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chronology 1976 - 2


1976/07/01 18:30 『パラダイス・ツアー』公演。仙台/宮城県民ホール。
曲目不明
天辰保文の証言
「宮城県民会館に着いたのは、3時を少しまわったところだった。」(1)
「カメラマンの桑本(編注:正士)さんと楽屋をちょっと眺めてみようということになり、ステージの脇から階段を 下りていくと、開け放たれたドアの向こうで、鈴木茂が、愛用の赤のストラトキャスターに弦を張っているのが、まず目に入った。そのそばでは、ヘッドホーン でカセットにききいる細野晴臣がいる。壁にもたれて、ベースを抱きかかえるようにして、無造作に弦をはじく田中章弘がいる。他のメンバーの顔は見あたらな い。」(1)
「そっと楽屋を抜けでると、階段を下りてくる佐藤博に出逢った。そのまま、客席の方へ戻ると、すでに、矢野顕子 はピアノに向かっており、ぼちぼちと、メンバーがリハーサルのために、ステージに集まる。そのうち、林立夫が、息をきりながらかけつける。それぞれが、自 分の担当楽器を調整し、あるいは、簡単にフレーズを刻む。そして、全員の演奏がはじまる。」(1)
「リハーサルが終ったのは、5時を少しまわった頃だったろうか。今度は、本番までの間に、楽屋では、カード・ゲームが開始されていたが、その日、会場で発売する彼らのレコード用にと、各自に色紙が渡され、カードを持つ手を休んで、サインをしている。」(1)
「客の入りはかんばしくなく、空席が目立つ。それでも、一階は、ほぼ埋まっていたし、なによりも興味深かったの は、彼らがステージに現われると、なにかしら、東京でみられるよりもリラックスした雰囲気が流れはじめたことだ。数日前に神田共立講堂で観たステージと比 較するなんていけないことかも知れないが、あの時の熱くて鋭いヴァイブレーションが断片的に伝わってきたことに比べると、ここでは、マイルドなまとまりの あるものへと変化していたのだった。このことは彼らの演奏にもあてはまる。まあ、その間に3回のコンサートを経てきていることも考慮に入れなければならな いのだけど、それにしても、僕にはちょっとした驚ろきだった。」(1)
「ステージ構成はほとんど変化がなく、まず、矢野顕子が、駒沢裕城と浜口茂外也をバックにして、 『JAPANESE GIRL』からの曲を数曲披露。その後に、ティン・パン・アレイのメンバーが登場すると言った具合だ。そして、佐藤博の『スーパー・マーケット』や、鈴木 茂の『砂の女』などをはさんで、細野晴臣のニュー・アルバムからの曲が中心にくりひろげられていった。中でも、印象に残ったのが、鈴木茂の、大幅にアレン ジが変えられた『砂の女』だ。ラテン風のリズムがとり入れられた、言わば、"東京メローネス・サルサ"と言った感じで、甘さと、熱っぽさがほどよくブレン ドされたそれは、はじめて耳にした時は、驚きの方が先行してしまい、感じるまでにはいかなかった。それに、この日は彼のヴォーカルも、自信(?)に満ちて しっかりとしていた。」(1)
「コンサートを終えて、会場をでてくるとサインぜめにあいながらも、宿泊地へ一旦もどり、全員揃って食事にでかけたのは、既に10時をまわっていた。」(1)

1976/07/02 帰京。

天辰保文の証言
「10時20分発の『ひばり』で仙台をたち、東京へ向かった。車中では、昨夜の続きとかで、カード・ゲームが延々と続けられていた。」(1)


1976/07/02 『泰安洋行』宣伝ミーティング。

1976/07/06 『パラダイス・ツアー』リハーサル。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1976/07/07 『パラダイス・ツアー』リハーサル。ヤマハ・スタジオ。

1976/07/08 『パラダイス・ツアー』リハーサル。ヤマハ・スタジオ。

1976/07/10 17:00 『パラダイス・ツアー』公演。青森市民会館。
曲目不明

1976/07/13 『パラダイス・ツアー』リハーサル。

1976/07/14 『パラダイス・ツアー』リハーサル。

1976/07/15 『パラダイス・ツアー』リハーサル。

1976/07/16 『パラダイス・ツアー』リハーサル。

1976/07/18 19:00 『パラダイス・ツアー』公演。横浜/神奈川青少年会館。
曲目不明

1976/07/20 『パラダイス・ツアー』公演。福岡電気ホール。
曲目不明

1976/07/21 『guts』 9月号(集英社)発売。
対談/オレたちのような顔は音楽的というんだよきっと 細野晴臣×宇崎竜童

1976/07/22 18:00 『パラダイス・ツアー』公演。大阪/御堂会館。
矢野顕子 矢野顕子(pf, vo)、駒沢裕城(pedal steel)、浜口茂外也(perc)、細野晴臣(b)、林立夫(ds)、鈴木茂(g)
 ホーハイ節
 達者でナ
 丘を越えて
 ふなまち唄 Part II

細野晴臣 細野晴臣(vo, marimba)、鈴木茂(g)、林立夫(ds)、矢野顕子(pf, cho)、佐藤博(kbd)、田中章弘(b)、浜口茂外也(perc)、駒沢裕城(pedal steel)
 Pom Pom 蒸気
 北京 Duck
 "Sayonara", The Japanese Farewell Song

鈴木茂 鈴木茂(g, vo)、細野晴臣(perc)、林立夫(ds)、矢野顕子(pf)、佐藤博(kbd)、浜口茂外也(perc)、田中章弘(b)、駒沢裕城(pedal steel)
 ソバカスのある少女

佐藤博 佐藤博(pf, vo)、細野晴臣(perc, vo)、鈴木茂(g)、林立夫(ds)、矢野顕子(kbd, cho)、浜口茂外也(perc)、田中章弘(b)、駒沢裕城(pedal steel)
 用意はいいかな〜蝶々-San

細野晴臣 細野晴臣(vo, marimba)、鈴木茂(g)、林立夫(ds)、矢野顕子(pf)、佐藤博(kbd)、田中章弘(b)、浜口茂外也(perc)、駒沢裕城(pedal steel)
 Yellow Magic Carnival
 絹街道
 Fire Cracker

鈴木茂 鈴木茂(g, vo)、細野晴臣(perc)、林立夫(ds)、矢野顕子(pf)、佐藤博(kbd)、浜口茂外也(perc)、田中章弘(b)、駒沢裕城(pedal steel)
 砂の女

細野晴臣 細野晴臣(vo, perc)、鈴木茂(g)、林立夫(ds)、矢野顕子(pf)、佐藤博(kbd)、田中章弘(b)、浜口茂外也(perc)、駒沢裕城(pedal steel)
 Chattanooga Choo Choo

鈴木茂 鈴木茂(g)、細野晴臣(perc)、林立夫(ds)、矢野顕子(pf)、佐藤博(kbd)、浜口茂外也(perc)、田中章弘(b)、駒沢裕城(pedal steel)
 Wood Pecker


1976/07/23 18:30 『パラダイス・ツアー』公演。名古屋/愛知勤労会館。
曲目不明

1976/07/25 『泰安洋行』発売。

「『トロピカル……』のときはホントに全身とんでたわけ」(2)
「精神の飛翔感をそう長く持ちこたえることは不可能だった。石つぶての宿命と同じように、放物線を描いて着地す ることは避けられない。ただし、この石つぶてに羽をつけ、グライダーに飛び方を習えば単なる放物線を複雑な奇跡に変えることができるだろう。そうしたら、 まあ、一年間は飛んでいられるかも………。」(3)
「やはり一回の飛行を二年も続けることは不可能だった。」(3)
「その浮遊感ていうのは、まる一年くらい続きながらゆっくりエネルギーを減らして降りていったの」(4)
「『泰安洋行』は、足が地についててね、とんでたころを思いだしながら作った」(2)
「最近やけに日本の地面が近くなってきたなあ、と思いはじめた頃」(3)
「地上スレスレになった頃に」(4)
「飛んでいた当時のことを思い出して『泰安洋行』というイメージをまとめてみた。」(3)
「ひとつのアイディアをまとめて、非常に燃焼してた」(5)
「『トロピカル・ダンディ』の記憶を頼りに作ってるんだよ。夢を見た後に、その夢を記述するようにね」(4)
「『洋行』というのは、会社というか、中国では商社とか何か、そんなような意味。僕はそれを字の通りに捉えて、これはいい名前だなと思って」(5)
「作る前に行った長崎の中華街にお店があって、そのお店の名前なんです。中華街の雑貨屋さんですね」(5)
「このアルバムが出来上がった時は、"誰が聴くんだろう"、"なんて言われるんだろう"とか思ったんだけど、案 の定、『怖い』とか、そういう反応が返ってきた。『トロピカル・ダンディー』の時に、かろうじていたフォーク系のファンが1kmぐらい向こうまで走り去っ ていったから(笑)」(6)
「『トロピカル〜』は、A面とB面のバランスで(ぼくの音楽を)ニュー・ミュージックとしても楽しんでくれていたんだけれど、『泰安洋行』は、みんな遠巻きでぼくを見ていた(笑)。ぼくがどうかしたのかと思っていたみたい」(7)
「遠〜い、遠い(笑)。だからリスナーとの親密感が全然ない。ファミリアな感覚もない。孤独だよ、本当に」(6)
「周りからは、気持ち悪いといわれていた時代ね」(8)
「当時、中国の歌謡曲がイイなんていうと、周りの人はオカシイんじゃないか、なんて顔してた。カッコよさが違ってたんだよね。当時はやってたのは、スティーブ・ガッドとか、いわゆるファンキー・ミュージック。そういう当時のカッコよさの圏外に出ちゃってたんだ」(8)
「ティン・パンとはまったく違う流れで……とてもパーソナルなものだったから、そういうものを聴いていると、周 りから人がいなくなって、ひそひそ話が聞こえてきて『細野さん、どうかしちゃったの?』(笑)……ラジカセでそういうの聴いてたから(笑)。『あ、これは みんなから浮いてるな』と。それからラジカセはやめてヘッドホンで聴くようにしましたけど」(9)
「でも何をいわれてもまったく感じないの。ホントに気持ちよかったからシラフでとんでたんだね」(8)
「僕はドラッグなしである種のトリップをしながら、精神的にハイになってやっていたんで、誰に聴かせるとか考えてないんですね」(10)
「ハイにならないと作れないっていうね(笑)」(6)
「クラウン時代は静かなハイじゃないから」(6)
「すごくナチュラルなハイなんだけど」(6)
「気づくと、誰も聴いていない。非常に個人的なトリップ」(10)
「でも、孤独だけど、その代わりに自分の世界はあった。そこで僕はとても幸せだった」(6)
「頭の中に音が鳴っているからその通りにやったら、思うままのサウンドが出てくる。だから、自分では最高に楽しいんだよ」(7)
「ひとりで、特殊な世界に入り込んでたワケ。パラダイスね」(8)
「音楽が友だから全然寂しくない。ただ出来上がった作品を聴かせる時になると、途端に孤立を感じる」(6)
「誰にも相手にされないっていうことが、人を変えてゆくんです」(10)
「これはもう完全にイッちゃった世界だから、危ないって言えば危ない」(6)
「あっちの世界に行ったきり帰ってこない」(6)
「音楽だからいいんだけどね。音楽じゃないと、ちょっと危ない」(6)
「音楽だから面白い」(6)
「イッちゃってるから、いろいろなこと言われたよ」(6)
「1回入り込むと抜けだせないドラッギーな世界……。でも、その後、関西のブルース・ミュージシャンたちと会う機会があったんだけど、あの連中は、『泰安洋行』を、何やらキメて聴いてたらしい(笑)」(6)
「ピッタリくるって。『細野さん、やっぱりそうやって作ったんでしょ〜?』って言われるから、『仲間にしない で』って言ってやった(笑)。僕はシラフで作ったって。当時はそういう風潮もあったわけだ。ドラッグのような音楽っていう。ただ、もしそうやって『泰安洋 行』を聴いても、決して落ち込まないだろうなというのは思った。聴いてて落ち込んじゃうものもあるからね」(6)
「聴いて、決してダウン・トリップにはならないでしょ。笑っちゃう世界だから。脳内ドーパミンが出まくってたから」(6)
「自分で言うのもなんだけど、客観的に聴いて」(6)
「全然1枚通して聴ける」(6)
「悪くないな、と」(6)
「音質もほかのレコードと違うんですよ」(5)
「スタジオにあるコンソールは英国製のトライデント製で、このロック系の歪みっぽい回路からは他のスタジオにはない音が出た。『泰安洋行』ではその特性が最大に活かされたと思う。」(6)
「当時のクラウンはどんな人がいたっけ?イルカとか南こうせつとか」(5)
「それらとはまったく脈絡のないミックスだったんですね。しかもそれと同じミキサーだったんです」(5)
田中信一さん」(7)
「どうやってああいう音を作ってもらったのかちょっと憶えてないんだけど」(5)
「田中さんは当時、シャキンとしたエコーをかけてJBLでならす人だった」(7)
「自分の声にエコーが合わないということが分かったから『エコーは使わないでくれ』と」(7)
「エコーかけたら嫌だって押し通したんです」(5)
「ほとんど泥臭い音になったけど」(5)
「ああこの音はよく作ったなと思うんですけどもね」(5)
「山下達郎がこの音は大変いい、ベストのレコーディングだっていってくれたんですけどね」(5)
「かなりコンセプチュアルだったんで、A面B面両方ぎっちりだったんです」(10)
「僕は前作の『トロピカル・ダンディ』から、どんどんどんどんルーツに入り込んで行って、脱ロックに至ってま す。ますますニューオーリンズの音楽に没頭してて、リズム感というのが変わってきたわけです。それは、僕たちはおっちゃんのリズムと言ってました。8ビー トとシャッフルが混じってるような。それができなければ、ロックはできないんじゃないか、と思ってたんです」(11)
「秘密なんてないんです。あるのは影響と引用、そして、創意と工夫だけです」(11)
「『"サヨナラ" ザ・ジャパニーズ・フェアウェル・ソング』『香港ブルース』のカヴァーは絶対やりたかった。マーティン・デニーの『SAKEROCK』はやらなかったけど、応用はいっぱいした」(6)
「マーティン・デニーの影響は、このLPはかなり強いです」(5)

蝶々-San
「ニューオーリンズのスタイルに近いんです」(5)
「基本は『ルーチュー・ガンボ』と同じく、ニューオリンズ・ファンクなんですけど、味付けがとても変わってます。これはもちろんマーティン・デニーの影響なんです。これは、日本人がお酒を呑む宴会の姿を見て作った、『サケロック』という、それに影響されてます」(11)
「応用」(6)
「"Japanese Drinking Song"というサブタイトルが付いてたりしますが、アーサー・ライマンという人も、とても変なアレンジで、そういうような曲をやってますね。『Otome San』という曲」(11)
「僕は割と、はっぴいえんど以来、テンション高く生きてたんですが、まぁとうとうこういうのを聴くに至ってですね、ネジがゆるんじゃいまして、えーなんだかこう、世の中がゆるくなっちゃったんですね。クラクラしました」(11)
「最初ね、サディスティック・ミカ・バンドってあったでしょ?そのーそれ用に、曲を頼まれたの」(12)
ミカのイメージで、作ってみたのね。詞をね」(12)
「曲が間に合わなくてさ。そんであきらめて自分で歌うんで、ああいう風になっちゃったんだよね」(12)
「ほとんど頭がおかしい世界ですよ、これ。意味は何だっていわれたら困っちゃう(笑)」(5)
「このころは計算じゃないんですよ。ナチュラル・ハイの真っただ中で、ほとんど精神病みたいなもんですよ。だからイメージさえ心地よければ、言葉は何でもよかった」(5)
「『蝶々さん』という言葉がまず好きだったんで す。『蝶々さん』というタイトルからできてきた曲ですね。蝶々さんが飛んでいくというような……。分析すれば心理学になっちゃう。女性がチョウチョウみた いに飛んでいっちゃうわけでしょう。しょうがないから船に乗って追っかけていく(笑)」(5)
「船長さんがね(笑)。ピンカートンなのか何だかわかんないけど」(5)
「どこに行っちゃうんだか」(5)

Hong Kong Blues
「マーティン・デニーもやってる」(11)
「マーティン・デニーの中で一番好きな曲の一つだったんです。最初この曲を聴くと何だか迷宮に入ったような気持になるわけです。マーティン・デニーのオリジナルだと思ってずーっとチェックしなかったんですけど、何かの拍子でホーギー・カーマイケルの曲だと知って」(5)
「『ララミー牧場』というのが大ヒットしてました。そこに出てた、人のいいおじいさんが、ホーギー・カーマイケルという大作曲家だったんです」(11)
「映画で歌ってるっていうんですけど、その映画を当時は見てなかった。その後しばらくしてテレビで見たんです」(5)
ハンフリー・ボガード主演のハードボイルド映画で『脱出』」(11)
「どこだったかな、カリブかどっかの島なんです。暗黒街物だったと思うんですけどね」(5)
「1942年」(11)
「そこでホーギー・カーマイケルが出てきて」(5)
「歌ってたのが、きっかけになったわけです」(11)
「『カサブランカ』で『アズ・タイム・ゴウズ・バイ』がヒットしましたが、そんな感じの使われ方です」(5)
「そのホーギー・カーマイケルの『香港ブルース』を聴いて、僕は」(11)
「カヴァーしました」(11)
「結構ヤバイ歌ですよ。オピウムなんて、はっきりいってるような歌ってあんまりないですよね」(5)
「オー・アイ・ニードという英語とウォー・アイニーという中国語を引っ掛けてるんですよね」(5)

"Sayonara", The Japanese Farewell Song
「ラテンに近いですね。ただ基本は多少ファンクっぽいところがある」(5)
「『M★A★S★H』っていう映画がありましたよね。そこにちらっと出てくる曲で」(5)
「これまたほんとに奇妙な歌なんですけど、これもマーティン・デニーがやってまして。実はこれは歌があって」(11)
「当時『サヨナラ』をいっぱい集めたんですよ。脈絡なく。別に研究するんでもなく、とにかくありったけの『サヨナラ』をやってるレコードを集めた」(5)
ソンディ・ソッサイという女性も歌ってますし」(11)
「一番面白かったのはハワイで出してる変なレコード。久保田麻琴が手に入れて来たおみやげレコードみたいな中で、クラブ二世オーケストラっていう演奏者のクレジットがあった。いろんな日系のシンガーが、『お冨さん』とか、アメリカのスタンダードをうたったりしている中に『サヨナラ』が入ってるんですね。『ジャパニーズ・フェアウェル・ソング』っていうんです」(5)
「そのアレンジが『M★A★S★H』のと同じなんですけどね」(5)
「ハワイの二世たちの作品だと思うんです。いったい誰が最初にそれをやったのかというのは、僕より詳しい人がいます。そういうのを調べてる人が」(5)
「マーティン・デニーの影響で、マリンバがやりたくてね」(5)
「手で」(5)
「機械はまだなかった」(5)
「何だ、できるんじゃないっていう感じで。やればできるもんだなあっていう(笑)」(5)
「ケチャのことは考えてなかったです」(5)
「まじめにやってないですから、ほんとに(笑)。ここはケチャでいこうとか、そんなこと考えたことないですから。思いつきで、楽しみながらやってたんです。あとアール・グラントって『ジ・エンド』というヒット曲のあるナット・キング・コール崩れの黒人がいるんです。その人がやっぱり『ジャパニーズ・フェアウェル・ソング』をやってて。めちゃくちゃな中国語でやってるんです(笑)」(5)
「とても奇妙なものでした」(11)
「それが面白くて、僕もめちゃくちゃにやったんです」(5)

Roochoo Gumbo
「自分のアイデアがしっかりと実った稀に見る曲」(6)
「非常に簡単でしたね(笑)」(5)
「楽しんでやってると簡単なんですよね。苦労して何かやんなきゃと思うとできないんですよ」(5)
ヒューイ・スミスの、『Rockin' Pneumonia and The Boogie Woogie Flu』、これはロック肺炎とブギウギ風邪というようなタイトルですけど、これはね、『蝶々-San』とか、『ルーチュー・ガンボ』とか、元になるようなテンポでしたね。つまりこんな時にですね、沖縄が入ってくるわけです、僕の中に」(11)
「喜納昌吉とチャンプルーズの『ハイサイおじさん』」(11)
「そして僕の中では、ガンボというニューオーリンズ・ファンクと、チャンプルーという沖縄ロックが混じり合ってしまって」(11)
「『ルーチュー・ガンボ』が生まれました」(11)

泰安洋行
「なんの因縁も背負ってないインスト」(11)
「原曲はすごくファンキーなロックの曲だったんですけど、やめちゃったんです。エーストーンのリズム・ボックスを使っています」(5)

東京Shyness Boy
「ザ・バンドの『ライフ・イズ・ア・カーニヴァル』という曲をきっかけに、ニューオーリンズ・ファンクというものにとても興味が出てきて」(11)
「イントロを聴いて、とにかくぶったまげました」(12)
「アラン・トゥーサンという人が大事な存在だったんです」(11)
「ニューオーリンズの、大プロデューサー」(11)
「大瀧詠一くんも同じような動きをしていて」(11)
「その大瀧くんから、ドクター・ジョンの『ガンボ』というアルバムを教えてもらった」(11)
「『ビッグ・チーフ』という曲。これーはね、もう今まで聴いた中で一番ショックだった曲です。あのオルガンのフレーズ、一生懸命コピーしたんですけど。これを作ったプロフェッサー・ロングヘア」(11)
「本名ロイ・バードが発明したのが、カリビアン・ミュージックとブルースの融合でした。それをルンバ・ブギ、またはブルース・ルンバと言いますけど、一説では、ロックの重要なきっかけであって、'50年代ニューオーリンズの港町に起きた奇跡でした」(11)
「このユニークな音楽に、その後のドクター・ジョンやアラン・トゥーサンも絶大な敬意を払っていますね。それが とても僕から見てて、なんて言うんでしょう。目からウロコの世界でしたね。えー、ロックというのは伝統があるんだと。それを学んだわけです。そんな関係性 に僕も、関与したいという気持ちで作った」(11)
「プロフェッサー・ロングヘアの真似です」(5)
「豆腐屋のラッパね(笑)」(5)
「東京の何かこう……江戸っ子気質を歌おうと思ったんです。だから車の音とか、何でもいいやと思って(笑)。のどかな感じを出したかった。決して本場のものではないという証拠を入れたかった」(5)
「プロフェッサーには口笛があるんです。口笛じゃないかな、歯笛ですね」(5)
「なり切ることが嫌ですから。ほんとはニューオーリンズをもろにやりたいのに、やるのは嫌なんです」(5)
「(編注:途中のスキャットは)その場の勢いで、こんなことやっちゃっていいのかなと思いながら、いい加減にやっちゃった。ただ単に、勢いでやったんです。誰も止めないんで」(5)
「トウキョウ・シャイネスという言葉があってね」(5)
「あった、と思うんですよ。記憶にあるだけで確信はないけど」(5)
「英語になってないんですけど。たぶん米軍が入ってきて、軍人が日本人を相手にして、みんな恥ずかしがるから出てきた言葉なのか、自分たちが卑下して作った言葉なのかわからないけれども」(5)
「アメリカ人から見た日本人の恥ずかしがる姿なんですけど、僕は鈴木慶一、ムーンライダーズのですね、彼を見てて、とても恥ずかしがりやで、いつも顔を赤くしてるんで、これが東京のシャイネスなんだろうと、思って作った曲です」(11)

Chow Chow Dog
「『北京ダック』の第二弾みたいなもんです」(5)
「名犬リン・チン・チンに憧れる、駄犬の物語」(11)
「僕自身、そのころまでチャウ・チャウ・ドッグが食肉だって知らなかったんですよ。たまたまそのころ、実は食肉 用だということを聞いてね。チャウ・チャウ犬という、非常に愛嬌のある、人気のある、誰が見てもカワイイといっちゃう犬がいて、まさかそれが食肉だとは誰 も思わないんですけど」(5)
「その話がショックで」(5)
「そんな犬の心境を歌ったんですけど」(11)
「五〇年代のリズム&ブルースには、そういう題材がいっぱいあって。ドゥ・ワップのヴォーカル物で『ワン・タン・タン』という歌がある。リン・チン・チンに引っかけて、ワン・タン・タンという名犬がいたっていう、面白い歌があるんです。まじめなゴスペルなんですけどね。けっこう有名なヴォーカル・ウループがこういうものをやってます。コースターズあたりかな」(5)
「とにかくこの時はゴスペルでお経を唱えるというのを一回やってみたかった」(5)
「仏教とゴスペルの融合。仏教ゴスペル?」(7)
「大胆というか単純すぎるというか(笑)」(5)
「柔軟な感じを僕は好きになってきて、いろんなことをこう、合わせて、ごった煮にしだしたんです」(11)
「やる人はいるんですけど、大体クソまじめで、お葬式みたいになっちゃうんです(笑)。『般若心経』を折り込んだ電子音楽とかね」(5)
「ユーモアがないものにはひかれない」(5)
「『般若波羅密』、日本語ではハラミツともいうんです。ハラミッダ、あるいはハラミタというのはもうちょっとモダンです。サンスクリットに近い」(5)
「『西遊記』という物語の一番最後にお経が出てたんですね。最後に『般若波羅密多』って書いてあったんです。それで最初覚えたんです」(5)
「『西遊記』で困ったときに誰が助けるかというと、必ずお釈迦様とか観音様でしょう。これはいいなと思ってたんです(笑)。困った時に助けを呼ぶにはやっぱりお経ぐらい読めなきゃと思って」(5)
「この歌を面白いといって評価してくれたのは越美晴一人です。おもしろい変な歌詞だって(笑)」(5)
「リズム自体のシンコペーションを細かく言うと」(7)
「ザ・ドリフターズに影響されてます。『セイヴ・ザ・ラスト・ダンス・フォー・ミー』」(11)
「とかあそこらへんの雰囲気。で、初めてここでスカというかロック・ステディを採り入れたんだ。このリズムは、 いろんな所(曲)で採り入れているからね、ぼくは。音はティン・パン的なプレイヤー指向も強かった。みんなマッスル・ショールズのあのリズム、ステイプ ル・シンガーズあたりを『すげえなぁ』って聴いてやっていたから」(7)

Pom Pom 蒸気
「いわゆる、スタイルを継承してます」(11)
「基本はテキサス・スタイルのブギウギですね」(5)
「一応ブギなんです。ジェリー・リー・ルイスって人がいるでしょう。あの人のスタイルの」(5)
「白人のブギの大御所がいてね。ピアノを弾くカントリーのブギなんです。それの影響が強いんです」(5)
「僕は当時、'50年代の音楽にとても没頭してたんですけど、その中でウエスタン・スウィング、あるいは、ヒル ビリー・ブギというのがあります。これはのちにロカビリーなんていうことになってくんですけど、まぁロックの原型になったものですね。えー1976年の、 同時代のカントリー系のシンガー・ソングライターものよりも、こういった古典を聴きまくってたんです。LPをいっぱい買いました。CDなんかはなかったわ けですから。その中で適当に買ったサン・レコードのLP」(11)
メリル・ムーアの『ダウン・ザ・ロード・ア・ピース』」(11)
ジェリー・リー・ルイスの100倍もいい、カントリー・スタイルのヒルビリー・ブギでした」(11)
「このメリル・ムーアのものよりもっと『Pom Pom蒸気』に近いものがある」(11)
「『ミーン・ママ・ブギ』」(11)
ジョニー・ボンド&ヒズ・レッド・リヴァー・バレー(11)
「『テイク・イット・アウェイ・レオン』(11)
レオン・マッコーリフ&ヒズ・ウエスタン・スウィング・バンド。1950年」(11)
「つまりこれはどういうことかと言うとですね、それまでは楽曲直接、影響があったんですけど、僕はだんだん特定 のスタイルに影響されるようになってきたということです。つまりポップスと言えども学ぶべき伝統的な様式というのがあって、それをよく知ることが、こう いった活力の元になっています」(11)
「もうひとつ」(11)
「ニューオーリンズ・スタイルの大ヒット曲があります。実はこっちは曲想に直接訴えたテーマがあって、それが"シー・クルーズ"というテーマです。海を航海してくっていうような、軽い、まぁノリなんですけど」(11)
「これはギターはマック・レベナック、つまりドクター・ジョン。そして歌ってるのが、ニューオリンズでは珍しいハンサム・ホワイトマン、フランキー・フォードの『シー・クルーズ』」」(11)
「シー・クルーズと言えば、ニューオリンズではカリブ海、カリブ湾を回遊するわけですね」(11)
「隅田川ですね。というのは、ほんとにポンポン蒸気っていってたんですよ。竹芝桟橋から船が出てて」(5)
「たしか竹芝だったと思うけど。いや、竹芝じゃないのかしら。子供のころだったからよく憶えてないんですけど。隅田川を遡って」(5)
「何十円か出すと、遊覧できたんです。焼き玉エンジンを積んで、ポンポンポンって行くわけです」(5)
「それをポンポン蒸気っていってた」(5)
「『ポンポン蒸気に乗りにいこうよ』っておばあちゃんにいわれたり」(5)
「かろうじて僕は体験してて。そういう子供時代の思い出が交錯してるわけです」(5)
「『Pom Pom 蒸気』……あのリズムは僕に とっては大発見だったんです。だから言葉が見つからなくてうまく伝えることができない。それで林くんにこう……『オッチャンのリズム!』って言ったらピン と来てくれたみたいで『あ。オッチャンのリズムだ!」って(笑)。それで解る林くんも驚異的だけれど」(9)
「(編注:歌詞中の『グレート・ボウルズ・オブ・ファイア』は)ジェリー・リー・ルイスのヒット曲のタイトル」(5)
「『金比羅船々』」(5)

Exotica Lullaby
サム・クックの歌をちょっと真似したんですが、まあ、僕の声なんで、ぜんぜん違ってますね。この曲はスカとルンバをミックスして、当時は大発明だと思ってたんですけど」(11)
「厳密にいえばビギンとスカを混ぜたビートですね」(5)
「このスタイルはあちこちで僕は、利用して、やってます」(11)
「ランチタイム・ミュージック系統です。ハモンドっていうのはそういうイメージがあるんです」(5)
「『午前三時の子守唄』がやけに好きな人が周りにいてね。『今度は子守唄つくんないんですか』っていうんですよ。『つくんないですか』っていいながら、うまい具合に作らせる」(5)
「スタッフなど周りの人におだてられたせいですね」(5)
ピーターパンですね、この曲は」(5)
ウォルト・ディズニーの」(11)
「控えめですが、僕の中では数少ないラブソングのつもりでした」(11)

鈴木茂の証言
「面白かったけど、余りにロックテイストがなくなってきた気もしていた。例えばチャイニーズ・メロディとか、ある程度は分かるけど、ここから先はどう対処していいか分からないという気持ちもあった。そこら辺で噛み合いにくい時期も、かつてはありましたね」(11)

田中信一の証言
「正直言って、こんな音を作るのは初めてだったんですよ。それまでのフォーク/歌謡曲は、リバーブかけてこその 音楽だったんですからね。銀座のクラブの音、『夜の銀狐』なんか録音していた時期もあるわけですから(笑)。でも細野さんは、リバーブは要らないと言う。 そのお互いのせめぎ合いがあったんですよ」(7)
「『トロピカル〜』を聴いてリバーブが多く感じるのは、細野さんがまだ押し切れなかったからでしょうね。『泰安洋行』では、ぼくが負けたのかな(笑)」(7)
「マリンバの音は、細野さんが1人でダビングに次ぐダビングで録音していますね。磨り減るくらいまでテープを回 していますよ。それに加えて、速いフレーズは回転数を半速にして1オクターブ落として録音していたんじゃないかな。組み合わせが上手なんですよ。コン ピューターのシーケンスに近い組み方、裏打ちだけ入れたり」(7)


1976/07/25 矢野顕子『ジャパニーズ・ガール』発売。
大いなる椎の木:bass

1976/07/25 森山良子『日付けのないカレンダー』発売。
Disney Morning:bass, a.guitar, castanets

1976/07/25 19:00 『ハッピー・バースデイ・アメリカン・ミュージック・フェスティバル』出演。八王子/サマーランド。
出演:センチメンタル・シティ・ロマンス、ミッドナイト・クルーザー、めんたんぴん+桑名正博、金子マリ&バックス・バニー、
   斎藤哲夫、ゴダイゴ、渡辺勝、アイドル・ワイルド・サウス、鈴木慶一&ムーン・ライダース、久保田麻琴と夕焼け楽団

細野晴臣 細野晴臣(vo, marimba)、鈴木茂(g)、林立夫(ds)、佐藤博(kbd)、田中章弘(b)、浜口茂外也(perc)、駒沢裕城(pedal steel)
 Pom Pom 蒸気
 北京 Duck
 "Sayonara", The Japanese Farewell Song

鈴木茂 鈴木茂(g, vo)、細野晴臣(perc)、林立夫(ds)、佐藤博(kbd)、浜口茂外也(perc)、田中章弘(b)、駒沢裕城(pedal steel)
 ソバカスのある少女

佐藤博 佐藤博(pf, vo)、細野晴臣(perc)、鈴木茂(g)、林立夫(ds)、浜口茂外也(perc)、田中章弘(b)、駒沢裕城(pedal steel)
 Night in L.A.〜Super Market
 私の彼氏は200歳
 Bad Junky Blues
 用意はいいかな

細野晴臣 細野晴臣(vo, marimba)、鈴木茂(g)、林立夫(ds)、佐藤博(kbd)、田中章弘(b)、浜口茂外也(perc)、駒沢裕城(pedal steel)
 Yellow Magic Carnival
 Fire Cracker


1976/07/31 TBSラジオ『ムッシュ&カンパニー』収録。

1976 横尾忠則『なぜぼくはここにいるのか』を読む。

「当時、僕は大変革の真只中にありました。多分、時の節目にいち早く巻き込まれたひとりなので しょうが、それによって僕の中の何かが目覚め、わけの解らぬ衝動が突き上げてきました。躁状態ではあるけれど錯乱しており、とにかく『知る人』を求めまし た。いったい、自分の中のこの衝動は何なのか、僕は何を求めているのか知りたくて、とりあえず手当たり次第本を読みました。超心理学から始まり、ヨガ、密 教、円盤に関する本をとぎれなく読み続け、結果、ますます知りたくなる一方で、本の中に答のないことを痛感し、孤独感がつのっていた状態のとき、本書を読 んだわけです。そこには、まるで自分の心を手にとって見るような事柄が書かれていた(13)
横尾忠則氏の本を読んでいるうちに、まるで自分のことが書かれているような錯覚におちいり、また僕の気づいていたことはすでに多くの人も気づいていたことなのだ、ということを知り"井の中の蛙"の感であった。」(3)
「ぼくが宗教的なものとかかわりながら変化してきたプロセスと似てるような気がして、すごく共感を覚えたんです」(3)
「横尾さんはこの本において、恐ろしいほど自分を正直にさらけ出していることがわかるのです。その波動が僕に伝わったとき、今まで感じていた孤立感が、単に視野の狭さから来るものであったことを知らされました。」(13)
「読んですごく安心したというか」(3)
「僕は夜の山道で初めて人と出会ったような印象を受け、今すぐ著者に会いたいという衝動を押えることができませんでした。」(13)
「読んだ直後、会わなくてはいけない、会いたい、と思ってしまった。」(3)
「どうやってあんな風にいきついたか、そこがすごく興味深かったんです」(3)

1976/08/05 『East West '76』ミーティング。青木プランニング。

1976/08/08 3:00 TBSラジオ『馬場こずえの深夜営業』に出演。

1976/08/10 『宝島』9月号(JICC出版局)発売。
エッセイ:ぼくは西岸良平のライヴァルだったんだ

1976/08/18 相倉久人と対談。

1976/08/19 小林旭アルバムのミーティング。赤坂/クラウン・レコード。

1976/08/20 『ニューライトミュージック』9月号(ヤマハ音楽振興会)発売。
対談:細野晴臣×山内テツ「ミュージシャンにとって外国とはなんだ」
エッセイ:細野晴臣のポップス物語 7
※編注:連載エッセイ「細野晴臣のポップス物語」は「ビニール・ドーナッツ考PART II」としてまとめられ、エッセイ集『地平線の階段』(八曜紗/1979年)に収録された。

1976/08/31 ミーティング。アルファ・アンド・アソシエイツ。

1976/09 荒井由実のレコーディング。芝浦/アルファ・スタジオ'A'。
避暑地の出来事

1976/09/09 空路、ハワイへ出発。

1976/09 鈴木茂のレコーディング。ハワイ/サウンズ・オブ・ハワイ。

鈴木茂の証言
「ホノルルのアパートメントに長らく住み込んでサウンズ・オブ・ハワイというスタジオでレコーディングした」(14)
「作ろうとしてた音が、割と南国を思わせるような温かい曲が多かったんですね」(14)
「音楽の方向性が、レイド・バックしていると言うか、ゆったりと波の音を聴いているような気分だったので。スタジオもトロピカルと言うか、当時、トロピカルなものが流行っていて、それでハワイに行きました」(15)
「都内でやると気持ちが途切れるわけじゃないけど、家からスタジオに通うよりも決まった時間、決まったメンバーでまとめて録ってしまう方法がいいと思った」(14)
「ティン・パンのメンバーだと、自分の考えているイメージが伝わりやすいので、彼等にお願いしました」(15)
「曲作りが、事前に出来ていたんですね。ハワイに行ってから書いたのは<8分音符の詩>とインストの<ハワイアン>だけかな」(14)
「デモテープを作ってたわけじゃないので、まずはこういう曲があるんだと、メンバーの前で僕がギターを弾いてメ ロディを歌う。当時は曲先が多かったので、詩がついてない歌ですよね。簡単なコード譜も用意してあります。その歌を聴いた時点でみんな自分なりの世界を作 る。その後、みんなで3つか4つセッションを録ると自然にまとまっていくんですね。曲の感じを掴まえたら、殆どベースラインとかドラムのパターンとかは細 野さんや林クンの中で出来上がってるんですよ」(14)
「逆の言い方をしたら、それくらいイメージのまとまる曲じゃないと上手く行かないというか見えてこない。みんな アレンジ能力のある人ばかりだから。しかも演奏の決めごとは、なるべく少ないほうがいい。イントロなんかは別にして、なるべく注文が少ない方が上手く行く んですよ」(14)
「スタジオから帰ってきてから、夕焼け楽団の連中とごはんを食べたりお酒を飲んだ憶えもあるんだけど、余り良く思い出せないな」(14)


1976/09 久保田麻琴と夕焼け楽団のレコーディング。ロニー・バロンと知り合う。ハワイ/サウンズ・オブ・ハワイ。

「茂と、カップリングでやってたんだよね」(16)
「いっそがしい〜(笑)」(16)
「レコーディングを手伝ったピアニストはニューオリンズ出身で、元ベター・デイズのピアニストであったロニー・バロン(3)
「キ−ボ−ドが必要になってとにかく向こうに行ってから探そうってことになったんです。そしてロニー・バロンでどうだろうという話になって」(17)
「最初に僕がロニーを知ったのはドクター・ジョンの『ガンボ』ってLPで、『ビッグ・チーフ』って曲でオルガンを弾いてたんですね、彼が。ン、タ、タラララっていう感じのやつ。あれがプロフェッサー・ロングヘアーのフレーズで」(17)
「レコードのライナーにドクター・ジョンが、このオルガンを弾いてるのは、ロニー・バロンと言って、キーボード もいけるけど、その歌声は100万ドルの声の持主だって紹介されてたんで楽しみにしてたんですね。そしたらベター・デイズが出てきて、そこでロニーが歌っ てるんですね。その時初めて彼の声を聴いた訳です」(17)
「どういういきさつか知らないけど、彼の名前を茂が知ってたの。ニューオリンズのピアニストがロサンゼルスにいるっていうんで、久保田君がコンタクトして」(6)
「早速電話して」(17)
「ホノルルまでセッションに呼んじゃった。それで僕が車を運転して空港まで彼を迎えに行ったの。顔も知らなかっ たんだけど、ハワイに黒づくめのスーツで来てたのは一人しかいなくて、ひときわ目立ってたから、すぐに分かった(笑)。で、スタジオに着いたらいろいろな フレーズ弾き出すから、すげーって思って。こういう人もいるんだって思った」(6)
「さすがにニューオリンズのルーツを持つ人は違うなと感心した。もっとシカゴ系のブルースに色気を持っているの かと思っていたら、やはりニューオリンズ色を隠すことができず、しばらくするとニューオリンズR&B伝統の歌謡曲を、がまんできなくなったかのよ うに弾きはじめたものだ。」(3)
「彼が自分でドラムを叩いたんです。セカンド・ラインをその時にやったんだけど、決して上手じゃなかったんだけれ ど、"ノリ"が面白かった。東京のとは全然違うのね。ニューオリンズの人じゃなければ出来ないっていう具合で。東京のスタジオでやってる人にはそのノリが 出せないっていうか、ロニーはドラムは下手なんだけども、そこにはそのノリが出てて、僕はすごくひかれたんです」(17)
「会ったことのないタイプ」(6)
「すごい印象深い人ですね」
「まあ海賊の子孫みたいな人だね。カリブの海賊(笑)」
(6)
「非常に強烈な個性で、えー白人なんですけど」
「彼は普通の白人じゃなくて、クレオール系だから」
(6)
「無国籍な感覚の持ち主」
(6)
「顔が本当に海賊の顔をしてる。精神もそうなんだよね。決して陽気じゃなくてシリアスな男なんだけど、何て言ったらいいんだろうね……無礼なほどオープンっていうか」(6)
「でもそのフランクさが不思議と無礼には思えないんだよ。それが自然だから」(6)
「とにかく濃い人間だから、普通は付き合いきれないタイプだと思う」(6)
「動物みたいな奴だから。頭で考えないの」(6)
「ロニーは前にミーターズとテープを録っていて、ハワイで会った時にそれを聴かせてもらった」(17)
「一緒にスタジオの外にいた時、通りを沖縄式のマゲを結い、着物を着て、蛇皮線を背負った二人づれの女性が歩いてき た。その二人を見た途端、彼の目が輝きはじめ、どうやら大いに興味を持った様子だったので、チャンコという音楽を紹介してみたらその名をやたら気にいって くれ、僕もとても嬉しくなった。」(3)

久保田麻琴の証言
「昼夜卓の前に座ってましたね細野さん。半分寝てたみたいだけど(笑)」(16)
「ロニー・バロンはね」(16)
「鈴木茂くんの紹介っつったら変ですけども、キーボーディスト誰かいないかなって話を電話でしてて、したらなんか、えーっと彼は…グルーシン」(16)
「デイヴ・グルーシンとやりたいんだけども(笑)、ロニー・バロンなら空いてるよとかわけわかんない話で。で僕はそいつ要らないんだけど、そいつ使うなんて(笑)」(16)
「そん時もだから話して『やー僕その人好きだよ』とかいう話で。ベター・デイズとか」(16)
「ポール・バターフィールド」(16)
「でけっこう、もう、好きだったから」(16)
「すぐ電話して」(16)
「『ハワイでレコーディングするんだけど、来る?』とか言ったら『行く』とか言って。もう、けっこう直前じゃないですかねぇ」(16)
「ハワイ行ってからとは言わないけど」(16)
「急に決めて」(16)
「スタジオ入って、いきなり弾き出した曲が」(16)
「『ワイルド・アバウト・マイ・ラヴィング』という曲」(16)
「スタジオ入ってすぐですよ。(笑)」(16)


1976 レス・バクスター『クワイエット・ヴィレッジ』を買う。ハワイ。

「もうひとつ意気が盛り上がらず、買ったレコードの枚数も去年の一〇分の一といったところ。その数少ないレコードの中での拾いものは、神のお導きとしか思えないのだが、フラッと入った中古レコード屋で、フラッと手にした一枚のレコード、レス・バクスターのオリジナルと銘打たれた『クワイエット・ヴィレッジ』というアルバムである。」(3)
「この『クワイエット』はデニーのヒット曲でもあるのだが」(3)
「レス・バクスターが本家本元のエキゾティック・サウンドの創始者であることに僕は感づいていた。エキゾティッ ク・サウンドというのが、レス・バクスターにとっては"テーマ"であり、音楽そのものはストリングス中心のムード音楽でしかないとも言えるのだが、曲づく りの点では随分エキゾティックな工夫をこらし、ここらあたりがマーティン・デニーをずいぶんインスパイアしたのではないかと思う。」(3)
「レス・バクスターにはラベルドビッシーなどからの影響もみられ、非常に繊細な編曲が施され、この手のものに特有の安っぽさというのがない。マーティン・デニーはこのバクスターのエキゾティックなテーマに触発されながら、その音楽のルートをジョージ・シアリングが代表するようなクール・ジャズに持ち、そして東南アジアとハワイと日本のローカルな味をミックスしたところに、その音楽のユニークな点がある。」(3)


1976/09/25 大貫妙子『Grey Skies』(パナム/クラウン:GW-4023)発売。
One's Love:arrangement
街:arrangement, guitar, glockenspiel

1976 ハワイから帰国。

「いろんなことがあったよ」(16)
「真言宗のハワイ寺の隣にあるアパート」(3)
「おばけアパートで」(16)
「1階下がったつもりが2階下がっちゃったりね。階段で」(16)
「部屋に我が子が閉じ込められ、天ぷら油に火がつき、危うく火事になるところだった。」(3)
「レコーディング・メンバーであるミュージシャン達が、僕を除いて全員、ケガや熱で倒れてしまうという異変が起こった。」(3)
「10人くらい居たメンバーが次々と病気で倒れるか、ケガをするか、財布を盗まれた」(18)
「ひとりひとりみんな、風邪とか熱で倒れてったわけ」(16)
「だめ押しがあったんだけどね、最後に」(16)
「悪い日系人といい日系人がいて(笑)。悪い日系人、ギャングとつながっているやつにハメられそうになりました」(19)
「ホテルの管理人からピストル密輸の片棒を担がされそうになった」(3)
「武器を日本に輸出しようとしていて、パイナップルの箱に入れて、僕に持ってってくれって言うの」(19)
「アパートの主人が、ダンボール持ってきて、『これ東京に持ってってください』と」(16)
「中身はわからなくて、『これはパイナップルで、日本の知人に渡したいから、帰るときに持って行ってくれ』と言ってきたの。断ったんだけど、帰って来たら、ニュースにそいつが出てた」(19)
「頼まれた包みは銃器だったらしく」(3)
「税関で組立式の拳銃が見つかったって」(19)
「すぐ新聞出た。1週間後に新聞出てそいつが」(16)
「見抜いたところがすごいけどね」(16)

鈴木茂の証言
「細野さんがある日、アパートの女性から"この包みを日本に持っていってほしい"と言われて箱を預かった。不安に思って部屋の中で箱を開けてみたらピストルが入っていた」(14)
「細野さんは慌てて翌日、返したらしいけど」(14)


1976 横尾忠則と知り合う。成城/横尾忠則アトリエ。

「初めて会った」(3)
「どうしても横尾さんに会いたくなり、僕にとってこんなことは極めてまれなことなのだが、ついに面会を申し込んでしまった。なぜか会わずにはいられなかった」(3)
「いてもたってもいられなくなって、どんな人なんだろうと話を聞きにいったんです」(13)
「普段だったら、ぼく、ああいうことできないんですよ、照れちゃってね。でもなぜだか知らないけど、いかなきゃならないと思ったんです。ちょうど導師(グル)というか誰かにつきたいと思っていたし、そういった感じでは横尾さんがいちばんぼくに近いんじゃないかと思って」(3)
「圧倒的なアーティストであることも殆ど意識にのぼらず、臆面もなくアトリエまで押しかけて行ったのです。」(13)
「会話は少しも発展しなかった。なぜなら、まるで自問自答しているようで、話をする必要がなかったからである。これはもちろん僕のひとりよがりなのだろうが、実際そう感じたのである。」(3)
「ぼくにとっては、クレイジーな仲間が1人増えたってことだった(笑)」(7)

横尾忠則の証言
「細野さんのように本を読んだっていうので、わざわざ来てくれるってのは非常にうれしい。そういった形で意思表示してくれる人って少ないものね」
(3)

1976/10/09 15:00 日本楽器製造株式会社東京支店主催『East West '76』決勝大会で審査員。新橋/ヤクルトホール。
司会:小林克也
ゲスト:荒井由実
審査員:相倉久人、小倉エージ、大貫憲章、高中正義、後藤次利、上田正樹、深町純、松任谷正隆、村上秀一、斉藤ノブ、森田公一、 鈴木茂、林立夫
※編注:出場したのは関東甲信越地区アマチュア16バンド。グランプリ受賞バンド・ASOCAからは小林泉美がベストキーボーディスト賞に、渡嘉敷祐一がベストドラマー賞に選ばれた。また、カシオペアも出場しており、野呂一生がベストギタリスト賞を受賞している。

1976/10/12 梓みちよのレコーディング。芝浦/アルファ・スタジオ。

※編注:以降、レコーディングは年内いっぱい続けられるも、未発表。


1976/10/13 梓みちよのレコーディング。芝浦/アルファ・スタジオ。

1976/10/18 梓みちよのレコーディング。芝浦/アルファ・スタジオ。

1976/10/25 小林旭のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/10/26 松任谷正隆とCM用レコーディング。

1976/10/27 荒井由実のリハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1976/11/01 『East West '76 フェスティバル』リハーサル。向井滋春が参加。ヤマハBスタジオ。

1976/11/02 『East West '76 フェスティバル』リハーサル。大貫妙子が参加。渋谷/エピキュラス・ホール。

1976/11/03 『East West '76 フェスティバル』リハーサル。ヤマハ・スタジオ。

1976/11/04 『East West '76 フェスティバル』リハーサル。久保田麻琴、向井滋春が参加。ヤマハ・スタジオ。

1976/11/05 『East West '76 フェスティバル』リハーサル。向井滋春が参加。ヤマハ・スタジオ。

1976/11/06 日本楽器製造株式会社東京支店主催『East West '76 フェスティバル』に、ティン・パン・アレー・ファミリーとして出演。中野サンプラザホール。
司会:小林克也
出演:ASOCA、ザ・ロイヤル、グルーピー、サザン・ブリード

ティン・パン・アレー・ファミリー 細野晴臣(b, vo)、鈴木茂(g)、林立夫(ds)、浜口茂外也(perc)、荒井由実(vo)、松任谷正隆(kbd)、
                 大貫妙子(cho)、久保田麻琴(cho?)、向井滋春+沢井源児+中沢健二(horns)

 Pom Pom 蒸気
 Choo Choo Gatta Gotto
 Yellow Magic Carnival
 他


1976/11/07 荒井由実のリハーサル。河口湖サニーデ。

1976/11/08 荒井由実のリハーサル。河口湖サニーデ。

1976/11/09 荒井由実のリハーサル。河口湖サニーデ。

1976/11/10 荒井由実のリハーサル。河口湖サニーデ。

1976/11/14 荒井由実リサイタル『14番目の月』でバッキング。渋谷/NHKホール。
荒井由実 荒井由実(vo)、石川鷹彦(g)、永田一郎(pf)、梅垣ミト(cho)、梅垣達志(cho)、瀬尾一三(cho)、ヒデ夕樹(cho)、
     細野晴臣(b)、林立夫(ds)、
鈴木茂(g)、斉藤ノブ(perc)、松任谷正隆(kbd)、トマト・ストリングス・ウィズ・オーケストラ

 あなただけのもの
 雨のステイション
 空と海の輝きに向けて
 アフリカへ行きたい
 ひこうき雲
 やさしさに包まれたなら
 中央フリーウェイ
 14番目の月
 何もなかったように
 天気雨
 さざ波
 Good Luck and Good Bye
 あの日にかえりたい
 私のフランソワーズ
 12月の雨
 Cobalt Hour
 恋のスーパーパラシューター
 晩夏(ひとりの季節)

※編注:セットリスト中、細野晴臣が参加していない楽曲は割愛。この日の演奏の一部は、同年12月31日にNHK総合で、1977年1月15日にNHK-FMで、それぞれ放送された。

1976/11/20 荒井由実『14番目の月』発売。
避暑地の出来事:steel drum

1976/11/20 ヤマギワ電気 CM曲のレコーディング。林立夫、徳武弘文、坂本龍一、大貫妙子、浜口茂外也が参加。目黒/モウリスタジオ。
15秒×2タイプ

1976/11/21 佐藤博『青空』発売。
わたしの自転車:a.guitar

1976/11/21 いしだあゆみのレコーディング。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1976/11/22 いしだあゆみのレコーディング。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1976/11/25 ニッポン放送『オールナイト・ニッポン』出演。

1976/11/27 いしだあゆみのレコーディング。リズムおよび、自身のアコースティック・ギターを録音。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1976/11/30 小林旭のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/12/01 小林旭のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/12/02 ラジオ関東の番組にインタビュー出演。

1976/12/03 小林旭のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/12/07 小林旭のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/12/08 いしだあゆみのレコーディング。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1976/12/09 いしだあゆみのレコーディング。ヴォーカルの録音。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1976/12/11 小林旭のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。
ホルモン小唄
大瀧詠一の証言
「当時細野はクラウンに所属していて、同じ会社だった小林旭さんのアルバムのプロデュースを依頼されていました。私はとにかく<日活アクション>の大ファンでした。」(20)
「細野もその事を知っていて私に協力を依頼して来ました。当時細野が住んでいた狭山に呼ばれた私に、数ある詞の 中から選ばれたのは『ホルモン小唄』というもので、なんとあの星野哲郎さんの詞でした。喜び勇んで『ハイ、それまでヨ』のタイプの曲を作り、クラウン・ス タジオで久しぶりに林立夫・細野晴臣・鈴木茂らとセッションを行い、私のアキラばりのシャープする歌い方の<借り歌>まで入れて、後はご本人のヴォーカ ル・ダビングを残すばかりとなっていました。ところが!『昔の名前で出ています』が大ヒットとなり、そんなアルバムなど出している場合ではない、というこ とになり、アルバムごとオクラ入りになってしまったのです。」(20)

1976/12/14 小林旭のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/12/15 FM東京の番組に出演。虎ノ門/発明会館。

1976/12/15 いしだあゆみのレコーディング。リズムおよびコーラスの録音。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1976/12/16 いしだあゆみのレコーディング。ヴォーカルの録音。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1976/12/18 小林旭のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/12/19 小林旭のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/12/19 村井邦彦とミーティング。江戸川橋/音羽スタジオ。

「ユーミンの仕事をやってるころ、アルファのエグゼクティブ・プロデューサーの村井邦彦さんから、契約しないかという話があったんだけど、そのころは、契約にしばられるのがすごくイヤだった」(21)
「若かったから、必要以上に用心深かったし、そのころは、まだまだビジネス感覚もなくて、自分のやりたい音楽を守ることが、いちばん大事だったんだ」(21)
「あんまりのり気ではなかったんだけど、ちょうど28歳ごろ、そんなことはどうでもよくなっちゃった」(8)
「『キャラメル・ママ』のアルバムがヒットして、やがて、ニュー・ミュージックというのが出てきた。ぼくらのやっていたサウンドみたいなのが、ふつうになってきたわけ」(21)
「そのときから、自分たちのやっている音楽は、ちょっと早すぎたなという自覚が出てきたんだ」(21)
「もちろん、冒険や実験はやめられないんだけど、かたやビジネス、自分で食べてゆくために、つまり損をしないためには、同じことを続ける才覚も必要なんだ、と思うようになってきたんだ」(21)
「クラウン・レコードをベースにしたティン・パン・アレーも、けっきょく、儲からないし、自分たちのレコード会社の夢も、まだまだアマかった。ほんとうにスタジオを持たなけりゃ、プロデューサー・チームも机上の空論なんだ」(21)
「ぼくは、自分のいちばん大事なものでやっていかないと、ダメになってしまう。だから、ソロ・アルバムで自分を出していった。でも、プロデューサーという仕事でも、それはできるんじゃないか、と考えたわけ」(21)
「そんなとき、ふたたび村井さんに説得されて」(21)
「クラウンでソロを作っていたとき、ミュージシャンとしてではなく、プロデューサーとしてアルファと契約しないかといわれた」(22)
「『アルファに来ないか』『プロデューサー契約しないか』と」(23)
「それは僕にはすごく新鮮な響きがあったんです。日本ではまだ皆無でしたからね、そういうシステムが」(22)
「プロデューサー契約、そんな言葉、アメリカでしか聴いたことなかったよ」(7)
「アメリカじゃんっと思って(笑)」(23)
「村井さんに最初にお願いされたときも、英語だった」(24)
「『I can do anything for you.』だもの。ここはハリウッドかって(笑)」(24)
「契約書もなんかアメリカっぽいし。何から何までバタ臭かったんです。しかもアドヴァンスという聞き慣れない言葉を使うんで、それは何かと聞いたら、お金を出す、給料みたいなもんだって。そんなこと今までなかったから、これは生活が楽になると思って」
(23)

村井邦彦の証言
「クラウンで作ったおかしなレコード、あれがもう最高って思ってたわけ。変わった新しいものって全部好きだからさ」(25)
「ああいう音をアルファでやってくれることについてはバッチリOKだった」(25)
「それで、来い来いってずっと誘ってたわけ」(25)


1976/12/20 鈴木茂とFM番組にゲスト出演。

1976/12/21 久保田麻琴と夕焼け楽団「星くず/Dixie Fever」発売。
星くず:produce, string ensemble
Dixie Fever:produce

1976/12/23 『CHOPL MATCH』出演。福岡勤労青少年文化センター。
出演:鈴木慶一&ムーンライダーズ、南佳孝、山下達郎

細野晴臣
 曲目不明


1976/12/24 『CHOPL MATCH』出演。福岡勤労青少年文化センター。
出演:鈴木慶一&ムーンライダーズ、南佳孝、吉田美奈子

細野晴臣
 曲目不明


1976/12/25 鈴木茂『LAGOON』発売。
Lady Pink Panther:bass
Brandy Wine:bass
TOKYO・ハーバーライン:bass
Hawaiian:bass
走れラビット:bass
コルドバの夜:bass
Almeria:bass
8分音符の詩:bass

1976/12/25 空路、博多から羽田へ移動。

1976/12/27 いしだあゆみのレコーディング。山下達郎・吉田美奈子のコーラス録音。赤坂/コロムビア・スタジオ。

1976/12/27 かまやつひろしのレコーディング。銀座/音響ハウス。

※編注:作品名不明。


1976/12/29 梓みちよのレコーディング。

1976/12/31 18:00 NHK総合『ヤング・フェスティバル・ショー -荒井由実コンサート-』放送。
あなただけのもの
雨のステイション
ひこうき雲
14番目の月

Good Luck and Good Bye
あの日にかえりたい
12月の雨

Cobart Hour
恋のスーパーパラシューター

※1976/11/14@NHKホール

<出典>
(1)『ヤング・ギター』9月号 シンコー・ミュージック/1976年
(2)萩原健太『はっぴいえんど伝説』文庫版 シンコー・ミュージック/1992年
(3)細野晴臣『地平線の階段』 八曜社/1979年
(4)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(5)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(6)CD『HARRY HOSONO Crown Years 1974-1977』同梱ブックレット クラウン・レコード/2007年
(7)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(8)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(9)『ロック画報』14 ブルース・インターアクションズ/2003年
(10)『ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1968-1980』 音楽出版社/1999年
(11)J-WAVE『Daisyworld』 2000年5月8日
(12)NHK-FM『若いこだま』 1978年2月14日
(13)横尾忠則『なぜぼくはここにいるのか』解説 講談社文庫/1980年
(14)『スローハンド』Vol.2 自由国民社/2006年
(15)CD 鈴木茂『LAGOON 2008 SPECIAL EDITION』ブックレット クラウン, パナム/2008年
(16)J-WAVE『Daisyworld』 1999年3月15日
(17)『Player』3月号 プレイヤー・コーポレーション/1978年
(18)『PAPER SKY』no.14 ニーハイメディア・ジャパン/2006年
(19)『ユリイカ 詩と批評』8月号 青土社/1997年
(20)CD V.A.『大瀧詠一作品集 VOL.2(1971-1988)』ライナーノーツ ビクター/1995年
(21)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(22)YMO読本『OMOYDE』 ソニー・ミュージックハウス, GT music/2003年
(23)CD『はらいそ』ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2005年
(24)CD 村井邦彦『COMPOSITIONS』ブックレット フォアレコード/2005年
(25)田中雄二『電子音楽イン・ ジャパン 1955〜1981』 アスペクト/1998年
update:2020/06/24

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