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chronology 1974


1974/01/10 『ホーボーズ・コンサート』出演。池袋/シアター・グリーン。
出演:西岡恭蔵

細野晴臣 (g, pf, vo)
 曲目不明


1974/01/14 大滝詠一のリハーサル。新宿/御苑スタジオ。
CIDER '74

1974/01/16 大滝詠一のレコーディング。ポリドール・スタジオ。
CIDER '74
大瀧詠一の証言
「ミュージシャンは林、細野、松任谷で、茂はこの時にはいなかったからかわりに銀次。これは<あつさのせい>か らの流れです。このころは複合リズムですよ。裏打ちのビート、それとパーカッションと間に打つ変形のリフ、それにオルガンなんかも入れて、コーラスがシン ガーズ・スリーと、<ジーガム>で初登場したシュガー・ベイブ」(1)
「そしてホーン・セクション」(2)
「自分としてはもう最高の布陣ですよ」(1)
「ポリドールのスタジオのエコーをリミットまでガーンと上げて(笑)。布谷文夫のレコーディングやってたから、ポリドールのエコーがいいとわかってた。これをコーラスに、っていうんであえてあそこを選んだ」(1)
「いいのが出来ました」(1)
「この『サイダー'74』のセッションはサウンド・コーラス共に第一級作品となり、まさにここで<ナイアガラ・サウンド>が一気に出来上がってしまったのでした。」(2)
「大瀧ポップスの最初の完成品です。ここに<はっぴいえんど>も、2年後の『夢で逢えたら』も、6年後の『ロング・バケーション』も、全てが含まれていると思います。」(2)
「終わったあとに細野さんが、出来たね、って言ってくれて。俺もやったなと思ったし」(1)
「シングル盤、行きましょうよと」(1)
「『サイダー'73/'74』のカップリングでCMのレコードを出してくれる会社を探すことになります。」(2)

1974/01/24 大滝詠一のレコーディング。ポリドール・スタジオ。
CIDER '73
大瀧詠一の証言
「『サイダー'74』と同じメンバーで」(2)
「バス・ボイスにブレッスン・フォーのメンバーも加えて『サイダー'73』のロング・バージョンを録音」(2)
「これもまた『サイダー'74』に匹敵する出来」(2)
「なんで長くしたのか。レコード化を前提にしてたからですよ」(1)
「(レコードを)出すものだと思ったから(録音メンバーは)彼らを使ったわけですよ」(1)
「ところがこの74年当時、どのレコード会社も『CMなんか売れるワケがないし、どこも出すところはないだろう。ましてや商品名入りなんてもってのほか』と取り合ってくれませんでした。」(2)
「これがまた世に出ないということでずいぶんなフラストレイションになった」(1)

1974/01 喜多嶋修のレコーディング開始。渋谷/ヒット・スタジオ。

編注:レコーディングは同年8月にかけて行われており、細野晴臣の参加曲「天狗」の録音時期は不明。


1974/02/03 キャラメル・ママ、アグネス・チャンのレコーディング。目黒/毛利スタジオ。

「松本(編注:隆)経由で」(3)
渡辺プロ木崎(編 注:賢治)さんという人は、テイクをいっぱいやるタイプのプロデューサーだ。彼の場合、アレンジや構成ができていても、スタジオに入ってから、もう1歩 つっこんでトライしようとするわけ。違うタイプのテイクも録って、それを聴きくらべてみたりする。こういう場合、ミュージシャンには演奏力のほかに、忍耐 力も要求される」(4)

松本隆の証言
「吉野金次さんが、この頃、アグネスをやっていて、(編注:はっぴいえんどが)解散した頃、コマーシャルの詞を書かないかって言った。ぼくはCMソングだと思ってOKしたら、商業的な詞って意味でアグネスだった」(5)
「オケがキャラメル・ママだったのも、偶然だった。仕掛けたのは吉野さんだと思うけど」(6)

松任谷正隆の証言
「当時は、歌謡曲のアレンジはすべて書き譜でなされていて、数人のアレンジャーが少ないスタジオ・ミュージシャ ンを使って録音していた。僕が歌謡曲の世界に初めて触れたのはアグネスの録音に参加した時だったけど、それが、書き譜だけではないバンド・サウンドという ものが、フォーク以外の世界(歌謡曲)から出て行った最初だったと思う」(3)
「文句言いながらやった」(7)


1974/02/19 ファッツ・ドミノ来日公演を観覧。大瀧詠一、松本隆、鈴木茂に遭遇。中野サンプラザ。

八木康夫の証言
「はっぴいえんどのメンバー全員が解散後に初めて揃ったらしくて、ロビーで『やあやあ』なんてやっていた」(8)


1974 遠藤賢司のレコーディング。

※編注:アルバム『KENJI』のセッション。遠藤賢司のオフィシャル・サイトにおける年表によると、レコーディングは2月25〜27日、3月1、27日に行われたようだが、細野晴臣が参加した「星空のワルツ」の録音日は特定できない。


1974 キャラメル・ママ、雪村いづみのレコーディング。

アルファから"服部良一雪村いづみティン・パン・アレーを結びつけたアルバムを作りたい"という話がきて」(9)
「服部良一の音楽は僕の親の世代の音楽」(9)
「村井邦彦の発想だね。僕らは請負人という」(3)
「それが服部良一を聴いたきっかけですね。その時、服部良一の音楽を再発見した。日本の音楽には古賀政男と服部良一のふたつの大きな流れがある、と。でも、日本の風土の中ではやっぱり古賀政男の音楽が支配的で、服部良一は少数派。服部良一さんの音楽はどこか大地に根を張れないところがあって、そこがとてもお洒落で刺激的な部分でもあるんですけど、そういう意味では自分は服部良一の方に属する音楽家だな、と感じました」(9)
美空ひばりの『りんご追分』を聴くと、アレンジがかなり高度でジャズ的で素晴らしいと思うんですけど、あの当時はわかんなかったんですよね。当時は、やはり違和感があった」(9)
「服部良一さんの曲は現代的なビートに置き換えてやろうとすると、難しい点がいっぱい出てくるんですよね。小節のコードの変わり具合が変だったり、ロックではできない変な拍子になったりとか」(9)
「だから服部さんの曲はね、アレンジがすごく難しいんですよ」(9)

林立夫の証言
「お題として非常にやりがいのある仕事でしたね。どう解釈するかっていう意味でね」(3)


1974/03/15 『ライトミュージック』4月号(ヤマハ音楽振興会)発売。
寄稿:ビートルズを内包するロックの歴史=ビーチ・ボーイズ  LPにみるビーチ・ボーイズの歩み
アンケート:ポール・サイモン大特集
※編注:ポール・サイモン大特集は間近に迫った来日公演に合わせたもの。アンケートでの「コンサートには行きますか?」という問いに細野晴臣は、「必ず行く」と回答している。ポール・サイモンの東京公演はこの年の4月9、10日、日本武道館で行われた。

1974/03/25 あがた森魚『噫無情』発売。
永遠のマドンナK:bass
キネマ館に雨が降る:bass
元祖ラヂヲ焼:bass
大寒町:bass, guitar

1974/03/25 アグネス・チャン『アグネスの小さな日記』発売。
想い出の散歩道:arrangement, bass
ポケットいっぱいの秘密:arrangement, bass
さよならの唄:arrangement, bass, malimba

1974 キャラメル・ママ、南沙織のレコーディング。筒美京平と初対面。目黒/モウリ・スタジオ。

「ごく普通にセッションの仕事として、キャラメル・ママがただ呼ばれたんです。どういう意図で僕たちを使おうということになったかは、未だに全然わからないです」(10)
「確かモウリ・スタジオでリズムだけ録ったんですよ。筒美さ んがスタジオに入っていらして、指揮されたんですよ。すごく緊張しましたね。一言もしゃべらない。いきなり入ってきて『じゃあ、始めます』っていうこと で。ベースの譜面があって、全部音符に書かれてました。それ以前にいわゆる書き譜のプレイはあんまりしてなかったけど、幸い少し読めたし当時のベ−スだか ら、わりとわかりやすかったんですね」(10)
「でも、とにかく緊張しましたよ。その時のプレイが気に入られたのかどうかは全然わからなくて(笑)。ほんとに 話は全然してないんです。それが初対面というか、こっちはミュージシャンですから、対面したという感じよりも『見た』という感じですね(笑)。指揮された というか。緊張したことだけはよく覚えてるんだけど(笑)」(10)

筒美京平の証言
「それまで使っていたミュージシャンの人達は、別に僕の曲のレコーディングだけに参加していたわけではなくて、 当時のヒット曲をみんな弾いてるような、一流ミュージシャンですよね。OKテイクを録るのも早いし、お互い慣れているから、求められている音を読み合うこ ともできる」(10)
「要するにメジャーの仕事の流れというのが、厳然としてあったんですよ。だから自分達のやっているのは、あくまで流行り歌の世界であって、マイナーの人達がやっていることがいくら新しくても、それは別のことだという意識があったんでしょうね」(10)
「でも、結局はマイナーだったものが、だんだん主流になってくるわけでしょう。だから、もう少し早く、ティン・ パン・アレーとかの人達ともっと意見交換すべきだったと気がつけばよかったんですよね。本当のサウンドというものが、どのくらい必要なのかを。ただ、その ためにはギターのフレーズから何から、一から勉強しなくちゃいけないわけですからね。ずっと本物を追求してきた人の音には、かなわないでしょう」(10)
「マイナーの人達も歌謡曲の世界を見ていて、『これだったら俺も許せる』と思ってくれたから、僕たちの仕事を手伝ってくれたんでしょうけど、その『これは許せる』が、どうして許せると思ってくれたのかが、自分ではわからなかったんですよ」(10)


1974ごろ 落合に部屋を借りる。

「狭山から東京の落合に引っ越してきたんですよね」(11)
「一応マンションと名前がついているんだけど、狭いアパートみたいなところでね」(11)
「四畳半」(12)
「6畳2間」(13)
「東京に戻ってきてキャラメル・ママの活動が活発になってきたんです」(11)


1974/04/14 FM東京で荒井由実とキャラメル・ママのスタジオ・ライヴが放送される。
荒井由実 荒井由実(vo, pf)、林立夫(ds)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、松任谷正隆(kbd)
ひこうき雲
ベルベット・イースター
返事はいらない
やさしさにつつまれたなら

キャラメル・ママ 細野晴臣(b, vo)、林立夫(ds, cho)、鈴木茂(g, cho)、松任谷正隆(kbd, cho)
ほうろう


1974/04/20 荒井由実「やさしさに包まれたなら/魔法の鏡」発売。
やさしさに包まれたなら:bass
魔法の鏡:bass, malimba

1974/04/20 16:30 『ホーボーズ・コンサート』出演。池袋/シアター・グリーン。
出演:西岡恭蔵

細野晴臣 (g, pf, vo)
僕は一寸
恋は桃色
パーティー
どろんこ祭り
Candy Man
午前三時の子守唄

北中正和の証言
「四月二十日の夕方、ぼくは西岡恭蔵と細野晴臣のステージを池袋シアター・グリーンの舞台でみていた。」(14)
「かなり遅れてそこにかけ込んだ時には、コンサートはすでに半分近くまですすんでいた。会場は、おそらく百人も の客がはいれば満員になってしまうような、こじんまりしたところだ。しかしその日は定員をはるかにはみだす聴衆がつめかけていて、客席にはいりきれない人 たちは薄暗い舞台の袖に立って見なければならなかった。ぼくもその人たちの中にまぎれこんで、舞台の上に首をのばしていたのである。」(14)
「舞台は全体に無色のライトに照らされていて、中央のマイクの前にギターをかかえた細野晴臣がすわっている。斜 め後ろから見た彼の肩に、天井のほうからおりてくるスポット・ライトの光がまぶしく当たり、そのむこうには、客席に静かにうずくまっている人たちの、暗い 顔の連なりがある。タバコの煙のせいか、ライトが少し白く濁っていて、客席と舞台との間に、薄い半透明の幕をおろしたようにみえる。」(14)
「ちょうど『僕は一寸』の演奏が終わったばかりで、落ち着いた拍手とざわめきが聞こえてくる。」(14)
「『どうも……。ギター一本なので、うまくうたえないのです』」(14)
「もうしわけなさそうな彼のお喋り。」(14)
「彼は、とてもそわそわしてみえる。歌詞を書いたノートを繰る手つきが、あわててでもいるよう、まるでおぼつかなく、さっきから何度も同じところを進んだり戻ったりしている。」(14)
「『えー……。どんどん先に行ってみたいと思います』と彼は言うが、けっして言葉どおりにすすんだわけではない。『"恋は桃色"を……』ぼそっと、曲名を告げて、うたいはじめる。」(14)
「生ギターのコードをかき鳴らしてリズムをつけただけの伴奏は、こころもちドライブ感をもっているが、ちょっと せわしなくて、単調な感じもする。でも声のほうは、ところどころ不安定になりながらも、彼自身があがっているほどには、あがっていないようなので、ぼくは ややほっとする。」(14)
「歌の演奏は次から次へと進んだ。彼の歌にはもともとそんなに長い曲はない。しかもギター一本でやっているだけなので、間奏でかせぐというわけにはいかない。曲と曲の間に、うんこを食べた男の話などはさみながら進む。」(14)
「ピアノを使う曲も二曲ほど披露した。『パーティ』と『どろんこ祭り』である。」(14)
「『どろんこ祭り』のように、彼のレコードでも聞かれない曲が始まると、こちらも緊張して聞いてしまう。」(14)
「しかし彼は一番をうたったところで、ぷつりとやめて、もうしわけなさそうにピアノから離れてしまった。自分の 指を見ながら、『あがってしまってカチカチで動かないんです』とぼそぼそわびている。ピアノから離れてもとの席にもどった時には、ギターのふちで、自分で 置いておいたコーラの瓶を倒してしまった。」(14)
「他にもこの日は、ドノヴァンの『キャンディ・マン』やまだ未完成の『午前三時の子守唄』をはじめ、いくつかの他人の、あまり知られていない曲も彼はとりあげてうたった。」(14)

八木康夫の証言
「西岡恭蔵と細野晴臣の『ホーボーズ・コンサート』」(8)
「なぜか下落合の自宅までおじゃますることになった。絵を描いているなら参考になるよって、珍しい煙草のパッケージを貰いました。すごくうれしかったですね」(8)

※編注:八木康夫に進呈した煙草のパッケージはアメリカ製の"PLAYER'S NAVY CUT MEDIUM"で、プロコル・ハルム『ソルティ・ドッグ』のジャケット・アートの元ネタとしても知られる。件のパッケージは『ヤングフォーク』1976年 春号における細野の特集記事「とりあえず僕のやっている音楽をチャンコ・ミュージックとでも呼ぼうか……。」で見ることができる。


1974/04/25 ザリバ「或る日/こわれた時計のように」発売。
或る日:bass
こわれた時計のように:bass
矢野顕子の証言
「レコードを作るのに筒美京平さんが曲を書いてくれることになって、アレンジャーに矢野誠が起用されたんです。 レコード会社は私に注目してて、バンドにはあんまり興味がなかった。よくある話でしょ?だから、私の歌とピアノは欲しいけど…っていうことで、レコーディ ングはキャラメル・ママが担当したんですよ」(15)
「矢野誠は筒美京平さんのお気に入りのアレンジャーだったんで、筒美さんの推薦でザリバのレコーディングに参加したんです。で、矢野誠はそのときはすでにキャラメル・ママと一緒にいろんなレコード作っていたから、キャラメル・ママも連れてきて一緒にやったというわけ」(15)


1974/05/06 15:00 亀淵友香コンサートのリハーサル。青山/タワーホール。

1974/05/07 亀淵友香コンサートでバッキング。青山/タワーホール。
亀淵友香 亀淵友香(vo)、林立夫(ds)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、松任谷正隆(kbd)、矢野誠(kbd)、鈴木顕子(kbd)、山下達郎(cho)、大貫妙子(cho)、村松邦男(cho)

曲目不明

※編注:この日のステージはキャラメル・ママの御披露目コンサートだったとする八木康夫の証言もある。『レコード・コレクターズ』2001年10月号(ミュージック・マガジン)参照。

1974/05/10 生田敬太郎『風の架け橋』発売。
とぎれそうな糸:bass
想い出:bass
生田敬太郎の証言
「この頃はね、コンサート活動はスモーキー・メディスンをバックでやってた。メンバーはチャーと金子マリとあと成瀬(編注:喜博)っていうのがいたんだけど」(16)
「それが、このアルバムではあんまりチャーには弾かせてないの。違うギタリストが弾いてる横で、なんで俺に弾かせないんだよって思わせるために。成瀬もそう、いつも彼のベースで演ってるのにわざわざ細野さんにお願いしたり」(16)
「それは僕の意見じゃないんだけど。このアルバムはマックスのドラム(編注:萩原克己)がディレクションやって て、彼の意見で、チャーにしても成瀬にしても個人としてはすごく上手いんだけど、ただそれが人のバッキングやる時には、その上手さを押さえるってことを知 らしめなくてはならないって言いだして(笑)」(16)
「(編注:細野とは)この時が初めて。実はね、僕ははっぴいえんどが苦手だったの。音の源がバッファロー・スプ リングフィールドのあれだよ、みたいに全部分かっちゃうのが駄目だった。ものすごく上手いんだけど、これはオリジナルとは言えないんじゃないかって…対抗 意識もあったと思うんだけど(笑)」(16)
 とぎれそうな糸
「(編注:細野のベースは)すごく落ち着いてるね」(16)

1974 雪村いづみ『スーパー・ジェネレーション』発表。

※編注:一般発売に先立つ自主制作盤(ALFA-1001)。雪村いづみのファンクラブ限定で販売されたという説 があるが未確認。またキャラメル・ママはこの頃、フジテレビ系のTV番組『ミュージック・フェア』やNHKホールでのコンサートでも雪村いづみのバッキン グ実績があるようだが、日時等の詳細は不明。


1974 キャラメル・ママ、麻田浩のレコーディング。

麻田浩の証言
「当時僕の好きだったリトル・フィートやライ・クーダーやジェシー・エド・デイビスみたいなサウンドにしたかったので、キャラメル・ママの連中にやってもらいました。」(17)
「スタジオは確か六本木のソニースタジオかモオリ・スタジオでした。」(17)


1974 立原累のレコーディング。東芝第1スタジオ。

※編注:アルバム『憧景』のセッション。レコーディングは5月31日、6月7日、15日に行われたが、細野晴臣の参加日は特定できない。


1974 スリー・ディグリーズのための作曲〜デモ録音。

Midnight Train
「作詞が、英語で書いたのが松本隆でした」(18)
「話が具体化する前に松本からちょっと聞いてたの。半分冗談で聞けって言ったから、半分冗談で聞いてたの。そしたら本当になっちゃって、やってる時も半分疑いながら」(19)
「僕はそれまでシングルの作曲とかそういう仕事の場はなくて、セッション・ミュージシャンというかキャラメル・ ママ/ティン・パン・アレーというヘッド・アレンジ集団だったわけです。だから、ぼく個人というよりもそういう集団が、当時の音楽界で求められたんじゃな いかなと思います」(10)
「初めてマイナーってのを意識して作ったんだけど、松本からいろいろつっつかれてね(笑)」(19)
「苦しかったね」(19)
「この頃はフィラデルフィア・サウンドが全盛期で、まあそれをやったわけですね」(18)

松本隆の証言
「初夏、ディグリーズの来日の半月程前の夜だったと思う。CBSの高橋(編注:裕二)氏が声をひそめて、ディグリーズのシングルを国内製作しないかと切り出した。」(20)
「最初は全然信用してなかったんですよ。もともとディグリーズの話をしてたんじゃなくて、音楽の話をしてて、歌を作って いく時はソウルが好きだから、ソウルっぽいものを一生懸命取り入れるんだけど、やっぱり歌う人間が日本人だし、日本語でやってるわけだから、どうしても一 番大前提のところで結局ソウルにならないんだよね。そんな話をしてて、何か作りたいね、ということになった時、丁度ディグリーズが来るという」(19)
「ぼくは全くの冗談として聞いてたが、彼の珍らしい真顔振りに、つい話にひきこまれてしまった。」(20)
当時、フィラデルフィア・サウンドがすごい好きで」(21)
「一も二も無く引き受けて、すぐにスタッフの人選とか、どんな作品に標的を絞るかを熱っぽく話したものだ。」
(20)
「依頼されたぼくの役割は英語による作詞とスタッフの世話役としてのプロデュースだった。」(20)
「詞が日本語のシングルと英語のシングルを2枚出すからって。それで、英語のほうをプロデュースすることにして、演奏はTIN PAN ALLEYに頼んだ」(21)
最初は向うの詞をオーダーしようかって言ったの。でも最終的に僕に書かせてもらうっていう許可が下りて」(19)
「詞の方は、一応プロのはしくれだし何とかなるにしても、プロデュースの方ときたら、やるからには大冒険だった。」(20)
「はじめからヒット狙いの、しかも洋楽でアメリカのタレント、それも全米の中でも、もっとも完璧な音創りをしている フィリー・サウンドとくれば、こちらは宙に舞い上がりっぱなしだった。けれども、あせってるだけでは仕事にならんので、早速、細野氏ともども曲創りの構想 にはげんだ。こちらのスタッフも、日本でフィリー・サウンドを創りうる超若手のメンバーがずらりと顔を合わせたのだから、そんなに肩をいからせなくてもいい訳で、問題は作品創りの出来にかかっていた。(20)
「日がな一日ぼくの家に来てもらい、詞と曲とを顔をつき合わせて同時制作するという念の入った理想的な制作形態を展開することになった。」(20)
「それほど無我夢中だった証しだったのか。」(20)
「高橋さんからオーダーされたのは、結局歌謡曲でもないし、かといって日本で受け入れられないものじゃ駄目だ し、そうするとすごく針の穴みたいなところしかなくて、それに糸を通すみたいなみたいな作業でね。それでいてフィラデルフィアじゃなけりゃいけないで しょ」(19)
「ディグリーズだから、できる限りサウンドをフィラデルフィアに近付け、その上日本でもヒットの可能性の濃いものをという注文も満足せねばならぬという二重苦の中で製作をはじめなければならなかった。」(20)
「やっぱりディグリーズのトータリティーや流れもあるし、フィラデルフィアでまず1枚LPを出して」(19)
「新しいLPの録音なんかしているわけでしょ。あのシングルは間にはさまる形になるから、当然その流れの中に溶 け込むような音楽を作らなくちゃいけない。また、曲作りの段階で細野君と、やっぱり僕らがやるんだから日本で録音したいというカラーも少しは混ってなけ りゃいけないということで、かなりケンケンゴウゴウやって……」(19)
「本当にむずかしかった。細野さんには随分泣いてもらったりして…」(19)
「詞はぼくが日本語で書いた」(20)
「アメリカに夜行列車が未だ走ってるか否かなどと口論しながら」(20)
日本語で書いたのを細野さんと一緒に、何とか英語に直してみようということになって」(19)
「わかりやすい平易な英語に直したもの」(20)
「それは日本人が一、二度聞いても意味が心に残るようにという作為と、語学力不足の拙さとの奇妙な一致によるものだ。表題の『ミッドナイト・トレイン』という単語がメロディーのいちばん強い部分にうまくはまるようにしたつもりである。」(20)
「英語のわかる人に見てもらって、僕の日本語の詞になるべく意味を近づけてくれと言って。でもかなり僕の言いたいことを書けたつもり。別にフィラデルフィアの歌詞を訳したっていうんじゃないのね」(19)
「わりとシチュエイションを重視してて、身の回りの出来事を通じてもっと大きいことを語りたいという気持ちで書いてるから、英語に訳してもわりと英語の詞として通じちゃうと思ったわけ」(19)
「折しもディグリーズが『天使のささやき』で東京音楽祭(編注:6月30日に帝国劇場で開催された第3回世界大会。)で金賞を受賞。その頃、ティン・パン・アレイの演奏でカセットに『ミッドナイト・トレイン』のデモ・テープを吹き込んで、彼女たちに渡していた。」(20)

高橋裕二の証言
「最初にディグリーズの国内録音をやろうと思ったのは、外タレで日本へ来て録音するとしたら、せいぜい日本語録 音って言っても、向こうからカラオケ持ってきて、ヴォーカルをダビングするだけじゃない。ライヴ・レコーディングって言っても、たまたま日本のエンジニア 使って録音するだけじゃない。そうじゃなくて、日本で企画して、日本のミュージシャン使って、日本のアレンジャー使って、日本の作詞作曲家使ってレコード を作ろうってのがあったわけ」(19)
「日本の音楽を海外に輸出するとか言うじゃない。でも結局うまく行ってないし、それならそれでいっそのこと居直って、外タレをうまく利用して日本の音楽を輸出した方がてっとり早いんじゃないかみたいなね」(19)
「そういうことで、松本君なんかと話していたらすごいのってくれて、一丁やろうかということになったんだよね」(19)
「はじめはCMの話だったわけ。そこからトントンと話が進んで、どうせやるなら全部やりたいということになって」(19)
「紆余曲折がいっぱいあるんだけど、果してうまくいくかってのが頭から離れなくてね、会社側は『細野? いや知らねえな』『松本? いや知らねえな』っていう話になるじゃない。これも録ったんだけど京平さんとか山上さんとかいわゆる日本の売れっ子作家がいるわけで、何でそういう人に頼まないんだって言うわけ。僕は歌謡曲を作ろうなんてことは考えてなかったし」(19)
「正直いって、出来てきた曲を最初ギターで聴かせてくれた時は、ものすごくむずかしい歌を作ってくれたなと思った。こんなのがレコードになるのかってね」(19)
「ディグリーズの"陰"の部分にピッタリの曲だと思った」(19)
「詞の問題もあったね」(19)


1974/06/10 アグネス・チャン「ポケットいっぱいの秘密/しあわせの白い砂」発売。
ポケットいっぱいの秘密:arrangement, bass
※編注:アルバム『アグネスの小さな日記』とは別テイクのシングル・バージョン。

1974/06/21 南沙織「夏の感情/愛の序曲」発売。
夏の感情:bass

1974/06/30 キャラメル・ママ、『ホーボーズ・コンサート』出演。池袋/シアター・グリーン。
出演:西岡恭蔵、矢野誠

キャラメル・ママ 細野晴臣(b, vo)、鈴木茂(g, vo)、松任谷正隆(kbd)、林立夫(ds)、吉田美奈子(vo)、あがた森魚(vo)、鈴木顕子(vo)、
南佳孝(vo)

オープニング〜ほうろう
ポケットいっぱいの秘密
花びん
元祖ラヂオ焼
ルート66
相合傘
キャラメル・ラグ

「ぜんぜん憶えてない」(22)

川村恭子の証言
「初めて、入場料返せ、って叫んだライヴだったんです(笑)」(22)
「月のおこづかいが500円だったの。でね、これ前売りが500円。で当日600円。前売り買わないと行けない の。で、要するにひと月全部がまんして、行くわけですよ。それなのに、それなのに徹夜明けの皆様方は、演奏は少ない。『本日は徹夜明けで疲れているのでア ンコールはありません』」(22)
「アグネス・チャンかなんかの、レコーディングか、何かやってた、ので、って言って」(22)
「なんかアナウンスが流れて、それで、『えっ!?』」(22)
「すっごいもう、全力投球で来るわけですよね。500円しかない、月のおこづかいが(笑)。でまたそのー、えーとキャラメル・ママじゃないときの細野さんのソロのライヴのときとかすーごいよかったんですよやっぱり」(22)
「ホーボーズ・コンサート(笑)」(22)
「だからもうすごく期待ふくらまして行ったら、『あれっ?』、とか言って、結構こう、『私のひと月のこづかいはどうしてくれるんだ!』」(22)
「細野さんは、オープニング・ラグ、ラグと言いながらファンクみたいなもんだったんですけど、で、そのままメドレーで『ほうろう』を歌われたりとかして」(22)
「吉田美奈子さんが『ポケットいっぱいの〜』とか歌ったりとか」(22)

※編注:オーディエンス録音によるこの日の演奏の一部(「キャラメル・ラグ」)が、2000年11月6日放送のJ-WAVE『Daisyworld』(ゲスト:川村恭子)で紹介された。


1974/07 キャラメル・ママを発展させたミュージシャン集団として、ティン・パン・アレーと名乗りはじめる。

「キャラメルは名前にひきずられたまま、音楽以外の要素でメンバーが疲れてしまった。」(12)
「キャラメル・ママのやってきたことのひとつの側面が、"音楽をビジネスとしてやっていけるかどうかの試み"だった」(23)
「そういう方向へ走った最大の理由は、キャラメルの音を包みこむほどの歌唱力を持った人がすぐには見つけ出せなかったことで、当分の間、セッション・グループとしてやっていく決心をしたわけです。」(23)
「1度は首を突っ込んでやれという気があったから、いろいろ歌謡曲のバックもやったりしたんだけどね、結局向うに利用されてるだけじゃないかって気もしてきて。それで思ったのは、まだまだ僕たちが出て来られる時代じゃないんだってこと」(24)
「音楽というのはテクニックも大事だけれど、やはり演奏を包みこむ歌ごころと音楽性の裏付けがなければダメなも のです。その意味で人それぞれの音楽の違いということは決定的だし、キャラメルとしての一貫した音と合わない場合も出てきます。それと、キャラメル自身 も、バッキングという発展の少ないものに飽きてくるということもあります。」(23)
「そんなこんなでティンパン・アレイを作ったわけです」(23)
「もっと意図的なセッション・グループをやろうということになって」(9)
「ティンパン・アレイという名前は、直訳すれば"錫鍋(すずなべ)横丁"というところですが、本当はニューヨー クの出版社の集まる一角の名称なのです。ティンパンとは、バップやロックンロールの安っぽい、ドラムかんを叩くようなビートの音をいっているのだろうと思 いますが、俗にティンパン・アレイ・ミュージックといえば、ヒット・チャート主義の時代の通俗音楽を表わし、わりと軽蔑的な意味合いが入っているようで す。」(23)
「"グループ名をティンパン・アレイと名づけたのは、けっしてダテや酔狂ではない!"といいたいところですが、 実は、数ある名前の候補の中から"これどーオ?"といったら、マネージャーが意味も知らんくせして、"それイイ、それイイ"というので、すぐつけてしまっ た名前なのでした。」(23)
「バンドというよりも、その頃はもっと発展してて、スタジオチームですね。リズムセクションという、ヘッドアレンジの集団という意識が強かったですね。できればプロデュースもやっていこうと。だからバンドという意識はないですね、そこには」(25)
「自分の思うリズム・パターンっていうのを、ティン・パンでは再現できるから、そこのレベルでのプロダクション です。アルバムのトータルなコンセプトとかそういうことではなく、音楽的な土台としての。なぜかと言うと、その当時まで日本の音楽シーンにはそこが足りな かった。土台の土台、ほんとうの骨組みみたいなところ。そこを明確にしようとしたということは確かかな」(3)
「当時の日本の音を聞くと、上はしっかりしてるんですけれども、下がショボイんです。それじゃ立って歩けないだ ろう、って感じで(笑)。だからディテールとしてそういうのを作っておけば、何のっけても大丈夫っていう土台ですから。なんだか土木建築みたいな気持ちで すかね(笑)。手は抜かないみたいな」(3)
「いわば自分たちの田ンボを作ったということになるでしょうか。自分たちの音楽性を伸ばす場ということです。」(23)
「キャラメル・ママからティン・パン・アレーにかけての時代は、演奏の快感に突っ走っていったときですね」(11)
「各々のミュージシャンも、ずいぶん成長してきたんですよ。鈴木茂も林立夫も」(25)
「メンバーの演奏力が高まってきて、洗練されてきて、非常に扱いやすいユニットだったんです」(11)

鈴木茂の証言
「スタジオ・ミュージシャンになり始めてた時期ですよね。例えばマンタくんはユーミンとやるようになって、そう いう立場がより鮮明になっていったのかな。逆に言えば、普通のバンドとしての活動はできなくなっていったわけだから。誰かが常にリード・ヴォーカルを取る わけでも、バンドを引っ張っていくわけでもないし…。やってる音楽は普通のロックだったりするけど、ミュージシャンの繋がりはジャズメンみたいな感じです よね。常にその4人じゃなければならないってわけでもないし」(3)
「名前がティン・パンに変わったのはね、要するに、ほら、細野さんがグループ名いろいろつけるのが好きだから(笑)。そのひとことにつきるの」(26)
「ただ、キャラメル・ママはやっぱり一応バンドの名前だった。で、ティン・パンのほうは会社の名前と思ったほう がいいみたい。キャラメル・ママでぼくがギャーギャー言い出して、じゃ解散しようかって話にまでいったんだけど、どうせやってればスタジオでまた顔合わせ ちゃうんだから、このまんまひとつの会社の中にいて、そこでそれぞれ好きなことやってればいいじゃないか、と」(26)
「だから、ティン・パンは会社の名前、レーベル名と思ってもいいよね」(26)

林立夫の証言
「結果的には、この4人にとってはイチバン性分に合ってる存在感だった。みんなヴォーカルが大好きだから、忠さ んとやる時はこういう感じでいこう。ユーミンだったらこうだよね。という風にいろんなバッキングができる。役者でいうと、ある時はギャグ、ある時はシリア スな芝居もするみたいな、そっちのほうが好きなんですよ。みんな」(3)

松任谷正隆の証言
「キャラメル・ママでは4人の個性の化学反応のようなものを楽しめたらいいなと僕は思っていたんだけど、化学反応までは至らなかったの。途中で分離しちゃって。そんな気がするな」(3)
「僕は、とにかくミーティングも嫌いだし、単純に音楽がやりたかっただけで、バンドがどうなるとかはどうでもよかったわけです」(3)


1974/07/06 ティン・パン・アレー、『ロックとフォークのコンサート』で吉田美奈子・南佳孝のバッキング。日比谷野外音楽堂。
出演:五輪真弓、布谷文夫、南正人、小坂忠 他

吉田美奈子 吉田美奈子(vo)、林立夫(ds)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、松任谷正隆(kbd)、他(pf)
 曲目不明

南佳孝 南佳孝(pf, vo)、林立夫(ds)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、松任谷正隆(kbd)
 曲目不明

編注:吉田美奈子のセットにおけるピアノ奏者の存在は、『ロック画報』14号(ブルース・インターアクションズ /2003年)P14に掲載の当日のステ−ジ写真(撮影:桑本正士)の左端に、ピアノのペダルを踏む脚らしきものが見えることから推測。女性と思われる。 あるいは鈴木顕子か。

1974/07/07 ティン・パン・アレー、南沙織『シンシア・イン・コンサート』でバッキング(2ステージ)。中野サンプラザ。
南沙織 南沙織(vo)、林立夫(ds)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、松任谷正隆(kbd)、鈴木顕子(pf)、シンガーズ・スリー(cho)、 リバティ・ベルズ(cho) 他overture
17才〜潮風のメロディ〜ともだち〜哀愁ページ〜純潔

早春の港

夏の感情

やさしく歌って(killing me softly with his song)

top of the world

too young〜幸せの黄色いリボン(tie a yellow ribbon round the ole oak tree)

and I love you so

荒野のならず者(dirty ol' man)

心もよう

私は泣いています

或る日

結婚しようよ
五番街のマリーへ

ひとりぼっちの部屋

ソウルトレインのテーマ TSOP (the sound of philadelphia)

色づく街

ひとかけらの純情

バラのかげり

夏の感情

今日の日はさようなら

妹よ

夏の感情
※編注:この日の公演の一部は、南沙織のライヴ・アルバム『シンシア・イン・コンサート』(ソニー/1974年)に収録されている。なお、ティン・パン・アレーの参加は上記セットリストの一部のみだが、参加曲を厳密には特定できない)。

1974/07/13 ティン・パン・アレー、スリー・ディグリーズのレコーディング。

Midnight Train
とうとう本番が始まって驚いたけどね。(笑)」(19)

高橋裕二の証言
「実際にディグリーズが歌う前に空オケが出来ちゃったわけ。松本さんや細野さんやメンバーの連中が、パーフェクトに満足だというところまでいっちゃったの」(19)


1974/07/14 ティン・パン・アレー、スリー・ディグリーズのレコーディング。キーの問題によるリテイク。

Midnight Train
シェーラが歌うと思ってたから、彼女のキーで作っちゃったの。そしたら、バレリーがリード取ることになって、だからキーが違うなんて言われても、信じられなかった。トラブルってむしろ音楽と関係ないところであったみたい」(19)
リチャード・バレットという元、エキサイターズという、ガール・グループをやってた、えーマネージャーが付いて、やって来ました」(18)
「マネージャーのバレット氏がいつ来るかいつ来るかって、みんな身がまえてたの。それでバレット氏がゴタゴタ言い出したら、すぐその場で帰ることになっていて」(19)
「それでもせっかくここまでやったんだから、一応最後までやろうって言って、そのうちだんだん……ね」(19)
「マネージャーが踊ってるのは観た」(3)
「音楽が始まっちゃえば、絶対平気だと思った」(19)
「その光景を見て、すごくホッとしたのを覚えてる。『よかった、よかった』って」(27)

松本隆の証言
「正直に言って、かなり難航した。彼女達のマネージャーであるリチャード・バレット氏とスタッフとの連絡の悪さがたたって、いったん録ったカラオケがリード・ヴォーカルのヴァレリー・ホリディのキーに合わなくて、再度録り直しの憂き目をみた。」(20)
「その時はディグリーズのメンバーも来てくれてね」(24)
「連日連夜のスケジュールにもかかわらず彼女たちは深夜のカラオケ録りにも来てくれて唄ってくれた。」(20)
「シェイラ・ファーガソンがソロをとるものと思いこんでいたから、全て彼女のキーに合わせていたのが、いざ本番になってからヴァレリーが歌う事を知らされた」(20)
「すっごく怖いマネージャーが付いてきていて、なぜかスタジオのコンソールで矢野誠と、あと一歩で殴り合いのケンカになりそうだったのを、ぼくが止めた記憶がある(笑)」(21)
「結局キーの問題だけだったの。キーを変えてもう1度全く同じやり方で録り直したらOK」(19)
「演奏はよかったよ」(19)
「音を出すまでは口やかましげだったバレット氏もいざ音が出はじめたら、安心したのか何も言わなくなり」(20)
「氷解してきて」(23)
「ミキサー卓の前に座った吉野金次氏とぼくは顔を見合わせてニンマリしたものだった。」(20)
「それで空オケ録り終わった頃には」(19)
「バレット氏は狭いミキサー・ルームで踊り出してしまい、流石、音楽は世界共通の言語なりと感心させられた光景もあったりで、緊張の内にもほほえましいレコーディングとなった」(20)

高橋裕二の証言
「ディグリーズのマネージャーがへそ曲げちゃってね」(19)
「一時、エラク険悪になっちゃってね。それも、最初の空オケ録りの時、マネージャー抜きでやっちゃったばかりに」(19)
「マネージャーは日本にティンパン・アレイみたいに有能なミュージシャンがいるなんてこと、絶対にわかってなかったから、びっくりしてたみたいだった。細野さんのベースなんて、すごい買ってたしね」(19)


1974/07/15 ティン・パン・アレー、荒井由実のレコーディング開始。芝浦/スタジオ 'A'。

「ベース弾いてるともうね、いかに上手くいい感じに弾くかということばっかりしか考えない。それはそれで楽しい時間なんです」(3)
「リズム・パターンが一つの構成を作ってって、アレンジの基礎がもう出来ちゃうんで、後はどうでもよくなっちゃ うって言うか、僕たちは楽しいだけで終わっちゃうっていう感じ。後は松任谷くんがきっちりやってくれる。とにかく3テイクくらい。最初のでもうできちゃっ てるわけで、後はミスがない、ちょうどいいノリの3テイク目くらいを使う。……この頃が僕がミュージシャンとしてはいちばんノッてたときです。特に林と僕 の息がすごく合ってた頃。なんの打ち合わせもしないでいきなり始まっちゃうと、それがもう出来てる」(3)


1974/07/21 南沙織『夏の感情−ヤングのテーマ』発売。
或る日:bass
ふたりの急行列車:bass
心もよう:bass
結婚しようよ:bass
私は泣いています:bass
夏色のおもいで:bass
ひとりぼっちの部屋:bass
あなた:bass

1974/07/21 小椋佳『残された憧憬 -落書-』発売。
落書II:bass
花化粧:bass
白い一日:bass
飛べない蝙蝠:bass
ひときれの青空:bass
糸杉のある風景:bass
落書VII〜残された憧憬:bass
落書VIII:bass

1974/07/21 麻田浩「あの悲しい歌/今夜はひとりで」発売。
あの悲しい歌:bass
今夜はひとりで:bass

1974/07 沢チエ『23 Twenty - three Years Old』発売。
ジャニスのように:bass
長すぎた一日:bass
裸足のまま:bass
バラの館:bass
カレイド・スコープ:bass
かもめ:bass
気にしないで:bass
あなたのいない朝:bass
夜の百合:bass

1974/夏 「熱帯夜」を作詞・作曲。

熱帯夜
「クーラーもない畳の部屋で『熱帯夜』なんていう曲を作ったりしていたんです」(11)
「暑いからできたんだよ(笑)。4畳半フォークじゃなくて、6畳トロピカル(笑)」(13)
「家の中が熱帯夜で暑くて」(11)
「四畳半で妄想したんですよ(笑)」(11)
「このときは、はじめて楽に歌詞を書いたなという気持で書いてたんです。また新たな幻想の中に入り込んでいっちゃったんですね。チャイニーズ・トロピカル・エレガンスみたいなエキゾティックな世界に」(11)
「暑いんじゃないだろうか、上海は、と」(11)
「『ミネソタじゃ卵がゆであがり』とか」(11)
「わいてくるんです。ミネソタというのは、『ミネソタの卵売り』という歌があって。暁テル子という人が歌っていてね、好きだったんですよ、その曲が」(11)
「好きなものを並べただけなんです(笑)」(11)


1974/08/01 ブレッド&バター「Pink Shadow/うつろな安息日」発売。
Pink Shadow:bass

1974/08/02 はちみつぱいのコンサートにゲスト出演。青山タワーホール。
細野晴臣 with はちみつぱい 細野晴臣(vo, g)、鈴木慶一、本多信介、和田博己、橿渕哲郎、武川雅寛、駒沢裕城、岡田徹
恋は桃色
さよならアメリカ さよならニッポン
※編注:この日の演奏ははちみつぱいのライヴアルバム『セカンド・アルバム〜イン・コンサート〜』(ソリッド/1988 年)で聴くことができる。また、リハーサル風景を含む写真がディスクユニオン製作の非売品ミニ写真集『はちみつぱい1973-1974』(2006年)に 掲載されており、ギターを弾きながら歌う細野の姿が確認できる。

1974/08/10 アグネス・チャン『あなたとわたしのコンサート』発売。
花柄のパラソル:bass
雨模様:bass
※編注:「ポケットいっぱいの秘密」(シングル・バージョン)も収録。

1974/08/19 スリー・ディグリーズのレコーディング。ヴォーカル録り。

Midnight Train
「譜面に書いて一応アレンジも出来てたんだけど、まだ曲が生きてなかったのが、1度歌ってもらった途端に生を受けて、すごく感動的だったね、あの瞬間は。ああいう感じを受けたのは初めてだった」(19)

松本隆の証言
「ディグリーズには感心した。細かいところで、僕らがハッとするようなのを出すわけね」(19)
「夜寝ないで僕らの歌を練習してるって言ってたもんね。もう、プロ根性はすごいよ」(19)
「2度ぐらいテープに合わせてリハーサルやって、テイク2でOKなんて信じられないよ」(19)


1974/08/24 ティン・パン・アレー、『コンサート邪無』出演。霞ヶ丘/日本青年館。
出演:吉川忠英

ティン・パン・アレー 細野晴臣(b, vo)、鈴木茂(g, vo)、松任谷正隆(kbd)、林立夫(ds)、鈴木顕子(kbd, cho)、小坂忠(vo)、吉田美奈子(cho)、
橋本秀一(cho)、南佳孝(perc) 他

風来坊
氷雨月のスケッチ
薔薇と野獣
機関車
ほうろう
からす


1974/09/01 南沙織『シンシア・イン・コンサート』発売。
bass
※編注:参加曲特定不能。

1974 ティン・パン・アレー、小坂忠のレコーディング。

1974/09/08 NHK総合『ビッグショー 服部良一・若く明るい歌声に』放送。
雪村いづみ&キャラメル・ママ 雪村いづみ(vo)、林立夫(ds)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、松任谷正隆(pf)
東京ブギウギ
ヘイヘイブギ
銀座カンカン娘

1974/09 ザ・ディランII「悲しみのセールスマン/プカプカ」発売。
プカプカ:arrangement, bass

1974/09/20 『ライトミュージック』10月号(ヤマハ音楽振興会)発売。
鼎談:日本でフィラデルフィアサウンドができちゃった 細野晴臣×松本隆×高橋裕二

1974/09/29 大滝詠一のリハーサル。青山/ONアソシエイツ。
どんな顔するかな

1974/09/26 大滝詠一のレコーディング。目黒/モウリ・スタジオ。
どんな顔するかな
大瀧詠一の証言
「伊勢丹のCMでしたが未使用作品です。9/26、久々のモウリ・スタジオでの録音でした。これもドラム林、ベース細野、ギター茂、ピアノ松任谷のキャラメル・ママに、コーラスはシュガー・ベイブに伊集加代子、そして吉田美奈子という豪華メンバーでした。」(2)
「これまた<バラバラ・リズム>でドラムの林が必死で叩いてくれました。ホーン・セクションも使用しているので、一級作品にしようという意気込みだったことが分かります。」(2)
「後で再利用するんですよ」(1)
「『サイダー'75』」(2)
「このオケのテープ・スピードを落としてテンポ・ダウン、メロディーを作り直してから伊藤アキラさんの詞を乗せました。使える楽器はそのままで、松任谷のバンジョーとコーラスをダビングし直しましたが、メンバーは『どんな顔するかな』と同じ」(2)

1974/10/01 久保田麻琴『Sunset Gang』発売。
小舟の唄:arrangement, bass, organ
Louisiana Mama:arrangement, drums, baas, keyboards

1974/10/05 荒井由実『MISSLIM』発売。
生まれた街で:bass, cowbell
瞳を閉じて:bass
やさしさに包まれたなら:bass
12月の雨:bass, cowbell
あなただけのもの:bass
魔法の鏡:bass
たぶんあなたはむかえに来ない:bass
私のフランソワーズ:bass

1974 ソロ・アルバムの制作を開始。

「最初はソロもティン・パン・アレーというユニットのサウンドでやろうと思ってたんです。カッコつけの世界ですよ。うまい具合に演奏してやろうというような(笑)」(11)
「『HOSONO HOUSE』のときはジェイムス・テイラー、ザ・バンド、リトル・フィート…と、モデルがあったけど、次のソロ・アルバムではそれはやりたくなかった。西 落合のアパートへ引っ越してからよく聴いていたのは、(サンフランシスコのファンクのメッカの)オークランド・サーキットの、たとえば、THE WATT 103RD ST. RHYTHM BANDだったり。僕の基本はベーシストだからさ」(28)
「林立夫と2人ですこし録ったんだけどね、その場でやっちゃったっていう感じ」(23)
「林と二人でベース・マンとしての自分を意識してやってた」(29)
「一曲録ったんですけど、たしかに非常にファンキーな、演奏のカッコいいのが録れたんですよ。リズム・ボックスを使ってね。でもずっとその音を聴いてたら、これは歌えないやと思った」(11)
「どうしても歌えないからやめちゃったんだよね」(27)
「歌えなくなって、めいってしまった」(29)
「またはっぴいえんどのときの気持に戻ったんですよ。結局、自分で歌うことを忘れようとしていたから、ソロなん か作れないわけですよ。形だけカッコよくしても、自分が歌うとなると、違和感がある。演奏家としての自分と、音楽を作る自分とのギャップがずいぶん大き かった。だからいったん悩んで、中断しちゃったんです。一曲だけ録って、考えさしてくれって」(11)

※編注:CD『HARRTY HOSONO Crown Years 1974-1977』(日本クラウン/2007年)同梱ブックレット掲載の細野のインタビューの脚注によれば、ここでボツになった曲は大幅な改作ののち、 「L.D.K」(『PHILHARMONY』アルファ, YEN/1982年に収録)として復活したという。 


1974/10/14 ルネのレコーディング開始。芝浦/スタジオ'A'。

1974/10 『六番町コンサート』出演。大阪。
細野晴臣(vo, g)
ボンボヤージ波止場
ろっかばいまいべいびい
ありがとう
※編注:共演予定だった小坂忠の欠席により、単独出演。

1974/10/20 『ニューミュージック・マガジン』11月号(ニューミュージック・マガジン社)発売。
寄稿:うわさのリトル・フィートのニュー・アルバム

1974/10/21 スリー・ディグリーズ「Midnight Train/I Didn't Know」発売。
Midnight Train:compose, bass
Midnight Train
「演奏のうまいとか下手だとか、そんなのは考えなくてもいい、メインになるのはアレンジとミキシングで、あとはメロディー、それが揃えば出来ると思ってね。結局メロディーが良くないとどうしようもないから、僕はメロディー作りに一番時間をかけたし」(19)
「満足できないけどね」(19)
「1つ1つの音とか弾き方ってのは、やっぱりフィラデルフィアじゃないわけですよ。僕であり、林であってね。だから、個別の演奏は問題じゃなく、さっき言った3つの要素が出来れば、フィラデルフィアに近くなるんじゃないかな」(19)
ギャンブル&ハフの業績には遠く及びもしなかったが、とても良い経験をしたと思っている。」(20)

松本隆の証言
「細野さんはフィラデルフィアのエッセンスを煮つめようとしたんだけど僕から見れば、やっぱり細野メロディーだ ね。誰も真似していないわけ。そういうところで作りたかったし、フィラデルフィアの真似して作ったって面白くないと思うんですよね。僕らのオリジナリ ティーを出しながら、フィラデルフィアとして聴ける音」(19)

高橋裕二の証言
「鈴木ちゃんのギターなんてのは、よくあそこまでやってくれたと思って感心しているわけ。細野さんのベースにしても、林さんのドラムにしても、フィラデルフィアっていうのは、絶対シンプルだもの。シンプルな音をいっぱい積み重ねて、聴くとワーンと来る感じで」(19)


1974 金森幸介のレコーディング。佐藤博と出会う。ビクター・スタジオ。

「ぜんぜん憶えてない、アハハ」(30)

佐藤博の証言
「はっぴいえんどというグループは知ってたけど、意識して聴いたことはなくて、本当に細野くんを知ったのは、僕 の記憶では、金森幸介というフォーク・シンガーがいるんだけど、あいつがやっぱりはっぴいえんどフリークで、レコーディングで細野くんのベースをぜひとも 頼みたいということで、なんとか都合がついて、細野くんがベースで僕がピアノで一曲だけやったの。そのスタジオが、初対面だったと思う」(30)
「そのときは挨拶ぐらいしかしてない。僕もそんなに印象はなかったの。金森が憧れているグループのベーシストっていう感じだったの」(30)


1974/10/25 吉川忠英『こころ』発売。
夢が少しずつ:bass
古い時計の:bass
今だけは:bass

1974/10/27 ハイ・ファイ・セットのレコーディング開始。芝浦/スタジオ 'A'。

1974 岡林信康のレコーディングを見学。

「えっ、いた?」(30)
「あ、プレイはしてないんだ」(30)

佐藤博の証言
「たしか細野くんも来たんだよ」(30)
「なんか見学に」(30)
「その時ね、たしか矢野誠くんも来てたっていうのは、顔の景色で覚えてるんだよね」(30)

※編注:アルバム『誰ぞこの子に愛の手を』のセッション。プロデューサーは松本隆。佐藤博、矢野誠はプレイヤーとして参加していた。『guts』1975年1月号(集英社)の記事によれば、レコーディングはわずか2日間で終了したという。


1974/11/06 『らんまんコンサート』出演。新宿厚生年金会館小ホール。
出演:吉田美奈子、南佳孝、シュガーベイブ

小坂忠+細野晴臣 小坂忠(g, vo)、細野晴臣(g, vo)
ありがとう

ティン・パン・アレー featuring 小坂忠 小坂忠(vo)、細野晴臣(b)、林立夫(ds)、松任谷正隆(kbd)、吉原真紀子(kbd)、伊藤銀次(g, vo)、
斉藤ノブ(perc)、吉田美奈子(cho)、山下達郎(cho)、大貫妙子(cho)

はずかしそうに
冷たいキャンディ
機関車
風来坊
氷雨月のスケッチ
薔薇と野獣
ボンボヤージュ波止場
チューチューガタゴト
ほうろう
しらけちまうぜ
日曜日(ゆうがたラブ)
からす


1974/11/10 殿岡ハツエ「プカプカ/ミッドナイト・ブルース」発売。
プカプカ:arrangement, bass

1974/11/16 夜 荻窪ロフトに出演。
出演:はちみつぱい

細野晴臣
曲目不明


1974/11/20 『ライトミュージック』12月号(ヤマハ音楽振興会)発売。
コメント:僕らの春はまだだけど

1974/11/22 『guts』1月号(集英社)発売。
エッセイ:僕の履歴書・そして求人広告

1974/11/22〜24 夜 『ティン・パン・アレー・セッション 3日コンサート』出演。荻窪ロフト。
出演:林立夫、松任谷正隆、伊藤銀次、矢野誠、小原礼、はちみつぱい、上原裕、シュガーベイブ 他

曲目不明


1974/11/25 ソロ・アルバムのレコーディング開始。田中信一と初めての作業。赤坂/クラウン・スタジオ。

「ミキサーと初対面のときはすごい緊張するんですよ。何しろ一番大事な人だから。音を扱われちゃうわけですからね」(11)
「最初出た音が」(11)
「生ギターで、すごいエコーで、スカスカの」(11)
「そういうフォークの音だったですね(笑)。何でもエコーをかけるから、遂に僕は『山彦おじさん』という仇名をつけちゃったんですけど(笑)。山彦のように響いてきて」(11)

田中信一の証言
「細野さんは、キャラメル・ママの頃から音は聴いていて、日本でもこんな音が出せる人たちがいるんだと思っていました。その頃ようやくクラウンの溜池のスタジオにAMPEXのMM-1100が入った16トラックのスタジオができたんですよ」(13)
「楽器の音をバラで録るなんて考えは、16トラック以降のことだったと思います。で、ティン・パンをやり始めたころに、細野さんや茂らの影響もあって納得の行くまでダビングを重ねる作業を始めたんですよ」(13)


1974 神代辰巳監督の映画『宵待草』劇伴音楽をレコーディング。調布/日活スタジオ。

「僕の音楽を使ってくれたんです」(31)
「ティン・パン・アレーの3人、4人ぐらいで行って、生録りしましたよ」(32)

編注:2006年7月3日付のDWWW「quiet voice」にも、細野自身による回想がある。


1974/12/16 『ホーボーズ・コンサート・ラスト・デイズ』出演。八木康夫から肖像画を手渡される。池袋/シアター・グリーン。
出演:管節和、矢野誠、本多信介、南佳孝、吉田美奈子、西岡恭蔵、葡萄畑、小坂忠

細野晴臣 細野晴臣(vo, g)、吉田美奈子(vo=*,**)、西岡恭蔵(vo=**)
ボンボヤージ波止場
ろっかばいまいべいびい
住所不定無職低収入
恋は桃色
Chattanooga Choo Choo (*)
Five Pennies (**)

八木康夫が勝手に絵を描いてきて、こんなのができたっていって僕に見せるんですよ」(11)

八木康夫の証言
「(編注:1973年12月26日に細野から貰った煙草パッケージの)お礼にパッケージの構図をモチーフにしたカウボー イ・ハットの肖像画を描いて、12月16日の『ホーボーズ・コンサート』でプレゼントしたんです。それが『トロピカル・ダンディー』をデザインするきっか けになった」(8)


1974/12/18 ティン・パン・アレー、レコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。
宵待草のテーマ
冬の出逢い

1974/12 「熱帯夜」をレコーディング。赤坂/クラウン・スタジオ。

熱帯夜
「アルバムで一番最初にやったのは、『熱帯夜』だと思う」(11)
「暮れ」(12)
「とにかく突然、マーティン・デニーを思い出したんですね、スタジオで」(11)
「曲のイメージに合う鳥の鳴き声がどうしても欲しいと思っていた時、突然、マーティン・デニーという名が口をついて出てきた」(12)
「意識して聴いたことないんですけど、ラジオでよくジャングル・サウンドといってかかってたんですね。五〇年代 の終わりから六〇年代。六〇年代の初期かな、僕が聴いてたのは。小学校、中学校にかけてのころ。AMラジオで。しょっちゅうというわけじゃないけど、たま にかかることがあって、印象に残っていたんですよ」(11)
「記憶にかすかに残っているぐらい。子供の頃にバックグラウンド・ミュージックとしてラジオから流れていて、よくわからなかったけど、ただ刷り込まれていたんです」(33)
「ジャングルの鳥の声とかが入って、単なるジャングル・サウンドというイメージで、非常に表層的に思っていたん です。スタジオでなぜかそれを思い出して、あのサウンドを絶対やりたいなと思って。それで『熱帯夜』をそういうふうにしようと思って。鳥の声はあんまりな かったんだけど。とろけるような音楽というイメージがあってね」(11)
「湿地帯のイメージ」(11)
「とてつもなく好奇心が湧いてきて、『熱帯夜』という曲でその雰囲気をちょっと入れて、まず音にしちゃったわけです。その後にもっと知りたくなってきて」(32)
「それでマーティン・デニーに関する情報を集め回ったんだよ」(27)


1974/12/28 映画『宵待草』公開。

<出典>
(1)『レコード・コレクターズ』5月号 ミュージック・マガジン/2005年
(2)CD Niagara CM Stars『Nisagara CM Special』ライナー・ノーツ ソニー・ミュージックエンタテインメント/1995年
(3)『ロック画報』14 ブルース・インターアクションズ/2003年
(4)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(5)CD V.A.『風街図鑑』風編ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/1999年
(6)松本隆『風のくわるてっと』 角川文庫/2001年
(7)北中正和責任編集『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』 音楽出版社/2004年
(8)『レコード・コレクターズ』10月号 ミュージック・マガジン/2001年
(9)パチパチ8月号増刊『パチパチ読本』NO.3 ソニー・マガジンズ/1991年
(10)CD V.A 『HITSTORY』同梱ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/1997年
(11)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(12)細野晴臣『地平線の階段』 八曜社/1979年
(13)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(14)北中正和『アローン・トゥゲザー』 而立出版/1976年
(15)『ミュージック・マガジン』12月号 ミュージック・マガジン/2006年
(16)CD 生田敬太郎『風の架け橋』ライナー・ノーツ ヴィヴィド・サウンド・コーポレーション/1998年
(17)CD 麻田浩『GOLDEN☆BEST』ライナー・ノーツ ソニー・ミュージックダイレクト/2004年
(18)J-WAVE『Daisyworld』 2001年6月17日
(19)『ライトミュージック』10月号 ヤマハ音楽振興会/1974年
(20)スリー・ディグリーズ1975年公演パンフレット キョードー東京/1975年
(21)CD V.A.『風街図鑑』街編ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/1999年
(22)J-WAVE『Daisyworld』 2000年11月6日
(23)『guts』1月号 集英社/1975年
(24)『ライトミュージック』12月号 ヤマハ音楽振興会/1974年
(25) 『Switch』4月号 スイッチ・パブリッシング/2000年
(26)萩原健太『はっぴいえんど伝説』文庫版 シンコー・ミュージック/1992年
(27)CD『HARRTY HOSONO Crown Years 1974-1977』同梱ブックレット クラウン・レコード/2007年
(28)『PAPER SKY』no.14 ニーハイメディア・ジャパン/2005年
(29)『ヤング・ギター』7月号 シンコー・ミュージック/1975年
(30)CD 佐藤博『TIME』ライナー・ノーツ アルダン・レコード/2003年
(31)FM東京『マイ・ベスト・セレクション』 1987年2月4日
(32)NHK-FM『ダブルDJショー』 2005年8月15日
(33)『ユリイカ 詩と批評』9月号 青土社/2004年
update:2018/08/24

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