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chronology 1975


1975/01/09 大滝詠一とミーティング。自宅。

1975 久保田麻琴が落合/自宅に来訪。沖縄みやげのレコード、喜納昌吉「ハイサイおじさん」を聴く。

「岐路に立ったら、いつでも誰かがやってきて、一言言ってくれるんだ」(1)
「ぼくのアパートに、久保田くんが遊びに来た」(1)
「ずっと悶々としていたところ」(2)
「煮つまっていた僕にカタパルトを与えてくれた」(3)
「『トロピカル・ダンディー』を作る直前に、久保田麻琴から絵葉書が来たんです」(4)
「大興奮のハガキ」(5)
「彼が観光で竹富島だったか石垣島だったか、どこだったかわからないですけど」(6)
「"(観光)バスに乗ったら、すごい音楽がかかっていた"と」(4)
「ヒット曲がかかってたんですって、バスのなかで。それを聴いて彼は興奮して、当時出てたシングル盤を僕にも買ってきてくれた」(6)
「妙なシングル」(7)
「おみやげに」(6)
「それが喜納昌吉の『ハイサイおじさん』だった。結構強烈な体験ですね」(6)
「もちろん(それ以前から沖縄民謡については)うすうすはね、好きだなって思ってましたよ。でも、どこで売っているか分からなかったし、こっちへ来るという考えはなかったですよ、それまでは」(8)
「聞いたらやっぱりすごかった」(5)
「音からなにから、ぞくぞくしてくる」(9)
「当時の日本では録れない、ジャマイカのレコーディングのような音でした。スカの古いレコードみたいな音がしてたんです」(7)
「ガツ(編注:原文ママ)ときた。理由は何もないのね、ただいい。すごくショックだったね」(9)
「ニューオーリンズのレアものを聞いてたころで、音もそれに匹敵するインパクトがあったんで、びっくりした」(5)
「ああいう音楽が日本にあるっていうのは最高に楽しい」(10)
「当時はカリブ海とか島の音楽をよく聴いてたから、違和感なく、気持ちが沖縄に繋がっちゃったんです。Dr.Johnの『Gumbo』(72年)とか、料理みたいな音楽もよく聴いてたしね」(4)
「当時はみんなアメリカばっかり向いていたでしょう。その枠から、だんだんはずれていった時期ですよね」(8)
「要するに、トロピカルっていうのはアメリカではないというところから始まっている訳だから僕の場合は」(8)
「アメリカの中で好きなのは、ニューオーリンズの音楽が好きで、そこにガンボっていう音楽があるんですよ。もともとは料理の名前なんですけど、ミックスした料理で、ガンボ料理ってとてもおいしいんですよ」(8)
「一番好きになった音楽っていうのは、国籍のない音楽なんですよ。トロピカルでも、例えばハワイのチャイニーズハワイアンみたいな音楽とか、あるいは東南アジアのインドとインドネシアがまじっているものとか…、とにかくまじっている」(8)
「自分が好きな音楽はニューオリンズの音楽だということがわかった。自分が"いいな"と思ってた音楽のほとんど がニューオリンズから生まれたヒット曲だったりしてね。そういうことに気がつくとますます音楽が面白くなってきて、ニューオリンズの音楽も不思議なサウン ドに聴こえるわけですよ。とても解明できない。そうするとわかるまで聴こうという気になって、いろいろなことを調べたんですけど、ニューオリンズの音楽が カリブ海の影響を受けていることがわかった。そうすると、今度はカリブ海の音楽を聴くようになって…というように興味がだんだん辺境の音楽に広がっていっ たんです」
(11)
「そうすると自分が日本人であるということを忘れがちになるんですが(笑)、僕の場合、はっぴいえんどの一件が あったので忘れることができなくて、"それじゃ、日本のジャマイカはどこだろう?"って考えたんです。そしたら沖縄が出てきた。要するに最初はそういう比 喩として沖縄がジャマイカに見えちゃうっていうことを自分で楽しんでたんです」(11)
「僕の中でもまぁ(沖縄は)エキゾティックなものだったんだね。南の方の国っていう。ハワイにしろ、インドネシアにしろ、バリ島にしろ……」(8)
「チャンプルーという言葉も当時飛び込んできて、これはもちろん喜納さんがいいだしたことだけど」(8)
「チャンプルー−これは沖縄のゴッタ煮料理の名だ。この料理を自分のグループ名にしたのが、沖縄の異端児、喜納昌吉」(3)
「面白い音楽は、全部ゴッタ煮なんだよ。いや、まだ沖縄料理は一口も食べてなかった」(4)
チャンプルーズっていうくらいで、意図的にそれをやっていたんで、かなり驚いたんですよ。もうすでにやっている人がいるってことに」(8)
「"次はチャンプルーだ!"と、久保田君と盛り上がったんです」
(4)
「料理と音楽との結び付きは、昔からどこの国にもあった。」(3)
「ニューオリンズのガンボ(ニューオリンズのゴッタ煮スープのこと)、ニューヨーク・ラテンのサルサ等があり、味つけや匂いというのが音楽と大いに関わりのあることがうかがわれる。」(3)
「ファンキーという言葉の意味には臭いというニュアンスも含まれていて、匂うような美しさという表現もあるし、とにかく匂いという不思議な感覚と共通するものがあるのだ。」(3)
「実際すべてのものには匂いがつきまとう。匂いによって過去に自分の体験した感覚がフッとよみがえってくる−なんて覚えは誰にでもあるだろう。」(3)
「音楽にもこの種の作用はあるが、これほどキョーレツではない。」(3)
「話したことは、この"匂い"のことだった。この"匂い"の話で、お互いの感性がわかりかけた時、これは実に"非常なる驚異"であった。」(3)
「好きな音楽の話をしていて正にヴァイブレーター・ミュージックをやろうではないか、という事になったのです。これは一緒になってバンドをやるという事ではなく、もっと自由な感覚で、何と云ったら良いかな、サムシングとしか云い様がないが」(12)
「雪の記憶に結びついた香りとか、南風の甘いとろける様な匂いとか、こんな感覚をわかり合える様な音楽をやろうではないか、ということなのです。」(12)
「"香りと音楽は記憶を甦らせてくれる"という話で二人共ハイになり、そして、彼は僕を元気づけてくれた。」(3)
「いったい何が好きなのかって聞かれてね。どんなのを作るのっていわれて、わからないって僕は答えたんです。困っているって。すると彼が、だって、細野さんはトロピカル好きでしょうっていうの。うんと答えると、トロピカルが好きなら、トロピカルをやれと」(6)
「彼が、『細野さんは、トロピカル・ダンディーだよ』って言ったんだ(笑)」(1)
「なぜ言ったんでしょうね」(13)
「でかい声で、言ったんですよ」(13)
「答えは自分の中で持っているんだけど、外からの声で確認する必要がある」(1)
「あっ!てね、漠然としていたものが、一気にね。そういう出口を指差したというか、ヒントをくれたというか」(2)
「人にいわれてはじめて気がついて。そうか、好きなことをやればいいんだと思って(笑)」(6)
「この言葉の持つイメージを自分の中にとりこむ事によって僕は救われたような気がしました。」(12)
「理由も聞かずに、トロピカル・ダンディー、いいなと思って、アルバム・タイトルにしてしまいました」(13)

久保田麻琴の証言
「当時まだ無人島だった西表島の観光のマイクロバスのなかで喜納昌永さん−昌吉のお父さんですね、その昌永さん の民謡のカセットが、たまたま、かかっていたんです。マルフク・レコードという、地元の民謡・古典音楽のレーベルのカセットです。そのアルバムに、息子の 昌吉が二曲だけ入れていて、これを聴いて驚いた。二曲のうちのひとつの『ハイサイおじさん』だったんですね。七〇年くらいに地元で大ヒットしたあとで、私 が聴いた時すでに四、五年くらいたっていたと後で知りましたが」(14)
「地元の観光バスの民謡カセットに、急にドラムもエレキも入って来たので、驚いてバスの運転手さんに、『これな んですか』って聞いたら『民謡だ』。『ええ?民謡じゃないだろ』(笑)。他の曲は三線でチントンやっているのに。チャンプルーズという昌吉のバンドの演奏 だったわけです」(14)
「マルフク・レコードに行ってレコードはあるかってきいたら在庫を三、四枚出してきてくれたのを買い占めまして、それが細野晴臣さんたちへのお土産になった。誰にも受けなかったけれど、唯一反応してくれたのが細野さんです」(14)
「『沖縄はすごかったよ』なんて話をしてお土産を聞かせると、彼もやっぱりびっくりするんですよ」(14)
「『はっぴいえんど』も終わって、ギタリストの鈴木茂君も『BAND WAGON』でロスアンゼルス・サウンドをやっていた頃です。その頃、細野さんもつくりながら居心地の悪さを感じていたようです。私が聴くと『かっこいい なあ、おしゃれだ』と思うけれど、本人は居心地が悪い。なんだか『成り切れていない』という。ロスで録音もして軋轢も体験して、『これは自分じゃない』と いう気持ちが残ったのでしょうか」(14)
「その頃、『さて、これからどうしよう』というような話題は、いろんな場面で出ていたんです。それで、『ハワイが面白かった』とか『沖縄がすごかった』なんていう話から、私のほうはハワイ+チャンプルーていう、いかにも短絡的な(笑)アイディアが浮かんだ」(14)
「細野さんのほうは、ブラジルのサンバ歌手でハリウッド・スターのカルメン・ミランダとか、四〇年代の歌手で女 優のドロシー・ラムーアのエキゾチックな役柄とかが、好きだったんですよ。彼のはそういう嗜好、エキゾチック・サウンドですね。音楽家で言うとマーティ ン・デニーやレス・バクスターのような、アメリカにとっての楽園イメージである、ラテン・リズムや南国ムード。それで私が『細野さんはトロピカル・ダン ディだよね』といったら、それが彼のアルバムタイトルになった」(14)


1975 『ライトミュージック』編集部を訪ねる。

「久保田君と話をした翌日」(3)
「編集部に出かけて行ったら、横にいた田中唯士からいきなり、『細野さん、チャイニーズ・エレガンスはいいですね』と言われた。」(3)
「当時はまだジャーナリストだったS-KEN(2)
「文学者みたいな顔してて、僕にいろんな本をすすめる変てこりんな男でね。彼からいろんな本を教わって読んでたんです。例えば佐藤春夫を読んで大好きになったり」(6)
「『美しい町』というのが非常に好きで。その田中 唯士氏からチャイニーズ・エレガンスうんぬんと指摘されたんです。指摘なのか何かわからないですけど。核心をつかれたんです。つまり僕がハリウッドの手法 とオリエンタルなエッセンスとのミックスを考えていた時期で、どうやら自分はそういうことがやりたいんじゃないかなと、まだ明確じゃないんですけど、漠然 と考えていたんです。そういうときにぽんと言われて、ひとつの手がかりをもらって」(6)
「あっ!それだっ!て(笑)。またもや」(2)
「このことを思い出して彼に話したら、『なぜあの時、あんなことを言ったのかわからない』というのだ。これには僕もビックリした。なぜなら、その前日、僕は久保田君に『絹街道』という西遊記をテーマにしたチャイニーズ風の曲を聞かせていたからだ。」(3)
「人の言葉とか助言が、その人は何でもないと思って言ったことが非常に助けになったりするんですね」(6)
「それで僕のなかで、トロピカルとチャイニーズとエレガンスという言葉が、はじめてコンセプトになったんですね」(6)
「言葉で、キーワードでコンセプトになるってことがわかって、それから燃え出したんです」(6)


1975 マーティン・デニーの音楽を聴き漁る。

「キーワードを見つけて、自分がやりたいことがわあっとふくらんだときにハイになっちゃった」(6)
「ナチュラル・ハイ」(6)
「その前ずっと、僕は神経症の発作みたいなものにさいなまれていたんだけど、それを克服する方法が見つかったんです、そのころ。ものすごい解放感。目の前がワーッとひらけちゃった」(15)
「世界がパーッて広がっちゃって、今までの不安感ていうのがなくなっちゃった。初めて自然な浮遊感覚を味わったの。もう、世界は自分のもの、みたいな感覚になっちゃって」(16)
「ホントに全身とんでたわけ」(15)
「完全にあっちの世界に行っちゃってた。もちろんノン・ドーピングだよ。新しいチャンネルが開いちゃった。これはめくるめくような体験だったし、そこから自分が真面目で青臭い人間じゃなくなった」(1)
「そういうときって、おそらく体内のホルモンのバランスが変わるんですよね。エンドルフィン(脳内快感物質)み たいなものが出てくるんでしょうね、自然に。相乗効果なんですよ。聴く音楽が変わってきて、とんでもない音楽を聴き出すわけです。それがマーティン・デ ニーだったりするんです」(6)
「また、そういうときって、自分から能動的に人と接して行くんだけどね。自分から行ったのは、田中唯士の所」(1)
「『マーティン・デニー』を探してるんだけど』という話をしたら、調べてくれた」(5)
「田中さんに聞いたら『マーティン・デニーのカセット持ってる友人がいるよ』って。それがイラストレーターの河村要助さんだった。河村さんとは直接、会ってないんだけど、田中さんの所にカセットが届いて」(12)
「コピーを貰ったんです」(13)
「これが全貌かと思って全部聴きました」(17)
「で、初めてマーティン・デニーの全貌を聴くと、本当に火が点いちゃった」(1)
「ますますあおられてね。頭のネジがピ−ン!とはずれた」(15)
「麻薬みたいななんか恐ろしいものを打たれちゃった感じだったね。それを聞いたとたんにトリップが始まっちゃった(笑)」(2)
「バーンッと何かが爆発したんだ」(12)
「もう気持ちよくって、気持ちよくって……」(15)
「特に、『サヨナラ、ジャパニーズ・フェアウェル・ソング』と『サケ・ロック』にやられた。『だめだぁ!』って(笑)。『エキゾチカ』を聴いた途端に、何かが崩壊したんだ」(1)
「マーティン・デニーは自分の中の枠組を変えてくれた音楽なんだ。東京に居ても、日本人には絶対に作れないのんきな『SAKE ROCK』が流れると、クレイジーな気持ちになる。一人で踊っていたら、家族が気味悪がっていた(笑)」(18)
「あれ以来、僕は普通のポップ・ミュージックが聴けなくなってしまった。僕にとっては意識の拡大だったと思う」(18)
「ここから僕のヴァーチャルな旅が始まる」(18)
「僕がエキゾティックな音楽に自覚的になったのは、マーティン・デニーからですね。『エキゾティック・サウンド』と銘打っていたし。でもそれ以前にも記憶はずっとあって」(19)
「たとえばハリウッド映画の『80日間世界一周』は、最後に日本が出てくるんだけど、それが見たことない日本なんだよね」(19)
「ヘンテコリンな日本が出てくるんだ」(15)
「母と一緒に見に行くと、親の世代は『何だ、馬鹿馬鹿しい』って文句を言う」(19)
「子供心にもある種のいきどおりを感じたわけ。こんなんじゃない、現実はもっとつまんないんだって(笑)」(15)
「でも子供心に何か妙に印象に残ってしまう。そういう見方をずっとしてきて、音楽的にはマーティン・デニーではじめて自分の中にそういうものがあると自覚したんです」(19)
「アメリカ人が日本に来ると、日本だか中国だか判んなくなるってのがあったでしょう。その感じがよく判るようになったんだ。すごいロマンチックなとらえ方ね」(20)
「神経症から解放されたころは、気が大きくなってるからね。気にならない。かえって面白いの。作られた世界でこんな面白いものはない!って気がして」(15)
「彼らにしてみれば、東洋はある種のパラダイスだったわけでしょ。そういうイメージはどこからくるのかな……と。それをキッカケに、東洋には西洋人が失ってしまったパラダイスがあるんじゃないかと、わりとシビアに考えだしたんですね、ぼくは」(15)
「東京の街が面白くなったのもそのころで、それまではただの灰色の街だったのが、はっぴいえんどのころはたしかに風都市という幻想があったけれども、それとは違う意味で、異邦人の目から見たような面白さに突然目が開いたというか、違う目になっちゃったというか」(6)
「東京を見る目が変わって来た」(1)
「心の枠が取れちゃって、全部新しく見えるような状態になった」(1)
「当時、ホンダのシビックに乗ってたんですが、落合あたりのなんの変哲もない路地裏をマーティン・デニーを聴きながら走ると、迷宮に入ったような不思議な感覚がする(笑)」(6)
「どこの国だかわからないような、強いて言えば東南アジアの音楽に近いマーティン・デニーのテープを聴きながら、東京の路地裏を車でとばした時などは、本当に眩暈を感じるほど楽しかった。」(3)
「そんなことを楽しんでたんです。ディスカバー・トーキョーみたいな、再発見というか。これは面白いやと興奮していた」(6)
「その時は西欧の影響を受けた奥深い東洋の島国にぞっこん参ってしまっていた。」(3)
「ネガティブに見えていた日本のあれこれが違った風景に見えてくる、面白くなってしまう。異邦人の目を初めて持てたんだ」(18)
「はっぴいえんどの頃から、居心地の悪い世の中だった。日本は好きだけど、音楽やってると、そうはいかない。いつも文化の摩擦を感じる」(18)
「あの頃、それを裏返してくれたのがエキゾチック・サウンドだった」(18)


1975/01/24 18:30 『シュガー・ベイブ・セカンド・コンサート』にゲスト・司会として出演。新宿厚生年金会館小ホール。
出演:シュガー・ベイブ、鈴木慶一 他

細野晴臣 細野晴臣(vo, g?)、鈴木慶一(kbd)、鈴木博文(b)、徳武弘文(g)、武川雅寛(vln) 他
 福は内 鬼は外

大滝詠一+鈴木慶一 大滝詠一(vo)、鈴木慶一(vo, kbd)、細野晴臣(b)、徳武弘文(g)、武川雅寛(vln) 他
 春よ来い

※編注:この日のリハーサル風景と思われる写真は、ミュージック・マガジン増刊『ムーンライダーズの30年』(ミュージック・マガジン/2006年)で見ることができる。

1975/01/25 ティン・パン・アレー「宵待草のテーマ/冬の出逢い」発売。
宵待草のテーマ:produce, compose, bass
冬の出逢い:produce, compose, guitar, bass

1975/01/25 小坂忠『ほうろう』発売。
ほうろう:produce, compose, words, arrangement, bass
機関車:produce, arrangement, bass
ボン・ボヤージ波止場:produce, compose, words, arrangement, bass
氷雨月のスケッチ:produce, arrangement, bass
ゆうがたラブ:produce, arrangement, bass
しらけちまうぜ:produce, compose, arrangement, bass
流星都市:produce, compose, arrangement, bass
つるべ糸:produce, arrangement, bass
ふうらい坊:produce, compose, words, arrangement, bass
しらけちまうぜ
「これはモータウン・サウンドを意識して作ったものです」(21)
「松本隆の作詞。弦が矢野誠でした」(21)
「シングル・カットしたんですけど」(21)
「当初はこれは『ビビデバビデブー』という曲だったんですが、僕が詞を書いたのを、だめだと、こりゃだめだと言われて、松本隆くんに詞を書いてもらいました」(22)
「歌まで入れたんですけどね。『しらけちまうぜ』ということになったんですね」(21)

1975/01/26 大滝詠一のレコーディング。福生45スタジオ。

大瀧詠一の証言
「待望の<福生45スタジオ>での初録音が行われました。録音機材はまだリースでしたが、一応スタジオも出来上がり、関連各ミュージシャンが記念と言う意味もあって参加してもらいました。」(23)
「林立夫(ds)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、佐藤博(kbd)でやって。コロムビア盤でクレジットした" ティン・パン・アレー"というのが誤解を呼んでしまって(笑)。林、細野、鈴木はキャラメル・ママ〜ティン・パン・アレーで、佐藤博、鈴木茂はハックル・ バックなんです。そのハックル・バックの旗揚げコンサートは2月11日で、『ムーン』のレコーディングの直後なんです。このセッションではその二人のハッ クル・バックのオーラがものすごい強かった。ましてや茂は洋行帰りなんですよ。あの名盤『バンド・ワゴン』が出る直前の2ヵ月前で。だから向こうで腕を磨 いてきたスライド・ギターからピッキング・ギターから、狂気的な演奏をしてるんですよ」(24)
「佐藤博もハックル・バックの旗揚げコンサートに向けて、たぶんリハーサルを重ねてた時期だろうと思うんですよね。林、細野の二人とはずっと昔からやってる仲間だから。もともとすごい人たちだし」(24)
「ようするにキャラメル・ママとハックル・バックの合体バンドなわけですよね。だからそれをティン・パン色が濃いと言われると佐藤博がかわいそうですよ」(24)
「これは楽しかったね」(24)


1975/01/27 大滝詠一のレコーディング。福生45スタジオ。
福生ストラット(パートII)
大瀧詠一の証言
「『福生ストラット』から」(23)
「スタジオが出来た1曲目に福生という名前のついた曲を録音するのが記念事業みたいなもんで」(24)

1975/01/28 大滝詠一のレコーディング。福生45スタジオ。
論寒牛男
What'd I Say

1975/01/29 大滝詠一のレコーディング。福生45スタジオ。
ロックン・ロール・マーチ

1975/01/30 大滝詠一のレコーディング。福生45スタジオ。
シャックリ・ママさん

1975/01/31 大滝詠一のレコーディング。福生45スタジオ。
三文ソング
夜の散歩道
恋はメレンゲ
朝からゴキゲン
ジーガム

1975/02/02 かまやつひろしのレコーディング。東芝EMIスタジオ。
お先にどうぞ
大瀧詠一の証言
「<かまやつひろしさん>は<はっぴいえんど>の一枚目の時に、先輩及び現役ミュージシャンとして一番早く評価してくれた人でした。」(25)
「75年、吉田拓郎作曲の『あゝ 我が良き友よ』がビッグ・ヒットとなった<かまやつさん>からアルバム用の楽曲の発注が<はっぴいえんど>関連の人達にもあり、<松本−細野>コンビは『仁義なき戦い』という(私は個人的に大好きな)名曲を提供します。」(25)
 お先にどうぞ
「丁度この時はアルバム『ナイアガラ・ムーン』を福生スタジオで録音中で、このアルバムに参加したミュージシャ ンは一番油の乗っていた時期で、そのノリが東芝のスタジオに持ち込まれたという演奏になっています。参加メンバーはドラム・林、ベース・細野、ギター・鈴 木茂にピアノの佐藤博。そしてコーラスは伊集加代子・山下達郎・吉田美奈子に大瀧詠一という、これが<最初で最後>の顔合わせでした。」(25)

1975/02/04 大滝詠一のレコーディング。福生45スタジオ。

大瀧詠一の証言
「別のレコーディング・セッションになるわけで、まずは<三文ソング>のリテイクからになるわけですよ」(24)
「林に替わって、(ドラムが)上原ユカリがきて、ギターが伊藤銀次。その二人といえば、元ココナツ・バンクなわ けですよ。それで細野=ベースの、佐藤=ピアノ。完全に混成グループなんだけど、(ナイアガラとしては)シュガー・ベイブの前に幻のバンドがあったわけで すよね。大阪から呼んで、CMを一緒にいろいろやって、いずれはアルバムを、と考えていたわけですから。それはプロデュースしそこなったわけです。そこは やはりココナツ・バンクへの断ち切りがたい想いというのが、自分で解散させたとはいえあるわけで。ユカリと銀次に、ベースがうまい細野で、キーボードが佐 藤というバンドだったら、という、つまり僕のココナツ・バンクのドリーム・チームだったわけですよ。それならシュガー・ベイブと張るくらいのいい環境でプ ロデュースできたろうなあ、という想いがあったのではないかと」(24)


1975/02/05 ハイ・ファイ・セット『ハイ・ファイ・セット』発売。
Ages of Rock and Roll:bass
卒業写真:bass
胸のぬくもり:bass
今日と明日の間に:bass
大きな街:bass
美術館:bass
十円木馬:bass
Fish and Chips:bass
海を見ていた午後:bass, bongo, guitar
愛の花咲く道:bass
村井邦彦の証言
「細野くんは『ネーミングの王者』なんだ。『ハイファイセット』だって、彼がつけてくれたんだよ」(26)

1975/02/05 大滝詠一のレコーディング。福生45スタジオ。

1975/02/06 エッセイ「錫鍋横丁(ティン・パン・アレー)から御挨拶」脱稿。

※初出不明。CD『HARRY HOSONO Crown years 1974-1977』(日本クラウン/2007年)同梱ブックレットに再録された。


1975/02/06 大滝詠一のレコーディング。福生45スタジオ。

1975/02/07 大滝詠一のレコーディング。福生45スタジオ。

1975/02/08 ソロ・アルバムのレコーディング再開。クラウン・スタジオ。

「僕の中では、チャイニーズな感じとカリプソと、そのぐらいのアイデアしかなかったんだ」(12)
「結局、自分のやりたいことをやった方がいいのでは、と思って」(20)


1975/02/11 17:00 『ベイ・エリア・ファースト・コンサート』ゲスト出演。目黒区民センター。
出演:バンブー

鈴木茂バンド 鈴木茂(g, vo)、佐藤博(kbd)、田中章弘(b)、林敏明(ds)、細野晴臣(vo)、大滝詠一(vo)*
 冬越え
 さよならアメリカ さよならニッポン *


1975/02/15 和田アキ子「見えない世界/海になれ」発売。
見えない世界:compose
見えない世界
「初めての歌謡曲仕事」(21)
「歌謡曲の方に提供したのは初めてだったんです。ですから緊張して、曲がなかなかできなくて。メロディー、覚えてたやつがあったんですが、それが実は、中学の時に作ってた曲だったんですね。大事な曲だったんですがね(笑)。それを使って、提出したわけです」(21)
「アレンジはできなかったんですね。楽曲だけ渡して、やってもらうという。で、できてきたらこういう曲でした」(21)
「テレビで当時、和田さんが、当時じゃないか、YMOやってた頃ですね、『YMOの人に曲書いてもらったことがある』とか言って、あのー喜んでいただけたという記憶があります」(21)

1975/02/15 『ティン・パン・アレー・セッション』ゲスト出演。荻窪ロフト。
出演:バンブー、鈴木茂バンド

1975/02/16 『ティン・パン・アレー・セッション』出演。荻窪ロフト。
出演:鈴木茂バンド、吉田美奈子

細野晴臣+パイ楽団
 曲目不明


1975/03 『ファースト&ラスト・コンサート』ゲネプロ。ツアーのプロモーション・フィルム撮影が行われる。蒲田/日本電子工学院講堂。

長門芳郎の証言
「観客を入れず行った。」(12)
「3月の前半だったと記憶している。」(12)


1975/03/12 『ファースト・ジャパン・ロック・フェスティバル』に、サディスティック・ミカ・バンドのベーシストとして出演。渋谷公会堂。
出演:クリエイション、四人囃子、内田裕也 他

サディスティック・ミカ・バンド 加藤和彦(g, vo)、ミカ(vo)、高中正義(g)、高橋幸宏(ds)、今井裕(kbd)、細野晴臣(b)、ポニー・テール(cho)
 Vacation
 Sherry
 ビキニ・スタイルのお嬢さん
 Don't Worry Baby
 他

「僕は、ミカ・バンドに期待していたんだ。もっと具体的に 言うと、これが売れればしめたもんで、オレたちもやり易くなるしね。で、急遽、小原がやめて波乱万丈になって、ストップされちゃうといろいろ困ると思った わけ。それで僕にできることがあればやりたいと思ったし、ベース弾くだけでもいいしね」(27)

加藤和彦の証言
「前々から一緒にやりたかったわけ。細野さんのやっていることに共感できるし」(27)
「マンネリの部分を打破できるんじゃないかという期待もあった。具体的には、小原礼がヤメたということも関係し ているけど、果して、やってくれるという部分が細野さんの中にあるのかどうか心配だったし、しかしかえって気を使い過ぎても変だし……電話するのがこわ かったんだ。でもまあ電話して、会って、話をして苦しんでいる部分がお互い同じでね」(27)
「で、すごく印象的だった言葉は、偶然同じ年なんだけど"もうキツイ音楽はできない!"って2人共が言ったの。これはボクにとって本音なのね。やっぱり30近くになると30近い音じゃなくちゃいけないと思うんだ。そんなことでより共感を覚えたというわけ」(27)
「それに僕は歌は余りうまくないし、細野さんもそんなにうまくないと思うし、自分の音楽に対する関わり方は当然変わってくるし、そのことのハンディを進んで引き受けようと思ったわけ」(26)


1975/03/25 八木康夫に電話。『トロピカル・ダンディー』のジャケット・アートを依頼。

「そうか、これ(編注:1974年12月16日に八木から細野にプレゼントされた肖像画)で行こうと思って。タイトルだけ僕が決めて」(6)

ヤギヤスオの証言
「いきなり細野さんから『1週間しか時間がないけれど、あの絵を描いてくれないか』って電話が入るんです。イメージを聞いたら、もっとトロピカルな雰囲気でということでしたけど」(28)


1975/03/26 八木康夫と『トロピカル・ダンディー』ジャケット打合せ。新宿〜赤坂/クラウン・レコード。

ヤギヤスオの証言
「新宿で会って、その足でクラウンレコードに行って打ち合わせです。ジャケット裏の温室での写真の感じで表も決 まっていたらしいんですよ。おそらく色校までいってたんじゃないかな。それが気に入らなくて、急遽、この絵(編注:前日の項参照)を思いだして依頼された んだと思う。推測ですけどね」(28)


1975/03/27 八木康夫から電話。

1975/03/28 『ファースト&ラスト・コンサート』プレス用プレミア・ショー出演。新宿厚生年金会館小ホール。
曲目不明
小坂忠の証言
「音楽関係者を招待して開催された。」(29)
「同時期に鈴木茂のアルバム『バンドワゴン』もリリースされることになっていたため、4月から7月にかけて一緒にプロモーションツアーを行うことになった。二人のアーティストが、レコード会社の壁を越えて、一緒にツアーを行うことになったのだ。また、このファースト &ラストツアーでは、初めて全国のコンサートプロモーターが連携して、ツアーを組む試みがなされた。それまでは、たとえロック・バンドでも、全国各地の音 楽好きのプロモーターが横の連携もなく、独自にコンサートを開催していたのである。」(29)

小倉エージの証言
「レパートリーの中心となる小坂忠のアルバムに収められていた作品のほとんどのアレンジが改められ、レコードよりも密度と緊張感が高く、スピード感にもあふれ、それもハードっぽいストレートな音楽性、サウンドを持っていたのに驚かされたものだった。」(30)
「僕としては、せいぜいレコーディングに毛のはえた程度の音楽性やサウンドを持って登場してくるに違いないとタカをくくっていたこともあったから、予想外にドライブの効いた迫力ある演奏に、完全にKOされてしまった。」(30)


1975/03/29 ティン・パン・アレー、『ベイ・エリア・コンサート スーパーロック・ジェネレーション』出演。文京公会堂。
出演:大滝詠一、鈴木茂バンド、シュガーベイブ 他

ティン・パン・アレー 小坂忠(vo)、細野晴臣(b)、林立夫(ds)、鈴木茂(g)、浜口茂外也(perc, flute)、ジョン山崎(kbd)、佐藤博(kbd)、荒川達彦sax)、吉田美奈子(cho)
 アップル・ノッカー

 氷雨月のスケッチ
 ゆうがたラブ
 Bye Bye Baby
 しらけちまうぜ


1975/04/02 『トロピカル・ダンディー』ジャケット画入稿。

「最初、タイタニック号が沈む図柄にしようかとかなんとか僕がいってたんです。だから海に浮かんでる船はタイタニックなんですよ。タイタニックをそこに描いたといっていましたから」(6)

ヤギヤスオの証言
「とにかく1週間しかないんで、もう寝ないで描きました。素材はクレパスです。下地にホワイトをひたすらうすく塗っていくから手間がかかるんだ。普通は2週間くらい必要な絵ですね」(28)


1975/04/04 ティン・パン・アレー、『ベイ・エリア・コンサート』出演。大阪/サンケイホール。
出演:大滝詠一、鈴木茂バンド、シュガーベイブ 他

ティン・パン・アレー 小坂忠(vo)、細野晴臣(b, vo)、林立夫(ds)、鈴木茂(g)、浜口茂外也(perc, flute)、ジョン山崎(kbd)、佐藤博(kbd)、吉田美奈子(cho)
 アップル・ノッカー

 氷雨月のスケッチ
 ゆうがたラブ
 Hurricane Dorothy
 Bye Bye Baby
 しらけちまうぜ


1975/04/05 ティン・パン・アレー、『ベイ・エリア・コンサート』出演。名古屋市公会堂。
ティン・パン・アレー 小坂忠(vo)、細野晴臣(b, vo)、林立夫(ds)、鈴木茂(g)、浜口茂外也(perc, flute)、ジョン山崎(kbd)、佐藤博(kbd)、吉田美奈子(cho)
 曲目不明

1975/04/08 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。福岡電気ホール。
曲目不明

1975/04/09 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。八幡市民会館。
曲目不明

1975/04/11 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。長崎市民文化ホール。
曲目不明
長門芳郎の証言
「空き時間に細野さんと忠さんと僕とで中華街に行って、泰安洋行って雑貨店見つけて」(12)

1975/04/12 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。佐世保市民会館。
曲目不明

1975/04 センチメンタル・シティ・ロマンスのレコーディング開始。

「"センチメンタル・シティ・ロマンス"という名の持つイメージに魅かれ、聞かぬうちから『これはきっといいバンドだ』と決めていたのだ。そんな折に、CBSソニーの磯田(編 注:秀人)氏からプロデュースの依頼を受けたのだ。しかしこれが失敗だった。何故なら、彼らが2年間にわたってシチューの様に煮詰めた音楽は、もはやプロ デュ−スする余地のない完璧なスタイルを創っていたからである。それはまるで名古屋の道路の様にしっかりと構築され、僕はといえばその道を走る車に乗って いる心地であった。さてプロデュースする必要のなくなった僕の仕事は、まずベーシックな音を16ch.のフィルムに焼きつけること、そしてあとはチーフ・ オーディエンスにいすわる事である。そして気がついた。はっぴい・えんどの片割れである僕がここに居るだけでも何か意義があるのではなかろうかと。」(31)

中野督夫の証言
「一番感激したことは、チーフ・オーディエンス(プロデューサー)として細野晴臣氏が参加してくれたことです。いつも静かにうなずく姿は、なぜか安心した気分にさせてくれました。」(32)


1975/04/15 『ライトミュージック』5月号(ヤマハ音楽振興会)発売。
鼎談/ムーヴメントをいかに盛り上げて行くか! 加藤和彦 × 細野晴臣 × 小倉エージ
レコード評

1975/04/18 大滝詠一のレコーディング。銀座/音響ハウス。
クリネックス・ティシュー

1975/04/25 かまやつひろし『あゝ我が良き友よ』発売。
仁義なき戦い:compose, arrangement, bass
お先にどうぞ:bass
仁義なき戦い
「モロにスライの影響が強いですよね。まあこういうのばっかり聴いてた時代です」(21)

1975/04/30 16:00 『トロピカル・ダンディー』ジャケット色校正チェック。赤坂/クラウン・レコード。

1975/05/01 久保田麻琴「Bye Bye Baby/初夏の香り」発売。
Bye Bye Baby:Produce, Compose, Arrangement
初夏の香り:Produce, Arrangement

1975/05/07 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。岡山市民会館。
曲目不明

1975/05/08 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。鳥取市民会館。
曲目不明

1975/05/09 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。広島郵便貯金ホール。
曲目不明

1975/05/15 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。京都会館第一ホール。
曲目不明

1975/05/24 16:30 ティン・パン・アレー『ティン・パン・アレー・フェスティバル』出演。中野サンプラザ。
出演:大滝詠一、シュガーベイブ、バンブー、鈴木茂&ハックルバック、ブレッド&バター、トランザム

ティン・パン・アレー 小坂忠(vo, cho)、吉田美奈子(vo, cho)、細野晴臣(b, vo)、林立夫(ds)、鈴木茂(g)、ジョン山崎(kbd)、佐藤博(kbd)、浜口茂外也(perc)
 福は内鬼は外

 夢を追って
 時の中へ
 しらけちまうぜ
 機関車
 ふうらい坊
 ゆうがたラブ
 Bye Bye Baby
 からす
 他


1975/05/27 『トロピカル・ダンディー』見本盤のチェック。八木康夫を久保田麻琴に紹介する。赤坂/クラウン・レコード。

ヤギヤスオの証言
「見本盤が5月27日に上がって、クラウンレコードに行った」(28)
「ところがね、出来上がってきたアルバムは、本刷りで版ズレを起こして赤い色が出過ぎていた」(28)
「そこで細野さんに久保田麻琴を紹介してもらっている」(28)


1975/05/28 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。札幌厚生年金会館。
曲目不明

1975/05/30 大滝詠一『ナイアガラ・ムーン』発売。
三文ソング:bass
論寒牛男:bass
ロックン・ロール・マーチ:bass
ハンド・クラッピング・ルンバ:bass
恋はメレンゲ:bass
福生ストラット(パートII):bass
シャックリ・ママさん:bass
楽しい夜更かし:bass
CIDER '73 '74 '75:bass
「名作ですね」(22)
「僕が一年以上滅入っている時、彼は福生にこもって着々と自分のやりたいことをやっていた。その成果が『ナイアガラ・ムーン』にはいっぱいつまっていて、圧倒されるようだ。彼のアルバムは僕とは対照的で、ひとつの段階をまとめ、設計し、安定した土台の上に組み立てて行く、といった感じ」(33)
「定期試験アルバム」(33)
「大瀧詠一が言うようにですね、このアルバムではティン・パン・アレーの演奏が素晴らしいと、ティン・パン・ア レーがいなかったらできなかったと、言ってくれてます。考えてみるにやはり、このアルバムが一番ティン・パン・アレーの力量が十二分に出てると言ってもい いと思います」(22)
「キャラメル〜ティン・パンのベスト・テイク、ユーミンに並ぶくらいのもの」(2)
「いちばんノッてる頃です。録っておいてよかったと思う。あんな演奏はもう二度とできない。リハなんてないん だ。なんか自然にああいうリズムがその場で出て来て……感慨深い感じがするね、肉体的に。スポーツみたいなもんかな。いい記録が出るっていうのは稀だか ら。好きなアルバムですよ」(2)

大瀧詠一の証言
「ノヴェルティー・タイプに取って一番重要なのはサウンドです。メロディーの起伏で聞かせるのではなく、言葉の 音韻とリズムだけですから、サウンドに色がないと、その言葉や意図だけが浮いてしまいます。言葉とサウンドが綿密に絡んでこそ成立するタイプの楽曲です。 この『ナイアガラ・ムーン』が成功した理由はひとえにバック・ミュージシャンの力によるところが大きいのです。」(34)
「全員が油の乗り切った見事な演奏を聞かせています。」(34)
「自分で作った意識がない」(35)
「『ナイアガラ・ムーン』を作ったのは細野晴臣さんなんですよ」(35)
「前のアルバムは3年前ぐらいになったと思うんですけれども、あのーファースト、アルバムと呼ばれてるベルウッドのものなんですね」(35)
「あの時はそのー、グループの中でソロ・アルバムを作った、って言うかある種のお遊び、のようなものでやろうってことで、細野さんにドラムを叩いていただいて、私があのー弾けないベースを無理やり弾いて、でーその、茂…と、3人で、でー、松本くんが詞を書いて」(35)
「遊びだっていうことで、江戸門弾鉄っていう、彼が、名前をつけて、多羅尾伴内っていう、まあひとつの、それは、あのーパロディーであったわけですよ」(35)
「その構成からおいても、まともにやろうということでないことは、わかっていただけると思うんですけれども。だ からまだはっぴいえんどを半分、ソロの遊び半分みたいなことだったんで、最初の、アルバムはそのー、はっぴいえんど的なものと、そのー、ポップス的なもの と半分半分だったんですよ」(35)
「細野さんにあん時に、そのー、批判をされましてね」(35)
「どっちかに、あのー、統一した方がいいんだと」(35)
「フレンドリー・パースウェイジョン」(35)
「それで、その忠告を、真に受けて、あのー作ったのがこのー、『ナイアガラ・ムーン』」(35)
 三文ソング
「<ごまのはえ>からシュガー・ベイブに加入した上原裕がドラム、ベースは細野で、多分<細野−上原>コンビはこれが最初だったのではないでしょうか。」(34)
 論寒牛男
「ハイ・テンションをキープした演奏はスゴイの一言です。」(34)
「林・細野・鈴木・佐藤のキャラメル・バックっていうんだかハックル・ママっていうんだかね(笑)」(24)
 ロックン・ロール・マーチ
「タイトルとコード進行と途中の<ロックンロール>のところだけを決めての自由演奏です。林・細野・茂・佐藤のフォー・リズムに途中とエンディングに松任谷のピアノをダビングしました。」(34)
「林・細野が完璧なリズムでやってるところに(ブラスの)バラバラのリズムを足すのがナイアガラ風味なの」(24)
 ハンド・クラッピング・ルンバ
「CM『ドレッサーII』で作ったリズム・パターンを使って別の曲にしたものです。ドラム・上原、ベース・細野、サイド・ギター茂、リズム・ギターが銀次で、センターのピアのが佐藤で、ステレオでダビングしたのが松任谷のピアノです。」(34)
 恋はメレンゲ
「細野・林・茂・佐藤にピアニカとオルガン担当が松任谷。」(34)
 福生ストラット(パートII)
「出来たばかりの福生スタジオを記念して一番最初にレコーディングした曲です。タイトルと構成だけを決め、あとは殆どメンバーの自由演奏です。」(34)
「鈴木茂さんは<福生ストラット>のときはアンプの上に乗っかって踊りながら弾いてます(笑)。だからガイドしてますよ。細野、林、佐藤を。みんなが茂の踊りに合わせて」(24)
 シャックリ・ママさん
「細野のスラップ・ベースが唸るこの曲も3コードの基本進行だけ決めて後はメンバーの自由演奏です。このオリジ ナルな演奏と熱気は、数多いセッションに参加していた彼等の中でも出色の出来ではないでしょうか。ドラム・林、スライド・茂、ウーリッツァーのピアノは佐 藤博です。」(34)
「細野さんは一番最初は普通に弾いてたんだけど、途中からチョッパーを始めたんだよね。ものすごくアタックが強 めなグラハム・セントラル・ステーション的な、そういうテイクもあるんだけど、いろいろやってチャック・レイニーとラリー・グラハムを合わしたみたいなも のになって。これは面白いと。こっちは<ペギー・スー>(バディ・ホリー)をファンキーにして、と思ってたんだけど」(24)
 楽しい夜更かし
「ドラム・上原、ベース・細野、ギター・銀次、ピアノは佐藤博」(34)


1975/05/30 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。旭川文化会館。
曲目不明

1975/05/31 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。歌登生活改善センター。
曲目不明

1975/06/01 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。室蘭文化会館。
曲目不明

1975/06/02 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。函館市民会館大ホール。
曲目不明

1975/06/05 風『風 -ファースト・アルバム-』発売。
桜の道:bass
※編注:アルバムのクレジットでは参加曲を特定できないが、書籍『風をたずさえて』(八曜社/1977年)に曲ごとの演奏メンバーが掲載されている。

1975/06/05 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。釧路公民館。
曲目不明

1975/06/07 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。紋別市民会館。
曲目不明

1975/06/10 『ヤング・ギター』7月号(シンコーミュージック)発売。
インタビュー/トロピカル・ダンディに自宅訪問
※再録:木村ユタカ監修『ジャパニーズ・シティ・ポップ』(シンコーミュージック/2006年)

1975/06/11 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。北見市民会館。
曲目不明

1975/06/13 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。新潟市民会館。
曲目不明

1975/06/14 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。山形県民会館(キャンセル?)

1975/06/15 11:00 上野駅集合。青森に出発。

小倉エージの証言
「『11時、上野駅の母と子の像の所に集まりますから、遅れないように来て下さい』と、小坂忠のマネージャーの藤本氏が出発の前日電話で教えてくれた。」(30)
「11時きっかりに上野駅にたどりついたのだが、案の定、そこにいたのは先の藤本氏にハックル・バックのワカキ 君、それに見送りと、もしも誰かが乗り遅れた時に送り込みの役目を果すために来ていたナガト君と3人のマネージャーだけ。そしてメンバー一行が三々五々と 集まりはじめ、全員が出揃ったのは11時30分過ぎのことだった。乗り遅れはしばしばあるらしいが、幸いにして今回はその心配はなし。それでも午前11時 といえば、ミュージシャンにしてみれば、朝方の感じに違いなく、みんなさぞ起きるのに苦労するのであろうと想像していたのだが、意外にハツラツとしてい る。」(30)
「このツアーは、当初の計画では東北6県を巡演するはずが、さまざまな問題から3か所に減り、それも今回は秋田 を除く仙台、青森の2か所の公演で、出発前の予定では、仙台に一泊して後、翌朝青森に向うという余裕あるスケジュールになっていたが、切符の手配にトラブ ルがあり、直接青森に向うことになった。それも仙台で一時休憩の後、まず盛岡に向い、そこで乗り継いで青森に向うという面倒な旅となったのだ。」(30)
「盛岡に着いて列車の乗り換え待ちの30分の間、メンバーのほとんどはソバをかきこみ、あるいは、カセット・デッキを手にし、ヘッドフォンで何かを聞き続けている。」(30)
「林選手、ジャーニー(編注:ジョン山崎と思われる)、それにハックル・バックの佐藤博の3人はカセット・デッ キ持参で、誰かがその3台を使って、いろいろなテープを聞きあさっている。もちろん、各自それぞれ独自のメニューによるカセットを持ってきていて、たとえ ば細野氏はジョニー・ベンチュラにアメリカ大使館のバザーで50円で買ったというラテン物のレコードを吹き込んだ2本に、もう一本はザ・バンドの『カフー ツ』、ジョン・サイモンのファーストにリトル・フィート、ニルスンの『俺達は天使じゃない』からセレクトしたテープを。」(30)
「僕もまたいくつかテープを持参していたのだが、それらはメンバーの幾人かの間をめぐり、なかなか手元には戻っ てこなかった。おもしろいことに、ユーミンの『コバルト・アワー』に参加しながら林選手、茂、細野氏は仕上がりのテープを聞いてないとかで、ユーミンの テープはその3人の間を順にめぐっていったのである。」(30)
「長い列車の旅の末、夜の12時前、ようやく青森にたどりついた。」(30)


1975/06/16 午後、『ファースト&ラスト・コンサート』サウンド・チェック〜リハーサル。青森市民会館。

小倉エージの証言
「午後、メンバー全員が揃って会場の青森市民会館へ。すでにそこでは今回のツアーのほとんどのPAを手がけているARS・PAチーム、さらに舞台監督らによってステージ・セッティングは済まされていた。」(30)
「そして会場到着と同時に、各楽器のサウンド・チェックがはじまる。」(30)
「そして小坂忠とティン・パン・バンドのリハーサルが開始され、次いで茂と佐藤博はそのまま残り、そこに田中章 弘と林敏明が加わって、ハックル・バックのリハーサルとなった。その間にティン・パン・バンドのメンバーは三々五々食事に出かけていく。そして戻ってきて からは、小坂忠、細野氏、茂の3人はせっせと色紙にサイン」(30)


1975/06/16 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。青森市民会館。
出演:鈴木茂&ハックルバック

ティン・パン・アレー 小坂忠(vo, cho)、吉田美奈子(vo, cho)、細野晴臣(b, vo)、林立夫(ds)、鈴木茂(g)、ジョン山崎(kbd)、佐藤博(kbd)、浜口茂外也(perc)

小倉エージの証言
「ようやく開場間際になって人がぽつりぽつりと集まりはじめるといった具合で、入りの方は決してよいものではなく、空席が目立つことになってしまった。」(30)
「それを見ては演奏も白けたものになるのではないかと心配されたのだが、余計な心配だったようであり、少ないな がらも観客の多くは彼らのレパートリーを熟知しているようであり、それを物語るように、各曲のイントロが聞かれただけで拍手がまきおこり、なごやかな雰囲 気で進められていった。」(30)
「オープニングはハックル・バック。」(30)

1975/06/17 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。仙台市民会館。
出演:鈴木茂&ハックルバック

ティン・パン・アレー 小坂忠(vo, cho)、吉田美奈子(vo, cho)、細野晴臣(b, vo)、林立夫(ds)、鈴木茂(g)、ジョン山崎(kbd)、佐藤博(kbd)、浜口茂外也(perc)、林敏明(ds)*、田中章弘(b)* 
 夢を追って

 (instrumental)
 ゆうがたラブ
 機関車
 時の中へ
 氷雨月のスケッチ
 福は内 鬼は外

 ふうらい坊
 Bye Bye Baby

 しらけちまうぜ〜からす〜ゆうがたラブ *

小倉エージの証言
「青森の公演とは対照的に、仙台では東京同様にぽつりぽつりと人が集まりはじめ、開場間際には黒山の人だかりとなって、それも、東京のコンサートなどとはまた違った異様な熱気のようなものをかもし出していた。」(30)
「ハックル・バックの演奏に沸いて休憩の後われんばかりの絶大な拍手に迎えられ、吉田美奈子のソロ・セットに ティン・パン・アレイのステージははじまった。そしてメンバーがひとりひとり小坂忠によって紹介され、スピード感はあるものの、ゆるいサウンドを持つイン ストルメンタルが奏でられ、それは、『夕方ラヴ』(編注:原文ママ)へと受け継がれていく。そして一曲、一曲演奏されるごとに雰囲気は大きく盛り上り、そ れに答えるようにティン・パン・バンドもノリまくっていた。さらに『夢を追って』や『機関車』などが歌い継がれ、細野晴臣がリード・ヴォーカルを取った 「福は内、鬼は外」が演奏され、"これが最後の曲です"と小坂忠がアナウンスすると同時に、会場のあちらこちらから不満の声が聞こえた。そのラスト・ナン バー『バイ・バイ・ベイビー』がはじまって間もなくだったろうか、前方の席にいた幾人かがステージめがけて走りはじめ、それを合図とするかのように、会場 のほとんどが総立ちとなって、リズムに合わせて踊りはじめたのである。」(30)
「アンコールは『しらけっちまうぜ』(編注:原文ママ)。それは佐藤博のラテン・タッチのピアノに受け継がれ、"ヴィヴァ・アミーゴ"というジャーニーのかけ声とともに『からす』へ。さらに、『夕方ラヴ』が再び繰り返され、歓声と拍手の中にコンサートは幕を下した。」(30)

1975/06/18 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。盛岡公会堂(キャンセル?)

1975/06/19 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。秋田県民会館(キャンセル?)

1975/06/20 荒井由実『コバルト・アワー』発売。
Cobalt Hour:bass
卒業写真:bass
航海日誌:bass
少しだけ片想い:bass
雨のステイション:bass
アフリカへ行きたい:bass

1975/06/20 『ニューミュージック・マガジン』7月号(ニューミュージック・マガジン社)発売。
寄稿/なぜかぼくはドゥービー・ブラザーズのうしろにモビー・グレープを感じてしまう

1975/06/25 『トロピカル・ダンディー』発売。
Chattanooga Choo Choo:produce, japanese words, vocal, bass
Hurricane Dorothy:produce, compose, words, vocal, mellotron, bass
絹街道:produce, compose, words, vocal, marimba, 揚琴, bass
熱帯夜:produce, compose, words, vocal, a.guitar, bass
北京 Duck:produce, compose, words, vocal, clavinet, cowbell, bass
漂流記:produce, compose, words, vocal, a.guitar, whistle, bass
Honey Moon:produce, compose, words, vocal, a.guitar, 揚琴, bass
三時の子守唄:produce, compose, words, vocal, a.guitar
三時の子守唄:produce, compose, a.guitar, bass
漂流記:produce, compose, bass
「『トロダン』が、−当時このアルバムは『トロダン』っていわれていたんですが(笑)、『オリコン』のチャートに入ってきたぞというようなニュースが出てきて」(6)
「売れたんですね」(6)
「クラウンでスタッフが騒いでいましたね」(6)
「僕よりもスタッフが騒いでいましたよ。マネジャーとかが」(6)
「二万五千枚行ったぞとか、三万枚行ったぞとか、そのぐらいは行ったような記憶がありますよ」(6)
「正味レコーディングに費やした時間は100時間いってないんじゃないかな」(20)
「最初の、リズムをメインにしたファンキーな感じをボツにしてからは自然にこうなった」(20)
「鈴木茂はファンクの方へいったんですけど、僕はいままで自分が経験してきたノスタルジックな音楽を、なんとかして自分の音楽に生かしたいと思って『TROPICAL DANDY』を作った」(11)
「<チャタヌガ・チュー・チュー>以外は全部オリジナルなんだけど、最初に題名ができて、それから曲を作ったのがほとんど。題名からくるイメージからね」(20)
「たぶん『北京ダック』からやったんだと思うよ」(12)
「で、その後すぐに『絹街道』をやったのかな」(12)
「あの当時、聴いてたものが全部、出てきちゃってる。カルメン・ミランダもそうだし。で、結局このアルバムでは、自分のやりたいことが、A面で全部出来ちゃったんだよ」(12)
「A面がナチュラル・ハイというよりもほとんど狂気に近い世界(笑)」(6)
「舞い上がって、興奮状態で、整理がつかないままやっちゃって」(6)
「ぼくとしては、A面を作った段階で完成しちゃった」(1)
「だから気持ち的にB面は捨てちゃった(笑)」(12)
「A面を作って、B面はおざなりにしちゃったんです。フォークっぽくしてみたりインスト入れてみたり」(36)
「B面はほとんど日常的な気持で作ったものですね。A面で僕の気持を出しちゃったんで、B面どうしようかと思って、あっちこっちから引っ張ってきて埋めたんですけど」(6)
「それ以上、作れなかった。必要なかったわけ、自分の中では」(12)
「でもこの時代B面があるから作らなくちゃいけない。だから……お茶を濁した、と」(1)
「A面とB面とに分ける必要があったのは少なからずひっかかっている。」(33)
「本当はB面真っ白でも構わなかったね」(1)
「当時はレコードだから良かった。B面は、あくまでもB面だから」(12)
「要するに、次のアルバムに半分エネルギーを残してあるわけじゃない?」(12)
「『ホソノ・ハウス』の時もそうだったけど、ぼくがアルバムを出す時は、過渡期なんだよね。通過している時に、ポンと吐き出す感じ」(20)
「中間試験アルバム」(33)
「どうしていつも僕は変わり目の途中でアルバムをつくってしまうのだろうと我ながら自分の混乱さにあきれてしまう。」(33)
「僕の場合、あくまでも自分のアルバムは過程でしかないから。落差のエネルギーで作ってるわけだから、完全なものが出来るわけがない。だから、『トロピカル・ダンディー』のB面には『HOSONO HOUSE』からの流れが見えてくる。でも、出してみたらB面の方が好きだっていう人が、とにかく多いわけなんだな(笑)」(12)
「結構アタリが良かった」(36)
「A面がトロピカル、と言うかまあ、ちょっと当時としてはびっくりされたんですけど、B面はみんな安心して聴いてました」(13)
「A面とB面のバランスで(僕の音楽を)ニュー・ミュージックとしても楽しんでくれていた」(1)
「まあ、世の中こんなもんだろうなって思ったよ(笑)」(12)
「カリプソっていう音楽自体、全然知られていなかったし。自分でもどうやってそれを表現したらいいのか、まだまだ中途半端な時期だったから」(12)
「ノリがまだロックなんだよね。特に『チャタヌガ・チュー・チュー』とか」(12)
「ロック・バンドの人達が作ったアルバムだなっていう」(12)
「まだリズムの基本は、ロックでした。リトル・フィートみたいにやりたいなと、思ってました」(13)
「ティン・パン・アレーの演奏も、どちらかといえばマッスル・ショールズ系だったりNY的なビートだったり」(12)
「音楽家、演奏家としての欲求はですね、常にリズムに、飢えていたわけです。だから、音楽を作る、背景としてはやっぱり、プレイヤーという側面が強かったわけです」(13)
「割と当時の先端を行ってたと思うんだけど、僕のソロでは、そういうものではなくて、もっとおかしなフィクションの世界が広がっていたんだよ」(12)
「冷たくされましたね(笑)。でも自分がずっとナチュラル・ハイだから、他人のいうことなんかどうでもよかった んですよ。ただ、関西のほうの、誰だか忘れちゃったけど、ミュージシャンが、あれは吸って作ったんですかとかいうわけ(笑)。つまりまともじゃないという わけでしょう。そうじゃないよ、まともに作ったというと、信じられない、これをみんな、回しながら聴くんだって。そうするとよくわかるっていうんですよ (笑)」(6)
「ちゃんと精神状態をコントロールしてくれて、起承転結があるんですって。リラックスして、すとんと現実に戻して終わらしてくれるっていうんです」(6)
「そうやって聴いている人が当時いたみたいですね」(6)

Chattanooga Choo Choo
「完璧にカルメン・ミランダのコピーですね。本格的なサンバです」(6)
「スライド・ギターがね。茂のスライドが効いているんです。いろんな要素がぐしゃっと入っちゃっているんです。 長年入り込んでいた三〇年代、四〇年代のエレガントの音楽を、自分でどうやって表現していいかわからなかったのを、カルメン・ミランダは当時すでに、非常 に民族的な方法でアレンジしてジャズをやっていたということが非常にショックで、新鮮で」(6)
「ブラジルの、サンバ・スタイルで、カルメン・ミランダが、カヴァーしてるわけです」(13)
「これだっ!というのがあって、おこぼれを頂戴したという」(6)
「僕は当時はどんな、女性かわからなかったんで、えー、とても幻想を見てました」(13)

Hurricane Dorothy
「『ハリケーン』というのは、映画があったわけです」(13)
「ハワイの、ハリケーンの、すさまじい、物語だったんです」(13)
「深夜映画で見たんです」(6)
「当時の僕は、深夜のテレビで、ハリウッドの古い映画を毎晩視てました。毎日、夜中やってました」(13)
「そこに出ていたのがちょっとエキゾティックな顔をしたドロシー・ラムーアという女優さん。昔の台風はジェーン台風とか、女性の名前がついてたんですが、それにもひっかけてます」(6)
「リズム・ボックス・マニアだったんですよ、僕は。エーストーンのリズム・ボックスが好きで、スライ・ストーンが非常にそれをうまく使っていたのに刺激されて」(6)
「リズム・ボックスのビート。これがね、とても、刺激になったんです」(13)
「そのおかげで、僕が、作った曲が、『ハリケーン・ドロシー』という曲です」(13)
「マーティン・デニーというよりカリビアンだったんだよ。エキゾチックというよりもウエスト・コースト」(1)

絹街道
「ほとんど『西遊記』ですね。子供のころから孫悟空が好きで。この曲の演奏スタイルは、当時、マッスル・ショールズというリズム・セクションがあって、その人たちのスタイルが一番輝いていたんです」(6)
「ステイプル・シンガーズのヒット曲、『アイル・テイク・ユー・ゼア』っていう曲があります。これが、カリブ経由の、南部的なスカになっているわけです。これに、ずいぶん影響されました」(13)
「彼らの解釈するレゲエやスカのスタイルが。ティン・パン・アレーに影響を与えていた。そういう演奏方法でこの曲もやったし、ユーミンのもほとんどそういうスタイルでやってたんです」(6)
「ちょっとレイドバック気味というかね、タイトではなくしたんです。というのは、そのころ僕はドラマーの林君 に、『おっちゃんのリズム』ということを言い出してね(笑)。若者のリズムじゃなくて。というのは、フィフティーズとかそこらへんのリズム&ブルースのノ リというのはどう見たって甘くてね、タイトじゃなくて、しかも味わい深い。そのころそのニュアンスがやっと解読できたようなきになったんです。なんかへた うまというか、カッコよさとは対極にあるわび・さびの世界です。それが自分のなかの美学にまでなってきて、秘伝だと思ってたんです。大変なことを発見した と(笑)」(6)
「それまで根も葉もないことをやるのがロックだと思われていたんですよ、実は。みんな、ただアフター・ビートで叩け ばいいと。電気楽器で。ところが歳をとって耳が肥えてくると、ロックというのはそんなもんじゃなくて、非常に歴史があって、時代の変り目のエッセンスをす くってきて、例えばスウィングからロックに変わる時期にスウィングの片鱗が残ってて、ロックでもベースの人はウッド・ベースでスウィングを弾いてたんです が、ドラムはシャッフルからよりタイトになってきて、縦割りに8ビートになってきていた。そういう「ずれ」こそロックだということがだんだんわかってくる わけです。一種のポリリズムですね。そうしないと本当のロックのビートが出ない。ただ単にみんなが同じビートで、2-4でビートを刻んでも、ただの8ビー トでそれはロックじゃないんです、厳密にいえば。ロックにはそういう味わい深いとこがある」(6)
「シャッフルでもない、縦割りの8ビートでもないというような、独特のノリがあるんです。それを称して一拍子のノリって当時いってたんです。別名『おっちゃんのリズム』とかいってね」(6)
「一拍子で弾くという、リズムをとらえるという極秘なんです。極意というか」(6)
「(編注:南こうせつは)突然入ってきたんだよね。でもほんとは、あの前まで『ホイヤー、ホイヤー』がわいてこなかったわけ」(10)
「顔を見た瞬間、『ホイヤー、ホイヤー』でいこうと思いついたんだ(笑)」(10)

熱帯夜
「この曲にはロビー・ロバートソンの気分もあるんだよ。ザ・バンドだと思ったら、そう聴こえてくると思うよ。『カフーツ』の辺りの色が濃いと思う」(1)
「『カフーツ』というアルバムが、僕にずいぶん影響、しましたね」(13)
「レコーディングの最中に、ザ・バンドの雰囲気から、どんどん離れてったんです」(13)
「子供の頃に聴いてた、ジャングル・サウンドというものを、思い出したんです。トロピカルというものの中に僕はジャングルの、エキゾティックサウンドというものがあったわけですね。それが、実はマーティン・デニーの『クワイエット・ヴィレッジ』という曲でした」(13)
「久保田麻琴くん」(13)
「彼が来て、歌ってくれました一緒に」(13)

北京 Duck
マイティ・スパロウの影響」(1)
「バイヨンの曲で、どうしても忘れられない曲があってね、カリプソで。マイティ・スパローの『ジャック・パランス』」(6)
「スパロウのあのリズムがどうしてもやりたかったんだ。バイヨンのリズム。ヴァン・ダイクの『ディスカバー・アメリカ』の冒頭の30秒のあの曲」(1)
「ヴァン・ダイクがそのSP盤を引用しているんです。非常に新鮮なリズムだったんです」(6)
「僕はこのバイヨンに、とりつかれてしまいました」(13)
「爆発的にアイディアがバーッと出てきて。当時、スタジオまで車で通ってたんだけど、その車の中でイメージを飛ばして曲を作ったの。バイヨンのリズムで、ちょっとモダンなコードでやるっていう、大体のアイディアは出来てたんだ」(12)
「あと、藤子不二雄の影響もある!」(1)
「『北京填鴨式』というタイトルのブラック・ユーモアの漫画があって」(6)
「短編漫画」(13)
「火事は全然関係ないです。ただ北京ダックがどうのこうのという漫画で」(6)
「勝手に燃やしちゃったんですよ(笑)。なんかそういうニュースがあったのかもしれないな。たぶん何かあったんでしょうね。火事ぐらいあるでしょうから」(6)
「とにかく混沌としたオリエンタルな風景をもっと探したいと思っていた時期で。東京の路地裏だけじゃ限界があったんで、本気でオリエンタルな、何かぐしゃっとした風景を探しててね。横浜には中華街があるじゃないかと思って行ったんです」(6)
「すごいところですよね、中華街は。別世界ですね、あそこは。これは本物だなと思ってね(笑)。日本の雰囲気がしないからね。怖かったんですよ。裏で何があるかわからないというような怖さがあってね」(6)
「当時、横浜ではじまるヒット曲が多くてね。『ヨッコハマ…』で必ずはじまるでしょう。この横浜をテーマにしようと思って」(6)
「横浜は、海があって丘があってね、中華街があって、元町という特殊なお洒落な街があって、非常にエキゾティックな響きがあったんです」(6)
「それと『北京填鴨式』をくっつけて、とにかく何をやりたかったかというと、うさん臭いチャイニーズ風エキゾティックサウンドだったんで、何でもよかったんです、題材は。ごまんとあったなかから身近なものを選んだんです」(6)
「曲が先にできて、次の日までに詞を作ったんです。ひと晩で熱に浮かされたように詞を書いたんです」(6)
「とても幻想的なビジョンが僕にはあったわけです」(13)
「別にこの曲でチャイニーズ趣味はまったくなかったんだけど、でも、そうなっちゃったね(笑)」(1)
「僕はまず音楽ではカリプソ、ビジョンでは、チャイナタウンから、迷宮の楽園に、入っていったわけです」(13)

漂流記
「自分がいる東京とトロピカルな海を重ね合わせていたんでしょうね」(6)

Honey Moon
「『竹取物語』をどうのこうのということはなかったですけど。もうちょっと、なんかオカルティズムというか」(6)
「そのころは、月に人がもう行っちゃってたでしょう、アポロ宇宙船で。月の謎が明かされちャったときで、月に対 しては幻想を持っていなかったんですけど。月にとって代わるものが出てきた。円盤ですね(笑)。UFOに興味をもったころですね。第一次円盤ブームという のがあったころなんです」(6)

三時の子守唄
「とてもフォークな、フォーキーな音になっています」(13)
「これは『HOSONO HOUSE』的で、まあ安心して聴けたわけですね」(13)

田中信一の証言
「サウンド的には、あんまり変わったことはやっていないんですけどね。コンプレッサーなんかもほとんどなく、 UREI 1176が1台あるくらいのもので。そのころエフェクターで使っていたのは、茂が持っていたMXRの黄色いコンパクト・フェイザーとか、ROLANDの コーラスとか………プロ用のエフェクターなんてなかった時代だったんですよ。エコーと言ってもEMTの鉄板リバーブ140だけ。で、どうしていたかと言え ば、細野さんは、多重録音のやり方によってそれをカバーしようとしていたんですよ。ボーカルを4つ5つ細かく重ねて、サウンドに奥行きを付けようとした り。ボーカル・マイクは、NEUMANNのC269とか、87iかな。いや、SONYの37Aの真空管の音かもしれませんね。パンチ・インもかなりやって いるし、エフェクト的に音作りするために、最低ダブルは録音していましたね。やっぱり細野さんは耳がいいんですよ。巧いんです」(1)
「楽器もピアノの録りに苦労した覚えがあります。例えばリトル・フィートのビル・ペインのピアノなんかを参考に 聴いていましたが、あれ、キャンキャンな音ですよね。アメリカの乾いた空気の音。それを出すために、クラウンが買ったばかりのSTEINWAY B typeのピアノをほとんど壊しちゃいました(笑)。どうしてもクラシックのピアノだから音が甘いんですよ、新品だったから鳴りもあまり良くない。だか ら、2晩か3晩かけて調律師の方と一緒にいろんな音源を聴きながら、ハンマーを平らに削って(笑)。それから、FENDER Rhodesの音も、「カキーン!」って感じでしょ。あれは、普通にラインで録ってもあんな音にならない。結局、ピックアップからダイレクトに録って、グ ラフィックEQで4kHzと8kHzをフルテンにして作り込んでいましたね。16dBくらい上げていたから、もはやアタックだけの音。それにコーラスをか けたいから、そのままコンパクトのMXRのコーラスに入れて、ステレオに戻して。でもピックアップから直だとレベルが足りないんですよ。だから1度卓の ヘッドアンプで上げて使っていました。それが微妙なバランスだから、よく卓で歪みましたよ。『トロピカル〜』をよく聴くと、結構1音1音歪んでいたりする んですよ。もちろん当時はレベルを上げてコンプをかけるっていう発想ではなくって、仕方なくやっていただけなんですけど(笑)」(1)
「細野さんはGIBSONのアコースティック・ギターを使ってますけど、弦を全然張り替えないんですよ。だから錆びちゃってすぐ手が痛くなる。でも巧いんですよ。全然響かない弦なのに、あの味を出せる。それがすごくいい雰囲気になっているんですよ」(1)
「当時のクラウンのスタジオは、TRIDENTの卓だった」(1)
「これはアンバランスの卓なんですよ。それで音がよかったのかもしれないけれど……どうかな(笑)。アンバラだ からスイッチ・ノイズが入るんですよ。EQのスイッチを入れただけでも『バリッ!』ていうし。よく効くEQでしたけどね。あとこの頃の作品で良かったの は、マスター・レコーダーがSTUDER C37っていう名機だったんですよ」(1)

南こうせつの証言
 絹街道
「細野さんって、レコーディングするのに、お酒飲んで、椅子にすわって、ハンドマイクで歌ってんのね」(10)
「ガラス越しにそれを見ててね、あの人なにをやってんだろうと思ったんだけどね、それがすごくいい声になってる のね。それにバック・コーラスが『ホイヤー、ホイヤー』って調子よく入るんで、こりゃあ仲間に入らなくちゃまずいと思ってね(笑)。それで許可なしに押し かけて行ってサ、『ホイヤー、ホイヤー』をやらせてもらったわけよ(笑)」(10)


1975/06/25 ガロ『吟遊詩人』発売。
bass
大野真澄の証言
「ベースの細野晴臣とドラムスの原田裕臣以外は若手の起用となった。」(37)
「伊藤銀次、大貫妙子、そして『個人的メッセージ』のコーラス・アレンジに山下達郎。アレンジャーには、元 フォー・ジョー・ハーフのキーボーディストで、アレンジャーとしては走り始めたばかりの松任谷正隆を起用することになり、今まで(編注:ガロの)3人が 培ってきたサウンドとは少々異なるが、新たなるチャレンジとして新鮮さを感じさせるシャレたサウンドで、作品としても重量感のある力強いものになった。」(37)

※編注:細野晴臣は寺尾次郎とともにベーシストとしてクレジットされている。参加曲は特定不能。


1975/06/29 15:00 FM東京『DENON ライブ・コンサート』放送。
出演:ゴダイゴ
小坂忠、吉田美奈子&ティン・パン・アレー 小坂忠(vo)、吉田美奈子(vo, cho)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、林立夫(ds)、佐藤博(kbd)、ジョン山崎(kbd)、浜口茂外也(perc)
 夢を追って
 ゆうがたラブ
 機関車
 ふうらい坊
 Bye Bye Baby
 しらけちまうぜ

1975/07/03 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。芝/郵便貯金ホール。
曲目不明

1975/07/06 テレビ神奈川『ヤング・インパルス』放送。
細野晴臣+トロピカル・ダンディーズ 細野晴臣(vo, g)、鈴木茂(g)、林立夫(ds)、佐藤博(kbd)、駒沢裕城(pedal steel)、後藤次利(b)、浜口茂外也(perc)
 Chattanooga Choo Choo

 熱帯夜

 Hurricane Dorothy

 北京 Duck

 絹街道

 "Sayonara", The Japanese Farewell Song

1975/07/15 南こうせつ『かえり道』発売。
僕のこの足がも少し長ければ:arrangement, bass, a.guitar, marimba
昨日にさようなら:bass
海になりたい:bass
マイ ダーリン:bass
「面白かったよ」(10)
「すごくノッたもん」(10)

南こうせつの証言
「僕は前々からハッピーエンドのファンだったし、細野さんとも会いたいなと思ってたの」(10)
「同じレコード会社になって、話すチャンスもできたわけ。それとひとりになって、もうひとつ超えた音楽をやりたくなってね、そこで絶対にティン・パン・アレイしかないんじゃないかって思って、協力してもらったんだけど、やってよかったね、僕はすごく収穫があったし」(10)


1975/07/18 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。和歌山県民文化会館大ホール。
曲目不明

1975/07/03 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。大阪/毎日ホール。
曲目不明

1975/07/20 『ライトミュージック』8月号(ヤマハ音楽振興会)発売。
エッセイ/オレにはじまるロック史
レコード評/ユーグ・オーフレイ『ニコール』、ハービー・マン『ディスコティック』、
      VA『モア・アメリカン・グラフィティ』、ザ・ウェイラーズ『キャッチ・ア・ファイヤー』、
      ニール・ヤング『今宵その夜』
※編注:「オレにはじまるロック史」では、エッセイの他に細野が影響を受けたレコード17作品をコメント付きで紹介。なお、エッセイの部分は「Hosono House」と改題され、エッセイ集『地平線の階段』(八曜紗/1979年)に収録された。

1975/07/21 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。高知/高新ホール。
曲目不明

1975/07/22 『guts』9月号(集英社)発売。
対談/トーキョーに音楽を お盆にはお経を 南こうせつ × 細野晴臣

1975/07/22 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。金沢市観光会館。
曲目不明

1975/07/23 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。高岡市民ホール。
曲目不明

1975/07/24 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。大阪/中ノ島中央公会堂。
出演:鈴木茂&ハックルバック

ティン・パン・アレー 小坂忠(vo, cho)、吉田美奈子(vo, cho)、細野晴臣(b, vo)、林立夫(ds)、鈴木茂(g)、ジョン山崎(kbd)、佐藤博(kbd)、浜口茂外也(perc)、林敏明(ds)*、田中章弘(b)*
 夢を追って
 Rainbow Sea Line
 (instrumental)
 ゆうがたラブ
 機関車
 ふうらい坊
 氷雨月のスケッチ
 絹街道
 ほうろう
 Bye Bye Baby
 しらけちまうぜ
 からす〜ゆうがたラブ *


1975/07/25 風コーラス団『愛色の季節』発売。
君は飛べるよ:arrangement, bass
リンドン:compose, words, arrangement, bass
そこはいつしか円の中:arrangement, bass
扇の音:arrangement, bass
ロココの風車:arrangement, bass
愛色の季節:arrangement, bass
僕と魔法使いのおばあさん:arrangement, bass
夏の光の中で:arrangement, bass

1975/07/25 西岡恭蔵『ろっかばいまいべいびい』発売。
ろっかばいまいべいびい:compose, words, arrangement, wood bass, a.guitar
今宵は君と:arrangement, bass, a.guitar, flat mandolin, percussion
3時の子守唄:compose, words, arrangement, bass, a.guitar
ピエロと少年:arrangement
夢の時計台:arrangement, piano

1975/07/25 長谷川きよし『街角』発売。
横須賀ブルース:bass
旅立つ秋:bass
どうしてあの日:bass
巡礼者:bass
もう飽きてしまったII:bass

1975/07/25 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。名古屋勤労会館。
曲目不明

1975/07/29 『ファースト&ラスト・コンサート』出演。山形県民会館。

小坂忠の証言
「長いツアーは消耗も激しかった。人間関係が次第に崩れていった。日本のロック史における重要性は別にして、僕にとってはファースト&ラストツアーは最悪だった。ステージ立つことが嫌でたまらなかった。メンバーの誰とも心を開けない。会話ができない。」(29)
「音楽を楽しめないのが一番嫌だった。自分の歌に自身が持てないのはもっと嫌だった。そんな気持ちをミュージシャンにもスタッフにも話せなかった。」(29)


1975/08/02 空路ハワイに出発。

1975/08 夕焼け楽団のレコーディング。ハワイ。

「マーティン・デニーを再認識してから行くと、ハワイの見え方が違って来たんです。昼間はビーチ、夕方はスタジオ の繰り返しで、1ヶ月くらい滞在したこともあって、不思議なことがたくさん起こった。まず、アラモアナ・ショッピング・センターの花壇に腰掛けて花を触っ ていると、二人の日系人が左右からやって来て、カタコトの日本語で"すぐ手を洗ってくれ、ハワイの植物は毒が強い"って。やっぱり自然が強いんだと思う よ。僕は元々ムチ打ちのせいで肩こりがひどいんだけど、ハワイに居ると治るんだ。足の裏から毒が出てハワイの土が吸ってくれるのが体で分かる(笑)」(18)
「東京を離れて最初の変化はハワイに着いて三日目に現われた。ここの磁力は三日で効力を及ぼしはじめる。する と、その磁場の力によって太陽の中にある得体の知れない成分が体に蓄積されはじめ、やがて『足』にたまるのだ。この時『足』は"熱すぎず、ぬるすぎず"と いう程度にホカホカとした状態で、そこで和らげられる血液がその後全身に回りはじめ、最後にとうとう脳に到達」(3)
「これを『ハワイづけ』とでも銘うとうか」(3)
「食事はチャイナタウンへ行くことが多かったんだけど、ひいきにした中華屋の隣にアンティークショップがあって、ショウウインドウに沖縄の三線に似た楽器が飾られていた」(18)
「変な楽器で、三味線じゃないんです。テナー・ウクレレぐらいの大きさでギターの形をしてるんですけど、弦は三 本。カントリーで使うドブロっていう楽器があるでしょ。あれのようにバンジョーの皮みたいなのがギターの真ん中に張ってある。その皮がヘビの皮なんです ね。不思議なんです。蛇皮線のような、ドブロのような……。『この楽器は何だ』と中華街のおっちゃんに聞いたんですよ、売ってる親父に。そしたらサンシン だって。サンシンって沖縄の三味線のことなんですけどね」(6)
「ハワイは昔メキシコからの移住者が多くて、牧場をやってたりして、メキシコ系のカウボーイがいたんですよね。何かそこらへんの関係があるのかもしれない。不思議なもんです」(6)
「結局、買って帰って、『泰安洋行』で使ったよ」(18)
「ちょうど僕がマーティン・デニーのエキゾティック・サウンドにいかれていた頃なので、絶好のチャンスとばかり、その手のレコードを島中から買い漁って来たものである。」(3)
「久保田君たちとマーティン・デニーの中古盤を全部買いあさったんだ、ハワイ中を回って。二十五セント盤っていうやつ」(6)
「ハワイ中のレコード屋をしらみつぶしに」(3)
「僕たちが全部買っちゃったから(笑)。掃除して帰ったっていわれているから。ぼろぼろのレコードですよ。みんなよっぽど聴いてたんでしょうね。二十五セントですから」(6)
「クズのようなレコード」(3)
「おそらくこんなレコードを買う客はよほどの音痴か変人ぐらいに思われたのではないだろうか。」(3)
「ハワイのレコード店は思わぬ大掃除ができてさぞかし喜んだことだろう。」(3)
「メンバー同士の会話はというと、ハワイなまりの英語と山口弁、そして関西弁をチャンポンにしたものがごく自然に、当たり前のごとく交わされていたのである。」(3)
「この時の僕の感じを知りたければ、久保田麻琴と夕焼け楽団のLP『ハワイ・チャンプルー』の中に入っているメンバーの写真を見ていただければおわかりになると思う。」(3)
「だが、それも日本へ行く機内で、日付変更線を越えた時点ではまた日本の標準語に戻ってしまっていた」(3)

※編注:アルバム『ハワイ・チャンプルー』のセッション。


1975/08 帰国。

「ハワイから見る日本は摩訶不思議な様相を呈していて、LAからでは見えなかったイメージを感じることができるの だ。そう、ハワイはプラスとマイナスの中間の位置にあるのかもしれない。ここから見ると、アメリカも良く見えるし、日本もまた然り、両方ともとても面白く 目に映り、どちらにでも人を行きたくさせる場所なのだ。ただし、ハワイには一ヵ月もいれば十分だ。世界中のあちこちが良く見えてくるので、一ヵ月もすれば 他の所へ行きたくなってしまうからだ。」(3)
「僕は日本へ来たのだ。まさにそれは来たのであって、帰ってきたのではなかった。」(3)
「初めて見る東洋の中の滅茶苦茶な国際都市。東洋人がはいずりまわる東京の光景はあまりにも面白く」(3)
「忘れることができないし、この時、僕の飛翔も頂点に達していたのだった。」(3)


1975/08/21 センチメンタル・シティ・ロマンス『センチメンタル・シティ・ロマンス』発売
sentimental romantist(=produce)
ライナーノーツ

1975/08/25 ティン・パン・アレー、レコーディング開始。赤坂/クラウン・スタジオ。

※編注:アルバム『キャラメル・ママ』のセッション。


1975/09 あがた森魚のレコーディング開始。目黒/パイオニア・スタジオ。

長門芳郎の証言
「75年の9月からはじまった」(38)

※編注:アルバム『日本少年』のセッション。


1975/09/13 14:00 八木康夫とミーティング。目黒/パイオニア・スタジオ。

1975/09/22 『FM fan』9月22日号(共同通信社)発売。
インタビュー/ごった煮的(?)サウンドを独創するニュー・ミュージックの第一人者

1975/10/03 あがた森魚のレコーディング。目黒/パイオニア・スタジオ。

1975/10/05 荒井由実「あの日にかえりたい/少しだけ片想い」発売。
あの日にかえりたい:bass
※編注:SideBはアルバム『コバルト・アワー』からのシングル・カット。

1975/10/06 八木康夫・西村繁男・中村征二の三人展を観覧。阿佐ヶ谷/ゴールド・ギャラリー。

1975/10/08 あがた森魚のレコーディング。音響ハウス。

1975/10/09 あがた森魚のレコーディング。音響ハウス。

1975/10/13 沢田研二のレコーディング。目黒/モウリスタジオ。
あの娘に御用心
大瀧詠一の証言
「『ナイアガラ・ムーン』で頻繁に使用していたリズム・ボックスを使用、ドラム抜きで細野・茂・松任谷でベース・ギター・ピアノの音を先に録音。それに林立夫が後でドラムをダビングするという変則レコーディングでした。」(25)
「コーラスは大瀧と山下達郎。サックスは稲垣次郎。」(25)
「録音は『風街ろまん』から<はっぴいえんど>のホーム・グランドとなっていたモウリ・スタジオで、エンジニアはこれまた『風街』からのスタッフ・吉野金次。」(25)

1975/10/14 あがた森魚のレコーディング。目黒/パイオニア・スタジオ。

1975/10/15 あがた森魚のレコーディング。目黒/パイオニア・スタジオ。

1975/10/16 あがた森魚のレコーディング。目黒/パイオニア・スタジオ。

1975/10/17 あがた森魚のレコーディング。目黒/パイオニア・スタジオ。

1975/10/18 あがた森魚のレコーディング。板橋/志村小学校。

1975/10/20 あがた森魚のトラック・ダウン。目黒/パイオニア・スタジオ。

1975/10/21 五輪真弓『Mayumity うつろな愛』発売。
十九歳の時:bass

1975/10/21 あがた森魚のレコーディング(SE)。日本フォノグラム。

1975/10/22 あがた森魚のトラック・ダウン。目黒/パイオニア・スタジオ。

1975/10/24 あがた森魚のトラック・ダウン。目黒/パイオニア・スタジオ。

1975/10/25 吉田美奈子『MINAKO』発売。
わたし:bass
※編注:その他の参加曲は特定不能。クレジットにおける細野晴臣の担当楽器にはアコースティック・ギターも記載されている。

1975/10/25 『トロピカルコンサート』リハーサル。

1975/10/26 『トロピカルコンサート』リハーサル。

1975/10/27 『トロピカルコンサート』リハーサル。

1975/10/28 18:30 『トロピカルコンサート』第一夜。目黒区民センター。
ゲスト:久保田麻琴

細野晴臣 細野晴臣、鈴木茂、矢野顕子、駒沢裕城、平野融、国吉征之、桑名晴子、一色真由美、リンダ・ヘンリック
 曲目不明

「なんかやったよね」(12)
「2日間やったの」(1)
「トロピカル気分でぼく自身は気持ちがいいんだけど、それを人に伝える元気というか、自信がない。みんながわかってくれると思わなかったので、謝りながらステージをやってたの」(1)
「特に後半のトロピカル・コーナーはみんなピンときてなかったと思うよ」(1)
「このコンサートのポスターには"合い言葉はチャンプ"って入れたの。他にもチョップとかチャンコとかキーワードをね。『蝶々-San』もこの時は『チョウ・チョウ・チョップ』とか言ってたな」(1)

※編注:CD『HOSONO BOX 1969-2000』(リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年)同梱ブックレットP.15および『Harry Hosono Crown Yeras 1974-1977』(日本クラウン/2007年)同梱ブックレットP.51にコンサートのフライヤー図版が掲載されており、「合言葉はチャンプ!!」のコピーも確認できる。


1975/10/29 18:30 『トロピカルコンサート』第二夜。目黒区民センター。
ゲスト:センチメンタル・シティ・ロマンス

細野晴臣 細野晴臣(vo, pf etc.)、鈴木茂、矢野顕子、駒沢裕城、平野融、国吉征之、桑名晴子、一色真由美、リンダ・ヘンリック
 パーティー
 ろっかばいまいべいびい
 他

※編注:この日のステージの一部は、CD『HOSONO BOX 1969-2000』(リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年)Disc4で聴くことができる。

1975/10/29 21:00 『トロピカルコンサート』打上げ。

1975/11/01 久保田麻琴と夕焼け楽団『ハワイ・チャンプルー』発売。
Steel Guitar Rag:produce, drums
Moonlight Hula:produce, drums
Walk Right in:produce, new orleans rhythm
初夏の香り:produce
ハイサイおじさん:produce, drums
いつの日おまえは:produce, drums
San Francisco Bay Blues:produce, drums
上海帰り:produce, drums, marimba
国境の南:produce, bass
Bye Bye Baby:produce, drums
Oh Senorita:produce

1975/11/01 あがた森魚のトラック・ダウン。目黒/パイオニア・スタジオ。

1975 鈴木慶一のレコーディング。赤坂スタジオ。
火の玉ボーイ
酔いどれダンスミュージック
鈴木慶一の証言
「ティン・パン・アレーのセッションはディレイのある赤坂スタジオで録った。ギターはなぜか徳武。『火の玉ボーイ』と『酔いどれダンス・ミュージック』を録った」(38)
「『火の玉ボーイ』に時間をかけ過ぎた。2曲ともヘッドアレンジに近いものでしたが、『火の玉ボーイ』のほうが、セッション的に仕上げ易かった。そうとも言えるでしょう。」(39)
 火の玉ボーイ
「ティン・パン・アレイの3分の2かなあ、のメンバーと旧知の駒沢裕城、徳武弘文の鬼気迫る演奏です。途中確 か、久保田麻琴さんが見学にきました。東京シャイネスボーイの私は、やけに緊張感を持ってディレクションした記憶があります。火の玉ボーイは細野さんで す。東京シャイネスボーイが私らしいという事のお返しの意味も込めて。ホーンセクションは、そろそろ撤退しかかっていた、アグネス・チャンのバッキング、 そこでずっと一緒だった麻生さんのグループです。記念です。」(39)
 酔いどれダンスミュージック
「はちみつぱいのシングルのB面の曲の録り直しだった。ファンクなリトル・フィート的なサウンドでやりたかったけど、駒沢くんがこの曲でもスティール・ギターを弾いて、やけにカントリーなサウンドで、まとまんないまんま、時間切れになった」(38)
「仮歌のボロボロな事、アレンジにヴォーカルが合ってない。歌詞も出て来ないし、かなりビビってる。それは、このセッションの終わりの時間が近づいてたんですね。」(39)
「さすが素晴らしい演奏ですが、アウトテイクになってしまいました。」(39)
「悩んだんだよ。ティン・パン・アレーで録っておきながら、ボツにするのは、もったいないような気もするし。でも結局、申し訳ないけどボツにした(笑)」(37)

※編注:鈴木慶一が『ロック画報』06(ブルース・インターアクションズ/2001年)における長門芳郎との対談 の中で「指示出したのは『日本少年』がはじめてだった。『日本少年』で学習して、その勢いで『火の玉ボーイ』でも指示を出した」と語っていることから、 セッションの時期を暫定的にあがた森魚のレコーディング終了後とした。なお、このセッションでレコーディングされた「酔いどれダンスミュージック」は、再 発版『火の玉ボーイ』(イーストウエスト・ジャパン, ドリームマシーン/2001年)に収録された。


1975/11/04 空路、アメリカ/ロサンゼルスに出発。

1975/11 高田渡のレコーディング。ロバート・グリニッジのスティール・ドラムに衝撃を受ける。ロサンゼルス/サンセット・サウンド・レコーダーズ。

「ワタルとのセッションは、初めのうちは東京でやっているのと何ら変わることなく、平穏無事のうちに過ぎていった。ところが予感していたとおり、来るべき日が来てしまったのである。それはヴァン・ダイク・パークスが来た日のことだった。」(3)
「ワタルさえよければ、すぐにセッションは始まる。そして、ワタル氏もOKしたのだった。」(3)
「このセッションで、狂気じみたヴァン・ダイクの説教を聞かされはしたものの、その説教のバック・グラウンド・ミュージックとして"天国からの調べ"がスタジオ中に響きわたっていたので僕らは皆そちらのほうに気を取られていた」(3)
ロバート・グリニッジ。」(3)
「その天国の調べとしか思えないような甘い響きこそ、R・グリニッジがスティール・ドラムをただ"チューニング"しているだけの音だったのだ。これには僕も驚かされた。」(3)
「スティール・ドラム・ソロを聴いたんです。もう、びっくりしちゃって」(40)
「確か、ドビュッシ−か何かを弾いてたんですけど」(40)
「ハープのような音がしました」(40)
「彼はアルトとテナー、二つのドラムカンを並べ、ブースの中でキョロキョロしながら、しかし、手だけは綿アメ屋のオッサンがやるようにドラムカンの上をはいまわり、かきまぜているのだった。これがまた確実にノートをとらえているのだ。」(3)
「どういう回路で、あのバラバラしたものの中からメロディーを作るのか全然わからなくて」(40)
「見て、聞いて、これほど摩訶不思議な楽器もないだろうが、その時はただただ感動していた。」(3)
「ヴァン・ダイクの天才とは、その天才の質が見事に違うことを二人を見くらべていて感じた。その印象はナチュラルなものとプラスティックなものの違いだ。」(3)
「ロバートは音楽を考えない。歩くのと同じシステムで音を出す。」(3)
「譜面は要らない人だと思ったんです」(40)
「彼自体が完全に楽器で、ドラムカンはそれを表わす手段に過ぎない。この考えはあとから思いついたものではな く、その時の直感として入ってきた彼の強い印象だった。多分、言葉を覚え始める頃からスティール・ドラムを叩いていたのに違いないと思うが、音楽教育も受 けていないはずの一介のドラムカン奏者から、これほどの衝撃を与えられようとは思ってもみなかった。つまり、自分を含めた日本人の音楽をあらためてその時 考えざるを得なくなったのだ。」(3)
「ラテン音楽はもちろんのこと、クラシックからブルースに至るまで、彼の耳に入ってきた音楽は全て、彼のスティール・ドラムを通して空間に甦ってくるのだ。僕は正直に彼を師とあおぎたいと思った」(3)
「スティール・ドラムをひとつ頼んだんですよ」(40)
「ヴァン・ダイクは僕にこう言ったんです」(40)
「スティール・ドラムを注文した時、『アメリカの民族楽器を持ち出すな』と」(40)


1975/11/21 アメリカからの帰国途中、ハワイに立ち寄る。

1975/11/22 ホノルル滞在。

1975/11/23 帰国。

1975/11/25 ティン・パン・アレー『キャラメル・ママ』発売。
Caramel Rag:produce, arrangement, bass, chorus
月にてらされて:bass
Choo Choo Gatta Got '75:produce, compose, words, arrangement, bass, vocal
ソバカスのある少女:bass
Jackson:bass
Yellow Magic Carnival:produce, compose, words, arrangement, bass, steel drums, xylophone, e.guitar, vocal
Ballade of Aya:produce, compose, arrangement
「サクッと作った」(12)
「そんなに思い入れはないんだよね。こういう作品にはね」(12)
「幸いにして3万枚くらい売れて成功した。そのときに、これは可能性がある、そろそろこういう音楽も聴かれ始めたんだ、と思ったわけ」(41)

Caramel Rag
「松任谷正隆くんのピアノをフィーチャーした曲でした」(22)

Choo Choo Gatta Got '75
三木鶏郎の『冗談音楽工房』を子供のころラジオで聴いてて、汽車の冗談音楽があったんです。『東京、大阪、ウーウーウー、ポッポ』っていうの。その引用です。『僕は特急の機関士で』というタイトルで、さびがそれ。楠トシエが歌ってたのかな」(6)
「(編注:最後に地名を読み上げるのは)山下達郎のアドリブです。なぜか山下達郎と大貫妙子が入っていて、そんなことやってるんですね。シティ・ボーイ、シティ・ギャルが入っているんですよ」(6)

Yellow Magic Carnival
「"イエロー・マジック"という言葉を初めて使った曲。当時、サンタナの曲に『ブラック・マジック・ウーマン』 というのがあったけど、"ブラック・マジック"っていう言葉だけ、聴き慣れないので気になっていた。その頃、魔術は好きだったの(笑)。しかし、"黒と白 "という西洋の分け方に日本人は入れない、と思ったわけ。特に音楽やってる僕の場合、西でも東でもない状態に片足突っ込んでいる真っ直中なんで、じゃあ、 自分はどこなのか、と悩んだな。すると、子供のときのいろんなことが思い出されてきたんだ。小学校3、4年の頃の、西遊記が原点だったぼくをね。それに杉 浦茂の西遊記のマンガも蘇ってきた。西遊記には黄魔大王というのも出てきたなぁ、なんてことを思い返して、黄色いイメージが頭に浮かんだ。黄魔術。タオイ ズム的な、西遊記的な感じ。『そうだ。イエロー・マジック!』だとね」(1)
「南京街というのは迷宮のシンボルなんです。あるいは無限のシンボルといっても、どっちでもいいんですけど。モ デルになった女の子はいたんです。トンチンカンな目の。僕の偏った自我を解放してくれるような重要な人だったんです。その子が、そのころの僕にとって現実 的なシンボルでもあった。摩訶不思議な存在だったんです。そういう人と出会ったことも非常に影響あって」(6)

田中信一の証言
 Yellow Magic Carnival
「初めてスティール・ドラムを録りました。小さいヤツでオモチャみたいなものだったから、チューニングがあんまり良くないんですよ。でもこの音は、本当に綺麗でしたね」(1)


1975/12/01 ナイアガラ・トライアングルのレコーディング。福生/FUSSA 45スタジオ。

※編注:「幸せにさよなら」シングル用のオーヴァー・ダブと推測。


1975/12/04 『ティン・パン・アレー3DAYS』出演。下北沢/ロフト。

1975/12/05 あがた森魚・大瀧詠一『僕は天使ぢゃないよ』発売。
ハムレットのテーマ:bass
愛のテーマ:bass
一郎のテーマPart2:bass

1975/12/05 『ティン・パン・アレー3DAYS』出演。下北沢/ロフト。

1975/12/06 『ティン・パン・アレー3DAYS』出演。下北沢/ロフト。

1975/12/12 19:00 『ティン・パン・アレー presents 細野晴臣/ムーンライダーズ』。青山/VAN 99ホール。

1975/12/14 下北沢/ロフトに出演。

1975/12/16 『トロピカル・ムーン・コンサート』出演。横浜市民会館。
出演:大滝詠一、シュガーベイブ、南佳孝

細野晴臣 細野晴臣(vo, g?)、かしぶち哲郎(ds)、平野融(b)、矢野顕子(pf)、駒沢裕城(steel.g)、国吉征之(flute)、野口明彦(perc)、井上憲一(g)
 熱帯夜
 ボレロ(メンバー紹介)
 ハリケーン・ドロシー
 "Sayonara", The Japanese Farewell Song
 つめたく冷して
 蝶々チョップ
 イエロー・マジック・カーニバル
 絹街道
 北京ダック


1975/12/21 沢田研二『いくつかの場面』発売。
遥かなるラグタイム:bass
あの娘に御用心:bass

1975/12/23 ムーンライダーズとリハーサル。赤坂/クラウン・スタジオ。

1975/12/25 ムーンライダーズとリハーサル。赤坂/クラウン・スタジオ。

1975/12/26 広島で開催されたコンサートに出演。
出演:ムーンライダーズ、ハックルバック

<出典>
(1)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(2)『ロック画報』14 ブルース・インターアクションズ/2003年
(3)細野晴臣『地平線の階段』 八曜社/1979年
(4)『PAPER SKY』no.16 ニーハイメディア・ジャパン/2006年
(5)『ミュージック・マガジン』11月号 ミュージック・マガジン/2007年
(6)北中正和編『『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(7)J-WAVE『Daisyworld』 2000年5月8日
(8)『天使館』0号 おきなわ情報/1992年
(9)『詩の世界』12号 詩の世界社/1978年

(10)『guts』9月号 集英社/1975年
(11)パチパチ8月号増刊『パチパチ読本』NO.3 ソニー・マガジンズ/1991年
(12)CD『HARRY HOSONO Crown years 1974-1977』同梱ブックレット 日本クラウン/2007年
(13)J-WAVE『Daisyworld』 2000年4月24日
(14)久保田麻琴『世界の音を訪ねる』 岩波新書/2006年
(15)萩原健太『はっぴいえんど伝説』文庫版 シンコー・ミュージック/1992年
(16)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(17)『ユリイカ 詩と批評』9月号 青土社/2004年
(18)『PAPER SKY』no.14 ニーハイメディア・ジャパン/2005年
(19)『ユリイカ 詩と批評』8月号 青土社/1997年
(20)『ヤング・ギター』7月号 シンコー・ミュージック/1975年
(21)J-WAVE『Daisyworld』 2001年6月18日
(22)J-WAVE『Daisyworld』 2000年5月1日
(23)CD Niagara CM Stars『Niagara CM Special』ライナー・ノーツ ソニー・ミュージックエンタテインメント/1995年
(24)『レコード・コレクターズ』4月号 ミュージック・マガジン/2005年
(25)CD V.A.『Song Book II 大瀧詠一作品集 Vol.2(1971-1988)』ライナー・ノーツ ビクター・エンターテインメント/1995年
(26)CD 村井邦彦『COMPOSITIONS』同梱ブックレット FOAレコード/2005年
(27)『ライトミュージック』5月号 ヤマハ音楽振興会/1975年
(28)『レコード・コレクターズ』10月号 ミュージック・マガジン/2001年
(29)小坂忠『まだ夢の続き』 河出書房新社/2006年
(30)『ミュージック・マガジン』8月号 ミュージック・マガジン社/1975年
(31)LP  センチメンタル・シティ・ロマンス『SENTIMENTAL CITY ROMANCE』ライナー・ノーツ CBSソニー/1975年
(32)CD センチメンタル・シティ・ロマンス『GOLDEN☆BEST』ライナー・ノーツ ソニー・ミュージック・ダイレクト/2005年
(33)『ライトミュージック』8月号 ヤマハ音楽振興会/1975年
(34)CD 大滝詠一『Niagara Moon』ライナー・ノーツ ソニー・ミュージックエンタテインメント/1995年
(35)J-WAVE『Daisyworld』 1999年2月8日
(36)『ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1968-1980』 音楽出版社/1999年
(37)CD ガロ『GARO』ボックス・セット 同梱ブックレット ソニー・ミュージック・ダイレクト/2006年
(38)『ロック画報』06 ブルース・インターアクションズ/2001年
(39)CD 鈴木慶一とムーンライダース『火の玉ボーイ』ライナー・ノーツ イーストウエスト・ジャパン, ドリームマシーン/2001年
(40)細野晴臣責任編集『H2』 筑摩書房/1991年
(41)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
update:2019/09/08

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