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chronology 1978 - 2


1978/07/05 桑名正博『テキーラ・ムーン』発売。
薔薇と海賊:steel drums


1978/07/10 イエロー・マジック・オーケストラ、アルバムのレコーディングを開始。芝浦/スタジオ'A'。
ファイアークラッカー
「結局、日本の伝統というものは、あったとしても、ぼくらの世代には受け継がせてもらえてないんだよね。ということ は、とりあえずは、伝統なんか知らないよ、日本の伝統はないんだという仮説から出発しなきゃいけないと思ったの。それがテクノの始まりだよ。だから、まず 日本の伝統の上には立たない。もちろん、これから勉強するんだっていう気概も含めてのことだけどね」(1)
「そういう意味で、東京っていうのは、自分の住んでいるところはいちばん近くて、しかもいちばん遠いところなんだっていう感覚が、いつもあったんだ」
(1)
「だって、ぼくが東洋思想に入っていくきっかけだって、一度アメリカを通過したものなわけ。『ナ・ダーム』とか、そういう本にしても、一度アメリカで出たものが日本語訳されて入ってきてるからね。しかも、そういうもののほうが自分の中に素直に入ってくるんだよね」
(1)
「そういうサイクルは、ぼく自身の音楽や精神的なところにもあるの。だから、それを意識的に集大成してみれば、今の東京をいちばんよく表わすなにかが作れるんじゃないか、と思ったんだ」
(1)
「YMOができた理由はこれですっていうふうに、ひとつを取り出すことはできないの。つまり、ひとつの行為がいろいろなものを生み出していくっていうことがあるでしょ。YMOの場合はその逆なの。いろいろなものが組み合わされて生まれたっていう」
(1)
「横尾さんと会わなかったらインドへは行かなかったろうし、インドに行かなかったらYMOはできなかったろうし。もちろんたまたまコンピュータというものがなかったら、やっぱりYMOはできなかった」
(1)
「コンピュータの存在がなかったら、プロジェクトをやる気はなかったと思います」
(2)
「東京っていうものがなかったとしてもそうだし、自分が落ち込まなかったら、やっぱりできなかった。そういったすべてに、お互いに有機的な運命が生きてるっていう実感があるよ」
(1)
「そういったものだったから、YMOはソロ活動と平行してやれるとは思ってなかったの。すべてのスイッチをYMOに切り換えるっていう感じで」
(1)
「考えてみると、ぼくの作ってきたソロ・アルバムというのは、なにか直観にとらわれていて、自分の思っていなかった方向に向かってきた」
(3)
「それはいつも、自分が変わって行くときの予兆だったんだ。音楽が変われば、自分も変わっていったわけ。今度は、自分が変わって、音楽のために半病人じゃない自分を作ろうと思ったんだ」
(3)
「ところが、そうしたら、ほんとうに自分がだめになっちゃって、それどころじゃない。自分で考えたにもかかわらず、いろんなことにまきこまれて、自分がメチャメチャになってしまった」
(3)
「音楽のためどころじゃなくて、自分のために自己改革をしなけりゃいけないハメになってしまった。それができないと、もう、音楽ができない。きっと、それも自分で計画したんじゃないかと思うんだけどね」
(3)
「そんなことを考えながらやったのが、イエロー・マジック・オーケストラなんだ」
(3)
「ぼくの自己改革みたいなことと、かなり密接にかかわっているんだ」(3)
「ぼくの自己改革を反映させようとしている、ただただ真面目なバンドだよ」(3)
「大きな切り換えだったんだよ。だから、次にソロ・アルバムを出す時は、自分の中でなんか変わる時だろうって、もう想定してやってたの。ティン・パン・アレイの時みたいに、自分のスタイルとかパーソナリティを平行して出していくんじゃなくて、もう放棄したかったのね」(1)
「『はらいそ』で、そういうものは、もう完結してたから。ソロっていう世界が、すごく狭く感じられちゃってね」
(1)
「自分のやることをどことなく抑えようという気持があってね。プロデュースに非常に気を遣ったんです」
(4)
「『はらいそ』で、いちおうストップしちゃって、プロデュースっていうことに頭を切り換えてるんです。個人的な作業から、またひとつ頭を切り換えてみよう、っていうこと」
(5)
「自分で一個一個作っていくっていうことから、もうひとつね、全体の流れを作っていくとか」 (5)
「名前をつけて、メンバーを集めて、社長を説得して、どういうレコーディング・スタイルをとるか決めて、一人何曲書いてこいとか(笑)。それはコンピューターを使ってやるようなものであると。その範囲はまだ何も限定してないからということで」(4)
「だから、YMOをやるっていうことは、個人的な音楽の部分ももちろんあるけど、ここでひとつね、エネルギーを使って切り抜けるというかね、足場を作らないと」 (5)
「はじめたときは、コンピューターを使ってやろうということと、『ファイアークラッカー』だけ決まってて、エキゾティックなサウンドがまだ根強く余韻として残ってた。『泰安洋行』みたいな変てこなレコードを作った人間として、すぐに捨てるわけにはいかなかった」
(4)
「とにかく『ファイアークラッカー』が成功すれば見えてくるだろう、というようなことではじまったんです」
(4)
「今までとまったく違って、衝動的にしたわけじゃなくて、記号化っていっていいかもしれないけど、無意識に単純化していった。決してつまんなくしようと 思ってやったわけじゃなくてね。それはたぶんコンピューターと関係あるだろうし、何か予感を持ってたんだろうと思うんです」
(4)
「音楽的に、そんなにたいしたヴィジョンは持ってなかったんですよ。どのくらい飛躍できるのか見当がつかなかったし、記号化という言葉も明確に話したわけじゃなくて、自然にそっちの方向に行ったんです」
(4)
「何にわれわれが騒いでいたかというと、例えば映画は『未知との遭遇』がヒットしたころ。そこにコミュニケーションの手段としてシンセサイザーが使われていた」
(4)
「YMOっていうのはその、宇宙人、も、聴いてるんじゃないかというところから始まったんですよ。あんまり知られてないですけどね。そういうワクワク感っていうのが大事なんですね、音楽にとって」(6)
「音楽の面ではクラフトワークやジョルジオ・モロダーがミニマル的なコンピューター・ミュージックのアプローチをしていて、それは結構大きな影響力があっ て、目標にするぐらいのものだったんです。はっぴいえんどのときのバッファロー・スプリングフィールドに相当するかもしれないくらいの大きな存在がクラフ トワークだったんです」
(4)
「ジョルジオとかクラフトワークに対抗していきたいと考えてました。あれに負けないものを作りたい、というのがあったんです」(7)
「あと東京の喫茶店にテレビゲームが出てき始めたころで」(4)
「喫茶店にテレビ・ゲームが入ってきたんです。『風船割りゲーム』が。続いて『インベーダー・ゲーム』が出てきて、街の風景があるときからガラッと変わったんです。それに驚異的な気持ちで接していたんです。こんなことが起こるんだという、ある種の感嘆を持って」(7)
「見ただけで異常に興奮したんですが、これはわれわれがやろうとしている音楽よりも先を行ってると思ったんですよね」
(4)
「ゲーム自体は僕たちに理解できる。」(8)
「人間の快感原則を越えたものではなくて、例えばやっつけられて死んじゃうと困るから防いだりとか。あるいはトランポリンっていってシーソーゲームみたいなのがあったりとか。それが失敗しちゃ負けるというものでした」(4)
「従来の法則を守らなければ、楽しむことは不可能だ。そのようなシンプルなゲームを無機的な動きを持つコンピューター・プログラムで選ぶ。内容は古く、方式が新しい。」(8)
「そこに使われている音が、われわれ以上にもっと洗練された記号化されたコンピューター・ミュージックだったんで す。それは見せるためのものじゃなくて、遊ぶためのもので、いつの間にか日本の喫茶店に蔓延しててね。みんながやりだしたということが驚異的で。インベー ダー・ゲームが出て、爆発的にヒットしたときは、一緒になってやっていましたからね。サラリーマンに混じって喫茶店に入って(笑)」(4)
「僕もあの雰囲気がたまらなく好きで」
(8)
「異常だったんですけど、YMOもそういう波の端っこにいたんですよ」(4)
「今までの延長線上で、あ、こんなこともあったというような新鮮さの驚きではなくて、中身はどうなってるかわからなくて、謎が多いわけですよ。そういうテ クノロジーの文化がいつの間にか出てきて、いったい誰が作ってんだろうと思うわけです。最初はアメリカから来たと思ってたんです」
(4)
「ところがどうやら日本のメーカーもずいぶんやってるということで、しかもYMOが使いだしたMC8という音楽用のコンピューターは、YMOをはじめる前から商品化されてたわけで、売ってるわけですよね。そのことにもずいぶんショックを感じた」
(4)
「まったく謎でしたよ(笑)。絶対近づけない箱だったんですよ、メンバー3人とも」
(7)
「冨田勲さんがそれを真っ先に使ってたんですけど。これは大事なことでね、その時代の特色だと思うんです。テクノロジーが引っ張っていく時代になるんじゃ ないかというような。僕はメカに弱いし、ほとんど駄目なんですが、そういうものが持つロマンティシズムは好きなんです。」
(4)
「『スター・ウォーズ』の中の『フォースを使え』という台詞は、3人の中でキーワードになっていて。コンピュータとセッションするというのは、フォースの訓練というのかな」
(7)
「文学的なものなんです。けっして理工系のアンチロマンじゃない」
(7)
 
ファイアークラッカー

「YMOはこの曲から始まったようなもんで。」
(9)
「夢見心地のようでね。『ファイアークラッカー』の元の曲を教授が手直しして、譜面に起こして、それを松武さんがすごいスピードでプログラムして、そうすると音が出てくる」
(7)
「プログラミングされた譜面は自動演奏装置によって、記憶した通りに音が出てくるのね」(10)
「僕はボーッと聴いてるだけ。ああいうシークエンスのリズムがとても気持ちよくて」
(7)

坂本龍一の証言
「最初の頃のYMOは、コンセプトは細野さんで、演奏面ではぼくが中心だった」(11)
「細野さんが前からやっていたマーチン・デニー風のエキゾチックな音楽を、コンピューターを使ってクラフトワークのようなテクニックでやろうということだったから、半分はドイツというか、ジョルジオとクラフトワークの存在が大きかったですね」(12)
「シークエンサーを使うような音楽ってタンジェリン・ドリームみたいなものしかなかったんだけど、それをディスコに結びつけてヒットさせたっていうのがジョルジオの偉大なところで」(7)
「蝙蝠傘とミシンを組み合わせたみたいな、本当にシュールな手法でしょう。あの組み合わせに度肝を抜かれました」
(7)
「YMOを作るときに、日本最強のR&Bバンドを作ろうって、よく言っていた」(7)
「もともと日本で最強のリズム隊だから」(7)
「黒人と同じようには絶対できないという気持ちがあったから。彼らの肉体性というものを尊敬していたし。神聖視しているところがあって」(7)
「みんなあると思うんですよ、3人とも、ソウルに対して。真似したってしょうがないって気持ちがあるから、シークエンサーを使うという。本当に大きな武器を得たという感じで。肉体を使わないという。肉体を使うと絶対負けちゃうから。ワールドカップみたいに」
(7)
「松武さんに打ち込んでもらう橋渡しっていうのは、僕がやっていた」(7)
「プログラミングするときは、ローランド社のマイクロ・コンポーザーMC-8という機械をお使いですよ」
(10)
「本来ならば譜面なんかも使いたくないんですよ。だけど、MC-8を打ち込むために、しょうがないから譜面を起こしていたんです」(7)
「プログラミングの方法といいますと、ドレミ ファ……の音階と、四分音符や休符などの音符を、0から9までの数字に組み直してコンピューターに記憶させるのです。最も難しいのはスタッカートとかス ラーといった、いわゆる演奏のノリをプログラミングするときといいますね。プログラマーがちゃんとしたイメージを持っていないと、このノリを正しく伝えら れないわけだから……」
(10)
「自分の捉え方としては、参謀って感じですね。判断はしない。判断は提督にしてもらうという。僕は言われたことを、いちばんいいかたちでアウトプットする 役割。でも思考を一時的に凍結して、いい悪いは別として、自分の持っている知識とか技術を総動員して、かたちにすることに徹していました」(7)
「YMO を始めるときに、三人で唯一合意した点というのは、三人のそれぞれの顔が見えるようなことはやめようねと言って、つまり音楽を聴いても、顔っていうのは見 えてくるわけじゃない? たとえ歌わなくてもね。それはやめようって……。顔が見えないっていうことはとても快楽でね(笑)」
(13)
「自分名義では絶対しないっていうような、恥ずかしいぐらいポップな表現もYMOならできる」
(7)
「自分の仕事だったらこんなことしないなっていうくらいイージィにね、過激にポップな音創りしてたの」(11)
「ソロじゃないから、メンバーの責任が半減して、お互いに寄りかかれる。遊びやすいというのが魅力だったね」
(14)
「いちばん嫌いなワグナーみたいなことすらできるのは、参謀だ から。それに、責任が3分の1ずつっていうことは、3分の1しかない責任の中で1分の1のことができるってことで、密度が濃くなるっていうのかな」(7)
「ぼくの中では、わぁ過激だなァ、こんなにポップに気持よくしちゃっていいのかなと思いながら、ワクワクしながらやってたんだ」(11)

松武秀樹の証言
「YMOのレコーディングに参加するきっかけってなんだったかなあ…。最初に誰に声をかけられたんだろう。当時、いちばん一緒に仕事をしていたのは教授だったし、彼からなのかなあ」
(15)
「いつのまにか始まっていたという感じ。ある日、細野さんの当時のマネージャーだった日笠さんか、教授のマネージャーだった生田(編注:朗)さんのどちら かから電話があって、それで参加した。生田さんからだったかも。教授がぼくのことをよく知っていて、それで他のふたりにぼくを推薦してくれたんじゃないか な」
(15)
「とにかくコンピューターを使いたいっていう話だったから、MOOGIII-CのほかにMC-8も持っていって、まずレコーディングしたのが"ファイヤークラッカー"でしたね」
(15)
「一度人力で演奏してみて、それでいまいちだったから、じゃあ本格的にコンピューターでやろう、やるには誰が必要かっていうことでぼくが呼ばれたんだと理解してます」
(15)
「最初に"MC-8を使うなら、こういう順番で曲の構成をしていったほうがいいですよ"って話をしてから"ファイヤークラッカー"のレコーディングを始め たと思う。まず小節をきちんと決めて、ドンカマを入れる…。テンポは後からでも変えられるけど、MC-8を使うと、これこれこういうことは後からは変えら れないっていうのを話しましたね。それでいちから曲を組立てていきました。ああいうMC-8の使用を前提としたレコーディングの構成の仕方は、教授の『千 のナイフ』のレコーディングで確立したやり方ですね」
(15)
「機材というか、手順的には問題はなかったけど、音色などでずいぶん試行錯誤しましたね。ベースのパートのシンセなんて何回ぐらい録りなおしたんだろう」
(15)
「少なくともぼくはメンバーの誰かから”YMOはこういうバンドにしたい”って話は聞いたことがない。もちろん、当時は教授がいろんな新しい音楽を聴かせ てくれて、青山にあったパイド・パイパー・ハウスっていう輸入盤ショップに『これこれこういうアーティストのレコードが入ってる』、それを一回聴いてみて よって、他のメンバーや関係者にしきりと奨めてましたね」
(15)
「そういうレコードをスタジオで聴いて、ぼくにもなんとなく彼らはこういう音楽をやりたがっているんだなってイメージができましたね」
(15)
「テクノ的なディスコの骨組みに、東洋人ならではの音階を使った新しい上物を乗せてみるっていう、遊び心と冒険心。単なるディスコに終わらずに、いかにそこにアーティスティックな知性を加えていくかっていうのが、78年の結成時のYMOのモチーフだったと」
(15)

吉沢典夫の証言
「トラック・シートを見るとレコーディングは"ファイヤークラッカー"から始まってますね。もちろん、1曲ずつ完成させていったんじゃなくて、いろんな曲を平行してレコーディングしていったんですけど」
(15)
「なんといってもシンセサイザーの導入。ぼくなんかアナログ人間だったから、なにをどうしていいのか、最初はまったくわからなかったんです。シンセの音録 りはラインでコンソールに直結だから、それまでの、楽器をスタジオの中で鳴らして、それをどううまく録るかっていうノウハウは役に立たない。ドラムにし たって、幸宏氏がまずハイハットを録り、次にスネア、そしてキックといった具合にパーツをひとつずつ録っていく」
(15)
「まずガイド信号を録って、ドラムのパートをひとつずつ録っていってっていうんだから、単純に数倍の時間がかかる」
(15)
「それまでぼくらがやってたレコーディングは、ドラムだったら”せーの!”で一斉に全部レコーディングするようなやり方だったから戸惑いましたね」
(15)
「レコーディング中に全体像が見えなかった」
(15)
「この曲は最終的にどんな仕上がりになるのかっていうことが、想像できないまま音を録っていくわけだから、エンジニアとしては難しかったんです」
(15)
「最初にそれがどういう曲かを知って、その上でどういう音に録るかっていうイメージをもってレコーディングに臨むっていうのがそれまでのスタイルだったわ けで、イエロー・マジック・オーケストラのときはそれができなかった。ひとつの音を録っても、それが曲全体のイメージにマッチしているのかどうかもわから なかったから、それがつらかった」
(15)
「でも、多分、ぼくだけじゃなく、メンバーもみんな手探りだったんだとは思います。音をひとつ録るたびに再生してみんなで聴き直して、またやり直したり手を加えたり…。試行錯誤ですよ」
(15)

寺田康彦の証言
「まだ吉沢さんがエンジニアとして恐い存在だった」(16)
「細野さんにしても教授にしてもそんなにいろいろガンガン言える状態ではなかったと思うんです、きっと。それで遠慮して、さしさわりなくやったんじゃないかなあ」
(16)


1978 横尾忠則に、イエロー・マジック・オーケストラへの参加を要請。

「ダメもとで、横尾さんに『入りませんか』ってお願いしに行ったんですよね」(17)
「もう3人で録音をはじめていたころですね。プロコル・ハルムみたいに、作詞家とかが演奏しない第4のメンバーに入ってたりという、そういう新しい自由なかたちがいいなって」(7)
「自由なプロジェクトにしておきたかったんですね」(7)
「横尾さんを巻き込もうと思ったのも、横尾さんのやっていることが、すごく自由で刺激的だったからです」(18)
「僕が聴いてなかったオブスキュア・レーベルとかも聴いてらしたんで、いろいろ音楽的なアイディアも豊富だったんだと思うんですよ」
(17)
「横尾さんのお家におじゃまして、あのー『こういう音楽を聴け』と、言われた時は、すげえと思いましたけど。音楽、聴いてるなこの人、と思いましたけど」
(19)
「そういう意味もあったんです、お誘いしたのは」
(17)
「横尾さんなら、何かやってくれそうな気がして」
(17)
「いてくれるだけでよかったわけですよ。だから、ぜひメンバーにと誘ったんです」
(18)
「入ってくれそうな感じもあったんですよね」
(17)
「ご本人は軽く『やるよ』なんて言ってたんですけど」
(18)
「僕はそのつもりでやっていたんですよ(笑)」
(20)

横尾忠則の証言
「ぼくも参加することになっていたのである。」
(21)
「僕の音楽思考に少しは興味を持ってくれたのが、YMO参加への呼び掛けだったと僕は受け止めている。」
(22)
「勿論音楽家としてではない」
(21)
「楽器はできない歌も歌えない、そんな素人の僕を玄人バンドに引っ張り込んでも足手まといになるだけだと言ったら『いるだけでいいんですよ』。」
(22)
「『横尾さんは、なんかワアワア言ってるだけでいいですから』って(笑)」
(17)
「アートディレクターとしてプロモーション・ビデオやアルバムジャケットを制作したり、ステージ美術などを担当するためだった。」
(21)
「音楽には一切口出しをしないヴィジュアリストとして」(22)
「YMOのコンセプトの方向性を表現すればいい」
(22)
「そんなアーチストがグループの一員として参加するのは前代未聞であった。」
(21)


1978/07/15 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
シムーン
「『シムーン』という言葉は、熱波という意味があるんですが、このころ『スター・ウォーズ』の砂漠のイメージで作ったんですね。砂漠の中をC-3POとR2-D2が歩いてるという」(9)
「ニューオーリンズのファンクとか古いロックンロールやリズム&ブルースのもとになっているリズムが気持ちよくて、それはブギウギなんですけど。そのブギウギのノリの心髄を自分なりに知ったと思ったんです。それを一拍子と言ってたんですが」
(23)
「一拍子というのは、理論的にいうとないんですけど、一、二、三、四ってとらえないんです」(4)
「それは肉体でしかつかめないだろうと思っていたんですが、コンピュータでそのノリを出せるんじゃないかと思って」(23)
「ある日、ティンパンアレイ時代に『おっちゃんのリズム』の秘伝を聞きかじっていた坂本龍一がコンピュータでもそれができることに気づいた。」(24)
「具体的には、コンピューターのステップというんですけれども、パーセンテージの数字を変えていくんですよ」(4)
「コンピュータでは、音の長さを数字で打ち込む。」(24)
「一拍と一拍の間は、つまり四分音符と四分音符 の間は四十八なんですが、それを細かく割っていくと十六ビートになるんです。十六を均等に割れば、均等のリズムに、時計のように、クロックみたいになるわ けです。でもどんどん、タッタタッタタッタと、シャッフルの方向にずらしていくと、ある部分で変な数値で一拍子になるんです」(4)
「ひとつの音が二十四という長さで、それを八回やると8ビートになる。だが、三十六と十二を四回ずつ交互に繰り返せば、タンッタタンッタというスウィングのビートになる。その中間をとれば、跳ねるような跳ねないようなリズムになるのは当然だ。」(24)
「ズレというのが最初から気になってたんでいろいろズラしてステップ・タイムを変えたりしてやってみてたんです」(23)
「それで、一番いいズレというのがステップを1ステップずつ変えていくというものだったんです」(23)
「コンピューターだけではできないんです、演奏しないと。自分でピアノを弾いたりドラムを叩かないと体感できないんです。ブギウギのビートもそう」(4)
「スウィングと縦割りがミックスされているんです。それも微妙な割合で。それを知らないとコンピューターでパーセンテージを打ち込めない」(4)
「みんな生演奏が好きだから、みんなでセッションするでしょ。その時に一拍子のノリというのをやったんですよ」(23)
「肉体的なノリというのかな。そういうノリを知っていたからやってたんでしょうね」(23)
「応用がきくわけですよ」(4)
「それがなかったら、きっとコンピュータを使ってなかったと思うけれども」(23)

坂本龍一の証言
「細野さんは自分で譜面書いてきたと思う。幸宏のは僕だけど」
(7)
「シンセサイザーとかコンピューターを使う場合でもさ、単純に使うと結局、ジャストだけみたいになってしまうわけじゃない?」(25)
「口ではうまく言い表せないノリみたいなものが、コンピューターで分析すればね、人間の耳で漠然とイメージで言っているようなことが、正確な数字としては じき出せるわけでしょ。データが出てくる。こう違う、と。ジャストはこう、津軽のノリはこうとね。コンピューターをそういうふうに使いたいと」
(25)
「細野さんの影響なんですけど、沖縄のカチャーシとかニューオリンズの跳ね方とか、黒人音楽のグルーヴの秘密をなんとか知りたいという、ものすごい情熱があったわけですよ」(7)
「シンセサイザーに連結させるコンピューターっていうのも、機械のノリっていうか、ジャストなリズムを打つためにあるわけじゃないと思うのね」(25)
「機械でやるから機械的っていうんじゃなくて、コンピューターもさ、使う側も努力すればそれを人間の近似値までもっていけると思うのね」(25)
「人間がフィーリングで言っている、理論的じゃないところで認識しているようなことをね、ものすごい精密さでデジタル的に言い表わしてくれれば、人間をカバーする能力といっていいと思うの。そういう意味合いでコンピューターを使っていこう……と」(25)

松武秀樹の証言
「4分音符が48だとすると、それを8分音符で割ると24:24。そのところを、26:22とかで打ち込むわけです。『ツッタ、ツッタ……』っていう音になる。当時のマニュアルには書いてない」
(26)
「YMOでいちばんそれを使ってたのは『シムーン』ですね。左右にホワイトノイズが『ツッチャツチャ……』って鳴ってる音。でもそれはごく一部なんです、YMOでやったのは」
(26)


1978/07/18 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
コズミック・サーフィン
「僕の中では『パシフィック』という企画アルバムで完結してる曲なんですが、あとの2人がやろうやろうって言ってくれたんですね。それで、同じことをやってもしょうがないと思ったんで、YMOではアレンジを変えたんです」(9)

坂本龍一の証言
「結局、当時の手癖が出たんでしょうね」
(7)
「フュージョン的なものが、まだ出ちゃってたんですね」
(7)


1978/07/20 『UFOと宇宙』8月号(ユニバース出版社)発売。
インタビュー/ニューミュージックの旗手 細野晴臣UFOを語る


1978/07/21 ポリフォニックス「コズミック・サーフィン」発売。

※編注:アルバム『パシフィック』からのシングル・カット。B面は同アルバム収録の鈴木茂「パッション・フラワー」。


1978/07/21 南佳孝『サウス・オブ・ザ・ボーダー』発売。
夏の女優:bass, steel drums
プールサイド:bass
日付変更線:bass
夜間飛行:bass
終末のサンバ:bass
※ 編注:シングル「日付変更線/プールサイド」も同時発売。


1978/07/23 15:00 TBSテレビ『北京にブラームスが流れた日 〜小澤征爾、原点へのタクト〜』視聴。

「YMOにスピリチュアルな刺激を与えたそもそものきっかけ」(27)
「3人で、テレビで小澤征爾が指揮する北京交響楽団を観たんです」
(7)
「『北京中央楽団』」
(27)
小澤征爾が中国に行って」
(4)
「指揮したんです」
(4)
「それは感動的なもので」
(7)
「このTV番組を見ているうちに、私達の気持が、具体的な方向を持ちはじめたのだった。それは楽団員の顔付である」
(27)
「真っ先に僕たちが影響されたことは、彼らの顔つきだったんです」(28)
「何か古典が解禁になった、ワグナーとかが解禁になったとかで」(4)
「そういう解放感があった時期で」
(28)
「今までは弾けなかった音楽を弾けるというので、中国人たちが凄い顔付きでヴァイオリンを弾いたりしている場面を三人で見てて、かなり心を打たれたんですよ。オーケストラのメンバーの顔に(笑)」
(4)
「そういう顔は見たことがなかったんです。どういう顔かというと、目がぴかっと輝いて」
(28)
「求めるようでいて、全てを受け入れる覚悟のできたような、少年の様な眼。」
(27)
「音楽に対する情熱があって」
(4)
「音楽をやることがこんなに楽しいんだとか、好きなんだという顔を素直に出して、背筋がぴんと伸びて、自分たちが忘れてたような、日本人も本来こういう姿勢だったんじゃないかと」
(28)
「その人達の頭は、青々とした刈上げであった」
(27)
「北京の人たちはみんなああいう髪の毛だったの。もみ上げがない」
(28)
「これらが、後のYMOに強烈な働きかけとなった。」
(27)
「そのころのコンセプトは、ニューヨーク的な技術と音楽のスタイルで、北京というか、中国人的な演奏の解釈というか、そういうものをやったらどうだろうと思っているときにそういう番組を見たんです」
(28)
「クラフトワークを聴き込めば聴き込むほど、ドイツとかヨーロッパの歴史の深さに圧倒されるばかりだったんです」(7)
「一言で言ってしまえば、あれもまた、ヨーロッパの音楽なわけです。長いヨーロッパの歴史があって初めて成り立っているものだから、底が深いよね」
(29)
「七〇年代の終わりにアメリカの音楽が僕にはつまんなくなって、聴くべきものもなくなったし、見えちゃったんですね」(23)
「アメリカはけっこう保守的なところで、新しいものが出そうで出ないところなんです」
(23)
「でも、ヨーロッパには古いものから引っ張りだしてくる、なんかの力があるんです。当時はそういうことを余り考えなかったけれども、ドイツだったらシュ トックハウゼンみたいな人とか電子楽器の先端がそこに発生したり、そこからクラフトワークが出てきたり、そういう奥の深さが刺激的だったんです」
(23)
「クラフトワークの影響ってのは、強いですよ。ただ、こういう物をやろう、とは思わなかった」
(29)
「これは僕らにはできない、やっても真似になってしまう」
(7)
「同じ事をやったんでは、東洋人である我々は、たちうちできないんです。彼らに対抗し得るだけのコンセプトを持っていない。だいたい日本人というのは、そ ういうコンセプトを持ちにくい民族だから、もしやろうとするならば、もっと血の部分で、それこそ神がかってやらないと対抗できないわけです」
(29)
「彼らに対抗する方法論が見つけだせなかったそんなときに、北京の楽団が、僕らは東洋人であるという意識を刺激してくれたんです」
(7)
「そのときに、中国交響楽団のスタイルを借りて、精神的にはあの顔つきで、音楽的にはニューヨークのスタジオ・ミュージシャン、そういうことをやったらどうなるかというひとつの目安をつくってみたんです。だからフュージョンぽいような、中国っぽいようなね」
(4)
「僕にとっての東洋とは日本ってことじゃないですね。地理的に言えば、太平洋を渡り、アメリカ大陸を横断して大西洋を越え、ヨーロッパから中近東、インド を経て、アジア、それもホンコンあたりに到達するのが日本人にとっての東洋だと。まぁ、そういうことになるんだけど、それは結局、自分ってことかな」
(29)
「東洋人であるという制約があるわけです。それは特権でもなんでもない。制約なんだ。その制約の中で物を考えるならば、自然、自分というものを考えるようになる」
(29)
「別の言い方をするならば、らせん階段があってね、それをグルリと一巡して来た。上から見ると同じ所に戻って来たようだけど、横から見れば1段高いところに昇っている。戻ると同時に突き抜けたということ」
(29)
「それまで3人とも、NYのスタッフとかLAのセクションみたいなミュージシャン集団だと自分で思ってたんです。NYのスタッフの真似をしながらも、日本 のミュージシャンがああいう交響楽団の顔つきでシンセサイザーでやれば、予想を超えた何かができるんじゃないかっていう、ある種の熱狂がそのときあって」
(7)
「しかも髪の毛が刈り上げられてるっていう形に一番影響されて、YMOもこれでいこうということで、刈り上げて(笑)」
(4)
「ニューヨークなんかどっかへすっ飛んじゃって、まず彼らの、あの顔つき、あの目、あの髪型をまねしようと」
(28)
「さっそく知人の美容室に行って、北京の楽団みたいにモミアゲをカットしてくれと」
(7)
「Bijinの本多(編注:三記夫)さんていう美容師さんに相談したんですが、その人がついにテクノカットの創始者になっちゃったくらいでね」
(28)
「三人とも、もみ上げが濃いほうなんで、これをカットするということは結構それまでなかったことなのね。ささいなことなのに、もみ上げを切る切らないで大変な騒ぎになってね。大ごとになっちゃった」
(28)
「そのとき、横尾さんにもこういう髪型でやりますよと伝えて」
(7)

高橋幸宏の証言
「いっしょに観て、あの目がすごいとか、あのモミアゲはクラフトワークと変わらないよねとか、そういう見方ですけど」
(7)

坂本龍一の証言
「クラフトワークは、たぶん僕が持ち込んだと思うんだけど、それで2人ともすぐ好きになって」
(7)
「だけど、クラフトワークとそっくりなのをやってもしょうがないし。まず音色が違う。彼らはドラムもパッドでやってるけど、スネアの音が変わるんですね、 一定じゃないの。ベロシティなんて全然ないころだから、これどうなってるんだろうって。音色のことにはかなりこだわってて、YMOの1枚目、2枚目のころ まではずっと研究していましたね」
(7)
「とにかくああいうふうにはできないから。東京のクラフトワークっていう意識はとても強かったんですね」
(7)
「クラフトワーク以上のものをつくろうと思ってた」
(14)
「ジョルジオ・モロダーとクラフトワークという先達はいたけれど、日本から出てくる新しいものを作ろうという気はあったし、何かに似たものにするつもりもなかったしね。その意識は正しかったと思います」(22)

横尾忠則の証言
「テクノカットしなきゃいけないって。それが条件だったの」
(18)


1978/07/23 ヤマハ『Wind & Wave '78』グランプリ大会で審査員。終了後の楽屋で、出演バンドのメンバーだった鈴木惣一朗に声をかける。静岡/つま恋エキジビジョンホール。

鈴木惣一朗の証言
「ぼくは18歳。ロックに目覚め、友だちとバンドを組んでいた。そして、静岡県/つま恋のアマ チュアのロック・フェスに出場した。レゲエのコピー・バンドで予選を通過、本選大会に出場出来たのだ。本番、舞い上がり夢中で演奏し、されど賞はもらえ ず、けれど、ひどく嬉しかった。終了後、広い楽屋で片づけしていると、アフロ・ヘアーのヒッピーが近づいてくる。さっきの審査員のひとりだ。『レゲエがん ばんなよ!』。ボソボソと、ひどく低い声だった。たった一言の助言。ぼくは泣きそうになった。そのアフロ・ヘアーのヒッピーの名は細野晴臣というらしい。 トロピカル・ミュージックというのをやっている人と、友だちに教えられた。プロの音楽家だという。」(30)
「ぼくは、細野晴臣を知った。」(30)


1978/07 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
東風
「教授がYMOに書いた曲で、ちょうど『千のナイフ』の直後ごろにできた曲だと思うんですけど。タイトルはゴダールから来ています」(9)
「スタジオの中での思いつきですね。幸宏と坂本がゴダールが好きだったせいかな。僕はゴダールはそんなに好きじゃないですから、『それでいいんじゃないの』という立場だったんです(笑)。その場の勢いです、ほんとに」
(4)
「幸宏と教授が2人で、ゴダールだゴダールだと騒いでいたのを記憶していますね。それに僕も巻き込まれた感じで、しょうがなく『マッド・ピエロ』を作りました」
(9)

坂本龍一の証言
「それこそ、北京交響楽団をイメージして書いた曲なんですよ。たぶん何かを下敷きにしていると思う。当時は文化大革命のすぐあとの時代で、毛沢東の詩に作 曲したものが中国にたくさんあって。そういうレコードを中国の店から買ってきて、なかにいい曲があったんですよ。それを参考にしてるんです」
(7)
「ゴダールの映画の題名から取ろうっていうのは、わりと早くから決まっていた気がするんですけど」
(7)
「ぼくが大のゴダールファンですから。」
(31)
「ゴダール自身も、ある時期毛沢東主義者でしたしね。中国のオーケストラの、整然とした顔つきというのが、クラフトワークみたいなオーケストラに見えたわけです。全体主義的なね」(7)
「とにかくスタジオに入るまで何もないですから。スタジオで作曲するし、土台から何から全部作ってましたから」
(7)
「なんとなくスタジオに集まってからやるっていう。しかも、6時間ぐらい遅れてくるとか」
(7)
「そういう細野さんのティン・パンからの伝統があって。まず集まって、店屋物を食べて、それから曲を作り始めるというね」
(7)
「たぶん怠け者だっただけで(笑)」
(7)
「即興性だね。最初に設計図があって、その青写真通りに作っていくことに、すごく反発を感じていたんですね。スタジオワークというのは、本来そういうものなわけでしょう」
(7)
「例えば12時間スタジオにいても、ある閃きが出てくるのなんて、ほんの一瞬で。その一瞬の閃きから、パーッとすべてが広がっていくことがあるわけじゃないですか」
(7)
「そういう一瞬を持つのが創造だっていう意識があったと思うんです。そういうものからじゃないと、新しいものは生まれてこないという気持ちは強かったと思いますね。だから、そういう環境を持てたことは、とてもラッキーでしたね」
(7)

高橋幸宏の証言
「当時のアナログ盤で言えばB面にあたるんですが、そこに、フランスのヌーヴェルバーグの旗手、ジャン=リュック・ゴダールの映画のタイトルを並べようと いうことになりました。直接映画と関係があったわけではありませんが、ぼくも教授も映画が好きで、ゴダールに影響を受けたところもありましたからね」
(32)

松武秀樹の証言
「既製曲の"コズミック・サーフィン"を除くと、やることが決まっていたのは"ファイヤークラッカー"だけで、その他の曲はたしか、スタジオに入ってから作り始めた」
(15)
「ある曲を録るというときに、初日はとにかくドンカマを録って、あとはキックとスネアだけ録れれば充分みたいな。そしてその後にみな家に帰ってその後の展開を考えて、次の日にハイハットとシーケンスを録る的な」
(15)
「中でも印象に残ってるのが"東風"ですね。あの曲のレコーディングのとき、幸宏君がドンカマに合わせて、ブースの中でキックとスネアだけを”ドン、バーン!”って叩いていた」
(15)
「当時としたら異様な光景でしたもん(笑)。もちろん幸宏君はずっとヘッドフォンでドンカマを聞きながら、ちょっとでもズレたらまたやり直したり、テープをパンチ・インしたり…。まだサンプラーなんてない時代だったから、ほんとに大変でしたよ」
(15)

吉沢典夫の証言
「レコーディングに入るまでの時間もYMOは長かったんですよ。スタジオに入って、現場で曲の細部を詰めたり組み立てたりっていうやり方だったからテープを回し始めるまでが長かった(笑)」
(15)

1978/07 岡本一生『ムーンライト・シンギィング』発売。
逃げ道:bass
ムーン・マジック:bass
街の生活:bass
どしゃぶりの街角:bass


1978/08 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。北中正和が見学。芝浦/スタジオ'A'。

北中正和の証言
「別の取材で、加藤和彦さんに会った時に『細野さんがバンド作るみたいだよ』みたいな話を世間話的にされてて、じゃあ取材してみると面白いかもって。その時は実体は知らなかったんですけどね」
(16)
「8月初旬 に初めてスタジオを見学した時は、松武秀樹プログラマーが、ローランドのマイクロ・コンピューターに向って、しきりに数字を打ち込んでいる姿と、ピポポ ポ、ピポポポ……というガイドの発信音が延々と続いているところばかりで、なんのこっちゃさっぱりわからずに帰ってきた。」
(33)
「取材してもしかたがないなあって感じだった」
(16)


1978/08/07 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
シムーン


1978/08/08 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
中国女
「コードの方が、まず最初にできた曲だったよね」(10)
「僕と坂本君はわりと自分で作りあげちゃうタイプで。坂本はそれまでアレンジャーの仕事が主で、僕はソロもいっぱい作ってきたということで、どうしても自 分のカラーで作りあげちゃう癖があるんですよ。その点、高橋幸宏はドラマーだったし、ソロも作ってますけど、当時YMOの中でいちばん面白い立場にいて ね。YMOを一番面白がってたんじゃないかと思うんですよ。可能性を一番感じてたと思うんです。幸宏が書いてくる曲はまったくアレンジされてないまんま。 例えばメロディーの断片がただいっぱいあっただけで。そういうものを聴いて、みんなが寄ってたかって『あそこをこうしよう』とか。それが非常に大きな推進 力になって、『中国女』みたいな曲ができてきたり」
(4)
「モチーフを提供して推進力をつける意味では、幸宏の力はすごかったんです」
(4)

高橋幸宏の証言
「教授が『東風』を作ったんで、じゃあ、ぼくは『中国女』にしようと」
(32)
「教授はアンサンブルというか、和音の感覚がずば抜けた人だったから。そこで僕がファーストでやらなきゃって考えたのは、『中国女』みたいな単純なコードの繰り返しで、無機的なものを作るっていう」
(7)
「『中国女』からキーボードを使い始めて。教授にやり方を聞きながらね」(7)
「『中国女』というのが良いなあ、と思った瞬間、フランス語で台詞を入れようとか、サビの部分は、こういうのがいいなとか、ヨーロッパのポップスのイメージとかが浮かんできました」(32)
「多分にヨーロッパな感じなんですよ」
(7)
「コードができてから"フランスで作られた青い目をした中国人形、それも男をくいものにするような風情のある"とかなんとかこじつけて、フランス語の歌詞までつけた」
(10)
「サビのコード展開って、実はピエール・バルーとかフランシス・レイのコードなんですよ、僕の中では」
(7)
「ジリオラ・チンクエッティというイタリア人の女性歌手がいました」
(32)
「彼女が歌っていた『雨』という曲のイントロのフレーズをヒントにしました」
(32)
「『こういう感じにしたいんだ』と、教授に言ったとき、おそらく彼も知らなかったようでした。それで、とりあえずぼくが思い浮かべたフレーズを打ち込んでもらって、『そうそう、そういう感じ』と、二人で相談しながら進めていったのを覚えています」
(32)
「ただし、それはサビの部分だけで、出だしは、意外にもロキシー・ミュージックのイメージなんです」
(32)
「出だし3音、あれ実は1音ずつ録って定位を変えて被せてるじゃないですか」
(34)
「よく聴くと、松武さんのモーグを使って、3つの和音をひとつずつ全部定位を変えて録ってるんですよね、最初。『チャチャチャ』っていう」
(7)
「ポリフォニックではなくて、一音ずつ別々に録って、3つの和音が動くようにしました」
(32)
「それは僕のイメージでは、3本の指でしか弾けないキーボーディストが弾いているイメージなんですよ」
(7)
「ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーが、弾けないキーボードを不器用に弾くのが好きで」
(34)
「なんかの曲を歌ったときに、ステージの向こう側にツツツツって行って、弾き始めたのね」
(7)
「簡単なスリーコードしか押さえてないんですが、それが逆に格好良かった」
(32)
「このへんは細野さん、すごく理解してくれて。教授もまた別の意味で面白がったりしてくれてね」
(7)
「ああいう稚拙な感じを出してみたくて、教授と相談して譜面にしてもらったら、松武さんはそれをMC-8用に譜面を数字にして打ち込んでた」
(7)
「(編注:作詞のクリス・モスデルは)だいぶ前から、英語の歌詞とかを彼に頼んだりしていて。『サラヴァ!』にも入っているし。詞をとにかく書く人で、外人特有の売り込みをする人で」
(7)
「彼は歌の詞の人じゃないんですね、本来は」
(7)

クリス・モスデルの証言
「元は「スージ・ウォン・アンド・シャンハイ・ドールズ』というタイトルの、もっとずっと長い詞がオリジナルです。そこから幸宏がピックアップして、使われたパートが『中国女』になったのです」(16)
「幸宏がある夜に僕を呼んで、『イエロー・マジック・オーケストラというのをやろうと思っているんだけど、この名前どう思う?』って言って、デモ・テープをくれたんだ。そして歌詞を書くことになったんだと思う」(16)
「おかしな話ですが、その頃に僕は突然、自分が作詞ができることに気づいて(笑)、まるで何かに取りつかれたかのよ うにがむしゃらに書いていました。一日、10曲以上の歌詞を書いてましたよ(笑)。そうやって、どこに発表するというでもなく、数多くの詞を書いていたの で、ともかく幸宏に渡しました。彼はそこからいくつかを使ってくれました」(16)


1978/08/15 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
インド
コズミック・サーフィン
インド
「インド歌謡の印象をなぞったもの」
(35)
「インド歌謡を、モチーフにした」
(19)
「当時ぼくが好きだったインドの歌手、ラタ・マンゲシュカールの曲をもじって遊んでいたものだ。」
(36)
「インド映画のサントラをたくさん買って」
(19)
「シンセサイザーとか入ってて、ちょっとなんかテクノっぽいんですね」
(19)
「どれ聴いてもおんなじ声なんで、みんななんでこんなおんなじ声かなあと思ったら、一人の人だった」
(19)
「ラタ・マンゲシュカールっていう」
(19)
「もう調べましたから(笑)、当時」
(19)
「おばちゃん。もう全部。全部やってんですよ、歌。映画の歌。一手に」
(19)
「その人一人だけで(笑)」
(19)
「観た映画の中の音楽にすごく影響されて。そのLPを買ってきてね、サントラ盤。ずーっと聴いてて、とても、なんて言うんだろう、真似できない音楽じゃないですか、ああいうの、日本の人には」
(19)
「でも中に、そのーものすごいいいメロディーがあってですね」
(19)
「それをね、あのーYMOでやろうやろうと思ってできなくて」
(19)
「投げやりなメロを入れただけの、途中で作るのをやめてしまったリズムトラック」
(35)
「YMOといっても、ほとんど僕のいたずら描きのようなものだが、不思議なことにユキヒロのドラムだけはまじめに録音されている。」
(35)

高橋幸宏の証言
 インド
「ハッキリ覚えていますね。教授がまだあまり(スタジオに)いなくて、細野さんといっしょにやったのを覚えてますけど」
(7)
「やり方としては、のちに細野さんと『BGM』でやるような、ああいう感じに近かったと思います」
(7)
「細野さんには明確なイメージのメロディーがあって」
(7)
「繰り返しでね。むしろ、かなり新しいことをやろうとしたと思うんです、楽曲として」
(7)
「それにドラムをまず被せてみたんですね。そこからあまり進まないうちに、お蔵入りになっちゃったっていう」
(7)
「あのまま進めていれば、あれはあれでかたちになったかも知れないけど、細野さんの側に『ちょっとこれ、いいや』っていう感じがあったんです」
(7)
「まだ成立しなかったっていう感じかな」
(7)
「『いやいや、そう言わないでやりましょうよ』って、当時は僕、言えませんでしたから(笑)」
(7)

※編注:「インド」は2000年2月23日にPre YMO名義でリリースされた。


1978/08 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。北中正和が見学。芝浦/スタジオ'A'。
ゲーム・センター
「コルグで作った音なんです」(7)
「どこかのプールサイドで、『インベーダー・ゲーム』ではなくて『風船割りゲーム』の音を盗み録りしたんです。でもそのまま使うのはやっぱり悪いという か、マズイかなって思って。それでテープをそのまま使わないで、そこに登場したのが、SEに向いてるコルグだった」
(7)

北中正和の証言
「2週 間後にもう一度スタジオに行くと、ちょうど『ゲーム・センター』という曲のレコーディング中で、細野晴臣プロデューサーが、コルグのポリフォニック・シン セサイザーで、テレビゲームのような音を出すことに熱中していた。シーソー・ゲーム(風船割り)の、シーソーのはね上がる音や、風船が割れる音、シーソー から落ちて死ぬ時に出てくる、人を小馬鹿にしたような悲しい『葬送行進曲』などが次々に飛び出して、スタジオは時ならぬゲーム・センターの喧噪に包まれて いた。」
(33)
「この上に、さらにメロディックな部分がダビングされるらしい。」
(33)

※編注:「ゲーム・センター」はのちに「コンピューター・ゲーム」と改題された。


1978/08/21 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。芝浦/スタジオ'A'。
東風


1978/08 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。北中正和のインタビュー取材を受ける。芝浦/スタジオ'A'。
ファイアークラッカー
北中正和の証言
「3度目に行った時は、『ファイアクラッカー』のダビング中だった。」
(33)
「確か坂本さんが『ファイアークラッカー』の生ピアノを弾いていて」
(16)
「もう、かなり曲の形ができあがっていて、ちょっと聞いたくらいでは、どこがコンピューター操作の部分でどこがフリーハンドの部分なのか見分けがつきにくい。」
(33)
「レコーディングのすきまをぬって、細野・坂本両氏に今度の試みに対する考えをいろいろ聞いてみることにした。」
(33)

※編注:インタビューは同年の『ニューミュージック・マガジン』10月号(ニューミュージック・マガジン社)に掲載。

1978/08/30 村上秀一のレコーディング。堀ノ内/テイチク杉並スタジオ。
ナビズ・ナッピング


1978/09/05 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディングを終了。芝浦/スタジオ'A'。

「作ってるときにはね、うまくゆくかどうかってことは何も考えなかったんだ。そうじゃなくて、なにか、自然にわいてくる自信みたいなものがあった」
(3)
「そういうものがあるときには、すべて、うまくゆく。自分の内部から、これはうまくゆくって声が出てくるんだ」(3)
「村井さんが当初、YMOのことを理解できなかったんですよ。非常に悲しいことがあって、YMOのレコーディングの最中にスタジオにやってきて」(7)
もちろん、それが売れるか売れないかなんて、全然何もまだわからない時代ですよね」(37)
「そのレコーディングに村井さんが、社長さんが入って来て、僕が一所懸命ミックスしてるのにね(37)
「『そんなのやめてこれ聴こうよ』って大村憲司のレコードを聴かせるんですよ」
(7)
「フュージョンの新作。それはすごくいい出来だったんです、確かに」
(37)
「村井さんの頭は、フュージョンで一色だったから」
(7)
「僕は非常に、その時に、かなしい思いをして」
(37)
「ムカッとくるんですけど」
(4)
「ただ僕の中で、これをアメリカから出せば、村井さんも絶対わかってくれるという確信があったんです。だからそれをクールに見ていた」
(7)
「アルファ・レコードとA&Mが契約した」
(3)
当時A&Mの日本のディストリビューションはキングだったんですけど、ちょうどレコーディング中に、アルファに移籍したんです」(4)
「そのニュースを聞いて、自分の中で目標が鮮明になったわけ」(3)
「われわれがアメリカで出ちゃって売れても知らないよ、と実は思っていたんです」(4)
「これはただではすまないゾと」
(37)

坂本龍一の証言
「YMO でバリバリの現代音楽をやるわけにもいかないので、いちおうポップスの範疇に入るものを作ることになるのですが、それでも自分の好きなものはかなり取り入 れられました。ぼくが好きで聴いていたジャーマン・ロックとか、そこから派生してきたテクノのクラフトワーク。そういう一般にはまだほとんど認知されてい なかったものを持ち込んで、その知識や情報を料理することができるというのは、本当に面白かった。かなり生き生きとやっていた記憶があります。」(31)
「3人いることによって難しくなる面はあります。たとえば画家が3人集まって1つの絵を描こうとしても、それはうま くいかないに決まっている。ぼくがピンクを塗りたくても、ほかの2人は青とか黒とかを塗りたいかも知れない。譲り合わないと成り立たないんですが、本気で やろうとすればどうしても引けなかったりもする。そういうところは初めての経験だったので、いろいろ試行錯誤しました。」(31)
「一方で、もちろん、3人が共同作業することによって、ひとりでは作れないようなものを生み出せるという面もありま す。細野さんと幸宏とぼくとでは、それぞれ持っているものがずいぶん違いますから。ぼくには思いつかないようなアイディアとか、フレーズとか、音色とかリ ズムとか、そういうものが2人からポンポン出てきて、それを毎日体験できるのはとても刺激的でした。」(31)
「基本的に、幸宏や細野さんの場合は、音楽性のベースとしてポップスやロックがある。でも、ぼくにはそれがなかっ た。だから、2人が『あのバンドの、あの曲のあそこの感じ、あのベースとドラムね』とか言って通じ合っているときに、ぼくだけ全然わからないんです。バン ドや曲の名前を覚えて、密かにレコードを買って聴いたりしていました。日々勉強という感じで。」(31)
「逆に、スティーヴ・ライヒがどうのとかジョン・ケージがどうのとか、2人が知らない材料をぼくのほうから出すこともできる。結果として、細野さんだけでも、幸宏だけでも、ぼくだけでもできないものができる。それぞれの音楽を重ね合わせていく感じなんです。」(31)
「そんなふうに実験的な要素もいろいろ盛り込んで、ファースト・アルバムができあがりました。」(31)


1978 ラジのレコーディング。銀座/音響ハウス。

※編注:アルバム『ラヴ・ハート』のセッション。9月6日〜11月10日の期間行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。


1978 イエロー・マジック・オーケストラ結成発表の記者会見。出席を予定していた横尾忠則が欠席。

「来なかった(笑)」(17)
「ドタキャン、の横尾忠則と(笑)」
(19)
「これが逸話として残ってるのが、僕としては結構うれしいんですけどね」
(17)
「あ、来なかった。もうだめかなっていう(笑)、そういうことだったのかもしれないしね、こっちとしては」
(19)
「まあでもね、これが、そういうもんなんですよ」
(19)
「やらなかったのも当然と思いますもん」
(20)
「ちょっと想像できないですよ。入ってたらどうなるかはね」
(19)
「幻想としてすごく、いいですよ、こういうことは」
(19)
「なんか起こんなかったけど、どうなったんだろうっていう、人をなんかこう、夢を見させる、力ありますから」
(19)

横尾忠則の証言
「記者会見は、みんなでテクノカットとタキシードで決めるって」(17)
「そのために、あの、用意しなさいって言われたわけね」
(19)
「モミアゲをカットして。それをやって欲しいと」
(19)
「僕は3人より先にテクノカットにしたんだよ」
(20)
「さっそく僕がテクノカットにしたら、細野くんが『えっ? もう、やっちゃったの?』って」
(17)
「『もうやっちゃったんですか、早いなあ』」
(22)
「僕の電話の内容にスットンキョーな声を上げた。」(22)
「『だって細野さんが頭はテクノカットにしろと言ったじゃない。まだやってないの細野さんは?』」
(22)
「『まだやってないスョ』」(22)
「なんだ人にだけさ、けしかけといてさ」(19)
「『もしかしたら、これは騙されてるのかな』と思ってさぁ(笑)」
(17)
「タキシードは高橋さんに作ってもらって」
(17)
「タキシードはユニフォームだから」
(20)
「あつらえた」
(19)
「お金かかってる。散髪代もかかってるし(笑)」
(19)
「もう全部用意してる、わけだからね」
(19)
「でも、僕が記者会見に行かなかったんだよね」
(17)
「記者会見が四時からだったんだけど、どうしても締切に間に合わせないといけない仕事があって」
(17)
「どうしてもその日に渡さないけない、なんか雑誌があったんですよ。週刊誌かなんか忘れたけど。で、編集者がそこにもう、朝から付いてたんですよ。で彼はそれを持って帰らないと、その雑誌だかなんかが出ないっていう。で相当がんばったんだけれども」
(19)
「それがなかなかできなくて、出かけられる状態じゃないの」
(17)
「とうとう間に合わなかった。それで、あのー4時に行けなくなっちゃったわけ」
(19)
「おっくうだし、もう、いいやって」(18)
「テクノカットしてるのに」(19)
「でもその時、行きたいのと同時に、行きたくない気持ちもすごく働いていたわけ。こんな世界に入ったらどうなっちゃうのかなって」
(20)
「本当の僕の心はというと、やめとけって」
(20)
「細野くんたちは音楽を本気でやらなきゃいけないわけだから、同じ本気のラインでついていけるかということを考えたら、難しいなというのもあったわけ」(18)
「寺山修司が天井桟敷やったときに呼びかけられたんだけれども……彼は本気だったんですよ。で、ぼくはそうじゃなかった。劇団がいちばん魅力的なものだったら、やったと思うけれど、もっと魅力的なものがいっぱいあったわけ」
(18)
「だから、YMOより魅力的なものが、ぼくのなかにたぶんあったんだろうね」
(18)
「それに、事前に坂本龍一と高橋幸宏に会っていなかったから、出かけて行くのに照れちゃったというところもあったね。会ってミーティングを2、3度やっていたら、行ったかも分からない。やっぱり、一つ一つが偶然じゃないんだよね。すべて必然だなって思う」
(20)
「YMOに入るのは、何かおいしそうなものだったわけ。好奇心あるから」(20)
「ミュージシャンとして参加するんじゃなくってね」
(19)
「なんて言うのかな、ビジュアルな担当とか」
(19)
「それはなんか、楽しそうだし面白そうだしね」
(19)
「僕自身も何か、そんな経験ないからさ、もう、それは非常に興味あったんだけれども、そこで、一旦3人、で記者会見した以上さ」
(19)
「あとから加わったっていうのが僕としてはいやだったのよ」
(19)
「『記者会見に出席しないということは、これはもうメンバーじゃない』と思ったの。三プラス一でメンバーになっても、付け足しみたいでしょう。最初から四人でないと面白くないと思ったの。ああいうのが、運命の分かれ目というやつだね」
(17)
「まあそういうものか、と思ったけど」(19)
「『横尾さん、YMOやってなくてよかったですよ』と細野さんは時々言う。まあ、そうだと思う。」(22)
「あの当時はまた僕ん中で、いろんな問題起こってぐじゃぐじゃになっちゃったりしたかもわからないしさ」(19)
「音楽自体がめちゃくちゃになったりっていうこともあるかもわからないしさ(笑)。そういう意味ではよかったかもわからない」
(19)
「「なんとなく僕も予感としては、怖いことが起こるなと」
(19)
「あんなに世界的にも名が通って有名になったんだから、僕はYMOと本職の絵画の間で板挟みになって」
(22)
「中途半端のヘンなおじさん、いや老人になっていたことだろう。」(22)
「それはそれで面白かったかもわかんないけどね」(19)
「『なぜ入らなかったか』っていうことを言う人は一人もいなかった」
(19)
「入ること自体がおかしいと思ってたんじゃないの? うん。音楽なんかできないのに。演歌ばっかり聴いててさ、YMOが突然さ、なんか演歌グループになっちゃったりしてさ(笑)」
(19)
「その後、僕が画家宣言したときに、うちの娘に『パパ、画家なんてダサ〜い。YMOに入ってたほうがよっぽどカッコよかったのに』って何度も言われてさぁ」
(17)
「絶対YMOがいいに決まってるって」
(20)
「YMOしてたほうが有名になれてよかったのに、惜しいことしたねって」
(18)
「息子の方は「YMOに入ってなくてよかった。入っていたら、彼らの平均年齢が上がった』だって」
(20)
「YMOの人たちがかわいそうだって言うわけよ」
(19)
「実現しなかったにもかかわらず、なんか実現したかのように、語られたり、実現したかのように、なんかこう、僕の中にも幻想ができるわけだしさ。細野さんの中にもあるかもわかんないしさ」
(19)
「語り継がれちゃうじゃないですか(笑)」
(19)

1978/09/13 セイコー・クォーツ「品質のブランド」CM曲のレコーディング。大久保/フリーダムスタジオ。

「こ れは問題の曲ですね。『僕の曲できたんだけどどうかな?』と教授から言われて、聴いたそのときは、普通だなと思って(笑)」(9)
「幸宏と僕は」
(7)
「非常に当たり前の曲に聴こえたんですよ」
(7)
「それほど僕は興味を示さなかっ た。わりと真面目に聴こえちゃった。それぐらい当時、頭がクレイジーな方向に向かってたんですね、僕の場合。あまりにもオーソドックスに聴こえたんです」
(9)
「教授の、自分にないものをいつも求めていた中から出てきた、偶発的なことだったと思うんですけどね」(7)
「なんてことはない曲と、うかつにそう思ったんですね。だから僕、プロデューサーとしては失格なんですけどね(笑)」(7)
「 それが後から、逆に人気が出るということになったんで、そのとき僕はもうプロデュースはやめようと思いました(笑)」
(9)

坂本龍一の証言
「『BEHIND THE MASK』のオリジナルなんですよ」
(38)
「もともと、SEIKOの企業CMの為に作られた。ロック的なコード進行を使いながら、7thや9thなどのテンションの使い方、ミニマル的なバックグランドなどが合わさって、とても気に入った曲だった。」
(36)

高橋幸宏の証言
「教授が『ビハインド・ザ・マスク』のコードを考えていたときに二人で話したのは、イギリスのロック・バンドのことばかり」
(36)

※編注:田家秀樹『みんなCM音楽を歌っていた』(徳間書店/2007年)によると、パーソネルは坂本龍一(pf, syn)、松原正樹(g)、細野晴臣(b)、高橋ユキヒロ(ds)。


1978/09/20 『ニューミュージック・マガジン』10月号(ニューミュージック・マガジン社)発売。
インタビュー記事/機械がうたう明日(?)の歌

1978/09/20 細野晴臣&横尾忠則『コチンの月』発売。
ホテル・マラバル
一階……海の三角形
二階……動く三角形
屋上……レベル・アタック
肝炎
ハム・ガラ・サジャン
マドラス総領事夫人

「結局、自分でも、いいのか悪いのか全然分からなかったテクノ以前の音楽だよ」(30)
「イマジネーションの実現を目指して実験していくことでやっとこさっとこ音になったという次第です。」
(34)
「僕はあまりにもミュージシャンっぽかったのかもしれないけど、その、横尾さんの、そのコラージュ的なね、アーティスティックな、路線とはちょっと違うものができちゃった」
(19)
「B面の作曲者である西原朱夏……これは、ぼくのペンネーム。北原白秋のもじりだよ、方向が違うだけ(笑)。白秋、玄冬、朱夏、青春の4つは組みなんだ よ。中国の陰陽の考え方ではね。季節と方向が一致しているんだよ。門にあるでしょ、朱雀門とか方位を重ねる考え方。面白ぇなぁと思って、いつか使おうと 思っていたんだ」
(30)

ハム・ガラ・サジャン
「インドの民謡をモチーフにした曲です」
(19)
「インドの中で音楽を聴いて、インド音楽ですけど、心の中、体の中まで全部しみ込んじゃった」
(39)
「この『ハム・ガラ・サジャン』っていう曲は、僕がインドに行った時に見つけてきたレコードの中に入ってました」
(39)
バイ・ピアラ・シン・ラジと彼の仲間たち」(39)
「1975年」(39)
「これは伝統音楽なんですが、シーク教徒の賛美歌のようなものですね」(39)

横尾忠則の証言
「僕がプロデュースということで出したもの」
(40)
「できあがったのを聴いた時いいのか悪いのか全然わからなかった」
(19)
「ポップス? そういったものじゃ、あの、僕が求めてるものは違うわけですよね」
(19)
「破壊が、即そのまま、創造になっちゃったんですよ。結果として」
(19)
「破壊をしたのちに、クリエイトされたんじゃない。破壊そのものが、もう同時に、創造になっちゃった。それが、僕『コチン・ムーン』だと思うのね」
(19)
「僕は満足した」
(19)


1978/09/25 大貫妙子『ミニヨン』発売。
黄昏れ:bass
言いだせなくて:bass
4:00A.M.:bass
突然の贈りもの:bass
海と少年:bass
あこがれ:bass


1978/09/26 矢野顕子『ト・キ・メ・キ コンサート』でバッキング。中野サンプラザホール。
矢野顕子 矢野顕子(kbd, vo)、高橋ユキヒロ(ds)、細野晴臣(b)、松原正樹(g)、坂本龍一(kbd, prec)、浜口茂外也(perc, cho)、吉田美奈子(cho)、山下達郎(cho)
東京は夜の7時
丘を越えて
津軽ツアー
カタルン カララン
いもむしごろごろ
トゥー・オン・ザ・ステージ
行け柳田
ト・キ・メ・キ
ウォーク・オン・ザ・ウェイ・オブ・ライフ
矢野顕子の証言
「そののちYMOとなったメンバーと初めて一緒にやりました」
(41)
「わたしこの時『坂本龍一ってキーボード、はずしてもらえない?』って言ったの」(41)
「『キタナイからいやだ』って言ったら、細野さんが『もうきれいになったから』(笑)って。採用しました」
(41)
「『高橋ユキヒロっていう、元ミカバンドの人と今バンドを組もうとしてるんだ。この3人でやってみるのはどうかな』って、もうひとつ細野さんから提案が あったの。ドラムはそれまでいろんな人を使っててピンときた人がいなかったし、細野さんがいいって言うんだから、というわけで集めて、コーラスは山下達郎 サンと吉田美奈子サンにお願いしました。このコンサートは良かった」
(41)
「ステージが斜めになってて、1階のうしろでも、ピアノ弾く手が全部見えるようにっていうことなんです。鏡もはめてあったはず。いろんなところつぶさに見 えるようにしてあって、ステージ見るとわたししかいない。うしろはカーテンで隠してあって、最後から3曲目ぐらいまでは閉めっぱなしでバンドの音だけ聴こ える。最後の方になってバーッとカーテンが開くと櫓(やぐら)が組んであってね、前へ移動してくるの。贅沢っていえば贅沢ね」
(40)
「YMOとの出会いは大きかった。それまで音楽全部一人で作ってたのに、それに匹敵するものを提供してくれるメンバーで。なにかライバルに近い感じ。切磋琢磨できる相手ができたのはうれしかった」
(41)

※編注:この日の演奏の一部はFM東京『ビクター・オーディオ・サロン ザ・ミュージック』で放送(放送日不明)されたのち、翌1979年にライヴ・アルバム『東京は夜の7時』としてリリースされた。


1978 ムーンライダーズのレコーディング。池袋/サンライズ・スタジオ。
いとこ同士
鈴木慶一の証言
「ムー ンライダーズにとって初めてのテクノ。でも、どうしても生の楽器をひとつ入れたくてね、思いついたのがスティール・ドラム。生楽器と機械、これはおもしろ いんじゃないかってんで。その生楽器を演奏するのはいわゆる当時シンセサイザーだけを使ったバンドを作ろうとしていた細野さん」
(42)
「細野さんがテクノをやる話はもちろん知ってた。だからこそ、『いとこ同士』に細野さんに参加してもらったんだ。生なもので参加してもらったわけ。そっちに行くんだったらその前にって」(26)

岡田徹の証言
「松武さんに打ち込みを頼んだんだけど、二日ぐらいはかかるから完全な譜面をくれと言われて、クラフトワークなんかを参考にしながら譜面を書いたことを覚 えてる。MC8だね、当時は。ちょうどタンスみたいにデカいムーグのセットを松武さんが購入した頃で、いろいろなパッチングをしてみたんだけれど、結局、 使ったのは間奏のピュンという音だけ(笑)。そんな音だけのためにあれだけデカいセットがあるのには感心した(笑)。初期のテクノの思い出だね。それに細 野さんのスティール・ドラムを合わせるというのは慶一のアイデアだったんだけど、あのアイデアはすごいと思う。細野さんも気に入ってくれたみたい」
(42)


1978/10/04 22:45 TBSラジオ『それゆけスネークマン』に電話出演。
インタビュアー:小林克也
※編注:発売前のアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』から、「コンピューター・ゲーム 〜サーカスのテーマ」、「ファイアークラッカー」「東風」「中国女」が放送された。


1978/10/07 坂口良子のレコーディング開始。

※編注:アルバム『果実酒』のセッション。1979年1月28日まで行われているが、細野晴臣の参加日は特定不能。


1978/10 近田春夫と対談。レコーディングへの参加を依頼される。

近田春夫の証言
「誰を呼ぼうかみたいな中で、細野さんを呼ぼうということになったんだよ。ちょうど細野さんも地味なときで、YMOが始まるちょっと 前くらいで」
(43)
「YMOの直前くらいのくすぶってたころ」
(23)
「それまで細野さんって知らなかったんですよ、面識なかったんです」
(23)
「あのころはなんとなくやっぱり派閥って言うほどじゃないけど、グループが違うっていうね」
(44)
「そういう系列でいうと、俺は(内田)裕也さんの弟子だからね。それはホラ、つきあっちゃいけないみたいなのがあるわけよ。(笑)」
(23)
「僕らから見ると、当時、細野さんとかの感じってのは割とこう…私立のキャンパスでやってるフォーク・ソングとかイヤだったから。そういう、まあ偏見みたいなのを持っててね。全く付き合いがなかったんですよ」
(44)
「ああいうティン・パン・アレー系はお互い交流がないからそれは面白いかなと思って、お互い緊張のままに対談したら」
(43)
「結構それはそれで打ち解けられたっていうか…細野さんも僕が先入観で思っていたのと違ってヘンテコリンな人だったし(笑)、結構話が合っちゃってね。音楽はみんな好きだしさ。共通点も多くてね」
(44)
「お互いの趣味のルーツみたいなものがすごく近いわけ。特に、エレキ・ベースに関してなんか妙に話があっちゃって」(23)
「細野さんの方が年が上だけど、意外と興味を持っていることが近くて、仲よくなっちゃったんですよ」(43)
「そのときたまたま今度レコードを作ろうと思ってるって言ったら、細野さんも『僕も今度出すんだよ』みたいなことになって」
(23)
「『今コンピュータで音楽やってるんだよ』って言うわけ。そう言われても意味がわからなくて、『え、コンピュータで音楽やってるってどういうことなの?』 と言って、説明してもらったんだけど、まったくパソコンとかない時代だから、どういうことかまったくわかんなくて」
(43)
「それがとにかく気になっちゃって」
(43)
「『ほんと?』なんて言ってね」
(23)
「『じゃあ、今度、俺ソロアルバム作ることになったんだけど、細野さん、そのコンピュータで音楽作るっていうので、何曲かやってもらっていいかな?』と言ったら『いいよ』と言われて」
(43)
「『それなんかよさそうだから、頼むわー』みたいな雑な頼み方で……雑だよ、だってまだ聴いていないんだもの」(23)
「なんか面白そうだなと思って、どういうものかわかんないけど、とにかく頼んじゃった」(43)
「そしたら、『じゃあ、たまたま今コンピュータで作ったやつがあるから』と言って、YMOの『コズミック・サーフィン』をくれたのよ」(43)
「『パシフィックに入ってた『コズミック・サーフィン』」
(44)
「カセット」
(23)
「ジョルジオ・モロダーがベンチャーズをやるみたいなことをやるって聞いてさ」
(44)
「帰りにそれを聴いた」
(43)
「ウォークマンの発売の時期とちょうど同じで、それも発売する直前くらいにソニーの人に教えてもらってたから、それでカシャッと入れて聴いたら、結構キたわけよ」
(23)
「すごくよかったんですよ」
(44)
「『これはいいや!』って」
(44)
「僕はもともと機械っぽいっていうか、ビートが均等なものが好きだったんですよ」
(44)
「ドナ・サマーとか、『これはどうやって録音したんだろう?』っていうヘンテコな音のやつが好きなんだよね」
(44)
「ベンチャーズでも、『ベンチャーズ・イン・スペース』が大好きだったからさ。興味はもともとあったんですよ」(44)
「アメリカにホットバターというのが昔いて」(43)
「あのシンセがポコポコいう…『ポップ・コーン』?」
(44)
「あれはこうやって作ってんだ、これは面白いや、頼んでよかったなと思って」
(43)
「『じゃあお願いしよう』って、それだけ。軽い感じで(笑)」
(44)

※編注:対談は『DON DON』1月号(11月下旬発売)に掲載。のちに近田春夫の著書『気分は歌謡曲』(インターソング, 雄山閣出版/1979年)に再録された。


1978/10/18 イエロー・マジック・オーケストラ、FM東京『サウンド・カーニバル/シンセサイザーランド』公開録音で初ステージ。芝/郵便貯金ホール。
出演:冨田勲、バッハ・レヴォリューション

イエロー・マジック・オーケストラ  坂本龍一(syn, pf, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b, vocoder)、松武秀樹(prog)、矢野誠(syn)、林立夫(perc)、渡辺香津美(g)
ビハインド・ザ・マスク
東風
中国女
マッド・ピエロ
シムーン
ウォンテッド
ファイアークラッカー
「僕にとってステージは、仕事以上のものではなかったですね」(7)
「個性より『匿名性』を優先させるという中でメンバーとして動いていたから『コンサートをやれ』って言われたら、嫌とか嫌じゃないとかに関わらずやりましょうと、そういうふうな動きをしていたんですね」(7)
「教授は忙しかったでしょうね、鍵盤だから」(7)
「専門家として任せちゃいましたから、リアレンジは。僕は単純にベース担当ですから」(7)
「ステージでは、YMOの一メンバーという気持ちが強かったから。ステージに立つときは、そういう顔ですね。ベースというか低域担当の。スタジオとはまったく別の場所でしたから」(7)
「鍵盤ベース弾けるかなって不安だったけど、やってみたらできたという」(7)
「ステージなどの心の準備がなく、特に考えずにMCなどをしていたのかもしれない」(36)

ビハインド・ザ・マスク
「いちはやくステージでとりあげていた」
(45)

ウォンテッド

「東京臭いというところから、逆に辿り着いた、非常に知的なアプローチですね。肉体感覚じゃないですね。決して好きなものじゃないんですけど、でもテクノに置き換えると非常によくなる、ピンク・レディーもよくなるという確信があったんですね」
(7)
「みんな付和雷同型だから、やろうやろうってことでやってただけなんじゃないかな」
(7)

高橋幸宏の証言

「最初のころは
、頭で僕がカウントを取って合わせるというカタチでしたね」(46)

松武秀樹の証言
「コンピュータを使ってイエローのメンバーを助けるという」
(47)
「ライブでは、3人分ぐらいの演奏をあらかじめプログラムしておいてコンピュータに演奏させているわけです。その演奏をチェックするのがぼくの役割です」
(47)
「最初はまだ、メンバー全員がヘッドホンをしてやるスタイルじゃなかったんです。幸宏だけがヘッドホンしてて、頭はカウントで合わせていくやり方だったと 思う。この時には、確かシーケンサーが途中で止まったんですよ。ところがそれがパフォーマンスの一種だと思ったらしくて、客にはわかんなかった(笑)。4 小節ぐらいで止まって、少し間が空いてからやり直して最後までやったんですよ」
(26)
 マッド・ピエロ
「細野さんがヴォコーダーで歌ってたんです」
(26)
「テープは使っていません。演奏はすべて人力だったのを憶えてる」
(48)

坂本龍一の証言

「タキシード着て、頭もオールバックにかためてね」
(25)
「パリ占領下のドイツの高級将校みたいな感じのさ、名画を並べ極上のワインとフランス女をはべらせて、宮殿で毎日パーティーやってるような、そういう雰囲気が出てたと思うけど」
(25)
「でも結果的には、タモリそっくりなんですよね(笑)」
(7)
「実は3曲ぐらい先のプログラムを打ち込んでいるのね、(ステージ上で)松武さんは」(7)
 ウォンテッド
「ディーヴォみたいな感じで。当時[テクノパンク]とか言っていて」
(7)
「肉体でテクノをやっているというのが、ディーヴォに近いでしょう。それに東京の民族音楽として、ああいう歌謡曲的なメロディーがある」
(7)

渡辺香津美の証言
「坂本龍一との交流と僕が細野さんのファンだったっていう流れから、細野さんサイドに誘われたんですね」
(16)
「『HOSONO HOUSE』やティン・パン・アレーを素晴らしいと思っていたんだけど、周囲のジャズ・プロパーな人に『こんな面白いものがあるんだ』って言っても『ふー ん。で、その人たちはアドリブするの?』っていう反応で(笑)。そういうジャズしか認めない周りの環境がつまらないと思ってたんですね。そこに坂本さんが 現れ、YMOというバンドには自分がファンだった細野さんもいるというんで、惹き付けられたというか」
(16)

矢野誠の証言
「姫(編注:矢野顕子)が『たまにはあなた、弾きなさいよ』って言うんで、姫の代わりに弾いてるんだ。あの人はソロ・アーティストだったから、あまり人のバンドに参加しすぎるのも、やのミュージック上まずかったんです」
(26)
「僕は紋付(羽織)袴でステージに出てヒンシュクを買っちゃってさ。『正装で来てくれってのは、そっち側じゃなくて』みたいな(笑)。みんなタキシード着てやるってのは、実は知ってたんだけどね(笑)」
(26)

山名昇の証言

「メンバー全員が冷血透明人間に思える程の壮絶な初めて聞く音世界が広がって、通路に跪いてしまった」
(25)
※ 編注:細野晴臣の演奏参加曲のみ掲載。この日の演奏の模様は10月27日(26日深夜)と11月3日(2日深夜)の2週にわたって放送された。


1978/10 イエロー・マジック・オーケストラ、坂本龍一『千のナイフ』発売記念コンサートのリハーサル。日本コロムビア・スタジオ。

松武秀樹の証言
「リハーサルをね、日本コロムビアのスタジオでやりましたね」(48)


1978/10/25 坂本龍一『千のナイフ』発売。
千のナイフ:finger cymbals
ライナーノーツ/坂本龍一のソロ・アルバムに寄せる惜しみない讃辞。
ジ・エンド・オブ・エイジア
「主旋律の話しだが、このメロディーは僕も使ったのだ。こう言うとおかしいかもしれないが、あのメロディーは確かに私も創ったし、坂本龍一も創ったのだが、それは同時に使ったともいい直せるのだ。」
(49)
「『はらいそ』の『ウォリー・ビーズ』という曲で使ったんです」
(9)
「教授も書いたけど僕も書いたとしかいいようがないんです」
(9)
「これはもうほんとに、奇跡的な、一致ですね。そのために、YMOができたのかもしれないです」
(50)

坂本龍一の証言
 千のナイフ
千のナイフというフレーズはアンリ・ミショーのメスカリン体験をまとめた本の中からとったもの。」(45)
「ネタがあって、メロディのネタっていうんじゃないんだけど、コード的にね……。ぼく、ハンコックが好きでね、ブルー・ノート時代の」(25)
「ハンコックの『スピーク・ライク・ア・チャイルド』って曲にインスパイアっていうのかな、そうして出来た曲で」
(25)
「サビのとこね、そこの前にもうひとつわかりやすいメロディが出てくるんだけれど、あれはボニーMに刺激されて」
(25)


1978/10/25 イエロー・マジック・オーケストラ、坂本龍一『千のナイフ』発売記念コンサートに出演。六本木ピットイン。
イエロー・マジック・オーケストラ  坂本龍一(kbd, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b, vocoder)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野誠(kbd)、浜口茂外也(perc)
プラスティック・バンブー
ダス・ノイエ・ヤパニッシェ・エレクトロニッシェ・フォルクスリート
千のナイフ
ビハインド・ザ・マスク
シムーン
マッド・ピエロ
ファイアークラッカー
東風
中国女
コズミック・サーフィン

コズミック・サーフィン
「『コズミック・サーフィン』の完成形はライヴなんですね。それがあるべき姿というか、正しい姿なんですけど」
(9)

渡辺香津美の証言
「細野さんが自分の横で弾いていることに感激しましたね。ファン冥利に尽きるというか」
(16)


1978/10/26 イエロー・マジック・オーケストラ、坂本龍一『千のナイフ』発売記念コンサートに出演。六本木ピットイン。
イエロー・マジック・オーケストラ  坂本龍一(kbd, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b, vocoder)、松武秀樹(prog)、渡辺香津美(g)、矢野誠(kbd)、浜口茂外也(perc)、高中正義(g)、小原礼(b)
プラスティック・バンブー
ジ・エンド・オブ・エイジア
ファイアークラッカー
ビハインド・ザ・マスク
マッド・ピエロ
東風
中国女
コズミック・サーフィン
サラヴァ
ヴィレッジ・イン・ザ・バブルス
グッド(バッド?)・オールド・デイズ
千のナイフ
ダス・ノイエ・ヤパニッシェ・エレクトロニッシェ・フォルクスリート
ウォンテッド

「矢野誠さんという人がいて、彼とかはYMOの準レギュラーになる予定があったんです」(7)
「本人には言ってないかもしれないけど」(7)
「ところが矢野さんが当時、ちょっと問題を抱えてまして。それで一回、ステージが失敗しちゃったわけです。ピットインでやったときなんですけど、それでメンバーが気分を害しちゃったんです」(7)

山名昇の証言
「まずはシンセサイザーのリフが耳残りする、16ビート強力リズム・ナンバー『プラスティック・バンブー』から始まり、エレクトロニクス・レゲエの『アジ アの果て』、『ファイア・クラッカー』、渡辺のソロで『ダニー・ボーイ』だかを。不思議の国の玩具箱をひっくり返したような、ドリーミーな『ビハインド・ ザ・マスク』。」
(25)
「ゴダール・シリーズの1曲目『気狂いピエロ』で前半終了。」
(25)
「自分でも"あがってます"って言ってる坂本がなにやら少年のような子供っぽい茶目っ気を見せてるし、アット・ホームなヴェールを被せられてるから、今夜は楽しいなあと、休憩の時に思う。」(25)
「後半はゴダール・シリーズの『東風』『中国女』と続く。エレクトロニク ス・パンクの『コズミック・サーフィン』は『パシフィック』に入ってるヴァージョンよりライヴの方が絶対にいい。次にはダンディ・ユキヒロが『サラ ヴァ!』を下手な歌ながらもりりしくキメて会場をなごませ、新曲『ビレッジ・イン・バビレス』の後、高中正義が飛び入り。」(25)
「高中、珍しくノリまくって弾いていた。」(25)
「『千のナイフ』で終った後のアンコールは『新日本電子民謡』、ジョアン・ジルベルトの曲を坂本がソロでキメた後、ラストはこれしかないって感じの『ウォンテッド』。」(25)

松武秀樹の証言
「セッション演奏会みたいでしたね」
(26)
 ウォンテッド
「教授がやりたいって確か言ったんだ。即席でやろうって」
(26)

坂本龍一の証言
「ピットインなんていうのはフュージョンの殿堂と言われていて、当時でさえボサノヴァなんていうのは、一種のイージーリスニングだと思われ ていたから。そういうものとか、クラシックをアレンジしてやるというのは、本当に異質なことでね。実験的な精神が強かったんだと思いますよ」
(7)


1978/10/27 1:00 FM東京『サウンド・カーニバル』放送
イエロー・マジック・オーケストラ
ビハインド・ザ・マスク
東風
中国女
マッド・ピエロ
※1978/10/18@郵便貯金ホール
※ 編注:放送された楽曲のうち細野晴臣が演奏参加したもののみを掲載。


1978/10/27 イエロー・マジック・オーケストラ、無料インストア・ライヴ『シンセサイザー・スペース・ムーブメント』出演。池袋/ヤマハ池袋東ショップ ライブステージ
イエロー・マジック・オーケストラ  坂本龍一(syn, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、松武秀樹(prog)
ビハインド・ザ・マスク

上笹敏人の証言
「当時、東ショップに坂本さんたちと仲のよかった人がいたんですよ。で、その人を通して出演の申し込みがあったんじゃなかったかな」
(48)
「平日の夕方だったんですよ。だから、事前の告知が全然なくて、見れたのはそのとき偶然にお店にいたお客さんだけ」(48)
「MCもなんにもなかった。曲をパッパッとやって」(48)
「印象としては、ポップな曲っていうのはなかった憶えがあります」(48)

大久保康子の証言
「YMOが演奏したのは、時間的に20〜30分。曲数にして4曲ぐらいだったかな」
(48)
「さりげなく始まって、さっと終わった」(48)
「無料のスペースで、ぎっしり座って30人ほどのささやかな場所でしたけど、そこが広く見えるような観客数でしたね(笑)」(48)
「けっこう急に決まったんですよ。演奏の一週間前ぐらい。その頃、そのスペースでのでのライヴのスケジュールは"ぴあ"や"シティロード"に掲載してたんですけど、YMOは決まったのが急すぎて、それに間に合わなかった」(48)

松武秀樹の証言
「(編注:出演の申し込みは)ぼくがしたような気がする」
(48)
「プレイヤーはYMOの3人とぼくだけだったな」(48)
「ファースト、『千のナイフ』から何曲か。あと、細野さんの『コチンの月』から1曲やった気もするんだけどなあ」(48)
「よく憶えてるのは、お客さんが13人だったこと(笑)。細野さんが『こんなの、もうやりたくない!』って怒って…。たしかギャラもひとり1万5千円だった(笑)」(48)
「教授なんか『……』って感じで(笑)。気まずかったですよ」(48)


1978 古谷野とも子のレコーディング。麻布/サウンド・シティ・スタジオ。

※編注:アルバム『フロム・インサイド』のセッション。11月2、4、6、8、10、13、15、17、20、24、27〜30日、12月5、8〜10日に行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。


1978/11/03 1:00 FM東京『サウンド・カーニバル』放送
イエロー・マジック・オーケストラ
シムーン
ウォンテッド
ファイアークラッカー
※1978/10/18@郵便貯金ホール

1978/11 FM fan コレクション『ニューミュージックの本』(共同通信社)発売。
対談/ボクらは今こそ日本のロックを考えたい!! 内田裕也×細野晴臣


1978/11/09 『ニューディスク・コンサート早聴きシリーズ1〜イエロー・マジック・オーケストラ待望のアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』を聴く』出演。新宿/ロフト。
出演:高橋ユキヒロ、坂本龍一

1978/11/14 ブレッド&バターのレコーディング初日。

有賀恒夫の証言
「細野晴臣さんにアレンジ頼みたいと思って彼ら(編注:ブレッド&バター)に提案したら、それはすごくいいと言ってスムーズにいったんですね」
(51)
「彼(編注:細野)がリズム・アレンジをして、ストリングスとかのオーヴァー・ダブを彼の知り合いに頼んでいましたね」
(52)

※編注:アルバム『レイト・レイト・サマー』のセッション。1979年4月27日まで断続的に行われている。


1978 ブレッド&バターのレコーディング。
特別な気持ちで(I JUST CALLED TO SAY I LOVE YOU)

岩沢幸矢の証言
「ブローアップからアルファに移るまでの間、僕はソロ・アルバムを作るつもりでロサンジェルスに行って、以前から面識のあったスティーヴィー(編注:ワンダー)のスタジオを訪ねて、曲を書いてもらったんですよ」
(52)
「1976年秋」
(53)
「曲をねだってから一週間程たった夜、スティーブン・スティルスがスタジオにやってきました。僕はある時期とても彼のファンだったので二人のスターをそば に大感激、そんな時に『サッチン、この曲あげる』と言って、スティービーがピアノを弾き始め、歌った歌が、"I JUST CALLED TO SAY I LOVE YOU"。そしてそばにいるスティルスと僕が
"I JUST CALLED TO SAY I LOVE YOU"と、ハーモニーをつけ、僕にとっては信じられない夢の競演。ハイパートが僕、リードがスティービー、ローパートがスティルス、嘘みたいな出来事 で、私めは動揺してしまって、なかなか自分のパートがとれなかったのでありました。」(53)
「その後、2年たって」
(53)
「日本に帰ってきてからアルファと契約したあとに、すぐレコーディングしたんです。それが細野さんアレンジのヴァージョンで、タイトルが『特別な気持ちで』」
(52)


1978/11 ブレッド&バターのレコーディング中に、ピーター・ゴールウェイの訪問を受ける。芝浦/スタジオ'A'。

※編注:ピーター・ゴールウェイは11月10〜12日(新宿/ロフト)、13日 (名古屋/ジャンジャン)、17〜19日(下北沢/ロフト)の公演のため来日中だった。岩沢幸矢・二弓兄弟、佐藤博、高橋ユキヒロ、大貫妙子らと共に 写るこの時の記念写真は、CD『Harry Hosono Crown Yeras 1974-1977』(日本クラウン/2007年)同梱ブックレットで見ることができる。


1978/11 『詩の世界』NO.12(詩の世界社)発売。
対談/沖縄からの熱い歌、聴いてみた 喜納昌吉×細野晴臣


1978/11/25 イエロー・マジック・オーケストラ『イエロー・マジック・オーケストラ』発売。
コンピューター・ゲーム -サーカスのテーマ-:produce, compose, arrangement, synthesizer
ファイアークラッカー:
produce, arrangement, marimba
シムーン:
produce, compose, arrangement, synthesizer
コズミック・サーフィン:
produce, compose, arrangement, bass
コンピューター・ゲーム -インベーダーのテーマ-:produce, compose, arrangement, synthesizer
東風:produce, arrangement, bass
中国女
:produce, arrangement, bass
ブリッジ・オーバー・トラブルド・ミュージック:produce, compose, arrangement, synthesizer
マッド・ピエロ:produce, compose, arrangement, synthesizer, bass
アクロバット:produce, compose, arrangement, synthesizer

「ファースト・アルバムのころは、まだYMOの音楽が何なのか自分達でもわからなかった。」(36)
「アルファもさっぱりわかんないっていってて」
(4)
「コンセプトを確認すると、シンセサイザー・サウンドだけど、わりとブ厚い編成で、ディスコ・ミュージックのように踊れる音楽、そして、インストゥルメンタルということだった」
(3)
「徹底したミニマルなビートはできませんでしたね。もっと多彩になっちゃって」(7)
「まだフュージョンの余韻が残ってて、ミュージシャンとしてはニューヨークのスタッフというグループとセッションにいくとか、テクニックの分野で磨きをかけたいという悲しい性があって(笑)。それをやっていくと、どうしてもフュージョンぽくなっちゃう」
(4)
「フュージョンぽいような、中国っぽいようなね。『中国女』以外の曲を聴くとそんなのが多いんです。『中国女』というタイトルが強力なインパクトを持ってたんで、そこを経ていったんだろうと思うんですけどね」
(4)
「僕のは2人の曲の間を埋めるために作ってるようなもので、他のメンバーを優先して、彼らの才能に助けられているっていう立場でしたね」(7)
「みんなに引っぱられたんですよ」(7)
「み んなの曲の間を埋めていく作業の中で、自然と僕は裏側に入っていったんですけど、不思議とプロデュースをやってると、全体のことはよくわかるんですけど、 こと自分のことがわからなくなるんですね。ですから、YMOの間中葛藤していたのは、個人的な創作という作業と、プロデュースの折り合いが全然つかなかっ たということ。バランスをとりつつも、自分に何をやらせたらいいのか、自分のことがいちばんわからない。だから、無意識的に自分の趣味を出しちゃうところ があるんですね。僕のところだけポンポン抜いていくと、ソロみたいになっちゃうんです」
(9)
「コンピューターがしゃしゃり出てきましたけど、まだピコピコといわれてたように、ただシークエンサーとして、ある部分だけを受け持ってくれればいいとい う感じだった」
(4)
「リズム・ボックスといっしょで、シーケンサー的な時代が少しあったんだよね」
(54)
「こっちからの歩み寄りが必要だった」
(54)
「その後そこらへんの決着をつける時期がきて、真っ先に決着をつけなくちゃならなかったのは僕だったわけです。というのは、シンセサイザーの ベースが非常によくて、とても魅力的なものだったんですね」
(4)
「今までエレキ・ベースでやってたところをシンセサイザー・ベースで、コンピューターで打ち込んでいくと、これこそやりたかった音なんじゃないかという気持のいい音ができてくるわけです。そうすると、プロデューサーとしてはすごい喜びなんです」
(4)
「ぼくはプロデューサーの立場だったから。自分でも本当はベースも弾かない方がいいと思ったし」
(30)
「しかしミュージシャンの自分はどうなるんだと(笑)。職を失うという、そういう葛藤があったんですね。最初そういう葛藤があって、すぐにベースなんかいいやと思って捨てちゃったんですけど」
(4)
「「ファンのことは忘れてました。自分の熱中してることに突っ走ってた」(7)
「僕だけが熱狂してたわけじゃなくて、他の2人が僕以上に熱中してたんですよ、YMOに」(7)
「期せずしてコンピューターを目の前にして、興奮する人たちだった」(37)
「非常に好奇心の強い3人が集まったんですね。みんなプレイヤー志向が強いわけじゃなくて、なんか面白いことに飛びついちゃうタイプだったから」
(7)
「特に幸宏は何か感じるものが大きかったらしくて、目の色が違ってましたね」
(7)
「なにか幸宏をいたく刺激したコンセプトがあったみたいで」
(7)
でも本当に少なかった。そういう人は。ほとんどの人は非常にいやがっていたのね」(37)
「ミュージシャン達もコンピューターが突然目の前に出て来て、うろたえる人とか、あるいは興奮する人とか……非常にはっきり分かれちゃったんですよ」
(37)
「きっとできるのに、観念として異常な抵抗を示すんです。そうすると体がついていかない。だから絶対に合わないのね。それで、ノイローゼになってしまう人が多いんだよね」(54)
「同世代のミュージシャンからはただの『おあそび』と見られていた。」(36)
「ジャーナリストはこぞって機械(コンピュータ)でつくる『冷たい』『非人間的』な音楽という先入観を我々にぶつけてきた。」
(36)
「外部の人を入れようという態制があったのにも関わらず、結局、横尾さんにしろ矢野さんにしろ、入ってこなかった。ですから、消極的なかたちで3人が残ったと言ってもいいかもしれない」(7)
「村井邦彦さんを通じて、このアルバムをA&Mに持っていった」(3)
「アメリカのA&M本社にYMOのテープを」(22)
「こっちは、ぜったい、うまくいくっていう自信があって、それが村井さんへの説得材料になった」(3)
「村井さんご自身は、YMOが海外で受け入れられるのかどうかはわからなかったんじゃないかと思うんです。なんとなくだったのか、それともきとんと意志があったのか、それは僕にもちょっとわからない。そしてあちらの上層部もピンと来てはいなかったみたいなんだけれど」(22)
「オジサン連中にはわかんないんだけど、プロモーターの若いので一人、YMOに熱狂してたやつがいたらしいんです」(7)
「テープを聴いてものすごく興奮していたらしい(22)
「まずプロモーターに気に入られたんだ」
(3)
「村井さんは、その反応を的確に掴んでいたわけですね」(22)
「それを目ざとく察して、これはイケるんじゃないかと思ったらしい」(7)
「帰国した村井さんがそれを伝えてくれて、僕も彼の中で確信が生まれつつあることを感じていました」(22)

ファイアークラッカー
「原曲はマーティン・デニーの曲で、もっと摩訶不思議で、有機的なサウンドだったんですけど、教授がうまくアレンジしてくれまして」
(9)

シムーン
「かなり僕の個性が出てる」
(4)

コズミック・サーフィン
「CBS・ソニー盤ではわりとサーフィンだったんだけど、YMOは逆にフュージョンぽくなったりして、何か引きずってるなあという反省があってね。結局、まだミュージシャンを捨ててないわけですよ」
(7)

東風
「坂本君の個性が出てる」
(4)

中国女
「僕は『中国女』というのは、YMOの中で重要な曲だと思ってるんですよ。歌を歌ったというのが、ここで大きいんです。僕はYMOをインスト・バンドだと思っていたんで」
(7)
「ヴォーカル・グループとしての可能性が、ここでもうすでに提示されていたわけですね」
(7)
声をインストゥルメンタルみたいに 使うってことだったと思うんだけど。あれは幸宏が好きだったブライアン・フェリーとか、それの元になってるボブ・ディランみたいな歌い方でね。それを [フー・マンチュー唱法]って名付けてたんです。『中国女』の出だしの歌詞から来てるんですけど」(7)
「メロディーがあってないようなね、いい加減な歌。これができるのは幸宏しかいないから。また、やたらと声がエフェクティヴな効果があるんですよ」(7)
「リヴァーブとか、変なエフェクトをかけると非常に合うんですね」(7)
「曲自体も、非常にヨーロッパ的な香りのするもので」(7)
「それまではわれわれみんなヨーロッパ的な味つけよりもアメリカ一辺倒でやってきたミュージシャンですから。特に坂本君はフュージョン、僕はニューオーリンズで」
(4)
「針葉樹林地帯の感覚は一度も出したことないし、アプローチしたことがなかった。幸宏というエレガントな感覚の人間が入ってきたおかげで刺激されたわけです」
(4)
「当時、僕たちはこういうものが本当のテクノだと思ってましたね。逆に言えば、ほかの『東風』や『マッド・ピエロ』は複雑すぎて。『中国女』にこそテクノはハマるんだと。途中の展開のミニマルな感じとか、自分たちではとても気に入っていました」
(7)
「あの中ではYMOの可能性を後まで引っぱっていってくれたようなタイプの曲だと思うんです。あそこには顔がないんですよ」
(4)
「『中国女』は幸宏の個性かというと、そういうことではなくて、曲自体は不思議な顔をしててね。誰の顔でもなかったということで、われわれにはとても魅力的な音楽だった」
(4)
「(編注:布井智子は)憧れの声だったんです。フランス人も驚くぐらいきれいな発音の日本女性で。村井さんと名コンビで、この人も村井さん以上に個性の強い人でね」(7)
「アルファがフランスと深く関わってたということがあるんです。でも、行き当たりばったりなんですよ。常にそうやって作ってますから」
(7)
「予測通りに進むってことは、あんまり音楽にとってそれほど面白いことじゃない。自分でわからない部分があるのが楽しいわけですよ」
(7)
「ギターにはね、もともと興味のないバンドでしたから。ギターのような有機的なものが入ってきてほしくなかったから」
(7)

坂本龍一の証言
「こういう音楽は世界のどこにもないなと思っていました」
(22)
「かなり革新的なものができたと、自分たちとしては満足感があったんですが、あまり売れなかったですね」(31)
「社会的にも全然反応はなかったし、周りのミュージシャン仲間に聴かせても『こんな冷たい音楽は受けるわけがない』 なんて言われた。でも、そう言われてがっかりするというわけでもなくて、『なるほど、これが冷たい感じに聴こえるのか、面白いな』と思ったりした。聴く人 の先入観みたいなものが見えるような気がして。」(31)
「まだ1枚目は人間がやってることをシミュレーションしているっていうような部分がありますよね」(7)
「自分たちとしては、かなり満足のいくものができたという充実感もあったし、新しいスタイルの音楽を作っているんだという確信もありました。ここで得た何かを突き詰めて次に進もうという、そういう積極性に燃えていたように思います。」
(31)
 ファイアークラッカー
「十分にメカニカルな感じがしたんじゃないかな。それに一種の異物感として、ピアノという有機物が入ってくるキッチュさというか。それは切り貼りの音楽っ てことを意識したんだと思う。協奏曲のカデンツアみたいなのを弾いてるでしょう。そういうものをクラシックのレコードから、サンプリングで持ってきたみた いにしようと思っていた意識はありますね」
(7)
 中国女
「アルファ・レコードって変な会社で、英語よりもみなフランス語が得意なんだよね(笑)。トップから平まで、慶応の仏文科が多くて」
(7)

高橋幸宏の証言
「ファーストのときにすでに、もっと多くのメンバーがいてもおかしくなかったですね。ただ、コンピューターを使って音楽をやるっていうことが、当時はものすごく奇妙なことだったんで、賛同者がいなかったんですね
、ぼくらの他には。レコード会社ですら賛同してくれなかった。みんな『細野さん、どうかしちゃったんじゃないの?』っていう反応だったんですから」(36)
「川添象郎さんが加藤和彦氏にどこかで会って、『いやー参ったよ、こんなの作られちゃって』って言ってたそうですから(笑)」
(7)
「3人とも絶対孤独だったと思います。まわりからは無機質だって言われてた」
(7)
 コンピューター・ゲーム -サーカスのテーマ-
「パンパン!っていうのを僕がやってね。細野さんがトゥーンっていうと僕がパンパンパンパン!」
(55)
「トゥーンってのを教授が出すとね、僕が割れる音をパパン!パパン!これですね」(55)
「(編注:譜面に)最初書いてたんですけどそのうちだんだん即興の部分が」(55)
 中国女
「初期のYMOの中でも、これは好きな曲だったんです」(46)
「途中の間奏で『テンテンテンテン』になるのも、実はあのダサイ感じが逆によくて」(7)
「出来上がったときは、スタジオのスピーカーで聴いて、すごく嬉しかった記憶がありますね。『思った通りだ』と」(32)
「この頃からですね、僕が歌うということを意識し始めたのは」(32)
「僕は、歌うんなら細野さんだと思ってたんだけど、細野さんが『幸宏歌ってよ』っていうんでね」(7)
「『幸宏をリード・ボーカルにしよう』と言われて」
(32)
「最初はちょっと抵抗したと思います、僕も。でも、顔が出てこない声だって当時、言われてて。じゃあ、やりますよっていう感じでした」(7)
「YMOってのは最初、わりと"言葉"を排除したバンドだったんですよ。"顔が出てくるヴォーカリスト"、つまり誰が歌ってんのかなぁ?みたいのはいやだっていうコンセプトが、細野さんのなかに一つあった。幸宏の声は、なんか顔が出てこないからいい!って言われて」
(56)
「『中国女』は音程があるのかないのか、みたいな歌い方(初期のブライアン・フェリー的、もしくはディランを気どって)に加え、あえてエフェクターでグシャグシャにしていた」(32)
最初、細野さんがエフェクターをいじってて、僕があの歌い方をしたら、細野さんが喜んでこれでいこうっていうことになった」(46)
「そうやって声を潰したりしたのは、顔が見えないようにしたい、つまり、YMOの匿名性みたいなものも、ボーカルの役目として担っていたということではないでしょうか」(32)
「ここから僕の歌い方が"フー・マンチュー唱法"と呼ばれるようになりまして(笑)」(46)
「歌詞の中に出てくる人の名前から細野さんか誰かが言い始めて、特に意味はなかったと思います」(32)
「そのはしりの曲ですね」(46)
「フランス語の歌詞は、当時アルファレコードの社長秘書に、フランス語を喋る方がいた。それも、ソルボンヌの人よりも綺麗なフランス語を喋るということで評判の女性がいたんです」
(32)
「その江部智子さんにフランス語で入れてもらいました」(32)
「教授には、あそこにパンクみたいなディストーションのギター入れたいってイメージがあって。ミカ・バンドのころの高中みたいな。当時すでに彼にはそうい うノリはなかったんだけど、とりあえずスタジオに来てもらって、そういうのをやってもらいたいって高中に説明したんだけど、意味がわからなかったみたい で。そのまま録って帰っていきましたけど(笑)」(7)
「僕が誘ったんじゃないんですよ」
(7)
 マッド・ピエロ
「いちばん最後じゃなかったかな」
(7)

クリス・モスデルの証言
 シムーン
「注文があってから書いた」
(16)
「細野さんが『シムーン』というタイトルと『アラビアっぽい曲になるので、それに合った詞をつけてほしい』という主題をくれた。彼は僕の詞を全部使ってくれたんだよ」(16)

村井邦彦の証言
「ファースト・アルバムは、聴いた途端に大好きになってしまうっていうものではないよね」
(26)
 中国女
「のちに布井さんて人と結婚して姓が変わるんだけど、江部さんって人で僕の秘書だったの。彼女はお父さんが東京銀行の欧州局長で、中学、高校とパリの学校に行ってたわけ。彼女はフランス語が凄く上手で、細野はそれを知ってたんで声をかけたのね」
(26)

吉沢典夫の証言
「コンピューターでのオート・ミックスじゃないから、全部手動で、ミキサーに、ぼくとその助手、そして細野さんの3人が張り付いてリア ル・タイムにミックスしてました(笑)。それも同じ曲を何度もやり直して、いい部分だけを使ったり。一度トラック・ダウンするごとに、メンバー3人で"あ そこはいい""あそこはもうちょっと音を下げよう"とかミーティングしてましたね」
(15)
「でも、楽しかったですよ。なんだかよくわかんないんだけど、初めてのことばかりで新鮮な楽しさはあったんです。自分たちがおもしろいことをいまやってるんだっていう思いは確実にあった」(15)
「当時の会議では売れないだろうっていう意見が圧倒的だった(笑)。でも、村井さんはちがった。村井さんひとりでイエロー・マジック・オーケストラを推していたんです。あの頃は村井さん=アルファですから、村井さんが売ると決めればもう一直線で」(15)

小池光夫の証言
「細野さんはいったい何をやってるんだろう? という感じでしたね」
(26)
「物静かな方だし、何か思いついて始めても何をやってるかわからなかった。社内では、この方向で売れるのかな? っていうのはありました。社内的にはわかりにくかったと思います。こういう特殊な音楽の始まりのころですから」
(26)

川添象郎の証言
「当時アルファ・レコードの制作&宣伝統括取締役をやっていた僕は、最初にこの音楽をアルファ・レコード村井邦彦社長の彼の部屋で一緒に試聴した。イン ベーダーゲームの電子音から始まる、今まで耳にしたことのない、まるで難解な現代音楽のような音から始まる音楽には正直言ってあっけに取られ、顔を見合わ せて『こりゃなんだ?』と当惑した」
(22)
「その頃まだ出現したばかりの電子楽器/シンセサイザーとコンピュータでプログラムされた電子音を組み合わせて創られた独特の音色、アジア的なメロディと グルーヴィなリズムで時代の共通言語ともいえるポップな表現を取り入れ、絶妙に新しい音楽作品に仕上げられてはあったが、さてこれをどうプロモートしたら いいかというと、思案が浮かばない。」
(22)
「村井と僕が当惑したのは、当時の日本のポップ・ミュージック(流行歌とニューミュージックが主流)の状況では作品的にあまりに現実と乖離していて、プロモート戦略の立てようのないことに、であった。」
(22)
「ラジオで流したくても、音楽ジャンル別に編成されていた番組のどこにも当てはまらない、インストゥルメンタル中心のナンバーなので歌番組には売りこめない、TV局も相手にしてくれない、要するに、この作品を世間にアクセスする手段がないのです。」
(22)
「イニシャル(初版プレス数)がたった2800枚のオーダーでしかなかった」
(22)


1978/11/25 竹内まりや『ビギニング』発売。
輝くスターリー・ナイト:compose

輝くスターリーナイト
「幸宏の詞なんだよ、珍しく。ただ、まだテクノなんて形は微塵もできていない
。これは『アイスクリームショップガール』と同じで、僕が一番好きだったリンダ・スコットという女性歌手のイメージ。子供のころから聴いてましたから、いつもそこに集約していくというか。でもメロディはちゃんと自分のものを作りたいという意識はあった」(57)
「アレンジがアル・キャップス。レコーディングはロサンジェルスで、ドラムス ジム・ケルトナー、そして、ベースが、マイク・ポーカロ、という、そんなような、メンバーだったですね」
(58)
「これは曲を渡しただけでした」
(58)


1978/11/25 高中正義『オン・ギター』発売。

※編注:bassで参加しているが、参加曲の詳細は不明。

1978 鋤田正義を訪問。原宿/鋤田事務所。

鋤田正義の証言
「僕は音楽狂いでしたから、海外に行くたびに当時のヒット・チャートのシングルをズラッと買い込んできて、それを録音したカセットテープを定期的に作っていました。スキタ・ジューク・ボックスと名付けて」(22)
「それを当時細野さんのマネージャーだった日笠さんに渡したら、細野さんが聴いてくれたということもあった。音楽が縁の始まりでしたね」
(22)
「細野さんは、『鋤田ジュークボックス』を聴くとほっとするっていってましたね。後から考えると、あのYMOによくそんなことしたもんだと(笑)」
(59)
「ある日、細野さんがやってきて、これからYMOというグループをやるんだ、と」
(22)
「細野さんの中にはすでにYMOのコンセプトが出来上がっていたんでしょうね」(22)
「じきじきに細野さんが僕の事務所を訪れて」(40)
「いろいろYMOの話を聞かせてもらって」(60)
「そのコンセプトについて1時間くらい」
(40)
「アジアっぽくて、外人が見た東京のイメージをポップに表現したいって話をしてましたね」
(60)
「ヴィジュアルは、外国人の日本人に対する典型的なイメージ……フジヤマゲイシャ的な、時折ハリウッド映画でもそういうのがあったりするけれど……、それを逆手に取ったもので行くという話があったことを覚えています」
(22)
「そのときにもうジャケットの写真を撮ろうっていう話もしましたね」
(60)
「それからグループとしてのYMOを撮り始めた」
(22)


1978/12/05 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ、『アルファ・フュージョン・フェスティバル』出演。来日中だったA&Mレコード副社長のトミー・リピューマが観覧。新宿/紀伊國屋ホール。
出演:ニール・ラーセン

イエロー・マジック・オーケストラ  坂本龍一(syn, pf, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、
渡辺香津美(g)、風間幹也(perc)、松本弘(syn)、松武秀樹(prog)
ファイアークラッカー
ビハインド・ザ・マスク
中国女
東風
プラスティック・バンブー
ジ・エンド・オブ・エイジア
コズミック・サーフィン
ウォンテッド
千のナイフ

「フュージョンと一緒にされるのは嫌だったんですけど(笑)、アルファはフュージョン・レーベルだったんで、 会社の方針ということで出たんです。一応そのころはまだわれわれもフュージョンの雰囲気は捨ててなかったわけで、レコード会社のほうもYMOというのは ひょっとするとフュージョン・バンドかもしれないという期待もあったようでね(笑)」(4)
「どことなくフュージョンぽいところもあるし……。まあわかんなかったんでしょうね」
(4)
「自分たちもそんなに頑なじゃなかった。YMOもフュージョンがちょっと変化しちゃったようなもんだから、という気持ちだったんで」
(7)
「すべてのシンセサイザーをラインでPAに流した」
(7)
「ほとんどシンセサイザーの音で、フルボリュームでやったら、異常な反応が会場で起こった。ドヨドヨドヨ……っと(笑)」(4)
「その音圧というのが、聴いた人には初めての体験だったらしくて、演奏が終わったらドヨドヨって反応がきたんですよ。不安と喜びが入り交じったような。今まで接したことのないような反応で」(7)
「そのとき、あ、これは何か非常に反応を呼びさますなという感想があったんです。人を何かしちゃうような、混乱させるような何かがあるなと」(4)

高橋幸宏の証言
「僕らはまだ楽しむっていうところまではいってなかったですね」
(46)

松武秀樹の証言
「僕は舞台の後ろのほうでコンピューターの操作をやってて。っていうのは、あの時はプレイヤーの数が多くてね。メンバー3人の他に、香津美でしょ、あと香津美バンドのキーボードとパーカッションが居て」
(61)
「で、プレイヤーじゃないんで、目立たないところにいたんです」
(61)

宮住俊介の証言
「私と小尾くん(小尾一介。後のYENのレーベル・マネージャー)で編成をやったんですが、1日に2アーティストのステージを組んでいったら、スケジュー ルが埋まらなくて、そうしたら小尾くんが"YMOなんていいんじゃないですか"って提案して、村井さんも認めて決まったんだと思います」
(62)
「細野さんの潜在的ファンが物凄く多くて、YMOの出るステージだけすぐにソールド・アウトしたんです。1回300人が2回。満員でした。他の回はがらがらの時もありましたから」(62)

村井邦彦の証言
「トミー・リピューマとフュージョン騒ぎをやっていて、トミーがホライゾンというレーベルを日本でプロモーションすると言うんで、トミーとアル・シュミットを日本に呼んだの。その時に(YMOを)聴かせたら、彼らが興味を持ってね。それで2回目に来た時」
(26)
「僕がA&Mとどうしても組みたかったのは、A&Mのものを僕たちは日本で売ってあげるから、僕たちのものをA&Mで売ってほしいってことで始めたんだ」(26)
「YMOの<フュージョン・フェスティヴァル>出演は偶然なんかじゃないはずです。僕はそれ以前から、何度もLAのA&Mに行ってYMO売り出し の交渉をしてますから、トミーが来日するタイミングで出さないことはあり得ない。たまたまではなく、ニールと一緒の日になるように調整したのだと思いま す。なにか…現場ではたまたま入れたような流れに見えたんじゃないかな」
(62)

田原春樹の証言
「僕はその当時、後にアルファ・アメリカに出向することになる堅田という男と二人で、村井さんのお宅に寄宿していたんです。ある夜、遅めの時間にトミーと アル・シュミットを伴った村井さんが帰宅されて、YMOのファーストの試聴会みたいなことがあって、僕がテープ…サブ・マスターのオープン・リールだった と思いますが…をかける係でした」
(62)
「トミーは村井さんとYMOの話をして、アルはエンジニアですから、音の職人らしく黙ってじっと聴きいっていました。そして全部聴き終わった途端、トミーが言ったんです。"クニ、これはいけるよ!"って。村井さんも大変喜んでいる様子でした」(62)

川添象郎の証言
「苦肉の策でひねり出したプロモーション・アイデアは」
(22)
「半ばヤケクソ的なアイデアであった」
(22)
「何とか欧米でリリースにこぎつけ、そして欧米でレコード・リリースして成功を収めれば、日本のメディアそしてマーケットが受け入れる可能性があるんじゃないか?」
(22)
「トミー・リピューマーにシャンパンをしこたま呑ませて、紀伊國屋ホールでやるYMOのコンサートに連れていったわけ」
(63)


1978/12 イエロー・マジック・オーケストラのレコードの海外発売が決まる。

「アルファとA&Mが契約したって話を聞いて、YMOはA&Mから出るに決まってると思ってたんです」(7)
「まだ決まってないころですけど、でもそういう予感があって」
(4)
「A&Mで出ちゃうな、これは、と思ったんです」
(4)
「あ、これA&Mの誰かが気に入って、アメリカでデビューするのは間違いないって思った」(62)
「そしたらあっという間にそれが決まった。まあデジャヴュというか特殊な体験だったん だけど。だからトミー・リピューマが出したいといった時は、来た来た!という感じだったんです」(4)
「A&Mでホライゾン・レーベルをやり始めたフュージョンのプロデューサー、トミー・リピューマ」(4)
「紀伊國屋ホールでライヴがあってトミーに誘われるんだけど」(7)
「コンサートがきっかけで」(4)
「YMOは新しいフュージョンのバンドだと思い込んで(笑)、やりたいっていいだしたんですね」(4)
「とても強い興味を示した」(22)
「何かいろいろいってましたよ。トミー・リピューマは。自分でいうには、何か嗅覚があるんですって」
(4)
「これが背中を押して、そこから急に僕らに社運が懸かってきた(笑)」(22)
「物事が本当に数ヶ月も掛からないうちにどんどん変わっていくわけで、その変化を見ながら興奮していたことを覚えていますね」(22)
「こういう動きは面白いですよね。たとえばモータウン・レコードとかアトランティック・レコードの物語に匹敵する面白さだと思います。ショー・ビジネスの中で、なにかが"化ける"ときの面白さですね」(22)
「でも、不思議なんだよな、なんでトミーがやりたがったのか」(7)
「僕はわからない」
(7)
「単純にいえば、マーケットの拡大。だけど、ぼくの場合、これはファッションの感覚と似ている。つまり、前衛 ファッションみたいなものを、日本の人全部は着られないと思うんだ。だけど、世界各国には、そういうモノを好む人が、一定の数ずつ、いるはずだ。そういう 人を対象にする、ということなんだ」
(3)
「日本でぼくらを理解してくれるのは人口の何百分の一かもしれないけれど、そういう人たちを世界的規模で集めればかなりの数になる。音楽の質を落とさずに、聞いてくれる人の数を増すには、ぼくらの場合、世界に出てゆくしかないんだ」(47)
「ぼくは、世界中に広がっている、ちょっと感覚の違う人にむけてメッセージを送っているわけ。で、まあアメリカにそういう人が多いんだよ。だとしたらね、聴いてもらえるところで出すのがいちばんだと思う」(3)
「そういった意味で、ぼくらのターゲットは、アメリカなんだ」(3)
「アメリカっていうのは、世界中にネットワークを持っていて、いちおう、世界経済をにぎっている。だから、そこで売れてくれれば、必然的に世界に広がってゆく」(3)
「そこまでは、ぼくのプロデュースだったけれど、その後の計画はまったくなかった。その後は、トミー・リピューマがプロデューサーとして出てくる。ぼくはサウンド・プロデューサーになるわけ」
(3)

村井邦彦の証言
「紀伊国屋でYMOがやってたんだよね。それを見てトミーがこれをアメリカでやりたいってことで、トミーが言うんならってことでホライゾンから出したんです」
(26)
「トミーの気持ちはわかるよ。『ケンジ・ショック』(大村憲司)もいいけれど、もっと似たようなものでいいのがあるじゃない。YMOは似たものがないから ね。それでYMOは、アメリカから先にプロモーションすることになった。日本だとラジオじゃどこで流すことができるのっていう問題があったからね。それで YMOは、アルファとA&Mの提携プロジェクト第1弾ってことで動き出すんだよね。ジェリー・モスもどれぐらい売れるか自信はあんまりなかったと 思うけど、『クニがそれだけ言うんだったら、やるだけやってみよう』ってことで、YMOは最初っからA&Mの通常の宣伝路線にのせるわけです」
(26)
「"ステージを1回見ただけで"というのは伝説というか(笑)。実際はもっとリアリズムに満ちたものだし、そんなに簡単に日本のアーティストをアメリカの レコード会社が売り出してはくれないですよ。けれど、アルファとA&Mには強い信頼関係があったんです。アルファの駐在社員は、A&Mの マーケディングの会議にまで毎週出席してたわけで…普通許されないでしょう? 外部の人間が、会社のコアな部分に触れるようなミーティングに出るなんて。海外発売は、そういう関係性が築き上げてあった上でのことですよ」
(62)

川添象郎の証言
演奏を観たら、トミーがフリークアウトしちゃったわけ。『俺がアメリカで出してやる!』って言ったか ら、『おまえ、言ったな』ってなった。でも、信用おけないから、終わって、即、A&M会長のジェリー・モスに電話したわけ。で、『トミーがYMO のレコード出すって言ったから出してよね』って言ったんだ。だって日本で売れないんだから!」(63)
「ジェリー・モスが渋ったら『いままで売ってほしいっていったアルバムは売ったんだから、一枚くらいこっちの言うこと聞いてもいいじゃねえか』って言おうと思った」
(63)

坂本龍一の証言
「トミー・リピューマっていうのは、もろフュージョンの人ですから、全然ジャンルが違うし、何でだって感じで」
(7)
「アメリカのことは眼中になかった。カッコよくて面白いものは、ロンドンからっていう。アメリカの中でも東海岸は少し先進的だけど、西海岸は本当に遅れている感じがありましたから」(7)


1978/12/10 18:30 イエロー・マジック・オーケストラ、『アルファ・フュージョン・フェスティバル』出演。新宿/紀伊國屋ホール。
出演:ニール・ラーセン

イエロー・マジック・オーケストラ
  
坂本龍一(syn, pf, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、渡辺香津美(g)、風間幹也(perc)、松本弘(syn)、松武秀樹(prog)
ファイアークラッカー
ビハインド・ザ・マスク
中国女
東風
プラスティック・バンブー
ジ・エンド・オブ・エイジア
コズミック・サーフィン
ウォンテッド
千のナイフ
※編注:この日の演奏の模様は、数曲が翌1979年1月2日(1日深夜)にFM東京で放送されたのち、細野晴臣が演奏に参加した全曲がライヴ・アルバム『ライブ・アット・紀伊國屋ホール1978』(アルファ・レコード/1993年)としてCD化された。


1978/12 『アルファ・フュージョン・フェスティバル』の楽屋を訪れた鮎川誠と知り合う。新宿/紀伊國屋ホール。

「おもしろいグループをやってる人がいるって話を聴いてた」(3)
「コンサートを見に来ていて、そこではじめて会ったんだ」(3)
「楽屋に妙なノッポな青年が訪ねてきて」(64)
「ウマとタヌキが合った(笑)」(7)
「サンハウスの頃の彼の顔だけは覚えていました。」
(64)
「21〜22歳という印象を持った」
(65)
「年齢を聞いてビックリしました。」
(64)
「本当はボクより1歳年下なだけ」
(65)
「僕と同世代の人です。」
(64)
「実際コケたね。床を転げまわった憶えがある。」
(65)
「次のYMOのコンサートにゲストで出てもらうことになった」(65)
「『ピットイン』で何か一緒にやろうと」(64)

鮎川誠の証言
「YMOと会ったのは新宿紀伊國屋が最初ですね」
(16)
「細野さんとの初対面」
(16)
「幸宏が僕を覚えとってくれたお陰で、僕も彼らのライブにのこのこ顔を出したんですよ」
(16)
「僕らのおった福岡にイベントで東京からいろんなバンドが来た時、何度かミカ・バンドと対バンをやった」
(16)
「シーナ&ザ・ロケッツとして初めて人前でやったエルヴィス・コステロとの共演があって、幸宏と再会したんですよ」(16)
「最 初はちょっとイヤな…ゆうか気になったんよ。『幸宏がおる、なんか緊張するなあ』って。ところが演奏終わって楽屋に訪ねてきてくれた幸宏くんとお茶でも飲 もうってことになって、いろいろ話してたら『今度一緒になんかやろうよ』みたいな感じになってね。それからわりとすぐやったな。『細野さんに会わせたいか ら、来ない?』って電話かかってきて、それで」
(16)
「細野さんは『おおっ!鮎川くん。背がおっきいな』とか言って(笑)。僕はエイプリル・フールの話とかしたと思うよ」(16)
「その紀伊國屋の楽屋でピットインのライブに誘われたんです」
(16)
「ゲストで来てほしいって」
(16)
「ふたつ返事やった(笑)」
(16)
「二人から来た話やからすぐやろうと思った」(16)
「細野さんに対しては、サンハウス時代から一目も二目も置いてたわけだし、そんな人と話ができて、呼びつけられることは天にも昇る気持ちだった」
(66)
「OKはしたものの、実はYMOの音楽がどういうものかすら、その時は知らんかったんよ。なにせ、紀伊國屋に顔を出したのはYMOの演奏が終わった後だったから(笑)」
(16)

高橋幸宏の証言
「鮎川くんのルックスだけだけど(笑)。雑誌とライヴで見たんです。ディーヴォをコピーした『サティスファクション』を当時演っていて、それがカッコよかったんで」
(67)


1978/12 朝比奈マリアのレコーディング。芝浦/スタジオ'A'

「雪村いづみさんの娘さんの朝比奈マリアさん。これをディスコ・クイーンに、仕立てようっていうようなアルファの目論見があってやったんですが」(58)

※編注:アルバム『MARIA』のセッション。12月13日〜1979年3月29日の期間に行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。


1978/12 サーカスのレコーディング。

※編注:アルバム『ニュー・ホライズン』のセッション。12月14日〜1979年4月21日の期間に行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。


1978/12 イエロー・マジック・オーケストラ、ピットイン公演のリハーサル。鮎川誠が参加。赤坂。

「(編注:鮎川誠は)いっしょにセッションをやった時に、すごくおもしろくてね、一発で気に入ったわけ」(3)
「練習スタジオで彼のレパートリー数曲と、思いつきで『デイ・トリッパー』をアレンジしてセッションしました」(64)
「試しにやってみたのが面白くてね」
(7)

鮎川誠の証言
「ラ イブやる前に赤坂のスタジオでリハーサルやってるんよ。で、僕は自分をアピールせないかんしと思ってね。パンク、ニュー・ウェイヴの連中のチープでインパ クトのあるカッコのつけ方ゆうかな、そういう登場の仕方を自分もしようと思って、買い物袋にフェンダーのテレキャスターのギター突っ込んでスタジオに行っ たんよ。その頃はロケッツのファーストのレコーディング中でね、そっちを終わってから行ったのを覚えてるよ。
そうやって行ったら案の定受けてね。自分もみんなを気に入ったのよ。『あ、嬉しい』って思った」(16)
「それまでは『東京のバンドの人たちってどうなん?』ってセンスとか礼儀とかよく分からん部分があったのが、それで 打ち解けられた。『同じやん』って。その買い物袋にギターっていうのが、言ったら、僕からYMOにチェック入れたということやったね。彼らはパンクや ニュー・ウェイヴをよく聴いてただけじゃなく、その精神ちゅうか、そういう心とかよく分かっておったね。面白がってくれたよ」(16)
「あのヴァージョンの『サティスファクション』は、ロケッツのステージでも完コピして演奏したことあるから僕にとってはレパートリーのひとつやったの。それにピットインでは、そのストーンズもカヴァーしてるチャック・ベリーの『カモン』もやっとるでしょう?」
(16)
「実は『カモン』を録音することこそがロケッツを始めた最初の目的だったんよ。それもあって、演奏曲を決める時、細野さんに最初に『カモン』を出してみた ら『うん!面白い』って言ってメモ帳に『C'mon』って書いたのよ。『Come On』じゃなくて『C』にアポストロフィーで書くとこがいいなって思ったね(笑)」
(16)
「いやあ、いちいち洒落とるなあって。で、もう1曲ってなって『サティスファクション』を出したんよ。自分らでディーヴォ版のコピーをやってる話をしたか どうかは覚えてないけど、今ディーヴォのあのアレンジが面白いからっていうのは言わんでもみんな分かっとったと思うね。自分的にはなんかYMOのオーディ ションに受かったみたいな、ホッとした気分やったね」
(16)
「『デイ・トリッパー』は幸宏のアイディアやね」
(16)

高橋幸宏の証言
「『デイ・トリッパー』を、カヴァーでちょっとやってみようかって言っても、誰も全然抵抗しなかったですもん。ビートルズのあれを、もっと幾何学的にやってみようかって」
(7)
「アレンジのもとにあるのは、確かウィルソン・ピケットか誰かの『デイ・トリッパー』のカヴァーなんです。僕が中学 生ぐらいのときに、それをかまやつさんがスパイダースで演奏していたのを覚えていて。で、そういうアレンジで始めてみたいなと思ったのが、カヴァーする きっかけ。基本的にかまやつさんのヴァージョンが頭にあって、こういう裏ビートから入るカタチにしたいなってことで、すごくギミックなアレンジにしたんで すね。裏から入って、変拍子とか入れて、どこが頭なのかわからないみたいな始まり方。『She was a 〜』で始まるのも、かまやつさんヴァージョンがそうだったんです。このアレンジがスパッと頭に浮かんで、曲はなんでもよかったんですけどね。この曲に思い 入れがあったわけじゃないんですよ。思い入れがあるんだったら、たぶんジョージ(・ハリスン)の曲を選んだと思うんです」(46)

坂本龍一の証言
「すごくディーヴォには影響されてましたね、3人とも」
(7)
「ブライアン・イーノがプロデュースしてたでしょう。すごく衝撃的で、やられたって感じで」(7)
「キック4つ打ちでやれば世界共通だっていう方法論でやってたんだけど、ディーヴォの『サティスファクション』は全然4つ打ちじゃないし、まったく聴いたこともないようなドラム・パターンで」(7)
「当初はグルーヴの秘密を解き明かしたくて熱狂していたわけだけど、ディーヴォの影響で、グルーヴしないリズムになって」(7)
「ディーヴォと、アート・リンゼイのいたDNAの、イクエ(・モリ)のドラム」(7)
「極限的にゼロに近い、グルーヴしない音楽」(7)
「コンピュータを使うってこと自体、そもそもグルーヴの拒否なわけじゃない」(7)
「冷たい等間隔のものをやるってことが、グルーヴの拒否ですから。グルーヴってことを突き詰めていくと、それはグルーヴの拒否にまでいってしまう」(7)
「『デイ・トリッパー』という曲自体が、ビートルズ以前のR&Rのパターン化されたフレーズを、むしろアイロニーとして再利用しているわけだし、それをまたもう一度、コンテクストを壊してリサイクルして記号化するっていう作業が、すごく新鮮だったと思うんです」
(7)

松武秀樹の証言
「『デイ・トリッパー』は、鮎川君が参加するっていうんで、教授が即席でライヴ・アレンジしたのがもとだったと思う。ディーヴォをやりたくて、ああいう変表紙が入るようなアレンジにしたんだよね。『サティスファクション』のカヴァーと同じだよね」
(26)


1978/12/20 イエロー・マジック・オーケストラ、六本木/ピットインに出演。
イエロー・マジック・オーケストラ  坂本龍一(syn, pf, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、渡辺香津美(g)松本弘(syn)、松武秀樹(prog)
曲目不明


1978/12/21 ラジ『ラヴ・ハート』発売。
風によせて:bass
クール・ダウン:bass
ラヴ・ハート:bass
たびだち:bass
ジャスト・イン・ザ・レイン:bass


1978/12/21 イエロー・マジック・オーケストラ、六本木/ピットインに出演。
イエロー・マジック・オーケストラ  坂本龍一(syn, pf, vocoder)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b)、矢野顕子(kbd)、渡辺香津美(g)松本弘(syn)、松武秀樹(prog)
曲目不明


1978/12/22 イエロー・マジック・オーケストラ、六本木/ピットインに出演。
イエロー・マジック・オーケストラ  坂本龍一(syn, pf, vocoder, ds)、高橋ユキヒロ(ds, vo)、細野晴臣(syn, b, vocoder)、渡辺香津美(g)松本弘(syn)、松武秀樹(prog)、鮎川誠(g, vo)
ビハインド・ザ・マスク
中国女
東風
プラスティック・バンブー
コズミック・サーフィン
ウォンテッド
ファイアークラッカー
サティスファクション
カモン
デイ・トリッパー
マッド・ピエロ
ジ・エンド・オブ・エイジア
ダス・
ノイエ・ヤパニッシェ・エレクトロニッシェ・フォルクスリート
千のナイフ
デイ・トリッパー

鮎川誠の証言
「レ スポールを使ったんだけど、6弦張らんで5弦で臨んだんですよ。5弦で弾くレスポールの響きっちゅうのはちょっとしたもんでね。これを始めたんがキース・ リチャードですね。5弦のオープン・チューニングちゅうのは70年代の最初くらいから、ライ・クーダーあたりにヒントを得たキースが6弦をとっぱずした オープンGで…。そうすると5弦が一番ロックンロールやる奴が一番使うコード弾きが自由自在にやれんのよ。たったこれだけのコントロールで、シンプルにな るけどえらくかっこいいのよ。YMOはしっかりしたバンドやし、おもいきり遊べると思ったけ、安心して5弦にして、本当はマイナー・コードが入る『カモ ン』も何とか弾き方見つけてやれた」
(16)
「俺が弾いてる後ろには渡辺香津美さんが立って見とってね、闘志を燃やした」
(16)
「彼は凄いテクニシャンでしょ?『そんならこっちはパンクぞ!』って思うてね」(16)
「この日一日で俺にとって重要なことが一度に起きたのよ。まず、クリス・トーマスが客席に来とってね」
(16)
「当時はミカさんのボーイ・フレンドでね。そんな人が一緒に客席で観てたんよ。俺はそん時まだ自分の出番じゃなかったんで、横で『YMOのみんなも緊張しとうな』って見てたよ(笑)」(16)
「あと、その日、ざわついた客席で田原さんというアルファ・レコードの人に『細野さんがぜひプロデュースしたいと言っているから、よかったらウチに移籍しませんか?』って勧誘されたのを覚えとる」(16)
「細野さんから熱心に勧められたんだ、アルファ・レコードに来ないかって」(66)
 サティスファクション
5弦だけでやったのはピットインが初めてやったんですよ」(16)
「最初、ドラムがツットンツトトンって来た時『ああ、(テンポが)遅い!』って思ったんよ。自分がロケッツでカヴァーしてたのに比べて」(16)
 デイ・トリッパー
「5弦でやっとるね。ビートルズの曲をストーンズ風に壊してやっとる感じがいい具合やね。パンクや。そんで途中『I found out』ってとこで俺と幸宏がハモるとこがいいのよ。引き立つんよ」
(16)

高橋幸宏の証言
「(編注:鮎川誠を)ルックスがいいから、なんとかアルファに引っぱれないかなって、細野さんに言ったんです」
(67)

坂本龍一の証言
「ディーヴォの『サティスファクション』を真似していたときは、僕がドラムをやってるんですよ」
(7)


1978/12 シーナ&ロケットのレコーディング。
カモン
鮎川誠の証言
『カモン』には細野さんがシンセ・ベースで入ってくれたヴァージョンもあるんよ。あれも嬉しかったねえ。何か細野さんの名前を利用していると思われたらいやだから使わなかったんやけど」 (16)

※編注:アルバム『#1』のセッション。細野晴臣が参加したテイクは未発表。


1978/12/25 ムーンライダーズ『ヌーベルヴァーグ』発売。
いとこ同士:steel drum

<出典>
(1)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(2)『ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1968-1980』 音楽出版社/1999年
(3)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(4)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(5)『テクノ・ボーイ』 双葉社/1980年
(6)NHK-FM『サウンドストリート21』 2007年10月2日
(7)YMO読本『OMOYDE』 ソニー・ミュージックハウス, GT music/2003年
(8)細野晴臣『地平線の階段』 八曜社/1979年
(9)CD イエロー・マジック・オーケストラ『YMO GO HOME』ブックレット 東芝EMI/1999年
(10)カセットブック『テクノポリス』 富士写真フイルム/1980年
(11)『YMO BOOK』 学習研究社/1983年
(12)『ニューミュージック・マガジン』11月号 ニューミュージック・マガジン社/1979年
(13)村上龍+坂本龍一『EV.Cafe 超進化論』 講談社/1985年
(14)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(15)
『Weekly YMO Web magazine』No.01 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年6月16日
(16)田山三樹編著『NICE AGE YMOとその時代 1978-1984』 シンコーミュージック・エンタテインメント/2007年
(17)『超私的 横尾忠則マガジン』第6号 平凡社/2000年
(18)『本の話』12月号 文藝春秋/1995年
(19)
NHK-FM『サウンドクリエイターズファイル』 2011年5月22日
(20)『イラストレーション』5月号 玄光社/1995年
(21)『横尾忠則自伝』 文藝春秋/1995年
(22)
鋤田正義+イエロー・マジック・オーケストラ『Yellow Magic Orchestra × SUKITA』 TOKYO FM出版/2010年
(23)『銀星倶楽部』11 ペヨトル工房/1989年
(24)『エスクァイア』8月号 エスクァイア・マガジン・ジャパン/1995年
(25)『ニューミュージック・マガジン』12月号 ニューミュージック・マガジン社/1978年
(26)田中雄二『電子音楽イン・ ジャパン 1955〜1981』 アスペクト/1998年
(27)小澤征爾, 武満徹『音楽』解説 新潮文庫/1984年
(28)『文藝』春季号 河出書房新社/1994年 
(29)『ラジオマガジン』9月号 モーターマガジン社/1980年
(30)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(31)坂本龍一『音楽は自由にする』 新潮社/2009年
(32)高橋幸宏『心に訊く音楽、心に効く音楽』 PHP新書/2012年
(33)『ニューミュージック・マガジン』10月号 ニューミュージック・マガジン社/1978年
(34)『シンセサイザークロニクル』 学習研究社/2008年
(35)CD Pre YMO & V.A.『InDo』ブックレット リワインド・レコーディングス/2000年
(36)『コンパクトYMO』 徳間書店/1998年
(37)『ポストスクリプト』 アルファ・レコード/1992年
(38)田家秀樹『みんなCM音楽を歌っていた』 徳間書店/2007年
(39)J-WAVE『Daisyworld』 2000年5月22日
(40)備酒元一郎編『ジャケット・デザイン・イン・ジャパン』 ミュージック・マガジン/2004年
(41)矢野顕子ツアー '87 パンフレット『UNQUESTIONABLY AKIKO YANO 1976-1987』 やのミュージック/1987年
(42)ムーンライダーズ+アストロ・チンプス『フライト・レコーダー』 JICC出版局/1990年
(43)ユービック「テクノ歌謡」研究チーム『「テクノ歌謡」ディスク・ガイド』 扶桑社/2008年
(44)田山三樹監修『YMO GLOBAL』 シンコーミュージック・エンタテインメント/2007年

(45) イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』ツアー・パンフレット ヨロシタミュージック/1980年
(46)CD イエロー・マジック・オーケストラ『ONE MORE YMO』ブックレット 東芝EMI/2000年
(47)『GORO』9月27日号 小学館/1979年
(48)吉村栄一・田山三樹『ザ・ケミカル・エクスペリメンツ』 1999年
(49)坂本龍一『千のナイフ』ライナー・ノーツ 日本コロムビア/1978年
(50)J-WAVE『Daisyworld』 2000年5月15日
(51)CD ブレッド&バター『幸矢と二弓 Essential B&B』同梱ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2014年
(52)CD ブレッド&バター『レイト・レイト・サマー』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2005年
(53)ブレッド&バター「特別な気持ちで I JUST CALLED TO SAY I LOVE YOU/引き潮カフェ」歌詞カード ファンハウス/1984年
(54)『ムーグ・ノイマン・バッハ』 日本ソフトバンク/1988年
(55)NHK-FM『サウンド・オブ・ポップス』 1980年8月18日
(56)高野寛『土曜ソリトンサイドB リターンズ』 アスペクト/1996年
(57)CD『細野晴臣の歌謡曲 20世紀ボックス』同梱ブックレット コロムビアミュージックエンタテインメント, デイジーワールド/2009年
(58)J-WAVE『Daisyworld』 2001年6月24日
(59)鋤田正義写真展『シャッターの向こう側』小冊子 リクルート/2006年
(60)
『Weekly YMO Web magazine』No.02 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年6月23日
(61)『ピリオド』 徳間書店/1993年
(62)田山三樹『アルファの宴』第9回(『レコード・コレクターズ』1月号) ミュージック・マガジン/2006年

(63)『dankaiパンチ』10月号 飛鳥新社/2007年
(64)『ロッキンf』4月号 立東社/1980年
(65)『ロッキンf』9月号 立東社/1979年
(66)『レコード・コレクターズ』3月号 ミュージック・マガジン/2006年
(67)
CD 高橋ユキヒロ『音楽殺人』ブックレット キング・レコード/2005年
update:2018/05/17

1978-1<>1979
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