幸宏らしさが出てて大好きな曲やね」(25)
「わりと憶えているんだけど、幸宏が『シーナ、鮎川君、今日は作ってきたよ』と言うてスタジオAに来たんよ。それで一度、こういう曲だと目の前で歌ってくれたんだね」(32)
「俺の目の前で幸宏が細野さんに『ちょっとギター弾いてくれ る?』って言って歌ってくれてね」(25)
「細野さんが、『ちょっと楽器貸して。ガイドでギターを入れておくから』と、俺のレスポールでそのコード進行を弾いてくれて。それがものすごくよくてさ」(32)
「物凄くいい演奏やってくれたんを憶えとる。そんであん時はザ・ポリスの『ロクサーヌ』みたいなイメージもあってね」(25)
「ちょっとポリス風やね」(32)
「細野さんがエンディングまできっちり弾いて、最後『ジャーン』って弾きながらヴォリュームを『ウワンウワンワ ン』ってこう操作してね。他人からあてがわれた曲ってこれが初めてだったんじゃないかな? 凄い気に入ってね。曲がアレンジを引き出してくれるみたいな最高の曲やったね」(25)
「俺はそれを聴いて、歌を練習して。ドラムも『川嶋くんよりも俺(編注:高橋幸宏)の方が得意かもしれない』と言って」(32)
「全部は見ていないけど、あっと言う間に曲の枠ができたね。その後から俺がギターをダビングして。細野さんが弾いていたギターがすごくよかったから、それを真似てね」(32)
「シーナが、ドント・シンクというところで、『シンク』と囁くように入れた方がいいと言うのよ。イッツ・オンリー・ ア・トリックというところも『トリック』と入れた方がいいと。それで、隠し味コーラスみたいにしてシーナが入れることになった。その場で閃いたら、すぐに やってみた。また、『レディオ・ジャンク』と裏声でコーラスがほしくて、浅田と川嶋がふたりで歌ったらものすごく綺麗で、幸宏に褒められてさ」(32)
 ロケット工場
「突然、この世に誕生した感じやった(笑)」
(32)
「『ロケッツのイメージで』って言って、スタジオの隅で二人(編注:坂本龍一と松武秀樹)でちょこちょこっとその場で即興で作りよったんよ」(25)
「たぶん坂本龍一のスケッチだったんじゃないかね。その日のインスピレーションと遊び心と気分で作ったと思う。全部のプログラミングをやって、坂本龍一がポンっとボタンを押したら、もうできていたよね」(32)
「ロック度高いよね、そういう行動って。それであんなタイトルにぴったしのイメージのインストが出てきてびっくりしたね。坂本君は本当に凄いと思ったよ」(25)
「もう全面降伏やった(笑)。すごい曲をくれたよね。お洒落だと思うし。ミーティングで細野さんが、『アルバムでしかできないことをやろう。たっぷり遊ぼうよ』と言うたからね。その細野さんの言葉にぴったりの曲だったと思う」(32)
「こういうことだと思う。幸宏は〈RADIO JUNK〉を提供してくれたわけだし、坂本の曲もシーナ&ロケッツのアルバムに1曲入ったらどうだろう、というアイディアが、細野さんの中にあったと。坂本は、シーナ&ロケッツ用に作ろうと遊び心で作ってくれたと思うよ」(32)
「みんな、『うーん、すごい』となったけど、シーナ&ロケッツとしてはどこに入るべきか分からなかった(笑)。シーナも俺のギターも出番がない。でも、シーナ&ロケッツのために書いてくれたんやけん、アルバムの最後がいいだろうとなったんだね」(32)

シーナの証言
「芸術品」
(76)
「イエロー・マジックの音というのが、ロケットのスパイスなんだよね。もう、もちろんそれはバッチリちゃんと思うようにレコードに出来たし、最高だった」
(31)
「あとにも先にもない、ドッキングだった。それが細野フィルターなんだなって、あとからだんだんわかってきたの」(76)
 ユー・メイ・ドリーム
「もともとは『夢・夢・夢』とかのタイトルやったね」
(74)
「オケが出来た時、それがあんまり素晴らしくて完成されていたから、わたし『細野さん、これこのままですっごくいいから、歌入れるのやめようよ』って言っちゃったの。細野さん『ええー!?』ってコケてたけど(笑)」
(25)
「(編注:ブリッジの部分は)台詞がいいな、英語の詞がいいかな、って私が提案したの」
(74)

1979/10/25 『ZOO』24号(ZOO)発売。
インタビュー/THE ROKKETS 音楽に良い悪いというきめ事なんかない。
※編注:鮎川誠・シーナとの共同インタビュー。

1979/10 ストーンヘンジを訪ねる。

「忘れられません。」(39)
「どうしてもストーンヘンジが見たくて、メンバーやスタッフたちと向かったよ。ロンドンから電車で二時間ほどだったかな、ソールズベリーという田舎町の駅 で降りると、朝から降り続けていた大雨がサッと上がったんだ。そこからさらにタクシーを三〇分ほど走らせると、ストーンヘンジの巨石群が現れた」
(8)
「当時は野放しだったんだ。しかも、朝から雨だったせいか誰もいなくて、僕らだけの自由な遊び場だった。二時間ぐらい滞在して、カメラで撮りまくっていた んだけど、その写真を後日見てみたら、すべての石に動物の顔が浮かんでいたので驚いたよ。肉眼で見たときにはまったく気づかなかったんだけどね。お土産屋 に売っている観光写真にも動物の顔が写っていたんだ。そういえば、あの環の中は磁場が強いのか、耳鳴りがしたような記憶もあるんだよね。でも、天体と何か 関係があるのだろうと思っていたから、環の中にいても不快ではなくて、むしろとても気持ちよかった」
(8)
「で、ストーンヘンジを見た後、またソールズベリー駅に戻り、駅でゴハンを食べながら帰りの電車を待っていたんだけ ど、それでも時間が余ったので、駅前のカテドラルに立ち寄ったんだよね。その場所には似合わないほど大きくて、造りも荘厳なゴシック様式の建物だった。そ こに、聖歌隊の青年たちが十数人入ってきて、練習をしだしたんだ。たまたま出くわしただけなんだけど、この聖歌を聴きに来たのではないかと思うくらい、本 当に素晴らしかった。どこかアジア的というか、ブルガリアのものともギリシャ正教のものとも違って、聴いたことがない聖歌だった」(8)
「とにかく、建物の音響も良くて、えも言われぬ感動があった」(8)


1979/10/26 14:30 イエロー・マジック・オーケストラ、BBCのインタビュー取材を受ける。ロンドン。

※編注:日本向けの短波国外放送。

1979/10/26 15:30 イエロー・マジック・オーケストラ、ロンドンのホテルを出発。ニューヨークへ移動。

※編注:ニューヨークではシティ・スクエア・インに宿泊。

1979/10/28 21:10 フランス・テレビジョン『コーラス』放送。
イエロー・マジック・オーケストラ
 ライディーン
 中国女
※編注:日時はフランス現地時間。ライヴ2曲は2013年7月15日にWOWOWで日本初放送された。

1979/10/28 イエロー・マジック・オーケストラ、アルファ・レコード主催の夕食会に出席。ニューヨーク/グロッタアズーラ。

1979/10/29 13:00 イエロー・マジック・オーケストラ、インタビュー取材を受ける。ニューヨーク/A&Mレコード・オフィス。

※編注:媒体等詳細不明。

1979/10/30 『週刊プレイボーイ』11月13日号(集英社)発売。
取材記事/コンピューター+シンセサイザーの録音現場・体験

1979/10/30 14:00 イエロー・マジック・オーケストラ、インタビュー取材を受ける。ニューヨーク/スタジオ・インストゥルメント・レンタル。

※編注:媒体等詳細不明。

1979/10/30 16:30〜20:00 イエロー・マジック・オーケストラ、リハーサル。ニューヨーク/スタジオ・インストゥルメント・レンタル。

1979/10/31 15:00〜18:00 イエロー・マジック・オーケストラ『トランス・アトランティック・ツアー』公演の通しリハーサル。ニューヨーク/スタジオ・インストゥルメント・レンタル。

1979/11/01 16:30〜19:00 イエロー・マジック・オーケストラ、サウンド・チェック。ニューヨーク/ハラー。

1979/11/01 22:00 イエロー・マジック・オーケストラ『トランス・アトランティック・ツアー』公演。ニューヨーク/ハラー。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 キャスタリア
 ライディーン
 ビハインド・ザ・マスク
 ラジオ・ジャンク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 在広東少年
 東風
 デイ・トリッパー
 千のナイフ
 (ロケット工場)
 中国女
 ファイアークラッカー
 
コズミック・サーフィン
 テクノポリス
松武秀樹の証言
「この頃になるともうみんなリラックスしてやってましたね」
(47)

野上眞宏の証言
「YMOがニューヨークにやってきた。細野がニューヨークのクラブで演奏するという。立教大学で初めて出会った頃を思い出すと、とうとうここまで来たかと いう感慨がわいた。68年に日本橋の東急百貨店でバーンズを撮ったときのように、急に記念の写真でも撮っておこうという気になった。」
(77)
「<ハラー>の中に入ると、そこには日本のカメラマンたちをはじめ多くの報道陣が詰めかけてにぎわっていた。その喧騒の中、ふと僕は、自分の役目はもう終 わっているなと感じた。僕は、ある時期、細野晴臣とその周辺を撮ることを役目だと考えていたのかもしれないと、その時初めて思った。」
(77)
※編注:ハ ラー公演の映像は、数曲分がVHS、LD、DVD等で繰り返しソフト化されたのち、『コンプリート・ハラー』(東芝EMI/1999年)の発売で初めてその全体像が明らかになったが、2ステージのどちらのものであるか は不明である。初出は1980年6月16、17、20日の東京12チャンネル『ステレオ音楽館』。この内20日放送分の「ファイアー・クラッカー」の音声 は映像と合致しない別テイクで、収録公演日・会場ともに判明していない。

1979/11/02 1:30 イエロー・マジック・オーケストラ『トランス・アトランティック・ツアー』公演。ニューヨーク/ハラー。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 キャスタリア
 ライディーン
 ビハインド・ザ・マスク
 ラジオ・ジャンク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 在広東少年
 東風
 デイ・トリッパー
 千のナイフ
 (ロケット工場)
 中国女
 ファイアークラッカー
 
コズミック・サーフィン
 テクノポリス
長曽我部久の証言
「2ステージやって、機材をバラし終わって僕らスタッフがホテルに帰ったのはもう夜中3時半ぐらい」
(16)

1979/11/03 イエロー・マジック・オーケストラ、『トランス・アトランティック・ツアー』フィラデルフィア/ホット・クラブ公演をキャンセル。

近藤健一朗の証言
「ブッキングの段階では、YMOの機材の量や、どういうセッティングなのか細かな点が現地に伝わっていなくて」(16)
「先乗りスタッフが中止させたんですよ。現場まで行って、小屋見て、中止(笑)」
(16)
「汚くて、臭いから(笑)」
(16)
「そのホット・クラブのYMOのポスターとかチラシ。何と三島由紀夫ですよ」
(16)
「ハチマキしてローソク立てて、こちらをにらんでいる三島が黄色い紙に印刷してあって、そこにYMOって書いてある。そうか、こういう誤解をされてるんだと」
(16)

長曽我部久の証言
「当日キャンセルです。当日の朝、先乗りとして、ぼくらと松武さんと、亡くなった生田朗君らと一 緒にホット・クラブに行ったんですよ。行ったのはいいんだけど、いくら戸を叩いても誰も出てこない。ガンガン戸を叩いているうちに、ようやく誰か出てき た。寝ボケ顔のオヤジが。しかし扉を開けたらアルコールの匂いがブワーッとしてくるわけ。しかも中を覗くと、空き瓶やら何やらいっぱい転がってる中で裸の 女の子までが寝てるんですよ。オヤジと2人で寝てたわけ(笑)。おまけに中は狭いわ汚いわ臭いわで…」(16)
「スペース的にもYMOがライヴをやれる状況じゃなかった」(16)
「もう、すかさず生田君が叫びました。『こんなところに、アッコちゃんを連れて来れるか!』と(笑)。まったくその とおりで、アメリカ・サイドも納得したんで、フィラデルフィアは中止になったんですよ。で、NYにいたメンバーに即電話入れて『今日、トバす(キャンセ ル)から』って伝えて」(16)
「生田君の大英断でしたよ、あれは」
(16)

1979/11/03 13:30 イエロー・マジック・オーケストラ、アムトラック(列車)でニューヨークを出発。

1979/11/03 17:00 イエロー・マジック・オーケストラ、ワシントンD.C.着。

※編注:ワシントンD.C.ではホリデイ・インに宿泊。

1979/11/03 19:30 イエロー・マジック・オーケストラ、キキ・ミヤケやバート・ミラーらと会食。終了後、リムジンでワシントンD.C.を市内観光。

※編注:キキ・ミヤケとバート・ミラーは『トランス・アトランティック・ツアー』のアメリカ現地コーディネーター。

1979/11/04 午前 イエロー・マジック・オーケストラ、ワシントンD.C.の美術館をめぐる

1979/11/04 17:30 イエロー・マジック・オーケストラ、サウンド・チェック。ワシントンD.C./ザ・バイユー

1979/11/04 22:00 イエロー・マジック・オーケストラ『トランス・アトランティック・ツアー』公演。ワシントンD.C./ザ・バイユー。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 曲目不明
坂本龍一の証言
「ぜんぜん、ウケなかったみたいな」
(57)

高橋幸宏の証言
「当日、コンサートがイーグルスとエルトン・ジョンとぶつかったのね。彼らにとっては、そちらのほうが面白いに違いない」
(57)
「ロンドンだったらね、あのー、エルトン・ジョンとイーグルスとイエローのコンサートあったら、均等にね、選べると 思うのね。『僕はイエロー行きたい』みたいな。『僕は、イーグルスへ行きたい』とか。だけど、ワシントンの人たちにとっては、もう、その選ぶ、範疇のもの じゃないんでしょうね、イエローは」(57)

1979/11/05 18:00 東京12チャンネル『ステレオ音楽館』放送。

※編注:日時は日本時間。『ステレオ音楽館』は月〜金曜日の帯番組で、この週はイエロー・マジック・オーケストラ特集として、同年8月4日のロサンゼルス/グリーク・シアター公演や9月の中野サンプラザ・ホール公演の模様をステレオ放送した。

1979/11/05 9:20 イエロー・マジック・オーケストラ、ワシントンD.C.からボストンへ出発。

※編注:ボストンではケンブリッジ・ハイアットに宿泊。

1979/11/05 17:00〜19:00 イエロー・マジック・オーケストラ、サウンド・チェック。ボストン/パラダイス・シアター

1979/11/05 21:00 イエロー・マジック・オーケストラ『トランス・アトランティック・ツアー』公演。ボストン/パラダイス・シアター。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 曲目不明

1979/11/06 18:00 東京12チャンネル『ステレオ音楽館』放送。

※編注:日時は日本時間。

1979/11/06 7:20集合 イエロー・マジック・オーケストラ、ボストンからニューヨークへ出発。

1979/11/06 10:00 イエロー・マジック・オーケストラ、ニューヨーク着。ビデオ撮影。

※編注:ニューヨークではホテル・ドレイクに宿泊。

1979/11/06 15:00〜17:00 イエロー・マジック・オーケストラ、サウンド・チェック。ニューヨーク/ボトムライン

1979/11/06 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ、パーティーに出席。ニューヨーク/フィオルッチ。

高橋幸宏の証言
「ジョン・セバスチャンも細野さんのファンだということでいきなり来ちゃったりもしたな。僕はウッドストック世代でもあるので、彼のようにあの映画(『ウッドストック』)に出ていた人が僕らの新しい音楽を好きだと言ってくれるのは不思議な経験でしたね」
(54)

1979/11/06 21:00 イエロー・マジック・オーケストラ『トランス・アトランティック・ツアー』公演。ニューヨーク/ボトムライン。
イエロー・マジック・オーケストラ 坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 キャスタリア
 ライディーン
 ビハインド・ザ・マスク
 ラジオ・ジャンク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 在広東少年
 東風
 デイ・トリッパー
 千のナイフ
 (ロケット工場)
 中国女
 ファイアークラッカー
 
コズミック・サーフィン
 ジ・エンド・オブ・エイジア
高橋幸宏の証言
「ボトム・ラインというと"フュージョンの殿堂"っていう感じがあって、個人的にはあんまり印象はよくなかったかな。同じニューヨークでもハラーなんかだ と、もっとニュー・ウェーヴって意識が出てくるんですけど、だからオーディエンスの質も、全然違ったと思う。個人的にはクラブ・シーンに来るような、 ちょっとパンキッシュな連中のほうが好みだったんで、ボトム・ラインで観客が座って拍手されるような感じよりも、みんなスタンディングでいるようなところ で本当はやりたかったというのがありました」
(42)

松武秀樹の証言
 ビハインド・ザ・マスク
「ボタン押したらMC-8に入れておいた全部のデータが5秒ぐらいの超高速で演奏し終わっちゃった(笑)。それっきり、もう何をやっても動かなくて。しょうがないからアッコちゃんに、リフから弾いてって合図を出して」
(72)

渡辺香津美の証言
「受け入れられた感があった」
(25)
「ショービズ的な押し出しって言うのかな、例えばボトムラインにもリムジンで乗り付けるわけです」
(25)
「ジャズ・マンの友達もいっぱい見に来てたから、リムジンからものものしい感じで降りてくる僕を見て笑うんですよ。『なに、らしくないことやってんだ』っ て感じです。その時はあまりに気恥ずかしかったんで、帰りは僕だけリムジンは勘弁してもらった(笑)」
(25)

※編注:この日の演奏は、全曲が同年12月31日〜翌1980年1月5日にFM東京で放送されたのちCD『フェイカー・ホリック』(アルファ・レコード/1991年)および『ONE MORE YMO』(東芝EMI/2000年)に収録された。また、渡辺香津美のギターをカットして坂本龍一のシンセサイザーを加えるなどしたテイクが、ライヴ・ アルバム『パブリック・プレッシャー』(アルファ・レコード/1980年)で数曲聴ける。

1979/11/06 池上比沙之のインタビュー取材を受ける。高橋ユキヒロが同席。ニューヨーク/ボトムライン。

※編注:同年12月31日、FM東京『ライブ・フロム・ザ・ボトムライン』で放送。

1979/11/07 18:00 東京12チャンネル『ステレオ音楽館』放送。

※編注:日時は日本時間。

1979/11/07 イエロー・マジック・オーケストラ、村井邦彦、キキ・ミヤケ、バート・ミラーらスタッフ、プレス関係者との夕食会。ニューヨーク/チャイナタウン

1979/11/07 23:30 ABCテレビのニュース番組でイエロー・マジック・オーケストラのニューヨーク/ボトムライン公演の模様が紹介される。

1979/11/08 18:00 東京12チャンネル『ステレオ音楽館』放送。

※編注:日時は日本時間。

1979/11/08 8:00 イエロー・マジック・オーケストラ、ニューヨークを出発。

1979/11/09 イエロー・マジック・オーケストラ、成田/新東京国際空港着。

「サディスティックな世界ですからね、YMOのステージは。一貫してありましたよ、ステージ恐怖症は。クリックで耳がイカレちゃうんですよ」(7)
「非常に辛いんですけど、でもそれがYMOの姿だろうとね」
(7)
「当時はカセットテープでロードしてたわけだから。スレスレのステージだったんで、スリルがあったと言えばスリルがあったんですよ。しかも、MC-8で読 み込んだデータは熱に弱くて、あるいは静電気で飛んじゃうし。常に先手を打って冷やしておいて、ステージの前はみんなで、MC-8にお願いしてましたから (笑)。それぐらいヒヤヒヤしたものだった」(7)
「扇風機を回して、うちわで扇ぎながらやっていたんです、実際は(笑)」(78)
「なんかこだわりがあったのかな。いや、みんなの無意識の中にあったんでしょうね」(7)
「スリルのある綱渡りがみんな好きなんでしょうね。それに、それを受け止めるぐらいのエネルギーがあったんですね、まだ」(7)
「もうね、MC-8がどうなろうと関係なくやってましたから。かなりステージはパンクでしたね、そういう意味では」(7)
「海 外では、当時の日本の経済進出と重ねて見られていることが3人にとってはショックでした。むこうの新聞では『Yellow Peril / 黄禍』と、英語と漢字が並べて書かれたこともあったし、その音楽性のせいもあったのでしょうけれども、特にソニーの海外進出とはすごく比較されましたね」
(54)
「日本から世界に出てゆくものは輸出品と呼ばれる自動車であったり、エレクトロニクスであったり、いずれ にせよモノである。文化ではない。それらは極東のテクノロジーと捉えられているから、YMOが出ていったときもやはりモノとして、輸出品として並べられ、 鑑賞された部分が強い。」(59)
「最初は真面目に答えていましたけれど、徐々に、自分を守らなければならないと思い始めました。だって僕 らはミュージシャンで経済団体じゃないんだし、まともに受け答えをしていたら自分たちが疲れちゃう。ビートルズがどうしてあんなにふざけていたのかがよく 分かりました。僕はそれまでは無口だったんだけど、だんだん詭弁ばかり話すようになってきてね(笑)」
(54)
「し かし、実際に海外で与えた影響はもっと大きくて、文字どおり東京から出てきた根も葉もない音楽が、特にヨーロッパの音楽に風穴をあけたことは事実なのだ。 彼ら、ヨーロッパの聴衆は確かにある種の快感を受けとって、ヒステリックな笑いを浮かべながら、ぼくらを見ていたものだ。」(59)
「当時、ヨーロッパの音楽は閉塞状態にあって、新しい刺激に飢えていたという状況があった。そこに乗り込んだぼくたちYMOが、この状態をかきまわしたのである。」(59)
「YMOの刺激によって、イギリスでは『ニュー・ロマンティック』という新しいムーブメントが起こり、そこに非常にさわやかな風が流れた。その風は言葉を超越していて、それに対して誰も説明する必要などなかったほどだ。」(59)
「ツアーから帰ってきてから売れだしたんです」(5)
「新人バンドにもかかわらずAクラスのツアーを組んで、それがすべて良い結果を生んでるわけですよね。予想を上回る結果で、誰も対応できない」
(14)

高橋幸宏の証言
「少なくとも、音楽にしてもファッションにしても、向こうの連中に遅れたくないという気持ちがあったのは事実です」(54)
「そもそもYMOの音楽は、当時は海外にも全く無かったタイプのものだったし、あちらに於ける評価もそれをヴィヴィッドに反映するものだったと思います。 世界広しといえども、単純に、ドラムが真ん中にいるバンドはないから(笑)。だから音楽に関しては、僕らが最も新しいことをやっているという意識はありま したね」
(54)
「面白いのは、やはりまだ世界は広かったということでね。ヨーロッパとアメリカでは全く違うし、アメリカでも西海岸と東 海岸は全く違う。たとえば西海岸がのんびりしている一方で、NYではパンクの連中がお洒落というよりは独自に過激なポップ・カルチャーを作り出していたり する。そういう違いもすごく面白かったですね」(54)
「不思議な連中が日本から来たなという感じだったかもしれません。尖った層だけがものすごく反応していましたね。会場もNYではボトムラインだったりハラーだったり、キャパシティや客層の面でまだ中途半端だったということもある」(54)
「あれだけのインストゥルメンタル機材を持っていくグループだから、いろんな障害があったんです」(7)
「日本のスタッフと向こうのスタッフのコミュニケーションの問題なんですね。向こうはユニオンが厳格にあって、ろくに動かないから」
(7)
「アメリカなんかだと、機材を下ろす人と中に運んで組み立てる人っていうのは違うって言われて。それを手伝ってもいけないというね」
(7)
「あとMC-8が熱に弱くてね。扇風機を回してるんだけど、生き物みたいに止まるんですよ。今日は調子が悪いみたいな」
(7)
「マニュアルでプレイしてる部分が多かったから、いざとなったらなんとかなる、という気持ちはあったんです。機械が止まったら止まったで、みんなが僕のほうを観るだけだから(笑)」
(7)
「ツアーから戻ってくると『YMO現象』が待っていたわけです。『ソリッド・ステート・サヴァイヴァー』がオリコン17位に入っていて」
(54)
「まだまだニュー・ミュージックやフォークの時代ですし、少なくとも、その中で自分が主流になるようなことはないと思っていた。だからオリコン入りなんて考えたこともなかったですね」
(54)

坂本龍一の証言

「勝算があったわけじゃないと思うんだけど、もう最初からプロモーション・ツアーでしょう。興行といったって、見ず知らずの日本から来た、レコードも出て いるか出ていないか分かんないようなバンドのコンサートをいきなりやっても客は入らないですよ、当然。ただ、一回目のツアーの時に、各地で評判よかったん ですね。だから各地のマニアックな ーロンドンにもニューヨークにもいるー ファンに、いっぺんに知れ渡ったんです」
(64)
「ツアーによって海外の聴衆、ミュージック・ビジネスのシステムと、いろいろ出会ったわけですから、これは決定的な体験でしたね」(14)
「ヨーロッパとアメリカ、ニューヨークとLAの違いなんかもつぶさに実感できて、とても面白かった」
(49)
「受ける曲も違うんです。ロンドンでは『ジ・エンド・オブ・エイジア』が受けたんですが、アメリカでとにかく受けるのは矢野顕子の曲なんですよ」
(49)
「矢野顕子が日本語で歌った、それがやはり圧倒的に受けたんです」(79)
「必ず受ける。ヨーロッパでも受けるんですが、アメリカでは明らかに反応が違う」
(49)
「みんな彼女の日本語の歌のときは、聴いている人が立ち上がって踊ってたんです」
(79)
「つまり、音色とリズムで、ちゃんとコミュニケーションができる。まあコミュニケーションと言うのかどうかわかんないけど、ある種のアクションとリアクションが起きてるわけです」
(79)
「それから、『ビハインド・ザ・ マスク』という曲がやっぱりアメリカですごく受ける」
(49)
「たぶんハラーでやったときのことをよく覚えてるんですよ。客に言われたのが、『ビハインド・ザ・マスク』はロックン・ロールだと。それがすごく新鮮でね。ロックだ、ロックじゃないという捉え方が、アメリカ人のなかにはあるんだと」(7)
「やってる僕らには、『テクノポリス』も『ビハインド・ザ・マスク』もそんなに違いはないわけ。でもアメリカ人には『テクノポリス』はわけがわからない、カチャカチャした音楽で」
(7)
「ロックの生まれた国で受けるということは、ここに何かロックの秘密があるに違いないと思いました」
(49)
「ロック性というのは、リズムパターンやグルーヴだけではなくて、コード進行にもあって、つまりある和音からある和音に行くときにすごくロックを感じる、ということがあるみたいなんです」(49)
「アングロサクソンの耳に飛び込んでくる、コード進行というのがあって。自分たちの血が震える、波立つようにロックに聞こえてしまうものがあるということを、あそこで垣間見たっていうね」
(7)
「アメリカで演奏してみて、初めてそのことに気がつきました」
(49)
「日本にいる限りわからない。作ってる本人にわからないわけだから」(7)
「文化の違う人にも『わかる』音楽というのはつまり、どこの市場でも理解される商品ですから、資本主義の仕組みに乗っかれば、世界中で受け入れられる可能性がある、ということになります」
(49)
「ちょうど日本の工業文化が上り坂にあるころで」(7)
「自動車やテレビに関しても、そのころ同じようなことが起こっていました」
(49)
「ちょうど、フジヤマ/ゲイシャから、ソニー/ホンダというふうに、世界の日本に対する意識も変わる頃でしょう」(49)
「日本からテクノロジーが出ていく頃、経済戦争のきっかけの頃」(14)
「日本から自動車が来て、テレビが来た、次はソフトウェアを、という日本文化待望論みたいなものが、西側にはあったんだと思う」
(49)
「それとパラレルにYMOが登場した。日本から来たコンピュータ・ミュージックというので、とても時代にかなっていたというのもあるでしょうね」(64)
「幸 い日本人はすごく遠いところからやって来るという神秘的なイメージを持たれてた。テクノロジーとともに、神道という宗教を着て海を渡ってくる一種の妖怪で すね。SF的に捉えられることは望んでた事です。土着の特殊技能だけじゃ歌舞伎と同じことになっちゃう。日本製の最新のテクノロジーで武装するアンドロイ ド戦士であることは必要条件だった」
(14)
「一方日本側にも、自国のものが世界で評価されることへの、ナショナリスティックな待望があったと思う」
(49)
「世界に輸出されていった日本車や日本製電化製品、僕らの少し前にパリに出て行ったイッセイ・ミヤケやコム・デ・ ギャルソンといったファッションブランド、それらに続く役割を期待されていたことは感じていました。車や電化製品、ファッション、その次に音楽という順番 です。その意味では、日本の世界進出の片棒を担がされているような意識はありましたね」(54)
「ぼくは、自分たちがその流れに乗って、役割を演じているように感じ始めていました。ささやかな規模ではあるけれど、日本を背負っているみたいな感じすらした。そして、それがすごくいやだった」
(49)
「国を背負っているような息苦しさ」(49)
「聴衆に訴えかけることができたという喜びの反面には、そういう違和感があった」(49)
「少なくとも僕の場合は、たとえば文化によって西洋に攻め込むというような発想はなかった。そして国家と自分の意識を重ねるようなこともありませんでした」(54)
「使命感みたいなものはなかったと思います。もちろん、自分に対する使命感、YMOや音楽に対する使命感はありますが、日本に対する使命感は感じなかっ た。いや、実際たぶん感じていたんでしょうが、できるだけ感じないように努めていた。精神的に複雑な調節をしていたんだと思います」
(49)
「ほかの2人も同じようなことを感じていたのか、それともぼくだけだったのか。そんな話はしませんでしたので、わからないんですが」(49)
「帰国してみると、YMOは国民的スターになっていました」(49)
「レコード会社としては、かなり計画的にパブリシティ戦略とかやったんでしょうね」(49)
「ライターをツアーに同行させて、各地で公演が成功している様子を書いてもらい、それが『平凡パンチ』とか、当時人気のあった雑誌に速報として掲載された」(49)
「各地での成功というのを日本へどんどん送り返して、帰って来た時にはもう出来上がっていたからね。すごい速さだった」(64)
「欧米で有名になった日本のバンドという紹介によってナショナリズムが湧き上がった面はあったでしょうね。YMOが欧米人をひれ伏させた、どうだ、と。村 井さんたちはそういう凱旋記事をたくさん書かせ、そしてその狙いは見事に当たった。僕自身は面映ゆかったけれどもね」
(54)
「そして当時は情報のソースが少ないから、ひとつの情報が生む妄想力がすごかったんです。YMOがロンドンに行ってすごく受けた!というような凱旋記事がものすごく力を発揮して、どんどんと受けての妄想を肥大化させるわけです」
(54)
「歴史の流れを考えれば、戦争に負けて全てが欧米風になって、どことなく倦怠期というか、車も電化製品も世界に送り出して盛り上がって、日本人もまんざらじゃないぞという気持ちのときに、うまくはまったと言えるんじゃないかな」
(54)

矢野顕子の証言
「いわゆる演奏旅行って初めてなのに、どえらく何ヶ国も回って。日本のミュージシャンとしては、初めて高く評価されたみたい」
(80)
「どこへ行ってもわたしの存在がウケてしまったんです、これが」(80)
「"在広東少年"までのYMOの演奏曲って、当時の新しいテクノの曲でしょ。そういった曲の後にすごくわかりやすいロックン・ロールの曲、ギターもガンガン鳴っちゃうような曲が演奏されたんで、お客さんには喜んでもらえたんじゃないかなあ」(48)
「受けなかったところはなかったです。やっぱり、海外の人からすれば東洋人の女の子が変わった声で変わった歌を歌っているということで新鮮だったんだと思います」
(48)
「ツアーの時は、妊娠してたのね」(80)
「よくできたもんです。つわりはあんまりなかったんだけれども、リハーサルなんかやってるとね、タンタンタン、スットトントン、オエーッ、なんてきて。『まずいなあ』なんて。本番は全然そういうのなかったけどね」(80)
「あれはロンドンだったかしら。夜中におなかがすいておなかがすいてねー」(80)
「つわりでわたしが食事に行けないと、教授やみんながあまりものをいっつも持ってきてくれるわけ、わたしの為に」(80)

小池光夫の証言
「ライヴの現場では、照明の熱とか、いろいろな些細な環境的な条件によってシンセサイザーや、それを制御しているMC-8が誤動作するんですね」
(18)
「ステージだからスタジオと違って、電源の不都合もあるし、照明のノイズを拾うこともある。照明を当てると、今度はMC-8がダウンしてしまう」
(46)
「電気がつながっても、いつ止まるかわからない不安がある」(46)
「例えばイギリスは電圧が240ボルトなんで日本と違うから、いろいろな事故が起こりやすいんでしょうね」(18)
「なんでそうなるのか、松武秀樹さんと一緒にいろいろ手当はしてみたんだけど、当時はなかなか原因が分からなくて」
(18)
「バックアップ・メモリがないですから、一度電源が落ちるとデータが全部消えてしまう」(46)
「それでMC-8を扇風機で冷やしたりして、なんとかやってましたから」(46)
「コンピュータが途中でおかしくなっても、最初は慣れないからみんなアガってたんです。でもだんだん、コンピュータが壊れたなら壊れたなりにYMOはやるようになった」(46)
「場数踏んで上手くなっていくんですよ」(46)
「まだ生ドラムでしたし、MC-8がおかしくなったら、教授がシーケンサーのアレンジをごまかしながら弾いちゃうんです。最初はメタメタだったけど、2、3回事故があってからは、そのままやっててびっくりしましたね」(46)

渡辺香津美の証言
「大変だった、肉体的に(笑)。データはすぐ飛ぶし(笑)。演奏中に坂本さんと二人で『どうしようか?』って何度顔を見合わせたことか(笑)」
(25)
「なにかあってもすぐにみんなでカバーする。そういう一体感があったと思います」
(25)
「またとない経験でしたね。ひとつのバンドでヨーロッパ各地、アメリカの西も東も回って行く中でオーディエンスの音楽に対する捉え方の違いを経験出来たのは凄く面白かった」(25)
「このバンドのアンサンブルの中でギターのあるべき場所を考えて、かなり研究しましたね」(25)
「普通のジャズ、フュージョンの音色ではイエローのサウンドにマッチングしない部分があって、音色やフレーズはずいぶん考えましたね。なんというか……非現実的な音を出そうと」(25)
「あんまりお手本はなかったから、シンセっぽい音…もろギターの音色ではなくフランジングをきつくかけたりしたファジーな音色かな。僕は『虫が羽ばたいている系の音』って言うんだけど、その音色でジャズのビーバップぽいフレーズを弾くと不思議な感じになるんです」(25)
「そういうやり方は世界的に見てもやっている人が居なかったから、面白かったんじゃないかな。いわば、ジャズの歴史 を少しずつ切り取ってモディファイしたようなものをイエローのサウンドに乗せたら面白くなるんじゃないか、と思ってやってましたね。あと、レゲエのカッ ティングを取り入れてみたりね」(25)
「そういうある意味では地味な弾き方は、逆にジャズの世界じゃ出来ないですからね。みんながバリバリ弾いている中で『ンチャッ、ンチャッ』なんてカッティングしてると『早くソロ弾けよ』なんて言われちゃう(笑)」(25)
「ロスとかボストンでギター・ソロをやるとグワッと盛り上がるのがあからさまだから個人的には『やった!』感があるんだけど(笑)。だんだんと『それでいいのかな? なんでイエローの音楽全部をちゃんと聴かないのかな、この人たちは』みたいな意識になっていくんですよ」(25)
「『なんでソロのところだけ食いつくんだ? なんで音楽全体を聴かないんだ?』ってオーディエンスに対して感じてましたから」(25)
「サポートとはいえ、一緒に回っている中ではバンドの一員としての意識のほうが強くなりますから」(25)
「アメリカでも東のほうですよね。こっちはホールじゃなくてライヴ・ハウスですよね。きわめてジャズ的なオーディエ ンスが多くて…彼らはソロイストが何やるかっていうのに注目してるわけだから、イエローの音楽だけだと厳しい部分はあったんじゃないかな。彼らの音楽をそ のまま受け入れるキャパシティが不足していたかもしれない」(25)
「ところがヨーロッパへ行くと、クラシック音楽の伝統があるからなのか、『歌だけ』とか『ソロだけ』じゃなくて、音楽全体を塊として聴いてくれるわけです。音楽やバンドのアンサンブルを聴いてくれるからイエローはちゃんと成立するわけね」(25)

松武秀樹の証言
「ライヴ・ハウスみたいな小さなところでやるほうが、お客さんの反応がダイレクトに伝わってきて、ノれたなあ」
(72)

長曽我部久の証言
「ロンドン、パリ、アメリカとそれぞれまわりましたけど、演奏が始まる前の雰囲気は普通のライヴと一緒なんですよ。ところがメンバーが出てきて音が出始め たら、みんな絶句してるというか、アタマ1曲2曲はシーンとして固唾を飲んでるって感じがありましたね。で、次第に『なにか凄いぞ、これ』って感じになっ てくる。大袈裟じゃなく、本当にライヴは盛り上がってました」
(16)
「香津美さんとアッコちゃんの注目度も本当に高かったですね」
(16)
「(編注:海外のPAスタッフの反応は)やっぱり『なにこれ?』っていうのはありましたね。オーディエンスの前で本当に コンピューターを走らせて演奏したのってYMOが初めてじゃないかな? だからとまどいもあっただろうけど、むしろびっくりしていたっていう印象が強いですね」(16)

近藤健一朗の証言
「YMOは本当に怪しかったですよ。全員マスクを被って登場する冒頭から、もう東洋の怪しい感じが出てましたからね」
(16)
「ライヴで苦労したのは教授かな? アープ・オデッセイとかはピッチが狂ってきちゃうのがかわいそうでしたね。ヘッドフォンでモニターしているから、ピッチの狂いがよけいに気になるんだよ ね。そういう副作用もあったけど、そのぶんカウントなしで"せーの"で演奏が始められるんだから、お客さんはビックリするでしょう。『どうして?』って感 じで、お客さんにすれば本当にマジック」(16)
(編注:海外のPAスタッフは)みんな驚いてたよね」(16)
「カウントしないで、いきなり演奏するんだもん。そのカラクリはエンジニアとして興味があったんじゃないかな?」(16)

川添象郎の証言
「約1ヶ月の間あちこちの小さなライヴハウス・ツアーをヘトヘト・フラフラで過ごしていた我々には、村井社長から電話で『なんかYMO売れ始めちゃったみたいよ〜』といういつもの暢気な様子の電話をもらってもピンと来なかった。」
(54)
「ツアーしている時に村井君から電話が入ったんだ。"象ちゃん、僕たち勝ったみたいだぜ。パチンコ屋で<ライディーン>が流れてる"って(笑)」
(70)
「ツアーを何とかこなして帰国の途に着いた一行はヘロヘロで成田空港にたどり着いた。ゲートを出た途端、夥しい数の報道陣がYMO一行を待ち構えていた。 凄まじいフラッシュ・ライトを浴びながら、ヘロヘロのYMOは記者会見場に連れていかれた。僕は彼らを待たずにさっさと一人で帰宅した。」
(54)

村井邦彦の証言
「海外ツアーはとにかく前例がなかったので苦労しましたね。向こうに行くスタッフにとって初めての体験なら、海外のスタッフにとっても日本のバンドを迎え 入れるのは初めての体験なわけで、けっこう文化的な衝突がありましたね。僕のレベルでもあったし、現場ではもっとあったと思う」
(81)
「海外で売れたっていう事実そのものが日本でニュースになって、今度は国内で火がついたように売れ出した。それはちょっと予想外だったね。」
(81)

後藤順一の証言
「僕らが海外に行ったときの重要な仕事のひとつは、その都市にある日本の新聞社やテレビ局の支局の人にコンサートへ来てもらうことだった。向こうに着くやそういった支局をのきなみ回るわけですよ。今度、YMOというのが来ますんで絶対に観に来てくださいって」
(60)
「レコード会社の人間が、こうやって在外支局を訪問したのは初めてだったでしょう」(70)
「みなさん喜んで時間を割いて会ってくれましたし、会場へも足を運んで下さいました」
(70)
「そうやって支局の人たちが来てくれると、だいたい記事やニュースにしてくれる。しかも大事なことは、その場合は芸能面ではなく社会面にぼーんと出たりする」(60)
「新聞では"海外特派員発"ということで、芸能欄ではなく国際欄や文化欄でツアーの模様が掲載された」(70)
「そういう報道の効果っていうのは絶大なんですよ」(60)
「これによってYMOの海外での活動がリアリティあるものとして幅広い年齢層に受けとめられたと思います」
(70)

住田幸彦の証言
「海外ツアーだとライヴ取材の写真の手配も大変で、写真を撮ってすぐにフィルムを日本の出版社に渡さなきゃ、日本に帰る人に託さなきゃみたいな状況で、綱 渡りでしたね。ある雑誌の場合は現地で雇ったカメラマンからフィルムを受け取れず、やむなく日本から連れて行った別の編集部のカメラマンから写真を借りた りとか。そんなの、普通はありえないじゃないですか。その取材で来ている編集長を説得するのに時間がかかったなあ」
(60)

鋤田正義の証言
「僕にとっても、世界を一つのグループで一緒に廻るというのは初めての経験でした。それまでT.REXやデヴィッド・ボウイのツアーに同行したことはあったけれど、YMOの時ほど、じっくりひとつのツアーに同行したわけではなかった」
(54)
「行けば行ったでメンバーも事務所のヨロシタ・ミュージックもアルファの人たちもいろいろ気をつかってくれてありがたかった」
(19)
「ツアー中ということで、なかなか落ち着いて写真を撮ることができなくて、常にバタバタしていた印象が。だから撮った写真はほとんどスナップ的なものじゃないかな」
(19)
「ぼくもライヴの写真も撮ってはいたから、レコード会社に貸し出したりはしましたが」
(19)
「当時は、YMOも含めてみんなが無我夢中でした。そしてそれ故に、音楽と写真とで違うところはあるけれど、3人にも僕にも共有できるものはあったと思うんです」
(54)
「まず単純に、同じ時間と場所を共有できたということ。そして当時の西洋のポップ・カルチャーでもサブカルチャーでもいいんだけど、音楽にも写真にも共通 する根の部分に触れることができたということです。ツアーの中で見るものや触れられるものはたくさんありますから。世界を知ること、時代を知ること、そし てより単純に外国の若者と接すること。もちろん音楽もヴィジュアルも、ファッションも、です」
(54)

羽良多平吉の証言
「ロンドンかパリか、本番の直前に"きょうはコブシをきかせていこうぜ!"なんて声をかけあってステージに向かったり(笑)」
(69)
「ライヴの後にみんなで細野さんの部屋に集まってトランプしたり、床に寝ころんで雑談したり…。後から考えるとすごくのんびりしていましたね」
(69)

1979/11/09 18:00 東京12チャンネル『ステレオ音楽館』放送。

1979 矢野顕子のレコーディング。

※編注:アルバム『ごはんができたよ』のセッション。11月15日から翌1980年にかけて行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。

1979/11/19 21:00 NHK総合『ニュースセンター9時』放送。
イエロー・マジック・オーケストラ インタビュー

1979/11/20 『宝島』取材。

※編注:詳細不明。

1979/11/21 久保田麻琴と夕焼け楽団『セカンド・ライン』発売。
ルーチュー・ガンボ〜フードゥー・チャンコ:arrangement, synthesizer
チャイナ・ボート・ソング:synthesizer
ラヴァー・プリーズ〜ストップ・ザット・トレイン:synthesizer
一緒に歩いて!!:compose, synthesizer
ウォーキング・トゥ・ニューオーリンズ:synthesizer
一緒に歩いて!!
「Aパート、頭からサビ前くらいまでは僕で、サビは久保田くんが作った。こういうのはケース・バイ・ケースで、逆の場合もある。サビだけ僕が作るとか。ピ アノはロニー・バロンですね。リハーサルなしですぐニューオーリンズのフレーズが出てきて嬉しかったですね」
(36)

1979/11/25 桐ヶ谷仁『マイ・ラヴ・フォー・ユー』発売。
アンハッピー・デイ:bass, nylon string guitar
四ッ谷ゆうまぐれ:bass
帰郷:bass
あさがやの街:bass
あなたがいる人生:bass
桐ヶ谷仁の証言
「『四ッ谷ゆうまぐれ』と『UNHAPPY DAY』は、デモ・テープに入っていた、僕のデビューのきっかけになった曲なんですけど、最初は僕の希望で松任谷正隆さんにアレンジをお願いしたんです よ。ユーミンの初期みたいな感じのサウンドで、僕としてはとても気に入っていたんですけど、有賀さんはもう少し新しい感じにしたかったらしくて、それで坂 本さんのアレンジでやり直したんです」
(82)

1979/11/30 『地平線の階段』(八曜社)発売。

「八曜社の渡辺浩成氏の依頼で始まり」(83)
「数年間にいろいろな雑誌に書き散らした雑文などを集め、一九七〇年代の総括をすると同時に、一九八〇年代への展望を、僕という人間を通して透視してみよう、というコンセプトのもとに、立川直樹氏によってプロデュースされたものです。」
(83)
「もとよりこの本は、僕自身の全てではないにしろ、僕の音楽と思考の軌跡でもあるのですが」(83)
「僕のやったことと言えば、新たな雑文を少しばかり書き加えた程度に過ぎません。」(83)
「自分としてはまだ音楽家や雑文書きというよりも、人間の業の深さを自覚することに精一杯といった次第。ですから本 を出版することなど赤面ものだったのですが、渡辺、立川の両氏を信じ、この本がそのコンセプト通り、明日を透視する何らかの材料になれば無意味なことでは ないだろうと思い、あえて出版することにした次第です。」(83)

羽良多平吉の証言
「八曜社の編集者からの依頼でした」
(68)
「最初の打ち合わせでは細野さんのマネージャーの日笠雅子さんと三人でヒザを詰めて、どんどんラフを描いていきました。理趣教を入れたのは細野さんのアイデアです」
(68)

1979/12/05 金井夕子『チャイナ ローズ』発売。
チャイナ ローズ:compose, arrangement, bass
チャイナ ローズ
渡辺有三さんという」
(36)
ポニーキャニオンのディレクターの方から、単純に作曲の依頼があったんです」(84)
「テクノに引っ張り込もうという意図も、テクノ系の曲を書こうという気持ちもまったく無かった」
(84)
「決してテクノのつもりで作ったわけではなくて割と伝統的なポップスのつもりです」(84)
「ただ、ちょっとこの曲の転調は無理があります。歌うのは難しかったと思う(笑)」(36)
「生演奏でやってます」
(37)

渡辺有三の証言
「彼女のなかに異国情緒というイメージは、最初からあったんだと思います。でも、それを細野さんを軸にしてやるというのが面白いでしょう。僕は、表現者と しての金井夕子をサポートするために、その時代にいちばん合っていて、しかもアルバムのコンセプトに合った、そのときのトップの人と組んでやりたかったん ですよ。それで、細野さんのところに金井夕子本人を連れていった。『僕、何をすればいいんですか?』って聞かれましたけど。たぶんプロデュースを頼まれる と思っていたんじゃないかな。でも、アルバム全曲でもなくて、1曲頼んだだけ。それまでそんなことなかったんじゃないかな」
(85)
「スタジオでオケを録るときにすごい時間をかけていた」(85)
「演奏しながら曲がどんどん変わっていくんです。ぜんぜん終わらなくて、僕は次の仕事の時間になってしまって、レコーディングの途中でスタジオを出ることもありました」
(85)

1979/12/19 13:30 イエロー・マジック・オーケストラ、中野サンプラザ・ホール入り。

1979/12/19 14:00〜16:30 イエロー・マジック・オーケストラ、サウンド・チェックと通しリハーサル。中野サンプラザ・ホール。

1979/12/19 イエロー・マジック・オーケストラ『バック・イン・トキオ』公演パンフレット発行。

羽良多平吉の証言
「たしか五百円でした」(69)
「このパンフは、細野さんと一緒に作ったんですが、最初にこういう新聞のような形式にしようというのと、一面は海外のYMOに関する記事をコラージュしようっていうのがすぐに決まりました。細野さんの秘書の日笠さん、アルファの小尾さんも一緒で、制作はすごくスムーズに、企画もばんばん決まっていきました」(69)
「(編注:コラージュにルー・リードの記事がまぎれているのは)たぶん細野さんの意思だったと思います。そうじゃなきゃ、僕や他の人がそんな勝手なことはできないですから」
(69)
「これ、二種類あるんです。最初に印刷してコンサート会場で販売したものと、後にプロモーション用に修正して印刷し 直したものと。最初のヴァージョンは、蛍光色がオレンジ・イエローで、付録のポスト・カードの紙も羊皮紙を使って、インクも金とグリーンを使ってってい う。あと、オリジナルと修正版の大きなちがいは、修正版には裏表紙にフジカセットの全面広告が入ってること。最初のものの裏表紙にはアサヒビールやレノマ や、もっといろんな企業の小さな広告がたくさん入っていたんですよ。それをフジカセットの全面広告に差し替えて、結果、裏表紙に入るスペースがなくなった 奥付を表紙のほうに移してあるものがセカンド・ヴァージョンです。蛍光色はピンクでした」(69)

1979/12/19 19:15 イエロー・マジック・オーケストラ『バック・イン・トキオ』公演。中野サンプラザ・ホール。
出演:シーナ&ロケット

イエロー・マジック・オーケストラ 
坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野顕子(syn, vo, cho)
 キャスタリア
 ビハインド・ザ・マスク
 ライディーン
 デイ・トリッパー
 ラジオ・ジャンク
 ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
 (ロケット工場)
 テクノポリス
 ジ・エンド・オブ・エイジア
 在広東少年
 中国女

 千のナイフ
 コズミック・サーフィン
 東風
坂本龍一の証言
「凱旋公演のようなものもしっかり用意されていました」
(49)

高橋幸宏の証言
「(編注:吉田)美奈子がYMOの美術を手伝いたいって言うんで、やってもらったんですよ」
(7)

松武秀樹の証言
「僕らがツアーをやってた時、日本では大騒ぎになっていて、行く前と行ってきたあとではえらい違いでね」(46)
「日本でのYMOの知名度が一変していて」(47)
「この騒ぎはなに? って感じで。それでちゃんとしたコンサートを見せなきゃいけないっていうことで、もう一度リハーサルをちゃんとやって、いいコンサートにするぞっていう気構えで臨んだんですね」
(47)
「こういうコンピュータというかシンセサイザー・ ミュージックというのが、やっと市民権を得たという感じでした。ロックとはまた違う、新しい時代がきたという印象がありましたね」
(46)

渡辺香津美の証言
「多分、『海外と同じようにフリーにやると、フュージョンになっちゃうから何とかしよう』っていうふうになったんでしょう。僕自身も海外と違って日本ではギター・ソロはそんなに要らないかな、って思ってたしね」
(25)
「確かコンサートの前に、イエローとはこれで一区切りだなって思って」
(25)
「そろそろ自分のことやらなきゃな、とは思ってたんだった、その時点で」(25)
「それに向けて準備することがあった時期ですから。細野さんにもそう話していたんじゃないかな」(25)
「『卒業』ってことでしょうね。そして最後に自分で『男の…ギタリストの花道をつけよう』と」(25)
「ギタリストの花道って言えば、やっぱりマーシャルのアンプを山積みにすることでしょう(笑)。ギター・アンプを壁 のように積んで、その前で弾きまくるという。PAスタッフに非常に嫌がられながら『積んでおくけど、全部から音出るわけじゃないからね』って念を押されて (笑)」(25)

鮎川誠の証言
「満員で、凄い盛り上がったのを憶えちょる。なんか言葉に出来んような凄い…」
(25)

長曽我部久の証言
「大爆発でしたね、サンプラザ公演は。ぼくの記憶だと本当に業界の人間が多かったです。それだけ注目の的だった。おまけに1回だけのコ ンサートだったから、チケットを手に入れられた一般のお客さんって少なかったんじゃないかな? でも、その当時はまだお客さんの年齢層が高かった印象があって、大学生ぐらいの、それまでのライヴ・ハウスでのコンサートの常連のような、知ってる顔ばっ かりだったですね」
(16)
「メンバー紹介があったでしょう。あれは生田君の声を加工したものなんです」
(16)
「生田君の声にハーモナイザーなどのエフェクターをかけて、サンプラザのメンバー紹介用に作ったSEテープだったんです」(16)
「生田君も一緒にスタジオに入って作ってきたんです」(16)
「あのゆがんだ感じのサウンドには元ネタがあるんです。『千のナイフ』発売記念ライヴの初日なんですけど、記録用の テレコがワウッちゃってて、あとでテープを聴くと凄い音になってるわけですよ。それを生田君が聴いたら大笑いして、面白がっちゃって。何かに使えるねっ て。あと、サンプラザのステージのバックに人形を吊っていたでしょ? あれも生田君のデザイン」(16)

小尾一介の証言
「有名な海外のバンドが来日しているっていう感じでした。日本人のグループなのに、なにかドメスティックではない不思議なオーラが出ていた」
(70)

※編注:18時30分から19時までシーナ&ロケットがオープニング・アクトを務めた。

1979/12/24 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。大村憲司が初参加。芝浦/スタジオ'A'。
ナイス・エイジ/drums(高橋ユキヒロ)
「『ファイアー・クラッカー』を除けば、初めてシングルのためにYMOがレコーディングした」(23)
「自分たちにはシングルを作ろうという発想はないですから、そういうリクエストで始まったんでしょうね」
(7)
「きっと、A&Mから村井さんに依頼が来て、僕に伝わったんだと思います」
(7)
「気分はもうニュー・ウェーヴでした」
(7)
「幸宏で歌モノでいこうってことで、当時の気分で幸宏のスマッシュな曲ができてきて」
(7)
「結果的にシングルになるのは随分あとで、『増殖』で最初に発表することになりました」(23)

松武秀樹の証言
「アメリカでシングルを出そうということで、確かやり始めたんだと思う」
(46)
「曲はツアー中にできてたのかな? 初日から大村憲司がいたし、みんなで作り始めたという感じでしたね」
(46)
「どうでもいいけどこの曲ってクリスマスに録ってるんですね」
(20)

坂本龍一の証言
「レコーディングしたのは覚えてますけど、特別にアメリカ用のシングルだからっていう説明はなかったと思いますね。たぶん細野さんが、会社と僕たちの緩衝 材になっていて、特にアメリカのシングル向けにどうのこうのって説明をせずに、好きなことをやらせてくれたんですね」
(7)
「ロキシー・ミュージックっぽいというか。ロキシーの感じはかなり意識していたと思うんです」
(7)
「ライヴのときにギターを入れるのは、本当に時間持たせみたいな気持ちだったけど、『ナイス・エイジ』なんかのサウンドは、ギターは必需品って感じだったから」(7)
「ジャズじゃないロキシー的なギターで、そういうロックやポップスのニュアンスを表現できるギタリストが憲司だったということですね」(7)
「まあ、うんざりしていたんじゃないかな、フュージョン的な演奏に」(7)
「曲はハッピーだけど歌詞はそんなにハッピーじゃない。」
(86)

クリス・モスデルの証言
「若い女性のことを歌った歌なんだ。デカダンでナイーヴな個性の…もしかしたら中国人かもしれないね。人形のような肌をもった美しい女性で、実は 『china』は『陶磁器』という意味のチャイナでもあるんだ。アンドロイドのような女性。その女性のライフ・スタイルみたいなものかな」
(25)

小池光夫の証言
「普通の生ドラムの録り方です。タムまで同時に録ってますね」
(20)

大村聖子の証言
「憲司は、ユキヒロさんからYMOのギターをやらないかと誘われた」
(54)

高橋幸宏の証言
「憲司とやろうよっていうのは、僕が言い出したことなんです」
(42)
「付き合いは教授のほうが全然古いんだけど」(7)
「憲司のギターにすごくロック色を感じていたんですよね」(7)
「それまでYMOでは香津美が弾いてたわけですけど、フュージョンっぽく見られることに、僕は当時、かなり抵抗があったんです」(42)
「『シチズンズ・オブ・サイエンス』と『ナイス・エイジ』は、アメリカ向けに作った曲」(87)

1979/12/25 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ナイス・エイジ/synthesizer
松武秀樹の証言
「"キョン、キョン"ってずっとリズムの裏打ちしてる音。テクノに絶対必要なエッセンスですね」
(20)
「MOOG IIIcです」(20)

1979/12/26 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ナイス・エイジ/guitar(大村憲司), synthesizer
小池光夫の証言
「トラック17のカッティング・ギターはアンプの音です。18のスペイシーな音はラインかもしれないな。アンプとラインと混ぜて使ったりもしていましたからね」
(20)

1979/12/27 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
ナイス・エイジ/vocal(高橋ユキヒロ), chorus(サンディー)
小池光夫の証言
「サビと平歌の部分はトラックを変えてます。トラック14が平歌です。フランジャーはSBF-325でしょう、多分」
(20)

1979/12/31 22:00 FM東京『ライブ・フロム・ザ・ボトムライン』放送。
出演:池上比沙之

イエロー・マジック・オーケストラ

 キャスタリア
 ライディーン
 ビハインド・ザ・マスク
 ※1979/11/06@ボトムライン

インタビュー

<出典>
(1)『ニューミュージック・マガジン』2月号 ニューミュージック・マガジン社/1979年
(2)田山三樹監修『YMO GLOBAL』 シンコーミュージック・エンタテインメント/2007年
(3)ユービック「テクノ歌謡」研究チーム『「テクノ歌謡」ディスクガイド』 扶桑社/2008年
(4)『銀星倶楽部』11 ペヨトル工房/1989年
(5)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(6)『シティロード』10月12日号 エコー企画/1979年
(7)YMO読本『OMOYDE』 ソニー・ミュージックハウス, GT music/2003年
(8)細野晴臣『HOSONO百景』 河出書房新社/2014年
(9)『Weekly YMO Web magazine』No.01 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年6月16日
(10)V.A.『ハイフォニック・ハイフォニック』ライナー・ノーツ 日本コロムビア/1979年
(11)
細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(12)カセットブック『テクノポリス』 富士写真フイルム/1980年
(13)『ロッキンf』8月号 立東社/1979年
(14)『宝島』7月号 JICC出版局/1988年
(15)『アドリブ』秋の号 スイング・ジャーナル社/1979年

(16)
『コンパクトYMO』 徳間書店/1998年
(17)NHK-FM『サウンド・オブ・ポップス』 1980年8月18日
(18)
『Weekly YMO Web magazine』No.06 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年7月21日
(19)
『Weekly YMO Web magazine』No.02 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年6月23日
(20)『サウンド&レコーディング・マガジン』11月号 リットー・ミュージック/1999年
(21)松武秀樹『たった1人のフルバンド YMOとシンセサイザーの秘密』 勁文社/1981年
(22)
日笠雅水『マーコさんのテソーミ教室』vol.48 まぐまぐ/2012年1月27日
(23)CD イエロー・マジック・オーケストラ『YMO GO HOME』ブックレット 東芝EMI/1999年
(24)CD イエロー・マジック・オーケストラ『UC YMO』ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年
(25)田山三樹編著『NICE AGE YMOとその時代 1978-1984』 シンコーミュージック・エンタテインメント/2007年
(26)『聴け!伝説の日本ロック 1969-79』 宝島社/2004年
(27)高橋幸宏『心に訊く音楽、心に効く音楽』 PHP新書/2012年
(28)
中沢新一, 細野晴臣『観光』 角川書店/1985年
(29)Inter FM『Daisy Holiday !』 2002年5月25日
(30)細野晴臣 with フレンズ・オブ・アース『S・F・X』ライナー・ノーツ テイチク, ノンスタンダード/1984年
(31)『ZOO』24号 ZOO/1979年
(32)『ロックジェット』VOL.75 シンコーミュージック・エンタテイメント/2019年
(33)CD シーナ『いつだってビューティフル』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2006年
(34)CD シーナ&ロケット『真空パック』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2006年
(35)『ミュージック・マガジン』5月号 ミュージック・マガジン/2015年
(36)CD『細野晴臣の歌謡曲 20世紀ボックス』同梱ブックレット コロムビアミュージックエンタテインメント, デイジーワールド/2009年
(37)J-WAVE『Daisyworld』 2001年6月24日
(38)『スタジオ・ボイス』10月号 インフォス/1990年
(39)『シンセサイザークロニクル』 学習研究社/2008年
(40)『セブンティーズ』Vol.1 交通タイムス社/2005年
(41)田山三樹『アルファの宴』第9回(『レコード・コレクターズ』1月号) ミュージック・マガジン/2006年
(42)CD イエロー・マジック・オーケストラ『ONE MORE YMO』ブックレット 東芝EMI/2000年
(43)NHK Eテレ『ニッポン戦後サブカルチャー史』 2014年9月5日
(44)
『GORO』9月27日号 小学館/1979年
(45)
東京MXテレビ『CHOCOLATE IN THE BOX』 2003年1月24日
(46)田中雄二『電子音楽イン・ ジャパン 1955〜1981』 アスペクト/1998年
(47)吉村栄一・田山三樹『ザ・ケミカル・エクスペリメンツ』 1999年
(48)『Weekly YMO Web magazine』No.04 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年7月7日

(49)坂本龍一『音楽は自由にする』 新潮社/2009年
(50)CD 坂本龍一&カクトウギ・セッション『サマー・ナーヴス』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2005年
(51)CD ブレッド&バター『レイト・レイト・サマー』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2005年
(52)『ロッキンf』9月号 立東社/1979年
(53)『Melody』No.3 メロディハウス/1979年
(54)鋤田正義+イエロー・マジック・オーケストラ『Yellow Magic Orchestra × SUKITA』 TOKYO FM出版/2010年
(55)DVD YMO『Giga Clips』 東芝デジタルフロンティア/1998年
(56)『平凡パンチ』8月27日号 平凡出版/1979年
(57)NHK-FM『サウンド・オブ・ポップス』 1980年8月22日
(58)『サウンドメイクアップ』vol.4 コルグ/1979年
(59)細野晴臣『音楽少年漂流記』 新潮文庫/1988年
(60)『Weekly YMO Web magazine』No.07 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年7月28日
(61)『ロッキンf』10月号 立東社/1979年
(62)『PAPER SKY』no.7 ニーハイメディア・ジャパン/2003年
(63)
CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(64)坂本龍一『SELDOM-ILLEGAL 時には、違法』 角川書店/1989年
(65)高橋悠治+坂本龍一『長電話』 本本堂/1984年
(66)『THE DIG』No.40 シンコーミュージック・エンタテインメント/2005年
(67)
備酒元一郎編『ジャケット・デザイン・イン・ジャパン』 ミュージック・マガジン/2004年
(68)『アイデア』346号 誠文堂新光社/2011年
(69)『Weekly YMO Web magazine』No.03 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年6月30日
(70)
田山三樹『アルファの宴』第10回(『レコード・コレクターズ』2月号) ミュージック・マガジン/2007年
(71)
『dankaiパンチ』10月号 飛鳥新社/2007年
(72)
『ピリオド』 徳間書店/1993年
(73)CD 山下達郎『ムーングロウ』ブックレット BMGファンハウス/2002年
(74)
CD シーナ&ザ・ロケット『チャンネル・グー』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2006年
(75)
『レコード・コレクターズ』3月号 ミュージック・マガジン/2006年
(76)『エスクァイア』4月号 エスクァイア・マガジン・ジャパン/1997年
(77)レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』 ミュージックマガジン/2000年
(78)『ムーグ・ノイマン・バッハ』 日本ソフトバンク/1988年
(79)吉本隆明+坂本龍一『音楽機械論』 トレヴィル/1986年
(80)
矢野顕子ツアー '87 パンフレット『UNQUESTIONABLY AKIKO YANO 1976-1987』 やのミュージック/1987年
(81)『Weekly YMO Web magazine』No.12 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年9月1日
(82)CD 桐ヶ谷仁『コンプリート・アルファ・イヤーズ』ブックレット 
ソニー・ミュージックダイレクト/2005年
(83)
細野晴臣『地平線の階段』 八曜社/1979年
(84)コイデヒロカズ編『テクノ歌謡マニアクス』 ブルース・インターアクションズ/2000年
(85)CD 金井夕子『アナログ・アルバム 完全復刻パッケージ』ブックレット ポニー キャニオン/2007年
(86)
イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』ツアー・パンフレット ヨロシタミュージック/1980年
(87)『プレイヤー』7月15日号 プレイヤー・コーポレーション/1980年

update:2023/10/22

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