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chronology 1978 - 1


1978/01/05 16:00 FM東京でレギュラー番組『アルファ・サウンドラボ』放送開始。

※編注:アルファ・レコードの一社提供番組。この日はリンダ・キャリエール「Lovin' Make It So」が放送された。


1978/01/12 16:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。


1978/01/18 『FMレコパル』1月23日号(小学館)発売。
取材記事/ミュージシャンの珍楽器コレクション


1978/01/19 16:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。


1978/01/26 16:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。
ゲスト:渡辺香津美
※編注:細野と渡辺は、この番組収録が初対面。


1978/01 ソロ・アルバムのレコーディング。坂本龍一・高橋ユキヒロが参加。終了後、坂本と高橋を、後日自宅に来るように誘う。芝浦/スタジオ'A'。
ファム・ファタール〜妖婦
「何か目論見があったと思う、自分の中に。仲のいいスタッフにバンドの構想の話はしていたんだけど、最初に林立夫を考えていたら、断られちゃったんです。それがショックで、それで具体性がなくなって困ってたら、探せばまわりにいっぱいいるわけです」(1)
「最初はイエロー・マジック・オーケストラという名前だけ考えて、さて誰とやろうかというようなことを相談して、幸宏という名前を出したり、坂本という名前を出したりしたと思うんです」
(2)
「スタッフは冷静に見ていて、アブ(坂本龍一)がいるじゃない、幸宏がいるじゃないってサジェスチョンがあって、じゃあ、幸宏とやれるチャンスじゃないかと思って」(1)
「面白い人がいっぱいいれば"選ぶ"があるけど、その余地がない」
「高校生の時から高橋幸宏のドラミングは特別だったし、いつか一緒にやりたいと思っていた。」
(4)
「いつかじっくりやってみたいと」(1)
「なにしろ高校生のころから知っていたし、十年ぐらいいろんな関係が培われてきたってこともあるんで、取って付けた話じゃない」(1)
「しかも彼はとてもおしゃれだったし。」
(4)
坂本龍一は当時、アレンジャーとして忙しくなりだしたころで、彼のキーボードのプレイと共に編曲の能力は他に類を見なかった。」(4)
「しかも彼はとても女にもてたし。」(4)
「すると、マネージャーがすぐに反応を示して」(2)
「林くんとの話がダメになった同じころ、僕のマネジャーと坂本龍一のマネジャーが親しかったんですね。マネジャー同士が裏で画策して、当時まだ教授じゃなくてアブって呼んでたんだけど、アブを引っ張り込もうと」(5)
「マネージャー同士が親しかったものだから、話し合って(笑)、話をまとめようという動きが出てきた」(2)
「それでなにかの拍子に、みんなでやろうかという話になって」(5)

日笠雅水の証言
「ある日、私はそれまで仲良くさせてもらっていたあぶちゃんと鍋を囲んで飲んでいました。あぶちゃんは芸大生ですごいテクニックでその頃すでにスタジオ ミュージシャンとしては引っ張りだこだったのですが、まだ坂本龍一という本名では世の中に広く認識されているという状況ではありませんでした。お鍋を食べ ながら細野さんの話しをすると、あぶちゃんが私をじっと観てこう言ったのです。『僕は日本のミュージシャンの中で細野さんのことは認めているよ』、日頃ほ とんど他のアーティストのことを誉めるということがなかった彼が、きっぱりとそう言いました。」
(6)
「翌日、すぐに細野さんに伝えました。『イエローマジックのメンバーはあぶちゃんが絶対に良い!』」(6)
「細野さんは『ええーー、あぶかー?』と言いつつ、『実は僕も昨日、幸宏がメンバーに良いんじゃないかと思ったんだ』」(6)
「『試してみましょうよ!』すぐに『はらいそ』のレコーディング中だったのでインペグ屋さんに電話して3人のセッションをセッティングしました。その曲が『ファム・ファタール』だったのです。」(6)
「セッション後の仮ミックスダウンを終えたときスタジオの調整卓の前で細野さんは幸宏さんと坂本さんを『うちに来て欲しい』と自宅に誘 いました。自宅で細野さんがどういうことをこれから始めたいのかその元となる音楽を聴いてもらいながら構想を説明したいということでの誘いでした。」(7)

牧村憲一の証言
「その頃、僕も細野から電話を受け、坂本龍一についてどう思うか尋ねられている。」
(8)

高橋幸宏の証言

「その半年ぐらい前だったと思うんですけど、日本コロムビアの駐車場で偶然、細野さんと出会ったんですよ。細野さんが『あ、久しぶり』って、『今度なんかやってよ』って言われて、『いいですよ』って言ったのを覚えてるんだけど。声が掛かったのがそのときだったんです」
(5)
「スタジオ・ミュージシャンの仕事が多かったですね。ほとんど毎日ありました」(9)
「音楽的には、フュージョン・ブームがあって、そういうのに足をつっこんだんですね」(9)
「なぜかミュージシャンはまるで洗礼を受けるかのようにフュージョンを通過しなきゃいけないような風潮になってきて」(10)
「でも、ああいう音楽にはコンセプトがないんですよ。単にテクニックになってしまってね」(9)
「自分のやりたいことと全然違ってきて」(10)
「なんか煮詰まってたんですよね」(10)
「で、昔から知り合いの細野サンにレコーディングで誘われたときに、一も二もなく飛びついたワケです。ぼくはそういうシーンから抜け出たかったワケだから、タイミングがぴったりだったんです。そのとき、何か予感のようなものはありましたね」(9)

※ 編注:「ファム・ファタール」の録音日は、坂本龍一と高橋幸宏が細野宅を訪問した同年2月19日とするのが通説だが、2011年3月上旬、坂本龍一と日笠 雅水がツイッター上でこの件を巡って会話し、録音日と細野宅訪問日は別の日らしいとの認識で一応の決着をみた。『はらいそ』レコーディング期間は1977年12月〜1978年1月とアルバムにクレジットされていることも判断材料とし、録音をこの時期とした。


1978/02/05 「シムーン」の譜面を書く。

シムーン
「ずいぶん昔から考えてて、ソロのとき断片はできてた曲なんですが」
(5)
「『はらいそ』の後に、幻のソロを作るんだったら入れようと思って作っていた曲。西落合の6畳で作ったんだよ(笑)。あの頃、一番曲を貯めていたの、子育 てで暇だったから。ほとんどやることなくて(笑)。実はこれはデモもね、あるんだよ、いいんだよ、これが。KORGのシンセとACETONEのリズムボッ クスで作ったんだ」
(11)

※ 編注:CD『HOSONO BOX』同梱ブックレットに譜面の写真が掲載。“for the Manhattan Transfer”との添え書きがあり、コーラス・グループ、マンハッタン・トランスファーへの提供楽曲の候補になっていたことが推測できる。なお、細野 の発言で触れられているデモ音源の一部は、2000年7月31日、J-WAVE『Daisyworld』にて放送された。


1978/02/06 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。
ゲスト:渡辺香津美
※編注:この回から放送曜日と時間が変更。


1978/02/13 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。
※編注:エキゾティック・サウンド特集1。この回から放送曜日と時間が変更。


1978/02/14 22:20 NHKラジオ第1『若いこだま』出演。
DJ:矢野顕子
※編注:発売前の『はらいそ』から「ジャパニーズ・ルンバ」を先行放送。


1978/02/15 『ヤング・メイツ・ミュージック プレイヤー』3月号(プレイヤー・コーポレーション)発売。
インタビュー/一口いかが? 細野飯店の東京風ロニー・バロンいため。


1978 坂本龍一『個展 非夢の装置反共同体関数としての音楽』の音源を聴く。

「教授(彼は本当の教授である)の表わした自分の音楽に初めて接触したのは、レコードではなく、"個展"と銘打ったコンサートのテープである。」(12)
「これ程のものに触れるといやでも戦慄を覚える。これはきっと未知の暗黒に挑む時の戦慄につながっているのだろう。」
(12)
「音楽の魔力を操ることのできる数少ない音楽家である。」
(12)

坂本龍一の証言
「確か、図形楽譜を書いて、テープに音を入れ、そのテープを再生しながら、ライブでピアノを弾いたような記憶があります。」
(13)
「そのテープを、細野さんがもっているという噂がありますが、本当かな? あの人は、ものもちがいいから、もしかしたらマジでもってるのかも。」
(13)

※編注:『個展 非夢の装置反共同体関数としての音楽』は、この年1月31〜2月1日に行われた坂本龍一の公演。会場は新星堂荻窪店という説がある。


1978/02/19 坂本龍一・高橋ユキヒロを自宅に招き、イエロー・マジック・オーケストラの構想を打ち明ける。

「マーチン・デニーの『ファイアクラッカー』という曲に興味があってね」(14)
「イエロー・マジック・オーケストラという名前もできてしまった」(14)
「はっきり固まっていたのはディスコね」(13)
「僕が当時、はっきりと意識していたのは、ディスコというベーシックな枠組みを、やっとみんなが利用できるように なったということ。それまではロックだとか漠然とした音楽ジャンルでしかなかったわけですけど、ディスコっていうのは場所がくっついて初めて成立するもの ですよね。非常にリアリティのある」(5)
「みんなそれぞれがバラバラに違う方式でやってたのが、コンピュータの世界でOSが統合されていったように、共通の言語を使うようになっていく時代だったと思うんです」
(5)
「それまで僕は『泰安洋行』とかで衝動的に好き勝手に、人のことをあんまり考えずにやってきたんですけど、今度は逆にどうやったら喜ばれるかと考えたんです。そこで共通の言語をもっと世界的な視野で見直そうと思ってディスコに目をつけた」
(2)
「僕のアクの強いエキゾチックな音は受け入れられなかった経緯から、ディスコ・バンドみたいにして、アクの強さを薄めていけば聴いてくれるかな、と。そういうプロデューサー的発想だった」(16)
「僕の言うディスコというのはディスコティックのことではなくて、ひとつの音楽を伝えるための方便という意味です。偏見もあるでしょうけど、ディスコという靴をはかせれば逆に安心して知らずにスーッと聞く人が多いだろうということです」(17)
「エキゾティックなアプローチが『飛びすぎ』といわれつづけ、はた、と考え、それならばその妙な世界を人々の共有できる…、安心してもらえる筈のディスコというスタイルに乗せれば…と」(4)
「ぼくがエキゾティック・サウンドをそのままやっても人に伝わらない。共通の言語じゃなくて個人的な特殊な言語で 喋っているような感じがあったんですが、ディスコというのはその上にいろんなものを乗っけて走らせることのできる広いレールのようなところがあるというこ とです」(17)
「すごく広い間口があって、なかなか受け入れがたい音楽でも、ディスコというレールの上に乗っかれば、みんな聴きだすようになった」(15)
「で、その中味はアヴァンギャルドだったわけ」(15)
「ものすごく貪欲な吸収力を持っていて、いろんなジャンルのものをディスコというレールに乗っけて、多くの人に聞いてもらえるようになるという確信 を持ちましたね。ニュー・ウェイヴでもフュージョンでもディスコのレールに乗っちゃうというのは、馬鹿にできないと思います」(17)
「だからイエロー・マジック・オーケストラはディスコ・バンドと呼ばれてもいいと考えていたんです。広義の意味でのディスコということね」
(17)
「ロックは逸脱して、基本はディスコでいいだろうと思ってました。決して志を低くしたわけじゃないんだけど。ディスコっていうのは、いちばん下のチャクラを刺激する要素があって」
(5)
「林が別のことをはじめたので、ひとりでやろうかと思ってたんだけど、そういう構想を話してたら、あとの二人も乗ってくれて」
(14)
「実はこういう構想があるんだが、と」(18)
「その時点で『ファイアー・クラッカー』という曲のコンセプトだけ決まってたんですよね。それが2人にとっても、思いの外刺激の強いコンセプトだったらしくて」
(18)
「とりあえず何を作りたかったかというと、ぼくの顔の出てこない音楽なんですね」
(17)
「ソロと完全に違うのは、『匿名性』ということを初めて考えたんです」(5)
「『はらいそ』でソロはもう作るまいと思ったんです。それで仕事として初めて音楽を見直してみた。これで一生やって いくのかどうか、音楽と自分、仕事として関係持てるのかどうかとか。それまではほんとに趣味でしたから。だめだったらやめて出家しようと(笑)。そのこと がずいぶん大きな動機になっていますね。ということは、音楽に対して距離を持ってる、持ちだしたということで、それにはバンド活動はうってつけだった。同 時に、単純化したり記号化したりしていくような客観性というのかな、そういう方向にわりとスムーズに移行していったんですけどね。まあ、どっかで、たいし たことにはなるまいと思っていたんで (笑)」(2)
「僕は当時から『バンドを作っちゃ壊して』ってよくいわれたんですよ。『解散するのが好きなんですか』って(笑)。 『解散が趣味です』と答えてたんですが (笑)、それは冗談じゃなくて、きっと真実がどこかにあってね、一人じゃ解散できないんですね。バンドというのはそういうコンセプトなんだということがわ かってきた」(2)
「ただ、イエロー・マジック・オーケストラに関してはバンドというイメージは持ってなかったんです。まあ企画性の高いユニットというか……」(2)
「グループ活動をしようとは思ってなかった。あくまでも、僕がプロデューサーの目で作ったバンドだし。オーケストラ と名付けたのはね、どんなメンバーが集まるかわからないわけ。だから、誰が入って来ても、また出て行ってもいいように。極端なことを言っちゃえば、たとえ この僕がいなくなっても続けられるように、柔軟性を持たせてあるわけですよ」(2)
「ぼくはまだ長髪で髭をはやしていたし、教授はボサボサで、ユキヒロはサディスティックスって感じで(笑)。3人でこたつに入って富士山の絵を書いてって話は、冗談で言ったつもりだったんだけど、みんな真面目に受け取っちゃって(笑)」
(11)
「まるで口説かれた処女のように、期待と不安の交錯した面持ちで、イソイソと焼きおにぎりを食べていた。」(19)
「みんなを奮い立たせるために、元気付けるためにそんな話をしただけなんだけどね」(11)
「ただ、坂本君は非常に悩んでた。バンドに対しての免疫というか、抵抗力がなくてね。初めての経験なので、かなり抵抗があったみたいで」(2)
「高橋幸宏も当時、サディスティックスで煮詰まってたんですね」(5)
「当時は絶頂期というか、信じられないぐらい働いていました」(2)
「それこそほんとのバンド活動をやってて、非常に煮つまってて、もうバンドは嫌だ、そこから逃げだしたいということでこっちに来てくれたんです。つまりこっちはいわゆるバンドじゃなくて、ある種のプロジェクト・チームとして彼は魅力を感じたみたいなんです」(2)
「声をかけたら目が爛々と輝いてたもんね」(10)

坂本龍一の証言
「ぼくの記憶はけっこうあいまいです。でも確かに、細野さんの家に幸宏とぼくが招かれて、3人でこたつに入って、こたつの上にはみかんがあって、おにぎりが出されました」
(20)
「おむすび食べながら、バンドを一緒にやらないかって言われたんです」(21)
「一応、その日が結成式ですね。おにぎりが結成の証という(笑)」(5)
「細野さんが、大学ノートみたいなものを出してきてパッと開くと、富士山が爆発している絵があって、『400万枚』とか書いてある。『イエロー・マジック・オーケストラ』という名前も書いてあったと思います」(20)
「こういうバンドをやりたいと細野さんから提案がありました」
(20)
「数字にこだわることに違和感を感じた記憶がある。しかし『インターナショナルな成功を目指す』ということには、文句なく賛同した。」(4)
「コンセプトとしては、デジタルなリズムでポップスを作りたいということ」(9)
「エキゾティックをデジタルでやろうという細野さんの軽薄な提案からすべてがはじまった。」(22)
「構想を聞いて、ぼくは驚くでもなく、『それはまあ、普通でしょう』みたいな反応をした。いいんじゃない? という感じ」(20)
「それはやれるな、という答えはぼくもすぐ出たよ」
(15)
記号化しちゃえば、どこに持っていっても売れる。そういう素地が、世界的にできつつあったのかも知れませんね」(5)
「それまでのポップスというのは、歌っていうものが主流だったんだけど、ボニーMの作り方というのは、80年代、90年代のハウスなんかに近いというか、切り貼りでポンとリフレインだけ乗っけていくという。切り貼り細工、あるいは組み合わせの音楽っていうか」(5)
根っこが切れてるというか、音楽になってない、歌のコンテクストが切れちゃってる面白さ。そこにある種の過激な匂いを感じて」(5)
「しかもそれが世界的にヒットしちゃう。本来、歌というのは非常に保守的で、ある地域の伝統とか歴史とかに強く根ざしたものですよね。それが限りなく記号に近くなってることの面白さですね。コマーシャリズムの過激さというか(5)
「面白いんじゃないって思って。参加したからすぐ売れるとか、忙しくなるという感じじゃまだなかったし」(5)
「どうせ売れないからいいやと思って」(3)
「スタジオでしょっちゅう会ってたし、尊敬してましたから、自分のためにもなると」(5)
「ぼくとしては、自分の知識や能力をバンドに貸してあげる、というぐらいの意識だった。」
(4)
「細野氏、高橋氏のもつ音楽的能力は認めていたし、自分のバックグランドとの違いも知っていたので、吸収できるものは全て吸収してやろうという気持ちだった。」
(4)
「ポップスの中身は3人のメンバーがすべてイコールではなかったけれど、いっしょに仕事をするなかで、他のメンバーからぼくにない部分を学ぼうと思ってた。向上心というか……」
(9)
「ただ、一方でスタジオで忙しかったので、あまりバンドに時間を取られても嫌だなっていうことを、言った気がしますね」(5)
「バンド経験がなかったが、バンドへの幻想や期待は全くといっていいほどなかった。バンドの活動の為に、自分個人の為の時間が犠牲になることはさけたかった。」
(4)
「若くて不遜なぼくは『個人の仕事が忙しいので、そっちを優先しますけど、まあ時間のある時はやりますよ』とか答えた」
(21)
「個人の活動が絶対大事で、その余暇でそういうバンド活動をするんだったらば参加しますとか何とか、すごく難しいこと、しちめんどうくさいことを言ったんじゃないかと思うのね、その時」
(21)
「バンドからも、メンバーからも束縛はないというのが前提だった」(9)
「やぶさかではない、みたいな感じです。すごい返答ですよね」(20)
「心の中では細野さんのことをすごく尊敬していたんですが、なにしろそのころは不遜でとんがっていましたから、バンドに誘われたからといってワッと飛びついたりはしなかった」
(20)
「たぶん、僕はそのころ、すごく思い上がっていてね(笑)。自分は日本で最高のアレンジャーで、自分たちは最高のミュージシャンだと。だから、ストーンズ とかアメリカのアーティストたちも、きっと僕に頼みにくるようになるだろうと本気で思ってたんですね(笑)。だから、400万枚とか、東京から発信するっ ていうことに、全然変だなと思わなくて、むしろ当たり前と思っていたから」
(5)
「でもぼくにとっては、それが生まれて初めてのバンド経験でした。バンドに入るというのは何か特別なことで、入った らもう逃げられない、みたいな感覚もあった。それまでは何にも所属せずに」(20)
「ポップスを真剣にやろうと思ってなかったのでいつでも逃げよう逃げようと」
(3)
「いつも片足だけ突っ込んで逃げられるような態勢でやっていたのに、あ、いよいよ 来ちゃったな、という感じがした」(20)
「バンドに入ったことなかったんで、何かに所属しちゃって責任とらされるのがちょっと怖かったんです」
(21)
「『個人の仕事を優先したい』というのは、そういう意味での牽制であったのかも知れません」
(21)
「細野さんは『まあ、それでもやろうよ』って言ってくれて」
(21)
「まるめこまれた(笑)」
(3)
「幸宏のそのときの反応ははっきり覚えていませんが、もっと素直に『やりましょう』という感じだったと思います。幸宏は高校時代から細野さんと面識があって親しかったし、彼自身いろんなバンドを経験していたので、バンドに入るというのは自然なことだった」(20)

高橋幸宏の証言
「細野さんとやりたい気持はずっとあったから、その機会が来た! と思った」(10)
「細野さんに対するリスペクトは、本当に子供のころからありましたから」(5)
「コタツの上に富士山の絵とおにぎりっていう、巷間伝えられているままですけど」(4)
「絵を見せられて、『ディスコで400万枚』とか、アメリカのスタジオ・ミュージシャンに影響を受けた日本人が、それをやったらどうなるかみたいな。それ以外、覚えてないですけど」
(5)
「ビジネスとしてのやり方がわからなかったので不安はあったけど、外国で売ることには興味があった」
(3)
「ディスコにはそんなに行ってなくて、むしろ行くようになったのはYMOになってからですけど。ただ、共通言語だっていう意識はありましたね。世界中のディスコっていう媒体が面白くなってきてるっていう、細野さんの言ったことにはピンときましたね」(5)
「僕は基本的に、初期のYMOは細野さんのグループだと思っているんですよね。その細野さんのアイデアにすごく惹かれていったというか」
(5)
「ジャズやフュージョンのミュージシャンみたいに、サーカスみたいに自分たちの技を見せる場ではないでしょう。演奏を聴かせるための音楽じゃなくて、踊らせるための音楽だから。グルーヴってことに非常に忠実で、それがすごくコンピュータ的に思えて」
(5)
「日本の音楽は加工貿易音楽で、向こうから入ってきたものを加工して出すんだと、ミカ・バンド時代からトノヴァン(加藤和彦)なんかとよく話してたんです よ。ロックは西洋人の民族音楽だからっていう。そういうコンプレックスの意識がすごく強かったから、それを解消するのに、この手段はいいなと思って。フィ ジカルにやるのは昔から嫌いなドラマーだったし」
(5)
「ただ、まだ当時は、メンバーは不確定でいいんだって」
(5)
「メンバーは流動的にしたいんだって話も出てましたね」
(4)

日笠雅水の証言
「場所が狭いとの理由もあって当日集まったのはメンバー3人だけ、マネージャーである生田君と私は外で待機していました。2月中旬の少し曇った寒い夕方のことでした。」
(7)

※編注:証言にある富士山の絵が描かれたノートの紙面はYMO写真集『OMIYAGE』(小学館/1981年)に掲載されており、日付はそこに細野晴臣が書いている「2月19日〜20日深夜」との記述に拠った。


1978/02/20 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。

※編注:エキゾティック・サウンド特集2。発売前のロニー・バロン『The Smile of Life』から「Doing Business with The Devil」を先行放送。さらにリンダ・キャリエール「Child on An Angels Arm」が放送された。


1978/02/24 レオン・レッドボーン来日公演にゲスト出演。九段会館。
細野晴臣 細野晴臣、岡田徹
 曲目不明


1978/02/25 ロニー・バロン『The Smile of Life』発売。
Prelude
Moon Shinin' Bright *
Make You Love Me
Honey, Honey
Running South, Running North *
Carry It on Home to Rosie *
Some People *
Doing Business with The Devil
My Jealousy
She Does It Good
Love Affair

Honey, Honey
「僕がベースで、ドラムスが、林立夫、ギターが鈴木茂、でしたね」
(23)
「(編注:ロニー・バロンは)いろんなことを教えてくれて、例えば鈴木茂が弾いてる、ギターをキンキー・ギターという。kinkyですね。『カリッカリッ というような、カッティングをやるんだ』と。『これがニューオリンズ・フォンク』と、言ってました。ファンクじゃなくて、FONK(エフオーエヌケー)。 まあファンクの、発祥の地なんですね」(23)
※ 編注:細野晴臣はプロデュースの他、ベースとパーカッションを担当しているが、各楽器とも複数のミュージシャンがクレジットされており、上記のような発言のある「Honey, Honey」以外の演奏楽曲の特定は 困難である。*印の4曲はニューオーリンズ・セッション(1976年8月@Sea Saint Recording Studio)の音源で、細野はセッション自体には関わっていないが、細野のプロデュースのもと、東京でオーヴァー・ダブ、ヴォーカルが加えられ、リミッ クスにより東京セッションとの音質の統一を図るなどの処理が施された。

1978/02/25 スティーブン・スピルバーグ監督の映画『未知との遭遇』を公開初日のオールナイト上映で観る。

「1977年の製作で、そん時ぼく30歳だったわけ」(24)
「でなんとスピルバーグも、同い年なの」
(24)
「円盤ブームのピークだったんだよ」
(25)
「すんごい期待して行ったんですよ。なんでかって言うとぼく当時、UFOマニアで、えー、なんだろ、いろんな本読んでてね。アレン・ハイネック博士の出した『プロジェクト・ブルーブック』っていう本、があって」
(24)
「世界中の円盤の目撃例を、データを収集して、ま、1割はホントかもしれない。9割方は(笑)、見誤りか、嘘か。でも1割は、なんか本物らしいっていう、そんなようなデータなんだよね。でそこに、"第三種接近遭遇"って言葉が出てくんだよ」
(24)
「第一種っていうのはみんな、まあ、空になんか飛んでたとかね、遠くから見るやつ。でぼくも第一種接近遭遇はしてますよ」
(24)
「二種、までいってるよぼく。わりと近くまで」
(24)
「第三種接近遭遇ってのが、宇宙人とコンタクトするっていう。うん。触っちゃったりするっていう(笑)。その"Close Encounter of The Third Kind"っていうね。これをタイトルにするとは、思わなかったわけ。知ってたんだけど、『こんなタイトルの映画が来るんだ!』っていうんで、ワクワクワ クワクって」
(24)
「予告編がよかったのよ。道が一本あって、向こうが光ってるっていう」
(24)
「最初はあれだけだったの。観たくなるよね、ああいうのはね(笑)。あれだけでいいんだよね。うん。で本編もあれだけだったらどうなんだろうと思って(笑)。ずーっとこうスクロールしてく(笑)」
(24)
「映画が封切りになった初日は土曜日で、オールナイトで上映していた。これこそ僕の待っていた映画だ。いや、僕だけではない、きっと大勢の人が行列をつくって待っているだろう。でも、果たして席に座れるだろうかという心配は無駄であった。」
(26)
「多分ね、渋谷の、パンテオンだったような気がすんだよ」(24)
「知り合いばっかりいるんだけどね(笑)。ライヴみたい。コンサートみたいな(笑)」
(24)
「どうしたって、男の子向けの映画だよね(笑)」
(24)
「いたよそう言えば、子供も(笑)。わーいとか言いながら」
(24)
「男心をくすぐるんだよ」
(24)
「女の子で騒いでる子はいなかったね(笑)」
(24)
「子供じゃわかんない映画なの、実は」
(24)
「未知なるものにこう憧れてね、求めてくと、家庭が崩壊するよと。そういう映画なの(笑)」
(24)
「あれは心理学だからね、ユングの。人間の本質としての探究心ってのがあって、それによっていろんな犠牲が生じる、と。お釈迦さまもそうだし、何か物事を つきつめようとすると、家庭が崩壊したりするんだ。ホラ、自分も家庭が崩壊しかかって……あれを見た頃はすごく自分がツラかったんだな、多分。そういう人 が観ると泣いちゃうんだよ」
(27)
「『未知との遭遇』で泣いた人は、自分が何で泣いたか、わかったはずだ。」
(26)
「『未知との遭遇』は、この映画の娯楽性などといった質の背後に、見る人を振動させるエネルギーを持っていて、それ は恐らくこの時期に急激に芽生えはじめた"求める心"に由来しているのだ。最後に映画のシーンと同様に、見る人にも『乗って行く』ことを求める映画だ。そ ういった心理的なキイは宇宙人の笑顔にある。僕もあの笑顔との遭遇なら何回見に行ってもいい。」(26)
「最後に宇宙人が出てきて。子供みたいなね。で招かれて入ってくとこで終わるんだよね。それがよかったんだよ」(24)
「アメリカではだいたいその、宇宙人は悪い人だったと。悪い人(笑)、『人』って言うのかな。まあ『宇宙人』ですからね、人ですよ。だいたい悪い宇宙人が 出てきて、人間を脅かすと。そういうものが多かったんですけど、初めてこの『未知との遭遇』っていうのは、宇宙人が、いい人だと。そういう、あの、なんて 言うんだろう、まったく新しい視点を、持った映画だったんですね。でー50年代に戻りますと、ジョージ・アダムスキーという、謎の人物がアメリカにいまし て、皆さんよくご存知の、円盤の形、アダムスキー型っていうんですけど、あの、西洋やかんみたいなね、えー、そんななんか、アルミでできたような、そうい う、すごいクラシックな、あの円盤があるんですけど、それの写真を撮った人なんです。で、アダムスキーがその、いい宇宙人と出会って、いろいろ教えを、乞 うと言うのかな、なんかいろんな知恵を、授かるんですよ。そこらへんがルーツに、あるんじゃないかなと、思うんですけど」
(28)
「神とか浄化とかを求めようとしている時代が生んだ創造的な仕事だ。それ以前のものでいうと『2001年宇宙の旅』があるが、これらに共通している点はい ずれも完璧なシミュレーション、つまり模擬事実であるということだ。観客は映画を見ているという次元を超えた体験をするのだ。」
(25)
「デヴィルズ・タワーは、この映画の二つめのキイである。それは人がどんな力に導かれて行くのかをうまく象徴していた。太古から近未来に至る人類共通の幻想が、この不思議な形をした山に集約されている。」(26)
「直感とはある種の幻想であり、僕も自分が直感によって導かれていると思うことがよくある。これは自己の内部で生まれるにもかかわらず、自分の力ではないと思ってしまう。というのも、自分にあるのはアンテナだけであり、他の何かが送信してくれるのだと感じるからだ。」(26)
「"判断"と違って、直感は退けることが不可能だ。これを僕は、"種を植えられる"と感じる。それは意識下に、潜在的に元来そなわっていて、そのような未知の記憶を追い求めるように人類は創られているのかもしれない。そう、DNAという種が植えられているのだ。」(26)
「映画の中のデヴィルズ・タワーという具象的な幻想は、宇宙人のまいた種であった。この映画が感動的なのは、その種 がどんどん生長していく過程、つまり意志の力では退けることのできない記憶のような幻想を追い求めていく過程が語られているからだ。この映画と神が結びつ いてしまうのも、止めることのできない現代の様相のひとつだと思う。」(26)
「エンドマークが流れる中で、僕は快感にひたり身動きできなかった。」(26)
「感じるものがいっぱいあったわけですね」(28)
「ところが、半数ぐらいの人は既に席を立ってロビーへと流れている。"眠ってしまった"という人の話し声が聞こえる。」
(26)
「『未知との遭遇』という映画の感じ方が人によって異なることを知った」(26)
「影響されたということで」(28)
「とても、強い、思いがあるんですけど」
(28)
「6回観に行きました」
(28)
「当時はまだ、あのー、DVDもないしね。とにかく劇場に行かないと、観れない。ま、音楽も大好きだったんですね」
(28)
ジョン・ウィリアムスが、作曲してます」
(28)
「手話による五音階のコミュニケーションという秀逸なアイディアは、ハンガリーの作曲家ゾルターン・コダーイが考えたものだ。」
(29)
「作曲家であり、心理学者である人」
(28)


1978/02/27 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。

※編注:トロピカル・サウンド特集。


1978 高橋ユキヒロの契約問題でビクター・レコードを訪問。高橋が同行。

「行ったっけ。全然忘れてる」
(10)

高橋幸宏の証言
「細野さんが『僕が挨拶に行く』って言って」
(5)
「いっしょにビクターに行きました」
(5)
「YMOをやることになって、ビクターとは、サディスティックスの契約がまだ残っていたからね、当時の何ていう人だったかな、部長さんに挨拶に行ってくれたの。すごくコワイ人だったんだよね。でも、細野さんは『大丈夫。音楽をやってる人なら通じる』って言ってくれて」(30)
「『ユキヒロくんをください』と言ってくれたんですよ」
(10)
「それで『しょうがねえなあ』とかって言われて(笑)」(5)
「やっぱり僕より5つ年上だし。そのへんもあって、これは細野さんのバンドだっていう意識がすごく強かったんですよ」
(5)


1978/03 『ザ・メディテーション』3号(平河出版社)発売。
寄稿/私の瞑想音楽ノート
※ 編注:「グルに会える日」と改題の上、『地平線の階段』(八曜社/1979年)に収録。その際、文章が若干改変されている。


1978 ホールド・アップのレコーディング。

※編注:アルバム『島まで10マイル』のセッション。2月28日〜3月5日、7日、9日〜11日の日程で行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。

1978 高橋ユキヒロのレコーディング。芝浦/スタジオ'A'。

高橋幸宏の証言
「ドラムセットも、『ファム・ファタール』と、そのまま同じのを使いました」(31)
「その頃よく、こういうのをやろうと思うんだって、細野さんがいろんなレコードをかけてた。クラフトワーク、ヨーロッパのプログレ系のバンド、それから キャット・スティーブンスのアルバムに一曲だけシーケンサーものが入ってたんですよ。あと、ジョルジオ・モロダー。そういうものを聴いて、コンピュータの クリックと一緒にやるのって楽しそうだなって思ったのを憶えてます。実際にやってみたら楽しかったし」(4)
「コンピュータはまだだけど、クリックは使ってたんですね。それに合わせてやるのが快感で。それを細野さんに言ったら、細野さんもクリック使うことに全然抵抗がなかったんです(5)
「『エラスティック・ダミー』って曲。僕と教授が『ひとりずつ録音する』って言ったらギターの松木さんが『冗談やめてくれよ』って(笑)」(32)
「とりあえずひとりずつやってって、出来上がったのを聴いたらすっげー納得してた」(32)
「すごくやりやすかった記憶があるんですよ。そこからちょっと、セッションに対する見方が変わってね」(5)
「『こ れがジャストのリズム』っていう基準がハッキリするじゃないですか。それまでフュージョンとかの世界で、どうも違和感があったのは、演奏者のテンション次 第でテンポが早くなったり遅くなったりするとこ。演奏している者同士の気持ちがうまく噛み合ないとテンポが合わなくなってくるわけですよ。合ったり合わな かったり、合う人もいれば合わない人もいるっていう具合で」
(4)
「普通の人はオカズで遅れるんですよ。で、僕は走るって言われてて、走ってないんじゃないって思っていたので、クリックでやってみて、ジャストでいいんだっていうことが心強くてね」(5)
「クリックに合わせてみたらこっちが正しかったんだっていうのはあるんだよね」(32)
「『これがジャストのリズム』っていう基準があれば、このテンポでいこうって決められるわけですよね」
(4)
「(リズムを)キープすることがドラムの本質だっていうのに目覚めたことは事実かもしれない」(32)

坂本龍一の証言
「シークエンサーを使ってなくても、もうドンカマに合わせてやっていたと思うんです。やっぱり幸宏がいちばんドンカマに合うんで。それには細野さんのベースがいちばんしっくりくるし」(5)

※編注:アルバム『サラヴァ!』のセッション。


1978/03/06 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。

※編注:サンバ特集。


1978/03/13 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。

※編注:ベナード・アイグナー特集1。


1978/03/20 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。

※編注:ベナード・アイグナー特集2。


1978/03/27 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。

※編注:ベナード・アイグナー特集3。

1978/04/02 横尾忠則とインド旅行に出発。太田克彦、大塚努、大石芳野、塚本邦雄、林謙司が同行。

「本当は、インドへまだ行きたくなかった」(33)
「でも呼ばれちゃったんだよ」
(11)
「誘われちゃったわけです」
(34)
「声がかかったんで、行っちゃおうということで」(28)
「これはもう行くしかないだろうと」
(34)
「最初はすごく葛藤したんです」(34)
「インドっていうのは僕にとって、なんかこう、楽しい場所じゃないですから(笑)。とてもシリアスになって」(28)
「近づきたくない場所のひとつだったんです」
(34)
「目を向けたくない」(26)
「カルチャーとしての次元での軽さを楽しんでいたい」
(26)
「自分とのバランスを考えても、まだそれ以上はありえない」
(26)
「この国を知っちゃうと気楽になれないと思っていた」
(11)
「パラダイスの中心にある何か得体の知れない超現実的なところだし」
(34)
「本家本元へ行っちゃうと、エキゾチシズムが終わる気がして」(33)
「それはもうエキゾティシズムじゃなくなっちゃうわけですね、僕にとっては」(34)
「でも、一方でクリエイティヴな部分で燃焼した感があった。エキゾチシズムは居心地いいけど、ずっといられる場所じゃないんだ」(33)
「その時に考えたのは、横尾さんの受け売りでしたけど」
(35)
「体の毒素を出して、えー、まあ、早く言えば、お腹を壊してですね、下痢になると、いうことを望んで行ったんですが」(35)
「横尾さんがインドに行くと下痢になるよって言って、それは浄化の早道かもしれないと、それが動機だったんです」(36)
「当時、僕はヨガなんかに興味を持っていたんですが、言葉で浄化とか言っていても、実際は何だか分からない。だから肉体的に、これは横尾さんの受け売りだけれど、とりあえず出しちゃおうと」(37)
「やはり横尾さんの影響力がとても強くて」(35)
「下痢はいいんだと、人を洗脳したんですから」
(38)
「観光局の仕事だったみたいですね、インドの」
(34)
「なにか大名旅行みたいなもんなんだろうなと。泊まるホテルもすべていいホテルで、これは楽な旅なんだろうなと(最初は)思ってたんだけど」(34)

横尾忠則の証言
「この頃の細野さんは自分のやっている音楽に疑問を抱いていて、インド旅行を機に未知の音楽領域の扉をこじ開けようとしているように思えた。」
(39)
「とにかく一回インドに行って、インドの旅をしながら、インドの音楽を聴いたり映画観たり、あの、料理を食べたり。そういったところからさ、ちょっとサディスティックなところがあって、細野さんを、壊しちゃおうと思ったわけ」
(38)
「誘ったのは僕だけど、細野くんにも行く必然があったんだと思うの」
(40)
「カメラマンの大石芳野、同じくカメラマンで朝日新聞社の大塚努、ライターの太田克彦、他に二名が参加した。」
(41)
「ぼく以外は全員インド初体験である。」(42)

太田克彦の証言
「インド政府観光局の招待で、南インドをグルリとまわった。」
(43)
「いっしょにいたのは横尾忠則さん、写真家の大塚努さん、大石芳野さん、ミキシング・エンジニアの塚本邦雄さん、ツアーをコーディネートした林謙二さん」
(43)


1978/04/03 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。

※編注:フュージョン特集。


1978/04/03 ニューデリー初日。

「税関で捕まるというトラブルからインド旅行ははじまった。捕まったのは僕ではなく、エンジニアの人だ。取り調べがてこずり、三時間も待たされ、その日空港から出る最後のツーリストとなってしまった。街に出たのは結局、夜中の二時。思っていたよりも涼しかった。」(26)

横尾忠則の証言
「夜中の一時にデリーに着く。日本時間にすれば午前四時頃か。徹夜のままインドにやって来たことになる。」
(42)
「アショカホテルにチェックイン。朝の九時近くまで寝る」(42)
「政府観光局とやらのあいさつ回りの後、買物する。」(42)
「夜、朝日新聞の蜷川さん宅に招ばれる。」(42)
「同室の細野君と語りながら十二時半就寝。」(42)


1978/04/04 ニューデリー2日め。オールドデリーへ出かける。

「横尾さん経由の屈折したインド旅行は、オールドデリーからはじまってしまった。」(26)
「最初のショック」(33)
「正直なところ、この街には二度と足を踏み入れたくはない。おそらく、こんなところでも数回訪れもしたら、すっかり慣れてしまい住むこともできるのだろうが。」
(26)
「終戦直後の日本の焼け跡に近いと思われるオールドデリーの町を見ながら、この町に生まれなくて良かったと強く思った。」(26)
「汚れてはいるが、不思議なことに香港や東京のようにいやな臭いはしない。インドは不潔ではない。身の危険も感じさせない。しかし得体の知れない圧迫感が心身をおそい、歩けど歩けど歩行者地獄、異邦人の群れだ。」(26)
「録ってました僕。SE」(38)
「全部録音してました」
(38)
「ものすごい人混み、で前が見えないわけですよ。なんでこんなに人がいるんだろうと思って。それだけで疲れちゃうんですけど」
(38)
「熱が出そうな状況なんですけど、突然足もとに、人がいるんですよ」(38)
「歩いていると地べたに人が座っていて、つまずいちゃうんですよ」
(33)
「ぶつかりそうになっちゃうの」
(38)
「しかもその人たちは腕がなかったり脚がなかったりで、独特の叫び声を発しながら物乞いをしてるんです」
(33)
「ちょっと悪夢みたいな、情景なんです。その人がなんか歌ってんの。それを録ったんですけど、それ聴くたんびに、熱が出そうで(笑)」
(38)
「僕は人混みにかなり疲れていたが、とにかく先へ先へと進んだ。一歩踏み出すたびに、もう二度と戻って帰れないような不安感にさいなまれる。熱にうかされたような、離人症のような気分になってきた。もうホテルへ帰りたい、とにかく疲れた。」
(26)
「ところが、ふと、歩道に寝ころんでいる乞食を見ているうちに、彼の世界への感情移入がおこり、彼の常に流れている河のような、しかも平和な日常を感じてしまった。」(26)
「街で寝てる人がいかに多いか。最下級民たちがね」(27)
「見ていたらだんだん同化してきて、『あれもいいな』と思うようになってきた」
(27)
「彼の目に映った僕は、遠く別世界から来た異邦のツーリストであり、一歩たりともそんな平和な日常の河に足を踏み入れることのできない人種であったに違い ない。乞食を見たときの憐れみのような感情は一瞬のうちにうち消され、憐れみの感情などは彼にとって何の意味もないことがわかった。」
(26)
「この歩行者地獄を抜けて、ニューデリーへ帰る"安堵の車"のなかから、公園の上に浮かぶオレンジ色のライトを見 た。それは明らかに宙に浮遊しているように思え、その頃、ニューデリーでは相継いでUFOが目撃されて、新聞のニュースにも登場していたし、僕が見たその 物体はUFOだったのかも知れない。」(26)

太田克彦の証言
「細野さんにとってインドでのはじめに出会った大ショックは、おそらくオールド・デリー体験だっただろう。」
(44)
「インドの首都、ニューデリーは美しく整備された都市だ。官公庁の中心で、日本でいえば霞ヶ関といったところだろう。ところが裏通りをひとつ抜けると、そこは朽ちかけて古い建物がひしめくオールド・デリーだ。政府の役人は、ここを見せたがらなかった。」(43)
「『あそこは汚いし、危険だ』という。けれど無理矢理たのみこんで案内してもらうことにした。」
(43)
「細野くんは街の音を録ろうと、とてもあの細いからだ、小枝のような腕では重さの限度をこえるだろうと思われる録音機材を肩からかけ、出発した。だが、一歩旧市内にはいったとたん、重いのは機材ではなく、歴史を背負った街のほうだということを、ぼくも理解した。」
(43)
「黄色い太陽がカンカンと照りつける中で、それに抵抗するように、灰色と土気色のビルが、あちらこちら壊れかけたまま聳えている。道路は決して狭くはない のに、まるで祭の日のように、黒山の人。しかも右から左へと、目まぐるしく動く。交差点には信号がない。クルマはクラクションをたてつづけに鳴らし、歩く 人、走る人、叫ぶ人、大八車のような大きなクルマが駆けぬける。道のまん中を牛がゆっくり歩く。これらが同時に入り乱れて、ひとつの街というフレームで切 りとることができる。」
(43)
「通りをわたろうとしたら細野くんは立ちすくんでしまった。大塚さんと二人で彼をサンドウィッチにして、ようやく人とクルマの激流をわたった。その間も、人びとが交わすまるで意味不明の、音声だけが騒々しく耳にとびこんでくる。」
(43)
「街じゅうホコリと灼熱地獄のなかを、牛車や人にぶつかり、クラクションと人のざわめき、叫び声のなかで、ふと隣の人の顔を見ると口をパクパクしているだけ。耳の奥では虫のうなり声のようなウワーンという音が聞こえるだけ。」
(44)
「この喧噪をさらにつん裂くようなカン高い音が耳を打った。」(43)
「わめき声とも叫び声ともつかない、声か音かも弁別しにくい響」
(44)
「『エーロッ、エーロッ』というふうに聞こえる。」(43)
「しばらくはそれがどこから聞こえてくるのか気がつかなかった。ふと足もとを見ると」
(44)
「暗黒舞踊のメンバーのように、からだじゅう灰色に塗りたくったひとりのインド人が、道を仰向けに、叫びながら這ってくる。これだけでもショッキングなパフォーマンスだが、さらに強烈なことに、彼は片腕、片足なのだ。」(43)
「片腕を切り落とし、もういっぽうの手と、赤ん坊の手よりもさらに細い足を」
(44)
「太い鎖で結びつけ、何のための鎖かは理解できない。およそ見せ物としか思えない。」(43)
「うす汚れたオレンジ色のターバンをまいた頭で、弁当箱のフタのようなものを押している」
(43)
「小皿を肩で押しながら大声を出している」
(44)
「この入れものの中にはコインが2、3枚はいっていた。」(43)
「ぼくたちが日頃生きているという現実感覚を超えて生きている姿を見てしまった。もはや彼らが毎日どうやって食事し、排泄し、どうやって起きている時間を過し、何を考えているかを想像することはまったくできなかった。」
(44)
「この光景を見た細野くん、とたんに、『太田さん、帰ろう。もう帰ろう』と蒼ざめた顔を向ける。いっしょにいたぼく とて、やはり平気ではない。しかし酒を飲んでいて、先に酔っ払われると介抱する側にまわらなければならないといったところか、『まだ街に踏み込んだばかり なんだから、もう少し先へ行こう』などとぼくは見栄をはる。」(43)
「ぼくたちはただ彼につまづくことだけを恐れて遠ざかった。」
(44)
「ぼくたちは、だれひとりとしてヒンズー語も、タミール語も、ベンガル語もできはしない。いや英語ですらじゅうぶん聞きとれるとはいえない。にもかかわらずぼくたちの出会ったインドの音の総和は、ひとりの心を大きくとらえ、聴覚にまで一大変動をきたしてしまった。」(44)
「インドに着いたばかりの細野さんは、あきらかに情緒が安定していなかった。街の喧噪に興奮し、夕方、回教寺院から 聞こえるコーランの声に気をとられ、コブラ使いや辻音楽師の後を追っかけた。ぼくもドキュメント風インド・ミュージックとして、かなりコンセプチュアルな ものを想像していた。」(44)
「細野さんはある瞬間から録音機を持って走りまわることをやめてしまった。つまりアマチュア・カメラマンが、未知の 土地へきてあちらこちらにカメラを向けずにはいられない気持と同じような条件反射的欲望をたち切った。ナマの音を聞いて興奮し、そのあとにくる虚脱感に突 然シジフォス的反抗を試みたのだ。なぜならナマロク方式だと星のまたたく音、太陽の沈む音のようなダイナミズムを表現することは決してできないからだ。」(44)

横尾忠則の証言
「目覚めると、とてものどが痛い。冷房が効きすぎか、身体の中身から風邪を引いている様子。午前中街(ニューデリー)に出るが、午後から自室のベッドに横たわる。他のメンバーはオールドデリーの人類の巣窟へ初体験の旅に発った。」
(42)
「細野、太田の両君が目をまるくして『疲れた!』と言ってオールドデリーから帰ってきた。ショックが大きかったらしく、二人共『風呂に入りたい』と言っ た。オールドデリーの無数のインド人が投げかけた視線が身体にこびりついているのだろう。一刻も早く洗い落としたいようだ。」(42)
「夜は政府招待のカクテルパーティがあるという。」(42)
「夜になって急激に身体がまいってきた。心配した大塚さんが医師を呼んでくれた。三十六・八度の微熱。」(42)
「病名は風邪。夕食はTCI(旅行社)が差入れてくれた果物と、細野君が置いていってくれた日本から持参の豆菓子。」(42)
「ちょっとした騒動が隣室の太田さんに起きた。彼が風呂に入ったまま鍵がこわれ、風呂場に閉じ込められた。風呂場から大声を上げて助けを求める太田さんの 声で、細野君がフロントに行き隣室に入ったものの、風呂場の鍵は外からも開かない。大工さんが鍵をこわしにかかったがそれでも不可能。ついに別の部屋の風 呂場の一部(鏡)をこわし、そこから救助隊が突入、太田氏は一時間後にやっと救出される。」(42)


1978/04/05 ニューデリーからアグラへ移動。

「ニューデリーの町は道が広く、歩いていても気持ちの良いところだが、好きにはなれなかった。」(26)
「滞在中、ある時、道端で突然懐かしい香りに出会った。それは昔、幼稚園の庭におい茂るペンペン草をつんでいた時、 小さな僕を取りまいていた、あのむせかえるような草の香りを思い起こさせた。一瞬、忘却していた時がツーンと僕のうちを走ったのだ。このような体験には幾 度かめぐりあったが、ニューデリーにはその程度の興味しかわかず、買い物にも観光にも意欲はわかなかった。」(26)
「クーラーのないインド車で3時間かけてアグラっていう内陸まで移動」(33)
「タジマハールでは遺跡を見る」
(33)
「お城みたいなホテルに泊まりました」
(33)
「かなり疲労したまま」
(33)

横尾忠則の証言
「アグラに車で向かう。」
(42)
「アグラまでの道は猛烈な砂塵ですごかった。インドの過酷な自然である。」(42)


1978/04/06 アグラからジャイプールへ移動。

横尾忠則の証言
「朝から日中のように暑い。アグラ城を見学のあとジャイプールに車で向かう。途中、野生鳥類自然公園に立ち寄るが、一行からはずれてぼく一人レストランに残る。自らの体調の勝れないのを怨む。」
(42)
「ジャイプールまでの四時間の車の道は疲れた。」(42)


1978/04/07 ジャイプール2日め。

横尾忠則の証言
「そろそろ下痢を始めた者が現われだした。どうやら強烈なスパイスのせいだろう。」
(42)
「ぼくは前もってみんなに、インドに下痢はつきものだから心配することはないと説明していた。下痢第一号が出るのは五日後のジャイプール辺りだろうと予言していたら、案の定ライターの太田克彦氏がジャイプールでダウン。」(42)


1978/04/08 ジャイプールで下痢を発症。ボンベイへ移動。

「病気になったきっかけっていうのは、氷です」(35)
「あまりに暑いからジュースか何かに氷を入れて飲んでしまった。みんなはウィスキーのロックだったと思う。横尾さんも、僕と同じでお酒が飲めなかったのかな」
(33)
「やっぱり下痢はイヤですから気をつけてたんですけど、うっかり氷をかじったら、とたんに僕も横尾さんもやられてしまった(笑)」
(36)
「ジャイプールへ来て二日目の夜」
(26)
「ロビーで解散して、部屋に戻って」(33)
「かなりひどい下痢がはじまった。明け方の四時頃、全身をおそう緊張感で目が覚めると、下腹に激痛が走った。トイレへかけ込むと、便は水のようだった。」
(26)
「おかしな話だが、下痢を、体内の毒素を外に出す浄化作用として受け入れる用意が僕にあったことに、下痢をしてみてはじめて気がついた。」(26)
「横尾さんの本にも腹下しの体験は書いてあったから、これでいい、身体を浄化するんだって思った(笑)」(45)
「ある意味では気持ちよかったですけど」
(36)
「それでも、浄化どころではなく、かなりひどい症状になってしまい、僕にかぎり嘔吐を伴うまでになってしまった。」
(26)
「嘔吐と下痢が数分毎に襲ってきた」(33)
「もうコレラみたいなすごい症状」
(36)
「上から下からですね。たいへんなことです」
(35)
「徹底的にやられましたよ」
(36)
「得体の知れない下痢で、もう重症で、死ぬかもしれない症状だったんです」
(34)
「一人で悶々としながら朝を迎え」(33)
「最悪なことには、症状が最もひどい朝に次の町に移動するはめになってしまい、一体僕はどういう業を背負っているのだろうかと、深刻な気分になってしまった。空港のロビーで、ついに我慢できずに吐いてしまった。」
(26)
「日本人の仲間も一緒に行ったのに、誰も近づいてこなくて、みんな冷たいんですよ(笑)。ドロドロになりながら座っていると」(36)
「うめいている僕を見て、その場にいた白人の青年がハンカチーフをさし出してくれたのだ。その青年の目はとても澄んでいた。」
(26)
「なんか日本人より優しいなってジーンときたりね」(36)
「朝8時にボンベイ行きの飛行機に乗った」
(33)
「ジェットのなかでも二度吐き、相変わらず下痢は止まらない。」
(26)
「3時間のフライト中はずっと機内のトイレに入りっぱなし」(20)
「苦痛の飛行のあと、ボンベイ空港からタジマハール・ホテルまでの移動はもう地獄だ。」
(26)
「タクシー移動の1時間が一番辛かった」(33)
「全身の筋肉が痛み、肩がこって首も痛い。脱水症状と暑気で喉はカラカラに乾き、吐き気もつのる一方。たっぷりと我慢の神髄というものを味わわされた。」
(26)
「一生で一番我慢した経験だったと思う」(33)
「あんな目に遭ったのは、あれ以来ないですから」
(38)
「とてもそれ以来僕は、我慢強くなりました」
(35)
「ボンベイの街は異臭がたちこめ、異常に暑かった。」
(26)
「道の草の匂いが昔の日本と一緒でしたね」(45)
「これほど時間の長さを味わったことはなかった。ホテルに到着することは、まさに天国の門をくぐることのように思えた。ホテルの部屋で、まず僕は自分の顔を鏡のなかに見た。顔は病気のハリジャンそのもの」
(26)
「いわゆる、よく言いますけど死相が表れてるという。そういう状態だったんです」(35)
「どこから見ても死の暗い陰影が浮き彫りにされていたが、なぜか心は平静だった。」
(26)
「健康そのもののベルボーイが紅茶を部屋へ運んできてくれた時、彼の身体から新鮮な水の香りが漂ってきたのには驚いた。その香りを胸いっぱいかぎながら、僕は一刻も早くマドラスへ行って、海が見たいと思っていた。」(26)
「医者は憶えてますけどね」(38)
「一応白衣着てたり、してましたね」(38)

横尾忠則の証言
「同室の細野君、下痢と嘔吐」
(42)
「重症だった。嘔吐を伴ったものだけに彼はひどく衰弱してしまった。」(42)
「げっそり頬の肉が落ち、目が窪み、普通でも大きい目がさらに大きく見えた。」(42)
「ちゃんと立てなくて、カゲロウみたいになっちゃって」(40)
「この日は丁度移動日」
(42)
「予定のオーランガバード、アジャンタ、エローラ行きを変更してボンベイに向かうことになった。全員に披露の色が濃くなり、一日も早く南の海でゆっくりしたいという希望が圧倒的。」(42)
「ジャイプール空港で細野君が急激に悪くなり、ボンベイのホテルに着くなり、医者にかかり、そのまま寝込む羽目になってしまった。」(42)
「お医者さんが、細野さんの部屋でかけてる音楽がえらい気に入って」(38)
「メガネかけた人」
(38)
「えらい音楽に関心もったね」
(38)
「テープですよね、あの頃は。そのテープを欲しがったわけよね。それで、それと交換条件で、タダになったんじゃない?治療費が」(38)
「確かね、タダになったんだと思う。治療費ぐらいは」
(38)
「注射器を、そこの水道で洗ってんだもん」
(38)
「錆びたような注射器」
(38)
「水道の水で洗ってんだもん。これはやばいなと思って」
(38)
「水で病気になってんのに、またさらにさ、そんな針の先、水で洗われたら、大変なことになっちゃうもん」
(38)
「ぼくも扁桃腺が完治しないまま下痢が始まった。大石さん、塚本君も仲良く下痢。大塚氏のみ健在。だが彼も時間の問題だろう。」
(42)
「結局ホテルに閉じこもったまま、起きたり寝たり。これもインド旅行である。お互いに顔を合わすたびに身体の話題で終始。」(42)


1978/04/09 マドラスを経由してマハーバリプラムへ移動。夜、横尾忠則とUFOを目撃。

「横尾さんのあれは、特技でしょうか」 (35)
「円盤を呼ぶということで有名だったんです。3週間ぐらいの旅の中で、時々『円盤、呼ぼうか』なんて言ってね、夜になって外に出てったりしてたんですけど、これがなかなか出ないですね」
(28)
「横尾さんと一緒に、何かいろんなものをこう、空から探し出しては、見つけてたんです。それが、空飛ぶ円盤なんです」
(35)
「紅茶をすすりながら、空をずーっと見上げてて」
(35)
「ずーっとお願いしてっとなんか出てきたり、するんですよねこれが。まあとは言えね、まだ僕はそういうものを半信半疑で見てましたが、ほんとに横尾さんて 人は当時から、まあ妙な、不思議な人でしたね。ところが僕の中にもそういう不思議なところが、同調するものがあって、とても似てるなと、思ってました」
(35)

横尾忠則の証言
「のどの痛みは治った。腹具合は五分五分」
(42)
「細野君も奇跡的に回復。全員揃ってマドラスに発つ。」(42)
「さすが南インド、マドラスは暑い。34度。カークーラーは全く効かない。」(42)
「マドラス空港から四十五分」(42)
「リゾートホテルに着いたのは二時過ぎだったか。ホテルの前は海辺。辺りには、このホテル以外建物が一軒もない。全く俗世界から孤立している。」(42)
「全員が揃って顔を合わせるのは食事時だ。話題はきまって身体に関することばかり。各々が健康状態を報告するわけだが、きまって一人か二人が下痢をしたり発熱している。」(42)
「夜十時、細野君と二人でホテル横の空地で空に向かって呼び掛ける。勿論UFOが目あてである。約一時間意識を集中して、この間UFO以外のことは一切考えない。幸運にも応答あり。奇妙な光体の運動を発見した二人は思わず大声を上げる。」(42)

太田克彦の証言
「横尾さんと細野さんは、夜になるとしばしばホテルを抜け出した。1978年4月9日の夜更けに、二人は興奮して目をギラギラさせ息をはずませながら戻ってきた。」
(44)
「『細野君見えた?』」(44)
「『うん、見た見た』」(44)
「『あれは絶対に本物のUFOだね』」(44)
「『うん、絶対にそうだ』」(44)
「ベッドに座って唖然としているぼくの前でしばらくこんな会話がやりとりされた。ぼくもつられてだんだん興奮している。」(44)
「『明日は太田さんも連れていこうよ。ぼくたち二人だけで騒いでいてもあまり信じてもらえそうにないから』と横尾さん。」(44)


1978/04/10 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。

※編注:『はらいそ』特集1。


1978/04/10 『宝島』5月号(JICC出版局)発売。
対談/ぼくたちがやっているのはノスタルジックな音楽じゃない レオン・レッドボーン × 細野晴臣


1978/04/10 マハーバリプラム2日め。

「マハバリプラムは別世界だった。インドではなく、療養所だ。」(26)
「旅の目的である、遺跡めぐりとかね、そんなことを全部、やめちゃいまして、ホテルでずーっとなんかこう、療養してたんですね」(28)
「食事がかなりまずかったうえに、食欲もなく、まるで断食道場のようなあり様だった。」
(26)
「強制的な断食」(38)
「食べれないし、そのーなんだ、出る一方ね」
(38)
「すっからかんですよ」
(38)
「身体の力は抜け、歩くのも一苦労だったが、煙草を吸わなくとも平気でいられるのが嬉しく、身体が浄化されていると思うようになった。」
(26)
「体調は最悪だったけど、そういう極限状況を体験したかったのもあって……だから、理想の旅だったとも言える。死んじゃうかも、でも軽やかだ、という」(45)
「『こうやって死んでいってもいいんだろうな』って思ってました」
(40)
「僕の願いはかなったわけでね」
(38)
「ただし、病気は永遠につづくとしか思えなかった。横尾さんは、ホテルを病院といっていたくらいだ。」
(26)
「『これは危ないね』と。ホテルの部屋でね。これは帰んないと治んないよ、ということになって」(38)
「早く帰国したほうがいいんじゃないかって二人で話してて、メンバーに言ったら、怒られたんだよね(笑)。なんか、『弱虫!』みたいなこと言われて(笑)」(38)

横尾忠則の証言
「ビー チでの四日間は、ついにホテルから一歩も出ることなく、病室(いや客室)の窓から見える一本の水平線だけを眺めて闘病生活を送ることになったのである。勿 論、細野氏もベッドに横たわったままである。彼はここでの生活をサナトリウムと呼んだ。二人とも下痢が激しく、部屋を離れることができない。食べるものと いえばランチとディナー時に出るスープだけ。水、果物は医者から禁じられていた。他の食物は全て香辛料が強く、舌も胃も全く受けつけてくれなかった。こん な具合で四日間は断食同然だった。二人は、修行だと思えばこれも快感だね、と変な理屈をつけて、半ば愉しんでもいた。」
(42)


1978/04/11 マハーバリプラム3日め。マドラス駐在の古沢領事の訪問を受ける。

「問 題の下痢はまだ繰りかえし、精神的圧迫も限界に達しそうになった。もし、一生治らなければ栄養失調で確実に死んでしまうだろうと思うと、恐怖が湧きおこ る。あと一〇日もインドで頑張れるのか、自信はなくなり、すぐにでも東京へ帰りたい気分だ。同行の横尾さんも風邪と下痢でまいっている。でも、あと一〇日 間は耐えなくてはいけない。現実を受け入れることだ。なぜか、そう思えてならなかった。」(26)
「この二名の旅行者の病気を聞きつけて、領事館のボスが訪ねてきてくれた。彼は衰弱している僕たちを見るなり、『死 にます』と断言した。どうやら、症状は悪化し肝炎にまでなってしまったらしい。領事の一言が精神的パニックをひきおこし、ここにいたら死んでしまうと絶望 的に落ちこんでしまった。とんでもないインド旅行になってしまった。」(26)
「でも、これは僕にとって、今回の旅の大きな意味だ。下痢は苦しく、嘔吐は地獄だ。肝炎は治らないだろう。死に近づ いてゆく。こうなると、バッドトリップと変わらない。自分の精神の弱さがこたえる。僕の生命は弱っている。だが、その最悪の状態は幻覚であるということも 知っている。帰国する以外、そこから脱出するすべはない。」(26)
「そういう時に、マドラスの領事の方からお呼びがかかって、『日本食を食べなさい』と」(35)
「"食べて元気を出してくれ"と、自宅へ招待してくれたんです」(33)
「予防接種は特にしていなかったので」
(25)
「『肝炎になったら治りませんよ!』と脅されたのを覚えてる」
(25)
「その夜、放心状態で暗黒のインド洋を見ていると、数機の飛行機とジグザグ飛行をする物体、それに目の高さの位置で水平に飛ぶかなり巨大な流星らしき物体 を目撃した。その物体がUFOであろうとなかろうと、自然界が光のオンパレードを披露してくれたことで、僕の気分は少しずつ変化しはじめてきた。」
(26)

横尾忠則の証言
「何度か夜中に目が覚めたが、快眠。久しぶりに味わう快感。『幸福』の一言につきる。熱も下がった。下痢も止まったようだ。」
(42)
「細野君の部屋をのぞくと、あにはからんや、彼は再び下痢に襲われ長々とベッドに横たわっている。目がくぼみ、するめのように身体が薄っぺらくなっている。」(42)
「ぺったんこになっちゃって。シーツの高さとお腹の高さが同じになってるの。あんな二次元の人間、初めて見た(笑)」(40)
「一人回復すればまた一人倒れる。こんなパターンが連日続いている」
(40)
「カルマ多き人々の旅である。まさにインドで己の地獄を見せつけられている。最低であると同時に最高のインドの旅といえる。」(42)
「終日、残留組、細野、塚本、横尾組、ホテルのテラスで無目的に無意味な無限の時間を過ごす。」(42)
「マドラスの領事が現われてからは事態が急変した。」(42)
「仲間の一人が、町で在マドラスの日本大使と知り合いになって、僕らのことを話した」(40)
「総領事の話によると、水、果物(傷のついた)、ソフトドリンク、ウイスキー(氷が入っているので)、牛乳、生野菜は絶対禁止するよう注意される。だがすでにこれらを胃に運んだ後である。恐ろしいのはカンエンだそうだ。」
(42)
「『まさか、あなた達は水は飲まなかったでしょうね? またソフトドリンクや、アイスクリーム、生野菜は食べてないでしょうね? インドの肝炎の恐ろしさは御存知でしょうが、これにかかると治りません。死にます!!』」(42)
「恐怖的観念を植えつけられる。」(42)
「『死にます!!』ーーこの一言でぼくの心臓は早鐘のように激しく打った。思わず細野氏と顔を見合わせ、『やばいなあ!』という無言の信号を目で送り合っ た。領事の言葉は演説調で、奇妙に説得力があった。勿論、領事という立場が、われわれにある種の威圧感と説得力を与えたことも事実であった。」(42)
「ぼくは恐る恐る、『では肝炎の予防注射はできないでしょうか?』と尋ねた。」(42)
「『そんなものないですよ、インドには。第一高くて打つ者はいないですよ』」(42)
「『では、どうすればいいんでしょう?』」(42)
「『とにかく私の家に来なさい。日本食を用意しましょう。明日みんなで来なさい。あなた方二人にはおかゆを作りましょう』」(42)


1978/04/12 マハーバリプラム4日め。マドラス/古沢領事宅へ昼食に招かれる。

「昼に先日のマドラス領事から和食の招待をうけていた。その昼食会で、僕と横尾さんの果てしのないと思っていた下痢がピッタリと治ることになるのだ。不思議な体験だった。」(26)
「ヒーラーが出てくるんです。日本人の女性で、総領事館の奥さんなんですけど」(34)
「その奥さんがまたこれがね、超能力者で」(35)
「宇宙人みたいな人」
(25)
「カクテルドレスを着て真珠のネックレスをして三つ指ついているような人なんですけど、すごく顔が大きな人なんです」
(36)
「もう重要な登場人物なんです。主人公ですね、もう」
(34)
「この人がいなかったら死んでたかも知れないんで」(34)
「領事は軍人のような人で、神経質そうに何かに追われているかのように喋りまくる。その反対に夫人はおっとりとした性格の人で、どこか人間離れした超俗的な雰囲気をもっていた。この御夫婦とテーブルを囲んだ」(26)
「なぜか僕と横尾さんだけ奥さんの居るテーブルで」(33)
「彼女が向かいに座って、横尾さんと僕が並んで」
(36)
「そこで出されたおかゆが僕たちを救ってくれた。」
(26)
「彼女の作ったおかゆ」(25)
「鮭の焼いたのとお粥を出してくれた」
(33)
「インドで僕は、ほとんど何も食べず」
(35)
「まったく食事を受けつけなかったんです」
(36)
「紅茶とココナツ・ミルクを飲んでただけです」
(35)
「それだけで生きてたんですけど」
(35)
「夫人は病人食を『これを食べれば治ります』と確信的に断言していた。」
(26)
「自分は病気を治せると」(33)
「治してあげますと」
(34)
「『一緒にごはんを食べれば治りますよ』」(35)
「"食べ終わったら、病気は治りますよ"と言われて」(33)
「面白いことにその夫人も病人食につきあって、おかゆを食べだした。しかも、はじめての会話で霊感とか赤い球体の飛行物体の話をもちかけてきたので、これはただの昼食会ではない ということに気がつきだした。」
(26)
「円盤の話とか、赤い球が飛んで来るっていうような」(35)
「サイキックな話」(33)
「実際、この夫人は腕時計が狂うくらいのパワーと予知能力さえももっていると言っていた。」(26)
「腕時計をはめると狂うとか」(33)
「自宅の庭に面したキッチンで料理をしていると」(25)
「庭に直径40〜50センチの赤い玉が飛んでくるのをよく見るとか」
(33)
「彼女は幼い頃からそういう球体を見ていて、祖母から世の中には5つの色の球があると教えられたと。そんな話をダウンしていた僕と横尾さんはボーッと聞いていたんだけど」
(25)
「そのときは僕らはエゴもなにもない状態だからなんでも素直に受け入れられた」
(36)
「横尾さんと僕をこう、治療してくれたんですね」
(35)
「おかゆを食べてるうちに、それまでの下痢が瞬間的に治っちゃったんですよ、もちろん横尾さんも一緒に」(36)
「30分ぐらいで」
(34)
「気がついたら二人とも元気になっていた(笑)」(33)
「不思議だったです」
(35)
「僕はこの夫人に自分の心のなかを透視されているような気持ちになり、緊張のあまり思考が混乱、コントロールできなくなってしまった。考えまいとして考え てしまったりする僕の心の乱れを夫人は見透かしたのか、いつの間にか奥へひっこんでしまい、そのまま僕らがひきあげるまで戻ってはこなかった。」
(26)

横尾忠則の証言
「もうこれ以上インドで旅を続ける意思はない。細野君と二人でボンベイに帰りゆっくり療養することにする。」
(42)
「マドラスの日本領事館の総領事の自宅で昼食に招待されることになった。救いの神である。米だ。」(42)
「車が故障してついに現われなかった気の毒な二人は別として、残る五人が待望の日本食にありつくことになった。」(42)
「日本食が食べられるということになると、ぼくも細野君もそれだけで元気になり、ついさっきまでふらふらと地球の重力から解脱したように歩いていたのが、急に足が地に着き始めた。しかし、『死にますよ!』という言葉の呪縛からは完全に解放されてはいなかった。」(42)
「領事の私邸は厳重に警備されていた。聞くところによるとテロの攻撃から守るためとか。それより驚いたことは、私邸の玄関に大きな立派な菊の御紋が飾られ ていることだった。一瞬足が立ちすくむ思いがしたのはなぜだったのだろう。まるで皇居に足を踏み入れるような緊張感を抱いて、おずおずと中へ入っていっ た。領事と夫人が玄関でわれわれを迎えてくれた。領事夫妻の目から見れば、われわれは、どう見てもインドを放浪しているヒッピーにしか思えなかっただろ う。場違いの所に来たという気持がわれわれ全員にあったが、相手にもそう思われたのではないだろうか。」(42)
「食卓には見事な日本食が並べられていた。われわれはまるで欠食児童のように、目の前の日本食に思わず生唾を飲み込んだ。ぼくと細野氏にはおかゆが用意されている周到さ。」(42)
「おかゆを食べる。なかった食欲が回復。細野君も同様。」(42)
「日本食は実に美味かった。つい先刻まで何を口に持ってきても受けつけなかったのが嘘のように、日本食は胃袋を満たしてくれた。細野氏もぼくも生きかえった思いがした。」(42)
「領 事は食事中も忙しく話し続けている。」(42)
「何かを恐れているようだ」(42)
「テロの恐怖が話題になっているようだった。日本領事館がテロに狙われているということらしいのだ。またインドの国内線 の飛行機には爆発物が平気で積まれているという。空港に働くインド人をたった一ルピー(三十五円)で買収して、機内に荷物を運ばせているらしい。あなた達 も注意しなさい、と言われるのだが、どのようにして注意していいのかわからない。領事はどうもおっかない話がお好きなようだ。役職上、無理もないことだろ う。まるで自らの恐怖心を言葉にして吐き出すことによって安心しているように思えた。」(42)
「ところが夫人は領事の話題などには耳も貸さず、安堵感そのもの、実に堂々としたものだ。」(42)
「皇太后みたいな」(40)
「観音さまのような人で不思議な超常体験のある人だった。」
(42)
「『あら、この方(細野氏のこと)、悟ったような顔をしていらっしゃる。そしてあなたは(ぼくのこと)霊感がおありなんですか? いえ、ふとそんな気がしたものですから……』」(42)
「『霊感があるかどうかは別として、幽霊は見たことがありますが』」(42)
「『あら、私はもっといいものを見ましたわ、お金の精を見ましたの』」(42)
「お金の精とは次のようなものである。」(42)
「ある時、ふと家の中から裏のゴミ捨て場を見たら、そこの中空になんとも美しいピンクの光に包まれたドッジボール大の光体が浮いていたというのだ。これは東京での出来事であるが、インドに来てからも部屋の中でこれと同じものをごらんになったというのだ。」(42)
「思わず細野氏と顔を見合わせ、小声で『小型UFOだよ!』と夫人に聞こえないように言った。彼は夫人のことを、もしかすると宇宙人かも知れない、と言っ た。食後ぼくは夫人とこのような超自然的な話をしたいと思ったが、夫人はわれわれの前から姿を消してしまった。細野氏に言わせると、夫人はわれわれの貧弱 な心を読んで、二度と現われなかったのかも知れないと言った。当たっているような気もする。」(42)
「領事の所で日本食を頂いてからというもの、細野氏もぼくも見る見る元気を取り戻した。断食状態の後、一度に胃袋に食物を流し込んで大丈夫かな、という危惧も完全に吹っ飛んだ」(42)
「本当に命拾いした」(40)
「日本食というよりこの夫人の波動によって治されたような気がしている」
(41)

太田克彦の証言
「ピンク・ペリカン・ラベルのビールを飲みつづけていた写真家の大塚さんを除いて全員身体に変調をきたしたこのインド旅行の病人団員たちは、マドラス領事の古沢さん宅に招待され、天麩羅料理をふるまわれてから急に元気を回復しはじめた。」
(44)
「テーブルを囲みながらぼくの隣では古沢夫人が横尾さん、細野さん相手に気になる話をしきりにしているのがチラチラ耳にはいる。つまり夫人がUFOに遭遇 した体験をこと細かに語っているらしいのだが、ぼくの真ん前では領事が、<日本人の先祖が南インド人説>とか、<ハイジャックを恐れる在印日本人公務員た ち>の話に熱弁ふるっている最中なので残念ながら夫人のUFO体験を詳しく聞くことはできなかった。」(44)


1978/04/13 コチンへ移動。ホテル・マラバルにチェックイン。夜、UFOを目撃。

「僕の病気はきっと夫人の波動で治った!という確信をもち、事実翌日の朝は嘘のようにすっかり治っていた。」(26)
「あの宇宙人のような波動をもつ夫人の力で病気が完治したと思っている。」(26)
「インド南部の港町コチン」(47)
「ホテルはマラバルといい、きれいではないが情緒があって、居心地はけっこう良い。もう一軒、ボガッティ・パレス・ホテルというのが離れた島にあったが、 そのホテルは造りが豪華で、庭も美観を呈し、つまりカッコイイのだが、飲み物や食事に不自由しそうなホテルだった。マラバルはレッシーというヨーグルトが 冷たくて旨いし、しかも庭は夕刻から涼しく、サンセットを眺めながらチャイをすするのが気に入ってしまった。この辺りはハエや蚊が見当らず、まるでインド らしくない。何と言ったらいいのか、ヒンドスタン〜トロピカーナといった感じがし、ジャワとか南太平洋に近いところで、インドネシア風の景色にも思える が、話に聞けばインドの南部はそれらのルーツであるらしい。」
(26)
「治ったあとに僕は、ほんとに、横尾さんと一緒にまた、円盤をはっきり見ました」(35)
「他のメンバーは、どっか行っちゃったんで、二人だけで」
(28)
「7時から8時ごろまでUFO観測をしていて」
(46)
「海岸沿いのホテルのガーデンで、さびた鉄の椅子に腰かけながら観測していました」
(46)
「ミルクティーを飲みながら」
(46)
「横尾さんが、やはりね、『ここで、円盤呼ぼうよ』と。ちょっとお願いしてみるっていうんで、集中し出したんですね」
(28)
「横尾さんが『月に向かってまっすぐ向いていた方がいい』というので、そのとおり月に向かってテレパシーを送っていました」
(46)
「ぼくの場合は具体的に、"アダムスキーの友達"のラミューさんやオーソンさんの名前を呼んで『聞こえたら現われて下さい!』というふうに。本気でやってたんですよ」
(46)
「人がまわりにたくさんいた」
(46)
「1時間ぐらい顔を上に上げていたので、首が痛くなりましたよ」
(46)
「とにかく疲れちゃって、もうやめようっていうことになったんですけど、その瞬間にね、月の下に、光が飛んだんですよ」
(28)
「突然UFOが現われたんです。横尾さんが『あれあれ!』と言うもんで見ると、月の下あたりに光の点が1つ。その光は、私が見た瞬間から、向かって右に移動を始め、約3秒後、スーッと上にあがって消えてしまいました。私は興奮して思わず声を出しました」
(46)
「叫びました。普段あまり興奮しない横尾さんでさえもそのときだけは手を合わせて、『ありがとうございました!』って祈ってましたよ」
(46)
「それが僕は初めて、『呼べば来るんだ』っていう体験でした」
(28)
「初めての認識ですね。光る星のようなものが、動いて消えてったと。あの、くねくねっと曲がってたんです」
(35)
「円盤の形っていうのがあんまりないんですよ。えー、なんか、光る物体ですね。未確認飛行物体と言ったほうがやっぱりいいですね。UFOですね」
(28)
「それが円盤かどうかはわからないけど、とにかく光る物が飛んでるっていうのは確かですね」
(28)

横尾忠則の証言
「ボンベイで静養する計画は中止。全員でコチンに向かうことになった。アラビア海に面した南のリゾート地である。」
(42)
「街の中をたくさんの運河が流れている」(41)
「インドのベニスと呼ばれる港町」(41)
「昼過ぎ、コチンに着く。飛行機から見ると運河に仕切られ、椰子の木が密生した中にカラフルな建物が並んでいる。きっと気に入りそうだと思ったら、連れていかれたホテルはお世辞にも上等とはいえない。」(42)
「夜、細野君とホテルの海に面した庭園より不思議な光体を頭上に発見。」(42)
「「細野君と月に向ってUFOに波動を送ったら実際に現われた。」(41)
「風邪の林君、細野君、横尾の他はカタカリ・ダンス見物。」(42)


1978/04/14 コチン2日め。午後、クルージングを楽しむ。

「コ チンはしだいに僕の肌に合っているところである事がわかってきた。ここは全部で一〇〇〇もの島が集まった、瀬戸内海のような南部インドで、島々の間を静か な海が河のように回りこみ、また、島の内部まで水路となってつづく。ここは絶対、ロケーションに最適である。この世の楽園だ。ここを舞台にした映画を作る べきだ、と僕は思う。」(26)
「こんな楽園に居ついてしまったら、北の方へ苦労しに行くのが億劫になってしまった。それどころか、東京に帰ることさえ忘れてしまいそうだ。こう思ったのはコチンというところが僕にとって特別な意味を持つような、以下の体験をしたからなのだ。」(26)
「まったく今日のシー・クルーズには興奮した。島々の間を流れる海に沿って、ゆっくり静かに巡って行ったのだ。ホテ ルの前はすぐ海で、そこの桟橋から小型船というよりもボートのようなに小さい舟に乗って行く。その舟には屋根があり、そこに上って眺めていけば、こんな素 晴らしい航海はない。つい数日前まで下痢に悩まされていたことなども、ふっとんでしまった。」(26)
「昼間の太陽は、ここでは暑さよりも熱さを感じさせてくれる。島に近づいてゆくと、好奇心の強そうな住民がどこでも 家屋から出てきて、どこでも手を振る。 なぜか、ここの人々は好きだ。女の子はとても可愛い。ポリネシアで見る顔に似ていて可愛すぎると思ったほどだ。将来、ここからスカウトされて、スターにな る娘がいるかもしれない。」(26)
「島の水路へと、いよいよわけ入って行くと、そこは椰子と竹だけの密林である。ここへは、きっとまた来よう。小型船 をまたぐようにして、カナルのような海を爽快に巡って行くうちに、僕は自分が以前、こんな風景と出会っているような気がした。この気分はデ・ジャ・ヴでは ない。」(26)
「それは、数年前に見た夢と同じなのだ。その夢のなかでは汽船は模型大で、運河もミニチュアのセットであり、僕はそ の汽船にまたがって、ユックリと運河を巡って行くという気分の良い印象的な夢だった。この時、僕はふと考えた。一体全体、何が僕をここインド南端のコチン に導いたのだろう。僕は誰でもするように、空へ問いかけてみた。そして、空を見上げたらちょうど視界の中心に、雲にしては奇妙な半円形の物体のようなもの を捉えたような気がした。それが月である事に気がつくまでに少し時間がかかった。」(26)
「真っ昼間、しかも真夏の太陽がギラギラ照りつける海。空ははっきりとした青に染まり、雲は翳りなき白。夏の午後三 時一五分。導いたのはお月様であったのか。間をおいて再び空を見上げたら、昼間の空にうっすらと月を確認した。特別不思議なことではないのだが、その一致 が何となく僕を納得させ、そして納得した瞬間、月はもう雲に覆われて場所を見失った。その間、五秒ぐらいのことである。」(26)
「昨日見せられたUFOは、横尾さんと一緒に月に向かって想念を送った、その直後だった。しかも、それは下弦の月の すぐ下を横切っていった。昨日も月、今日も月なのである。そういえば、ジャイプールを発つまで月を見ることもできず、おまけに体調も悪かったのだが、海辺 でひさしぶりの月を発見した時、とても嬉しかったし、それから徐々に体も回復していったことを考えても、やはり、月は僕の守護神であると信じるようになっ た。」(26)
「異国でも東京でも月は同じなんだという安堵感があってね。インドに来てからは、オールドデリーのわけのわからない雑踏のなかを歩き、どんどん元気がなくなり、そして下痢になって、悪夢を見ていたようだったけど、月が非現実と現実の接点のように思えたんだ」(25)

横尾忠則の証言
「午後、船で運河巡り。」(42)
「明夕トリヴァンドラムに発つ予定だったが、明朝に予定変更することになった。この街に三日もいることはない。」
(42)


1978/04/15 トリヴァンドラムへ移動。

横尾忠則の証言
「焼けるような陽射し。赤い土、密生した椰子。異質なインド。赤、ピンク、青、緑、黄、色とりどりの家。現職のサリーに漆黒の肌。紺碧のアラビア海。」
(42)
「夜、雨。」(42)


1978/04/16 トリヴァンドラム2日め。夜、ボンベイへ移動。

横尾忠則の証言
「細野君に借りた本『宇宙からの来訪者』(ブリンズリー・ルポア・トレンチ著)を読みながら昼寝。」
(42)
「午後八時二十分の飛行機で、ボンベイへ再び。」(42)


1978/04/17 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。

※編注:『はらいそ』特集2。


1978/04/17 ボンベイ2日め。

「インド三昧です。買い物です。元気になったし」(35)
「病気が治った途端、僕も横尾さんも物欲が復活してね(笑)」
(33)
ラタ・マンゲシュカールはじめ、レコードもたくさん買いましたね」
(45)
「70年代のインドっていうのは、インド歌謡の全盛期です。映画も、ほんとに面白かったです」
(35)
「インドの映画の表面的な流れ、ファッション、会話のテンポ、スターの雰囲気はハリウッド・スタイルを思わせる。ところが内容は非現実的なインドであり、精神はアジア、特に日本的であるとさえいえる。浪花節的とよく言われる世界である。」
(26)
「きっと、浪花節的な世界のルーツがインドにあるのだろう。インドの観客の反応するシーンが、お涙頂戴、義理人情、 仇討ちといったものであるからだ。スタイルは西洋だが、精神は日本と思えるくらい、日本の映画との共通性を随所に発見し驚かされる。その昔の宝田明の東宝 ミュージカル風のような作品が多い。」(26)
「しかし、サービス精神は西洋の影響が強い。ヴァイタリティーがあり、エンタテインメントでは日本のスケールをはるかに超えたミュージカルが成立している。」(26)
「ものすごく暑くて」(38)
「『映画は避暑になるから』って横尾さんが言って」
(38)
「避暑に行ったんですよ」
(38)
「どれもが上映時間三時間近くといった大作ばかりなのだ。それを見ているうちは街の喧噪や歩行者地獄、暑さや貧困も忘れるというしだいだ。」
(26)
「長編映画だから、一本の作品のなかにありとあらゆるドラマが含まれる。たとえば、こうだ。悪人がいて、親子離散と いう母ものの悲劇が涙をさそい、ヒーローやヒロインが歌い踊りながら悪人と戦い、ラストは必ず仇討ちが成立し、ハッピーエンドで終わる。メロドラマ、アク ション、スリラー等というカテゴリーはとりはらわれ、全てはミュージカルであり、同時にラブ・ロマンスなのである。」(26)
「だが、インド映画のインドらしさがひとつある。なくてはならないヒーローが神様なのだ。それは大衆の支持と共感が あるからこそ必ず設定されるシチュエーションであり、ヒンズーの聖者や神の奇跡で、不可能と思われるような困難が、アッというまに飛躍して切り開かれる。 そこで観衆は感動の拍手をする。インド映画はこの拍手に支えられている。」(26)
「すごい影響されましたよ。あのー音楽がよかったんで」(26)

横尾忠則の証言
「夜、映画観る。」
(42)


1978/04/18 ボンベイ3日め。午後、映画撮影所を見学。

「インド映画の女優さんに会い」(33)

横尾忠則の証言
「細野君はよく眠る。泥のように眠る。うらやましい限り。しかし彼の眠りはやはり異常だ。ぼくの睡眠を盗むがごとく。昼前に彼を起こす。」
(42)
「午後、映画撮影所を見学。」(42)
「全員疲労の色が濃いが下痢は治ったようだ。胃がインドに慣れて来たか。二十日帰国予定が二十一日に延期。帰国日までボンベイに留まることにした。」(42)


1978/04/19 ボンベイ4日め。夕方、クリシュナ寺院のセレモニーを録音。

横尾忠則の証言
「夕方、クリシュナ寺院のセレモニーに行く。録音のためだ。」
(42)
「マントラを上げながら踊る僧。『ハリクリシュナハリラーマ……』はぼくの好きなマントラの一つだ」(42)


1978/04/20 ボンベイ5日め。

横尾忠則の証言
「映画を観たり買物の一日。」
(42)


1978/04/21 空路、インドから帰国。

「大事な旅だったんだなあって。後でわかるんですけどね」(40)
「このとき行ったのは、横尾さんのインドだったと思いますから。心象的なトリップなんです」
(34)
「つくづくヘンな旅でしたね」(37)
「実に危うい旅でした」
(35)
「90%以上は僕は寝込んでたんです。あちこちぐるぐる回ったツアーなんですけど、ホテルに着いては寝込んでたという」
(35)
「仲間たちがみんな、あの、近寄らなくて」
(35)
「怖かったんでしょうね。『こいつ危ないな』と思って」
(36)
「僕はほんとに変な、一人の旅になったんですが、横尾さんも同時に、体が弱ってて、ほんとに不思議な旅でした」
(35)
「とにかくシナリオができすぎてるんです」
(34)
「ホテルの窓から、ほうき星のような太い光の流れを見たり」(36)
「下痢とヒーリングとUFOの旅。ただ、その後東京に帰って来てもUFOが荻窪の民家の屋根の上を飛んでるのを見かけたり、一時は毎日のように見えて、夢と現実の境目がなくなるような危機的な状況でしたが」
(36)
「街中にサイババのポスターがあって、当時は派手なアフロヘアーだったから、最初ミュージシャンか映画スターかなと思ったんです」
(36)
「一緒に行った人が、真っ白の上下着てたんですよ。で、頭はやっぱりロングヘアーだったもので、子供が『サイババ、サイババ』って言いながらゾロゾロついてくる。まあ間違ってるわけじゃなくて、からかっているみたいでしたけど。そのとき僕もポスター買ってきちゃいました」
(36)
「インドの人に自分のカセット聴かせたのを憶えてますよ」
(38)
「元気な頃。お店の人かな。よくわかんないや」
(38)
「自分の曲を現地の人に聴いてもらったんですが、『うん、良いと思うけど、この曲はずーっとテンポが一緒なの?』とさらりと言われて」
(45)
「『この音楽はテンポが変わるのか』って訊かれて」
(38)
「それにはショックを受けた」
(45)
「変わらなかったんで。だいたい、僕たちがやってる音楽ってテンポ変わらないですからね。それで『だめだ』なんて思われて(笑)」
(38)
「いろんな人がいるからね、民族っていうかね。テンポ変わりたい民族もいるんですよ、インドの中には。アラブ系とかは結構変わりますからね。急に速くなる」
(38)
「音楽についても横尾さんから教えてもらったものって多いですね」
(45)
クラフトワークもね」
(45)
「とにかく、僕は下痢をして、おまけにUFOを見たりして、帰国のころはすっかり元気になって帰ってきたんですよね」
(34)
「それまでの記憶さえも揮発しちゃって、何か軽やかになって帰ってきた」(34)
「もう、過去を忘れるぐらい、衝撃的な体験でしたから」(34)
「ほんとに体の毒素が全部出ちゃって、おかげで僕はそれまでやってきた、トロピカル、あるいは、エキゾチシズム、そういうものが全部、体から出ちゃいまして、真っ白になっちゃったんです」(35)
「音楽性もね、破壊されたのかもしれないです(笑)」(38)
「そこに入ってきたのが、えークラフトワークだの、そういったテクノ系の音楽ですね」
(35)
「コンピュータ・ミュージックの情報がポンと入ってきた」
(33)
「入れ替わっちゃった」
(34)
「インドとクラフトワークが混じったものが、実は、YMOの先駆けだったと思いますね。もうあとはYMOに、進んでくわけですから」(35)
「横尾さんとのインド体験なしにYMOは生まれなかったんです」
(33)
「古いエキゾチック・サウンドとドイツのシンセサイザーの音楽とが、グワーッと頭の中で一緒になってきてね。これは、やりたいと思って」
(14)
「インドへ旅した時期は、本当に転機だったと思います」(45)
「インド体験っていうのは、僕にとって大きな変わりめになっちゃったわけですが、それ以来僕、人間が変わっちゃいまして」(35)
「昔はもうちょっと繊細だったんですけど、風邪ひとつひかない、えー、しぶとい人間になっちゃいました」
(35)

横尾忠則の証言
「インドではズーッと二人で音楽やスピリチュアルな話をし続けていた。この頃の僕はジャーマン・コンテンポラリー・ロックに心酔していて、細野さんの知らないテクノ・ポップのミュージシャンやバンドの名を口にしたと思う。」
(39)
「ジャーマン・ロックやクラウス・シュルツなどを細野君に聴かせて自慢していたね」
(45)
「当時僕はヨーロッパのロック・シーンと同時に、アメリカのジョン・ケージ以後の現代音楽であるフィリップ・グラス やラ・モンテ・ヤング、それからインド音楽のラヴィ・シャンカールやアリアクバル・カーン、それにワーグナー、マーラー、ブルックナーなどの重厚なロマン 主義的な音楽に心酔していた。僕の音楽観を細野さんに語ったような気がする。」(39)
「その時に、クラフトワークの話をしたんだけれども、彼は知らなかった。ジャーマン・ロックの面白いところをぜんぜん知らないんですよ」
(47)
「インドへ行ったバスの中で話したのよ」
(38)
「細野さんがね窓側に座っててね、前が運転手だったの」
(38)
「運転手の真後ろってことよ(笑)。その時に僕がさ、クラフトワークの話したの」
(38)
「そしたら、細野さん、クラフトワーク知らなかったからさ」
(38)
「だから、これは絶対聴いてもらいたいって思ってさ」
(38)
「彼もね、大きく転換をしたかったんですよ。そういった未知のジャンルの音楽を取り入れたかったんでしょうね」
(47)


1978/04/24 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。
ゲスト:浅井慎平


1978/04/25 細野晴臣&イエロー・マジック・バンド『はらいそ』発売。
東京ラッシュ:produce, compose, words, arrangement, vocals, bass, e.guitar, synthesizer
四面道歌:
produce, compose, words, arrangement, vocals, bass, e.piano, steel drum
ジャパニーズ・ルンバ:produce, arrangement, back-up vocal, bass, piano, synthesizer, percussion
安里屋ユンタ:produce, arrangement, vocal, bass, marimba, percussion, synthesizer
フジヤマ・ママ:produce, arrangement, all instruments, vocals
ファム・ファタール 〜妖婦〜:produce, compose, words, arrangement, vocals, bass, e.piano, marimba, birds
シャンバラ通信:produce, compose, arrangement, gongs
ウォリー・ビーズ:produce, compose, words, arrangement, vocals, bass, e.guitar, a.piano, syunthesizer
はらいそ:produce, compose, words, arrangement, vocals, bass, e.guitar, marimba, percussion, whistle, wasa-wasa sound, foot steps

「トロピカル三部作と言われてるんですけど、3枚目の最後の作品」(48)
「ハリー細野&ザ・イエロー・マジック・バンドって名前でやってますが、バンドを作ったわけじゃないですね。えーレコーディング用の、バンドですけど。これから、そういうのが発展していくような気配も見せてますが」
(49)
「何も意味はなくて、ゆくゆくはそうなるっていう気持ちがあったってことなんじゃないでしょうかね」
(1)
「ハッキリとソロですね」(1)
「まだこのころはやっぱり、ミュージシャンがいないと音楽ができない時代でしたから」(1)
「ドラムスに林立夫。えーベース、細野晴臣」(49)
「えーキーボード、佐藤博。えーそれと、パーカッションに、斎藤ノブ。えーそれからシンセサイザーに、えー坂本龍一。だいたいこういったメンバーです。他 に手伝ってくれたのが、えー浜口茂外也、鈴木茂、それとドラマーの高橋ユキヒロ、それから、コーラスでいろんな人が手伝ってくれてます」
(49)
「最も僕が、重要だと思ったのが、佐藤博くんの、ピアノです。『泰安洋行』の頃までは、矢野顕子さん、彼女のピアノがとてもよかったんです。もちろん佐藤くんのニューオーリンズ・ピアノも、なくてはならないものだったんです」
(48)
「"おっちゃんのリズム"じゃなくなってきた(笑)」(11)
「フュージョンですね。『スタッフ』の影響が強かったし」(1)
「僕の中の演奏家としての回路ですね。僕のベースは、チャック・レイニーって人の影響がすごく強くて、そのチャック・レイニーの子分たちのニューヨークのスタイルがとても好きになって。カリフォルニアがどうも馴染まなくなってきたころですね」(1)
ウィル・リーとかリチャード・ティーみたいな。佐藤博もそういうスタイルで弾いてるし」(1)
「全然、ヨーロッパのことは(頭に)なかったですね」(1)
「ヤマハのCS-80とか、キーボードの一種として使ってますよね」(1)
「要するにプリセットの音ですよ」(1)
「『はらいそ』っていうLPテーマなんですけど、これは『はらいそ』っていう曲があるのでそこから取ったんです」(49)
「すごく精神的なアルバムなんだ」
(11)
「僕の心情を表わしている」(16)
「かなり精神的なコンセプトが出てきた、まあ初めてのアルバムだったわけです」(48)
「内省的に作ったのがこの『はらいそ』なんで、ずいぶん、落ち着いた作りになってます」
(48)
「かなり冷静な状態で作ってます」(1)
「かなり理性的になってて、醒めてたんです」(2)
「もうかなり虚しくなってて、すでに次のことを考えてた」(47)
「ユートピア志向っていうのは、続いてるようです。いろんな、ごった煮ですが、それも続いてますし」(51)
「もうちょっとより地上的というか、たぶん題材が現実的になってきてるんですね。ちょっとシリアスになってきてるはずなんです。でもないか(笑)」
(2)
「ぼくが聴きたいなと思うような曲を、自分で作ってきたつもりなんですが」
(51)
「自分で聴いてくると、あんまり、自分の音楽ってのはやっぱり、そんなに面白いもんじゃないと、言うことができますね。自分で、えー自分の鏡みてるようなもんで、えー、お化粧するわけでもないし」
(51)
「当時は前の2作で、はっぴいえんどのファンが、怖がって、引いていってしまいました」
(48)
「『泰安洋行』はついていけないってよく周りの人たちにいわれてたんです。遠いとこいっちゃったっていうか」
(2)
「しかしこの『はらいそ』で、安心してまた、戻ってきてくれたっていうことを、えー聞いてました」
(48)
「今度のはよくわかる、また帰ってきたというわけです(笑)。一番楽しんで『泰安洋行』を作ってたんですけど、自分で楽しんでると他人はだめなのかな、醒めてつまんなそうに作るとみんないいのかなと」(2)
「でも山下達郎は『泰安洋行』を絶賛しているんだけど、『はらいそ』ではがっかりしていたな」(11)
「最低だっていわれましたけどね、音が」
(2)
「『普通になってる』ってボヤいてましたね。その通りだなって思って反論できなくて(笑)」(1)
「これはアルファの音なんです」
(1)
「アメリカの最新鋭のAPIというのを使った。するとすっきりアメリカっぽくなるんですね」(2)
「アメリカンな、わりと新しい音なんです」(1)
「あれ(クラウンの音)にこだわってたらアルファでできなかったと思うし、別に変わってもいいやと思っていたのでね」(1)
「アルファでやるからにはカラーがあるから。スタジオがアルファレコードのカラーだったので。郷に入れば郷に従えという感じですね」(1)

東京ラッシュ
「泥くさい印象だね」
(2)
「そのころ、やっぱり東京が騒がしくなってきたんですよ。それまでのんびりしてたのに。渋滞問題とかも異常になってきて、たしかその前にハイジャックがあったりとか」(2)
「オリンピック後に東京が国際都市だっていって、妙な自負心を持って整備しだしたでしょ。でも、子供のころ見せられ てた未来図が、渋滞で使いものにならなくなる時代が近づいてきててね。あっという間に未来を超しちゃったという感じがある。国際都市だといってるわりに は、何かギャップがひどいんでイライラしてた感じもありますね。アメリカにポール・ウィリアムズという評論家がいるんですが、そのころ彼が東京へ来て、車 で東京を走ったことがあった。高速道路を走ったり、すごい交通渋滞に巻き込まれたり、ほんとに大変な思いをしたんです。そのときに彼が面白がって、楽しん でいるんですよ。初めは、渋滞だ!といってびっくりしてたんだけど。そういう思い出もあって……。でも、まあそんなことには関係なく、音楽の面白さを歌っ たわけです。語呂合わせで(笑)」(2)
「スタッフを超えたティン・パン・アレーの名演奏、と、僕は勝手に思ってます。このノリはね、なかなか、できないんです」(48)
「ちょっとニューヨークのセッション・ミュージシャンふうなスタイルでやってるんです。メンバーはティン・パン・アレーと同じですから。そのころ彼らは ニューヨークのスティーヴ・ガッドとか、チャック・レイニーといった名うてのミュージシャンのスタイルに影響されて、かなり洗練されてきてる時代なんで す。ユーミンのバックをやってたりして」
(2)

四面道歌
「『泰安洋行』のころは、気持がほんとに天国にいたんですよ。天国から地上を見てたようなところがある。でも『四面道歌』って曲は、四面道っていうのは荻窪近くの交叉点の名前なんですよ」
(2)
「そこらへんを歩いてて、僕は思いついて作った曲」(48)
「そこらへんから天国を見てた歌です(笑)」
(2)
「地上に這いつくばって作ったんです。これはだからまったく逆ですよ」(2)
「もともとこれは『四面楚歌』っていうタイトルだったんですけど、他の、あるミュージシャンが、『四面楚歌』というタイトルのレコードを出しちゃったんで、えー『四面道歌』と変えたわけです」(49)
「とても仏教的な歌なんだよ。四面楚歌とかけている」
(11)
「四つの方向が閉ざされた状態を、四面楚歌って言いますが、そんな感じで、えー、ちょっと、わけのわかんない、詞が聴かれます」(49)
「"四面道"っていうのは、釈迦が出家する前に、東の道に行くと病人に会ったり、西の道に行くと死人に会ったりとか人間の不幸を見る」
(11)
「四つの方向に歩いて行って、えー東西南北ですね、そこに、生老病死という、四つの苦しみを見たというんで」(48)
「それをきっかけに出家するわけだけど、ぼくはそれを自分の(パーソネルな)歌にしたわけなんだ」
(11)
「東西南北の織り込み都々逸みたいなもんですよ。朝、昼、夜みたいな、花鳥風月も取り込んでいるんですから」(2)
「東南西北、春夏秋冬、花鳥風月という、四つの、4×3の要素、4×3=12の要素が、入ってる、要するに、織り込み都々逸ですね」(49)
「お父さんが得意なんで、えー血を受け継いでる」
(49)
「朝になったらどこ行くかとか、まあそんなようなことを歌ってます」
(49)
「別に意味ないんですね(笑)」
(2)
「『愛染かつら』です(笑)。それを意識したというか、そのフレーズそのものを使ったんです」(2)
「意識しすぎないのがコツですね」(2)
「カルデアというのは占いの発祥地ですね。よくは知らないんですけど、バビロニアの古名じゃないかな。新バビロニア王国っていうのが、カルデア人の王朝で栄えた。カルデアっていうとよく魔法の故郷とかいわれるんですよ。占星術師の代名詞だったからね」(2)
「天竺というのは、もちろん、インドのことです。期せずしてこのころ僕は、横尾さんの本を読んでたんですね。横尾忠則さん。『インドへ』という本です」(48)
「その後、シャンシャンシャンと、ひょんなことから、インドに一緒に行くことになっちゃうわけですね」
(48)
「そういう道がこう、ずっと、深く、つながってくんですが」
(48)

ジャパニーズ・ルンバ
「『泰安洋行』の名残りですよ」
(2)
「特別に、ティーブ釜范さんに歌ってもらいました」(51)
「ムッシュかまやつのパパさんですが」
(51)
「なぜ自分のソロに、人が歌ってるかと言うと、やはりこれはあのー、どうしても歌ってほしい人は、ティーブさんだったわけです」
(48)
「この歌はもともと、ハワイの、日系の人たちが歌ってる、なんか、言葉を聞けばわかるのに、面白い歌なんです」
(51)
「クラブ二世オーケストラのアルバムに入ってた」
(2)
「当時はこんなレコードを聴いてたのは、久保田麻琴と僕ぐらいだったんですけど」(48)
「ハワイで久保田くんと一緒に買って聴いてたわけです(笑)」
(2)
ジョージ島袋さんという人が歌ってて」(2)
「アルバムを聴いて、僕はやろうと思ったわけです」(48)
「それをやろうと思ったときに、僕は真っ先にティーブ釜范さんのことを思い出した」(2)
「息子のかまやつひろしさんとよくデュエットしてたり、たまにテレビでジャズを歌ってたりして」(2)
「もともとジャズ・シンガーだった」(48)
「その程度の知識しかなかったんですけど」
(2)
「絶対に知り合いに違いないと思って尋ねたところ、やっぱりジョージ島袋という人を知ってたんですよ。ハワイの日系の歌手で」(2)
「沖縄系のハワイアン」(48)
「大体、僕もハリー細野ですしね(笑)。フランキー堺とか、当時いっぱいいたそういう人たちに興味があったんですよね」
(2)
「これを歌えるのはやっぱり、日本では、ティーブさん以外にはいないんじゃないかと思って、えー、無理を承知で頼んだところ、快く引き受けて、いただいたんですけど」(51)
「僕はかまやつさんと仲よかったんで、逆にかまやつさんからお願いされて、『親父はもう長くないから、LP作ってくれ』といわれてて、とうとう作らなくて。実際この曲を吹き込んだ何年か後に亡くなられたんですけどね。それが最後の録音だったのかもしれません」
(2)

安里屋ユンタ
「沖縄民謡ですけど。これを、歌ってるのはやっぱりぼくなんですが」(51)
「前に、手伝ってくれた、川田知子さんっていう、沖縄の、えっと歌が、プロの人ですね」
(51)
「手伝ってくださったんですけど」
(51)
「1・2コーラスは、俗の替え歌で、本土ではこれがポピュラーである。しかし、川田さんの歌う3・4コーラスは、正調安里屋ユンタの歌詞で、これは安里屋家に生まれた女の一生をシャンソン風につづったもので16コーラス程つづくということでした。」
(52)
「沖縄音楽については、『Roochoo Gumbo』が自分の中で大発見だったわけですけど、それは二度とできるようなものじゃなかった。これはその名残りでしょうけど」(1)
「一連の、なんつったらいいんでしょうね、チャンキーと言ったらいいのか、フュージョンと言ったら怒られそうだし、えークロスオーバーじゃないしね(笑)」(51)
「かなりノーマルに作ってありますね。これもフュージョンですね。『スタッフ』のスティーヴ・ガッドのリズムが好きだったし、マッスル・ショールズのスカ・ビートも好きだったし」
(1)
アーサー・キットの『ショージョージ』に似てる。終わり方がそっくりです」(2)
「クラウン時代に録ってた曲です」(2)
「オケを録ったのは、『泰安洋行』の、すぐあとで」(48)
小林旭のアルバムのためにオケを作ってて、結局ボツになったんです」(2)
「陽の目を見ていないんですね。幻のアルバム」(48)
「小林旭さんのLPを作るという企画の時に、えーカラオケまでこぎつけたんですけど、その後、お蔵になってた曲なんですけど」
(51)
「一曲だけ買って、アルファで使ったんです」
(2)
「僕は移籍をしまして、この『はらいそ』を作り出して、オケを、買い取ったわけですね」(48)
「それをうまく、利用したかたちなんですが」
(51)
「ストリングス・アレンジは、矢野誠さんでした」
(48)
「小林旭が嫌だっていったように聴いてます」
(2)
「『歌えないやー』とか、言われたんでしょうか」(48)
「何ででしょうね。小林さんは当時はもうコミックふうというか、そういうのをやらなくなっちゃって、シリアスになっていた時期だったんでしょうね」
(2)

フジヤマ・ママ
「50年代の曲」
(51)
「ロックンロールの曲なんですが」
(51)
ワンダ・ジャクソンっていうカントリー系の、ロックンロール・シンガーが歌ってました」
(51)
「女性歌手」
(48)
「ひどいけどエネルギッシュな歌ですよね」
(2)
「日本では、えーといろんな人が歌ってました、当時」(51)
「山下敬二郎か平尾昌晃かどっちかがカヴァーして歌ってたはずです」
(2)
「はやりましたよ」(2)
「占領下の雰囲気があるんですよ、何となく。東京ローズとか、ああいったイメージが絡まってくるんです。そういうタイプの曲をずーっと聴いてたことがあって、変な日本ブームがあったんですよ、アーサー・キットの『ショージョージ』とか」(2)
「謡曲スタイルで歌ってみたんですが、えーとー、バックはですね、ニューオーリンズ・スタイルのピアノと、ドラムを演ってます。これは全部自分で演ったんですけど」(51)
「ニューオーリンズとアジアのミックスした曲っていうのは、『泰安洋行』の頃に始まったんですけど、もうこの『はらいそ』では、この曲だけになりましたね」
(48)
「ロックンロールが、なんか変わってきて、だんだん、ぼくの頭ん中で変わってきちゃって、こんなヘンテコなグロテスクになっちゃったんですが」
(51)
「実に、グロテスクですね。おかしな、感じですね。ハリー細野という人は、やっぱり、えー、なんつうんだろ、聴き慣れないような、音楽をこう、演っちゃう 人ですね。ほんとは、聴き慣れた音楽が好きなくせに、えー、こういうの演っちゃうんですけど」
(49)

ファム・ファタール〜妖婦
「ファム・ファタールという言葉は、えーフランス語で、妖婦と、言ってますね。運命の女と、言ってもいいですけど。これはそもそもあのー、ロマン・ポラン スキー監督の、『チャイナタウン』という映画に出てきた、フェイ・ダナウェイの役が、その、ファム・ファタールと、いう設定だったわけです」
(48)
「ああいう人の、ことをまあファム・ファタールという、プログラムに、こう載ってたんですけど、それにヒントを得て、えー、妖婦。えー男を狂わせる女という、そういう感じでエキゾチック・サウンドに仕立てた、ものです」
(49)
「で僕の周りにも、このファム・ファタールはうろうろしてました」
(48)
「女難という、男にとって最大の煩悩を、えーまあ高らかに、歌い上げた」
(48)
「ちょっと気取ってますね」
(2)
「僕が(編注:リズムを)作ったわけじゃなくて。ポップス界のジャンルの中で、ハリウッド・ノスタルジック路線というのがあって、昔のビッグ・バンド・ス タイルとラテンを混ぜ合わせたようなね。基本はラテンのビートなんですけど。当時みんながよく聴いてたのは、オリジナル・サヴァンナ・バンドっていうオー ケストラが非常にユニークなことやってまして」(2)
「ああいうリズムはデューク・エリントン楽団あたりの古い三〇年代のビートによくあるんです。エリントンのセッションはすごいんですよ。例えばナイトクラ ブで、デューク・エリントン楽団から何人かの選抜メンバーが集まってきて遊んでる海賊版みたいなテープがあるんですけど、それはそれはすごい演奏をしてる んです。ジャズを無視したような。そういうところをまた取り入れて、デューク・エリントン楽団の演奏に組み込んでいくわけですよ。そういった遊びを還元し て、というような非常に発展的なやり方をやってたみたいで。だから、デューク・エリントンは『キャラバン』という曲をいろんなスタイルで何回もやってる。 その中に、やっぱりそういうようなビートがあったりする。オリジナル・サヴァンナ・バンドもデューク・エリントンぽいですね」(2)

シャンバラ通信
「コンセプトがないんですね(笑)」
(2)
「何も意識してないです」(2)
「無意識です。トランス状態です。即興ですからね」(2)
「通信なんですよ。つまりシャンバラに届いてほしいという願いです」(2)
「このシャンバラというのもやはり、かなり、危ない世界ですね。えー向こう側の世界」(48)
「シャンバラっていうのは、えー、ネパールの奥地にある、えー幻の都市ですけど、現実にあるのかもしれませんが、そういったイマジネーションをもって作った曲です、これは」
(49)
「いろんなところにあるといわれているんだけど、入口はチベットのボタラ宮殿だっけ? 何だっけ? そこの地下から階段があるとか(笑)」
(2)
「チベットの奥のほうにある、地下世界と、言われてたんですけど」(49)
「まともには行けないんだ(笑)」
(2)
「もしそういうところがあったとしても、どっちみち行けないんだろうと思ってますから」(2)
「そこと通信しようと僕は試みてたわけです」(48)
「音楽だと何とか伝わるんじゃないかっていう願いを込めて(笑)」
(2)
「そんなような気持ちがこういう音楽になったんで、実は、デヴィッド・トゥープの言うガムランではなくて」(48)
「ガムランのように聞こえる楽器は、子供用の鉄琴です」
(2)
「オモチャの」(48)
「金物」
(11)
「オモチャ屋さんで売っているピンク色の鉄琴なの(笑)。これは使わない手はないな、と」(11)
「この頃はガムランのことはよく知らないんだけど、イメージで作っただけ」(11)
「適当に弾いてて、こんななっちゃったということです」(48)
「結構うまいでしょ。僕はパーカッショニストだったからさ。パーカッショニストになればよかったな」
(11)
「リズム・ボックスのACETONEはMU-TRONを通したな。MU-TRONは『ハリケーン・ドロシー』でベースにも使ったよ」(11)

ウォリー・ビーズ
「個人的にプッシュしてる曲」
(51)
「いちばん自分では、気に入ってるつもりなんですけど」
(51)
「滅入ってる時とか、そういう時に、自分でも、つい、聴いてしまうということがあります」
(51)
「月モノの歌です」
(2)
「カリフォルニアから来たリンダ・キャリエルという女性」(2)
「美人歌手」(48)
「彼女が準備で来日してたんです。それで僕の狭山の家に、ホームステイしてて、その時に彼女といろいろ、宗教談義になりまして」
(48)
「ウォリー・ビーズを持ってるっていうんですね。それは何だってよく聞いたら、数珠のことを彼らはウォリー・ビーズっていうんです」
(2)
「日本語で言っちゃうとあんまりこう(笑)、面白くないですが。数珠。数珠っていう意味ですね。えー、それを"ウォリー・ビーズ"って言うところに、なんて言うんですかね、いいとこがあるんですけど」(51)
「悩みの種みたいな意味で」
(2)
「悩みを数えるために、首にかけてるんだと」(48)
「それを数えていくうちに救われる。チベットの場合もそうですけど」
(2)
「仏教の数珠なんですが、アメリカでは、ニューエイジ的に流行ってたわけです」(48)
「そういう考え方も面白くて」
(2)
「ヒントにして」(48)
「それでできた曲です」
(2)
「歌詞ん中に、百八つの、悩みの種と、言ってますけど、これは除夜の鐘の百八つとおんなじで、仏教的な、煩悩の数ですね」(48)
「コーラス手伝ってくれたのが、あがた森魚、それから、えーと、東京シャイネス・ボーイズ、それから、えー大貫妙子。この人たちによって、コーラス、途中 で入ってくる、サンスクリット語の部分、やってもらったりして、もらったんですけど(笑)、助かりました」(51)
「オーンナマ・チャンドラーヤー・シャンティ・シャンティ・チャンドラーヤーって、これはお月さんを賛えるサンスクリット語です。たしか吉福伸逸さんに電話で聞いたんです(笑)」
(2)
「かなり仏教色が強い曲なんですよ(笑)。『月』というのは、実はそのころ知った月輪観(がちりんかん)という密教の瞑想法があって、月の曼荼羅のような 絵を目の前に置いて、その月を胸に入れてふくらませるという瞑想法なんですね。それが非常に新鮮なアイディアで、そういうことがあるっていうことに興奮し たんです」(2)
「危険だなと思いましたけどね」(2)
「ふくらましていくんですからね」(2)
「あのころの基本的なリズムのアイディアはスカが多かったんです。スカのビートがロックのマンネリを打破してくれたんです」(2)
「レゲエといわれるものよりも古いスカをよく聴きました」(2)
「本場物も、まあウェイラーズなんかがもうそのころはありましたから聴いてましたけど」(2)
「あるいはもっと洗練されたところだと」(2)
「マッスル・ショールズ・リズム・セクションがやったステイプル・シンガーズのヒット曲『アイル・テイク・ユー・ゼア』。ゴスペルとスカの見事な融合で、そういうものを聴いてましたね」(2)

はらいそ
「メインテーマ」
(51)
「一番、ティン・パン・アレーの演奏もいいし、佐藤くんのピアノも、とても好きです」
(48)
「そもそも、はらいそというのは、えーパラダイスということです。日本の隠れキリシタン用語で、えーはらいそと言ってました」
(48)
「パライーソっていうのがもともとの、言葉なんですが、ポルトガル語、スペイン語、まあ両方なんですけど、それがなまって、隠れキリシタンの間で天国を指す意味が、"はらいそ"になったわけです」
(51)
「これは自分じゃ結構シリアスな歌ですね」
(2)
「当時僕は、結構煮詰まってまして、気持ちはハイだったんですけど、まあここからどっか違うとこへ行きたいなと、思ってた頃で、まさかそれが次は、インドに、行くとは、思っても見なかったわけです」(48)
「それまでの東京と訣別したかったんですね。地理的にいうとそうなんですけど、精神的にいえば自分が変わりたかったんでしょうね」
(2)
「そのころ、私生活にごたごたがあって、いわゆるダブル・バインド状態に陥ってたんです。あっちを立てればこっちが立たずっていうね。自分を立てれば相手 が立たず、相手を立てれば自分が立たず。複雑な二重拘束状態で、仕事の中でもそれで悩んでたんです。そんなこともあって出家したいと思ったんです、まじめ に」(2)
「僕は音楽が好きだったでしょう。音楽が好きすぎて、あまりにも自分のことを知らなかったんですね。ところが二重拘束状態とかパニック状態になると自我がボロボロ出てきて、悲惨な自分に気がついてね」(2)
「おまけに神経症がまた再発しちゃって、『泰安洋行』のころハイだったのがどん底に落ち込んで、また過換気症候群というのになってきちゃって、ひどい状態 だったんです。音楽をなくしたら自分には何があるんだというふうな……。若い人はみんなそういうことを考える時期が必ずあると思うんだけど」(2)
「音楽の才能があるからって、そんなもんで何ができるんだって思いはじめたころだね。それまでは、音楽がなかったら 自分はもう世にいられない、音楽がなかったらぼくは性格破綻者だと、そう思ってた。それが『はらいそ』のころから、音楽なしでも存在できる人間になりた い、と変わってきたのね」(50)
「ある時期、自 分には音楽なんかないほうがいいと思って、本気で出家を志したんです。で、『はらいそ』で音楽は最後にしようと思ってたんです」
(2)
「音楽をやめて何か他の世界に行こうとしたんですね。当時はそれを"精神世界"って呼んでましたけど」
(16)
「『はらいそ』という曲はそ ういう思いがワーッと全部入ってて、空想の歌ですけど、羽田から逃げていくというイメージじゃなくて、東京湾から東京にサヨナラっていう気持で作った。と いうのは、晴海のほうへ行くとそういう景色が実際あって、あそこらへんから東京を見るとそういう景色が遠くに見えるんじゃないかな」(2)
「イメージとしてはですね、今で言うお台場の辺り、えー当時は埋立地でとても、寂しい所だったんですけど、そこから見た東京の風景を、まあ見ながら作った、という記憶があります」(48)
「東京のお台場……当時は何もなかったんだけど……そこから僕は東京を見たわけだよ。よく見えるんだ、東京が。で、ぼくは東京におさらばしようと思った。東京のつまんないリアリズムにおさらばするつもりだったよ」
(11)
「ところがその後、出家しないでYMOをやっちゃったんですけど(笑)」(2)
「構成メンバーはまだ見えてなかったけど、そういうヴィジョンはありました」(1)
「最後の『モア・ベターよ』部分は、オケを録って歌を入れて最後に入れた。その場で決めていったんだよ。ふざけた気持ちで(笑)」(11)
「何を隠そう、並々ならぬ野心はあったんです(笑)」(2)
「なんかね、この曲、ぼくなりに格好付けているんだよ。曲の最後は気取って歩いていくだろ、で突然走って戻ってくる。そこで画面があると、ピタリと止まってぼくは叫ぶ。自分なりのサービスだったんだよ」(11)

寺田康彦の証言
 はらいそ
「最後の『この次はモア・ベターよ』の部分はよく覚えてますよ(笑)。最初は細野さんが自分 で走って録ってみたんだけど、あまりいい音がしなかったんです。それでみんなの靴を見て、吉沢さんが履いてた革靴がいちばんいい音がしそうだってことで、 それに履き替えて走ってみたらいちばんいい音だった(笑)」(11)

坂本龍一の証言
「割と客観的に聴いていて。アルバムとしての出来は『泰安洋行』のほうがいいなと。自分が参加してるんだから、シャクはシャクなんだけど(笑)」(5)


1978 クラフトワーク『ヨーロッパ特急』を聴く。

「クラフトワークを聴いたのは、好きな人に比べたら遅いと思いますよ」
(53)
「ポップだなあ、と思いました。最初は無知で、ドイツのシンセサイザー音楽 はみんなタンジェリン・ドリームとかクラウス・シュルツみたいなんだろうと思ってましたけど、クラフトワークの『ヨーロッパ特急』を聞いた時、聞いてて嬉 しくなるというか、タンジェリン・ドリームなんかには感じなかった、情感を刺激するものがあって、僕がエキゾティック・サウンドに求めていた未来を肯定す るようなものがありました」(17)
「ドイツに対して以前はすごくヘヴィだなあというイメージを持ってました。胸にのしかかるような、敬遠したくなる重さを感じてました。でもそれは、僕にその重さを受けとめるだけの器量がなかっただけで」
(17)
「その重さにとても同調するようになってきました。あの重さを経ないとクラフトワークのような本当の明るさに到達しないんじゃないかと思います」
(17)
「インドに行ったときに考えたことですけど、インドをさぐっていくとアーリア人にぶつかる。ドイツ人はアーリア人だ。そしてそのドイツ人のことを考えてい くと、ドイツ人は高い理想を持っていて、超人類を望んでいたようなところがあって、そのためにいろんなテクノロジーとかヨガ・メディテイションを利用して きて、そういった中からタンジェリン・ドリームとかクラウス・シュルツの音楽なんかが出てきたんじゃないか、と思えてきたんです。クラフトワークを聞い て、あるユートピア志向を感じたんだけど、その背後になにか不気味なものもあるような気がしたんです。ジャケットのイメージから来るものなのか、全員が輝 く目をして空を見上げているような異様さか、自分でも説明がうまくつかなかったんだけど、その不気味なものをつきつめていくとヒットラーを生んだ国民性に つながるような気がしました」
(17)

1978 レコーディング中の松武秀樹を訪ねる。

「リズム・ボックスはけっこう使ってましたけど、コンピュータを音楽に取り入れるまでには、飛躍があるわけです」(5)
「そういうものを使いたい欲求は、クラウン時代にもう芽生えていた」
(5)
「リズム・ボックスは絶対取り入れようというのが、基本的にありました」(5)
「その見本を見せてくれたのがスライ&ファミリー・ストーンだった。彼らの『フレッシュ』の影響がすごく強いんですね」(5)
「スライ&ファミリー・ストーンが『フレッシュ』あたりを前後して、エーストーンのリズム・ボックスを使ってたんで す。アメリカではファンクの連中がリズム・ボックスを使いはじめていて、僕もエーストーンの音が好きだったから、なんかこう魅かれるものがあったわけね。 エーストーンにはマンボとかルンバとかプリセットのリズムがプログラムされていて、自分では作れないんです」(53)
「その心地よさがたまらなく好きでね」
(5)
「シンセサイザーよりもリズム・ボックスのほうが魅力的だったんですね」(5)
「結局それが原体験ですよね。最初のテクノ経験かもしれない。そういうふうにずっと興味はあったから準備は出来ていたわけです」(53)
「僕はリズム・ボックスしか頭になかったんだけれど」
(53)
「性転換したウェンディ・カルロスが男性だった頃、『スイッチト・オン・バッハ』というシンセサイザーだけで演奏されたバッハのアルバムを制作し、それはある意味で センセーショナルな音楽的事件でした。でも聴けばさほど感動もせず、こんなものか…という程度の感想でした。ところが次に冨田勲さんが作られたアルバムは 凄かった。ドビュッシーの『月の光』の繊細な世界をコンピューターで完璧に制御していた。」
(54)
「これはすごい、コンピュータで全部コントロールしていると」(5)
「皆が聴いていたんです。素晴らしいなと」
(34)
「すごく興味があったんです」(16)
「シンセサイザーはクラウンのころ、前田憲男さんがモーグを持ってきて、それを見たのが最初でした。松任谷正隆や佐藤博も使ってたけど、でも面白いもん じゃないと思ったんです。当時のシンセサイザーはモノ(フォニック)だから、僕が買ってもどうしようもないもんだし、興味はなかった。冨田さんの音楽を聴 いて、コントロール制御すればポリフォニックになるとわかったんですよ」(5)
「これは冨田さんのコントロールが素晴らしいんだと。それでたどっていくと、冨田さんのマニピュレーターの松武秀樹さんがいた」(5)
「コンタクトを取ったら、同時期に坂本くんもコンタクトを取っていた」
(55)
「デモンストレーションを見に行けることになり」
(33)
「これはすごい可能性があると思って」
(38)
「見学に伺ったというわけです。」
(54)
「松武さんのシステムと出会うんですよ」(34)
「そのシステムを持って今レコーディングしてるから、見学に行くチャンスだよと言われて行ったんです」(34)
「そういうことが急激に起こってきたんです」(53)
「そこで初めてMC-8というコンピュータを見て、『ああもう、リズム・ボックスはいらないや』と思ったんです」(53)
「『コチン・ムーン』の直前に、そういうことがあって」(38)
「聴くなり"これは面白いものができそうだな"と思って、『コチン・ムーン』に誘ったんです」(33)
「そのときにもう決めちゃったんです。『コチンの月』はこれで行こうって」
(34)
「ほんとにあのー珍しい人材と出会ったわけです」(35)
「すごい人がやってきたなーと思いました」
(53)

松武秀樹の証言
「ソニーのスタジオで」
(56)
「『謎の無限音階』というシングルを作っていたときに、突然、細野さんが見学に見えられて、それが初対面でした。」
(54)
「ある人を通して、電子音楽を作ってる現場を見たいっていう話をもらって、マネージャーの人と一緒に来た。椅子に座って、僕がパッチしてるのをずーっと見 てました。まだ具体的にYMOうんぬんっていうのはなくて、"エレクトロニクスを使ったバンドを考えているんだ"っていうのをそのとき話してました」(56)
「今度こういうグループをやりたいんで手伝って欲しいっていう話をされたんです。正式な依頼っていうんじゃないけど、話を聞いたのはそれが初めてでした」
(57)

※編注:細野晴臣が見学に訪れたのは「77年の暮れとか、78年の年明けの頃」とする
松武秀樹の証言(『Weekly YMO Web magazine』No.01 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年6月16日)があることも付記しておく


1978 イエロー・マジック・オーケストラの企画書作成。

「レ コードを作ろうとする場合には、まず、何を作ろうとしているのかをハッキリさせる必要がある。それがなくては、レコードは作れないんだ。何を作っていいか わからなくなっちゃうからね。だから、いちばん最初の、企画を立てる、ということは、すごく大事なことなんだ。」
(43)
「企画に含まれるものは、アーティスト、制作意図(アイデア)、予算、プロモート計画。大きく分けると、この4つになる。」
(43)
「イエロー・マジック・オーケストラのファースト・アルバムでは、最初に、企画意図と、ミュージシャンが決まっていたわけ。ミュージシャンは、ぼくと坂本龍一と高橋ユキヒロ。」
(43)
「制作意図は、インストゥルメンタルで、踊れて、衝撃的で、しかも、耳慣れているサウンドっていうことだった。」
(43)
「つぎに予算を出すわけ。そこに含まれるものは、スタジオ時間(料金)、演奏料(ミュージシャンのギャランティ)、アレンジ料、それから雑費。そんなものかな。」
(43)
「これを出すのは比較的かんたんなことだ。」
(43)
「スタジオ料金にしても、演奏料にしても、それぞれの単位ははっきりしているから、必要な時間なり、レコーディングの規模なりがわかれば、それを計算するのは、むずかしいことじゃないんだ。」
(43)
「イエロー・マジック・オーケストラの場合は、たしかトータルで600万円くらいだったと思う。」(43)
「ほんとうは、そこにプロモーションの具体的な展開も入れなくてはいけないんだけど、ぼくの場合は、アメリカで発売するということが目標だったから、 ちょっと特殊なんだ。だけど、これもひとつのプロモーションだということは確かなんだね。ただ、この時点ではアメリカで出すことは決定していなくて、ひと つの賭けみたいなものだったから、具体的なものではなかったし。」
(43)
「もちろん、これは、要するに案だから、それを検討して、具体的にふくらませてゆくのは、そのあとの段階の作業なんだ。だから、企画書には可能、不可能にかかわらずに、ある程度、イメージを書いておくことになる。」
(43)
「当然、イエロー・マジック・オーケストラの場合にも、アメリカで発売すること、つまり、アメリカをターゲットにするってことは書いておいたわけ。」
(43)
「ターゲットはアメリカ、というふうに最初から設定してあった。」
(43)
「アメリカで、ディスコに向けて出す、ってことだけだった」
(43)
「こうした要素を企画書の中に書いて、会社なりスポンサーなりに出すわけ。これは、スタッフに、どんなものを作ろうとしているのかを明確に伝えるためでもあるわけだ。」
(43)


1978 坂本龍一のレコーディング。赤坂/コロムビアスタジオ。

坂本龍一の証言
「録音中に、細野さんとか幸宏とか達郎とセッションがあったり、(渡辺)香津美とやったりしていて、その度に気心の知れた人を呼んできて、『千のナイフ』に入れたという感じですね」
(5)

※編注:アルバム『千のナイフ』のレコーディングは4月10日〜7月27日の期間行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。


1978 桑名正博のレコーディング。

※編注:アルバム『テキーラ・ムーン』のセッション。4月12日〜5月20日の期間行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。


1978/05/01 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。
ゲスト:浅井慎平
※編注:この回以降の放送内容および、番組の放送期間については確認がとれていない。


1978/05/01 イベント『インド旅行体験記』出演。新宿/ロフト。


1978 シークエンサーを導入した最初のレコーディング。
コズミック・サーフィン
「MC-8」(5)
「教授がひと足先に自分のソロ『千のナイフ』で、実に見事に取り込んでたんです」(5)
「その当時、彼は非常にアヴァンギャルドな電子音楽のコンサ−トをやっていて、そういう方向に向かうことはわかってた」(5)

コズミック・サーフィン
「もうテクノに走ってたんでしょう。その前のリゾート・サウンドには、もう戻れなかったんです。ですから知的操作で、そういうリゾート音楽としてサーフィンを選んでると」
(58)
「このころは僕、根っこが軽くて陽気な人間だったんです。ベンチャーズで育ちましたからね。テクノでサーフィンというとどういう感じなんだろうってことで、インスト=ベンチャーズだなと。テクノとベンチャーズをかけ合わせて、この曲を作ったんだと思います」
(58)
「YMO結成前夜のサーフィン・ミュージックを採用したかったんだよ、本当に。テクノと相性がいいからね。でもYMOじゃできなかったな、この感じ」
(11)
「自分で持っていたコルグのポリフォニックのシンセサイザーがあって」(34)
「それでずっと、自宅で遊んでたんです。それを『コズミック・サーフィン』のときに使ってるんですね。シーケンサーというのにとても興味があったんで、いろいろ研究してたんですよ」(34)
「まだ、コンピュータというのはイメージにはなかったですね」(34)

坂本龍一の証言
 コズミック・サーフィン
「メロディーとか余りないベンチャーズとか、サーフィン的サウンドの曲だね」
(22)

※編注:アルバム『パシフィック』収録のバージョン。


1978 南佳孝のレコーディング。銀座/音響ハウス。

※編注:アルバム『サウス・オブ・ザ・ボーダー』のセッション。5月2日〜6月19日の期間行われているが、細野晴臣の参加日は特定できない。


1978 村井邦彦にイエロー・マジック・オーケストラの構想を説明。

宣伝して、これはこういうところがいいんだ、といっていかなくちゃいけないんだけど、イエロー・マジックの場合には、伝えようがなかった。つまり、わかってもらえなかった。ただ、なにかいいものを作ってるということだけを伝えればよかったんだけどね。」(43)
「最初は宣伝につとめたけど、やっぱり、それはムダなことで、ぼくの作ったものを信用してもらうしかない。だから、あとは放っておいてもらうことにした。」
(43)

村井邦彦の証言
「『はらいそ』ができたんだけど、日本でも出したけどあんまり売れなくて、一応海外にもいろんなところに持っ てったんだけど反応が難しい。で、イエロー・マジック・バンドもまたダメだなって思ってたら、今度はイエロー・マジック・オーケストラだとね。今度はこれ だって彼が構想を話すわけ。『シンセサイザーを使ってこうこうこう……』って言われても僕はよくわからないから、これもとりあえず『いってみよー』って (笑)」 (57)
「細野君はいろいろ説明してくれたんだろうけど、僕はもうそのころメチャクチャ忙しかったからね。映画を作ったりなんかして、ともかく1日18時間ぐらい働いてたっていう状況だったから、細かい話はできなかったと思うんだよ。やりたいことをやってくれと」 (57)
「確かに細野のアピールしたい音楽的な細かいことがあって、それに対してあまり興味を示さなかったかもしれない」(57)
「ただ僕は細野の才能を信じてるから、わかんないんだけどやってみましょうってことでね」(57)
「サラリーマンだと会議で上に通すとき、常務のハンコとかもらわなきゃいけないじゃない。僕とかキティの多賀(編 注:英典)ちゃんってのは、プロデューサーで社長だから、僕が決めれば決まっちゃうんだよね。でもそのほうがいいよね。会議でさ、『次の細野はこういうの を作ると思うんですけど、みなさんどうですか?』なんてやっててもできなかったと思うんだ、YMOは」 (57)


1978/05/08 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。
ゲスト:横尾忠則


1978/05/15 1:00 FM東京『アルファ・サウンドラボ』放送。
ゲスト:横尾忠則
※編注:この回以降の放送内容および、番組の放送期間については確認がとれていない。


1978/05/18 作曲を担当した資生堂CM曲「Fressy」が、林立夫の編曲によりレコーディングされる。作詞は松本隆。

大森昭男の証言
「これは松本さんに書いてもらいたいなあとか、細野さんに遊んでもらおうとか」
(59)
「そういうことだったんでしょうけど。そういう人たちを生かせるバイタリティーがコマーシャル音楽にあったということじゃないでしょうか」(59)


1978/05/22 『第1回 ビックリハウス・パーティー』出演。渋谷/西武劇場。
細野晴臣 細野晴臣(b, vo)、岡田徹(pf)
Hong Kong Blues


1978/05/25 ホールド・アップ『島まで10マイル』発売。
キャプテン・パラダイス:steel drum
横浜ストローリング:marimba
コラソン DE デイト:arrangement, steel drum, marimba, synthesizer
今夜はちょっと:arrangement


1978/06/01 『話の特集』7月号(話の特集)発売。
寄稿/時期遅れの「宇宙へのメッセージ」
※編注:「デヴィルズ・タワー」と改題の上、『地平線の階段』(八曜社/1979年)に収録。その際、文章が若干割愛・改変されている。

1978/06 インド旅行の体験にインスピレーションを得たアルバムのレコーディング。

「横尾さんが作らせたといってもいい(笑)」(34)
「僕は横尾さんに操られるがままだった」(34)
「とてもなんかこう難しいレコーディングを、僕は横尾さんから、まあ押し付けられたって言うのかな(笑)」(38)
「横尾さんが旅の途中に僕に出した宿題みたいなもの。実際は横尾さんご本人の宿題が、僕にまわってきた形(笑)」
(45)
「最初は、横尾さんが(レコード会社から)何か頼まれてたんですよ」(34)
「横尾さんがそのー、インドをモチーフにしたアルバムを作るんだと。横尾さんが、どっか頼まれてるんです、っていうことでね」(38)
「まあ、コラージュ・アルバムですよね。多分、インドの音を録ってきて、それを横尾さんの絵のようにコラージュして何か作りましょうっていう話だったと思うんですよね」
(34)
「ああ、それは大変だなあって思ってたわけですよ」(38)
「あれあれ?っていう間にその話にこう巻き込まれて」
(38)
「役割が回ってきて」
(38)
「たまたまそこに僕がいたからね」
(38)
「たぶん、本人はうっとうしかったと思うんだよね。それが、旅立つ日だか途中だったか覚えてないけど、これは細野君が作る仕事だなということになってるん ですよ(笑)。それをボーッと聞いていて、あまり現実的に捉えてなかったんですけど、結局(僕が)作るんだろうなとだんだん思うようになってきて」
(34)
「まあ、それもいいかなと思い出してきて。横尾さんは僕の上を行く、チャンス・オペレーションの人だから、僕に振ったってのも閃きからだと思いますね」(34)
「企画者である横尾忠則さんの厳しい(?)指導で、どうしてもインド旅行の印象を音楽にまとめなければいけない状況でしたが、同時にコンピューターで音楽を作りたいという欲求もあり、無茶な冒険をしてしまったんです。」 (54)
「同時期にその、コンピューターが、世の中に出てきてね。音楽用の」(38)
「コンピューターで音楽を作っていく方法が、目の前に突然現われてね。それで僕は試しに一枚『COCHIN MOON』というレコードを作って、どんなものかやってみたわけです。そのときはまだそれがどんなに重要かは意識していなかった」(2)
「僕の中ではもう、なんにも、引用することもないしカヴァーすることもできなかったんです」(35)
「モデルはなかった」
(31)
「一切合切出ちゃった後ですから、赤ん坊みたいな気持ちですよ。赤ん坊が玩具をいじり回してるみたいな」(34)
「一人でゼロから考えなきゃならなかったんで、最初はどうやっていいかわからなかった」(33)
「『月の光』の有機的な音楽をコンピューターで制御できるのなら、民族音楽も簡単だろうと思ったのですが、そうはいかなかった。つまりスコアも何もないゼロからの作業にはコンピューターが向いていないことを知らなかったんです。」(54)
「コンピューターを導入した初めてのアルバムですから」(38)
「とても苦労した」(35)
「何が何だかわからない。コンピュータもわけがわからないまま使ってたし」
(40)
「苦痛ではなかったですよ。混乱はしてましたけど」
(40)
「一生懸命作ったんですよ」
(38)
「とにかく夢中でやってましたけど」
(38)
「時々、横尾さんが現れては、なんかひとことふたこと言って帰ってっちゃう(笑)」
(38)
「ほとんどだから、話さなかったんですよ(笑)」
(38)
「ほっとかれてた」
(38)
「暗中模索でやってたんですよ、ひとりで」
(40)
「時々来ては、『この曲はちょっと、コワモテだね』なーんていうことを言ってたんだよね(笑)」
(38)
「むずかしいこと言うからね(笑)」
(38)
「それで、あーやっぱりそうかーと思うんですよ。ちょっと、こう、脅かし過ぎの音っていうのがあるっていうね」
(38)
「ノイローゼまでは行きませんでしたけど」(38)
「『これが横尾さんのやり方なんだ』って思ってましたよ。横尾さんが来なければ来ないほど、『横尾さんのためにつくってるんだ』という感じがしましたから」
(40)
「プロデューサーは、いればいいんです。その場じゃなくても、存在があるだけで。あれが本当のプロデュースです」
(40)

横尾忠則の証言
「もう、むこうで話している間に一緒にやりましょうということになっていった」(47)
「素人プロデューサーが細野くんを追い込んで、ノイローゼにしただけだったね。素人プロデューサーっていうのは僕なんだけど(笑)」
(40)
「コンセプトとか考え方はあるけどさ、技術がないからさ」
(38)
「その技術を持ってる人をさ、起用して」
(38)
「音楽だって技術的な音楽は説明できないからさ、なんか感情とかさ、なんだか、どう言ったらいいのかな、情感みたいなものって言うのかなあ」
(38)
「言葉でさ、伝えることができないわけよね」
(38)
「何を言って帰ったのか全然わかんないけどさ、まあ細野さんとしては、まあ僕が行くとうれしい顔はしないんだよね。うーんなんか迷惑そうな感じで、お互いに意思の疎通がまったくできてない」
(38)
「コミュニケーションとりようがないわけよね」
(38)
「ビジュアルって言うのかな、そういう、まあ生き方もひっくるめて、そういうものをさ、音で表現するっていうことになるとさ、やっぱり、音楽的な教養と知 識がないとさ、伝わらないわけよね。それで細野さんから、僕にまあ質問あったかどうかわからないですけど、まああったとしても、音楽的なその土壌でのなん か質問だから、何を言ってるのかわからないしさ(笑)」
(38)
「細野くんが音楽作るのを見てると、計画なんてあってないようだし、ただ『今の状況から早く解放されたい』というのがあるだけで」
(40)
「本当は僕も毎日行かないといけないんだけど、『行っても何の役にも立たないわ』って」
(40)
「だからもうほっとくしかないかなと思ってさ」
(38)
「だけどね、意思の疎通のできないものができればいいな、ぐらいに思ってたのね」
(38)
「どっちにしても変なものができたとしても、僕の責任にならないと思ってたのよ」
(38)
「これは音楽家の、細野さんの責任でさ」
(38)
「いいものができれば、仕掛けた僕の、ものになってさ、失敗すりゃあ細野さんでいいんじゃないかなっていう、そういうふうに思ってたから、すごい、気が楽だったのね」
(38)

太田克彦の証言
「インドでいくつかナマ録もやったが、どれもアルバムにするには不備な要素だったため、細野くんは帰国してから、音をひとつひとつ吟味してつくり出さなければならなかった。」(43)
「つくっている途中に、横尾さんから、『細野くんの作品は、このアルバムのあと、ガラリと変わるよ。そのためにもなければいけないアルバムなんだ』という意見を聞いた。」(43)

松武秀樹の証言
「レコーディングに誘われたことは本当に光栄でした。当時、シンセサイザーやコンピューターを、インド音楽のよ うな民族音楽に使用するというアイデアは本当に斬新で、ドローンという技法や倍音を重ねることでインドの響きがするということを教えてもらい、目から鱗が 落ちる体験でした。」(54)

※編注:『コチンの月』のレコーディング。なお、横尾忠則の日記(文春文庫『地球の果てまでつれてって』所収)に6月2、12〜30日の横尾の行動が詳しく記録されているが、このレコーディングについては一切触れられていない。


1978/06/10 『宝島』7月号(JICC出版局)発売。
レコード評/アラン・トゥーサン『モーション』

1978/06 久保田麻琴と夕焼け楽団のレコーディング。
ルーチュー・ガンボ

ボビー・チャールズ日本に来たときがあるんですよ」(60)
スティーブ・クロッパーと、レヴォン・ヘルムと」(60)
「なんか急遽、スタジオに集まって、なんか演るもんないかっていうんで『ルーチュー・ガンボ』を演ってたのを、 最中に僕に電話かかってきてね、久保田麻琴から(笑)。"今から、そういうメンバーが集まって『ルーチュー・ガンボ』演るんだけど、来い"と(笑)」(60)
「行ったんだけど、みんな酔っぱらってて(笑)。これレコーディングは無理だろうと。ま一応録ってあるんだよね。で、なんか、酔っ払いが演ってるような演奏が、残ってる」(60)
「後ろのほうで、"うぃばーい"...なんつってっかわかんないんだけど、あれ言ってんのボビー・チャールズ(笑)」(60)
「ドラムスがレヴォン・ヘルムですよ(笑)。なんちゅうこったろう。めったにないことだよね。そういうことはしょっちゅうあるのかなとその後思ったけど、ないね(笑)。なんか不思議な出来事が、時々起こるという」(60)

久保田麻琴の証言
「1978年6月、渋谷のブラックホークでチャンプルーズを聞いていたリヴォン・ヘルムが突然思いつきボビー・ チャールスと私が賛同し数日後スタジオがとられた。細野氏遅刻のためスティーブ・クロッパーがリズム・アレンジをかって出てくれた。RCOオールスターズ 最後の東京公演後にスタジオに入り朝まで続いたセッションにも終始笑顔をたやさず参加してくれた皆の衆に感謝。」(61)

※編注:同年10月にシングル発売が予定されていたがこれは見送られ、翌1979年発売のアルバム『セカンドライン』に収録された。久保田麻琴の証言にあるRCOオールスターズ最後の東京公演は、6月14日に霞が関/久保講堂で催されている。


1978/06 イエロー・マジック・オーケストラ、レコーディング。
ファイアークラッカー
「コンピュータなんて突発的に現れたもので、最初の計画にはなかった。まだよくわかってないわけですよ」(5)
「当時は坂本くんも幸宏も、それぞれ人力で生活してましたから」
(5)
「だから、最初に録った『ファイアークラッカー』は人力ヴァージョンだったんです」
(5)
「最初はコンピュータなしで、『せえの』で生身のミュージシャンとして、ドンカマを頼りに曲を録ったんですね」
(58)
「一度人力でやってみたんです。コンピューターなしでもできるんじゃないかというような気持で」
(2)
「確認のためにそれはやったんです」(58)
「コンピューターで作る前に生演奏でどこまでできるか確認しておきたかったんです」
(54)
「メンバーもミュージシャンだったので、ミュージシャンの力をまだ重視してたんです」(2)
「ところがたいして面白いものができなかった」(2)
「出来があまりにも当たり前で」(58)
「何かちょっと違う、スタジオ・セッションぽいというか」
(5)
「アレンジが違って。もうちょっと何かこう、ティン・パン・アレー的だった。ミュージシャン的なアプローチが今までと全然変わらなかった。何にも新しくなかった」
(2)
「今までと変わらないフュージョンのようなものになってしまって」(58)
「もちろんコンピュータなんかなくたって、いい音楽はできるんですけど、なぜそれがつまらなったかというと、もうすでにシークエンサーに触れていたんです」
(5)
「やってみてやはり生演奏だとその当時のスキルでは上等なフュージョンになってしまうことがわかり」(54)
「これはだめだと」(2)
「その場でマルチを消しちゃったんですね」(58)
「そのとき初めてコンピューターは必需品だということになって」
(2)
「コンピュータの要素を、もっと強く出していかないと面白くないということがそれでわかった」(58)
「やはりコンピューターに革新性を求めて正解だと思いました。」
(54)

坂本龍一の証言
「手弾きのね。やりましたよ」
(5)
「マニュアルにデジタルでやっている。」
(22)
「稚拙というか。シークエンサー部分も僕が手弾きでやってるんだけど」
(5)
「たまたま松武秀樹さんが忙しくて来れなかったとかじゃないのかな。ただ、その部分はそんなに問題じゃなくてね。当時は弾いても、シークエンサーか手弾きかわからないぐらい、正確に弾けてたんですよ。だから方法論が違ったんじゃないかな」
(5)
「手でやったのがすごく雰囲気がよくて、デモ・テープをみんなで聞いたこともある。」
(22)

高橋幸宏の証言
「あんまり覚えてないんです、僕」
(5)

松武秀樹の証言
「その時点ではぼくはいなかった」
(56)


1978 クラフトワーク『人間解体』を聴く。

「テクノロジーとか音作りみたいなことで言うと、クラフトワークの『マン・マシーン』は音だけで人を驚かすところがあって、ああいう音はドイツでないと録れないのかなと思ったりしました。実際どうすればあの音になるのか」
(17)
「独自の音作りの過程を持つという意味で、クラフトワークの『マン・マシーン』というのは驚異的でしたね」(17)


1978/06/21 鈴木茂・山下達郎との連名によるアルバム『パシフィック』発売。
最後の楽園:compose, arrangement, bass, vibraphone, synthesizer
コズミック・サーフィン:compose, arrangement, sequencer, synthesizer
「『パシフィック』っていう企画盤は全然賛成できなかったね。リゾート・ミュージックであって、トロピカルとは違う」(11)

坂本龍一の証言
「僕は手弾きでシークエンサーをやってるでしょう」
(5)


1978/06/21 高橋ユキヒロ『サラヴァ!』発売。
ボラーレ:bass
サラヴァ!:bass
セ・シ・ボン:bass
ラ・ローサ:bass
エラスティック・ダミー:bass
サンセット:bass
ミッドナイト・クイーン:bass
プレゼント:bass
高橋幸宏の証言
「細野さんと教授と、3人が集まったアルバムとしても思い出深い」
(31)
「一番盛り上がった『サンセット』っていう曲がありまして。教授が手弾きでシークエンスをやってるんだけど、細野さんにその曲を聴かせたときに、すごく強い反応があったんです」
(5)

坂本龍一の証言
「『サラヴァ!』は僕と幸宏で作ったようなものじゃないですか。完成したときに、すぐ細野さんにカセットで聴かせたんです。細野さんにどう評価されるかっていうのに、僕らはすごく関心があって。とにかく幸宏のヴォーカルがいいというのを、最初に言っていたんですね」
(5)


1978 ジョージ・ルーカス監督の映画『スター・ウォーズ』を観る。

「ハリウッドも『スター・ウォーズ』の登場で、突然の飛躍がある」
(5)
「僕たちを最新設備の娯楽へと誘った。『2001年―』や『未知との遭遇』と決定的に違うのは、内容の陳腐さと同時に、楽しみ方の新しさである。」
(26)

※編注:『スター・ウォーズ』は同年6月24日から都内5館で先行上映を開始、7月1日から拡大公開された。


1978 福澤諸の存在を知る。

「『UFOと宇宙』という雑誌があったんですが、そこの取材を受けたあとに、えー編集の方から、円盤の写真を撮る若者がいる、ということで」
(62)
「友達を通して、円盤のビデオを持ってたりする円盤フリークスみたいな人に呼ばれたわけ」(63)
「何か新しいことがおこりそうなとこへ行くのがこわくてなかなか行けなかった」(63)

<出典>
(1)CD 細野晴臣&イエロー・マジック・バンド『はらいそ』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2005年
(2)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(3)『週刊TVガイド』6月17日号 東京ニュース通信社/1983年
(4)『コンパクトYMO』
 徳間書店/1998年
(5)YMO読本『OMOYDE』 ソニー・ミュージックハウス, GT music/2003年
(6)日笠雅水『マーコさんのテソーミ教室』vol.45 まぐまぐ/2012年1月6日
(7)日笠雅水『マーコさんのテソーミ教室』vol.46 まぐまぐ/2012年1月13日
(8)牧村憲一『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969 - 1989』 スペースシャワーブックス/2013年
(9)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(10)『dankaiパンチ』10月号 飛鳥新社/2007年 
(11)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(12)坂本龍一『千のナイフ』ライナー・ノーツ 日本コロムビア/1978年
(13)『YMO GLOBAL』 シンコーミュージック/2007年
(14)『ニューミュージック・マガジン』10月号 ニューミュージック・マガジン社/1978年
(15)『テクノ・ボーイ』 双葉社/1980年
(16)『ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1968-1980』 音楽出版社/1999年
(17)『ニューミュージック・マガジン』11月号 ニューミュージック・マガジン社/1979年
(18)『ラジオマガジン』9月号 モーターマガジン社/1980年
(19)『スタジオ・ボイス』12月号 インファス/1992年
(20)坂本龍一『音楽は自由にする』 新潮社/2009年
(21)坂本龍一『SELDOM-ILLEGAL 時には、違法』 角川書店/1989年
(22)イエロー・マジック・オーケストラ『FROM TOKIO TO TOKYO』ツアー・パンフレット ヨロシタミュージック/1980年
(23)J-WAVE『Daisyworld』 1998年7月20日
(24)Inter FM『Daisy Holiday !』 2007年12月10日
(25)『TRANSIT』12号 ユーフォリアファクトリー/2011年
(26)細野晴臣『地平線の階段』 八曜社/1979年
(27)細野晴臣『分福茶釜』 平凡社/2008年
(28)NHK-FM『サウンドストリート21』 2007年10月2日
(29)CD HARRY HOSONO & THE WORLD SHYNESS『FLYING SAUCER 1947』ライナー・ノーツ スピードスターレコーズ/2007年
(30)高橋幸宏『RUN AFTER YOU』ツアー・パンフレット オフィス・インテンツィオ/1998年
(31)高橋幸宏『心に訊く音楽、心に効く音楽』 PHP新書/2012年
(32)ユリイカ臨時増刊号『総特集 高橋幸宏』 青土社/2013年
(33)『PAPER SKY』no.9 ニーハイメディア・ジャパン/2004年
(34)CD 細野晴臣&横尾忠則『コチンの月』ブックレット キング・レコード/2005年
(35)J-WAVE『Daisyworld』 2000年5月22日
(36)『広告批評』3月号 マドラ出版/1995年
(37)『イラストレーション』3月号 玄光社/1995年
(38)NHK-FM『サウンドクリエイターズファイル』 2011年5月22日
(39)鋤田正義+イエロー・マジック・オーケストラ『Yellow Magic Orchestra × SUKITA』 TOKYO FM出版/2010年
(40)『超私的横尾忠則マガジン』VOL.6 平凡社/2000年
(41)『横尾忠則自伝』 文藝春秋/1995年
(42)横尾忠則『地球の果てまでつれてって』 文春文庫/1986年
(43)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(44)
細野晴臣&横尾忠則『コチンの月』ライナー・ノーツ キング・レコード/1978年
(45)『ART iT』14号 アートイット/2007年
(46)『UFOと宇宙』8月号 ユニバース出版社/1978年
(47)備酒元一郎編『ジャケット・デザイン・イン・ジャパン』 ミュージック・マガジン/2004年
(48)
J-WAVE『Daisyworld』 2000年5月15日
(49)FM東京『アルファ・サウンドラボ』 1978年4月10日
(50)『話の特集』9月号 話の特集/1982年
(51)FM東京『アルファ・サウンドラボ』 1978年4月17日
(52)細野晴臣&イエロー・マジック・バンド『はらいそ』歌詞カード アルファレコード/1978年
(53)『銀星倶楽部』11 ペヨトル工房/1989年
(54)『シンセサイザークロニクル』 学習研究社/2008年
(55)シリーズ20世紀の記憶『かい人21面相の時代』 毎日新聞社/2000年
(56)『Weekly YMO Web magazine』No.01 ソニー・ミュージックエンタテインメント/2003年6月16日
(57)田中雄二『電子音楽イン・ ジャパン 1955〜1981』 アスペクト/1998年
(58)CD イエロー・マジック・オーケストラ『YMO GO HOME』ブックレット 東芝EMI/1999年
(59)田家秀樹『みんなCM音楽を歌っていた』 徳間書店/2007年
(60)Inter FM『Daisy Holiday !』 2010年2月8日
(61)久保田麻琴と夕焼け楽団『セカンドライン』ライナー・ノーツ 日本コロムビア, ベターデイズ/1979年
(62)
Inter FM『Daisy Holiday !』 2002年5月25日
(63)中沢新一, 細野晴臣『観光』 角川書店/1985年
update:2018/11/26

1977<>1978-2
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