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chronology 1976 - 1


1976/01/06 3:00 ラジオ関東『ゴー! ゴー! ナイアガラ』放送。
DJ:大瀧詠一
ゲスト:細野晴臣
大瀧詠一の証言
「ゲストとして細野晴臣さんが来福。」(1)

1976/01/08 長崎へ旅行。

1976/01/11 あがた森魚とトーク・イベントに出演。銀座/三愛ビル・スカイリング。

1976/01/14 吉田美奈子のレコーディング。浜口茂外也が参加。芝浦/アルファ・スタジオ。

1976/01/16 吉田美奈子のレコーディング。芝浦/アルファ・スタジオ。
夢で逢えたら
大瀧詠一の証言
「アルファ・スタジオで『わたし』と同じメンバーで録音」(2)

1976/01/18 『セブンスター・ショー』打合せ。赤坂/TBS。

1976/01/21 大滝詠一のレコーディング。坂本龍一と知り合う。福生/FUSSA 45スタジオ。

坂本龍一の証言
「確か福生で知り合ったと思うんですよ。大滝さん家の風呂場で(笑)」(3)
「福生にある大瀧さんのスタジオ、というのはお風呂場なんですが、そこでレコーディングをした」(4)
「そこに、細野晴臣さんが現れた。それが細野さんとの初対面でした。このころにはもう、はっぴいえんどのことはぼくも知っていて、細野さんのソロ・アルバムも聴いていました」(4)
「『ホソノ・ハウス』が好きだったんですよ、とにかく」(3)
「ジェームス・テイラーとか、あのへんの西海岸の音楽が基になっているということを、ほとんど僕は知らなくて。 そういうロック、ポップスの教養がほとんどなかったから。だからいきなりあれを聴いて、メジャー・セヴンとか、フランス近代音楽に通じるような、非常に高 級なコード・ワークが出てくるんで驚いたんです」(3)
「この人は当然、ぼくがむかしから聴いて影響を受けてきた、ドビュッシーやラヴェルやストラヴィンスキーのような音楽を全部わかった上で、こういう音楽をやっているんだろうと、思っていました。影響と思われる要素が、随所に見られましたから」(4)
「でも、それは僕の誤解でね(笑)。知り合うまではとにかくものすごく音楽を知ってるんだろうなと思ってたんだけど、クラシックとかは全然聴いてなかった」(3)
「実際に会って聞いてみたら、そんなものはほとんど知らないという。たとえばラヴェルだったら、ボレロなら聴いたことがあるけど、という程度」(4)
「100%アメリカン・ロックなのね。そういうクラシック的な素養っていうのは、アメリカン・ロックの中で細野さんが培った部分みたい。その基になってる、コール・ポーターとか、ジョージ・ガーシュインとかを通して」(3)
「細野さんは、そういう経験を通して、すごく本質を理解しているのね。オリジナルはほとんど聴いていないし、知らないのに、僕から見ると、ラヴェルとかドビュッシーに聞こえるという。独特の和声感と、あとリズムですね」(3)
「ぼくがやったようなやり方で、系統立てて勉強することで音楽の知識や感覚を身につけていくというのは、まあ簡 単というか、わかりやすいですよね。階段を登っていけばいいわけですから。でも細野さんは、そういう勉強をしてきたわけでもないのに、ちゃんとその核心を わがものにしている。いったいどうなっているのか、わかりませんでした。耳がいいとしか言いようがないわけですけれど」(4)
「つまり、ぼくが系統立ててつかんできた言語と、彼等が独学で得た言語というのは、ほとんど同じ言葉だったんです。勉強の仕方は違ってもね。だから、ぼくらは出会ったときには、もう最初から、同じ言葉でしゃべることができた。これはすごいぞと思った」(4)
「フランス近代音楽の和声感とは別に、細野さんの特徴として、音色とリズムがあってね。YMOの標語にもなっていたワクワクするリズム、グルーヴっていうのを強く感じていましたね」(3)

大瀧詠一の証言
「私の記憶に間違いがなければ『福生ストラットPT.1』が(編注:坂本龍一と)細野との、レコ−ディングに於る初セッションだったと思います。もしそうだとするならば、あのYMOの萌芽がここにあったということになるのでしょうか。」(5)


1976/01/23 吉田美奈子のトラック・ダウン作業。芝浦/アルファ・スタジオ。

※編注:長門芳郎作成の年表『Harry Hosono Crown Years 1974-1977』(CD『HARRY HOSONO Crown Years 1974-1977』同梱ブックレット所収 クラウン・レコード/2007年)では、「ラムはお好き?」の作業と推測されている。


1976/01/25 あがた森魚『日本少年』発売。
ヂパング・ボーイ:produce, organ
夢見るスクールデイ・1:produce
夢見るスクールデイ・2:produce
薄荷糖の夏:produce, synthesizer
航海・I:produce
リラのホテル:produce
航海・II:produce
函館ハーバー猫町ホーボー:produce
函館ハーバーセンチメント:produce
航海・III:produce
つめたく冷して:produce, arrange, synthesizer
山田長政:produce, arrange
航海・IV:produce
ウェディング・ソング:produce
ゴーヂャス・ナイト:produce
ヴヰクトリアルの夜:produce, arrange, synthesizer
沙漠典ボリボリ:produce
溺れろ伊達野郎:produce
航海・V:produce
La Cucaracha:produce, chorus
航海・VI:produce
洋蔵爺のこと:produce, arrange
最后の航海(7回目の航海):produce
ノオチラス艦長ネモ:produce, arrange
採光∞無限:produce, arrange
夢見るスクールデイ・3:produce
日本少年:produce, organ, vocal
別れの軍楽隊(螢の光):produce
「恐怖の二枚組アルバム」(6)
「皆の忙殺の合間を縫って合間を縫ってつくられたこの世界一周繪巻物がこれ程面白いものになるとは、誰も想像していなかったでしょう。」(6)
「ただただハナチョウチンを出しながら、机にうつぶせて夢を見ていたあがた君だけが、このぼう大な全体をハアクしていたひとりなのです。僕は僕でトロピカル・チャイニーズ・ア・ラ・カルト風の夢を見つづけては居たのですが、僕は先に人に寝られると、もう眠れない性分なので、一寸睡眠不足氣味です。」(6)
「すごく時間がかかった記憶がある。スタッフが過労で倒れたり、大変だったね」(7)
「鈴木慶一とムーンライダース(編注:原文ママ)、そして矢野誠両氏の協力なしでは完成しなかったであろう」(6)

あがた森魚の証言
「細野さんに多大な尽力をしていただいたアルバム」(8)
「レコーディングスタジオは、巨大豪華客船の一室のようなもの。同じ船に乗り合わせた乗客よろしく和気あいあい と長い時間をかけ、丁寧にその制作は進められました。出来上がったアルバムの一曲一曲にそれは十分に現れています。曲と曲の間のちょっとしたつなぎ(プロ ムナード)、ジングル等々…。」(8)

鈴木慶一の証言
「細野さんと矢野誠さんと僕とで手わけしてやった」(9)
「細野さんのやり方を後ろで見ていて、プロデュースってこういうことをやるのかって勉強しながらの作業だった」(9)
「人がプロデュースするのをじっくり見る機会はそれまでなかったから、側で見て学習する。で、細野さんがスタジオで寝ちゃうと、おれがムーンライダーズのメンバーをまとめたりしてた」(10)
「指示出したのは『日本少年』がはじめてだった」(10)
「大量に時間を使ってしまった」(10)
「細野さんがシンセ使いはじめたのもこのアルバム」(10)

長門芳郎の証言
「細野さんがマリンバを弾いたときは、慶一が指示出してたね」(10)


1976/01/25 鈴木慶一とムーンライダース『火の玉ボーイ』発売。
火の玉ボーイ:bass
鈴木慶一の証言
「最後に入ってる『螢の光』は、あがたが発見したもので、同じものをお互いのアルバムの最後に入れようと約束した。そのとき細野さんも約束したけど、忘れちゃった(笑)」(10)

※編注:約束が忘れられなければ、『泰安洋行』のラストにも「螢の光」が収録されるはずだったことになる。


1976/01/28 『トロピカル・ムーン・コンサート』出演。仙台電力ホール。
出演:大滝詠一、シュガー・ベイブ、ムーンライダーズ

細野晴臣とトロピカル・ダンディーズ
熱帯夜
"Sayonara", The Japanese Farewell Song
つめたく冷やして〜蝶々チョップ
ハリケーン・ドロシー
イエロー・マジック・カーニバル
絹街道
Bye Bye Baby
北京ダック


1976/01/31 下北沢/ロフトに出演。
細野晴臣+ムーンライダース
曲目不明

1976/02/01 馬場こずえとトーク・イベントに出演。銀座/三愛ビル・スカイリング。

1976/02/09 19:00 渋谷/ジァン・ジァンに出演。
細野晴臣
曲目不明

1976/02/10 『ビックリハウス』3月号(パルコ出版)発売。
エッセイ:乗るんじゃなかった ビックリハウス

1976/02/11 『セブンスター・ショー』リハーサル。

1976/02/12 『セブンスター・ショー』リハーサル。

1976/02/13 『セブンスター・ショー』リハーサル。

1976/02/14 『セブンスター・ショー』リハーサル。

1976/02/15 『セブンスター・ショー』リハーサル。

1976/02/16 『セブンスター・ショー』リハーサル。

1976/02/17 『セブンスター・ショー』収録。赤坂/TBS Gスタジオ。

ムッシュかまやつの証言
「音楽監督が松任谷正隆さんで、TBSのGスタジオにマルチトラック・レコーダーを運び込んだ。」(11)
「テレビのスタジオにマルチが入ったのは、それが初めてだった。」(11)


1976/02/19 『セブンスター・ショー』収録。赤坂/TBS Gスタジオ。

1976/02/20 『ナイアガラ・トライアングル』プロモーション・フィルム撮影。狭山/自宅庭。

大瀧詠一の証言
「狭山の細野ハウスにてニワトリさんが特別出演してくれました」(1)

※編注:「ニワトリさん」とは、ニワトリの形態模写をした細野晴臣を指す。


1976/02/24 3:00 ラジオ関東『ゴー! ゴー! ナイアガラ』放送。
DJ:大瀧詠一
ゲスト:細野晴臣

1976/02/25 リーガルスニーカー CM曲のレコーディング。青山/国際ラジオセンター第1スタジオ。

※編注:作・編曲は細野晴臣。メンバーは細野、林立夫、鈴木茂、浜口茂外也、佐藤博、村岡健、岡崎弘。


1976/02/26 リーガルスニーカー CM曲のレコーディング。青山/国際ラジオセンター第1スタジオ。

※編注:前日と同メンバー。


1976/03/04 「北京ダック」レコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

北京ダック
「変えちゃったんですけど。僕はLPのほうのリズムが好き」(12)


1976/03/14 19:30 TBSテレビ『セブンスター・ショー』放送。
荒井由実+かまやつひろし 荒井由実(vo, pf)、かまやつひろし(vo, g)、松任谷正隆(kbd)、細野晴臣(b, g, ds)、鈴木茂(g, b)、林立夫(ds, g)、
斉藤ノブ(perc)、村岡健(sax)、松任谷愛介(fiddle)、チャーブス(cho)、コーポレーションスリー(cho)

Milky Way
生まれた街で
あの日に還りたい
雨の街を
我が良き友よ〜竜飛崎〜水無し川
仁義なき斗い
ゴロワーズを吸ったことがあるかい
ロンドン急行
楽しいバス旅行
Summer Girl
ルージュの伝言
フリフリ〜バンバンバン
恋のスーパーパラシューター
中央フリーウェイ
Cobalt Hour
Chinese Soup
空と海の輝きに向けて
Velvet Easter
ひこうき雲
幼きものの手をひいて
どうにかなるさ
あの時君は若かった〜12月の雨

ムッシュかまやつの証言
「みんなでギャグをやったりしたものだから、『イメージがこわれる』と、ティン・パン・アレーのファンは大ブーイングだった。」(11)

※編注:「夕陽が泣いている」は細野晴臣不参加のため、演奏曲目から割愛した。曲順としては「どうにかなるさ」の次にあたる。


1976/03/15 小坂忠のコンサートを観覧。虎ノ門ホール。

1976/03/16 16:00 八木康夫と『泰安洋行』ジャケット画のミーティング。赤坂/クラウン・レコード。

1976/03/20 『ヤングフォーク』春号(講談社)発売。
エッセイ:とりあえず僕のやっている音楽をチャンコ・ミュージックとでも呼ぼうか……。
※編注:自宅での本人写真の他、楽器や小物類、ジャンル別愛聴盤なども写真で多数紹介されている。

1976/03/21 14:30 八木康夫と『泰安洋行』ジャケット画のミーティング。狭山/自宅。

1976/03/24 『トワイライト・タイム・コンサート』出演。青山/VAN99ホール。
細野晴臣+ムーンライダーズ
曲目不明
※編注:この日のステージ写真はムーンライダーズ『フライト・レコーダー』(JICC出版局/1990年)で見ることができる。写真では、細野晴臣はキーボードを演奏。ヴォーカル・マイクもセッティングされている。

1976/03/25 高田渡『Fishin'on Sunday』発売。
魚つりブルース:produce, bass
頭を抱える宇宙人:produce, bass
ヘイ・ヘイ・ブルース:produce, bass
自由な奴:produce, bass
秋の夜の会話:produce, bass
初めての我が児に:produce, organ, celesta
質屋:produce
雨の日:produce, bass
漣:produce
Fishin' on Sunday:produce, bass

1976/03/25 吉田美奈子『フラッパー』発売。
愛は彼方:bass
かたおもい:bass
ラムはお好き?:compose, arrange, bass, malimba, a.guitar
Last Step:bass
夢で逢えたら:bass
ラムはお好き?
「これはあとで聴いたら、デューク・エリントンの名曲にそっくりだったんですが、僕は聴いた憶えがなくて、冷や汗かきました。もちろん、どっかで刷り込ま れてたのかもしれないけど、そういうことを以後、気をつけるように、するようになったわけです。でもこの曲は、とてもムードが好き」
(13)
「アレンジは、これは特許ですね。当時ティン・パン・アレーの演奏と、それから、オルガンは矢野顕子さんです。えー、このトロピカルで、えーちょっとルンバ・ブギのようなムードは、我々の特許だったと、当時自負しておりました」
(13)

1976/03/25 伊藤銀次・山下達郎・大滝詠一『ナイアガラ・トライアングル VOL.1』発売。
福生ストラット Part-I:bass

1976/03/25 大塚まさじ『遠い昔ぼくは…』発売。
天王寺想い出通り:arrange

1976/03/27 1:00 ニッポン放送『オールナイト・ニッポン』に電話出演。
DJ:山下達郎
※編注:4月25日発売のシングル「北京ダック」がオンエアされた他、ジャン&ディーン「ホノルル・ルル」をリクエスト。

1976/04/01 ナイアガラ・トライアングル「幸せにさよなら/Dreaming Day」発売。
幸せにさよなら:bass
※編注:シングル・バージョン。

1976/04/01 香港旅行に出発。

1976/04/04 香港から帰国。

1976/04/05 大竹しのぶ「みかん/音楽」発売。
みかん:arrange
音楽:arrange

1976/04/11 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

「『トロピカル〜』のハイな感じがまだ続いている頃に作っていたね」(14)
「『トロピカル』と『泰安洋行』の間には、ニューオーリンズがあった」(14)
「『トロピカル・ダンディー』から『泰安洋行』まで、1年ぐらいだと思うんだけど、そこらへんの1年が、すごく 濃密なんだと思うんだよね。何が起こっていたのか、あんまり詳しく覚えてないんだけども。この間に、自分の音楽が深まっていくことは確かだから。で、当時 は、ヴァン・ダイクの影響でカリプソとかそういうトロピカルなものを聴いてるのと同時に、ニッポン放送が放出した貴重なシングル盤を大瀧と一緒に手に入れ て、よく聴いてたんだ」(7)
「あとはブルースの古いのとかね。とにかく、たくさん聴いてたわけだよ。その中に、ニューオーリンズものもいっぱいあったわけだ」(7)
「例えば一九五〇年代のリズム&ブルースの人を聴いても、多少変てこりんなことをやってるんですよね。例えばチャック・ベリーなんかもラテンっぽいものをやってたりね。『ハバナ・ムーン』とか、そういう音楽に異常に敏感になっててね。ボ・ディドリーも変てこりんだったしね」(12)
「彼らは正統派といわれないまでも、わりとメインで受けてたロックンロールの人たちですよね。ロックというかリ ズム&ブルースというか、そういう人たちでさえ、そういうことをやってた。その坩堝がニューオーリンズにあって、ニューオーリンズはそのころ超目玉……何 ていうんだろう、大事な場所だったんです」(12)
「それに火をつけたのが、Dr.ジョンの『ガンボ』だから」(7)
「大瀧詠一なんかもとっくにドクター・ジョンの『ガンボ』を聴いてましたね」(12)
「大瀧がDr.ジョンの『ガンボ』を教えてくれたんだよ」(14)
「『すごいレコードが出たよ』って」(7)
「それをすぐに、買いにいって、ずーっと聴きっぱなしだったよ」(7)
「これには、最初から打ちのめされたね。自分がやりたくてモヤモヤしているときに、"これだ!"って思った」(14)
「あれはニューオーリンズの音楽を知るための教則レコードみたいなもんだよ。あの作品で初めて分かったことがいっぱいある。本当にありがたいアルバム」(7)
「ニューオーリンズの音楽は謎の音楽だったんだ。子供の頃から聴いてたんだけど、どこか特別だったから。でも『ガンボ』ってアルバムでは、それがどういうものなのか、すごく分かりやすく聴ける。しかもスマートで、音もいいし」(7)
「『ガンボ』が出る前に、例えばザ・バンドがアラン・トゥーサンと 一緒にやったり、リトル・フィートがアラン・トゥーサンの曲を取り上げたりして、それがやけに光ってて、そういう伏線があるわけで、その伏線のちょうどい いタイミング上に『ガンボ』が出て、ベールがはがれていったわけですよ。そういう興奮というのがあるんです。あのころ、ザ・バンドはみんな好きだったけ ど、好きな人たちの中で、ドクター・ジョンの『ガンボ』というキーを解いた人はそんなにいない。謎解きなんですよ、こういうのは。サスペンス、追っかけ物 ですよ。大瀧君は『ガンボ』という扉を開けて入っていった数少ないうちの一人だった」(12)
「同じように入り込む人が必ずいるんですよ(笑)」(12)
「『ガンボ』というレコードが大事なのはニューオーリンズのルールが全部非常にわかりやすく解説されてたんです ね。コード進行の謎とかあるわけですよ。細かい話だけど、ニューオーリンズ・チェンジというコード作りがあって、二つのコードしか使わないんです。二つだ けでできてるんです。簡単にいえば、キーがCだったらCとGの2つしか使わないんです。あるいは小節が普通のブルースとちょっと違うというようなこととか ね。何よりもピアノのフレーズが違うわけで、それが全部紹介されてるわけです。例えば『ビッグ・チーフ』という曲があるんですが、これはプロフェッサー・ロングヘアという人が発明した奏法だとかね。そうすると、今度はプロフェッサー・ロングヘアとは誰だということになって、探せばレコードが出てくるんですよ」(12)
「タイミングがよかった。別に僕たちが探してたから出たというわけじゃなくて、そういう機運があってそういう流れがあるわけですよね。だからレコードもそのときに出るし」(12)
「ロックは単に引用する対象というか、資料だったんです。ということは、もうそのときは過去の中にしか生きてなかったんですね。ドリフターズとか、コースターズとか、あるいはニューオーリンズのすべてのミュージシャンのレコードとか、とっても好きで、ほとんどコレクションして、のべつまくなしに聴いてたんですが、同時代のロックは聴いてなくて、だから何がはやってたか憶えてない」(12)

日笠雅子の証言
「『香港ブルース』が最初だと思います。『香港ブルース』や『"サヨナラ"ザ・ジャパニーズ・フェアウェル・ソング』とか、カバー曲から録音していった気がする。そのあとに『蝶々さん』と『エクゾティカ・ララバイ』をレコーディングして」(7)


1976/04/12 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/04/13 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/04/14 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/04/15 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/04/16 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/04/17 13:00 八木康夫と『泰安洋行』ジャケット画のミーティング。赤坂/クラウン・レコード。

1976/04/17 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/04/19 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/04/21 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/04/23 コンベンション・ライヴ『ティン・パン・アレー・イン・チャイナタウン』ミーティング。赤坂/クラウン・レコード。

長門芳郎の証言
「76年のティン・パン・アレーのレコード・リリース、プロモーションに関する年間計画みたいなものがあって、 鈴木茂のセカンド、細野さんの(クラウンでの)セカンド・アルバムをいつ出すとか。細野さんのシングルも『トロピカル・ダンディー』から「ハリケーン・ド ロシー」をカットして、その後、『北京ダック』の新録シングルもっていうふうに3ヶ月おきぐらいで作品をリリースする予定があって。その流れの中で、中華 街でのディナー・ショー形式のコンヴェンション・ライヴのアイデアが生まれたんだ」(7)
「アイデアは細野さんだね。僕の記憶がはっきりしないけど、細野さん曰く、ヴァン・ダイク・パークスがアメリカ でカリビアン・レヴューみたいなライヴをやったと。それを知って自分もそういうイメージで、中華街で無国籍な雰囲気でやりたいってなったんだよね。昔のハ リウッド映画なんか、中近東とか東南アジアが出てくるけど、なんか、よく分かんないじゃない(笑)。撮影スタジオの中に椰子の木のジャングルを作ったりし て、無国籍でちょっと怪しい雰囲気を出してたわけでしょう。細野さんも、そういったものを作ろうとしてたんじゃないかな」(7)
「最初の段階では、『エキゾチック・ガール5名』とか、僕のメモに書いてある。イメージ的には籐で出来たエマニエル椅子(笑)に細野さんが座って、それを美女が扇子で扇ぐみたいな。そんなアイデアもあった。そこまで予算がなかったから実現しなかったけど」(7)


1976/04/25 「北京ダック/ブラック・ピーナッツ」発売。

Black Peanuts
「カリプソのトピカル・ソング。田中角栄の、あのロッキード事件のね」(14)
「カリプソの伝統を踏まえたというか、カリプソが時事問題を扱うという特徴を生かしたかったんです」(12)
「自分では何を作っているかよくわかってないんです。別に定型を踏襲してやろうとは思ってなかったんですけど。でもまあカリプソの法則は使ってますね。ただリズムが違うだけで。アコーディオンが入ってたり、バイヨンのリズムを使ったり」(12)
「ジャズとはあんまり考えてなかったですけど。編曲のことはあんまり考えてなかった。コードワークがテンション をつけてるので、シックスナインズとか、サーティーンズとか、そういうテンションのあるコード、ジャズによく使うコードなんで、聴いた感じがモダンな仕上 がりになってるんです。そこらへんのニュアンスが佐藤博の持ち味だったんです。『ど』がつくやつはあんまりやらないと。ど演歌とかどマイナーとかいう、いわゆる『ど』ね。どカリプソにはしたくなかったし。都会的な感じはなくしたくなかったんですよ」(12)
「ブリッジ、降りてくる不思議な感じ、つい僕は借りてしまいました」(15)
フレッド・マクマレイが歌ってる『オール・アイ・ウォント・イズ・ジャスト・ワン』という曲なんですが、1930年のレコーディングのものなんです。ほんとにあの頃の不思議なアレンジというのは、なかなか自分ではできないものなんですね」(15)


1976/04/25 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/04/26 コンベンション・ライヴ『ティン・パン・アレー・イン・チャイナタウン』ミーティング。青山/ONアソシエイツ。

1976/04/27 谷川俊太郎と打合せ。新宿/ブルックボンド。

1976/04/28 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/04/28 19:00 八木康夫と『泰安洋行』ジャケットのミーティング。赤坂/クラウン・レコード。

1976/04/29 ソロ・アルバムのレコーディング。大瀧詠一と山下達郎のコーラスを録音。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/04/30 未明 ニッポン放送『オールナイトニッポン』放送。

1976/04/30 ムーンライダーズ『ムーンライト・リサイタル』衣裳合わせ。鈴木慶一が同行。

鈴木慶一の証言
「殿様の格好をしてもらおうと思って」(16)
「貸衣装屋へ行って、細野さんも連れてって、現物を見せて『着てください』と言ったんです。かつらまで被ってみ たんだけど……。だいたい日本人の顔というのはかつらが似合うようにできていて、特に細野さんの場合は似合うようで、被ったんだけども『まだ歳が若すぎ る』と。『40くらいになったらやってもいい』ということで(笑)、結局自前の洋服になりました」(16)


1976/04/30 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/04/30 コンベンション・ライヴ『ティン・パン・アレー・イン・チャイナタウン』会場下見。横浜/同發新館。

長門芳郎の証言
「最初は、萬珍楼でやる予定だった。なんで、同發新館になったかは、よく覚えてないんだよね。でも直前に変わったことは確か。なぜなら2種類の招待状があるから」(7)


1976/05/01 18:30 ムーンライダーズ『ムーンライト・リサイタル』出演。芝/郵便貯金ホール。
矢野顕子 矢野顕子(vo, pf)、鈴木慶一(perc)、かしぶち哲郎(ds)、岡田徹(kbd)、武川雅寛(perc)、細野晴臣(b)、駒沢裕城(pedal steel)
くま
丘を越えて

細野晴臣
細野晴臣(vo, g)、鈴木慶一(hand claps, kbe, cho)、かしぶち哲郎(ds)、鈴木博文(b)、椎名和夫(g)、岡田徹(pf)、武川雅寛(perc, cho)、駒沢裕城(pedal steel)
蝶々-San

"Sayonar", The Japanese Farewell Song

ムーンライダーズ 
錫木慶一(vo, syn)、かしぶち哲郎(vo, ds)、鈴木博文(vo, b)、椎名和夫(vo, g)、岡田徹(vo, pf)、武川雅寛(vo, vln)、 細野晴臣(g=*, perc=**)、矢野顕子(kbd=**)
Black Peanuts *

ペルシャの市場にて **

鈴木慶一の証言
「細野さん、矢野顕子さんゲストの楽しいばかりのコンサートだった。」(17)

かしぶち哲郎の証言
「細野さんと矢野アッコちゃんとはすでに何度かセッションを重ねていたので、ゲストとしては欠かせない存在だった。さすがに二人とも素晴らしいテイクを残している。」(16)

鈴木博文の証言
「細野さんとは『日本少年』でも一緒にやったことがあったから、やり方はなんとなくわかっていた」(16)


1976/05/03 コンベンション・ライヴ『ティン・パン・アレー・イン・チャイナタウン』リハーサル。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/04 コンベンション・ライヴ『ティン・パン・アレー・イン・チャイナタウン』会場下見。NETスタッフが同行。横浜/同發新館。

1976/05/04 コンベンション・ライヴ『ティン・パン・アレー・イン・チャイナタウン』、マリンバとピアノのリハーサル。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/05 コンベンション・ライヴ『ティン・パン・アレー・イン・チャイナタウン』、ブラスのリハーサル。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/06 コンベンション・ライヴ『ティン・パン・アレー・イン・チャイナタウン』ミーティング。田辺エージェンシーおよびNETのスタッフが出席。

1976/05/06 コンベンション・ライヴ『ティン・パン・アレー・イン・チャイナタウン』リハーサル。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/06 17:00 八木康夫と『泰安洋行』アートワークのミーティング。赤坂/クラウン・レコード。

1976/05/08 コンベンション・ライヴ『ティン・パン・アレー・イン・チャイナタウン』。横浜/同發新館。
ハリー細野&ティン・パン・アレー
細野晴臣(vo, marimba)、鈴木茂(g)、林立夫(ds)、矢野顕子(pf)、坂本龍一(kbd)、田中章弘(b)、浜口茂外也(perc)、 村岡健(sax)、羽鳥幸次(tp)、新井英治(tb)
つめたく冷して

Hong Kong Blues

絹街道

Chattanooga Choo Choo
Bolero
Hurricane Dorothy

Black Peanuts

Talk T' Me

北京Duck

蝶々-San

熱帯夜

Fire Cracker
"Sayonara", The Japanese Farewell Song
「僕と茂と林とが再度チームを組んで活動を始めるにあたっての挨拶代わりの様なもの」(7)
「クラブ・バンドを一度やってみたいと思っていた事もあって中華街のディナー・ショウの形にスタッフがお膳立てしてくれたわけです。」(7)
「中華街は、エキゾチック・サウンドの一番やりたいようなシチュエーションだったからね、嬉しかった」(13)
「ヨコハマというのは僕の中では長崎やニューオーリンズと並んで非常に気になる街でありまして、本来同時にひとつの事しか出来ぬ性質(たち)の僕が、レコ−ディングを一時中断して、ショウをやる気になったのも、ヨコハマという名の魔力に見入られた為でもあるのです。」(7)
「皆が色々工夫をこらしてくれたおかげで、おおむね成功」(7)
「もちろんいくつかの反省点はあるわけで何よりも反省している事は例によって僕の落ち着きの無さと練習不足です。クラブ・バンドという奴は長期間ハコで入るわけで、少なくとも1ヵ月位はやってみなければ、とても慣れる事なぞ出来やしない。」(7)
「お客さんは見なかったね。誰が来てるんだか覚えてない。すごい恥ずかしかったから。人前に出て何かをやるっていうのは、すごく嫌だったね。慣れてないし」(7)
「特に、みんな招待客じゃない?だから増々もって嫌だった」(7)
「どうせピンとこないんだろうなって思ってたから。とにかく自負心というものがなかった」(7)
「お客さんは北京ダックを食べてたな(笑)」(14)
「限られた招待客しか呼べなかったけれども、本当ならもっと多くの色々な人に見てもらいたかった」(7)
「このメンバーでやったのは唯一この日だけだね」(14)
「後ろでやってるプレイヤーは楽しいんだよ。ああいうのはね」(7)
「フロントは、矢面に立つと責任取んなきゃいけないから」(7)
「ステージで僕は眼鏡をかけてやっているけど、当時はすごく目が良かった。歯がないけど(笑)。無頓着」(14)
「テレビが入っていたのは知っている。テレビの企画だったからね。何だっけな、当時、テレビの放送作家をやっていた景山民夫が持ってきた企画だったかな?『面白クラブ』だったっけ」(14)
「香りつきか(笑)」(7)
「それ僕の考えなの(笑)?」(7)

長門芳郎の証言
「谷川俊太郎さんとか、トノバン(加藤和彦)夫婦とかコシノジュンコとか、三枝成章さんとか、当時のオピニオン・リーダーと目されている人をリスト・アップしたんだ。もちろん音楽評論家やメディア、有力なディーラーも」(7)
「80人くらいかな」(7)
「香りと風もいろいろ考えた」(7)
「ここで風が吹いて、とか、演出もかなり凝ってた」(7)
「細野さんの希望を聞いて、フジテレビの古賀憲一さんと僕で考えた」(7)
「香水をエイボン化粧品まで買いにいってね。フジテレビから送風機を借りてきて、甘いトロピカルな香りが会場全 体に漂うようにしたの。送風機は椰子の木の下に隠して。台本通りにSEを流して、その時間になると風が吹くわけ。そこに僕がシュッシュって香水を吹き掛け て(笑)」(7)
「香水代だけで16,000円ぐらいかかってるから(笑)」(7)
「地方のフィルムコンサート用に映像を作った」(7)
「プロモ用に作ったわけ」(7)
「撮影したのは、古賀さんや僕の友人の伊勢真一さんという人」(7)
「ドキュメンタリー映画の名監督」(7)
「あと、当時のNET、今のテレビ朝日の『ニュー面白クラブ』って番組があって、その番組とタイアップしたわ け。それで、演奏の後、中国人の料理長が出てきて北京ダックの説明をして切り分けたり、司会を務めてた音楽評論家の今野雄二さんがテーブルを回ってゲスト にインタヴューしたり、そんなシーンをテレビ用に撮ったりした」(7)
「来た人はタダでフル・コース食べたわけだから、悪くは言わないよね(笑)。本当のところは、どうだったか分からない。でも、どれほどの効果があったかも分からないね」(7)
「予算は150万あったんだけど、それを僕が全部任されて、会場になった同發新館の使用料が50万円とか、内装費用が20万とか、あとはギャラとか」(7)
「僕的には満足だったよね。予算内でいいイヴェントができたし、記録として、音も映像も残せたわけだから」(7)
「クラウンの録音部が来て録ったんだ」(7)
「マルチは回してない」(7)
「椰子の木の陰でやってたよ。とにかく、お客さんに居心地のいい空間を提供しようと思ってたんだよね」(7)
「(編注:佐藤博は)スケジュール的に駄目だったの。あとは岡田徹っていうアイデアも出てたんだけど、たしかムーンライダーズのスケジュールとも重なってて……。それで急遽、坂本に電話して弾いてもらうことになったんだ」(7)

※編注:この日演奏された全曲の音源と、長門芳郎が言及している"プロモ用"映像は、『HARRY HOSONO Crown Years 1974-1977』(クラウン・レコード/2007年)で商品化された。


1976/05/10 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/11 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/12 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/12 FM東京『サウンド・アプローチ』収録。

1976/05/13 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/14 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/14 21:00 八木康夫と、『泰安洋行』アートワークのミーティング。赤坂/クラウン・レコード。

1976/05/15 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/16 横浜市民ホールでコンサート。
細野晴臣 細野晴臣、矢野誠、平野融、井上憲一、駒沢裕城、かしぶち哲郎、国吉征之、野口明彦
曲目不明

1976/05/17 13:00 『泰安洋行』ジャケット用撮影。市ヶ谷/千修スタジオ。

1976/05/17 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/19 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/20 『GOROcking Festival Vol.2』リハーサル。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/21 『GOROcking Festival Vol.2』リハーサル。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/21 ソロ・アルバムのレコーディング。佐藤博のピアノを録音。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/22 『GOROcking Festival Vol.2』リハーサル。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/05/24 『GOROcking Festival Vol.2』リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1976/05/24 FM東京『サウンド・アプローチ』収録。

1976/05/25 『GOROcking Festival Vol.2』リハーサル。渋谷/アダン・スタジオ。

1976/05/26 『GOROcking Festival Vol.2』リハーサル。山下達郎、吉田美奈子が参加。新宿/御苑スタジオ。

1976/05/27 雑誌『GORO』主催『GOROcking Festival Vol.2』出演。渋谷公会堂。
細野晴臣 細野晴臣、鈴木茂、林立夫、田中章弘、矢野顕子、浜口茂外也、山下達郎、吉田美奈子
曲目不明

1976/05/28 宇崎竜童と対談。青山/グリーンハウス。

日笠雅子の証言
「私がマネージャー代わりに同行することになったんですね。その当時、青山3丁目の今、無印良品があるあたりの民家に2匹のチャウチャウ犬がいたんです」(7)
「対談の場所とすぐ近くだったんで"これはゼヒ動物好きの細野さんにお見せしなきゃ!"と思ってね。で、実際に お見せしたら、「これはすごい!」って。それから2〜3日後にクラウンのスタジオにいったら、なんと「チャウチャウ・ドッグ」という曲が出来てたんです。 細野さんは、スタジオに入る時は、いつもメロディとかリズムだけしか決めてこないのに、なんと歌詞も曲もアレンジもすべて決まっていて」(7)


1976/05/29 ニッポン放送『オールナイト・ニッポン』出演。

1976/06/05 ハイ・ファイ・セット『ファッショナブル・ラヴァー』発売。
星のストレンジャー:bass
朝陽の中で微笑んで:bass
Je m'ennuie:bass
Farewell Party:bass
Fashionable Lover:bass
真夜中の面影:bass
月にてらされて:bass
Grand Canyon:bass

1976/06/07 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/06/07 21:40 FM東京『ユア・ポップス』放送。
DJ:高橋基子

Hong Kong Blues
絹街道
Chattanooga Choo Choo
※1976/05/08@横浜/同發新館

※ライヴ音源はSE等のオーバーラップもあるが、音盤化されたものとは異なるステレオ・ミックス(6月10日放送分まで)。

1976/06/08 ソロ・アルバムのレコーディング。川田琉球舞踊団のコーラスを録音。赤坂/クラウン・スタジオ。
蝶々-San
Roochoo Gumbo
「どうしても沖縄の声が欲しくてね。九段の(沖縄宮廷料理の)店『みやらび』でパフォーマンスしていた川田禮子さんたちにお願いしたんです」(17)
「そこかしこに、大衆的な沖縄料理屋なんてなかった時代なんだよ」(18)

Roochoo Gumbo
「沖縄の言葉で歌ってるんですが」(15)
「『私たちは大和言葉、ヤマトグチでは歌わないよ』といってるんです。僕が作ったんですけど(笑)」(12)
「自分なりに、勝手にですね」(15)
「付け焼刃で沖縄語をひもといて、ちょっと作ってみたんです」(12)
「辞書を引きながら自分で考えちゃった」(18)
「何か沖縄の人たちの心意気みたいなものを歌ってもらいたかったんです。尊敬してたわけです」(12)
「とても変なものなんだろうなと思ってた」(15)
「文句いわずにちゃんと歌ってくれたんですよ」(12)
「ホッとしたよ」(18)


1976/06/08 21:40 FM東京『ユア・ポップス』放送。
DJ:高橋基子

蝶々-San
Bolero〜Hurricane Dorothy
※1976/05/08@横浜/同發新館


1976/06/09 ソロ・アルバムのレコーディング。小坂忠、久保田麻琴、矢野顕子、大貫妙子のコーラスを録音。赤坂/クラウン・スタジオ。

「大貫妙子とか矢野顕子を呼んで、コーラスをやってもらうでしょう。大貫妙子に摩訶不思議な世界の吸引力が強いから怖いって言われたんですよ(笑)。抜けられなくなるって。染まりそうだって」(12)
「この世界に引き込まれるのは怖い、と。"人さらい音楽"って言われたよ。まぁ怖いね。ユーモアも度を超している所があるからね」(14)


1976/06/09 21:40 FM東京『ユア・ポップス』放送。
DJ:高橋基子

北京Duck
Black Peanuts
Talk T' Me
※1976/05/08@横浜/同發新館


1976/06/10 ソロ・アルバムのレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/06/10 21:40 FM東京『ユア・ポップス』放送。
DJ:高橋基子

熱帯夜
"Sayonara", The Japanese Farewell Song
※1976/05/08@横浜/同發新館


1976/06/11 ソロ・アルバムのレコーディング。ブラス・セクションを録音。赤坂/クラウン・スタジオ。

1976/06/12 大貫妙子のレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。
One's Love

1976/06/15 VAN『SCENE '76』秋・冬CM曲「You Got The Bad Scene」レコーディング。銀座/音響ハウス。

※編注:作・編曲は細野晴臣。メンバーは、細野(b, g, vo)、鈴木茂(g)、林立夫(ds)、佐藤博(kbd)、吉田美奈子(cho)、矢野顕子(cho)。2001年、政府主導による『インターネット博覧会 - 楽網楽座』(通称"インパク")内に糸井重里が企画したCMソング紹介コンテンツ『SLEEPING SONGS』にてストリーミング公開された。なお、その際に発表されたクレジットでは録音日が6月18〜23日とされていたが、ここでは長門芳郎作成の年表『HARRY'S CROWN YEARS 1974-1977』(CD『HARRY HOSONO Crown Years 1974-1977』同梱ブックレット所収 クラウン・レコード/2007年)にならった。


1976/06/15 コンベンション・ライヴ『ティン・パン・アレー・イン・チャイナタウン』フィルムのミーティング。

1976/06/17 『パラダイス・ツアー』リハーサル。

1976/06/18 『パラダイス・ツアー』リハーサル。

1976/06/19 『パラダイス・ツアー』リハーサル。

1976/06/19 『泰安洋行』宣伝ミーティング。

1976/06/20 『パラダイス・ツアー』リハーサル。

1976/06/21 『パラダイス・ツアー』リハーサル。

1976/06/22 『パラダイス・ツアー』リハーサル。フィルム撮影が行われる。赤坂/クラウン第1スタジオ。

※編注:映像はプロモーション・フィルムに使用され、『HARRY HOSONO Crown Years 1974-1977』(クラウン・レコード/2007年)で商品化された。


1976/06/23 『パラダイス・ツアー』リハーサル。

1976/06/24 18:00 『パラダイス・ツアー』公演。フィルム撮影が行われる。神田共立講堂。
鈴木茂 鈴木茂(g, vo)、細野晴臣(perc)、林立夫(ds)、矢野顕子(pf)、佐藤博(kbd)、浜口茂外也(perc)、田中章弘(b)、駒沢裕城(pedal steel)
ソバカスのある少女

細野晴臣 細野晴臣(vo, marimba)、鈴木茂(g)、林立夫(ds)、矢野顕子(pf)、佐藤博(kbd)、浜口茂外也(perc)、田中章弘(b)、駒沢裕城(pedal steel)
"Sayonara", The Japanese Farewell Song

※編注:映像はプロモーション・フィルムに使用され、『HARRY HOSONO Crown Years 1974-1977』(クラウン・レコード/2007年)で商品化された。

1976/06/26 空路、羽田から千歳へ。さらに旭川へ移動。

1976/06/27 18:30 『パラダイス・ツアー』公演。旭川市公会堂。
曲目不明

1976/06/28 18:30 『パラダイス・ツアー』公演。札幌/道新ホール。
曲目不明

1976/06/30 仙台へ移動。

<出典>
(1)CD 伊藤銀次・山下達郎・大滝詠一『Niagara TRIANGLE VOL.1』ライナーノーツ ソニー・ミュージック・レコード/2006年
(2)CD V.A.『大瀧詠一作品集 VOL.2(1971-1988)』ライナーノーツ ビクター/1995年
(3)『Yellow Magic Orchestra』第2版 アスペクト/2007年
(4)『ENGINE』12月号 新潮社/2007年 
(5)CD 伊藤銀次・山下達郎・大滝詠一『Niagara TRIANGLE VOL.1』ライナーノーツ ソニー・ミュージック・レコード/1995年
(6)LP あがた森魚『日本少年』ライナーノーツ マリオ, ニューモーニング/1976年
(7)CD『HARRY HOSONO Crown Years 1974-1977』同梱ブックレット クラウン・レコード/2007年
(8)CD あがた森魚『日本少年2000系』ライナーノーツ キティ・エンタープライズ/1999年
(9)鈴木慶一『火の玉ボーイとコモンマン』 新宿書房/1989年
(10)『ロック画報』06 ブルース・インターアクションズ/2001年
(11)ムッシュかまやつ『ムッシュ!』 日経BP社/2002年
(12)北中正和編『『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(13)J-WAVE『Daisyworld』 2001年6月18日
(14)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(15)J-WAVE『Daisyworld』 2000年5月8日
(16)CD ムーンライダーズ『Moonlight Recital 1976』ブックレット ムーンライダーズ・レコード/2005年
(17)CD ムーンライダーズ『THE WORST OF MOONRIDERS』ブックレット ポニー・キャニオン, テント/1986年
(18)『PAPER SKY』no.16 ニーハイメディア・ジャパン/2006年
update:2024/09/04

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