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chronology 1977


1977/01/11 いしだあゆみのレコーディング。ヴォーカルの録音。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1977/01/12 いしだあゆみのレコーディング。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1977/01/12 林立夫と、アルファ・レコード用デモ音源の作業。江戸川橋/音羽スタジオ。

「ミュージック・ビジネスという気持ちでやりだしたのがそのころなんです」(1)
「30歳の時までに、ひとつの仕事を完成させなきゃいけないと思ったんだ」(2)
「自分の社会的なアイデンティティを確立させなきゃいけない、いい音楽をやり続けるためにも、成功しなきゃいけないって思ったの。初めて、そういうふうに思ったんだよ」(2)
「それまではね、スタジオ・ミュージシャンなんかをやってると、わりと日々楽にお金が入ってきたから、あまり考えなかったの。まあ、日雇い労働者みたいな感覚だったのね」(2)
「ぼくは、ミュージシャンていうのはすごくはかないものだと思ってたし、その当時は、あまり面白いものじゃないと思ってたんだ。ミュージシャンをやってると、エゴが強くなったり、そういう部分で悩んだりする人も多かったりね」(2)
「自分でも、そういう部分があって、悩んだりもしてたから。『あいつは上手くて、自分はダメだ』とか。かと思うと『自分は世界一だ』とか、つまらないことで動かされちゃうの」(2)
「そういうところからは抜け出したかったから、もう終わらせようと思った。はっきり言うとね、30歳の時までに何かをやって、終わらせよう。で、30歳でできなかったら、もう音楽をやめちゃおうと思ったの」(2)
「3年間を目安にして」(3)
「3年間なら縛られてもかまわないし、どうせやるならビジネス以上のことをやりたかった」(3)
「何かできたらいいし、できなかったら音楽をやめようと」(3)
「やめて、僧侶の道とか、そっちのほうに行きたかった。家も仕事もみんな捨てて……」(3)
「これは、本当に真面目にそう思ってたんだけど、どうしても、いつも釈迦が出てくるのね。シャカ族の王子だったゴーダマ・シッタルタが29歳で出家して、30歳でなにかがわかったっていうことがすごく気になってて」(2)
「そのころは、物欲みたいなものが全然なくなっちゃってた」(3)
「無理やりなくしたんじゃなくて、興味がなくなっちゃったの。もっとほかの欲がでてきたの。愛欲とか、浄化されたいという欲とか、仙人になりたいとかいう欲ね。で、仏教とかヨガとか呼吸法とか、そんな本をいっぱい読んでた」(3)
「仏教の影響が強くて、かぶれちゃったんですね。子供のころの記憶がよみがえってきてね。子供のころの記憶とい うのは単に孫悟空や三蔵法師を助けた仏樣たちにあこがれてただけなんですけど、それが種だったんですね。その種が花開いていくと、釈迦の生き方を見習わな きゃいけないと思って」(4)
「だから、29歳だからチャンスだと思ったわけ。まだ大丈夫だろうと。釈迦に負けたくないような気がしてきて、釈迦に負けたら人生に負けるような気がしていたの」(2)
「負けるもんかという感じがあって(笑)。張り合わなくちゃいけないと思って。出家というのはそんなにいいもんかと」(4)
「それでプロデュースということで、何をするかと考えて、林くんら周りにいる人たちと、なんかをでっち上げようということで始まったんですね」(1)
「ティン・パン・アレーのメンバーとバンドを作ろうと思ってたんです。YMOの原型に近いアイディアで『YELLOW MAGIC CARNIVAL』をもう一回やってね。女の子のヴォーカリストがいたんで、林立夫とバンドを組もうという約束だったんです。そのメンバーでアルファに行こうと思ってたんですね」(4)
「『トロピカル・ダンディ』『泰安洋行』というソロ・アルバムが、当時の環境の中では、かなり違和感を持って捉えられていて」(1)
「身近なところで、音楽仲間からもわりと違和感を持たれていて、ちょっと怖がられていたというか(笑)。そこで考え たのが、これを商品にするにはどうしたらいいかと。それで当時、流行っていたのがディスコティックで。僕のポップス体験の中には、ダンス音楽というのが基 本にあるから、ダンス音楽の枠を利用して、今までのちょっとへんてこりんな世界をのっけてやれば、すんなり伝わるんじゃないかという」(1)
「そのころいっしょにやる人は林くん以外考えられなかったんです」(1)
「音楽的理解者として。理解があってこそ、コンビネーションもうまくいくんです。僕たちのコンビはそのころ、プレイヤーとしてかなり乗ってた時代ですからね」(1)


1977/01/13 林立夫と、アルファ・レコード用デモ音源の作業。江戸川橋/音羽スタジオ。

1977/01/13 いしだあゆみのレコーディング。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1977/01/14 いしだあゆみのレコーディング。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1977/01/15 林立夫と、アルファ・レコード用デモ音源の作業。江戸川橋/音羽スタジオ。

1977/01/17 林立夫と、アルファ・レコード用デモ音源の作業。江戸川橋/音羽スタジオ。

1977/01/18 『ザ・ミュージック』2月号(小学館)発売。
インタビュー/HOLD UP

1977/01/18 小林旭のレコーディング。ストリングスの録音。赤坂/クラウン・スタジオ。

1977/01/19 山下達郎のリハーサル。赤坂/クラウン・スタジオ。

山下達郎の証言
「この時代のレコーディングは、スタジオ・ミュージシャン、すなわち、レコーディング専門の演奏家を集めてリズムを録り、それにブラスやストリングス、コーラスなどの装飾を施して仕上げるという手順が、もっとも一般的でした。」(5)
「それまでにも増して編曲という要素が重大なテーマとなっていた私は、自分の要求を満たしてくれる演奏者を選定することから作業を始めました。」(5)
「『SPACY』のレコーディングのために、私がまず最初に選んだリズム・セクションの陣容は、ドラムス:村上"ポンタ"秀一、ベース:細野晴臣、ギター:松木恒秀、キーボード:佐藤博というライン・アップでした。」(5)
「この選択は当時の私の個人的な趣味が反映したもの」(5)
「この4人でレコーディングは初めてだったそうで、特に細野さんと松木さんは初対面で、ポンタが間に入って、けっこう気を遣ったそうです。」(5)

村上"ポンタ"秀一の証言
「俺のドラムと細野さんのベースでやってほしい、って達郎から依頼が来た時は驚いたし、けっこううれしかった」(6)
「言うならば異色の組み合わせだったんだ。このコンビでレコーディングするのは、たしか初めてだったんじゃないかな」(6)
「スタジオに行ったら、また細野さんが椅子の上であぐらかいてベースを弾いている。なんとなく人をバカにしているように見えるんだよ」(6)
「松木さんに言われたもん。『なんだ、あいつ。ポンタ、生意気だって言ってこい』」(6)
「松木さんは俺の兄貴分だから、さからえないのよ。言いにいきましたよ。『生意気だぞう……』って、うんと小さい声で」(6)


1977/01/20 横尾忠則と対談。銀座/三笠会館。

「僕は横尾さんと対談することができない。何故なら、横尾さんの話していることにただうなずくだけだからである。僕の感じていることをスパッと先に言われてしまうから、対談にはならない。」(7)
「ただひとつ、宗教は自分自身であるということと、カルチャーになってしまうのを恐れているという横尾氏の言葉は」
(7)
「忘れられない言葉になっている」(7)

※編注:『レコードの本』に掲載。


1977/01/20 林立夫と、アルファ・レコード用デモ音源の作業。江戸川橋/音羽スタジオ。

1977/01/21 小林旭のレコーディング。ストリングスの録音。赤坂/クラウン・スタジオ。

1977/01/24 大瀧詠一・かまやつひろしと鼎談。

※編注:『新譜ジャーナル』に掲載。


1977/01/25 佐藤博『タイム』発売。
チョイト:bass
茜雲の街:bass
佐藤博の証言
 チョイト
「カリプソっぽいラテンの曲」(8)
「『タイム』の中で一番印象に残っていて、細野くん、ミッチらしいなって感じた」(8)
「ものすごく好きでね」(8)
「それまでは、ポンタなんかのねちっこいリズムと、どっちがいいんだろうって股裂き状態だったんだけど、『チョイト』あたりから、あ、オレはこっちのほうが好きだって言えるようになったの」(8)
「リズムの感じが、関西はどちらかというとねばっこいというか、ねちっこいの」(8)
「リズムの質感が違うなと思ったのね、細野くんたちとやりはじめて」(8)
「すごくビートが淡白に感じたの」(8)
「ややあっさりというか」(8)
「ところが、いろいろセッションを重ねていくと、こっちの方が心地よくなってくるの、ホントに」(8)
「縦ノリとしてのタイトな良さが関東系にはある」(8)
「で、自分のリズムの質感も、徐々に変化していってるなというのが自分でも自覚できたっていうか」(8)

1977/01/28 女性ヴォーカリストのオーディションのため、ロサンゼルスへ出発。村井邦彦が同行。

「アルファのプロジェクト」(4)
「すごくシステマティックで壮大なプロダクションだった。ハリウッド・スタイルだよね。作詞家も既に決まっていて」(9)

村井邦彦の証言
「日本発で海外で当たるものを作ろうという前提で細野くんとやったプロジェクト」(10)
「最初に彼は、『クリオールの歌手を探してきてくれ』って言うの」(11)
「天の啓示みたいに思いついたことがあると言うんだな。"村井さん、これはクレオールの歌手がいいですよ"って(笑)」(10)
「ニューオリンズあたりの、フランス人と黒人の混ざったようなそういう歌手を探してきてくれってね」(11)
「"ニューオリンズに近い、フランス文化の入った黒人のシンガーを使いましょう"って」(10)
「黒人と白人のごちゃまぜ音楽みたいなものに自分の世界を投影して、それを世界で売りたいって。僕も世界に売りたい夢があったからね」(11)
「彼がやりたいのなら、その通りに助けようと思って」(10)


1977/02/03 リンダ・キャリエールとミーティング。ロサンゼルス/ビヴァリーヒルズ。

「オーディションをして、リンダ・キャリエールを見つけた」(9)

村井邦彦の証言
「ロサンゼルスの知り合いに"クレオールの歌手いるか?"って本気で尋ね回って」(10)
「リンダ・キャリエールってのが出てきたんだよね。それで、ビヴァリーヒルズに僕と細野で出掛けていって」(11)
「ホテルのプールサイドで会見してさ」(10)
「見たらもう田舎のお姉ちゃんなわけ。ビヴァリーヒルズの立派なところに来ちゃってもうキョロキョロしてるわけよ。細野に『これでいいのか?』って聞いたら、『これでいい、最高』って言うんだ。それでリンダに、とりあえず半年ぐらい日本に来いって言ってね」(11)
「そっから僕はまかせちゃった」(11)


1977/02/11 ロサンゼルスから帰国。

1977/02 アルファ・レコードと契約。

1977/02 吉田美奈子のレコーディング。

※編注:アルバム『トワイライト・ゾーン』のセッション。細野晴臣が渡米中の2月1日に始まり、11日の帰国後は22日まで行われているが、参加日は特定できない。

1977/02/26 リンダ・キャリエールのリハーサル。芝浦/アルファ・スタジオ。

1977/02/26 山下達郎のレコーディング開始。サウンド・シティ・スタジオ。

山下達郎の証言
「村上・細野・松木・佐藤セクションのレコーディングは、細かなパターンや音の動きまで譜面に書き込んである『書き譜』によるセッションだったのですが、実はほとんど誰も言うことを聞いてくれず、勝手にフレーズをどんどん変えてしまうのです。」(5)
 Love Space
「最初に録音した曲です。16小節のテーマがひたすらくり返されるという趣向の作品というのを昔から作ってみた くて(ライブでやりやすいので)、細野さんのベースのフレーズは1960年代のリズム・アンド・ブルースを知り抜いた世界ですし、ポンタのタムの音、松木 さんのストラトキャスターでのオブリ、佐藤くんの黒鍵のグリス、どれもがオリジナリティにあふれています。」(5)

村上"ポンタ"秀一の証言
「刺激的だった」(6)
「めちゃくちゃおもしろかった」(6)
 Love Space
「イントロ、ドラムとベースの絡みが最高にかっこいいでしょ。あれ、現場発生的に生まれた音なんだよ」(6)


1977/03/12 リンダ・キャリエールのレコーディング。芝浦/アルファ・スタジオ。

1977/03/13 リンダ・キャリエールのレコーディング。芝浦/アルファ・スタジオ。
※編注:前日のレコーディングと合わせ、リズム・トラック2曲の他、小物の録音が行われた。

1977/03/19 リンダ・キャリエールのレコーディング。ストリングスの録音。芝浦/アルファ・スタジオ。

1977/03/20 リンダ・キャリエールのレコーディング。管楽器の録音。芝浦/アルファ・スタジオ。

1977/03/22 リンダ・キャリエールのレコーディング。ヴォーカルの録音。芝浦/アルファ・スタジオ。

リンダは、ちょっとヴォーカルがフラットしたりするけど、それも味だと思ってた」(12)


1977/03/25 大滝詠一『ナイアガラCMスペシャルVol.1』発売。
Cider '74(Original Mono Mix):bass
Cider '75(Original Mono Mix):bass
クリネックス・ティシュー:bass
どんな顔するかな:bass
Cider '74(Remixed Stereo):bass
Cider '75(Remixed Stereo):bass
Cider '73 re-arrange:bass
クリネックス・ティシュー(Stereo Mix):bass

1977/03/25 吉田美奈子『トワイライト・ゾーン』発売。
トワイライト・ゾーン "オーバーチュア":gut guitar
ラズベリー・スロープ:gut guitar

1977/03/26 リンダ・キャリエールのレコーディング。コーラスの録音。芝浦/アルファ・スタジオ。

1977/03/27 リンダ・キャリエールのミックス。芝浦/アルファ・スタジオ。

1977/03/28 リンダ・キャリエールのミックス。芝浦/アルファ・スタジオ。

1977/03/29 リンダ・キャリエールのミックス。芝浦/アルファ・スタジオ。

1977/04/07 『ローリング・ココナッツ・レヴュー・ジャパン』リハーサル。久保田麻琴と夕焼け楽団、ジョン・セバスチャン、大貫妙子が参加。代々木上原/ワキタ・スタジオ。

1977/04/10 『ローリング・ココナッツ・レヴュー・ジャパン』ファイナル・ショウ出演。晴海/国際貿易センター。
出演:ヴィンス・マーチン、ラストショウ、スティーブ・ジレット、ピーター・ローワン・バンド、ジョン・セバスチャン、ルイジアナ・レッド、上田正樹とセッション・バンド、ロニー・マック、スタッフ

久保田麻琴と夕焼け楽団+細野晴臣 細野晴臣(vo)、久保田麻琴(g, cho)、ジョン・セバスチャン(g ?)、サンディー(cho)、大貫妙子(cho)、夕焼け楽団
Pom Pom 蒸気
Ain't Got No Home


1977 小坂忠のレコーディング。片町/トラスタジオ。

小坂忠の証言
「自分のスタジオに細野くんや茂、林といった日本のトップ・ミュージシャン達を招いて、どこまでできるか試してみたい気持ちがあったんです」(13)
「レコーディングに入る前からコンセプトも明確になっていました。テーマは『朝』と『旅』。それに沿って、『ほうろう』でもやった『ボン・ボヤージ波止場』を選んだり、『上を向いて歩こう』をカヴァーすることを決めたんです」(13)

※編注:アルバム『モーニング』のセッション。


1977/04/20 『ニューミュージック・マガジン』5月号(ニューミュージック・マガジン社)発売。
寄稿/チーム・ワーク・システムこそ必要

1977/04/25 いしだあゆみ&ティン・パン・アレイ・ファミリー『アワー・コネクション』発売。
私自身:compose, arrangement, bass
ひとり旅:compose, arrangement, bass, folk guitar
六本木ララバイ:bass
ダンシング:compose, arrangement, bass
バレンタイン・デー:bass
黄昏どき:bass
真夜中のアマン:compose, arrangement, bass
哀愁の部屋:bass
ウィンター・コンサート:bass
そしてベルが鳴る:bass, folk guitar
ムーンライト:compose, arrangement, bass
バイ・バイ・ジェット:compose, arrangement, bass
「和田アキ子さんの次に依頼があった」(14)
「歌謡曲」(14)
橋本淳という作詞家の方から依頼があったんですが、なんか闇雲に曲をいっぱい書いた憶えがあって、けっこう好きな曲もいっぱい入ってたんですが、あんまり陽の目を見ない」(14)
「橋本さんとべったり一緒に作ったんですけど、僕が無愛想だったのかなぁ。その後仕事がないので…(笑)。試されたのかな、という気も しますけど。歌謡界の大御所との仕事は結構プレッシャーが強くて、もう一心不乱に曲を書いていましたよ。すごくいい人だったんですけどね。気に入ってくれ てるな、と。手探り状態で、恐る恐るではあったけど、ただいい曲を書く。そういう想いはずっとあった。それがいい曲かどうかは分からないけど、自分では気 に入ったものができた」(15)
「サビが、とても気に入ってます」(14)
「『バイ・バイ・ジェット』がすごく好きで。『ダンシング』もそうですが、当時のティン・パンの一番ノッた時期の演奏が聴けますね」(15)

ダンシング
「コーラスは山下達郎、それから吉田美奈子のデュエットでした」
(14)

私自身

「アレサ・フランクリンにすごく影響されている。"ズダダン・ズダダン"というベースとドラムが。ときどき出てくるんですよ」
(15)
「真似って言われるのは嫌だけど、引用はしているっていう」(15)
いしださんが歌うと面白い。変わったサウンド、歌謡曲になる」(15)

ムーンライト
「大人の世界だなって思いながら曲を作ってた。僕はお酒が飲めないし、そういう大人の遊び場に行ったことないから」
(15)

1977/05/07 14:00開演 『ベター・デイズ・パートII』出演。日比谷野外大音楽堂。
出演:吉田美奈子、大貫妙子、矢野顕子、久保田麻琴と夕焼け楽団+サンディ・A・ホーン、佐藤博、ムーンライダーズ

細野晴臣
曲目不明


1977/05 大貫妙子のレコーディング。

「大貫妙子とか、そのころのスタジオワークというのは、完全にすべてフュージョンだったんです。もう完璧にベーシストの顔で弾いてましたから」(16)

国吉静治の証言
「『Stuff』といえば当時ニューヨークで活躍していた最先端のセッション・ミュージシャン達。彼らのアルバ ムを日本のミュージシャン及びスタッフたちは皆こぞって聞いていました。そのドラマーであるクリス・パーカーがレコーディングに参加するということは、我 々のみならず、このレコーディングに参加してくれる日本のミュージシャンにとっても大きな驚きでした。」(17)
「ほとんどの曲がテイク3くらいでOK。何の問題もないどころか日本人ミュージシャンも200%以上の力を出してくれて素晴らしいテイクが短時間で録れました。」(17)

※編注:アルバム『サンシャワー』のセッション。


1977/05/25 山下達郎『スペイシー』発売。
Love Space:bass
素敵な午後は:bass
Candy:bass
Dancer:bass
山下達郎の証言
 素敵な午後は
「イントロの松木氏のギターからフェイド・アウトまで、結果的にヘッド・アレンジといっていいほどスコアとは 違ったプレイを全員が繰り広げています。それでもちゃんと形になっているのは、この人達がみなアレンジャー・センスを有していたことによるものですが、真 に優秀なミュージシャンであればそれほど規制しない方がむしろいいのだということを学んだのでした。」(5)
 Candy
「コード進行への興味のために作ったような曲です。それが通じたのか、休憩時間に細野さんがサビのコードをピアノで弾いて確かめていたのが、妙にうれしかった」(5)
「あのころの人たちにはそういうレベルの音楽的好奇心が確かにありました。」(5)

1977/05/30 前田憲男のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

※編注:アルバム『Soul Samba / Holiday in Brazil』のセッション。


1977/05/31 前田憲男のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1977/06/01 前田憲男のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1977/06/05 前田憲男のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1977/06/11 前田憲男のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1977 ロニー・バロンをプロデュースするプロジェクトが決定。

「東京で夕焼け楽団がアルバム(編注:『Lucky Old Sun』)をレコーディングした時に、またロニーとドラマーのトラビスを呼んだんですけど、そこで話が決まったんです」(18)
「アイデアは久保田麻琴」(18)
「ロニー・バロンと僕を音楽的に合わせたいっていう気持があって、そこから出て来たんですね」(18)

1977/07/20 『ニューミュージック・マガジン』8月号(ニューミュージック・マガジン社)発売。
寄稿/ロック第二期生の見たエヴァリー

1977/07/25 やまがたすみこ『フライング』発売。
夢色グライダー:compose
夢色グライダー
「あんまり憶えがないんですが、鈴木茂がアレンジしてくれた」
(14)
「作詞は松本隆です」(14)
「これは、ゆくゆくは真鍋ちえみなんかに繋がるようなメロディですね。これが初めて。それまでは、引用があったりモデルがあったり影響され た曲があったり。でもいしだ(編注:あゆみ)さんの時に歌謡曲という世界に触れて。この『夢色〜』ではもっとメロディだけを純粋に考えた。だから誰かから 刷り込まれたものを意識的に使ったのではなく、自分の身体から出てきたもの。ここから自分の世界が始まる。ソロでもやらないし、自分では歌えない。そうい う世界」
(15)
「曲調としては、50年代から60年代にかけてのガール・ポップみたいな方向へ回帰した感じもありますね」(15)

1977/07/25 小坂忠『モーニング』発売。
ボン・ボヤージ波止場:compose, words, arrangement, bass, solina, vibraphone
アイスクリームショップガール:compose, words, arrangement, bass, chorus
朝は好きかい:arrangement, bass, vibraphone, piano
早起きの青い街:bass
シルクランデブー:bass
フォーカスラブ:bass
上を向いて歩こう:arrangement, bass, solina, vibraphone, mellotron
アイスクリームショップガール
「作詞は僕で曲も僕で、浜口庫之助を気取って作った」(14)

小坂忠の証言

「好きなアルバムなんですよ」(13)
「想像以上にいい音に仕上がったと思います」(13)
「自分では大満足のアルバムだったんです」(13)
 上を向いて歩こう
「細野くんのアレンジが最高でしたね」(13)

1977/07/25 大貫妙子『サンシャワー』発売。
くすりをたくさん:bass
都会:bass
誰のために:bass
大貫妙子の証言
「このアルバムを聞き返して驚くべきことは、この時全員がまだ20代であったということです。演奏においてこれ だけのスピード感とパワーがすでにあったということで、当時クロスオーバー・ミュージックと言われていたジャンルを聴きまくりコピーしまくっていたのがわ かります。」(17)

1977/07/25 前田憲男 meets ティン・パン・アレー『ソウル・サンバ/ホリデイ・イン・ブラジル』発売。
Manha de Carnaval:bass
The Lool of Love:bass
Wave:bass
Desafinado:bass
The Constant Rain:bass
One Note Samba:bass
Summer Samba:bass
The Girl from Ipanema:bass
Reza(Laia Ladaia):bass

1977/07/27 ミーティング。アルファ。

1977/07/30 14:00 『グリーングリーンミュージックフェスティバル』出演。千葉/マザー牧場。
出演:憂歌団、久保田麻琴と夕焼け楽団、イズミヤシゲル&ストリート・ファイティングメン、紫、Char、Thank You

細野晴臣
 
曲目不明

1977 プロモーション盤まで完成したリンダ・キャリエールのアルバムが発売されないことに決定。

「とうとうボツになっちゃった」(4)
「幻になっちゃった(笑)」(12)
「いいアルバムだと思ってる」(12)
「出すべきだった」(18)
「一生懸命作ったし、曲も良かったし演奏も良かったんで」(12)
「歌もそんなにひどくないし、レコード会社との見解の相違だね。一番良くないのは歌詞」(12)
「そこが、結局は失敗だった」(9)
「三島由紀夫の『午後の曳航』のハリウッド版を手掛けた脚本家のなんとかって人(編注:作詞家のクレジットは"James Ragan")」(12)
「詞があまりにも文学的でリンダには合わなかったんだ」
(9)
「ティン・パン・アレーの範疇で出してもおかしくないような出来だったんで、そのままチャンスを見て出せばよかったんだけど、チャンスを見る人がいなくて」(12)
「でも、リンダのことは、そんなに引きずらなかった。まあ、しょうがないやって」(12)

村井邦彦の証言
「できてきたら、ダメなのよ、そのお姉さんの歌が(笑)。ヴォーカリストとしての力量がないわけ」
(10)
「完成したものを僕が聞いてもヴォーカルの基礎的な部分…音程とかに未熟な部分がある気がしたなあ」(9)
「でも一応作ったから」(10)
「アメリカのレコード業界の人たちに聞かせた」(9)
「音楽業界のいろんな友達に」(10)
「海外発売の可能性はどうだって聞いたら、みんなダメだって言う」(10)
「"難しい"って言う人ばっかりで…かと言って、日本で売ろうったって、全部英語だし、ちょっとマーケットがないので、オクラに入っちゃった」(9)
「何千万も使ったんだけどさ」(10)
「いい曲はあったけどね」(9)

※編注:プロモーション盤の収録曲は下記の通り。

SideA
01. Up on His Luck

02. Loving Make It So

03. Sunday Girl - A Song to Drown out Screaming(作曲:細野晴臣)

04. All That Bad(作曲:細野晴臣)

05. Proud Soul

SideB
01. Laid Back Mad or Mellow

02. Child on An Angel's Arm(作曲:細野晴臣)

03. Vertigo

04. Love Celebration

05. Socrates(作曲:細野晴臣)

1977/08/07 『第1回札幌ロック祭 ツーアウト・フルベース』出演。札幌/中島公園野外ホール。
出演:ムーンライダーズ、オレンジ・カウンティ・ブラザーズ、ベーカーズ・ショップ・ブギ、スカイドッグ・ブルース・バンド 他

夕焼け楽団+細野晴臣
曲目不明

※編注:ムーンライダーズ+アストロチンプス『フライト・レコーダー』(JICC出版局/1990年)によると、ムーンライダーズの出演は8月6日。公演は8月5日から7日まで、3日間にわたって行われた。

1977/08/25 夕焼け楽団『ラッキー・オールド・サン』発売。
Smokey Joe's Cafe:background vocal

1977/08/25 『East West '77 フェスティバル』リハーサル。

1977/08/26 『East West '77 フェスティバル』リハーサル。

1977/08/27 日本楽器製造株式会社東京支店主催『East West '77』決勝大会で審査員。中野サンプラザホール。
司会:田中正美
ゲスト:ミノタウロス
審査員:相倉久人、小倉エージ、増渕英紀、佐藤博、大村憲司、深町純、上田正樹、成瀬喜博、ジョニー吉長、村上秀一、吉成伸幸
※編注:出場したのは関東甲信越地区アマチュア20バンド。サザン・オールスターズ、シャネルズが入賞し、桑田佳祐がベストボーカリスト賞を受賞。前年に続いて出場のカシオペアは優秀グループに選ばれ、野呂一生がベストギタリスト賞を再び受賞している。

1977/08/28 日本楽器製造株式会社東京支店主催『East West '77 フェスティバル』出演。中野サンプラザホール。
司会:妹尾隆一郎
出演:たぬきブラザーズ、フライング・アゲイン、花伸
ゲスト:ASOCA、久保田麻琴と夕焼け楽団、サディスティックス、速水清司とコースト、金子マリとバックスバニー、パンタ、山岸潤史

細野晴臣+夕焼け楽団+岡田徹
曲目不明


1977/09/05 ティン・パン・アレー『ティン・パン・アレー2』発売。
明日あたりはきっと春:produce, bass
薔薇と野獣:produce, compose, arrangement, bass, synthesizer
野生の馬:produce, bass
ろっかばいまいべいびい:produce, compose, words, bass
心もよう:produce, bass
航海日誌:produce, arrangement, bass, marimba, guitar
ポケットいっぱいの秘密:produce, bass
結婚しようよ:produce, bass
妹:produce, bass
「まあ失敗だよね(笑)。でもティン・パン・アレーの連中はミュージシャンとして、やる気満々だったんだよ」(12)
「ちょうどミュージシャンの輪が広がっていった時期だったし。だから凝ったものというより、勢いでやれるものを作ろうと思っていたのは、たしか」(12)
「凝って作り込んでいくより、ミュージシャンとしてのアイデアを発散させる場だと思ってたから」(12)

林立夫の証言
「完全にバンド志向じゃないです。スタジオ・ミュージシャンは普段こんなことをやってます。という種あかしアルバムですね。それにチャック・レイニーやクインシー・ジョーンズ、クラウス・オーガマン、そんな人達のそれぞれの世界がヒントとして入ってます」(19)
「バンドとは正反対のアルバムです。楽曲自体も非常に距離感のあるものを選んでますし」(19)
 ろっかばいまいべいびい
「僕がこの中でやりたかったのは、パーシー・フェイス・オーケストラ」(19)
「パーシー・フェイス風にやっています」(19)


1977/09/08 ロニー・バロンのレコーディングのためのミーティングとデモ制作。赤坂/コロムビア・スタジオ。

「なにしろニューオリンズをやりたかったんです。ただロニーは」(18)
「ウエスト・コーストの人間で、ルーツとしてはニューオリンズがあるんですけど、持ってきた曲が色気いっぱいのものが多くてちょっと面くらいました。こっちで一人で考えてたのとは大分違ったみたい」(18)
「放っておくと変なモダン・フュージョンみたいなのをやろうとするから、それはやめろって言ってやった。もっとニューオリンズの伝統的なものをやれって言った」(12)
「こっちでのメンバーの選択は僕がやりました。ただドラマーの林だけは僕のアルバムを聴かせたところ、ロニーがこの ドラマーがいいと指名して、一緒にやることになったんですが、あとのメンバーは僕が決めました。彼にメンバーの感じをつかんでもらうのがまた大変でね。例 えば林のことを僕が(編注:ジム)ケルトナーみたいなドラマーだと言ったら、ロニーはケルトナーはメメしいから嫌だというんですね。彼は男の中の男という か、メメしいのが大嫌いなんです。まあこれは実際の音を聴かせて納得してもらいましたが」(18)
「林以外にドラムは上原裕、ベースは僕と夕焼け楽団の恩蔵隆、ギターは鈴木茂、伊藤銀次、これも夕焼けのケンちゃん(編注:井上憲一)、パーカッションは斉藤ノブです」(18)

1977/09/09 ロニー・バロンのレコーディングのためのミーティングとデモ制作。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1977/09/10 ロニー・バロンのレコーディング。リズムの録音(4曲)。芝浦/スタジオ'A'。

「僕がサジェスチョンを求めてもちゃんと反応してくれたし。まったくギクシャクしたりすることもなく、ごく自然にセッションが始まった気がする」(12)
「レコーディングを始めて思ったのは、ニューオリンズのミュージック・シーンが意外に狭いという ことなんです。日本の邦楽みたいな感じでね。このフレーズは誰のものっていうのが決まっていて、勝手に使えないんです。やるとドクター・ジョンやプロ フェッサー・ロングヘアーにしかられる。ロニーはすごく真面目な人間でなかなかやってくれませんでした」(18)
「彼は死とか霊だとかいう話が好きで、その彼の心に東京のある種の活気というものが強くアピールしたんでしょうね。 ウエスト・コーストやニューオリンズから出て来るものはもう大体想像がつくんだけど、東京からは何が出て来るかわからない、可能性みたいなものを感じたん でしょう。例えば日本のミュージシャンがウエスト・コーストの音が欲しければ、LAへ行って作ればそういう音が出来ますよね。でもロニーの場合は反対に東 京にニューオリンズの音を持って来た訳でしょ。さっきの話で言えば、彼は東京の面白さを直感して、東京に来る"運命"だったんでしょうね。これからは東京 だ、みたいに」(18)
「僕としてはその東京とニューオリンズをミックスした上でプラス・アルファが出なくちゃと思ってた訳です。どこのも のともつかないような、無国籍風な、ニューオリンズが入ってて、東京も入ってて。そんな無節操なところが東京の特色だと思うんですよ。だからそこへロ ニー・バロンが来て、『これは誰それのフレーズだから弾けない。』とか言ってもそれは東京じゃ通用しないんですよね。それでロニーに弾かせちゃったんです よ、そのフレーズも。ここは東京だから」(18)
「僕は彼が僕の曲を聴いてその無節操さにほれて、例えばニューオリンズのところに三味線が入ってきたり、沖縄のコー ラスが入ってきたり、そういうのをやる気なのかと思ってたんだけど、僕とか久保田は進み過ぎてて付いていけないって言われてね。いくら頑張っても彼には枠 があってね。そこから出るのは大変なことなんですね。要するにクリスチャンが生まれながらに持っている倫理感みたいなものを壊せっていうのと同じことなん ですよ。でも僕はこの無節操さこそが東京だというか、逆に言えば東京にはこれしかないと思うんです。ロニーもドラの音を入れたりすることを望んでいたし、 エキゾチック・ファンクみたいなものをやりたかったんでしょうが、考える以上に枠があったようですね」(18)

1977/09/11 ロニー・バロンのレコーディング。ダビング作業。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1977/09/14 ロニー・バロンのレコーディング。リズムの録音(4曲)。芝浦/スタジオ'A'。

1977/09/15 ロニー・バロンのレコーディング。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1977/09/18 ロニー・バロンのレコーディング。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1977/09/19 ロニー・バロンのレコーディング。リズムの録音(4曲)。芝浦/スタジオ'A'。

1977/09/20 ロニー・バロンのレコーディング。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1977/09/21 ロニー・バロンのレコーディング。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1977/09/22 ロニー・バロンのレコーディング。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1977/09/23 ロニー・バロンのレコーディング。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1977/09/25 ロニー・バロンのレコーディング。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1977/09/26 ロニー・バロンのミックス。池袋/サンライズ・スタジオ。

「サンライズ・スタジオでやりました。ミキシングは僕の思っている音でというつもりでやってたんですが、ロニーは最初はおとなしく聴いてるんですが、段々乗り出してきてね。しまいにはミキサーの人と、僕と、ロニーでまぜこぜになっちゃったみたいですね」(18)

※編注:CD『Harry Hosono Crown Years 1974-1977』(クラウン, パナム/2007年)同梱ブックレットにおける長門芳郎作成の年表では、ミックス・ダウンに使用されたのはコロムビア・スタジオとなっているが、ここでは 細野晴臣自身の証言にあり、レコード・ジャケットのクレジットにも記載されているサンライズ・スタジオを採用した。9月29、30両日についても同様。

1977/09/28 ロニー・バロンのレコーディング。赤坂/コロムビア第4スタジオ。

1977/09/29 ロニー・バロンのミックス。池袋/サンライズ・スタジオ。

1977/09/30 ロニー・バロンのミックス。池袋/サンライズ・スタジオ。

1977 林立夫とのバンド構想が頓挫。

「決裂するんです。僕にとってそれはショッキングな出来事でね」(1)
「すっかりその気になってた」(1)
「ある日、林くんから電話があって」(4)
「相談を受けて」(1)
「やはりやめたという」(1)
「やっぱり嫌だっていうんです。突然嫌だっていわれてクラクラしたんですけど。なぜ嫌なのかわかんなくて問い質した ところ、自分でプロデュースしてやりたいと。僕、そんなにしゃしゃり出てるかなと(笑)。それは林くんの誤解だったんです。その証拠にYMOでは他の二人 が前に出て、僕は後ろに引っ込みましたからね。で、一人になっちゃった」(4)

1977/12 アルファ・レコード移籍第一弾となるソロ・アルバムのレコーディング開始。芝浦/スタジオ'A'。

「落ち込んで移籍したんですよ(笑)。どうしようかなあ、一人になっちゃったなあと思って……。それでとりあえず、ソロ・アルバムを作ることになるんですが」(4)
「次に何かやる前に、ちょっとソロを出しておこうという話だったと思う」(16)
「ソロというのはわがままな世界ですから、自然な欲求の中からしか作れない。誰かのために作るってことは、ソロに関してはないですね」(16)

坂本龍一の証言
「ほとんど言葉がないというか、喋らずに。顔色を伺いながら、黙々と」 (1)
「何をやればいいのか、いいのか悪いのかもわからない。ディレクションがないという」(1)


1977 アルファ・レコード設立レセプションでイエロー・マジック・オーケストラのネーミングを発表。

「仕事として頼まれてるわけですね。社長の村井邦彦さんから何かどでかいことをやってくれと。何 もしないでお金だけもらってたんで心苦しくて」(4)
「アドヴァンスをタダで貰っちゃ悪いなと思わせるような仕向け方(笑)、それがあって」(16)
「で、アルファが独立したときに記者会見があって、とっさにイエロー・マジック・オーケストラっていう名前を 思いついたんで、それをやりますと発表しちゃったんです」(4)
「『一年後に作ります』っていっちゃったの」(4)
「イエロー・マジック・バンドだったかもしれない、最初は。とにかくそれをやるんだってことだけは自分の中で決めてました」(16)
「リンダ・カリエールを出さないと聞いて僕は失望したから。それに変わるものとして考えたのが、ソロの次のYMOになるわけです」(16)

村井邦彦の証言
「アメリカン・クラブかなにかで、大きなパーティをやった時だね。映画の製作発表とかいろんなものを含めてね」(10)

1977/12/20 今井裕『A COOL EVENING』発売。
A Song in My Heart:bass, malimba
マルガリータ:bass, malimba

<出典>
(1)YMO読本『OMOYDE』 ソニー・ミュージックハウス, GT music/2003年
(2)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(3)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(4)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年

(5)CD 山下達郎『SPACY』ブックレット BMGファンハウス/2002年
(6)村上"ポンタ"秀一『自暴自伝』 文藝春秋/2003年
(7)細野晴臣『地平線の階段』 八曜社/1979年
(8)CD 佐藤博『TIME』ブックレット コロムビアミュージックエンタテインメント, アルダンレコード/2003年
(9)田山三樹『アルファの宴』第8回(『レコード・コレクターズ』12月号) ミュージック・マガジン/2006年
(10)田中雄二『電子音楽イン・ ジャパン 1955〜1981』 アスペクト/1998年
(11)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(12)CD『HARRY HOSONO Crown Years 1974-1977』同梱ブックレット クラウン・レコード/2007年
(13)CD 小坂忠『Chu's Garden』同梱ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2009年
(14)J-WAVE『Daisyworld』 2001年6月18日
(15)CD『細野晴臣の歌謡曲 20世紀ボックス』同梱ブックレット コロムビアミュージックエンタテインメント, デイジーワールド/2009年
(16)CD『はらいそ』ブックレット ソニー・ミュジックダイレクト/2005年
(17)CD 大貫妙子『SUNSHOWER』ブックレット クラウン・レコード/2007年
(18)『Player』3月号 プレイヤー・コーポレーション/1978年
(19)『ロック画報』14 ブルース・インターアクションズ/2003年
update:2018/02/19

1976 - 2<>1978 - 1
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